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全国連合小学校教員会の固有性 : 帝国教育会への加盟と脱退

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はじめに

1934 年 11 月 22 日,帝国教育会(以下,「帝教」 と略称する)と全国連合教育会は両会が合同する 臨時総会を開催し,定款を改正した1).定款の第 3 条においては目的として「本会ハ我国教育界ノ 中央機関トシテ全国各教育団体ノ連絡統制ヲ図リ 教育ノ進歩改善並ニ文化ノ進展ニ貢献スルヲ以テ 目的トス2)」と,自らが全国の教育団体の連絡統 制にあたるものであることを規定している.また, 第 5 条において組織について,「本会ハ本会ノ趣 旨ニ賛成スル各種教育団体ト個人トヲ以テ之ヲ組 織ス3)」と規定して,個人会員と団体会員から成 るものとしている. こうした定款をもつ帝教から加盟の勧誘を受け て,1937 年 6 月に全国連合小学校教員会(以下 「全教連」と略称する)は帝教に加盟した. 1937 年 7 月の日中戦争全面拡大の後,8 月 24 日には国民精神総動員実施要綱が閣議決定され, 10 月 12 日には国民精神総動員中央連盟が発足し て,国民精神総動員運動が開始された.1940 年 10 月には,近衛新体制下において大政翼賛会が 発足した.こうした情勢のもとで,教育団体間に おいても統合の機運が生じてくる. 帝教に加盟したままでは帝教に吸収統合されか ねないことを危惧した全教連は,1941 年 3 月に 帝教から脱退して,現職教員の組織としての固有 性を主張して組織の存続をはかることとなる. 本稿は,国民精神総動員運動期における全教連 の帝教への加盟と脱退の問題を通して,全教連の 固有性について検討するものである.

―帝国教育会への加盟と脱退―

太郎良 信

The Identity of a National Scale of Unions for Primary School Teachers

in Japan

Shin TAROURA

要旨 全国連合小学校教員会(全教連)は,1937 年の第 7 回世界教育会議の準備過程において,その主 催者である帝国教育会(帝教)に加盟した。ただし,加盟後において,帝教の一員であることはほとん ど公言せず,帝教への「協力」団体として自らを位置づけていた。国民精神総動員運動にともなって教 育団体統合の機運が高まるなかで,帝教に吸収統合されることを危惧した全教連は,現職教員の組織と しての固有性を主張しつつ 1941 年に帝教から脱退した。しかし,同時期には,各地において教育会を核 とする教育団体の統合がすすめられており,統合の結果として新たに発足した教育報国会等に小学校教 員会(国民学校職員会)が吸収されることによって,小学校教員会が組織解消となる事態も生じつつあ った。これは,全教連の基盤が揺るがされることであり,全教連は改めてその固有性を問われることと なった. キーワード:全国連合小学校教員会 帝国教育会 教育報国会 第 7 回世界教育会議 国民精神総動員 運動 ────────────────────── *たろうら しん 文教大学教育学部心理教育課程

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第 1 章 帝教への加盟

(1)帝教への加盟を見送っていた際の理由 全教連は,帝教から加盟の勧誘を受けて,第 20 回代表委員会(1936 年 6 月 17 ∼ 18 日)にお いて,加盟の是非について検討したことがあった. その際には,全教連は帝教への加盟を見送ってい る.その間の経緯について,『教育週報』は,次 のように報じている. 「帝国教育会では,予て未加盟の教育諸団体 に対して加盟方を勧誘して居たが,その結果 全国小学校連合女教員会は既報の如く帝教に 加盟することとなつた.一方全国連合小学校 教員会では,その勧誘を受けたに就て,去る 十七,十八日両日教育会館に開催された代表 委員会に於ける協議事項の一として,この問 題を上程し,結局加盟せざることと決定した. その理由に就て中沢同会々長は語る.『地方 の教育団体は大抵帝国教育会に加盟して居る. 我々の会がまた加盟するとすれば,二重にな ることになるので,加盟の必要を認めないと 思ふ.』4) 各地に府県教育会・郡市教育会と小学校教員会 とが併存しており,府県教育会や一部の郡市教育 会は帝教に加盟し,小学校教員会は全教連に加盟 していた.全教連が帝教に加盟することになれば, 全教連会長の中沢留が言うように,各地の教育会 と小学校教員会とが「二重に」帝教に加盟するこ ととなる.そして,各地の教育会と小学校教員会 とが「二重に」帝教に加盟することは,現職教員 ではないものをも構成員とする教育会とは別に現 職教員だけを構成員とする小学校教員会が存在す る理由が希薄になりかねないものであり,ひいて は小学校教員会や全教連の存在意義そのものが問 われかねない性格の問題であった. (2)帝教の組織拡大方針と中沢留らの姿勢 1937 年 5 月 22 ∼ 23 日に開催された帝教の通 常総会において,「帝国教育会ノ拡充強化ニ関ス ル件」について議論が行われ,帝教の組織拡大を 確認している.この件に関して,『教育週報』は, 次のように報じている. 「『帝国教育会の拡充強化に関する件』に就 て群馬の田部井鹿蔵氏〔群馬県教育会の代表 として出席したものであるが,他方では全教 連副会長でもあった―引用者注.以下同様〕 が個人は勿論,郡市教育会をも会員として拡 大強化を図るべしと説明したのに対して,石 川の三島,新潟の三崎氏其他の府県教育会を 本体とすべきであるとの立場からの反対,千 葉の中川氏らの賛成等あつて長い論議があつ たが,東京の中沢留氏〔帝教理事として出席 したものであるが,他方では全教連会長でも あった〕其他から個人会員は定款第一条に明 かに認めてあるところだから,今更蒸し返す べき問題ではないとの意見があり,討論打切 りとなつた5) この記事にみられるように,全教連会長の中沢 と全教連副会長の田部井は,全教連の役員として 帝教総会に参加したわけではないものの,府県教 育会と「二重に」なる郡市教育会等の加盟を促進 するという帝教の組織拡大方針について積極的に 推進する姿勢を示していたことがわかる. (3)帝教への加盟の決定 帝教総会ののちの 1937 年 6 月 5 日に,全教連 が,帝教に加盟することとなった.前年 6 月の代 表委員会において帝教加盟を見送っていた全教連 としては,大きく方針を転換したこととなる. 帝教に加盟する 1 か月前に開催された全教連第 14 回総会(1937 年 5 月 3 ∼ 5 日,名古屋市)の 記録において,帝教への加盟に関する論議がなさ れた形跡はみあたらず,第 14 回総会では帝教に 加盟することは決定されてはいない6) 全教連が帝教に加盟したことが記録されている のは,全教連第 15 回総会(1938 年 5 月 6 ∼ 8 日, 新潟市)における『会務概況』である.その「報

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告事項」のなかに次のような記載がある. 「八,特別処理事項 (略) 二,六月五日 帝国教育会に加盟 (以下略)7) この『会務概況』において帝教加盟に関するこ とがらは,ここに引用したものに尽きている.そ のため,帝教への加盟の日付以外のこと,たとえ ば加盟を組織決定した会議や加盟に至る経緯,加 盟の理由等の記載はまったくない. そこで,全教連が帝教に加盟した 1937 年 6 月 5 日より前の全教連の会議の開催状況を確かめる と,加盟の前日までの二日間にわたって,第 22 回代表委員会が開催されていることが判明する. その第 22 回代表委員会について,『教育週報』は 次のように報じている. 「過般名古屋市に開かれた総会の後始末のた めの全国連合小学校教員会第二十二回代表委 員会は,三日午前九時から二日間神田一橋の 教育会館に開催された.出席者は相談役下川 兵次郎,上沼久之丞,会長中沢留,副会長田 部井鹿蔵,川原喜作の諸氏を始め東京及び全 国の代表委員三十八名で会長より諸般の報告 あつて後,過般の第十四回総会に於ける可決 事項を整理,世界教育会議に就て松井事務局 幹事より報告あり(以下略)8) この記事により,1937 年 6 月 3 ∼ 4 日に第 22 回代表委員会が開催されたことは確認できるが, 帝教への加盟については言及がない. また,第 22 回代表委員会の内容については, 第 15 回総会における『会務概況』に次のように 記されている. 「第二十二回代表委員会 昭和十二年六月三,四の両日東京神田教 育会館において開催,出席者約六十名,世 界教育会議並に中沢会長皇軍慰問の報告, 応召教員後援,国民精神総動員実施事項, 皇軍慰問の件,十五回総会の件等について 協議し,又北支,上海の皇軍司令官に対し 感謝電報を打電し,文部省側との懇談は, 国民精神総動員と本会の任務を中心とした もので,戦時色を帯びた委員会であつた9) 代表委員会への出席者の人数が『教育週報』の 記事とは大幅に異なるなどの相違もあるが,帝教 への加盟についての言及がないことは共通してい る.そのため,この第 22 回代表委員会において 全教連の帝教加盟が決定されたことを記録等では 裏付けることはできない. しかし,時期から判断して,第 22 回代表委員 会において加盟が決定されたものとみるほかはな い.10)

第 2 章 帝教への「協力」

さきにみたように,全教連が帝教に加盟する経 緯については,記録等では不明である.しかし, 全教連は 1937 年の初めより帝教の提起に対して, それに呼応する活動を展開していた. (1)第 7 回世界教育会議の開催への協力 1937 年 8 月 2 ∼ 7 日に,東京で,第 7 回世界 教育会議が開催されている.主催者は帝教であっ た.その開催に先立って,全教連の機関誌『教育 報国』第 3 巻第 2 号(1937 年 2 月)には,帝教 を母体とする第七回世界教育会議日本事務局の署 名による記事「世界教育会議とは何か(上)」が 掲載されている.そこでは,「世界連合教育会の 正会員たる帝国教育会はこれが開催に必要なる諸 般の事務の実行を担当することとなり,政府当局 の了解を求めると共に,新に世界教育会議日本事 務局を設置して専らその事務に当らせることとし た11)」こと等が記されたものであり,第 7 回世界 教育会議の開催を広く知らせるものとなっており, 全教連が帝教に加盟する前から世界教育会議の開 催に協力していたことを示すものである. 全教連第 14 回総会においては,群馬県連合小 学校教員会・群馬県各郡市小学校教員会から「協 議題」として「世界教育会議を機とし国民教育振

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興上留意すべき事項如何」が提案された.委員に 付託して作られた案をもとにして,次のような答 申を可決している. 「一,国際的意義を了得し国民挙て世界教育 の認識を深くすること(パンフレツト, 講演会,新聞,雑誌,ラジオ等) 二,国際的相互親善の実を揚ぐるに務むるこ と(略) 三,国粋文化を尊重すると共に世界文化の水 準に照して教育上反省すべき事項の調査を なし,之が改善向上を図ること 1. 道徳的公民的教養を高むること 2. 風教の粛正に努力し,真日本精神のに発揮 に努むること 3. 国民生活の改善向上を図ること12) この答申が可決されたことに象徴されるように, 全教連は,第 14 回総会において第 7 回世界教育 会議の開催に積極的にかかわることを決定した. したがって,前述の第 22 回代表委員会の際に, 議題として世界教育会議の件が取り上げられたの は,第 14 回総会の決議をふまえてのものという ことになる. こうした経緯をみれば,全教連は,帝教主催の 第 7 回世界教育会議の開催に協力していく過程で, 帝教に加盟したということになる. そして,全教連の役員が第 7 回世界教育会議に 参加するとともに,その会議の開催に関して『教 育報国』誌上において再三にわたって取り上げて いくこととなったのである.ちなみに,第 7 回世 界教育会議の終了後,『教育報国』第 3 巻第 8 号 (1937 年 8 月)は,世界教育会議の特集号として 発行されている. 全教連第 15 回総会における『会務概況』には, 「本会と第七回世界教育会議」の項目が設けられ, 次のように記されている. 「第七回世界教育会議は昭和十二年八月二日 より七日まで,東京帝国大学に於て四十八ヶ 国の外国代表者千名を迎へて開催された.本 会は当初より主催団体帝国教育会への援助と 協力を惜まず努力してきたのであるが,初等 部委員として本会より田部井鹿蔵〔全教連副 会長,群馬県渋川小学校長〕,石田信次〔全 教連常任委員,新潟市白山小学校長〕,吉川 与一〔全教連常任委員,埼玉県浦和市第一小 学校長〕,浜田惣右衛門〔全教連常任委員, 広島市竹屋小学校長〕,伊藤嘉秋〔全教連常 任委員,金沢市小将町小学校長〕,菅野健 〔全教連常任委員,福島県岩瀬郡須賀川第一 尋常高等小学校長〕の諸氏其他をおくり,又 機関 紙 〈ママ〉 『教育報国』はたへず会議の宣伝の ために頁を割き,陰に陽に尽力した. 八月五日,教員会部会において本会々長中 沢留氏は『日本における全国連合小学校教員 会』の題目のもとに,本会の組織,綱領,活 動状況等について具さに発表し,教員会の国 際的連携を強調した13) これは全教連が第 7 回世界教育会議の開催に積 極的にかかわったという事実を記録したものであ る.しかし,開催準備が進められていた 6 月に全 教連が主催者の帝教に加盟しているにもかかわら ず,帝教の一員としてかかわったという事実につ いての言及はなく,「本会は当初より主催団体帝 国教育会への援助と協力を惜まず努力してきた」 と記すにとどまっている. (2)国民精神総動員運動の推進 国民精神総動員実施要綱が閣議決定されたのは 1937 年 8 月 24 日であり,10 月 5 日には国民精神 総動員中央連盟が発足している.帝教はその加盟 団体として活動を開始している.そのとき全教連 はすでに帝教に加盟していた. 全教連第 15 回総会における『会務概況』にお いては,全教連が「国民精神総動員の声が叫ばれ, 中央連盟が結成されるや,本会は帝国教育会と協 力して教育の分野における精神総動員運動に拍車 をかけ今日に至つてきた」として具体的な活動と して次の 5 項目を挙げている. 「(1)昭和十二年九月十六日付を以て,各加

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盟団体宛,国民精神総動員に関する文部 次官通牒,総動員要綱実践事項等を指示 す. (2)応召教員の後援運動 (3)全国教員一斉献金を,地方の実情に応 じてなす. (4)数次の代表委員会に於て協議を行ひ, 文部当局に建言をなす. (5)機関 紙 〈ママ〉 『教育報国』上にて,精神総 動員の趣旨徹底と活動の報道をなす14) しかし,ここにおいても全教連が帝教の一員と して活動してきたことには触れず,「本会は帝国 教育会と協力して」という表現にとどまっている. 全教連は,組織的には帝教に加盟しながらも, 第 7 回世界教育会議への参加や国民精神総動員運 動への参加に関しては,帝教の「協力」団体とし て自らを位置づけていたということになる.

第 3 章 帝教からの脱退

(1)小学校教員会の固有性の問い直し 1940 年,近衛新体制のもとで,教育団体統合 の機運が強まった時期において,従来から「教育 報国」運動を展開してきていた全教連は,新体制 運動についても賛意を表していた.しかし,帝教 が中心となって教育団体の統合を図ることについ ては批判的であった. 全教連会長の中沢留は,学校種ごとの現職教員 の組織化の必要性を主張するとともに,帝教の解 消ないしは性格の変更の必要を主張している. 「現在の帝国教育会は発生の動機からいつて も,また本来の性格から見ても,今日ではす でに存立の意義を失してゐるから解消すべき である.もし存立せしめるならば,単に外郭 団体として他の領分を侵さないやうにするこ とである.(中略)も一つ考へて居るのは, 各小学校における後援会を全国的に統一して, 国家教育を助成する強力なものにしたい.こ こに帝教の為すべき仕事がある15) 中沢は,帝教は教育に直接のかかわりを持つ当 事者ではないので,組織解消しないのであれば, 外郭団体としての性格を明確にしていくことが必 要としている. そして,全教連に関しては,現職教員の団体と して,自らこそが統合の中心となるべきものであ ることを主張している. 「小学校教員会は自然発生的なもので,本質 使命も判然としてゐるからこの際関係諸団体 を包含して拡大強化をはかると共に,教育の 中核体となつて,新体制精神を具現しなけれ ばならない16) 中沢は,全教連こそが新体制運動のなかで積極 的な役割を果たすべきものであることを主張して いることになる. 1940 年 10 月 31 日と 11 月 12 日に,全教連の 第 34 回代表委員会が開かれている17).組織に関 する協議事項としては「新体制に即応する教員会 の発展的地位の確立に関する件」があった.協議 にあたっては,次のような課題が挙げられていた. 「(イ)教員会体制に関し各府県に於て実施 し若しくは実施せられんとする情勢につい て承りたし (ロ)府県教員会と府県教育会との関係を 如何にすべきか 1.現職教員会系統と教育会系統を截然区 別して二本建てとする団体機構の組織可能 なりや 2.教育会系統の中に教員会を統合して一 元化する機構となすべきや 3.教員会系統の中に教育会を統合して一 元化する機構となすべきや (ハ)全国教員会の存続強化につきご意見 を承りたし 1.全国教員会の使命職能の重点を如何な る点に置くを可とすべきか 2.府県教育団体の統制強化を見たる場合 尚全国教員会の統制を必要とするや否や 3.若し必要ありとせば今後の府県教育団

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体との連絡上其の機構を如何に定むべきか 4.府県現職教員関係の機構と府県理事者 との関係を如何に定むべきか 5.経常会費負担並に納入に関する見通し を承りたし18) こうした課題が挙げられていること自体が,教 員会の存続が危機に直面していたことを示してい る. 委員からの発言には,現実問題として教育会と の統合は避けられなくなっているという報告や意 見も出されたが,教員会として存続することの必 要性を説く意見も出された. 堀川寛委員(新潟県高田市大町小学校長)は 「教員会は教員の生存権獲得が主眼ではないか, 其の地位を向上するといふことに主眼を置かない と成立の意味をなさないと思ふ19)」と,全教連発 足時の原点を確認するような発言をおこなってい る. また,石田牧之助委員(京都市修徳小学校長) は「教員会と教育会とは其の使命,其の職能が全 然相容れないものであつて教育会に教員会が入り 様がない,即ち二本建てにするより外はないと思 ふ.この意味を強調することが,本連合会の任務 ではないか20)」として,教員会と教育会とは性格 を異にするものであることを全教連が主張するこ とを求めている. 宮本彦三郎委員(東京市元加賀小学校長)は, 「帝都教育会が斡旋役になつて教員会,校長会, 女教員会,青年教師団,高等小学校長会,青年学 校校長会の代表者を集めて審議の結果,現職教員 の団体は全部一元的に統合した教員会と二本建に 存続することに一先づ意見がまとまつた.然し乍 ら之を実際に実現することは尚幾多の曲折がある と見なければならない21)」と,現職教員団体を一 元化した教員会と教育会との二本建てとする案が まとまったことを報告している. これらの発言を踏まえて,吉川与一委員(埼玉 県浦和市第一小学校長)は「教員会と教育会との 関係につき各意見の存する所を綜合して見て各職 能の分野がはつきりしてゐる.よつてこの際教員 会は当然あるべきものだと云ふ理念を確然たらし めるの要がある.(中略)吾等は飽く迄も職域奉 公の一貫性を貫く立場からどんなことがあつても 教員会を確保することにしたい22)」と発言してい る. 記録では,この吉川の発言に関して「結局結論 は之に到達した23)」として,吉川の発言を結論と している. 「どんなことがあつても教員会を確保すること にしたい」という吉川の発言は,教員会の存在が 否定されかねない状況にあることを示すものでも あった. 具体例として,東京府の教育団体統合の動向を みていく. 1940 年 11 月 23 ∼ 24 日に,東京府連合教育会 の第 42 回総会が開催されている.そこでは,東 京府知事から「時局に鑑み府下教育諸団体を統合 強化するに適切なる具体案如何」が諮問されてい る.総会では,全教連第 34 回代表委員会におけ る宮本委員の発言に示されていたようにすでに団 体統合の検討を進めて一応の結論を得ていた帝都 教育会の提案により,その場では結論を出さず, 委員に付託することとなった24).その後,委員に よって調査案が作成され,東京府連合教育会は, 府知事に対して次のような答申をおこなった. 「調査案(前文略) 一,東京府教育各種団体を左記二本建とす. 1.現職教職員を以て東京府教育報国会を 組織す. 2.教育に理解ある有志を以て東京府教育 協力会を組織す. 二,東京府教育報国会の要 領 〈ママ〉 1.会長は東京府知事に推戴す. 2.小学校,青年学校,男子中等学校,女 子中等学校,幼稚園等の各部を置く. 3.各部に於ては更に修養,研究調査互助 等の部を適宜設置す. 4.郡区市島嶼に夫々支部を置くことを得.

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三,東京府教育協力会要項 1.郡区市島嶼に各教育会を設置す. 2.東京府教育協力会は郡区市島嶼教育会 を以て組織す. 四,東京府教育協議会要項 1.協議会は本府教育振興につき知事の諮 問に応じ又意見を開陳す. 2.協 議 会 委 員 は 東 京 府 教 育 報 国 会 々 員 , 東京府教育協力会会員中より知事之れ を指名す25) この答申の内容は,教育関係団体を東京府教育 報国会と東京府教育協力会との二本建て26)とし, 双方をつなぐものとして東京府教育協議会を設け るというものである. 東京府教育報国会の会長は府知事とされている が,会長以外の構成員は現職教員であり,さらに 校種別に部を置くというものとなっている.これ は,全教連が従来から主張してきた,校種別の現 職教員の団体を縦につなぐというものに近い組織 形態ではあったが,校種別の組織を残すというも のではなかった, また,東京府教育協力会は,郡区市島嶼の教育 会の連合組織であり,実質的には東京府連合教育 会と変わるものではなかった. 結局は,この答申は,教育会系統の組織と教員 会系統の組織を 2 本建てとする意味では,従来の 組織を考慮したかたちにはなっていたものの,東 京市小学校教員会からみれば,東京府教育報国会 小学校部に吸収されることになるものであり,小 学校教員会としての活動は終息せざるを得ないも のであった. な お , こ の 答 申 は , 府 制 か ら 都 制 へ の 変 更 (1943 年 7 月 1 日実施)が予定されていたという 事情もあって,ただちに実施に移されたわけでは なかった. (2)小学校教員会に対する帝教の意向 1941 年 2 月に,帝教と大政翼賛会との教育懇 談会が開かれている.冒頭の挨拶において帝教の 専務理事の武部欽一は,大政翼賛会に対して次の ような要望と自負を示している. 「教育方面に関して翼賛会の方でどう考へて ゐられるか,そのお考へになつてゐる点が, 他の方面に比してより力が入れてないやうに 思はれるが,教育一般又教育団体,殊に本会 としては教育の中枢団体と自ら任じてゐる. かかる教育団体についてどんな風な考へをも つてゐられるか.又どういふ希望をもつてゐ らるるか,忌憚なき意見を伺いたい27) これは,大政翼賛会が教育団体の統合や帝教の 役割に対して関心が薄いということを批判するも のであった.これに対して,大政翼賛会文化部長 の岸田国士は,既存の組織を全部解体するもので はないとして次のように述べている. 「翼賛会の最初の出発としては,国民組織が 目的であつた.文化部としては文化機構の再 編成が仕事で,文化部門の職域,組織の編成, 再編成の意味であつて,あるものを全部解体 するといふ意味ではない,ただ不要なもの, ダブつてゐるもの等は解体してもらうといふ ので…,教育者は地域的と同時に職能的にど うなつてゐるか現在調査中です28) この岸田の発言に対して,帝教の理事の桜井伊 兵衛が「教育会と同時に教員会があるが,これの 統合をお考へになりましたか.富山ではそれをや つてゐるやうですが29)」と,教育会と小学校教員 会などとの統合を促す質問をしている.これに対 して岸田は「私は地域的に或る組織を作り,今ま で出来なかつた様ないい仕事がやれればいいと思 ふが,実情調査の上でないと…画一的にはいかん と思ふ30)」と答えて,教育会と教員会とを統合す る意向は示してはいない. また,この懇談会を報じた『教育週報』には次 のような記事もある. 「▽教〔帝教側の発言〕帝国教育会も青年教 員を包容し,青年教育部を作るのがよろしい. 又東京市教員会,女教員会,修養会があるが 之も一丸とした方がよいと思ふ.

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▽翼〔大政翼賛会側の発言〕形式的に統合し ても,理論を与へなければ駄目31) ここでも,帝教側が,東京市小学校教員会など を例示しつつ統合を提案しているが,大政翼賛会 側は受け入れてはいない. さらに,帝教の武部が「近衛公の声明中には教 育は四項目の中に入れられてゐるのに,翼賛会を 見ると,教育だけはオミツトされてゐる感じがす る」と教育の位置づけが弱いことを指摘した32) ことに対して,大政翼賛会の岸田は,「今度の協 力会議には実現させます」としつつも,「教育は 一番整然としてゐるので,急を要しないとみてゐ ます」ともいう.その理由として「順序的に言へ ば,経済,政治,文化で,一番信頼のおけるのは 軍隊と教育であると思ふ」と,軍隊と並べて教育 界をみており33),教育団体の統合に関しては緊急 の課題としてはみていなかったことがわかる. この会合の記録からは,大政翼賛会よりも帝教 の方が積極的に教育団体統合の推進を考えており, 大政翼賛会をも利用して小学校教員会などを教育 会に吸収統合する意向をもっていたことがうかが える. (3)帝教からの全教連の脱退 帝教が教育会と小学校教員会などの統合の意向 を示し始めた状況にあって,全教連は,第 35 回 代表委員会(1941 年 3 月 5 ∼ 6 日)において, 帝教からの脱退を決定している. その決定に際して,小学校教員会などを教育会 に統合しようとする帝教の方針について,全教連 として直接に異を唱えることはおこなってはいな い.あくまでも,帝教の性格と全教連の性格の相 違を根拠にしている.その際,帝教の性格につい ては,次のようにとらえている. 「帝国教育会は,現職団体とは,凡そかけは なれた抱擁団体である.職域の外廓から,職 域奉公者に協力する団体である.この外郭団 体が,沢山の加盟団体を網羅して,強力なる 教育政策を樹立して,外部から教育の向上刷 新に貢献することは頗る当を得たことであつ て,又夫れ以外に外郭団体としての,帝国教 育会の存在の意義はないのである34) それゆえに,「外郭団体と,職域団体とが截然 と区別されるべきであつて,その何れともつかな い様な状況に終始することは,自らの職域生命を 縮減圧搾する結果となつて,却つて存在の意義を 喪失するものだと云はねばならぬ35)」として,職 域団体である全教連が帝教の一員にとどまること の問題点を挙げている. もちろん,こうした問題は,1937 年に全教連 が帝教に加盟した時から存在してきたものである が,帝教に加盟しつつ,同時に全教連としての独 自活動をもおこなってきたため,それほど大きな 問題にはならなかったものとみられる. ところが,教育団体統合の動きのなかで,個々 の小学校教員会や全教連そのものが解消されかね ない状況に至って,帝教から脱退して,全教連と しての存続を追求することとなったのである. 1941 年 3 月 11 日付で帝教会長に宛てた「貴会 加盟脱退方届出之件」と題する文書には,脱退の 理由として次の 3 点が挙げられている. 「一,教員会は職域団体であるから其の本質 上 職 域 奉 公 に 邁 進 す る 性 格 を 確 立 す る の要あること. 二,教員会と教育会とは,二本建にするを以 て理想とするから,教育会の中に,一元的 に吸収統合されない基礎を今日に於て固め て置く必要があること. 三,従つて本連合会が,帝国教育会の支団の 地位にあることは,前項の考への立脚点と 矛盾を来す惧れがある.即ち当然統合され 得る.又,統合し得る条件の下にありと解 釈されるから,この過られ易き複合的存在 から離脱して,単純に職域団体としての性 格を明示するの要あること36) なお,この件に関わって,文部省も小学校教員 会や全教連の存在意義を認めているという中沢の 談話が確認できる.

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「三月十四,五日の全国学務部長会の節も文 部省は吾々の教員会を認め,各地方庁に対し て,教員会の健全な発展に援助を与へるやう, との指示が行なはれた.以上から見るも吾々 の団体に対しては文部省も其の職能発揮に援 助を与へてくれるから,今後は国民学校制実 施と共に,本会の活動も益々活発化して,所 期の目的達成の為,大いに努力する考へであ る37)

第 4 章 教育報国会の発足による国民

学校職員会の解消

(1)教育報国会の発足と国民学校職員会の解消 国民学校制度発足に際して,『教育報国』第 7 巻第 4 号(1941 年 4 月)は全国連合小学校教員 会を全国連合国民学校教員会に改称することを含 む 17 項目にわたる「宣言 存続の気力は確保さ れた」を掲載した.その表題に示されているよう に,全教連の組織存続を確認することに力点が置 かれている. 「二,本連合会は飽迄解消せず.満腔の生命 力を包摂して,愈々重大使命の達成に邁進す る38) しかし,実際には,全教連の存続には困難が生 じていた. 「一〇,然るに時運の推移異変によつて,本 連 合 会 の 存 立 に 一 抹 の 妖 雲 が か か り , 其 の加盟を躊躇し,その発展を危み,或は発展 的解消を待望する向きがある./一天万乗の 尊き御依頼を忘れたか……/重大なる使命の 御付託を御消し申上げんとするのか……39) 「一一,各府県に教育報国会の新出現を見る の 例 あ り . さ れ ど そ れ は 土 地 の 状 況 な り . 吾々国民学校教員会活動の根は断たれてはゐ ない筈だ(略)40) この「宣言」は,各地に教育報国会が組織され て,それに伴って国民学校職員会が解消され始め ていることをふまえたものである. しかし,教育報国会が組織されても,国民学校 職員会の実態はあるということが,『教育報国』 第 7 巻第 6 号(1941 年 6 月)の無署名記事とし て掲載されている. 「富山県の如く,知事を会長とする富山県教 育報国会が結成されてゐる.斯うしたことは, 一つの傾向として,全国各府県に結成される ものと見られないことはない.(中略)何れ にしても,其の中には府県なり,郡市なり, 教員会の実体は,其の儘に統合されてゐる. 教員会たる独立団体としての形はなくなつて ゐるが教員会たるの実体を通して,厳乎とし て存続してゐる.報国会の中の教員会部とし て,全国的には,吾が全国連合国民学校教員 会の加盟団体たる地位を確認せしめてゐる. 即ち名を捨てゝ実をとつたのである41) このように,各地の国民学校職員会が教育報国 会に統合されても,引き続き教員会部として全教 連に加盟しており,実態には変更がないことを強 調している. しかし,この時期の全教連の組織状況が無署名 記事のとおりであったか否かは,確認できない. (2)東京都教育報国会の発足 すでに言及したように,1940 年末に,府知事 の諮問に対して東京府連合教育会が東京府教育報 国会についての答申を行っていた.それから 3 年 を経た後の 1943 年 11 月 18 日に,東京都国民学 校教育報国会の結成式が行われている42) その結成式に先立って,同会の性格に関して 「東京都下の国民学校職員会,同校長会,同高等 科校長会の三団体」が統合するものであり,「三 団体はすでに解散し,新しい旗の下に結集すべく 待 期 〈ママ〉 してゐる」と報じられている43).国民学校 の三団体の統合という点では,現職者のみの組織 であるかのように見える.しかしながら,実際に は,現職者のみの組織ではなかった.同会の組織 と事業については,次のように報じられている. 「同会は都下国民学校職員を正会員とし会長

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の指定する国民学校教育関係者を名誉会員と する教育団体であつてその事業は左の通り. 一,国民学校教育の研究 二,会員の修養錬成 三,会員の福利厚生 四,学校隣組の運営その他 会長は教育局長これに当り正会員は会費月 額三十銭を納入する.研究部会として学校経 営,教科科目,防空教育訓練及施設,児童文 化,教科外施設等の各部会をおくことになつ てゐる44) 会長が東京都教育局長であり,「会長の指定す る国民学校教育関係者」を名誉会員とするなど, 現職者のみの組織ではなく,教育行政のなかに組 み込まれている. このような東京都教育報国会の発足は,全教連 にとっては,東京都内の加盟団体を失ったことと なる.これに関して,全教連会長の中沢は,次の ような談話を出している. 「国民学校職員会として全国的に継続的にや つてきてゐる事業もあるし,今後にもあるの で,全く連絡がなくなつては不便が多い.会 の実体は解消されても全国的な連携を失はな いやうに何らか連絡の道をつけておいてもら ひたい45) 全教連の会長には,発足時以来,東京市小学校 教員会幹事長が就任するのが慣例であった.また, 全教連の理事は,規約第 12 条に「本会各機関ノ 指揮ヲ受ケ会務ヲ処理スルモノトシ会長所属ノ教 員会役員之ニ当ル46)」と定められており,事実上 は東京市小学校教員会の役員が担当することとな っていた.そのため,全教連の組織活動を実質的 に支えてきた東京市国民学校職員会(東京市小学 校教員会の改称)の組織が解消したことは,全教 連にとって致命的なできごとであったとみられる.

おわりに

全教連は,帝教とは性格を異にするものという 主張を堅持していたが,1937 年の世界教育会議 の準備過程において,帝教に加盟している.加盟 していた期間においても帝教への「協力」団体と して自らを位置づけていた.国民精神総動員運動, 大政翼賛運動にともなって教育団体統合の機運が 高まるなかで,全教連は現職職員の組織としての 固有性を主張して,1941 年に帝教を脱退した. しかし,同時期には,各地の教育会を核とした教 育報国会の結成が進められてそこに小学校教員会 (国民学校職員会)も吸収されることとなり,全 教連の基盤が揺るがされはじめていた. ただし,全教連は,結果として最後となる総会 を第 17 回全国連合国民学校職員会総会として 1942 年 11 月 13 ∼ 15 日に群馬県で開催しており 47),また機関誌『教育報国』を 1944 年 3 月まで 発行する48)など,組織活動を継続して現職教員 の組織としての固有性を主張しつづけることとな った.その実態については,機会を改めて検討す ることにしたい. 注 1)「全国教育者の大同団結成る 帝教,連合教育会 いよいよ合同可決」『教育週報』第 497 号,1934 年 11 月 24 日,3 ページ. 2)『帝国教育』第 663 号,1934 年 12 月 15 日,2 ペー ジ. 3)同上, 3 ページ. 4)「小学校教員会は帝教に加盟せず 二重になるから と」『教育週報』第 580 号,1936 年 6 月 27 日,7 ペ ージ.なお,この代表委員会は,第 20 回代表委員会 とみられるが,全教連側の記録等は未詳である.ち なみに,この代表委員会の 1 か月前の 1936 年 5 月 7 ∼ 9 日に富山市で開催された第 13 回総会時に第 19 回代表委員会が開催され,中沢留が全教連会長に選 出されている.「本会会長 交〈ママ〉迭,中沢留氏新任」 『教育報国』第 2 巻第 5 号,1936 年 5 月,45 ページ による.なお,中沢留は全教連会長に就任する前の 1936 年 3 月から帝教理事を務めていた.無署名「理 事中沢留氏」『帝国教育』第 692 号(1936 年 7 月) 67 ページ参照. 5)「義務教育の即時延長! 教育者の地位確保へ 盛 会の帝教総会」『教育週報』第 628 号,1937 年 5 月 29 日,2 ページ.

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6)全教連第 14 回総会の記録は,「第十四回連合教員会 総会記」『教育報国』第 3 巻第 5 号,1937 年 5 月, 45 ∼ 66 ページ参照. 7)全国連合小学校教員会『会務概況』1938 年 5 月, 50 ページ. 8)「全国教員会から当局へ建議 第二十二回代表委員 会で」『教育週報』第 630 号,1937 年 6 月 12 日,2 ページ. 9)全国連合小学校教員会『会務概況』1938 年 5 月, 50 ページ. 10)『教育報国』等に第 22 回代表委員会の記録が掲載 されている可能性があるが未確認である. 11)第七回世界教育会議日本事務局「世界教育会議と は何か(上)」『教育報国』第 3 巻第 2 号,1937 年 2 月,22 ページ. 12)『教育報国』第 3 巻第 5 号,1937 年 5 月,60 ペー ジ. 13)全国連合小学校教員会『会務概況』1938 年 5 月, 48 ページ. 14)同上,50 ∼ 51 ページ. 15)「三本建に統合 中沢教員会長談」『教育週報』第 799 号,1940 年 9 月 7 日,2 ページ.なお,中沢留 は 1940 年 5 月までには帝教理事を辞任していた. 1940 年 5 月 24 日の帝教評議員会において,中沢の 後任の理事の選挙がおこなわれている.『帝国教育』 第 741 号,1940 年 6 月,74 ページ参照。中沢の辞任 の理由は,全国理科教育振興展覧会(主催者は,文 部省東京科学博物館・帝教・全教連.1939 年 11 月 1 日∼ 20 日)において大赤字を出したことの引責とい う.茂串小市郎編『中沢留先生追悼録』1959 年,6 ページ参照. 16)同上. 17)1940 年 10 月 31 日には教育勅語渙発 50 年記念式 典,11 月 12 日には紀元 2600 年記念式典が開催され ており,それぞれの日に全教連の代表委員会を開い て,その両日の代表委員会をあわせて第 34 回代表委 員会とすることが確認されている.「第三十四回代表 委員会報告」『教育報国』第 6 巻第 12 号,1940 年 12 月,37 ページによる. 18)「第三十四回代表委員会報告」『教育報国』第 6 巻 第 12 号,1940 年 12 月,37 ∼ 38 ページ. 19)同上,39 ページ. 20)同上,39 ページ. 21)同上,38 ページ. 22)同上,39 ページ. 23)同上,39 ページ. 24)「府連合教育会 師範増設を力説す 府諮問案=教 育団体の統合」『教育週報』第 811 号,東京府市版, 1940 年 11 月 30 日,5 ページ. 25)「教育団体統合に教育報国会 府連から知事に答申」 『教育週報』第 814 号,1940 年 12 月 21 日,東京府 市版,4 ページ. 26)この「二本建て」の考え方は,全教連の第 34 回代 表委員会で宮本彦三郎委員が紹介した帝都教育会の 案に即したものとみられる. 27)「大政翼賛会との教育懇談会」『帝国教育』第 749 号,1941 年 3 月,68 ページ. 28)同上,69 ページ. 29)同上,70 ページ. 30)同上,70 ページ. 31)「翼賛会と帝教理事 無遠虚〔慮〕談義」『教育週 報』第 822 号,1941 年 2 月 15 日,2 ページ. 32)「大政翼賛会との教育懇談会」『帝国教育』第 749 号,1941 年 3 月,72 ページ. 33)同上,72 ∼ 73 ページ 34)無署名「新たなる発足を期して帝国教育会を脱退 今後は独自な立場で活動」『教育報国』第 7 巻第 4 号, 1941 年 4 月,60 ページ. 35)同上. 36)「貴会加盟脱退方届出之件」『教育報国』第 7 巻第 4 号,1941 年 4 月,61 ページ. 37)「全国国民学校教員会 帝教から脱退す 独自の活 動するため 中沢会長談」『教育週報』第 829 号, 1941 年 4 月 5 日,2 ページ. 38)「宣言 存続の気力は確保された」『教育報国』第 7 巻第 4 号,1941 年 4 月,2 ページ. 39)同上,3 ページ. 40)同上. 41)無署名「教育団体の統合問題―帝国教育会を中心 に」『教育報国』第 7 巻第 6 号,1941 年 6 月,25 ペ ージ. 42)「東京都国民学校教育報国会 愈々結成発足す」 『教育週報』第 967 号,1943 年 11 月 27 日,1 ページ. 4 3 )「 国 民 学 校 関 係 を 統 合 」『 教 育 週 報 』 第 9 6 6 号 , 1943 年 11 月 20 日,3 ページ.なお,都内の国民学 校職員会等の各団体が解散した日時等は未確認であ る. 44)「東京都国民学校教育報国会 愈々結成発足す」 『教育週報』第 967 号,1943 年 11 月 27 日,1 ページ. 45)「“組織は解消しても全国連携の道を”中沢全連会 長談」『教育週報』第 966 号,1943 年 11 月 20 日,3 ページ. 46)「全国連合小学校教員会規約」全国連合小学校教員 会『会務概況』1938 年 5 月,10 ページ.

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47)第 17 回総会の記録は,『教育報国』第 8 巻第 12 号、 1942 年 12 月、20 ∼ 44 ページに掲載されている.

48)『教育報国』第 10 巻第 2 号(1944 年 3 月)が終刊

参照

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