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1875年における独仏危機

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(1)

1875年における独仏危機

著者 小林 幸輔

出版者 法政大学史学会

雑誌名 法政史学

巻 24

ページ 1‑30

発行年 1972‑03‑30

URL http://doi.org/10.15002/00011728

(2)

八七五年における独仏危機

EE J

Ar

林 幸

1

一入

向けているドイツ人にとって、戦後のフランスの急速な復興ぶりは驚異の的であり 関係は必ずしも平安ではなかった。両国の歴史的関係からフランスに常に警械で限を七

O

年戦争終了後、独仏

、 そ の

復讐戦争への懸念

から

軍事的には圧倒的な差異にも拘らず、独仏関係はむしろ緊張の連続であったと云える。そ

し て 共 和 派

のテ

ィエ

lル

( 、

226

政権が倒れた一八七三年五月から、ドイツ軍の完全撤退の行われた同年秋以)かけてが緊張の一つの山であり、一八七五年春が最大のピlグであった。前者については前に論じたことがあるので、本稿では主として後者につ

いてふれてみたい。一般にこの時の緊張を予防戦争と呼んでいるが、これは車に独仏二国間の問題だけではなく、英

露伊填の諸国にまたがる外交関係であるので問題は極めて複雑で、かっ資料も極めて乏しく、間接史料による推測に

任ねられる分野が多

いの

、今日なおその本質が明確にされていない。ただ従来は主として独仏両国の外交面から研

究されて来たが、実は両国の内政問題と緊密に結びついている国が多い。殊に。フロイセンの文化闘争とは極めて密接

な関係をもっている問題であるのに従来はこの面が全く無視されて来た。本論においては主としてこの面に視点を当

てて検討して見たい。

一八七五年における独仏危機(小林)

(3)

法政史学第二十四号

2

3一入七三年五月のフランス政

変は

、こ

れまでティヱ1ルの共和政権支援に努力して来たピスマル

グ(

さロ

5

5 R S

政府に大きな打撃を与えた。ピスマルグは「ティエlルに対するマグH

マホン(宮月宮各

g

)の交替はより強力で

軍事的な教権主義者で同盟締結花力の秀れたフランスが、弱い市民的、反教権主義的で孤立したフランスに交替し

4たことを意味する」と考へたのであるQ

「王

派の政権樹立以来教権主義者達は云わば圧力団体的役割を演じ」、「既

5にティエlル政府の下で進められて来たロl

マ教

皇擁護的な外交政策は一段と強化された。」さればベルリン駐在仏

大使

守コ

ント

ウ(

の。

E

8 5 1 巴

ろは「ベルリン

ではマクリマホンによる政権引継ぎが復讐観念の恐怖とイタリア

への

干渉についての懸念を再燃させ

てお

り、

プロイ(

ロロ

の母

g

m

〉内閣の下では共和政への憎悪と教権主義的、君主

6制的傾向が支配的になるだろうと略されて

いる

」と

報じ

た。

このような状況下に一八七三年八月三日、ナンシl

、ッ

l

ル及

びドイツ領ロl

トリンゲンをも合む僧正区におい

て、ロレlヌ

の信

仰週報が配布され、その中でナンシlの司教はドイツのカトリッグ断圧を激しく非難して反独熱を

煽ると共

に 、

信徒達に対し、メッツとストラスブルク心祖国復帰のための祈ザゼするよう求めた事件が起つ(わい

これ

に対してピスマルグは九月三日駐仏代理大使ウ

ェス

lレン(毛虫

色己

ニゆ

を通じて厳重抗議すると共にフランス政

8府の釈明を求めた。これと共にドイツ諸新聞は

一 十 人 月

にフランス非難を始め、「ナンシl司教の行為

はドイツ国内のカ

トリック徒と連絡

をと

ている」。「ドイツカトリ

ック

派はピスマルグへの抵抗において、フランスのカトリッグ新聞

9や司教の教書により公然と激励されている」と書きたてた。駐仏独大使アルニム(ぐO

k r s

- 5

)はピスマルグの意を受けてプロイ首相と会談し、「ドイツの諸新聞はフランスの王政運動そのものに反対しているのではなく、むしろこの運動の底流と

なっ

ており、凡ゆる事をフランスの領域を越えた所で燃えらせる危険のある教権主義者の異常な活動に反対しているのである」と説明した。ところが一一月

に入

るとパリ!大司教ギベl

ル(

E

Z Z

)がドイツを誹諒する教書を発表、同二十六日には教主ビウス九世が回勅を送り、プロイセン政府に反抗せる僧侶を賞讃し、そのカトリッグ断圧諸法律の無

効を

官一

一一一目した。この事件に憤激したピスマルクは一二月末駐独仏大使守コントウに激しく抗議すると共

(4)

に、翌一八七四年一月二三日には、駐露独大使ロイス(

HN

gm

の世俗政府が我々が平和の敵)に訓令して、「仏ω

( 印

家秩序の敵として知っている所の専制的僧侶主義の政治指導の手に任ねられるならば戦争は避けられないだろう」と

( 日

。 へ

、同趣旨を各国

のド

イツ

使節に訓令して対仏共同行動を勧誘せしめた。当時ドイツの半官紙

Z O

円 分

E R Z

〉 ロ

問 。

1

5 0 - B

N 2

口問は熱っぽい表現で次の如く報じている。「教会国家の神権政治に従順なフランス国家は!そしてドイ

E

( ロ

ツではマ夕日マホンのフランスはそのように見られていたl世界平和と相容れないじまた一八七三年一二月ピスマ

ルグは駐独英大使ラッセル(同

5 8 σ

にもフランスの計阿への強い猪疑心を表明し、「もしもフランスの計両が復讐

を考えているのであれば私はむしろ直ちに闘い、フランスが準備を整えるのを待つ代りにフランスに対し、明日にも

( 口

宣戦するであろう」と述べた。これと共に事態は急激に悪化、戦争の危機を感ぜしむるに至り、英露の二国は破局回

避のため七四年初以来活溌に動くこととなった。ドイツの行動に憤激したイギリス大使ラッセルはフランス大使ゴン

Mトウに、「ヨーロッパ諸国がこれら自由の諸権利の侵害を阻止しようと云う点で一致していたのではなかろうか」と

( 日

述べているし、更にイギリス女王陛下はドイツ皇帝に書簡を寄せて、「平和に対する憂慮」を伝えた。ゴントウによ

るとイタリア外相ヴェノスタハ〈

80

2 ろは「ビスマルクによって強制された冒険政策に反対し」ているし、ロシア

も「フランスの繁栄に同情と関心」を示し、二月末ベテルブルグを訪問したでコントウに対してゴルチャコフ(のo

月町

l

昇。当)は長途の旅行の労苦を稿うと共に「全ヨーロ

ッパ

ビスマルタに対し似激せしめられている。:::ビスマル

( 問

グはフランスに対して戦を聞くわけには行かないだろう」と言明した。ゴントウはフランスに対するロシア政府の意向打診

のた

に派遣されたものであったが

、こ

の時のゴルチャコフの態度から彼は露仏親近の一つの確証を得たと考えた。彼は外相ドカlズ(ロ去り

R R

g

への

す一日仰の中で「ビスマルタは司教達の争いに際して期待していた支持を

ヨー

ッパに見出すことが出来なかったιピスマルクは味方を間違えていた」と述べているが、この書簡の中にわれわれは明確に露仏親近の始まりを涜λ

と 一

ωことが川来るc

三月

二日

守コ

ント

ーが

ツア

iに謁見した時、ツアーはピスマルグの行動を激しく非難した後、「資下はわれわ

れが

平和の維持のために如何

なる

代償を払っているか知るであろう」

( 却

と述べ、自ら平和の使者の如くね芯に

なっ

いた

、と伝えられている。へ幻

当時ビスマルクは帝国陸軍組

織法

」バペ

叫 ん

一一

に抗

して

いたが、この法案は中央党、進歩党、

国民自由党左派等のいわ

一八七五年における独仏危機(小林)

(5)

法政史学二十四

ゆる自由派分子の主張と鋭く対立することとなった。かくてピスマルグは法案成立のために文化闘争における強硬政策によって進歩党や国民自由党をつなぎとめると共に、他方巾央党と取引する道具として第二の五月法とも云われる

僧職の不法履行防止のための追放法案を準備しなければならなかった。百時フアルグ(

E - e

の俊

一厳な取締令により、五月法にふれて逮捕或は免職される僧侶極めて多く、空位の司教区はおびただし

い数

にの

ぼっ

一味

そのため無資格僧侶及び宗教役人の教会及び一定の役所の使川を林一川じ、無住僧正領

の管

理、無資格者の僧侶職施行防止につい

て細

密の規定をしたのがこの法令である。監督僧正会議はこの法律の施行に協力を拒み、教皇ピウス(虫

5

同)はその

( 幻

無効を宣言するに至った。

この困難の時にピスマルグは健康を害して病床につかなければならなくなった。三月二一日宰相を日見舞ったルキウ

4スHボlルハウゼン(

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ロ巳

5 2 m g

)は

「正しく病気で弱々しく、仕事

に疲

れているとの印象を受けた

」と

( お

「 私

はフ

アルクの立法については責任はない。私はカトリック教会との闘争には全然同意

して

いな

川」

とはザグ

セン

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臣フリlゼン(ぎ口町

1 2 0 5

の五月法

への

、厳

しい

批判に対して当時ピスマルグが述べた遁辞であ

る。ピスマル

クの心身共

に疲

れ切

ていた姿がよく窺われる。病床の彼は「五月法と共に歩んだ途の誤っていたことに気づき、文化闘争に対して今や嫌悪と反感をさえいだき、教会政策の転換を図ろうと考えた如くであった」三病休を見舞った

人々は感得したようであ

る 。

「もはや教会闘争を終結させようとの考が眠られぬ夜に突然浮んで来一だ」と告白したのもこの当時のことである。ビスマルグの友人プランケンブルグ(〈OD

ロω即 日

n r g r 5 m

)は当時ロl

ン(

4C

問。

。ロ

〉に

7宛てた手紙の中で「私がこれまで考えていたとは全く違った人であることをピスマ

ルク

につ

いて発見し

b

」と驚

いて

した

ピスマルクが文化闘争の当面の敵中央党との長協を考えたのは、このような状況の下においてであった。「追放法

( 抱

案を提出しないならば中央党は陸軍法案を通すだろう

」 と

のホ

1

ンロ

1

エ(

さ口出

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)の報告に基づいてビスマルクは友人ハルンビュlラ1

( 出 削

W E t c

-ぬるを中央党の領袖ライへンスペルガ1

( 間

立 の

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2

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)の所に派

遣した。ハルγ

ビュ

lラlはファルグについての不満をぶちまけたが、これは恐らく宰相の病室からの受け売りであ

ろう

「彼は私及び私を通じてマル

リン

クロ

ト(云

色一

月官

。含

や軍事委員会に席を置く他の中央党員達に対して

(6)

少くも巾央党の一却を政府案に同調させ主うと一試みたものであった’一。四月九日ピスマルグばルキウスに対して「私

は中央党に譲歩しないで保守派にのみ頼っていることは出来ない。譲歩によって獲る所のものがピカピカの模造貨幣

でなく真物の金貨であるならば敢えて譲歩しようと思う」と洩らして

いる

。しかし長も早く確実な方法はロ1

マを

ずることであった。かくて一八七四年一

O

月二七日枢密顧問官ゲルツアl(

g D

の己

N 2

l)がシュトラスブルグのホ

エン

1エに語った所によるとピスマルクは教阜庁使節コイデル(内

2

σ

に訓令し、枢機卿アントネリl

s

--。と長時間交渉させたが、結局目的を果たし得なかった。一方では彼の教会政策が惹き起した所の雷雲が地平線 o

上に立上るのを見るかと思うと他方では国会において自由派が帝国の安定のために重要と認められていた陸軍法を難

波させようと努めていた。大政略家ビスマルグも病床で深刻な動揺を体験せざるを得なかった。かくてピスマルグは

自由派と妥協して陸軍法を教会政策の譲歩と交換せざるを得なくなったのである。前記追放法や七三年五月の僧職教

養法の補則強化のための法律はかくして制定せられたものである。前述の如きピスマルグの責任回避の遁J辞にも拘ら

ずその教会政策は今や一段と強化せられることとなった。かかる時一八七四年七月二ニ日キッシンゲンにおいてグルマン(内ロロ

B S

D

)によるピスマルグ暗殺未遂事件が勃

発した。犯人の自供によると反ピスマルク的カトリック僧シュトlルマン(盟公

5 8

ロ 〉

の煽動に負うもので「教会

法のために捕われの身となった多くの僧侶への同情」が動機であった。このことについてピスマルグは一二月四日の

帝国議会において中央党首ウィントiルスト(若宮吾

2 8

の「罪悪を挑発した者こそ責任ある」との詰問に答えて次の如く述べている。「クルマンは完全な精神能力の持主であるとの医師の証明がある。中央党党員で教会法への反

対が動機であり、ウィントIルストの言動に追従しようとしたものであるよかくてピスマルクはプロイセン教会政策への反抗者の背景に明確に中央党を意識し、更に反プロイセン的カトリック徒を通じてのロlマ教皇との連絡をも

考えないわけには行かなかったω)しかも二月二一日ウィント

1ルストが逮捕さるべき社会民主党の代議士三人を

保護したことからピスマルクは中央党を「革命的団体」と考えるようになった。そもそも中央党の成立はドイツ国内

におけるカトリック徒の党派化をもたらしたものであると考えていたビスマルグは今や急進的なウィントlルストが

その領袖となるに至り、中央党はその活動において反国家的に導かれた一つの破情砲台であり、これを指導した者は

一八

七五

年に

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仏危

機(

小林

(7)

法政史学第二十四号

_ . _ _ _ ノ、

( 釘

砲術家であり、これを造りあげたものは技術である」と信ずるに至った。始めビスマルグは教皇庁とは出来るだけ親近し、教皇の力を借りて中央党を抑制しようと考えていい引い一八七一年四

月一七日教皇庁駐在大使タウフキルフェン(吋

S F

可 。 FO

吃が「反新帝国運動をなすカトリッグ党派の活動は反教皇運動への同情を呼び起す恐れあることをよき機会に述べ,円以」との訓令を受けて四月一一一日枢機卿アントネリlと接渉するのがその始めである。されば教皇も「議会におけるカトリック党の活躍を不都合で非現実的」と不満を洩らして

MWいる。そして教皇を利用しての中央党への干渉政策はその後も続けられては来たが教皇庁側の態度はファルグ立法以来極めて厳しくなり、一八七三年八月七日には五月法に抗議して、「洗礼を受けたる者悉く教皇に属訴との申入をプ

ロイセン政府に送り、同年一一月末には教会法に反抗する僧侶を賞讃し、五月法は教会憲法をその根底より覆滅し、

教会を破滅に導くものであるとして政府の責任を追究する回章を発表し崎山しかるにフアルグの峻厳な取締により五

月法やジJ片イット法にふれて処罰される僧侶の数は当時激増し、殊に前述の追放法の打撃はカトリック徒にとり決定的であっ問。かくて教皇庁とプロイセン政府との関係もグルマン事件以後は外交交渉の余地を殆んどなくし、今ま

た中央党の如上の事態にピスマルグはついに教皇庁をも中央党と同じくh車命的」と肌

γ

、ミュンヘン駐在前教皇使節メグリア(冨

o m o - -

)の言葉を引用し、「革命以外には何も役に立たな一口、「教皇庁の将来は民衆にあって、職務上無神論者になっている政府には何等関係がない」 4ど主張するに至った。ビスマルクはヴァティカンのこの態度を「ド

Uイツへの直接攻撃」と考え、フランスとの結びつし

ゴ」

をも

懸念せざるを得なかった。

かく

て 一 一 一

月五日プロイセンはヴ

一げ

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ン駐

在使

の地位を廃止することとなコ一〜。翌一八七五年二月五日教皇庁が回勅を発して五月法の無効を宣

a堂、一一一一口、僧侶の神聖なる特権を強調すると共にグルマンの暴行を以てカトリッグ徒の憤激の凝結と述べた時、。フロイセンとヴァティカンとの関係は最悪の状態に置かれ、ピスマルグはこれを「恐怖の新しい物酪と考えた。それはフランス

との関係を懸念したからであった。

3

一一八七四年二月末ドイツはオリエントにおけるキリスト教徒保護の問題について公式に反対を戸明したが

ビス

(8)

ルグはこの問題でロシアを調停に引入れよう

と考

え、

。ハリ駐在ドイツ大使ホl

エン

1エをしてロシア大使オルロフ

Oユ。者)と交渉させた。フランスに対してロシアと共同行動をとるためにビスマルグは、オリエント問題をフランス

における教権主義者の危険な活動と結びつけようとしたのである。しかし事態をそれ程重大に考えなかったロシアは

( 日

ピスマルクの提案を拒否したむこれより先一月一三日ロシアでは農民達がシェルム教区における礼拝式の改革に反対

して激しい暴動を起していたが、ついに軍隊を出動さして鎮圧すると云う事件に発展してしまった。かくて政府はカ

トリック僧侶の移動の自由を極度に制限する極めて厳格なカトリッグ取締令を発布せざるを得なかったc他方ポーランドでもカトリッグ僧侶の不穏な形勢が続いたが、ここでも五月終に暴動に発展した。当時これらはすべてロl

マ教

皇庁の指導に負う所大きいと考えていたロシア政府はその後、七四年二一月下回畑農民の聞に広く拡まっていたいわゆ

る教由王者一日簡の捜索を始めた。この書簡は市町村団体を反政府行動に駆り立てていたものと考えられていたのである。

かかる事情を巧みに利用しようとしたのがピスマルクである。彼はベテルブルグ及びすべての宮廷に「革命的教

皇」に反対し、君主制の連帯性のための雰同気を作り出すべく努力することとなった。ちょうどその頃二一月八日

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ロ常

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口問

が次の声明を出したのは興味あることである。

即ち

「全

ヨー

ッパ

政党にとっ

( 出

て.グルマンは堅固で忠実な三帝の結束にとって困難な邪魔物では決してない」と。ピスマルグのウィーン駐在大使シュワイニッツ(∞岳当

2 2

め、社会主義者と結んで僧侶達か置し同列に )への訓令は前記声明を敷桁するものと思われる1マ教皇を共産主義者と

R

即ち、「ロ。

によ

ってかり立てられ

てい

よう

な、

国自

家権力に対する教養ない下層民

の熱狂の中に見られる大きな危険に対する共同闘争」をオーストリア政府に提案させたのである。ピスマルグの信望

厚い一ブドウィッツ(さロ同包

0 3

件。が一入七五年二月五日。ヘテルブルグに派遣されたのは、このような背景の下に

独露の親善関係を確立し、フランスにおける教権派の危険を解いて、これと結んでいるマグHマホン政府と教皇をロ

( 貯

シアから分離しようとの考からであった。ピスマルグが「ゴルチャコフの優勢な干渉から全く解放されて対等の立場

. . .

に立って」両国関係を軌道に乗せる好機と考えていたことは、当時トライチ

ュケ

g

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ro

)に送った書簡に

よっても明らかであるc当時ベルリンでは守コントウによってこの「平和の使節の役割が、ドイツによっておびやかさ

( 印

ロシアによって保護されているフランスの実情をヨlロァパに明らかにするだろう」と喧伝されていた。

一八七五年における独仏危桜(小林)七

(9)

法政史学第二十四号

しかしラドウィッツの訪露の表面上の目的ほ駐露独大使ロイスが病気で帰同静琵中なので、スペイン共和政権への

対策の問題等に関し、独露両国政府間の意見を調整することにあ

った

。しかし実際上の目的については今日なお議論

の多い所である。モリエル(

∞可

問。

to

ユ 云 2 5

ろが一八九二年ロ

2 3 0 F O H N 2

誌上に発

5

表したストラスブルク大学

のゲッフケン教授(の丘町内宮口)の見解によると、ドイツの予防戦争に対してロシアの好意的中立を求める代り、オ

( 引

リエントではロシアのバルカン政策にドイツは干渉しないことを約束するにあったと。その真偽の程は明らかでない

が、大体独仏戦争に関した内容の使命を帯びて来たらしいことは当時。へテルブルグでの

一般

の風評であったし、フラ

( 臼

ンス代表もラドウィ

ッツ

任務について新独仏戦争の際のロシアの態度について探針に来たのだと考えていた。しか

しゲッフケンの見解が正しいとするならば当時駐露仏大使ルリフロl

( 戸 。

23

やゴルチャコフは一八七五年春にド

イツの戦争怠図を信ずるような気持はなかったということは理解出来ない。とに角ラドウィ

ッツ

ゴルチャコフとの

会談でこの考を明確に打出し得たかどうかは明らかでなく、前後の関係から、暗示したに留まったらしく、少く

もゴ

ルチャコフにおいては好意的反応は一不されなかったようである。

会談ではオリエント問題とフランス問題のほかに特に教会問題がやかましく討論せられた。ツアーはその際「教会

( 臼

の機関がもはや保守的な意味で働かないで革命的風潮に訴えていることを遺憾に思う」とし、これに対しラドウィッ

ツは巧妙にポーランド問題を教皇問題に結びつけて、ポー

ランド人の根強い反露

反独的活動の背景に教皇の指導

を想定し、従来のツアーやロシア政府の微温的態度に対する不満をほのめかすと共に独露提携による厳格なる対処を

( 臼

提案した。ピスマルグはこれがロシア政府の好感を克ち得るだろうと信じていたのである。またツアーはラドウィッ

ツに対し、ロシアがコンスタン

テ ィ ノ

l。

フル

の領

有を

んでいるとの疑惑を

白ら進んで強

く否定すると共に、ロ

シア

のポ

ーランド政策がポーランド人の不満をドイツに向ける結果になっているとの非難に対して激しく憤

慨し

教皇政

策においてドイツの文化闘争に協調することを強く拒否した。「ゴルチャコフ及びツアlは、ビスマルグの文化闘争

( 臼

の中に君主政原理と保守思想のための危険を感得したのであった」 。そして「困難を平和的会談の方法で除去し、教

( 侃

由 主

庁との和解に努力する方針をとることとし」、ポ

ーラ

ンドにおけるカトリック僧正の問題についてはロ

l

マ と の

交渉進展中なる旨明らかにした0

フランス外相ドカlズはこの情報を得て、フランス外交の成功として大いに

喜ん

(10)

だ。と

一五

うの

はこ

れより先フランス政府司休暇河川同していたルHフロ!大使を急ぎベテルプルクに帰任させ、ドイヅ

からの脅威に対して、援助方ゴルチャコフ外相に政んにはたらきかけていたのである。その際外相は大使に怠味深長

な忠告を与えて次のように述べた。「あなたの政府を静めるように努め

なさい。オル

ロフ(駐仏露大使)が書いて

来た所によるとフランス政府は戦争の悪夢に附んでいる。政府はあらゆる機会にその事をほのめかしていると。それ

はヨーロッパの注目を曳く事になる弱味であると考える。あなたは脅迫されないと私はあなたに保証する。しかしあ

らゆる機会に只一つのことをしなさい。強くなりなさ

い 。

非常

に強

く」

かくてラドウィッツ使節の使命は失敗に終り、むしろ仏・露・教皇問の視近を強く印象づけられるに至った。パリ

駐在の教皇使節フェルラタ(町

2 3

)枢機卿の回想録は此

E

の間の事情を明らかにしている。即ち「国務大臣ラソポ

ラ(臼

8 2

2 -

QOS

B3

- F

)枢機卿はポーランドにおける教皇勢力の

伸張、保守派の増強によりツア!の希望す

る正統主義思想を強化し、他方フランスにおいてはドイツへの敵慌心というよりはむしろ教皇の旧地位回復という主

印)

として教会政策的劫機から仏露の提携に明らかに好怠を寄せていたのであ

る 。 」

ピスマルグのフランス及び教権主義者への猪疑心はベルギー政府との間にも間着を惹き起した。当時(七四・一

一一)ベルギーにおいて僧正が教書を発して文化闘争に鋭い攻撃を加えた事件があった。これをドイツ政府はドイツ中

央党員の国際的教権主義的共謀として捜索していた。これより先一八七三一年二一月ベルギーの釜修繕業者某がパリの

大僧正に宛てた手紙の中で六万フランをもらってビスマルグを暗殺したい旨申出た事件があった。その後ビスマルク

はベルギー政府が前述僧正も釜修繕業者も告訴すること

出来

ないと発表した

ので

、ベルギー政府に強硬な抗議書を送

り、僧侶の秘密運動を庇護していると非難すると共に該僧侶の処罰と同国内における反独運動絶滅のためベルギー刑

法を改正するよう要請した。しかもピスマルグはこの抗議文を各国政府にも通報すると共にケルン新聞に公表した。

他方ビスマルグはイギリス政府を通じてベルギー政府に圧力を加えようとも試みたが、結局二月二六日ベルギー政

η府はドイツの要求を拒否するに至った。この事件は非常識極まりない、云わば異常行為であった。それを敢えてした

ピスマルクのねらいはベルギーよりもむしろロlマ教皇庁とフランス教権主

義者

にあった

ので

ある

前述の二月五日の五月法無効を宣一一一一目する教皇の回勅が発表されたのはこのような環境で

あっ

た。

一八七五年における独仏危機(

小林

これと共にピスマ

(11)

法政史学第二十四号

一 。

ルグはイタリア政府とも交渉に入った。即ちビスマルグはイタリアが教皇を僧正(巴

R E σ

として取扱い、これを

処分することを希望したのである。しかしイタリア政府はイタリア保障法を口実としてドイツと教皇庁との闘争に介

η入することを拒否した。かくして独伊関係が冷却し始めようとした時に填伊両国君主のヴェネティア会談の噂が

出て

教会問題と対独外交についての協定が計凶されていると伝えられたことがビスマルグを驚侍させたのは当然である。

既にロシアにおいてはフランスと教皇との連携を実感したのであったが、今や填・伊がこれに加わり、教皇を中心に

カトリッグ連合

、 が

結ばれ、ドイツは包囲されているとの危機感を抱くに至ったからで

ある

。 4

このような国際的不安の高まっている時、三月四日ドイツは勅令をもって馬の輸出を禁止した。これはフランスが

%

一一

月に

馬の輸出を禁止し、ドイツからは一万頭の軍馬購入を企てたことに対する予防措置と報ぜられた。更に

三月

三日フランス凶民議会は「常備軍と国民軍の幹部と兵員の構成に関する法律」(略称・幹部法)を制定、公布した。

これはフランスの陸軍編制の改革を現在の一四回連隊の枠内で行うもので、一連隊を構成する三大隊を四大隊に増加

する

かわ

り、

一大

隊に所属する中隊の数を六から四に減じ、官守中隊を加えて現行二一個中隊を一八個中隊で一個

連隊に編制対日しようとするものであった。しかしドイツ側はこの幹部法に多大の不安を感ぜしめられた。当時ドイツ

参謀本部にはフランス議会における審議状況について、第一議会から第三議会までの問の詳細の討論が報ぜられた

が、参謀本部部長陸軍大使クラウゼ(同

5 5 σ

)は三月一八日「フランスはこれにより一気に一四回大隊を増強し、そ

の結果ドイツ陸軍より八大隊多くなる」とモルトケに報告している。またパリ駐在武官ビュlロ1

少佐

g

ロロ

は四月一一日附報告で「一四四名の新大隊幹部誕生し、将来動員の際には一四四、 o当)巳

0 0

0

人を増加しうることとなっ

た」と参謀本部とは多少違った解釈をしている点

が注

科される。しかしいずれも

フラ

ンス

の脅威を訴えている点では

共通している。ピュlロl外相の四月二一日のウィルヘルム帝への報告は多分に参謀本部の解釈の影響を受け

てい

のと

忠われ

る 。

即ちフランスの陸軍改革により、ドイツはその人口四一

00

万人に対し平時兵員は四

O

一、

六五

人なるに対し、フラン

スは

人口

三六

O

万人に対し干時兵只四四二、

O

一四

人と

り、戦時においてはドイツ

は一

(12)

二七八、六一九人なるに対し、フランスは二、四二一二、一六四人(予備及び植民地兵を合む)と汁算された。既に莫

大な戦争賠償金の短期皆済が大きな驚異であったドイツの

人々

にと

り、

今やフランスの陸軍も亦驚くべき速度で侮り

難い敵に発展するであろうことは容易に考えうるとせられた。

しかしピスマルグはフランスは列強の後援なしに単独でこのような軍備出張を行う筈はないと考え、この蔭に露仏

同盟を感じ、三月二二)ム一六日に亘る填・伊両国君主のヴェネテ

ィア

会談を以て教皇を中心とする仏填伊のカトリッ

( 乃

グ連合をめざすものと解釈したのであるu

今や教皇はヨ

ーロ

ッ パ

外交の中心をなし

、ピ

スマルグの教会政策ばドイツに向けられた武器となってしまったこと

をピスマルグは恐れたのである。即ち文化闘争を起す事によりヨーロッパ列強をドイツに対して連合せしめ、ついに

ドイツを孤立化してしまったと考えた。かくてピスマ

ルク

「 速

かに転向して武器を敵の手から奪うべく文化闘争の

終結を図ると共に、露仏同盟を無害にし、列強の連合を引裂く方途を考究する必要を痛感せしめられたのである。」

教皇との闘争はフランスの僧侶、保守派の支持の下にフランスをロシアとの協調に追いやることとなり、「教白玉をフ

ランスから引離し

、ロ

シアを無政府主義のフランスとの同盟から引裂くためにはフランス

にお

ける反尊僧主義と共和

主義の支援が必要であ

る 。

逆にフランス共和派の強化はポーランドは勿論、フランス近隣諸国の革命を一つのより強

固な反露・反教皇的同盟に仕上げること

にな

る」

とピスマルグ

はか

ねがね考えてい

たの

である。この意味からしてピ

スマルクにとってフランス政策lフランス共和派援助政策ーがさし

当つ

ての重要問題となった

ので

ある

一八七五年

六月五日ピスマルグが皇太子妃の母に宛てた書簡によると「フランスにおいて共和派優勢の事態が起れば文化闘争は

完全に必要なくなる。何となれば僧侶的フランスに対する闘争、全文化闘争の最も本質的な目的はもはや風車に対す

る闘争になっ

てし

まうだろうから。

::

:ド

イツ分邦主義者もフランス僧侶派の敗

北に

よりその支柱を失うことになる

から以前の如く心配の必要はなくなるだろう。」

かくてまずホl

エン

Iエ大使を召還して現地状勢を確かめた上対策を講

ゆす

るこ

となった。これより先三月二日

大使はフランスの現況につき報告を寄せて、「注意深く観察したけれどもフランス政府が近々に戦争を始めようとの

意図についての兆候を探ぐることは出来なかった。フランスとの戦争が来年中は期待されないと云う閣下の意見に私

一入七五年における独仏危機(小林)

(13)

法政史学二十四

も同意します。しかし同時に私はフランス民族は失った

二州

を再び占領

し 、 失墜

した武名を再び輝かせようとの思想を決して放棄しないと確信し

ます

の考

にお

いて

フラ

ンス人はどの政党であれ例外な

しに

して

いま

す。

この駐仏大使ホlエンロl

エの

報告

先述のビュlロ1少佐の報告の何れも軍事面

での

ランスの現況がドイ

ツを

脅かしているとは云っていないし、ビスマルク自身独仏戦争の切迫を否定している。しかし三人とも両国関係の将来

についてはそれぞ

れの

立場から極めて憂慮

して

いる

ことは明

らか

であ

る。

ところでこの度の

ピス

マル

クへ

の報

告に

いては、ホlエ

ンロ

1エは「填伊の連携には充分対処し得るが、重要なのは仏-露関係である

に と

も述べて

いる

フラ

ンス

人の復讐観念とその異常なる経済的回復と軍制改革を眼前にし、フランスの背後の填伊露と

の国

際関係に

想いを致した時

ピス

マルグと

して

フラ

ンスの動向に神

経質

にならざるを得なかった。

「フ

ラン

クフルト和約

の後

ランスにおいて王党派であろうと共和派であろうとカトリ

ッグ

党派が支配権を

握っ

たならば戦争の再発を今日迄の如

く長く防止することは極めて困難であ

った

う 。

しからば我が国によって打負かされた両隣邦の填仏が共通のカトリ

ッグ的地盤の上に親近して我々に反抗する

こと

はあ

りうること

であ

る。

その上ドイツにもイタリアにも国民的感情よ

りは信教的感情の方が強い者が少くないと云う実情から、それらがこのカトリッグ的連携(同EFo

ω

- -

F

E

O

E S

を)

N

強化し、勇

気づ

ける

こと

は充分

考え

られ

る。

・ : 何

れにしても填仏親近をロシアの参加によって強力な同盟に仕上

げる

ことも、または外交的圧力により我が国をこの同盟に屈服させることも全くロシアの意の億である。フランスにおけ

る力トリッグ的王朝の再興

によ

って

オー

スト

アと共川して復讐戦争を試みようとすることが著しく近づいて来たよ

うに思われる。それ故に私はフランスにおける王朝再興を促すようなドイツの関心や平和の主張に反対し、この思想をもっ正統主義者に敵札口)して来た

のが

ピスマルグの基本的態度

であ

た。これより先、一八七一二年二月か

ら一

一一

月に

かけ

て、

ラン

スにおけるカトリ

ック

僧侶達がドイツ・カトリ

ッグ

僧に

対し

あく迄も五月法に反抗す

べし

声援し、またフラ

ンス

・カ

トリ

ックの諸新聞は反独的な教皇ピウス九

f

のドイツの宗教政策を非難する回章を掲げて

「ド

イツ

府のカトリ

ック

迫宝己を激しく非難した時

、ピ

スマルグはフラ

ンス

・カトリック僧の行動に憤激

し 、

駐独仏

大使

ントウヴィロンに次の如く抗議したのも上述の基本的考え方に基づくものであった。「今日の事件は我が国に

とって国家存否の問題

であ

る。

しか

るに今や我が国に対して反逆が煽動され

てい

る。権力を握った僧侶達がドイツに

(14)

向って教会に対する迫害と云う口実の下に戦を宣号一目するよりも前に、我々の方から貴国に対し戦を宣言するを余議な

くされるかも知れないJ)今やピスマルグの脳裡には一年程前の、この時以上の一逼迫した事態が思い浮べられたに相

違ない。かくてビスマルグは「我々は今すぐに敢えて平和をもたらそうとは思わない。『今』に重点を置くべきであ

る。さし当ってはプロイセンにおける教会と国家との澗)係を規制しなければならない。私の平和への用意はその後

であ

る。

」と

l

エン

lエ大使に指示を与えるに致

っ た

ところでビスマルグのこの平和とは何を音山味したものであろうか。前述の如くフランスとの間に戦争が逼迫してい

るとは考えられない状況下に、教会と国家との関係を規制した後に平和を考えるとするならばそれはロl

マ教

皇や

ランス教権主義者によって勇気づけられていると考えるドイツ・カトリック徒との聞の事柄でなければならない。ピ

スマルグのこの考え方がロl

マ的

僧侶

への

国家

手泊

)の

支給

を停

止す

る四

月一

一一

一日

の牧

師停

職条

令(

∞宮

司,

m g Z N

)制

となり、この前後における反政府的僧侶の大量の逮捕と共に文化闘争末期における激動期を形成することとなったも

のである。次いで対仏政策としてはフランスの軍備もさることながら、その背景と考えられるカトリック連始一と仏露関係への対策を急ぐこととなった。「ビスマルグの最も心配しているのはフランスの同盟締結能力」であった。

ところがこのような状況の下に三月末頃からドイツの諸新聞に

はフ

ラン

の軍備増強とこれに伴う独仏危機につい

て論ずるものが限につくようになった。先ず三月つ一

O

日の

Z m E o

ロ 巳 ’

N巳苫口問はフランスの軍備増強は戦争への直接

の準備であるとし、四月三日のと

m g

お E

2 N S S m

はフランス側からの戦争の危険を警告してい

A t

、同日の

Z2

色合

三月

宮〉

口問

。白

色ロ

o

巳 N

苫ロ

は戦争が不可避ならばドイツは即時行動に移らねばならないと論じた。

5

四月

五日

間己

口一

Z

N 5 5 m

は「新同盟」との表題でウィーン通信の記事を載せた。「フランスの軍隊再編は早急

な戦争の準備である。オルレアン派と共和派との共同は彼等の復讐戦争の直接の準備である。オーストリアにおいて

はアンドラ

ッシ

伯は勿論ドイツとの同盟を主張

して

るが

、陸軍と宮廷においては有力な党派、殊に高僧等はフ

ランスと結んで一八六六年の復讐戦争の準備をしている。この党派はヴェネティア会談を以てイタリア政府の意図を

一八七五年における独仏危機(小林)

(15)

法政史学

探針し、教皇の援護の下に三国同盟してドイツに対抗し得るかの可能性を調べようとしている」と論じた。ついで四

月五日の半官紙ロ古句。2は有名な「戦争眼前にありや」

22

2

1 0 m s

m

片『九〉の記事を掲げ、世界中に大き

な衝激を与えた。これは前記ケルン新聞に崎、げられたウィーン通信を受けて、フランスの復讐戦争の準備を指摘し、

フランスを激しく攻撃したものである。「数週日以来政治地平線は暗雲に蔽われている。:::今や我等は戦争眼前に

ありと云わねばならない。:::オーストリア帝とイタリア国王とのヴェネティア会談はアンドラッシイを倒し、ロー

マと平和を結び、対独カトリック連合を結ぼうとする教権主義者の陰謀である。フランスが行っている改革は一見平

和のための準備の如く見えるが、カ大な費用を要する戦争準備なのである。今や平和はおびやかされているかとの問

に対し、肯定しなければならない。」フランス人はこのポスト記事によりひどく興奮せしめられた。ピスマルクは戦

争の恐怖によってフランスの世論が憤激せしめられ、フランス政」肘をして譲歩し、出来ればドイツに接近するより他

なくしようと欲していたのであろう。一八七六年二月九日の演説はこのことに詳しくふれている。ピスマルグはポス

ト記事は自分の全然関与していないものであることを述べた後、「しかし私はこの記事を非難しようとは思わない。何となれば或るどこかの尚で少数者が戦争を考え声丙にそれを叫ぶような場合でも多数の者は戦争を好まないが故に

( 似

その言葉に注意深くなるだろうと信ずるが故に。」オノトオ(出。ロ。

s a

)も「フランスをして二者択一させようとし

M

m

たらしい。公然たる闘争を通じて友情を、威嚇によって好意を強制しようと欲した。」と解している。

ケル

γ新聞の記事はドイツ外務省の新聞局長エゲディ(〉

m o

伝)が厳重な指導の下にウィーン通信として掲載させ

( %

たものであることが後に明らかになった。しかしポスト記事は匿名で出され、長い間ピスマルグによって吹込まれた

ものと云われて来たが、これも後になって歴史家・文筆家で一入七

0

年度にピスマルグの所に派遣されていた古い通

m信員として有名なコンスタンティンリルュlスラl(問。ロ

ω Z E E

ω Z

ろである事が明らかになった。これについ

m

m

てピスマルクは一八七五年四月一日附ホlエンロlエ宛電報で「ポスト記事は私自身にとって驚きであった」と述

べ、七六年一月二二日露帝アレキサンダlのドイツ新聞についての批判についてのロイス大使の報告に関連して述べ

ω

た時も、前述二月九日の議会演説でもポスト記事についてはビスマルグ及び政府の関与を強く否定している。またルュl

スラ

1自

身も

四月

一二

O

日内閣官房長官ティlデマンハ目。斥

B S

ロ)に「私はピスマルグの事を何も知らずに、ま 第二十四号

(16)

た外務省の出浮も何も受けずに、人仁

- く私例人

の判断のみに基づいてポスト記事を古川いたと述べている点が前記ピスマルクの弁明と全く一致している。しかしだからと云ってそれだけでルュ!スラ!と政府との関係が全然なかったと云いきることは川来ない。なる程両者の聞に直接の関係はなかったかも知れない。その意味ではこれらの主張は正しいが、しかしケルン記事が四月五日でポスト記事が四月九日である以上両者間に影響が皆無であったと考えることは出

来ないし、キッスリング(百

g - E

m

によ

れば

ルュ

l

スラ

lは「早くからドイツ外務省新聞局と密接な関係をもってお

( 則 )

り、半官紙ポスト紙上にしばしばロlマとの関係記事や政府の政策を解説して来た人物であり、」「そのような地位にない時でも役所のためにベンをとって来た人である」以上「ウィルヘルムシ

ュト

l

セ(

宅ニ

}邑

5 3 2 8

)から何

( 問 )

のヒントも受けなかったということは信じられない」。前記一八七六年二月九日の演説でピスマルクがポスト記事との無関係を強調した際「少くも宮日〉ロ

2

君。包想定口)戦争眼前の記事については何も知らないと云う風に少くともとつけ加えているのは、他方におい

てケ

ルン記事との関係を暗に認め

てい

るのでもあろうと思われる。ルュスラ!とピ

スマルクとの関係はケルン記事がエゲディ指導の下に作られたと云うことだけで充分であり、それを敷街したルユー

スラ

lのポスト記事は、むしろピスマルグ及びプロイセン外務省の意向をより適確に表明し得たものと云わなければ

なら

ない

さてポスト記事に関しピスマルクは一入七五年四月一一日ボウルハウゼンに次の如く述べている。

「 こ

の新

聞記事が官営紙でない、民間の新聞紙に載せられ、そして私がそれに責任を持たなくてもよいと云うこと

は私にとって好ましいことである。しかし何時かは一度、混乱せる事態に対し、正確にして明白な強光線が投げかけ

られることは極めて有益なことである。戦争については問題にならない事である。

あなたは今日の官報でプロイセン僧職等の頗るあつかましい共同声明を見たであろう。我々はこれに対し第一五

条・第一六条・第一八条の廃止を以て応じようと思う。ファルグは余りにのろまで臆病に振舞っている。我々は今や

素直の方途を執らねばならない(

B

E o E Y

BRZ

ロ)と云うのは今やのるかそるかの決着をつけるべき時であると

( 問 )

思う

から

。」

ビスマルクのこの言明には重要ないくつかの問題を含んでいる。

一八七五年における独仏危機(小

林 〉

即ち第一に官営紙でない云々は、従来ポスト紙が

一五

(17)

法政史学第二十四号

しばしば政府の政策を解説して来た関係を故意に無視しようとしたものであり、前述ルュスラーとの関係をも敢えて

否定しようとした態度と相通ずるものである。第二にビスマルクは当面の事態を複雑にして困難なものと視、該記事

の有益なことを認めていることである。そして明白な強光線が投げられることを期待している如くである。この複雑

困難とは何を意味す

のか

、強光線とは何であるかについてはこの記事の前後における歴史的事象を吟味して見る必要

がある。第三に戦争について云々とは何を意味するのであろうか。第四にピスマルグのカトリヅグ政策について極め

て具体的に触れ、しかもそれに関し最終的な態度をとろうとするビスマルグの決意の程を示している点が、実は従来

ポスト記事の解釈に当っては全く看過され

て来

た所

であ

る。

ピスマルグがフランスの復讐戦争に対して危

慎の

念をいだき、いわゆる予防戦争を口にしてい

るの

は一八七二年以

来しばしばであり、殊に七三年五月の共和派退却以後のフランスの事態に対し極めて神経質になっていたことについ

ては拙稿「プロイセン文化闘争と予防戦争論

l

一八七三年の場合

l

」(歴史教育一七巻五号〉に詳しく論じた通りで

ある。その際ピスマルグの最も気にしたのはフランスにおける教権主義者と王党派との連携であり、それが填伊等の

カトリッグ諸国と結んでドイツを包囲するカトリック連合を結ぶこと

であ

った。ビスマルグが予防戦争の意図を有し

たか否かについては長い間論一一蹴せられた所であるが、当時の独仏間の軍事力についてエンゲルスは「ドイツの対仏軍

事的優越は圧倒的で特別の戦争準備の必要はなかった。ピスマルグは好戦的ではあるがその関心はむしろ外交面にあ

った」と分析しているし、フランスがドイツに対抗し得るまでには軍事面では少くも十数年の努力が必要であると一般に認められていた。そしてピスマルグ自身ホ1

エン

lエ大使に語

った

所によると近々の戦争を否定しているのである。にも拘らずピスマ

ルグ

がフランスに対し、たえず警戒を怠り得なかったのは復讐心がドイツのカトリック政策

とからみつき複雑な政治問題となっていたからであろう。この複雑に強光線を当てて分解しようとしたのがポスト記

事の一つのねらいなのであろう。ビスマルクが果して予防戦争論者であるかどうかについては疑問がある。一八八八

年二月六日の演説でそルトヶ等参謀本部の主戦派が外交に関与することを拒絶し、予防戦争

に強

く反対

して

いる。また一入七五年八月中旬ウ

ィル

ルム帝に送った書簡では「敵が後日よりよく戦備を整えて戦争を始めるであろう

こと

がありうると云う理由だけで直ちに戦争を行うべきであると予は陛下に奏上しない。人はそれへの神的摂理の辺を決

(18)

して確実に予見することは出来ないc

とも亦有益ではない。」として予防戦争には反対しているが、フランスが常に攻撃されるかも知れないと云う脅威の

下に

あるのだと感じさせる必要があるとも考えていたのである。イギリス外相ダl

ヴィ(

開。

ユえ

u q

可〉も

r

「 ビ

スマルグが戦争を欲していたかどうかは疑わしい。或は戦を欲していると云うことを世界に信じさせようとしただけな

のかも

知れ

ない

と述べているし、 しかしそれと同時に人が敵の攻撃を常に待つであろうとの保証を敵に与えるこ

フランスのドカlズ外相も五月八日「ビスマルグは現実に戦争を欲しているより

も、むしろ我々に戦を欲しているのだと思わせようとしているのだ」と観察していた。「戦争については問題にならない」とのピスマルグの言明はこのような意味を含むのであろうcビスマルグに戦争の決意なくしてしかも敢えて明白な強光線を当てようとしたのは、この戦争の危機によって極端な緊張状態を作り出し、フランスを威嚇してドイツへの屈従を余議なくしようとした意図からであろうし、ケルン新聞もポスト記事も正にその手段であったのだろう。

プロイセン僧職のあつかま

しい

共同声明とは一八七五年春フライブルグで関かれた旧教徒大会においてカトリック

教徒に完全な自由を与えよとの希望を宣言したことを指

し 、

第一五条は一八五

O

年一

月コ

日プ

ロ イ セ ン 憲 法 で 教

団及び教育の自由を特許したこと、第一六条は宗教界の諸職及び諸機関とロlマ教皇庁との交渉の権限を認可したこ

と。第一八条は僧職の任免に関する権限の認可等の内容を指すものである。一八七三年四月五日第一五条を修正して

教団及び教会の教育の自由を取消し、国法及び国家の監督に従うべきこととし、二ハ・

一入

条は

そのままに残された

が、一八七五年六月一日の法令で全部廃止となった。かつてファルグを「法律による制裁にのみ走り、

政 治 的 思 慮

に欠けた人物」、「物事の全体を見渡し得ない狭滑の政治家」とその行過ぎを非難したピスマルクが、今度はフ

ァル

グ政策の緩漫を責め、更に進んで教会断圧の決定的方策を打建てようと決意したのである。これが前述

四月

一一一 日

∞宮

口,

m g

o R

五月

二 二日の

Z

2 2 E m g o

段 、

六月一八日の一五・

一六

一八

条廃

止、六月二

O

日の教会財産法と

して

現わされたのである。

∞ 宮 町 円

m

2 2 N

とは僧職に対し凶家の法令を遵奉

すべ

き義務あることを政府に対して書面を以て

表明

させ

、もしこの誓約に反し、或は怠った者は国家の

定め

る処罰によってその地位、職務を罷免しようとした

もの

で、文化闘争に同調する僧侶の全面的廃除を意図したものである。

同 。 。

ω仲 良 ,

m g Z N

は旧教僧団及び教団の解散を命

じたものであり、

一五

・一

・ 一

入条廃止は旧教僧侶の白山活動の根拠を根絶したものであり、教会財産法は旧教教

一八

七五

年に

おけ

る独

仏危

桜(

小林

一七

(19)

法政史学第二十四号

会財産の同家管理を定めたものである。

とが

わか

る。

これらの断圧法令を七五年危機に照合して見る時、四月二二日の∞官耳目

m g Z N

はケルン紙・ポスト紙の記事の暫時後であり、同

Z 2 2 2 m g Z N

は五月一一日のツア!とゴルチャコフが仏独間の調停のためベルリンを訪問してピスマルグの後退的印象の下に五月危機を終結せしめた暫時後であり、六月一八日、二

O

日の法令は文化闘争の国家管理の下の終結を意味するものであるっかく視る時、一八七五年独仏危機はピスマルクの意識においては文化闘争との関連において考察すべきもののように忠われる。

このような観点から前記四月一一日のピスマルクの一一一一口明を更に吟味する時ボウルハウゼンが「これを聞いた直後ピ

スマルクはポスト記事と教会闘争との平和的成果を確信していたとの印象を強く受けた」と述べている意味もよく判

る。かくて戦争については問題にならないとは、ピスマルグの意図が戦争以外のものにあることを指し、フランス威

嚇の目的もその教権主義者との関係に向けられていたものであろう。∞日出耳目

m 2 2 N

はこれに続いてやがて平和をもた

らすであろう所の最後の打撃として就中この目的に、添うものであったし、次第に煩わしくなりつつある文化闘争を終

結せしめんとする「公爵のJ直接攻撃への復帰」であった。四月一六日、前記憲法条項廃止の審議会でピスマルグは演説して、「教会のすべての本源的権利は撤回されねばならない。:::これが実現するや否や私は穏健な考え方のローマの椅子との平和を確保するように努力したい。私は神の祐けを借りてもこの椅子を見出すつもりである。一時攻撃

的であることを要請されたこの闘争をこの後は防禦的に続行し、学校教育に任ねるようにしたいの」と文化闘争終結の願望を述べているυ

五月法やその他の取締令にふれて処罰せられる僧侶も紗しい数に上ると共に宗教迫害への熱情を湧かせたカトリッ

ク教徒等の反ピスマルグ活動が漸く激化しつつある事態を一方にし、他方においてロlマ教皇を中心とする露仏の連

携により、対露親近外交の失敗を経験したピスマルクに、七五年二月回勅を以て激しく反抗し来った教皇の積極的

反プロイセン活動、仏・填・伊を結ぶカトリック連合への懸念とフランスの軍制改革写の事態に直面したピスマルク

が、ポスト記事の如き逼迫感を持つに至ったのも蓋しやむを得ないだろう。ポスト記事はかくして出現したものであ かくてピスマルグのカトリック政策は峻厳を極め、決定的なものであったこ

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