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アジ研ワールド・トレンド No.181 (2010. 10)
マ
レ
ー
シ
ア
内
務
省
の
検
閲
が
バ
リ
ー・
ウ
ェ
イ
ン
の
著
書
の
発
売
を
差
し
止
め
ている。これは当局がマハティー
ル・モハマド元首相の巷説にまつ
わる虚像と実像とをすっかり混同
し
て
い
る
こ
と
の
顕
わ
れ
と
い
え
よ
う。マハティール政権は、こと出
版に対しては、歴代政権のなかで
最も寛容な姿勢を見せた。こうい
うと驚く人もいよう︵ただしマス
メ
デ
イ
ア
に
対
し
て
は
別
で
あ
る
︶。
もしいま彼が首相の座にいたらこ
のような些細でたわいもない、い
や
が
ら
せ
は
お
こ
ら
な
か
っ
た
ろ
う。
この件でウェインが激怒するとも
思
え
な
い。
ウ
ェ
イ
ン
は
紙
の
前
主
筆
で
あ
り
こ
の本を書いたときはシンガポール
東
南
ア
ジ
ア
研
究
所︵
ISEAS
︶
の
ビ
ジ
ティング・ライターであった。
この著作が提供する話題は豊富
だ。マハティールが六〇余年公職
に就き、二二年間、首相を務めた
ことを考えればさもありなん、で
ある。彼が政治家として在職した
間、一九六九年の彼自身のUMN
O︵統一マレー人国民組織︶追放
から、アンワール・イブラヒムの
投
獄︵
一
九
九
八
年
︶、
そ
し
て
二
〇
〇九年のアブドゥラ・バダウィの
早期退任にいたるまで、血なまぐ
さいとは言わぬまでも﹁苛酷な政
治﹂が行われた。
﹁マハティールの時代﹂
︵一九八
一年七月∼二〇〇三年一〇月︶
は、
金権スキャンダルの発覚、
﹁メガ
・
プロジェクト﹂
︵大規模投資事業︶
の実施、失敗に終わった企業民営
化、そして多額の財政を投入して
の
再
国
有
化、
な
ど
が
起
こ
り
マ
ハ
ティールの野心的な経済運営が際
だつ﹁波乱の時代﹂であった。マ
レーシア情勢に関心をもつ広範な
読者はこの本
が、
コンパクトでありながら最新情報
を豊富に盛り込み、それらが時事
的レポート、
学術論文、
マハティー
ル
自
身
や
彼
の
知
己︵
政
敵
も
含
む
︶
とのインタビューという三つの主
要な情報源を元に丹念に整理され
ていることに気づくだろう。
ネット上に掲載されたこの本へ
の書評等を読むと、一九九八年∼
二〇〇〇年におきたレフォルマシ
︵
改
革
︶
運
動
で
マ
ハ
テ
ィ
ー
ル
を
Mahafi
raun
︵
独
裁
者
大
フ
ァ
ラ
オ
︶
と呼んで糾弾した時代ぐらいの記
憶しか持ち合わせていないマレー
シアの若者世代の心情をあおり立
てていることがわかる。
反
応
は
と
も
か
く
と
し
て、
こ
の
ウェインの著作は、情報がアップ
デ
ー
ト
さ
れ
て
い
る
も
の
の、
マ
ハ
ティール政治について一般に知れ
わたっていること︱無味乾燥な部
分を含め︱を明解に述べているが
際だった修正を行っているわけで
はない。また、マハティールが首
相
で
あ
っ
た
時
代
に、
非
難
の
側
に
回った学者達、
オンライン
・
ジャー
ナリスト、NGO活動家らが書か
なかった批判的、政治攻撃的な分
析を新たに追加するということも
していない。おそらく、その点は
意図してのことだろう。序言の最
初でウェインはつぎのように述べ
ている。
﹁
筆
者
は
マ
ハ
テ
ィ
ー
ル
博
士
の
業
績を理論的な枠組みで分析するこ
とはしない。
地上のレベルから
︵マ
ハティール︶を述べ、彼のこれま
での人生で起こった興味深く見逃
すことができない出来事さらには
それらが彼自身とマレーシアに及
ぼした影響について
﹃新鮮な見方﹄
示すこととする。
﹂
しかしながら、この﹁地上レベ
ルからの新鮮な見方﹂が現在のマ
レーシアのネット大衆の草の根の
バ
リ
ー
・
ウ
ェ
イ
ン
著
﹃
マ
レ
ー
シ
ア
の
一
匹
狼
︱
波
乱
の
時
代
の
マ
ハ
テ
ィ
ー
ル
・
モ
ハ
マ
ド
﹄
B
y
B
a
rr
y
W
a
in
. B
a
sin
g
sto
k
e, H
a
mp
sh
ir
e, U
K
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a
lg
rav
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ac
m
ill
a
n
,
2
0
09
. H
a
rd
cov
er
: 3
6
3
p
p
.
クー・ブー・テック
by Barry Wain reviewed
by Khoo Boo Teik first appeared in English in April
2010, Vol. 32, No. 1 (Singapore: Institute of Southeast Asian Studies), pp. 98-101.
Translated with the kind permission of the publisher.
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アジ研ワールド・トレンド No.181 (2010. 10)
レンズを通して見る、と言いたい
のだとしたら筆者は、彼の主張に
疑を差し挟みたい。ウェインの視
点はむしろアジア地域及び国際的
英
語
メ
デ
ィ
ア︵
特
に
︶の見方であ
る。これらメディアとマハティー
ルとは長年のつきあいがあり、と
くに首相時代は最も強固な関係を
築いたのであった。これら英語メ
ディアは、外聞もはばからずある
ときは国際的に読者層を広げるた
め、またあるときは引用数の向上
を狙い、
お互いに利用しあったり、
論争を挑んでみたりした。
確かにマレーシア通と呼ばれる
ウェインの仲間達の多くは優秀な
ジャーナリストであり、第一級の
研究レポートを発表してきた。だ
が、筆頭記者も出版社自身も独善
的
で
相
手
を
見
下
す
よ
う
な
性
格
を
持っていた。東南アジアの政治家
が
新
自
由
主
義
に
も
と
づ
く
自
由
化、
規制緩和の実施、企業民営化政策
のための立法化にためらいをもつ
場合、ダウ・ジョーンス傘下の主
要紙誌はきまってそのような姿勢
をとった。
マハティールは、先進国からの
投資や借り入れを拒絶して社会か
らのけものにされるような人物で
はなかったため英語メデイアは彼
を
毛
嫌
い
は
し
な
か
っ
た。
し
か
し、
マハティールが欧米の指導者の偽
善にたいし歯に衣着せぬ批判を浴
びせたため彼らがマハティールを
賞賛することはなかった。メディ
アもマハティールには愛着がわか
なかった。結果、英語メデイアは
彼に﹁マーヴェリック﹂
︵一匹狼︶
と
い
う
あ
だ
名
を
つ
け
る
こ
と
に
し
た。しかし真実、マハティールは
一
匹
狼
な
の
か?
彼
自
身、
﹁
我
が
道﹂を行く男のイメージにうっと
りとし自宅ではシナトラの懐メロ
を口ずさむといわれるのでよくこ
のあだ名はよく似合っているよう
に見える。ウェインもこのメディ
アのイメージに同感している。柔
軟なヴィジョンを持つがいざ実行
となると頑固、権威主義であるが
実利的、イスラーム化を理想とし
つつ近代化を推進する、ビジネス
指向であるが仲間関係を大切にす
る、先進国のお金はウェルカムだ
が先進国の価値観はお断り、
等々。
ま
た
ウ
ェ
イ
ン
は
あ
る
箇
所
で
マ
ハ
ティールを見当違いにも﹁無冠の
帝
王
﹂
と
呼
び
直
し、
﹁
マ
レ
ー
シ
ア
のマクロ経済の筋肉と体力を強固
にしたが、制度をすべて骨抜きに
し
て
し
ま
っ
た
﹂、
そ
し
て
マ
レ
ー
シ
アが耳目を集めるようになった反
面、
嘲
笑
に
晒
さ
れ
る
こ
と
も
多
く
なったと言っている。
ウェインのこの見解を受け入れ
ることはご容赦願うとして、この
本に盛り込まれた様々な情報を踏
まえ深慮を巡らしてみると読者は
マハティールがいかに非急進的で
伝統重視派かがわかるだろう。国
家の開発という面ではマハティー
ルは第三世界の行き場のない欲求
を
的
を
得
た
言
葉
や
行
動
で
示
し
て
いった。それは、世の中をひっく
りかえすとはいかないまでも、後
からやってきた者が陽の当たる場
所=まともな境遇を与えられる権
利を主張するように、現在の資本
主義の仕組みに異を唱えたのであ
る。国の文化的特徴、
民族の相違、
国際的競争といったことがらに対
するマハティールの視点は植民地
主義的固定観念、社会的ダーウィ
ニズムにより形成された。
経済問題に対処するに当たって
は近代化論、
構造主義、
従属主義、
東アジア・キャッチアップモデル
など様々な理論を場合場合で使い
分けた。経済危機に直面した際に
マ
ハ
テ
ィ
ー
ル
が
示
し
た
行
動
ほ
ど、
皮肉にも彼の伝統主義的信念をさ
らけだしたものはなかった。一九
八〇年代半ば経済の停滞に直面し
た際、マハティールは海外直接投
資の誘致に救いの手を求めた。
最近の先進諸国の金融破綻にお
いてはマハティール自身の手によ
るものではないが、東アジア通貨
危機のときに彼がとった政策︱緊
急財政援助、増資、通貨再膨張な
ど︱の通貨、資本に関するあらゆ
る解決策が無責任にと言ってもい
いほど、より大規模に実施された
のである。成功した先進国のモデ
ルを必死に見習い先進国クラブに
仲間入りすることがマハティール
の
一
番
の
野
望
で
な
い
と
し
た
な
ら
ば、いったい彼は他に何を望んだ
だろうか?
非難の嵐を招いたマハティール
の失策の中には、先進国の制度か
ら学んで取り入れたものもあった
と言えよう。その顕著な例をあげ
る
と
す
れ
ば
、一
九
九
七
年
の
株
価
大
暴
落のおりクアラルンプール株式市
場における企業買収の規約を改定
し、経営不振に陥っていたUMN
O系企業レノン社を守ったことで
あろう。
この一件を遡ること、
一九
八
一
年
、ロ
ン
ド
ン
株
式市
場
で
マ
レ
ー
シア政府が英系プランテーション
企
業
の
経
営
権
掌
握
を
目
的
に
突
然、
株の大量買い占めに走ったことが
ある。
ロンドン株式市場はその後、
株
買
い
付
け
規
定
の
修
正
を
行
っ
た。
この買い占めはイギリスのメディ
55
アジ研ワールド・トレンド No.181 (2010. 10)
書評『マレーシアの一匹狼―波乱の時代のマハティール・モハマド』
アの嘲笑を買ったのであった。
一九八二年、
Maminnco
社︵訳
注
Malaysia
Mining
Corp.
国の持株
会社︶の錫秘蔵がきっかけで錫の
空売り人が逮捕されたとき︱マハ
ティールはこれを投機家を懲らし
めるためと受け取った︱、ロンド
ン金属取引所は﹁空売り人に罰金
を支払わせ、彼らが法外な割増金
を
支
払
っ
て
謎
の
バ
イ
ヤ
ー︵
訳
注
Maminco
の
こ
と
︶
か
ら
の
錫
を
買
い
付
け
す
る
こ
と
を
防
い
だ
﹂。
こ
れ
に
よ
り
空
売
り
人
は
赦
免
さ
れ
た
一
方
で
、
︱
ウ
ェ
イ
ン
の
筆
は
冷
淡
に
進
む
︱
Maminnco
は破産に追い込まれた。
この件でマハティールに弁明の
余地はない。ウェインは、
この
﹁錫
不法取引事件﹂と東アジア金融危
機があたかも比肩しうる危難であ
るがごとく紙幅を割いている。し
かし株や金属の取引市場で権勢を
ふるう先進国のゲームの達人たち
が厳格な市場のルールを蔑ろにし
ている実態をマハティールが学ん
だかどうかについて触れていない
のである。これでは読者への裏切
だろう。
これらを背景としてマハティー
ルの行動が、不安と自意識過剰の
微妙な揺らぎに左右されていたと
してもマハティールの過ちや失敗
がその、頑迷さと自制を欠いた気
まぐれにからきていると判断する
のはいかがなものであろうか。
経
済
と
同
様、
政
治
に
お
い
て
も、
国内政治、外交の区別なく、マハ
ティールは自分の掲げた目標や理
想を実現する過程で躓くことがよ
くあった。
重工業化の頓挫、
企業民
営化の失敗、一九八七年のUMN
O
の
分
裂
、ア
ジ
ア
地
域
イ
ニ
シ
ア
テ
ィ
ブ構想実現に対する米国の横やり
な
ど
を
ウ
ェ
イ
ン
は
列
挙
し
て
い
る。
しかしマハティールは、司法府の
蹂躙、アンワルの追放、経済危機
時の短期資本規制導入などに示さ
れるように頓着しない便宜主義的
行動や確信に満ちた度胸のよさで
勝利を収めることも多々あった。
このようにみると大きな謎が頭
に浮かぶ。マハティールは情勢を
支配する傀儡師であったのはどこ
までで逆にどこから先が自身の支
配力より強大な社会・政治勢力の
道具に甘んじていたか?
ウェイ
ン
は
こ
の
問
い
を
発
し
て
い
な
い
し、
マハティール研究者もジャーナリ
ストもいまだかつて満足のいく回
答
を
出
す
こ
と
が
で
き
な
か
っ
た。
ウェインの本に盛り込まれた新し
い情報が当座の答えの根拠を提供
している。
UMNOのビジネスとの関わり
に
つ
い
て
ウ
ェ
イ
ン
は
イ
ン
テ
ン
グ
・
ラ
ザ
レ
フ
と
ダ
イ
ム
・
ザ
イ
ヌデ
ィ
ン
と
い
う二人のUMNOの前財務部長に
注目し、インタビュー取材を行っ
ている。テングとダイムは互いに
相
手
の
役
割
と
責
任
の
所
在
を
言
い
争っているが両人ともマハティー
ルには言及していない。彼の庇護
の下でビジネスと政治とのつなが
りは強まったという点では誰もが
疑
わ
な
い
に
も
か
か
わ
ら
ず
で
あ
る。
加えて、マハティールは資本主義
の前衛たる企業家の育成を目論ん
だ。しかし、成功したえり抜き企
業家は単に寡頭的︵多民族︶企業
集
団
を
形
成
し
た
だ
け
に
終
わ
っ
た。
結果的には、マハティールは外貨
の投機家達をコントロールできな
かったのと同様に国内の仲間内企
業のコントロールもできなった。
それら企業が国からの補助金に
頼ってビジネスを行い不当に利益
を得てきたことで韓国型工業化の
実現という元首相の大いなる願望
はしぼんでいった。また通貨の投
機家による市場での略奪行為はグ
ローバリゼーションへの参加の理
想的手段として位置づけられたマ
ルチメディア
・
スーパー
・
コリドー
計画をおしつぶした。
話はそこで終わらない。二〇〇
九
年
の
U
M
N
O
の
総
会
に
マ
ハ
ティールが出席したことに関する
ウェインの結論では、マハティー
ルが会場の参加者から受けた拍手
喝采が一匹狼の権力の座への復帰
の前触れであるとの印象を読者に
植え付けている。だとしたら形式
と実態との混同であろう。
一九九八年、マハティールは情
け容赦なく周囲の了解も取らずに
ア
ン
ワ
ル
を
U
M
N
O
か
ら
追
放
し
た。二〇〇九年、アブドゥラを党
総裁の座から引き下ろす一派を惜
しげもなく支持している。二〇〇
四年以降の総会では毎年、UMN
Oはマハティールのヴィジョン二
〇二〇︱連立選挙のたびに勝利に
導いた思想的アピール︱を非難し
てきた。二〇〇八年三月に行われ
た総選挙でのUMNOの退潮はひ
とつの帰結である。
二〇〇九年UMNO総会でマハ
テ
ィ
ー
ル
に
拍
手
を
送
っ
た
党
員
の
面々はマハティールがもうなんら
役にたたない存在︱一〇年昔、レ
フォルマシの活動家たちが彼をそ
う
あ
ざ
け
っ
た
も
の
だ
っ
た
︱
で
あ
り
、
彼が築きあげてきた遺産を解体し
てしまったのは自分たちであるこ
とさえわかっていないのである。
︵
Khoo
Boo
Teik
/
ア
ジ
ア
経
済
研
究
所
地
域
研
究
セ
ン
タ
ー
上
席
主
任
研
究
員、
日本語訳
編集部︶