九州大学学術情報リポジトリ
Kyushu University Institutional Repository
The Smrti Chapter of Kumarila's Tantravarttika, annotated translation (1)
針貝, 邦生
https://doi.org/10.15017/2328685
出版情報:哲學年報. 33, pp.43-75, 1974-03-30. Faculty of Literature, Kyushu University バージョン:
権利関係:
43
タ ン ト ラ ・ ヴ ア ー ル テ ィ カ 聖 伝 章 和 訳 研 究 (1)
針 貝 実 R 生
略 号
JS: Jaimini SiUra ( =Mimiitrisii Siitra), Anandasrama Sanskrit Series No. 97, Poona 1929
SBh: Sabarabhii/Jya,版本は上lと岡じ。
TNV: Tantraviirttika, A本 AnandasramaSanskrit Series本 B本 BenaresSanskrit Series本
NS: Nyiiyasudhii, A commentary on Tantraviirttika by Somesvara Bhatta, Chowkhamba Sanskrit Series 1901 & ff.
聖伝(Smrti)章はミーマーンサー・スートラ第一篇第三章 (JSAd‑
hyaya I Pada 3)に位置し, 35のスートラより成りその論題(Adhi‑ karai:ia)は次の通りである。
JS 1‑2 論題1 Smrtipramai:iya Adhikarai:ia
JS 3 論題2 Srutiprabalya (or Virodha) Adhikarai:ia JS 4 論題3 Dr~tamulakasmrti-a pramai:iya Adhikaral)a JS 5‑7 論題4 Padarthaprabalya (or Si号takopa)Adhikaral)a JS 8‑9 論題5 Sastra prasiddha padartha‑pramal)ya ( or
Yavavaraha) AdhikaraIJ.a
JS 10 論題6 Mlecchaprasiddhartha‑pramaIJ.ya ( or Pikanema) Adhikaral)a
JS 11‑14 論題7 Kalpasiitra ‑asva ta]J. pramal)ya AdhikaraQa
44 タントラ・ヴ7ールティカ聖伝章和訳研究(1)
JS
1 5 ‑ 2 3
論題8 S a m a n y a s r u t i k a l p a n a
(orH o l a k a ) A d h i k a r a l ) a
JS
2 4 ‑ 2 9
論題9 S a d h u p a d a p r a y u k t y a
(orV y a k a r a l ) a ) A d h i k a r a n a
JS
3 0 ‑ 3 5
論題1 0 A k r t i s a k t i A d h i k a r a l ) a
乙の論題分類は Sabarabha手ya
t
乙基づくものであるが,Kumarila
は しばしば Bhll$Yaの論題設定に対して批判的である。またKumarila
は Sutraの解釈が許す限り Bhll$Yaを離れて独自に論題を設定することも ある。たとえば第7
論題(K a l p a s u t r aA d h i k a r a I J . a
)を仏教等の聖典批 判として新たに論題を設定する如くである。すなわちこの聖伝章は非Veda
聖典の法(Dharma
)に対する量性(p r a m a I J . y a ;A u t h o r i t y
)を論 ずる一章であるから,仏教聖典等の非Veda
聖典についても乙の章の中 で論ぜられ得るのである。従って上の論題分類は Sabarabhll$YaI乙基づく便宜的なものと考えてよいであろう。
乙の聖伝章に対する Tantr削 減rttikaは
S m r t i c a r a I J . a v a r t t i k a
とも呼 ばれ, Nyayasudhaは乙れを前半(P u r v a r d h a
)と後半(U t t a r a r d h a )
に分っている。前半は第8論題までであり,事実前半と後半は内容上かな りi趣きを異にする。けだし,この論題までの前半に含まれるものの考察対 象は法典・慣習等の主として行為に関係するのに対し,後半の主題は言語 に関係するからであろう。本稿は第
1
論題の中心的部分の和訳研究を目的とし,次稿において第1
論題の完結を期する予定である。Tantravarttikaは おbarabha$yat乙対する批評的註釈書という性質 のものであるから,本稿ではJaimini Sutraと Sabarabhll$Yaの和訳 を詰みた後 Tantravarttikaの和訳を示した。 Tantravarttikaの和訳 の番号は便宜的に筆者が付したものである。
タントラ・ヴアールティカ型伝箪和訳研究(1) 45
JS
I. 3. 1 dharmasya sabdamiilatvadasabdamanape同
a:ipsyat (P匝rvapak!ila)法は(Vedaの)言葉にl基づくが故に(Vedaの)言葉ではないもの
(たるSmrti)は(法に対して)関りのないものであるう。
SBh
adJS
I. 3. 1 (Piirvapak明)以上のように先ず一切の Vedaの(法に対する)量性が述べられた。さ て今度は Vedaの言葉をわれわれが認得せず, また「乙のようにこの事 柄は乙の目的のために実行されるべきである」と人々が記憧している(=
Smrti に述べられている)場合(の法に対する量性)を考察しよう。例えば,
(a)
「
A号taka〔冬期(HemantaとSisira)満月後第8日の祖霊祭〕が 為さるべきである。(a号takal:tkartavyal:t)」(b) 「師は従わるべきである。(gururanugantavyal:t)」 (c) 「水溜めが掘らるべきである。(ta<;lagaIJJ. khani tavam」) (d) 「(旅人用の)水飲み場が作らるべきである。 (prapa pravar‑
tayitavya)」
(e) 「髪房を整える行為が為さるべきである。 三(ikhakarmakar‑ tavyam)」
等(の Smrtiの規定が考察の対象であるり。
それに対して(Purvapakが)述べられる。「法は(Vedaの)言葉に基 づくが故に(Vedaの)言葉でないものは(法に対して)関りのないもので あろう
u s
I. 3. 1)」と。法とは(Vedaの)言葉の対象である, とす でに述べられた。 codanalak;mr.w'rtho dharmal:t (JS I. 1. 2)「Veda の教令によって示される対象が法である」と。それ故(SmrtikはVedaの 言葉という)根拠がないから無視さるべきである,と(いうのがPnrvapak の主張である)。46 タントラ・ヴアールティカ聖伝章和訳研究(1)
仁反論〕乙の行為は乙のように為さるべきである, と知っていた人達 (=Smrtiの作者逮)は,なにゆえに乙の乙とは為さるべきではない,と主 張するであろうか2)?
〈答〕 (問題となっている行為に関する)想起が不可能であるから(Smrti の作者が誤った乙とを言うのである)。すなわち,経験されず直接 Vedat乙述 べられていないζとが想起されるととはない。 また乙の Veda t乙属する 乙とでもなく世聞に属する乙とでもないものの想起は不可能である。なぜ なら(想起の根拠となる)前知(
p i i r v a v i j
前回)の原因が存在しないからで である旬。 (その場合の惣起を響喰で示せば次のような乙とであろう。)ある石女 がいて, 「乙れは私の娘の子が作ったものだ」と想起したとする,しかし「私には娘はいない」と(彼女は)考えてからその(初めに想起された)知 が正しいものであるとは決して理解しないであろう九
E
反論〕たとえそうであっても(Vedaの場合)伝統によって断絶がない という乙とに基づいて, 乙れは Vedaである, というとれらの人々の想 起が量である(と考える)のと同様に, 乙れ(A平taka等)もまた量となる であろう向。〔答〕そうではない。なぜなら(Vedaの場合には)テキスト(grantha) は直接に認得されるから,前知が不可能という乙とはないからである。し かし不可見の効果をもつものである
A
科aka等の場合には前知の原因が 存在しないが故に錯乱の記憶であると理解される。響えて言えば,ある生 れながらの盲人が「私は乙の特定の色を記憶している」と言うとする。「どとからあなたの前の知は(生じたのですか)?」と間われたその盲人は,
他の生れながらの盲人を(その前知の根拠として)指し示すであろう。「その 人の(前の知は)どこからですか?」(と関われるとさらに)「別の盲人から」
と(答えるであろう)。乙のようにして生来の盲人の連続(に基づく色の認識)
がある(と主張する)としても知性ある人々はそれが正しく見られたもの であるとは理解しないであろう。
タントラ・ヴ7ールティカ聖伝章和訳研究(1) 47 それ故そのようなもの(である Smrti)は尊重きるべきではない。 (法に 対して)関りのないものであろう(と Pnrvapak切は結論する)。
1)乙れらの Vi事aya‑vakya(考察対象の例文)は特定のSmrti文献からの直 接の引用ではなく, Smrtiの規定内容を一般化して述べているに過ぎない。 Cf. D. V. Garge, Citations in Sabara‑Bhiisya (以下 cSBh), pp. 248‑9; (a) A号takii.は諸 Grhyas置tra(家庭経)の規定するもの。詳細については P. V. Kane, History of Dharmasiistra (以下 HDh8), Vol. IV, pp. 353‑360;
(切については cSBh, p. 249; (c) (d)については HDhS, Vol. Il, pp. 889‑890; (e)については HDhS, Vol.
n .
p. 264ff.を見よ。2)との設問については TNV15 3)との答えについては TNV16 4)乙の暫喰については TNV17 5)との反論については TNV18
TNV
adJS I .
3. 1 (P百rvapa~a)1
以 上 の よ う に Vidhi(儀軌), Arthavada (釈義), Mantra (真言〉, Namadheya1> (祭名)より成る Vedaの法に対する適用が証明された。乙 れから人の手になり記憶されている事柄である限りのマヌ等によって幻著 わされた作品たる Smrti<聖伝),および(作品として)表わされていえZい Acara幻(慣行)に対して疑議がなされる九その場合伺らかのものが例出されて考察が行なわれるべきであるからマ ヌ等に基づきその著作中にある A~taka 等の記櫨が量・非量の考察の対 象として(Saharaによって)例出怠れている的。
1) India Office Libraryの TNV写本には namadheyaの語は欠けている (cf. Cataiogue of the Sanskrit Manuscripts in the Library of the India Office, Part IV, p. 684). Namadheyaの考察は乙のSmrtiPadaより後の 第4Pii.da (JS I. 4 Pii.da)でなされるから,乙の場合 namadheyaという語 はない方がよいと恩われる。 Vidhiは第1Pii.da, Arthavii.daとMantraは第
48 タントラ・ヴ7− )レティカ聖伝章和訳研究 (1) 2 Padaで考察された。
2) Kumiir¥laが Smrtiの名で乙の章で意識しているのは特に Manusmrti である。 Gautama, Vasi1?tha, Sailkhalikhita, Harita, Apastamba, Baudhii‑ yana等の法典(Dharmasiistra)は各 Vedaの学派(sakha)の中でのみ受け 入れられている,と Kumiirilaは第8論題で述べている。 Cf.TNV A本pp. 243‑244, B本p. 179,また KumarilaとManusmrtiとの特殊な関係につい ては, P.V. Kane, Tantraviirtika and Dharmasastra Literature, JBBRAS 1925のpp. 98‑100を見よ。
3)法源のーっとして Manusmrti II, 6等に出る sadacara(善人の慣行)
についてはJSI. 3. 7 I己対する Varttikaで特にー論題を Kumiirilaは設定 して詳しく論じている。
4), 5)はそれぞれ Sa也.gati, Vi号ayal乙相当する。以下2,3 ff.でSaiμ三aya とPurvapak が述べられる。結局 Purvapak1;1aSutraの下で論題の考察次 第の五支分(pafica‑avayava)の中の前回(Sailgati, Vi1;1aya, Saiμsaya, Pur‑ vapak与a)が表明される乙とになる。 Sailgatiが五支分の冒頭にあるととについ ては MaIJ.c;!anamisraのMimiimsiinukramanikiiIr.対する Jhiiの註釈(Cho・ wkhamba Sanskrit Series No. 377)を見よ。
2
疑惑の原因が表明される。(Smrti は)他の(量)に依存するものであるがゆえに,自体的にこれ らが量であるという確定はない。しかし(Smrtiには)量性がないと考 える乙とは(世間の人々によって Smrtiが量であると認められているととの)
確固たることによって排斥される。
(上の詩を説明する。)マヌ等の言辞は記憶に依存し,また記憶は根拠とな る量に依存するものであるからのmrtiの)一つにも Vedaのように無依 存の量性の決定がない。しかし Vedaを知る人々によって(Vedaとの)
差別なく(Smrtiの)断絶なき伝統が確固として保持されているのである から, (Smrtiは)非量であると決める乙とはできない。それ故疑惑が生 ずるのは妥当である。
3
そζで Piirvapak号aは「乙れら(Smrti)に量性がある乙とは期待 さるべきではない。」と(主張する)。何となれば,タントラ・ヴアールティカ聖伝章和訳研究(1) 49 前知(piirvavij白na)を対象とする知が想起1)であると言われる。前知
なしにはその量性は確定きれない。
1) Skt. smrtiは文脈によって「記憶J「想起」の訳語を与えた。聖伝文献を 意味する時は Smrtiとした。
4
すなわち,あらゆる想起は対象が現量等によって理解されている時,それと相を同じくして生ずるもので意味を確かにする九すなわち,乙の 場 合 A科aka等(Smrtiの規定)の天界等の目的と手段との関係を現量等
(の世間的な認識手段)は把えない, ということはすでに証明されたことで ある2。)
1) Skt. artharp samarthayantiは意味不明瞭, Jhaは strengthenthe idea ( of the object cognised) と訳している。
2) Slokavarttika ad
J S
I. 1, 2を念頭においた主張である。結果が趨感性的(不可見 adr号ta)である法(Dharma)に関してその目的(sadhya)と手段 (sadhana)の関係を把握せしめるのは Vedaの言葉(sabda)による以外はな い。しかしA持政邑等 Smrtiの規定に対してはその Vedaの言葉が得られな い乙とが以下現量(pratyak!;la)・比量(anumana)・聖教量(agama)・響機量 (upamana)・想定量(arthapatti)・不認得量(anupalabdhi)によって説かれ る。
5
Agnihotra等 csrutik基づく規定)の場合には(Vedaの)言葉が現量 によって(即ち直接聴くととによって)認得されるが, それと同様には(A!?・ taka等のSmrtiの規定に対してその根拠となる) Mantra1>は認得されない。1) Mantra によって Veda一般を表現しているのか明確ではない。 Mantra の証相 (linga「諾意」)がSmrtiの根拠となる Vidhiの存在を推量せしめると とを考慮しているのかもしれない。 Cf. SBh ad
J S
I. 3. 2 (Siddhanta)和訳6
(Smrtiの根拠となる Vedaの)言葉が現量によって得られない時,(根拠である Vedaの言葉が)存在する, と想定するねことは,(Smrtiが) 法である,と想定するよりもかけ離れた想定であろう。
50 タントラ・ヴアールティカ聖伝章和訳研究(1)
すなわち(Vedaの)言葉の唯一の量は現量である。もし Vedaの言葉 が現量によって理解されずとも「存在する」と主張されるならば(その SmrtiはVedaの言葉という)量を有しない法であると同意される方がまし であるへと(いうのが上の詩の意味である)。
1) Skt. prama早aζれについてNSは pramal).asabdenabhavavyutpattya kal panamabhipretamと述べている。
2)寄在しないsabdaを想定してその後にその sabdal乙基づいて法であると とを怨定するという複雑な想定のプロセスよりも,最初から法であるととを想定 した方が簡潔であるという想定のプロセスに関する laghava/gaurava論。
7
A号takaの(綬拠となる) srutiを想定するこの場合,比量も(妥当な量 となりえ)ない。なぜなら Smrtiはそれ(Sruti)によって遍充されてい ないし,あるいは他の比量に導くもの(anumapaka=
liri.ga)はないからである。
あたかも法に対する関係が見られないことによって如何なる証相も可能 ではないりのと同様に, A~taka 等の(根拠となる) Sruti (を想定する時)
にも(比量を成立たしめる証相はありえない)。
1) Stokavarttika ad
J S
I. I. 4 verse 96pratyak号el).agrhitva ca lingadyanyatamarp dhruvam / pravrttiranumanllderna ca dharme sti tadrsam / /
8
あるいは聖教(agama)一一常住なもの(nitya)であれ作られたもの (krtaka)であれーーによってそれ(Smrtiの根拠となる Vedaの言葉)が 知られることはない。作られたものに対する信頼はない。常住なものは(それ自体常住ではない Smrtil乙対しては)決して妥当とされない。
たとえ A計aka等の Smrtiは(聴覚という)感官に関わるものであるか ら人の作った聖教によって理解されることは可能であるとしても,それは 欺くことが最も多いから,信頼できない言辞を弄する人聞において確定さ
タントラ・ヴ7ールティカ聖伝掌和訳研究(1) 51 れる乙とがない。なぜなら聖教に属さない乙とを聖教に属するものと附託
して表明するある人達が今日でも見られるからである。それ故マヌ等によ っても A計akaの(根拠となる) Srutiが得られた上で Vedaに基づくも のであるζとが自分の著作で宣言されているのか,あるいは(Srutiが)認 得されずに信用されるに足る文章であることが意図されたのか,というよ うに悪しき人によって心が迷わされた人達には疑惑が生ずる。その事実だ けによっても(Smrtiの)量性は損われる。
(上の詩の「常住な聖教は妥当とされず」を次に説明する。)
9
常住な言説1)にとっては有始の記憶に基づくものを示す乙とに対して は作用することがない。また Mantraの証相は自ら(Smrtiの)根拠たる ことを示さない。何故なら(Mantraには)規定的要素が欠けているからで ある。また(Mantraは)論理によって到達されるような他の根拠を示す こともなし、。何故なら(Mantraの)目的とすること2)は(祭式執行に関係し た事柄を惣超せしめることにあり,何らかの根拠を示す乙ととは)別の乙とであ るから。さらにすべての Smrti作者にとって(その規定に)矛盾がないと いう乙とはない。 その理由は, Srutiに基づくと主張しながらも, その Srutiは人の作った聖教を介して得られたものだからであろうわ。1) Skt. nitya vacana, Jhaは theVeda itself,,の意味とする。
2) Bhiitta派が標務する Mantraの意義については拙稿「Mantraの機能に ついて」(印仏研21巻2号)を参照の乙と。
3) Skt. yena pauru亭eyiigamabaliidupalabdhapiirvasrutimulatvai:μ syiit Jhii訳 、ndhence on the mere strength of human assertions, we cannot accept the Smrtis to be based upon previously cognised Vedic textsは 誤訳であろう。
1 0
またかれら(Smrti作者遥)によって知何なる csrutiの)文章が(Smrti の根拠として)定められたかは知られない。 Arthavada等の形から多く52 タントラ・ヴアールティカ謹伝掌和訳研究(1)
の迷わ怠れた人達をわれわれは見出す。
もし Vidhiの文章のみがマヌ等 csmrti作者)によって得られた,とい うように乙の乙とがー方的に理解され得るとすれば,何らかの(上述した)
想定は可能であろラ。 (しかし事実は)今日でさえも(Vidhiの規定を称讃す る等の)他を目的とする Arthavada等の言説によっても迷っている人達 がいる。それ故かれら(マヌ等)に対しても疑惑が生ずる。
1 1
また死人を証人とする言説のように,失なわれた学派(姐k h a
) の Veda l乙 (Smrtiが)基づいていると組定する場合には気に入るものを(好むように)量となすであろう九それ故聖教によっても根拠は認得され ない。
1)乙の主張は23において再説される。
1 2
それに対して,聖書|聡量は対象が不可見なものである時,また類似した ものが確定されていない時には決して認められない。それ故それによっ ても根拠となる srutiは得られない。1 3
想定量(義準豪arthiipatti)によっても何らかの根拠が得られるという 主張があるが, それは(Smrtiは)量ではないという主張においても(あてはまる)。錯誤等は妨げられない(からである)。
すなわちもし Srutiを想定することなしには Smrtiが妥当とされない なら(SrutiはSmrtiの)正しい根拠となるであろう。しかし実際には夢に 基づくもの(svapnamilla)として(Smrtiは)成立する。従って(組定量 によって得られる根拠の正しさは)絶対的ではないから,想定量・比量にとっ て(Smrtiの根拠となる Srutiを得る)余地はない。
14 それ故に Srutiが不可得(anupalabdhi)の領域に到達される時,た とえ(Srutiとは異なった)他の諸根拠が存在するにしても(Srutiという)
意図された根拠がないのであるから「根拠の欠けたもの(nirmilla)」
(Bhii11yaの文)という表明がある。
タントラ・ヴアールティカ聖伝章和訳研究 (1) 53
(以上が Smrti の非量性論証に関する評釈。以下 Bha~ya の解釈およぴその 他の問題を取扱う。)
1 5
(Sabaraは次のような反論を掲げる。)「しかじかのことを方法とし, し かじかのζとを果報とするこの行為がなされるべきである,と知っていた 人達(Smrtiの作者)は(なぜ乙れは為さるべきではない,と主張するであろうか?円」と。換言すれば, 「乙のことが為さるべきである」とこのように知 っている人達がいたとすれば,そのように知っていながらその人達は何故 われわれを欺くために「この乙とは為さるべきではない」と主張するであ ろうか?(というのが Bhii!jyaの意味するところである)。
〔反論〕他の人々が「為さるべし」とこのように言い,また別の人々が
「為さるべきではない」と言うのではないのかめ?
〔答〕かれらに対しでも,これはかく記憶されている,と述べられる時 同様の理解が生ずるのであるから別人であることがどうしてありえょうか
(異なったζとを言う人がいるというようなことはない)。
あるいは「この行為は為さるべきではない」と知っていたマヌ等が,な ぜ誤りなくして世聞を踊すために「乙の乙とが為さるべきである」と言う であろうか, と(いうのが Bhii~ya の文の意味である)。
1) Skt. nanu ye vidurevarp.itikartavy_at~a eval!l pllalakascasau padiir‑ thal) kartavyal) (iti kathamiva te vadi号yantyakartavyaevayamiti),下線
部は Bhii~ya 原文にはない。
2) 「為さるべし」という人と「為さるべきではない」という人とは別人では ないのか,という反論。
1 6
(上の反論に対して)「祖起が不可能であるから」(と Bhiisya の Purvapak~a は答えている。それを以下釈す。)先ずマヌ等より後の人々が有している (A持政孟等の)知は前に認識されたものではないから記憶ではない。マヌ 等にとっても, もし初めに(A号takiiを知る)何らかの量が可能であれば記 憶があり得るであろうが,そうでなければ(記憶はマヌ等にも)ない。54 タントラ・ヴアールティカ聖伝掌和訳研究(1)
1 7
【問〕なぜ子あるいは娘(を例出する乙と)をとび乙して石女の娘の子 の例が出されているのか?〔答〉位置が等しいからである。 すなわち(マヌ等は石女の位置であり)
マヌ等の前知は子(=石女の娘)等の.位置に相当し, (マヌの)記憶は娘の 子の位置に相当する。それ故に, あたかも娘の非存在を考慮して「娘の 子」という記憶が錯誤であると考えるように,マヌ等によって(A科akii等 に関して)現量等がありえないことを考慮して A号taka等の記憶が誤りで ある,と考えらるべきであるl。)
1)乙の対応関係を図式的に示せば次のようになる。
石女一一マヌ
娘一一マヌの(Srutiの)現量に基づく A科akiiの前知 娘の子一一マヌのA号takiiの記憶
1 8
(Vedaの場合)伝統によって断絶がないということに基づいて,「 ζれは Vedaである, (という ζれらの人々の記憶が量であるのと同様にとれ
(Smrti)もまた量となるであろう。) J という (Bhii~ya における反論)は(Smrti の根拠として Vedaの)文章の推量を意図することによって主張されている。
しかし別の人は(Vedaの文の)意味対象(artha,行為の自相)についての 不断の記憶の乙とをこの (Bhii~ya の)文は述べている, と考えてさらに
(Smrtiの)無根拠を説く。
Vedaはしかし(Smrtiとは)異っており現量によって把握される。そ の場合人々は(ある場所にある)瓶等(を知覚して記憶する場合)のように,
他人にある(Vedaの記憶)を認得して記憶する。その人達によって記憶さ れたものも他の人達が認得して,かれらも同様に記憶する者となる。また それらの他の人達からも同様に(別の人達が)記憶せしめられる。 それ故 (Vedaの記憶の場合には)無始性がある。 (すなわち Vedaの場合には)一切 の人々にとって自己の記憶の前に(Vedaの)認得が可能であるから無根 拠性はない。乙の場合に年長者の言説に依存するのは(Vedaという)言葉
タントラ・グアールティカ聖伝章和訳研究(1) 55
との関係の知識のみであるり。 しかし Vedaという言葉(を知る)より前 であっても,(Vedaは他のものとは)相を異にする別のものであり, (Veda の)学習者に存する .f1gveda等の相は他の Vedaと相を異にし, また Mantra, Brahmal}a等の諸相は他のものと相を異にしていることを人は 認知する。またすべてこれらの(Vedaの)名前は無始(常住)であるから,
それを介してたとえ後の時であっても認得されるもの(諸 Veda)には現 量性がある乙とがすでに証せられたのである。
1)乙れは Vedaというものである,という認識は Vedaの教示者によって 教えられる以外に方法がない,という意味。
1 9
(次に Bha子yaの「しかし不可見の効果をもっ A号taka等の場合には前知の 原因がないから錯乱の記憶に他ならないと理解される」を釈す。)しかし(Vedaと 途って Smrtiの規定である)A
号taka等は他人に(その記憶が)得していても 向工の行為におけるような伺らかの知の根拠は存在しない九すなわち,もし行為の(形態の)自相のみが(マヌ等によって)記憶されるとすれば,
料理等(日常的行為)のように幻他人が行ったのを目で見て人々は記憶し得 るであろう。しかし(A叫aka等の)乙の場合には天界等の目的と手段との 関係(という不可見なもの)が(マヌ等によって)記憶されているから,他人 に空じつつあるものは誰かによって見られることはない。それ故盲人の連 続によって(Smrtiの)非量性がある。すべての人々に(Smrtiについて)
無始の慣行に言及することによって Vedaのような承認(を得ょうとする)
傾向があるから盲人の連続(の響除)が提示されている。すなわち Veda の場合には量であることの無始性があるが,乙の場合には非量である乙と の(無始位がある)。いかにしてかといえば,
およそ認識の主体である生れながらの盲人は,自ら認得を有する者では ない。独立に自己によって把握されないものに対しては量性は存立しな
し
、
。
56 タントラ・ヴアールティカ聖伝章和訳研究(1)
A
科a k a
等の記憶もそのようなものである。1) Skt. nanva号takadi$U puru早a.ntarasthe$va pi kumbhaklirakriyasvi va kirμ cidvijftanamulamasti.下線部を natuと読む。
2) Skt. yadi hi karmasvarupamatrarμ smaryeta tatal}. plikiidi tadindri・ yairanyananuti号thatodr号tvlipare smareyul}..下線部を pii.kadivadと読む。
2 0
また(Smrtiの)根拠となった codana(Vedaの教令, Vidhi)は認得 されない。また(目的と手段との)関係が(感官によって)知られないもの(たる codanli)は推量されえない。 またもし Vedaに基づいて認得され て Smrtiが宣述されているとすれば,意味対象の記憶のように, 乙れ (Vedaのcodanli)に基づいて認得されてマヌ等は乙れを作った, という ように連続して(根拠となる codanliと共に)記憶され得るであろう。
2 1
次のことが主張されるかもしれない。すなわち,意味対象の記憶によ って目的を得た人々にとっては根拠となる(codanliの)記憶が無用となり 無視することによって脱落してしまうのである,と。それは正しくない。なぜなら,量性が完成されたものが忘却される乙と は妥当ではないからである。すなわち意味対象の記憶が自体的に量である 乙とはありえないからである。 Vedaに基づく知なしに量性は決定されな い,というように先ず以て了解しているすべての人々が,それを無視し得 ょうか。
2 2
マヌ等によって努力して自分の(Smrtiの)文章が宣述されたが,何 故にその努力によってその根拠たる(Vedaの) codanaが手渡されなかったのか?
すなわち, もしかれら(マヌ等)によっても(Vedaの)意味対象のみが 他の人々に基づいて理解され, Vedaが見られたのではないとすれば,そ の場合にはその(マヌ等の)先駆者達に対しでも乙の聞が向けられる。そ れ故(Smrtiは)根拠なき伝承となるから,汝(Siddhantin)は無根拠性 から解き放たれない。
タントラ・ヴ7ールティカ聖伝章和訳研究(1) 57
2 3
しかし, もし(Smrti埼玉)失われた学派の Vedaに基づいていた,と 想定されるならば,その場合には仏陀等の一切の記憶l)もそれを介して量 であることになる。またある人にとって(量となす乙とが)意図されたもの があれば,その人はその失われた学派の Vedaを家に託してわ量となすで あろう。これら(A事taka等)のことが現寄する学派の Vedaに含まれて いるとしても, マヌ等がそうしたようにすべての人達はそれ(現存する Veda)からのみ認得するであろう。また Vedaの学習儀軌(Svadhyaya‑dhyayanavidhi)に基づいて直接に Vedaから理解するのがより妥当で ある。それ故 Smrtiを作製する乙とは意義のない乙とになるであろう。
l) Skt. buddhadismrtinamはJha theSmrtis of the Bauddhasのよ うに bauddhadismrtinamと改めた方が良いかもしれない。乙の場合の Smrti は明らかに Smrti文献(仏教の場合は仏教聖典 .Agama)を意味しているから である。
2) Skt. yasyaiva ca yadabhipretarμ sa eva tatpralinasakhamastake ni‑
h 並
E竺prama.Qikuryat.下線部を「家に託して」と訳したが明瞭でない。2 4
またマヌ等によって如何なる(Vedaの)文章からこのこと(A号taka) が表わされたのか, Vidhiを闘的とするものからか,あるいは Arthavada の相をとったものからか,ということは知られない。見よ,いかに大きな努力をしても,暗中で模索しては黒白の弁別にいかなる 人でも決して到達することはない1。)
1)色の弁別が自によってのみ可能であるように, A$takaがVedal己規定さ れているというととは,われわれが実際に Vedaにその規定を見出さないなら ば事実として受取られえない,という意味。
2 5
また(「会 Vedaは法の根拠である日。」等の)マヌ等の言辞から(Smrti が) Veda t乙基づく乙とをわれわれは確定しない。何故ならかれらは無根 拠であるにもかかわらず,欺く乙となどを動機とする言説によって世聞を 顕すためにそのように説いているのであろうから。58 タントラ・ヴアールティカ聖伝章和訳研究 (1)
それ故(Smrtiは)量ではない。
1) Manu Smrti IT. 6 vedo 'khilo dharmamnlam岡
n .
7 sa sarvo bhihito vede等とある。JS L
3. 2 api v孟kart:rsaminyatpram句amanuminaip1> sy忌t (Siddhanta)そうではない。行為者を共通にするから聖伝1)は量である。
1) Bha子yaの冒頭で SaharaはJSの prama早amanumanamを pra‑ mai;tarri smrti]::iと解釈しているから, Sut叩 の anumanamはSmrtiと解釈
してよいであろう。 Brahmasutraにおいては srutiを pratyak号a, Smrtiを anumanaとl守ぶ用例がある。
Brahmasntra I iii‑28 sabda iti cennata)::i prabhavat ρratyakslinumana‑ byam / Sankara: pratyak号arrisruti)::i, pramai;tyarri pratyanapek1;;atvat / anumanarri smrti]::i, prama早yarriprati sapek甲atvat//
ただし Jhaはとの Sutraを Buton account of the agβnt being the same, the fact could be established by reasoning (Anumana) と訳している。
SBh
adJS I .
3. 2 (Siddhanta)(Sutraの) apiva"と(いう句によって Pnrva)ーPak刊が排斥される。
Smrtiは量であるI)。それは(法についての)認識をもたらすものであるわ。
なぜ別のものであろうか?
「
Smrtiには前知がない。何故なら前知の原因がないから3)。」と反論 されるならば(答える)。乙の Smrti(の世間の受け入れ)の堅固さに対する(あるいは,堅固さから)原因をわれわは推量するであろう。その原因は経 験ではない。何故なら(Smrtiの規定というような不可見な事柄の性質上)経験 は不可能であるからである。すなわち,人は乙の世でそのようなことを経 験することはできない。また別の(以前の)生において経験された乙とは
タントラ・ヴアールティカ聖伝章和訳研究(1) 59
(現在の生で)想起されえない。しかし(Smrtiの根拠となる Vedaの)テキ ストは推量され得る。なぜなら SmrtiとVedaに関する行為については 行為者を共通にするからである。それ故(上位)三階級の人々の Vedaと の和合が妥当とされる。
C
反論〕そのような(Smrtiの根拠となる) Vedaの文章を人々は認得し ないではないか的?仁答〉認得きれないものでも推量怠れ得るであろう。(Smrti作者が基づ いていた Vedaの文章が)忘却される乙ともありうる。
ゆえに前知は妥当とされるから,また三階級の記憶者達の(Vedaの文章 の)忘却も妥当とされるから, (Vedaの)文章の推量は妥当とされる。そ れ故 Smrtiは量である。
A
号taka t乙関説する証相をもっ Mantraが Veda t乙見られる。 ya:rp. janal;l. pra tin姐 danti・・・・・・5>"等々である。同様に確定された規律をもっ諸慣行には可見の効果をもっ事柄であると との故に量性がある旬。 (例文bの場合の可見の効果とは)師に(弟子は)従う が故に, 師は喜乙んで Vedaを教えしむるであろう,また満足した師は テキストの不可解な箇所を解き明す論理を語るであろうと。また次のよう にはの慣行の基づく Srutiを)示す。− tasmacchreyarp.sarp.piirvarp. yan‑ ta:rp. papiyanpascadanveti7】 「それ故に前に位置づけられた優れた者に 劣った者は後から従いゆく」 (
M a i t r a y a t ; , iS a t t i h i t a
3. 1. 3)と。旅人 用の水飲み場と水溜めとは他人を助けるためのものであり法に役立つもの ではない, と理解きれる。〈乙の慣行の基づく Srutiを)次のように示す。dhanvanniva prapa asi8>「(Agniよ/)汝は砂漠における水飲み場の知 し」 (
Q . g v e d a
10. 4. 1)と。 sthalayodakarp.parigrh1;1anti「土塁によ ってかれらは水をせき止める」 (出典不明)と。 (特定の)髪房を整える行 為はゴートラの標識(のため)である。またはの慣行の基づく Srutiを)示 す。 yatrabai;ial;l. sa:rp.pat姐.tikumara visikha iva9> 「矢が髪房なき60 タントラ・ヴァーJレティカ聖伝章和訳研究 (1)
童子の如く落ちる所では…」と。 )}f.gveda6. 75. 17)
それ故可見の効果をもっ行為は,そのことの故に乙そ量である。しかし 不可見の効果をもっ行為に対しては Vedaに属する言葉の推量がある,
と(S川dhantaは主張する)。
1) smrti「想起」は独立の量と認められるものではない(cf.
s t o
加viirttikaad
J S
I. 1. 5 Sabdapariccheda verse 104‑106)が,こ乙ではVeda(=sabda), という量に基づく乙とによって Smrti文献が法に関する知を生ぜしめる原因と して量となる乙とを述べているものと解する。2) atra bha平yakarel)a prama早alll smrtiriti sautralll pramaQa毒abda!ll siddhantapratijiianarthatvena vyakhyaya vijiianalll hi tatkimityanyatha 堕竺主旦旦(下線部 Bhii~ya 本文) iti karaQavyutpannena vijiianasabdena vijiianotpadakatvalll hetutvenoktam, NS, p. 121, ll. 22‑25)
めこれはPnrvapak号aの根本主張であった。
4) Smrtiの根拠となる Vedaの文章が認められない理由についての Kum‑
arilaの見解は TNV35‑37.
5)全文は yiilll janiil:i. pratinandanti riitridhenumiviiyatim / sa!pvats‑ arasya ya patni sa no astu sumangali"「人々が喜び迎える乙と従い来る牛の 如き夜,一年の妻たる(夜),(その夜が)吾らにとって至福をもたらさん乙と を/」PiiraskaraGrhyasutra 3. 2. 2, Apastamb呪 Mantra戸iifha2, 20, 2 7, Hiranyake~ Grhyasutra 2, 17, 2等l乙出る。 PiiraskaraGrhyasutraにお いては「夜」は AgrahiiyaQi夜についての讃美である。 Atharvaveda3. 10. 2 では yii!lldevaJ.:i. prati nandanti の形で janiiJ.:i.が devaJ.:i.と置換された形 で出るが, ζの場合は Ekii甲takii夜についての讃美である。 Cf. Taittiriya Samhitii 7. 4. 8. 1
6)乙の Saharaの見解はKumarilaの批判の対象となる。 TNV46‑49 7)乙の部分との凹rallelpassageである TaittiriyaSa~hitii 5. 7. 2. 3 では pnrvalllyanta!llという部分が欠けている。 SaharaがMaitrayal).iya派 に属していたことを暗示する一例と Gargeは見る。 Cf. Garge, CSBh, p. 19 ff. , & p. 106.
8) danvann iva prapa asi tvam agna iyak平avepiirave pratna rajan
(鞄veda10. 4. 1の後半); Sa.ya明: yathii. dhanvan dhanvani marau ni‑ rudakapradese prapii. / prapibantyatra iti prapii. / sii. yathodakapradii.nena janebhyaJ.:i. sukhadii. bhavati evalll tva!ll dhanadii.nena tasmai sukhadii.tii.
タントラ・ヴ7‑ Jレティカ襲伝章和訳研究(1) 61 bhavasi.
9) yatra ba柑bsarp.patanti kumara visikha iva, tatra no brahmanaspati・ raditil;l sarma yacchatu visvaha sarma yacchatu. (]?.gveda 6. 75. 17, Samaveda II. 9. 3. 6. 3 [Benfeys ed. p. 161]) Taittiriya Sa,rihita 4. 6. 4. 5においては, iva迄(a, b pada)は ]?.gveda Ir:同じであるが c, d padaは indronastatra vrtraha visvaha sarma yacchatuと改変されてい
る。
TNV
adJS I . 3 .
2(Siddhanta)SaharaはSutraのanumanamという語を解釈しつつ, Sm,tiの堅固さに 対してその原因たる Vedaの文章を推量するであろう,と述べた。しかしSmrti にとっていかなるものとの遍充関係も見出せない時, So.traの anumlinaを厳 密な意味で認識手段としての比量と解する乙とはできない。
KumarilaはSlokavarttikaad JS I. 1. 5, Arthapatti章verse87でミー マーンサーで arthapattiが適用される三つの場合を説き, その第ーに Sm,ti によって Srutiが想定される場合 artha pa tti による乙とが述べられている。
それが具体的に TNVの乙の Sm,ti章で説明されることになる。従って Ku marilaはSutraのanumlinaをarthapattiと解釈する。 Cf. TNV 41
26先 ず あ ら ゆ る 場 合 に , 正 し い 作 品 わ で あ る マ ヌ 等 に よ っ て 作 ら れ た 諸 々の Smrtiお よ び 他 の 学 間 部 門 (vidyasthana2')(の諸作品)は,それ自 体の目的を果していることが認められている。またマヌ等は現脊しないの であるから,かれらの認識の基盤である何らかの不可見なもの3)が必然的 に想定されねばならない。その場合,
1) Skt. sannibandhanal;l (smrtayal;l), NSはsan(=sat)を vidyamlina
「現存するJ,あるいは sobhanarthaと解し sadhu「正しい」の意味に釈して いる。しかしTNV29においてKumlirilaはこの句を翌旦互主主nibaddhasastra
と言い換えているから sanは「正しい」の意味であろう。
2) Kumarilaは14あるいは18の vidyasthanaを認めている。 Cf. parami‑
62 タントラ・ヴアーJレティカ聖伝章和訳研究 (1)
tiinyeva hi caturdas匂tadasavii vidyiisthiiniini dharmapramai:iatvena si号・
tai}J. parigrhitiini veda‑upaveda‑aiiga‑upiiiiga‑a苧tadasadharmasa111hitii‑pu・ rai:iasastra‑sik娯−dat;1<;laniti‑sa111jftakani,TNV, A本p. 201, ll. 23‑24.
3)この場合のadr号taは行為によって生ずる不可見力の意味ではなく, arthii‑ pattiによって想定さるべき所立である。 Cf.Slokaviirttika ad
J S
I. 1. 5. Arthiipatti章verse1.2 7
①(マヌ等の Smrti作者が)誤謬 bhranti<に基づいて Smrtiを作ったと いう想定),②個人的な直覚 anubhava(に基づいてSmrtiを作ったという 想定),@他人の文章 purpvakya(に基づいて Smrtiを作ったという想定),@(人を意図的に)欺く乙と vipralambha(のためにSmrtiを作ったという 想定),(それらの想定)よりも可見の事柄に適合する所立1)であるから,
⑤ Veda教令 codana(を想定するζと)の方がより簡潔である。
1) 「可見の事柄に適合する所立」(Skt. dr号tanugui:iyasiidhya)とは Smrti が世間一般に権威として認められている事実(=dr終的と翻磁を生じない所立と いう意味である。
(乙のように Smrti作者の知の基盤に codaniiを想定すべきであるという Kumiirilaの結論的主張を述べ次に惣定量(arthii pa tti)によって不可見な所 立を想定する場合の二原則を述べる。)
2 8
不可見なものを(想定量によって)想定する場合には,(a)可見のものを妨げないもの
(b)別の不可見なものを付着せしめないもの そのようなものが想定されなければならない。
(以下32まで乙の二つの原則に基づいてcodanii以外の27であげられた四つの 想定がいずれも d持tanugu早yasiidhyaたりえない乙とを説く。)
2 9
その場合先ず誤謬に基づいたというi
固定においては(イ)正しく編ま れた(Smrti)聖典の在在と相入れないことになる。 (ロ)一切世聞に承 認されている確固とした Smrtiの量性を無効とする。 (ハ) (マヌ等のタントラ・ヴアールティカ聖伝掌和訳研究 (1) 63 Smrti作者と)同時代1)の人々によってもマヌ等の誤謬が従われていたと とになる。(ニ)マヌ等にはそれ(誤謬)を排除する弁明の言辞があったこ とになる
2 ¥
1) A本, B本いずれも idani111tanascaとあるが, B本はある写本に tada‑ ni111 tanascaという variantあるを示しこれを採る。
2) smrtigranthagrahil).al:i puru写anpratisvaj踊nasyabhrantasy畠pibhran‑ tatvapariharilpanyaso manvadikartrkal}. kalpyata iti se!;lal}.. NS, p. 122, ll. 11‑13.
(ィ)(ロ)は誤謬を想定すれば可見の事実との組掘を来たすととの説明,付(斗はそれ に伴って生ずる別の不可見な事実の想定。
3 0
個人的えよT M
覚に基づいたと相定する場合にも, (イ)先ずその直覚自 体は組定さるべきものである。 (ロ)現在のすべての人間と反する(超越 的)能力りを(マヌ等のSmrti作者に)想定することになる。マヌ等のそれ(趨能力)は一切智者説ですでに否定された九
1)法(Dharma)等の感覚を超えたものを直覚しうる能力。
2) Slokaviirttika ad
J S
I. 1. 2, verse 134 et seq.3 1
他人の文章に基づく,という想定も盲人の連続の警聡l)によってすで に否定された。すなわち基艇の欠けた量が生ずる乙とは見られない。1) p日rvapak!:;aBha!;lyaおよび TNV19
3 2
同様に(人的欺く(ために Smrtiを書いたという想定の)場合にも,(イ)それ(欺く意図)の想定があり, (ロ)欺くことを欲する目的(の想定 があり), (ハ)その場合の世間の誤り(の想定があり),(ニ)それが現今ま で従われてきた(という想定),等々のこと(不可見の想定)が依存せられる。
またすでに生じている確固たる信頼の量性を否定するから可見の事実との 魁簡が生ずる。
64 タントラ・ヴアールティカ聖伝主主和訳研究(1)
(以上のように①〜④の四つの想定を否定したあと codanaを想定するのが最 も理1r.適っている乙とを次のように説く。)
お それ故に(上の四つの想定)すべてのものよりも codanaを想定する乙 とが望ましい。なぜならその場合は(Smrtiの根拠として)それ(codana) のみの不可見なるものが同意されるからである。しかし(その codanaを想 定すれば)大多数の人々が(Smrtiを権威として)受け入れていること等他の すべての(可見の)ことは調整せられる。
マヌ等除 codanat乙基づく知を原因とするものとして可能である九そ の義を(Sabaraは)説いている。「三階級の人々にとって Vedaとの和合 が妥当とされる」と。
1)乙の主張について NSは次のように述べている。「仁反論〕codanaを想定 する場合,可見の事と適合する所立である乙と(dr1?tanugm;iyasadhyatva)が 因(hetu)であるとすれば,行為者を共通とするが故に(kartrsamanyat)とい うSutraにおける図の表明が無意味であろう。〔答〕(codanal乙基づくという)
可能性に対してのみこの(Sutraのkartrsamanyむという)因はあり(codana l
ζ基づく乙とを)確定せしめるものではない,という乙とを示すベ〈,マヌ等の 知がcodanal乙基づく可能性ぞ(Kumarilaは)説いている」と。 nanucodana‑ kalpane d符tanm;iyasadhyatvasyahetutve kartrsamanyad iti sautra111 he‑ tvabhidhanam anarthaka111 syadityas拍kyasambhavanamatresau heturna nirQ.ayaka iti sucayitu111 manvadina111 vijftanasya codanam百latvasambha‑ vanamaha. NS, p. 122, ll. 18‑21, Cf. kartrsamanya111 tu codanamulatva‑ sambhavanahetutvena vyakhyatam, NS, p. 124 ll. 20‑21; TNV, 41. 44.
34 さらに Vedaの(権威を認める)可能性がありえない夷扶(Mleccha) にとって感官を超えた対象についての記憶があるが,それらの記憶に対し て根拠を想定する場合に codanaは可能性のある位置に到達されない九 それ故虚偽の因となった(誤謬・欺臓等)四つのものが残るから量ではな い。さらに codanaが可能とされ,他の根拠が否定された場合,無線拠と いう乙とはありえないからのmrtiは) codana に基づく乙とが残余法で
タントラ・ヴ7ールティカ聖伝章和訳研究(1) 65
完成した。
1) MlecchaのSmrtiを遵守する人はVedaの規定を実行する入ではない,
即ちMlecchaにとってはSmrdの規定と Vedaの規定の実行者とじての共通 性がない,という点でcodanal乙基づく可能性がない。 Sutraのkartrsamanyat
という句はAryaのSmrtiとMlecchaのSmrtiの根本的な相違を示している,
と解せられる。(Cf.nanvevamapyanenaiva hetuna codanamnlanirr;iaye sid・ dhe kimasadhakena sambhiivanamiitrahetunHyasa古kyamlecchasmrtivai平a‑ myapradarsanarthal;l sambhavanahetapanyasa iti sncayituJp mlecchar‑ yasmrtiyorvai号amyamaha.NS, p. 122, ll. 23‑25)
(想定量によって Smrtiの根拠として想定さるべきものは Vedaの教令(co・ dana)である乙とがこのようにして論証された。しかしその想定さるべき co・ danaは実際には認得されないものであるから,そこで乙の問題に関連して次の 考察されるのは, なぜその codanaは認得されないのか,という問題であるo
Kumarilaのこの問題についての見解は, Smrtiの基づいた codanaは既に失 われたにせよ現存するにせよ今日では見出せないが Smrtiの作者逮には直接知
る乙とが可能であった,という点にある。 35で異説を掲げ36で反駁する。)
35 しかし codanaが認得されないのはなぜか,という問題がある。
それについてある人々は説く。それらは常に推量されるべきものであり 決して明言されない。(Mantraの)証相等によって推量される(codanaの)
ように九反論して,なぜ明言されないものが根拠として妥当とされるの か,と言われるならば(吾々には)その欠陥はない。なぜなら Vedaのテ キストが不断であるように述続的な記憶に基づいて(明言されない srutiが Smrtiの根拠として妥当とされるという)そのことが成就されるからである。
すなわち Vedaのテキストが伝承されてきたがゆえに断絶されていないも のとして寄在性を得ているように, (Smrtiの場合にはマヌ等による A科aka 等の)宣告によって常に推量さるべき srutiの伝承の絶えないことが完成
する2)。
ねたとえば barhirdevasadnnarp damiという Mantraから anena
66 タントラ・ヴアールティカ聖伝章和訳研究(1)
mantrel}.a kusa‑lavanarμ kartavyamという Vidhiが推量される。 Cf..北
J I I
博士「Arthasarμgraha和訳解説mJp. 22)乙の見解は Prabhiikara派の採用している説である。 Prabhiikara派の Siilikhaniitha Misra によれ民 Smrtiの根拠となる Vedaの文章は常に推量 さるべきものであり,マヌ等もそれを直接認得したものではない,という。また Smrtiの根拠となる Vedaの文章は比量によって得られるとなし,その比量を 成立たしめる証相(lhiga)は無始なる Smrti伝承の断絶する乙となき連続性 (smrtiparamparii)である。 Cf.Prakara事aPaiicikii (Benares Hindu Uni‑ versity Darsana Series No. 4), pp. 249‑251; Tantrarahasya (G. 0. S. No. 24), Introduction (by K. S. Ramaswami Sastri) p. 58; G. Jhii, Pnrvamimiirμsii in its Sources, p. 193.
3 6
それは正しくない。なぜなら盲人の連続の道理によるからである九 すなわち全く明言されない codanaの存在性はより得難いものである。なぜならすべての人々にとって現量等の余地がないからである。同様に,
Smrti にとってもそれ(Smrtiの板拠となる codanii)は石女の娘の子に等 しい。それに対して(Mantraの)証相等は常住であるから,明言されない Srutiを推量する原因として常住であり(Vedaがcod姐邑の帯在を示す常住 な能力を有する乙とと)矛盾しない。 (他方 Smrtiは常住であるととは証明され ていないから, Smrtiによって常住なる明言されない Srutiを推量する乙とはでき ない。)
それ故に失われた Srutiを(Smrtiの根拠として)推量する方がよい九 また(Srutiが)失われない, という乙とはない。なぜなら(Veda学習者 の)怠慢・瀬惰等によって,また(Vedaを教示する人の)死によって(学習 の)対象(たる Vedaのテキスト)が少くなる乙とが実際にあるからである。
その場合いかなるもの(たとえばMlecchaのSmrti)でも量に到達すると とはない九なぜなら Srutiの推量の三階級に属する文人の確固とした記 憶から生ずる想定量(anyathanupapatti)によって得られるのであるか
ら。
タントラ・ヴアールティカ霊伝章和訳研究(1) 67 1) SabaraがPo.rvapak号aBh両yaで否定している見解が Prabhakara派に よって採用されででいることは, Prabhara派は Jaimin̲i‑Sabara‑Kumarilaと続 くミーマーンサー学派とは異なったミーマーンサーの学流を受継いで、いるという K. S. Ramaswami Sastriの仮説を支持する一例と言う乙とができる。因み に SastriはPrabhakara派と Bhatta派の学流を次のように示している。
(Tantrarahasya, Introduction p. 25による。)
Prabhakara派 Bhatta派 1. Badari (紀元前4世紀頃) 1. Jaimini (紀元前4世紀頃)
2. Bodhayana (紀元前3世紀頃) 2. Upavar切(紀元前3世紀頃)
3. Bhavadasa ( 2世紀頃) 3. Sabarasvamin ( 2世紀頃)
4. Bhartrmitra ( 7世紀頃) 4. Kumarilabhatta ( 7世紀頃)
5. Prabhakara ( 8世紀頃) 5. MaI}.ganamisra ( 8世紀頃)
6. Saliklanatha ( 9世紀頃) 6. Vacaspatimisra ( 9世紀頃)
7. Bhavanatha (10世紀頃) 7. Parthasarathimisra (10世紀頃)
2) Skt. tena vararp. pralinasrutyanumanameva.
NSは varam
r・
より良い」という語を釈して「(Srutiの)常住性を破壊する 乙とになるから完全に満足という訳ではないから varamと述べられている。」(nityatvavyaghatapatteratrapyaparito号aso.canartharp. varamityuktam)と 述べている。 37はathavaで導入されているが NSは37の方を Kumarilaの
自説と解釈する。
3)乙の主張は Po.rvapak写a11, 23の論破である。
3 7
あるいは(Smrtiは)現存する Vedaの学派に存在する srutiに基づ くものに他ならない。 なぜ(実際には)認得されないのか, と問われるな らば答える。(イ) Vedaの諸学派が(地理的に)分散しているから, (ロ) (Veda を学習する)人々の怠慢があるから,(ハ) (Smrtiの根拠となる srutiが) 種々の文脈に存するから Smrtiの根拠(となる sruti)が見られない九
l) NSはとの詩を次のように説明している。(原文のみを示す) nanadesapa‑ thyamananarp. sakhanarp. pramadadibhil;l (pramadibhil;lとNSのテキスト にあるが訂正する) puru事aistaddesagamanacchrotumasaktestadgatasrutya‑
68 タントラ・ヴアールティカ聖伝掌和訳研究(1)
nu palabdhisaI!1bhavaI:i ekasiikhagatanii.ma pi srutiiliiI!1 nii.nii.prakaral).as・ thii.n草I!1tattatkartrdharmatvabiidhena puru事adharmatvasyapra.mii.d!dibhir (pramadibhirとあるを訂正) nir酔tuma釘kteI:ismrtimnlatvanirupal).anu‑ palabdhisambhava ityarthaI:i(NS, p. 123, ll. 19‑23)
(ζのように sruti不認得の理由が説明された。さらに問題とされるのは,
Smrtiの根拠がcodanii.であるとすれば Vedaそのものから抜率されてなぜ法 典として編纂されなかったのか,という点である。)
3 8
しかし,なぜ Vedaの文章そのものが(法典として)集められなかっ たのか,という問題がある。(それに対して答える。それはなぜかといえば Veda の)口伝を損う畏れがあったからである。すなわち,特定の順序によって 確定された「Vedaが学ばるべし」という Srutiがある。また Sruti t乙 基づく何らかの慣習はどこかの学派のVedaにある。しかしそこでもあるものは人を義務づけて規定されている。祭式の文脈中で規定されているも のは,何らかの動機によって取り出され人の法となる。例えば(新・満月祭 の文脈中の規定である)「汚れた布をまとった妻と語るべからず(malavad‑
vasasa saha na sarp.vadet. Taittiriya Sa1?1,hita 2. 5. 1. 4)」,「それ 故にバラモンを威しではならない Ctasmanna brahmai:iayavaguret1>. Taittiriya Sa1?1,hita 2. 6. 10. 1)」等々である。その場合もし(マヌ等 が)それらの文章だけを取り出して学習せしめるとすれば, (Vedaの)順 序が変化するから Veda学習規定との矛盾が生ずるであろう。また乙の 教説によって他の人々も Arthavadaを捨てて Vidhiのみ,あるいは行 為に適切なもののみを学習することになるであろう。その場合には Veda の消失を伴うかもしれない。
また必ずしもマヌ等は一切学派の Vedaの学習者であるととはない。
なぜならかれらは努力して他学派の学習者から意味のみを聴き自分の文章 によって忘れないように(Smrtiを)著したのであるから。
(次にKumarilaは,マヌ等のSmrti作者がいかなる Vedaの文章に基づ
タントラ・ヴアールティカ聖伝掌和訳研究 (1) 69 いたか,という点について次のように述べる。これは Purvapak切 24の論破で ある。)
3 9
(Smrtiの根拠たる Vedaの)特殊な文章は知らねない(と Purvapak切で述べられたが,そのような乙とはない円。すなわち Smrtiは確固たるもの であるから迷妄に基づくことはないように, Arthavadaに基づくことも ない。なぜならかれらのmrti作者達)は VidhiとArthavadaを弁別す ることはできるからである。その場合に, Smrtiは Vidhiより成るもの であるから,本来のもの(たる Vedaの Vidhi)に性質を等しくする(従っ てSmrtiはVidhiにのみ基づく)という推量によって得られる余地がある時,
Arthavada に基づくという主張は根拠のないものである。
l) Skt. na ca viikyavise!;,O jfiiiyateζれはテキストが誤っているのではな いであろうか。前後の文脈によって括弧内に補って読む。
4 0
また「全 Vedaは法の根拠である」「すべては Vedaの中に明らか にされている勺と自ら記憶者達は自己を締つてのmrtiを)手渡した。そ れ故にこの教令に基づいてかれらの時代の行為者達は知性を働かして受け 取ったのである。それ故, Vedaを介する(Smrtiの)量性が完成した。
1) Cf. 25の注
(以上が不可見な効果を有する Smrtiの規定についての量性の説明。 41‑45
において Siitra と Bhii~ya の語句の解釈をなした後, 46以下で可見の効果を有
する慣行についての量性の確立を Saharaを批判しつつ行なう。)
4 1
「行為者を共通にするからはar吋samanyat)」, (Smrtiは)独立に量 であるとか, Veda t乙基づくものである乙とを比量によって確立せしめる 人がいる1)が, (Vedaの規定を実行する人も行なう)慣行で利欲に従って行 なう可見の効果をもっ(量とは認められない)行為があるから,(その見解は)70 タントラ・ヴアールティカ聖伝章和訳研究(1)
不確定である。また(Smrtiが独立に量である乙とになれば) Sruti に依存し て量となる(=Siddhantaの主張)乙とと,矛盾する。
それ故想定量(art
』
apatti)のみが,相離なき行動の後に csrutiを)認 知するものであるからへとの場合比量 (Sutraのanumana)として述べら れている。1) 35の注で述べたように白likhanathaはPrakaratJaPa宛cikiiにおいて Smrtiの根拠となる Veda.の文章は Smrtiparam paraがlingaとなって比量 によって得られる, と主張している。 しかしこの場合は, NSによれば Sutra のkartrsamiinyaをIi白gaとして Smrtiの根拠たる Vedaの文章を比量によ って導とうとする見解であるから, Prabhakaraの学流の見解とも異なっている。
2) Skt. arthiipattirevatra vyabhicaradu pacaratpascanmanadanumanatve‑ nokta. Cf. yadi tu vilak$al)arupii 'pi paseiinmanasiimyad (or {t.lscanma‑ niid) anumiinasabdena vaktumi$yate tadastu yathiikiimamityiiha *evam*
iti (Nyiiyaratniikara); evarμ svabhiivii pyanumanasabdarμ labheta cedasti yatMpsitarμ nal} (Slokaviirttika, Arthapatti章 verse88後半)
4 2
(Bhii~ya I乙言う) asya eva smrterdraq.himna}:i (karaI)amanuma‑syamahe) と。 (ζの文の dra引1imnal}はニ様に解釈できる。) dr<J,hatvat karaI)anumanam「(Smrtiが)固堅であるから原因の推量がある。」(と奪 格に読むか),あるいは dr<J,hatvasya「(Smrtiが)堅固である乙とに対し て(原因を推量する)」(属格にも読める)。
4 3
(Bhii子yal乙言う)「なぜなら人聞はこの世で(そのような乙とを経験する ことはできない)」と。残りなく潜在印象(sarpskara)を破壊する死によっ て(吾々の生は来世と)分断されているから,行為とその果報との関係を精 査することは不可能であるとして(Sabaraによって)述べられている。4 4
(Bhii~ya に言う)「Smrti と Veda に属する行為は行為者を共通にす るから三階級の人々にとって Vedaとの和合が妥当とされる」と。(乙の 文は Smrtiが) codana に基づくことが可能な位置に到達される乙とを目 的とする。タントラ・ヴ7− )レティカ聖伝章和訳研究(1) 71
4 5
(Bhiisyaに言う}「忘却もまたあり得る」と。なぜなら現今でも(Veda の)意味の忘却1)とテキストの紛失が見られるからである。 しかしそれら の諸々の Srutiが他の学派の Vedak存在する場合には,その時にもど の学派の Vedat乙何が述べられているのか, という乙の点についての忘 却がある。しかし,かれらは(Smrtiの)量性の成就のために Vedaに基 づくもののみを考慮している。またその(Smrtiの基づく Vedaのテキスト の)特殊な知識は重要ではないから気にさるべきものではない(とSm凶 作 者は考えてその基づいた Vedaのテキストについての言及を省いたのであろう)。1) Skt. arthasmara早aとあるが, arthavismara早aと読む。
(以下49までKumarilaはVi1?ayavakya(b)〜(e)についての Sabaraの 見解を批判する。)
4 6
「同様に確定された規律を有する(諸慣行は)」と(Sabaraは可見の果 をもっ smrtiの規定について論を始める)。折にふれて生じた機会に規律づけ られる「老人を若人は尊敬すべきである」等の乙とには「可見の効果をも っという理由からのみ量性がある」と(Sabaraは述べている)。そのととは正しくない。なぜなら,
4 7
乙の論題では法に対してS m r t i
が量である乙とが宣述されているの であるから, (単なる可見の効果を有するのみである)農耕等のようにそれ ら(可見の効果を有するのみのもの)が論議の対象とされるのは妥当ではなし
、
。
すなわち,ある限りの慣習一切の根拠が乙の論題の下で量をもつものと されるのではない。なぜなら法の探求が(吾々の)義務だからである。さ らに,もし師に従う乙と等が単に可見の事柄に過ぎないとすれば,農耕等 のように法に対する量がないから(との論題の下で)例引せらるべきではな い。乙れらは(法に対して)量ではないものとして例引きれている, と主 張されるかもしれないが,そうではない。そのような場合は「因が見られ