• 検索結果がありません。

新オスマン人運動の形成とクレタ問題

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "新オスマン人運動の形成とクレタ問題"

Copied!
21
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

論 文

新オスマン人運動の形成とクレタ問題

『報道者

Muhbir』紙の募金活動を中心として rr

佐々木   紳

(東京大学)

The Formation of Young Ottomans Movement and the Cretan Problem Fund-raising Campaign of the Newspaper Muhbir

Sasaki, Shin

e University of Tokyo

On the outbreak of the Cretan Problem (1866–69), Ottoman newspapers issued in Istanbul launched fund-raising campaigns for Cretan people. The present article is a case study on these campaigns, focusing on the philan- thropic activity of an Ottoman newspaper, theMuhbir (Informer), the editor r in chief of which was Ali Suavi (1839–78), one of the prominent members of the Young Ottomans (Yeni Osmânlılar).r

I examined two fund-raising campaigns of Ottoman newspapers, the Rûznâme-i Cerîde-i Havâdis (Daily Register of Events) and s Tasvîr-i E âr (Desc- ription of Opinions), in the chapter I, and the campaign of theMuhbirrin the chapter II. Debates among these newspapers on the subject of campaigns includes several suggestive points concerning the transformation of the con- cept of nation within the mid nineteenth-century Ottoman Empire. In those debates, both the Rûznâmeeand Muhbir replaced their original tones that the r subject of those campaigns should be Muslim only, with new ones that such a campaign should be performed by all the Ottomans regardless of race (cins) s or religion (mezheb). us the quality of those campaigns turned to a social movement including all of the Ottoman populace, through competitions and debates among newspapers, and correspondences sent by readers. It can be said an opportunity of the emergence of the Ottoman public sphere.

In the chapter III, I investigated the relationship between the fund-raising campaign of the Muhbir and the Young Ottomans movement. On the analysis r of the subscriber lists appearing in this paper, I found some names of fi gures who involved in the secret society,Meslek (Mission), which was one of the

Keywords: Young Ottomans Movement, Cretan Problem, the Newspaper Muhbir, Ali Suavi, Philanthropic Activities in the Modern Ottoman Empire

キーワード : 新オスマン人運動,クレタ問題,『報道者』,アリ・スアーヴィ,近代オスマ

ン帝国の慈善活動

(2)

はじめに

タンズィマートTanzimatと呼ばれる19 世紀オスマン帝国の改革運動の中で,官僚 主導の改革を批判し,専制の打破と憲政の 樹立とを求めた知識人グループは,「新オス マン人Yeni Osmânlılar」と呼ばれる。彼ら は1860年代後半から70年代前半にかけて,

当時勃興しつつあった新聞・雑誌を通して,

ア ー リ・ パ シ ャMehmed Emin Âli Paşa

(1815-1871)やフアト・パシャKeçecizâde Mehmed Fuad Paşa(1815-1869)を首班と するオスマン政府の改革政策を厳しく批判 し,それゆえヨーロッパへの亡命を余儀なく された。以後,彼らは憲法制定と議会開設 とを掲げた言論活動を本格化させ,これが

1876年の「基本法Kānûn-ı Esâsî」(いわゆ るミドハト憲法)の発布と第一次立憲政の樹 立とに思想的な基盤を提供することとなる。

このように,新オスマン人の思想と運動は,

近代オスマン思想史の中で極めて重要な位置 を占めている。しかし当然ながら,この時代 に思想的な営みをおこなっていたのは,新オ スマン人に限られるわけではない。それゆえ,

新オスマン人の思想的営為をより適切に評価 するためには,新オスマン人以外の論者の議 論にも留意して新オスマン人の議論を相対化 する作業が必要となる1)

さて,その新オスマン人運動の母体とな る秘密結社の名称が「使命Meslek」である ということは,M・K・ビルゲギルらの研究 を通して広く知られるようになってきた2)。 1865年に結成されたとされるこの団体の中 primary origins of the Young Ottomans Society (Yeni Osmânlılar Cem‘iyyeti).

In addition, their connection with Mustafa Fazıl Paşa (1830–75), the younger brother of the Egyptian khedive Ismail and a patron of the Young Ottomans, appeared through the Muhbir’s campaign, and that campaign had potentiali- ties to change to a political movement against the Ottoman government: all those factors caused caution of the government and the oppression against the Young Ottomans. e fund-raising campaigns for Cretan people give a lot of important suggestions concerning not only the Young Ottomans movement, but also the genesis of social movement and public sphere within the late Ottoman Empire.

はじめに

Ⅰ クレタ支援活動の開始 1. イスタンブルの状況 2.『日報時事通信』の論調 3.『公論述報』の論調

Ⅱ 『報道者』の募金活動 1. 募金活動の開始

2. 募金方式をめぐる問題 3. 活動主体をめぐる問題

Ⅲ 募金活動の結末 1.『報道者』の停刊

2. 新オスマン人運動の形成に向けて おわりに

参考文献

1) 佐々木[2008]は,こうした作業の一環として,新オスマン人の議会論を相対化する試みである。

2) ビルゲギルは,この秘密結社のメンバーが関与したクーデタ未遂事件の調書に基づき,これまで

「愛国同盟İttifâk-ı Hamiyyet」などとされてきたこの団体の名称が「使命」であることを確認した

[Bilgegil 1976: 355ff ]。この事実は,ff Koray[1983; 1990]やÇelik[1994; 1999]などによって補 強され,新井[2001; 2009]をはじめとする日本語の通史にも反映されている。

(3)

核メンバーを含む「9人のトルコ人の革命 家dokuz Türk ihtilâlcisi」[Kuntay 1944:

376],すなわちレシャト,ヌーリ,アーギャー フ,リファト,メフメト,ヒュセイン・ヴァ スフィ,ズィヤー,アリ・スアーヴィ,そ してナームク・ケマルがオスマン政府の圧 迫を受けてヨーロッパへ亡命し,1867年8 月 に「新 オ ス マ ン 人 協 会Yeni Osmânlılar Cem‘iyyeti」を設立することとなる。ところ が,こうして母体となる秘密結社の名称が解 明され,またH・チェリクによって新オス マン人協会の綱領が「復元」されたとして も3),亡命以前の新オスマン人の活動につい ては依然として不明な点が多いと言わねばな らない。

そこで本稿は,亡命以前の新オスマン人 の活動を解明する一つの試みとして,1860 年 代 後 半 に 発 生 し た「ク レ タ 問 題Girid Mes’elesi」4)をめぐる彼らの活動と発言とに 注目する。ムスリム住民と正教徒Rum住民 とが混住するクレタ島で発生したこの事件 は,当時のオスマン帝国が抱える最大の懸案 の一つであった。そして,この事件に際して イスタンブルの諸新聞が展開したクレタ島民 救済のための募金活動が,新オスマン人運動 の形成過程を解明する上でも極めて重要な情 報を含んでいるのである。本稿では新オス マン人の一人,アリ・スアーヴィAli Suavi

(1839-1878)が編集人を務めたオスマン語 新聞『報道者Muhbir』による募金活動を取 り上げ5),他紙による募金活動との比較も交 えながら,亡命直前期の新オスマン人運動の 一側面を考察することとする。

ところで,クレタ問題に際して始まった各 紙の募金活動は,互いの競合や論争を通して,

あるいは読者からの投書によって,オスマン 帝国の中央・地方,またムスリム・非ムスリ ムの別を問わず,広範な人々が参加する一種 の社会運動に発展する契機を孕んでいた。こ れは,近代オスマン帝国における「国民」概 念の形成や「公共的空間」の出現にもかかわ る重要な点であろう。それゆえ本稿では,ク レタ支援のための募金活動を通して説かれる 活動主体をめぐる議論にも留意して,新オス マン人をはじめとする当時のオスマン知識人 の集団区分概念,とくに「国民」概念をめぐ る議論にも分析を加えたい7)

以下,第Ⅰ章でクレタ問題をめぐるイスタ ンブルの諸新聞の論調を,第Ⅱ章で『報道者』

の募金活動の展開をたどる。第Ⅲ章では,同 紙の募金活動の結末を確認した上で,それが 新オスマン人運動の形成過程にもたらした影 響を考察する。なお,本稿で用いる定期刊行 物史料の略号については,稿末の参考文献リ ストを参照されたい。

3) R・H・デイヴィソンによれば,ワルシャワの国立図書館Biblioteka Narodowaにあった新オス

マン人協会の綱領は,第二次世界大戦中に紛失したという[Davison 1973: 215-216, n. 153]。いっ ぽうチェリクは,1870年代に発行されたヨーロッパ諸国の諸新聞を渉猟して得た情報をもとにし て,全13条から成るこの綱領のうち,第9条を除く12の条文を復元した[Çelik 1994: 34-37, 745-747]。

4) 1866-1869年にクレタ島で発生したこの事件には,「クレタ革命」や「クレタ紛争」などいくつか

の呼称がある。本稿では,当時のオスマン語新聞で多用される「クレタ問題」の語を用いることと する。なお,この事件の呼称をめぐる問題点については,真下[1985: 71-72]も参照。

5) アリ・スアーヴィに関する専著としてはKuntay[1946]が知られてきたが,オスマン語史料に加 えて欧文の公文書や定期刊行物も駆使したÇelik[1994]の出現で研究水準が高まった。

7) 近代オスマン帝国における慈善事業と国民化との関係をめぐる研究では近年,N・オズベクがア ブデュルハミト二世(在位1876-1909)の時代を中心に成果をあげつづけているが[Özbek 1999;

2002; 2003; 2005],それに先立つタンズィマート期については未開拓の部分が多い。それゆえ本稿 は,タンズィマート期の慈善事業と「国民」との関係を考察するための一事例を提供しうるものと 考える。ただし,本稿では1860年代後半に時期を限定するため,アブデュルハミト期までを視野 に入れた近代オスマン帝国における慈善事業と国民化の問題には踏み込まない。

(4)

Ⅰ クレタ支援活動の開始

1. イスタンブルの状況

イスタンブルの諸新聞は,1867年1月下 旬から2月上旬にかけて,クレタ島民救済の ための募金活動を開始した。なぜこの時期に,

こうした活動が始まったのだろうか。

17世紀にオスマン領となったクレタ島で は,1866年夏,オスマン政府による改革不 履行を理由に正教徒住民が蜂起し,9月には 島西部の拠点スファキアでギリシア王国への 統合が宣言された。また,ギリシアから義勇 兵が参加したこともあり,事態はオスマン帝 国とギリシア王国との国際問題に発展する。

「反乱」鎮圧のために派遣されたオスマン軍 は,10月より本格的な掃討作戦を展開し,

11月のアルカディ修道院をめぐる攻防戦を 経て,1867年1月までに島西部の制圧に成 功した8)。こうしてこの時期のイスタンブル では,事態の一時的鎮静化を受けて,クレタ の戦況のみならず,島民の窮状にも目を配る 余地が生まれたと考えられる。加えて,こ の時期はヒジュラ暦1283年のラマダーン月

(西暦1867年1月7日から2月5日)に当たっ ており,ムスリムの信仰心,とくに困窮者救 済に対する宗教的義務感が極めて高まりやす い状況にあった9)。ここにクレタ島民,わけ てもムスリム住民の窮状に注目し,その支援 策を議論しうる状況が出来したのである。

さて,1867年初頭のイスタンブルで発行 されていたオスマン語新聞の中でクレタ支 援を積極的に論じていたのは,『日報時事通

Rûznâme-i Cerîde-i Havâdis』(以下『日報』

と略記),『公論述報Tasvîr-i E âr』,そして

『報道者』の三紙であった。それゆえ以下で は,この三紙の論調を分析しながら,イスタ ンブルにおけるクレタ支援活動の展開をたど ることとするが,分析を始める前に三紙の基 本情報を確認しておこう。

1840年 に イ ギ リ ス 人 の ウ ィ リ ア ム・

チャーチルWilliam Churchill(1797-1846)

が創刊した初のオスマン語民間新聞『時事通 信Cerîde-i Havâdis』の後継紙として,1864 年から発行された『日報』は,前身の『時事 通信』が草創期にオスマン政府の経済的支援 を受けて経営を維持していた関係で,オス マン政府寄りの論調をとっていた10)。『公論 述報』は,1860年にオスマン語新聞『情勢 通詞Tercümân-ı Ahvâl』を発行したイブラヒll ム・シナースィİbrahim Şinasi(1826-1871)

によって,1862年に創刊されたオスマン語 新聞である。1865年より新オスマン人のナー ムク・ケマルNamık Kemal(1840-1888)が 運営責任者となったことで,同紙は政論新聞 としての性格を強め,政府批判の論陣を張る ことになる。1860年代を通して『公論述報』と

『日報』とは競合関係にあり,クレタ問題を めぐっても両紙の間では論争が生じている11)

この『日報』と『公論述報』をオスマン語 民間新聞の古参とするならば,1867年1月 に創刊された『報道者』は,新規参入のオス マン語新聞と言えよう。ディヤルバクル生ま れのアルメニア教会信徒と言われ,若いころ に『時事通信』の発行所で荷担ぎや雑用係を 務めた経験をもつ発行人のフィリップ・エ 8) 1866-1869年のクレタ問題の概要については,Mehmed Salâhî[1967: 1-28],Tatsios[1984: 29- 40],山内[1984: 320-324],Türkmen[2002]を参照。また,19世紀のクレタ島の住民構成については,

Adıyeke[2000: 77-83]を参照。

9) 実際,この年のオスマン帝国官報『諸事暦報Takvîm-i Vekāyi‘』には,ラマダーン月の開始にあた り,貧者や困窮者への慈善活動を奨励する記事が掲載されている。TV, no. 870 (29 Ş 1283/6 Jan.VV 1867): 1c-2a.なお本稿では,ヒジュラ暦の12の月名を,ムハッラム月から順にM, S, Ra, R, Ca, C, B, Ş, N, L, Za, Zと略記する。

10)『日報』および『時事通信』の書誌情報については,Ebüzziya[1993]を参照。

11)『公論述報』の書誌情報については,TDEA[1998]を参照。なお,同紙の記事をテーマ別に目録 化したものとして,Hayta[2002]がある。

(5)

フェンディŞâhinoğlu Filip Efendi(?-1900)

は,正規の教育こそ受けなかったものの,新 オスマン人のアリ・スアーヴィを編集人とし て,この年『報道者』の創刊にこぎつけた。

当時としては極めて平易で口語的な文体を用 い,『公論述報』よりも辛辣な政府批判をお こなった。なお『報道者』には,1867年1 月から5月までイスタンブルで発行されたも の(全55号)と,1867年8月 か ら1868年 11月までロンドンで発行されたもの(全50 号)とがある。本稿で分析対象とするのは,

イスタンブルで発行された前者のシリーズで ある12)

2.『日報時事通信』の論調

三紙の中でいち早くクレタ島民への募金活 動を提案したのは,『日報』であった。同紙 第585号(1867年1月31日)に掲載された 投書には,次のように記されている14)

キリスト教徒は,彼らと宗教を同じくする 者たちを貧困のくびきから救うためのみな らず,いくつかの悪行を生じさせる目的で,

彼らの間で数百万もの金銭を集めた。にも かかわらず我々は,我々の兄弟を彼らが 陥った窮状から救うために,数クルシュの 金銭的支援を与えることさえ惜しむのか?

これは人道と愛国心とに適うだろうか? 

はたして,このために金を惜しむ者がいる かといえば,〔そのような者は〕いないの

である[RCH, no. 585: 1a]15)

「キリスト教徒」と「我々」との対応関係 から,ここでの「我々」がムスリムを,そし てその「兄弟」がクレタのムスリム住民を指 していることは言うまでもない。「いくつか の悪行」を働く者の中には,クレタ島民の反 乱分子はもとより,ギリシア政府の黙認を得 て活動するギリシア人義勇兵も含まれている のだろう。こうして『日報』の募金活動は,

ムスリムによるムスリムのための支援を掲げ て始まった。

ところが『日報』の提案は,現下の混乱状況 を理由にその実現を疑問視する『公論述報』

の批判を受けた16)。これに対して『日報』は,

募金活動の具体的な手続きを提案する投書を 掲載することで応じていく。このうち同紙 第591号(1867年2月13日)に掲載された 投書は17),冒頭で「互助とは,我々の宗教が 要請するものであるTa‘âvün ise muktezâ-yı diyânetimizdir」18)と説き,募金活動を円滑 に進めるための支援団体の設立を提案した。

これを受けて『日報』は,そうした団体が設 立されるまで,当面はオスマン政府の指示に 従って「オスマン銀行Bank-ı Osmânî」に 義捐金を預け,その受領書を同紙の発行所に 提示すれば,募金者の氏名と金額とを紙面で 公表する,と告知した[RCH, no. 591: 1c]。

ここまで『日報』紙上で提示された二つの 活動形態,すなわち募金活動のための支援団

12)『報道者』の書誌情報については,Çelik[2006]を参照。『報道者』のほかにも多くの新聞を発行 したフィリップについては,Ebü’z-ziyâ[n. d.: 74],Yerlikaya[1996: 8-9],Çelik[1994: 72-73, n.

82]を参照。

14)“Şehir postasıyla matba‘amıza gönderilen varakadır,” RCH, no. 585 (25 N 1283/31 Jan. 1867): 1a.

15)Hıristiyânlar yalnız milletdaşlarının kayd-ı zarûretden vikāyesi için değil birtakım fesâdâtın vücûd bulması zımnında beyinlerinde milyonlarca akçe topladıkları hâlde biz ancak karındaşlarımızın dûçâr oldukları sefâletden vikāyesiyçin üçer beşer guruş i‘âne-i nakdiyye vermeği çok mu görelim? Bu husûs insâniyyet ü hamiyyete yakışır mı? ‘Acabâ bu uğurda para esirgeyen var mıdır zann edersek yokdur.

16)“Şehir postasıyla matba‘amıza gelen varakadır,”TE, no. 457 (4 L 1283/9 Feb. 1867): 3a-3b.

17)“Sekiz imzâ ile matba‘amıza gönderilen varakadır,” RCH, no. 591 (8 L 1283/13 Feb. 1867): 1b-2a.

18)この文言は,クルアーン5章2節の「互いに助けあって善をおこない,神を畏れよwa ta‘āwanū ‘alā al-birri wa at-taqwā」を踏まえているものと考えられる。なお,クルアーンの日本語訳は,藤本・伴・

池田[2002: 131]を参照した。

(6)

体の設立と紙面での募金者リストの公表とい う方式は,以後,各紙も踏襲することとなる。

この意味でも『日報』は,イスタンブルの諸 新聞によるクレタ支援活動の嚆矢なのであっ た。また,同紙の支援活動が『公論述報』の 批判を受けて発展し,読者からの投書によっ て具体性を帯びていく点にも注意したい。

3. 『公論述報』の論調

いっぽう,ナームク・ケマルが運営する

『公論述報』は,同じくクレタのムスリム住 民の窮状に注目しながらも,『日報』とはい ささか異なる論調のもとに支援を呼びかけ た。まず『公論述報』は,クレタの「叛徒

‘usât」を厳罰に処すべきこと,そしてそれ を「世論e âr-ı ‘umûmiyye」に知らしめる ことこそ同紙の報道方針であるとした上で,

「叛徒」を支援するギリシア政府に対してオ スマン政府は強硬に対処すべきこと,またム スリム住民への損害賠償が必要であることを 説く19)。さらに,ギリシアがクレタの正教徒 住民を支援するならば,我々はムスリム住民 の状況を注視せねばならない,として後者の 窮状に注意を促す一方,同紙の対ギリシア強 硬論を批判する『日報』に対しては,ギリ シアの諸新聞と同列に扱うことで対抗姿勢 を明示した20)。実際,『日報』と『公論述報』

との間には,1866年10月から11月にかけ て,クレタ問題についての報道姿勢をめぐる 論争も起きている。なお,この時期の『公論 述報』には,クレタ問題をめぐるヨーロッパ 各紙の論調,とりわけイスラームを「文明 medeniyyet」や「進歩terakkî」の阻害要因

とする説に真っ向から反論する論説も掲載さ れている21)

ここから『公論述報』は,クレタで最も困 難な状況にある者はムスリム住民にほかなら ず,しかしギリシアをはじめとするヨーロッ パ諸国の諸新聞はその「事実」を歪曲してい る,という観点からムスリム住民の救済を説 いていたことがわかる。クレタ問題をめぐる 同紙の論調の底流には,ヨーロッパからムス リムおよびイスラームに向けられた批判や偏 見に対する強烈な憤懣があったと言えよう。

なお,この種の論説の多くがナームク・ケマ ルの手になるものであったことは,その後の クレタ支援に関する論説の中でケマルが説い ていく「オスマン人」なる国民像の内実を検 討する上でも,注意を要する点となる。

さて,この時期の『公論述報』には,いま 一つ注目すべき点がある。同紙が慈善活動に 高い関心を示していたことである。たとえ ば,女性や貧者のための福祉・救済の必要を 説く同紙第408号(1866年7月27日)の論 説を受ける形で,篤志家の寄付による女性専 用病院の設立を提案する論説が,同紙第452 号(1867年1月17日)に掲載された22)。そ して,この論説に触発される形で同紙第455 号(同年1月29日)に掲載されたのが,ほ かならぬ『報道者』の編集人,アリ・スアー ヴィから寄せられた慈善活動に関する投書で ある23)。ここで『公論述報』第452号の論説 を高く評価するスアーヴィは,ハディースや イスラーム法学書の文言を引きながら,ムス リムによる慈善活動の伝統と重要性,とりわ けサダカ(自発的喜捨)やザカート(義務的

19) [Namık Kemal], “Bend-i Mahsûs: Girid Mes’elesi’ne dâ’irdir,” TE, no. 423 (14 Ca 1283/24 Sept.

1866): 1a-4a.なお,『公論述報』におけるナームク・ケマルの無署名論説の特定にあたっては,

Hulûsi[1942]を参考にした。

20) [Namık Kemal], TE, no. 425 (22 Ca 1283/2 Oct. 1866): 1a-2a.

21) [Namık Kemal], TE, no. 430 (13 C 1283/23 Oct. 1866): 1a-3a.

22)TE, no. 408 (14 Ra 1283/27 Jul. 1866): 1a-2a; TE, no. 452 (11 N 1283/17 Jan. 1867): 1a-1b.

23) “Hamiyyet-i milliyyesini ma‘ârif-i dîniyye ile tezyîn etmiş olan ‘Alî Su‘âvî Efendi tarafından matba‘amıza gönderilen lâyihadır,” TE, no. 455 (23 N 1283/29 Jan. 1867): 1a-3a.この論説は数日 後,『報道者』にも転載された。Cf.Muhbir, no. 11 (27 N/2 Feb. 1867): 1a-3b.

(7)

喜捨)の効用を説いている。スアーヴィが『公 論述報』の論説に促される形で慈善活動への 関心を示していたことは,その後の『報道者』

の論調の推移を考察する上でも注目に値しよ う。ただしこの時期には,『公論述報』も『報 道者』も,いまだクレタ支援に関する具体的 な提言をおこなってはいない。

それでは『公論述報』は,どの時点でクレ タ支援の呼びかけを本格化させるのだろう か。同紙がクレタ島民への募金活動に初めて 言及した論説は,同紙第460号(1867年2 月20日)に現れた24)。ナームク・ケマルの 手になるこの論説は,『日報』にも転載され,

かつ高く評価されていることから,クレタ支 援をめぐるイスタンブルの「世論」の動向に も大きな影響を与えたと考えられる25)

まずこの論説は,「我々の父祖ecdâdımız」

がそうしたように,「災禍に遭遇した祖国 同 胞 た ちfelâkete uğrayan vatandaşlar」 に 対 し て「オ ス マ ン 人Osmânlı」 と し て の 責務を果たすべく,「クレタにいる我々の 兄弟になしうる限りの支援をおこなうこと Girid’de bulunan kardeşlerimize elden gelen mu‘âvenetin icrâsı」 が 緊 要 で あ る と 説 く。

そして,

彼ら〔クレタ島民〕が受けた苦難は,ただ 彼らにとってのみならず,オスマン人の全 体にかかわる問題である。〔中略〕要する

に,人道とイスラーム,そして愛国心と国 民性とが,クレタ島民について我々全員に,

オスマン人の名誉にふさわしい寛大なる行 動を迫っている[TE, no. 460: 1b]26)

として,クレタの危機を全ての「オスマン人」

にとっての危機と見なし,島民への支援を呼 びかける。論説の後半では,ドナウ州Tuna

Vilâyetiの住民による募金活動を紹介した後,

こうした善行において,イスタンブルの住 民が諸地方の人々に,またイスラームの宗 教共同体がその祖国同胞たる他の諸民族に 遅れをとることがあってよいのだろうか?

[TE, no. 460: 1b]27)

と問いかけ,募金活動のための支援団体を設 立すること,そして活動に関する情報が適切 に公表されることを提案する。

「父祖」の栄光や「兄弟」の紐帯を説いて

「祖国」への愛を語り,その「祖国」に生き る人々を「オスマン人」とする文体が,ナー ムク・ケマルに特有のものであることは言う までもない。しかし,クレタ支援活動におい て「イスラームの宗教共同体」が他の「祖国 同胞」に立ち遅れることがあってはならな いとしている部分は,それまで「オスマン 人」として一体的に説かれてきたはずの集団 が,実はムスリムと非ムスリムとに峻別され

24)[Namık Kemal], “Ta‘āwanū ‘alā al-birri,” TE, no. 460 (15 L 1283/20 Feb. 1867): 1a-2a. 表題とさ れたクルアーンの章句については,本稿註(18)を参照。

25)Cf.RCH, no. 596 (15 L 1283/20 Feb. 1867): 1a-1c. なお,新オスマン人と行動をともにしたジャー ナリスト,エビュッズィヤー・テヴフィクEbüzziya Tevfi k(1849-1913)は,後年に記した回想 録の中で,このナームク・ケマルの論説を極めて高く評価する。Ebü’z-ziyâ, “Yeni Osmânlılar’ın Sebeb-i Zuhûru,”YTE, no. 8 (7 Jun. 1909): 2a-2c.いっぽう,本稿で後述する『報道者』の募金活 動についてのエビュッズィヤーの評価は,それほど高くはない。H・チェリクも指摘するとおり,

新オスマン人研究の一級史料とされてきたエビュッズィヤーの回想録が帯びる「ナームク・ケマル 礼賛Namık Kemal hayranlığı」[Çelik 1994: 107]の傾向には注意を要する。

26)Çekdikleri meşakkat yalnız kendilerine değil Osmânlıların ‘umûmuna ‘â’id olan bir mes’ele içindir. [… ..] Hâsılı insâniyyet ü İslâmiyyet ve hamiyyet ü milliyyet Giridliler hakkında cümlemizi Osmânlı şânına lâyık bir fütüvvet icrâsına icbâr ediyor.

27)Böyle bir mu‘âmele-i muhsinede İstanbul ahâlîsi eyâlât halkından ve millet-i İslâmiyye vatandaşı olan akvâm-ı sâ’ireden geri kalmak revâ mıdır?

(8)

うるものであったことを示していよう。と すれば,この論説に見られる「オスマン人」

のイメージは,この時期より30年ほど前の 1839年に,タンズィマートの開始を告げる べく発布されたギュルハーネ勅令に散見する

「国民」像から,さほど離れているわけでは ない。この勅令の起草に携わった当時の外務 大臣ムスタファ・レシト・パシャMustafa Reşid Paşa(1800-1858)と同様に,ナーム ク・ケマルも「その「国民」の内実を具体的 に描く段になると,やはりムスリムと非ムス リムとを区別せずにはいられなかった」[新

井1992: 108]のだろうか。いずれにせよ,

「祖国」を同じくする「オスマン人」の責務 としてクレタ支援の必要を説く『公論述報』

も,その活動主体としてはムスリムを念頭に 置いていたことがわかる。

Ⅱ 『報道者』の募金活動

1. 募金活動の開始

『報道者』のクレタ支援活動は,その報道 姿勢や活動形態の面で,他紙とは異なる展開 を見せている。1867年1月の創刊当初より 他紙と同じくクレタ問題を注視していた同紙 には,オスマン領外,とりわけ欧米諸国で おこなわれているクレタ支援活動に関する 記事が散見する28)。たとえば,同紙第16号

(同年2月14日)には,イタリアの国会議 員によって「クレタの賊Girid eşkıyâsı」を 支援するための団体が結成されたことを紹介 しながら,「極度に虐げられているムスリム

住民nihâyet derecede magdûr olan ahâlî-i

İslâmiyye」への支援がないことを嘆く論説

が掲載された29)。また,同紙第20号(同年 2月20日)の論説は30),これまで欧米諸国 でおこなわれてきたクレタ島民への募金活動 を要約した後,

我々の祖国同胞たるイスラームの民よ。

我々がこうしたことを記した意図は,まさ に皆の同胞についての努力を示すことにあ る。クレタにイスラームの民はいないの か? はたして,そのムスリムたちは擾乱 のために害を受けているのではないのか?

クレタにいるムスリムと連絡をとる者や彼 らの状況に通じた者たちと,諸君は語り 合っていないのか? 彼らはどれほどの害 をこうむったことか? そして,どれほど 悲しむべき状況にあることか? もはやこ の困窮者たちの痛みには,諸君の支援の ほかに妙薬は残っていないのだ[Muhbir, no. 20: 1a-1b]31)

として,イスタンブルで正教徒が開催したク レタ支援のための慈善舞踏会をも紹介しなが ら,クレタのムスリム住民への募金活動の必 要を説いている。モスクでのハティーブ(説 教師)の口吻を思わせる簡潔で喚起力のある 文体は,この論説の執筆者がアリ・スアー ヴィであることを示唆していよう。

かくして『報道者』第22号(1867年2月 25日)に,同紙が正式にクレタ島民への募金 活動を開始するとの告知が掲載され32),ここ

28)Muhbir, no. 5 (9 N 1283/15 Jan. 1867): 2b; Muhbir, no. 6 (16 N 1283/22 Jan. 1867): 3a, 3b; Muhbir, no. 9 (23 N 1283/29 Jan. 1867): 4a; Muhbir, no. 13 (4 L 1283/9 Feb. 1867): 4b. このうち同紙第9 号(1867年1月29日)の記事は,ヨーロッパ各地で集められた義捐金の総額がその時点で18万 リラに上っていることを報じている。

29)Muhbir, no. 16 (9 L 1283/14 Feb. 1867): 4a.

30)Muhbir, no. 20 (16 L 1283/21 Feb. 1867): 1a-1b.

31) Ey vatandaşımız olan ahâlî-i İslâm, bunları yazmadan murâdımız ancak herkesin hemcinsleri hakkında olan gayretlerini göstermekdir. Girid’de ehl-i İslâm yok mudur? ‘Acabâ o Müslümânlar ihtilâl yüzünden mutazarrır değil midir? Girid’deki Müslümânlarla muhâbere eden ve anların hâllerine âşinâ olanlarla konuşmuyor musunuz? Ne derece ziyân görmüşlerdir ve ne kadar acınacak hâldedirler? Artık bu bîçârelerin derdine sizin i‘ânenizden başka dermân kalmamışdır.

(9)

に『報道者』のクレタ支援活動が本格的に始 動することとなる。同紙第24号(同年2月 27日)には,発行人のフィリップの署名で 以下のような活動計画が公表された33)

皆様の幸福を願う者であるこの小生もま た,クレタのムスリム住民を支援いたしま す。すなわち,来たる月曜日〔西暦1867 年3月4日〕,『報 道 者』 紙 か ら1万5000 部を発行いたします。これらより集まる売 上げの全てはクレタのムスリムに分配され るでしょうから,完売し,多くの購入者が 現れることを願います。ここから生じるこ とになる売上げの中から,皆が信頼する然 るべき方々を介して,まず紙や植字工や印 刷業者や配達人への支出が引かれ,この支 出が何クルシュに上ろうとも公表されて,

皆様に十分に報告されます。そして,集まっ た金銭を私みずから携え,官有汽船に乗っ てクレタまで持っていき,当地でムスリム 住民の然るべき方々の前で,そして軍司令 官の監督のもとに,その金銭を全てのムス リムにその状況に応じて分配いたします。

また,一篇の台帳を作成させ,臨席者に捺 印させて持って帰り,皆様をご安心させる ためにその台帳を公表いたします。小生の 意図はこれこのとおりであります。皆様,

信用〔確保〕のためにさらに何かお心当た りがございましたらご教示ください。また,

別のご要望のある方も発行所にお越しくだ さい。あらゆる奉仕と尽力とを厭わぬ所存 です[Muhbir, no. 24: 1a]34)

以上の経緯から,『報道者』の募金活動は 次の二点で『日報』や『公論述報』のそれと は異なる特徴を有していたことがわかる。一 つは,『報道者』が欧米諸国でのクレタ支援 活動の進展に注意を促していることである。

前章で確認したとおり,たしかに『日報』や

『公論述報』もクレタのムスリム住民の窮状 に注目してはいたが,『報道者』はクレタ支 援活動においてオスマン帝国のムスリムが欧 米諸国に遅れをとってはならない,という形 で読者の注意を喚起しているのである。また,

同紙がイスタンブルの正教徒の動向を紹介し ながらムスリムによる支援活動の必要を説い ている点にも注意したい。『報道者』は,オ スマン領内においてもムスリムが支援活動に 遅れをとってはならない,という観点からム スリムによるクレタ支援の必要を説いている のである。

もう一つは,『報道者』の支援活動の形態 が他の二紙とは全く異なっていることであ る。これも前章で確認したとおり,たしかに 募金という方式を初めて提案したのは『日 報』であった。また『日報』は,支援団体が 設立されるまではオスマン政府の指示に従っ てオスマン銀行を介して募金するように呼び

32)“İhtâr,”Muhbir, no. 22 (20 L 1283/25 Feb. 1867): 1a.

33)Filip, “İhtâr,” Muhbir, no. 24 (22 L 1283/27 Feb. 1867): 1a.

34)‘Âmmenin hayırhâhı olan bu ‘âciz dahi Girid ahâlî-i Müslimesine i‘âne edeceğim. Şöyle ki gelecek Pazartesi günü (Muhbir) nüshasından on beş bin ‘aded çıkaracağım. Bunlardan toplanacak guruşun hepsi Girid Müslümânlarına taksîm olunacağı cihetle cümlesi satılır ve müte‘addid nüshalar alanlar bulunur umarım. Bundan hâsıl olacak paranın içinden herkesin emniyyet edeceği mu‘teber zevât ma‘rifetleriyle ibtidâ kâğıd ve mürettib ve basmacı ve müvezzi‘ masrafl arı çıkarılacak ve bu masraf her kaç guruşa bâliğ olursa i‘lân olunup herkese lâyıkıyla bildirilecek ve biriken paraları ben kendim bi’z-zât alıp ve beylik vapura binip tâ Girid’e götüreceğim ve orada ahâlî-i Müslime mu‘teberânı huzûrunda ve kumandanlar nezâreti altında olarak şu paraları her Müslümân’a hâline göre taksîm edeceğim ve bir kıt‘a de erini yapdırıp hâzır bulunanlara mühürletip alıp geleceğim ve herkesi te’mîn için de er-i mezbûru i‘lân eyleyeceğim. Niyyet-i

‘âcizânem işte budur. Herkes emniyyet için daha her ne hâtırına gelirse ihtâr buyursun ve başka sipâriş olan daha matba‘ayı teşrîf eylesin. Her türlü hizmeti ve fedâkârlığı ihtiyâr edeyim.

(10)

かけていた。いっぽう『公論述報』は,ムス リムによるクレタ支援の必要を説きながら も,具体的な募金活動を起ち上げることはな かった。これと比較すると,自紙の売上げ自 体を義捐金とするのみならず,それを発行人 みずからクレタに持参すると告知した『報道 者』の独創性は明らかである。

ただし,『報道者』のクレタ支援活動は,

必ずしもフィリップが告知したとおりの形で 進展したわけではない。以下に見るとおり,

募金活動の手続き上の問題と,活動主体に関 する理念的な問題とをめぐって,同紙は活動 方針の見直しを迫られるからである。

2. 募金方式をめぐる問題

『報道者』のクレタ支援活動は,新聞の売 上げ自体を寄付金とする慈善活動としては,

オスマン史上初の試みであった35)。しかもそ れは,一新聞を主体とする,徹底した民間主 導の慈善活動なのであった。『報道者』の募 金活動に見られるこうした特質は,ただ発行 人のフィリップや編集人のアリ・スアーヴィ の卓抜な発案にのみ帰せられるべきではな い。なぜなら,募金活動の開始を告知した直 後より,同紙には多くの投書が寄せられ,そ れらの提案を踏まえながら同紙のクレタ支援 活動が展開していくからである。

前 述 の と お り,『報 道 者』 は1万5000部 のクレタ支援特別号を発行し,その売上げか ら必要経費を差し引いた残額をクレタのムス リム住民に寄付する,と告知した。この方式

については,告知直後からいくつかの質問状 が同紙に寄せられている。なかでも『報道者』

の活動計画に決定的な修正を迫ったのは,同 紙第26号(1867年3月2日)に掲載された 長大な投書であった36)。この投書の質問は,

以下の二点にまとめることができる。第一に,

はたして『報道者』の発行所は1日で1万 5000部を印刷することができるのか。また,

それを全て売り切ることができるのか。第二 に,新聞を読むには1部あれば十分であるに もかかわらず,たとえば100クルシュを寄 付したい者が100部を購入した場合,残り の99部は無駄になってしまうのではないか。

こうした「浪費isrâf」による必要経費のf 増大は寄付額の減損につながり,結果的にク レタ島民の不利益となってしまうだろう,と するこの投書の指摘を全面的に受け入れた

『報道者』は,次のように募金方式を大幅に 修正した[Muhbir, no. 26: 2a]。第一の指摘 については,たしかに印刷機を1台しか持た ない同紙の発行所が1万5000部を印刷する には3-4日を要し,それだけ経費もかさむの で,当日の発行部数を5000部とする37)。第 二の指摘については,クレタ支援特別号の1 部あたりの販売価格に差をつけることで対処 する。この方式は,翌日の同紙第27号(1867 年3月3日)で正式に告知された38)。こうし て『報道者』の募金活動は,読者からの投書 によって修正を加えられながら,クレタ支援 特別号の発行当日(1867年3月4日)を迎 えることとなる39)

35) N・オズベクは,19世紀末にイスタンブルの諸新聞がおこなった救貧院Dârü’l-‘aceze設立のため

の募金活動[Özbek 1999: 16]や,同じく19世紀末に『婦人専用新聞Hanımlara Mahsûs Gazete』

や『児童専用新聞Çocuklara Mahsûs Gazete』がおこなった募金活動[Özbek 2005: 66-67]を紹介 する。

36) “Bir büyük zât tarafından gelen ihtârdır,”Muhbir, no. 26 (25 L 1283/2 Mar. 1867): 1a-2a.

37)ここから,『報道者』の発行可能部数が1日最大5000部程度であったことがわかる。これは,同 紙の1日あたりの発行部数を推測する上でも示唆的な数値である。

38) “İ‘lân,” Muhbir, no. 27 (26 L 1283/3 Mar. 1867): 1a.販売価格と発行部数は次のとおり。2リラ相 当100部,1リラ相当300部,半リラ(=50クルシュ)相当400部,20クルシュ相当1200部,

10クルシュ相当1000部,5クルシュ相当1000部,2クルシュ相当1000部。これらが完売した場合,

11万1000クルシュ(=1110リラ)の売上げが見込まれることになる。なお,『報道者』の通常の 販売価格は,1部40パラ(=1クルシュ)であった。

(11)

これまで見てきたとおり,『報道者』の募 金活動は,一民間新聞の発案で始動したとい う側面のみならず,読者からの投書によって 合理的な形態に整えられていったという意味 でも,徹底した民間主導の慈善活動であった。

いっぽう,同紙の編集人としてこの活動を実 質的に牽引したのは,新オスマン人のアリ・

スアーヴィである。この点に注目すれば,『報 道者』の募金活動は,亡命直前期の新オスマ ン人が展開した一種の社会運動の試みと見る こともできよう。それでは,こうした社会運 動への参加を求められる人々とは,いかなる 集団のことを指しているのだろうか。これに ついては,次に取り上げる支援活動の主体を めぐる各紙の議論が一つの手がかりを与えて くれる。

3. 活動主体をめぐる問題

クレタ支援活動の担い手は誰か,あるいは 誰であるべきか。多元社会としてのオスマン 帝国に生きる諸集団の内実にもかかわるこ の点について本格的な問題提起をおこなっ た の は,『日 報』 第597号(1867年2月21 日)に掲載された,フランコ・エフェンディ Franko Efendiなる人物からの投書である40)。 この人物は,『報道者』が初めてクレタのム スリム住民への募金を呼びかけた同紙第20 号の論説を取り上げて,次のように批判する。

神護の国土〔オスマン帝国〕が擁する諸民 族は全て一体のものに等しく,また〔クレ

タ〕島のキリスト教徒臣民の多くの困窮者 は当地のムスリム社会の側から常に庇護と 支援の対象となってきた。それゆえ,前述 の島のムスリム住民に対して,ただムスリ ムの側からのみならず,他の多様な宗教共 同体の側からもまた支援が提案されること は,祖国と故郷とを共にする者のしるしが 要請するものにほかならない。にもかかわ らず,前述の〔『報道者』の〕記事において,

かかる支援がただムスリム住民のみに限定 されたことは,まことに遺憾とするところ である[RCH, no. 597: 2c]41)

つまり,オスマン帝国を構成する諸集団は 一体のものだから,ムスリムのみならず非ム スリムをも担い手として,クレタ支援活動を 進めることが望ましい,というのである。た しかに『報道者』は,クレタ支援活動におい てムスリムがオスマン帝国の他の諸集団に遅 れをとってはならない,としてムスリムによ るムスリムのための支援を呼びかけていた。

ただし公平を期せば,前章で確認したとおり,

こうした論調は『報道者』のみならず,ナー ムク・ケマルの『公論述報』にも,さらには フランコ・エフェンディの投書を掲載した

『日報』にも通底するものである。とはいえ,

この投書がその後の各紙の論調に影響を与え たことは疑いない。

フランコ・エフェンディの投書が『日報』

自身の論調の転機となったことは明らかであ る。当初はムスリムによるムスリムのための

39)Muhbir, no. 28 (27 L 1283/4 Mar. 1867).クレタ支援特別号1ページ目の上欄には,次のように記さ れている。「この特別号から集まる売上げは,クレタで害を受けて困窮するムスリム住民に,『報道 者』を通して分配されるİşbu feuka’l-‘âde nüshadan toplanacak akçe Girid’de ziyân görüp fakîr düşen ahâlî-i Müslime’ye Muhbir vâsıtasıyla taksîm olunacakdır」。なお,本稿で参照したクレタ 支援特別号は,1000部発行された2クルシュ相当のものである。

40)“Franko Efendi tarafından verilen varakanın sûretidir,”RCH, no. 597 (16 L 1283/21 Feb. 1867):

2b-2c.

41)Memâlik-i Mahrûsa’nın terkîb etdiği akvâmın cümlesini yekvücûd hükmüne koymuş ve hattâ cezîrede Hıristiyân teba‘adan bir çok fukarâ oranın hey’et-i Müslimesi taraflarından dâ’imâ mazhar-ı himâyet ü mu‘âvenet olmakda bulunmuş olmalarıyla cezîre-i mezkûrenin ahâlî-i Müslimesine yalnız İslâm cânibinden değil sâ’ir milel-i muhtelife tarafl arından dahi ‘arz-ı i‘âne olunmak şi‘âr-ı vatandaşî ve hemşehrînevâzî iktizâsından iken bend-i mezkûrde işbu i‘ânenin yalnız ahâlî-i Müslime’ye hasr olunması doğrusu mûcib-i te’essüf olmağla … …

(12)

支援を呼びかけていた同紙も,この投書を掲 載して以降,イスタンブルのカトリック共同 体Latin milletiやシェフザーデバシュ地区 の住民による募金活動を紹介しはじめるのみ ならず42),こうした動きを次のように評価す るからである。

その惨状に心を痛めること極まりない前 述の〔クレタのムスリムの〕住民のため に,帝都あるいは神護の王土の各地にいる イスラームの宗教共同体や彼らの祖国同胞 たるキリスト教徒たちの側から,こうした やり方で義捐金を集める試みと努力とがな されていること,これはオスマンの諸国土 の住民が互いに抱く友好友愛の度合い〔を 示す〕ための大きな試金石である[RCH, no. 603: 1b]43)

中央・地方,またムスリム・非ムスリムの 別を問わず広範に展開されるクレタ島民への 募金活動は,オスマン臣民の互助精神のあら われにほかならない,というこの文章の趣旨 は,まさにフランコ・エフェンディの投書で 示された主張そのものであろう。同じ論説 の後段には,イスタンブルの小学校sıbyân mektebiの児童や高等小学校rüşdiyyeの生 徒による募金の事例も紹介されている。

同様の論調転換は,『日報』の批判を受け た『報道者』の側でも生じている。フランコ・

エフェンディの投書に直接応じる『報道者』

第26号(1867年3月2日)の論説には,次 のように記されている44)

クレタのムスリム住民が,その祖国同胞た る正教徒から,そして実際には一部のギリ シア人の悪党連中から受けた不正や抑圧の ために,生命や財産や土地にどれほどの損 害を受けたかは,もはや皆のよく知るとこ ろとなった。それゆえ,この困窮者たちの ためにムスリムの間で義捐金が募られてい るのと同様に,崇高なる国家〔オスマン帝 国〕の臣民に属するあらゆる宗教共同体の オスマン人の間でもまた〔義捐金が〕集め られている。そして,『日報』に掲載され たフランコ・エフェンディの投書の意図も またこれであった。すなわち,オスマン人 のキリスト教徒もまた,クレタのムスリ ム住民を支援するようにとの意味である

[Muhbir, no. 26: 2a-2b]45)

『日報』や『報道者』の論調転換は,何を 意味しているのだろうか。上掲の『報道者』

の論説には,「ムスリム」や「正教徒」とい う宗教への帰属に基づく集団区分と,「ギリ シア人」や「オスマン人」という国家への帰 属に基づくそれとが混在している。そして,

クレタ支援活動には「崇高なる国家の臣民に4 4 4 4 4 4 4 4 4 4

属する4 4 4あらゆる宗教共同体」,とりわけ「オ4 スマン人の4 4 4 4 4キリスト教徒」の参加が必要であ るとされている。ここから,この論説が宗教 42)RCH, no. 601 (22 L 1283/27 Feb. 1867): 1a;RCH, no. 603 (25 L 1283/2 Mar. 1867): 1a-1b.

43) Hâl-i pürmelâlleri acınacak bir râddede bulunan ahâlî-i merkūma için gerek Der-sa‘âdet’de ve gerek Memâlik-i Mahrûsa-i şâhânenin sâ’ir mahallerinde bulunan millet-i İslâmiyye ve vatandaşları olan Hıristiyânlar tarafından işbu vechile i‘âne akçesi cem‘ine teşebbüs ü himmet olunması memâlik-i Osmâniyye ahâlîsinin yekdiğerine olan muhabbet ü meveddetlerinin derecesi için büyük bir mîzândır.

44)Muhbir, no. 26 (25 L 1283/2 Mar. 1867): 2a-2b.

45) Girid ahâlî-i Müslimesinin vatandaşları olan Rumlardan ve hakîkat-i hâlde ba‘zı Yunan müfsidlerinden görmüş oldukları zulm ü ta‘addîden dolayı cân ve mâl ve mülkçe ne derecelerde zarar u ziyân görmüş oldukları artık herkesin iyice ma‘lûmu oldu. Binâ’en-‘aleyh bu bîçâreler için İslâm beyninde i‘âne akçesi toplanmakda olduğu misillü teba‘a-i Devlet-i ‘Aliyye’den olan her milletin Osmânlıları beyinlerinde dahi cem‘ olunmakdadır ve Rûznâme’ye basılan Franko Efendi’nin tezkiresinden dahi murâd bu idi. Ya‘ni Osmânlıların Hıristiyânları dahi Girid ahâlî-i Müslimesine i‘âne etsin demekdir.

(13)

への帰属よりも国家への帰属に基づく集団 区分を重視していることがわかる。クレタ 支援特別号の翌日に発行された同紙第29号

(1867年3月5日)の論説には,この点がよ り明確な形で次のように述べられている46)

民よ! 至尊にして至大なる神が一部の僕 により多くの恩寵を与えたのは何ゆえか?

むろん,諸君も知ってのとおり,より知 恵ある者が知恵なき者に知恵を与え,力 ある者が弱き者を助け,富者が貧者に施 しを与えるためである。こうであるからに は,はたして今日,クレタの貧者たちより も施しを必要とする者がいるだろうか? 

さあ,人種や宗派を問わず,我々は皆オス マン人なのだから,かの困窮した者たちを 助けようではないか。我々にできることを 惜しまぬようにしようではないか。熱き者 たちよ! クレタでギリシア人が働いた悪 行を,ただクレタのムスリムのみに向けら れたものと思うのか? 神の真理にかけ て,この悪行はあらゆる人種や宗派に属 するオスマン人に向けられたものである

[Muhbir, no. 29: 2a]47)

ここにクレタ支援活動の主体が,オスマン

帝国のあらゆる集団を包摂する「オスマン 人」に拡大していく様を見ることができる。

そして,ここで説かれる「オスマン人」とは,

人種や宗派の別を問わない「国民」としての

「オスマン人」なのであった。それゆえ,諸 新聞によるクレタ支援活動は,各紙の論争や 投書による読者の参加を通して,「オスマン 人」の国民的社会運動としての性質を帯びる ことになる。

ところで,オスマン帝国におけるクレタ支 援活動は,新聞を通しておこなわれたものに 限られない。各紙の支援活動と並行して展開 していた種々の募金活動の動向も,諸新聞の 紙面を通して連日のように伝えられていた。

たとえば『日報』や『報道者』では,最高評 議会Meclis-i Vâlâや官庁の職員,イスタン ブルの各地区の住民,さらにはミドハト・パ シャAhmed Şefi k Midhat Paşa(1822-1884)

を州知事とするドナウ州の住民による募金活 動の紹介にも多くの紙面が割かれている48)。 また,各紙の募金活動に触発される形で,

イ ス タ ン ブ ル の 著 名 な ク ラ ー ア ト ハ ー ネ kırâ’athâneではクレタ支援のための慈善演説 会が催され,その入場料がクレタ島民への義 捐金に当てられるという活動も始まった49)。 諸新聞の紙面からは,各紙による支援活動の

46)Muhbir, no. 29 (28 L 1283/5 Mar. 1867): 2a-2b.

47)(Ey ahâlî!) Hakk sübhânehü ve ta‘âlâ hazreti ba‘zı kullarına fazla ni‘met verdiği ne içindir? Elbette ma‘lûmunuzdur ki ziyâde ‘aklı olanlara [sic] ‘akılsızlara ‘akıl vermek ve kudreti olanlar ‘âcizlere yardım etmek ve zenginler fukarâya i‘âne vermek içindir. Böyle olduğu hâlde ‘acabâ şu günlerde Girid fukarâsından ziyâde i‘âneye muhtâc kimler vardır? Haydi cinse ve mezhebe bakmayarak cümlemiz ki hep Osmânlı sayılırız o bîçârelere yardım edelim. Elimizden geleni esirgemeyelim.

(Ey gayretliler!) Girid’de Yunanîlerin yapdıkları fenâlıkları yalnız Girid Müslümânlarına mı sanıyorsunuz? Allâh hakkıyçin bu fenâlık her cins ve her mezhebde olan Osmânlılaradır.

48)最高評議会や官庁職員の活動については,RCH, no. 595 (14 L 1283/19 Feb. 1867): 2a-2b; Muhbir, no. 21 (18 L 1283/23 Feb. 1867): 1a;Muhbir, no. 23 (21 L 1283/26 Feb. 1867): 1a-1b. イスタンブ ルの各地区での活動については,RCH, no. 601 (22 L 1283/27 Feb. 1867): 1a-1c;Muhbir, no. 23:

1b;Muhbir, no. 26 (25 L 1283/2 Mar. 1867): 2b-3a.ドナウ州での活動については,RCH, no. 592 (9 L 1283/14 Feb. 1283): 1c;RCH, no. 604 (27 L 1283/4 Mar. 1867): 3b-3c;RCH, no. 606 (29 L 1283/6 Mar. 1867): 1a-1b; Muhbir, no. 18 (13 L 1283/18 Feb. 1867): 1a-1b. 同州での支援活動には,

州知事のミドハト・パシャや州官報『ドナウTuna』の積極的関与があったことも示唆されている。

49)クラーアトハーネは,新聞雑誌の読み聞かせをおこなうコーヒーハウスkahvehâneの一種であり,

当時の人々が情報の収集や交換をおこなう場であった。19世紀半ばに開店したサラーフィム・エ フェンディSarâfi m Efendiのクラーアトハーネがおこなったクレタ支援活動については,Muhbir, no. 30 (29 L 1283/6 Mar. 1867): 1b-2a;RCH, no. 615 (12 Za 1283/18 Mar. 1867): 2a-2bに関連記 事がある。なお,サラーフィムのクラーアトハーネについては,Koz[1994]も参照。

(14)

動向のみならず,それまでクレタ問題に際し てオスマン帝国内の諸集団が個別に形成して きた種々の「公共圏」が,国民としての「オ スマン人」の「公共的空間」としてまとまり,

立ち現れる過程をうかがうこともできるので ある50)

さて,各紙の論調転換に戻れば,その背 景をなす集団区分概念の変質をすでに予期 していた人物がいる。『公論述報』のナーム ク・ケマルである。前章でも取り上げた,ク レタ問題の政治的解決に関する同紙第423 号(1866年9月24日)の論説において,ク レタの「反乱分子erbâb-ı ihtilâl」が「民族 性の原則milliyyet kā‘idesi」を掲げて同島の ギリシアへの併合を要求していることについ て,ケマルは次のように批判を試みる。

宗派の共通性の問題に移れば,民族性の統 一はこの〔宗派の共通性という〕原則に基 づいて築かれることが望ましいのだが,部 分は全体に従属するという通則に従えば,

一般的に正教徒はロシアの,カトリック教 徒はフランスの,プロテスタントはイギリ スもしくはアメリカの,そしてイスラーム の民は至高なる政権〔オスマン帝国〕の統 治の下に移る必要が生じるのではないか?

世界地図において,こうした改編をおこな う試みがなされたことなどあるだろうか?

[TE, no. 423: 3a]51)

ここでケマルが批判する「民族性の原則」

とは,一民族一国家の原則を掲げる政治理念 というほどの意味での「ナショナリズム」に 近いと考えられる。そうした意味でのナショ ナリズムの台頭に直面したケマルは,ここで 宗教・宗派の共通性こそ集団区分の指標とし て望ましいとしながらも,しかしオスマン帝 国を取り巻く現下の国際情勢を見すえた上 で,そうした区分ではすでに対処しきれなく なっている現状を認めているようにも見え る。宗教・宗派の違いを集団区分の重要な指 標の一つとしてきたオスマン帝国において,

その自明の指標がナショナリズムによって侵 蝕されつつあることを,ケマルは警戒してい るのである

こうした「現実」を困惑気味に受け止めた のがケマルであったとするならば,これを

「オスマン人」によるクレタ支援活動を起ち 上げる奇貨としたのが,フランコ・エフェン ディの投書を掲載した『日報』であり,それ に触発されたアリ・スアーヴィの『報道者』

であったとすることができよう。ただし,『日 報』や『報道者』の説く「オスマン人」とは,

宗教や民族にではなく,国家への帰属に基づ く国民としての「オスマン人」にほかならな い。ここで,鈴木董の言う「ネイションの二 つの顔」,すなわち「国民としての顔」と「民 族としての顔」との相違に注意すれば[鈴木 2000: 41-43],ナームク・ケマルは「民族主 義としてのナショナリズム」の台頭に強い警 戒の念を抱き,『日報』や『報道者』はオス マン帝国における「国民主義としてのナショ

50)ここでの「公共圏」と「公共的空間」の用法は,齋藤[2000: x-xi]に依拠している。すなわち,

前者は「複数形で扱うことができる」「特定の人びとの間での言説空間」であり,後者は「単数形 で表現される」「不特定多数の人びとによって織りなされる言説の空間」である。なお,19世紀半 ばのオスマン帝国におけるコーヒーハウスと世論形成との関係を考察したC・クルルは,宗教・宗 派の差異が必ずしも意見・関心の差異に重なるとは限らないと指摘する[Kırlı 2004: 91-93]。多 様な宗教・宗派の信者を擁するオスマン帝国において,宗教・宗派の差異を超える形で「公共的空 間」が出現する可能性を論ずる上でも,この指摘は極めて重要であろう。

51) İştirâk-i mezheb bahsine gelince ittihâd-ı milliyyet bu kā‘ide üzerine binâ edilmek istenildiği hâlde cüz’ün külle tâbi‘iyyeti kaziyyesine göre ‘umûmen Rumlar Rusya’nın ve Katolikler Fransa’nın ve Protestanlar İngiltere veyâ Amerika’nın ve ehl-i İslâm Saltanat-ı Seniyye’nin zîr-i idâresine geçmek lâzım gelmez mi? Harîta-i ‘âlemde böyle bir tebeddül icrâsına teşebbüs olunmuş mudur?

(15)

ナリズム」の出現に期待を寄せていた,と考 えることもできる。クレタ支援活動の主体を めぐる各紙の議論は,多元社会たるオスマン 帝国における集団区分の指標として,「国民」

や「民族」という選択肢が現実的かつ切実な 意味合いを帯びてきたことを示しているので ある。

Ⅲ 募金活動の結末

1. 『報道者』の停刊

ここまで,『日報』,『公論述報』,『報道者』

によるクレタ支援活動の概要と論調とを確認 した。本章では,クレタ支援活動の結果とそ れがもたらした影響とを,新オスマン人運動 との関係に注目して考察する。

はじめに,『日報』と『報道者』が集めた募 金額を確認しておこう。のちに両紙が公表し た募金総額は,『日報』約5万3000クルシュ52)

『報道者』約5万1000クルシュであった53)。 わずか2000クルシュほどの差で,創刊から 3ヶ月にも満たぬ『報道者』が,オスマン語 民間新聞の老舗ともいうべき『日報』に迫る 額を集めたことは注目に値しよう。

ところが『報道者』は,クレタ支援特別号 の発行から5日後の1867年3月9日,オス マン政府より1ヶ月間の停刊を命ぜられた。

翌日の『公論述報』には,『報道者』の停刊

を命ずる公式通達と,『報道者』の発行人フィ リップによる事情説明が掲載された54)。公教 育大臣アフメト・ケマル・パシャEs-seyyid Ahmed Kemal Paşa(在任1865-1867)の署 名でフィリップ宛に送付され,『公論述報』

に掲載された1283年ズー・アル=カアダ月 3日(1867年3月9日)付 の 通 達 に は, 次 のように記されている。

『報道者』紙が,政府に対抗して民心の攪 乱をもたらすようないくつかの虚言風評の 宣布を常としていること,そしてとくに昨 今発行した諸号において,違法にして極め て不適切かつ無根拠の事柄が見られたた め,出版印刷法の第27条で規定され,ま た出版印刷局から警告がなされたやり方で

〔中 略〕 前 述 の 新 聞 印 刷 所 が〔12〕83年 ズー・アル=カアダ月3日以降,1ヶ月間 閉鎖されるべく,公教育省の側から前述の 発行人〔フィリップ〕の側に,かかる公式 通達が作成送付された[TE, no. 465: 3b- 4a]55)

これに続けて付されたフィリップの事情説 明には,次のように記されている。

実に,世界で最も正義のある場所でさえ,

一軒の印刷所を実際に閉ざすことは政府の

52)“Girid i‘ânesi komisyonu tarafından mersûl varakadır,” RCH, no. 676 (15 S 1284/18 Jun. 1867): 2a.

53)“Muhbir’in gazetesi matba‘ası tarafından gelen varakadır,” TE, no. 470 (21 Za 1283/27 Mar. 1867):

2a. 後述のように,『報道者』は1867年3月9日より1ヶ月間の停刊処分を受けたため,募金総額

の公表は『公論述報』を通しておこなわれた。なお,『報道者』の発行人フィリップは,この停刊 期間中にクレタ島に赴き,現地のムスリム住民の代表者に義捐金を手渡している。この経緯につい ては,復刊後の『報道者』にフィリップ自身が連載した「クレタ紀行Seyâhatnâme-i Girid/Girid Seyâhatnâmesi」を参照。Muhbir, nos. 35-46 (26 Z 1283/1 May 1867-12 M 1284/16 May 1867).

54)“Muhbir’in sâhib-i imtiyâzı tarafından matba‘amıza gönderilen varakadır,”TE, no. 465 (4 Za 1283/10 Mar. 1867): 3b-4a.

55)Muhbir gazetesinin hükûmet ‘aleyhine mûcib-i taglît-ı ezhân olacak ba‘zı ekâzîb ü erâcîf neşr etmeği i‘tiyâd edinmesi ve bâ-husûs şu günlerde çıkardığı numaralarda hilâf-ı kānûn pek çok uygunsuz ve esâssız şeyler bulunduğu cihetle Matbû‘ât Nizâmnâmesi’nin yirmi yedinci bendinde ta‘yîn olunduğu ve Matbû‘ât Kalemi’nden ihtâr kılındığı vechile [… ..] mezkûr gazete matba‘asının seksen üç senesi Zî’l-ka‘de’sinin üçüncü gününden i‘tibâren bir mâh müddetle ta‘tîl olunması zımnında Ma‘ârif-i ‘Umûmiyye nezâreti cânibinden sâhib-i imtiyâz-ı mûmâ-ileyh tarafına işbu müzekkire-i resmiyye terkîm ü tesyîr kılındı.

(16)

力の掌中にある。しかし,上掲の通達で表 明された民心の攪乱と風評の宣布とはいか なることか? それは『報道者』のどの号 に掲載されたのだろうか?〔中略〕『報道 者』は,崇高なる国家〔オスマン帝国〕の,

そしてオスマン諸国民の幸福を願う者であ る。オスマンの新聞であるがゆえに,当該 の国法によって,こうしたやり方で命令が 実施されている。私は,1ヶ月間休刊する ことを本紙の購読者に発表する。また,こ の期間内に本紙の購読者を情報から遠ざけ たままにすることがないよう,早急にさる トルコ語新聞と交渉するつもりである。ク レタ支援の件もその新聞を通してご報告申 し上げる。そして近いうちに,政府に対し て権利を弁明するための社説も発表する所 存である[TE, no. 465: 4a]56)

フィリップも不満を隠さずに述べている とおり,通達は『報道者』の具体的な停刊 理由に触れていない。そこで,ここではH・

チェリクが指摘する同紙の停刊理由に注目し よう。チェリクは,エジプト問題やセルビア へのベオグラード要塞委譲問題に関する『報

道者』の報道姿勢とともに,クレタ支援活 動を同紙の停刊理由に挙げているのである

[Çelik 1994: 76]。

たしかに『報道者』は,クレタ支援活動の さなか,エジプトのヘディーヴ,イスマー イールİsmail(エジプト州総督 1863-1867, ヘディーヴ 1867-1879)がエジプトの地位の 向上を図ってオスマン政府に要求した事案 を,政府の報道管制を出し抜く形で報じてい た57)。また,停刊の前日には,ベオグラード 要塞のセルビアへの委譲に関してオスマン政 府の外交方針を痛烈に批判する論説を掲載し てもいる58)。『報道者』の停刊を命ずる通達 は,その理由として「民心の攪乱」と「虚言 風評の宣布」,そして出版印刷法第27条違 反を挙げていたが,これがオスマン政府の外 交方針やエジプトのヘディーヴの動向に対す る同紙の批判的報道を指していることは明ら かである59)。『報道者』の停刊に続き,編集 人のアリ・スアーヴィは当局に拘束され,黒 海にほど近いカスタモヌに流された。さらに,

同紙の停刊から1週間後には,出版印刷物に 関して政府に任意取締りの権限を認める「大 宰相決定Karârnâme-i ‘Âlî」が発せられる60)

56) Vâkı‘â dünyânın en ‘adâletli yerlerinde bile bir matba‘ayı bi-hakkın kapatmak hükûmetlerin yed-i kudretindedir. Fakat bâlâda muharrer müzekkirede beyân olunan taglît-ı ezhân ve neşr-i erâcîf ne gibi şeylerdir ve Muhbir’in hangi numarasında yazılmışdır? [...] Muhbir Devlet-i ‘Aliyye’nin ve milel-i Osmâniyye’nin hayırhâhıdır. Osmânlı gazetesi olduğuyçun hakkında kānûn-ı devletden bu yolda hüküm icrâ olunuyor ve bir mâh müddetle kapandığını müşterîlerimize beyân ederim ve bu müddet içinde müşterîlerimizi havâdissiz bırakmamak için derhâl bir Türk gazetesiyle mukāvele edeceğim ve Girid i‘ânesi mes’elesini o gazete ile i‘lân eyleyeceğim ve ileride hükûmete muhâfaza-i hukūk yolunda ba‘zı mülâhazât dahi beyân eyleyeceğim.

57)Muhbir, no. 26 (25 L 1283/2 Mar. 1867): 3b.

58)Muhbir, no. 31 (2 Za 1283/8 Mar. 1867): 2b-4a.

59) 1864年に制定された「出版印刷法Matbû‘ât Nizâmnâmesi」の第27条は次のとおり。「第15条,

第16条,第17条,第21条に明記された過ちゆえに告訴された新聞編集人は,それについて決 められた刑罰が必要に応じて留保され,政府の側からその新聞を最長1ヶ月間,停刊させられ るOn beşinci ve on altıncı ve on yedinci ve yirmi birinci mâddelerde beyân olunan cünhalarla müttehem olan gazeteciler hakkında mu‘ayyen olan cezâların ‘inde’l-îcâb terkiyle cânib-i hükûmetden gazeteleri nihâyet bir ay müddet ta‘tîl etdirilir」。TV, no. 779 (21 B 1281/20 Dec.VV

1864): 3a. なお,同法第15条は君主・王室・政府,第16条は閣僚・「特別州の長たちmemâlik-i

mümtâze re’îsleri」,第17条は友好国の元首,第21条は外国大使館職員に対する誹謗中傷につい

ての罰則を規定する[TV, no. 779: 2c-3a]。VV

60)TV, no. 875 (10 Za 1283/16 Mar. 1867): 2b.VV なお,「崇高な」という意味を持つ ‘âlî は,ここで は大宰相(府)を指す敬語表現として用いられ,かつときの大宰相アーリ・パシャの名に掛けられ ている。

参照

関連したドキュメント

An easy-to-use procedure is presented for improving the ε-constraint method for computing the efficient frontier of the portfolio selection problem endowed with additional cardinality

(Construction of the strand of in- variants through enlargements (modifications ) of an idealistic filtration, and without using restriction to a hypersurface of maximal contact.) At

It is suggested by our method that most of the quadratic algebras for all St¨ ackel equivalence classes of 3D second order quantum superintegrable systems on conformally flat

This paper develops a recursion formula for the conditional moments of the area under the absolute value of Brownian bridge given the local time at 0.. The method of power series

We present sufficient conditions for the existence of solutions to Neu- mann and periodic boundary-value problems for some class of quasilinear ordinary differential equations.. We

Then it follows immediately from a suitable version of “Hensel’s Lemma” [cf., e.g., the argument of [4], Lemma 2.1] that S may be obtained, as the notation suggests, as the m A

Our method of proof can also be used to recover the rational homotopy of L K(2) S 0 as well as the chromatic splitting conjecture at primes p > 3 [16]; we only need to use the

In this paper we focus on the relation existing between a (singular) projective hypersurface and the 0-th local cohomology of its jacobian ring.. Most of the results we will present