アフ リカにお ける内紛 についての考察 一―南 ア フ リカ とスー ダンの事例 か ら一一
学籍 番 号
:12032083氏名 :清 次
繭子
指 導教員 :立 木
茂雄
は じめに
1
仮説
2
南アフ リカ共和 国
2。1
南 アフ リカ共和国
(1)
国の概要
(2)
国の経済
2.2
南 アフ リカ共和国の歴 史
(1) 15世 紀以前
(2)
オ ランダか らの入植者
(3)
イ ギ リス とア フ リカーナー
(4)
南ア フ リカ連邦
(5)
アパル トヘイ ト
2。3
現在
3
スー ダン
3.1スー ダン
(1)
国の概要
(2)
国の経済
3.2スー ダンの歴史
(1) 19世 紀以前
(2)植
民地時代
(3)
第一次内戦
(4)
第二次 内戦 と現在
5
考察
6
承
3'わりに
参考文献・ 参考
URLは じめ に
国際化社会 といわれ る今 日では
,政治や経済 をは じめ
,ありとあ らゆるものが国 と国 と の関係 な しには成 り立たな くなってお り
,一国の動 向に他 国が影響 を受 けやす くなつて き たのである。 よつて
,一国の安定 と発展 には他 国の安 定 と発展 が不可欠 であるが
,世界 で はその安定 と発展 を阻害す る紛争 が後 を絶 たない
.世界 の
22.2%の面積 を占めるアフ リカで も
,いくつかの内戦や紛争 が解決 にむかつてい る中
,いまだ解決 の糸 目さえ見つか らない紛争 も多 く
,平和 で民主的 な国づ く りは難航 し てい るのが現状である。内戦や紛争 によつて土地 を追われ た人々は難民・避難民 となるが
,その数 はアフ リカ全体で
486万人以上 にな る。ア フ リカは世界の人 口の
14%(9億500万人
),国連加盟 国の
27.7%(53カ国
)を占め
,人口増加 率か ら見て も巨大市場 にな りうる 国々であるが
,飢餓 率が
35%を越 える国が 18カ 国
,1日 1ドル未満 で生活す る人々が全人 口の
46%にのぼるな ど
,深刻 な貧 困問題 を抱 える国々である。 しか しそ うした中で も
,国内にお ける争 い を収 め
,経済成長 と民主化 が進 んでい る国 もあ り
,南アフ リカ共和国がそ の一例である。またスー ダンは
2005年1月 に南北の和平合意が成立 し ,20年 以上 にお よ ぶ 内戦が終結す るかに見 えたが
,ダル フール地方 にお ける北部 と南部住民の対立の激化 は 続 き ,全 面的な治安 の向上 には至 っていない。ではなぜ南 アフ リカ共和国では内戦 を終結 させ
,現在 まで経済発展 と民主化 を進 めて こ られ たのか
,なぜ 同 じこ とがスー ダンでは達 成 できていないのかを
,この
2国の比較 によつて考察 してい きたい。
仮 説
アフ リカ各国だ けでな く
,先進 諸国や 国連機 関な どの伸介
,協力 に もかかわ らず
,なぜ
多 くのア フ リカ諸 国で未 だ内紛 が絶 えないのか。争い の原 因は人種
,宗教 の違 いに よる も の とい う説 をよく耳にす るが
,それ は本 当だろ うか。本 当であれ ば
,内紛 の原 因がす で に わかってい るのに
,なぜ解決 できないのか
.そこで
,いくつか仮説 を考 えてみた
.まず一 つ 目は ,「 先進諸国や 国連機 関の内紛への介入が効果 をあげていない
,または介入 によつて 事態が余計 に悪化 し
,そのために今 までに終結 しえた ものが未 だに続 いてい る
Jとい うも の。二つ 目の仮説 は 「人種や宗教 の違いによる争 い とい うのは表面的 な ものであ り
,その
根本的な原 因は別 の ものである」 とい うもので ある。 この二つ の仮説 を検証す るために南
ア フ リカ共和国 とスー ダンの歴史的背景や文化等 を比較分析 し
,アフ リカにおいて内紛 を 解決 し
,経済的発展 と政治的安定の鍵 とな るものを検証 してい く。
2
南 ア フ リカ 共 和 国
2.1
南 ア フ リカ共和国
(1)
国の概要
南ア フ リカ共和 国はアフ リカ大陸の最南端 に位置 し
,その面積 は
122万 kぽで 日本 の 国土の
3倍以上であるが
,2003年の人 口は
4,483万人 で
,日本 の
3分の
1程度 だ。首都 はプ レ トリアであ る。南 ア フ リカ共和 国内ではキ リス ト教が最 も広 く信仰 され てい るが
,その他 に ヒンズー教やイス ラム教 の教徒 もい る。
書
7ア
リカ地図
2.1‐1南部 ア フ リカ地図
(出 典
)佐藤誠編
,1998,「南 ア フ
2.1‐2
南 アフ リ リカの政治経済学一一 ポス ト・
力共和国
マ ンデ ラとグローバ ライ
ゼー シ ョン
J南 アフ リカ共和 国は様 々な肌 の色 をもつ国民 を有す こ とか ら 「虹 の国」 と呼ばれ
,多人
種・ 多民族国家である。大まかに区分す る と黒人が全体 の 79%,自 人が
9.6%,カラー ド
(混 血
)が 8。9%,アジア系が
2.5%を占めてい るが
,実際 にはそれ ら
4つの区分の中で も
細 か く分 かれ る。黒人 は
9つの民族 が存在 し
,それぞれ ズールー人
,コーサ人
,ペデ イ人
,ソ ト人
,ツフナ人
,ツオ ンガ人
,スフジ人
,ンデベ レ人 ,ヴ エンダ人 と呼ばれ る。 自人 は かつて移 民 としてや つて きたオ ランダ系 白人 とイ ギ リス系 白人 に大別 され
,オランダ系 は
ア フ リカーナー と言 う
.また
,自人 の中には ドイ ツ系や フランスのユ グノー教徒 を祖 先 に 持 つ人 々 もい る。峯陽一 による と
,カラー ドの起源 は植 民地時代 に 自人男性 と彼 らが使役 していた南 ア フ リカ原住 民の コイ コイ人や奴隷 の女性 た ち との間に生 まれ た子 どもで ある が
,カラー ドとア フ リカーナー の違い は
,どち らもア フ リカー ンス語 を母 国語 とし
,容姿
も区別 がつかない場合 があるため
,明確 ではない。
公用語 は先住民族 の言語 であるズールー語
,コーサ語
,ペデ イ語
,ソト語
,ツフナ語
,ツォンガ語
,スワチ語
,ヌデベ レ語 ,ヴ ェンダ語 と
,アフ リカー ンス語
,英語
,と実 に計
11言
語 に上 る
.アフ リカーンス語 は先住民族の言語 とオ ランダ語 が合わ さつて形成 された ものあ り
,上述 の よ うに主 にア フ リカーナー とカ ラー ドが使用す る言語 である。
(2)国
の経済
南ア フ リカ共和 国の経済発展の大部分は
,その豊富な天然資源 によつて支 え られてきた。
その主な鉱産物 を挙 げる と
,金,ダイヤモ ン ド
,白金族
(プラチナ等
),銀,銅,石炭
,マンガン
,ニッケル
,鉄鉱石
,クロームな どである。白金族やマ ンガ ンな どは世界埋蔵量が
1位 で
,金は世界 の生産量 の
4分の
1を占めてお り
,輸出による収入 の実 に
4割弱 が鉱業 に
よるものである。
南 ア フ リカ共和 国の も う一つの主要産業 は農 業 である。西 には大西洋
,東にはイ ン ド洋
と
2つの海 にはさまれ
,内陸の標 高が高いため
,他のア フ リカ諸国ほ ど気温の上昇 はな く
,比較的穏や かな気候 に恵 まれ てい る。そのため
,南ア フ リカ共和 国では昔か ら農業が盛 ん に行 われ
,特にフイ ンは有名 である。
2004年
の南アフ リカ共和国にお ける国民総生産は
1,638億ドル で
,経済成長率 は
3。7%であった
.これ はア フ リカ諸国の中で も群 を抜 いてい るが
,2005年の失業率は
26.7%にも
上 り
,犯罪が後 を絶たず
,治安 の悪化 につながつてい る。
2.2
南 ア フ リカ共和国の歴史
(1) 15世
紀以前
現在 の南 アフ リカ共和 国の地域 には も ともとサ ン人 とコイ コイ人が
,紀元前か ら住 んで
い た
.サン人 は数十人か らなる集 団で狩猟 と植 物採集 によつて生活 を営み
,食料 と水 の確
保 のために各地 を移動 しなが ら暮 らしていた。北 に羊や牛 の牧 畜 と狩猟採集 を どち らも行 う人 々が現れ
,それ が次第 に南方 に も伝播 した。その牧畜民が コイ コイ人 であつた
.サン
人 とコイ コイ人 は風貌 が似 ていたため
,両者 をま とめて コイサ ン人 と呼ぶ よ うになつた。
移動生活 に適 さないため
,サン人 は必要以上の財 を蓄 えることはなかったが
,コイ コイ人 に とつては家畜 とい う財産が存在 したため
,やがて貧 富の差が見 られ るよ うになった。南 ア フ リカの先住民 には さらに
,コイサ ン人 よ りも人数 の多いバ ン トゥー人がいた
.彼らは モ ロコシや かばちやな どの栽培や牛の飼 育 によつて生活 していた。 コイサ ン人 とは違 い
,農耕 を生活 の基盤 としていたため
,バン トゥー人 は定住 して集 落 を形成 し
,彼らに とつて
一番大切 な財産 は牛であつた。
(2)オ
ランダか らの入植 者
南ア フ リカ を囲む大西洋 にはベ ング ラ海流 が
,イン ド洋 にはモザ ン ビー ク海流 が流れ て いたため
,15世紀末 まで南ア フ リカの外 国 との接点はほ とん どなかつた
,と峯 (1996)は 指 摘 してい る。 しか し
17世紀 に入 る と
,オランダ東イ ン ド会社が東方貿易 に向か う船 の補給 基地 として
,現在 のケープ タウンに 目をつ けたのである。そ して
,1652年にはオ ランダ人
の指揮官 ファン・ リーベ ックが部 下 と共 にケー プタウンに訪れ
,ケー プタ ウン補給基地計 画 をすす めていつた。そ の うちに彼 の部 下の中か ら
,その地 に定住 して 自営農業 を始 める 者 もでてきた。オ ランダか らの入植者 の数 が増 える とともに
,ドイ ツか らも多 くの入植 者 がや つてきた し
,中には フランスのユ グノー教徒 も含 まれ ていた。また
,イン ドネ シアや マ レー シアフイン ド
,スリランカ
,モザ ン ビー ク
,マダガスカル な どか ら
,何千人 もの人 々
が奴隷 として連れ て こられた。オ ランダか らの入植者 の多 くはあま り裕福 でない人々であ つたが
,それ で も南 ア フ リカでは数人 の奴隷 を使用す るこ とができたのである。入植 者 た ちの中でケープタ ウンで は上手 くいかなかつた人 々は
,次に辺境地帯へ と流れ ていつた。
コイ コイ人 はやがて 白人 の人植者 たちによつて土地 と家畜を奪われ
,彼らの奴隷 と同 じよ
うに扱 われ ることにな る
.サン人 もまた入植者 によつて命 を絶 たれ たため
,現在 では コイ
サ ン人社会 と呼べ るものはほ とん ど残 つていない
,(3)イ
ギ リス とアフ リカーナー
1795年
にな る と
,今度 はイ ギ リスがオ ランダか らケープ植民地 を奪い
,支配す るよ うに
なつた
.1802年にイ ギ リスはオ ランダにケープ植 民地 を返 したが
,1806年に再びイ ギ リス の植 民地 とした。その ころイギ リスでは奴隷解放 の気運が高まっていたため
,イギ リスは
1833年に奴隷制度 を廃止 したが
,オランダ系 白人のア フ リカーナーたちは これ に反発 し
,イ ギ リス支配 か ら逃れ るために
,1835年か ら
40年にかけて集団移住 を行 うよ うになつた。
これが後 にグ レー ト・ トレック と呼ばれ るものである。
ち ょ うどその ころ
,南ア フ リカの北東部 に位 置す るズールー王国がその優れ た兵力 を武 器 に
,他の地域 に対 して土地の略奪行為 を繰 り返 していた
.その略奪 をめ ぐるズール ー王 国 と他民族 の戦い はムフェカネ と呼ばれ る。ム フェカネ の影響 でズールー王国の略奪対象 とされ ていた地域 に住 んでいた民族 の多 くが
,別の土地へ と逃れ てい つた。そ うして一時 的 に誰 も住 む もののいな くなつた土地が
,グレー ト・ トレックの行 き着いた先 であつた。
そ してア フ リカーナーた ちは高原 地帯 の先 の山岳地帯 を越 えて ,ズ ールー王国まで領 土 を 拡大 しよ うとした
.アフ リカーナー とズールー王国の間で激 しい戦いが繰 り広 げ られ
,結局
,武器 で勝 っていたア フ リカーナーの勝利 に終わ る。 しか し
,ムフェカネか らの避難 し ていたア フ リカ人 (先 住 民
)たちがズールー王国の敗戦 を知 り
:自分 たちの土地へ次 々 と 舞 い戻 つてきた
.ナタール はそ うしたアフ リカ人 たちで溢れ
,イギ リスは
1842年にナ ター ル を併合 した
.そのためアフ リカーナーたちは
,再びイ ギ リスの影響 か ら遠 ざか るた めに 高原地帯へ と移動 し ,オ レンジ川 北部 にオ レンジ 自由国を
,トランスバール地方 に トラン スバール共和国を作 り
,イギ リス もこれ を認 めた。
だが
,1867年には当時のオ レンジ 自由国の一部 であつた グ リカ ラン ド・ ウェス トでダイ ヤモ ン ドの鉱 山が見つか つたため
,イギ リス とその獲得 をめ ぐつて対 立 を深 めていった
.その後
1871年にイ ギ リスはグ リカ ラン ド・ ウェス トをケープ植民地 に編入 し
,1877年に
は トランスバール共和国までを もケープ植 民地に加 えよ うと試み る
.しか し
1881年に 「ア フ リカーナー武装部隊がイギ リス軍 を破 る と
,イギ リスは コス トがかか る再支配 をあき ら め」 (峯
1996:106),トランスバール共和国の条件付独 立 を認 めることにな る。その
5年後 の
1886年,トランスバールでは金 の鉱脈 がみつかつた。
1890年
には鉱 山王のセ シル・ ローズがケープ植 民地の首相 にな り
,1896年に トランスバ
ール をイ ギ リス支配下にお くためにクーデ ター を起 こそ うとす るが失敗 し
,首相 を辞任す
ることになる
.そして
1899年,南ア フ リカ全域 を植 民地 としよ うとす るイギ リス と
,それ
に対抗す る トランスバール共和国 とオ レンジ 自由国のアフ リカーナー たちの間で
,南ア フ
リカ戦争 が勃発す る。
南アフ リカ戦争 では
,農地 を焼 き払い
,一般市民 をも強制収容す るイ ギ リス軍 に対 して
,アフ リカーナー はゲ リラ戦 で応戦 し
,どち らも
2万人以上の犠牲者 を出 し
,アフ リカ人 も
1万
4000人が命 を落 とした。
1902年にイ ギ リスの勝利 をもつて南アフ リカ戦争は終結 を迎 えた
.南 ア フ リカの統一国家樹 立 によつて
,イギ リス
,アフ リカーナー両者 とも
,相手 よ りも
有利 に立てる と考 え
,長い話 し合いの期 間を経て
,1910年 ,ケープ州
,ナタール州
,トラ ンスバール州
,オレンジ 自由州 の
4つの州か らなる南アフ リカ連邦が形成 された。公用語 には英語 とオ ランダ語 が使用 され
,歴代 首相 はア フ リカーナー が務 めたが
,経済分野 では イ ギ リスがその権力 を明 け渡す ことはなかつた
(3)
南 アフ リカ連邦
南ア フ リカ連邦 下では
,原則的 に 自人 だ けに しか参政権 が認 め られ てお らず
,初代 首相 にはア フ リカーナーのルイス・ボー タが選 ばれ た。
1912年に ,後 のアフ リカ民族会議伍NC), 南アフ リカ原住民民族会議 が発足す る。翌
1913年には原住民土地法 によつて
,政府 はアフ
リカーナー農 民の救済措 置 を とつた。その内容 は
,南ア フ リカの一部 をアフ リカ人向けの 居 留地 (ア パル トヘイ ト体制ではホームラン ドと呼ばれ るよ うになる
)とし
,アフ リカ人
による土地の売買や賃借 を禁止す るものであつた。定 め られ た居留地 は国土の 7.3%に しか す ぎず
,人口の
3分の
2以上 を占めるアフ リカ人が狭い土地に追いや られ
,こうしてアフ リカ人農 民の生活基盤 は奪われ ていつたのである。また
,第一次世界大戦が始 まつた 1914 年 には
,南ア フ リカ戦争 ではアフ リカーナーの指揮官の一人でもあつた J.BoM.ヘル ツォー クが中心 とな り
,反政府 思想 のア フ リカーナー か ら成 る国民党 を立 ち上 げた。 この国民党 こそが
,後にアパル トヘイ ト政策 を強行 に推 し進 める組織 となるのである
.南 アフ リカでは次 にプアホ フイ ト (貧 しい 白人
)の問題 が浮上 して きた。ア フ リカーナ ー は
,先住 民であ るア フ リカ人 の土地 を奪 うこ とで領 地 を増や し
,財を築いていったが
,土地 には もちろん限 りが あるので
,アフ リカ人 の土地 を奪いきつた ところで
,それ以上 の
領 土拡大 は不可能 となつた。峯 (1996)は アフ リカーナー社会 には
,土地 を子 どもに分配す る
慣 例が存在 した こ とを指摘 してい る。限 られ た土地の分配 では
,代を重ね るごとに減 つて
い くだけで あつた。そ して
,土地 が農業 を営む に十分 な大 き さがない場合 には
,相続者 は
その土地 を売 つた。す る と,そ の離農者 は仕事 を得 るため都市 へ と移住す ることになるが
,多 くの場合 それ らの人 々は特別 な技術や知識 な ども持 つていないために
,給料 の安い労働
者 として働 くほか に道 はなかつた。そ うした 自人がプアホ ワイ トと呼 ばれ る。また
,コノ
リー (2003)に よる と,南 ア フ リカ戦争時 にイ ギ リス軍がアフ リカーナーの農地の多 くを焼 き 払 つた こ とも
,プアホ ワイ トが急増 した原 因であつた
.ボー タが
1919年に この世 を去 る と
,同じくアフ リカーナーのヤ ン・ スマ ッツが首相 にな った。当時
,金の価格 の下落に伴 い南ア フ リカの金鉱 業 は低迷 していた。そ こでスマ ッツ は経済の建 て直 しを図 るが
,そのためにア フ リカーナーの支持 を失 うことにな る。 とい う のは
,労働 力 の合理化 を図 るため
,アフ リカーナー よ りも賃金 の格段 に安いアフ リカ人 を 積極的 に雇 用す る動 きを見せ るよ うになつた鉱 山経営者 をスマ ッツが擁護 したためで ある。
そ こで
1922年には
,鉱山で働 くアフ リカーナーたちが一斉 にス トライキを行い
,200名以 上 の死者 が出た
.アフ リカーナー とアフ リカ人労働者 の共闘を危惧 した政府 は
,新たな法
律 を制定 し
,自人労働 者 の雇用創 出や最低賃金 の設定 な どの便宜 を図 ることになった。
1924年
に行 われ た総選挙では
,労働 党 と国民党がスマ ッツ率い る南ア フ リカ党 を破 り
,ヘル ツォークが首相の座 に就 く。ヘルツォー クは
1939年に
,第二次世界大戦 には中立の立 場 を保 つて参戦すべ きでない と唱 え
,議会 と対 立 したため退陣 し
,イギ リスが再びスマ ッ
ツを首相 の座 に据 えた
.もとも と親 イ ギ リス派 であつたスマ ッツは
,南アフ リカ を第二次
世界大戦 にイ ギ リス と同 じ連合軍 として参戦 を決定す るが
,また もや アフ リカーナー の反 感 を買 うことになった (コ ノ リー 2003).
第二次世界大戦後 は
,世界各国で植 民地支配 か らの独 立運動 が活発化 し
,南アフ リカ内
部 のアフ リカ人の間で も
,抵抗運動 の兆 しが見 られ る よ うにな る。その中心的役割 を果 た したのが
,アフ リカ民族会議 と
1920年にできた南アフ リカ共産党である。初期 のア フ リカ 民族会議 は差別撤廃運動 として
,数々のボイ コ ッ トや ス トライ キな どを行 つた。 コノ リー (2003)の 指摘 による と
,南ア フ リカ共産党 は もともと自人労働者 のための組織 であつたが
,や がて 白人・ 黒人 の区別 な く南ア フ リカ にお け る労働環境 の向上 のた めの運動 をす るよ う
になった
.(4)ア
ノウレトヘイ ト
1948年
に国民党がアパル トヘイ ト政策 を前面に出 し
,政権 を獲得 した こ とか ら
,その後
次 々 とアパル トヘ イ トに関す る法律 が成 立 してい く。まず異人種 間の結婚 な どを禁 じる雑
婚禁止法 と背徳法それ ぞれ
1949年と
1950年に制定 され
,さらに人 口登録法
(1950年)に よ つて人々の人種が分類 され ることになつた。同 じく
1950年に作 られ た集 団地域法では
,自人
,黒人
,カラー ド
,アジア系に分 け られ た人 々が
,別々の居住地に振 り分 け られた。黒 人 は民族 ご とにバ ンツー スタン
,またはホー ム ラン ドと呼ばれ る居住 地 に追いや られ た。
黒人 は南ア フ リカの国民 ではな く
,バンツース タンの市民 とみな され
,南ア フ リカの都市 で働 く際には
,外国人労働者 として扱 われ るこ とになつた
.また
,黒人 は 白人 の居住 区 と の往来のために
,許可証 (パ ス )を 常 に携帯す るよ う
,パス法で定め られ た。この よ うに
,アパル トヘイ ト法に よつて様 々な規制が行 われたが
,そのため
,黒人 だ けでな く
,それ まで は 自人 による差別 に悩 ま され るこ とのなかつたカ ラー ドか らも不満 の声 が聞かれ るよ うに なった。
1949年,ア
フ リカ民族会議の若手
,ネル ソン・ マ ンデ ラや ウォル ター・ シスル らが 「行 動計画」 を発表 し
,ストライ キや ボイ コ ッ トな どによる政府へ の抗議運動 を呼びか けた。
そ して
1952年には不平等 な法律 に従わない不服従運動 を展開 した ことで
,マンデ ラをは じ め とす るアフ リカ民族会議 のメンバーは逮捕 され
,裁判 が行 われ た りしたが
,それ で も人々 の不服従運動 を通 じた政府への抗議 は続いていった。
1955年の 4月
,ジョハネスバー ダ近 郊 で
,南ア フ リカ国民の代表が話 し合いのため
,人民会議 を開催 した
.いろんな人種や 民 族 の代表者 ら
3000名が参加 し
,人種差別 のない民主的な国家作 りを 目指 した 自由憲章が作 成 され た
.しか し,政府 はこれ を認 めず
,1956年にはマ ンデ ラを含む反 アパル トヘイ ト活動家 ら 150 名 以上 を
,反逆罪 で捕 らえた
.その際 に捕 らえ られ なかつた活動家た ちに も活動禁止令 を
出す な どして
,南アフ リカ政府 は反 アパル トヘイ ト運動 を鎮 めよ うとした。
1958年に国民 党党首のス トレイ ダムが死去す る と
,それ までのアパル トヘイ トの法律制定 の中心人物 で あったヘ ン ドリク・ フェル ウール トが首相 とな り
,アパル トヘイ トを さらに強化 させ てい った
.マ ンデ ラな どア フ リカ民族会議 の主要 なメンバーは人種 を超 えた和解 と協力 を 目標 とし ていたが
,黒人民族 主義 の考 えを持つ メンバー か らは批判 の声 も上が った
.そしてそれ ら のメンバーは
1959年にア フ リカ民族会議 か ら離脱 し
,パンアフ リカニス ト会議 を組織 し
,翌年 3月
,5000人に上 る人々を率いてパ ス法 に抗議す るためシャープ ビル の警察署 を取 り
囲んだ。
60名以上の死者 と
180名以上のけが人 がでた。 これ を受 けて南アフ リカ政府 は同
月 に非常事態宣言 を し
,4月にはアフ リカ民族会議 とパ ンア フ リカニス ト会議 の活動 を禁 じ
た。白人 とイ ン ド人 をそれ ぞれ
100人近 く
,カラー ドは
30人以上
,黒人 にいたつては
1万人以上 を逮捕 し
,捕らえた黒人 の数 百人 に対 して暴行 を加 えた
.イン ドのガ ンデ ィー の影 響 で
,アフ リカ民族会議 とパ ンア フ リカニス ト会議 の どち らも非暴力的運動 による政府ヘ の抗議活動 を続 けていた
.しか し政府 による度重なる暴力 によつて
,2つの組織 は ともに軍
事組織 を形成す るまでに至 る。
シャープ ビル事件 によつて南ア フ リカにお けるアパル トヘイ ト制度 は世界 中で大 きな波 紋 を呼び
,国連 の場で も
1952年以降アパル トヘイ トヘ の非難が相次いだ。
1961年になる と
,反逆罪 で捕 らえ られ ていたマ ンデ ラは無罪 として釈放 され たが ,政 府 の監視 か ら逃れ るため逃 亡生活 をは じめた
.そして翌年
8月 ,ジョハネスバー ダ郊外の リボニアにあるア フ リカ民族会議 の軍司令本部が警察 にみつか り
,その際 に国内でのゲ リラ戦 の計画書 な ど が押収 された。10月 にはマ ンデ ラをは じめ とす る
10人の活動家 に対 して
,裁判が行 われ る こ とになつた
c裁判 は長期化 し
,1964年6月
,マンデ ラを含む 中心的活動家たちには終身 刑 が言い渡 され た。
1970年
代以降
,政府 は
10ヶ所 のホー ムラン ドを独 立国 として 自治権 を与 えることで
,ア フ リカ人 を狭い不毛の地に押 し込 め
,経済的 に も苦 しい生活 を強いた。その中でホー ム ラン ドの一つであ るソウェ トにおいては
,アフ リカー ンス語教育 を強制す る政府 とア フ リ カ人 との間で騒動が起 こ り
,500名以上の死者 が出た りした
.1980年
代 に入 る と
,首相 の
「
旺 ボー タはカラー ドとイ ン ド系の人 々の参政権 を認 める新 しい憲法 を制定す るが
,あくまでそれ ぞれ の人種 を別 々にわける
,とい う姿勢 は変わ らな か った
.また この憲法 に よつて
,議院 内閣制 か ら大統領制へ と移行 し
,ボー タが大統領 に
就任 した
.アフ リカ人の間では不満 が蓄積 され
,アフ リカ人の暴力事件 が頻繁 に起 こるよ うになつた。
1989年にボー タが病気 で大統領 の職 を辞す と
,EWデクラー ク大統領政府 が 誕生す ることになつた
.デ クラー クは様 々な改革 に取 り組 んでい くが
,最初 に数名 のアフ リカ民族会議 の指導者 を無条件 で釈放 した。ボー タ政権 の頃に も
,政府 とマ ンデ ラ との水面下での交渉 は行 われ ていたが ,話 はま とま らなかつた
.しか し
,シスル な どのアフ リカ民族会議 の指導者 がデ クラー クに よつて釈放 され た ことを知 り
,マンデ ラはデ クラー ク との話 し合 いの場 を持つ こ とに した
.デクラー クはマ ンデ ラ との話 し合 いの結果
,アフ リカ民族会議 をは じめ とす る
33の組織 の活動禁止令 の取 り止 め と
,政治犯 の釈放 を決 め
,1990年 2月にはマ ンデ ラ
も釈放 され た
.10
2.3
現在
1994年 4月 ,南
アフ リカ共和国にお ける初 めての全人種参加 による国政選挙が行 われ
,5月 にはマ ンデ ラが正式 に大統領 に就任 した。マ ンデ ラが真 っ先 に取 り組 んだ問題 の一つは アパル トヘ イ ト時代 の犯罪 である。マ ンデ ラは真 実和解委員会 を設 立 し
,アパル トヘイ ト
時代 の犯罪 を明 らかに しよ うとした。それ はアパル トヘイ ト体制下で行 われ た犯罪 につい て
,被害者 だ けでな く加 害者 も真 実 を告 白す る
,とい うものだ
.自ら自分 の罪 を告 白す る ものは赦 され
,裁判 を受 けることもないが
,委員会 に よる招集 に応 じない ものは裁判 にか け られ た
.真実和解委員会 は
,人種 を超 えて痛 み を共有 しよ うとい う試 みで あつたが ,被
害者 の中には加 害者 が罰せ られ ない とい うことに不満 を持つ者 もい る。
マ ンデ ラはまた
,復興開発計画 に も着手 した
.その内容 は公共事業 による雇用創 出や保 健・ 教育・ 福祉 の向上で あ り
,一定の結果 を出 してはい るが
,国民の 中には不満 を抱 いて い るもの も少 な くない。なぜ な ら
,失業率 はあいかわ らず高い ままで
,貧富格差 の是正 も
進 んでいないか らだ。失業だ けでな く
,エイズの蔓延 も南アフ リカ共和国が抱 える大 きな 問題 である。
マ ンデ ラは任期終了の
1999年で大統領職 を退 き
,マンデ ラ政権時 には副大統領 としてマ ンデ ラを支 えたターボ・ ムベキが現在 は大統領 に就任 してい る。
3
スー ダン
3.1
スー ダン
(1)
国の概要
スー ダンは
250万 kピの国土を有 し
,面積 ではア フ リカー を誇 る。その広い国土にお いては地域 によつて 自然環境 も異 なるが
,北部・ 中部・ 南部の
3つに分 けてみ ることがで き る。まず
,エジプ トとの国境 か らエル・ フィ ッシヤ
とカ ツサ ラよ りも北の地域 は
,高温 であ りなが ら雨量 は少 ないため
,一部 を除 き砂漠 と半砂漠 となってい る。中部地域 も高 温 であるが雨季 には若干 の雨が降 るので
,サバ ンナ地帯 になってい る。南部地域 もや は り 高温であるが雨量が多いため,サ バ ンナ地帯や熱帯雨林 を有 してい る。スー ダンの人 口は
3,552万
人でその うちの
494万人 が首都ハル ツー ムで暮 らしてい る。スー ダン国内でみ られ
る宗教 にはイ スラム教
,キリス ト教
,土着宗教がある
.ハルトゥーム
幼ヴて'多絆 聯 「
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『イニグル
7‑ルコル 「 フアン
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ガザールエタアかリア
地図
3.1‐1スーダン周辺地図
(出 典 )外 務省
,2006,各国インデ ッ クス (ス ーダン
)地図
3.1‐2スーダン
出典
)富田正史
,1992,『スーダンにおける国民統合』
晃洋書房
.スーダンにおける人種 を大きく区分すると
,アラブ系 40%,ア フリカ系 31%,ベ ジャ族
7%と
なる
.富田正史
(199"は,1955ノ
56年に行われたスーダンの国勢調査結果では
,56の種族 と
597の部族が存在 しているとされ
,アフ リカの中でも複雑な民族構成を有 した多民 族国家である
,と述べている。 1955ノ
56年以降に行われた国勢調査では
,国民統合の流れに 反す ると考 えられたためか
,部族や民族 についての項 目はな く
,したがつて国勢調査 によ る民族の分類は現在でも
1955/56年のもの しか資料はない 1955ノ
56年のスーダン国勢調査 における民族構成の結果 を,富 田の記述をもとにまとめると以下のよ うになる (富 田 1992).
北部の民族集団にアラブ系スーダン人
,ベジャ人
,ヌビア人
,フール人・ その他
,ヌー
バ人
,インゲ ッサナ人に分けられ る。アラブ系スーダン人は全人 口の
39%を占め
,人口比
率の上でも
,政治・経済においてもスーダン独立以前か ら中心的な存在である
.ベジャ人 は全人 口の
6%を占め,遊牧や農耕で生活を営んでいる。ベジャ人はアマラル,ブ シャ リン
,ハデンダワ
,ベニ・ アマルな どの下位集団に分 けられ るが
,アラビア語やイスラム教の影
12
響のた め
,ベジャ人独 自の文化や言語 は失われつつある
.ヌビア人は人 口の
3%を占め
,ヌビアのナイル流域 に住 んでい るが
,アラブ系スー ダン人 との婚姻 によ り
,その文化的身体 的 同化 が進 み
,伝統文化 は失われ つつ あ る。ア ラブ系 スー ダン人 との同化 が他集 団 よ りも 進 んでい るためか
,政府 の高官 にな るもの も増 えた
.フール人 は全人 口の
2%で ,現在 で も 固有の文化 と言語 を維持 してい るが
,多くのフール人 はイス ラム教 を受 け入れ
,アラ ビア
語 も話す よ うになつてい る
c白ナイル と青ナイル の間に位置す るエチオ ピア との国境 地帯 に農耕 民 として暮 らしてい るのが
,インゲ ッサナ人 をは じめ
,コマ人
,ベル タ人 な どのフ
ンジ集 団である。
北部 よ りもさらに人種 的
0文化 的多様性 を持 つ南部 にお ける民族集 団は
,ナイル系
,ナイル・ハ ム系
,スーダン系 に大別 され る
.ナイル系 にはデ ィンカ人
,ヌアー人な どがい る。
デ ィンカ人は人 口の約
10%を占めてお り
,アラブ系スー ダン人 の次 に多 く
,人口の
5%を占めるヌアー人 と
,歴史 の中で衝突す ることも少 な くなかつた。ナイル・ハ ム系 にはバ リ
,クク
,マンダ リ
,ニャングフラ
,カクフな ど多数 の民族集 団が含 まれ
,各民族 間の関係 も 非常に込み入 つた ものである。スー ダン系 は人 口の
2%を占めるザ ンデ人 の他 は
,たくさん の少数民族 に区分 され る。
スー ダンの公用語 はア ラビア語 と英語であるが
,民族 固有 の言語 も多数存在 してい る。
(2)国
の経済
農 業 はスー ダンに とつて欠 かせ ない産業 であ る
.富田による と
,スー ダンは広大な国土
の うちの
25%が砂漠 であるが
,少な くとも
8000万ヘ クタールの土地で耕作が可能である のに
,現在 はその うち
680万ヘ クタール程度で しかない。スーダンは灌漑施設の普及や耕 作地の拡大 を最大限に行 えば
,アフ リカ全土に食糧供給 も可能 である
,と言 われ るほ どの 可能性 を秘 めてい る (富 田
2002).スー ダンの農産物 として有名 な ものには綿花や落花生
,ア ラ ビア ゴムな どがある。
また
,スー ダンは豊富な鉱物資源 を有 してい る。主な資源 には
,石油
,金,銀
,鋼 ,亜鉛 な どが含 まれ るが
,富田(20021175)は 「その多 くは南部 にあ り
,内戦が終わ らないかぎ
り
,その開発 は将来の ことになる」 としてい る
.2004年
のスーダンの国民総生産 は
196億ドル で
,経済成長率
6.6%はであるが
,失業率 は
15。4%であつた。
13
3.2
スー ダンの歴史
(1) 19世 紀以前
スー ダンでは紀元前か らナイルメ
││を中心 に
,多種多様 な人 々が生活 を営んできた。紀元 前
8世紀 か ら
7世紀半ばまでには
,エジプ ト植 民地であつたクシュが反対 にエジプ トを支 配 下に収 め る とい つた動 きがあつたが
,その後 は様 々な集 団がそれぞれ勢力 を振 るつてい た
.メロエ もその一つであつたが
,メロエ は中東文化 をスーダンの地 に持 ち込んだ とされ てい る。
4世
紀 に入 るとメロエはその力 を失い
,新しい勢力が生まれてい くが ,6世 紀の中頃まで にはそれ らの支配層 はキ リス ト教化 され ていき
,ヌビア と呼ばれ る文化 を発展 させ てい つ た (富 田
1992:2).7世紀以降にな る と
,ムス リム
(イス ラム教分 であるアラブ人がスーダン に住む よ うにな り
,そのためキ リス ト教徒 たちは力 を失 つてい く。
16世紀 に入 る と
,青ナ
イル流域 にフンジ国が ,ダ ル フール地方 にフール国がアラブ人イス ラム教徒 らの手 に よつ て作 られ た。 この二国に よつてイ ス ラム勢力 は
,現代 のスー ダ ン北部 にお けるイス ラム勢 力 につながつてい るのである。
(2)植
民地時代
金 と象牙 と奴隷 を求 めるムハ ンマ ド・ ア リーが
,1820年に軍隊を率いてスーダンにやつ て くる と
,フンジ国は翌年 にはその支配下に置かれた。
1874年にフール 国が征服 され る頃 には
,トル コ・ エ ジプ トは現在 のスーダンのほ とん どを植 民地化 していた。
「
1881年,イス ラム世界の救世主である『 マフデ ィー』 を自称す るムハ ンマ ド0ア フマ ドが反乱 を起 こ し…… トル コ・ エ ジプ ト軍 を打ち破 り
,1885年には
,征服勢力 の本拠地…
…ハル トゥームを陥落 させ た」 (富 田
1992:9.マフデ ィーはその後 まもな く死去 し
,アブ
ダ ッラーがかわつてスー ダンを率いた
.だが
,1898年には再びイギ リス とエ ジプ ト軍 に攻 め入 られ
,イギ リス・ エ ジプ ト両国による共同統治下 に入 る
.その後 スー ダンが独立 を果 たす まで
,50年以上 にわたつてイ ギ リス・ エ ジプ トによる植 民地支配が続 くが
,エジプ ト
もイギ リスの支配 下にあつたため
,事実上スー ダンはイ ギ リスによつて支配 され ていた。
よってスー ダンにお ける政治や軍事 を取 り締 ま る総督 はイ ギ リス人 ばか りであつたが
,エジプ トのナシ ョナ リズムの気運が高まつた
1924年,総 督 である リー・スタ ックが殺害 され
,エ ジプ ト軍 による反乱が起 こつた。イギ リスはその反乱 を速やかに沈 めた後
,スー ダンを
単独 で支配す る体制 を強 めてい つた
.14
一方
,スー ダン住民内部 では
,南部 での奴隷狩 りや象牙狩 りな どに端 を発す る争 いが激 化 した
cアラブ系 スー ダ ン人が支配者側 と手 を組 んでいたため
,南部住 民はア ラブ系 スー
ダン人 を恐れ
,両者 の関係 に深 い亀裂 を走 らせた。
イ ギ リスは民族 ご とにスー ダン住 民 を分 けて支配 をすす めてい き
,南部 をキ リス ト教宣 教師 に よつて支配す るこ とで,北 部 のイス ラム勢力 を南部 までは持 ち込ませ なかつた。1930 年 には さらに南部政策 が提案 され る。南部政策 の内容 はア ラブ系の役 人や商人 の排 除や共 通語 としての英語 の奨励 な どであつた。それ は表 向きには
,南部住 民 の北部住 民か らの保 護政策 であった。南部 にお けるア ラブ・ イ ス ラム勢力 を弱 めるこ とで
,南部 の文化や伝 統
を守 り
,西欧文化 の導入 を図つたのであ る
.だが実際 の ところは
,エジプ トのナ シ ョナ リ ズムを南部まで波及 させ ないための ものであつた。富 田
(199"は,南部政策 は南北分断 と民 族集 団間の分断 の両方 が意 図 され ていた としてい る。
や がて
1956年にスー ダンは独 立 を勝 ち取 るが ,「 それ は南北間の政治的経済的格差や民 族集 団間の社会的文化的相違 を残 したままの独立」であっただけでな く
,「独立後 のスーダ ンの諸問題 の多 くはこの植 民地時代 につ くられた といつて も過言ではない」と富田(1992:5) は述べてい る
.(3)
第一次 内戦
スー ダンでの第一次内戦 は
,独立の前年
1955年に勃発 した。
1952年か らイギ リス 。エ ジプ ト間で もスー ダン独 立に向けての話 し合いが行 われ
,準備 は着実 に進 め られ ていた
.しか し
,スー ダン住民である北部人・南部人 の交渉は
,それ までの両者 の関係 が尾 を引き
,なかなか上手 くは運 ばなかつた。南部人 には独 立国スー ダンにおいて重要 なポス トはあて がわれず
,南部 にや つて きた北部人官吏 は行政 にきちん と取 り組 まなかつた。そ うして南 部人 の不満 は高ま る中で
,南部人 に対す る不 当な裁判や織物工場が行 つた南部人 の大量解 雇 の問題 が起 こつた。抗議運動 にでた南部人 と北部人 の間の争 いが続 き
,両者 は多 くの死
傷者 を出 し
,政府 は北部人兵士 を南部へ派兵す る。南部人が降伏 し
,争いがお さまるかに
見 えたが
,南部兵士はその後ゲ リラ活動 を開始す る
c1858年 ,ア
ッブー ド軍事政権が,ク ーデ ター によ り誕生 し
,1963年に生 まれ たアニャニ ャ と呼ばれ る反政府組織 の存在 も一因 となつて
,南部 との戦い は よ りい つそ う激 しさを増 す ことになる
.多額 の軍事費に よつてスー ダンの経済 は行 き詰 ま り
,その結果
1964年に軍 事政権 は終わ りを告 げる。
15
南部 問題 についての議論 を行 うためにハル トゥー ムの大学生が開いた集会 に
,警官 隊が
介入 し
,多くのけが人 と死者 が一名 出た
cこの事件 によつて大衆の政府批判 が強ま り
,様々 な業界 にお けるス トライ キが起 こつた
.そうしたなかで裁判所長官 で あつたア フダ ッラー を中心 に
,国民戦線 が組織 され た
.また
,この事件 に よつて共産主義者 の動 きも活発 にな り
,それ と対抗す る形 でイスラム原理主義者 もハル トゥー ム大学の法学部部長 であつた ト ゥラビー を指導者 に
,イス ラム憲章戦線(ICF)を 結成 した。
ア ッブー ドが政権 を去 る と
,早期 の総選挙実施 または内閣改造 を唱 える人 々が現れ
,彼らは統一国民戦線
ONF)をつ く り
,共産党 は労働組合 な どと共 に社会民主戦線
(SDDを立ち 上 げた
.この よ うに北部・ 南部それぞれ において多数 の政治的・ 思想 的組織 が形成 され て い ったが ,政 府 は南北の話 し合 い の場 を持つた め
,それ らの代表的組織 と会合 を重ねてい った。
1969年
クーデ ター に よつて
,共産主義者 とア ラブ民族 主義者 の支持 を集 めるニメイ リが 政権 を握 つた。ニ メイ リと支持者 らは手始 めに多数 の政治家 を捕 らえ
,スー ダンを社会主
義 国にす るための基盤 を築 こ うと した
.ニメイ リらの暴挙 に新 たなクーデ ターが起 こ り
,ニメイ リも一度は捕 らえ られ るが
3日後 には再び権力 を取 り戻 した
eする とニメイ リは共 産党勢力 を一掃 し
,社会主義国家 の建設 か ら
,国民統一 と経済発展へ と方 向転換 を図つた
.ニ メイ リはその新 たな 目標 を現実 の もの とす るため
,内戦終結 のために動 き出 した
.ニメ イ リはスー ダンにお ける南部人 の権利 を保 障 し
,南北 の住 民 に よる相 互理解 がスー ダ ン統 一 に必要不可欠で ある と訴 えた
.彼の発言 は南北両住 民の間で物議 をか も したが
,南部人 閣僚 のア リエル の奮闘 によ り
,政府 と南部 に内戦終結 に向けた環境 が徐 々に整 つてい つた
.そ して
,エチオ ピアのアデ ィス・ アベバ で交渉 が開始 され た。 こ うして第一次 内戦 はアデ ィス・ アベバ協定の締結 に よつて
17年に も及んだ内戦 は終結 した。
(4)
第二次 内戦
ニメイ リは強力 な一党独裁制 によつて
,1985年まで長期 にわたつて政権 を握 った。 しか し反政府勢力 によるクーデ ター計画 な どが絶 えず
,政治的 な安 定 は決 して強 固な ものでは なかつた
.スー ダンの第二次内戦は
1983年,南部人兵士 による反乱 で幕 を開 けた。元政府 軍 の将校 で あったガ ラングが反乱鎮静化 のために南部へ送 られ たが
,ガラングは逆 に南部
人民解放運動(SPЫ
Oや南部人民解放軍 (SPLA̲pを 組織す る指導者 となつた。富 田
(199"によ る と
,南部兵士 らの反乱 は北部へ の配置転換や
,北部兵士の南部兵士 に対す る暴虐 な ど
,16
様 々な不満 が折 り重 なつた結果 で ある。アデ ィス・ アベバ協定 の締結後
,南部人 は教育環
境 の改善や経済開発 に大 きな期待 を寄せ ていたが
,実現 しなか つた
eしか し
,ジョン レイ
運河 と石 油採掘 の計画 だ けは着実 に進 め られ てい つた。だが
,どち らも南部住民が期待 し ていた よ うな効果 は生まれず
,政府への不信 と不満 が充満 していつた。またニメイ リは
,石 油採掘地 である北部 と南部 の境 目に位 置す る地域 を北部へ編入 しよ うとした ことで
,南部人の反感 を買つた。や がて南部 の反乱勢力 は上記 の二大事業 に従事 していた フランス人 とアメ リカ人技術者 を誘拐 したため
,開発 は暗礁 に乗 り上 げた。
ニメイ リは国会 において南部の分割 を提唱 し
,分割 によつて民意 が政治 に反映 されやす くなる と訴 えた
.しか し実際には
,南部 にお ける資源 に 目をつ けたヌ メイ リは
,南部 内で
の対立激化 と中央政府 の影響力 の強化 を狙 つていたのである。
SPLM/SPLAは スー ダンの抱 える問題解決のため,社会 と政治 の変革 をめ ざ して活動 を 行 つてい る と主張 してい る。彼 らは 「スー ダンの よ うな人種的民族的宗教的 に多様 な国 を 統一す るイデオ ロギー は『 社会主義』 しかない との観 点に立 ち
,スー ダン全体 に社会主義 体制 を実現」 (富 田
1992:60しよ うと試みてい る。
2005年
1月 に
,スーダン政府 と
SPI劇[が 国際社会 の声 を聞き入れ る形 で
,南北包括和平 合意 が成 立 し
,20年以上 にわたつて続いた第二次 内戦 も終結 した̀ダル フール において も
, 2004年に停戦合意がな されて一度 は終結 したかに見 えたが
,いまだに民兵 の襲撃が続 き
,治安 は悪化す る一方である。
5
考 察
2章