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森鴎外の漢詩文における一人称代名詞について

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(1)

森鵬外の漢詩文における

人称代名詞について

1

はじめに

山烏(1987)は森助外の一人称代名詞について、 下記のように九項目に分け、計十一種類 の表記をあげている1 0 われ わたくし わたし あたい わし おれ(己) 僕 我輩(吾盛)我々 おいら 閾外の一人称の表記については、 すでに芥川龍之介が長峻の渡邊廊輔宛の審翰 (1922年 119 日付)に、 次のように記している。 爾来「わたし」御用ひのよし珍重、 文章の道登そんな事に遠慮の入るものならむや均 外の「わたくし」非か輿茂平の「わたし」是か棒喝の間に決する位な意氣ごみを持た れても然るべしと恩ふ また、 神代 (1926) は「朔外先生は、 晩年には必ず「わたくし」と仮名で柑かれた。私と いふ字には、 わたくしといふ語義はない」と述べている2。 この悶外の「わたくし」をめぐ っては、「漉江抽斎J (1916年 1 月 13 日起筆)から人称代名詞を仮名の「わたくし」で表記 していることを指摘した大屋(1984)の論3がある。 この論はこれまでの開外の一人称代名 詞についての先行研究をまとめ、悶外が一人称代名詞に多くの注意を払っていたことを明ら かにした研究である。 このように、 これまで和文における関外の一人称代名詞については、 関心が払われ、 研究 も数多く見られる。 だが、 それに比して漢詩文における一人称代名詞については、 研究が十 分でない。 そこで、 本稿では悶外の漢詩文における一人称代名問に注目し、 その用字法を考 察してみたい。 l 山鳥鋭男(1987)「関外の括法」(和泉嘗院) 2 神代稲亮 (1936) 「作家と文字(三)一里美弾氏の文字ー」「文学倶楽部」 3 「関外と一人称代名詞―くわたくし>ヘ一」より、 (1984)

r

閲外への視角J所収

(2)

2.

考 察 2.1 漢文作品 岩波版の「悶外全集jにはllt55庶4の淡文が掲載されている。そこでは人称代名詞として、 5 種類の表記(「我(26例)」・「吾 (15例)」・「余 (53例)」・「僕 (3例)」・「予 (49例)」の計 146例)が用いられている。 まず、「主語 」・「定語」・「目的語」に分けてその用法を観察してみよう。 「小金井骰櫻記」では、一人称代名詞として、「我」・「余」・「予」が用いられている。主梧 として使用されている用例は下記の通りである。(太字は節者。M:明治 T:大正 以ド同) 予曰。無是即多麻之渠乎。距小金井不遠突。度水抵下高井戸。距新宿既二里。 遇行人。 問小金井里程。日三里而遠。成色然逸巡。 速徳悠甚。高子欲還。余日。半日之努可惜 也。(「小金井観櫻記」M24.4 「柵草紙J笏19号) 「予」及ぴ「余」はどちらも「均外」をさす。動詞は両方とも「日 」であり、意味上の述 いがあるとは考えがたい。また、主語には「我」の用例も見られる。次の例 の「余」及ぴ「我」 も「閾外」をさす。 余連傾三爵。進而萩言日。我冊。努者築之所伏也。努大。則築大。今日之芳如此。築 能無大乎。(「小金井観櫻記」 M24.4

r

楢草紙」第19号) 主語としての 「吾」 の用例は「賀古餞所他」に 見られる。 吾知餞所他日為酪官。臨戦楊。提利器。巡而営敵。(「賀古鶴所側」M24.4「衛生根病志」16号) この「吾」も「鴻外」をさしている。 以上から 、主語には指示対象による使い分けはないと 考えられる。次に、定語としての用 例を見よう。 余家多蔵掛。又好客。 一日有客展世水ll!I。誤挫チ池中。(「典藉癖J M23.3 「楕草紙J 第6号) 所潟也我師今井正臣君姐八歳森五木窟記之七キ於巻尾突(「「窟宋入學門」識語」 M 233「楕草紙J第6号) 吾友恩田重信、翻彼他國之語 。(「獨和他國字杏大全序」 M32仲夏) 4 和文の「王勝Ill]抄」(明治24年「衛生根病志」第21号)にi奨文が挿んであり、その中に一人称代名 問としての用例があるので、本稿ではこれも考察の対象とする。なお、「「日本狙速成法講義J序」 (大正8年)に沿外が抄録した「苦瓜和尚論批首衆」は除外する。 (22) 83

(3)

-予性本迂僻而抗直。(「也池好夫輿石黒軍岱監附予杏後」M24.4 「衛生療病志」第16号) この「余」・「我」・「吾」・「予」も、すべて「賜外」をさしている。定語の場合も指示対象 による四字の使い分けはないと言えよう。 続いて、 目的語としての用例を見てみよう。 目的語には「吾」の用例は見られない。 公安不知我。(「P']的九」 M24.3 「柵草紙』第18号) 在於激勘余而已。(「反省 其二」 M23.8 「諮事、新論」第9号) 鴎予為記。(「琴壺東條先生碑記」 T9.9) 目的語の「我」、「余J、「予」にも使い分けがあるとは思われない。 漢文作品における一人称代名詞の用例をまとめると、 以下のようになる。(作品名、 初出、 用字種類及び延べ字数というll|Rで示す。 なお、 主語は主、 定語は定、 目的語は寅で示すこと にする。 以下同) 「窟蒙入卑門」識語 (M23.3 f栂草紙J第 6 号):我(1定)、 余(1主) 雑説 長門良監 (M23.3 「栂草紙」第 6 号):吾 (1 主・ 1定) 雑説 典籍癖 (M23.3 「柵草紙」第 6 号):余 (4主・1定) 衛生1毘記二則 慨操 (M23.6 「衛生新誌」第23号):我 (2定)、 余 (2 主・ 1 定) 衛生偶記二則 種痘 (M23.6 「衛生新誌」第23号):我 (1 主)、 余(l賓) 今之漢醤其術之忠臣論 (M23.6 「岱事新論」第7 号) :予(1主) 反省記 其ー (M238 「岱事新論」第 9 号) :吾(1定)、 余 (5主・ 1 定・ 1 賓) 反省記 其二 (M23.8 「醤事新論j第 9 号) :吾(1定)、 余 (5 主・ 1定• 6 賓) 後光明天皇論 (M24.3 「國民之友』第103号 M6か7の作) :吾(l主) 西史没紗 瑣格刺底在獄 (M24.3 「柵草紙」第18号) :我 (3主 ・ 1 賓)、 予 (1主) 西史没紗 門的九 (M24.3 「柵草紙」第18号):我 (2 主・ 2定・ 2 賓)、吾 (1 主)、余(1主) 西史没紗 沙倫も士 (M24.3 f柵草紙」第18号) :我 (1 賓) 卑友月旦 (M24.4 「衛生療病志J第16号):余 (1定)、 予(1主・ 1定) 賀古鶴所側 (M24.4 「衛生照病志」第16号):我 (1 定)、吾(1主)、予 (1 主・ 1定・ 2 肉) 宵池好夫輿石黒軍岱監/腐予音後 (M24.4 「衛生療病志J第16号):吾(l主)、予 (7 主・ 1 定・ 1 貿) 小金井観櫻記 (M24.4 「柵草紙」第19号):我 (2主)、余 (7 主・ 2定)、 予 (2主・ 2 定) 玉勝1l0抄 (M24.9 「衛生療病志j第21号) :吾 (1定) 浮瑠璃史序 (M27.1) :我(1定)、 余(1主) 猪狩三等軍岱硲誌銘 (M28.10) :吾(l定) 獨和他國字瞥大全序 (M32仲夏):吾 (1 定)

(4)

吉田子換硲誌銘 (M34.9) :予(1賓) 礎部松蔵爵1象記 (M35.3) ;予(1蛮) 日本米食史序 (T4.ll 『アララギ」第8巻第11号) :我 (2定)、 余 (3 主) 告亡友三補子文 (T5.4. 「心の花」第20巻第 4 号) :予 (4主・ 1定• 4 賓) 二像記 (T5.ll) :我 (1定)、 予 (2 主・ 2 定) 干住新道碑 (T6.l 「大正詩文」第3帖第 3 集) :余 (1定・ 1賓) 堀越秀像銘並序 (T7.9) :余(1主・ 1 賓) 絶代至賓帖序 (T8.2) :我(1定)、 余 (2 主・ 2 賓) 法制局参事官脳瀬君墓表(T 8):予(1主) 束京帝室陣物館列品埴輪圏集序 (T8.12) :我 (2定) 紫錦帖題辟 (T9.l) :吾 (1定) 琴崇束條先生碑記 (T9.9) :予(1賓) 石村君逍徳碑 (T 9 ) :予(1主・ 1 賓) 高橋尿羽墓表 (Tl0.3) :予(1賓) 贔明盛光墓表 (Tl0.10) :吾 (1定)、 僕 (2 主・ 1 賓)、 予 (3 主• 4 賀) 贈正二位砲井侯碑 (Tl0.12) :予(1主・ 1賓) 山邊君墓表 (T 11.l) :我(1賓)、 吾 (2定)、 予 (1 賓) それらをまとめると、 表ーになる。 表一 我 吾 余 僕 予 主 8 5 33 2 25 14 10 8

8 4

12 1 16 26 15 53 3 49 まず、 以上から分かるように、 時期による使い分けがあるわけでもないようである。 つま り、和文のように、晩年 (1916 年~)には人称代名詞を仮名の「わたくし」で統一したと いうような傾向は見られない。 次に、「余」と「予」について見てみると、 主語として用いられた計73例のうち、「余」は 33例で、「予」は25例である。定語として用いられたllt40例のうち、「余」と「予」は各8例、 目的語として用いられた計33例のうち、「余」は 12例、「予」は 16例となる。基本的に、 第一 (24) 81

(5)

-人称として使用される揚合、「余」と「予」は同一の言葉とみなされる5が、 酪外もこの二 字について、 同様の姿勢をとっていると言えよう。 この「余」と「予」をひとつにまとめて数字として示せぱ、 表二のようになる。 表二 我 吾 余 僕 予 余(予) (小計) 主 8 5 33 2 25 58 73 14 10 8

8 16 40 4

12 1 16 28 33 (小計) 26 15 53 3 49 102 146 表二から、 漢文作品の場合、 一人称代名詞として、闊外が余(予)を多用していたことは 明らかである。 「僕」については、「品明盛光硲表jに下記のように3例見られる。(太字は箪者) 盛光曰。 僕所能剣術輿拳技。無以為活。幸通正骨法。足以為世用乎。 盛光日。法既不為今用。願先生為僕記之。以佃後世。 盛光生而魁仰。(略)次来見予。問正骨掛如何。 宙久不刊。 而無温色。、1自然日。 僕知先生不直言。 堡憂刊之晩乎。 これらの「僕」はすべて「必明盛光」をさしている。「「私Jよりもくだけた君い方」とし て使われたと思われるが、「贔明盛光硲表』にしか見られないので、 例外として処理してよ かろう。 一方、「我」は、 26例のうち、「西史没紗」の11例6が「鵜外」をさしていない。 また、 残 りの15例と「吾」の15例については、 和語との関係があるかどうかについても考えなければ ならないが、 それは稿を改めることになる。 とりあえずここで言えるのは、 漢文の場合には、 「我」と「吾」の用例が少ないのに、 漢詩の場合には、 一人称代名詞として用いられている のが「我」と「吾」しか見られないことである。 このことについては後述する (2.3漢詩)。 2.2 漢文日記 以前、拙稿7で指摘したように、「森悶外の漢文日記は、初期のものから顛に、「航西日記」 (明治十七年八月二十三日から同年十月十一日)、「隊務日記」(明治二十一年三月十8から 5 (1982) 「同源字典」 (p.160) 「在 “我・ 的意義上. "余. 予” 宵同一飼。」とある。 6 「瑣格刺底在獄」 (3 主 1 賓)・「r1的九」 (2 主2 定 2 賓)・「沙命セ士」 (1 賓) 7 何欣寮(2000)「森閉外の漢文日記に見られる外国人名の表記についての一考察�「隊務日記」 を中心に---」「岡山大学大学院文化科学研究科紀要」第10号

(6)

同年七月二 日まで)、「還東日乗J (明治二十一年七月三日から同年九月八日まで)、「委蛇録」 (大正七年一月一 日から大正十一年七月五日まで)がある。 また、大正六年から日記の文が 箭海になって洪文の所が多くなっている。この「大正六年日記」(大正六年一月一日から大 正六年十二月十二E1まで)は三月十五日から全部淡文で記されている」。 これらの漢文日記 の中で用いられた一人称代名詞の例を示すと、以下のようになる。 航西日記(Ml7年8月ーIO月):Ml7.8.23余(1主)Ml7.8.24余(1賓)Ml7.9.3我(1 定)余(2主)、Ml7.9.ll我(1定)、Ml7.9.13我(1定)余(I主)、Ml7.10.ll余〈1主) 隊務日記(M21年3月ー 7月) :M21.3.10 余(1賓)、M21.3.18余(I主)、M21.3.22 余(1賓・1定)、M21.3.25余〈1定)、 M21.3.27余(1主)、 M21.3.28余(1主・

1賀)、 M21.3.31我(I主)余(1定)、 M21.4.l余(I定)、 M21.4.2余(I主・1定)、 M21.4.3余(2賓)、 M21.4.4余(1究)、 M21.4.8余(I主・1賓)、 M21.4.12余(I 賓)` M21.4.20余(1主)、M21.5.13余(I主)、 M21.5.20余(1主)、M21.526我(1 定)吾(1主)、 M21.6.7-8余(1主)、M21.6.17余(1定・2賓)、M21.6.19余(I主)、 M21.620余(1主)、M21.622余(I主・1賓)、M21.626余(1主)、M21.6.29余(1 主)、M21.6.30余(1主 ・ 1定. 1賓) 還束日乗(M21年7月-9月):M21.7.14余(I定)、 M21.7.28余(1定)、 M21.7.29 余(1定) 大正六年日記:T6.l.28予(1主)、 T6.3.26予(2主)、T6.4.6予(1主)、T6.4.29 予(1主)、 T6.5.27予(1主)、T6.9.3予(I主)、T6.9.l6予(1主)、T6.10.3予(1 主)、 T6.10.4予(I主)、T6.I0.7 予(1主)、T6.IO.ll予(1主)、 T6.10.16予(1主)、 T6.10.22予(I主)、T6.ll.ll予(I主)、T6.ll.25予(I主) 委蛇録(大正7 年1月ー 大正11年7月):T7.l.26予(I賓)、T7.2.13 予(1主 )、 T7.4.25予(I主)、,T7.4.26予(1主)、T7.5.l予(I主)、 T7.5.10予(1定)、TI.5.12 予(1主)、T7.7.12予(I主)、TI.8.18予(1主)、 Ti.10.27予(I主)、T7.ll.4予 (1定)、T7.ll.5予(1主)、T7.11.9予(I主)、TI.11.10予(1賓)、 T7.ll.15余(1 賓)、 T7.ll.16予(1主)、T7.ll.19予(1主,1賓)、T7.1121予(1 l"i)、T7.ll29 予(1主)、T8.l.l予(1主)、T8.l.10予(1主)、T8.l.17予(1主)、T8.3.9予(l賓)、 T8.4.18予(1主)、T8.5.2予(1主)、 T8.5.7予(1主)、T8.ll.2予(I主)、 TS.11.8 予(1主)、T8.ll.30我(1定)、T8.12.14予(1定)、 T8.12.28予(1賓)、T9.3.21 予(I主)、 T9.3.29予(1主・1定)、T9.4.17予(I主)、 T9.7.26予(1主)、 T9.8.15 予(1定)、 T9.10.2予(I主)、 T9.I0.25予(1定)、T9.10.27予(I主)、 T9.ll.21 予(1主)、T9.ll.22予(I定)、Tl0.3.3予(I主)、Tl0.3.7予(1賓)、TI0.5.30予(1 (26) 79

(7)

-賓)、 Tl0.8.10 予(l賓)、 Tl0.10.11 予 (1 主)、 Tll.6.29・ 予(l究) 以上をまとめると、表三になる。 表三 我 吾 余 予 航西 日記 (Ml7年 8 月 23 1 主 1 主 21主 0主 0主 日)から還束日乗 (M2l年 4 定 0定 8 定 0定 0定 9 月 8 日)まで 0賓 0賓 15賓 0 賓 0賓 大正六年日記 (T6年 1 月 0主 0主 0主 0主 45主 1 日)から委蛇録 (T11年 1 定 0定 0定 0定 7 定 6 月 29日)まで8 0賓 0質 1 賓 0賀 10賓 1 主 1 主 21主 0主 45主 5 定 0定 8 定 0定 7 定 0賓 0賓 16賓 0賓 10賓6 1 45

62 この表を概観してまずわかることは、2.1と同様に、「余」と「予」の用例数が主語・定語・ 目的語を問わず、一番多い点である。「航西日記」 (Ml7年8 月 23 日) から「還束日乗J (~ M21年9 月 8 日)までの「余」の用例 (44) は全体 (50) の88%に及ぶ。 一方、大正六年日(T 6 年 1 月 1日~)から委蛇録 (~Tll年 6 月 29日)までの「予」の用例 (62) は、 全体(66) の94%にもなる。 この点については、 同時期の他の作家の用例との比較によって典味深い特 徴を指摘できるが、 ここでは紹介するだけに止め、 稿を改めて論じたい。 これに対して、「吾」は一度しか用いられていない。(太字は節者。 以下同) 二十六日。 観術戌病院。輿埜坐笠、 午投子院之含堂。墓径演説、 有吾於丑子猶視我園中 人之栢。(「隊務日記」 M21.5.26) ここの「吾」は当時の軍岱監維廉祓染(Wilhelm Roth)をさしている。 また、「我」は以 下の6例にすぎない。 初三日早。(略)室訊別設換氣方筐。 々之側而。似我鐙戸。(「航西日記J Ml7.9.3) 十一日早。(略)入花苑。束盆樹作偶人。猶我菊偶也。(「航西日記」 Ml7.9.ll) 十三日。(略)往年皿軍攻阻差。我柱堕起在罪中。有囲塗紀行著。余曾頌之熟。(「航西日記」 Ml7.9.13) R 6 月30 日から 7 月 5 日までは吉田培蔵が代箪したものである。

(8)

三十一日。(略)雹特列絣(Staatsexamen)来(略)歴試猶我所謂開業試駿也。(「隊務 日記」 M21.3.31) 二十六日。槻衛戌病院。輿器坐笠、午餐子院之會堂。産盈演脱、 有吾於径子猶視我罰中 人之語。(「隊務日記」 M21.5.26) 三十日。 日。 陰。八代図治始訪我柑微。(「委蛇録」 TS.11.30) これらについても、 どのような原因で用いられたか、 また和語との関係があるかどうかに 考察を加えなければならないが、 紙而に制限があるため、 別桜に譲ることとしたい。 2.3 漢詩 漢詩における一人称代名詞の用例を表にすると、次のようになる。 表四 漢詩番号9 制作年代 2 Ml3 l

3 Ml3 2 4 4 Ml4 1

19 Ml5

1 27 Ml5

1 41 Ml5

1 81 Ml7 1

82 Ml7

1 91 Ml7 1

93 Ml7

1 112 Ml9 1 1 141 M22 1. 2 151 M24 1 1 154 M27 1

161 M28 1

162 M32

3 165 M33 1

188 T4 1

古田島(2001a) (2001b)に付けられている漢詩番号である。 (28) 77

(9)

-190 T4 l

201 T5 l

203 T5

1 209 T6

1 211 T6 1

212 T6

l 213 T6

1 215 T6 4

217 1‘6 1

219 T6 0 ' l 224 T7 1

226 T7 l

230 T7 3 1 231 T9

1 26 23 この表から、 漢詩の場合は、 時期による使い分けがあるわけでもないことが窺えるが、 こ こで、 興味深いのは、 漢文作品と漢文日記の一人称代名詞については、「余(予)」が多用さ れているのに対して、 漢詩の場合、「我」と「吾」しか用いられていない点である。 これを わかりやすく表にすると以下の通りである。 表五 余(予) 漢文作品 26 15 102 3 漢文日記 6 l lm

26 23

58 39 209 3

3. まとめ

以上、 述べてきたことをまとめると、 次のようになる。

漢文における一人称代名詞としては、「我」・「吾」・「余」・「僕」・「予」が用いられている。 そのうち、「余」と「予」は、 ほぼ同様の意識で用いられている。 ただし、 漢文日

(10)

記の場合、 時期によって使い分けがある。 漢文作品と漢文日記では、「余(予)」が圧倒的に多用される一方、 淡詩は「我」と 「吾」の用例しか見られない。 今後、 森閲外の漢詩文における一人称代名詞については、 その和栢との関係があるかどう かを考察し、 さらに夏目漱石をはじめ同時期の作家の用例と比較して分析していかなければ ならない。 また、 これが日本淡詩文の歴史にどのように位樅づけられるかが今後の課題とし て残されていると思われる。 1参考文献) 大屋幸世 (1984)「悶外への視角J有梢堂 王 カ (1982) 「同源字典』商務印由館 買 則夫(夏) (1981 a)「剪'朕'’,"鉗(予)..晋."我`'的初歩研究(上)」

r�

西師大非戟J (1981 b)「野朕".'’余"(予)."吾"."我"的初歩研究(下)」

r

欧西師大半報J 神代植亮 (1926) 「作家と文字(三)一里見淳氏の文字一

r

文章倶楽部J 古田烏洋介 (1997)「研究の回顧と展望—-<閾外浪詩>研究の現在」平川佑弘•平岡敏夫•竹盛天雄 編「講座 森閾外 3関外の知的空IUJJ所収•新曜社 (2001a) 閲外歴史文学集第十二巻 淡詩(上)」岩波柑店 (2001b)「悶外歴史文学染第十三巻 漢特(下)J岩波由店 胡 適 (1916) 「論 '我’ '吾' 雨字之用法」姜義米主編(1993)「胡適学術文集 語言文字研究J 中旅也店

-—

(1917)「又記 `吾、 ’我 二字」姜義·1(k主編(1993)「胡適学術文集 語言文字研究J中1/i 也店 山鳥鋭男 (1987)「即外の語法J和泉柑院 何 欣泰 (2000) 「森閉外の淡文日記に見られる外国人名の表記についての一考察「際務日記J を中心に一」「岡山大学大学院文化科学研究科紀要」第IW (2003) 「森悶外の淡詩における渓字淡語の用法」「岡大国文論秘J第31号 (テキスト)

r

閉外全集」岩波版 (カ キンタイ 台湾・輔仁大学助理教授) (30) 75

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