絵画史から見た日本と中国(序)
その他のタイトル Japan and China in the History of the Fine Art (Introduction)
著者 山岡 泰造
雑誌名 関西大学東西学術研究所紀要
巻 18
ページ 1‑12
発行年 1985‑03‑30
URL http://hdl.handle.net/10112/16033
絵画
史か
ら見
た日
本と
中国
︵序
︶
雪舟等楊は応仁元年(‑四六七︶から文明元年︵一四六九︶にか
けて︑即ち四十八歳から五十歳のときに入明したが︑帰国後︑本拠
地の山口が戦乱の裡にあったためか︑文明八年(‑四七六︶︑豊後
の大分の近郊にアトリニを構えた︒これが第一次の天開図画楼で︑
その命名の由来を︑友人で共に中国に渡った呆夫良心が記している︒
その﹁天開図画楼記﹂によると︑雪舟は一二つの点で卓越した画家だ
という︒︱つは中国大陸を杭州から北京まで南北に縦断し︑華北江
南の風景をまのあたりにし︑また当時最大級の国際都市北京で︑さ
まざまな外国人や異国の景物を眺め︑それらを一っ︱つスケッチし
て心にやきつけたから︑雪舟の構想は広く大きくなったということ
である︒その二は︑かりに一世の名エといわれる程の画家でも︑普
通は中国の画家の一人か二人の画風を模倣することができるにすぎ
ないのに︑雪舟は多くの画風を自在に学んでさまざまな中国の画風
←)
絵画史から見た日本と中国
︵ 序 ︶
を兼ね具えた画家であること︑特に中国画をまのあたりにしてそれ
を模写するとき︑全く逼真の腕前を示すといい︑道釈人物では唐の
呉道玄と宋の梁楷を︑山水・樹石は宋の馬遠と夏珪を︑水墨淋洞た
る山水は宋の若芥︵玉躙︶を︑雲山は高彦敬を︑水禽山獣は宋の易
元吉を︑著色花鳥は元の銭舜挙を︑龍虎猿鶴芦雁白鷺は宋の牧硲を︑
墨鬼鐘植は元の襲開を学ぶという︒その三は︑雪舟が北京の礼部院
の中堂の壁画を描いて尚書の挑公に称讃され︑蛮夷にしてこの名手
がいる︑だから見習って頑張るようにといって科挙の及第生を激励
しようといわれ︑この分ならば︑もし雪舟が北宋末南宋の時代に生
まれたとしても︑徽宗皇帝の宣和画院や高宗の紹興画院に入って充
分やっていけると思われる︒この三点を呆夫良心は強調している︒
特に二番目の中国画人の衆体を兼ねるという点については︑雪舟の
遺品の上からもある程度裏づけがとれる︒例えば明応四年︵一四九
五︶︑七十六歳の雪舟が弟子の如水宗淵に印可状として与えた山水
ママ
図は︑雪舟みずから玉澗を模したと記している他の作品から発展し
山
岡
泰
造
とい入明して明の画風を学んでも︑それは明の画風を通して宋の画 たものであることは確かで︑その山水図上に着賛した禅僧の一人天
ママ隠龍沢は雪舟が西湖の螢玉澗の筆法を模したといっている︒呆夫良
ママ心が若芥といい︑龍沢が螢玉澗というのは玉澗その人について諸説
があったからである︒さて雪舟は宗淵に与えた山水図の上にみずか
ら着賛して︑この図を製作する事情と自己の師承について簡潔なる
紹介を行っている︒雪舟はまず入明したのに大宋国へ行ったといっ
ている︒次に中国で画師を求めたが︑すぐれた画家がいなくて︑わ
ずかに李在と張有声が時名を得ていたので︑この二人について設色
法と破墨法を学んだという︒そして最後に︑中国と日本とを比較し
つつ︑つらつらと考えて見るに︑自分の先師の大巧如拙と天章周文
とはやはり偉大であることが分ったという︒何故偉大か︒それは先
翡を受けてあえて増損しない︑つまり伝統を重んじて奇をてらうこ
とがないからである︒以上三つの点からみると︑雪舟の理想とした
画は宋の画であること︑そして如拙や周文が偉いのは宋の画を学ん
でその伝統を墨守しているからだということになる︒雪舟のこの文
章と︑呆夫良心の﹁天開図画楼記﹂とを重ね合わせて考えると︑雪
舟とは要するに︑鎌倉時代以降の五山を中心とした禅林文化のあり
方と同じく︑その教蓑の根抵をなすものは宋の文化であること︑た
風をみている画家だということになる︒雪舟の画が実際に宋の画に
似ているかどうか︑また精神的に宋の画を正当に理解していたかど
うかは別として︑雪舟にとって中国といえば宋であった︒そして禅
な
いわば表現主義的・構成主義的なものに変質しつつあった︒明 理想主義的であると同時に写実的なあり方は︑次第に卑俗で誇張的 民的な近世市民社会に移行したせいもあって︑宋の画院にみられた と︑土着的でなく異国的であることを誇りにしていたのである︒ と呼ばれても括として恥じず︑むしろ日本的でなく中国的であるこ 林の正統的なあり方も雪舟と同様であり︑その影響下にある当時の文化も多かれ少かれそうであった︒そして特に禅林にあっては蛮夷
雪舟の頃の明の画壇の主流は︑宮廷画院の画風であり︑それは確
かに宋の画院の画風をうけ継ぐものであった︒しかし社会がより庶
の宮廷画風にはさまざまな流れが指摘されているが︑雪舟の師事し
たという李在のように浙江省出身の画家が多く︑特に明の画院の初
期に浙江出身の戴進という秀れた画家がでて︑彼らが福建とか広東
の南方の粗放な画風をもつ画家たちをも含んで浙派と呼ばれるよう
な一流を形成したが︑その特色は筆墨法が荒々しく誇張された表現
と明快な構成をもち︑しかもある種のモダニズムをも漂わせていた︒
このような画風を雪舟は︑宋にひきつけひきつけ学んでいたのであ
る︒従って︑この頃から蘇州を中心に漸く独自の様式を確立しつつ
あった新興市民階級の画である文人画の方向については︑雪舟は全
く無感覚であった︒そもそも宋の画そのものが近世的な性格をもっ
ものであって︑室町の画家たちのようにそれを形式的に写すだけで
は宋の画の本質の十分かつ正確な理解は期しがたいと思われる︒雪
舟が自分でまのあたりにして描いたとされる天の橋立図についても︑
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以上︑雪舟について指摘した諸特質は︑雪舟とほぽ同時代に活躍
した小栗宗湛・宗継父子や︑狩野派を興した狩野正信についてより
顕著にみられる︒それについて︑﹁蔭涼軒日録﹂︑つまり京都の五山
の中心の相国寺にあって︑そのまた中心的な塔頭である鹿苑院にお
いて禅林を統括する僧録司︑それをさらに輔佐して禅林と将軍との
連絡をつとめる蔭涼軒主の日録︑従って禅林の公用記録的な意味を
もっ﹁蔭涼軒日録﹂の記事を抜粋しながら説明してみよう︒ただし
小栗宗甚・宗継父子も︑狩野正信も︑雪舟とは違って純粋に禅僧画
に
な様相を呈している︒ その基体となる部分には南宋の山水構成の型がみえかくれし︑画面の左方や下方は︑画面構成のバランスの上から附加されたとの説もあり︑実際の写生があるにしても︑部分的なものに留っているとされる︒またその発想の根抵には︑古い倭絵的な名所絵の観念があるとも考えられている︒ただ雪舟が直接学んだ明の宮廷画風は︑その明快で力強い構成からみて︑障壁画や屏風絵のような大画面構成には有力な武器になったと思われる︒実際︑雪舟の頃の主流は障壁画や屏風絵の大画面であって︑いわばタプローにも比べられる掛幅はむしろ特殊な画面であり︑掛幅の取扱はむしろ仏画などの礼拝用絵画と相通じるものがあった︒掛幅については特に座敷飾の具足として唐物・唐絵と称される舶載中国画もあって︑その鑑賞方式は複雑
画家たちなどと共に数え上げられており︑むしろ倭絵系あるいは絵 家ではない︒宗湛は関東の小栗氏の出身と思われ︑おそらく結城合戦の後︑放浪して京に至り︑大徳寺の養斐宗願について禅を学んだが︑いわば五山正統の貴族的な禅にはかかわりの薄い人であったと思われる︒世事に精しく俗世に顔の広かった蔭涼軒主季瑣心薬の知己を得て︑義政にも紹介され︑遂に将軍家の画事を務めることになった︒宗湛の子宗継は︑おそらく父の希望により委瑣のもとに弟子入りして︑季瑣が応仁の乱で失脚するや︑その法嗣亀泉集証のもとで雲沢衆の一員として蔵主にもなったが︑父の血筋からか画心抑えがたかったようで︑遂に寺を出て︑奈良か堺あたりで画家としての生活を確立し︑改めて京に進出して応仁の乱で焼亡した父の遺跡を再興し︑父の夢を実現して室町御所の近くの武者小路に家を構えた︒正信は伊豆の出身ともいわれるが︑むしろ関東の出身と思われ︑こちらは法華衆徒でいわゆる京の町衆の一員であるらしく︑文明十二年の﹁大乗院寺社雑事記﹂︵尋尊大僧正記︶の記事では︑土佐派の
仏師系の画家と考えられる︒ところがこの二人ともども︑如拙や周
文のごとく︑禅林及び将軍家の画師として活躍した︒宗湛は将軍義
政の室町殿造立の途中から将軍家の画師となり︑応仁の乱を無事に
切り抜けた室町殿が彼の障壁画ともども焼亡して間もなく文明十一︱︱
年に歿した︒義政が室町殿再建を放棄して東山殿の造営にとりかか
ると︑文明十五年から正信が将軍家の画師として登場し︑東山殿の
殿舎の障壁画を一手に引き受け︑延徳二年の義政の歿後は︑急速に
表現を持つものであるから︑日常起居や親密な語らいの場︑つまり 崩壊する旧体制の中から︑何とか新しい方向を模索して子の元信へ繋いだ︒宗湛の子の宗継は正信の活躍を横目でみつつ︑みづからは
季瑣や亀泉の弟子であったため却って画家としての登場がおくたき
らいはあるが︑正信の家の近くに居を構えて︑父の旧い関係をたよ
りに一時激しく正信とせり合うまでになった︒
義政は文明十四年から延徳二年の正月に歿するまで︑東山殿の造
営にかかり切りであったが︑その間に常御所・会所・泉殿・西指庵
書院・持仏堂︵東求堂︶・観音殿︵銀閣︶などを主要建物とする施
設を次々に造り上げて行き︑観音殿が完成するかしないかというと
ころで歿した︒正信はその間にこれら殿舎の障壁画を制作して行っ
たのであるが︑季瑣心葉の法嗣亀泉集証の筆録した﹁蔭涼軒日録﹂
にはこの間の状況がかなり詳しく記録されているところがある︒東
山殿で最初に建てられたのは常御所で︑それは将軍の日常の起居や
対面・仏事などの公的行事にも用いられる施設であるが︑そこでは
南側に東から四間︵二間x二間︶︑四間・六間︵二間X
三間︶と室
が並び︑東側の四間には濤湘八景の障壁画が描かれ︑次の四間には
耕作図が描かれた︒瀬湘八景は我国で最も早く受入れられた宋元画
の主題の一つで︑瀬湘と言いながら︑山水を四季朝暮の変化と典型
的な景物を組合せてわかり易く示したもので︑特殊な知識なしにで
も容易に理解できる主題である︒遺品の上からは牧硲や玉躙を手本
とした水墨調の比較的草々とした画風が多い︒従ってこれは穏和な の弥陀のまわりを十僧が囲撓して︑おのおの宝樹下に坐す図柄で表 えられた︒廿九日︑それは金の蓮華座の上︑七宝樹下に坐す真金色 文明十七年十月廿四日︑阿弥陀仏を安置する持仏堂の障子十枚が 題であるらしく︑宋の梁楷の画を手本として相阿弥が写したものの 御殿ならば常御所︑寺院ならば住持の居室である書院に好んで描かれたようである︒これに対して耕作図はこの頃入ってきた新しい主更にその模本といわれるものが現存しており︑正信はその製作にあたって相阿弥あたりの助言をうけ︑その主題のもつ風俗画的要素を新時代にふさわしいものとして正信をはじめ代々の狩野派が育てて行ったのであろう︒制作されることになった︒画題として十牛図が考えられたが︑弥陀に関する十の機縁はないかという事で︑義政は五山第一の碩学である横川景三と相談するよう亀泉に命じた︒廿五日︑十牛図がもたらされたが︑善導の観経疏にいう十僧の事がより適切ではないかと考わされることになり︑義政は正信を呼んでためしに描かせてみよと
︑
︑
︑
︑
命じた︒その表現方法については︑夏珪筆様か馬遠筆様か︑そのほ
︑ ︑
か何の筆様にすればよいか︑よく思案して描くようにいい︑障子の
画面と同じ寸法の紙が正信に与えられた︒正信は以前に描いた西指
庵書院の障子絵の画様が馬遠様であったから︑持仏堂︵東求堂︶で
は李龍眠様がよいだろうと考え︑図柄は当麻曼荼羅︵九品曼荼羅︶
から取ることにした︒十一月二日︑正信は二幅の草案を義政に見せ
たが︑将軍家のコレクション︵御物︶の中の李龍眠画と馬遠画とを
四
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︶
阿弥・正信と四人で十僧の画様について相談した︒廿八日︑義政は 拝見したい旨申し出て︑曼荼羅については浄土宗の寺院から借りて欲しいと頼んだ︒義政は御物画については︑同朋衆であり府庫の唐物の管理者であり座敷飾の専門家である相阿弥に御倉から取出させようといった︒廿八日に文殊維摩・李龍眠筆︑牛二幅・李迪筆から成る三画一対が画本として正信のもとへ貸出された︒十二月一日︑九品曼荼羅が南御所へ返されているから︑図柄は既に決定したのであろう︒十僧図の草案が遅れているのは︑十月三日に相阿弥の父芸阿弥が歿したからである︒十二月十四日︑相阿弥は亀泉のもとへ草案︵草案を画本ともいっている︶をつくるための紙をもってきたので︑翌日それを正信のもとへ届けさせた︒十八日︑亀泉は横川・相
正信の十僧の草案をみた︒そして人物に大小があるのはよいが︑欄
千は一様に描くようになどと二三注文をつけ︑さらに画本として李
龍眠の老子青牛図をとり出すように相阿弥に命じた︒文明十八年正
月十三日︑李龍眠筆の老子青牛図は画本とすべく正信の宅へ届けら
れた︒十七日︑義政は十僧の草案十枚を正信に返すとともに︑こ
の障子絵の入る持仏堂︵東求堂︶を︑未だ造作途中ではあったが︑
兎も角正信に見せるように命じた︒廿日︑正信と亀泉は持仏堂を拝
見した︒廿二日︑正信は先に義政が画本として推薦した李龍眠筆・
老子渡関図を亀泉のところへ返してきた︒本尊︵つまり一︳一幅一対の
中幅︶には老子と手喜と御者の三人︑脇幅には左に文宗・惟政以下
七人︑右には武帝・誌公以下六人が描かれていた︒廿八日︑正信は の障子絵制作の経過である︒
五
再び十僧図の草案をつくり持参し︑義政は以前の十幅ともども受け
とって検討した︒廿九日︑前後二十幅の十僧図草案は正信に返され
た︒二月十二日︑義政は十楽図という主題もいいのではないかと言
ったが︑横川は十楽とは恵心僧都の往生要集に由来するもので︑日
本人の作よりも︑善導すなわち唐人の作による十僧図の方がよいと
いう意見を述べた︒十三日︑義政は十僧図の図様が劃一的で変化に
乏しいのに対して︑十楽図は多様で変化に富んでいると考えたが︑
十四日︑結局十僧図に落着いた︒三月廿四日︑正信は十僧図十枚を
完成して持参し︑義政はそれに満足した︒以上が持仏堂︵東求堂︶
文明十八年十二月三日には東山殿の会所の工事がはじまり︑長享
元年十一月四日に完成した︒十二月十三日に亀泉らは東山殿を会
所・泉殿・持仏堂︵東求堂︶と歴覧しているので︑泉殿も既に完成
していた筈である︒この会所と泉殿の障子絵については﹁蔭涼軒日
録﹂に直接には出てこないが︑後で他の将軍邸の会所や泉殿ととも
に考察する︒勿論︑そこには正信の描いた障子絵があった筈である︒
義政は最後に︑室町殿にあった観音殿と︑鹿苑寺すなわち義満の
北山殿あとに残る舎利殿︵金閣︶と︑西芳寺の舎利殿とを勘案して︑
東山殿に舎利殿か観音殿を建てようとし︑結局は直接には西芳寺の
舎利殿を手本としつつ観音殿︵銀閣︶を建てることになった︒丁度
その頃︑応仁の乱で失われていた西芳寺の羅漢図二幅と鯉魚図二幅
とがあいついで見つかったが︑これらはもと西芳寺舎利殿の障子絵
このように中国画︵唐絵︶を画本に用い︑その筆様によって描く
t
大智院の三幅一対は︑こ ︒本尊が出山釈迦・馬遠筆︑脇が山水人
で︑開山夢窓国師の侍者であった無等周位の筆になり︑保存のため
に掛幅に改装され︑そのあとには︑明兆が模写した羅漠図の障子絵
と︑周文が模写した鯉魚図の障子絵とがあった︒義政は東山殿の観
音殿の障子絵の画本としてこの無等周位の画を用いようと考えた︒
︵﹁日録﹂文明十九年六月廿一・廿二日条︒
日条︒義政は文明十九年四月頃から西芳寺の指東庵の再興に着手し︑
八月頃には中ば工事が進んでいた︒西芳寺に対する執心の程が察せ
られる︒︶長享二年五月には鯉魚図の一連のものがもう二幅︑
図にあるといわれ︑義政は画本として用いるため模写させるから早
殿の上階の名が潮音閣と決まり︑長享三年正月には同じく下階の名
が心空殿と決まり︑安置する観音の画様︵仏像のスケッチ︶も決ま
り︑三月廿三日に上棟が行われた︒七月六日には西芳寺十六羅漠図
を画本とするから取寄せるようにとの命令が相阿弥に下され︑
羅漠図と鯉魚図の障子絵を完成させたものと推測される︒ 七月
十九日には正信が西芳寺の鯉魚図を返却しているから︑この頃まで
いった︶をつくり終えたのであろう︒八月廿五日︑義政は観音殿の
完成について十二月か来年早々かといっているから︑その頃までに
は正信は無等周位の画本を用いて︑観音殿︵銀閣︶下階の心空殿に
場合と︑無等周位のような日本の五山禅林の正統的画風の筆様によ って描く場合と︑正信は和漠双方を画本としているが︑このような例は小栗宗継にも見られる︒亀泉集証の先師で同じく蔭涼軒主であった季疫心葉は︑寛正三年︑相国寺の塔頭雲頂院︵相国寺の東南隅にあり︑室町殿に隣接する︶内に雲沢軒を︑雲沢軒内に自分の居所としての松泉軒を建てた︒その障子絵を描いたのが宗継の父の小栗
季疫は将軍義政︵﹁日録﹂寛正三年二月十五・廿五日条︶︑
に前もって宗湛のことを称揚していたが︑三月十四日︑新造を祝っ
て雲沢軒と松泉軒を訪れた際に︑義政は松泉軒の四間の書院に描か
れた宗甚の灌湘八景の障子絵をまのあたりに見て感心し︑宗泄は遂
に季瑣の紹介をうけて将軍にお目通りすることになった︒六月廿一
日には早速︑義政の母日野重子の御殿高倉殿の障子絵を描くことに
なって制作にとりかかった︒七月十七日までには完成したらしく︑
季複は御座敷と泉水とを拝見している︒高倉殿の泉水は西芳寺のそ
日璽子が歿すると間もなく御殿は解体され諸寺院に寄附されて了っ
た︒寛正四年四月二日には︑宗湛は周文の例に倣って相国寺から俸
給が支給される身分になり︑六月十五日には義政の命令で雲沢軒の
障子絵を描いている︒義政は高倉殿の整備に並行して室町殿の造営
を行っていたが︑宗湛は七月十日から相国寺大智院の所蔵する一二幅
一対の画を画本として室町殿の新造御殿に障子絵を描くことになっ
形・馬麟筆で︑これは義教の時には将軍家御物であったが︑永享八 に正信は羅漠図と鯉魚図とを模写して画本︵模写したものも両本と
れを写したものといわれていたが
わずか一年余後︑翌年八月八 早に取寄せるよう命じるなど一しきり話題となった︒十月には観音 武蔵 宗甚で
長享
二年
一︳
一月
十・
十八
'
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絵画
史か
ら見
た日
本と
中国
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︶
とりかかった︒長享三年五月廿八日には指図の草案ができ︑七月廿
三日に立柱︑廿八日に上棟︑八月廿四日に完成した︒その障子絵は
宗湛の子宗継によって再興されるのである︒松泉軒は一応完成はし
たが︑その後︑延徳二年六月十九日に行われた雲頂院開基太清宗渭
の百年遠忌のため着々と整備されていた︒宗継は前年の秋九月に将
軍家の画本に基ずいた夏珪様の瀑布図をもって上洛して以後︑堺に
留っていたが︑六月に上洛し︑早速四宮氏の私宅の障子絵を描いた
が︑次いて七月に入ると父宗湛の師養隻の法嗣春浦宗熙のため︑大
徳寺養徳院の障子絵を松泉軒の御影間で描きはじめ︑七月廿五日に
まず夏珪様の障子絵六枚が完成し︑ついて廿六日から廿九日までか
かって牧硲様の芦雁図の障子絵四枚が出来上った︒芦雁図の方は父 主となった亀泉集証はまず雲沢軒を再興し︑ついで松泉軒の復興に 画を描いていたのである︒ 年︑義教が大智院の龍虎絵ととり替えたものである︒この画本の斡旋は相阿弥の祖父にあたる能阿弥が行った︒宗湛が描いたのは十二月に完成した泉殿か︑翌年三月に完成した泉之西殿かよく分からないが︑兎も角将軍邸の障子絵を描いて当代きっての画師としての地位を固めたものと思われる︒因みに同じ七月十B︑のちに宗湛を次
いて将軍義政の御用を勤めることになる狩野正信は︑室町殿と塀一
つ隔てた相国寺雲頂院で︑その昭堂に季瑣の注文で観音と羅漠の壁
宗泄の出世のきっかけとなった松泉軒は応仁の乱によって焼亡し︑
季壌も応仁の乱によって没落した︒乱後︑益之宗鍛を継いで蔭涼軒
七
宗湛の描いた障子絵が二枚残っていて︑それに続けて描いたようで
ある︒いずれの障子絵についても父を超えると称されている︒廿九
日には養徳院の五間の障子絵が全部揃ったので松泉軒から養徳院へ
贈ったとあるが︑五間とは一問に二枚づつで十枚分にあたり︑二室
分であろうと思われる︒八月十二日︑春浦宗熙は禅室を広げたから
宗湛の画のつづきを宗継に描かせたいといっている︒九月になると
松泉軒はいよいよ整備されたらしく︑三日の斎会では客殿に唐絵の
三幅一対をかけ古銅三具足︑紫檀折卓を置いた︒御所間には他から
借用した福禄寿の軸をかけ︑書院には宗堪の描いた松泉主人軸をか
けた︒その後︑御所間にかける松風躙水軸の装措をやり換え︑著色
屏風一双も五百疋で購入している︒つまり座敷飾に必要な諸具足を
整えているのであって︑残るところは宗継による障子絵すなわち座
敷絵の制作だけとなった︒季瑣も亀泉も播磨の赤松氏ゆかりの上月
氏・後藤氏の出身であったから︑これらの援助で再興が進められて
きた︒延徳三年は正月早々に将軍義植の父義視が歿するなど︑蔭涼
軒︵当時は雲沢軒がそう呼ばれた︶は多忙であった︒宗継はこの間︑
主として堺で仕事をしていたらしいが︑六月︳︱‑日︑まず松泉軒の客
殿の障子絵に着手し︑孫君沢の四幅対を画本としたが︑これは元来
将軍家の御物であったが︑それが細川讃州成之の手を経て常喜軒に
入ったものである︒六月︱︱一日から廿九日までその間二十一日間を要
して︑客殿七間半の制作が完了した︒おそらく二間X三間の六間の
室の三方に障子があり︑加えて多少の出入があったのであろう︒画
題は山水か山水人物であるが︑他室に琴棋書画があるから山水かも
知れない︒七月に入ると杉障子︵杉戸︶が作られている︒七月七日
から廿一日まで︑その間五日ばかりで︑書院に夏珪様の瀬湘八景図
が描
かれ
た︒
次いて七月廿六日から八月三日まで︑その間七日を費してもう一
つの書院に琴棋書画の障子絵を描いたが︑どの様な筆様で描いたの
かどの様な画本を用いたのか不明である︒書院については八景画の
書院は茶礼間︵礼間︶の北側︑琴棋書画の書院は御所間の北側にあ
たると思われる︒八月十日からは玉潤軒の門外不出の周文筆の花島
図屏風をしばらく借り出して︑それを画本として御所間の障子絵を
制作した︒九月廿五日まで︑その間二十三日間に亙って制作したが︑
十一月二日に座敷絵の謝礼として二千疋の折昏をもらっているから︑
松泉軒の障子絵制作は一応完成したらしい︒しかし松泉軒の造営は
なおも二年に亙って続けられ︑その間︑亀泉の弟子達の寮舎も建て
られ︑その一っ後藤氏が子弟のために建てた藤子寮に︑宗継は明応
元年十月に四日間で夏珪様の障子絵を描いた︒延徳四年七月十三日
には松泉軒客殿の西北隅を占めると思われる琴棋書画の障子絵のあ
る書院に押板を設置することになり︑取り付ける場所を西側にする
か南側にするかで大工や弟子達と議論があったが︑亀泉ほ南側がよ
いと思った︒その押板の取付は明応二年の二月から三月にかけて行
われ︑玄関・后架・東司などを含めて大体松泉軒の造営が完了した
のは三月八日であった︒三月十日十一日の二日間︑宗継は新たにと
回
りつけられた押板の脇壁に画を補っている︒又︑十︳︱‑日から十五日
まで︑金屏︵金屏風︶の修理を行い金箔を補っている︒松泉軒障子
絵の構成は︑主室である客殿︵室中︶に孫君沢様︵山水か︶︑その
隣の接客用の御所間に周文様の花鳥図が︑この二室にたいして住持
の私的な室としての性格の強い二つの書院には瀧湘八景と夏珪様の
琴棋書画が描かれた︒他に眠蔵や茶礼間︵礼間︶があったが︑どの
ような画が描かれていたか定かでない︒南北十六間余︑東西十二間
余の敷地に客殿のほか玄関・庫裡・東司などもあったわけであるか
ら︑客殿の構成や規模もにわかに決めることができないが︑中心と
なる客殿︵室︶は七間半の障子絵ということが︑伸ばして七間半と
いうように解することが出来るとすれば︑
すると十四枚半ということになり︑三間x二間︵三間を正面として
三方に障子があるとして︶より少し出張りがある室とも考えられる︒
そうすると八景間と琴棋書画間はその主題から考えて客殿より小さ
ぃ二間x二間の方形の室となるのではなかろうか︒
歌人正徹は伏見天皇の書について︑ 一間に二枚の障子と仮定
﹁伏見院の痰筆︑和漢に通じ
たる物也︑子昂・即之などが書きたる物に引き合せて見侍るに︑筆
づかひさらにかはらぬ物也︒仮令床押板に和尚の︳︱‑鋪一対︑古銅の
三具足置きて︑みがきつけの屏風など立てたる座敷の鉢の様に︑和
漢の兼たるは︑伏見の院の炭筆也︒青蓮院御筆はみすすだれかけわ
八
は会所を中心とした施設にあった︒正徹は後世お家流の祖とされる
青運院尊円法親王の書が純粋に和様であるのに対して︑伏見天皇の
書は和漠に通じたものだとし︑それを会所の座敷飾になぞらえて説
明しているが︑唐絵・唐物の飾具足をおく座敷には︑日本的な金屏
風を立廻すようなものだというのである︒みがきつけの屏風という
のは
︑
絵画
史か
ら見
た日
本と
中国
︵序
︶
﹁看聞御記﹂に金螢付とあり︑また茶子を入れる船について
﹁採色懸帆︑金螢付﹂とあることから︑金箔押し︵または金泥引︑
あるいは金箔・金泥併用か︶の屏風でそこに着色の絵がかいてあり︑
これが日本的だと考えられていた︒周知のように明や高麗への贈物
の主要メニューの︱つが金屏風と扇面とであり︑金屏風といえば日
本的ひいては倭絵的という通念があったのではないか︒ところで正
徹のいうような座敷飾りの実例を﹁蔭涼軒日録﹂でみてみると︑先
に挙げた蔭涼軒主亀泉集証の先師であり︑その住坊雲頂院の開基で
ある太清宗渭の百年遠忌の斎会の座敷のしつらえが挙げられる︒そ
れは延徳二年の六月十九日に開催されたのであるが︑まず六月︱︱︱日 富子のところからも金屏風一双が届いたが︑
九
たしてみがきつけの屏風障子に︑何も日本の物計り置きたる鉢也︒
⁝⁝﹂というが︑これは伏見院の書を会所の座敷飾にたとえ︑青蓮
院尊円法親王の書を寝殿のしつらえになぞらえたものである︒寝殿
を中心とした施設を睛向きとし︑会所を中心とした施設を奥向きと
して︑両者を結合した形をとるのが足利将軍邸で︑この住居形式は
当時の文化情況をよく反映するものとされているが︑むろん時代の の智場坊からの飾具足借用から準備がはじまり︑同日︑日野富子所有の屏風と︑細川讃州成之の所有する屏風を︑つてを頼んで借用しようとしている︒後者については横川景三についてたのんだ︒六月四日には亀泉を尋ねてきた了庵桂悟にも金屏風のことを尋ね︑了庵のものは古物でこわれているとか︑善福寺の常住の一双は質に入っていたがどうなっているかなどと話している︒十一日には細川典厩
て景徐周麟の意見を聴いている︒日野富子の方は大蔵卿を通じて金
屏二双を貸そうということになった︒また唐絵として薬師寺三郎左
衛門尉の所持する三幅一対︑本尊達磨・脇芦雁・皆和尚︵牧硲︶筆
を借りてきたが︑表装がよくないので返却した︒十三日には智場坊
を介して畠山政長︵あるいはその子尚順か︶所持の一二幅一対︑本尊
観音・牧硲筆︑脇人形騎譴図・月壺筆を借りて︑松泉軒の客殿にか
けてみると縦横びったりしている︒十五日には大智院から本尊出山
釈迦・馬遠筆︑脇山水・馬麟筆の三幅一対︵これはかつて小栗宗湛
が義政の室町殿泉殿の障子絵を描くに際して画本として用いたも
の︶を借りたが︑松泉軒に掛けてみると大きすぎて不恰好なので返
却した︒十六日にはかねて横川景三を通じて頼んであった細川成之
のところから扇面貼交屏風︵これも日本的なものの代表の一っと考
えられていたらしい︶と松竹鶴を描いた金屏風が届いた︒また日野
一双
は松
ばか
りの
図で
︑
もう一双は松に鶴が添えられていた︒十八日︑雲頂院本房と雲頂院
趨勢はいわゆる書院造の成立に向って進んでおり︑その主たる舞台政国のところから建釜四つと托子︵天目台︶四つを借用しようとし
内の雲沢軒及び松泉軒の座敷飾を行った︒雲沢軒は縁上司︵葦洲等
縁か︶から借りた︱︱一具足と一二幅一対︵本尊布袋・率翁筆井に賛︑脇
朝陽対月・牧硲筆退耕賛︶で飾り︑本房は畠山殿の三幅一対と智場
坊から借りた三具足・古銅鶴亀台で飾った︒また普広院から借りた
一対で三塔帳を飾ったとあるが︑どういうものかよく分らない︒十
九日の斎会は本房・雲沢軒•松泉軒の一_一ケ所を会場として行われた
が七百人も参会した盛会であった︒ただし借用した四双の屏風をど
こでどのように立てたのかは記録がない︒
もう一例は長享三年三月十五日の雲頂院における詩会の座敷であ
る︒まず三月十一日に智場坊から四幅一対の百猿図・顔輝筆を借り
て掛て見るとびったりだったので借りることにした︒もう︱つの一︱︱
幅一対の絵︑本尊観音・和尚︵牧硲︶筆︑脇人形・月壺筆は百猿に
比べると見劣りするので返却した︒前日の十四日には客殿︵室中︶
を取りかたずけて︑四幅一対の百猿図を掛け︑花を立てて︑金屏風
を立てた︒この金屏風は宝鏡寺から借りたもので白菊が描かれてい
た︒これが詩会の座敷である︒十五日当日にはまず御影問で詩題に
ついて評議し︑詩題は﹁寄松泉主人﹂の五字に決った︒この五字を
書して四幅一対の唐絵の左側に貼った︒卓には胡銅の大カフ︵?︶
を立てたが︑これも智場坊から借たものであった︒御影間には季灌
︵宗湛か︶筆の松泉主人軸が掛けられた︒
唐絵と屏風との組合せは伏見宮貞成親王の﹁看聞御記﹂にもみら
れる︒特に毎年七月七日の七夕の法楽和歌会の会場には屏風が立廻 され︑唐絵が懸けられ︑花瓶に花が立てられ︑棚が置かれて種々の唐物が飾られ︑卓や机に花瓶や盆が並べられた︒これを座敷筋とか室礼とかいっているが︑会場には客殿と常御所の二室があてられ︑二室を隔てる障子を撤去して用いた︒永享七年︑洛中に新御所が完成して伏見から移住すると︑新造御所の会所において行われた︒例えば応永三十一年の分は、屏風一双、天神名号四幅、三幅一対•本尊布袋・脇花鳥であり︑永享三年分は屏風二双︑唐絵十九幅︑唐絵十二幅は餅用にまとめて借用すとある︒永享四年分は屏風二双と絵七幅であるが︑屏風一双は住心院僧正からの借用品で金螢付に四季の松を描いたもの︑もう一双は法輪院律師からの借物で海に船と松とを描いた浜松図であった︒永享五年分は南禅寺から屏風二双と絵十幅を借り︑絵は都合二十五幅であった︒永享七年分は禁裏より借用の扇面貼交屏風二双と、同じく禁裏からの三幅一対•本尊文殊.脇人形・いずれも李龍眠筆を含む絵二十︱︱︱幅であった︒永亭八年分は禁裏より借用の屏風一双を含む屏風二双と︑禁裏より借用の一︱︱幅一対•本尊観音・脇芦雁·みな牧硲筆を含む唐絵六幅であった。嘉吉三年分には禁裏屏風一双に先の禁裏三幅一対絵︑そのほかに小絵三幅・梁楷筆などもあった︒応永廿六年六月十五日の月次連歌の座敷も︑常御所と次の四間とを連ねて八間の座敷としたところへ屏風二双を立廻し︑三幅一対︑本尊天神名号・妙法院御筆・脇梅を掛け︑その前に机・花瓶・香炉等を置き︑左脇には双幅絵・寒山・拾得を掛け︑その前に卓を立て花瓶を置いた︒
1 0
日条
︑
絵画
史か
ら見
た日
本と
中国
︵序
︶
このような臨時にしつらえられた座敷を固定化しようとする傾向
を示すものが会所である︒会所は単一の室を指す場合と建物を指す
場合とあり︑例えば義政の東山殿の会所は九間の主室を中心に西六
間・北五間︑三つの東一二間などを持つ︱つの建物である︒ところで
このような会所ないし会所泉殿と呼ばれる建物には︑日本の名所を
描いた室もあったようである︒例えば義政の室町殿の泉殿には鞍馬
間と呼ばれる室があったし︵﹁親長卿記﹂文明六年正月四日条︶︑ま
た室町殿には舞十二間とか四季十二間と呼ばれる室があって︑その
つづきに高雄間があったというが︑︵﹁親長卿記﹂文明七年二月十五
﹁実隆公記﹂文明七年九月十一日条︶︑﹁日録﹂寛正五年十月
廿二日には新造十二間で連歌の御会があって︑この十二間は寛正五
年三月十六日に完成移徒が行われた泉之西殿と考えられ︑﹁親長卿
記﹂や﹁実隆公記﹂のいう十二間はこの室かと推測される︒従って
泉殿とよばれる池辺の会所には四季絵ないしは高雄・鞍馬といった
名所絵が描かれていたようで︑唐物・唐絵の飾具足で室礼する会所
の室の障子絵は︑唐絵の筆様に従った中国風な題材ではなく︑倭絵
的な題材が選ばれていたように思われる︒これは臨時の室礼におい
て︑唐絵・唐物と金屏風とを組合せるのと同じ感覚ではあるまいか︒
といっても会所の障子絵は金箔押し︵あるいは金泥引・金泥金箔併
用︶の画面に彩色で描いた倭絵とは限らない︒むしろそうでない方
が普通であったろう︒例えば長禄四年十二月に完成した義政の室町
殿の泉殿には︑当時第一級の禅僧たちが作った贅詩を書した色紙形 を貼りつけた障子絵があった︒その詩は﹁相国寺前住籍﹂庫本︑玉村竹二﹁﹃相国寺前住籍﹄附戴の画賛資料﹂日本禅宗史論
集上所収による︶に載っていて三首づつを四季にあてているが︑特
定の名所について詠んだものではない︒しかし色紙形に賛詩をかい
て貼りつけるというやり方は倭絵的な伝統を思わせるものがあり︑
しかも色昏形の色についてまでも義教の室町殿のものを継承してい
るところを見ると︵﹁日録﹂永享八年九月一日︑
条︑義教は賛詩が書かれた色紙形を能阿弥に命じて障子に貼らせて
いる︒なおこの障子絵のあった建物は︑永享五年に完成した会所泉
永享六年に完成した新会所かいずれかと思われる︒
﹁日本中世住宅の研究﹂による︒︶義教の室町殿にも同じような障
子絵のある十二間の室があった︒︵﹁日録﹂永享十年九月十六日条︶
会所ないし泉殿にはこのような倭絵的な障子絵を描く伝統があった
のではあるまいか︒そしてその画師も土佐派のような倭絵の画師で
はなく︑義政の室町殿の泉之西殿の場合は小栗宗湛の可能性が大き
く︑義教の室町殿の会所の場合は︑永享七年末に完成した伏見宮家
の洛中御所の会所に永享十年四月頃までに義教の命により濤湘八景
図を描いた相国寺の僧で将軍家画師の周文が考えられる︒
色紙形を貼りつける伝統をもつ画題に瀧湘八景図がある︒﹁日録﹂
長禄二年閏正月廿六日条に義政が八景御障子の賛詩の人数を書立て
るように命じた記事があり︑二月二日には北面座敷の障子絵の各場
面に対応する禅僧たちの順序が決まったらしく︑その賛詩は先に掲 殿
か︑
川上貢
廿八
日︑
十月五日 ︵
内閣
文
とり混ぜて用いているのと共通する感覚であろう︒ 磁・白磁・天目・染付などの道具と︑日本産の信楽物や備前物とを げた﹁﹃相国寺前住籍﹄附載の画賛資料﹂によれば︑﹁高倉御所御新造障子︑色昏水色︑有白雲紋﹂とあり︑義政の母日野重子の高倉殿の障子絵のためのものであったらしい︒八景の障子絵は義政の東山殿の常御所の正信画をはじめ︑前記の伏見宮御所の会所の周文画︑亀泉の松泉軒の書院の宗継の画︵父宗湛の描いた季瑣の松泉軒書院をついだもの︶など︑馴染み易い画題として倭絵的な感覚で取扱われたのかも知れない︒義政の東山殿の会所については﹁御飾書﹂︵﹁美術研究百二十二号公刊︶によれば︑主室の九間が嵯餓の間で︑押板・棚・書院が造りつけられた北の間が石山の間と呼ばれ︑主要な室に名所絵が描かれていたらしい︒これらも狩野正信の手になるもの
と思
われ
る︒
室町時代の画家たちは︑一方で中国画人の筆様によって
︵画本を用いて︶唐絵を描くとともに︑他方で唐絵・唐物による座敷飾の背景として名所絵•四季絵と呼ばれる日本的な風物を描いた。
一応︑唐絵に
対して倭絵と呼んでもよいであろう︒これは平安時代の倭絵・唐絵
の観念と同じである︒そして無等周位や天章周文など︑日本人画家
で唐絵を描く画家も︑画本として用いられ︑その筆様が描かれた︒
﹁和
漢の
さ
かいをまぎらかす﹂ことを主張して︑その方法として中国渡来の青
︵未
完︶
このような現象は︑佗び茶の祖といわれる村田珠光が︑ そしてこの方はその表現方法はさまざまであろうが︑
以上
︑