The Legal System of Kenmu (建武) Government :An Analysis of the Kenmu-ki (建武記) in theCabinet Library

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(1)

九州大学学術情報リポジトリ

Kyushu University Institutional Repository

The Legal System of Kenmu (建武) Government : An Analysis of the Kenmu-ki (建武記) in the Cabinet Library

森, 茂暁

https://doi.org/10.15017/2232303

出版情報:史淵. 116, pp.29-58, 1979-03-31. Faculty of Literature, Kyushu University バージョン:

権利関係:

(2)

建 武 政 権 の 法 制

l

内 閣 文 庫 本

﹁ 建 武 記

﹂ を 素 材 と し

l

オ£

t

)支−

はじ

めに

﹁建

武記

﹂の

伝本

・成

雑訴決断所の条規

所領安堵・巡行の方式

は じ め 建武政権の評価は日本中世史を理解する上で避けて通りえない重要性を持っているが︑その存続期間がみじかく︑

関係史料が之少かつ類型的であるため︑どの研究書を播いても書かれた内容はさほどちがわない︒しかし︑近来︑よ うやく建武政権の政策︑後胤剛天皇の政治志向の問題に照準を合わせた研究があらわされ︑新しい視座が築かれた感

ω

政権の性格を充分に現解するには︑政策・理念・実態に即した具体的事実の究明作業がまだ不足

があ

る︒

私は

して

いる

と考

える

﹁建

武記

﹂は

︑ まさに質・量ともに建武政権研究のための根本史料にして︑特にその法制関係の部分は他の追随を

許さない一等史料と言ってよい︒本稿は以上の視点から︑﹁建武記﹂の史料的特質を明らかにすることによって︑政

建武

政権

の法

制︵

森︶

7L 

(3)

建武

政縦

の法

制︵

森︶

治政策の立案・施行を通した政治過程を具体的に分析することを主眼とする︒

氏の解説文以外本書を対象とした本格的研究は皆無といってよい︒

﹃群

書解

題﹄

十九

に載

せた

上横

手雅

﹁建武記﹂の伝本・成立

﹃図

書総

目録

﹄第

三巻

・﹁

建武

記﹂

の項

によ

れば

︑別

称ハ

﹁建

武二

・三

年記

﹂﹁

建武

二年

記﹂

﹁建

武年

聞記

﹂︶

を含

めて

十余種を掲出してい釘V活字本は﹃蹴史籍集覧﹄・﹃群書類従雑部﹄・﹃大日本史料﹄第六編に収録されている︒﹁建

武二

年記

﹂は

﹁建

武記

﹂の

摘録

︵建

武元

年三

月︑

改銭

詔・

同年

五月

七日

︑武

者所

可存

知条

々︑

思賞

方番

文︑

記録

所寄

人交

名︑

条河原落書︶であるが︑外題どおり建武二年の記事のみを含むものではない︒諸本の系統としては︑内閣文庫本︵旧甘

露寺

家本

︶︑

上野

図書

館所

蔵本

︵屋

代弘

賢の

輸池

讃警

本︑

﹃大

日本

史料

﹄は

これ

を採

用︶

があ

り︑

﹃蹴

史籍

集覧

﹄所

収﹁

建武

二年記﹂は後者を底本とちか︒

諸本の語句の異同や伝来の経緯とかいった厳密な意味での書誌学的研究は後日の課題として残し︑本稿では︑先年

披見する機会を得た内閣文庫本をもとに考察を進めていきたい︒内閣文庫には︑それぞれ﹁建武記金﹂︵初旬×幻旬︑

墨付

お了

︶︑

﹁建

武二

年記

﹂︵

幻・

5

ン︑墨付同︶と墨書された二冊の写本が架蔵されている︒乙の二本を比×

m

2H

較すれば︑全く同内容で︑ただ︑本文・奥書のあとに︑

或人秘蔵之欝本被拝借之問︑如形敷写了

という一行が前者に付されている点が相違するのみである︒筆は異なるがいずれも近世の書写と思われ︑或いは﹁或

人﹂が﹁拝借﹂した﹁秘蔵之蓄本﹂が後者であり︑乙れがのちに返却されたため︑二冊となったのかもしれない︒

本書の奥書によれば︑本書は本来︑町野淳康が太田氏より相伝し来った類跡の中の一冊である乙と︑応仁兵乱の

時︑それらを預け置いた一条猪熊の禅住坊の文庫で少々の冊数が紛失したが︑平数秀が思いがけず得た一本が本書で

(4)

あること︑山似一川定はこれを伯りて書写したが︑山城削議大夫判官政行が切明したので︑やむなく手放し︑再び書写

したこと︑などが知られる︒

これに付随して︑若干の点を補足しよう︒

付町野と太田はともに三善氏の一族で︑

室町

期︑

両氏は幕府の問注所執事に任じたが︑次第に町野が優勢となっ

た︒

太田

山凶

作・

時速

︵法

名道

大︶

父子

はそ

れぞ

れ鎌

倉幕

府の

公務

日記

﹁建

治三

年記

﹂・

﹁永

仁三

年記

﹂を

書き

残し

た︒

奥討にみえる町野淳康は︑克正二三四六一︶年頃の町野家当主であった︒

同対応守半数秀は松川氏で︑

いる

克正

六︵

一四

六五

︶年

1明応三︵一四九四︶年にかけて室町幕府奉行人として活動して

同制

前大

夫︵

日比

一九

日低

下の

山名

︶山

城判

官政

行は

文明

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長平頃の此料にみえる奉行人二階堂政行と考えら札氏︒

6

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削散

大夫

︵従

五位

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店名

︶市

原一

見定

は宝

徳二

︵一

四五

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1

明応八︵一四九九︶年にかけて泰行人であり︑

︵筑波大学所惑を文明年聞に書写した人物である︒その奥書は次のとおりであ勺

また

﹁ 永

仁 一

一 一

年 −

山 ﹂

右記録者︑太因果代之家記也︑而町野加賀前司淳康相伝之︑此一冊其内也︑籍令借用書写畢︑

hf

四年

文明

壬寅

二月

念己

未之

日功

詑建

問笹

川廿

五︑

朝議大夫元定

この奥山は﹁雄武記﹂の成立を考える上で参考になる︒おそらく︑前.臥一見定が同僚の松回数禿から借りて﹁辿武記﹂

を引与した

ω

も文明年間であったろう︒

同い

まひ

とつ

付け

加え

るべ

きも

のは

﹃続

群詐

類従

﹄一

三相

下に

収め

﹁雑

訴決

断所

紡蒋

交名

︵建

武元

年八

月︶

の奥

μで

ある

建武元年八月文書者︑建武年聞記之奥書所謂禅住坊之蔵︑散失之内欺︑今年於江州民家購得之︑

︵ 下 略 ︶

述式

政権

の法

制︵

森︶

(5)

建武

政権

の法

制︵

森︶

文政三年春三月大和前司経徳

即ち

この交名は本来︑﹁建武記﹂と出所を同じくする同系統の文書︑だと記している︒この言は︑おそらく妥当な

推測であろう︒従って当交名の書写と﹁建武記﹂の編纂は︑おそらく同一人の手によってなされた可能性が高い︒

﹁建武記﹂原本の成立と編者の問題に移ろう︒推定の手懸りの一つは︑本書最末尾以上の伝来の経緯をふまえて︑

に載せられた雑訴決断所牒写である︒

雑訴決断所牒安芸国術

松田平内左衛門入道性秀申志道村事︑

右︑近隣悪党井土民等AV

押館

一広

々︑

早可

沙汰

居性

秀代

官者

︑以

服︑

建武元年四月七日

︵花

押影

明法博士中原朝臣判

左少

弁藤

原朝

臣判

︵花

押影

押紙

云︑

奉行

津戸

出羽

権守

入道

々元

誠一

H

近隣の悪党・土民の濫妨を停止し︑安芸国志道村を松田性禿の代官に渡付せよという内容である︒松田性秀は室町 期に活躍する松田氏︑上判の左少弁藤原朝臣は当時の他の正確な史料から推して︑高倉光守であろう︒又︑押紙の津

戸道元は鎌倉幕府以来の奉行i勺貞秀とは松田品烈をいったものであろう︒

上横手氏は︑前掲解題の中で︑

︵乙

れが

︶最

後に

置か

れて

いる

のは

乙の

決断

所牒

が︑

松田

性秀

なり

点で︑自余と異なる故であって︑あるいは本書の編者と︑ 安芸国志道村なりの特定のものに関係する

この燃の伝来所有者とは︑何等かの関係があったりかも

しれ

ない

と指摘した︒本書は日記でなく︑編纂物である乙とが︑編者の推定を困難にしているが︑結論的に私は︑

﹁永

仁三

(6)

記﹂の記主太田道大︵時速︶あたりが妥当ではないかと考える︒

のそ

理由

は第

一に

︑ 本書が﹁自太田流︑相伝類跡﹂

その実績と伝統を誇る太田家の蔵書

︵奥

書︶

︑ つまり︑鎌倉期より幕府の間注所執事として︑

文筆

系吏

の僚

誉高

く︑

者は

宿老

︑故

実者

﹂ であったこと︑第二に︑本書記減記事の中で雑訴決断所関係のものがひときわ重い比重を占めている乙と︑従って編 それらの材料を収集しうる立場から考えて決断所衆であった可能性が高いこと︑第三に︑本書の編築は﹁武家

︵﹃

太園

暦﹄

康永

四年

二月

十日

没年

条︶

と讃

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たれ

太田

道大

にふ

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しい

事蹟

であ

る乙

と︑

な ど で あ る︒道大の享年七十七歳︵﹃師守記﹄同日条の頭書﹀から逆算すると︑室町幕府に仕え始めた時期は七十歳前後という︑

まさに武家の宿老というべき高齢であった︒このためか︑現存史料の上には︑ほとんど姿をあらわさない︒又︑あえ て編纂の契機について憶測を加えて︑室町幕府開創期に幕府の裁判機構を掌握した足利直義の求めに応じたと考える

のはうがちすぎであろうか︒

こ乙で先の本書所収決断所牒について考える︒まず︑乙の牒原本の所蔵者が松田氏である乙とは疑いない︒次に︑

松田氏と本書編築を関連づけることができるか︒この場合︑松田貞秀あたりが考えられるが︑貞秀の活動時期からみ て︑無理であるし︑松田数秀が本書を入手したのは文明年間であった︒また︑決断所衆百余名の中に松田一族は一人

﹁自太田流︑相伝類跡﹂の語句が理解できなく なる︒以上のことから状況判断すれば︑おそらく太悶道大が同僚奉行人津戸道元との関係において︑決断所内に伝存 されていたこの映の案文を入手し︑﹁建武記﹂に採録したと考えられ︑牒の所有者松田氏と編纂との直接的関係は想

定しがたい︒押紙は本書成立後の追加であろう︒ として見い出せないのも事実である︒ましてや松田の一編纂とすれば︑

以上を要するに︑文筆の家として鳴る太田氏出身

ω

道大が︑自家の立場と地位を活用して︑建武政権に関する文吉

・記録︵特に法制関係︶を収集し︑南北朝初期に本書を編纂したが︑岡田試の察務後は同族の町野氏に相伝された︑と結

論す

る︒

建武

政権

の法

制︵

森︶

(7)

雑訴決断所の条規

﹁建

武記

ω

活字本は﹃群書類従﹄に収められ︑利用に供されているが︑誤脱が多く︑

が比較的よい︒本稿では︑内閣文庫本と校合を行ったものを用いた︒

本書は﹁建武記﹂と題するが︑収載記事は建武元年から延元元年に一日一っている︒記事はほぼ年代順に配列されてい

るが︑錯簡がみられるため︑まず正しい配列に直す作業が必要なことは言うまでもない︒行論の都合上︑上横手氏の

﹃大日本火料﹄採録のもの

分 類 に 従 っ て

記載記事の概要を掲出する。

土 | と | 竺 川伸|川判的 一 一 一 一 一 一 i

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建武一元弘

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五年じ コ年三じ フ三年じ コ年−じ−年四 二L ‑

月 二月 月七

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全体を通して︑記事の特徴として挙げられることは︑ほぽ編年に並べられていること︑建武元年

i

三年の建武政権

下の諸法令と結番交名が主たる内容である乙とである︒法令はそのほとんどが雑訴決断所に関する条規であり︑それ

(9)

抽出

武政

権の

法制

︵森

f

らの分析を通して︑政権下で最も重い役割を果した決断所の機構的整備の進展過程をたどりうる︒又︑決断所の条規 が︑建武政権の施政の法的側面での屋台骨であってみれば︑それは政権そのものの展開の経緯にまでおし及ほされる

性質

のも

のと

いえ

る︒

個々の記事は︑末尾に年次を持つものが多いが︑全くとれを欠くもの︵同・判・川・同・例・判−M︶︑記事の冒頭に

年次を追記したもの︵附・伺・同・川りも混在しており︑後二者については追記にまどわされることなく︑内部徴証に

よって︑年次を推定するしかない︒

決断所の条規に係るものは︑川・同・例の中の二ヵ条・同・凶である︒従来の研究では︑まず︑決断所の構成と機 能について初めて比較的まとまった専論を披概した阿部猛氏は︑﹃大日本史料﹄の配列︵

ζれ

は追

記の

年次

をそ

のま

採用︶に従って︑三つの発展段階の形でとらえ︑次のように整理しかい︶

同建

武元

年正

月の

条規

︵同

︑及

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ケ条

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川建

武一

九年

五月

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武二

年の

条規

︵判

・同

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︑川

・伺

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順︵

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立順

序︶

に︑

個別

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考証

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え︑

成立

時期

を推

定し

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きた

い︒

ζ 

の条規を考える前に確認しなければならぬのは︑個々の条規の制定の時期は︑本来﹁論旨万能﹂を建前とする後醍醐

天皇の親裁権に属した権限の︑決断所への委譲の時期を意味するということである︒

川と

同は

︑・

内容

面か

らみ

て同

一に

論じ

てよ

いと

考え

られ

るの

で︑

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一括

して

論ず

る︒

条々

(10)

山一︑本領安捕事 開発鈴流汗累代相伝之仁︑無故被収公者︑被尋究文書道理︑可有勅裁︑雌川町線本券契︑相承不分明者︑不可及 沙汰︑文治・建久以来恩賞地︑知行令中絶者︑同非沙汰之限︑但其人若為要須者︑宜在臨時聖断︑

凶一

︑当

知行

地安

哨事

︵本

文略

間一

︑非

科罪

輩当

知行

地︑

被充

行他

人事

︵本

文略

凶一

︑今

度没

官地

代官

職安

端事

︵本

文略

︶ 間一︑没官地等内︑以一村一名︑或寄附寺社︑或譲与諸人︑称各別相伝事︑

H川附法師一一政以下︑削敵之掠知行之地︑悉没官之上者︑不可依興作時之遠近︑可九没官之内︑但件族相伝以前之飢

主子孫︑帯各別相承之所見者︑岡本領安城之法︑

附一

︑朝

恩地

等混

乱事

︵本

略文

m

一︑

制家

・地

引所

務事

︵本

文時

附一

︑論

旨遵

行事

於建武以後論旨者︑職不可有改動之儀︑若有子細可被改者︑被載其趣於

則一︑不遵行勅裁︑致濫妨事︵本文略﹀

間一︑諸国諸店関税緋凶司・守護注進事︵本文略︶

論旨

︑可

被仰

国司

・守

護等

︑︵

下略

ロ)

於決断所司有沙汰条々

山て所務瀧妨事︑

ω

一︑領家・地頭所務相論弁年貢難済以下事︑

(11)

建武

政権

の法

制︵

森︶

J¥ 

間一︑下職以下開発徐流井帯代々上裁欝訴事︑

自鈴

者可

為本

所成

敗︑

凶一

︑本

領安

堵事

説耕

地議

矧て諸国々司・守護注進事︑

関東十ヶ国成敗事

附て所務相論井年貢以下沙汰一向可有成敗事︑

m

一︑所領弁遺跡相論異重事者︑執整訴陳︑可為注進事︑

則一︑訴論人或在京或在国者︑就訴人之在所︑可有沙汰事︑

巴上

被押

決断

所也

制に含まれる﹁関東十ヶ国成敗﹂日鎌倉府の所轄事項︵第六・七条︶を除けば︑両者は内容的に対応していることか

ら.同は附の諸条がすべて成立した時点で︑事書をまとめ︑付随事項を加えて︑決断所に布告したものと思われる︒

川刊の第一条について︑佐藤進一氏は建武元年三月どろの成立とみた︒とれより先︑笠松宏至氏は︑﹁文治・建久以

来云々﹂の部分に関連して︑建武元年四月の一注進状に﹁如今御事書者︑文治建久以来武家恩給之地︑知行中絶者不

可沙汰云々﹂︿﹁東寺百合文書﹂ゑ﹀なる文言があることに着目し︑川の条々がすべて建武元年の立法であるか︑少く

とも二年以前の法規を含めて集成したものであるとの意見を提出し

m v

乙れはよい着眼であり︑﹁建武記﹂の記事に

付された付年号が全く信頼できぬととが明らかとなり︑改めて︑各々の記事の年次比定が基本的問題として提起され

るこ

とに

なっ

た︒

刊の第二条は︑先に一同宣旨︵元弘三年七月末発布﹀によって︑高時法師党類以下朝敵与聞の輩を除く士卒民庶の当

知行地を安堵しているので︑決断所では重ねてその沙汰に及ばない︑つまり︑地頭御家人層の安堵は国街レベルで行

(12)

﹁依非分之妨︑不全管制之由︑愁中﹂す者に対しては︑特別に決断所でも行うというもの である︒当知行地安堵を内容とする牒は︑管見のところ︑建武元年三月廿五日付︵﹁詫摩文書﹂︶のものが最も早い︒

この事実は本条成立の時期を考える際︑ひとつのめやすとなる︒

刊の第五条は︑北条高時与同人の知行地没収と没収領の本主への返付についての規定である︒笠松氏はつとに第一

・五条に着目し︑問所地に対する本主権について論じた︒発布

ω

加を

考え

る上

で︑

相良長氏申状が参考となる︒その事書に︑ うが︑本文中にみる如く︑

﹁相

良家

文書

﹂一

戸弘

凹年

正月

日 欲早被経御奏問︑依本領安堵法︑任諮文理︑如元被返付︑肥後園球磨郡人吉荘半分地頭職︑

相州

禅門

恥附

条押

領地

事︑

つまり川の第一条に依拠した事実は︑第一条及び二条の成立の時期を建武一五年

とあり︑この申請が﹁本航安哨法﹂︑

正月まで遡らせうることを示している︒

刊の

第八

条は

︑建

武以

後に

出さ

れた

輸出

国は

︑ たやすく改勤しではならない︒もし改める場合は︑その理由を論旨に 載せて管国の国司・守護に仰せよ︑という規定である︒この条について︑佐藤氏は︑付建武政権問身が元弘三年の論 旨には誤の多い乙とを認めた︑同﹁大徳寺文書﹂建武元年四月十一日論旨︵同年二月七日に︑誤って大徳寺領信濃国伴野

荘内

日凹

原郷

を思

地に

宛て

た紛

旨を

召し

返し

︑問

・九

すに

返付

する

とい

う内

内︶

を︑

とした︒妥当な理解であろう︒ この法令

ω

迎用とみなし︑制定の時期を建武

元年

三月

ごろ

何よりも注目すべきは︑

この法令が︑元弘三年リ建武政椛成立以来の政策の悩乱を部分的にではあれ︑収拾する立 図に発したと思われる点である︒乙の傾向は闘の第五条﹁蒙勅裁輩事﹂にも表われるが︑乙の条については後述︒

制の中で興味深いのは︑第四条﹁本領安堵事盟問開銀一色︑つまり本領安堵に関する申請先は︑訴人の意志に任せて︑

決断所・記録所いずれでもよいという規定である︒この規定は通常建武政権機関の所帖区分の不明確性を論ずる時︑

ひきあいに出される︒牒の実例についてみれば︑本条は当知行地安培を主体としたこと︑安堵の対象はすべて地頭御

山地

武政

権の

法制

︵森

)L 

(13)

建武

政権

の法

制︵

森︶

四0 

家人層である乙とが知られる︒一方︑記録所を制度的基盤として発給される論旨による所領安堵の場合を検索すれ

ば︑

主に

所本

・個

家層

︵寺

社権

︶問

を対

象と

し︑

i又︑地頭御家人層を対象とする分を含んでいる︒つまり︑地頭御家人

層の当知行地安摘の側面で︑両機関は重複する機能を果している︒しかし︑実例に即して子細にみれば︑乙の重複し た部分は︑建武元年五月頃を墳として一元化され︑給旨による安堵は︑本所・領家層を当事者とする場合に限られる 傾向を呈している︒このことは機関の管轄区分の変動を考える上で注意される︒

同 続いて闘に移る︒企文は次のとおりである︒

決断所条々建武二年二月日

山一

︑文

書支

配事

︑ 札明方々好訴並前後転変︑為目録部類︑所定国奉行也︑可渡遺文書於一所也︑

凶て召整訴陳状︑擬及対決事制説酬明味 為止訴人之煩︑留置文書︑本奉行司令申沙汰︑経一決是非之後︑可付渡国奉行方︑但於篇目者︑先一国分悉載目

︑六

可注

進子

細︑

間て牒状事︑

先日遵行分︑本新傾主所領之名字︑書副目録︑可付渡之︑国奉行請取之︑勅裁之有無︑施行之趣︑云以前︑云向

後︑

注可

置之

凶一

︑国

奉行

退座

事︑

有其

悌者

︑引

付目

之録

後︑

可渡

他人

(14)

間一︑家

勅裁

故事

縦雌賜論旨︑米川当所牒状者︑相触子細於国奉行︑可被書入彼目録︑向後者︑

不可成牒状︑立経奏問︑又無牒者︑不可遵行之︑不可沙汰付下地之旨︑可仰国司・守護哉︑

︵乱 カ︸

此条々不被施行之︑訴人違於欺︑不可説/\︑ 勅裁日限過三十ケ日︑無左右

ω

条々で問題となるのは︑付成立年次︑け末毘の一文の吟味︑同国奉行の三点であろう︒

成立年次として︑付年号﹁建武二年二月日﹂が正しいか否かは︑内部徴証によって自ら判明するので同の点から論 じよう︒この一文は用字に誤脱があり︑又︑原史料にあったにしては記載の仕方が不自然である︒おそらく︑後筆で

あろう

o p

ケ﹄建武二年二月是月条に配列した﹃大日本史料﹄は︑頭注に﹁此条々ハ施行セラレズ﹂と要約い問︒とこ

ろがまさに施行された形跡が存する︒

決断所牒を持びざれば︑

守護に命じたもので︑あわせて牒発給の手続きを定めている︒建武政権の政治過程において︑

第五条は︑たとえ勅裁︵紛旨︶を蒙っていても︑下地を遊行してはならないことを国司・

乙の規定のもつ意味は

大きいと言わねばならない︒まず制定時期を推定しよう︒

﹁円覚寺文書﹂年月日欠円覚寺雑掌融申状案は︑このことに迫りうる稀有の史料である︒今︑行論上必要な事官官の

みを

あげ

る︒

円覚寺雑掌伯契料巾︑

案 内

1ぃ

Il l

1

11 11 11

l l

論旨・国宣︑如元可沙汰付寺家雑掌旨︑可被成施行由︑雌申守諮新国左馬権頭︑可申成牒旨︑返答上

者︑為御沙汰被仰下︑当寺領越前国山本庄事︑

円覚寺雑掌契智が︑紛旨︵建武元年二月廿六日付﹀ 欲早任

︵傍

線筆

者︶

−越

前国

宣︵

同廿

八日

付﹀

を副

えて

下地の道行を当国守護新田義

貞に要請したと乙ろ︑守護方からは決断所牒を得なければ遵行できないと返答してきたので︑決断所に対して牒の下

建武

政権

の法

制︵

森︶

l ! ! l  

(15)

建武

政権

の法

制︵

森︶

付を申請したものである︒この契智の申請は明らかに︑本法令の適用と言い得︑又︑申請の時期についてみれば︑こ れに対して建武元年三月廿凶日決断静脈が下付された事実から推して︑建武元年三月はじめごろということが判明す る︒同時に側全体に付された﹁建武二年二月日﹂の注記は全く信頼できないことが確認された︒

次に決断所の訴訟審理における﹁国奉行﹂の存在が問題となるが︑

乙れは今のべた第五条と密接な関係にある︒建 武政権関係史料のなかで﹁国奉行﹂なるものの所見はここのみで︑職制の特質・活動の実態を他の史料によって比較

検討できないうらみを残すが︑

一応乙この個所の規定に従って機能を要約しよう︒

﹁国奉行﹂は何の目的で︑どこに設置され︑どのような役割を果たし︑更には建武政権の政策史上︑

いかなる意味

を持ったか︒まず設置の目的は︑

を札明して︑目録部類を作成するためである︵第一条﹀︒

﹁札明方々好訴井前後転変︑為目録部類﹂︑即ち︑訴論人の好訴や訴訟内容の変転

やはり決断所内部とみる方が自然であろう︒

設置

場所

は︑

決断所沙汰終了後︑﹁国奉行﹂は訴陳状を受け取る︒筋目については︑先に一国ごとに目鈷に載せ︑子細を﹁悶奉行﹂

以前に決断所で審理をし︑牒を下付して遊行した分については︑決断所の本奉行人が

に対

して

注進

d

︵第

二条

︶︒

の状

況を

注し

置く

︵第

三条

︶︒

﹁国奉行﹂は︑当該件について勅裁の有無︑施行 要するに﹁国奉行﹂は進行中の訴訟のために︑

乙れ

を﹁

国奉

行﹂

に渡

︒す

本新領主所領の名字を目録に書き副え︑

或いは将来起るべき訴訟に備えて過誤

なき様︑関係文書を整理審理した︒

又︑対決の場に参画することもあったらしく︵第四条︶︑

役割

の上

から

言え

ば︑

決断所の奉行人の中から退任されたと思われる︒

︿U

V

あろ

うか

﹁国奉行﹂という職称は︑職務内容が悶単位である点によるもので 総旨を受けていても︑服を得ないと遵行できないとする第五条の規定は︑施行はされたが︑在地の情勢は必ずしも その受容を許さなかっ時︒条規の政治性については後述︒

(16)

次に例の第十・十一条について︒

乙れは﹁武者所挫可存知条々﹂十一ケ条の中に合まれており︑年次は建武元年五 月七日としるされている︒乙の二ケ条について﹃大日本史料﹄の編者は﹁恐ラクハ︑決断所ニ係レル制ナルベシ﹂と 注記してハル却︒研究論文としては黒田俊雄氏の専論があり︑建武政権の宗教政策の観点から︑注目すべき分析が加え られてい必︒しかし︑なぜ西日本︵主に九州︶に諸国一・二宮本所・領家停廃の実例が集中しているのかなどの問題

ここでは成立時期を確認するのみにとどめたい︒

を残

して

いる

が︑

建武政権によって本所・領家の号を停止された諸社の一つ︑阿蘇社の文書に次の山人料が収められている︒

①後醍醐天皇論旨

肥後国甲佐・健軍・郡浦等三社︑止本家・領家之号︑付本社︑可令管領者︑天気如此︑悉之︑以状︑

弘 阿 三

2

大量十宮富月

司〉二 館 日

式部

少輔

︵花

押︶

②宇

治惟

平契

状︵

建武

元年

七月

十九

日︶

︵ 肥 後 国 守 富 庄

ひこのくにもりとみのしゃうの事︑

︵ 崇 敬

︹ 官

︵ 興 行

︵ 叩 位 向 日

︶ 門 当 国

︵中略︶いま神明そうきゃうの御ょに︑一二のミや御こうきゃうのあいた︑かうさのミやハ︑たうとくのこのミや

門 社 家

﹀ 門 富 市

VV

令 書 聞

︿ 安 堵

︾ 門 実 霊

にて御わたり候へぺしゃけの御ちうちとして︑御そうもん候て︑御あんとのときハ︑さねすミのけいやくにまか

︿ 所 当 米

﹀ ハ 半 分

︵ 榔 怠

せて︑もりとみのしゃうのそたうまい︑まいねんニはんふんお︑けたいなく︑えいたいをかきりて︑

しやけにさた

をい

たし

侠へ

く候

︑︵

下略

①は︑後醍醐が甲佐・健軍・郡浦三社の本所・領家職を停め︑社家の管領に移すことを阿蘇大宮司惟直に伝えたも

述式

政権

の法

制︵

森︶

(17)

建武

政権

法の

制祭

料︶

の︑②は︑肥後国守宮庄の伝傾の経緯を述べ︑

ごニのミや御乙うきゃう﹂令に任せて︑天皇に奏聞し︑甲佐社領と して安城を得ょうというものである︒①で紛旨を受けながら︑九ヶ月後②で安堵を請うのは一見不整合のようにみう けられるが︑この安城市訪は︑直接的には黒田氏のいう︑本所停廃策の二段階のうち後のご般的な諸国一・二宮本

所停

廃の

方針

︵即ち本条﹁諸国一二宮事﹂︶に触発されたものであろう︒本条を建武元年五月七日の制定と みて不自然ではない︒又︑この二ケ条が﹁武者所輩可存知条々﹂の中に収められたのは︑本来別個に出された法令が 何らかの事情で一括記載されたのであろう︒

従っ

て︑

制 最後に同の建武元年五月十八日条規十ケ条について述べる︒

乙れには年次が明記されており︑内容はいずれも決断 所の訴訟に関する手続法である︒条規の解釈は阿部・笠松両氏が試みているので︑

それらを参考にして︑特質を論じ

二︑

O

JL

O

第二

条﹁

山山

対難

渋輩

﹂事

﹁召文難渋に対して理非に拘わらず訴人の申請に任せて成敗すべしとする鎌倉 幕府法主加法制︶の原則と大きな隔りがあ台と述べ︑阿部氏の﹁決断所の訴訟法は︑多く鎌倉幕府のそれを継承し

阿部氏は﹁在京のもので廻文三ケ度に及んでも訴人と対決しない論人がある場合は文書のみで審理する﹂

い対笠松氏はもしこれに従うならば︑

と 解 釈 たもの﹂という結論に疑義を挟んだ︒笠松氏の批判はつまるところ︑建武以前の公家訴訟法との関係をも吟味せよと

いう

点に

ある

が︑

これ

は全

く首

肯で

きる

︒ 出対雌渋について︑木条と比較検討できる建武以前の公家法は残念ながら管見に及んでいない︒しかし︑時期的に

やや

下っ

た暦

応三

年五

月十

四日

制定

の雑

訴法

々条

︵﹁

仁和

寺文

書﹂

︶の

中に

かろ

うじ

て参

記考

事を

みい

だせ

る︒

(18)

−︑

論人

出対

難渋

及両

度者

以一

方尋

問︑

可注

進之

敗︑

可被止所務︑其後猶不参決者︑

不可

及再

住之

催促

可被

付敵

方︑

於訴

人者

可被

江 川

訴訟

事︑

これ

は︑

論人

が二

度出

対を

渋っ

た場

合︑

まず

所務

を止

める

︵こ

の部

分は

傍告

のよ

うに

︑﹁

一方

の尋

問を

もっ

て注

進す

ベし

と改

めら

れた

︶︒

その

後な

おも

参決

しな

けれ

ば︑

訴人が難渋したら訴

訟を棄拍する︑というものである︒傍書の改正事項﹁以一方尋問可注進﹂は本条の﹁不参決者︑就奉行人之注進︑有

もは

や催

促は

行わ

ず︑

係争地を訴人に付ける︒

評定﹂の部分と対応する点に注訟せねばならない︒

奉行人の注進について評定を行った後︑本条の規定では召次︵乙れは決断所の雑仕であろう︶と両奉行人の使者を

当該

人の

許に

派遣

し︑

その注進状をもって﹁霊経評議︑可有裁定﹂とある椋に︑いま一つのステップを踏むやり方で ある︒北朝文殿雑訴法への継受の事実から推測すれば︑本条は公家法の流れを汲むものといえよう︒

なお

﹁在国殻﹂については︑国司・守能に牒を下し︑論人を召喚した︒参洛しない場合は︑評定日に国司・守護 代官を決断所に召し︑事情を聴取し

M V

又︑召決に関連して︑第十条に﹁諸国行程事﹂を規定し︑あわせて﹁判待日数﹂を定めた︒﹁判待日数﹂とは︑おそ らく最終回︵第三回目︶の召喚の際上ぬ附した訴人が︑論人の参対を待つ日限のことであろう︒つまり︑﹁諸国行程﹂︵参

洛に

要す

る日

数﹀

をす

ぎて

﹁判待之日数﹂の期聞に︑決断所では先にのべた訴訟手続を経て︑裁定を下したのである

︵前

略︶

就所

司等

之訴

欲被

召決

両方

之慮

﹁市

河文

書﹂

建武

二年

八月

十四

日決

断所

牒︵

信濃

国守

護所

E

に ︑ 如意寺伯正雑掌令逓避数箇度出対︑終以不及参決︑此上判待之法制似

− つ ︒

﹁判待﹂に関しては関係史料が残存している︒

無議

期欺

早可貼置論所

︵ 下 略 ︶

︵傍

線筆

者︶

とみ

える

ここでは﹁判純之法﹂と表現している︒

﹁判待日数﹂は論人にとってみれば実質的な参協の最終的なタイ

ム・

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あっ

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との

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在所

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によ

って

もう

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る︶

︒日

限を

過ぎ

建武

政権

の法

制︵

森︶

(19)

建武

政権

の法

︵制

森︶

司 ↓ − ︑

μ

r

F︐ ノ

ら論所を黙置する︒おそらく第二条の﹁可有裁定﹂

この論所貼置を意味するであろう︒

︵在

京設

の場

A口

・﹁

有可

沙汰

︵花

裁同

の場

八日

︶と

は具

体的

には

O

第三条﹁訴陳日数事﹂

本条はやや重要であるから全文をあげる︒

へ 巨 カ

︹ 間 カ

不可及訴陳之由︑先度雌被定其法︑対問之時︑或互枯諮験可審察事理之煩︑或事渉疑似︑努匿断後訴之輩︑於雑務 者︑召整訴隊︑可有沙汰︑﹄尋下訴状之後︑十五ケ日不弁申者︑可被貼置論所︑其後難渋及十箇日者︑可被裁許訴 人︑々々又遁避重申状過十ケ日者︑可被奔制訴訟︑至子札断事者︑召置両方同時事書︑可被断定炎︑

乙の条は︑訴陳状の提出についての規定で︑内容的には二つの事柄を含んでいる︵区切れ目に﹄印を付して示した︶

0

即ち︑付乱艇を終え対決に及んでもなお訴陳状を提出する班について︑口一一担保状提出の日限についてである︒乙の条 の大制は︑北朝訴訟法に継受される︒

同については︑少しく比較検討できる史料が残存しているので︑年代順に列挙する︒

① 

雑訴

陳状

日数

︑事

仰︑不可過三十ケ日之山︑厳制先誌︑動送賠浦︑徒賢雨筆︑自今以後於如此之都市者︑可被止知行事︑

一 月 ︶

︵弘

安八

年十

@陳

状日

限過

廿箇

日者

︑可

止所

務事

︵正

応五

年七

月﹀

①陳状廿ケ日中可被進候︑若過廿ケ日者︑可被止所務之由︑被仰下候也︑

④陳状過廿ケ日者︑可被止所務︑被止所務之後︑過十五日者︑可被付敵方事︑

︵正

安三

年三

月︶

︵延

皮二

年四

ぷ︶

⑤ 応 定 訴 陳 日 限

右︑同宣奉

勅︑下訴状之後︑廿箇日中不進陳状者︑可被止所務︑止所務之後︑過十五箇日猶不及陳答者︑

可 被

(20)

裁州

一川

︑一

山人

霊訴

状︑

過三

十例

日者

可作

止訴

訟︑

r

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月ぉ持 、

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⑦(⑥ 

口 出

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可 人

V

知給

山︑

可被

止所

務︑

被止所務之後︑過十五筒日者︑可紋付敵方︑

信 号

一 年

五 島

石井良助氏は︑

した︒⑥と@

ω

問に本条の記事務︶入れて年代順に一即行すれば︑公家法において訴陳日数制が漸次怒備され︑しかも日

﹁問

状違

背﹂

の制は公家法独自のもので︑

乙れが室町初期になってから武家に伝来した乙とを指摘

この傾向は建武政権に至って極点に述し︑続いて北朝にあっては︑一見の形態に一民

乙れら一連の史料は中世公家政権の政治に対する意欲と姿勢の変遷を如実にあらわしている︒

本条

ω

︑訴状を尋ね下した後︑十五日以内に陳状を提出しなければ︑論所を船舶置し︑その後十日間︑猶も難渋すれ

H

V 

ぱ︑訴人

ω

勝訴とする︑という制定を実際の施行例に即して見ょう︒﹁引出文古﹂建武元年十月日宇佐公右目安案に

限が短くなっていることがわかる︒

って

いる

次の

氾抑

制が

ある

↓Jlj  ︒ 右︑公辿文書抑留之段︑度々言上挙︑市先御奉行正親町大夫判官茸有之時︑去七月四日乍詰取木訴状︑迄千数月不 及散陳之問︑以遠背之箭︑可有御沙汰之旨︑持小申状之処︑如去月八日御廻文者︑来十八日以前不逃限状者︑任被

定置之法︑可有其沙汰云々︑雌然公述向以違背之条招其符敗︑

建武元年十月

円建 武五 年

V

宇佐公右は同公述の文古抑制を決断所へ提訴した

6論人の公述は訴状を七月四日に訪け取ったのに︑陳状捉山山を数

月間難渋した

ω

で公右は巾状を仰げたところ︑九月八日決断所は︑十日以内に陳状を提出せよという廻文を公述に発 した︒ところが十月になっても公述は一向に隊状を提出する気配はなく︑公右はこの月再び申状をしたためる︒乙の 申状を受けた決断所は︑建武元年十月廿四日再び陳状提出を公連に命ずる︒

乙の一連の訴訟手続から判明する乙と

泌氏

政権

の法

制︵

森︶

IJCJ 

F

(21)

山地

武政

縦の

法制

︵森

; ¥ . .  

は︑付訴状を請け取って規定の十五ケ日をはるかに越す難渋谷を犯しても︑論所が貼置された形跡は弘同︒同廻文で は規定どおり十日の日限が遵守されている︒国論人に対しての決断所廻文の発給は︑規定によって決断所が自動的に 出すものではなく︑訴人自らが申状を提出することによって引き出す性格のものであった︒制条文には廻文に関する 規定はみえないのに︑実際は三度に

E

って廻文が発給されている︑等々である︒陳状提出の廻文発給が同の第二条に みえる出対難渋の規定に準じたと思われ︑更に決断所の沙汰は訴人の在所についてなされる︵刷の第八条︶乙とから 乙の一件は訴人公右が在京していたため︑﹁在京輩﹂に関する規定が適用されたのであろう︒従って︑本条の

﹁在因説﹂の場合はこれと自ら異なる規定が存在したであろう︒

して

︑ 規定はおそらく﹁在京輩﹂に閲するものであり︑

O

第八条﹁当所論人無左右︑不可直訴記録所事﹂

云記録所︑云当所︑可有沙汰条々︑己被定其法準︑若有参差事者︑当所庭中井越訴之時︑可申所存︑沙汰未断之最 中︑於令直訴之輩者︑注置訴人之名字於当所︑雄為理訴︑三ヶ月不可及其沙汰乎︑

阿部氏は﹁一事件について訴えが出された場合︑

︿

﹁沙汰未断﹂のうちに論人が記録所に訴えることは禁止される﹂

と解釈した︒乙れは文脈から考えて訴人に関する規定であろう︒先に同の﹁本領安堵事﹂を論じた際︑建武元年五月 頃を墳として︑記録所と決断所は各々管轄区分を明瞭にし︑地頭御家人層の所領安堵は専ら決断所の所轄となったこ とを述べた︒本条もこの機構改革に端を発するものと考えられる︒地頭御家人層の所領・所務に関する係争一般は決 断所内で処理する方針がここで明らかに打ち出されている︒﹃梅松論﹄柑宝にいう﹁大儀においては記録所において裁 許あ﹂りとは︑まさに乙の時期以降の記録所の所轄を意味するものであろう︒

師行申状案にみる﹁︵前略︶的被経決断所御沙汰之後︑於記録所被召決︑

任面

当々

知行

可令

安哨

由︑

﹁遠野南部文書﹂建武元年四月日南部

被仰

下了

略︶﹂のようなケ

l

スは︑機構改革前における最後の一例といえよう︒

(22)

所領安堵・遵行の方式

﹁明王聖主御代﹂現出の原動力となった諸勢力はそれぞれの要求をかかげ新政権の法

廷に雲霞のどとく参訴した︒誕生まもない新政権はこれらの要求に対応しつつ︑新たな支配体制を構築する課題を負 鎌倉幕府を倒壊に追い込み︑

って

いた

ことで︑所調﹁所領個別安峨法﹂と

﹁諸

国平

均知

行安

峨法

︿﹁

一同

の法

﹂︑

元弘

三年

七月

末発

布︶

の二

法令

が問

題と

なる︒解釈の仕方によって建武政権の性格評価に大いにかかわってくる乙の二つの法令は︑まさに後述の第一期H混

乱期に属する︒法令の性格については︑すでに黒田俊雄氏が従来の研究を的確に整理し︑新たな視角から注目すべき

見解

を提

出し

たハ

﹁建

武政

権の

所領

安堵

政策

につ

いて

l

一同

の法

およ

び徳

政令

の解

釈を

中心

に|

﹂・

鰭鶴

一倒

錯﹃

国史

論集

﹄昭

和四

七年十二月︑所収﹀︒詳細は思凹論文を参照されたいが︑氏の所論の一つの柱は︑﹁一同の法﹂の中にみえる︑聞かる

べき﹁此法﹂を﹁個別安堵法﹂や﹁旧領回復令﹂などの法令とはみなさず︑﹁過日の便宜的ないし慣例的な方式﹂と

解した点である︒氏はそ乙に︑建武政権に一貫す忍当知行保護の基本的立場を確認した︒私もとの説に賛同するもの

であるが︑気付いた乙とを一つだけ付加したい︒

﹃金剛寺文書﹄同年六月十五日宣旨が禁じている

このととは﹃高野山文書﹄官澗築年月日欠丹生社神主恒

信申状によって更に裏付けられる︒これは︑恒信が社領和泉国麻生郷を安堵する紛旨を申請したものだが︑その年次

については︑文中に﹁去間二月﹂とみえ︑又裏に﹁奏聞畢﹂と証判を加えた高倉光守は蔵人と考えられる︵﹃職事補

任﹄

によ

れば

光守

の蔵

人在

任期

間は

元弘

三年

月日

i

同年十月六日︶から︑元弘三年と判明する︒最も注目すべきは︑

氏は

元弘

三年

十月

五日

陸奥

国検

断事

書︵

﹁結

城文

書軒

叫﹂

︶に

依り

のは﹁護良親王の令旨による濫妨等々のことを指す﹂と説く︒

恒信が

当郷知行の由緒を語るくだりに︑

建武

政権

の法

制︵

森︶

I ! Y  

(23)

山地

武政

縦の

法制

︵森

五0 

当郷

者︑

︵中

略︶

為社

領知

行無

相違

之成

︑去

年三

月頃

︑竹

院慶

性一

房一

号賜

B

il li

− 家

ll

Il l1 11 Il li

宮令旨者︑可被寄破之由︑被定仰出上者︑何限常郷︑可及乱妨哉︑︵傍線筆者︶

とあることである︒つまり︑諮良親王の令旨はとれを破棄する乙とが︑後眠醐によって定め仰せ出されていた乙とが

知られる︒後醍醐の隠岐配流中︑倒幕運動の中心的存在であった護良は︑元弘二年中に限ってみれば︑主に軍勢催促

・祈祷命令を内容とする令旨を多数発給している︒とりわけ後醍醐が破棄したのは︑所務関係の令旨であろう︒乙の

史料所見は︑記載内容といい年次といい︑元弘三年六月十五日宣旨の性格についての黒田氏の見解を支えるにふさわ

しい

もの

であ

る︒

宮令

旨︑

致乱

妨狼

籍︑

︵中

略︶

就中

本稿の主題に即していえば︑黒田氏が明らかにした建武政権の当知行保護の方針の具体的実行はその大部分をご

同の法﹂によって地方行政単位H国街機構に負荷した︒諸国地頭御家人層の当知行地を安堵する国司の証判や国宣の

発給はこの法に基づく︒しかし︑尚も天皇の親裁椴の内にとどめられた一部分は︑やがて決断所に持ち込まれるので

ある

︵述

式元

年三

月頃

︶︒

建武政権の支配機構の構造的特質の一つは︑裁決事項の執行の仕方にあらわれている︒乙こで︑当時の実例に即し

てそ

のこ

とを

考え

たい

建武政権下において︑所飢の安哨・遊行の目的で発給される文書を︑その機能の上から整理すれば︑次の四つの組

み合

わせ

がで

きる

①後醍醐天皇論旨

V+国宣・守秘施行状

④後間醐天皇論旨+雑訴決断所牒〜 ②一同の法@雑訴決断所牒

(24)

表わ

れて

いる

これは又︑彼の目指す体制を象徴するものであったが︑やがて

@︑そして@・④の方式を許さざるを得なかったところに専制体制樹立の限界と︑地頭御家人層の諸要求とが端的に

論旨の機能は勅裁という名のみで︑道行の実を伴うものではなく︑

いずれも国宣を申請・獲得せねばならなかった︒

牒もこの点では論旨と同様であ 後醍醐の当初の目算では①のみで事足りたはずで︑

る︒遵行のためには︑

給旨遵行のためには牒を帯びよという規定

︵刷の第五条︶の意図するところは︑乱発された論旨を整理するにあったことが︑

乙こで一一周はっきりする︒むろん牒

は裁決文書としての論旨の効力を大幅に削減した︒

いずれにせよ︑政権の存続は国街・守護の遵行機能に負うところが大きく︑国街・守護機構の再編に多大の努力が

払われたことは言うまでもない︒

結 以上繁雑な考証を重ねたが︑最後に条規の配列についてまとめ︑あわせて法制定の上からみた建武政権の政治過程

を概

括し

たい

︒ 鎌倉幕府が未解決のままに残した寺社権門から士卒民庶に至る所領問題は︑元弘三年六月に成立した建武政権の上 に重くのしかかってきた一︒専制体制の樹立に心血を注いだ後醍醐は所務濫妨の停止︑本領・当知行地安堵を基本方針 としつつ︑王朝の伝統的訴訟機関

H

記録所にその処理を命じ︑自らも懸命の努力を傾けたが︑到底処理できるもので はなく︑誤審が続出する中︑ついに元弘三年九月雑訴決断所を新設するに至る︒決断所の乙うした成立のいきさつは

同時

κ

決断所の性格を規定した︒決断所条規︵川・同・同のニヵ条・糾・附﹀の制定の順序はまさに決断所の機関として の整備の段階を示すものと言ってよい︒結論として︑川・同・同は一括して建武元年三月以前の成立︑例・同は同年 五月の制定と︑大きく二つの︑グループに分類できる︒しかし︑乙の二つのグループの聞を載然と分つ理由と必然性は

述式

政権

の法

制︵

森︶

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