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禅林の食事について : 加賀大乗寺の行事食を中心として

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禅 林 の 食 事 に つ い て

一加賀大乗寺の行事食を中心として一

「椙 樹 林 大 乗 禅 寺 指 南 簿」(以 下 「椙 ・指 」 と 略 記 す る)は,江 戸 初 期 にお け る加 賀 大 乗 寺 の清 規 と もい うべ き もの で,大 乗 寺26世 月 舟 宗 胡(1618∼1696)に よ っ て 著 され た も ので あ るが,梓 行 され た の は 同書 に,大 乗 寺 35世 三 州 白龍(1667∼1760)の 序 が み られ る こ とか ら享 保 末 年(1730∼5)頃 とみ られ る。 各4cm厚 み の乾 ・ 坤 の2巻 よ り成 り,美 濃 判 濃 緑 の布 表 紙 本 紙 と もに褪 色 し,虫 害 もひ ど く,大 乗 寺 の星 霜 を思 わ せ る もの が あ る 。 乾 の巻 は 雲 堂 常 規 に は じま り,日 中行 事 ・月 中 行事 ・ 雑 規式,坤 の巻 は 年 中 行事 規 範 を詳 述 した も ので,江 戸 初 期 にお け る大 乗 寺 の年 中行 事 と,こ れ に即 した 行 事食 の 一 端 を うか が うこ とが で き る。 わ が 国 の 食 生 活 史 の 上 で,鎌 倉 期 以降 禅 宗 寺 院 か らの 影 響 に,き わ めて 深 く大 きい もの が あ っ た こ とは よ く知 られ て い る。 これ に つ い て は,鎌 倉 末期 か ら室 町 期 にか けて,禅 院 にお け る料 理 とみ られ て い た もの の 一 部 は 「庭 訓 往 来 」 な どの文 献 にみ え,ま た 禅宗 と とも に,そ の食 膳 の習 俗 を も と りい れ た 室 町 期 の 将軍 家 や 武 家 の食 膳 の模 様 な どが,同 時 代 の饗 饌 抄1)や,室 町後 期 か ら江 戸 初 期 に か けて 書 か れ た料 理 書2)の 中 に散 見 す る が,寺 院 の側 で食 事 に関 して記 録 した も のは 管 見 の 限 りで は き わ め て少 い 。 した が っ て禅 院 の食 に関 す る記 述 には 一 面 的 な 見解 に よる と考 え られ る点 も な くは ない 。 た とえ ば 「庭 訓往 来 」所 載 の 点心 の料 は,禅 院 一 般 の料 理 の よ う にみ られ て い る よ うで あ る が,実 際 に は,主 と して 五 山 を中 心 と した 臨 済 禅 院 に 多 く行 われ た も ので ある こ とが 禅宗 史 の上 か ら も推 察 され る の で あ る。 また,点 心 の料 と して記 載 され た もの の多 くは,当 時 の禅 院 にお い て,檀 那 や 同 門 の尊 宿 に対 して 供 され た お 斎 や 点 心 と称 した 客膳 の料 理 で あ っ て,禅 院 の 目常 食 で あ った わ け では な い こ と も記 憶 す る必 要 が あ ろ う。 禅 院 の食 事 は古 来 簡 素 を も って知 られ て い る。 行 往 坐 臥 即 行 持 の禅 の宗 旨S)によ る もので あ る。 禅 院 の食 生 活 が,武 家 層 か ら さ らに民 衆 と深 い かか わ りを もつ よ うに な る のは,禅 の全 般 的 な動 向 か らみ て, 江戸 期 に は い っ て か ら とい うべ きで あ ろ う。 禅 は,鎌 倉 期 以 降 の禅 が い わ ば 中 国 禅 の模 倣 期 とみ ら れ る の に対 して,江 戸 期 には 目本 の 禅 として 再 生 し,民 衆 とか か わ りを もち,日 本 人 の生 活 に ひ ろ く深 い 影 響 を 及 ぼ した 点 で,き わ め て重 要 な意 義 を もつ こ とに な った の で あ る 。 こ の こ とは食 生 活 の面 にお い て も例 外 で はな い 。 こ の よ うな観 点 に お い て 「椙 ・指 」 は近 世 初 期 に お け る曹 洞 禅 林 の食 生活 の一 端 を如 実 に うか が うこ との で き る資 料 の一 つ と して も貴 重 な もの で あ る 。 「椙 ・指 」 原 本 は 現 在金 沢 市美 術 館 に大乗 寺 宝物 の一 っ と して 保 管 され て い る が,活 字本 は 「曹 洞 宗全 書 」 第 5巻 に集 録 され てい る。 1.加 賀 大 乗 寺 の 沿 革 金 沢 市 長 坂 町 に あ る大 乗 寺 は 山 号 を 椙 樹 林 金獅 峯,ま た東 香 山 と称 し,寺 を大 乗 護 国 禅寺 とい う。 道 元 に よ っ て創 め られ た 曹 洞 禅 が 永 平 寺 以 外 の 地 に創 建 した 最 初 の 寺 院 で あ り,曹 洞 第 二 の本 山 と称 せ られ る古 刹 で あ る 。 大 乗 寺 は加 賀 の 守 護 富 樫 家 尚が 弘 長 元 年(1261)に 加 賀 押 野 荘野 市 外 守(現 在 の野 々 市 町)に 一 寺 を建 立 し, 大 目出 大乗 寺 と し,真 言 の僧 澄 海 阿 闍 梨 を住 せ し め た が,澄 海 は か つ て 永平 寺3世 徹 通 義 介(i219∼1309)に 学 ん だ こ とか ら,家 尚 とは か って,当 時 退 隠 し,永 平 寺 山内 に あ っ た徹 通 を招 き,正 応2年(1289)改 めて 禅 刹 と した もの で あ る 。 徹 通 が 弟 子 瑩 山 紹 瑾(1268∼1325後 に永 光 寺 ・総 持 寺 開 山)を 伴 って 大 乗寺 に進 山 して以 来,曹 洞 の宗 風 は新 た に大 乗 寺 に興 り,2世 瑩 山紹 瑾,3世 明峰 素 哲(1277 ∼1350)の 三 代 にわ た っ て曹 洞 発 展 の基 礎 づ く りが行 わ れ た とみ られ る。 経 営 面 で は,守 護 富樫 一 族 の菩 提 寺 と して の 庇護 を う け,ま た 足 利 尊 氏 が 大 乗寺 を北 陸 に お け る祈 願 寺 と して 以 来,室 町 歴 代 将 軍 は本 寺 に帰 依 し,富 樫 家 を通 じて教 書 を寄 せ た り,寺 地 の 安堵 状 や免 税 を許 す な ど して 庇護 して い る4)。 また 永 正14年(1517)に は 勅願 寺 とな っ て

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第23集

V・る5)。 しか し,長 享2年(1488)大 乗 寺 は加 賀 地 方 に お こ っ た 一 向 一 揆 の た め に外 護 富 樫 家 を 失 い,元 亀元 年(1565) 天 正4年(1576)2度 の兵 火 に よ っ て焼 塵 と化 した。 金 沢 の藩 士 加 藤 重 廉 の 帰 依 によ っ て,大 乗 寺 が 金 沢 木 ノ新 保(金 沢 駅 附 近)に 寺地 を得,禅 刹 と して再 建 さ れ た の は10年 以 上 後 の こ とで あ る 。 し か し,慶 長4年 (1599)金 沢 城 総 堀 修 築 の た め,木 ノ新 保 の寺 地 を収 用 され,慶 長6年 さ ら に石 浦 郷(現 在 の本 多 町 大 乗 寺 坂 南 側)に 移 転 した 。 寛 永 の 末 期,加 賀 藩 前 田家 の筆 頭 家 老 本 多 安 房 守 政 重 (慶 長16年 加 賀 藩 に仕 え る)が 大 乗 寺 に就 檀 し,以 後 本 多 氏 は 累 代 尊 崇 篤 く,大 乗 寺 の振 興 に尽 した。 大 乗 寺25 世 白峰 玄滴(∼1668)が 寂 した翌 寛 文11年(1671)本 多 政 長 の 請 に応 じて摂 津興 禅 寺 に あ った 白峰 の法 嗣 月 舟 宗 胡 が迎 え られ た 。 月舟 の住 院 に よ って 大 乗 寺 は 叢 林 と し て復 活 し,叢 林 と して適 切 で な か った 寺 地 移 転 の 計 画 も 推 進 され た。 後 に本 多家 を通 じて元 禄8年(1695)現 在 の地 を藩 よ り賜 わ り,同10年 移 転 して い る。 2.「 椙 ・指 」 成 立 の 意 義 江 戸 初 期 にお け る大 乗 寺 の宗 門 にお ける 位 置 づ け をみ る上 で,鎌 倉 期 以 降 の禅 の動 向 を概 観 す る 必 要 が あ ろ う。 鎌 倉 時 代 の禅 宗 は宋 元 に留 学 した 僧 た ち に よ っ て移 入 され た もの と,来 朝 禅 僧 た ち によ っ て将 来 され た もの と の二 系 統 に大 別 され る。 前 者 に は,栄 西 や 円 爾 な どの よ うに兼 修 禅 的 傾 向 の強 い もの と,道 元 を祖 とす る 曹洞 宗 永 平 寺 派,南 浦 を祖 とす る臨 済 宗 大応 派 な ど が あ つ た 。 曹 洞 お よび 臨 済 の 大 応 派 は,宋 朝 風 の純 粋禅 を守 っ て,ほ とん どの も のが 地 方 的展 開 を す す め て い た宗 派 で あ る。 来 朝 僧 に よ って 伝 来 され た 禅宗 諸 派6}は,室 町 幕 府 の 統 制 の も と に無 学 祖 発 の 仏光 派 か ら出 た夢 窓 派 な ど を中 心 として 五 山 の官 寺 と して 中央 に栄 え,室 町 期 を通 じて 禅 宗 主 流 派 と して 活 動 して い る。 南 北 朝 以 後 の禅 林 は,こ の五 山 叢 林 と地 方 的展 開 を した諸 派 との二 つ の潮 流 に よ って形 成 され,室 町期 に は五 山 の隆 昌,室 町 後 半 期 に は地 方 的展 開 の 諸 派 の抬 頭 を み る こ とが で き る。 室 町期 の五 山 の貴 族 化,官 僚 化,形 式 化 の動 向 に対 し て,越 前 永平 寺 の道 元会 下 にお い て は,宋 朝 の純 粋 禅 が 固 く保 た れ,こ こ に 参 じた人 た ち は禅 の純 粋 性 を保 と う と した人 た ち で あ っ た。 そ の よ うな入 人 の 中 に道 元 亡 き あ と永平 寺 の 中心 とな り,道 元 の 「正 法 眼 蔵 」 を書 写 集 成 した孤 雲 懐 弉(1198∼1280)が あ り,そ の 門 人 の 徹 通 義 介 ・義 演 ・義 準 等 がい た。 しか し道 元 の 寂 後,宗 義 の見 解 の相 異 な どか ら曹 洞 宗 門 もま た,そ の 後 の発 展 の過 程 で,い くつ か の宗 派 に分 裂 して い る 。 大乗 寺 の 開創 は こ の曹 洞 禅 草 創 の時 期 で あ った。 江戸 時代 の 禅 で 注 目す べ き点 は近 代 的 大 衆 化 の 動 き と,曹 洞宗 の宗 統 復 古 運 動 で あ る。 中世 の曹 洞 宗 各 派 は 地 方 の 守護 豪族 な どの帰 依 を うけて 各 地 に展 開 し,諸 宗 寺 院 を も吸収 す る な ど して 比 較 的 に民 衆 社 会 に基 盤 を も ち,永 平 ・総 持 ・大 乗 ・永 光 な ど北 陸 の禅 刹 を宗 門 の 中 心 と して い た の で あ るが,江 戸 期 に至 って,徳 川 家 康 の 禅 宗 帰 依 と幕 府 の政 策 に も とつ い て 関 三 刹 が お か れ,各 宗 派 の根 拠 は江 戸 に うつ され,諸 法 度 が相 つ い で 発布7} され る に及 ん で,新 た な宗 門 再 統 制 の機 運 が み られ る よ うに な っ た。 一 方 に は ま た,キ リス ト教 禁 圧 の た め に 実 施 され た 檀 家 制 度 が各 寺 院 の基 盤 を固 め た こ とに よ って,江 戸 初期 にお い て は仏 教 界 全 般 に 復興 の機 運 が お こ り,以 後 一般 社 会 と のか か わ りも緊 密 化 す る 。 こ う した 表 層 の 事 態 の背 後 に は,戦 国動 乱 期 を経 る 間 には じ ま った 宗 統 混 乱 の 問題 が あ っ た。 江戸 初 期 に は, 禅 の伝 統 で あ る人 法(法 系)伽 藍 法(寺 系)を 無 視 した 風 習 が 曹 洞 禅 門 一般 に行 われ て い た。 禅 は厳 密 な意 味 で 危 機 に あ った ので ある。 こ う した不 安 定 な状 態 に あ っ た た めに,明 末 の道 者,隠 元(1592∼1673)等 の来 朝,す な わ ち 黄 檗 宗 の影 響 に よる動 揺 も少 な か らぬ も の が あ っ た こ とが 瑞 方 面 山(1683∼1769)の 「洞 上 僧 堂 清 規 行 法 鈔」 「僧 堂 清 規 考 訂」 の著 述 に よ っ て うか が え る。 この 書 は 面 山が 宝 暦2年(1752)か ら4年 頃 に か け て,当 時 の 宗 風 の 弛緩,規 矩 の混 乱 を慨 嘆 して叢 林 にお け る 古 清 規 の沿 革 か ら説 きお こ し,叢 林 行 法 の規 矩 のす べ て を 綿 密 に説 き,誤 りを詳 さ に考 訂 した大 部 な著 述 で あ る が,こ の書 の 凡例 の 中 に,当 時 の禅 林 の一 般 的 黄 檗 傾 倒 の さま が 次 の よ うに記 され てい る。 永 瑩二 規 ハ共 二僧 堂 ノ清 規 ニ テ,禅 林 唐 宋 の古 風 ナ リ。 明朝 ニ ハ,僧 堂 ノ造 様 ヲ失 卻 シ,教 家 ノ十 六 観 音 ヲ摸 シ テ 禅堂 ト称 ス。 板 図架 構 共 二格 別 ナ レバ, 堂 内 ノ進 退 モ ソ レニ随 テ差 ナ リ。 爾 ヲ永 瑩 二 規 ノ僧 堂 規 矩 ヲ以 テ 明様 ノ禅 堂 ニ テ行 フユ エニ,事 事 二名 モ義 モ違 卻 ス。 行 脚 数 年 ノ間,到 処 二額 ヲ蹙 ム。 ユ ヘ ニ僧 堂 ヲ重 興 シ テ,永 瑩 ノ祖 風 ヲ後 ノ英 孫 二伝 ン タ メ ニ コ ノ鈔 ヲ述 ス。 面 山 に先 だ っ て月 舟 宗 胡 も早 くか ら宗 風 の 頽 廃 を憂 い て いた 。 月 舟 も一 時 期 長 崎 に赴 い て 道 者 や 隠 元 等 に 参 じ,明 朝 禅 に少 な か らず 啓 発 され る と こ ろが あ った よ う

6.6j

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で ある 。 こ の刺 戟 が,月 舟 とそ の 嗣 卍 山 道 白(1636∼ 1714)さ ら に瑞 方 面 山 に つづ く江 戸 期 の宗 統 復 古 運 動 の 機 運 とな った こ とは 明 らか で ある 。 こ うして 寛 文4年(1664)卍 山 が 「正 法 眼蔵 」 の序 を 作 り,同7年 永 平 寺30世 光紹 に よ っ て 「永 平 大清 規 」 が 編 輯 され,同12年 「永 平 広録 」 が 開 版 さ れ,延 宝2年 (1674)大 乗 寺 の月 舟 の 「雲 堂 常 規」 「椙 ・指 」 が 著 さ れ,同6年 に月 舟,卍 山に よ っ て 「瑩 山清 規」 が 開版 さ れ る な ど,加 賀 の大 乗 寺 を 中 心 に 古 規 の復 興 が 唱 え ら れ,復 古 運 動 が盛 ん に な った の で あ る 。 「椙 ・指 」 の成 立 も,こ う した運 動 の一 環 と して み る と こ ろ に宗 門 と して の意 義 が あ り,ま た 江 戸期 の生 活 史 学 的 興 味 も深 い も の が あ る。 寛 文11年 月 舟 は大 乗 寺 に進 山 す る や,か ね て か らの念 願 で あ る古 規 の依 復 を め ざ して,延 宝2年 大 乗寺 に廃 絶 して い た叢 林 を お こ し,礼 楽 の整 備,宗 典 の 研鑚 を強 力 に 実行 した の で あ る。 月 舟 と法 嗣27世 卍 山 道 白が 大乗 寺 に住 院 した 寛 文11年 か ら元 禄4年(1691)に か けて は, 大 乗寺 の最 も隆 昌 した時 代 で,規 矩 大 乗 とい わ れ,大 乗 寺 の諸 規範 も改 め て制 定 され た ので あ る。 「椙 ・指 」 は この 頃,住 持 月 舟 に よ って 著 され た もの で,こ の 書 の 「雲 堂 常 規」 の奥 書 に, 右 拠 二永 平 瑩 山 之 清規_而 定 之,尽 未 来 際 可 二遒 行_者 也 延 宝 二 歳 次 甲寅 夏 安居 目 方 丈 記 と あ る。 3.大 乗 寺 の 行 事 食 禅 林 の食 事 は単 な る食 物摂 取 で は な い。 食 事 もそ の調 製 も仏 法 そ の もの に ほか な らな い8)。 行 事 食 とされ る も の に はい ず れ も宗 旨の う らづ け が あ る こ とで あ り,古 規 を 相 承 す る ものが 多 い 。 した が っ て 禅林 の行 事 食 は,こ れ を包 含 した行 事 の全 容 のな か で み る べ き も の で あ る が,こ こ で は紙 面 の都 合 で,行 事 につ い て の記 述 は で き る だ け お さ え て,江 戸 初 期 にお け る大 乗 寺 の行 事 食 の あ りよ うを 「椙 ・指 」 の上 で考 察 して み た い 。 3-1餅 大 乗寺 の 行 事食 の第 一 に餅 が あ げ られ る。 年 中行 事 の 中 か ら時 間 的 に こ れ を追 って み る と,ま ず 正 月,仏 殿祖 堂 を は じめ 堂 塔 各所 を荘 厳 す る多 数 の鏡 餅,歳 朝 諷 経 に 住 持 自 ら諸 仏 に奉 献す る拝 賀 の鏡 餅,一 山 の修 行 僧 か ら 住 持 に 捧 げ られ る 礼賀 の鏡 餅,5目 の法 門 始 の法 門 餅, さ ら に8月15日 夜,月 光 菩 薩 へ の献 餅 等 にい ず れ も大 小 の鏡 餅 が 調 備 され る 。 ま た 祝 食 と して は,正 月3ヵ 目薬 石 の雑 煮(朝 食 は粥 が 正 規 で あ る),4日 の晩 首 座 の煎 点 に餅,礼 賀 の尊 宿 に供 応 の 雑 煮,7日 の人 日の佳 節 お よ び15日 の餅 粥,同 夜 禅 堂 にお ける 大座 煎点 の餅,1月20目 粥 坐 の法 衣 餅, さ ら に曹 洞 禅林 に お い て特 に重 視 され る 三仏 忌 五 大 尊 の 忌辰 に は いず れ もブ ド餅 が古 規 と して行 われ る。3月 上 巳 に は 草 餅,5月 端 午 に粽,6月 氷 の節 の氷 餅,そ して 臘 月26,7日 は法 衣 の餅 鴒 等,大 乗 寺 の一 年 は文 字 通 り 餅 に明 け,餅 で終 っ て い る。 鏡 餅 と法 衣 餅 わ が 国 の年 中 行事 と餅 の関 係 は古 代 か ら 密 接 で あ っ た。 古 くは元 目の朝,鏡 形 の餅 を拝 ん で歯(よ わ い)を 祝 う歯 固(よ わ い が た め)は,の ち に は が た め と 解 さ れ,平 安 期 の 宮 中 で は,餅 は は が た め の儀 の具 の一 つ と され た 。 鎌 倉期 か ら室 町期 に か け て,餅 に種 々 の信 仰 が 結 び つ い て い わ ゆ る鏡 餅 と して の意 味 が 明瞭 に な っ で く る。 た と えば 鏡 餅 を神 鏡 と結 び つ け て,こ れ に一 家 の安 寧 を願 った り,こ れ に よ っ て厄 を払 う とす る 思想 で あ る (「本 朝 食 鑑 」 餅)。 室 町 期 の 「忠 富 王記 」 の 中 に, 明 応 十 年 正 月 二 目,看 経 畢 後 祝 如 二昨 目一次鏡 二 向, 又 一 献 祝 著 とみ え,「 武 家 調 味 故 実」 に は, お 歯 がた め は 必 ず 正 月七 日以 内 の 吉 目を選 び,お 鏡 餅 を御 らん にな る の で あ る。 とあ っ て,鏡 餅 を飾 って これ に 向 っ て は が た め の祝 をす る こ とが,こ の 時 代 に公 卿 や武 家 の 正 月 の慣 習 とな っ て いた こ とが うか が え る。 当 時 の上 層 社 会 に食 生活 面 で も 少 な か らぬ影 響 を与 えて い た 禅林 に お い て は 如何 で あ っ た ろ うか。 応 安3年(1370)頃 に 書 か れ た と み ら れ る 「青 原 山 永沢 寺 行 事 之 次 第9}」 の 中 にそ の一 端 を うか が うこ とが で き る。 同資 料 中 の 「檀 那 青 野 殿 年 始 之 礼 正 月 十 三 目本 走 ノ次 第 」 の項 に,正 月 に檀 那 青 野 家 の礼 賀 の 一 行 を迎 え て,一 山 を あげ て これ を 歓 待 す る次 第 が,住 持 通 幻 寂 霊 に よ っ て詳 述 され て い る。 当 日は 寺 の総 門 山 門仏 殿 諸 堂 方 丈 の唐 戸 を こ とご と く 明 け開 く。 維那 は 山 門 ま で一 行 を出 迎 え,維 那 寮 へ 請 じ い れ る。 菓 子茶 を す す め,住 持 は維 那 寮 へ 出 向 い て一 礼 す る 。 次 に室 間(方 丈 の客 間)へ 請 す る。 青 野 殿 お供 の 牌 所 の坊 主 衆,侍 衆,中 間衆 は それ ぞ れ別 寮 に請 じて接 待 の 僧 を配 す る。 さて檀 那 青 野 殿 の供 応 の模 様 は, 一 ,鏡 バ カ ワ ラ ケ三 斗 入 ウス物 ニ スエ テ 出 ス 。次 ニ カ ンナ カ ケ三 枚 二紙 ヲ敷 テー 方 搗 栗 ケ ツ リテー ツ,、

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究 紀

第23集

一 方 ハ 昆 布 一 ツ,左 ノ坐上 二置 ク。 サ テ三 献 組 肴 冷 酒 式 ノ如 シ。 引 出 物 杉原 一 束,同 扇 子 同菓 子 数 ヲモ ル,次 二茶 其 後 鏡 上 テ御 台膳 ヲ出 ス。 シ タテ ハ ニ ノ 膳 三 ノ膳 引 物 時 ノ景物 手 ヲ尽 シ テ結 構 ス ル也 。 同 提 子 ヲ出 ス。 次 二膳 取 テ仙 釈 茶 子 楊 子 ヲ ス エ テ 昇 ル 也 。 同茶 其 後 風 呂 二入 テ帰 レバ 亦 座 工請 シテ 湯 ヲ 出 ス。 次 二 羮,次 二麺 子,同 鏡 上 テ 引 替 肴 豆 腐 熱 テ 出 ス・ 同提 子 ヲ以 テ 出 ス。 給 仕 二 人 同時 に左 右 工 以 テ 出 テ鏡 ノ左 右 二置 ク也 。 以 下 略 。 こ の記 述 か らは 中世 に お け る禅 院 の 供 応 の 形 態 が詳 さ に うか が われ,ま た 中世 にお け る禅 院 と檀 那 との 関 係 を 基 盤 とす る精 進 料 理 発達 の要 因,禅 院 と上 層 階級 との食 文 化 の伝 播 交 流 の形 態 な ど,食 生 活 史 の 上 で示 唆 され る もの が少 くな い が,こ こ では 鏡 餅 に焦 点 を お く。 本 資 料 の上 で,鏡 は鏡 餅 と祝 食 の餅 の称 と両 様 に使 わ れ て い る。 供 応 の第 一 に檀 那 青 野殿 に献 じ られ るの は 鏡 餅 で あ る。 うす で のか わ らけ に据 え られ た鏡 餅 が なみ な み な らぬ 大 き な もので あ った こ とが うか が われ,鏡 餅 そ の もの と,そ の量 に意 義 の あ っ た こ とが推 測 され る。 ま た 二 人 の 給 仕 の 僧 が もち 出 す提 子 は,特 に鏡 餅 の左 右 に お く こ とを も って 意 義 づ け られ て い る こ とも う か が え る 。鏡 餅 は 中世 の 禅林 に お い て,祝 儀 とと も に尊 崇 を表 掲 す る 象徴 的 な 意 味 を もつ も の で あ った こ とが うか が え る の で あ る。 そ して これ は,鏡 と餅 に対 す る 禅 門 独 自の 犠 統 的 意識 に よ る もの とみ られ るの で あ る。 鏡 に 関す る語 句,偈,問 答 な どは 禅 門 に は少 くな い。 道 元 の、「正 法 眼 蔵 」 に 「古 鏡 」 の 巻 が あ る。 仁 治2年 くユ241)9月9目 興 聖 寺 にお い て 示衆 され た も の で あ る。 冒頭 に, 諸 仏 諸 祖 の 受 持 し単 伝 す る は,古 鏡 な り,同 見 同面 な り,同 像 同鋳 な り,同 参 同証 す 。 胡 来 胡 現,十 万 八 千,漢 来 漢 現,一 念万 年 な り。 古 来 古 現 し,今 来 今 現 し,仏 来 仏 現 し,祖 来 祖 現 す る な り。 とあ る 。厂古鏡 」 一 巻 の凝 縮 され た 要 旨 ともい うべ き 一 節 で あ る。 要 約 すれ ば, もろ もろ の仏 祖 が伝 え来 る もの は,そ れ は仏 心 と も, 智 慧 と も,あ るい は心 印 と もい うこ とが で き よ う。 だ が そ れ ら は結 局 抽 象 的 な概 念 に しか す ぎ な い。 それ を具 象 的 にい うな らば,古 鏡 を も って象 徴 す る こ とが で き る。 も ろ も ろ の仏 祖 が 営 む と ころ を 古鏡 に か こつ け てい えば 同像 同鋳 で あ る。 一 致 して い る の で あ る。 そ の営 む とこ ろを つ きつ め て い えば,常 に あ る が ま ま を把 握 して い る こ とを 特徴 とす る の で あ る。 そ して そ の よ うな仏 祖 のあ りよ うは 古 今 を通 じて 変 る もの で は な い こ とが 示 され て ヤ・る の で あ る。 この 一 節 は 仏 祖 の一 入 か ら一 人 へ と仏 心(心 印)を 単 伝 す る あ りよ うを語 る の に,古 鏡 を も って 象 徴 してい る の で あ る。 古鏡 とは,智 慧 を 喩 え てい うの が 禅 門古 来 の な らい で あ る。 智 慧 は梵 語,般 若(prajna)の 訳 語 で あ る。 智 は 梵 語,若 那(jnna)慧 は 末 底(mati)の 訳 で,厳 密 に は 波 羅 蜜(paramita)が っ い て最 高 の智 慧 と され る。 冒頭 の一 節 を掲 げ た の ち,道 元 は 古鏡 に ち なむ 仏 祖 の 言 行,問 答 な どを 多 くあげ て これ を 説 い て い る。 伽 那 舎 多 尊者 の 円鏡 の物 語,六 祖 慧 能 の 禅 門 壁:書の 明 鏡 の偈,雪 峰 ・玄沙 ・三 聖 の 古鏡 に ち な む 問 答,中 国古 代 の黄 帝 の鏡 の こ と,そ して 南嶽 が 馬祖 の た め に 示 した 「瓦 を磨 い て鏡 となす 」 の物 語 な どが 論 じ られ て い る。 道 元 は い う。 人 を鏡 とす とい ふ は,鏡 を鏡 とす る な り,己 を鏡 と す る な り,五 行 を鏡 とす る な り,五 常 を鏡 とす るな り。 入 物 の去 来 を見 る に,来 無 。述,去 無 。方 を人 鏡 の 道 理 とい う。 鏡 は また 自己 本 具 の仏 性 に喩 え られ,そ れ 故 に照 心 の 具 と も され て,古 くは坐 禅 の とこ ろ にか け,心 行 の助 け と した とい う(「 四分 律 行 事 鈔 資 持 記 」)。 宋 か ら帰朝 して建 仁 寺 で迎 えた 帰朝 後初 の 正 月二 十 日 (安 貞2年 ・1228)道 元 はは じめ て法 衣 の儀 を修 した と 伝 え られ る。 法 衣 は仏 衣 と もいい,僧 の着 す る衣 服 を一 般 に は い う が,本 来 の意 味 は大 衣 ・七条 衣 ・五 条 衣 の三 種 の袈 裟 を い い,出 家 の正 衣 で あ る。法 衣 につ い て道 元 は 「正 法 眼 蔵,袈 裟 功 徳 」 の巻 に,そ の所 伝 と功 徳 につ き,さ ら に そ の種 類 や 材 料,そ の着用 の仕 方,洗 い方,縫 い方 に至 る まで 綿 密 に説 き示 して い る。 袈 裟 はむ か しか ら解 脱 服 と称 せ られ る。 釈 迦 牟 尼 仏 が 摩 詞 迦 葉 に,正 法 眼 蔵,無 上 菩 提 を付 属 した も う た と きに は,仏 正 伝 の袈 裟 と と も に伝授 した の で あ る 。 もろ もろ の仏 は,そ の成 道 に あた って か な らず 袈 裟 を着 け た 。袈 裟 の功 徳 の最 尊 を知 る べ き で あ る。 と道 元 は説 く。 三 世 諸 仏 の解 脱 瞳 相 な りと され る法 衣 の儀 式 に奉 奠 す る の に道 元 は餐 を も って し,餐 は赤 小 豆 を もって 調 製 さ れ た と い う。 「万 松 山清 規 ・乾10)」の年 中行 事 正 月 二 十 目 の項 に, 法 衣餐 にっ い て,

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こ の餐 赤 小 豆 ニ テ調 フ。 菜 ヲ ソヘ ズ,一 椀 ニテ 再 進 セ ズ,慇 懃 ノ至 ヲ表 ス。 水 引湯 ハ大 衆(だ い し ゅ ・ 修 行 僧)飲 ミ,余 リヲ俗 人 二飲 セ ズ,河 海 ノ 中 二入 ル。 コ ノ餐 ノ桶 器 椀 盤 ヲ洗 シ湯 水 モ河 海 二入 ル 。 河 海 ナ キ所 ハ,人 行 ナ キ浄 地 二棄 ッ。 とあ る。 同 書12月 の項 に は法 衣 の餅 搗 き の敬 重 を 極 め た 作 法 が詳 述 され て い る。 般 若 波羅 蜜 に喩 え られ る鏡 と,道 元 に は じ まる 法 衣餅 に凝 縮 され る 餅 へ の尊 崇 が重 な っ て,禅 門 にお ける鏡 餅 以 下 もろ もろ の 餅 は き わ め て尊 貴 な意 義 を もつ もの とな った の で あ る 。 延 宝年 間 の 大 乗 寺 に お い て は,餅 搗 は12月27目(小 尽 に は26目)に 恒 規 と して行 われ て い る。 こ の 日の 行 事 と 餅 につ い て,月 舟 は綿 密 な記 述 を の こ してい る。 月舟 の 宗 統 復 古 の 烈 烈 た る思想 と規 矩 大乗 の全 貌 を うか が うに た る も ので あ るか ら,少 し長 い が原 文 を掲 げ る。 朝 粥 ヲ不.献,飯 ヲ設 ク,仏 前 祖 堂,如 二目 中_シ テ 飯 ヲ献 ズ 。法 衣 ノ餅 ノ時,主 人(住 持)及 び 大 衆, 直 綴 絡 子 ニ テ撞 ベ シ。 餅 大 半 出 来 ノ後,本 尊 祖 堂 二 献 ズベ シ 。殿 司各 処 二焼 香 三 拝 シテ 献 ズベ シ。 其 ノ 後 大 衆 モ 点心 スベ シ。 三 行 略 諸 堂 前 ノ献 餅,照 二 典 座 ノ 日記_弁 ズ ベ シ 。本 尊 ノ餅 子 厚 重 ナ ル ベ シ 。瑩 山 和 尚 云,仏 前 可 。備 二弁 仏 供_餅 可 二重 積_,今 年 始 供二五 十 枚_後 年 以 。多 為 二慇 重_云 云,誠 哉 家訓 所 。遺 不 。可不 。慕 。餅 子 ハ 書 院 ノ座 内 二,草 莚 ヲ舗 き,餅 ヲナ ラブ ベ シ。翌 日庫 院,命 二行 者_,ヒ シモ チ ヲ切 リテ 円鏡 餅 上 二荘 ル ベ シ 。本 尊 前 三 重,普 菴,達 磨, 大 権,地 蔵,維 摩,各 一 重 ヅ ツ,祖 堂,五 大 尊 前各 一 重,ヌ リタル大 三方 ニ モ ル ベ シ。 総 前 住 前 二五 飾 ホ ド,先 師 前,開 基 法 印各 一 重,将 軍 牌 家 尚 前 二五 処 ホ ド,大 檀 那 前 ニ ハ,随.時 多 カ ルベ シ,万霊 牌, 日牌,月 牌 前 各一 重 ヅ ツ。 達 磨 像,洞 山像,永 平像 ヲ書 院 二掛 テ,以 上 三重,是 ヲ法 衣 餅 ト云 ナ リ。禅 堂 本 尊 三 重,衆 寮 ニ テ,龍 天跋 陀,各 一 重 ヅ ツ,東 司 前 一 重,山 門 ニテ本 尊 等 三重,羅 漢 前 十 入 重,鎮 守 二五 重,当 寺 ノ鎮 守 ヲ五社 神 ト云 ヘ バ五 重 備 ベ シ, 是 ハ 山 門上 二備 へ 置 ベ シ。 韋 駄 天,大 黒 神,釜 火 神,蔵 庫 前,各 一 重 ヅ ツ,方 丈 ノ内 仏檀 ミ ナ 献 餅 ス。年 徳 ハ 向 。方 柵 ヲ カ ザ ル,餅 子 モ ッ トモ如 法 ナ ル ベ シ。 隆 昌 時 の 大乗 寺 の威 容 を物 語 る鏡 餅 とそ の量 で あ る。 そ の 量 は 大 乗寺 二世 瑩 山禅 師 の家 訓 で あ った の で あ る。 竜 天 の餅 正 月2目 の行 事 の 末尾 に, 晩 間薬 石 ハ 衆 寮龍 天 ノ餅 ト云,龍 天 ノ円 鏡 餅 ヲ雑煮 ノ 中 工入 テ出 ノ ミナ リ。 とあ る。 龍 天 の餅 は 曹洞 禅 の 宗風 を端 的 に示 す 独 自な も の で古 規 の一 つ で あ る 。 叢 林 にお い て,修 行 僧 は衆 寮 の 各 自の 机 の 上 に古来 白 山権 現 の小 掛 軸 をか け て い る。 軸 に は, 奉 請 竜 天 白山 護 法善 神 と:書か れ て い る。 白 山 は越 前 加 賀 両 国 の境 界 に連 る高 山 (2,702m)で,山 上 に 白 山権 現 が祀 られ て い る。 白 山 権 現 はr若 き 目の道 元 に影 随 して入 宋 し,道 元 の修 行 を 加 護 し,「 碧巌 集」 の 書 写 を助 け た と伝 え られ る とこ ろ か ら,曹 洞 禅 門 で は,修 行 僧 は 白 山権 現 を看 経 の本 尊 と して 祀 り,修 行成 就 の祈 願 を怠 らな い 。正 月 こ の 白 山権 現 像 に各 自寿 餅(じ ゅび ょ う小形 の鏡 餅)を 供 え,祈 願 の後,そ の一 部 を薄 く切 っ て 師 の も と に送 る 。 師 の和 尚 は これ を粥 に入 れ て 弟子 の修 行成 就 を 念 じて 喫 す る の で あ る。 大 乗 寺 で は 正 月2日 の 薬 石 の雑 煮 に この 寿餅 を入 れ,護 法 を祝 して 大 衆 に 供 養 して い る 。 また 江 戸初 期 に お け る可 睡 斎 で は,正 月5目 法 門 始 の 祝 茶 に餅 を配 り, これ を龍 天 餅 と称 して い た(「 万 松 山清 規 」)。護 法 の 毒 餅 は,今 日も叢 林 に行 わ れ て い る。 韋 駄 天 の鏡 餅 正 月 三 目は朝 課 の の ち,庫 院 にお い て 韋 駄 天 諷 経 が 行 われ る。 韋 駄 は梵 音 ヴー ダ(veda)で 知 論 と訳 す 。 南 方 増 長 天 王 八将 の一 で仏 法 の守 護 神 で あ る。 禅 院 では 古 来 護 法 善神,特 に伽 藍 斎 供 の守 護 神 とし て庫 院 に安 置 して い る 。3目 薬 石 は韋 駄 天 の鏡 餅 を供 養 す る。 4日 か ら暁天 坐禅(五 更 ・午 前4時 に は じま る)も 恒 規 の 如 く行 われ,殿 司(知 殿)は こ の 日粥 後 に仏 前 の鏡 餅 を 収 め る。 法 衣 餅 は20日 の法 衣 の儀 の前 夜 に これ を収 め る 。4日 夕刻 行 われ る首 座 の 煎点 は雑 煮 で あ る(煎 点 につ い て は 稿 を改 め る)。 法 門餅 正 月5日 は 法 門始 め と称 し,朝 課 後 こ の儀 式 が行 われ る。 同夜 庫 堂 で 供 養 され る 雑 煮 を 法 門 餅 とい う。 法衣 餅 正 月20日 恒 規 の 朝 粥 は 行 わ れ ず,法 衣 餅 を食 す る の で あ る。 朝 の粥,斎 時 の飯 は 禅 林 の 伝 統 で あ り,行 持 そ の もの で あ る か ら,朝 粥 の 形 が 変 え られ る の は年 間 に この 法 衣 の 日の み で あ る。 前 述 「万 松 山清 規 」 に よれ ば,こ れ は 小 豆 で 和 え た餅,今 目禅 林 で通 称 され る ぼ た餅 で あ る。 粉 餅 と ブ ド餅 2月15目 涅 槃 会 で あ る 。 粥 後 大 鐘 百 八 声 して 涅 槃 講式

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第23集

が 厳 修 され る。 大乗 寺 で は涅 槃 講 式 には 粉 餅 を上 供 す る 習 わ しで あ っ た。 粉 餅 とい うこ とば は 禅 寺 に古 くか ら行 われ て きた こ とば で,今 日 も慣 用 され て お り,餅 に 大 豆,胡 麻,紫 蘇 な どの粉 を まぶ した もの をい うが,江 戸 初 期 の 大 乗寺 の粉 餅 は,今 日の それ とは 少 し ちが った も の で あ った よ うに 思 わ れ る 。 「椙 ・指 」 の3月28日 の 項 に 大乗 寺 三世 明 峰 忌 の記 が あ る。 こ の 日は 門 下 の尊 宿 も 多 数 参 集 して 法 会 が 行 わ れ る。 こ の明 峰 忌 の献 供 の 中に ブ ド餅 とい う名 が み える 。 前 日27日 の記 に, 来 目ハ 当寺 三 代 明 峰忌 ノ故 二,知 殿 粥 後 ヨ リ大 殿 ヲ 荘 厳 シ,ブ ド餅 ヲ用 意 ス。 三 仏 忌 五 大 尊 ノ忌 辰 ニハ 皆 ブ ド餅 ヲ弁 備 ス。 と あ る。 三 仏 忌 は釈 尊 の降 誕,成 道,涅 槃 の忌 辰 で あ る。 五 大 尊 は 門 派 に よ って 多 少 の ち が い は あ る よ うで あ る が,大 乗 寺 で は高 祖 道 元,二 祖 孤 雲 醸弉,永 平 三 世,大 乗 寺 開 山 徹 通 義 介,大 乗 寺 二 世 瑩 山 紹 瑾,同 三世 明峰 素哲 の忌 辰 を い う。 涅 槃 会 は三 仏 忌 の一 で あ る。2月15目 の項 に 記 され た 粉 餅 とはす なわ ち ブ ド餅 で あ る とい うこ とに な る。 さて,ブ ド餅 そ の もの につ い て は本 資料 に は な に も記 され て い ない 。 寛 永20年 刊 の 「料 理 物 語 」 に は 当 時 の餅 の 名 が い ろい ろ あ げ られ て い る が,そ れ ら しい もの は見 あた ら ない 。 ブ ドとい うこ とば に近 い もの に,神 社 の神 饌 の伏 兎 が あ る。 伏 兎 は館 鮭,麺 麸 と も書 き,布 止 あ る い は 部 斗 とも呼 ぶ 。 「和 名 鈔」 に 油 煎 餅 名 也,俗 云 伏 兎 どあ り(日 本 国 語 大 辞 典),も とは 中 国伝 来 の 油 で揚 げ た 小 麦 粉 製 品 で あ った が,神 饌 の伏 兎 は 山芋 を摺 っ てそ れ で 米 粉 を捏 ね て延 べ,6cm程 の長 さ に切 っ て茹 でた も の とい う。 ま た 近 似 の呼 称 を もつ もの に,川 上 行 蔵 博 士 の研 究 に よる と ブ ドー餅 が あ る。 これ は 流 し もの の一 種 で,糯 米 粉 と粳 米 粉,白 砂 糖,黒 豆 を材 料 と した蒸 菓子 で あ る。 前 者 は 加 茂 神 社 の神 饌 と して伝 え られ,後 者 は 江戸 初 期 の 刊 行 と推 測 され る料 理 書 「阿 じの 花」,ま た 元 禄7年 (1693)刊 の 「驫 男 重 宝 記」 に み え てV・る か ら,年 代 的 には 錯 誤 は ない よ うで ある が,禅 林 の行 事 食 とい うも の が 古 規 の相 承 で あ る とい う観 点 か らみ て,月 舟 の書 き 残 した ブ ド餅 が こ うした 菓子 とは結 び つ か な い よ うに考 え られ る。 柳 田 国 男 の 「分 類 食 物 習 俗語 彙」 の 「団子 」 の項 に, ブ ト,福 井 県 大 野 郡 下 庄村(現 大 野 市)で 米 の ク ダ キ,粃 な ど を粉 に して 団子 に した もの を い う(白 山 W彙 山村 の食 習)。 とあ る 。 ブ ドは 多 分 に方 言 的 な音 韻 の こ とば で あ る。 地 域 的 に も この あ た りは 鎌 倉期 以 降,曹 洞 禅 の 中 心地 帯 で あ り,ま た 前 述 の 白 山権 現 と曹洞 禅 の ゆ か り も見 逃 す こ とは で きな い 。 ブ ドと ブ トと濁 音 と清 音 の一 字 の ち が い は あ る が,こ れ は 大 乗 寺 の ブ ド餅 に もっ と も近 い もの と 考 え られ る。 現 大 野 市 は,福 井 か ら越 美 北線,ま た は京 福電 鉄 で約 1時 間 半,下 庄 村 は そ こか ら さ らに深 く山ふ と ころ に は い った 山村 で あ る。 こ の あた りは名 に しお う 豪 雪 地 帯 で,昔 は水 田 を もつ も のは 稀 で,細 細 と した 焼 畑農 業 の 寒村 で あ った 。 乏 しい 食 糧 を補 うた め に,毎 年 こ こか ら 米 貰 い の行脚 の人(し ろ こめ 乞食 と通 称 され た とい う) が 出 て い った とい う。 しか し,そ の 下庄 村 の 大 半 は手 取 ダ ム の水 底 に没 して今 は ない 。 ブ ド餅 とい う名 は,大 乗 寺 は じめ,禅 寺 の ど こに も, また 民 間 に も記 憶 す る人 は す で にい な い よ うで ある 。 大 乗 寺 の ブ ド餅 も,元 来 は 「和 名 鈔」 に み え る油 煎 餅 の賠 鮭 で あ っ た の か も しれ な い 。た だ平 安期 にわ が 国 に 伝 え られ た麺 莚 は,長 安 を都 とした 唐 の食 文 化 をな らっ た も の で あ るか ら材 料 は小 麦 粉 で あ った 。 禅 林 に こ の餅 が 中 国 か ら伝 え られ た とす れ ば,そ れ は 南 宋 時 代 の江 南 の禅 林 に行 わ れ た もの で あ った はず で あ るか ら,名 称 は 同様 で あ った として も,材 料 は 米 の粉 で あ った 可 能 性 が強 い の で あ る。 米 の粉 の館 鮭 は,雪 深 い 北越 の 禅 寺 で,土 着 の 入人 の 嗜 好 に あ う油 で 揚 げ ない 粉 餅 に変 え られ て い った もの で は なか った ろ うか 。 信 心 深 い 白 山山 麓 の寒 村 の 人 た ち は,貰 い集 め た しろ こ め の粉 や,粃 の粉 で,寺 の粉 餅 に な ら っ た も の を作 っ て祖 先 の忌 目の 供物 と した の で あ ろ う。 月 舟 の書 き残 した ブ ド餅 を伝 え る粉 餅 は,今 も禅林 の行 事 食 と して行 われ てい る。 氷 餅 6月1日 半 夏 の節,ま た 氷 の 節 と もい っ た 。朝 課 の あ とに行 われ る行 茶 の とき,大 衆 一 同 に氷 が 供 養 され た 。 大 乗 寺 で は毎 年,年 中行 事 として,古 くは 檀 越 富 樫 家 か ら白 山 の寒 中 の氷 を贈 られ て い た の で あ る 。 年 に よ って 氷 の な い場 合 に は氷 餅 を行 茶 に用 い る 習 わ しで あ った。 江 戸 期 の氷 餅 は,大 名 か ら将 軍 家 へ の献 上 品 と も され て い た く らい で一 般 的 な食 品 で は な い 。 月 舟 住 院 の 頃 の 檀 越 は前 記 の よ うに加 賀 藩 の 筆 頭 家 老 本 多 家 で あ るか ら, 当時 の氷 や 氷 餅 は本 多 家 の寄 進 に よ った もの と 思 わ れ る。 月 天 子 の餅

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8月15目 は大 乗 寺2世 瑩 山禅 師 の正 忌 で あ る。 宿 忌 行 道,放 生 が 行 われ,門 末 の諸 尊 宿 も参 集 して方 丈 で行 茶 が あ る 。 献 供 の 中 に は ブ ド餅 も調 備 され た はず で あ る。 夕 刻,大 衆 よ り堂頭 和 尚 の た め に薬 石 を設 け る。 黄 昏 鐘 の 鳴 る時,住 持 大衆 は 袈裟 を搭 け,鏡 餅 を月 光 菩 薩 に献 ず る儀 式 が 行 わ れ る 。終 って大 衆 は方 丈 に上 っ て礼 賀 の 行 茶 が 行 わ れ る。 月 明 の 大 乗 寺 の行 事 で あ る。 3-2粥 粥 斎 は禅 林 の食 事 の 基 本 で あ り,典 型 で あ るil)。粥 は 古 くか ら僧 の食 物 とされ て い る。 そ の 由来 に つ い て瑞 方 面 山 が 「洞 上 僧 堂 清 規 考 訂 別 録 巻 第 三 」 に 「大集 経 偈 」 を ひ い て述 べ る とこ ろ を要 約 す る と, 如 来 の菩 提 樹 下 ニ テ,成 正 覚 ノ前 二,糜 ノ供養 ヲ ウ ケ玉 フ 因縁,仏 門 二浄 粥 ヲ用 ル本 な り。 とあ り,こ の 糜 とは,乳 に少 量 の米 を入 れ て 煮 た 乳 糜 で あ る とい う。 仏法 上 の粥 の法 につ い て は 「摩 訶 僧 祗 律 」 巻 第29に 次 の よ うに ある(以 下原 漢文)。 釈 尊 が 舎 衛 城 にお られ た 時,城 内 の難 陀(Nanda・ 喜 ・仏 法 の守 護 神)の 母 ,憂 婆 斯荼 羅母 は半 月 中 に3度 布 薩 を うけた 。8日14日15日 で あ る 。 布 薩 行 の 目に 食 を作 り,ま ず 比 丘 に供 養 し,後 に 自 ら も食 した。 翌 日ま た布 薩 食12)を作 ろ う と釜 で飯 を煮 て い る時,釜 の飯 の上 に で き た飯 汁 をす くって 飲 ん だ と こ ろ,宿 食 も消 え,身 中 の 疾 も除 かれ た。 難 陀 の母 は 「阿 闍 梨 は 一 食(い ち じき) の人 で あ る か ら粥 な ら用 い る こ とが 許 され る で あ ろ う と 考 え,多 量 の水 に米 を少 量 入 れ,米 と水 との 別 の な くな る ま で 煮 て,胡 椒,篳 菱13}を加 え,で き上 った 粥 を 甕 に 満 して 祗 園 精 舎 に詣 り,仏 足 に礼 して の ち,釈 尊 に 向 っ て 申 しあ げ た 。 願 くば 世尊,諸 比 丘 に粥 を食 す る を聴 した まわ ん こ と を。 釈 尊 は 申 され た 。 今 目 よ り後,粥 を食 す る こ とを聴 さん と。 そ の 目檀 越 が祗 園精 舎 に詣 り,衆 僧 に飯 を 供 養 し た 時,比 丘 た ち は疑 念 を生 じた 。 世 尊 の制 戒 に よれ ば 処 々 食14)する こ とは で き な い。 処 々食 に触 犯 す る こ とな く食 す る こ とがで きよ うか 。 釈 尊 は 申 され た。 釜 か らす くい あ げ た粥 が,画 いて 文 字 の 跡 をな さな い薄 い 粥 で あれ ば,こ れ は処 々食 で も別 衆 食 で も満 足 食15)で もな い。 も し粥 で あ っ て も釜 か らす くい上 げ て 文 字 の跡 を残 す よ うな粥 で あれ ば,処 々 食 と名 づ け,ま た 別 衆 食,満 足 食 と名 づ け るの で あ る と。 そ して そ の 時 釈 尊 は 偈 を説 い て 呪 願 され た 。 持 戒 清 浄 人 に奉 ず る と ころ, 恭 敬 して 時 に随 うて 粥 を以 て施 さ ん に, 十 利 あ りて 行 者 を饒 益 せ ん 。 色,力,寿,楽,辞 清 弁 除宿 食 風,除 飢 渇,消 是 を名 け て薬 と為 す と は仏 の所 説 な り, 人 天 に生 じて常 に楽 を受 けん と欲 せ ん に は, 応 に 当 に粥 を以 て衆 僧 に施 す べ し。 以上 が 「摩 訶 僧 祗 律 」 に み え る僧 の食 と して の粥 の 由 来 で あ り,法 で あ る。 禅 寺 の薄 粥 に も厳 た る仏 法 の あ る こ とが 知 られ る。 「赴 粥飯 法」 の粥 時 の偈 の 中 の 「粥 有十 利16)」の 四句 の偈 は,祗 園精 舎 で釈 尊 が説 かれ た上 掲 八 句 の掲 意 を と って 略 偈 と した もの で,唐 代 の 百丈 禅 師 の作 とみ られ て い る。 禅 林 目常 の粥 は 白粥 で,副 菜 は 胡 麻 塩 が 正 規 で あ る (今 目で は これ に大 低 た くあ ん が 添 え られ る)。 面 山 の 述 べ る とこ ろ に よれ ば 「叢 林 にお け る粥 は 羮 釘 を 用 い ず,胡 麻 塩 を添 え る。 但 し粥 の うち に は少 しず つ 大 豆 小 豆 の類,ま た は菜 葉 菜 根 を細 か に切 っ て加 え る の で あ る。 これ は釈 尊 在 世 の時 の種 種 粥 ・八 種 粥 の例 に よ る も の で,こ れ は仏 制 に して 古 風 で あ るか ら,た とえ尊 客 で あ って も,粥 に羮 釘 は無 用 で あ る とい う(江 戸 時 代 の一 時 期,粥 に 羹 を添 え た禅 院 が あ っ た よ うで あ る)。 種 種 粥 に っ い て は 「摩 訶 僧 祗 律 」 巻 第29に 酥 粥,胡 麻 粥,乳 粥,酪 粥,油 粥,魚 肉粥 等 が あ げ られ て い るが, 「十 誦 律 」巻 第26に は次 の八 種 が示 され て い る 酥 粥 油 粥 胡麻 粥 乳 粥 小 豆 粥 摩 沙 豆 粥 麻 子 粥 清 粥 これ らは,酥 粥 は 牛 馬 等 の 酥 を,油 粥 は 荏 麻 等 の 油 を,胡 麻 粥 は胡麻 の 実 を,乳 粥 は牛 馬 等 の 乳 を,小 豆 粥 は緑 豆 赤 豆 を,摩 沙 豆 粥 は 大 豆 を,麻 子 粥 は 黄麻 の 実 を それ ぞれ 米 粟 に まぜ て 煮 て 粥 と した もの で ある 。 ま た 清 粥 は米 或 は粟 を煮 て 薄 粥 と した もの で あ る。 釈 尊 は これ を 「我 食 入 種 粥 」 と し て示 し 「粥 有 五 事 利 身 」 と,こ こ で は粥 の五 つ の利 を あ げ て い る17)。す な わ ち, 一 者 除 飢 二 者 除渇 三 者 下 気 四者 却 臍 下冷 五 者 消 宿 食 で あ る。 五 味 粥 ・紅 糟 粥 延 宝 年 間 にお け る大 乗寺 の正 月元 目の 粥 は五 味粥 で あ

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る。 本 資料 に は五 味粥 そ の もの につ い て の 記 載 は な い が,「 永 渓 山典 座 寮指 南18}」 に よる と,江 戸 中期 の肥 前 泰 智 寺 の正 月 元 日の粥 は 同 じ く五 味粥 で,五 味 は米 ・麦 ・粟 ・大 豆 ・小 豆 とあ る。 ま た安 永10年(1781)に 書 か れ た 「橘 谷 山大 洞 指 南19}」に よる と,大 洞院 で は五 味 粥 は 臘 八 の粥 と して行 われ,五 味 は米 ま た は大 麦 ・粟 ・稈 (稲 わ ら)大 豆 ・小豆 の五 穀 で あ っ た。 五 味 粥 は本 来 は紅 糟 粥(く ん ぞ う しゅ く)と い う。 紅 は 小 豆 の色,糟 は数 味 混 合 した意 で あ る。 紅 糟 の名 は, 元 の至 元2年(1336)百 丈 山大 智 寿 聖 禅 寺 の東 陽 徳 輝 が, 宋 以 来 行 わ れ て きた 宗 蹟 の 「禅 苑 清 規 」 惟 勉 の 「咸 淳 清 規 」 等 に基 づ い て 重 編 した 「勅 脩 百 丈 清 規 」 に, 十二 月 初 八 日,仏 成 道,庫 司 預 メ紅 糟 ヲ造 。 とみ え て い る こ と に よ って,臘 八 の紅 糟 粥 は 中国 禅 林 の 古 規 で あ り,釈 尊 在 世 時 の 八種 粥 の例 に よ る もの で ある こ とが うか が え る。 「椙 ・指 」 に つ い て み る と,当 時 の大 乗 寺 にお ける 五 味粥 と紅 糟粥 に は,若 干 の ち がい が あ った よ う に み え る。 大 乗 寺 で は臘 入 の粥 は紅 糟 粥 が 行 わ れ て い る。 そ し て これ に つ い て は 五 穀 ヲ交 へ,野 菜 ヲ入 テ煮 ル ナ リ。 と月 舟 に よ っ て示 され てい る。 臘 八 の粥 は,現 在 の叢 林 で は 小 豆 粥 とな っ て い る が, 本 来 は紅 糟 粥 で あ っ た こ とが上 掲 の 資料 に よ っ て知 られ る ので あ る。 小 豆 粥 大乗 寺 正 月2目 の粥1ま小 豆粥(し ょ うず しゅ く,ま た 豆 粥,と うし ゅ く ともい う)で あ る。 白粥 に小 豆 を入 れ た もの で,仏 制 八 種 粥 の うち の 小豆 粥 を な らった もの で あ る。 禅 門 古 規 に よる と,毎 月2日,16目 の両 目は,土 地 堂(土 地 神 を祀 っ た 堂 で,多 くは仏 殿 の東 方 にあ る) に お い て土 地 神 の た め に諷 経 す る。 こ の 日に小 豆 粥 を作 っ て仏 祖 前,土 地 堂 に供 え,大 衆 一 同 に供 養 す るの で あ る 。 「瑩 山清 規 」 巻 上 に, 十 六 目豆 粥 ア リ,土 地 堂 諷 経 ハ ニ 日 ノ如 シ。 とあ る。 餅 粥 正 月7目 人 目の佳 節 で あ る。 人 目は東 方 朔 の 「占:書」 にみ え る 中国 の古 い習 俗(正 月1目 か ら6日 ま で は獣 密 を 占い,7目 に人 を 占 う)で あ る。 わ が 国 で は,七 種 の 若 菜 を 摘 ん で 食 膳 に供 し,齢 を 祝 う風 は平 安 期 か ら行 わ れ て い る。 江 戸 期 にな って,こ の 日は五 節 供 の一 と して 上 下一 般 に 七種 粥 を祝食 す る風 習 とな っ た もので あ る。 大 乗 寺 に お い て は,こ の 日朝 粥 に餅 を入 れ て祝 食 し, 七 種 菜 にっV・て の記 載 は ない 。 しか し寛延2年(1749) に著 され た 「永 渓 山典 座 寮 指 南」 に は,七 種 菜 を 朝 粥 に 餅 と と もに入 れ る こ とが み え て い る。 い わ ゆ る七 種 粥 の 風 習 は,江 戸 期 も中期 に な っ て,よ うや く年 中行 事 と して か た ま っ た もの で あ る こ とが うか が え る の で あ る。 粥 後,碧 嶽 供 養 の 懺 法 が行 われ た。 餅 粥 は正 月15日 の 朝 粥 に も行 わ れ た 。雪 安居 解 制 の 日で あ る。 叢 林 にお い て,き わ めて 重 要 な 意 義 を もつ こ の祝 日に,厳 粛 な 粥 に,尊 貴 な 意 味 を もつ 餅 を加 え て祝 食 され てい る の で あ る。 3-3小 豆 飯 大乗 寺 で は 年 間 に 幾度 か,小 豆 飯 が 行 事 食 と して行 わ れ て い る。 十 一 月 晦 日 於 二庫 堂_有 二禾 稼 祭_高 安 軒 来 テ諷 経 ア ル ベ シ,大 衆 ハ不 。赴 。 目中 飯 ハ 小 豆 ヲ入 ベ シ,典 座 悉 知 。 本 資 料 の上 で,禾 稼 に は特 に 「ヲ カ」 と振 仮 名 が 施 さ れ て い る 。禾 稼 は稲,ま た五 穀 の称 で あ り,稲 の 神 は 稲 荷(宇 賀 御魂 命)で あ る。 大 乗 寺 と稲荷 神 と高 安 軒 との か かわ りは次 の よ うな資 料 に よ って 明 らか に され る。 舘 残 翁 の 「加 賀 大 乗 寺 史 」 の 中 に 「前 田利 長夫 人 玉 泉 院 が,大 乗 寺 塔 頭 高 安 軒 に祀 られ て い た稲 荷 神 を信 仰 し, 元 和3年(1617)そ の社 殿 を造 営 され た 。」 と 記 され て い る。 ま た 同8年 に は,市 橋 左衛 門尉 政 忠 に よ っ て大 梵 鐘 が 寄 進 され てい る(現 在 大 乗 寺 で使 用)。 本 多 家 の 就 檀 はそ れ よ り16年 後 で あ る。 禾 稼 祭 は江 戸 初 期 の大 乗 寺 で行 われ た年 中行 事 の一 つ で あ った が今 はそ の社 殿 もな く,そ の名 を記 憶 す る人 も い な い 。 12月9目 断 臂 の 節 で ある 。 断 臂 の節 は 二 祖 慧 可(481 -593)の 求 道 の 厳 し さを伝 え る禅 林 の忌 目で あ る。 叢 林 で は この 夜 は成 道 会 と同様 に徹 夜 坐 禅 し,暁 の大 開 静 (版 ・鐘)を きい て 上 殿 し,二 祖 の牌 前 に上 香,礼 拝 が 行 われ る 。 こ の 時 小豆 飯 が上 供 され るの で あ る。 小 豆 飯 は そ の他 除夜,節 分 の行 事 食 と して 薬 石 に 行 わ れ て い る 。 4.粥 の こ と 一 般 に は低 カ ロ リー食 と して 最 近 は とか く軽 視 され が ち な粥 も,叢 林 にお い て は至 高 の 意 義 を もつ伝 統 食 晶 で あ る し,坐 禅 を 中心 と した 行 持 に明 け 暮れ る叢 林 の生 活 には,こ の低 カ ロ リー食 は む しろ 合理 的 な食 品 で あ る と も考 え られ て きた よ うで あ る。 しか し,、僧 の食 と して の

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粥 は,本 来 はそ の よ うな 低 カ ロ リー食 で あ っ た とは い え ない の で は なか ろ うか 。 ま ず 釈 尊 に よっ て 定 め られ た八 種 粥 につ い て考 えて み た い 。 八種 粥 の一 に あ げ られ る の は乳 粥 で あ る。 釈 尊 が成 道 の前 に供 養 を うけ られ た尊 貴 な粥 が乳 粥 で あ った こ とは す で に述 べ た。 乳 粥 の乳 は牛 乳 ま た は馬 の乳 で あ る。 酥 粥 の 酥 は,牛 乳 を煮 つ め て精 煉 した漿,酪 す なわ ち煉 乳 で あ る 。牛 乳 は周 知 の よ うに た ん ぱ く質,無 機 質,特 に カル シ ウ ム源 と して重 要 視 され る食 品 で あ り,煉 乳 と な れ ば さ ら に カ ロ リー,た ん ぱ く質 と もに牛 乳 の約2・3 倍,カ ル シ ウムは2・7倍,ビ タ ミ ンB2の 給 源 と して も 注 目 され る食 品で あ る。 油 粥 とい うの は油 脂 分 を加 味 した 粥 で あ っ た と思 われ る が,こ の材 料 として は 胡 麻,荏 ごま,麻 子 な どが あ げ られ る。 荏 ご ま,麻 子 は 古 代 に は主 穀 の 二 と してrま た 胡 麻 と とも に油 脂 給 源 で も あ った 。 これ らは い ず れ もイ ン ド原 産 の植 物 で,古 くか ら食 糧 と して,ま た 飼料,繊 維 植 物 等 と して利 用 され て き た もの で あ る。 大 豆 は 今 さ らい うま で もな く,た ん ぱ く質,脂 質,無 機 質 に富 み, 小 豆 もま た た ん ぱ く質,糖 質,無 機 質 に富 むす ぐれ た 食 品 で あ る。 こ うした 材料 を適 宜加 え た粥 は,消 化 の点 で も,質 の上 で もむ し ろす ぐれ た食 品 とい うべ き で あ った わ けで あ る。 江 戸 期 の禅 林 で 行 わ れ て い た紅 糟 粥,五 味 粥,小 豆 粥 な ど も,乳 や 酥 は 活 用 され て い な い が,栄 養 バ ラ ン ス の あ る 良好 な粥 で あ った と思 う。 仏 教 が 中 国 に渡 っ て の ち,中 国 や 目本 の大 乗 仏 教 で魚, 肉 を禁 ず る よ うに な った の は,中 期 大 乗 経 典 と し て の 「涅 槃経 」 や 「楞 伽 経 」 な ど の影 響 に よ る もの で,慈 悲 の 思想 を徹 底 させ る た め で あ ろ うと いわ れ る(水 野 弘 元 「原 始 僧 伽 に お け る 食生 活 」)。中 国 で生 まれ た 臘 八 の 粥 は 民族 行 事 と して 今 目 もひ ろ く行 われ て い る とい う。 た だ し材 料 は 白米 や 糯 米 に 粟,菱,紅 小豆,松 子(ま つ の み),榛 子(は しば み),南 京 豆,杏 仁 な どを入 れ て 砂 糖 で 甜 く炊 い た 粥 で あ る(篠 田 統 「中 国食 物 史 」)。 八 種 粥 の 制 を伝 える 由緒 あ る 上掲 の粥 も,今 目の叢 林 で は臘 八 の粥 と して,簡 略 化 され た 小 豆粥 が行 われ てい る のみ の よ うで あ る。 あ と が き 加 賀 大 乗 寺 の 「椙 ・指 」 に掲 げ られ た 行事 と これ に即 して行 われ た 行事 食 は,月 舟 の綿 密 な宗 典 研 鑽 に基 づ い て 行 わ れ た 叢 林 の 古規 で あ り,宗 統 復 古 を志 した 月 舟 の 思 想 の一 つ の具 現 で もあ っ た 。 した が っ て,こ こ にみ ら れ る形 態 か ら,草 創期 の わ が 国 禅 林 の行 事 食 の あ りよ う を推 測 す る こ とも で き る よ うに思 う。 大 乗 寺 の行 事 食 として 行 わ れ た 種 種 の餅 や 粥,小 豆 飯 な どは,わ が 国 の穀 物 食 の典 型 的 な食 品 で あ るが,禅 の 宗 旨 の上 か らこれ を探 っ てみ る と,そ の根 源 はい ず れ も イ ン ド,中 国 の仏 制 に あ り,ま た 一 部 は,中 国 古 代 の 土 風 俗 に した が っ た もの で あ る こ とが知 られ る。 中国 にお け る北 方 の粉 食,南 方 の粒 食 は,風 土 的 な食 生 活 の特 徴 で あ るが,禅 林 の行 事 食 の 中心 に,餅 や 粥 が 多 くあ る こ とは また,動 的 禅 が 南 方 シ ナ に興 っ た こ と と符 節 して い る。 しか し大 乗 寺 の行 事 食 には 南 宋 末 期 の食 文 化 よ りむ し ろ古 代 漢 民 族 の影 響 が うか が え る。 大 乗 寺 のそ れ を含 め て わ が 国 の行 事 食 に,古 来 大 豆 や 小 豆 カミ種 々の 形 で 用 い られ}重 視 され て い る こ とは これ を明 らか に物 語 って い る 。 古 代 の 漢 民族 は赤 色 を よ ろ こび,大 豆 や 小 豆 の もつ 旺 盛 な 生活 力 の故 に これ を鳴 術 的 に使 った り して 重 用 し 厂 た20}。杭 州 一帯 の 冬至 の 小豆 粥 の風 習 は4世 紀 頃 に始 ま った とい う。 大 乗 寺 の行 事 食 の 中 に は 草餅 や粽,七 夕 の麺 な ど,宗 旨 とは直 接 か か わ りの な い 中 国 古代 の 民族 行事 を伝 え た も の がい くつ か あ る。 い ず れ も禅 の 渡 来 以 前 に 仏教 と と もに伝 え られ,古 代 の風 俗 と して 行 わ れ て い た もの で あ る が,禅 の 開創 期 に これ らは改 めて 禅 林 に と りい れ られ た こ とを 「永 平 清 規 」 の 中か ら うか が うこ とが で きる 。 道 元 は これ に つ い て, 禅苑 清 規 に あ る とこ ろ の端 午,七 夕等 の斎 は,仏 祖 の 家 風 た りと雖 も,猶 お そ ら くは世 俗 の礼 節 な らん 。 とい って い る が,ま た そ の説 示 の 中 で 「土 風 に随 う」 と い うこ とを しば しば い って い る(「 正 法 眼蔵 随 聞記 」)。 規 矩 大 乗 の行 事 食 は 江 戸 期 の 各 地 の叢 林 の範 と され た に ち がい ない 。 これ らの い くつ か は,た とえ ば 小 豆粥 や 小豆 飯 ・ぼ た餅 ・粉 餅 な どは 禅 寺 を 通 して 民 間 の 生活 に もひ ろ く根 を お ろ して い った の で あ る。 註 1)将 軍 義晴饗膳 「祗園会御見物御成記」同義輝 「三好筑前 守 義長朝臣亭御成記」群書類従22輯 2)大 草家料理 書 ・庖丁聞書 ・大草殿 よ り相伝 の聞書 3)拙 稿 「禅林 の食事 について」本学紀要第16集(1972)参 照 4)5)貞 和2年4月16日 付地頭富樫家善寄進状 ・足利尊氏 ・義 詮教書その他 歴代 の安堵状,永 正14年6月3日 付勅願寺 の綸 旨等が金沢市美術館に保管 され ている。 6)蘭 渓の大覚派,兀 菴 の宗覚派,大 休 の仏源派,無 学 の仏光 派,一 山の一山派,清 拙 の大鑑派等 7)慶 長17年5月 曹洞宗 法度,元 和 元年7月 永平総持両寺法度 8)註3と 同 9)拙 稿 「客膳形態の変遷 と現 代の様相 皿」 本学紀要 第14集 (1970)参 照

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第23集

10)遠 江 可 睡 斎 の 清 規,可 睡 斎 は応 永8年 如 仲 天 閭 の 開創 ,江 戸 初 期 家 康 に よ り東 海 道 の大 僧録 とされ た。 東 海 道 屈 指 の曹 洞 の 巨刹 。 11)註9と 同 じ 12)「 国 訳 一 切 経 律 部10」 に,「 布 薩 食=説 戒 食(uposathika bhatta)毎 半 月 の新 月満 月 の説 戒 時 に供 養 す る食 」 とあ る 。 13)同 上 書 に 「胡 椒(Mariea)華 菱(PipPali)有 部 百 一 羯 麿 頓 呵 黎 勒,阿 摩 勒,眦 醢 勒,華 笈,胡 椒 の五 を総 称 して 五 果 と し,時,非 時,病,無 病 に随 意 食 す ぺ きな り とあ る。 ま た 篳 菱 は 篳 菱利 と もい い,蒟 醤 の こ と とみ えて い る。 蒟 醤 は き ん ま とい う草 の名 。 14)同 上 書 に 「波 夜 提 第 三 十 二 処 々食(ParapParabho)続 い て 処 々 に食 を と るな り」 と あ る。 15)同 上書 に 「食 足(Bhuttavipavarita)食 満 ち た りて 坐 を離 れ た る を い う。 坐 を離 れ た る上 に て は再 び食 す る を 得 ず 」 とあ る。 16)註3と 同 じ 17)摩 訶僧 祗 律 で は粥 につ い て十利 が あ げ られ て お り,十 誦律 で は 五事 利 身 と五 つ の利 が あげ られ て い る。 同 じ く釈 尊 の示 し た こ と ば で あ る の に,か く経 に よ って ち が い が あ る こ とは 次 の よ うな理 由 に よ る も ので あ る。律 蔵 は大 正 大 蔵 経 の第22 ・23・24の3巻 に収 め られ てい るが,そ の 中 で五 分 律30巻 摩 訶 僧祗 律40巻,四 分 律60巻,十 誦 律61巻,根 本 説 一切 有 部 律 十 部157巻 が五 大 広 律 と して 主 要 な部 分 を な し て い る。 こ の よ うに5種 類 も律 蔵 が あ る のは,イ ン ドの宗 派 で あ る化 地 部 ・大衆部 ・法蔵部 ・説一切 有部 ・根本説一切 有部 の各宗が それぞれ に伝えた ものが別別に中国に将来 され たか らで,各 内容 は大体同 じでは あるが,各 派 で伝 えている問に多少の相 異 を生 じた ところもある。摩訶僧祗律,十 講律 にみえ る粥の 利 の相違 もそ うした一例 としてみられ る。 18)註9と 同 じ 19)静 岡県周智郡森町 にあ る大洞 院の指南書。応 永18年(1411) 如仲天闔の開創 20)篠 田統 「食べ物 と行事」風 俗16,1(1977) 21)「 椙,指 」「洞 上僧堂清規行法鈔」「青原 山永 沢寺行事之次 第」「万松 山清規」等,原 文には読点のみで句点は使わ れ て いないが,引 用 した部分につ いては,筆 者 の判断 で適宜句点 を付記 した。 文 献 1)四 分律行事 鈔資持記 大正大蔵経第40巻 2)摩 訶僧祗律 前掲書 第22巻 3)十 誦律 前掲 書第23巻 4)宗 蹟 重雕補註禅苑清規 曹洞宗全書第5巻 鴻盟社 5)道 元 日域 曹洞初 祖道元禅師清規 前掲書 6)詮 慧 ・経豪 ・面 山ほか 正法眼蔵註解全書 7)面 山 洞上曹洞清規行法鈔 ・僧堂清規考訂 曹洞宗全書第 5巻 鴻盟社 8)館 残 翁 加賀大乗寺史 北国出版社(1971) 9)今 枝愛真 禅宗 の歴史 至文堂(1966) 10)篠 田統 中国食物吏 柴 田書店(1974)

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