映画天気の子のすすめ
図書名 天気の子
著者 新海 誠
学年/学科
総合文科学部:人間福祉学科:3年次
氏名 喜屋武 綾乃
私が今回取り上げるのはアニメーション映画「天気の子」である。まずは映画を手がけたアニメー ション監督新海誠のことから紹介していく。彼の作品の中でも記憶に新しい2016年に公開された 君の名は。は、第40回日本アカデミー賞で優秀監督賞、最秀脚本賞をアニメ―ション作品で初め て受賞した。出身が長野県である彼は東京へ出てきたときに「淀んだ風景だな」という感情を抱い たそうだが、この場所で生きていくために積極的に美しいと思えるものを見つけたり思い出が重なる ことで、同じ景色がきれいなものに見えてきたと述べている(新海誠展図録のインタビューより)。そ の経験がアニメーション作品を作るきっかけにもつながり、今回の映画公開に至った。公開前に執 筆された「小説 天気の子」のあとがきにはこの作品が生まれた経緯が示されている。彼曰く前作の 映画「君の名は。」の公開により膨大なSNSのコメントの中には激烈に怒っている人も多かったとい う。彼らが怒った正体を考え続けた期間が本作の企画書を書いていた時期と重なっていおり、「映 画は学校の教科書ではない」という想いを自分の心に決めたそうだ。教科書では語られないことを 語ることが自分の仕事であり、自分の生の実感を物語にしていくしかないという決心のもと描かれた 物語が「天気の子」である。
この物語の主人公は一人家出をして雨が降り続く東京に住むことを決めた森嶋帆高、16歳であ る。仕事につけず家もない彼は、安いファストフードでスープを飲んで空腹をしのんでいた。そこへ 店員の少女は頼んでもいないハンバーガーを差し出す。そのおいしさに元気をもらった帆高は、東 京行きのフェラーリで助けてくれた中年男性のもとへ出かける。幸いにも彼の仕事を手伝うことにな り無事新しい生活が始まったある日、偶然あのファストフード店員の少女が男たちに絡まれている のを帆高は目撃する。しかし少女を助けようとある大胆な行動に出てしまった帆高は、彼女に「最 悪!」と吐き捨てられてしまう。2人で走って逃げ込んだ廃ビルの中でもう何も考えられずにその場 にうずくまる帆高。少女は一度そこを出ていったが、しばらくすると戻ってきて「君、家出少年でしょ」
「せっかく東京に来たのに、ずっと雨だね」といたずらっぽく笑った。彼女に連れていかれ階段を上 った先は、東京の街並みが見渡せるビルの屋上だった。「ねぇ、今から晴れるよ」そう彼女が両手を 組み祈るように目をつむったかと思うと、頭上の雲が割れていき、雨が降っていたそこは晴れ模様 に変わっていった。陽菜と名乗る17歳の少女と帆高はこの日を境に、お天気ビジネスなる仕事を 共にしていくのであった。
この物語は恋愛映画でありながら、要所に SF を盛り込んだアニメーション映画である。美しい東 京の風景と一緒に非日常的な現象も描かれているが、そこに不自然さはなく、むしろ本当にこんな ことが起こっても私はこの世界の変化に気づくこともなく日々淡々と生きていくことが予想できた。そ のことを危惧して恐怖に思うほど違和感のない映像であった。この自然なフィクション映画を具体的 に観察するため映画と小説の両方の視点から見ていく。まず映画では登場人物の存在感を高めた い時、物語の流れが変わる時や心情を表すためなど、ストーリーをダイレクトに伝える役割でもある 音楽が魅力の一つといえる。全編の劇中音楽を担当したのは、前作の「君の名は。」でも音楽全般 を担当したRADWIMPSである。そのきっかけは、「天気の子」の脚本が書きあがった頃に監督が最 初に読んでほしいと思った相手が RADWIMPS のボーカルを務める野田洋次郎だったからだ。単 純に感想を知りたいと思い、友人として彼に脚本を送った。それから三か月後、後に映画の主題歌
となる「愛にできることはまだあるかい」と「大丈夫」のデモ曲が監督のもとに届いた。監督一人では 見つけることのできない言葉たちがたっぷりとつまっていたこともあり、野田洋次郎と再びタッグを組 み「天気の子」の音楽監督を担当することとなった。31曲にも及ぶ劇中音楽は映像の色や効果音、
登場人物の声に迫力を裏付ける重要な役割を担っている。それも監督が曲を聴きながらビデオコ ンテと呼ばれる絵と音を合わせた設計図を作り、それを見て野田洋次郎がまた曲を作り、それらの 曲に合うようにビデオコンテを修正する、といった共同作業が綿密に行われていたからである(「小 説 天気の子」のあとがきより)。特に帆高が陽菜への思いを心の中で語る場面でよく流れていたフ レーズは「愛にできることはまだあるかい」の 1 番のメロディーである。歌詞を見るとこの曲が帆高か ら陽菜へ向けた曲であることが推測される。そのようなことは映画や小説の中で直接語られてはい ないが、観客が登場人物の心情を予想する手がかりにもなる音楽を効果的に使っていた印象があ る。また小説の描写をより自然な形にするための映像の追加もその劇中音楽に合わせたからであ ろう。制作報告会見で試写会なしという異例の事態が起こったのも、新海誠と制作スタッフが全力 で真摯に作品に向き合い、この映画に魂を込めていたからなのだ。次に主人公以外の登場人物 の心情が細かく描かれている小説の魅力を述べる。登場人物一人ひとりが主人公のようにスポット 当てられて背景やセリフが繰り広げられているのがいい。それにより小説を読んだ後に映画を鑑賞 すると映像の感じ方に違いが現れ、映画で細かく表現されない心情を知った状態で見返すと、こう 思っているからその表情をしたのかという表情や息遣いに注目することができる。また、小説でも映 画でも描かれない登場人物の心情はどう動いているのだろうと想像しながら映画を楽しむのも一つ の方法である。
そして映画の中で最も私の感情が揺さぶられたのは、追いかけてくる大人たちから帆高が逃げ るシーンで、陽菜の弟である凪が大人に飛びかかって「帆高、全部お前のせいじゃないか!姉ち ゃんを返せよ!」と目を腫らしながら叫んだ瞬間であった。凪にとって陽菜はたった一人の家族で あり、もうこれ以上大切な人を失いたくないという想いが伝わる心が痛むシーンである。同時に今ま で大人びていた凪が子供の顔で泣き叫ぶ顔を見て、帆高が覚悟を決めるといった私の中のクライ マックスでもある。
この映画鑑賞後、私は帆高の幸せを祝福している自分に気づいた。それは帆高と陽菜に感情 移入しており、2 人の喜びが自分のことのようにも感じられたからである。反対に主人公が選んだ結 末を歓迎できない自分もいた。それは自分がその物語の住人であった場合に生じる感情であった。
20年も生きていない男女2人に世界の形を変えられてしまっては一溜りもないと感じたからである。
これは子供の視点から見た私と大人の意見を持った私のぶつかり合いであろう。結果大人の意見 を持つ私が僅差で勝った。この映画は大人の意見を一切排除した内容だと私は考える。それによ って自分の願いを純粋に叶えようと全力で走り続ける帆高が、幼く感じてしまう部分もある。しかしそ こで私はこう思った。私にもあんな真っすぐな心があったのではないか。それをいつの間にか叶う わけがないと自分で決めつけて、自分が傷つかないようにしていたのではないか、と。だからこそ私 はなりふり構わずに諦めない帆高の真っすぐさに、尊敬の念を抱くと同時に幼いころの私が救われ たような気持ちがした。新海誠本人が書いているようにこれは教科書通りの映画ではない。どんな
気持ちになるか読んでいる人の立場や年齢、考え方によっても多種多様だと予想される。だからこ そ、普段感情を制御して日常にいそしんでいる大人たちに鑑賞してほしい。この映画を鑑賞するこ とにより幼いころの自分に思いを馳せるいい機会を持てるはずだ。たまにはそのようなゆったりとし た時間を過ごすのもいいのではないだろうかと私は思う。