(1)﹁名臣﹂から﹁名地方官﹂へ ‑苑仲滝の知杭州治績に見る﹁名地方官像﹂の形成

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(1)﹁名臣﹂から﹁名地方官﹂へ ‑苑仲滝の知杭州治績に見る﹁名地方官像﹂の形成. はじめに. 小二田. 章. 従ってその﹁地方官像﹂. おける治績と結び付けられて語られた記述とその集合であり︑文 集・地方志や碑記・政書などに記載される︒. はある個人のイメージ・地域における政治のイメージ・善政自体の. それらの記載が︑後の. 士大夫階層に読まれ'そして引用され利用される︑という過程を経. イメージの側面を相互関係的に持っている︒. 近年の末代史研究における特定の地域社会に対する分析は︑末代 (‑) 史研究会の諸論文集など' 疋の成果を生み出してきた︒ 士大夫研. 定着していくのである︒. これをさらに進めて言えば'記載が重. この間題に先鞭をつけたのは宮崎市定氏であった︒. 論文﹁末代の. なって受け継がれることによ‑︑地方にあるべき統治のイメージ︑ (5) 言い換えれば﹁地方統治の規範﹂が形成されると考えられる︒. 共有されていったのである︒. ア的な背景のもと︑士大夫階層の中に模範的な地方官像が形作られ︑. 整備という社会的背景︑出版の発達や地方志の成立といったメディ. 宋代︑特に南宋期という時代の︑士大夫階層の成立と官僚制度の. て︑地方官像の記述の数量は増大し'士大夫の知識・認識のなかに. 究では'地域に生きる士人ないしは士大夫たちの南宋期における変 (2) 容が取‑上げられ'さまざまな角度から解明が行われてきた︒ 地域研究の潮流の中'士大夫研究は地方官と地域の接触という議 G) 論を︑地方官と地域士人たちの共有する認識という問題にまで拡大 ビEX した︒ これはまた︑地域社会が全体としての国家とどのように関係 していたのか︑士大夫階層がどのような認識の変化をたどったのか︑ という問題とあいまって︑変容を論じるうえで重要な一視座である︒. 伝統的に注目に. その議論の一環として私が問題提起するのは'中央から派遣され てきた地方官がどのように記載されるかtである︒. 士風﹂にて'末代の士大夫は明代以降理想化され︑その後の士大夫. たちの生活様式や思考を規定する模範となったことを述べへその背. 小. 論の取‑上げる﹁地方官像﹂とは'具体的にはある地方官が任地に. 五三. 足る治績を残した地方官は記録され︑後世の模範となっていく︒. ﹁名臣﹂から﹁名地方官﹂へ.

(2) Q 景として朱薫﹃五朝名臣言行録﹄と北宋の士大夫を模範に取る南宋. いると弾劾を受け'再び地方に左遷され︑知境川・潤州・越州を歴. 都に帰還して権知開封府となったが︑﹁百官図﹂を献上して呂夷筒の. 李元美との和議成. 終章で︑北宋期における苑仲滝の評価形成と﹁名臣﹂像にいたる過 3) 程を述べており︑遠藤氏は義荘形成の祖として蘇州で洞廟が成立し. 名臣言行録﹄などにより︑実像を離れて理想化された宋代士大夫像 (S) の代表であるとされる︒ それゆえへ多数の先行研究が存在し︑それ (2) らの論じる内容もきわめて多岐にわたる︒ 今回問題とする﹁南宋期 (12) における模範的地方官像の形成﹂に関係しているのは'竺沙雅章・ (3) 遠藤隆俊両氏の研究である︒ 竺沙氏はその苑仲滝の伝記的著作の最. 世に多大な影響を与えた︒ 宮崎市定氏によると︑南宋の朱薫﹃五朝. 苑仲掩はあまりにも有名な﹁名臣﹂であ‑へその言行や治績は後. 職を願い出て地方官となる︒ その後へ知那州・郵州・杭州・青州を Gl 歴任し︑知頴州に着任する途上︑病を得て死去︒. 暦改革を主導するが'反対派の抵抗が激しく︑一年足らずで自ら辞. 立に伴い︑中央に復帰して参知政事(副宰相)となり︑いわゆる慶. として西夏対策に従事して大きな功績を挙げる︒. 任する︒ 李元美の独立・皇帝即位に際会Lへ陳西経略安撫招討副使. 情実人事を指摘したことでかえって﹁朋党﹂を組んで政治を乱して. の状況︑その背後にある宋代の皇帝専制国家の確立へ社会経済など (7) に言及する︒ 理想化された士大夫の中で︑とりわけ氏が注目したの は︑宋代の代表的な士大夫であ‑︑﹁後世から殆ど完全無欠の人格の ように賞揚される﹂苑仲滝であった︒. これによりへ先述の宮崎市定氏. 本稿では︑その苑仲滝が﹁理想化﹂されていく過程の一端を︑知 杭州の際の治績を中心に追究する︒ の議論の検証を図ると共に'士大夫の理想像の中でも特に地方統治 における理想像がどのように形成されるかをもとめ︑士大夫階層が. 加えて︑この間題を通し︑従来から問われてき. 地域社会といかに関わるべきかという認識の変遷についての手がか りを得ようとする︒. の略歴. た唐宋変革︑宋元明移行︑さらには南北宋交替といった︑パラダイ ︼E> ム変化の問題にも手がかりを得ることができると考えている︒. 一花伸掩(九八九〜一〇五二). 字希文へ甚文正︑蘇州呉願の人O大中祥符八年(lO1五)の進 士︒ 二歳の時に父を亡‑し︑山東の朱氏と再婚した母に従い︑名を 朱 説 と 改 め る ︒後 に 事 情 を 知 り へ 母 の も と を 去 っ て 苦 学 し て 科 挙 に. いる︒ 本研究は︑これら二つの研究を基本的に受け継ぎながら︑治. たことや義荘運営に関するへ苑仲滝の評価形成過程について述べて. 官となったが'郭皇后の廃后問題で宰相の呂夷筒と対立して地方に. 績に対する評価︑そして名地方官としての彼のイメージの形成につ. 合格し'苑姓に復帰する︒ 地方官から曇殊・王曽の知遇を得て中央. 出される︒ 知陸川・蘇州を歴任して主に治水・興学で功績を挙げる︒.

(3) いて'新たに問題提起するものである︒. ﹁苑公救賑﹂について. 苑仲滝は備蓄してあった食糧. この年(皇祐二年︹一〇五〇︺)も江祈一帯は大飢鐘に見舞われへ 餓死者が道に累々たる様だった︒. を放出し'また民間の余剰食糧を募集したがへその政策はとて. 毎日西湖のほとりで宴会を行いへ春から夏まで︹杭州城内の︺. 二. at問題の所在. 住民は家を空にして遊んでいた︒. ︹彼の政策で︺呉の人はボートレースを好み︑. 苑仲掩が知杭州であった時期は︑皇祐元⊥l年(l〇四九〜五〇). 言うには'﹁飢鐘の年は工賃が安いからへ土木工事を大々的に行. も効果的であった︒. の二年間である︒ 彼は既に中央から出て地方官めぐりを行っておりへ. うのがよろしい﹂と︒. さらに'役所の備蓄倉や宿舎を新築して︑日に千人もの役. これによって諸寺院は工事を盛んに行っ. またへ諸寺院の主僧に勧めて. 生 涯 の 黄 晩 年 で あ っ た ︒竺 沙 雅 章 氏 は 当 時 の 苑 仲 滝 を ﹁ も う 政 治 へ. た︒. は飢僅救済を省みず︑遊びほうけておりへしかも役所も民間も. ︹この様子に︺監司が弾劾して言うには'﹁杭州. しかし︑南宋末に編まれた地方志﹃成淳臨安志﹄に記載された苑. 工事ばかりして民力を消耗させてお‑ます﹂と.. 夫を動員した︒. 仲滝の治績記事は︑他の知杭州と比べて特異かつ詳細なものであり'. がそこで自ら書き記して述べるところによると︑宴遊・工事を. の熱意は薄れていたようである﹂とし︑いわば隠居所としての知事 3 時代であると見ている︒. 隠居時代という印象からは程遠い︒なおへ﹃成淳臨安志﹄は記述の質. 推進した理由は'全て余分な財を放出させて貧しい者に恵むた. 五五. この年両前の中でただ杭州だけが平穏で 又. 明代の上奏に︑この治績を. 引用して自らの主張を裏付けようとするものがい‑つか見られるこ. 的﹁救荒﹂とは違ってユニークである︒. (﹃威淳臨安志﹄巻四十六へ秩官知州草花仲掩皇祐二年) (16) 花仲滝の治績は現代の﹁土木行政﹂に似た論理であり︑当時の一般. あり︑民が逃亡しなかった︒. なるものはないtと︒. に数万人以上であ‑ 英︑ も し 飢 僅 対 策 を す る な ら こ の 方 法 よ り 大. 飲食販売や労働に従事して食を公私にあおぐ者は日. 公(苑伸掩). 量から︑南宋末当時の治績評価をうかがう上で有効な史料である︒. めである︒ 仲掩沓粟及募民存銅へ為術甚備︒. 以下へその概容を記す︒ 是年集中大磯へ穿嬉枕路︒. 又論諸寺主首 於是諸寺工作鼎興︒. 人喜競渡へ日出宴湖上へ自春至夏居民空巷出港︒ 日︑磯歳工慣至規へ可以大輿土木之役︒. 監司奏劾'杭州不他荒政︑嬉源不節︑ 公乃自候敷︑所以宴源及興道へ皆欲以沓. 是歳南新惟杭州婁然'民不流徒︒. 貿易飲食工技服力之大仰食於公私者日無慮. 新倉敷吏合︑日役千夫︒ 及公私興造傷耗民力. 有僚之財以恵貧者︒. 激高人︑荒政之施莫此為大︒. ﹁名臣﹂から﹁名地方官﹂へ.

(4) とから︑後の士大夫にとっても印象的な治績であり︑理想的治績の 3刺E ひとつとして認識されていたことがうかがえる︒. 五六. ︼閉四3叫E 文・神道碑のいずれにも知杭州の治績は記載されていない︒. 最も早. ‑この治績を記載したのはう彼より一世代あとの沈括﹃夢渓筆談﹄. 皇祐二年具申大磯︑好殖枕路o是時苑文正額漸西︑賛乗及募民. である︒. ところが︑﹃威淳臨安志﹄に先行する﹃乾道臨安志﹄にはこの治績 ︹18) が記載されていない︒ またへ同時期に記述された史書である﹃続資. 於是諸寺工作鼎興︒. 又召諸傭寺主首論之. 存鋼︑為術甚備︒ 英人喜競渡︑好為備事へ希文乃縦民競渡︒ 守日出宴於湖上へ自春至夏居民空巷出港︒. 治通鑑長編﹄へ﹃宋史全文﹄︑そしてそれらを土台にして作られた﹃宋 史﹄は︑苑伸滝の蘇州以外の地における治績を一切記載していない︒. 日へ儀歳工慣至購︑可以大輿土木之役︒ 新教倉吏合へ日役千夫.. 監司奏劾︑杭州不他荒政︑嬉源不節︑. さらに︑南宋末に編まれた辞書的書物﹃玉海﹄には︑彼が知杭州で a あったこと自体が記載されていない︒ 加えてへ苑仲滝の知杭州時代. 及公私興造傷耗民力o文正乃自候赦︑所以要港及興造︑皆欲以. 貿易飲食工技服力之人仰食於公私者日無. 是歳南新唯杭州量然︑民不流徒︒. この時苑仲滝は漸西を預かっており︑. 備蓄してあった食糧を放出し︑また民間の余剰食糧を募集した. 道に累々たる様だった︒. 皇祐二年︹1〇五〇︺'江漸 市が大飢鐘に見舞われへ餓死者が. 巳他磯へ因之以成就民利も 此先王之美津也︒. 皆文正之恵也. 歳磯誉司農之粟︑募民輿利へ近歳遂著為令O 既. 慮激高人︑荒政之施莫此為大0. 誉有俊之財以恵貧者︒. の上役(両前転運便)であった孫甫に関する記述の中には'苑仲滝. そもそ. 明代につ. が好き勝手にやろうとするのを止めようとした旨の記載があり︑知 (8) 杭州時代の苑仲滝を好意的に評価してはいない︒ では'なぜ﹃成淳臨安志﹄はこの内容を記載したのか︒ ながってい‑この治績の評価はどのように形成されたのか︒. も︑﹁名臣﹂であることと名地方官であることは同じ次元にあるもの なのか︒それらの疑問に対する回答も兼ねて︑いつから苑仲滝の知 杭州治績が記載されるようになったのかを追究し︑その記載の背景︑ およびいつから名地方官として理想化されたかを明らかにする︒. や仏教の法事を行うのを好んだが'再伸滝は民に好きなように. 呉の人はボートレース. bt﹁苑公救賑﹂とその前後. ボー‑レースをやらせた︒ そして自分自身が毎日西潮のほとり. がへその政策はとても効果的であった︒. 既に述べたようにも現在見ることができる公的な編纂史料には︑. て遊んでいる︹ようにさせた︺︒また︑諸寺院の主僧に勧めて言. で宴会を行い'春から夏まで︹杭州城内の︺住民は家を空にし. 彼が知杭州になったことだけが記され︑治績の内容は記されていな (3) い︒ また︑彼の死に際し︑彼を顕彰する目的で書かれた墓誌銘・祭. 太. 又.

(5) のがよろしい﹂と︒ これによって諸寺院は工事を盛んに行った︒. うには'﹁飢鐘の年は工賃が安いから︑土木工事を大々的に行う. 行わせる対策手法は'最近になって法制化された﹂は︑沈括が王安. 彼がその任地の多‑で業績を挙げへ知杭州以前にも江准安撫便であ (26) った際に救荒政策を行っていたことを加味するともそもそもへ北宋. の是非をめぐる論議や︑対西夏の軍功について述べるものである︒. しかし︑北宋期では苑伸滝の地方における治績への言及はごく少 ft 数であり'例外的である︒ 再伸港に言及する史料は主に彼の﹁朋党﹂. 石の新法改革のもとで活躍した人間であることも加味すると︑新法 S) の核であった青苗法との関連をうかがわせて興味深い︒. さらに︑役所の備蓄倉や楕舎を新築して︑日に千人もの役夫を 動員した︒︹この様子に︺監司が弾劾して言うには︑﹁杭州は飢. 苑仲滝がそこで自. 僅救済を省みず'遊びほうけておりへしかも役所も民間も工事 ばかりして民力を消耗させております﹂と︒ ら書き記して述べるところによると︑婁遊・工事を推進した理 由は'全て余分な財を放出させて貧しい者に恵むためである︒ 飲食販売や労働に従事して食を公私にあおぐ者は日に数万人以. 期には彼を名地方官としてとらえる考え方が存在していなかったの (㍗) ではないかと考えられる︒ 北宋の末期には彼を﹁名臣﹂とする見方. が公的なものになっていたことを考え合わせるとへこの時点ではま. 上であり'もし飢鍾対策をするならこの方法より大なるものは ないtと︒この年両新の中でただ杭州だけが平穏であり︑民が. だ﹁名臣﹂は名地方官ではなかった︒. 北宋期の﹁名臣﹂とはあ‑ま. 逃亡しなかった. これらは皆苑仲掩の恩恵である. 飢健の時に. で中央政府にて活躍した士大夫であって'地方での活躍を含みこむ. 方官. <s> 三南宋初期における苑伸掩評価〜﹁名臣﹂と名地. ものではなかったのである︒. 司農が備蓄食糧を放出し︑また民を集めて公共事業を行わせる. 対策手法は︑最近になって法制化された︒ 飢鐘を救済するのは もちろんもそれを機会に民の利益を図るとはへ先王たちの深い 恩恵さながらである︒ (﹃夢漠筆談﹄巻十一﹁官政二へ﹃成淳臨安志﹄との主な相違を 傍線で表示). 竺沙氏によると'南末期の朱薫﹃名臣言行録﹄にその名を記され. たことで苑仲滝の﹁名臣﹂の地位が定まった︒. 以上のように﹃威淳臨安志﹄とほぼ同文であ‑'その記述の祖先で あることが分かる︒ またへ﹃成淳臨安志﹄では節略された部分がある. 点で見てきたように︑﹁名臣﹂は名地方官を含むものではない︒ またへ. 五七. 朱薫というメルクマールにこだわらずtより細か‑南宋初期の言説. ただ︑既に北宋の時. こ と が わ か る ︒節 略 さ れ た 中 で も ︑ 特 に 最 後 の 部 分 に 見 え る ﹁ 飢 鐘 の時に司農(寺)が備蓄食糧を放出し︑また民を集めて公共事業を ﹁名臣﹂から﹁名地方官﹂へ.

(6) のではないかと考える︒. を見てい‑ことでも﹁名臣﹂の性質自体が定まる過程が明らかになる. 苑仲滝を引き合いに出して語っているが︑後世の注釈者によ‑その. ここでは︑南宋初期の権臣である秦櫓が'自らの﹁忠誠﹂について. 小字は注の部分). ここで注目すべきなのは︑. に︑それが決して朱薫ら﹁道学﹂の系統の評価だけに依拠するもの 自為陳州通判︑ ではないことを意味する︒ 檎之誕妄無稽︑骨此類也︒. ら国 ず﹁名臣﹂という苑仲港の評価が安定していたことを示すととも 誠立. 権力者の秦槍ですら︑無理やりウソをついてでも'苑仲海を引き合 蝣5, いにだしているということである︒ 当時も政治的な変動にもかかわ. デタラメさが暴露されてしまっている︒. 南宋初期について記した編年体史料である李心倖﹃建炎以来繋年 要録﹄には'臣下の上奏の中に'再伸掩の言行を引用するものがい (a) ‑つかある︒ 中でも興味深いのは次の文である︒. 安得有東宮官︒. 臣謹投花仲滝祥符末登第へ終真宗之世為小官︒. 惟聖主於忠義之臣輿夫失節之徒︑灼然如此︒. ‑槍日︑臣嘗聞︑苑仲掩輿其友書云'致意某官へ為渠作東官官へ 不敢通書︒ 之本也︒ 以至執政両売へ仁宗未有子︒. には︑苑伸港の文集について︑以下のようなコメントが記されてい. また︑同時代に作成された蔵書解題である晃公武﹃郡斎読書志﹄ ‑秦槍が言うには︑﹁私が聞‑ところによ‑ますと︑苑伸滝はそ. る︒. 事母至孝︒. 姑蘇之苑へ皆疎属︑置義荘以胴給之︒. めて亡‑なるまで'仁宗には子がいませんでした︒ だとしたらへ東宮官. 真宗朝期はまだ小官でした︒ 彼が陳州通判になってから︑執政に昇りつ. 自らの任務としていた︒ 母に仕えては孝養を尽くした︒. 世の中を安定させる志を持ちへ文章を作って道を広めることを. ‑︹苑仲俺は︺経術を学んでよく理解し'古人の業績を慕い︑. 天下. 猫梅尭臣嘗著碧雲蝦l. が存在するはずがありません︒秦槍のデタラメは皆このようなもので. 苑氏とは疎遠であったが'義荘を作って彼らを救済した︒. 編以談話之へ云︒. 想聞其風釆︑賢士大夫以獲登其門為恥︒. 道為任0. ‑為学明経術へ肢慕古人事業へ慨然有康済之志︑作文章尤以侍. の友に宛てた手紙の中で︑﹃思うに私は︑彼が東宮官になったか. 思いますにも聖明なる君主に. ら︑(権勢の問題になるのを恐れて)敢えて手紙をやりとりしな かったのだ﹄と言っているとか︒. 誠は国の根本でございます﹂. とって忠義の臣と失節のやからとは︑この(苑仲滝の行いの) ように明白なものなのでしょう︒. i31. はその人格を伝え聞き'賢士らはその門下にならないことを恥. と0臣下が謹んで按ずるところ︑苑仲滝は祥符の末年に進士に合格し'. (﹃建炎以来繋年要録﹄巻HEE五十四︑紹興7五年八月丙子よりも. 蘇州の. 天.

(7) とした︒ 云々︒. 狗‑梅尭臣だけが﹁碧雲蝦﹂なる書物を作って彼をそ. 海岸を見て回りへ五つの運河を開きました︒. には'‑(中略)‑景祐年間︑知蘇州であった苑仲滝は︑自ら. (﹃中興小紀﹄巻三十八へ紹興二八年九月よ‑). しった︒ (﹃郡斎読書志﹄巻四中﹁苑文正丹陽編八巻﹂). 前に述べたように︑蘇州における彼の治績は例外的に記載が多い︒. S). 再伸掩の当時における﹁名臣﹂像が描き出されているが'注意すべ. このような表現をしている︒ 濫輿江湖岳牧草︑於中最愛苑希文︒ 輿愛君︒. 希文(伸掩)だ︒. その才能には遠く及ばないが'時世を憂い君. 各地を預かる諸侯はあまたあれどもその中で最も好きなのは苑. 人才相遠心相似へ均是憂時. の都陽でその治績・旧跡をしのぶ詩文がい‑つかあるが︑その中で. "S. I 王十朋﹃梅漠集﹄には︑苑仲滝と同じ‑知能州として赴任Lt州城. である︒ 士大夫の中でも彼の治績に目をとめる者も増えつつあった︒. しかし︑上奏の中で彼の治績が述べられたのは︑この時がはじめて. 前述したように︑彼は再婚し. き点が二つある︒ひとつは︑彼について新たに﹁事母至孝﹂という ほめ言葉が加わっていることである︒. それでも﹁事母至孝﹂という言. た母親に従ったもののも後に母親と離れも苑姓に戻った後で母を迎 えるという複雑な過程を経ている︒. この部分では偽作という指摘は. 葉が加わるのは'徐々に苑仲港が伝説化して実像から離れ始めたこ (3 2) とを示すのではないか︒ 最後の一文にある﹁碧雲殿﹂は現存する書 ︑r</ 物であ‑'宮崎市定氏の指摘によ‑有名になった本であるが︑当時 から他人の偽作が指摘されていた︒. なされず'信感性を残している. その意味では'彼がまだそしられ 3 るだけの現実味も残していることを示している︒. を愛する心には共感できる︒ 先の﹃建. この時期には︑彼の治績が徐々に表面に出始めていた︒. (﹃梅渓集﹄詩文後集巻八﹁観郡守題名再書一絶﹂). 王十朋は苑仲滝の旧跡めぐりをするなかで︑このような心情を得た (節) ものと思われる︒境川という地域は早‑から﹃苑文正公文集﹄を出 蝣A. 版し'また独自に﹃苑文正公都陽遺事録﹄を出版するなども苑仲滝. この中では'﹁郡守﹂としての苑伸滝に対する敬愛が示されている︒. 炎以来繋年要録﹄に先行する編年史料である'熊克﹃中興小紀﹄の 中に︑初めて彼の地方官としての治績を取り上げた上奏が記載され 8) ている︒ ‑既而転運副使連子済︑知平江府蒋溌言︑‑(中略)‑景祐間へ 郡守苑仲掩'亦親至海浦︑後閑五河︒. 価の背景にあると思われる︒ まとめて言うならへ苑仲滝がこの時点. に対する強い執着をもっていた地域であり︑そのことが王十朋の評 ・・・しばら‑して転運副使の連子瀞へ知平江府の蒋操が言上する. 五九. ‑. ﹁名臣﹂から﹁名地方官﹂へ.

(8) り︑知杭州に関する記述はこの一件だけである︒. 六〇 で﹁名地方官﹂として境川に定着していたこと︑そして鏡州という. 苑伸滝が名地方官. 南宋後期の記述増大〜﹁名地方官﹂像の成立. 南宋後期には︑苑仲滝に限らず全体的に救荒・水利といった地方. 四. となるのにはまだ時間が必要であった︒. この書は﹁名臣﹂とさ. 地域が出版や王十朋らの記載を通して'苑仲滝のイメージを広げる 役割を果たしていたことを示している︒ そして︑朱薫ら﹃宋名臣言行録﹄に至る︒ れた人物の主要な言行を網羅するために作られ︑それ以前の文献か そこに'花仲滝の唯1の治. 統治に関する記述が増大する︒ これはへ南未の地方統治が経済的・. ら必要なものを引用して編まれている︒ 績事例として︑知杭州の事績が掲載されている︒. 冬春之交︑正宜賑他︒ 臣康之日︑是乃所以救民也︒. 骨難 公之 者恵 日也 へ︒ 歳非豊稔︑小民政轍︒ 役以困民?. 皇祐間具申大磯も好薙枕路O伸掩以為歓歳工債至購︑乃令悌庇. ‑今度は土木工事を計画して'山を削って石を取りへ冬の渇水. 莫此為大︒是歳南新惟杭民無一流徒︒. 劾之へ仲掩自陳興造之由︑正欲普有鈴之財以恵貧者︑荒政之施. 興土木之役︒ 又新倉敷吏合︒ 民之仰食於公私者日数寓人︒ 監司. 凋不敬苑仲掩之治杭乎.. ‑見今計度工役︑整山取石へ侯冬間水落之後へ方可漸次挙行.. る︒. 行おうとする公共事業の意義付けと根拠を苑仲滝の治績に求めてい. まずへ知杭州の事績を引用している文集として︑衷甫﹃蒙斎集﹄ Si を挙げる︒ 知敬川 又と 新し 教て 倉書 吏いた民政改革に関する上申文のなかで︑. 再宴 伸滝の治績はそれら秒記述に引用され︑増大していくのである︒ 太守日出. 制度的に破綻していったことが背景にあると考えられるが'7方で. 又召諸悌寺主首諭之日︑磯歳. 英人喜競渡も好為悌事︑公乃縦民競渡︒. 皇祐二年集中大磯︑好穫枕路o是時公領漸西︑誉栗及募民存飼︑ 為術甚債︒ 於湖上︑自春至夏居民空巷出港. 於是諸寺工作鼎興︒. 監司奏劾︑杭州不他荒政︑嬉源不節︑及公私興. 工慣至購︑可以大興土木之役︒ 合へ日役千夫︒. 公乃自候赦'所以宴源及輿造︑骨欲沓有徐之財以. 是歳南新惟杭州曇然'民不流徒︒. 貿易飲食工技服力之人仰食於公私者日無慮教商人︑荒. 造傷耗民力︒ 恵貧者︒ 政之施莫此為大︒. (﹃宋名臣言行録﹄前集巻七苑伸掩文正公※和訳は省略). ここでいえることはへこの﹃宋名臣言行録﹄に. この文の末尾に夢漠筆談からの引用が明記されており︑記述のルー ッは明らかである︒ おいて'明確に﹁名臣﹂と名地方官が結びついたということである︒. だが︑ここまで見てきたよ. その意味では'確かにこの﹃宋名臣言行録﹄が苑仲俺の評価につい て︑一種の画期をもたらしたと言える︒. ぅに︑南未の前半では彼の治績全般に関する言及はまだわずかであ. 奈.

(9) 次にへ董煩が編んだ﹃救荒活民書﹄にある苑仲海の治績について. これを非難する. を待って'徐々に工事を行おうとしています︒. 見てみる︒これらは元・明にかけて増加する﹁救荒マニュアル﹂C.. なぜ工 走りとも言えるが︑そこには苑仲港に関する事例があわせて三件記. 者が言うには︑﹁今年は決して豊作ではな‑︑貧しい民はあえい でいます︒冬春の端境は'救済こそ行われるべきです︒. 載され︑そのうち知杭州に関するものは次のとおりである︒. 私がこれに答えて言. 事を行って民を苦しめるのですか?﹂とO. 仲掩増. 米既輯湊へ. 仇多出構文も具述杭磯及米価所増之数︒. 価亦随減︒ ‑(中略)‑此皆前賢巳行之明験︒. 干是商貫間之へ農夕争先︑惟恐後︑且虞後者既来︒. 至百八十o衆不知所為︒. 昔苑仲掩知杭州へ二漸阻儀︑穀価方湧'卦計百二十文︒. 苑仲. 皇祐年間へ江漸l. うには︑﹁これこそが救済の方法なのだ︒ この方法は苑仲滝が知 杭州の時に行った方法以外の何者でもない︒ 帯が大飢薩に見舞われ︑餓死者が道に累々たる様だった︒ 滝は飢鐘の年に工賃がとても安いとして'寺院に土木工事を行. 昔︑再伸滝が知杭州だった時のことへ両前が飢僅に見舞われへ. わせ︑また役所の倉や宿舎を新築した︒ 民の公私に食を得たも のは日に数万人を数えた︒. 穀物の値が高騰し︑二斗で百二十文までになった︒. 監司がこれを弾劾したところ︑苑仲. 滝は自らその理由を述べ'工事を推進した理由は全て余分な財. れを加熱させて百八十文まで押し上げた︒. 人々はなすすべを知. 苑仲滝はそ. を放出させて貧しいものに恵むためであ‑︑もし飢僅対策をす. らず戸惑うばか‑であった︒ そこで掲示を多‑出して'杭州の. 飢鰭と米価について詳細に書き込ませた︒. この年両前の. 中でただ杭州だけが平穏であり︑民がだれも逃亡しなかった︒. たちがそれを聞きつけも先を争って杭州に向かいへ自らの遅れ. るならこの方法よ‑大なるものはないtとした︒. (﹃蒙斎集﹄巻二﹁知徽州奏便民五事状﹂). と後続だけを気にするほどだった︒. ︹そのため︑︺米は山と運び. 賢たちが行ったことであり'効果は明らかである︒. 六一. 仲滝に付された一種の伝説ともいえる︒. ここでは'傍線部が示すよ. 従って︑これが事実であったかは不明であるO名地方官となった苑. これまで見てきた知杭州の事績には含まれない治績の内容である︒. (﹃救荒活民書﹄巻二﹁不抑価﹂). ここにおいて︑商人. ここで引用されているのは︑おそら‑﹃宋名臣言行録﹄由来の文章. 込まれ︑価格もどんどん下がった︒ ‑(中略)‑これらは皆先. 苑仲. である︒ ただしへ比較してみると︑もとは苑仲滝の申し立ての中に あったl文が地の文の中に挿入されへ救済の事実のように扱われて いて'政策の正当性を主張する上で筆者である衰甫に都合のよいよ うに文章の順序が変えられていることに気づく(傍線部参照)0 掩の治績が事業の口実として利用された可能性を示しているといえ '3. よ,つ︒. ﹁名臣﹂から﹁名地方官﹂へ.

(10) 圧縮できたと考えられるのである︒. 六二 ぅに苑仲掩は﹁先賢﹂とされてお‑'彼の名前は説得力の強化に一. 明らかに﹁皇祐﹂の誤‑である︒. 当時の. また︑後者の冒頭﹁景祐﹂は︑. 今回使用した版本が元刻本である. ことを考えると︑初版の時点で誤植していた可能性もある︒. 役買っているのである︒ 加えて︑この本は﹁救荒マニュアル﹂であ り︑この治績は後の地方官たちが参照すべき前例としての地位を与 これらをあわせて考えると︑この時期. 出版事情もあって︑苑仲滝の治績がいつの時代の事実というよりも︑ (3) イメージとして拡散している状況が見て取れる︒. えられているともいえよう︒ に花仲滝は名地方官のイメージを確立していたといえる︒. 最後にも﹃成淳臨安志﹄の撰者である潜説友が'苑伸滝の記述を書. 潜説友は﹃威淳臨安志﹄を. 救荒や水利といった目的をもたない︑知識獲得のためのマニュア. く上で有していた背景を整理してみる︒. 編んだ後の成淳70年( 1七四)'知平江府(蘇州)として︑苑文. 南未来の黄震﹃古. 今紀要﹄︑及び視穆﹃古今亭文類衆﹄をあわせて見てみる︒. ル本でも︑苑仲滝の治績は確実に浸透していた︒. 杭州歳磯へ競渡興土木︒. がある︒. 道徳文章へ功名事業︑載在囲史︒. 朝の第一即 流ち の︑ 人物である︒. ‑. 没後二百年に近いがへその恩を受け. 道徳文章︑功名事業などは国史に記載されている︒ 真にわが王. 後近二百年へ凡公過化之地︑無不戸而紀之︒. 賓為我朝第一流人物︒. た文章には'これまで見てきた文章との関連性をうかがわせる部分. 友の行動はと‑たてて特別なものではないと言えるが︑その具申し. 復興した郡学や﹁花氏義荘﹂などでは既に紀られていたので︑潜説. あったとされるo他州では既に洞堂が存在し︑蘇州内でも苑伸掩が. 正公両の建設を具申し︑認められて建設を行った︒ その具申に対す ra る回答(省節)へ及び李祁﹁文正書院記﹂を参照すると'蘇州は花仲 (S) 滝のいわば﹁望んだ故郷﹂であるにもかかわらずへ﹁凋未有専詞﹂で. 杭州が飢鐘の時︑ボー‑レースをし土木工事を行った︒ (﹃古今紀要﹄巻十人 苑伸掩). 貿易飲食工技服力之人仰食於公私者. 公乃自為保敷︑所以宴涯及興造︑. 景祐二年呉中大磯︑苑仲掩鎮漸西︑費栗募民給餌へ為術甚債︒ 監司奏劾'公於杭州不他荒︒ 皆欲以有鈴之財以意貧者︒ 日無慮寓数へ荒政之施莫此為大︒ (﹃古今亭文類衆﹄前集巻五︑﹁天道部荒歳﹂中﹁苑公振飢﹂ ※和訳は省略) 程度に差があるとはいえへ共に﹃夢漠筆談﹄﹃宋名臣言行録﹄系の内 特に前者の短さは注目に値する︒. た地で紀らぬものはない︒. 容を節略して掲載している︒ 既にこの治績の内容が一般に胎失していたため︑このような短さに. 身.

(11) ここで注目したいのは'彼の使った﹁我朝第一流人物﹂という言葉. り). (﹁建置苑文正公両生記事﹂︑鑓穀撰﹃呉都文粋続集﹄巻十二よ. 後期の苑仲滝と知杭州のイメージが作り上げられてい‑過程が示さ. された︒ そこには'﹁名臣﹂が﹁名地方官﹂となってい‑過程︑南宋. これらの影響のもとで'﹃成淳臨安志﹄の苑仲掩の治績記述は形成. である︒. 杭. さ. れ. 滝. る. は. ま. わ. も. で. れ. っ. に. ︑. ぱ. '. て. 地. ら. 次. 記そ 載こ さで れは て︑ き名 た地 か方 を官 見. 州. 成. 仲. 扱. れ. 功. 結. 知. で. 形. 苑. て. さ. の. 小. れていたのである︒. である︒ 彼を宋朝随一の人物とするのはう嘗て朱薫が用いた評価で ある︒ このことは'潜説友が﹃宋名臣言行録﹄の評価基準を受け入 (S) れていたことを容易に想像させる︒ つまり'﹃威淳臨安志﹄の記載は' ﹃宋名臣言行録﹄の記載を根拠としている︒ このことは'先行研究が. が. 形. が. ︒. ︑. し. 価. 争. し. ﹁道学﹂の影 滝. な. 像. た. て. と. 評. 戦. ︒. と. と. 挙げた朱薫ら﹁道学﹂の影響力を実証するものである︒. 伸. う. 掩. っ. い. 者. て つ. 夏. る. ﹂. 官. なっていくのである︒. それはへ. そもそも︑﹃成淳臨安志﹄や﹃宋名臣言行録﹄がなぜこの知杭州の 治績を取り上げるのかtということを考慮せねばならない︒. の. 宋. 花. よ. 仲. な. お. 労. し. 西. あ. 臣. 方. 朋. 南. へ. の. 苑. に. に. 功. と. 対. で. 名. 地. 十. ら. 上. ど. の. か. 期. の. ﹂. ﹁. の. ﹁. り. か. 以. が. て. ら. 宋. 争. は. た. の. は. 時 績. し. 明. 北. 戦. 臣. っ. 港. や. た. 響力により︑苑伸滝の記述は人口に胎灸Lt拡散していったのであ. と. が. へ. 夏. 名. 滝. れ そで のあ こっ とた は︒ '. 西. ﹁. 仲. か. 仲. ︑. っ. sai. と. ず. 対. へ. 苑. な. 苑. の. あ. またへ同じ‑注目すべきなのは︑蘇州が﹁凋末有専詞﹂とされて. ま. は. L. の. は. ︑. の. で. いることである︒ つま‑︑他所には既に苑仲滝の嗣廟ができていた 9) ことを表している︒ 地域は中央の﹁名臣﹂である苑仲滝と自らの関. し. 脱. 期. で. は. も. 係を強調することでへその権威との一体化を図ったのだが︑それは. ま. ら. 宋. 官. ろ. た. 王. よ. ‑. 記. 朋. は. か. 北. 方. ご. い. る. に. ﹁. 者. 価. '. 地. め. て. け. ち. が 評. ‑. 名. 初. し. お. た. 彼. ま. ︑. の. 立. に. 夫. に. て. 宋. 確. れ しな かか しっ 'た 鏡︒ 州. 大. 期. 同時に'地方官としての苑仲滝の強調となり︑やがてそれが前述の. 南. て. さ. 士. 末. マニュアル本たちに記載されるような'独立した﹁名地方官像﹂に. え. に. の. 宋. この二つの書物がともにへ﹃蒙斎集﹄の事例と同じように'救荒の対. 題. 北. 策を必要とし︑その前例を求める環境にあったからに他ならない︒. 域. に. 地. う. に. よ. 々. る. 三. 徐. この要素によって︑後の明代にまで引用される素地が形作られたの. 六. も. ﹁名臣﹂から﹁名地方官﹂へ.

(12) が記述上に広が‑はじめた︒ 知杭州の治績が表面化した画期として. 六四. る︒ なぜ北宋期と南宋期で記述の違いが生まれるのかということに. っいては︑前述のように︑地域の有能な地方官に対する希求とそれ. に伴う士大夫階層の地方統治に対する認識の強化︑さらには中央政. は'やはり朱薫等﹃宋名臣言行録﹄が挙げられる︒. 府と地域の接近︑などの理由が考えられるが'詳しくは今後の課題. 今回は提示するだ. (3)この議論は従来︑宮崎市走氏に始まりへ佐竹靖彦氏の一連の研究など に代表される﹁郷村支配﹂という視点によ‑進められた︒ 郷村の搾取に 立脚する政府という関係を軸にも郷村‑政府の対立間をつなぐ存在とし. (2)伊原弘﹁宋代の士大夫覚え書﹂(宋代史研究会編﹃宋代の社会と宗教﹄ 汲古書院へ一九九五)を先駆とLt岡元司﹁南宋期温州の地方行政をめ ぐる人的結合﹂(﹃史学研究(広島大学)﹄二一二号︑一九九六)'小島毅 ﹃中国近世における礼の言説﹄(東京大学出版会tt九九六),須江隆 ﹁唐宋期における社会構造の変質過程‑詞廟制の推移を中心として﹂ (﹃東洋史論集(東北大学)﹂九号へ二〇〇三)などがある︒. T)主に'第四集﹃末代の知識人﹄(汲古書院二九九三)以降の論文集 を指す︒. 注. けにとどめ︑稿を改めて検討する事にする︒. の地方官との比較を経ないと確かにはいえない︒. 係を築いてい‑のではないか︑ということでもあるが︑これはも他. 価と'地域に根付‑﹁名地方官﹂という評価が︑徐々に相補的な関. 一歩進めていえば︑中央における﹁名臣﹂という評. が挙げられる︒. なかに﹁名地方官﹂の側面も含みえたためではないかtということ. またへ苑仲滝がその後も﹁名臣﹂た‑えたのは︑﹁名臣﹂の評価の. となる︒. 南宋の後半に入‑︑行政(水利・救荒政策)の根拠として苑仲滝. ﹃威淳臨安志﹄に記載された'冒頭の苑仲滝. の施策が引用されもまた出版文化の拡大とあいまって'彼の治績が 人口に胎失していった︒ の治績記述はtl面では﹃宋名臣言行録﹄の影響力を'もう1面で は﹁名地方官﹂・再伸滝によせられた敬愛を︑そしてさらに他方では︑. 南宋期. 救荒政策の根拠として引用される事例としての有効怪を示している のである︒ その意味で'南宋末における蒋仲掩像が'名臣から名地 方官に広がっていったことを暗示しているといえるのである︒ これらの結果から推定できるのは'南宋期に﹁名地方官像﹂とい ぅ新たな士大夫のイメージが形成されたということである︒ に苑仲滝が﹁名地方官﹂になったのは︑地方が有能な地方官を欲し たことの表れであ‑︑苑伸俺は中央の﹁名臣﹂として人々に知れ渡 っていたからこそ︑﹁名地方官﹂にされやすかった︒ そのことは'士 大夫階層のあいだに︑地方統治に対する認識が強化されたこと,及. まず︑南宋の. び彼らの中に新たな模範としての﹁名地方官像﹂が出来上がったこ とを示すのである︒. 最後に'展望を兼ねて︑い‑つかの推測を述べる︒. 開始より少し遅れて記述が変化し始めることから'認識上の枠組変 化をそのあたりに設定できるのではないかもということが挙げられ.

(13) ての背吏に着目し︑彼らに依存する地方官ないし地方統治の限界を描き 出したO宮崎市走﹁背吏の陪備を中心として﹂(﹃史林﹄三〇巻1号tI. の南末期へといった視座への疑問が問いかけられている︒. 方史″研究方法﹂へ﹃唐研究﹂ 巻へ北京大学出版社へ二〇〇五)をは じめとして'中央と地方の対立分離構造へあるいはそのきっかけとして. 洋学報﹄八七巻言下へ二〇〇五)へ劉馨曙﹁従墓誌銘談末代地方官的赴. (前掲﹃宋元時代史の基本問題﹄)︑今泉牧子﹁宋代県令の一側面﹂(﹃東. (4)近藤1成﹁末代士大夫と社会‑黄珠における礼の世界と判語の世界﹂. か編﹃宋元時代史の基本問題﹄汲古書院︑t九九六)を参照.. 一九八八)の説明へ及び赤城隆治﹁近世地方政治の諸相﹂(佐竹靖彦ほ. ォ)近年のものでは'高橋稔﹁﹁岳楊模記﹂中の侍奇鮭について﹂(﹃東方. ( 01 )前掲宮崎市定﹁末代の士風﹂を参照︒. (﹃中国の思想家下巻﹄'勤草書房へ一九六三)を参照した︒. 小林義贋氏の書評(﹃東海史学﹄三1号へ一九九六)︑白石義夫﹁苑仲掩﹂. 1九七九)︑竺沙雅章﹃苑仲掩﹄(白帝社へ1九九五)及びそれに対する. (9)この要約は'昌彼得ほか編﹃宋人伝記資料索引﹂(鼎文書局︹台北︺'. 地域に定着するのかへという問題を通じへ中央と地方の関係の一端を明 らかにしようと試みる︒. 意識した上で︑中央から派遣される地方官がなぜ﹁名地方官像﹂として. 本論はそれを. 九四五)及び﹁宋代州県制度の由来とその特色﹂(﹃史林﹄三六巻二号へ 一九五三)へ佐竹靖彦﹁﹃作邑自蔵﹄の研究﹂(﹃人文学報(都立大)﹄二 三八号︑l九九三)などを参照︒ なおへ﹁郷村支配﹂についてはへ小林. 任﹂(﹃東呉歴史学報﹄一二期︑二〇〇四)など︒. 学﹄二二号'二〇〇六)︑凌申﹁苑公堤考略﹂(﹃塩城師範学院学報﹄. 義旗﹁宋代の諭俗文﹂(末代史研究会編﹃宋代の政治と社会﹄へ汲古書院︑. (5)この考え方は'渡辺浩氏が﹃東アジアの王権と思想﹄(東京大学出版. 学報﹂第二九巻l期'l九九九)などがある︒. た程度﹂に扱われ(王安石自身はそれほど非難せず)︑菅宗初期=宣仁. なおへその内容を その( た1)前掲竺沙雅章﹃苑仲掩﹄二hi‑二五l頁を参照. 要約すれば'花仲滝は神宗の批判により︑神宗朝期は﹁並より少し優れ. 中国の伝統社会と家族﹂へ汲古書院へ一九九三)参照︒. f" c‑ s1 i/ ¥前掲竺沙雅章﹃花仲掩﹄を参照︒ I (3)遠藤隆俊﹁宋代蘇州の苑文正公詞について﹂(﹃柳田節子先生古稀記念. 苑仲掩研究論著目録﹂を参照のこと︒. 社︑二〇〇二)﹁附録l五苑仲掩全集主要参考書目﹂及び﹁附録1六. 研究の蓄積については'李勇先ほか校点﹃苑仲掩全集﹄(四川大学出版. その他へ苑仲掩に関する. 第二一巻三期︑二〇〇一)︑楊潤生﹁苑仲掩与宋学之勃興﹂(﹃漸江大学. 会︑一九九七)にて説くところの﹁御威光﹂(記述・景観・儀礼などに より認識上に重層的に構築された階層意識)による支配へ中砂明徳氏の ﹁士大夫のノルムの形成‑南宋時代﹂(﹃東洋史研究﹂五四巻三号︑一九 九五)'同﹃江南﹄(講談社︑二〇〇二)にて説‑﹁マニュアル文化﹂ (士大夫がその世界認識を確立する上で︑科挙の受験参考書などのマニ ュアル的な書物に大き‑影響されていたことの表現)の議論に影響を受 けている︒ (6)この部分など'論文の中で引用された書名についてはへ引用元の表記 を用いる︒ また︑分析に使用した史料はへその史科名を用いる︒. め︑実態として同じ史料が別表記になっている場合がある(例﹃五朝. 太后聴政期は宣仁太后が仲掩の子純仁を嫌ったために評価が上がらず'. 曹宗後期の新法党政権期に初めて﹁名臣﹂とされへ徽宗期に詔勅・追封. 名臣言行録﹄と﹃宋名臣言行録﹄)が'ご了解を頂きたい︒ (7)宮崎市走﹁宋代の士風﹂(﹃史学雑誌﹄六二編二号へ一九五三)を参 ガロ=0 ! ==fr. 的認識となったtとしている︒. で公的確認を得て'その後南宋の朱薫﹃名臣言行録﹄で﹁名臣﹂が1般. (8)この問題に関しては'近年'包偉民氏のRH .ymes氏に対する批判的な 書評(﹁精英刑〝地方化〃了鴫? ﹁試論韓明士︽政治家輿紳士︾輿"也. ﹁名臣﹂から﹁名地方官﹂ へ.

(14) (LO)前掲些沙雅章﹃苑仲掩﹄二1七‑二百二十l頁を参照︒ (S)そのため'この苑仲滝の治績は現代経済・政治関係の記事によく引用 されている. 1例を挙げるなら︑栄慶・梅郷﹁大輿消費済荒政厚価誘 貿平娘価﹂(﹃企業文化﹄一二'二〇〇二)へ劉軍英﹁救災与発展⁚苑仲 滝へ劉貴救災思想的現実意義﹂(﹃河南財政税務高等専科学校学報﹄第一 三巻1期︑1九九九)などである. 過去の事例としてわざわざ罷仲滝の 治績まで遡って引用することからもへこの治績が特異であることがうか がえる︒ (5)胡世事﹁陳言治河通運以済囲儲而救民生疏﹂(﹃胡端敏奏議﹄巻七)︑ 周起元﹁壷興水利以備瀦洩以救歳荒以裕囲用事疏﹂(﹃周忠慰奏疏﹄巻下 ﹁撫呉奏疏﹂)など︒ またへ張囲維撰﹃呉中水利全書﹄の中には'﹁倣宋 臣苑仲掩守杭故事﹂(﹁海瑞請溶呉船江疏﹂︑巻十四﹁﹁倣宋臣再伸掩以 官糧募飢民修水利之法﹂(﹁呂光諭輿修水利疏﹂へ巻十四)など'彼をモ デルにした救荒と水利の両立を目指す上奏が見られる︒ (ほ)﹃乾道臨安志﹄では'﹁内剛外和へ所至有恩里 ︒巷之人骨知其名字・﹂ (巻三)という'よ‑抽象的な賞賛に留まっている︒ (2)﹃玉海﹄の﹁州鋲﹂(巻十九)の項目では'蘇州(平江)・鎮江・紹興 に苑仲滝の名前の記載があるが'臨安にはない︒ :ァァ)﹁苑仲掩知杭州へ多便宜行事甫 ︒為両漸輯運使'一切縄之以法︒﹂ (﹃隆平集﹄巻十四へ同様の記載が﹃東都事略﹂巻六十四や﹃宋史﹄巻二 百九十五などにもあり)0 前掲竺沙書でもこの記載を重‑見てへ熱意を. 失っていたとする評価の根拠としている︒ なおへその他の知杭州時代の 行状を記した記載としては'明堂の祭配に関して奏上し︑李親とその ﹁明重囲﹂を推薦したこと(﹃九朝編年備要﹄巻十四'﹃太平治逆統類﹄ 巻七へ﹃続資治通鑑長編﹄巻百六十九)へ武官・知解・処士らとの交流に 関するもの(﹃清夜録﹄︑﹃元豊類稿﹄︑﹃西湖志録﹄など)へそして前掲遠 藤論文が詳述している義荘設立に関するものである︒ (a)富弼﹁苑文正公仲掩墓誌銘﹂(杜大珪編﹃名臣碑倖碗攻之集﹂中巻十. 六六. 二)を参照︒. /C cM s) )王 ¥安石﹁祭苑頴州文﹂(﹃臨川先生文集﹄巻八十五)を参な ¥ 照お ︒︑そ の他祭文を書いたのは富弼・欧陽傭・事案・張方平・司馬光・蘇項と子. である苑純仁である︒ それらについてはへ前掲﹃苑仲掩全集﹄の﹁附録 九歴代祭祝賛文﹂を参照︒. tc em n) ¥欧陽傭﹁資政殿学士戸部侍郎文正苑公神道碑銘﹂(﹃欧陽修全集﹄巻二 I 二中華書局へ二〇〇一)0. (a)梅原郁氏によると︑司農寺の備蓄とは常平倉のことだという︒ この ﹁法制化﹂が具体的に何を指すかについては未詳だが'氏のいうように 青苗法と関連するなら︑徐松編﹃宋会要輯稿﹂食貨五十三﹁常平倉﹂配⁝ 寧元年九月十四日の記事前後を指すかと思われる︒ 梅原郁訳注﹃夢渓筆 談﹄(平凡社'7九七九)巻十1﹁官政二二〇四の記事を参照︒. (S)ほかに見られるものとしては'単鍔﹃呉中水利書﹄に見える蘇州の治 水に関する記事(巻一)がある︒. (ES)彰有川﹃太平治連続類﹄巻六﹁仁宗聖政﹂明道二年の項tなどに記載. がある︒ なおへこの時彼が行った'飢儀の民の食べる烏昧革という野草 を朝廷に献上して対策を迫った逸話も'その後多‑の記事に引用されて いる︒. (S3)その傍証となるものに'北宋末に書かれた張唐英﹁苑文正公俸﹂(博 増湘纂輯﹃萄文輯存﹄巻十三)があるOその記述内容は対西夏戦争が七 割︑郭皇后廃后反対が二割となっている︒ 当時の彼に対する評価の尺度 をうかがい知ることができるといえよう︒. (88)ここでは便宜的に初期(二二七〜九〇へ孝宗朝まで)と後期(二 九一〜一二七五︑元への降伏まで)を分けているが'厳密な分岐という わけではない︒ 実際︑後述の王十朋や朱薫のように︑すでに淳無年間 (二七四〜九〇)ぐらいから変化は現れてお‑︑それが明確になって いったという連続性が見て取れるのである0. (8)下に挙げた他にも︑張俊(巻八十二へ紹輿四年二月丁卯I対西夏関.

(15) (8)秦槍が苑伸海を賞賛していたことは'彼が箔仲掩の手蹟に朕を付して いることからも分かる︒ 秦槍﹁政文正公手書伯夷讃墨蹟﹂(前掲﹃苑仲. 連)や凌景夏(巻一八九へ紹輿三一年三月甲成‑情実人事批判関連)ら が引用を行っている︒. (S)ちなみにへ衰甫は都陽で苑仲海と顔真卿を紀る洞の記を書いているが'. 郡守易替通考﹄(巴萄書社︑二〇〇l)参照︒. 集﹄所収)をそれぞれ参照︒ を諌えている︒. (3)今回︑元刻本のほか明刊本を二種見たが'いずれも﹁景祐﹂は修正さ れないままだった︒. 滝の別の地域の救荒について言及があることから(﹃繋斎集﹄巻1﹁輪 対陳人君宜達民隠節子﹂)も衰甫は父親から苑伸滝について詳しく聞いて いた可能性がある0. ﹁香陽顔苑二公詞記﹂)0表嬰は知杭州には言及していないもののへ苑仲. そこで父の衰嬰が彼らを尊敬していたことを挙げる(﹃蒙斎集﹄巻十三. (8)嘉定一六〜一七年︹一二二三〜二四︺にかけて赴任︒李之亮﹃宋両江. 共にその中で'﹁名太守﹂であった苑仲滝. 掩全集﹄所収)参照︒ (31)孫猛校証﹃郡斎読書志校証﹄(上海古籍出版社へ一九九〇)によると︑ ﹃郡斎読書志﹂における衷・衝の二つの版本系統のうち︑衝本では﹁氾 文正公文集二十巻別集四巻﹂という表題となっているが'別集は晃公武 の死後に作成されたものでも後世の加筆とのことである︒ そこでへ衰本 の表題のほうを採用した︒ なおへ両版本では衰本に苑伸滝の略歴が付さ れるなど︑項目内の差異があるものの今回取‑上げた部分は共通してい る︒. (42)後述の具申文と同じ‑︑銭穀撰﹃呉都文粋続集﹄巻十二より︒. 前. (9)苑仲滝は先に述べたように'もともと河南で生まれへ山東で育った0. そのため︑蘇州にいた父方の一族とは最後まで疎遠なままであった︒. (En前の注で述べたようにも東本にあった苑仲港の複雑な略歴は衝本には な‑'その結果﹁事母至孝﹂だけが記載に残る︒ (33)前掲宮崎市定﹁宋代の士風﹂を参照︒. 掲の遠藤論文によれば'彼の義荘設立自体が'疎遠な関係を修復する一 種の﹁手土産﹂としての側面も持っているという︒. 徳軍・他州・鏡州・高郵軍(いずれも赴任地)に建てられた︒ 両廟建設 理由の違いが見えへここでも北末期と南末期の苑仲滝に対する評価基準 のズレを垣間見ることができる︒ 前掲﹃苑伸掩全集﹄参照︒. (子の苑純仁が赴任した縁︑家安国﹁苑文正公嗣堂記﹂参照)0 その後へ 北宋期には河南府(故郷)・慶州(対西夏の軍功)・長山願(母の再婚 先で幼少時の生活場所)と'主に華北に建てられた︒ 南宋期に人と広. 記録にある最初の詞堂は元祐三年(1〇八八)︑四川・成都であった. 而稀其傑出之才︒﹂と述べている︒ 潜説友﹁呉郡建洞奉安文正公講義﹂ (前掲﹃呉都文粋続集﹄所収)を参照︒. (3)このことは'同じ嗣廟を説明した彼の文章からも裏付けられる︒ そこ でははっきりと︑﹁考亭朱子論本朝人物︑戎歎其初'或議其小'濁於公. (3)これ以外にも'菓適が苑伸滝についてへ議論ばか‑して朝廷を空転さ せた責任があるとして批判している︒ 羅大経﹃鶴林玉露﹄巻二﹁論事住 専﹂に記載された菓適の発言を参照︒ (ffi)なおへ同じ文が﹃建炎以来繋年要録﹄巻百八十へ紹輿二八年九月初に 記載されている︒ (<﹂)¥苑仲滝は前述の﹁百官図﹂事件による左遷で知能州となり︑景祐三年 二〇三六︺の一年間にわた‑務めた︒ なおへ王十朋自身の赴任は隆興 二〜乾道元年︹二六四〜六五︺︒ 呉洪津ほか編﹃宋人年譜叢刊﹂(四川 大学出版社へ二〇〇三)中の徐桐文﹁梅渓王忠文公年譜﹂を参照︒ (3)彼が建てた洞廟の記にその過程・心情は記されている︒ 王十朋﹁顔苑 洞堂記﹂(﹃王十朋全集﹄へ上海古籍出版社へ一九九八に所収)を参照︒ (顎H文集についてはへ愈瑚﹁乾道鏡州刊苑文正公文集政﹂を'﹃遺草録﹄ については陳始範﹁苑文正公都陽遺事録序﹂(いずれも前掲﹃苑仲掩全. ﹁名臣﹂から﹁名地方官﹂ へ.

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