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市島春城の生家 ︑ 角市市島家の歴史について

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(1)

市島春城の生家角市市島家の歴史について   一九〇二年︵明治三五︶︑東京専門学校が早稲田大学と改称された際に図書館長となった市島春城︵謙吉︑一八六〇│

一九四四︶ついては︑本誌上でその日誌が連載され 1︑それ以外の報告も毎回のように本誌に掲載されている 2︒さらには︑

春城の多くの著作も復刻されており︑そうした研究や資料の多くは︑春城自身の経歴や図書館長としての実績を確認

するものであり︑その成果は︑近代図書館研究︑あるいはひろく日本近代史研究の大きな材料となっている︒そうし

た視点からの研究は今後も継続して行われる必要があろう︒

  ただ︑それら春城の言葉をもとにした研究成果がある一方で︑彼自身に関する研究は︑実はあまり進んでいないの

ではないだろうか︒その理由の一つとしては︑かつて別稿でもふれたが春城自身が自らや生家についてあまり多くを

語っていないことがあげられる 3︒春城は大隈重信や早稲田大学︑さらにその周辺の人物について多くの随筆を残して

いる︒また自身の興味︑研究対象としての近世文人や書画︑博物等に関する文章も多い︒ただ自身や父祖については︑

そうした周辺の人物や興味の対象に比すると︑あまり多くを語っていないことがわかる︒春城については︑春城自身

が自らの生涯を振り返って記した﹁春城八十年の覚書 4﹂があるくらいで︑まとまった伝記が刊行されているわけでは

なく︑周辺の人物や︑日本近代史︑図書館史研究等の中で断片的に触れられる程度であり︑その研究の多くは彼自身

﹃早稲田大学図書館紀要﹄第六十二号︵二〇一五年三月︶

市島春城の生家 角市市島家の歴史について

││

 

翻刻

新潟県立図書館所蔵

吾家之歴史

﹄  

││

藤  原  秀 

(2)

が残した文章によっている 5︒近年ようやく日誌以外の資料の翻刻が進んできたが︑その数も決して多くはなく︑特に

春城の生家について語られることは少ない︒

  春城の生家は越後国︵新潟県︶有数の豪農であった市島家の分家のひとつ角市市島家︵以下︑角市家と称する︶と呼

ばれる家で︑今回紹介するのは新潟県立図書館が所蔵する﹁春城文庫﹂に含まれる角市家の歴史である

︒ ﹁ 春城文庫﹂

は︑同じく新潟の県立文書館が所蔵する﹁市島家文書

﹂ ︑

早稲田大学図書館所蔵の﹁市嶋家文書

﹂ ︑ ﹁

市島春城資料﹂

とともに︑市島家︑市島春城研究にとって重要な資料である︒本稿は︑県立図書館の﹁春城文庫﹂の一点である﹃吾

家之歴史﹄︵以下︑本資料と称する︶について︑その全文を︑今後の研究の材料として紹介するものである︒

  資料の紹介に入る前に︑まず市島家とその分家である角市家について︑既存の研究成果を踏まえて簡単に見てゆく

こととしよう︒

市島家について

  越後国には︑江戸時代から敗戦後の農地改革にいたるまで︑いわゆる﹁千町歩地主﹂と呼ばれる巨大地主が複数存 在したことが知られている 6︒市島家はその中でも一︑二をあらそう規模であり︑その成立や土地集積の過程について の研究もある程度進んでいる 7︒   市島家 8の発祥は丹波国氷上郡市島村︵兵庫県丹波市︶にあるとされている︒一五七九年︵天正七︶に若狭国高浜城主

の溝口家の家臣となり︑溝口家が一五八四年︵天正十二︶に加賀国大聖寺︵石川県加賀市︶︑さらには一五九八年︵慶長三︶

に越後国新発田︵新潟県新発田市︶の地に移った時にもそれに従った︒その後帰農し︑水原︵新潟県阿賀野市︶の地で農

業だけでなく︑売薬業等を営んだとされる︒なお︑水原の地について春城は﹁此郷は徳川時代天領であつて︑地区は

(3)

市島春城の生家角市市島家の歴史について 狭いが富豪の淵叢であつた︒︵中略︶越後には由来富豪が多いが︑此地は別して多﹂かった︑と述べている 9︒   三代喜右衛門︵南山︑一七一三│一七七七︶の頃から手賀沼や福島潟の開発に私財を投じるとともに︑多くの土地を

集積するようになっていった︒そして︑その子の代になると長男の徳次郎︵一七三四│一八〇四︶を宗家とし︑兄弟の

うち六人が周縁の地に﹁角市

﹂ ﹁

丸市

﹂ ﹁ 入市

﹂ ﹁ 葛塚市島

﹂ ﹁ 金市

﹂ ﹁

山市﹂の分家をたて︑こののち宗家と六つの分

家からなる市島一族による大土地所有と地域開発の時代が始まることとなった︒さらに丸市家から﹁諏訪前分家﹂が

分家する等︑一族は一層の広がりを見せるが︑詳細は既存の研究に譲り︑ここでは角市家について︑春城自身の言葉

等をよりどころとして確認してみたい︒

角市市島家について

  前述のとおり市島家三代喜右衛門︵南山︶の長男︑四代徳次郎の弟たちからは六家の分家がたてられたが︑そのうち︑ 南山の三男である次郎吉の家が角市家である A︒角市家は初代の次郎吉︵淳︑字・武啓︑一七四〇│一七八七︶の跡を弟の

次郎九郎が継承し︑二代次郎吉を称した︵粛文︑字・敬季︑号・岱海︑一七五九│一八一三︶︒彼は家業を支えるだけでな

く︑市島家の中でも﹁文学は岱海を推﹂す B︑あるいは﹁岱海は要するに水原儒林空前の明星 C﹂といわれるほどに文筆 活動に力をいれていたようで︑その成果は﹃岱海堂文集﹄として今日に伝えられている D︒岱海には継嗣がなく︑同じ

分家の山市家初代長次郎の子︑彦太郎を養子に迎えた︒三代次郎吉︵正光︑号・三余︑一七九二│一八五四︶である︒角

市家は彼の時代に最盛期を迎えるが︑本資料は後述するように市島三余の一代記でもある︒

  それではいよいよここからは︑その概要について確認してみよう︒

(4)

本資料の概要   本資料は︑角市家四代熊太郎︵正俊︑号・静修︑一八二二│一八四五︶と︑彼の没後は弟である国太郎︵正路︑一八二九

│?︶が記したもので︑一八一三年︵文化一〇︶から一八四九年︵嘉永二︶までの角市家に関する出来事を年代順に記

述してある︒この時期は︑角市家の歴史の中では三余の時代と重なる︒前述のように三余は︑市島長次郎の子として

生まれ︑角市家の養子となった︒その後︑本資料の最初の著者である熊太郎をもうけるが︑三余の存命中の一八四五

年︵弘化二︶に没してしまったため︑一八五四年︵嘉永七︶に六三歳で没するまで角市家を支えることとなった︒本資

料は︑

正光君御事者︑奉謚  了宣 ︵空︶君市島長次郎様之御次男︑岱海堂君不被入御子以て御養子たり︑

という言葉から始まっていることからも︑三余の存在を強く意識して記されたものと思われ︑角市家の記録であると

同時に市島三余の一代記としての性格も併せ持っているといえよう︒また︑ここに三余の実父である山市・市島長次

郎について謚号とともに記されていることから︑少なくともある部分までは長次郎の没後︵文政七年七月十一日︑本資

料7丁裏︒以下︑本資料については丁数と表裏のみ記す︶にまとめて記されたものと考えられる︒

  市島三余といえば﹁貨殖は三余を推す E﹂といわれるように︑角市家が︑もっとも栄えた時代を作り上げた人物とし

て知られている︒春城は三余時代の市島家について以下のように述べている︒

(5)

市島春城の生家角市市島家の歴史について 私の家の曽祖父時代︑乃ち嘉永頃に回漕業を営んだことがある︒案外大規模にやつたらしいが︑関係書類が何故

か家に一紙も存してゐない︒ただ︑当時を語る記念物としては︑新潟の白山神社に献じた絵馬額のみである︒︵中

略︶千石船四十艘の多きに及び︑各船は種種の物貨を積んで諸方に回漕し︑帰着の時は千両箱一個を齎し来るの

を通則としたと云ふのである︒四十艘全部が千両を齎したかどうかは疑はしいが︑仮にすべてが通則通りであつ

たとすると︑一年四万両の金を得たことになる F︒

実際にどの程度の利益があったのか︑本資料が一八四九年︵嘉永二︶で断絶しているため︑その詳細を知りえないこ

とが惜しまれる︒本資料は角市家の歴史のうち︑比較的大きな経済活動︑すなわち金銭や米穀の支出︑収入に関する

内容が中心となっており︑廻船業についても﹁越後国御年貢江戸大坂御廻船差配方﹂︵天保十三年十二月︑

42丁裏︶を申

付けられていることから︑もしさらに続けて書かれていれば︑おそらくは廻船業による収支の概要も記されていたの

ではないだろうか︒

  いずれにしても本資料は︑角市家の繁栄を築き上げた三余の功績を記録することを目的として︑息子の熊太郎が執

筆したものと言えそうである︒残念ながら︑熊太郎はその志半ばで早世してしまい︑執筆は弟の国太郎に託されるこ

ととなったが︑その記述も三余最晩年までは至らず︑福島潟庄屋役の任を離れる記事で終わっている︒

  それでは︑本資料にはどのようなことが記されているのか︑特に公的な部分での支出に注目していくつか見てゆく

ことにしよう︒

(6)

本資料に見られる角市家の経済活動   冒頭から﹁孝子御手当金﹂として金四両一分米八俵を上納しているが︑こうした上納金︑さらには貧者への施し等

も目につくところである︒

  具体的に孝行人や長寿の者等に対する手当金として記録されているのは︑全体を通じて十回︑総計十二両一分を支

出している︒また︑火災︑地震の被災者に対しても米・銭を提供しており︑その額は火災四件について金五八両︑銭

二四九貫︑米二一一俵︑一八二八年︵文政十一︶と一八四七年︵弘化四︶の地震の際に総額金三八七両一分一朱︑江戸

城西ノ丸火災に五百両︵天保九年三月︑

32丁表︶︑本丸火災に三百両を上納している︵天保十五年六月︑

47丁表︶︒また︑

それ以外には毎年のように貧窮者の対策費を支出しており︑総額金三五三両︑銭一〇四三貫六三〇文︑米六八石三斗

余に上っている︒

  こうした支出以外で注目されるのが︑貨幣改鋳にともなう金銀の引替に関するものである︒幕府による貨幣改鋳は︑ 改鋳にともない品質を落とすなどして生じる差益︵出目︶を目的として︑江戸時代を通じて数次にわたっておこなわ れた G︒文政金銀の改鋳の差益は︑一八一八年︵文政元︶から一八二六年︵文政九︶までで金一八四万両余︑一八二〇年

︵文政三︶から一八三五年︵天保六︶までで銀三八三万両余だったという︒改鋳にあたっては︑当然既存の貨幣と新貨

幣を交換︵両替︶する必要があり︑両替商だけでなく︑各地の富裕層が換金作業をおこなうこととなった︒市島家に

よる古金銀の引替については︑前掲の﹁市島家文書﹂のうちのいくつかが紹介されているが H︑全容は明らかになって

いない︒本資料には︑個別の両替に関する事例はあまり見られないが︑かわりに年間の総額が示されており︑角市家

による古金銀引替の規模がわかる︒本資料に挙げられている各年の古金銀引替高を示すと以下のとおりである︒

(7)

市島春城の生家角市市島家の歴史について    文政七年︵八月以降︶   一〇五〇両︑   文政八年      二六二五両︑    文政九年         五一五〇両︑   文政一〇年     五六六〇両︑    文政十一年        三八三〇両︑   文政十二年     二〇〇〇両︑    天保元年         一二〇〇両︑   天保二年      一〇六六両︑    天保三年          八一〇両︑   天保四年      二〇〇〇両︑    天保五年          七〇〇両︑   天保六年      一七〇〇両︑     合 計       二七七九一両   実に三万両近くが︑角市家を通じて交換されたのである︒   このほかにも︑非常時の備えである﹁囲佅﹂も数次にわたり︑総高三二〇〇俵に及んでいる︵天保十四年二月二十日

条頭注︑

44丁表︶︒さらには金毘羅宮造営のために五〇両︵文政五年条︑3丁裏︶︑新道普請に三百両︵天保五年条︑

21丁表︶

など︑公的な活動に多額の私財を投じていたことがわかる︒

  以上︑本資料からうかがえる角市家の活動について見てきた︒ただこれは︑角市家︑さらには越後の豪農市島家に

よるさまざまな活動の︑ほんの一端に触れたにすぎない︒今後︑新潟県立図書館︑文書館︑早稲田大学図書館︑さら

には市島宗家の邸宅であった新発田市市島邸所蔵の資料なども含めて調査を進めることで︑市島家︑市島春城につい

て︑より深い研究成果を得られるに違いない︒各種資料の一層の活用と連携を期待したい︒

(8)

注︵1︶  春城日誌研究会﹁春城日誌﹂一〜二七

︑ ︵﹃

早稲田大学図書館紀要﹄二六〜五七

︶ ︒

なお︑本号から翻刻が再開されると聞いた︒

喜ばしいかぎりである︒

︵2︶  春城日誌研究会﹁市島謙吉︵春城︶年譜︵稿

︶ ﹂︵ ﹃

早稲田大学図書館紀要﹄五七

︶ ︑

金子宏二

﹁ ﹃

憶起録﹄解題・翻刻

﹂ ︑

同﹁ ﹃

頭日誌﹄解題・影印・翻刻

﹂ ︑

﹁ ﹃

慟哭録﹄解題・翻刻

﹂ ︵﹃

早稲田大学図書館紀要﹄五八〜六〇

︶ ︒

拙稿﹁春城市島謙吉先生と

早稲田大学図書館

﹂ ︵﹃

早稲田大学図書館紀要﹄五七

︶ ︑

同﹁早稲田大学草創期における校友会の一事情

﹂ ︵﹃

早稲田大学図書館紀

要﹄六一

︶ ︒

︵3︶  拙稿﹁解説と解題

﹂ ︵﹃

市島春城随筆集﹄一一︑クレス出版︑一九九六年

︶ ︒

︵4︶  原本は早稲田大学図書館蔵︒一九六〇年に翻刻が刊行されている︒早稲田大学図書館編刊﹃春城八十年の覚書  附・平民論

﹄ ︒

︵5︶  本誌掲載以外の春城研究としては︑前述の随筆集のほか︑金子宏二﹁春城・市島謙吉  その生涯と大隈重信

﹂ ︵ ﹃

早稲田フォー

ラム﹄五七・五八︑一九八九年︶がよくまとまっている︒また︑古書に関する随筆をまとめた﹃市島春城古書談叢

﹄ ︵

青裳堂書

店︑一九七八年

︶ ︑

人物関係の随筆をまとめた﹃春城師友録

﹄ ︵

国書刊行会︑二〇〇六年︶等がある︒

︵6︶  戦後の農地改革の内容を記録した﹃農地改革顚末概要

﹄ ︵

農政調査会農地改革記録委員会編︑農政タイムズ︑一九五一年︶に

よれば︑大地主として﹁五十町歩以上の耕地所有﹂との目安を示しており︵同書八〇一頁

︶ ︑

その数は一八九九年︵明治三二︶

段階で全国で七九六名︵北海道を除く

︶ ︑

うち新潟県が二六一名にのぼっている︒また︑それをはるかにしのぐ千町歩地主につ

いては︑北海道以外では全国で九名︑そのうち五名が新潟県に集中していた︵後掲注︵7︶中山書参照

︶ ︒

︵7︶  新潟県における土地集積の歴史については︑中山清﹃千町歩地主の研究

﹄ ﹇

﹈ ︑

続︑三︑四︵京都女子大学︑一九八五〜二

〇〇三年

︶ ︑

農政調査会編刊﹃千町歩地主市島家の構造

﹄ ︵

一九六一年

︶ ︑

古島敏雄︑守田志郎﹃千町歩地主の成立と展開

﹄ ︵

林省農業総合研究所︑一九五七年

︶ ︑﹃

新潟県大地主名簿

﹄ ︵

農政調査会︑一九六八年︶等参照︒

︵8︶  市島家については︑前述の春城に関するもののほかに︑小林弌編﹃市島家文書

﹄ ︵

農政調査会︑一九六〇年

︶ ︑

市島成一編﹃家

廟之紙碑

﹄ ︵

増補版︑継志会︑一九六五年

︶ ︑﹁

市嶋家文書目録

﹂ ︵

早稲田大学図書館編刊﹃早稲田大学図書館文書目録﹄四︑一

九九〇年︶等参照︒なお︑市島の表記については︑記録や文献により︑市島︑市嶋双方が使われており︑必ずしも一定ではない︒

(9)

市島春城の生家角市市島家の歴史について 本稿では解題中の人名等については﹁市島﹂に標記を統一したが︑翻刻においては原本のままとした︒

︵9︶  市島春城﹁郷土自慢

﹂ ︵﹃

鯨肝録﹄二二六頁︑東宛書房︑一九三六年

︶ ︒

10  ︶徳次郎のすぐ下の弟︑松次郎は二代喜右衛門︵南山の祖父︶の弟である市島六之丞の家を継いだため六分家のうちには入ら

ない︒前掲注︵8

︶ ﹃

家廟之紙碑﹄参照︒

11  ︶坂口仁一郎﹃北越詩話﹄上︵目黒甚七︑一九一八年︶七五二頁︒

12  ︶小林存﹃水原郷土史

﹄ ︵

水原町︑一九五七年︶二六八頁︒

13  ︶初︑二編各一〇巻︑一八〇一年︵享和元

︶ ︑

一八〇八年︵文化五︶刊︒また︑本資料の文化十一年三月十三日条に︑岱海が遺

した﹁西河合集仲氏易﹂の刊行を願う記事があるが︑この草稿については新潟県立図書館﹁春城文庫﹂の﹃擡言西河仲氏易草稿﹄

︵春城  一︶がそれにあたるものと思われる︒このときは公刊されることはなかったが︑その原稿は佐久間象山︑秋月種樹の跋

文︵いずれも新潟県立図書館﹁春城文庫﹂にあり︶をえて︑市島家の人々によって今日まで大切に保存されてきたのである︒

14  ︶前掲注︵

11︶書︑七五二頁︒

15  ︶市島春城﹁吾家の回漕業

﹂ ︵﹃

擁炉漫筆﹄二六七頁︑書物展望社︑一九三六年

︶ ︒

16  ︶田谷博吉﹁貨幣改鋳

﹂ ︑

滝沢武雄﹁文政金銀

﹂ ︑

同﹁天保金銀

﹂ ︵

いずれも﹃国史大辞典

﹄ ︵ JapanKnowledge版︑吉川弘文館︶

参照︒

17  ︶前掲注︵8

︶ ﹃

市島家文書﹄参照︒

︿付記﹀  本稿作成にあたり︑翻刻をご許可くださった新潟県立図書館に衷心より謝意を申し上げたい︒図書館并びに県立文書館の

皆様には大量の資料閲覧にお付き合いいただき︑特に上村陽子氏︑本井晴信氏からは﹁春城文庫

﹂ ︑﹁

市島家文書﹂等につい

ての貴重なお話をうかがうことができたこと︑重ねて御礼申し上げる︒また︑吉田ゆき氏には︑ご家蔵の吉田東伍と市島春

城に関する貴重な資料を閲覧させていただけたこと︑御礼申し上げる︒

 ︵ふじわら  ひでゆき  戸山図書館担当課長︶

(10)

翻刻﹃吾家之歴史﹄

〇書誌事項

︿標 題﹀吾家之歴史  吾家の大事紀︵題簽による︶

︿所蔵者﹀新潟県立図書館︵春城文庫︶

︿請求記号﹀春城  九

︿著 者﹀市島熊太郎︵正俊︑号・静修

︶ ︑ 市島国太郎︵正路

︶ ︒         天保十五年︵弘化元年への改元前︶までは熊太郎の筆によるもののようだが︑それ以後︑

48丁裏の冒頭に

﹁家兄熊太郎正俊卒去︑而後記是冊者無之︑五男国太郎正路次而執筆﹂とあることから︑この部分から国

太郎の手になると思われる︒

︿外 題﹀吾家之歴史  吾家の大事紀

︿表 紙﹀渋格子刷毛目厚紙表紙

︿題 簽﹀白地裂地︵一九・一×四・

一㎝

︶ ︒ 外題を墨書︒

︿大きさ﹀二六・七×一八・

七㎝

︿料 紙﹀  楮紙︒半面二〇・六×一五・六㎝の匡郭が墨色で刷られている︒縦の罫線はないが︑上から四・

六㎝

の 部

分に横線が引かれている︒

︿装訂・状 態﹀袋綴一冊︒細めの白糸一本を用いた四ツ目綴で︑紫の角裂が付いている︒全体の構成は次の通り︒表

紙︑遊紙︵白紙一丁

︶ ︑ 本文料紙︵無記入四丁

︶ ︑

墨付料紙︵五六丁

︶ ︑ 本文料紙︵無記入二七丁

︶ ︑

後表紙︑

(11)

市島春城の生家角市市島家の歴史について 総数は表紙共九〇丁︒本文は墨書︵一部に朱書

︶ ︑

丁付はないが︑柱の一部に干支︑年号︑内容に関する

略記がある︒表紙見返の紙から五丁ほど︑上部に虫損があるが︑表紙には及んでいないことから表紙︵後

表紙︶は後補の可能性がある︒また︑墨付料紙最終丁の袋の間に縦罫︵十三線︶を刷った紙が挿入されて

いるが︑おそらくは無罫の料紙に記す際の﹁下敷き﹂としたものと思われる︒

︿印 記﹀  ﹁市島文庫

﹂ ︵

朱長方印︑遊紙表右下

176973︶ ︒ また墨付料紙一丁表の右上枠外に﹁﹂の青印︵スタンプ︶と︑

巻末︵無記入本文料紙の末尾︶の左上枠外に﹁閲覧室﹂の朱印︵スタンプ︶がある︒

︿来 歴﹀  角市家に伝来した資料は︑一九五三年︵昭和二八︶一月︑当時の当主である市島光子氏より新潟県立図書

館に託されたが︑春城の日誌をはじめとした多くの部分が一九六三年︵昭和三八︶に早稲田大学図書館に

移された︒現在

︑ ﹁ 市島春城資料

﹂ ︵ 請求記号・イ四  一九一九︑貴重書︶として登録され︑そのほとんど

について古典籍総合データベースを通じて全文の精細画像を見ることができる︵http://www.wul.waseda.

ac.jp/kotenseki/index.html

︶ ︒

県立図書館から早稲田大学図書館への移譲の経緯については︑新潟日報編

刊﹃坂口献吉追悼録

﹄ ︵

一九六六年

︶ ︑

春城日誌研究会

﹁ ﹃ 春城日誌﹄余滴

﹂ ︵ ﹃

早稲田大学図書館紀要﹄三六

︶ ︑

および新潟県立図書館郷土文庫データベース収載の解説︵http://www.pref-lib.niigata.niigata. jp/Collection/

MokurokuBunko1 ︶等参照︒なお︑市島家に関する記録や書画︑春城が蒐集した印章や一部の書簡類︑総

数約一〇〇点︵印章については一括で一点扱い︶が県立図書館に残され

︑ ﹁

春城文庫﹂として公開されて

おり︑前述の郷土文庫データベースを通じて︑資料の目録と一部の精細画像︵本資料は含まれていない︶

を見ることができる︒

(12)

〇凡  例

・  文中の旧字︵異体字含む︶は新字に統一した︒変体仮名は原則としてひらがなに置き換えたが

︑ ﹁

者﹂ ﹁

﹂ ﹁ 江

﹂ ﹁

ニ﹂

︵ ﹁ 江

﹂ ﹁ ニ﹂は半角表示︶はそのままとした︒

・文中︑あきらかな誤字︑当て字には初出の部分に傍注を加え︑一部に読点を補った︒

・ 各半丁の区切りはカギ括弧︵ ﹂ ︶でくぎり︑次丁の字句をその後に追い込みで表記した︒また︑表裏を︵オ

︶ ︵

ウ︶

で示すこととし︑墨付料紙の冒頭を一丁表=︵1オ︶とした︒ただし柱に字句がある場合には︑丁の区切りが文章

の途中であってもそこで改行し︑柱の位置を明示するようにした︒

・  本文はほとんどすべて墨書であるが︑一部に朱書がある︒それらについては﹁  ﹂で括り︑冒頭に︵朱書︶と注記

した︒

・本文は三つの部分から構成されており︑それぞれ以下のように翻刻した︒

  ① 本文=朱丸印を行頭に付し︑やや大きめの文字で記してある︒一部行頭に丸印がない場合もあるが︑翻刻にあたっ

ては現物のままとした︒

  ② 注記=本文の後で改行し︑何文字か下げた位置からやや小さい文字で︑本文の詳細や︑関連文書の写を記してあ

る︒翻刻でも同様の体裁とした︒

  ③ 頭注=本文に関連する記事を上部横線上欄に細字で記している︒翻刻でもそのイメージのままとした︒

この三つに加えて︑柱部分に干支︑年号︑内容の略記があるが︑それらについては該当する位置にゴシック体で示

してある︒

(13)

市島春城の生家角市市島家の歴史について 〇翻  刻

︵表紙︶

     ︿題 簽﹀

﹁吾家之歴史  吾家の大事紀﹂

(14)

︵印記・遊紙表右下︶          ﹁市島文庫

﹂ ︵

朱長方印︶

  以下四丁白紙

︵本文︶

     文化十癸酉年   正光君御事者︑奉謚  了宣 ︵空︶君市島長次郎様之御次男︑岱海堂君不被入御子以て御養子たり︑

御代官平岡彦兵衛様 〇五月十一日︑御役所孝子御手当金四両壱分米八俵上納︑      米弐俵金三百疋  越後国岩船郡平林村百姓源之助娘つや      金五百疋  岩船郡畑村百姓清八郎同人倅清之丞      米弐俵金弐百疋  蒲原郡飯柳新田百姓万五郎      米弐俵金三百疋  蒲原郡田上村百姓伝十郎娘  さの      米弐俵金三百疋  蒲原郡上山屋村百姓六右衛 ︵1オ︶門﹂

︿        文化十 酉戌

(15)

市島春城の生家角市市島家の歴史について    当年召仕利助家作いたし候付︑金五拾両合力申付候︑      文化十一年甲戌年

 〇三月十三日︑厳君御出府有之︑四月中旬頃御帰国相成︑        先君岱海堂様御在命中︑西河合集中 ︵仲︶氏易被 成下候様内分御代官平岡様御願立有之付︑右一件被仰

付候様︑御出府有之候得共︑不仰付御帰宅有之候︑

  

〇五月三日

双善寺出火

前長屋類焼いたし候

付︑長屋壱軒銭壱貫文ツヽ︑双善寺米壱俵︑

(16)

〆米壱俵銭九貫文︑   〇米価高直付︑金三拾五両安米売損︑日数二十五日之間売出し有之︑

日数凡九十日之間  〇銭三拾四貫八百弐拾壱文︑中島村長屋之もの共安米相願候︵1ウ︶

︑ ﹂ 米壱升銭拾七文安見積間︑

如斯出銭有之︑

 〇五月十三日朝五ッ時︑おきそ様御出生有之︑      文化十二乙亥年

  〇八月廿六日︑御役所孝子手当金三百疋米弐俵上納︑      蒲原郡中新田百姓太郎兵衛娘そよ被下分︑   〇十月廿日︑長男来七様御出生有之︑      文化十三年丙子年

 〇十月廿日︑おもみ様御出生有之 ︵2オ︶

︑ ﹂

︿        亥子寅卯

     文化十四丁丑年  〇六月十五日︑御嫡子来七様没給ふ︑謚了見君︑      寿三才

(17)

市島春城の生家角市市島家の歴史について      文政元戊寅年  〇十月廿日︑おのをさま御出生有之︑      文政二己卯年

     文政三庚辰年

御代官三河只蔵様  〇十二月︑弐両弐分︑孝行人御手当金御役所上納 ︵2ウ︶

︑ ﹂       蒲原郡水原村西組勘六  弐百疋︑  同郡下条邨元秀  弐百疋︑  岩船郡佐々木村三吉  弐

百疋︑  蒲原郡高橋新田百姓留吉  弐百疋︑  同郡住吉新田甚蔵  弐百疋︑  四月︑金壱両弐分︑孝行人手当金御役所上納︑        蒲原郡沖山新村百姓佐次郎  金弐百疋︑  同郡菅谷村百姓勘助倅三次郎事勘助  金弐百

疋︑  岩船郡高田村百姓平五郎  金弐百疋︑   〇六月九日︑おくに様御出生有之︑      文政四辛巳 ︵3オ︶年﹂

︿        文政辰巳午

  〇当春ゟ金五拾両宛棚卸之節要害金相除候事相始め申候︑

(18)

 〇金弐分︑孝行人手当金御役所上納︑四月廿四日︑

     岩 ︵船脱カ︶郡百姓宇之助被下分︑

     文政五壬午年  〇閏正月朔日︑熊太郎出生︑   〇金毘羅大権現之宮御建立有之︑      今下条村天満宮之際有宮則是なり︑金五拾両余相懸る︑   〇金弐両︑孝子長寿御手当御役所上納︑      四月  金弐百疋  岩船郡金屋村下三ヶ村氏神神主出雲正母ま ︵3ウ︶い﹂      五月  金弐百疋  蒲原郡下奥野新田百姓太郎右衛門      十二月  金弐百疋  同郡同  百姓六右衛門      十二月  金弐百疋  同郡同  百姓彦右衛門母りん      文政六癸未年

 ㊀ ︵ママ︶十二月︑米価高直て当難凌兼候もの四拾人余手当金五両︑      文政七甲申年

  〇八月中︑御吹直金銀引替御用被仰付︑当年引替上納高千五拾両也 ︵4オ︶

︑ ﹂

(19)

市島春城の生家角市市島家の歴史について ︿        未申

     引替方付品々願書等有之候得共略之︑請書左之通︑          差上申御請書之事        一︑御吹直金銀引替方之儀者︑銘々宅而引替之儀者勿論︑越後国之内先々へも私共其外重立候手

代共をも相廻︑出精引替候様可仕︑尤引替先往返し︑度々道中筋金銀運送方不取締無之様取計︑万

一悲 ︵非︶常等而金銀不足いたし候節者︑其旨銘々弁納可致旨被仰渡候︑       一︑

私共引替御用

付而之諸入用不被下︑銘々自分入用を以諸払之積申上候処︑是迄引替御用相勤

候者限引替之方者貫目重品故︑取扱方付諸雑費も多可相懸訳を以︑引替銀出高百目付為諸入 用銀三分ツ ︵4ウ︶ヽ﹂被下候間︑私共も同様引替銀之方而者出高百匁付三分ツヽ割合ヲ以︑諸入用可

被下置旨被仰渡候︑

      一︑私共御用中為取締銘々宅御用高張り挑 ︵提︶灯并引替先往返之節︑御用絵符御用挑灯共御免被仰付

候間︑相用可申旨被仰渡候︑

      一︑越後国者私共此度御吹直金銀引替御用被仰付候付︑勝手次第相対致引替候様      御勘定所御触出し御差出被遊候旨被仰渡候︑       一︑

引替方

付︑先々ゟ差出金之内軽目金之儀︑小判者壱両︑目方三匁五分之内四厘迄之軽目者其

侭引替︑四厘以上之軽目者金目代取立候儀付︑縦合 ︵令︶者小判壱両付軽目 ︵5オ︶五﹂厘候ハヽ︑右之内四

厘之分者不差構︑残壱厘之分足金目代為差越︑其余之軽目も右準シ候積り︑尤右足金代之儀者︑目

方壱両付拾八匁八分替之積り割合を以代金取立候積り︑其余鍛金等之目方三匁五分ツヽ有之分ハ

(20)

其侭引替︑是又軽目分者前同様之割合を以取立候積り︑且又壱歩判之儀も小判同様之割合を以軽目

之分ハ足金目代取立候積り︑可相心得旨被仰渡候︑

      一︑文 金以前古金引替度旨申出候節者︑古金値付不案内て難見定候間︑私共ゟ替金相渡置古金請

取御役所差出︑其侭相定候上︑増歩并諸入用共御渡し可被下旨被仰渡候 ︵5ウ︶

︑ ﹂       一︑金銀引替方之儀︑先ツ銘々宅而引替︑尤宅計而者捗取申間敷候付︑先々私共并重立候手

代共差出最寄市場其外出張︑がさつヶ間敷儀無之様取計︑且又在々金持も得と及懸合目得為致 引替之儀可然︑勿論銘々手代之外︑親類たり共名代差出引替させ候儀者不相成候付︑其心得を以 引替方捗取候様可仕︑且引替先金銀持運方之儀者︑朝六ッ半時ゟ夕七ッ半時迄︑其外風烈強雨等

之節者見合︑都而取締方入念才料人足等迄も相撰︑手堅取計可申旨被仰渡候︑

      一︑

引替口古金之内悪金銀之儀

其時々引請人共損金

相成候而者難儀付︑金者百両銀何百目 同 ︵6オ︶封﹂私共名前印形致置︑若有之内悪金銀有之節者︑座方而改候節︑たかねを入︑封之紙と相添

御返し被成︑右たかね入之分者御買上ヶ直段ヲ以︑夫々座方相納︑右御買上ヶ直段不足相立候儀者︑

損失之積り取計候様可仕旨被仰渡候︑

      一︑私共隣国︑出羽︑奥州辺迄も相廻り引替度所存候ハヽ︑当其段可申上旨被仰渡候︑       一︑私共引替先在々金銀附送り候節者︑当御役所ゟ先触御差出被下︑泊宿村而者御金箱相封し候

侭役人相預ヶ︑預り一札取之︑翌朝右預証文と金子引替請取候様仕旨被仰渡候 ︵6ウ︶

︑ ﹂       一︑私共儀︑右引替御用被  仰付上者︑諸事入念大切相勤︑権感かさつヶ間敷儀無之様仕︑万事

被仰渡之趣︑銘々手代共も急度申聞可置旨被仰渡候︑

(21)

市島春城の生家角市市島家の歴史について       一︑私共儀万一御引替金銀引負等仕候ハヽ︑証拠地所御取上ヶ御払被仰付候ても︑御願ヶ間敷儀申

間敷旨被仰渡候︑

     右被仰渡候趣一同承知奉畏候︑仍御請印形差上申候処如件︑          当御支配所          文政七申年八月十二日       市

嶋亀次郎

         真嶋権兵衛          近藤甚助          市嶋次郎吉       大貫次右衛門様       白瀬長兵衛          御役所        佐藤伊左衛門          道右衛 ︵7オ︶門﹂  ○三月廿三日︑おやいさ

生︑七月十九日死去︑謚妙輪︑

  ○七月十一日︑市

隠君没給ふ︑謚了宣 ︵空︶君︑寿六十九︑  ○八月中︑堰場環流庵普請入用金百両余︑    ○日光御社参付御賄料四拾両余︑御役所上納いたし候処︑御社参御延引相成︑不残御返し

有之︑

     文政八乙酉年

(22)

 ○三月七日︑金弐百疋御役所上納︑孝子手当金 ︵7ウ︶

︑ ﹂      蒲原郡嶋田村庄屋長右衛門役儀出精付︑  ○五月廿五日︑冨 ︵熊太郎弟山市三代長次郎︶次郎殿生︑   ○芝田追手先質店て冨次郎殿名前ヲ以質取始め︑   ○十二月︑米価高直付︑下条村安米売出し︑金四拾両余間損差出し申候︑外金四両水原町

方割合上損ス︑   ○溝口備後守様御知行所大野町焼失付︑家数弐百軒余之内極困窮之もの共百三十軒︑壱軒

銭壱貫文ツヽ︑都合銭百三拾貫文手宛差出し申候︑

 ○当年新金引替高凡弐千六百弐十五両︑      文政九丙戌 ︵8オ︶年﹂

︿        酉戌

 〇二月十日︑御役所ゟ銀弐枚御褒美頂戴︑      申渡             越後国蒲原郡下条村      百姓      一︑銀弐枚       市島次郎吉      右者在方吹直金銀引替之儀骨折候付被下候旨︑水 出羽守殿被仰渡候間申渡ス︑      右之通遠山左衛門尉殿被仰渡候間︑可得其意候︑以上︑

(23)

市島春城の生家角市市島家の歴史について          戌二月十日    大貫次右衛門   〇二月十九日︑おちつさま熊蔵殿聟取迎︑婚儀目出度相済申候︑      熊蔵殿事者中之島惣右衛門殿次男 ︵8ウ︶

︑ ﹂   〇三月七日︑御役所金弐分忠臣御手当金上納︑      水原村市嶋徳次郎召仕孫四郎︑   〇四月朔日︑初蔵殿生︑  妾腹  〇中新田村外十弐ヶ村御廻米百石余かし付︑当難相凌せ申候︑   〇貝屋村外弐ヶ村御廻米百四拾石余︑三分壱直段ヲ以引請納方いたし︑当難為相凌候︑  〇六月二日︑おりうさ出生︑    〇八月十八日︑出雲崎御支配所新津町并新発田御領古田新田出火︑類焼之もの弐百拾軒︑壱軒

付米壱俵ツヽ手当︑凡米弐百拾俵︑

  〇九月︑巌君出府有之︑右者志願筋付︑御出府 ︵9オ︶

︑ ﹂  ○十一月︑新発田御役場ゟ金三百疋被相増候︑      書状相添申越候申渡書者︑          水原町      一︑金三百疋       市嶋次郎吉        先般御料新津町出火類焼︑小前難渋者手当米被致候由︑其節当領古田新田類焼︑小前難渋之もの

も手当米被致候由︑村役人共ゟ申出候︑右者奇特之事被存候︑依之乍些少被相増候︑

(24)

         戌十一月   ○当年︑古新金銀引替金高凡金五千百五拾両余︑      文政十丁亥 ︵9ウ︶年﹂

 ○正月︑銀弐枚御役所ゟ御褒美頂戴︑      申渡       一︑銀弐枚      右者御吹直金在方引替骨折相勤候付︑為御褒美被下候段︑水 出羽守殿被仰渡候︑      右之通遠山左衛門尉殿被仰渡候間︑可得其意候︑以上︑          亥正月         大貫次左 ︵右︶衛門          役所  ○四月六日︑従 御公儀様其身一代帯刀御免被仰付候︑      申渡             越後国蒲原郡下条村      百姓         市嶋次郎 オ︶10

吉﹂

︿其身一代帯刀御免        

       其方儀︑父之志を継︑貞実而村々貧民等を労り︑年来米銭衣類等ヲ与へ︑其外近郷御料私領共火

災有之村々者米銭等差遣し︑当難を為相凌︑利欲を離れ都而村為相成候儀心懸︑年来奇特之取計

(25)

市島春城の生家角市市島家の歴史について 共いたし候付︑為御褒美其身一代帯刀御免被仰渡之︑      右者水出羽守様被仰渡候旨︑村垣淡路守殿被仰渡候間︑可得其意候︑以上︑          文政十年亥四月六日    大貫次右衛門  御印   ○当年引替高金五千六百六拾両︑  ○五月二日︑おかねさ出生 ウ︶10

︑ ﹂

  ○十二月︑長岡城主牧野備前守様ゟ御扶持方弐人扶持被相贈候︑      御入用金御領分曽根組拾弐ヶ村金子取替候付挨拶︑      文政十一戊子年

  ○正月七日︑御役所孝行人御手当米弐俵上納︑      蒲原郡中新田村百姓丹蔵母せん   ○二月廿一日︑御役所ゟ銀弐枚頂戴︑      申渡       銀弐枚         市島次郎吉      右者御吹直金在方引替骨折相勤候付︑為御褒 オ︶11

美﹂

︿        

     被下候之段︑水 出羽守殿被仰渡候︑      右之通村垣淡路守殿被仰渡候間︑可得其意候︑以上︑

(26)

         子二月廿一日       大貫次右衛門        役所   ○二月朔日︑おきうさ出生︑妾腹︑初蔵殿之妹   ○当年者米価高直小前難渋凌兼候付︑下条村者勿論水原︑中嶋︑外城︑山口村共手当金并安

米売損其外共︑凡金高百拾両余︑

 ○十二月廿二日︑御役所孝行人御手当金上納︑      蒲原郡中新田村次吉祖母さん    金三百疋︑  ○引替金高三千八百三拾 ウ︶11

︑ ﹂  ○ ︵ママ︶   文政十二己丑年   ○二月七日︑銀弐枚御役所ゟ頂戴︑      申渡       銀弐枚       右者御吹直し金在方引替骨折相勤候付︑為御手当被下候段︑村垣淡 守殿被仰渡候間︑可得其意候︑

以上︑

         丑二月七日         林金五郎          役所

  ○金三拾弐両壱分一朱︑地震場難渋もの百人余手当テ金差出し申候︑ 越後国大地震三条近辺別而強候処厳君長岡表御出張有之御騒有之候得共御無異

御帰宅有之

(27)

市島春城の生家角市市島家の歴史について  ○金拾五両︑下条︑山口︑水原︑中嶋難渋もの正月ゟ暮迄手当金差出し申候 オ︶12

︑ ﹂

︿        

 ○正月ゟ八月迄安売米損間金百両︑   ○三月廿九日︑法事付施行米五拾弐俵半︑直段廿俵見テ金弐拾六両壱分︑   ○八月︑御勘定広木重右衛門様立毛為御見分御普 役御付添御下向有之︑為冥加作方も宜候付︑

差出し米被仰︑冥加米五拾石出米いたし候︑

 ○御役所忠孝御手当金上納金壱両︑      高橋新田源兵衛召仕奥次郎忠儀之趣被下候︑      弥彦岡新田百姓権蔵長寿御手当金弐百疋ツヽ   ○十月十六日︑国太郎殿出生  妾 ウ︶12

腹﹂

 ○十二月廿七日︑三ヶ村難渋もの手当金弐拾両︑壱軒付金弐朱ツヽ︑   ○当年引替金高弐千両︑      天保元庚寅年

 ○正月十七日︑出雲崎御役所おゐて従  御公儀様孫代迄帯刀御免被仰付候︑      申渡             越後国蒲原郡下条村      百姓         市嶋次郎吉

(28)

      其方儀︑年来窮民を労︑米価高直之節者安直段売出し︑亦者米銭無利永年賦等貸渡為 オ︶13

取﹂

︿孫代迄帯刀御免        

      続︑去々子年地震之節も米金多分合力いたし︑病人者夜具衣類等相施し︑都而奇特之取計相聞候

付︑為御褒美孫代迄帯刀御免被仰付候︑

     右之趣申渡候︑          寅正月十七日       林金五郎       但 ︑於江戸被仰渡候者︑丑十二月廿日頃之由︑水出羽守様被仰渡︑土方出雲守様被仰渡候旨︑出

雲崎請書差上ヶ申候︑  ○正月廿二日︑水原御役所ゟ銀弐枚被下置候︑      申渡       銀弐枚         市嶋次郎吉        右者国々并在方吹直金弐分判引替之儀︑骨折候ウ︶13

︑ ﹂

為御手当被下候段︑土方出雲守殿被仰渡候間︑

可得其意候︑

         寅正月廿二日       大草太郎左衛門          役所  ○   御 ︵アキママ︶出立御父母様共御上京︑四国︑大和︑伊勢︑東海道︑江戸廻會津道中︑   ○四月十九日︑御役所長寿御手当金上納︑      荒嶋村百姓長兵衛母しよ被下候分︑

(29)

市島春城の生家角市市島家の歴史について      六月十七日︑御役所折居村百姓勘左衛門長寿︑合三百疋   ○池之端御知行所地震場難渋もの金三百両相施︑   ○当七月廿八日︑市ゟ虫付︑俄米直段引上ヶ︑壱升付九十五文相成︑門前市場騒敷相聞︑既

喧嘩及候由︑急オ︶14

米﹂差出し︑壱人五升売直段七十八文ヲ以自他之無差別売渡︑白米五斗入

三百俵一市売渡︑   ○中嶋長屋之もの共壱升付銭拾文安と見積手当いたし︑銭四拾八貫三百九拾文︑  ○十二月︑下条村弐百五拾貫六百文余︑壱人七百文ツヽ三百五十人難渋もの手当有之候︑   ○十二月︑水原村︑中島村︑山口村︑壱人五百文ツヽ銭四百貫文余手宛有之候︑  ○十二月︑下条村再度手当百六拾人五百文ツヽ銭八拾貫文︑   ○八月ゟ十二月迄五ヶ月之間︑下条村水原長屋安売米米売損金百両 ウ︶14

︑ ﹂

 ○引替金高千弐百両︑      天保二辛卯年

  ○正月朔日︑御はゝ様御死去有之︑  ○二月︑御役所ゟ銀三枚御褒美頂戴︑      申渡       銀三枚       市嶋次郎吉      右者国々并在方御吹直金引替之儀骨折候付被下候段︑土方出雲守殿被仰渡候間︑可得其意候︑

(30)

         卯二月         大草太郎左衛門        役所   ○水原郡中不残︑当卯年御廻米征不宜付︑買納相願候得共 オ︶15

︑ ﹂

︿御廻米買納御出府        天保

  

江戸表買納御直段高直

て︑郡中行立不申候付︑細山清七殿︑熊倉控左衛門殿︑御申合引請︑

四月十六日出立︑出府之上納方いたし︑雑用其外共四百四拾両余損︑右者郡中小前難渋為相凌

候儀有之候︑  ○正月ゟ八月迄下条村安売米差出し候間損金六拾五両︑   ○当年引替金高千六拾六両余︑      天保三壬辰年

 ○当年ゟ郡中ゟ相納候金納月番改方被仰付候︑   ○正月︑御役所ゟ銀弐枚頂戴 ウ︶15

︑ ﹂

     一︑銀弐枚        市島次郎吉        右者国々并在方御吹直金引替之儀︑骨折候付︑被下候段︑村垣淡路守殿被仰渡候間︑可得其意候︑          辰正月          大草太郎左衛門         役所   ○十二月廿七日︑難渋もの手当金弐拾両弐分︑人数百六十四人︑

(31)

市島春城の生家角市市島家の歴史について  ○引替金高八百拾両︑      天保四年癸巳年

  ○四月︑銀弐枚并御手宛金壱分弐朱︑御役所ゟ頂戴︑      申渡       一︑銀弐枚       市嶋次郎吉          外別段御手当金壱分弐朱 オ︶16

︑ ﹂

︿        天 辰巳

      右者御吹直金引替之儀骨折候付︑被下候︑并去辰十月御触後閏十一月中迄引替方相進候付︑別段

為御手宛被下候段︑水野出羽守殿伺之上土方出雲守殿被仰渡候間︑其旨可存候︑          巳四月          大草太郎左衛門         役所   ○六月︑金壱両弐朱御役所ゟ引替金御手当金頂戴︑      申渡       金壱両弐朱       市嶋次郎吉       右者去辰年十二月ゟ当三月中迄︑古文字金真字弐歩判共引替︑差出高も相進骨折相勤候︑引 ウ︶16

替﹂高

応し為御手当被下候段︑松平周防守殿被仰渡候付︑此上引替方出精心懸候様奉行衆被仰渡候間︑

其旨可存候︑

(32)

         巳六月          大草太郎左衛門         役所   ○七月中︑下条村弐百七拾八人︑水原村四百四拾弐人︑都合七百廿人︑  右人数壱人付金弐朱ツヽ︑手当金高九拾両︑   ○中嶋村︑山口村之儀者壱軒米五升ツヽ︑家数五百軒手宛米高弐拾五石︑   ○七月中︑別而極困窮之もの五斗入白米百俵︑壱升付銭三拾文安長楽寺門前おゐて売出

オ︶17

︑ ﹂

 ○安売米一件付︑佐藤伊左衛門組頭善右衛門相手当取願出候一件︑願趣左之通︑      乍恐以書附奉願上候       当御支配所下条村百姓市島次郎吉奉申上候︑近年違作打続︑米価高直御座候処︑当夏中ゟ追々引揚︑

小前末々之もの及難儀候付︑当村百姓代佐藤伊左衛門始銘々売日を定︑当五月廿日ゟ当月十日迄 安米差出候積︑最初之申合御座候処︑今以下落不仕︑却而直段引揚候間︑猶又引続差出候積︑去 ル十一日︑組頭善右衛門方而寄合評議有之候処︑右直段合其外之儀付︑私︑伊左衛門合而差縺 候儀出来︑其段再応及対談候得共不行届︑右者小前救之為差出候安米之儀︑素 ウ︶17

々﹂仕来と申儀も 無之候間︑矢張行違之侭取計︑且又村方而相帳と唱候儀有之︑右者諸万雑等之儀︑其時々割合仕 候儀︑難出来候間︑重立候者隔年而相勤︑追而割合候迄夫銭其外建 ︵立︶替差出并例年当月廿四日︑五日︑ 鎮守祭礼而︑行司と唱儀も同様︑隔年勤御座候処︑当年之儀者私方右両様共相当候付︑相勤罷 在候︑然ル処去ル十八日︑右善右衛門儀使を以最早安米差出候儀者勿論︑相帳行司共相勤候不及

(33)

市島春城の生家角市市島家の歴史について 旨申越候間︑安米之儀者小前救之為差出候儀付︑面々所存も有共之候得共︑相帳并行司等之儀︑

兼而村役人ゟ触当候間︑相勤候処︑無謂相断︑殊右安米之儀私差出候分︑縦令少分たりとも小前 之者凌方可相成義と︑役元ゟ差当候儀︑何分落 オ︶18

意﹂不仕︑右者組頭善右衛門一己之了簡も有之間 敷︑庄屋長右衛門儀者出府留主 ︵守︶付︑百姓代佐藤伊左衛門等申合之取計可有之︑旁一ト通善右衛 門及承候得共︑何共挨拶不仕︑右者全安米一条

からミ

彼是相工

︑私迷惑可相懸仕向と被察︑ 既去ル十七日相百姓市左衛門方而重立候者寄合︑私壱人相省︑村別いたし候積規定書も可有 之哉︑追々小前連中進押印︑同様印形取之候趣︑承り申候︑尤此儀風聞迄も無之︑右場所被呼付 候私組合其外出入之もの之内︑私方子細為承罷越候ものも有之候儀而︑一体此節時候も不順而︑

何となく人気も不穏候儀之処︑右体村役人と始おとなしからぬ事共申合︑猶々人気を為任候段︑重

立候者も不似 ウ︶18

合﹂何共難ヶ敷儀奉存候︑右之次第而者︑以来私儀者御年貢其外村並諸割合之節 も定而為立会申間敷︑不案諸至極奉存候︑依之︑近頃御苦労筋奉恐入候得共︑右之仕向成行候而

者︑往々何様之儀申出候も難計候間︑何卒格別之御儀を以善右衛門︑伊左衛門両人御呼出︑御糺之上︑

夫銭其外諸万雑等之儀︑私方相掛候分者見届之上︑相違も無之候ハヽ︑何方成共出銭可仕︑御年 貢御上納物者︑以来私直納被仰付被下置候仕様︑左も無御座候而者︑以来不案諸至極付︑極重

奉願上候︑以上︑

         下条村         天保四巳年七月       市島次郎吉      水原       御役 オ︶19

所﹂

(34)

 ○八月九日︑熊蔵殿分録被申付︑質渡世相始め申候︑    ○本家市島徳次郎殿儀︑身持不宜︑普請等相企候付︑親類一同難ヶ敷次第付︑相談之上江戸

此方代又次郎︑芝田市島次郎八出府いたし︑上向願取之上隠居為致候積て︑徳次郎方罷 越候得共

聞入不申

却而親類共乱坊相振舞候様

御役所

願出不相済内熟いたし

無余儀

徳次郎意為相構申候︑   ○九月︑金弐両弐朱御役所ゟ頂戴      申渡       金弐両弐朱          市嶋次郎 ウ︶19

吉﹂

      右者当巳四月ゟ七月中迄古文字金真字弐分判とも銘々引替高も相進︑骨折相勤候付︑引替高応し

為御手当被下置候段︑  水野出羽守殿被仰渡候付︑此上引替方出精心掛候様︑奉行衆被仰渡候間︑

其旨可存候︑

         巳九月         大草太郎左衛門         役所  ○下条村安売米買人一日可売出分三日寄無︑代銭て相救申候︑十二月廿日︑   ○十二月廿九日︑下条水原極難渋もの壱人金壱朱ツヽ︑手当金拾弐両弐分︑  ○引続候違作付︑正月ゟ十二月迄直段安て日々売 オ︶20

渡﹂候白米間損金高百七両余︑

  ○引替金高弐千両︑

(35)

市島春城の生家角市市島家の歴史について      天保五甲午年   ○正月十六日夜︑盲人共拾五人︑壱人弐朱ツヽ手当︑同三月二日夜十七人︑金五両余相施し申候︑  ○二月︑御役所ゟ引替御手当金弐分弐朱頂戴︑      申渡       金弐分弐朱       市嶋次郎吉        右者去巳八月ゟ同十一月中迄︑古文字金真字弐分判共引替差出高も相進︑骨折相勤候付︑引替金

高応 ウ︶20

し﹂為御手当被下置候段︑水野出羽守殿被仰渡候付︑此上引替方出精心掛候様︑奉行衆被仰

渡候間︑其旨可存候︑

         午二月      大草太郎左衛門         役所    ○ぬか味噌山盛壱升宛︑三月十五日難渋ものいつ方ても相願候もの呉れ遣ス︑凡五百四拾

五軒︑

   ○五月︑羽州鶴ヶ岡城主酒井左衛門尉様御領酒田湊本間正七郎殿ゟ金三千両被相頼︑初而取替

遣ス︑口入人山科喜兵衛︑

   ○會津若松之御城主松平肥後守様御領分越後国蒲原郡津川町ゟ北国往還罷出候溝口信濃守様

御預り所同郡保田迄之行程九里︑近路有之︑字小川通りと相唱候 オ︶21

処﹂

︿庄内本間取引始  会津新道        天 

  

至而細道険阻

て︑其上何 ︵阿︶賀野川を抱︑四ヶ所之渡船場有之︑右之内︑字鈎浜と唱候処︑弐拾

(36)

町余長渡舟山間急流之場所て至而危く︑間々難船溺死人等有之候付︑石間村江頭次郎兵衛 と申もの︑右道筋切開候儀︑段々領主も相願候得共︑入用金差支候間︑出金いたし呉候様相 願︑右場所立越見分いたし候処︑世上国易も可相成儀付︑承知いたし︑水原御役所ゟ松平 肥後守様御役場御懸合相成︑故障無之付︑金三百両余差出し︑新道普請成熟いたし︑当時 不改万船往来いたし候︑尤石間村番所ヲ立︑橋銭壱人前七十五文ツヽ取︑然ル処︑一両計打 過候処︑追々道筋も丈夫相成候付︑會津御領主て無利 ウ︶21

々﹂々申入︑他領もの右様之儀為 致兼等申出相願候付︑雑用金三百両受取︑此方抱り無之事いたし遣ス︑右替り者右新道往

来壱ヶ年無銭札弐十人分相渡置︑

 ○正月ゟ七月迄下条村水原村安売米差出候間損金弐百両余有之︑   ○引替金高凡七百両︑      天保六乙未年

 ○正月︑為冥加上ヶ米千俵相願上納 オ︶22

︑ ﹂

︿冥加上米千俵        天 

      乍恐以書附奉願上候        越後国之儀︑去午御物成米格別之御趣意を以︑皆御廻米被仰渡候処︑当御支配所村々之儀者︑被仰

渡候通御請仕︑於私共も御趣意を承伏仕︑旧臘御米蔵詰いたし置︑追々川下ヶも取懸り候儀御座 候︑然ル処︑私儀田録も相応所持仕︑安穏百姓相続罷在候儀者︑乍恐  御国恩と難有仕合奉存候︑

(37)

市島春城の生家角市市島家の歴史について 且又去午年之儀者近年無之作柄も宜︑作徳有余も御座候間︑可相成儀候ハヽ︑為冥加米千俵差上

候様仕度奉存候︑右願之通御聞済被成下候ハヽ︑御廻米同様俵入其外共相仕立相納候様可仕候︑依

之此段奉願上候︑以上 ウ︶22

︑ ﹂          天保六未年正月      当御代官所        越後国蒲原郡下条村         百姓         市嶋次郎吉

       大草太郎左衛門様        水原         御役所      前之通次郎吉相願候付︑奥印仕差出申候︑以上︑          右村庄屋         長右衛門      申渡          越後国蒲原郡下条村        百姓         市嶋次郎吉

         同国同郡水原村東組        百姓         清七        其方共儀︑去午年作柄宜敷︑作徳有余有之 オ︶23

趣﹂を以︑御国恩為冥加四斗入米千俵宛上ヶ米相願候段︑

(38)

奇特之儀付誉置︑      右者御勘定奉行衆被  仰渡候付申渡間︑其旨可存︑          未三月   ○正月︑御役所ゟ引替金為御手当金壱両三分頂戴︑      申渡       金壱両三分       市嶋次郎吉      右者御吹直金引替御用骨折相勤候付︑書面御手当金被下候間︑其旨可存候 ウ︶23

︑ ﹂          未正月      水原         御役所  ○未五月︑御役所ゟ金壱分弐朱頂戴︑      申渡       金壱分弐朱       市島次郎吉        右者去十二月ゟ当未三月迄︑古文字金真字弐分判共引替差出高も相進ミ骨折相勤候付︑引替高

し為御手当被下候段被仰渡候間︑其旨可存︑

         未七月          大草太郎左衛門          役所  ○八月︑御役所ゟ金弐分頂戴︑      申 オ︶24

渡﹂

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