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The Limits of International Law, Jack L.Goldsmith & Eric A. Posner, Oxford, New York, Oxford University Press, 2005, 262pp, Index, $29.95, £17.99

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(1)    The Limits of International Law  By Jack L Goldsmith&Eric A. Posner. Oxford, New York:. Oxford University Press,2005.262pp. Index.$29.95,£17.99.. 編著 柳 濡話  本「書評」は,2006度冬学期の私の「国際法自主授業」で講読したJack L Goldsmith&Eric A Posner,7勉L∫〃z漉げ1鋭〃πα’ゴ。%α1 Lαωを授業参加者たち. が分担して執筆し,それを私の責任で一つにまとめたものである。授業参加者 (執筆順,敬称略)は,沼田良亨(博:士課程1年,第1,6章担当),波多野英. 治(†専士課程2年,第2章担当),Mohammad Shahabuddin(修士課程1年,第. 3,4章担当),青木俊信(修士課程1年,第5章担当),掛江朋子(博士課程 2年,第7章担当),桔梗博至(博士2年,第8章)の6名である。各分担者は, 担当部分の執筆に先立って授業で報告を行い,授業参加者全員で議論したこと を踏まえて執筆に当たった。執筆に際しても執筆要領,主要用語の訳語及び注 のつけ方について統一的な指針を作り,授業参加者の全員で原稿をチェックし. たので,本書評は基本的に私を含めた7人の共同作業の産物であるといってい いであろう。本書評が,この新しい野心作を「正しく」理解するのに資するも のになっていることを願ってやまない。. さて本書の主張は,本書第1部の慣習国際法部分の元になっている2つの論                                167.

(2) 横浜国際経済法学第15巻第3号(2007年3月). 文,“ATheory of Customary lnternationa1 Law”と“Understanding the Resemblance Between Modern and Traditional Customary International正aw”1>. が公表されて以来米国における国際法・国際関係論研究者たちの注目(と反発). の的となってきた。まず,二つの論文については早速シエトル大学のチンネン 準教授が同じゲーム理論の立場からの反論2)を,その後ハーバードロースクー ルのバーツ教授が「伝統主義者からの抗弁」という反論3)を出している。そし て,本書の刊行後も続々と書評が刊行されており4),それに触発された論文が 多数出る中で5),著者たちを招いてのシンポジウムまで開かれるなど6>,しば らくの問本書に対する関心やその主張をめぐる論議が続きそうである。.  本書がここまで国際法や国際関係論の研究者たちの関心の的になった理由 は,『国際法の限界』というタイトルから示唆される主張内容もさることなが ら,主張の単純明快さ及び合理的選択理論(rational choice theory)という手. 法による議論のわかりやすさにもあると思われる。.  本書の主張を一語で表すならば,「国際法は,他国の利益と国際的な権力配 分についての自己認識の下で,自らの利益を最大化すべく合理的に行動する国 家行動の産物」であることである7)。そのために,本書は,(著者たちによると). 従来の国際法学で軽視されがちだった国力(state power)と国家利益(state. interest)の2要素を,これまた従来の国際法学ではあまり用いられなかった 「合理的選択理論」を方法論的ツールとして用いて分析し,国際法を「道具主 義的に」(instrumentally)捉える一つの包括的な国際法理論(a comprehensive theory of international law)8)を提示し,そこからいくつかの規範的な主張を引 き出している。.  著者たちの方法論は,「国家中心的な(state−centered)合理的選択理論」で,. 次の三つの前提に立っている。すなわち,(i)国家こそ国際平面における主要 な主体である,(ii)国家の利益は同定できるものであるが,本書では指導者 (leader)のそれと同一であるとみなす,及び(iii)国家は自己利益を最大化す. るために合理的に行動するが,国家が利益の最大化のために国際法を遵守する 168.

(3)                        The Limits of Intemational Law. という選択肢はないものとみなす9)。.  上記の前提に立って,国際平面におけるルール(及びその遵守)を生み出す 国家行動の規則性(regularity)は,「利害の一致(coincidence of interest)」 (相手国の行為にかかわらず自国独自の利益を得ること),「共同(coordination)」. (相手国と同一の行為を選択すれば,逸脱することはない),「協力 (cooperation)」(自国の利益追求のためながら,次善の策(=協力)を採らざ るを得ない),「強制(coercion)」(相手国に利益をもたらすような行為を強い. られる)の4つのモデルのどれか,あるいは,そのいずれかの組み合わせの産 物であるといい,主に条約レジームについてのみ関心を示す国際関係論の研究 者とは異なり10),これらの4つのモデルを慣習国際法にも適用している。.  以上のような方法論を用いた記述に基づいて,著者たちのいくつかの主要な 結論が導き出される。.  その一つは,まさに本書の主張の核心をなす国際法に対する「道具主義的見 方」である。すなわち,国際法は国家による自己利益の追求の結果で,国家の. 利益に内因する(endogenous)。国際法は,国家の自己利益に対する抑制 (check)であるどころか,その産物(product)なのである11)。大方の国際法. 学者は国際法が国家に自己利益に反する行動を取らしめることによって国家利 益を抑制するというが,国際法が国家をして自らの利益に反する形で国際法を. 遵守せしめることはない。国際法は決して外因的な(exogenous)抑制要因た り得ない。そこから,著者たちは,国家が非道具主義的な(non−instrumental). 理由から国際法を遵守するという主流の(mainstream)国際法学を,「特定の. 分野で諸国の実際の行動を度外視したまま国際法を同定する教条主義 (doctrinalism)」12)と批判し,国家がそれに同意を与えたからとか,ある国際. 法が正当な手続に基づいて生成されたからとか,あるいはそれが国内的に内部 化されているからという理由から国際法を遵守するという見方13)を悉く退け る。.  第2に,著者たちは国際法そのものを否定こそしていないが14>,国際法が国.                                 169.

(4) 横浜国際経済法学第15巻第3号(2007年3月). 際協力の促進において果たす役割についてかなり懐疑的で,そのような国際法 の「限界」の具体的な証として,慣習国際法であれ,多数国間条約であれ,い わゆる「集合行動の問題」(collective action problem)15>を解決できないこと. を強調する16)。慣習国際法の場合,多数国間の「協力」や「共同」というのは. そもそも不可能であるか非常に困難で,実際は多数の2国間ゲームの総和に過 ぎない。条約においては慣習国際法の場合の「協力」や「共同」の限界がかな りの程度克服され得るが,多くの場合17)多数国間条約の主要な機能もやはり二 国間協力が複合的に行われる引照枠組みを提供することでしかない。.  最後に,本書の道具主義的な見方との関連で,(i)国家には国際法を遵守す る道徳的義務はない(第7章),(ii>自由民主主義体制の国家はしばしば要求 される世界主義的な行動(cosmopolitan actions)を推進する義務がない(第8. 章)との2つの規範的な主張がなされる18)。前者は国家の道具主義的な動機と. 国際法を遵守すべき道徳的義務とは別個であるという一部の伝統主義者 (traditionalists)’の反論に対する著者たちの反論である。後者については,自. 由民主主義体制下で国家の主要目的は国民の福利(welfare)の増進であり, 民主主義の手続過程において世界主義的な要求は実現され難いと反論する。  以上のような理論的枠組みに基づいて,本書は,理論的枠組みを提供するイ. ントロに続いて,第3部第8章の構成となっている。各面の詳細は執筆分担者 たちによる章台の紹介及び評価に委ね,以下ごく簡単にまとめる。第1部では. 慣習国際法が取り上げられ,第1章では理論的考察が,第2章では事例分析が それぞれなされている。第1部の骨子は,慣習国際法が諸国の普遍的な行動の 規則性を反映するという既存の通念とは異なり,二国間,あるいは少数の集団 間のものであるにすぎず,国家の行動に外因的な影響を及ぼすものでないこと. である。さらに,多くの場合慣習国際法は「利害の一致」の産物で,時には 「強制」に基づいていることが指摘される。第2部では,そもそもなぜ条約が. 慣習国際法よりも頻繁に用いられるのかという問題に答えるべく国際的合意 (international agreements)(条約及び法的拘束力のない合意の双方)の問題が 170.

(5)                        The Limits of International Law. 取り上げられる(第3章)。そして,条約は意識的な交渉の結果であること及 び成文的な形式のゆえに曖昧さがかなり克服されるだけでなく,国内批准手続 及び解釈ルールなどからくるその情報提供力の強みのために,慣習国際法にお ける「協力」や「共同」の限界がかなりの程度克服され得るが,それでも多く. の場合多数国間の囚人のジレンマを克服することができないことが人権(第4 章)と通商(第5章)分野を例に分析される。最後に自分たちの既発表論文に. 対する3つの批判に答えている第3部で,著者たちは,前述した2つの規範的 主張(第7章と第8章)に加えて,第6章で「特定の行為に従事し,又はそれ を差し控える特別の理由として国際法を取り扱わないとすれば,なぜ多くの国 家が国際法という言葉を使用するのか?」18)という批判に対し,国際関係にお. ける道義的,法的な修辞(rhetoric)というものが,道具主義的立場といかに 相応するのかを力説する。.  かつてジョンH.E.フライドは,国際法の有効性を疑う見方を,(i)国際法が. その脆さの故に無視されがちであることを強調する「孤児理論」(“orphan” theory),(ii)国際法は曖昧で穴だらけであるために権力政治の道具となりが ちであるという「侍女理論」(“harlot”theory),(iii)実体面での成熟さにもか. かわ.らず,執行メカニズムの欠如の故に法としての本質を欠くという「看守理 論」(“jailer”theory)及び(iv)国際法の原始的性格を強調する「架空理論」 (“never−never”theory)の4つに分類したが20>,本書はそれらのいずれにも分. 類され難く,その意味では従来の国際法軽視や批判の流れとは幾分にも趣を異 にする「国際法の限界」論といえよう。しかも,本書は,冷戦後「構成主義」 (Constructivism)や「国際法の島島」(legalization of international law)などの. 形で,国際社会における規範の果たす役割を再評価しようとする流れが勢いを 獲得しつつある時代的状況の中で,制度学派(institutionalism)の流れを汲み. ながらも,その射程や結論の両面からかなり異なる異色の存在であるといえよ う2・)。.                                 171.

(6)  横浜国際経済法学第15巻第3号(2007年3月). というのも,本書は,「合理的選択理論」という社会科学的なツールを用いて,. いつ,なぜ国家が国際法を用い,それを遵守し,そして,どのように国際法が .国家行動に影響するのかについての道具主義的な説明を提供するもので22),そ. の意味では,国際ルールがいかにあるべきかについての「規範的理論」 (prescriptive or normative theory)書でなく,国際ルールについての「記述的 理論」(descriptive or explanatory theory)書である23)。すなわち,本書は,ゲ. ーム理論を用いて国際平面におけるルール(及びその遵守)を生み出す国家行 動の規則性を類型化し,それに基づいて実際の国家行動及び国際法の具体的な. 働き方がいかなるものであるかについて斬新な手法でわかりやすく「説明・記 述」しているのである24)。.  確かに,国際関係におけるルールの道具主義的な捉え方そのものは現実主義 者(realists)たちの当然の前提である上,合理的選択理論を駆使して国際関係. や国際ルールを分析する手法も,1989年Kアボット教授の記念碑的な論文25) の出現以来,特に1990年代後半から合理主義者(rationalist)と呼ばれる一群 の学者たちの問ではわりと目新しいことではなくなったといわれる26)。それか. ら,著者たちの上記の2番目の結論27)も,国際ルールがすべての国々(慣習国 際法)や一団の国々(多数国間条約)に向けられている場合でも,ほとんどの. 場合一対の国々にのみ権利を付与し,義務を課すという,国際法の双務的 (synallagmatic)性格及びそこから派生する相対的効果に関わるもので,それ 自体目新しいものとはいえないかもしれない28)。.  しかし,「合理主義的手法」を慣習国際法にまで広げて適用したことは著者た ちが初めてであるし29),合理的選択理論に基づく国際的合意についての分析は. 従来の国際レジーム論者によるそれを越えて明瞭かつ精緻に展開されている 30)。特に,慣習国際法も,多数国間条約も,「集合行動の問題」を解決するこ とができないという指摘31),そして,国際法が国家行動に対する外因的な力で. ありえないといいつつ,国際法遵守における規範の役割を払拭しようとする著 者たちの試みが国際関係論・国際法研究者の間で様々な議論を触発したことは  172.

(7)                         The Limits of Intemational Law. 本書の貢献というべきであろう。.  ただし,本来国際法の形成や国家の国際法遵守についての道具主義的な「記 述的理論」としての本書の主な矛先が,国際法遵守について自説を展開したL ヘンキン,T. M.フランク, H−Jコーなどの国際法学者及び国際関係における規. 範の役割を再評価する「構成主義者」(constructivist)たちへ向かったことはあ. る意味では頷けることではあるが,彼らはあくまでも国際法の遵守理論につい ての一部の米国の国際法学者たち及び国際関係論の一分派でしかないわけで,. その意味では本書の批判の主な矛先である「主流の伝統主義者」(mainstream traditionalist)32)が誰を指しているのかがはっきりしないことは問題といえよ. う。もし,それが従来まさに国際法学の主流である法実証主義者を指すならば, 後者は決して国力(state power)や国家利益(state interest)という要素を無. 視してきたわけでないし,そして,第7章の分担執筆者も指摘しているように 33),後者はそもそも「国際法遵守の義務を道徳的観点から議論しない」わけで,. その限りでは的外れというしかないであろう。  それから「記述的理論」であるはずの本書が,国際協力の促進に国際法の果た. す役割についてより懐疑的であることにとどまらず,前述したように,第3部. において二つの規範的主張を行うことから,著者たちは「合理主義」 (rationalism)を標榜しながら,暗黙的には合理主義的な記述からは必ずしも ストレートには出てこない規範的な立場としての「修正主義」(revisionism)が. 見え隠れするとの批判が浴びせられている。すなわち,凶日ザウェーイとラー ビンブックは,本書は,最近アメリカで一部の若手研究者の中に浸透しつつあ る修正主義的な動き,すなわち国際法は米国の憲法の体現している民主主義的 な原則と調和し得るものでなければならないという規範的前提を暗黙的に振り かざすものと断罪する34)。このような断罪が正しいかどうかはおいとくにして. も,本書の国際法の道具主義的な理解,国際協力の促進に国際法の果たす役割 について懐疑的な見方及び国際法に対する「非道具主義的見方」の排斥という. 諸々の,しかし,お互いにつながっている主張の帯びる規範的含意が本書の規                                  173.

(8) 横浜国際経済法学第15巻第3号(2007年3月). 範的理論書たる印象を呼びおこし,それに対する規範的な反論を招いたことは 理解に難しくない35)。.  最後に,本書に対する書評や本書の主張に触発された一連の著作を拝見しな がら感じることは,この論戦が,少なくとも今までは,きわめて米国的な現象 で,しかも,いわゆる「合理主義者」たちやあるいは合理的決定理論に親和的な. 研究者たちによる内輪的なやり取りであるかのような印象を拭い去ることがで きない点である。バーツ教授のような「伝統主義者」から慣習国際法の役割に. ついての「抗弁」が行われなかったわけではないが,現在のところいわゆる伝 統主義者からの書評は出ていない36)。その意味では,ゴールドスミスとボスナ. ーはジョージア大学のシンポジウムにおいて,すでに批評者・参加者の間で古 い国際法研究とは一線を画す「新しい国際法研究」(New International Law Scholarship)がスタートしたと宣言しているが37),本書が米国だけでなく,ヨ. ーロッパでも,そして,合理主義者だけでなく,いわゆる伝統主義者をも巻き 込んだ論議に発展し,真に新しい国際法研究への機運を助長することができる かは,今しばらく今後の推移を見守る必要があるのではなかろうか38)。. 第1章慣習国際法の理論                             (沼田 良亨).  第1章における「慣習国際法は国家の行動に外因的な影響を及ぼすものでは ない。」39)という本書の主張に強い衝撃を覚えた。これまで慣習国際法に対し. て抱いてきたイメージとは,「成立時期が不明確で内容の明瞭さを欠くが,す. べての国を拘束する。」という,ある意味においては万能のツールという側面 を有するものであった。これに対し,慣習法の果たしてきた役割を否定し,慣 習法に反対しているのではとさえ思われる著者らの主張は次のとおりである。  著者らは,「『国家による国益追求の結果生ずる行動の規則性』というものが 慣習国際法を最もよくモデル化する。」40)という前提に立ち,「利害の一致」, 174.

(9)                        The Limits of International Law. 「強制」,「協力」(二国間の囚人のジレンマ)及び「(二国間の)共同」という. ゲーム理論に基づくモデルを提示している。次に,各モデルにおいて,伝統的 に確立された慣習国際法に従っているものと考えられている事例を分析するこ. とにより,慣習国際法の構成要件である国家実行とは,法的確信(0ρ伽勿 ノ纏s)の帰結ではないと主張している。すなわち,利害の一致においては,慣 習法に関する伝統的見解の中心にある国家の「法的義務としての意識」が説明 できず,強制においては,行動の規則性は弱者に対する強者の支配の帰結であ. り,法的義務としての意識の外にあると,さらに,「協力」及び二国による 「共同」においても,国家は従う義務があると認識する規則に従って行動する のではなく,より利益があるから,そういう行為に及ぶのであるという結果を. 導き出している。そして,「行動の規則性は,国家による自己利益(国益)追 求の帰結であり,慣習国際法は,4つのモデルのどれかと一致する自己利益の 産物である。」41)と結論付けている。.  慣習法の変化についても,「環境の変化による国益の変化(利害の一致),国 益又は相対的国力の変化(強制),ペイオフの変化(二国間の囚人のジレンマ) 及び試行錯誤の結果(共同)により,状況により,いつでも生起し得る。」42) ことを理論的に導き出して説明している。.  また,慣習国際法の証左と伝統的に考えられている多数国間の協力又は共同 というものを,著者らのモデルにおいてはそもそも不可能もしくは非常に困難 なものとして捉え,実は多数の二国間のゲームの総体に過ぎないと主張してい る。.  著者らの主張は非常に強い説得力を有している。その説得力の根源は次にあ ると考える。すなわち,非常に有名,かつ理解され易いゲーム理論を用いてい る点,理論が極めて簡潔明瞭である点,さらに自己利益(国益)というその存. 在及び価値を容易には否定し得ない要素を主張の中心軸に置いている点であ る。これら三つを非常に巧妙に組み合わせ,論理展開させることにより,彼ら の主張は強固に構築されている。したがって,これに真っ向から対抗し,打崩.                                  175.

(10)  横浜国際経済法学第15巻第3号(2007年3月). すことが非常な困難を伴うことが予想される。事実,彼らの主張に対する複数 の文献においても,正面からは対抗しておらず,「慣習法に対する遵守も顕著 である。」43)とか「わざわざゲーム理論を持ち出さなくても説明がつく。」⑭と. いうような論評が散見され,議論の歯車自体が噛み合っていないように見える。. これは著者らの主張が妥当,かつ首尾一貫していることの一つの証左となるも のと考える。.  しかしながら,著者らの主張においても,十分に説明し尽くされていない部 分も存在する。例えば,国益の変化による慣習法の変化という点である。確か に,国益の変化により行動の規則性が変化し,論理的帰結として慣習法が変化 するという展開は容易に理解され得るものである。しかし,現実の国際社会に. おいてはそう頻繁に慣習法が変化しているわけではない。すなわち,彼らの理 論は慣習法の変化という動的変化を非常に的確に説明できる反面,慣習法の変 化と変化の問のいわゆる安定期における慣習法の役割を完全には捉え得ていな いわけである。「その静的期間においては単に国益が変化しなかっただけであ る。」という主張もなし得るであろうが,これでは長期間の安定を説明するに は弱点がある。次章において彼らが選んだ研究事例は,この弱点を見え難iくす る性格を有しているが,その点を的確に捉えたのが「慣習法め影響が重要でな いという最終結論は,それに係る慣習国際法の事例を選定するうえでの偏向に より導かれたものである。」45)のような批判であろう。.  このように十分に説明し尽くされていない点もあるが,これまで完全に確立 されていると思われてきた慣習国際法の意義に対する初めての挑戦として評価 できるものである。また,単に無鉄砲な挑戦ではなく理論に裏打ちされた正当 な挑戦であり,さらには新たな慣習法概念の可能性をも秘めた価値ある提言で あるとも言えよう。. 176.

(11) The Limits of International Law. 第2章 事例研究                             (波多野 英治).  慣習国際法の理論的側面を取り扱った第一章に続いて,本章ではその実証と して四つの事例研究が行われる。.  第一の例は,戦時禁制品を除き,敵国財産を含む中立国船舶上の全ての財産. を差押えから免除する自由船・自由貨の原則である。この原則は,1856年の パリ宣言で提示されて以降,同宣言への加入の増加,継続的な国家の支持,顕 著な違反の少なさを根拠として慣習国際法の規則と主張されるに至った46)。他. 方,著者によれば1856年以後の五つの戦争での交戦国と中立国の行動は自由 船・自由貨原則と整合的であうたものの,当事国の法的義務感に起因するもの ではない47)。米西戦争において,スペインは海軍力不足のため中立商業を中断. できず,米国は圧倒的な軍事力の優位性ゆえ中立船捕獲の必要性に大きな利益 を見出さなかった。また,ボーア戦争初期のイギリスはボーアニ国が海軍を持 たない内陸国で中立貿易への依存も少ないと考え中立船捕獲の利益を重視しな. かった。これらは「利害の一致」の例である。また,日露戦争後期にロシアが イギリス及び米国からの報復の脅威により広範な禁制品リストをもとにした中 立船の捕獲をやめた事例,ボーア戦争後期に米国とドイツの報復の脅威から中 立船の捕獲をやめたイギリスの事例は「強制」といえる。これらの「強制」の 例は報復の脅威が検討されなかったことから「利害の一致」と見ることもでき るという48)。.  第二の例である外交使節に対する特権免除(ambassadorial immunity二以下 「外交免除」)は常に慣習国際法の最も強固な規則の一つと考えられてきた。外. 交免除は他国にいる自国外交官の維持を国家が相互に望むという「協力」的戦 略である49)。その違反は報復に帰結するため,規則の性質は全か無か(all−or−. nothing)であり,外交免除が優先されるのは二国が「協力」の関係にある場 合に限られる50>。外交官が接受国刑法に違反した際,現地大衆の反発から生じ.                                  177.

(12)  横浜国際経済法学第15巻第3号(2007年3月). る混乱を考慮すれば,接受国は外交免除を認めないことで短期的に大きな利益 を得ることができるが51),それが長期の外交関係の利益を超えることは少ない。. 外交免除は一見協力的な多数国間の行動の規則性を成立させているかに見える. が,ある国家が外交免除に反する行動をとった際に実質的な報復は実際は当事 国間で行われるに留まることから,ニ三国間における繰り返し囚人のジレンマ の融合体と捉えるべきである52)。つまり外交免除は全ての国家のニカ国間にお ける戦略的行動の均衡点を反映するのである53)。.  また,国家が外交免除から逸脱する例が検討されるが,それらは伝統的な見 解からはうまく説明できない。第一に,イラン人質事件に顕著なように,なら ず者国家は「文明化した(civiHzed)」国家よりも頻繁に外交免除に違反する54)。. 第二に,国家は免除違反の利益が高く,または免除尊重の利益が低くなるよう な利害関係の変化があった場合に,外交免除の規則を違反する可能性がより高 い55)。例えば国家の安全保障が脅かされた場合には外交免除の保持よりもその. 違反の利益の方が大きいことがある。第三に,外交免除の尊重は時間の経過に よる二国間関係の変化に影響を受けやすく,普遍的とは程遠い56)。冷戦期の米 ソ相互間における外交官への不当な扱いはその例である。.  第三の例は領海の幅員に関する慣習国際法の議論である。領海幅員に関する. 慣習国際法は均一かつ静態なものであったわけでなく,諸国はその時々で利益 と力に応じた異なる行動形態に従ってきた57)。領海の幅員は当初沿岸からのカ ノン砲の着弾点を基準として三マイルが主張され一般化し58),イギリスや米国. が慣習国際法の規則として公式に採用し法学者からも広く支持されたが,この 規則に反する主張をする国も見られた59)。そこで著者たちは,三マイル規則が. 慣習的な国家慣行ではなく,この規則を認める国も度々例外を付していたこと を示す。そのような例外の一つである反密輸法は,沿岸国が反密輸の目的で三 マイルを超える管轄権に強い利益を有するのに対して,他の国々が密輸を支援 する理由を有しないために,「利害の一致」として説明される60)。他国の抗議 により三マイル管轄権へ後退する場合は「強制」の例である。 178.

(13)                         The Limits of International Law.  三マイル規則への他の例外として,戦時における中立国船舶の捕獲i免除があ る。第一次大戦中ノルウェーは四マイルの中立地帯を主張したが,イギリスは 三マイルより外のノルウェー船舶を捕獲した。これはドイツに向かうノルウェ ー船を阻止する利益を有していたイギリスによる「強制」の例である61)。また. イギリスはイタリアの六マイル中立地帯の主張を黙認したが,著者たちはこれ を「利害の一致」の例と捉える62)。三マイル規則からの逸脱と言える無害通航. 権は,国家が無害の定義を利己的に行うことで自国の利益を脅かすと思う国の 船舶捕獲を妨げない。ゆえに筆者たちは「国際法学者が慣習国際法と考えるも のは,国家がその利益に基づいて行動していることを描写するものに過ぎない」 と考える63)。また三マイル規則を擁i護してきた英米が後に自国の利益に即して. 三マイルを超える管轄を主張したことは,国家がその利益と一致するよう慣習 国際法の変化を主張するものである64)。これは国家が法的義務感から慣習国際. 法を遵守することを否定する見解である。強大な海軍力を背景に領海幅員を狭 くとることに利益を有していた英米ですら三マイルの領海を認めたのは,例え ば敵対国における自国船舶の通行の安全を確保するまでに十分な力は持たない ゆえの「利害の一致」といえる。このように,領海幅員の例からも「国家は外 因性の慣習国際法規則に従うよりもむしろ自己利益に基づいて行動し,その行 動は利益が変わるに従って変化する」ことが示される65>。.  最後の例はパケット・ハバナ号事件における慣習国際法の特定と適用の過程 である。この事件では戦時に敵国の沿岸漁船が捕獲から免除されることが慣習 国際法として示された。著者たちによれば,この規則の違反の例は多い上,国 家が漁船の捕獲を慎むことを示す積極的な証拠はなく,漁船捕獲iの報告事例も ない戦争におけるその最良の説明は「利害の一致」である66)。.  同事件で米国連邦最高裁判所は,15世紀以降,米国独立革命期,フランス 革命期の例を示し諸国が沿岸漁船捕獲を慎む慣行が成熟しているとする。著者. たちはこれに対し四つの点から否定的な見解を示す。第一に,裁判所は19世 紀以降の国家慣行をほとんど示していない。第二に,裁判所は主に国家の合意                                  179.

(14)  横浜国際経済法学第15巻第3号(2007年3月). や宣言に依拠しているが,これらは厳密に実証主義的な意味での慣習とは言え. ない。第三に1慣習国際法の内容に関する各国の立場はその利益と受容能力を 反映するものにすぎなかった。最後に,裁判所の示す紛争全ては二国間のもの に限定されている67)。著者たちの16世紀の検討によれば,米墨戦争,クリミア. 戦争,普仏戦争で条約や命令により漁船免除が実施されたが,そこには捕獲を. 認める例外が多数あった。20世紀初期を検討すれば,パケット・ハバナ三原 則に則する例も見られるが,その原則を適用しなかった例も複数ある。結局, 国家は自己利益に基づいて行動し,捕獲の利益がない場合には捕獲を慎み,利 益の均衡がある場合には捕獲を行うのである68)。.  上述の四例で実証されるように,慣習国際法を二国間関係から分析し,諸規 則の進展と遵守の基礎が国家の利益にあるとするゴールドスミスとポズナーの 独自の見解は理論の一貫性が高く,慣習国際法に対する理解を推し進めるもの といえる69)。他方で,彼らの理論はある意味では議論の複雑性を回避すること. で成立しており,慣習国際法の的確な理解のためには理論及び実証双方におけ るより複雑かつ豊富な検討が要されよう70)。以下に概観するように,著者たち の行う実証に対しては,・選択された事例の的確性及び事例の分析手法の側面か ら批判的な見方をすることが可能と思われる。.  まず,事例の的確性についてである。第一に,慣習国際法が国家の行動に外 因性の影響力を有さないという本書の見解を実証するためにはより包括的な検 討が必要であり,二言の事例研究により結論を示すことは適切ではない71)。第. 二に,提示された事例が適切に選択されていない。国家が慣習法規則に従わな い例も多いが,慣習法に従う例もまた多い72)。特に,外交免除規則の下で国家. は違反行為を暗黙のうちに慎み,むしろ遵守は日常的であるので,外交免除の 事例は検討の対象として相応しくない73)。また,海上での中立国の権利の考察. にあたっては、1861年のトレント事件では南北戦争下に公海上での英国船舶 が北部連邦同盟により停止させられた事例,及び1917年のドイツの無制限潜 水艦作戦の採用など,顕著な事例が検討の対象とされていない74>。第三に,い 180.

(15)                         The Limits of Intema丘onal Law. くつかの事例では国家は慣習法とされる規則に違反するものの,当該規則を慣. 習法と認識する立場で対照的行動をとっているトレント事件と無制限潜水艦作 戦の例では,前者においてイギリス,後者において米国は相手国の行為が慣習. 法に違反するとの認識から抗議や参戦という対応をとった。また,当事国が領 海三マイル規則を慣習法と認識し,それに影響を受けた行動をとる事例も存在 する75)。禁酒法実施時のアメリカはそれまで慣習法により実施しなかった三マ. イルより外での臨検を行ったことで抗議を受け,後に条約の締結による対応を 行った。.  事例の分析手法については,本書の拠って立つ合理的選択論を用いた分析か らも,著者たちの議論を批判的に捉える試みがある76)。ゴールドスミスとポズ. ナーの見解では,費用の増加を理由に,国家が多数国間の繰り返し囚人のジレ ンマから脱却すること,及び多数国間で「共同」することが困難であるとして, 慣習国際法の実体は否定的に概観される77)。他方で,ノルマンとトラクトマン は多数国間の関係をモデル化できる可能性があるという78)。彼らの見解では,. 例えば汚染について夕倍β不経済を内部化すれば世界的厚生は拡大することか ら,越境汚染は複数国に及ぶ場合にも慣習国際法である∫ゴ。%’θ76伽。(相隣関. 係)の規則が適用されるため,多数国間囚人のジレンマの議論が可能であると する79)。このような実証を基礎にノルマンとトラクトマンは,もし国家が法的. 確信による動機で行動しないとしたら慣習国際法は存在しなくなると疑問を呈 し,国家の行動における法的確信の重要性をも強調する80)。.  ゴールドスミスとポズナーの議論は慣習法を複雑性の低く留められたゲーム. 理論で分析し,法的確信からよりも国家の利益から捉え,これを比較的に歴史 的変遷の捉えやすい任意の事例によって実証する。上述のように,両著者の議 論は合理的選択論者からも批判と補足がなされうる。多数国間ゲームにおける. 均衡点や法的確信の意義に対する両著者の見解は現状理解の上でも理論の上で も批判の対象となりうる要素を内包しており,事例研究としてより豊富かつ多 様な例が分析される必要は残る。他方で,過度に複雑な分析枠組みを用いず,                                  181.

(16) 横浜国際経済法学第15巻第3号(2007年3月). また理論的にも一貫性を有する両著者の見解は,多角的な慣習国際法の分析及 び理解の基礎として重要性を持つと評価することができる。. 第3章国際的合意の理論               (モハメド・シャハブディン訳沼田良亨)  本章において著者たちは国際的合意(international agreements)(条約及び. 法的拘束力のない合意の双方)を説明するために「自己の利益」という前章ま でと同じ概念に頼っている。そこで再度,「国家が,国際法に律されるという 意図の表徴としての合意を締結する際,当該合意を履行するという国際法上の 義務の下に自己を置くのである。」81)という一般的通念を批判している。逆に,. 条約の論理を説明するうえで,「法的規範性」や「合意は守られなければなら ない。」とかそれに関連する概念には言及していない。彼らは,「国際的合意の. 基本的論理は第一部において述べられた「共同」及び「協力」のモデルから直 接に導かれる。」82)と確信している。この主張に適合させるため,彼らは,特. に国家の数が増加する場合の慣習国際法における「協力」及び「共同」モデル の弱点を指摘している。彼らは多国間における情報交換の欠如が常に慣習国際 法が弱いものであることを証明し,ゆえに真の慣習的「協力」及び「共同」の. 範囲が限定されてしまうと主張している。したがって,「情報交換が協力及び 共同を促進する場合,国家は共に利益を得る機会を認識し,利益を達成するた めにとられる相互の行為に関する期待を調整するために,口頭又は文書による 合意を締結し得るわけである。」83).  「利害の一致」及び「強制」という他の二つのモデルに関し,彼らは,当該 モデルは「国際的合意が達成するものを完全には捉え得ない。」84)と考えてい る。この懐疑の裏には,仮に各国が他国の行動に関わらず(「利害の一致」)自. 己の利益のために同一の行為に従事するのであれば,行為を成文化する合意を. 締結するために資源を投入する理由はないということがある。他方,ある国が 182.

(17)                         The Limits of Intemational Law. 他国に対し強制しなければとらないであろう行為を強いるのであれば,合意は 冗長のように思われるのである。.  それゆえに,「協力」及び「共同」のモデルが彼らの国際的合意の論理の支 柱となるわけである。.  彼らは,単に規則を条約手段に盛り込んだだけでは問題の解決にはならない と主張することにより,国際関係論における制度主義者をも批判している。す なわち,条約によって設立された国際機関は監視及び関連する情報提供メカニ ズムを強化し得るものの,条約違反国に対する処罰は依然として国家の裁量で あり,ただ乗りや関連する集団的行動の困難性という問題も存在するというこ とである。この類推が彼らに「多国間条約制度の利点とは何であるのか?」と いう妥当な問題を投げかけているわけである。彼らはこの問題に二段階の論理 で答えている。つまり,第一段階においては,国家が一同に会し,共通の同意 について交渉する。第二段階では,国家が一対で協力,すなわち対となる各国 は一方の国が同意を履行する限りにおいて自国もそうするわけである。実際, この理論は「共同」の問題及び「反復する囚人のジレンマ」に対する解決をも たらすものである。.  「法的規範性」という観念を排除するために,著者らは,なぜ,実際に国家 は法的拘束力を持たない合意よりも条約を優先するのかということを説明して いる。彼らの説明は,条約への優先を形作っているのは規範的な理由ではなく,. 手段的な理由であることを示している。第一に,条約締結過程というものが全 ての当事国に有利なように情報をもたらし得るからである。国家が法的拘束力 を有する合意を締結する別の重要な理由は,条約上の紛争が生起した場合に, 法的拘束力を有しない合意に関する紛争に適用される「より一般的な直感的知. 識」ではなく条約法(1969年の条約法に関するウィーン条約)に規定されて いる規則が適用されることを加盟国相互に知らしめるためである。さらに,法 律化された合意は,法的拘束力を有しない合意に対してよりも,約束の問題と して多大な関与をもたらすからである。それは,国家が協力のための努力をど                                   183.

(18)  横浜国際経済法学第15巻第3号(2007年3月). れほど真剣に捉えているかということを他国に伝えたいと思う時に生起し得る 「共同」の問題を解決する一助となるのである。したがって,国家が法的拘束 力を有しない合意よりも条約を優先するのは,法的観念によってのことではな い。.  遵守に関しても・,彼らは同様の思考に従っている。彼らが傾倒する合理的選. 択学派においては,遵守に関し「報復」と「評判」という二様の説明がなされ ている。国家がなぜ条約を遵守するのかという最も簡単な説明は,遵守しなか った場合の報復又は他の形態での「協力」及び「共同」の失敗を恐れるからと いうものである。彼らは,「評判」理論の強い主張には懐疑的であるが,おそ らくは「評判」自体が規範的含蓄を有するという理由からであろうgそれゆえ,. 国家は手段的理由のみから国際法に従うのであるという彼らの一般的な主張を より強調している。しかしながら,評判理論に対して次の点を指摘している。. 第一に,一つの条約に対する違反がその国の他の条約に対する違反の傾向をど の程度示すこととなるのかが不明確である。第二に,国家は「評判」に関する 多角的な関心を有しており,その多くは国際法の遵守による「評判」とは無関 係であり,また,競合しさえするのである。第三に,急変する国際関係により .多くの条約が誤解又はすぐに無意味となっているが,そのような条約から「評 判」に関する結論を引き出すことは困難である。最後に,国家が条約に違反す る際にいつも「評判」の損失を負うという仮定は方法論的に適切ではない。こ の仮定に立つならば,なぜ,ある条約が他の条約に比べてより遵守されるのか という説明がより困難となる。著者らは次章において,自由民主主義国家によ る人権条約の批准の理由を説明するために「評判」に頼ってはいるが,ここに おける「評判」の格下げに関していえば,彼らの努力は論理的であろう。.  最後に,彼らは官僚機関による条約の遵守に関し詳細な説明を行っている。 ここでの主張は,政府機関が通常業務の問題として国際条約を明白に遵守する 場合,水面下においては費用効果分析がなされているということである。さら には,遵守の確証に従事する官僚が国家の近々の利益という目的に適わない場  184.

(19)                         The Limits of Intemational Law. 合にも(1)官僚が比較的重要でない短期の利益とより重要な中期の利益を交 換する,あるいは(2)官僚的自己栄達が条約制度に対する官僚的支持の継続 を導くという理由により,しばしば遵守に固執することは真実であると主張し ている。しかし,いずれの場合も国際法が国家の「内部的価値集合」の部分を なすに至ったとか,国際法が重要な事態において国家指導者の方針の変更を防 止するという例には当たらない。.  前述の主張と併せ,彼らは国際的合意の理論はいかなる規範,価値及び義務 からも独立したものであるという提唱を推し進めているようである。これら規. 範等の概念全てに優先するのが自己の利益ということである。この理論を構築 するに際し,彼らはでき得る限り「規範的引力」を取り除こうと試みている。 でき得る限りであるというのは,仮に美しい生地に例えるならば,彼らの理論 の引き離された一部が規範的な糸で編まれている数少ない例を次章において確. 認することができるからである。一般的にいえば,この国際的合意の理論は確 かに,興味をそそるものであり,説得力を有し,かつ水をも漏らさないもので ある。. 第4章 人 権               (モハメド・シャハブディン訳掛江朋子)  前章において著者らは,国際的合意を「共同」及び「協力」として説明し, 「利害の一致」及び「強制」に対する懐疑の念を示したが,国際人権条約に関 する主張のための基盤作りを忘れていたわけではない。彼らは「利害の一致」 が多国間条約において,より実質的な説明をなし得るとしている。すなわち, これら条約は多くの締約国に対して,条約成立以前と異なる行動を要求するも のではないわけであり,特に人権条約がこのような特徴を持つということであ る85)。したがって,人権に関する実行のほとんどは,「強制」又は「利害の一. 致」として説明されると結論付けている。そこで,彼らは人権条約を自己の構                                  185.

(20) 横浜国際経済法学第15巻第3号(2007年3月). 築した国際的合意に関する一般的な理論の例外と捉えているのかという疑問が 生ずるが,それに対する答えは示されていない。.  人権に関する自己の「国益テーゼ」を説明するに際し,著者らは,すべての 国家においてその政府は,統治下にある人々の福利(well−being)に対する関. 心と,対外的・国内的な安全保障及び政府自身を永続させることに対する関心 とのバランスを保つものであるが,その対応の仕方は政府によって様々である と主張している。自己の理論の目的上,彼らは「権威主義的政府との比較にお いて,自由民主主義的政府は,その統治下の人々の人権尊重により重要催を見 出すものであるが,これは単に,実際には自由民主主義的政府が,本質的に,. 又は手段として,もしくはその両方で,権威主義的政府よりも自由を高く評価 しているということを意味するにすぎない」と仮定している86)。しかしながら,. 著者らは,この仮定を支持するためのいかなる実証的研究も行っていないので ある。確かに自由民主主義国家における人権に関わる実行は,権威主義体制に おけるものよりも適切ではあるが,彼らは国益と人権に関する適切な実行との 関連性(1ink)を確立していない。この関連性の欠如により,自由民主主義国 家が(少なくとも国内的に)人権を尊重するのは,自国の内的価値体系ゆえで あるという反論がもたらされることとなる。.  人権遵守の論理との関連で,彼らは一つのモデルに依拠するのではなく,異 なるタイプの人権侵害に合わせて「利害の一致」,「協力」又は「強制」を用い ている。ジェノサイドと人道に対する罪については,これらの犯罪が稀なのは,. 国家が国際人権法を遵守しているからではないと説明している。彼らによれば 「利害の一致」を反映しているというのがより適切な説明ということである。. つまり,大量の人々を殺害することが,道義的に忌まわしく,また,社会や経 済を根本的に破壊するものであることから,独裁的指導者にさえも脅威を感じ. させるわけである。他方で,その他のより極端でない人権侵害については, 「協力」を適用している。ここでは,2つの状況が説明されている。まず,(i). 各国家が異なる民族的又は宗教的多数派を抱えており,彼らが他国においては 186.

(21)                         The Limits of International Law. 少数派である下民下半は同宗教の福利に関心を持っているという状態での対称 的協力的人権法(騨¢〃zθ励cooカθ鰯勿θ伽〃襯7ゴ9傭1αω)であり,その例とし. ℃はウエストファリア条約が挙げられている。次に,(ii)経済的,戦略的又は. その他の理由によって一国が他国の人権状況に関心を持つ非対称的協力的人権 法(鰐伽3θ〃∫6000ρθ剛勿6伽〃3απ7∫9傭1αω)である。「強制」に関して著者ら. は,「国家はもちろん国際法の遵守から逸脱した強制はしない」87)と結論付け ている。人権侵害を阻止する強制的手段として人道的介入を例に挙げるならば,. 彼らの主張には説得力がある。大国は如才ない費用効果分析の後にしか介入し ないものである。しかし他方で,介入する際にはいつも,それが自国の利益の ためであったとしても,介入の合法性と正当化のために人権と関連付けている ことも事実である。これは人権規範の存在を前提としており,結局,介入国が 自国の利益に起因する行動を正当化するのに役立っているといえる。.  それにもかかわらず,現代の多国間人権条約はどのモデルにも当てはめられ ないと著者らは述べている。さらに,国家が人権条約を批准することの規範的 理由は見出され得ず,むしろ次のような2つの結論が導き出されるとしている。 すなわち,i)国家は条約に違反することの費用をほとんど負わないし, ii)他. 国にとってみれば,人権条約により行動の変化が求められるものではないので ある。しかし,この分析に対しては,ヨーロッパ人権条約のような反証的事例. が挙げられる。彼らによると「EU人権レジームほどの多国間における人権協 力の真正な例は我々の理論が予測していなかった」というこどある。しかし,. EUにおける人権に関わるこの現象を「大きな一つの国家として統一しつつあ る国家間の政治経済的協力」88)と呼ぶことで議論の余地を残している。.  なぜ国家が人権条約を批准するのかという疑問により明確に答えるために,. 著者らは「市民的及び政治的権利に関する国際規約(ICCPR)」を例に挙げて いる。これまでの議論に照らせば,答えは自然に導かれる。多くの国にとって,. 独立的,外部的な執行メカニズムを持たないICCPRを批准する費用は低いか らである。すなわち,権威主義的国家は,低費用で条約を批准できるし,自由                                  187.

(22)  横浜国際経済法三二15巻第3号(2007年3月). 民主主義国家にとっては,自国の実行は既に条約に合致しているのである。仮. に合致していない場合においても,留保,了解,解釈宣言(RUD)によって. 簡単に解決され得るのである。ここで彼らは「権威主義国家があまりRUDを. 付していないのに対し,自由民主主義国家がICCPRに多くのRUDを付してい るのは偶然ではない」89)という点に注目している。この主張を裏付けるものと して,ICCPRに対する留保数の国別リストが掲載されておりgo),民主主義国家 の方が権威主義国家よりも多くの留保を付していることを示している。しかし,. 戦後体制において自由民主主義の素晴らしい実績をもつ日本は,1つの留保を 付しているのみであり,リビア,アフガニスタン,イラク,イスラエル及びコ. ンゴその他と肩を並べている。同様にカナダはICCPRに一つの留保も付して おらず,4回忌留保を付しているバングラデシュはドイツとノルウェーと同列 にある。これらはすべて上記主張の反証となろう。.  著者らは,批准のもたらす利得(bene且t)の側面にも言及している。この理. 論によると,起草と批准にはその費用を正当化するために多少なりとも利得が なければならない。ICCPR及び関連諸条約は,強力な自由民主主義諸国がその 確立を重要視する「行為規範」を世界に知らしめ得る。この「行為規範」は, 自由民主主義諸国が発展途上の世界に従うよう説得する既存の「価値集合」と. 言えるだろうか。これが本書の基本的主張に反することは疑いない。この問題 は皮肉っぽい読者に任せたほうがよさそうである。しかしながら,著者らによ ると,この道標を提供することによって,現代の人権条約は「共同」の問題を 解決するものと見なされ得るのである。国家はこれらの道標や規範に従うとき 利益を得やすく,また外交的,軍事的,経済的な圧力を躾しやすいということ を知っている。それではなぜ自由主義国家が人権条約に署名するのであろうか。. 著者らは,すべての国家は批准により,少なくとも小さな利得を得るからであ ると答えている。つまり,それら諸国は条約を批准できないことで人権非尊重 国として非難されなくて済むというわけである。この場合,この非難iの根拠は. 何かという不可避の問題が生じる。規範や価値集合の欠如した状態では,利己 188.

(23)                       .  The Limits of Intemational Law. 的な理由による不作為について非難の問題は発生しないわけであり,これに対 しては著者が答えるべきものであろう。.  一般的に,著者らは説得力ある理論を展開していることに疑いはない。しか し,理論を構築し,完成させるに際し,既存の規範や価値集合に訴えざるを得 なかった結果,国際法遵守における規範の役割を完全に拭い去ることが非常に 困難になってしまっている。我々は「規範」と「価値集合」は国際法において いまだ意義を持つが,その一方で国家の「自己利益」は著者が示すとおり支配 的であると結論し,この理解の範囲で,彼らの理論を支持するものである。. 第5章 国際貿易                               (青木俊信).  第5章では国際通商の領域に焦点を当てている。その議論の中心は,19世紀 における二国間条約レジームの拡大をいかにしてゴールドスミス=ポズナーの. 理論によって説明し,またその理論が20世紀におけるGATT/WTO体制という 多数国間レジームにどのような影響を与えたかを明らかにしょうとするもので ある91)。それを踏まえて,まず多数国間レジームが誕生する以前の19世紀から. の歴史的背景,特に19世紀後半以降急激に拡大した二国間通商条約の成立要 因に対する分析を試みている。.  ここでも著者たちは自らの理論に基づき,二国間通商条約の要因は国家が自 己利益の最大化を追求する時に現れる行動の規則性92)であるという立場に立っ. ている。そのうえで,二国間の国際通商関係を「二国間の囚人のジレンマ」の 関係であるとし,二国間通商条約を二国間「協力」の成果物であると論じてい る。同時に,19世紀以降の国際経済の発展を国際法の発展とは結びつかせず,. 技術革新などの要因に起因するとして,国家の行動に影響を及ぼす国際法の外 因性を否定している。.  このような二国間の国際通商関係の延長線上で,ゴールドスミス〒ポズナー                                   189.

(24)  横浜国際経済法学第15巻第3号(2007年3月). は多数国間の国際通商レジームに対する分析を試みる。ここで彼らは19世紀 における各国の行動を反映した「多二国間通商交渉」,「非関税障壁の禁止」, 「無差別原則」,「相互主義」,「紛争解決機能の強化」という5つの原則という. ものを取り上げ,それらを分析することで,国際通商の領域における多数国間 レジームの性質を論じている。その結論として彼らはGA工丁の多数国間レジー ムは当初,「協力」の問題を解決することを目標としたものの,実際は「共同」. の問題を解決するものであり,最終的に「多数国間の囚人のジレンマ」を解決 し得ないと結論づけている。つまり,多数国間レジームといえども本質的には. 報復の可能性を前提とした「囚人のジレンマ」の状況であり,二国間関係に分 解できる性格のものであるという本書におけるゴールドスミス=ポズナーの理 論に基づいたものといえる。.  確かにゴールドスミス=ポズナーの主張は,国際通商のように,比較的に国 家の利益を明確化しやすい領域においては説得力があるといえよう。ただ,合 理選択理論に基づく彼らの理論において,国家の利益の定義付けや行為者の選 択などの面で容易に判断しがたい面があるとことも指摘できる。このような指 摘に関しては彼らも認めるところであり,その点はこの分野で先駆的なアボッ トの論文においても主張されている点である93)。また,グズマンは,ゴールド. スミス=ポズナーの理論に対して,G邸丁における関税交渉と無差別原則の2 点を取り上げ反論を行っている94)。ここで,グズマンは関税交渉も無差別原則. も,ゴールドスミス=ポズナーが行っている本書における主張に反して,「多 数国間の囚人のジレンマ」を解決し得るものであると主張するのである。その. 例として無差別原則に関してゴールドスミス=ポズナーは内国民待遇(NT) を意図的に無視していることを指摘し,内国民待遇が非二国間的性質であると 主張している95)。.  本章では最後にWTOの「立憲的(constitutional)」な側面に対しても議論を. 行っている。ここにおいても,ゴールドスミス=ポズナーはWTOの国家への. 影響力行使の試みは成功していないと主張する。本書ではGATTからWTOへ 190.

(25)                         The Limits of International Law. の変化は一部の論者が主張するほどのものではなく,「控えめな変化」であっ たとする96)。たとえば,紛争解決手続における拒否権の廃止や上級委員会の決. 定に対して国家は一見して従順であるように見える。しかし,実際はWTOに おける決定のほうがGATTと比較し予見可能性等の面でより良いという判断に. 由来するものであり,WTOの法的な拘束力に関する次元ではないというのが ゴールドスミス=ポズナーの主張である。.  本章においては,「報復」や「評判」理論が機能し得ない根拠を前章に引き 続いて通商分野を例にして示してきた。ゴールドスミス=ポズナーの主張に則. るならば,昨今のWTOにおける憲法的機能や立憲化の議論に対する独特の切・ り口からの批判は,WTOの現状を考えると示唆に富むものと言える。同時に,. 新ラウンドの行き詰まりと世界的なFrA網の構築はまさに, WTOという国際 通商レジームの国家に対する影響力の限界を示すものであり,彼らが主張する ように,多数国間の囚人のジレンマを解決するという目標が国際法ないしそれ. に立脚した多数国間レジームによって達成し得ないことを示しているといえ る。しか・し,グズマンの書評にもあるように,彼らが拠ってたつ事項に対する 反論も考慮する必要性もあるのではなかろうか。. 第6章国際的修辞の理論                              (沼田 良亨).  第6章から始まる第3部の序言においては,まず「ほぼ全ての国家が,ほぼ 全ての国際法の原則とほぼ全ての国際法の義務をほぼ全ての場合に遵守してい る。」97>というヘンキンの金言が「人々を誤導するもの」98)と批判されており,. ゴールドスミス=ポズナーの利益追求理論を再確認している。この第3部は彼 らの理論に対する3つの挑戦に対抗するという形で構成されている。その皮切 りとしての第6章は「特定の行為に従事,又はそれを差し控える特別の理由と して国際法を取り扱わないとすれば,なぜ多くの国家が国際法という言葉を使                                  191.

(26)  横浜国際経済法学第15巻第3号(2007年3月). 回するのか?」99)という挑戦に対し,国際関係における道義的,法的修辞とい うものが,利益追求理論にいかに適合するのかを次のとおり説明している。.  まず,「国家が,自己の行動がいかに自己本位であるかが明白であっても,. 法的又は道義的正当化を行うとともに,しばしば,他国の国際法及び規範に対 する違反を非難している。」100)という前提に立ち,これら声明により国家は利. 益を得ることとなるが,なぜ声明が信じられ,その声明がどのように行動に影 響するのかという問題を提起している。.  この問題について,彼らは一般的通念として,現実主義者,構成主義者及び 制度主義者の道義的・法的修辞に関する主張を紹介し,それぞれの欠点を指摘 した後に,自己の利益追求理論に適合する修辞に係る議論を展開している。そ. の中心となるのは4つのモデルである。まず,「均衡点の共同利用」モデルに より,「国家は,自国が条約又は協力的関係における魅力的な協力者であるこ とを示すために,自らが低減価率(1αω漉sω纏剛6:短期の利益よりも中・ 長期の利益を重視)を有することを他国に知らしめるために声明を発する。」101). と導いている。次に「相互に完全な情報を有する共同ゲーム」モデルにおいて,. 「安価な声明が,複数の均衡点から1つを選択することにより『共同』の問題 を解決し得る。」102>こと,「反復される囚人のジレンマ」モデルにおいても「声明. が協力的行動及び逸脱の定義を明確することにより,協力を促進させる。」103) ことを説明している。最:後に,「非対称情報を伴う安価な声明」モデルにより,. 特性を異にする2種類の聴取者が存在する場合に目的達成のために,自己の真 意を表明するべきか,隠蔽するべきかという選択に関しての声明の果たす役割 と効果を明らかにしている。.  声明の内容に関しては,「なぜ国家が道義的・法的声明を行うのかという疑 問により複数の均衡点の問題が生起する。」104)という前提の下,上記のモデル. のいくつかを用いて考察を加えている。まず,「均衡点の共同利用」モデルを,. 高減価率@妙一4魏。π窺剛θ:中・長期の利益よりも短期の利益を重視)否定 を望むモデルとして捉え,その場合,「対象となる聴取者(例えばキリスト教 192.

(27)                         The Limits of Intemational Law. 徒)の特性に合致する最低レベルの抽象概念(キリスト教精神)に訴える。」105)と. している。なぜ共通の人道理念でなくキリスト教精神なのかという疑問に対し. ては,「2種類の聴取者」モデルを用い,少数又は多数国との関係による利益 の最大化を場合分けし,前者においては比較的特定の価値(宗教,地域)に,. 後者では希薄な道義的価値(友誼,忠義,信用)への言及がなされるという分 析により答えている。最後に,「二国間の反復される囚人のジレンマ」モデル により,「国家が自己利益から協力する場合,利益に寄与する行動と寄与しな い行動を区別し,前者を道義的義務の問題として主張することは,自然な用語. の使用であることから,その場合において『利益』という戦略的用語よりも 『義務』という道義的な用語を使うのがごく自然な帰結である。」106)ことを導 いている。.  確かに彼らの最終的な結論である「自己の行動選択に対する他者の推測に影 響する都合のよい修辞の必要性」107)及び「複雑な相互関係において共同を追 求するための修辞の必要性」108)という状況における道義的・法的修辞め重要 性は,当然に予想され得ることであり,目新しさを感じさせるものではない。.  しかし,彼らがこの結論を導くに至る過程において用いたモデル手法は極め て巧緻,かつ説得力を有するものである。さらには,なぜ修辞を用いるのかと いう点にとどまらず,声明の内容にまで問題を掘り下げている点は非常に興味 深いものであると考える。.  一方,彼らの議論において若干の物足りなさを感じる点もある。第一に,修 辞を用いないという戦略の分析がない点である。修辞により自己の真意を隠蔽 することと,沈黙という手段でそうすることの比較がなされても妥当なのでは ないか。実際の行動が修辞と矛盾するものであった場合,その矛盾自体が国家 の評判を下落させ,信用を失墜させることが予想される。修辞と沈黙の間の利. 益損失の計算が彼らの理論の中に包含されているのか否かが不明である。第二. に,上記とも関連するが,「反動(blowback)」や「やぶへびの宣伝 (propaganda boomerang)」と表現109)されている現象が考慮されていない点で.                                  193.

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