宇 多 天 皇 と そ の 同 母 兄 弟 姉 妹
古 藤 真 平
序
│ 陽 成・ 光 孝
・宇 多 三 天皇 の 皇 位継 承
│ 元慶
八年
︵八 八四
︶二 月四 日︑ 時康 親王
︵五 十五 歳︒ 仁明 天皇 の第 三皇 子︶ が践 祚し
︑二 十三 日に 即位 式が 挙行 さ れ た︒ 光孝 天皇 であ る︒ 時康 親王 は︑ 天長 七 年︵ 八三
〇
︶︑ 皇 太子 正 良 親王
︵後 の 仁 明 天皇
︶と 藤 原 沢子
︵?
〜八 三 九︒ 北 家総 継 の 娘︒ 仁 明 朝に 女御 とな る︶ の間 に生 まれ た⑴
︒ 仁明
〜陽 成朝 の間
︑親 王は 皇位 継 承 か ら縁 遠 い 歳月 を 過 ごす
︒天 長 十 年︑ 仁 明 天 皇 は淳 和 天 皇か ら 譲 位 を受 け る 際︑ 恒貞 親 王︵ 淳 和天 皇 皇 子︶ を 皇太 子 と し た が︑ 承 和 の 変︵ 承 和 九 年︹ 八 四 二
︺︶ で 廃太 子を 行い
︑自 らの 皇子 道康 親 王︵ 母 は藤 原 冬 嗣の 娘 順 子︶ を 立太 子 す る︒ 嘉祥 三 年︵ 八 五〇
︶三 月 二 十 一 日︑ 仁明 天皇 が崩 御し
︑道 康親 王が 践祚 して 文徳 天皇 とな る︵ 即位 式は 四月 十七 日︶ が︑ 三月 二十 五日 に誕 生し た 皇 子惟 仁親 王︵ 母は 藤原 良房 の娘 明子
︶が 十 一月 二 十 五日 に 皇 太子 と さ れ る︒ 天安 二 年︵ 八 五八
︶︑ 文 徳 天皇 が 崩 御 し
︑惟 仁親 王が 即位 して 清和 天皇 とな り︑ 天皇 が貞 観十 年十 二月 十六 日に 藤原 高子
︵良 房の 兄長 良の 娘︶ との 間に 儲 け た貞 明親 王︵ 後の 陽成 天皇
︶が 翌十 一年 二月 一日 に皇 太子 とさ れる
︒こ のよ うに
︑仁 明天 皇↓ 文徳 天皇
↓清 和天 皇
― 305 ―
↓ 陽成 天皇 とい う︑ 皇位 が直 系継 承さ れる 流れ がで きて いて
︵そ れが 摂関 政治 の形 成と 対応 して いた こと は言 うま で も ない
︶︑ 天 皇が 代替 わり する につ れて 時康 親王 は皇 位か ら縁 遠い 存在 とな って いっ たの であ る︒ とこ ろが
︑元 慶八 年二 月四 日︑ 陽成 天皇 が十 七歳 で退 位す ると いう 異常 事態 が起 きる
︒ 譲位 の詔 には
﹁御 病時 々発
己 止
有天
︑万 機滞
己 止
久成
奴
﹂ とあ り︑ 退位 の理 由を 病に よる と述 べる
︒し か し︑ 和田 英 松 氏 は
︑そ れは 表向 きの こと で︑ 摂政 太政 大臣 とし て陽 成天 皇を 支え てい た藤 原基 経が 天皇 廃位 を行 った ので ある と論 じ た⑵
︒前 年十 一月 十日 に源 益︵ 従五 位下 源蔭 と天 皇の 乳母 紀全 子の 子︶ が内 裏殿 上 で 格 殺さ れ た 事件 の 犯 人が 陽 成 天 皇 であ り︑ それ に対 して 基経 が行 動を 起こ した と推 定で きる から
︑と いう こと であ る︒ 同詔 に書 かれ てい る︑ 時康 親 王 に譲 位す る理 由﹁ 一品 行 式部 卿 親 王波
︑諸 親 王中
尓
貫首
尓 毛
御坐
︒又 前 代尓
無 太 子時
尓 波
︑ 如此 老 徳乎
立 奉 之 例在
︒・
・・
﹂ も
︑そ のま まに は受 け取 れな い︒ 親王 の母 沢子 と基 経の 母藤 原乙 春が 姉妹
︵父 は北 家末 茂の 子総 継︶ で︑ 天皇 と基 経 が イト コ関 係に あっ たこ と︑ 基経 が最 初に 後継 天皇 とし て迎 えよ うと した 恒貞 親王
︵承 和の 変で 廃太 子さ れた 淳和 天 皇 皇子
︶か ら固 辞さ れた こと が背 景・ 経緯 とし てあ り︑ その 間の 事情 には 複雑 なも のが あっ た︒ かく して 即位 した 光孝 天皇 は四 月十 三日 に勅 を発 し︑ 伊勢 神宮 と賀 茂神 社に 奉仕 する 皇女 二人
︵斎 宮繁 子・ 斎院 穆 子
︶を 除く 皇子 女に 朝臣 の姓 を賜 うと 宣言 し︑ 同勅 によ って 源朝 臣を 賜姓 され た二 十九 人の 皇子 女が 六月 二日 に左 京 一 条の 地で 戸籍 に登 録さ れた
︒そ の後
︑天 皇は 皇太 子を 立て るこ との ない まま
︑仁 和三 年︵ 八八 七︶ 八月 の崩 御の 時 を 迎え る︒ 二十 二日
︑太 政大 臣藤 原基 経以 下十 四人 の公 卿が 病床 の天 皇に 立太 子を 請う 上表 を行 い︑ 二十 五日
︑天 皇 は
﹁第 七息 定省
︑年 廿一
﹂の 源朝 臣姓 を削 って 親王 に列 する こと を命 じ︑ 二十 六日
︑定 省親 王を 皇太 子と し︑ 同日 崩 御 した ので ある
︒五 十八 歳︒ これ を承 けて 宇多 天皇 が践 祚し
︑十 一月 十七 日に 即位 式を 挙げ るこ とに なる
︒ 以上
︑時 康親 王時 代の 光孝 天皇
︑陽 成天 皇の 退位
︑光 孝天 皇即 位と 宇多 天皇 への 皇位 継承 を概 観し たが
︑重 要な 政
宇多天皇とその同母兄弟姉妹 ― 306 ―
治 局面 の評 価に つい ては 様々 な議 論が ある
︒基 経が 陽成 天皇 を廃 位す るに 至る 事情 につ いて は︑ 内裏 での 殺人 事件 だ け でな く︑ 皇太 后高 子︵ 基経 の妹 で︑ 天皇 の 母︶
・天 皇 と 基経 の 対 立問 題 も 論 じら れ て きた
︒ま た
︑光 孝 天皇 の 即 位 事 情︑ 皇子 達を 臣籍 に下 した こと につ いて は︑
﹁ 光孝 天 皇 は︑ 所謂 中 継 のた め に 立 てら れ た﹂ と いう 和 田 氏の 論 説 中 の 一 節 を考 察 の 出発 点 と し︑ 皇 位を 直 系 継承 し て いく べ き 者 は未 決 定 のま ま
︑光 孝 天皇 が 傍 系 とし て 即 位 し た と す る
︑河 内祥 輔氏 の有 力な 説が ある
⑶
︒ 本稿 では
︑こ うし た大 きな 問題 を直 接論 じよ うと する ので はな く︑ 一度 は臣 籍に 下っ た宇 多天 皇が 皇位 を継 承し た 背 景を 考え る一 助と する こと を目 的と して
︑光 孝天 皇と 班子 女王 との 間に 生ま れた
︑宇 多天 皇を 含む 兄弟 姉妹 につ い て 考察 した い︒ 言う まで もな く︑ 林陸 朗氏 の賜 姓源 氏研 究⑷
が 最重 要の 研究 成 果 と して あ り︑ 本 稿の 考 察 はそ の 落 ち 穂 拾い の域 を出 ない ので はな いか と恐 れる が︑ 宇多 天皇 の即 位前 伝記 研究 に僅 かな りと も資 する こと がで きれ ばと 考 え た次 第で ある
︒御 批正 を仰 ぐこ とが でき れば 幸い であ る︒ 一
宇 多 天皇 の 誕 生と 母 班 子女 王 の 年齢 宇
多天 皇 は 貞観 九 年︵ 八 六七
︶に 誕 生 し た︒
﹃日 本 紀 略
﹄﹃ 本 朝 皇 胤 紹 運 録
﹄﹃ 皇 代 記
﹄﹃ 皇 年 代 略 記
﹄﹃ 一 代 要 記
﹄
﹃帝 王編 年記
﹄﹃ 大鏡
﹄﹃ 仁 和寺 御伝
︵群 書類 従本 ほか 諸本
︶﹄ など は五 月五 日誕 生の こと まで 明記 する
︒仁 和三 年に 二 十 一歳 であ った こと
︑承 平元 年︵ 九三 一︶ 七月 十九 日に 崩御 した 時の 年齢 が六 十五 歳と され てい るこ とと 整合 する
︒ 貞観 九年
︑父 時康 親王 は三 十八 歳︑ 母班 子女 王は 三十 五歳 であ った
︒親 王の 生年 につ いて は序 で触 れた
︒班 子女 王 は 仲野 親王
︵桓 武天 皇皇 子︶ の女 子で
︑母 は当 宗氏
︵河 内国 志紀 郡を 本貫 地と した 渡来 系氏 族︶ であ った
︒女 王の 生
― 307 ― 宇多天皇とその同母兄弟姉妹
年
︑貞 観九 年時 点の 年齢 につ いて は︑ 確認 が 必要 で あ る︒ 何故 な ら ば︑
﹃一 代 要 記﹄ の 宇多 天 皇 段は 天 皇 の誕 生 に つ い て﹁ 貞観 九年 丁亥 五月 五日 誕生
︑母 年 十 五
﹂ と記 して いる から であ る︒ 班子 女王 は昌 泰三 年︵ 九〇
〇︶ 四月 一日 に皇 太后
⑸
で崩 御 し たが
︑﹃ 日 本 紀略
﹄﹃ 扶 桑 略記
﹄両 書 の 同日 条 と
﹃大 鏡 裏 書﹄ の伝 記は 女王 の享 年を 四十 八歳 とす る⑹
︒ それ によ れば 仁寿 三 年
︵八 五 三︶ 生ま れ と なり
︑宇 多 天 皇を 十 五 歳 で 産ん だこ とに なる
︒し かし
︑寛 平四 年︵ 八九 二︶ 三月 十三 日︑ 宇多 天皇 が内 裏常 寧殿 で女 王の 御算 を賀 した 時の 彼 女 の年 齢に つい ては
︑四 十歳 とす る史 料と 六 十歳 と す る史 料 に 分か れ て い る︒
﹃日 本 紀 略﹄ 同日 条 は﹁ 奉 賀中 宮 卌 御 算
﹂と し⑺
︑八 年 後の 崩 御 時に 四 十 八 歳だ っ た とい う 記 述と 整 合 す る︒ 一方 で
︑﹃ 西 宮記
﹄皇 后 御 賀事 所 引 の 同 日 の 記⑻
には
﹁中 宮六 十之 算﹂ とあ る︒ また
︑﹃ 伏 見宮 御記 録﹄
︵利 五十 一︑ 清和 天 皇 母 后以 後 代 々御 賀 記︶ 所 引の 同 日 の 記 には
﹁中 宮六 十或 四 十
賀 事﹂ とあ り︑ 六十 歳と も四 十歳 とも ある が︑ 記文 中に は﹁ 朱漆 唐 櫃六 十 合﹂
﹁ 飯櫃 六 十 合﹂ の 準 備さ れた こと が見 える ので
︑原 文を
﹁中 宮六 十賀 事﹂ と見 るの に分 があ る と 言 うべ き で ある
⑼
︒女 王 が 寛平 四 年 に 六 十歳 だっ たと する と昌 泰三 年は 六十 八歳 とな り︑ 天長 十年 に誕 生︑ 貞観 九年 に三 十五 歳と なる ので ある
︒ 天長 十年 誕生
︑仁 寿三 年誕 生の いず れが 正し いの かの 判断 には
︑女 王が 産ん だ子 供達 の年 齢を 調べ るこ とが 有効 で あ る︒ 詳細 は三
・四 節で 考察 する が︑ 生年 の知 られ るの は︑ 是忠 親王
︵八 五七
〜九 二二
︶と 忠子 内親 王︵ 八五 四〜 九
〇 四︶ の二 人で ある
︒ 班子 女王 が仁 寿三 年生 まれ であ れば
︑忠 子内 親 王を 二 歳 で︑ 是忠 親 王 を五 歳 で 産 んだ こ と にな り
︑不 合 理 であ る
︒ そ れに 対し
︑天 長十 年生 まれ であ れば
︑忠 子内 親王 を二 十二 歳︑ 是忠 親王 を二 十五 歳で 産ん だこ とに なる
︒こ れに は 無 理が ない であ ろう
︒女 王を 天長 十年 誕生 とす るの が合 理的 だと いう 見解 は︑ 注⑹
・⑺ に掲 げた
﹃大 日本 史料
﹄の 傍 注 が既 に示 して いた と理 解す べき であ る︒
﹃ 一代 要記
﹄の 宇 多 天皇 段 が 天皇 誕 生 時 の母 班 子 女王 の 年 齢に つ い て﹁ 母
宇多天皇とその同母兄弟姉妹 ― 308 ―
年 十五
﹂と 注記 する のは
︑﹁ 母 年三 十五
﹂の
﹁三
﹂を 脱し たか
︑あ るい は︑ 寛平 四年 に賀 を受 けた 時の 年齢 を四 十歳
︑ 昌 泰三 年に 崩御 した 時の 年齢 を四 十八 歳と する 史料 から の逆 算に よる と見 てよ いの では ない かと 考え る︒ 二
光 孝 天皇 皇 子 中で の 宇 多天 皇 の 位置 宇
多天 皇 の 同母 兄 弟 姉妹
︑す な わ ち 光孝 天 皇 が班 子 女 王 との 間 に 儲け た 男 子︵ 宇多 天 皇 を 除 く
︶・ 女 子 に つ い て
︑
﹃本 朝皇 胤紹 運録
﹄﹃ 帝王 編年 記﹄ は是 忠親 王・ 是貞 親王
・忠 子内 親王
・簡 子内 親王
・綏 子内 親王
・為 子内 親王 を班 子 女 王所 生と し︑
﹃ 本朝 皇胤 紹運 録﹄
︵以 下﹃ 紹運 録﹄ と略 す︶ は源 元長 に頭 書と して
﹁要 記為 班子 女王 所生
﹂と 注記 す る
︒﹁ 要 記﹂ とは
﹃一 代要 記﹄ のこ とだ が︑ 同書 光孝 天皇 段は 元長 と是 貞親 王の 母を 班子 女王 とす る︒
﹃尊 卑分 脈﹄ は 光 孝源 氏系 図で 是忠 親王
・忠 子内 親王 の母
︑光 孝平 氏系 図で 是忠 親王 の母 を班 子女 王と する
︒他 に名 前不 明の 妹が 一 人 いた ので
︑八 人以 上い たこ とが 知ら れる
︒本 節で は光 孝天 皇皇 子中 にお ける 宇多 天皇 の年 齢的 位置 を考 察す る︒ 宇多 天皇 が光 孝天 皇の 何人 目の 男子 だっ たの かに つい ては
︑七 人目
・四 人目
・三 人目 とす る史 料が 知ら れる
︒ 七人 目と する 記述 は︑
﹃ 三代 実録
﹄仁 和三 年八 月二 十五 日 条 に収 め る︑ 崩 御目 前 の 光 孝天 皇 が 皇太 子 指 名を 前 提 と し て源 定省 を定 省親 王と した 詔の 文 中 の﹁ 第七 息 定 省﹂
︑二 十 六 日 条の 地 の 文の
﹁是 日
︑立 第 七皇 子 諱︑ 為 皇 太子
﹂︑
︹ 抑 カ
︺
﹃御 産部 類記
﹄冷 泉院 の段 が引 く﹃ 九暦
﹄天 暦四 年 六 月十 五 日 条の
﹁仁 和 三 年 八月 者
︑是 忠 親王 為 同 腹之 一 男
︒物 勘
︹ 宇 多
︺
︹ 光 孝
︺
次 第︑ 法皇 是第 七郎 也︒ 仁和 天皇 鍾愛 雖深
︑依 其﨟 次之 下︑ 非無 所憚
︒︵ 下 略︶
﹂が 重要 であ る︒ また
︑﹃ 皇 年代 略記
﹄ に
﹁光 孝 第 七子
﹂︑
﹃ 元 亨釈 書
﹄巻 十 七に
﹁寛 平 皇 帝 者︑ 仁 和 第 七 子 也﹂ と あ る︒ 三 人 目 と す る 記 述 は
︑﹃ 日 本 紀 略
﹄ の
﹁光 孝 天 皇 第 三 之 子﹂
︑﹃ 帝 王 編 年 記
﹄﹃ 大 鏡 裏 書
﹄の
﹁光 孝 天 皇 第 三 皇 子
﹂︑
﹃ 大 鏡
﹄の
﹁小 松 の 天 皇 の 御 第 三 皇
― 309 ― 宇多天皇とその同母兄弟姉妹
子
﹂︑
﹃ 神皇 正統 記﹄ の﹁ 光孝 第三 の御 子﹂
︑﹃ 仁 和寺 御伝
﹄の
﹁光 孝第 三皇 子﹂
︑﹃ 傳 燈廣 録﹄ 巻二 の寛 平上 皇伝 の﹁ 仁 和 天皇 第三 太子
﹂な ど︑ 四人 目と する 記述 は︑
﹃ 一代 要記
﹄光 孝天 皇 段︑ 太子 の 項 の﹁ 天皇 第 四
︵三
イ
︶ 子﹂
︑宇 多 天 皇 段の
﹁光 孝第 四子
﹂な どで ある
︒ 結論 を先 に言 うと
︑光 孝天 皇が 元慶 八年 に即 位し てか ら︑ 仁和 三年 に崩 御し た時 点ま で存 命で あっ た皇 子達 の誕 生 順 では 七人 目︑ 即位 以前 に没 した 源元 長を 含め て班 子が 産ん だ男 子達 の中 では 四人 目︑ 天皇 即位
〜崩 御段 階で 存命 だ っ た班 子所 生の 三人 の皇 子達 の中 では 三人 目と 数え られ たの であ ろう
︑と 筆者 は考 える
︒ 光孝 天皇 が時 康親 王時 代の 貞観 十二 年︵ 八七
〇︶ 二月 十四 日︑ 男子 達に 源 朝 臣の 姓 を 賜わ る こ とを 請 う 抗 表⑽
を 奉 り
︑清 和天 皇が それ を認 めた 時の
﹃三 代実 録﹄ の記 事に は︑ その 時ま では 二世 王︵ 孫王
︶だ った 十四 人の 男子 が以 下 の 順序 で記 され てい る︒ 散
位従 四位 下元 長王
↓侍 従従 四位 下兼 善王
↓名 実王
︵以 下は 無位
︶↓ 篤行 王↓ 最善 王↓ 近善 王↓ 音恒 王↓ 是恒 王
↓ 旧鑑 王↓ 貞恒 王↓ 成蔭 王↓ 清実 王↓ 是忠 王↓ 是貞 王 宇多
天皇 の同 母兄 三人
︑元 長王
・是 忠王
・是 貞王 が見 えて いる
︒元 長王 は既 に従 四位 下の 位階 を有 し︑ 散位 であ り な がら 十四 人の 最初 に見 えて いる から
︑時 康親 王 の最 年 長 の男 子 だ った の で あ ろう
︒﹃ 尊 卑 分脈
﹄の 光 孝 源氏 系 図 に
元 慶 七年
﹁天 皇践 祚以 前卒
﹂︑
﹃一 代要 記﹄ 光 孝天 皇 段 に﹁ 帝即 位 以 前 薨﹂
︑﹃ 帝 王 編年 記
﹄光 孝 天皇 段 に﹁ 未 即帝 位 前 卒﹂ と 見 えて おり
︑光 孝天 皇即 位以 前に 没 した
︒二 人 目 とし て 見 える 侍 従 従 四位 下 兼 善王
︵母 不 詳︶ は︑
﹃ 三代 実 録
﹄元 慶 三 年四 月二 十五 日条 に卒 去記 事が 見え
︑﹃ 尊 卑分 脈﹄
﹃一 代要 記﹄ も元 慶三 年四 月没 のこ とを 記す
︒名 実王
・篤 行王
・
宇多天皇とその同母兄弟姉妹 ― 310 ―
最 善王
・音 恒王
・成 蔭王 につ いて は︑
﹃ 尊卑 分 脈﹄
﹃一 代 要 記﹄
﹃帝 王 編 年記
﹄が 光 孝 天 皇即 位 以 前に 没 し たこ と を 記 す⑾
︒後 に宇 多天 皇と なる 定省 王は 貞観 九年 に誕 生し てい たが ここ には 見 え な い︒ 是忠 王
・是 貞 王が 元 服 年齢 程 度 に 長 じて いた のに 対し
︑定 省王 は四 歳と 幼稚 であ った ため
︑源 氏賜 姓に 与ら なか った ので はな いか と考 えて おく
︒ 定省 王が 十八 歳に 長じ た元 慶八 年︑ 光孝 天皇 が即 位し
︑四 月に 勅し て皇 子 女 に 朝臣 の 姓 を賜 う と 宣言 し⑿
︑六 月 に 二 十九 人の 皇子 女が 左京 一条 の地 で戸 籍に 登録 され
︑既 に位 階を 得て いた 四人
︵正 四位 下是 忠・ 従四 位上 近善
・同 貞 恒
・従 三位 忠子
︶の 四人
⒀
を除 く二 十五 人が 時服
・月 俸の 支給 を認 めら れ た
︒こ の 時︑ 貞観 十 二 年に 源 氏 賜姓 を 受 け た 十四 人か ら光 孝天 皇即 位以 前に 没し たと され る七 人を 除い た七 人が 存命 であ った とし よう
︒戸 籍登 録の 際の 男子 名 列 挙配 列順 では 源是 貞と 源諱
︵宇 多天 皇︶ の間 に源 国紀 があ り︑ 宇多 天皇 は是 貞・ 国紀 に続 く存 命男 子の 九人 目と 数 え られ る︒ しか し︑ 林氏 が考 証・ 推定 した 通り
︑是 恒と 清実 が源 氏賜 姓の 対象 外と され たた め︑ 宇多 天皇 は七 番目 と な り︑ その 結果
︑光 孝天 皇第 七皇 子と 記す 文 献史 料 が 残さ れ る こと に な っ た︒ すな わ ち︑ 清 実に つ い て は︑
﹃三 代 実 録
﹄仁 和二 年十 月十 三日 条に
︑布 勢氏 を母 とす る清 実が 過失 のた め属 籍を 削ら れて 無姓 で十 年経 過し たこ とを 憐れ ん で 滋水 朝臣 を賜 姓し たこ とが 見え る︒ 是恒
︵延 喜七 年七 月に 従四 位上 美濃 権守 で卒
︶に つい ては
︑寛 平八 年十 二月 二 十 八日 に源 氏を 賜姓 され たこ とが
﹃紹 運録
﹄﹃ 一 代要 記﹄
﹃尊 卑分 脈﹄ に見 える
︵﹃ 一 代要 記﹄ は﹁ 是経
﹂と する
︶︒ 林 氏 は︑ 是恒 が元 慶八 年以 前に 出家 し︑ 八 年当 時 は 僧空 性
︵﹃ 三 代実 録
﹄元 慶 八 年六 月 二 日条 に
﹁僧 空 性亦 是 皇 子︒ 同 預 時服 月俸
﹂と ある
︶と なっ てい て︑ 寛平 八年 に至 って 還俗 して 賜姓 され たと 推定 した ので ある
︒同 氏の 推定 に賛 成 し たい
︒
― 311 ― 宇多天皇とその同母兄弟姉妹
三 同 母 の兄 達 前節
で述 べた よう に︑ 班子 女王 が産 んだ 宇多 天皇 の兄 は元 長・ 是忠
・是 貞の 三人 であ った
︒三 人共 に貞 観十 二年 に 王 から 源朝 臣を 賜姓 され たが
︑元 長は 元慶 七年 に没 し︑ 翌年 の光 孝天 皇即 位後 に源 氏賜 姓を 受け たの は︑ 是忠
・是 貞 の 二人 と宇 多天 皇の 三人 であ った
︒
① 源元 長 元長 は︑
﹃ 三代 実録
﹄に よれ ば︑ 貞観 五年 正月 七日 に元 長 王 とし て 無 位か ら 従 四 位下 に 叙 され
︑貞 観 十 二年 二 月 の 賜 姓後 の十 二月 二十 九日 に従 四位 下で 次侍 従に 補さ れて いる
︒﹃ 尊 卑分 脈﹄ と﹃ 一代 要記
﹄に 従四 位上
︵﹃ 紹運 録﹄ に も 見え る︶
・ 下野 権守 のこ とが 見え るが
︑本 文の 失わ れ た﹃ 三 代実 録
﹄元 慶 七年 某 月 某 日条 の 源 元長 卒 去 記事 に よ る も ので あろ う︒ 元長 が光 孝天 皇の 即位 まで 生き たな らば
︑や はり 源氏 賜姓 を受 けた であ ろう し︑ 崩御 まで 生き たと す る と︑ 皇位 継承 問題 に関 わる こと にな った であ ろう
︒ 年齢 につ いて は︑ 是忠
︵天 安元 年︹ 八五 七︺ 生︶ より 年長 であ るこ とは 間違 いな いと して
︑貞 観十 二年 当時 従四 位 下 であ った こと
︑彼 と是 忠の 間に 十一 人の 男子 が記 され てい るこ とか ら︑ 相当 に年 長だ った 可能 性が ある
︒実 際に 貞 観 五年 に従 四位 下に 叙さ れて いる から
︑そ の時 には 元服 を済 ませ てい たと 見る べき であ る︒ 母班 子女 王が 承和 十四 年
︵八 四 七
︶十 五 歳
︑嘉 祥 元 年
︵八 四 八
︶十 六 歳
︑同 二 年 十 七 歳︑ 同 三 年 十 八 歳 で 出 産 し た と す る と
︑子 は 貞 観 五 年
︵八 六三
︶に 十七
・十 六・ 十五
・十 四歳 であ り︑ 相当 に 早 い出 産 で ある
︒元 長 と い う名 か ら 見て も
︑彼 が 時康 親 王 の
宇多天皇とその同母兄弟姉妹 ― 312 ―
最 初の 男子 だっ た可 能性 は相 当に 高い だろ う︒ 仮に 嘉祥 元年 に母 十六 歳の 子と して 生ま れ︑ 貞観 五年 に十 六歳 で従 四 位 下に 叙さ れた とす ると
︑仁 明天 皇皇 子時 康親 王の 子と して 相当 に優 遇さ れて いた こと にな るだ ろう
︒貞 観十 二年 当 時 の年 齢は 二十 三歳 前後 とな り︑ 元慶 七年 に三 十六 歳前 後で 卒去 した こと にな る︒
② 是忠 親王 是忠 親王 の年 齢に つい て︑
﹃ 公卿 補任
﹄元 慶八 年︵ 八八 四
︶年 条 は同 年 六 月九 日 の 源 是忠 の 参 議任 命 に つい て 二 十 八 歳と 注記 し︑ 仁和 四年
︵八 八八
︶条 の三 十二 歳ま で注 記が 続く
︒従 って
︑天 安元 年︵ 八五 七︶ 誕生 は確 かで ある
︒ 貞観 十二 年に 時康 親王 の子
︑無 位で 源氏 賜姓 を受 けた 時の 年齢 は十 四歳 とな る︒ 既に 元服 して いた か︒ この 時に 賜 姓 され た十 四人 の中 で当 時の 年齢 を知 る こと の で きる 人 物 がも う 一 人 いる
︒貞 恒 で ある
︒﹃ 公 卿 補任
﹄に よ れ ば︑ 彼 は 寛平 五年
︵八 九三
︶二 月十 六日 に三 十八 歳で 参 議に 任 命 され
︵﹁ 仁 和 天皇 第 十 皇 子﹂ とあ る の は貞 観 十 二年 賜 姓 時 の 配列 順に よる ので あろ う︶
︑ 延喜 八年
︵九
〇八
︶八 月一 日に 大納 言正 三位
︑五 十三 歳で 薨去 した
︵﹃ 紹運 録﹄ が享 年 を
﹁五 十二
﹂と する のは 誤り であ ろ う︶
︒斉 衡 三 年︵ 八五 六
︶誕 生︑ 貞 観十 二 年 に 十五 歳 で︑ 是 忠よ り も 一歳 年 長 と な る︒ 従っ て︑ 貞観 十二 年に 賜姓 され た十 四人 の内
︑少 なく とも 十人 目の 貞恒 から 十三 人目 の是 忠ま で︵ 十四 人の 是 貞 も含 めて よい だろ う︶ は︑ 十四
・十 五歳 前後 のほ ぼ同 年齢 だっ たと 推測 でき よう
︒ 源是 忠は 散位 従五 位下 から 従五 位上 への 昇叙 記事 が﹃ 三代 実録
﹄元 慶元 年正 月三 日条 に見 える
︒同 年は 二十 一歳 で あ る︒ 無位 から 従五 位下 に叙 され たの はそ れ以 前と なり
︑兄 元長 王の 従四 位下 叙位 には 及ば ない が︑ 十代 後半 で従 五 位 下に 叙さ れた と推 定す るこ とが でき る︒ 相当 に優 遇さ れた 処遇 であ ろう
︒一 歳年 長の 源貞 恒は 元慶 七年 正月 七日 に 無 位か ら従 五位 下に 叙さ れた が︑ 二十 八歳 であ り︑ 是忠 と比 べる と遅 い︒ 貞恒 の母 は不 詳だ が︑ 是忠 の叙 位に 班子 女
― 313 ― 宇多天皇とその同母兄弟姉妹
王 所生 であ るこ とが 有利 に作 用し たこ とは 確か であ ろう
︒ さら に︑ 光孝 天皇 即位 後の 元慶 八年 五月 二十 九日
︑左 衛 門佐 従 五 位上 か ら 今上 皇 子 と して 正 四 位下 を 授 け られ た
︒ 同 日︑ 兄の 近善
・貞 恒︵ 共に 従五 位下
︶も 従四 位上 を授 けら れ︑ 姉の 忠子
︵従 四位 下︶ も従 三位 を授 けら れて いる
︒ 続け て︑ 六月 一日 に散 位正 四位 下源 是忠 とし て勅 によ って 帯剣 を賜 わり
︑翌 二日 に左 京一 条の 地で 戸籍 登録 され る こ とに なる
︒﹃ 三 代実 録﹄ 同日 条は
︑新 訂増 補国 史大 系本 では
︑ 二
日 辛 卯︒ 正四 位 下 源朝 臣 是 忠︑ 无 位源 朝 臣 是貞
︑源 朝 臣 国紀
︑源 朝 臣 諱ヽ ヽ 天 皇
︑・
・・
︵源 香 泉・ 源友 貞
︑源 遅 子 以 下 十九 人の 皇女 の名 を記 す︶ 並是 天皇 々子
︑男 女廿 九人
︑依 去四 月十 三日
勅 書︑ 賜姓 隷左 京一 条︑ 以近 善為 戸 頭
︒无 位源 朝臣 旧鑑
︑・
・・
︵源 是貞
・源 国紀
・源 諱・ 源香 泉・ 源友 貞︑ 源簡 子以 下十 九人 の皇 女の 名を 記す
︶廿 五 人
︑預 時服 月俸
︒僧 空性 亦是 皇子
︒同 預時 服月 俸︒ 並頒 下所 司訖
︒ と
なっ てい るが
︑冒 頭の 是忠 の位 階﹁ 正四 位下
﹂は
︑五 月二 十九 日条 の是 忠の 昇叙 記事 によ って
﹁従 四位 上﹂ を改 め た もの であ る︵ 頭書 によ る︒ 朝日 新聞 社本 も同 様 の 校訂 を 施 す︶
︒是 忠 に つ いて は 正 四位 下 が 正し い が︑
﹁ 従 四位 上
﹂ の 四文 字が 遺さ れて いた 理由 は十 分に 考察 され てこ なか った よう であ る︒ 六 月二 日 条 の戸 籍 登 録記 事 は
﹁男 女 廿九 人
﹂と 数 えな が ら︑ 名 前 列挙 記 載 には 二 十 五人 し か 見 え ず︑ 四 人 食 い 違 う
︒林 氏は
︑五 月二 十九 日条 の近 善・ 貞恒 の従 四位 上昇 叙記 事︑ 本条 で近 善が 戸頭 とさ れた こと
︑同 年十 一月 二十 五 日 条の 旧鑑 の昇 叙記 事︵ 無位
↓従 四位 上︶
︑ 本条 の時 服 月俸 支 給 記事 に 見 え る皇 女 達 の名 前 と の照 合 に よ り︑ 近善
・ 旧 鑑
・貞 恒・ 謙 子の 四 人 の名 前 記 載 が脱 落 し たと 考 証 した
⒁
︒筆 者 は 林 氏の 解 釈 を妥 当 な 見解 と 考 え るが
︑﹁ 従 四 位
宇多天皇とその同母兄弟姉妹 ― 314 ―
上
﹂の 字句 が近 善・ 貞恒 二人 の名 前記 載の 脱落 を推 定す る有 力な 根拠 とな るこ とを 指摘 した い︒ 貞観 十二 年の 賜姓 記 事 の列 挙順 を参 考に する と︑ 誕生 順は 近善
・旧 鑑・ 貞恒
・是 忠と 考え られ る︒ 従っ て︑ この 六月 二日 条で も従 四位 上 近 善・ 無位 旧鑑
・従 四位 上貞 恒・ 正四 位下 是忠 の順 で書 かれ てい たが
︑﹁ 源 朝臣 近善
〜正 四位 下﹂ が脱 落し
︑﹁ 従四 位 上 源朝 臣是 忠﹂ とい う書 き出 しに なっ たの では ない かと 推定 する ので ある
︒ 是忠 は六 月九 日に 参議 に任 命さ れた 後︑ 仁和 三年 十一 月十 七日
︑宇 多天 皇の 即位 式の 日に 従三 位に 昇叙
︑寛 平三 年 三 月 十 九日 に 中 納言 に 昇 任 した が
︑同 年 十二 月 二 十九 日
︑先 帝
︵光 孝 天皇
︶の 皇 子 とし て
︑是 貞 と と も に 親 王 と さ れ
︑三 品に 叙さ れた
︵以 上﹃ 公卿 補 任﹄
﹃ 日本 紀 略﹄
﹃ 一代 要 記﹄ な どに よ る
︶︒ そ の後 一 品 に至 っ た が︑ 延喜 二 十 年 に 出家
︵月 日に つい ては
﹃貞 信 公 記﹄
・﹃ 日 本 紀略
﹄・
﹃ 紹 運録
﹄・
﹃ 尊 卑分 脈
﹄光 孝 源 氏系 図 間 に相 違 が あ る︶
︑同 二 十 二 年十 一月 二十 二日 に六 十六 歳で 薨去 した
︵﹃ 日 本紀 略﹄
︶︒
③ 是貞 親王 前項 にお いて
︑﹃ 三 代実 録﹄ 貞観 十二 年二 月十 四日 条に 見 え る時 康 親 王の 男 子 達 十四 人 へ の源 朝 臣 賜姓 記 事 で︑ 最 後 に見 える 是貞 が十 人目 貞恒
︵十 五歳
︶︑ 十 三人 目 是 忠︵ 十四 歳
︶と ほ ぼ同 年 齢 で︑ 既 に元 服 し てい た の では な い か と いう 推測 を述 べた
︒仮 に是 忠よ りも 一・ 二歳 程度 年少 とす れば
︑天 安二 年・ 貞観 元年 頃の 誕生 とな る︒ 但し
︑是 忠に 比べ ると
︑位 階の 昇叙 は遅 れ︑ 無位 のま まで 元慶 八年 の再 度の 源氏 賜姓 を迎 え︑ 同年 十一 月二 十五 日 に 無位 から 従四 位上 に叙 され た︒ 同日 の叙 位は 光孝 天皇 の即 位叙 位だ が︑ 従四 位上 とい う位 階は 今上 の皇 子と して の も の で ある
︒こ の 年︑ 二 十六
・二 十 七 歳 であ っ た か︒ 宇多 天 皇 の即 位 後
︑寛 平 三 年 十 二 月 二 十 九 日︑ 先 帝︵ 光 孝 天 皇
︶の 皇子 とし て親 王と され
︑四 品 に叙 さ れ︵
﹃ 日本 紀 略﹄
︒﹃ 一 代 要 記﹄
﹃帝 王 編 年 記﹄ は三 品 に 叙さ れ た と する が
︑
― 315 ― 宇多天皇とその同母兄弟姉妹
こ の後 に昇 叙し たと 見る べき であ ろ う︶
︑延 喜 三 年七 月 二 十五 日 に 薨 去し た
︵﹃ 日 本紀 略
﹄﹃ 一 代要 記
﹄﹃ 帝 王 編年 記
﹄ そ の他
︶︒ 国 文学 史上 では
︑そ の邸 宅で 行わ れた 是貞 親王 家歌 合が 著名 であ る︒ 四
同 母 姉 妹 班子
女王 所生 女子 につ いて は︑ 川合 奈美 氏の 研究
⒂
が貴 重で ある
︒特 に彼 女 達 の 居所 も 含 めた 考 察 につ い て は︑ 同 氏 の詳 細な 研究 を直 接参 照さ れた い︒
① 忠子 内親 王 忠子 内親 王は
︑元 慶八 年四 月十 三日 に光 孝天 皇 の勅 で 源 氏賜 姓 を 受け
︵そ れ ま で は忠 子 女 王︶
︑五 月 二 十九 日 に 今 上 の皇 子と して 従四 位下 から 従三 位に 昇叙 し︑ 六月 二日 に左 京一 条に 戸籍 登録 され
︑宇 多朝 の寛 平三 年十 二月 二十 九 日
︑光 孝天 皇の 皇女 とし て内 親王 とさ れた
⒃
︒延 喜二 年十 月十 一日
︑増 命を 戒 師 と して 六 条 院で 出 家 し︑ 灌頂 を 受 け
︵﹃ 明 匠略 伝
﹄日 本 下︑ 静観 僧 正︑
﹃ 元亨 釈 書
﹄巻 十︑ 感 進四 之 二︑ 延 暦寺 増 命
︶︑ 同 四 年 五 月 七 日 に 三 品 で 薨 去 し た
︵﹃ 日本 紀略
﹄︶
︒ 享 年を 明 記 する 史 料 はな い が
︑寛 平 五年
︵八 九 三︶ 十 二月 二 十 一 日
︑中 宮
︵皇 太 夫 人 班 子 女 王︶ が 娘 の﹁ 第 一 公 主
﹂の
﹁卌 齢
﹂を 賀 す 法 会 を 行 っ た 時 の 願 文 が﹃ 菅 家 文 草﹄ 巻 十 二 に 収 め ら れ て い る
︒﹃ 大 日 本 史 料﹄ 第 一 編 之 二
︵一 二 四頁
︶が 第 一 公主 に
﹁忠 子 内 親 王﹂ と 傍 注 を 付 け て い る の に 従 う べ き で あ り
︑忠 子 内 親 王 の 生 年 は 斉 衡 元 年
︵八 五四
︶と なる
︒
宇多天皇とその同母兄弟姉妹 ― 316 ―
忠 子内 親 王 と清 和 天 皇 の 関 係⒄
に つ い て は
︑川 合 氏 の 考 証 が 重 要 で あ る︒
﹃ 紹 運 録﹄ は 異 本 に よ っ て﹁ 清 和 女 御
﹂ と 補 記 され
︑﹃ 尊 卑 分脈
﹄光 孝 源 氏 系図 に も﹁ 清 和天 皇 女 御
﹂と あ る︒
﹃大 日 本 史 料
﹄第 一 編 之 三︵ 四 五 一〜 四 五 二 頁
︶は
︑延 喜四 年五 月七 日に 薨去 した 忠子 内親 王︵ 享年 は五 十一 とな る︶ と︑ 同月 十二 日に 卒去 した 忠子 女王 とを 別 人 とす る︒ 忠子 女王 の卒 去記 事と は﹃ 日本 紀略
﹄の
﹁前 女御 従四 位下 忠子 女王 卒﹂ で︑ 常識 的に は﹃ 大日 本史 料﹄ の 記 事編 纂の 妥当 性は 動か ない
︒し かし
︑﹃ 日 本紀 略﹄ につ い て は編 纂 過 程上 の 問 題 があ る こ とが 指 摘 され て お り︑ 川 合 氏は 二次 史料 的な もの まで も参 照し てい た可 能性 を物 語る 事例 とし て︑ この 同月 にお ける 二人 の女 性の 死没 記事 を 取 り上 げて 論じ たの であ る︒ 貞観 十二 年三 月二 十六 日に 清和 天皇 の女 御と され た忠 子女 王︑ 元慶 三年 三月 七日
︑清 和 太 上天 皇の 勅で
︑そ れま で支 給さ れて いた 季料
・月 俸を 停止 され たか つて の女 御十 一人 の一 人と して 見え る忠 子女 王 が
︑元 慶八 年の 源忠 子の 昇叙 記事
︵従 四 位下
↓従 三 位︶ に 接続 す る とい う
︒﹃ 三 代 実録
﹄元 慶 三 年の 十 一 人列 挙 記 事
﹁︵ 上略
︶従 四位 上嘉 子女 王
︑従 四 位上 兼 子 女王
︑忠 子 女 王︑
︵ 下略
︶﹂ に お ける 二 つ 目の
﹁従 四 位 上﹂ は﹁ 従 四位 下
﹂ が 正し いと する 推定 も含 め︑ 同一 人物 と論 じた 川合 氏の 説は 支持 でき ると 思わ れる
︒斉 衡元 年に 誕生 した 忠子 内親 王 の 年齢 が貞 観十 二年 に十 七歳
︑元 慶三 年に 二十 六歳 であ るこ とも
︑清 和天 皇の 後宮 に入 った 女性 とし て自 然で ある
︒
② 簡子 内親 王・
③綏 子内 親王 源氏 を賜 姓さ れ︑ 内親 王と され た歩 みは
︑忠 子内 親王 と同 じで ある
︒
﹃ 一代 要記
﹄光 孝天 皇段 では 簡子 に﹁ 配陽 成院 号釣 殿宮
﹂︑ 綏子 内親 王に
﹁配 陽成 太子
﹂︑
﹃ 紹運 録﹄ では 綏子 内親 王 に
﹁配 陽成 院号 釣殿 宮﹂
︑﹃ 帝 王編 年記
﹄光 孝天 皇段 では 綏子 に﹁ 号釣 殿宮
﹂と あり
︑二 人と 陽成 天皇
︵上 皇︶ との 婚 姻 関係 が問 題と なる
︒
― 317 ― 宇多天皇とその同母兄弟姉妹
﹃ 大日 本史 料﹄ は︑ 延喜 七年 十二 月二 十 一 日条 で は﹃ 日 本紀 略
﹄同 日 条 の﹁ 釣殿 宮 内 親王
﹂が 陽 成 上皇 の
﹁四 十 御 算
﹂を 賀し た記 事の 綱文 で綏 子内 親王 の行 為 と明 記 し︵ 第 一編 之 三︑ 八 八一 頁
︶︑ 延 長 三年 四 月 二日 条 で は三 品 綏 子 内 親王 薨去 の関 連史 料と して
﹃後 撰和 歌 集﹄ 巻十 一 の 陽成 院 が﹁ 釣 殿の 皇 女
﹂に 送 った 和 歌 を収 め る︵ 第 一 編之 五
︑ 六 六七
〜六 六八 頁︶ ので
︑綏 子が 陽成 上皇 と結 婚し
︑釣 殿宮 に居 住し たと 見て いた こと にな る︒ 簡子 が延 喜十 四年 四 月 十日 に無 品で 薨去 した
︵﹃ 大 日本 史料
﹄第 一 編 之四
︑五 八 四〜 五 八六 頁 に 関 係史 料 を 集成
︶の に 対 し︑ 綏子 が 三 品 に 叙さ れて いた こと を比 較す ると
︑従 うべ きで ある よう に思 われ る︒ 川合 氏も 陽成 天皇 と綏 子と の婚 姻関 係を 指摘 す る
︒な お︑ 林氏 は簡 子と の婚 姻関 係を 推定 し︑ 典拠 史料 とし て﹃ 三代 実録
﹄元 慶元 年正 月九 日条
︵無 位の 簡子 女王 と 廉 子女 王が 三日 の陽 成天 皇即 位式 で褰 帳命 婦役 を奉 仕し たと して 従四 位下 に叙 され た記 事︶ と﹃ 紹運 録﹄ の﹁ 配陽 成 院 号 釣 殿宮
﹂を 挙 げ る⒅
︒﹃ 紹 運 録﹄ と あ るの は
﹃一 代 要記
﹄と 訂 正 すべ き だ が︑ 簡 子が 陽 成 天 皇 の 後 宮 に 仕 え︑ 天 皇 元服
︵元 慶六 年正 月二 日︶ 後︑ キサ キと なり
︵女 御か
︶︑
﹃ 三代 実録
﹄元 慶八 年六 月二 日条 の戸 籍登 録・ 時服 月俸 賜 与 記事 の従 四位 下源 簡子 に至 った 可能 性は ある だろ う︒ もし 陽成 天皇 が簡 子・ 綏子 二人 と婚 姻関 係を 結ん だと する な ら ば︑ 在位 中に 簡子
︑退 位後 に綏 子を 迎え たと いう こと だっ たか もし れな い︒ 簡子 の年 齢は
︑十 歳で 即位 式を 迎え た 陽 成天 皇︵ 貞観 十年 生︶ の褰 帳命 婦役 を勤 め︑ 従四 位下 叙位 を受 けた こと から 見て
︑天 皇よ りも 年長 であ った と考 え る のが 自然 であ ろう
︒と すれ ば︑ 宇多 天皇
︵貞 観九 年生
︶と 陽成 天皇 は一 歳違 いで ある ので
︑宇 多天 皇よ りも やは り 年 長で あっ たと 考え るの が自 然か
︒一 方︑ 綏子 は両 天皇 とほ ぼ同 年齢 か︑ ある いは 年少 だっ たの では ある まい か︒ 簡子 は延 喜十 四年 四月 十日 に無 品で 薨じ てい る︒ 典拠 史料 の一 つ﹃ 日本 紀略
﹄同 日条 に﹁ 光孝 第二 皇女
﹂と ある の で
︑班 子女 王が 産ん だ二 女で あっ たこ とは ほぼ 確か であ ろう
︒ 綏子 内親 王は 延長 三年 三月 に落 飾し
︵時 に三 品︶ し︵
﹃ 日本 紀略
﹄︶
︑ 四月 二日 に入 道三 品で 薨去 した
︵﹃ 日本 紀略
﹄︑
宇多天皇とその同母兄弟姉妹 ― 318 ―
﹃西 宮記
﹄十 一月 大 原 野祭
︑﹃ 一 代 要記
﹄︒ 日 付 は﹃ 日 本紀 略
﹄に よ る︶
︒﹃ 日 本 紀略
﹄に は
﹁光 孝 第三 女
﹂と あ り︑ 国 史 大系 本の 頭書 は﹁ 第二 女﹂ とす る異 本の ある こと を記 すが
︑班 子女 王が 産ん だ三 女と して よい であ ろう
︒
④ 為子 内親 王 源氏 を賜 姓さ れ︑ 内親 王と され た歩 みに つい ては
︑忠 子・ 簡子
・綏 子と 同じ であ る︒ 為子 内親 王は
︑醍 醐天 皇が 元服 し︑ 宇多 天皇 から 譲位 され た寛 平九 年七 月三 日に 入内 し︑ 二十 五日 に無 品か ら三 品 に 叙さ れ︑ 妃と され たが
︑昌 泰二 年三 月十 四日 に薨 去し
︑二 十一 日に 一品 を贈 られ た︵ 以上
﹃日 本紀 略﹄
︶︒
﹃ 九暦
﹄天 暦四 年六 月十 五日 条︵
﹃御 産部 類記
﹄冷 泉院 の段 所引 逸文
︶に 記さ れて いる
︑右 大臣 藤原 師輔 が村 上天 皇 に 言上 した
︑為 子内 親王 と藤 原穏 子の 入内 の経 緯で は︑ 醍醐 天皇 元服
・受 禅の 日に 内親 王が 入内 した が︑ 彼女 はま も な く出 産の ため に薨 去し たと いう
︒醍 醐天 皇
・内 親 王の 子 と して は 勧 子 内親 王 が 知ら れ
︵﹃ 紹 運録
﹄︶
︑ 勧 子は 昌 泰 二 年 十二 月十 四日 に内 親王 とさ れて いる
︵﹃ 日 本紀 略﹄
︶︒ こ れ ら の史 料 か ら︑ 為子 内 親 王 は勧 子 を 出産 時 に 薨去 し た と 考 えて よい であ ろう
︒生 年に つい て語 る史 料は ない が︑ 宇多 天皇 皇子 の醍 醐天 皇の 妃と なっ てい るか ら︑ 宇多 天皇 の 妹 であ るこ とは ほぼ 確か であ ろう
︒注
⒃で
︑﹃ 一 代要 記
﹄の 忠 子の 内 親 王宣 下 に 関 する 記 事 を引 用 し︑ そ の中 の 寛 平 三 年の 年齢
﹁年 十二
﹂が 忠子 に関 する 記述 とし ては 誤り であ るこ とを 指摘 した
︒仮 に妹 三人 の誰 かの 年齢 記載 であ っ た とし て︑ 為子 のも のだ った 可能 性を 考慮 して みよ う︒ その 場合
︑為 子は 元慶 四年
︵八 八〇
︶誕 生で 醍醐 天皇 より も 五 歳年 長︑ 薨去 時の 年齢 は二 十歳 とな る︒ 醍醐 天皇 との 年齢 関係 に違 和感 はな いが
︑班 子女 王が 四十 八歳 で為 子を 出 産 した こと にな るの は問 題で ある
︒四 人姉 妹の 誰か の寛 平三 年時 年齢 を誤 写し た︵ ある いは 脱字 した
︶可 能性 があ る と いう 考え 方に 重き を置 いて
︑検 討課 題と して 残し てお くべ きで あろ う︒
― 319 ― 宇多天皇とその同母兄弟姉妹
⑤ 源某 班子 女王 所生 の女 子と して
︑も う 一人
︑名 の 知 られ な い 妹が い た と 上述 し た︒ そ れは
︑﹃ 大 鏡 裏書
﹄の
﹁賀 茂 臨 時 祭 事﹂ に引 用さ れて いる
﹃宇 多天 皇御 記﹄ 寛平 元年 十月 壬午
︵二 十四 日︶ 条中 に︑
﹁ 以昨 日暮
︑同 母妹 卒︒ 悲傷 甚深
﹂ と 見え る人 物の こと であ る︒ この 妹は 元慶 八年 に源 氏を 賜姓 され た皇 女達 二十 人の 中の 一人 とい う可 能性 があ る︒ 具体 的に は︑ 班子 所生 の女 子 と 知ら れる 四人 を除 く十 六人 の内
︑没 年月 日ま たは 母の 知ら れる 九人
︑す なわ ち奇 子︵ 音子 とも
︒延 喜十 九年 十月 九 日 没︶
︑ 緩子
︵綾 子と も︒ 延喜 八年 十 月四 日 没︒ 母 多治 氏
︶︑ 礼 子︵ 延喜 九 年 三 月十 八 日 没︶
︑最 子
︵仁 和 二年 七 月 七 日 没︶
︑ 黙子
︵點 子と も︒ 延喜 二年 七月 七日 没︶
︑並 子︵ 延喜 六年 五月 四日 没︶
︑ 謙子
︵延 長二 年二 月二 十六 日没
︶︑ 深 子
︵延 喜十 七年 八 月十 五 日 没︶
︑周 子
︵延 喜 十二 年 四 月 三十 日 没︶ を 除く 七 人︵ 遅 子・ 麗子
・崇 子
・連 子
・是 子・ 偕 子
・密 子︶ にそ の可 能性 があ ると 言う こと がで きる
︒し かし
︑誰 とは 特定 でき ない し︑ 綏子
・為 子と の年 齢の 上下 関 係 も不 明と せざ るを 得な い︒ 寛平 三年 を待 たず に卒 去し てい るの で︑ 源某 とし て世 を去 った ので あろ う︒ 結
び に 代 え て 近時
︑佐 藤早 樹子 氏は
︑陽 成・ 光孝
・宇 多三 天皇 の皇 位継 承問 題に 関し
︑先 行研 究の 課題 を踏 まえ つつ
︑新 視点 も 加 えて 多角 的に 再検 討し た⒆
︒ 筆者 は多 大な 啓発 を受 けた が︑ 時康 親王 が娘 忠子 女 王 を 清和 天 皇 に嫁 が せ たこ と が 明 確 とな って いる こと
︵川 合氏 の研 究が 解明
︶︑ 息 元長 王 が 叙位 面 で 優遇 を 受 け てい た ら しい こ と︵ 本 稿で 言 及
︶な ど も
︑清 和・ 陽成 朝に おけ る親 王の 立場 につ いて 何を 語り
︑光 孝天 皇が 中継 ぎ天 皇だ った のか どう かの 評価 にど のよ う
宇多天皇とその同母兄弟姉妹 ― 320 ―
に 関わ るの かと いう 点で 重要 では ない かと 感じ てい る︒ 佐藤 氏が 行っ た新 しい 指摘 とし て︑ 仁和 二年 十二 月十 四日 の芹 川野 行幸 で光 孝天 皇が 源定 省と 藤原 時平 に殊 遇を 与 え たこ と⒇
に
︑意 中の 後継 者が 定省 であ るこ とを 示そ うと した こと を読 み取 れ る と した こ と があ る
︒筆 者 もそ の 通 り だ と思 うが
︑父 から の愛 情だ けで なく
︑母 班子 女王 が息 定省 に注 いだ 愛情 の深 さに もも っと 注目 して よい と思 う︒ 天 皇は 十 七 歳だ っ た 元慶 七 年
︵当 時 は定 省 王︶
︑ 再三 に わ たり
︑班 子 女 王 に出 家 し たい と い う 思 い を 打 ち 明 け た
︒ し かし
︑母 は仏 教へ の信 心は 勧め たも のの
︑出 家は 認め なか った
︒こ のこ とは
﹃扶 桑略 記﹄ 寛平 元年 正月 条に
﹃宇 多 天 皇御 記﹄ 逸文 とし て引 用さ れて いる
︒か つて 角田 文衞 氏は
︑藤 原淑 子︵ 基経 の妹
︒清 和朝 から 後宮 に仕 え︑ 光孝 朝 の 元慶 八年 四月 二日
︑正 三位 で内 侍司 の長
︑尚 侍に 任じ た︶ が宇 多天 皇の 養母 とな り︑ 天皇 の即 位に 貢献 した こと を 論 じた
!
︒で は淑 子を 天皇 の養 母と した のは 一体 誰で あっ たの か︒ 今︑ 筆者 が こ の こと を 考 える 時
︑そ れ が実 母 班 子 女 王で あり
︑彼 女は 愛息 の未 来に 大き な希 望を 持っ てい たの では ない かと いう 憶測 を持 たず には いら れな い︒ 今後 の 研 究課 題と した い︒ 注
⑴
﹃ 日 本 三 代 実 録
﹄ の 光 孝 天 皇 即 位 前 紀 に は 沢 子 が
﹁ 天 長 八 年 生 天 皇 於 東 京 六 条 第
﹂ と 記 す
︒ し か し
︑ 天 皇 が 五 十 八 歳 で 崩 御 し た と す る 同 書 の 記 述 に よ れ ば 天 長 七 年 誕 生 と な る
︒﹃ 本 朝 皇 胤 紹 運 録
﹄﹃ 皇 代 記
﹄﹃ 皇 年 代 略 記
﹄﹃ 一 代 要 記
﹄﹃ 帝 王 編 年 記
﹄ な ど も 天 長 七 年 誕 生 と す る の で
︑ そ れ に 従 う こ と に す る
︒ な お
︑ 以 下 本 稿 で は
﹃ 日 本 三 代 実 録
﹄ を
﹃ 三 代 実 録
﹄ と 略 記 す る が
︑﹃ 続 日 本 後 紀
﹄﹃ 日 本 文 徳 天 皇 実 録
﹄﹃ 三 代 実 録
﹄ の 三 国 史 に つ い て は 書 名 を 省 略 す る 場 合 も あ る
︒ 了 解 さ れ た い
︒
⑵ 和 田 英 松
﹁ 藤 原 基 経 の 廃 立
﹂︵
﹃ 中 央 史 壇
﹄ 第 二 巻 第 五 号
︑ 一 九 二 一 年
︶︒
⑶ 河 内 祥 輔
﹃ 古 代 政 治 史 に お け る 天 皇 制 の 論 理
﹄︵ 吉 川 弘 文 館
︑ 一 九 八 六 年
︶︑
﹁ 第 六 光 孝 擁 立 問 題 の 視 角
﹂︒
⑷ 林 陸 朗
﹁ 賜 姓 源 氏 の 成 立 事 情
﹂︵
﹃ 上 代 政 治 社 会 の 研 究
﹄ 吉 川 弘 文 館
︑ 一 九 六 九 年
︶︒
― 321 ― 宇多天皇とその同母兄弟姉妹
⑸ 女 王 は 宇 多 天 皇 の 即 位 式 の 日 に 皇 太 夫 人 と な り
︑ 孫 醍 醐 天 皇 の 即 位 に 伴 っ て 寛 平 九 年 七 月 二 十 六 日 に 皇 太 后 と な っ て い た
︒
⑹
﹃ 大 日 本 史 料
﹄ 第 一 編 之 二
︑ 昌 泰 三 年 四 月 一 日 条 は
︑ 皇 太 后 の 崩 御 に 関 す る 史 料 で あ る
﹃ 日 本 紀 略
﹄ の
﹁ 卌 八
﹂ に
﹁︵ 六 十 八 カ
︶﹂ と す る 傍 注 を 付 け て い る
︵ 七 四 二 頁
︶︒
⑺
﹃ 大 日 本 史 料
﹄ 第 一 編 之 二
︑ 寛 平 四 年 三 月 十 三 日 条 は
︑ 女 王 の 算 賀 に 関 す る 史 料 と し て 最 初 に 掲 出 す る
﹃ 日 本 紀 略
﹄ の
﹁ 卌
﹂ に
﹁︵ 六 十 カ
︶﹂ と す る 傍 注 を 付 け て い る
︵ 一 一 頁
︶︒ な お
︑ 後 掲 の
﹃ 伏 見 宮 御 記 録
﹄ に つ い て は 同 書 の 一 一
〜 一 二 頁 に よ る
︒
⑻ 故 実 叢 書 本 巻 十 二
︵ 第 二
︑ 一 九 四
〜 一 九 五 頁
︶︑ 神 道 大 系 本 臨 時 八
︵ 八
〇 一 頁
︶︒ 神 道 大 系 本 は
﹁ 寛 平 四 年 三 月 十 三 日 丁 巳
﹂ の
﹁ 四
﹂ に
﹁ 三 歟
﹂︑
﹁ 中 宮 六 十 之 算
﹂ の
﹁ 六 十
﹂ に
﹁ 五 十 歟
﹂ と 傍 書 が あ る と 翻 刻 す る が
︑ 故 実 叢 書 本 と 同 じ
﹁ 四
﹂﹁ 六 十
﹂ で よ い と し て 考 察 を 進 め る
︒ 前 者 に つ い て は
︑ 日 の 干 支 か ら 見 て 寛 平 四 年 の ま ま が 妥 当 で あ る
︒
⑼ な お
︑ 寛 平 四 年 に お け る 班 子 女 王 の 算 賀 に つ い て は
︑﹃ 日 本 紀 略
﹄ の 十 二 月 二 十 一 日 条 に
︑﹁ 諸 公 主
﹂ が 常 寧 殿 で 母 中 宮 班 子 女 王 の 御 算 を 祈 る 法 会 を 行 っ た こ と が 記 さ れ
︑ そ の 時 の 願 文 と し て 菅 原 道 真 が 代 作 し た 文 章 が
﹃ 菅 家 文 草
﹄︵ 巻 十 二
︑ 願 文 下
︶ に 収 め ら れ て い る
︒ 願 文 は
﹁ 四 内 親 王
﹂ が 法 会 開 催 の 主 体 で あ る と 述 べ て い る が
︑ 彼 女 等 は 忠 子 内 親 王
・ 簡 子 内 親 王
・ 綏 子 内 親 王
・ 為 子 内 親 王 の こ と で あ る
︒ 四 節 を 参 照
︒
⑽ こ れ は 最 初 の 上 表 で は な く
︑ 前 年 の 貞 観 十 一 年 九 月 十 日
︑ 親 王 が 朝 廷 の 財 政 改 善 に 貢 献 し た い と し て
︑ 男 子 達 に 宗 室 朝 臣 の 姓 を 賜 わ る こ と を 請 う 抗 表 を 清 和 天 皇 に 奉 っ た が
︑ 容 れ ら れ な か っ た こ と が 前 提 と し て あ る
︒ 林 氏 注
⑷ 前 掲 論 文
︵ 二 九 二
〜 二 九 三 頁
︶ を 参 照
︒ そ の 背 景 に は
︑ 同 年 二 月 一 日 に 貞 明 親 王
︵ 後 の 陽 成 天 皇
︶ が わ ず か 二 歳 で 立 太 子 し
︑ 時 康 親 王 の 皇 位 と の 距 離 が 一 層 遠 の い た こ と が あ っ た だ ろ う
︒
⑾
﹃ 一 代 要 記
﹄ 光 孝 天 皇 段
︑ 皇 子 の 項 の
﹁ 奇 恒
﹂ は
﹁ 音 恒
﹂ の 誤 記 で あ ろ う
︒
⑿ 貞 観 十 二 年 に 源 朝 臣 と さ れ た 男 子 達 も 賜 姓 さ れ る と い う あ り 方 に 違 和 感 を 感 じ
︑ 同 年 の 賜 姓 を 再 確 認 し た に 過 ぎ な い の で は な い か と 考 え る 向 き も あ る だ ろ う が
︑ 林 氏 が
﹁ 貞 観 十 二 年 に 賜 姓 に 与 っ た も の は
︑ 原 則 と し て 元 慶 八 年 に 改 め て 一 世 源 氏 と し て 賜 姓 の 列 に 加 わ っ て い る の で あ ろ う と 予 想 さ れ る
﹂ と 述 べ る の が 正 確 な 理 解 と 言 う べ き で あ る
︒ 光 孝 天 皇 が 即 位 す る と
︑ 継 嗣 令 皇 兄 弟 子 条 に よ っ て 天 皇 の 兄 弟 姉 妹
・ 男 子
・ 女 子 が 親 王 と さ れ る 対 象 と な る
︒ そ れ は 貞 観 十 二 年 に 賜 姓 さ れ た 男 子 達 に も 適 用 さ れ る と 解 釈 し な け れ ば な ら な い
︒ し か し
︑ 元 慶 八 年 に 即 位 し た 光 孝 天 皇 が 皇 子 女 に 賜 姓 す る と 勅 で 宣 言 し た こ と で
︑ 令 文 が 適 用 さ れ な い こ と に な る の で あ る
︒
⒀ 従 四 位 下 簡 子 だ け は 時 服
・ 月 俸 の 支 給 対 象 と さ れ た
︒ 林 氏 注
⑷ 前 掲 論 文
︵ 二 九 七
〜 二 九 八 頁
︶ を 参 照
︒ な お
︑ 二 十 九 人 の 列
宇多天皇とその同母兄弟姉妹 ― 322 ―
挙 部 分 に 四 人 の 人 名 が 見 え な い こ と に つ い て は
︑ 是 忠 の 位 階 に 関 す る 字 句 の 問 題 と 合 わ せ
︑ 三 節 で 林 氏 の 研 究 を 踏 ま え た 考 察 を 行 う
︒
⒁ 林 氏 注
⑷ 前 掲 論 文
︵ 二 九 三
〜 二 九 八 頁
︶︒
⒂ 川 合 奈 美
﹁ 光 孝 皇 女 忠 子 内 親 王 の 生 涯
│﹃ 日 本 紀 略
﹄ 関 連 記 事 の 再 検 討
│
﹂︵
﹃ 学 習 院 史 学
﹄ 第 四 一 号
︑ 二
〇
〇 三 年
︶︒
⒃
﹃ 一 代 要 記
﹄ に は
﹁ 寛 平 三 年 十 二 月 九 日 為 内 親 王
︑ 年 十 二
︑ 延 喜 四 年 五 月 十 日 薨
﹂ と あ る
︒ 内 親 王 と さ れ た の は
︑ 他 の 皇 子 女 と 同 じ 二 十 九 日 と す べ き で あ る
︒ 忠 子 内 親 王 は 寛 平 三 年 に 三 十 八 歳 と 考 え ら れ る
︵ 後 述
︶ の で
︑﹁ 年 十 二
﹂ は 不 審
︒ 延 喜 四 年 五 月 の 薨 去 日 を
﹁ 十 日
﹂ と す る の は 筆 写 上 の 問 題 で 生 じ た 異 同 で あ ろ う
︒﹃ 日 本 紀 略
﹄ に 従 っ て お く
︒
⒄ 林 氏 は 忠 子 内 親 王 が 清 和 天 皇 女 御 で あ っ た と 言 及 す る
︵ 注
⑷ 前 掲 論 文 二 九 七
・ 二 九 八 頁
︶ が
︑﹃ 大 日 本 史 料
﹄ の 解 釈 も 含 め た 検 討 は し て い な い
︒
⒅ 林 氏 注
⑷ 前 掲 論 文
︵ 二 九 八 頁
︶︒
⒆ 佐 藤 早 樹 子
﹁ 陽 成
・ 光 孝
・ 宇 多 を め ぐ る 皇 位 継 承 問 題
﹂︵
﹃ 日 本 歴 史
﹄ 第 八
〇 六 号
︑ 二
〇 一 五 年
︶︒
⒇
﹃ 三 代 実 録
﹄ 及 び 同 日 の 行 幸 儀 に 関 す る 別 の 記 文
︒ 佐 藤 氏 は 同 記 文 を
﹃ 光 源 氏 物 語 抄
﹄ か ら 紹 介 す る が
︑﹃ 源 氏 物 語 奥 入
﹄ 所 引 の 記 文 に 由 来 す る と 見 る べ き で あ ろ う
︒
! 角 田 文 衞
﹁ 尚 侍 藤 原 淑 子
﹂︵ 角 田 文 衞 著 作 集 第 五 巻
﹃ 平 安 人 物 志 上
﹄ 法 蔵 館
︑ 一 九 八 四 年
︒ 初 出 一 九 六 六 年
︶︒
― 323 ― 宇多天皇とその同母兄弟姉妹