テレビの社会的教育的位置
吉 村 喜 好
現代の人間社会の行手には二つの大きな矛盾が立ち阻んでいる様にみえる。
その一つは核物質であり,他がテレビである。元来科学的所産は人類の幸福に寄与すべき価 値を持っているが故に我々は之等を歓迎し,又そめ為非常に使利な豊かな人間生活を営む事が 出来るようになった。ところが同じ科学的所産である筈の核物質は場合によっては人間の幸福 や不幸ではなく,人問全体を抹殺し得る力を持って人間社会に登場し然も之を登場させた筈の 人間は,之れをコントロールする事が出来ず苦慮し,不安な毎日を送っている有様である。
一方,テレビの出現も又之が人類に幸福を与えるものであるのか,将来又,不幸を与えるも のであるか全く見当がつかないまま,入間社会の中に振りまかれたのである。以来テレビセッ トは,赤痢菌の如く,コレラ菌の如く,米合衆国に6千万台,日本に1千万台,というように 全世界を摂捲してしまいつつある。そして我々はその予想外の漫延に恐れを抱いて,遅ればせ 乍ら「果してテレビは我々人類生活の幸福を約束するものか,或いはそうでなく我々の心に悪 魔を住込ませようとしているものであるか」を調査し,その性格動向を捉えんと大童のていで
ある。
しかしテレビが,人類にとって問題なのは之が言葉や文字と同じく意志伝達の媒体物である という事であり,然も同時に,文字が意志伝達の媒体物であると共に人に文字的思考様式を与 えているものであると同じく,テレビに於いても,文字の思考様式と異ってはいるが或る種の 思索性を持った伝達の媒体物であ、るという.ことである。しかし人々は人間の思考は,殆んど文 字的な思考を中心とするのでテレビ的な映像的思考といった新しい形態を認める事は些か困難 を感じるむきも少くはない様である。
文字を持たない人種は,アイヌ人,エスキモー人,アメリ ガインディアン,アルメニア人等
世界には沢山いるし,又人種として文字は持っていても文字を知らない人間は世界中では又お
びただしい数にのぼるであろうといわれる。ユネスコの統計によるど世界人口の60%〜65%が
まだ明き盲であるといわれている(1)此の様な多数の入達はただ文字を知らないという事だけで
人類の文明社会の恩典に浴す光栄を得る事が出来ないのであるが,然しその反面,自動車,汽
車等乗りものの発明が我々の脚力を衰えさせたと伺じく,知能の或る種の能力は,文字の出現
のための犠牲に供されていたかも知れないのである。アイヌ研究家の金田一京助は,かのユー
カラの麟訳において文字を持たない民族が素晴しい記憶力を持っている事を発見していられる
が,若しそうであれば,逆に我々は文字のために記憶力が減退した事になる。即ち,今までの
記憶という努力のかわり に,文字を利用する事により,いろいろのこどがらを頭櫃の外部によ
り確実に,長時間の保存に耐えるようになったからである。こうなると最早入間の頭悩は記憶
する場所というより,何の本に何が書いてあるかの概要とその本が何処にあるかを記憶すれば
よいのであだかも図書館に於ける索引カードの役割を果しているわけである。
この事は我々が生み出した生活の手段としての文化財が逆に人間の思考様式の改変,引いて は人間性の本質をも窺定する力があることを証明しているに外ならない。そこで今度は新しい 形のテレビミディアの出現に若し人類の大半がその存在を生活にとって重要なものと認め,そ の視聴行動に多くの時間をさく事になるならば,将来の人類は,文字が人類の思考様式を改変 した様に新しい映像的思考様式が,更に人類の性格や行動を規定してゆくであろうと思われ る。ところで,テレビを同じく伝達の一つの媒体物として考えると,これはことばと同様に,
瞬間的,即時的性格を持ち,従って一定の時間の流れの中で内容を捉えて行かなければならな い。しかし,ことばと違って送り手側の一方交通であるため,内容の押し付けになり,受け手 が正しい理解や判断を行なう三三が与えられないという欠点が指摘される。此れに反し文字は 同じ一方交通のミデ・アであっても時間に制限されず,読者が理解可能なまで自由に,又何処 にでも時間をかけて読む事が出来る。しかしテレビは,その放送されている時刻にスイッチを 入れる事がなければ殆んど一生その内容に接する事は不可能であり,又放送されている時間の 間で内容の判断,批判が行なわれなければならない。この性格がテレビミディアの最も大きな 欠陥であると同時に,新しい思考法として今後人類がマスターしてゆかなければならない道な のである。即ち,文字的思考に於いては,二二の判断,瞬間の理解への到達という事は問題に はならない。文字はむしろ読みの深さという事が重視されるのである。ところが現実の社会に 於いては,即時的,瞬間的に,決定的な決断を下さなければならない場合を多く知っている。
こういつだ場合め判断の敏速正確性は,特にテレビ的思考法の範疇において考えられると思
う。
そこで,新しい将来の人間像には,文字的な深い思考力と,テレビ的な記憶力と即断力が要 求されなければならないと思う。此処にテレビ社会が要請している学校教育の新しい在り方が
「暗示されているのではあるまいか。デューイは「学校が学校以外の環境において有力である教 育条件を看過する時には,学校は社会精神と離れて街学的,主知的精神に堕してしまう。」(2)
といっている。即ち文字と共に,学校以外の環境において有力であるテレビという教育条件 を,カリキュラムの中に措定してゆかなければならないのが今後の学校教育の有様であると考 えるのである。
しかし乍ら,テレビや映画等,映像ミディアがその発明尭見者が如何なる意図のもとに此等 は世に送り出したか(3)に拘らず,結果的には先づ娯楽の対象物として,我々の前に出現した 事である。これはグーテンベルグが1438年に活字印刷を発明し,その最初の印刷物が聖書であ
った事,更に木製印刷機が,それよりも古く今から1700年前我が国で陀羅尼経を印冷した(4)
という事から・享楽の対象として生を受けた映像文化とは,本質的に或いは性格的に異りがあ
ると考える人も多い様である。しかしこの事は,18世紀の産業革命以降の労働の性格の変革と
いう事から考えてゆく必要がある。革命前においては,労働は神聖であるといった所謂農本主
義的な倫理観によって支配され(日本に おいても報徳記の二官尊徳的倫理観)勤労以外の余暇
を持つという事はすべて罪悪視されていたのである。しかし資本主義が発展し大半の人々が資 本家のもとに雇用されるといった制度で労働を余儀なくされ然もその労働時間中は,笑うこと も歌うことも話すことも禁じられただ就業規則と服務規定にだけ従って事務を遂行しなければ ならなかったのである。即ち生計の資を得るために,生きる価値を得るために自分を殺して,
つまめ人間阻害の形で労働に従事しなければならなくなったのである。此の苦しみがひどくな ればひどくなるだけ人々は近代的な娯楽の中で空想的なものや馬鹿さわぎするものに慰安を求 めようとする,此の様な状況の中において現われた映画が,彼等の人間的な要求を満足させる ための必需的なものとなって映画産業が発展していったものと考えられる。後に出現したテレ
ビ,ラジオに於いても性格は違うが同じ事が言えると思う。
然し之等の我々の余暇を楽しまさせてくれたものは楽しませるという価値以外のいろいろな もの一例えば場合によっては(条件によっては)我々の態度性格をも変容し得る力を持って いるという事である。労働の苦痛を癒すための単なる娯楽として受取っていた筈のテレビが結 果的には,飽くない娯楽の追及に刺戟に不感性な人間を作り上げ,それは更により強い刺戟や 残忍性を求めることによって動物的本性に立ち返らせようとしているのかも知れない。ローテ ィーン,ハィテ・一ンの犯罪の増大,彼等の暴力の肯定などその一つの表れではあるまいか。
又,テレビは送り手からの一方交通なるが故に積極的な思考力,独自性創意性を喪失して依 存的人間を作り出しているのではないかという疑問も湧いてくる。清水幾太郎は「人間が精神 的に緊張しなくとも,殆んど努力しなくても,つまりぼんやり受身の態度でいても何物かを人 間の心の奥に持ち込むのである。精神の牙が不要といっていいすぎなら鋭い牙が不要とはいえ よ,う私達は知らない間にこうしたマスコミに憤れてきている精神の牙が相当鈍くなっているで
あろう」。と(5)
彼の精神の牙とは単なる読解力ということではなく人闘の理性的判断能力を指したものであ り,マスコミの過剰によって之等の理性喪失をなげいているのであろう。又オーストリア大学 のルドルフヘンツは「人間の創造的な生産的な余暇,人間の実り豊かな孤独性が失われ人間を 受身にかりたてていく」(6)となげいている。こう考えていくとマスコミ時代の人間は最早デ
カルトの言う「考える葦」ではなくマスコミの風に「なびく葦」に堕してしまっているという ことも出来よう。
しかし,私は先に産業革命以来生産に従事する労働自体が人間疎外を生みだした結果人間性 を再び回復せんがため余暇を楽しむことの必然性を考えたのであるが,その余暇に利用される 映画,テレビ,ラジオ,雑誌,新聞といったマスコミ自体が人間の主体性を回復する事はおろ か,ヘンツの言葉の様に,自己思考の時間を喪失した機械化された人間が作られてゆく一人 間が作り出した機械が,今度はその機械によって人間が作り出されていく一危険を感じずに はいられない。
此の様な,マスコミに対する攻撃は誠に当を得た批判といわねばならないがしかし,それは
あくまである一面からの批判であって,マスコミ自体もっと複雑な多面性を持っているもので
ある。例えば,コミニケーションの伝播の性質として横への広がりと,と従への深まりという ことが考えられるのであるがこれは,各々のコミニケーションのミディアの特性によって夫々 異ってくる。文字コミニケーションは深まりという点では他の追従を許さぬ特色を持っている が広まりという点では,印刷文字ですら新しいラジオ,テレビの敵ではない。現代科学文明社 会が要求する人間は深い専門的知識と,広範な常識をもつということであると思う。我々人類 の祖先が残してくれた文化遺産はその質量共近々1世紀で過去旧世紀間の総量に比敵するもの を貯え得たと言はれる。しかもこれらは又次代を背負うべき子供達を教育することによって受 継がせ更に発展させてゆかなければならない。
この様に旧来に倍した知識量の増大は今までの文字一遍到のコミニケーション方式だけでは これを習得させる事の困難であることが明瞭になり従って必然的に発明された各種のコミニケ ーションのミデ,アが先づ享楽とか娯楽といったもっとも導入しやすい手段を表面に立てるこ とによって人間社会に受け入れられるようになったと考えられる。したがって此等のミディア は,現代社会の必要から生みだされてきたものであって現代人であれば何人もこれに背を向け る事は事実上許されなくなり,只如何に之等を我々人間生活に効果的に利用すべきかを考える 事のみが問題として残ってきているのである。そして恐らく現代の子供達はその30年,40年後 において彼等が三等マスコミを如何に効果的に利用したかによって,その人となりの成功不成 功が左右されるようになるかも知れないと思われる。
かって学校教育を悩ましたものに街頭紙芝居があり街頭映画があった。しかし今日のテレビ 程その害が甚しかったとは思われない。同時に今日のテレビ程,今日の子供の成長に欠く事の 出来ない知識の栄養剤を与えてくれているものも他にないであろうと思われる。最早今日では 学校だけが,教師だけが子供に教育をしているのだと思っている者は1人もいないであろう 又,その教師も,伝統的な教科授業だけでは許されなくなり,広い常識の上に立った広範な学 習活動をしなければならなくなったのも,学校外に於ける子供達のテレビ視聴の影響が多分に あると思われる。
そこで我々教師が現代の子供の教育について考える場合に子供のテレビに対する接触態度を 度外視してはならないという事になる。
昭和34年度文部省テレビジョン影響調査によると普通児で1日の視聴時間は2時間から3時 間と出ている(7)。そしてこの時間は,中,高生徒の1年間の授業時間の平均(約3時間)とほ
ゴ同じである。「しかも彼等は,いやいやながら引いているのではなく積極的にチャンネルを廻 し体をのり出す様にしてみている3時間であるという事を考えなければならない。
よく子供の躾にやかましい母親は子供の視聴時間を目の仇のようにして長すぎる長すぎると
いわれるが,NHKの国民生活時間調査をみると,子供より大入の方がテレビに釘付けされて
いるという事実が出てきている。例えば一番視聴人口の多くなる7時〜9時までの視聴時間を
ぬきだしてみると大人(成人男子)は40%以上であるのに対し,子供q5才以下)は25%前後
に止っている。此の事実からみても子供の視聴習慣を問題とする場合には先づ親の視聴習慣に
望ましいものが出来ているかどうかを考えなければならないだろう。案外親の視聴のおつきあ いとしてだらだら視聴がなされではいないかということを警戒する必要がある。それで視聴習 慣は一家の話し合いでとよく言われるがこれはやはり一家の主人がテレビに対するほっきりし た視聴態度を持っている事が大切であろう。
又,35年度の文部省テレビ影響調査によると父母の学歴程度が低い程子供の視聴時間が長い という結果が出ている。同様の結果は合衆国に於けるリマーズの53年調査(8)で,母親の学歴 が小卒より高卒,大卒になるに従って子供の視聴量が減少するといっている。又家庭の社会的 経済的水準と子供の視聴時間については合衆国のシーゴーの51年調査がある(9)それによると,
階層を上,中,下層に分けて大体中層階級が一番よく見,次に下層,上層となっている。マコ ビィの50〜51年調査⑩によってもテレビは中流階級が一番所有しており上流階級は僅かしか もってないという結果が出ている。これはテレビの庶民性,大衆を表わしたものに他ならない ので,上流階級はテレビで余暇を楽しむより以上の余暇利用の方法をテレビ出現前より充分回 持ち合わせているとみなければならない。従ってテレビは前述の様に資本主義社会の労働に 吟している労働者のみの唯一の救いであるという事がわかると思う。
ところが此処に面白い事には,平均をオーヴァーした所謂長時間視聴児といわれる子供群が そうでない子供群と比較して知的にも学力的にも差がないという結果が明らかにされている事 である〔11),つまり一般に想像されているようにテレビッ子は劣等児ではないということであ る。同じく子供と漫画について調べている心理学者早川氏も漫画を沢山よんでいる子供,必ず しも学力の点でも知能の点でも劣等児ではないといっている。そうすると,もりもり遊び,も りもりテレビを見,もりもり漫画をみている子供が実はもりもり勉強をやっているというふう に現代ッ子の優秀児を考えることは出来ないだろうか。
しかし長時間視聴児が学力的にも何等特別な影響がないにしても,それが情緒面特に非行と 結びついているのではないかという恐れがある。即ち暴力的な場面や醜悪兇悪な場面は知らず 知らずの間に青少年の不良化の原因となり入生の最も大切な人間形成期にある童心を傷つけ思 春期の青少年に甚しい悪影響を与えているのではないかと特に,家庭の母親がたが心配してい るわけである。それでは最近の少年非行は,テレビのために増加したであろうかを調べてみる と,確かに最近の少年犯罪が多くなった事は事実である。しかし最近の少年非行を警察の統計 によってみると(1鋤,マスコミの影響によると認められた非行少年は非行少年総数の2%(59,2 50件に対し659件)にも満たないし(大阪警察管区調べ),警視庁の昭和34年5月の全国統計 でもマスコミの影響による少年犯罪は全体のL7%にすぎない,マスコミ全体による影響がこ うであるからテレビによる非行はそれより更に下廻る事が充分予想されるのである。又イギリ スにおいても此の件に関し58年のナフィールド報告,61年のグラナダ報告等ありその他合衆国 で行なわれた此等各種の調査においてもテレビの暴力場面と青少年非行化との間の因果関係を 立証することは出来ていないのである。
そこで結論として今のところ,テレビの子供の入間形成に及ぼす悪影響はさほど心配する必
要はないわけであるが,だからといって現在の低俗な一部番組がそのままであってよいという わけではない。イギリスの今年5月U日のタイムス社説には「政府側では商業テレビが始まっ てから国内が道徳的にみだれたという証拠はないといっているが商業テレビに反対した人達が 心配したのは不道徳うんぬんの事でほない,それはいつまでもつづく商業テレビの馬鹿らしさ である」といっているように直接悪憲響云々の商題よりも,子供はその何でも視てそして何等 かのものを得てゆきつつあるという事実であ・りそれが30年40年後の子供の将来にどの様な影響 を与えるかを考えてゆくとき,決して今のままのくだらなさをそのまま是認してはならないと いうことである。
テレビは両刃の剣のような.ものである。これをうまく利用すれば我々は想像以上の恩恵を受 ける事が出来ようし,又享楽にまかせて放置すれば,怠惰な主体性のない追従的な人間を作り 出してゆくかもしれない。此の様な点から家庭における望ましい視聴方法を作り上げる事は,
今後の家庭生活にとって最も大切な教育となってきていると思う。そこで以下望ましい家庭視 聴の方法について触れてみることにしよう。
1,躾に熱心な母親は,如何に子供からテレビをはなすか,悪い番組を如何にして見せないよ うにするかに苦心されているようだが,むしろそれより大切なことは,如何にして良い番組 を時間の許す限り子供に見せるかという事である。公共放送は勿論民放にしたところでその 番組・の中には非常に教育的な道徳的な番組がある筈である。こういつた良い番組に常に接す るという習慣が引いては悪い番組を駆回する事になるのである。
2,カッツラザーフエルトのパースナルィンフルエンスには〃マスコミの影響は送り手が受け 手への垂直の関連ばかりでなく受手の内部での水平の関連によって大きく左右される〃(1$
といっている。この中で特に大切なのは受手集団の中のオピニオンリーダーの存在である,
家庭視聴の場合此の役目は普通両親である場合が多いが,学級集団や子供グループが此のオ ピニオンリーダーの役を果す場合もある。即ち彼が何を見て,グループに話題を提供してい るか。ということが,その集団の子供のテレビ視聴の内容を決定するものである。それでテ レビの伝達は番組の内容がそのまま受け手に伝わるだけでなく,受け手集団の中のリーダー の番組選択とか内容批判が集団全員の視聴に影響を及ぼすわけで,このリーダーが効果的に 利用されると,番組内容に対するブイルター的役割を果すものであるといってよいであろ う。
3,家族全員の話し合いの中で,各々の視聴計画がなされている事,この場合,例え両親も問 題外ではなく,正しい視聴態度を計画的に習慣化する事が,子供に正しい視聴態度をつけさ せる事になるのである。
4,視聴覚コミニケーションを文字コミニケーションに転移深化させる事である。前述の様に
思考の深さということになると文字コミニケーションが最も大きな力を持っているのである
から,視聴覚ミデギアによらて受容した内容を更忙確かめ,深めるという習慣がつきやすい
ような環境を構成する事が必要である。例えば,テレビセットの側忙百科大辞典を置いたり
日本,世界地図を賦って,機会ある毎にテレビ内容を更に確かな知識に転化していくわけで ある。 ㌧
次に,以上でまだ触れていないテレビの2,3の特徴についで考えてみよう。 ノ L テレど或いは映画といった新メディアは画面であり,映像による表現芸術である。映:像も〕、
それが芸術となれば,それは製作者の意図なり思想の表現でなければならない。その意味か ら,映画,テレビの画面も,具体的世界の抽象化一般化としての表現方法である。即ち画面 を編集する事によって一つの思想を再表現するわけであるから文字と同じ性質を持っている と考えられる。所謂イメージ言語といわれるのはそのせいであろう。そこで言語に文法があ る如く,イメージ言語にも文法がある筈である。近頃8ミリカメラが大流行しているが,大 半の人々は,現実の記録に止まり,例えば「おなかがすいた」といったことをイメージ言語 でつづる能力は持たないのである。つまりそれは映画,テレビの製作者のみが知る特殊な技 術的なものであるようである。文字でも書かれたものを読むことは自分で文を作ることより も,非常にたやすい事であるが,映画,テレビでは,幼児から大人に至るまで,その個人の 能力に応じて理解し楽しむことが許されるが製作という事になると非常に困難である。とこ ろで他入の文章を批判するには,自分も文章を作る事が出来るという事が一つの前提である のと同様に,今後は,テレビ,映画の製作技術を学習する事がより正しく映像を批判出来る 様になると思われるので,そういった事を学校教育の課程め中に納めなければらないように なるであろう。
2,テレビと映画は何れも画面と音声から構成されているのでその性格はあまり異らないと考 えられているが,しかし次の様な点で区別する事が出来る。
映画は之を見る大衆をして画面の人物に「同一化」させる働を持っているのに対しテレビ は視聴者の近親者であり,視聴者の方に向って話をしかけてくれる友人であり或は家族の一 員としての性格を持っている従って,映画の「同一化」に対し「親近化」という性質で区別 出来さうである。更に映画においては主として現実からはなれた理想の世界,空想の世界を 求めたがるのに反し,テレビは日常生活のリアリズムにその特性があると考えられる。これ は主としてテレビが家庭劇や,実況,ニュース,コマーシャル等がその中心となっているか らである。したがって,このことは現実生活に立脚しているだけあって,その反面,思想性 の探究に乏しいという欠点が現われてくると考えられる。
3,テレビは之を受ける側においてはジアクティヴな接し方とヂパッシィヴな接し方がある
が,テレビの時間性,瞬間性という性格上,受け手は主として後者の場合が多い様に考えら
れる。アクテ・ヴな接し方とは前もって番組内容を知っており,目的をもって視るという事
である。我々が読書をする場合は三思読む価値を見出して,つまり目的々行動として読書す
る事が多い,しかし乍らテレビ,ラジオになると必ずしもその目的を立てる必要もなく予猶
もない所に問題がある。つまり特に何もする事がないからとか何もしたくないからテレビで
も見よ5といった全く受動的な見方がある。視聴者がその何れの立場でみているかによって
同一画面でもその各々に与える効果という点では大いに異ってくるものである。
次に考えられる特徴は,テレビが番組と番組との問にまを置かず連続的につづけられてい くために,後味や感慨に耽けるという余裕が与えられないということである。この事は視聴 における直後反応の欠如といってよいであろう。しかし一方,テレビの番組は主として毎週 1回の連続放送というシリーズ放送が行なわれているのが普通である。そこで直後反応は欠
如しても,毎週同じものが繰り返される事によって起る想起反応が考えられうる。この想起 反応の繰り返しが実は,人間の態度形成について大きな要因になるのではないかという事が 考えられる。つまり唯1回の番組で表われる暴力的場面は大した影響を与えなくともそれが 毎週連続して同じ暴力場面をみせられるというところに,テレビの危険がはらんでいるので はないかと考えるのである。
4,前述したようにテレビも具体的世界の抽象化一般化の手段である以上,正しい一般化を行 なうということはことば文字と同様に大切なことである。しかし映像の場合は特にその現わ された一般化を大衆が正しく認識することが困難な場合がある。即ち画面が余りにも現実的 具体的であり,しかもそれをその時間の流れの中で捉えなければならないので正しい批判の 余地を見出すことが困難な場合が多い。そして末梢的な1カットの画面の強い刺戟に引ずら れて全体の考えを損う場合が往々にして生ずるのである。特ノンフ クションで構成した教 養的番組の中にそうしたことが往々にしてみいだされるようである。演出者は,現実のみに くい有様をカメラを通してリアリステ,ックに表現する事によって視聴者に,此の様な事態 を反省,批判させる事が狙いであったに木拘,視聴者の興味は異常な現実のカットに集中さ
れ,そこより一歩を出ようとしない場合があるのである。
テレビにおけるリアリズムが尊ばれるのは物の認識がリアリズムに出発することによって より正しい理性的認識に到達することが出来るという前提条件のもとにおいて初めていえる ことであって現実の極端な異常性の画面の羅列では正しいリアリズムとい言えない。
(1962.10.26受付)
参 考 文 献 註(1)視聴覚教育の社会学,西本32,34頁参照
(2)J.Dewey Democrey and Edueation Macmilla111929P46 For when the schools depart fronl the educational conditions effective in the out・of−school enviroment nt, they necessarily substitute a bookish, a pseudo−intellectual spirit for a soci al spirit.
(3)視聴覚辞典(明治図書)の映画篇309頁には,エジソンは「映画は数年たてば,教育方法に革命 を起し教科書の使用にとって代る』と述べ,又,今日の映画の形体をつくり出したりュミエール兄 弟は「この発明は売物ではない。科学的な慰みものにすぎない,商業的な将来性はない」といって いる。
(4)視聴覚教育の社会学,56頁参照
(5) 「古典のよみかた」清水幾太郎 昭和28年
(6L「テレビ」金沢覚太郎,テレビジョンの教育性一25Q頁
(7>34年度テレビジョン影響調査 4頁
「普通児では1日2時間〜3時間,長時間視聴児では1日4〜5時間またはそれ以上視聴する児 童生徒が多い」
(8) 「放送と児童の問題」と題して:NHK:布留武郎がアメリカに於ける研究概観を紹介している。
(9)前出NHK:布留武郎
⑩ 前出NHK布留武郎
(11}1昭和34年度文部省のテレビジョン影響調査によると,「長時間規聴児と国語算数の学力の結果で は,小学校の函語では長時間視聴児と学年平均を比較しうる25校のうち長時聞視聴児の得点平均が 学年平均より劣っているのは10校で他はいずれもすぐれている。算数では,長時間視聴児と学年平 均を比較しうる25校のうち長時間視聴児の得点平均が学年平均より劣っているのは6校で他はいず れもすぐれている。
中学校では,両者の間にはっきりした差は出ていない。この結果を調査書では長時間視聴児の学 力は普通児と比べてむしろすぐれているとも劣っていないことが明らかになったがこの事実をもつ てただちにテレビの過重な視聴が学力の伸長に役立って結論することは危険である」といってい
る。