音楽理解の問題性 : Schubertの『Der Doppelganger』に基づいて
全文
(2) 196. 曲集として作曲されている(厳密に言えば, 『Die schone Mullerin』のみが連続した 物語的内容の一貫性をもっているのであるが)。しかし, 『Schwanengesang』は, L. Rellstab (7曲), H. Heine (6曲), J. G. Seidl (1曲)の三人の詩人達の詩に依って おり, Schubertの死後収集され,一つの歌曲集として纏められたものである。 Wioraは, それ故にこの最後の歌曲集に対して, 「寄せ集めは連作とは違うのである」 〔idid. : 74f.〕 と述べている。彼の見解に従うならば,この歌曲集の中の『Die Doppelganger』のみに 焦点を当てて考察することは,決して歌曲集の有機的な個々の歌曲の関係性を逸脱するも のではないであろう。 さて, 『Schwanengesang』は, 14曲の歌曲から成っているのであるが,その中のNr. 8-13までがHeinrich Heine (1797-1856)の詩に依っている。それらは, Heineの1827年 に出版された詩集『Buch der Lieder』から取られたものであった。その詩集は, 236篇 の主に恋愛を歌った叙情詩から成っており, <CJunge Leiden>, <CLyrisches Intermezzo^, <CDie Heimkehr>, <Aus der Harzreise>, <CDie Nordsee>というそれぞれ独立した 5つの詩群から構成されている。 Schubertは,その詩集の出版の翌年,即ち1828年11月に 世を去るのであるが,その直前にこの詩集の中のほぼ100篇に及ぶ<CDie Heimkehr>から, わずか6篇だけを選び音楽を付けたのであるol)ところが,その歌曲集では, Heineの詩 集の配列に従った順序で置かれてはいない。恐らく,この事態は,この歌曲集の編纂者に よって窓意的に「寄せ集め」られ配列された為であろうと想像される。いずれにしろ「明 噺な革新者であり,皮肉屋であり,幻想の破壊者」という面を持った「深い感情の詩人」 〔Stein: 1966:559〕であるHeineの詩が, Schubertの創作意欲を引き出し,リート史にお いても重要な意味を持つ作品を誕生させたことは事実である。その中にあってここで取り 上げる『Der Doppelg云nger』は,その意味を最も明瞭に提示しているものの一つであり, schubert独自の音楽によるHeineの詩の解釈がそこにみられるのである。その為にも, 先ずテキストとしての詩を見ていかなければならないであろう。. J. _. t. 日. ヽ. ヽ ノ. (. (. ヽ t. l. e f e f l. \. ヽ. (.  ̄ ノ. ′. ー. _ ヽ. ー. coo>co. ′. SOmancheNacht,inalterZeit?. 日. ヽ. DasmichgequaltaufdieserStelle,. =. ′. ノ. Was邑ffstdunachmeinLiebesleid,. H. t. し. 9) DuDoppelganger!dubleicherGeselle!. t-IOOO. ヽ. DerMondzeigtmirmeineeigneGestalt.. 数. ′. ノ. Mirgraustes,wennichseinAnthtzsehe-. ー. (. UndringtdieH互nde,vorSchmerzensgewalt;. UT30T3. DastehtaucheinMenschundstarrtindieHと)he,. 普. DochstehtnochdasHausaufdemselbenPlatz.. 節S->ens. Siehatschonl云ngstdieStadtverlassen,. 鶴 / ¥ ・ S ^ N / " " s caxjodjd. IndiesemHausewohntemeinSchatz;. 脚・^y・*-/蝣*-/・_・. StillistdieNacht,esruhendieGassen,. このテキストは, Heineの<Heimkehr>では20番目の詩であるが, 『Schwanengesang,』.
(3) 音楽理解の問題性. 197. では, Nr. 13に位置し, Heineの詩による6曲の歌曲の最後に置かれている。 <3eimkehr> 自体は, Blieglebによれば, 「昔の苦しみの繰り返し」であり, 「昔の場所の新しい状況に おける繰り返し」 〔Bliegleb: 1968:642〕なのであるが,まさにその意味が最も集約的に, 又心象風景的に語られているのが,この詩であろう。 詩は3節から成り,各々の詩節は,交韻(Kreuzreim)による脚韻を持っている。各詩 節ともに,第1 ・ 3詩行が女性終止,第2 ・ 4行が男性終止となっている。又,各詩行は, 全て抑格(Senkung)で始まっており,それぞれ4つの揚格(Hebung)を持っている。 つまり,韻律的に言えば,イアンボス(Jambus)が冒頭において一貫して用いられてい るのであるが, 4つの揚格を考慮に入れながらも比較的自由な韻律で構成されている。音 節は,第1 ・ 2詩節においては,はぼ10音節がその中心となっているが,第3詩節におい ては,その数に乱れが生じている。即ち,最後の詩節のみが,現実的描写ではなく,むし ろ作者の内的な憂欝によって音節的な乱れが生じたのであろう。しかし,最終行における 「SO manche Nacht, in alter Zeit?」における,/c/。/。/のリズムは,その意味を強 調し,後に空間的余韻を残すものであり,詩が語られるものであることを主張しているようで ある。 このような詩をテキストとしてSchubertは,その音楽的な「自己目的」をどのようにし て創造したのであろうか。音楽の考察に先だって,この歌曲を譜例で提示しておく必要が あろう。. 〔譜例1〕 Der Doppelg乱nger. c_ニニこ▼ -. Fur elof Sii叩a mil Bsgtaitnng <!・・Plサ帥forls. htikwri i*H岬 FRANZ SCHUBERT.. 2.. 『Der DoppelgEnger』は,他のHeineのテキストによる歌曲と同様に,恐らく1828年 の1月或いは2月からその年の中頃までに作曲されたと思われる.その意味でも,又リー トというジャンルにおいても,重要な位置を占めるものであると言えよう。テキストの持 つロマン主義的情調(Stimmung)への音楽的表現は,一方で従来の表現形式からの超脱.
(4) 198. を目指しながらも, Schubert自身の音楽語法においては,古典的なリート原理が保持され ているのである。その為にも,彼の音楽を具体的に吟味していく必要があるだろう。 全体は,次のような構成になっている。 後奏-第1詩節-第2詩節-第3詩節-後奏 小節数+ 20 18 + 14 + 8 - 63 〔注:詩節の最後の言葉(Zeit)は,同時に後奏の始まりと重なっているため に, 63小節に成る〕 テンポは, Schubertの指示によって「sehr langsam」となっており,第1詩行に語ら れる「Still ist die Nacht, es ruhen die Gassen」の意味する時空間がそこで設定され るのである。そして朗涌的に歌われる歌唱声部を,足取り重く支えるように伴奏声部は, 独自の特徴的な動きを与えられている。つまり,全体の小節構造を音楽的分肢(Glied) に従ってより詳しく示してみれば,次のようになる。 4 +4+6 (-4+2) +4+6 (-4+2) +4+5十4+5+4十5 (-4+1) +12 (-4+4+4)こ頚3. 前奏1.. Str. 2.. Str. 3.. Str. Hト後奏. ここで注意を引くのは, 4小節の分肢である。この諸分肢がこの歌曲の響きの基盤を成 しているのである。即ち,伴奏声部において周期的に響く「Ostinato」が,この歌曲の 根癖的世界を支持している重要な要素なのである。 8小節からなるその「Ostinato」は, 前楽節(4小節)と後楽節(4+2小節)から成っている。前楽節は,この楽曲を通じて 6回鳴り響く。つまり,前奏と後奏で1回づつ,歌唱の伴奏部分において4回である。 「Ostinato」を形成している4小節分肢に注目しながら,全体の楽曲の流れをGeorgiades は,譜例2のように図式化している〔Georgiades: 1967:75〕。 〔譜例2〕 I.. B仙On.帆.iq…. ‥.... &iau,ふ‥. トー a.. Jl. *L. Lk‥...SJU,ォai‥.・伽ト・. ...striaJ■サ. icch...‥.‥.Phは. Irニー_ ド トー「トT ll. C. 叩dl; mir. ...4血. itr..‥ ‥‥Outot />・蝣・蝣 40. OaJUI v,も一BPA. I_;⊥_ =二 SltlLt. 50. 4°ma*cM. 58. ‥.. ‥. ‥. ‥.... 2n". Naehs.
(5) 音楽理解の問題性. 199. Ostinatoのバス声部をみると, h-a i s-d-c i sの音型が核となっているのが 分かる.つまり,後楽節の4小節にみられるバスの動きh-a-d-c i s,さらに38小 節から41小節においてのその動きは, h-a-d-Cとなり,後奏である56小節からは, ha i s-d-Cにと,核となる音型が,微妙に揺れ動き変化しながら音楽を前へと推し 進めているのである。それを図式的に以下に示してみたい。. 核音型(T. 1-4) -ais-d-cis 後薬節(T. 9-12,19-22) : h- a -d-cis 後楽節の変形(T. 38-41) : h- a -d-c 後奏(T. 56-59) h-ais-d-c この図式化によって,我々は次のようなことを理解するのである。 (1)この核音型によって,最低音と最高音との音程的枠組みが, 4度に固定されている こと。但し,前奏と後奏においては,減4度であるが,歌唱部分では完全4度に変 えられている。 (2) h音とC音は,どの場合においても固定化され,その他の2音が変化している。 (3)核音型は, 2つの2度下降の組合わせである。 ここで,次に問題となるのは,この核音型から離れていると思われる43小節から53小節 である。下降2度に慣らされた我々の耳は,突如としてその転回である上行2度,より詳 しく言えば,半音階的上行の出現に,意表を突かれるのであるh-c-c i s-ddis-ais-di5-ais-jと続くわけであるがh-c-cis-d-disa i sまでの部分についてみてみれば,核音型と密接に関連していることが分かるのであ る。つまり,核音型をh音を起点として, 2度上行に並べ変え,最後にais音を置いてい るのである。簡単に言えば,核音型の逆行形と呼んでもよいものである。まさに,この楽 曲は,各4小節分肢がみごとに有機的に結びつけられた伴奏によって,歌唱部分が支えら れているのである。そこで,次にこの伴奏の響きに耳を傾けてみよう。 この歌曲は, h-mollという調性によって統一されている。その調性を明確に提示すべき 前奏の響きは,どこか不安定な<j3timmung>に支配されているのである。確かにその和 声的な経過は, I-V-I-Vと続き,後楽節へと開いた形で終わっている。そこでの最 初のトニカの和音において,その3度を欠いていることによって,曲想を決定的に不安な, 揺れ動く<CStimmung>に方向づけているのである。次のドミナントの響きは,その3度 の音を3つ重ねていながら, 5度の昔を欠いているのである。このドミナントを受ける次 のトニカは, h-mollのトニカとして考えるならば,基音であるh音を欠いているのである が,それを平行調であるD-Durのトニカとして捉えるならば,その和音の5度がないの である。しかし,このトニカは,歌唱声部が加わった時,その本来の意味,即ちh-mollの それであることが明瞭になる。また,最後のドミナントの和音は,第2転回形であるが, その3度の音を用いていないのである。 これらのことから,この前奏において理解されることは, 4つの和音ともに,その和音 の構成音の何かを常に欠いているということである。調性的確立を志向すべきこの前奏の 和音の不完全性は,ウィーン古典派が確立してきた和声機能の持っ緊張と解放の原理から 逸脱しており,響きの不安定性において,確たるものが失われた,まさに中空に浮遊する ような<CStimmung>を現出しているのである。しかし,全く実体のないものの揺れ動き.
(6) 200. は,別の手段によって地上との関係を回復しているのである。それは,左手によって常に 鳴り響いているFis音であるOその昔は, 63小節の中でわずか6小節(T.41,47-51)にお いて用いられていないだけである。オクタ-ヴで動く左手の動きにあって,密やかに響き 続けているのである。 h-mollのドミナント音であるFisは,教会旋法にみられるdominatus を思わせるものである。これは, Schubertの連作歌曲集『Die schone Miillerin』の中の Nr.16 「Die liebe Farbe」でなされた手法と類似しているoそこでもfis音が弔鐘を暗 示するように全部で536回打ち鳴らされているのである。調性的にもh-mollで同じであり, 中声部において打ち続けられているという点でも何らかの意味を持った音なのであろう。 『Der Doppel蕗nger』においてそれが,むしろ鳴り響かないところがあるという点が, 「Die liebe Farbe」と異なっているところであろう。逆にそれが鳴り響かないところは, テキストから見れば, 「影法師」との語らいによる苦渋に満ちた過去の追憶という内的世 界の情景なのである。つまり,弔鐘の音のとどかない魂の世界が, Fis音を中断させたの であろう。しかし,この中断があるにしろ, Fis音の持つ楽曲の意味統一的機能が失われ るわけではない。それが内声部において目立っことなく「Ostinato」の中心者の変化の 中で響き続けるのである。 さて, 「Ostinato」は,内にFis音の継続的響きを内包しながら,確固とした前楽節と 可変的な後楽節から成っているのであるが, 4+4の楽節構造において,後楽節は,当然 終止への道程が期待されるのである。前楽節が,形式的には4小節目で半終止を形成して いるのであるが,その第2転回形の和音が3度を欠いていることは,導音を持っていない ということであり,和音それ自体の性格を希薄にしてしまっているのである。そこで後楽 節の性格を次に見てみなければならないであろう。 9小節目から始まる後楽節は,前楽節の左手のオクターヴ進行を受けているが, 10小節 目の3拍目の唐突なFis音によって,いったんそのFis音を中心にしたd-f 1 s-aの和 音に収縮し, 11小節目でそれへの反発のようにd-c i s, a-a i sへと半音階的に5 度の音程から6度の音程へと上下に押し広げられるのである。その内なる力の爆発力は, さらにそれをオクターヴの音程になるまで効力を発するのである(15小節)。この爆発力は, 後楽節におけるカデンツの形成に何らかの影響を与えることになる。碓かに12-15小節は D7-Tへの進行を持っており,カデンツを思わせるのであるが, D了の解決としてのTは, 既に,次の前楽節の始まりとしての意味を担っている。このことから,後楽節におけるカ デンツ形成の意志は,結局あの爆発力のために,その中において自己充足しえず, 13小節 で歌唱旋律のエコーまでも響かせながら,音楽的前進性を確保し,次の前楽節へと開いた 形で終わっているのである。特に, 12-14小節においては,左手の伴奏がD7に停滞してお り,右手は,テキストの<Cwohnte mein Schatz>に与えられた旋律のエコーと考えられ るのであるが,そのdの響きが左手のaisと鋭い響きを生み出し, D7に強い意志的力を与 えているように思えるのである。また,このD7-Tの動きにおいて,右手のf i s′ -h の5度下降,左手最低声部のCi s-Hの2度下降は,本来d)終止への動きにおけるソプ ラノ声部とバス声部における音進行を全く逆転してものである。 これらのことから,後楽節の意味は, 15小節のトニカへの解決を目的とした,他律的楽 節ではなく,自らの開かれたドミナントの響きにおいて自己完結したものとして在るので ある。それは,前楽節と同様に,中空に終わりなく漂うものとして,解決を期待しない開 かれた充足を内に持っていると,言えるであろう。 15-24小節は, 4-14小節の忠実な反復である。問題は, 31-34小節である0 13-14, 23-24.
(7) 音楽理解の問題性. 201. の各小節でみられたエコーの響きが,そこでは聴かれないのである。さらにDlが来る場 所では,その5度の音が半音下げられているのである。それは,音楽的出来事として新し い局面を提示しているのである。 Cis-ai sの響きに慣れた耳には,このC-a i sの それは,極めて印象深く聴こえるのである。それは,エコーの響きがここで欠如している ため,次のオクターヴへの作裂が一層強い表現力でもって,切迫した効果を生み出してい るのである。それを受けるトニカは(34小節),充足した安定したものでなければならず, そのために,それまでは欠けていた3度が初めてその位置に据えられているのである。ま た, 33小節において,歌唱声部に現れるfis音と伴奏の最下声部のC音とが, Tritonus呼 ばれ,中世以来避けられてきた音程を形成しているSchubertは, 「魔的なもの」をテキ ストに感じた時に,この音程を意識的に用いている03) 次に40-43小節は, 4回目の「Ostinato」であるが,その可変的後楽節に内包されたも のが最も激しく現れる場所である。歌唱声部に現れるg〝音(旋律線の中での最高音)の叫 びによって,内在化していた爆発力がここに集中しているのである。テキスト的には,独 白的に過去を追想している語り手が自らの「影法師」の姿を見つけるという,緊迫した場 面である。その語り手の驚情を反映しているように,常に鳴り響いていたfis音が忘れ去 られているのである。そして,驚きの叫びであるg″音は,伴奏の和音の中に取り込まれ, 繋留的にひきずられfis音に解決するのである。音楽的出来事が一瞬にして劇的場面に遭 遇し,緊迫感を増してくるのである。 この場面の<Stimmung>を受けて,次の半音階的上昇が続くのである。既に述べたよ うに,一見独立した音進行のように思えるこの半音階的上昇であるが,核音型と密接に繋 がっており,さらにいったん忘れられたfis音が,それを支えているのである。 47小節に おいて,本来なら従来の後楽節を期待するのであるが, Schubertは,むしろ全く新しい展 開をそこに置いているのである。即ち, 2度下行から2度上行への転回は,後楽節の進行 に大きな影響を与えているのであるdis-mollとそのドミナントの平行調であるAis-Dur の和音が二回交替で出現し,その響きの世界を確立している。ここにおいてSchubertは, テキストの出現,つまりHeineの詩の世界から飛期して,独自の音楽的世界に入ったといっ てもよいだろうdis-mollとAis-Durの響きの背後に,そのエン-ーモニックなes-mollと B-Durが感じられることをSchubertが予想したのであれば<CWas affst du nach mein Liebesleid?J>の音楽的解釈は,新しい意味付与を得たことになる。 劇的な音楽の仕掛けは,移調の流れを突然堰き止める, Fis音への回帰をはっきりと示 すeisとGという二重の導音を持っ51小節の響きによって,その役割をいったん終えるの である。そしてそのFis音をオルゲルプンクトとして,伴奏の右手が一種のカデンツを形 成するのである。つまり16-n7-v,-iとなる.そしてその最後のIは,歌唱声部の 最後の昔と同時になるのであるが, Schubertは,そこに再び核音型を置いているのである。 しかし,その核音型の最後の響きは,予期されるドミナントの響きではない。それは, hmollのⅡの和音であるが,その根音が半音下げられる,所謂ナポリのⅡと呼ばれるもの である。この和音は,また終止への導き手としての意味を持っている。その終止自体は, 変格終止であり,ピカルディーのIとしてDurに転換されているのである。 Schubertは,過去の哀しみに満ちた追憶から,その語り手が再び明るい未来を志向する かのように,あのナポリ的な陽気さを契機としてMollからDurへと路を開いたのである。 一万,日を歌唱旋律の終止に転じてみると, d〝 -Ci S〝 -h′の下行音型は,そこに フリギア終止的なものがみられる。既に,それは13, 23小節にみられたのであるが,この.
(8) 202. フリギア的なものは,そのエートス的意味から,苦悩を象徴するものである.まさに,敬 唱旋律に漂う苦悩の表情が, Schubertによって最後に光明が与えられ,テキストの内容 を救済したといってもよいであろう。では,歌唱旋律は,この巧妙に仕掛けられた伴奏に 対して,いかなる表現を展開しているのであろうか。 3.. P. Miesによれば, Schubertは,この歌曲の作曲に際して,先ず歌の旋律を書き,次 に「Ostinato」を形成するパス声部を,そして伴奏全体を仕上げたと言われている〔Mies: 1928:397ff.〕。この事実は,歌唱旋律と伴奏とがテキストの内容において統一されている とはいえ,作曲術的処理において,歌唱声部と伴奏声部の率離的意識がそこに存在してい ることを窺わせる。 歌唱旋律は,一見して分かるように朗涌(Deklamation)的であり,語り手の独白的身 振りが旋律線に反映されている。それ故に,ほぼ音節的な旋律付けが行われている。伴奏 においても「Ostinato」の核音型に拘束されていたように,歌唱旋律は,大きな旋律的 展開が抑制され,その歌曲の中心をなす音であるfis′音を回遊するように,頻繁に現れる 休止によって,つまづくように進行していく。その昔域はh-f i s″の12度の間に制限さ れており,一度だけg〝が出現するが,伴奏の考察で述べたように,音楽的頂点としての役割 がそれに担わされているからである。では,その旋律の在り方を各詩節ごとに聴いてみよう。 第1詩節では,途切れ途切れに,息を継ぎながら言葉が語られる。その始まりの音は, 全てfis′音である.その旋律の閉じ方は,これも伴奏において触れたようにフリギア的終 止表環を感じさせる。 第2詩節は,第1詩行において蓄えられたエネルギーをスプリング・ボードとして,旋 律線が上昇的に一つの山並みを形作るのであるが, 31-32小節において,頂点からの急激 な落下(オクターヴ下行)は, <j3chmeト>の叫びと, <C-zensgewalt>への諦感を象徴的 に示している。また, 「Ostinato」の核音型が,巧妙にその旋律の中に組み込まれている (28, 30小節)。しかし,その詩の劇的場面は,中心音のオクタ-ヴを一気に越えてg"にま で到るのである。それはまさに<eigne Gestalt>の認識による驚情を感覚的に表明する ものである0 第3詩節は,再びfis′音がその主導権を握る。直前の<Stimmung>の高揚は,しかし, すぐ驚情から,その対象分析による心象風景の反映へと向かうのである。この歌曲の主題 である<Der Doppelg己nger, du bleicher Geselle!.>は,凍てついたようにfis′音に呪縛 されている。そして,内的世界の追憶がdis-mollへの移調によって展開され,不気味な対 話者への語りかけを象徴するように,半音階的進行が置かれている。再びh-mollへの回帰 は, h′-f i s〝の5度の跳躍によって,感慨を込めた時間の流れへの嘆息を強い調子で 示しており,最後には再びh′音に戻り,歌唱部分の旋律は終わるのである。この終止に向 かって, 54-55小節においてわずかにメリマス的部分があり,特にfis″からCISへの順次下 行が, 54小節の二つの♪によって方向転換が行われ,最終的にh′で終止するように工夫さ れている。それが結果的に,あのフリギア的なものを生じているのである。 以上のような歌唱旋律は,小さく細分化された個々の旋律の断片から成っているといっ てもよいであろう。朗詞の途切れ途切れの発話が,一つの言説としての意味を担うには, 音楽の流れを支える時間的なものがそこに介在しなければならないであろう。確かに,読 れるような朗滴であろうとも,その独特のリズムと拍節によって,そこに時間的な出来事.
(9) 音楽理解の問題性. 203. の秩序付けが成されているはずである。しかし,この歌曲の前景の「Ostinato」にみら れる固定的進行の背後に,空虚な空間の中を紡裡い揺れ動くものが感じ取れるのであるが, そのようなものは,この歌曲の何処に内在しているのであろうか。そのためにも,もう少 しその旋律を吟味しなければならないであろう。 第1詩節に付された旋律の個々の分肢は, ll, 12小節を除いて,全て休止符が先取りし ており,上拍的に始まっている。それは,韻律的に詩に従っている。つまり,伴奏は,常 にその和音を先ず響かせ,それを聴いてから歌が歌われることになる。核音型が,明確に 前もって打ち鳴らされているのである。その結果,伴奏のリズムと歌のそれとに,一つの ずれが生じているのである。 W. Thomasは,それを次のように図式化している〔Thomas: 1954:260〕。. [図1] . S til l 1s t 一 一. cl. - r rn - M n 一 L- G ォ -ォ サ 一. 」.. ,. tB 1. d it .. M 血. fr 4 ォ B CU I. 'j I. >. rOstinato」の下拍的な昔拍子の・)ズムと,歌唱旋律の上拍的な昔拍子のリズムのせ めぎあいがここで展開されているのである。このせめぎあいは, 11小節で初めて統一され, 伴奏は,歌唱旋律をェコー表現することによって,この統一をいったん確定するのである。 15-22, 34-38, 43-46小節で,これと同じ現象に出会うのである。 47-51小節では,歌唱旋律 は三拍子性を志向しており,伴奏と一緒にフレーズの区切りを形成しているのであるが, その開始は,上拍的であり,テキストへの配慮が見られる。ところが39-40小節では,はっ きりとした三拍子性を既に確立しているのである。それらは,又52-56小節のリズムを先 取りしていると言えるのである。 このようなリズムのせめぎあいは,テキストの身振りを具体的な時間軸の上で合理的に 音楽化されているのである。その揺れ動く,不安な<Stimmung>が, 39-40小節におけ る「影法師」の確認によって,潜在化していたもう一つの自我の幻影を認識せざるをえな くなった語り手の状況と,その音楽がまさに-致したのである。しかし,その驚情は,ま だ三拍子性への充分な志向性を, 2つの小節にまたがるg〝のタイによってはぐらかしてい る。そしてそのタイによって結ばれたg〝のもつ拍が, 4拍と考えれば,再び二拍子性の残 像が引きずられていると考えられるであろう。 この響きが最高点に達するために,デュナーミクが一役かっている。つまり, 32小節に おいて, 40-41小節の「ffz」がまえもって準備されており,このg〝において,テキストの <SchmerzensgewalC>の内的意味を刺激的な響きとエネルギーが共働的に作用し,印象 深いものにしているのであるOこのようなデュナーミクは,最後に消え入るような終止の 道筋にも配置されている。それはp-pppへの減衰にみられる。このデュナーミクに関し ても,詳細にみれば巧妙なSchubertの仕掛けがみられるのであるが,最も特徴的なものの みをここで示すだけで充分であろう。 では,このようなSchubertの音楽構造から知ることができたものは,その音楽の理解と どのような関係を持っているのであろうか。.
(10) 204. むすぴ Schubertの『Der Doppelg云nger』の音楽的構造は, 「Ostinato」の凝固し固定化され た下拍的な和音の連続と,上抱的な歌唱旋律の断続的な朗詞的進行とが同時に生じている 出来事として意図されている。和声的には開かれた4+4の楽節構造は,しかし,実際に は自己充足した世界を持つ伴奏は,歌唱旋律のfis′音を回遊する独自的な語りを支持して いるのであるが,それは,疲労に満ちた語り手の重い足取りとも解釈されるのである。そ して場面が緊迫し劇的<CStimmung>が高揚する時,歌唱旋律は,一気に最高音g〝に達す るのである。それに続く半音階的進行が,もう一つの自我との幻想的で不気味な対話を特 徴的に象徴しているのである。そして,最終的には,フリギア的なものによる苦悩の示唆 を内在しながらも,長三和昔による未来的志向によって語り手を,その自我の呪縛からの 解放を予示しているのである。その最後の和音は,まさに<Talte Zeit>からの出発を暗 示しているようである。 J. M. Steinは, 「実際には, Heineのテキストの精神を正当に取り扱っているものは, その6曲の中にはない」 〔Stein: ibid.:559〕と述べているが, Heineの詩は, Schubert によってSchubertの内で解釈され,彼自ら音楽的身振りによって,上記の分析にみられた ような独自の音楽的出来事として創造したのであり,もはや原詩のもつ精神は, Schubert の音楽的精神によって超越せられたのである。その意味でSteinの「正当に」と言う言葉 は当たらないであろう。むしろEggebrechtが「現発想( 『inventio』, 『テーマ』)そして 又その持続する現存,その展開と反復,それらはSchubertのリートにおいて原則的にテキ スト,つまり詩の言説と極めて具体的に関連づけられている。そして詩の言語内容によっ て惹起されたこの創造力の核,並びに創造力の源泉としての詩から作曲術的に現出せられ, リート全体において持続しているあの同一的なものを,私はリートの『音』と呼んでいる」 〔Eggebrecht: 1970:92〕と述べていることの方が妥当であろう。さらに言えば,その「原 発想」によって展開される音楽は,その表情付けにおいて,即ちデュナーミクの特徴的な 原理によって一層テキストの精神を越え出るのである。そして,ここで言われている「昔」 こそ,音楽芸術の独自性を保証するものである。それは,かつてHegelが次のように, 音楽と詩との比較の文脈の中で語っていることと関連しているように思える。即ち, 「音 楽が詩に随伴する芸術として詩と結合しても,あるいは逆に詩が音楽の内容をはっきりさ せる通訳者として音楽と結びついても,音楽は内容を外面的に直観化しようとしたりする ことはできない。それは-<中略>-内容の単純な本性を,この内容の諸要素の内的関係 と相通ずるような音関係において,感情にうったえるようにあらわすか,あるいはさらに, 直観や表象の内容が,共感しかつ表象する精神のうちに喚起しうるところの感情そのもの 杏,詩に随伴してこれを一層内面化する音によって表出しようとするのでなければならぬ」 〔Hegel:訳書1975: 1941〕。 Schubertは,まさに「感情にうったえる」もの,又「共感しかつ表象する精神のうちに 喚起しうる」ものをそのリートにおいて創造したのであるOそして,ここで行った分析は, その「内容」を「理解」する一つの手段である。しかし,それは,鳴り響く音の継起的時 間的な内に行ったのではなく,楽譜として書き付けつけられ,固定化されたものを手掛か りにしたのである。そのために,この分析によって得られたものは,再び時間の中に戻す ことによって, 「理解」が図式的世界から,音の実体的世界を獲得しなければならないで あろう。既に記したように,本来「無概念的」, 「無対象的」な音楽を「理解すること」は, 先ず音楽という対象によって喚起された直観的把握を,我々の言葉に「翻訳する」ことで.
(11) 音楽理解の問題性. 205. あるが,その場合にも,常にその本質的直観に基づいている必要がある。 schubertのリートが我々に語りかけているものは,ある意味ではHeineの詩にたいする オマージュであるかもしれないし,純粋な言葉を伴った音楽作品としての創造行為であっ たかもしれない。しかし,何れにしても, Schubertの仕掛けたものへのアプローチは,そ れを理解することへの重要な道程であり,観照行為の一つの在り方であろう。 〔注〕 1)細谷氏はこれに関して次のように述べている。 「単独で『Die Heimkehr』を見たとし ても100曲近い詩群の中から,たった6曲しか作っていないうえ,選ばれた詩が前か ら24番目までに含まれた6つであるから,全詩の4分の3は手っかずと言うことにな り何んとも不思議な気がする。すでに体調を崩していて作曲の時がなかったのではな いかと言う疑いは,その辺からも出るだろう。最晩年作曲説である。 -イネの詩の内 容や傾向が肌に合わず6曲作ったところで捨て置かれたのか」 〔細谷: 1983:14f.〕と 推測されている。 2) Schubertのテキストでは, <Der Doppelg琵nger>となっているが, Heineの原詩で は, <Der Doppelt蕗nger>となっている。恐らくSchubertの韻律的リズム感に依る ものであろう。 3)特に,その連作歌曲集"Die schと5ne Mullerin"においては,小川の持つ「魔的なもの」 を暗示するために,このToritonusが多用されている。 ["Die schと5ne Mlillerin"におけるToritonusの所在]. 曲. N r.. 名. 小. 節. 音. 程. 5 - 9. a '- e s ". 間. 隔. 1. D a s W a n d ern. T.. 4. D a n k s a g u n g a n d e n B a ch. T . ll. C I S. T . 29. r. 5. A m. T . 35. f "- h '. 7. U n g e d u ld. T . 21 - 2 3. a "- d i s " - a ". 8. M o rg en g ru β. T.. f 〃ー h ′. 10. T r 瓦n e n r e g e n. T . ll. F e ie r a b e n d. 9. - ,. - h. a ′- d i s ′. (T . 2 8 ,. e 〃- b ′ ‥死 の 音 程 ). ll. M e in !. T . 48, 50. a ′I e S ′. 12. P a u se. T . 68, 76. e S 〃- a ′. 19. D e r M iille r u n d d e r B a c h. T.. f i S ″ ( d 〝). 20. D e s B a c h e s W ie g e n h e d. 5. T . 13, 7 3. a ′ー e S ". T . 39 , 5 9. C 〃-. T.. d i s ル- a ′. 6 ,. 8. - C 〃. f i s′. [参照, Georgiades, ibid. : 310].
(12) 206. 使用楽譜 Lea Pocket Scores : Schubert, Die schone Miillerin und Schwanengesang. 参考文献 Brigleb, Klaus. 1968 : "Kommentar"'in 'Heinrich Heine: Samtliche Schrift'(hrg. Klaus Brigleb), Miinchen.. Eggebrecht, Hans H. : 1970 : "Prinzipien des Schubert-Lieds", in `Archiv fur Musikwissenschaft', Jrg. 27. 1973 : "tber begriffliches und begriffsloses Verstehen von Musik", in `Musik und Verstehen'(hrg. P. Faltin unci H. P. Reinecke), Kbln. Dahlhaus, Carl. 1973 : "Das Verstehen von Musik und die Sprache der musikalischen Analysise', in Musik und Verstehen'(hrg. P. Faltin und H. P. Reinecke), Koln.. Georgiades, T. G.. 1967 : Schubert : Musik und Lyrik, Gとittingen.. Hanslick, Eduald. 1965 : Vom Musikalisch-Schonen, Darmstadt.. Hegel, G. W. F.. 1975 : 「美撃」 (竹内敏雄,釈)第三巻の中。岩波書店,東衷o. 細谷安彦. 1984 : 「ドイツ・リートの一考察一F. Schubert, R. Schumann. とH. Heineの詩について-」,秋田大学教育学部研究紀要, 第34集。 Stein, Jack M.. 1966 : "Schuberts Heine Songs , in `The Journal of Aesthetics and Art Criticism , vol. 24.. Thomas, Werner. 1954 : "Der Doppelganger von Franz Schubert", in. Wiora, Walter. 1973 : 「ドイツ・リートの歴史と美学」 (石井不二雄:釈),音楽之. 'Archiu filr Musikwissenschaft', Jrg. ll. 友社,東京。. 付記:この拙論にあたって,兵庫教育大学芸術系教育講座の細谷安彦教授,保坂博光助教授の両氏と 大阪大学構造敬一教授に, Schubert及びHeineについての卸教示と資料面で大変御世話に なった。ここに記して感謝致します。.
(13) 音楽理解の問題性. 207. Erne Betrachtung iiber des Verstehen von der Musik Auf Grund von Schuberts "Der Doppelganger" -. Yoshito Nagao. In dieser Abhandlung versucht der Verfasser dariiber nachzudenken, ob das "Verstehen" von der Musik moglich ist. Aber es halt sehr schwer, ein musikalische Geschehen sprachlich zu verstehen, weil das musikahsche Geschehen im Verlauf der Zeit entsteht und erloscht. Daher behandelt er ein konkretes Werk als Leitfaden. Es ist em Lied Schuberts, naimlich "Der Doppelganger", das sich zusammen mit anderen Lieder unter einen "Schwanengesang ', der nach seinem Sterben verbffentlicht, enthalten wurde. Nun hat dieses Lied hier vielfaltige Eigentiimhchkeiten : Erstens, im Instrumentalpart : (l)Verwendung eines achttaktigen Ostinato mit fixiertem Zentralton, (2)die Variationen der Kernfigur, (3)der von dem Ostinato herkommende chromatische Verlauf, (4)Linearisierung der ostinaten Baβ fiihrung, usw. ; zwitens , in der Singstimme : (l)die rezitierte Melodie, (2姐er Ambitus in der Duodezime, (3)ein seltsames Schwanken in der melodischen Linie, usit>.;drittes, in beiden Parte : (l)der Gegensatz der Dreitaktigkeiten zur Zweitaktigkeiten in 1. Strophe, (2)Phrygisches Ethos. in Melodie und Harmomk, usw. Aus dem oben Gesagten, wirt es klar, daβ diese verschiedene Elementen die wichtigen Glieder der musikalischen Bedeutung, die dieses Lied hat. Nun machten diese Elemente sich offenbar erst durch die exakte Analyse des "Notenheft" dieses Liedes. Man weiβ wohl, daβ das musikalische Werk sich klingend macht, doch ist es schwer, diesen Elementen als solche aus dem klingenden T∂hen zu extrahieren. Aber die Analyse der Betrachtung kann nicht das "Notenheft von der des musika1ischen Werks als solches trennen. Darum muβ das Herausfinden dieser Elementen zu dem tieferen Verstand des Werk der klingenden Musiks flihren : die Lage des Werdens des Werks, die musikalische Anschauung des Komponisten, die Stelle des Werks in der Geschichte der Musiks und seinem Genre, und die Gemut des Kompomsten, usw. Das "Versteehent von Musik" bedeutet, ein musikalisches Werk als eine eignen Welt des Komponisten klar zu machen..
(14)
関連したドキュメント
De plus la structure de E 1 -alg ebre n’est pas tr es \lisible" sur les cocha^nes singuli eres (les r esultats de V. Schechtman donnent seulement son existence, pour une
Comme en 2, G 0 est un sous-groupe connexe compact du groupe des automor- phismes lin´ eaires d’un espace vectoriel r´ eel de dimension finie et g est le com- plexifi´ e de l’alg`
一九四 Geschäftsführer ohne schuldhaftes Zögern, spätestens aber drei Wochen nach Eintritt der Zahlungsunfähigkeit, die Eröffnung des Insolvenzverfahrens
Zeuner, Wolf-Rainer, Die Höhe des Schadensersatzes bei schuldhafter Nichtverzinsung der vom Mieter gezahlten Kaution, ZMR, 1((0,
), Die Vorlagen der Redaktoren für die erste commission zur Ausarbeitung des Entwurfs eines Bürgerlichen Gesetzbuches,
Bemmann, Die Umstimmung des Tatentschlossenen zu einer schwereren oder leichteren Begehungsweise, Festschrift für Gallas(((((),
Geisler, Zur Vereinbarkeit objektiver Bedingungen der Strafbarkeit mit dem Schuldprinzip : zugleich ein Beitrag zum Freiheitsbegriff des modernen Schuldstrafrechts, ((((,
Thoma, Die juristische Bedeutung der Grundrechtliche Sätze der deutschen Reichsverfussungs im Allgemeinem, in: Nipperdey(Hrsg.), Die Grundrechte und Grundpflichten