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研 究 代 表 者 (2016 年 3 月 現 在

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Academic year: 2022

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(1)※ ホームページ等で公表します。 (様式1) 立教SFR-院生-報告. 立教大学学術推進特別重点資金(立教SFR) 大学院学生研究 2015年度研究成果報告書. 研究科名. 立教大学大学院. のものを記入). 研究科. 在籍研究科・専攻・学年. 研 究 代 表 者 (2016 年 3 月 現 在. 法学. 立教大学法学研究科法学政治学専攻 チョン・シンホン 印 博士課程1年 ( 鍾 欣 宏 、 CHUNG, Hsin Hung). 立教大学. 自然・人文 ・社会の別 研究課題. 専攻. 氏 名. 所属・職名 指導教員. 法学政治学. 自然. 法学部 ・. 人文. 氏 名. 教授 ・. 佐々木卓也 社会. 個人・共同の別. 印 個人. ・. 共同. 名. 東 ア ジ ア 冷 戦 に お け る 吉 田 対 華 外 交 1952-1954 在籍研究科・専攻・学年 氏 名 立教大学法学研究科法学政治学専攻 チョン・シンホン 博士課程1年 ( CHUNG, Hsin Hung). 研 究 組 織 (研究代表者 ・共同研究者) ※ 2016 年 3 月 現 在のものを記入. 研 究 期 間 研 究 経 費 (1 円単位). 2015. 年度. (支出金額)179,267円/(採択金額)180,000円. 研究の概要(200~300 字で記入、図・グラフ等は使用しないこと。) 戦後の日本外交の基本方針は、軽武装、経済中心主義と日米安保体制を軸とする「吉 田ドクトリン」であった。吉田茂は日本の安全保障を日米安保条約によってアメリカに 大きく依存し、アメリカ主導の国際秩序に復帰する道を選んだのである。このような経 済発展を優先し、外交は低姿勢で行うという吉田路線は、戦後日本の一貫した外交方針 で あ っ た 。 1 9 4 9 年 、「 二 つ の 中 国 」 の 問 題 が 生 じ 、 こ の 「 二 つ の 中 国 」 政 府 と も 、 自 ら は中国の正統政府であると主張していた。 本 研 究 は 、日 華 平 和 条 約 締 結 後 の 吉 田 内 閣( 1952-1954)の 時 期 を 中 心 に 、吉 田 の「 逆 滲透」構想を注目し、国府の正統性の問題を考察する。この考察を通じて、よりニュア ンスに富んだ吉田外交像を提示する。. キーワード(研究内容をよく表しているものを3項目以内で記入。) 〔. 日本外交. 〕 〔. 日華関係. 〕〔. 吉田外交. 〕.

(2) ※ ホームページ等で公表します。 (様式2-1) 立教SFR-院生-報告. 研究成果の概要(図・グラフ等は使用しないこと。) 1952 年 4 月 28 日 、日 本 政 府 と 国 民 政 府 の 間 に 日 華 平 和 条 約 が 締 結 さ れ た 。 吉 田 茂 首 相 は 、中 華 民 国 国 民 政 府 を 相 手 と し て 平 和 条 約 を 締 結 し た に も か か わ ら ず 、必 ず し も 国 民 政 府を戦後中国の正統政府として認めたわけではなかった。戦後の米ソ対立が深まるに伴 い 、「 二 つ の 中 国 」 政 府 が 生 じ 、 対 日 講 和 会 議 に お け る 中 国 代 表 権 問 題 を め ぐ り 、 関 係 各 国 、と り わ け 英 米 の 間 で 意 見 が 対 立 し て い た 。サ ン フ ラ ン シ ス コ 講 和 会 議 に 北 京 政 権 も 台 北 政 権 も 招 聘 さ れ る こ と は な か っ た 。吉 田 は サ ン フ ラ ン シ ス コ 会 議 後 、内 外 の 諸 状 況 を 勘 案し、台北の国民政府を選択し、日華平和条約を締結したのである。 従 来 の 研 究 で は 、日 本 は 日 華 平 和 条 約 の 締 結 に よ っ て 、国 民 政 府 を 中 国 の 正 統 政 府 と し て 認 め 、そ し て 吉 田 が 国 民 政 府 を 選 択 し た の は ア メ リ カ か ら の 圧 力 に 屈 し た と い う 見 解 が 支配的である。しかしながら、戦後の吉田外交は、日華平和条約の締結にもかかわらず、 国民政府 に対す る「 適用範囲 」条項 を設 けること によっ て、国府の正 統性 を 保留 する形で 北 京 政 府 と の 将 来 的 政 治 関 係 の 道 を 残 そ う と し た 。国 民 政 府 を 中 国 の 正 統 政 府 と し て 認 め た わ け で は な か っ た の で あ る 。 本 研 究 は 、 日 華 平 和 条 約 締 結 後 の 吉 田 政 権 ( 1952-1954) の対中・対華外交を検討するとともに、吉田の対中「逆滲透」構想に注目し、日華平和 条 約締結前の吉田の対中構想と締結後の対中構想の関係性を考察するものである。 吉 田 は 、日 華 平 和 条 約 締 結 前 の 1 9 5 1 年 1 2 月 に 来 日 し た ア メ リ カ 国 務 長 官 顧 問 ダ レ ス に 対 し 、「 中 国 の 民 衆 を 共 産 党 の 勢 力 下 か ら 離 す 方 策 」 を 提 案 し 、 北 京 政 府 に 対 す る 「 逆 滲 透」構想を示した。ダレスから具体的な返事は得られなかったが、吉田は、彼独自の中国 政 策 に つ い て ア メ リ カ の 理 解 を 得 よ う と し た の で あ る 。 ダ レ ス の 帰 国 後 、 吉 田 は GHQ 最 高 司 令 官 リ ッ ジ ウ ェ イ を 介 し て メ モ を ダ レ ス に 届 け 、「 共 産 主 義 が 中 国 人 の 精 神 を 征 服 し 中 国 人 固 有 の 個 人 主 義 を 払 拭 し て し ま つ た と は 考 え ら れ な い 」と 再 び 訴 え た の で あ る 。こ こで注意すべきは、吉田は「逆滲透」構想を提案しながらも、常に中国人の 国民性や中ソ 分離を強調したことである。 「逆滲透」構想について、井上正也がもっとも 詳細な分析を行っている。井上は、イン テリジェ ンスの 観点 から、吉 田の共 産主 義に対す る情報 工作 、秘密工 作に着 眼し 、吉田の 対中経済外交を肯定しつつ、その強烈な反共的性格を指摘した。ただし興味深いことに、 吉 田 は 、日 華 講 和 の 前 、中 国 が 共 産 政 権 に な っ て も 敵 視 す る 必 要 は な い と い う 中 国 観 を し ば し ば 示 し て い た 。 例 え ば 、 1 9 4 8 年 11 月 の 国 会 答 弁 で 吉 田 は 中 国 の 共 産 化 に つ い て 「 国 民 政 府 が 倒 れ て 共 産 党 政 府 が で き て も 、こ れ は 通 俗 に い う 共 産 党 政 府 で な い だ ろ う … 中 国 人 は 中 国 人 の 一 種 の 性 格 が あ っ て 、か り に 共 産 党 政 府 が で き て も 、そ れ が ソ ビ エ ト と 相 通 ずるものと私は思わない」と述べ、率直な共産中国観を表した。 ま た 、 1 9 5 4 年 9 月 か ら 11 月 、 欧 州 外 遊 中 の 吉 田 は 、 フ ラ ン シ 仏 首 相 に 「 自 由 陣 営 が 中 共 を ソ 連 か ら 引 き 離 す こ と が 急 務 で あ る 」と 伝 え 、イ タ リ ア 首 相 シ ェ ル バ に は 中 国 の 海 外 華 僑 お よ び 貿 易 と い う 手 段 を も っ て 、中 ソ 分 離 の 工 作 を 行 う べ き で あ る と 提 言 し た 。そ し て イ ー デ ン 英 外 相 と の 会 談 で は 、吉 田 は ア メ リ カ が 中 国 を 国 際 社 会 に 回 復 さ せ る こ と に 反 対 す る 政 策 に つ い て 、「 ま っ た く 理 解 で き な い 」 と 語 り 、 ア メ リ カ の 対 中 政 策 の 再 考 を 求 め る と い う 姿 勢 を 示 し た 。ア イ ゼ ン ハ ワ ー 米 大 統 領 と の 会 談 に お い て も 、ア ジ ア に お い て 共産主義 に対抗 する ために、日米英 の協 力が必要 である と訴 えた。し かしな がら 、退陣間 際の吉田に対するアイゼンハワーの態度は冷淡なものであった。 陳肇斌が指摘したように、吉田の「逆滲透」構想は、西側諸国からの支持を得られなか ったものの、アメリカの対中封じ込め政策とは異なるアプローチとして注目に値しよう。 つまり、吉田の「逆滲透」構想は、中国人の国民性や中ソ分離という視点に立ち、井上正 也 が 指 摘 し た よ う な 北 京 不 承 認 と い う わ け で は な く 、 む し ろ 一 種 の 対 中 「 チ ト ー 化 」・ 対 中接近策ともいえる。.

(3) ※ ホームページ等で公表します。 (様式2-2) 立教SFR-院生-報告. 研究成果の概要. つづき. 他 方 、日 華 平 和 条 約 が 締 結 さ れ た 直 後 の 1 9 5 2 年 6 月 、吉 田 は 国 会 答 弁 に お い て 、日 華 平和条約があくまでも「吉田書簡」の線に沿って結ばれたものであり、日華平和条約は 「中共政権についての関係はない」と明言した。この発言は、日華平和条約と北京政府 に対する承認の問題は切り離すことができるという吉田の認識を表したものであった。 つまり、吉田は、日華平和条約の締結によって、どちらの中国政府を選択ないし承認す る、という二者択一の問題ではないことを明らかにしたのである。実際、同日の答弁に おいて、吉田は「中華民国政府と条約ができたからと言って、中共との関係がそのため に悪化したとは考えられません…将来は将来であります。併し目的は終りに一中国全体 との条約関係に入ることを希望」するとも述べている。吉田は、日本が国府と日華平和 条約を結んだとしても、それは北京政府を否定することを意味せず、将来における北京 政 府 へ の 政 治 的 承 認 を 模 索 し て い た の で あ っ た 。し か も 彼 は 、1 9 5 4 年 1 月 の 国 会 答 弁 で 、 もし北京が日本と国交を結ぶ用意があれば、喜んで応じると言明した。吉田は、北京に 対して、政治的に極めて積極的なアプローチをとる姿勢を示唆していたのである。 以上の考察を踏まえ、次のような研究成果を指摘したい。 ①日華講和後の吉田「逆滲透」構想は、反共主義それ自体が目的であったというより も、毛沢東の「チトー化」を促すことで、対中接近を図るというものであった。 ②日華講和において国民政府の正統性を保留し、北京との将来の政治関係の余地を保 とうとした吉田の立場に照らし、日華講和後の吉田の言説は講和前と連続していた。 ③吉田政権の対中・対華外交は、国府と北京の中国正統性を暫定的に保留し、究極的 には北京承認を志向するいわば「正統政府保留外交」であった。. ※この(様式2)に記入の成果の公表を見合わせる必要がある場合は、その理由及び差し控え期間等 を記入した調書(A4縦型横書き1枚・自由様式)を添付すること。.

(4) ※ ホームページ等で公表します。 (様式3) 立教SFR-院生-報告. 研究発表 (研究によって得られた研究経過・成果を発表した①~④について、該当するものを記入してください。該当するものが多い 場合は主要なものを抜粋してください。 ) ①雑誌論文(著者名、論文標題、雑誌名、巻号、発行年、ページ) ②図書(著者名、出版社、書名、発行年、総ページ数) ③シンポジウム・公開講演会等の開催(会名、開催日、開催場所) ④その他(学会発表、研究報告書の印刷等). ① 雑 誌 論 文: 『国際政治』 ( 日 本 国 際 政 治 学 会 機 関 誌 )、あ る い は 他 の 学 会 誌 に 近 く 投 稿( 査 読付き)を予定しており、指導教授による原稿のチェックをほぼ終えている。 ②図書:現時点で予定はないが、本研究は博士論文の重要な一部を形成する。 ③シンポジウム:現時点は予定なし。 ④その他 学 会 発 表 : 日 本 国 際 政 治 学 会 2015 年 度 全 国 研 究 大 会 ( 2015 年 10 月 31 日 、 於 : 仙 台 国 際 セ ン タ ー ) 日本外交史分科会:ペーパー提出有り 報告テーマ:東アジア冷戦における日華平和条約と吉田外交.

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参照