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(1)

アフ リカにお ける内紛 についての考察 一―南 ア フ リカ とスー ダンの事例 か ら一一

学籍 番 号

:12032083

氏名 :清 次

 

繭子

指 導教員 :立 木

 

茂雄

(2)

は じめに

仮説

南アフ リカ共和 国

2。

南 アフ リカ共和国

(1) 

国の概要

(2) 

国の経済

2.2 

南 アフ リカ共和国の歴 史

(1) 15世 紀以前

(2) 

オ ランダか らの入植者

(3) 

イ ギ リス とア フ リカーナー

(4) 

南ア フ リカ連邦

(5) 

アパル トヘイ ト

2。

現在

スー ダン

3.1 

スー ダン

(1) 

国の概要

(2) 

国の経済

3.2 

スー ダンの歴史

(1) 19世 紀以前

(2)植

民地時代

(3) 

第一次内戦

(4) 

第二次 内戦 と現在

考察

6  

3'わ

りに

参考文献・ 参考

URL

(3)

は じめ に

国際化社会 といわれ る今 日では

,政

治や経済 をは じめ

,あ

りとあ らゆるものが国 と国 と の関係 な しには成 り立たな くなってお り

,一

国の動 向に他 国が影響 を受 けやす くなつて き たのである。 よつて

,一

国の安定 と発展 には他 国の安 定 と発展 が不可欠 であるが

,世

界 で はその安定 と発展 を阻害す る紛争 が後 を絶 たない

.

世界 の

22.2%の

面積 を占めるアフ リカで も

,い

くつかの内戦や紛争 が解決 にむかつてい る中

,い

まだ解決 の糸 目さえ見つか らない紛争 も多 く

,平

和 で民主的 な国づ く りは難航 し てい るのが現状である。内戦や紛争 によつて土地 を追われ た人々は難民・避難民 となるが

,

その数 はアフ リカ全体で

486万

人以上 にな る。ア フ リカは世界の人 口の

14%(9億500万

),国

連加盟 国の

27.7%(53カ

)を

占め

,人

口増加 率か ら見て も巨大市場 にな りうる 国々であるが

,飢

餓 率が

35%を

越 える国が 18カ 国

,1日 1ド

ル未満 で生活す る人々が全人 口の

46%に

のぼるな ど

,深

刻 な貧 困問題 を抱 える国々である。 しか しそ うした中で も

,国

内にお ける争 い を収 め

,経

済成長 と民主化 が進 んでい る国 もあ り

,南

アフ リカ共和国がそ の一例である。またスー ダンは

2005年

1月 に南北の和平合意が成立 し ,20年 以上 にお よ ぶ 内戦が終結す るかに見 えたが

,ダ

ル フール地方 にお ける北部 と南部住民の対立の激化 は 続 き ,全 面的な治安 の向上 には至 っていない。ではなぜ南 アフ リカ共和国では内戦 を終結 させ

,現

在 まで経済発展 と民主化 を進 めて こ られ たのか

,な

ぜ 同 じこ とがスー ダンでは達 成 できていないのかを

,こ

2国

の比較 によつて考察 してい きたい。

仮 説

アフ リカ各国だ けでな く

,先

進 諸国や 国連機 関な どの伸介

,協

力 に もかかわ らず

,な

多 くのア フ リカ諸 国で未 だ内紛 が絶 えないのか。争い の原 因は人種

,宗

教 の違 いに よる も の とい う説 をよく耳にす るが

,そ

れ は本 当だろ うか。本 当であれ ば

,内

紛 の原 因がす で に わかってい るのに

,な

ぜ解決 できないのか

.そ

こで

,い

くつか仮説 を考 えてみた

.ま

ず一 つ 目は ,「 先進諸国や 国連機 関の内紛への介入が効果 をあげていない

,ま

たは介入 によつて 事態が余計 に悪化 し

,そ

のために今 までに終結 しえた ものが未 だに続 いてい る

Jと

い うも の。二つ 目の仮説 は 「人種や宗教 の違いによる争 い とい うのは表面的 な ものであ り

,そ

根本的な原 因は別 の ものである」 とい うもので ある。 この二つ の仮説 を検証す るために南

(4)

ア フ リカ共和国 とスー ダンの歴史的背景や文化等 を比較分析 し

,ア

フ リカにおいて内紛 を 解決 し

,経

済的発展 と政治的安定の鍵 とな るものを検証 してい く。

南 ア フ リカ 共 和 国

2.1 

南 ア フ リカ共和国

(1) 

国の概要

南ア フ リカ共和 国はアフ リカ大陸の最南端 に位置 し

,そ

の面積 は

122万 kぽ

で 日本 の 国土の

3倍

以上であるが

,2003年

の人 口は

4,483万

人 で

日本 の

3分

1程

度 だ。首都 はプ レ トリアであ る。南 ア フ リカ共和 国内ではキ リス ト教が最 も広 く信仰 され てい るが

,

その他 に ヒンズー教やイス ラム教 の教徒 もい る。

7ア

リカ

地図

 2.1‐

南部 ア フ リカ地図

(出 典

)佐

藤誠編

,1998,「

南 ア フ

2.1‐

南 アフ リ リカの政治経済学一一 ポス ト・

力共和国

マ ンデ ラとグローバ ライ

(5)

ゼー シ ョン

J

南 アフ リカ共和 国は様 々な肌 の色 をもつ国民 を有す こ とか ら 「虹 の国」 と呼ばれ

,多

種・ 多民族国家である。大まかに区分す る と黒人が全体 の 79%,自 人が

9.6%,カ

ラー ド

(混 血

)が 8。9%,ア

ジア系が

2.5%を

占めてい るが

,実

際 にはそれ ら

4つ

の区分の中で も

細 か く分 かれ る。黒人 は

9つ

の民族 が存在 し

,そ

れぞれ ズールー人

,コ

ーサ人

,ペ

デ イ人

,

ソ ト人

,ツ

フナ人

,ツ

オ ンガ人

,ス

フジ人

,ン

デベ レ人 ,ヴ エンダ人 と呼ばれ る。 自人 は かつて移 民 としてや つて きたオ ランダ系 白人 とイ ギ リス系 白人 に大別 され

,オ

ランダ系 は

ア フ リカーナー と言 う

.ま

,自

人 の中には ドイ ツ系や フランスのユ グノー教徒 を祖 先 に 持 つ人 々 もい る。峯陽一 による と

,カ

ラー ドの起源 は植 民地時代 に 自人男性 と彼 らが使役 していた南 ア フ リカ原住 民の コイ コイ人や奴隷 の女性 た ち との間に生 まれ た子 どもで ある が

,カ

ラー ドとア フ リカーナー の違い は

,ど

ち らもア フ リカー ンス語 を母 国語 とし

,容

姿

も区別 がつかない場合 があるため

,明

確 ではない。

公用語 は先住民族 の言語 であるズールー語

,コ

ーサ語

,ペ

デ イ語

,ソ

ト語

,ツ

フナ語

,

ツォンガ語

,ス

ワチ語

,ヌ

デベ レ語 ,ヴ ェンダ語 と

,ア

フ リカー ンス語

,英

,と

実 に計

11言

語 に上 る

.ア

フ リカーンス語 は先住民族の言語 とオ ランダ語 が合わ さつて形成 された ものあ り

,上

述 の よ うに主 にア フ リカーナー とカ ラー ドが使用す る言語 である。

(2)国

の経済

南ア フ リカ共和 国の経済発展の大部分は

,そ

の豊富な天然資源 によつて支 え られてきた。

その主な鉱産物 を挙 げる と

,金,ダ

イヤモ ン ド

,白

金族

(プ

ラチナ等

),銀,銅,石

,マ

ンガン

,ニ

ッケル

,鉄

鉱石

,ク

ロームな どである。白金族やマ ンガ ンな どは世界埋蔵量が

1

位 で

,金

は世界 の生産量 の

4分

1を

占めてお り

,輸

出による収入 の実 に

4割

弱 が鉱業 に

よるものである。

南 ア フ リカ共和 国の も う一つの主要産業 は農 業 である。西 には大西洋

,東

にはイ ン ド洋

2つ

の海 にはさまれ

,内

陸の標 高が高いため

,他

のア フ リカ諸国ほ ど気温の上昇 はな く

,

比較的穏や かな気候 に恵 まれ てい る。そのため

,南

ア フ リカ共和 国では昔か ら農業が盛 ん に行 われ

,特

にフイ ンは有名 である。

2004年

の南アフ リカ共和国にお ける国民総生産は

1,638億

ドル で

,経

済成長率 は

3。7%

であった

.こ

れ はア フ リカ諸国の中で も群 を抜 いてい るが

,2005年

の失業率は

26.7%に

上 り

,犯

罪が後 を絶たず

,治

安 の悪化 につながつてい る。

(6)

2.2 

南 ア フ リカ共和国の歴史

(1) 15世

紀以前

現在 の南 アフ リカ共和 国の地域 には も ともとサ ン人 とコイ コイ人が

,紀

元前か ら住 んで

い た

.サ

ン人 は数十人か らなる集 団で狩猟 と植 物採集 によつて生活 を営み

,食

料 と水 の確

保 のために各地 を移動 しなが ら暮 らしていた。北 に羊や牛 の牧 畜 と狩猟採集 を どち らも行 う人 々が現れ

,そ

れ が次第 に南方 に も伝播 した。その牧畜民が コイ コイ人 であつた

.サ

人 とコイ コイ人 は風貌 が似 ていたため

,両

者 をま とめて コイサ ン人 と呼ぶ よ うになつた。

移動生活 に適 さないため

,サ

ン人 は必要以上の財 を蓄 えることはなかったが

,コ

イ コイ人 に とつては家畜 とい う財産が存在 したため

,や

がて貧 富の差が見 られ るよ うになった。南 ア フ リカの先住民 には さらに

,コ

イサ ン人 よ りも人数 の多いバ ン トゥー人がいた

.彼

らは モ ロコシや かばちやな どの栽培や牛の飼 育 によつて生活 していた。 コイサ ン人 とは違 い

,

農耕 を生活 の基盤 としていたため

,バ

ン トゥー人 は定住 して集 落 を形成 し

,彼

らに とつて

一番大切 な財産 は牛であつた。

(2)オ

ランダか らの入植 者

南ア フ リカ を囲む大西洋 にはベ ング ラ海流 が

,イ

ン ド洋 にはモザ ン ビー ク海流 が流れ て いたため

,15世

紀末 まで南ア フ リカの外 国 との接点はほ とん どなかつた

,と

峯 (1996)は 指 摘 してい る。 しか し

17世

紀 に入 る と

,オ

ランダ東イ ン ド会社が東方貿易 に向か う船 の補給 基地 として

,現

在 のケープ タウンに 目をつ けたのである。そ して

,1652年

にはオ ランダ人

の指揮官 ファン・ リーベ ックが部 下 と共 にケー プタウンに訪れ

,ケ

ー プタ ウン補給基地計 画 をすす めていつた。そ の うちに彼 の部 下の中か ら

,そ

の地 に定住 して 自営農業 を始 める 者 もでてきた。オ ランダか らの入植者 の数 が増 える とともに

ドイ ツか らも多 くの入植 者 がや つてきた し

,中

には フランスのユ グノー教徒 も含 まれ ていた。また

,イ

ン ドネ シアや マ レー シアフイン ド

,ス

リランカ

,モ

ザ ン ビー ク

,マ

ダガスカル な どか ら

,何

千人 もの人 々

が奴隷 として連れ て こられた。オ ランダか らの入植者 の多 くはあま り裕福 でない人々であ つたが

,そ

れ で も南 ア フ リカでは数人 の奴隷 を使用す るこ とができたのである。入植 者 た ちの中でケープタ ウンで は上手 くいかなかつた人 々は

,次

に辺境地帯へ と流れ ていつた。

コイ コイ人 はやがて 白人 の人植者 たちによつて土地 と家畜を奪われ

,彼

らの奴隷 と同 じよ

うに扱 われ ることにな る

.サ

ン人 もまた入植者 によつて命 を絶 たれ たため

,現

在 では コイ

サ ン人社会 と呼べ るものはほ とん ど残 つていない

,

(7)

(3)イ

ギ リス とアフ リカーナー

1795年

にな る と

,今

度 はイ ギ リスがオ ランダか らケープ植民地 を奪い

,支

配す るよ うに

なつた

.1802年

にイ ギ リスはオ ランダにケープ植 民地 を返 したが

,1806年

に再びイ ギ リス の植 民地 とした。その ころイギ リスでは奴隷解放 の気運が高まっていたため

,イ

ギ リスは

1833年

に奴隷制度 を廃止 したが

,オ

ランダ系 白人のア フ リカーナーたちは これ に反発 し

,

イ ギ リス支配 か ら逃れ るために

,1835年

か ら

40年

にかけて集団移住 を行 うよ うになつた。

これが後 にグ レー ト・ トレック と呼ばれ るものである。

ち ょ うどその ころ

,南

ア フ リカの北東部 に位 置す るズールー王国がその優れ た兵力 を武 器 に

,他

の地域 に対 して土地の略奪行為 を繰 り返 していた

.そ

の略奪 をめ ぐるズール ー王 国 と他民族 の戦い はムフェカネ と呼ばれ る。ム フェカネ の影響 でズールー王国の略奪対象 とされ ていた地域 に住 んでいた民族 の多 くが

,別

の土地へ と逃れ てい つた。そ うして一時 的 に誰 も住 む もののいな くなつた土地が

,グ

レー ト・ トレックの行 き着いた先 であつた。

そ してア フ リカーナーた ちは高原 地帯 の先 の山岳地帯 を越 えて ,ズ ールー王国まで領 土 を 拡大 しよ うとした

.ア

フ リカーナー とズールー王国の間で激 しい戦いが繰 り広 げ られ

,結

,武

器 で勝 っていたア フ リカーナーの勝利 に終わ る。 しか し

,ム

フェカネか らの避難 し ていたア フ リカ人 (先 住 民

)た

ちがズールー王国の敗戦 を知 り

:自

分 たちの土地へ次 々 と 舞 い戻 つてきた

.ナ

タール はそ うしたアフ リカ人 たちで溢れ

,イ

ギ リスは

1842年

にナ ター ル を併合 した

.そ

のためアフ リカーナーたちは

,再

びイ ギ リスの影響 か ら遠 ざか るた めに 高原地帯へ と移動 し ,オ レンジ川 北部 にオ レンジ 自由国を

トランスバール地方 に トラン スバール共和国を作 り

,イ

ギ リス もこれ を認 めた。

だが

,1867年

には当時のオ レンジ 自由国の一部 であつた グ リカ ラン ド・ ウェス トでダイ ヤモ ン ドの鉱 山が見つか つたため

,イ

ギ リス とその獲得 をめ ぐつて対 立 を深 めていった

.

その後

1871年

にイ ギ リスはグ リカ ラン ド・ ウェス トをケープ植民地 に編入 し

,1877年

は トランスバール共和国までを もケープ植 民地に加 えよ うと試み る

.し

か し

1881年

に 「ア フ リカーナー武装部隊がイギ リス軍 を破 る と

,イ

ギ リスは コス トがかか る再支配 をあき ら め」 (峯

1996:106), 

トランスバール共和国の条件付独 立 を認 めることにな る。その

5年

後 の

1886年

トランスバールでは金 の鉱脈 がみつかつた。

1890年

には鉱 山王のセ シル・ ローズがケープ植 民地の首相 にな り

,1896年

に トランスバ

ール をイ ギ リス支配下にお くためにクーデ ター を起 こそ うとす るが失敗 し

,首

相 を辞任す

ることになる

.そ

して

1899年,南

ア フ リカ全域 を植 民地 としよ うとす るイギ リス と

,そ

(8)

に対抗す る トランスバール共和国 とオ レンジ 自由国のアフ リカーナー たちの間で

,南

ア フ

リカ戦争 が勃発す る。

南アフ リカ戦争 では

,農

地 を焼 き払い

,一

般市民 をも強制収容す るイ ギ リス軍 に対 して

,

アフ リカーナー はゲ リラ戦 で応戦 し

,ど

ち らも

2万

人以上の犠牲者 を出 し

,ア

フ リカ人 も

1

4000人

が命 を落 とした。

1902年

にイ ギ リスの勝利 をもつて南アフ リカ戦争は終結 を迎 えた

.

南 ア フ リカの統一国家樹 立 によつて

,イ

ギ リス

,ア

フ リカーナー両者 とも

,相

手 よ りも

有利 に立てる と考 え

,長

い話 し合いの期 間を経て

,1910年 ,ケ

ープ州

,ナ

タール州

トラ ンスバール州

,オ

レンジ 自由州 の

4つ

の州か らなる南アフ リカ連邦が形成 された。公用語 には英語 とオ ランダ語 が使用 され

,歴

代 首相 はア フ リカーナー が務 めたが

,経

済分野 では イ ギ リスがその権力 を明 け渡す ことはなかつた

(3) 

南 アフ リカ連邦

南ア フ リカ連邦 下では

,原

則的 に 自人 だ けに しか参政権 が認 め られ てお らず

,初

代 首相 にはア フ リカーナーのルイス・ボー タが選 ばれ た。

1912年

に ,後 のアフ リカ民族会議伍NC), 南アフ リカ原住民民族会議 が発足す る。翌

1913年

には原住民土地法 によつて

,政

府 はアフ

リカーナー農 民の救済措 置 を とつた。その内容 は

,南

ア フ リカの一部 をアフ リカ人向けの 居 留地 (ア パル トヘイ ト体制ではホームラン ドと呼ばれ るよ うになる

)と

,ア

フ リカ人

による土地の売買や賃借 を禁止す るものであつた。定 め られ た居留地 は国土の 7.3%に しか す ぎず

,人

口の

3分

2以

上 を占めるアフ リカ人が狭い土地に追いや られ

,こ

うしてアフ リカ人農 民の生活基盤 は奪われ ていつたのである。また

,第

一次世界大戦が始 まつた 1914 年 には

,南

ア フ リカ戦争 ではアフ リカーナーの指揮官の一人でもあつた J.BoM.ヘル ツォー クが中心 とな り

,反

政府 思想 のア フ リカーナー か ら成 る国民党 を立 ち上 げた。 この国民党 こそが

,後

にアパル トヘイ ト政策 を強行 に推 し進 める組織 となるのである

.

南 アフ リカでは次 にプアホ フイ ト (貧 しい 白人

)の

問題 が浮上 して きた。ア フ リカーナ ー は

,先

住 民であ るア フ リカ人 の土地 を奪 うこ とで領 地 を増や し

,財

を築いていったが

,

土地 には もちろん限 りが あるので

,ア

フ リカ人 の土地 を奪いきつた ところで

,そ

れ以上 の

領 土拡大 は不可能 となつた。峯 (1996)は アフ リカーナー社会 には

,土

地 を子 どもに分配す る

慣 例が存在 した こ とを指摘 してい る。限 られ た土地の分配 では

,代

を重ね るごとに減 つて

い くだけで あつた。そ して

,土

地 が農業 を営む に十分 な大 き さがない場合 には

,相

続者 は

(9)

その土地 を売 つた。す る と,そ の離農者 は仕事 を得 るため都市 へ と移住す ることになるが

,

多 くの場合 それ らの人 々は特別 な技術や知識 な ども持 つていないために

,給

料 の安い労働

者 として働 くほか に道 はなかつた。そ うした 自人がプアホ ワイ トと呼 ばれ る。また

,コ

リー (2003)に よる と,南 ア フ リカ戦争時 にイ ギ リス軍がアフ リカーナーの農地の多 くを焼 き 払 つた こ とも

,プ

アホ ワイ トが急増 した原 因であつた

.

ボー タが

1919年

に この世 を去 る と

,同

じくアフ リカーナーのヤ ン・ スマ ッツが首相 にな った。当時

,金

の価格 の下落に伴 い南ア フ リカの金鉱 業 は低迷 していた。そ こでスマ ッツ は経済の建 て直 しを図 るが

,そ

のためにア フ リカーナーの支持 を失 うことにな る。 とい う のは

,労

働 力 の合理化 を図 るため

,ア

フ リカーナー よ りも賃金 の格段 に安いアフ リカ人 を 積極的 に雇 用す る動 きを見せ るよ うになつた鉱 山経営者 をスマ ッツが擁護 したためで ある。

そ こで

1922年

には

,鉱

山で働 くアフ リカーナーたちが一斉 にス トライキを行い

,200名

以 上 の死者 が出た

.ア

フ リカーナー とアフ リカ人労働者 の共闘を危惧 した政府 は

,新

たな法

律 を制定 し

,自

人労働 者 の雇用創 出や最低賃金 の設定 な どの便宜 を図 ることになった。

1924年

に行 われ た総選挙では

,労

働 党 と国民党がスマ ッツ率い る南ア フ リカ党 を破 り

,

ヘル ツォークが首相の座 に就 く。ヘルツォー クは

1939年

,第

二次世界大戦 には中立の立 場 を保 つて参戦すべ きでない と唱 え

,議

会 と対 立 したため退陣 し

,イ

ギ リスが再びスマ ッ

ツを首相 の座 に据 えた

.も

とも と親 イ ギ リス派 であつたスマ ッツは

,南

アフ リカ を第二次

世界大戦 にイ ギ リス と同 じ連合軍 として参戦 を決定す るが

,ま

た もや アフ リカーナー の反 感 を買 うことになった (コ ノ リー 2003).

第二次世界大戦後 は

,世

界各国で植 民地支配 か らの独 立運動 が活発化 し

,南

アフ リカ内

部 のアフ リカ人の間で も

,抵

抗運動 の兆 しが見 られ る よ うにな る。その中心的役割 を果 た したのが

,ア

フ リカ民族会議 と

1920年

にできた南アフ リカ共産党である。初期 のア フ リカ 民族会議 は差別撤廃運動 として

,数

々のボイ コ ッ トや ス トライ キな どを行 つた。 コノ リー (2003)の 指摘 による と

,南

ア フ リカ共産党 は もともと自人労働者 のための組織 であつたが

,

や がて 白人・ 黒人 の区別 な く南ア フ リカ にお け る労働環境 の向上 のた めの運動 をす るよ う

になった

.

(4)ア

ノウレトヘイ ト

1948年

に国民党がアパル トヘイ ト政策 を前面に出 し

,政

権 を獲得 した こ とか ら

,そ

の後

次 々 とアパル トヘ イ トに関す る法律 が成 立 してい く。まず異人種 間の結婚 な どを禁 じる雑

(10)

婚禁止法 と背徳法それ ぞれ

1949年

1950年

に制定 され

,さ

らに人 口登録法

(1950年

)に よ つて人々の人種が分類 され ることになつた。同 じく

1950年

に作 られ た集 団地域法では

,自

,黒

,カ

ラー ド

,ア

ジア系に分 け られ た人 々が

,別

々の居住地に振 り分 け られた。黒 人 は民族 ご とにバ ンツー スタン

,ま

たはホー ム ラン ドと呼ばれ る居住 地 に追いや られ た。

黒人 は南ア フ リカの国民 ではな く

,バ

ンツース タンの市民 とみな され

,南

ア フ リカの都市 で働 く際には

,外

国人労働者 として扱 われ るこ とになつた

.ま

,黒

人 は 白人 の居住 区 と の往来のために

,許

可証 (パ )を 常 に携帯す るよ う

,パ

ス法で定め られ た。この よ うに

,ア

パル トヘイ ト法に よつて様 々な規制が行 われたが

,そ

のため

,黒

人 だ けでな く

,そ

れ まで は 自人 による差別 に悩 ま され るこ とのなかつたカ ラー ドか らも不満 の声 が聞かれ るよ うに なった。

1949年,ア

フ リカ民族会議の若手

,ネ

ル ソン・ マ ンデ ラや ウォル ター・ シスル らが 「行 動計画」 を発表 し

,ス

トライ キや ボイ コ ッ トな どによる政府へ の抗議運動 を呼びか けた。

そ して

1952年

には不平等 な法律 に従わない不服従運動 を展開 した ことで

,マ

ンデ ラをは じ め とす るアフ リカ民族会議 のメンバーは逮捕 され

,裁

判 が行 われ た りしたが

,そ

れ で も人々 の不服従運動 を通 じた政府への抗議 は続いていった。

1955年

の 4月

,ジ

ョハネスバー ダ近 郊 で

,南

ア フ リカ国民の代表が話 し合いのため

,人

民会議 を開催 した

.い

ろんな人種や 民 族 の代表者 ら

3000名

が参加 し

,人

種差別 のない民主的な国家作 りを 目指 した 自由憲章が作 成 され た

.

しか し,政府 はこれ を認 めず

,1956年

にはマ ンデ ラを含む反 アパル トヘイ ト活動家 ら 150 名 以上 を

,反

逆罪 で捕 らえた

.そ

の際 に捕 らえ られ なかつた活動家た ちに も活動禁止令 を

出す な どして

,南

アフ リカ政府 は反 アパル トヘイ ト運動 を鎮 めよ うとした。

1958年

に国民 党党首のス トレイ ダムが死去す る と

,そ

れ までのアパル トヘイ トの法律制定 の中心人物 で あったヘ ン ドリク・ フェル ウール トが首相 とな り

,ア

パル トヘイ トを さらに強化 させ てい った

.

マ ンデ ラな どア フ リカ民族会議 の主要 なメンバーは人種 を超 えた和解 と協力 を 目標 とし ていたが

,黒

人民族 主義 の考 えを持つ メンバー か らは批判 の声 も上が った

.そ

してそれ ら のメンバーは

1959年

にア フ リカ民族会議 か ら離脱 し

,パ

ンアフ リカニス ト会議 を組織 し

,

翌年 3月

,5000人

に上 る人々を率いてパ ス法 に抗議す るためシャープ ビル の警察署 を取 り

囲んだ。

60名

以上の死者 と

180名

以上のけが人 がでた。 これ を受 けて南アフ リカ政府 は同

月 に非常事態宣言 を し

,4月

にはアフ リカ民族会議 とパ ンア フ リカニス ト会議 の活動 を禁 じ

(11)

た。白人 とイ ン ド人 をそれ ぞれ

100人

近 く

,カ

ラー ドは

30人

以上

,黒

人 にいたつては

1万

人以上 を逮捕 し

,捕

らえた黒人 の数 百人 に対 して暴行 を加 えた

.イ

ン ドのガ ンデ ィー の影 響 で

,ア

フ リカ民族会議 とパ ンア フ リカニス ト会議 の どち らも非暴力的運動 による政府ヘ の抗議活動 を続 けていた

.し

か し政府 による度重なる暴力 によつて

,2つ

の組織 は ともに軍

事組織 を形成す るまでに至 る。

シャープ ビル事件 によつて南ア フ リカにお けるアパル トヘイ ト制度 は世界 中で大 きな波 紋 を呼び

,国

連 の場で も

1952年

以降アパル トヘイ トヘ の非難が相次いだ。

1961年

になる と

,反

逆罪 で捕 らえ られ ていたマ ンデ ラは無罪 として釈放 され たが ,政 府 の監視 か ら逃れ るため逃 亡生活 をは じめた

.そ

して翌年

8月 ,ジ

ョハネスバー ダ郊外の リボニアにあるア フ リカ民族会議 の軍司令本部が警察 にみつか り

,そ

の際 に国内でのゲ リラ戦 の計画書 な ど が押収 された。10月 にはマ ンデ ラをは じめ とす る

10人

の活動家 に対 して

,裁

判が行 われ る こ とになつた

c裁

判 は長期化 し

,1964年

6月

,マ

ンデ ラを含む 中心的活動家たちには終身 刑 が言い渡 され た。

1970年

代以降

,政

府 は

10ヶ

所 のホー ムラン ドを独 立国 として 自治権 を与 えることで

,

ア フ リカ人 を狭い不毛の地に押 し込 め

,経

済的 に も苦 しい生活 を強いた。その中でホー ム ラン ドの一つであ るソウェ トにおいては

,ア

フ リカー ンス語教育 を強制す る政府 とア フ リ カ人 との間で騒動が起 こ り

,500名

以上の死者 が出た りした

.

1980年

代 に入 る と

,首

相 の

旺 ボー タはカラー ドとイ ン ド系の人 々の参政権 を認 める新 しい憲法 を制定す るが

,あ

くまでそれ ぞれ の人種 を別 々にわける

,と

い う姿勢 は変わ らな か った

.ま

た この憲法 に よつて

,議

院 内閣制 か ら大統領制へ と移行 し

,ボ

ー タが大統領 に

就任 した

.ア

フ リカ人の間では不満 が蓄積 され

,ア

フ リカ人の暴力事件 が頻繁 に起 こるよ うになつた。

1989年

にボー タが病気 で大統領 の職 を辞す と

,EWデ

クラー ク大統領政府 が 誕生す ることになつた

.

デ クラー クは様 々な改革 に取 り組 んでい くが

,最

初 に数名 のアフ リカ民族会議 の指導者 を無条件 で釈放 した。ボー タ政権 の頃に も

,政

府 とマ ンデ ラ との水面下での交渉 は行 われ ていたが ,話 はま とま らなかつた

.し

か し

,シ

スル な どのアフ リカ民族会議 の指導者 がデ クラー クに よつて釈放 され た ことを知 り

,マ

ンデ ラはデ クラー ク との話 し合 いの場 を持つ こ とに した

.デ

クラー クはマ ンデ ラ との話 し合 いの結果

,ア

フ リカ民族会議 をは じめ とす る

33の

組織 の活動禁止令 の取 り止 め と

,政

治犯 の釈放 を決 め

,1990年 2月

にはマ ンデ ラ

も釈放 され た

.

10

(12)

2.3 

現在

1994年 4月 ,南

アフ リカ共和国にお ける初 めての全人種参加 による国政選挙が行 われ

,

5月 にはマ ンデ ラが正式 に大統領 に就任 した。マ ンデ ラが真 っ先 に取 り組 んだ問題 の一つは アパル トヘ イ ト時代 の犯罪 である。マ ンデ ラは真 実和解委員会 を設 立 し

,ア

パル トヘイ ト

時代 の犯罪 を明 らかに しよ うとした。それ はアパル トヘイ ト体制下で行 われ た犯罪 につい て

,被

害者 だ けでな く加 害者 も真 実 を告 白す る

,と

い うものだ

.自

ら自分 の罪 を告 白す る ものは赦 され

,裁

判 を受 けることもないが

,委

員会 に よる招集 に応 じない ものは裁判 にか け られ た

.真

実和解委員会 は

,人

種 を超 えて痛 み を共有 しよ うとい う試 みで あつたが ,被

害者 の中には加 害者 が罰せ られ ない とい うことに不満 を持つ者 もい る。

マ ンデ ラはまた

,復

興開発計画 に も着手 した

.そ

の内容 は公共事業 による雇用創 出や保 健・ 教育・ 福祉 の向上で あ り

,一

定の結果 を出 してはい るが

,国

民の 中には不満 を抱 いて い るもの も少 な くない。なぜ な ら

,失

業率 はあいかわ らず高い ままで

,貧

富格差 の是正 も

進 んでいないか らだ。失業だ けでな く

,エ

イズの蔓延 も南アフ リカ共和国が抱 える大 きな 問題 である。

マ ンデ ラは任期終了の

1999年

で大統領職 を退 き

,マ

ンデ ラ政権時 には副大統領 としてマ ンデ ラを支 えたターボ・ ムベキが現在 は大統領 に就任 してい る。

スー ダン

3.1 

スー ダン

(1) 

国の概要

スー ダンは

250万 kピ

の国土を有 し

,面

積 ではア フ リカー を誇 る。その広い国土にお いては地域 によつて 自然環境 も異 なるが

,北

部・ 中部・ 南部の

3つ

に分 けてみ ることがで き る。まず

,エ

ジプ トとの国境 か らエル・ フィ ッシヤ

カ ツサ ラよ りも北の地域 は

,高

温 であ りなが ら雨量 は少 ないため

,一

部 を除 き砂漠 と半砂漠 となってい る。中部地域 も高 温 であるが雨季 には若干 の雨が降 るので

,サ

バ ンナ地帯 になってい る。南部地域 もや は り 高温であるが雨量が多いため,サ バ ンナ地帯や熱帯雨林 を有 してい る。スー ダンの人 口は

3,

552万

人でその うちの

494万

人 が首都ハル ツー ムで暮 らしてい る。スー ダン国内でみ られ

る宗教 にはイ スラム教

,キ

リス ト教

,土

着宗教がある

.

(13)

ハルトゥーム

幼ヴて'多  聯 「

(1ン

『イニ

グル

7‑ル     

コル 「 フアン

    

`ど戒 イン

    ̲ご

中′  r4"イ

爾 ナ イ ル輝

パフル´

7か

ガザール

エタアかリア

地図

3.1‐

スーダン周辺地図

(出 典 )外 務省

,2006,各

国インデ ッ クス (ス ーダン

)

地図

3.1‐

スーダン

出典

)富

田正史

,1992,『

スーダンにおける国民統合』

晃洋書房

.

スーダンにおける人種 を大きく区分すると

,ア

ラブ系 40%,ア フリカ系 31%,ベ ジャ族

7%と

なる

.富

田正史

(199"は

,1955ノ

56年

に行われたスーダンの国勢調査結果では

,56の

種族 と

597の

部族が存在 しているとされ

,ア

フ リカの中でも複雑な民族構成を有 した多民 族国家である

,と

述べている。 1955ノ

56年

以降に行われた国勢調査では

,国

民統合の流れに 反す ると考 えられたためか

,部

族や民族 についての項 目はな く

,し

たがつて国勢調査 によ る民族の分類は現在でも

1955/56年

のもの しか資料はない 1955ノ

56年

のスーダン国勢調査 における民族構成の結果 を,富 田の記述をもとにまとめると以下のよ うになる (富 田 1992).

北部の民族集団にアラブ系スーダン人

,ベ

ジャ人

,ヌ

ビア人

,フ

ール人・ その他

,ヌ

バ人

,イ

ンゲ ッサナ人に分けられ る。アラブ系スーダン人は全人 口の

39%を

占め

,人

口比

率の上でも

,政

治・経済においてもスーダン独立以前か ら中心的な存在である

.ベ

ジャ人 は全人 口の

6%を

占め,遊牧や農耕で生活を営んでいる。ベジャ人はアマラル,ブ シャ リン

,

ハデンダワ

,ベ

ニ・ アマルな どの下位集団に分 けられ るが

,ア

ラビア語やイスラム教の影

12

(14)

響のた め

,ベ

ジャ人独 自の文化や言語 は失われつつある

.ヌ

ビア人は人 口の

3%を

占め

,ヌ

ビアのナイル流域 に住 んでい るが

,ア

ラブ系スー ダン人 との婚姻 によ り

,そ

の文化的身体 的 同化 が進 み

,伝

統文化 は失われ つつ あ る。ア ラブ系 スー ダン人 との同化 が他集 団 よ りも 進 んでい るためか

,政

府 の高官 にな るもの も増 えた

.フ

ール人 は全人 口の

2%で ,現

在 で も 固有の文化 と言語 を維持 してい るが

,多

くのフール人 はイス ラム教 を受 け入れ

,ア

ラ ビア

語 も話す よ うになつてい る

c白

ナイル と青ナイル の間に位置す るエチオ ピア との国境 地帯 に農耕 民 として暮 らしてい るのが

,イ

ンゲ ッサナ人 をは じめ

,コ

マ人

,ベ

ル タ人 な どのフ

ンジ集 団である。

北部 よ りもさらに人種 的

0文

化 的多様性 を持 つ南部 にお ける民族集 団は

,ナ

イル系

,ナ

イル・ハ ム系

,ス

ーダン系 に大別 され る

.ナ

イル系 にはデ ィンカ人

,ヌ

アー人な どがい る。

デ ィンカ人は人 口の約

10%を

占めてお り

,ア

ラブ系スー ダン人 の次 に多 く

,人

口の

5%を

占めるヌアー人 と

,歴

史 の中で衝突す ることも少 な くなかつた。ナイル・ハ ム系 にはバ リ

,

クク

,マ

ンダ リ

,ニ

ャングフラ

,カ

クフな ど多数 の民族集 団が含 まれ

,各

民族 間の関係 も 非常に込み入 つた ものである。スー ダン系 は人 口の

2%を

占めるザ ンデ人 の他 は

,た

くさん の少数民族 に区分 され る。

スー ダンの公用語 はア ラビア語 と英語であるが

,民

族 固有 の言語 も多数存在 してい る。

(2)国

の経済

農 業 はスー ダンに とつて欠 かせ ない産業 であ る

.富

田による と

,ス

ー ダンは広大な国土

の うちの

25%が

砂漠 であるが

,少

な くとも

8000万

ヘ クタールの土地で耕作が可能である のに

,現

在 はその うち

680万

ヘ クタール程度で しかない。スーダンは灌漑施設の普及や耕 作地の拡大 を最大限に行 えば

,ア

フ リカ全土に食糧供給 も可能 である

,と

言 われ るほ どの 可能性 を秘 めてい る (富 田

2002).ス

ー ダンの農産物 として有名 な ものには綿花や落花生

,

ア ラ ビア ゴムな どがある。

また

,ス

ー ダンは豊富な鉱物資源 を有 してい る。主な資源 には

,石

,金

,銀

,鋼 ,亜

鉛 な どが含 まれ るが

,富

田(20021175)は 「その多 くは南部 にあ り

,内

戦が終わ らないかぎ

,そ

の開発 は将来の ことになる」 としてい る

.

2004年

のスーダンの国民総生産 は

196億

ドル で

,経

済成長率

6.6%は

であるが

,失

業率 は

15。4%で

あつた。

13

(15)

3.2 

スー ダンの歴史

(1) 19世 紀以前

スー ダンでは紀元前か らナイルメ

││を

中心 に

,多

種多様 な人 々が生活 を営んできた。紀元 前

8世

紀 か ら

7世

紀半ばまでには

,エ

ジプ ト植 民地であつたクシュが反対 にエジプ トを支 配 下に収 め る とい つた動 きがあつたが

,そ

の後 は様 々な集 団がそれぞれ勢力 を振 るつてい た

.メ

ロエ もその一つであつたが

,メ

ロエ は中東文化 をスーダンの地 に持 ち込んだ とされ てい る。

4世

紀 に入 るとメロエはその力 を失い

,新

しい勢力が生まれてい くが ,6世 紀の中頃まで にはそれ らの支配層 はキ リス ト教化 され ていき

,ヌ

ビア と呼ばれ る文化 を発展 させ てい つ た (富 田

1992:2).7世

紀以降にな る と

,ム

ス リム

(イ

ス ラム教分 であるアラブ人がスーダン に住む よ うにな り

,そ

のためキ リス ト教徒 たちは力 を失 つてい く。

16世

紀 に入 る と

,青

イル流域 にフンジ国が ,ダ ル フール地方 にフール国がアラブ人イス ラム教徒 らの手 に よつ て作 られ た。 この二国に よつてイ ス ラム勢力 は

,現

代 のスー ダ ン北部 にお けるイス ラム勢 力 につながつてい るのである。

(2)植

民地時代

金 と象牙 と奴隷 を求 めるムハ ンマ ド・ ア リーが

,1820年

に軍隊を率いてスーダンにやつ て くる と

,フ

ンジ国は翌年 にはその支配下に置かれた。

1874年

にフール 国が征服 され る頃 には

トル コ・ エ ジプ トは現在 のスーダンのほ とん どを植 民地化 していた。

1881年,イ

ス ラム世界の救世主である『 マフデ ィー』 を自称す るムハ ンマ ド0ア フマ ドが反乱 を起 こ し…… トル コ・ エ ジプ ト軍 を打ち破 り

,1885年

には

,征

服勢力 の本拠地…

…ハル トゥームを陥落 させ た」 (富

1992:9.マ

フデ ィーはその後 まもな く死去 し

,ア

ダ ッラーがかわつてスー ダンを率いた

.だ

,1898年

には再びイギ リス とエ ジプ ト軍 に攻 め入 られ

,イ

ギ リス・ エ ジプ ト両国による共同統治下 に入 る

.そ

の後 スー ダンが独立 を果 たす まで

,50年

以上 にわたつてイ ギ リス・ エ ジプ トによる植 民地支配が続 くが

,エ

ジプ ト

もイギ リスの支配 下にあつたため

,事

実上スー ダンはイ ギ リスによつて支配 され ていた。

よってスー ダンにお ける政治や軍事 を取 り締 ま る総督 はイ ギ リス人 ばか りであつたが

,エ

ジプ トのナシ ョナ リズムの気運が高まつた

1924年

,総 督 である リー・スタ ックが殺害 され

,

エ ジプ ト軍 による反乱が起 こつた。イギ リスはその反乱 を速やかに沈 めた後

,ス

ー ダンを

単独 で支配す る体制 を強 めてい つた

.

14

(16)

一方

,ス

ー ダン住民内部 では

,南

部 での奴隷狩 りや象牙狩 りな どに端 を発す る争 いが激 化 した

cア

ラブ系 スー ダ ン人が支配者側 と手 を組 んでいたため

,南

部住 民はア ラブ系 スー

ダン人 を恐れ

,両

者 の関係 に深 い亀裂 を走 らせた。

イ ギ リスは民族 ご とにスー ダン住 民 を分 けて支配 をすす めてい き

,南

部 をキ リス ト教宣 教師 に よつて支配す るこ とで,北 部 のイス ラム勢力 を南部 までは持 ち込ませ なかつた。1930 年 には さらに南部政策 が提案 され る。南部政策 の内容 はア ラブ系の役 人や商人 の排 除や共 通語 としての英語 の奨励 な どであつた。それ は表 向きには

,南

部住 民 の北部住 民か らの保 護政策 であった。南部 にお けるア ラブ・ イ ス ラム勢力 を弱 めるこ とで

,南

部 の文化や伝 統

を守 り

,西

欧文化 の導入 を図つたのであ る

.だ

が実際 の ところは

,エ

ジプ トのナ シ ョナ リ ズムを南部まで波及 させ ないための ものであつた。富 田

(199"は,南

部政策 は南北分断 と民 族集 団間の分断 の両方 が意 図 され ていた としてい る。

や がて

1956年

にスー ダンは独 立 を勝 ち取 るが ,「 それ は南北間の政治的経済的格差や民 族集 団間の社会的文化的相違 を残 したままの独立」であっただけでな く

,「

独立後 のスーダ ンの諸問題 の多 くはこの植 民地時代 につ くられた といつて も過言ではない」と富田(1992:5) は述べてい る

.

(3) 

第一次 内戦

スー ダンでの第一次内戦 は

,独

立の前年

1955年

に勃発 した。

1952年

か らイギ リス 。エ ジプ ト間で もスー ダン独 立に向けての話 し合いが行 われ

,準

備 は着実 に進 め られ ていた

.

しか し

,ス

ー ダン住民である北部人・南部人 の交渉は

,そ

れ までの両者 の関係 が尾 を引き

,

なかなか上手 くは運 ばなかつた。南部人 には独 立国スー ダンにおいて重要 なポス トはあて がわれず

,南

部 にや つて きた北部人官吏 は行政 にきちん と取 り組 まなかつた。そ うして南 部人 の不満 は高ま る中で

,南

部人 に対す る不 当な裁判や織物工場が行 つた南部人 の大量解 雇 の問題 が起 こつた。抗議運動 にでた南部人 と北部人 の間の争 いが続 き

,両

者 は多 くの死

傷者 を出 し

,政

府 は北部人兵士 を南部へ派兵す る。南部人が降伏 し

,争

いがお さまるかに

見 えたが

,南

部兵士はその後ゲ リラ活動 を開始す る

c

1858年 ,ア

ッブー ド軍事政権が,ク ーデ ター によ り誕生 し

,1963年

に生 まれ たアニャニ ャ と呼ばれ る反政府組織 の存在 も一因 となつて

,南

部 との戦い は よ りい つそ う激 しさを増 す ことになる

.多

額 の軍事費に よつてスー ダンの経済 は行 き詰 ま り

,そ

の結果

1964年

に軍 事政権 は終わ りを告 げる。

15

(17)

南部 問題 についての議論 を行 うためにハル トゥー ムの大学生が開いた集会 に

,警

官 隊が

介入 し

,多

くのけが人 と死者 が一名 出た

cこ

の事件 によつて大衆の政府批判 が強ま り

,様

な業界 にお けるス トライ キが起 こつた

.そ

うしたなかで裁判所長官 で あつたア フダ ッラー を中心 に

,国

民戦線 が組織 され た

.ま

,こ

の事件 に よつて共産主義者 の動 きも活発 にな り

,そ

れ と対抗す る形 でイスラム原理主義者 もハル トゥー ム大学の法学部部長 であつた ト ゥラビー を指導者 に

,イ

ス ラム憲章戦線(ICF)を 結成 した。

ア ッブー ドが政権 を去 る と

,早

期 の総選挙実施 または内閣改造 を唱 える人 々が現れ

,彼

らは統一国民戦線

ONF)を

つ く り

,共

産党 は労働組合 な どと共 に社会民主戦線

(SDDを

立ち 上 げた

.こ

の よ うに北部・ 南部それぞれ において多数 の政治的・ 思想 的組織 が形成 され て い ったが ,政 府 は南北の話 し合 い の場 を持つた め

,そ

れ らの代表的組織 と会合 を重ねてい った。

1969年

クーデ ター に よつて

,共

産主義者 とア ラブ民族 主義者 の支持 を集 めるニメイ リが 政権 を握 つた。ニ メイ リと支持者 らは手始 めに多数 の政治家 を捕 らえ

,ス

ー ダンを社会主

義 国にす るための基盤 を築 こ うと した

.ニ

メイ リらの暴挙 に新 たなクーデ ターが起 こ り

,

ニメイ リも一度は捕 らえ られ るが

3日

後 には再び権力 を取 り戻 した

eす

る とニメイ リは共 産党勢力 を一掃 し

,社

会主義国家 の建設 か ら

,国

民統一 と経済発展へ と方 向転換 を図つた

.

ニ メイ リはその新 たな 目標 を現実 の もの とす るため

,内

戦終結 のために動 き出 した

.ニ

メ イ リはスー ダンにお ける南部人 の権利 を保 障 し

,南

北 の住 民 に よる相 互理解 がスー ダ ン統 一 に必要不可欠で ある と訴 えた

.彼

の発言 は南北両住 民の間で物議 をか も したが

,南

部人 閣僚 のア リエル の奮闘 によ り

,政

府 と南部 に内戦終結 に向けた環境 が徐 々に整 つてい つた

.

そ して

,エ

チオ ピアのアデ ィス・ アベバ で交渉 が開始 され た。 こ うして第一次 内戦 はアデ ィス・ アベバ協定の締結 に よつて

17年

に も及んだ内戦 は終結 した。

(4) 

第二次 内戦

ニメイ リは強力 な一党独裁制 によつて

,1985年

まで長期 にわたつて政権 を握 った。 しか し反政府勢力 によるクーデ ター計画 な どが絶 えず

,政

治的 な安 定 は決 して強 固な ものでは なかつた

.ス

ー ダンの第二次内戦は

1983年,南

部人兵士 による反乱 で幕 を開 けた。元政府 軍 の将校 で あったガ ラングが反乱鎮静化 のために南部へ送 られ たが

,ガ

ラングは逆 に南部

人民解放運動(SPЫ

Oや

南部人民解放軍 (SPLA̲pを 組織す る指導者 となつた。富 田

(199"に

よ る と

,南

部兵士 らの反乱 は北部へ の配置転換や

,北

部兵士の南部兵士 に対す る暴虐 な ど

,

16

(18)

様 々な不満 が折 り重 なつた結果 で ある。アデ ィス・ アベバ協定 の締結後

,南

部人 は教育環

境 の改善や経済開発 に大 きな期待 を寄せ ていたが

,実

現 しなか つた

eし

か し

,ジ

ョン レイ

運河 と石 油採掘 の計画 だ けは着実 に進 め られ てい つた。だが

,ど

ち らも南部住民が期待 し ていた よ うな効果 は生まれず

,政

府への不信 と不満 が充満 していつた。またニメイ リは

,

石 油採掘地 である北部 と南部 の境 目に位 置す る地域 を北部へ編入 しよ うとした ことで

,南

部人の反感 を買つた。や がて南部 の反乱勢力 は上記 の二大事業 に従事 していた フランス人 とアメ リカ人技術者 を誘拐 したため

,開

発 は暗礁 に乗 り上 げた。

ニメイ リは国会 において南部の分割 を提唱 し

,分

割 によつて民意 が政治 に反映 されやす くなる と訴 えた

.し

か し実際には

,南

部 にお ける資源 に 目をつ けたヌ メイ リは

,南

部 内で

の対立激化 と中央政府 の影響力 の強化 を狙 つていたのである。

SPLM/SPLAは スー ダンの抱 える問題解決のため

,社

会 と政治 の変革 をめ ざ して活動 を 行 つてい る と主張 してい る。彼 らは 「スー ダンの よ うな人種的民族的宗教的 に多様 な国 を 統一す るイデオ ロギー は『 社会主義』 しかない との観 点に立 ち

,ス

ー ダン全体 に社会主義 体制 を実現」 (富 田

1992:60し

よ うと試みてい る。

2005年

1月 に

,ス

ーダン政府 と

SPI劇

[が 国際社会 の声 を聞き入れ る形 で

,南

北包括和平 合意 が成 立 し

,20年

以上 にわたつて続いた第二次 内戦 も終結 した̀ダル フール において も

, 2004年

に停戦合意がな されて一度 は終結 したかに見 えたが

,い

まだに民兵 の襲撃が続 き

,

治安 は悪化す る一方である。

考 察

2章

,3章 では南アフ リカ共和国 とスーダンの歴史的背景 を中心 にみてきたが

,本

章では それ らを踏 まえて

,私

な りにアフ リカにお ける内紛 を解決 の道 筋 と ,経 済的発展 と政治的 安定の鍵 を検証 してい きたい。

「い うまで もな く

,固

有 の文化や言語 を有す る民族集 団は多集 団 との関係 で 自民族 中心 主義 (ethnocent五 sm)に 陥 りやすい」 と富 田(1992:7)が 指摘す るよ うに

,南

アフ リカ共和国

において も

,ス

ー ダンにおいて も

,人

種・ 民族 間の抗争 は多 く見 られ た

.そ

して どち らの 国 において も

,搾

取す る側 とされ る側 に分 かれ ていた。 この よ うに搾 取す る側 とされ る側 に分かれ た場合 に

,搾

取 され る側 が基本 的人権や参政権 といった正 当な要求 を してい るだ けであれ ば

,搾

取す る側 にその要求 を受 け入れ るほ うが受 け入れ ない よ りも利益 が大 きい

17

(19)

と感 じられれ ば

,和

平の合意 は成 り立ちやすい と言 えるだろ う。

南ア フ リカ共和 国の場合

,自

人 であるデ クラー クが

,ア

パル トヘイ トによつて確保 され ていた 白人 の特権や優遇措置 を捨 て

,政

治犯 として囚われ てい た黒人 を釈放す ることで

,

差別撤廃 の意思 を行動 で示 した こ とで ,事 態 は急展 開 した。国際社会 にお ける批判 の高 ま

,貿

易削減 な どで南ア フ リカ共和国の経済 は苦境 に立た され ていた。また

,ア

パル トヘ

イ ト体制 に よる経済的繁 栄 が飽 和状態 まできていた こ とによつて

,ア

パル トヘイ トに よる 利 益が頭打 ちになつてお り

,ア

パル トヘイ ト体制が も う長 くは持 たない とい うことも次第 に明 らかにな りつつ あつた

.よ

つて

,ア

パル トヘイ トを撤廃 し

,国

際社会 に受 け入れ られ るよ うに振舞 つた ほ うが

,自

人 には得 で あつたのだ。アパル トヘイ ト法 は全 て撤廃 され た が

,そ

れ で も自人 と黒人 の経済や教育にお ける格差は依然 として残 つてい る

.

スー ダン政府 の場合 も程度 の差 はあれ

,南

ア フ リカ と同 じ状況下で あつた と見 るこ とが で きるだ ろ う

e一

度 目のアデ ィス・ アベバ協定 ではニ メイ リが社会主義思想 か ら相互理解 で結 ばれ た統一国家 とい うビジ ヨンを基 に南北和平 を 目指 したわけだが

,そ

れ は純粋 に南

の言い分や権利 を認 めたわけではない

.ソ

連 か ら離れ てアメ リカ路線 に走 つたエ ジプ トを 追 いか け

,周

辺諸 国の動 きに合 わせ ただ けであ る

.実

,ニ

メイ リはその後

,南

北境界線

の平行や南部 の分割 を唱 えて

,北

部や政府 に有利 になるよ うに働 きかけてい る

c

二回 目の包括和平合意 も

,長

引 く内戦 による疲弊 と

,国

連 をは じめ とした国際社会 に背 中を押 され たためである

.ス

ー ダンは和平 に合意 した ことで

,各

国か らの多額 の資金援助 が得 られ ることになつた。また

,石

油 をは じめ とす る地下資源 を有効活用す るには

,内

を終結 させ ることが重要 であつた

.

少 な くとも南ア フ リカ共和国 とスー ダンの例 では

,被

支配者 による正 当な権利 の主張は

,

主張 を受 け入れ た ほ うが支配者 に とつて もプ ラスに作用す るこ とが明確 であれ ば

,早

い段

階で受 け入れ られ るだろ う。

また

,南

ア フ リカ共和国では黒人間での意見や利害 の違 い もあつたが

,ス

ー ダンではな

ぜ未 だにダル フール にお ける襲撃 がや まないのかを考 えてみ よ う。まず

,南

アフ リカの場

合 はアパル トヘイ トとい う明確 な敵があつた。そのた め

,そ

の共通 の敵 を倒すために

,互

い の多少 の立場の違いは二度横へ置いておき

,協

力す る とい う形が とられ た。また

,ア

リカ民族会議やマ ンデ ラ とい つた

リー ダー シ ップが あ り非常 に多 くの人 々か ら支持 を得 られた組織や個人 の存在 があつた。 しか し

,ス

ー ダンの場合 は

,ア

パル トヘイ トの よ うな 明確 で共通 の敵は見 当た らない。そ して

,大

きな勢力 をもつ集 団は存在 して も

,皆

か らの

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