喪失の幻影: The American Innocence ( 3 )
― 階級意識と失われた西部 ―
斉藤 悦子
要旨
1820年代に夕日に向かって去っていく森の孤高な猟師で始まったアメリカの西 部神話は、南北戦争後から世紀末に向かう中で、一体どのようなプロセスを経てカ ウボーイが拳銃を抜く荒野へと変わって行ったのだろうか。それは、19世紀の東 部の富裕な中産階級の階級意識と、急速に拡大する大衆読者のための新しいメディ アの発達と、ヴィジュアルな文化へと向かう、映画の夜明け前に興ったショービジ ネスの演出が、互いに影響し合う中で出現した歴史的な現象だった。「喪失の幻影」
シリーズを締めくくるにあたって、本論では、ダイムノヴェルからバッファロー・
ビルのワイルド・ウェスト・ショーへと展開し、ルーズベルト大統領の学友の書い たブルジョワ的な西部の物語へと変形しながら、映画の西部劇へと拡散していった 西部神話を跡づけながら、そのすべてに通底する階級意識の傾向について、19世 紀末の他のさまざまなユートピア創造の試みにも照らして考察する。また、1950 年代、
60
年代の対抗文化の時代に、再び西部への憧憬が強くなり、それが、「ロー ド文学」というナラティヴに帰結したことも、西部神話の現代的形態であることを 明らかにしたい。Illusion of Loss: The American Innocence (3)
― Class Consciousness and the Lost West ―
Etsuko Saito
Abstract
When the myth of the West started with Leatherstocking in the 1820s, it was a narrative of a nobly independent old trapper walking off to the direction of the setting sun. But by the time Hollywood caught up with the myth and turned it into a popular genre, the hero had become a gunfighter cowboy ready for a duel in front of a run- down tavern. This transition occurred during the rare time in history when the rapid growth of mass readership was generating a new type of literary medium and the turn of the century brought with it a zeal for visual entertainment (just before the dawning of the motion pictures) and nostalgia for the passing era. Also, the creation and the transition of the myth of the West almost always displayed an undertone of class consciousness of the well-to-do intellectuals of the east coast. In conclusion of the
“Illusion of Loss” series, this part three will look into the generation and transition of
the “dime novels”, Buffalo Bill’s “Wild West” and Owen Wister’s Virginian ,with focus
on how it connects with the class consciousness of the white urban intellectuals. We
will also obser ve that the “road literature” of the 50’s and 60’s is the modern
descendent of the myth of the “lost west.”
序
アメリカの西部神話を考える時、それが都市部の富裕な知識階級の中から文学として発 現し、やがて、大衆読者層が拡大するにつれて新しいメディアに乗って収益のために粗製 版が量産されたこと、また、そのような大衆文化の中で流布されたイメージとタイアップ して東部やヨーロッパの観衆のエキゾチズムに訴えるショービジネスが形成され、その ショービジネスの中に牧畜地域の風俗やインディアン戦争の武勇伝がエンターテイメント として断片的に放り込まれたこと、など、いわゆる
highbrow
とlowbrow
の複雑な 関係性の中で形成されたことを理解しておく必要がある。「喪失の幻影(
2
)」で考察したように、プロトタイプとしての西部神話は、文化的環境 の整った都市部の中産階級のhighbrow
の読者に向けて、highbrow
の流行を先導し た英国の手本をもとに形成された物語であり、James Fenimore Cooper
(1789
―1851
)のThe Pioneers
(1823)の時点では、「フロンティア」はオステゴ湖周辺のニューヨーク州内の初期開拓地であり、神話的には「西部」であっても、地理的にはむしろカナダに近い北 東部に位置していた。無論、牛もいなければカウボーイの姿もなかった。また、クーパー の物語のヒーローであるレザーストッキング(ナッティー・バンポー)には、開拓地域に 暮らす者のアナーキーに近い個人主義の傾向と同時に、変化する社会に翻弄される素朴で 美しい昔堅気の資質があり、それは、体制の法規には従わないとしても、個の中でゆるぎ ない倫理感として確立されているという設定になっていた(42 ― 55)。その倫理感は、単に 素朴な善良さ、というだけでなく、窮地の女性を救出するヒロイズムにおいて中世の騎士 道精神に近いものであり、なぜ無学な辺境の猟師が作中で騎士道精神を体現するような言 動をみせるか、ということについては、R. W. B. Lewisの述べたようにアメリカのアダム として突如虚空の中から出現した(91)わけではなく、古いストイックな倫理観を持った 滅びゆく者の哀切なヒロイズムが、すでにWalter Scott(1771 ― 1832)の一連の大ベストセ ラーによって
highbrow
の流行になっていたからであった。そもそも、スコット作品の大流行そのものが、中産階級の読者層の拡大を反映しており、
Martin Lyons
の言葉を借りれば、スコットは18世紀後半まで「下等な文学」と考えられていた小説という新興の文学ジャンルを、中産階級の読者の心情に直接訴えかける斬新な 主題で「ほかのいかなる作家よりも尊敬できるものにした」英国初の国際的ベストセラー 作家であった(125)。
Waverly 小説群は 19世紀初頭のヨーロッパにスコットランド・ブー
ムをもたらし、Ivanhoe
は欧米の中世ブームに拍車をかけた。19世紀のアメリカ建築における中世趣味を研究したRobin Flemingによれば、19世紀の アメリカの富裕階級における中世風建築への顕著な傾倒は、「自分たちの階級の価値:活 力、キリスト教信仰、そして騎士道精神」を発信するための、階級のアイデンティティー の表現方法であり(
1064
)、英国同様、都市部の中産階級の中にある、おそらくエキゾチズムと呼ぶのが最もふさわしいような心理的傾向を反映していた。
This Picturesque Histor y shared with the more general Victorian culture of medievalism a love of the Romantic, a notion that the external trappings of the medieval represented deep and profound virtues, a fascination with false origins and half-understood science, and a habit of collecting historical details and then pasting them together to form a grand, anachronistic whole (1061).
アナクロニスティックな中世趣味の例として、Flemingは次第に大量生産されていった 中世風の室内装飾が、購入者の希望にあわせて、「アイヴァンホー、ポカホンタス、ダニ エル・ブーン、など、どんな疑似歴史的モチーフでも用が足りる切り貼り品質」を帯びて 行ったことを指摘している(
1068
)。しかし、ここにあげられた三つの例は、すべてがクー パーのレザーストッキング物語に居心地良く収まるものばかりだ。西部神話のプロトタイ プは、明らかにアメリカ東部の富裕な中産階級の価値観に訴えるhighbrow
な中世趣 味を満載していたのである。英国の中産階級形成期における「境界」意識について研究したStallybrassとWhiteは、
近代の英国の富裕な中産階級の階級意識において、
lowbrow
を意識的に切り離して自 らのアイデンティティーを形成することが大きな命題であったことを明らかにしている が、たとえば、清教徒革命後に都市部の知識階級に広まったcoffee-house
という「革 新的な社会的空間」についても、その主たる構成メンバーになった富裕な新興中産階級が、さまざまな言説の中で、coffee-houseが国家権力からの干渉を受けず、「階級を問わない」
民主的な場であることを自負すると同時に、その一方で、地方の文化や下位の階級に根強 く浸透していた
alehouse
と対照的な、健全で合理的な空間であることを何より強調し たことに注目している。This specific combination of ‘democratic’ accessibility with a cleansed discursive environment, a new realignment of the male public body and status, was the basis of the cof fee-house’s impor tance....whilst it stoutly and successfully resisted the inter ventions and interference of the State, it was an important instrument in the regulation of the body, manners and morals of its clientele in the public sphere. When it first appeared it was immediately seized upon by protestants as a counter-force to the tavern and the alehouse. (95
― 6)ここには
19世紀のアメリカ社会に継承されている都市部の中産階級であるアングロ・サ
クソン系プロテスタントの階級意識の原型がわかりやすく顕在している。第一に、自分た
ちが民主的な市民社会を実現する実行者である、という意識、第二に、啓蒙されていない 悪習をひきずる、不浄な、もしくは遅れている社会の部分から切り離した、浄化された場 を、この世のユートピアとして実現することへのピューリタン的使命感。第三に、そのよ うな場の形成によって、自分たちの階級のアイデンティティーを発信しようとする態度で ある。しかし、コーヒーハウスのメンバーたちが、その新しい社会的空間を死守するため に、これを閉鎖しようとするチャールズ
2
世の布告にも抵抗するヒロイズムを発揮するこ とになった17世紀後半の状況と比較して、後に詳しく実例を見ていくことにするが、19
世紀後半のアメリカ東部の知識階級はもっと自己満足的で逃避的な空間を作ることになっ た。その中にあって、西部神話は、highbrow
の趣味がビジネスを通してlowbrow
へ拡散、変形し、lowbrow
の現場がhighbrow
の幻想を満たすビジネスを発見する 中で発展したユニークな文化的イメージ群である。その本質は自己満足的な逃避空間であ ると同時に、広く大衆に浸透した「創作された」集合的記憶としても機能するものであっ た。「喪失の幻影」の最終回である本論においては、金メッキ時代を通して、クーパーのプ ロトタイプから西部の物語がマスプロ生産される大衆向け読み物やショービジネスの中で どのように変遷していったか、ということをたどりながら、アメリカ思想における階級意 識と西部神話の「喪失」の表象について考察したい。
ダイムノヴェルとバッファロー・ビル
アメリカの大衆読者向け出版事業の草分けは、ニューヨークで廉価な読み物の大量供給 をめざした
Erustas Beadle(1821
― 94)が1860年より月刊から週刊のペースで出したオレ ンジの表紙の娯楽読み物シリーズである。これはダイム(10セント)硬貨ひとつで買え ることから「ダイムノヴェル」と呼ばれるようになった。その第1号となったのが Ann S.
Stephens(1810
― 86)が1839年にニューヨークの月刊文芸誌The Ladies Companion に連載
した小説の再録となるMalaeska; the Indian Wife of the White Hunter という物語である。こ
れは上品な筆致で書かれた「異教の娘の受難」というテーマの悲壮なメロドラマであった。物語は、白人と恋に落ちて妻となった先住民族の娘マラエスカが運命に翻弄され、インディ アンとの戦争に従軍した夫に行きがかり上父親を殺され、負傷した夫も命を落とし、夫の 家にとりあげられた幼い息子を心の支えにして、気遣いながら成長を見守るも、悲願の再 会を果たし、身の上を打ち明けたとたん、母親の出自を恥じた息子に目の前で投身自殺さ れる、というものである。『本の歴史文化図鑑』を書いたライアンズによれば、このダイ ムノヴェル
1
冊目は出版部数の上では、大きなヒットとなって3
か月もたたないうちに6
万5千部以上売り上げたという(156)。The Ladies Companionは雑誌名からもわかるように、都市部の中産階級の女性読者に向
けた文芸誌で、Edgar Allan Poe(1809 ― 49)が
The Mystery of Mary Rogêt
を連載した ことで知られている雑誌である。第1
作に他紙で過去に評判のよかった作品を1
冊にまと めて安価で発売したことからも、ビードルのダイムノヴェルは、スタート時には女性読者 も強く意識して、内容の品格に関するガイドラインも持ち、ロマンスものも多かった。が、舞台設定が植民地時代や建国期になっている物語が主流なのは、ナショナリズムの枠組み の中でドラマティックなヒロイズムを強調する物語がこの時代に人気があったからである。
建国期の物語となると、自然にアメリカの先住民族が登場することが多くなり、同じ型 の繰り返しの中で「インディアン」は悪役のタイプとして定着して行った。西部ものがダ イムノヴェルの花形になったのは、波乱万丈のドラマには「恐ろしいインディアンの襲撃」
というスパイスが必要だったからである。『マラエスカ』に続くヒットとなり、初のビー ドル社オリジナルのドル箱作品となったのが通し番号8番となるEdward S. Ellis(1840 ―
1916
)のSeth Jones; or, The Captives of the Frontier
である。エキセントリックな老いた西部 の猟師が「インディアン」の襲撃でさらわれた美しい令嬢をヒロイックに救出する、とい う、どこから見てもクーパーのレザーストッキング物語の焼き直し作品である。ニュー ジャージー州で学校の教師をしていたエリスが弱冠19歳の時に執筆したこの物語の原稿
を1860年の夏に受け取ったビードル社は、ヒットシリーズになる確信を持って特別な広 告戦略に出たと記録されている。発売前に、新聞広告や町のポスターにWho is Seth
Jones?
とだけ書いたものを貼り出し、町の噂にしておいてから、少し後に、レザーストッキングのように先住民族の衣装風なフリンジのついたバックスキンのコートと毛皮の帽子 をかぶり、ライフルを手にした凛々しい猟師のイラストに
I am Seth Jones
と書いたポ スターを一斉に貼りだし、同じ表紙のダイムノヴェルを売り出したのである(Johannsen)。翌年にロンドンでも出版された『セス・ジョーンズ』はヨーロッパで広く翻訳され、累計
60万部売れたと言われている(ライアンズ 157)。
ダイムノヴェルにおける西部神話の系譜について詳細な検証を行った
Henry Nash
Smith
は『セス・ジョーンズ』はクーパーの「卑しい身分に身をやつした貴人」、というプロットを踏襲した点でもレザーストッキングの直系であることを指摘しているが、本当 は家柄のよい紳士モートンであるセスが身分を偽る動機づけが薄弱で、単にモデル作品の 手法を使ってみたかっただけではないのか、と疑問をなげかけている(93)。しかし、「喪 失 の 幻 影(
2
)」 で 論 じ た よ う に、 ス コ ッ ト の テ ー マ 性 を 踏 襲 す る ク ー パ ー は、The
Pioneers で二つのプロットを併用することで、実は名家の系譜であったオリバーの結婚で
終わるメロドラマと老いた猟師が何も求めず、西へと去っていくプロットを分けて、滅び の美を温存したのであり、その滅びゆく無欲な心気高き主人公が、最後になって階級も結 婚も世俗的幸福も保証されたのでは、レザーストッキングのテーマ性は台無しである。す でにあるモチーフを切り貼りし、焼き直して編集する手法で果てしなく増殖するダイムノ ヴェル商法の中で、スコット的な文学的に深遠なヒロイズムは、最初からすっかり骨抜きであった。
スミスは、また、
Virgin Land
の中で、この「実は貴人」というプロットは、ダイムノヴェ ルの中では、時代が下るにつれ、「実は金持ち」というプロットになって行くことも指摘 している。1877
年に始まった5
セントで買えるビードルのHalf-Dime Library
の先陣を 切って、大人気シリーズとなったEdward L. Wheeler(ca. 1854 ― 1885)のDeadwood Dick
のシリーズでは、Dick
は炭鉱町出身の貧しい境遇から努力によって身を立てた「たたき 上げ」のヒーローであるが、彼も、最後は炭鉱のオーナーとして、かなりの富を得ている のである(Smith 100
―1
)。このような変化の背景にはW. H. Bishop
が観察したように、ビー ドル以外のシリーズも含め、粗製で廉価なstory-paper
文庫の愛読者が、この頃になる と、労働者階級の、特に働く少年たちであったことが影響している(384
)。ダイムノヴェ ル全体の潮流は1880年前後から益々扇情的で暴力的になって行き、次第に、実在の犯罪 者や人殺しを美化して「アウトロー・ヒーロー」の物語に仕立てたものや、男装の鉄火肌 の女性ガンファイターなどが登場するようになった。それでも、アウトローものなどは、たとえば、ビリー・ザ・キッドの物語など、本人の 没後、その話題性の中で「伝説」としてストーリー化されることが多く、実在の人物を大 胆に脚色して読み物化するのに、その人物の生前にすることは よほどの有名人でなければ 無理があった 。が、Ned BuntlineというペンネームでE. Z. C. Judson(1821 ― 86)が
1869
年から書き始めたバッファロー・ビルの武勇伝のシリーズは、「生ける伝説」を創造した 点で特殊である。最初の作品であるBuffalo Bill, The King of Border Men
が出たとき には、William F.(“Buffalo Bill”)Cody(1846 ― 1917)はまだ20
代前半だった。その後、550以上の扇情的な武勇伝が別の作家にバトンタッチされながら書き継がれていく中で
(Katzive 14)、ビル・コーディーは生涯生きて伝説を演じなければならなかった。だが、
商才を持っていたコーディーは、自分を演出していく中で、イメージを売るショーマンと して大成していく。彼はダイムノヴェルによって広範に知れ渡った知名度を利用して西部 の「体験」をエンターテイメントにする大規模なショービジネスを始めたのである。ショー の中で視覚化され、地理的に切り離されて再現、「体験」される西部は、ダイムノヴェル を読まないような
highbrow
の客層にも快適なエキゾチズムとして浸透して行った。というのも、そもそも、バッファロー・ビルの西部ショーは、アメリカ連邦軍の上級士官 がヨーロッパの
VIP
を接待するために企画した西部狩猟ツアーの中から生まれてきたもの だったのである。フロンティアが消えようとする黄昏の残光の中で人生のキャリアを始め た貧しい西部出身の少年は、highbrow
とlowbrow
の波間を渡りながら、どうやっ て身を立てて行ったのか。また、そのために、文化表象としての「西部」はどうなってし まったのか、次はそのあたりの経緯を詳しく見ていくことにしよう。the “Wild West”
常に真贋の判別の付きがたい伝説に取り囲まれ、自らを演出し、自伝執筆においてさえ 脚色を怠らなかった人物の伝記的事実を参照する場合、信頼性の高い資料を選定すること は重要なポイントになるが、本論では、バッファロー・ビルの伝記的事実については、安 定した評価のある
Joy S. Kasson
のBuffalo Bill’s Wild West
に依ることにする。これによると、
William Codyはアイオワ州で生まれ、カンザス州で育ち、早くに父親を亡くしてから、
10
代前半から牛追いの仕事や、電報の普及で短命に終わった「ポニー・エクスプレス」(早 馬飛脚便)の配達夫などを経て、南北戦争中北軍の平原スカウト(案内人)をしたのち、カンザス第
7
連隊に志願して終戦を迎えた。その後、先住民族の排除に乗り出した連邦軍 やカンザス・パシフィック鉄道と契約して、大西部の荒野に展開する兵士や線路の敷設作 業員の食糧としてバッファローの肉を届ける仕事を請け負い、おびただしい数のバッファ ローを殺して、連邦軍の押し進めたバッファロー殲滅作戦の一翼を担うとともに、「バッ ファロー・ビル」という愛称で知られるようになった。この頃のコーディーは余興で行わ れる競馬や射撃のコンテストなどにもよく参加していたという。彼がショーマンとして立 つ最初の大きな転機となったのは、1871年に連邦軍の将軍であった Philip Sheridan(1831
―88)が、政府の高官や経済界の大物 VIP
たちを連れて、破格な「西部体験」接待ツアーを企画した時に、案内人とバッファロー狩りの現場運営を頼まれた時であった。このツアー は100名の兵士に護衛され、移動用の馬車の他に16台の荷馬車に快適な旅のための物資を 積み込み(1台は氷を運搬していた)、西部の大平原で、カーペットを敷いたテントの中 で正装の給仕がニューヨークから連れてきたフランス料理のシェフの料理をフルセットさ れたテーブルで給仕する、というような贅を尽くしたものであった。彼らは都会の快適な 生活を引き連れながら、西部の原野で安楽に、しかし迫真的でエキゾチックな「体験」を することを期待していた。このツアーを通してコーディーは東部の富裕層が西部に何を求 めているかを認識し、ダイムノヴェルで美化されて描かれていた自らのイメージを演出し て、西部のヒーローの衣装:刺繍の入った真紅のシャツの上に真新しいフリンジつきのバッ クスキンのコート、長靴にソンブレロ、そして片手に猟銃、という出で立ちで颯爽と白馬 に乗って現れ、場の雰囲気を盛り上げた。端整な顔立ちにロマンティックな長髪と手入れ の行き届いたひげをたくわえ、立ち姿が美しく、寡黙で、立ち居振る舞いの穏やかだった コーディーは、シェリダンにも来賓たちにも大いに気に入られた。
この時の評判から、翌年、ロシアの皇太子がアメリカを表敬訪問した際、当時の大統領 であった元北軍総司令官の
Ulysses Grant(1822
― 85)は、軍関係者のコネクションで、皇 太子にアメリカ体験を満喫させるための「西部狩猟ツアー」を企画し、この時もシェリダ ン将軍のもと、コーディーが現場の運営に尽力した。特にこの時はシェリダンが「本物の 西部」を実感できるように、と、先住民族の歌や踊りを見せることを希望し、コーディーにその段取りをつけさせたのである。この時から、コーディーは、「西部体験」というショー にとって本物の先住民族の出演が欠かせない要素であることを学んだと言われている
(Kasson 17)。ツアーは大成功に終わった。
こうして二つの接待ツアーから「西部」の見せ方のコツを学んだコーディーは、
1873
年から
Buffalo Bill Combination
という移動劇団を組んで興業を始め、カスター将軍のインディアン戦争での最後(同じ部隊のコーディーが遅れて到着して敵の族長を倒し、仇 を取った、とダイムノヴェルで普及していた武勇伝)をドラマ化した芝居を演じるように なった。
第二の転機になったのは、1882年にコーディーが
Nate Salsbury(1846
― 1902)という ショーマンに出会い、彼のオーストラリアでの興業体験から、どこかフロンティアでサー カスのようにたくさんの馬を使って曲乗りを見せるショーをしてみたい、というアイディ アをもらった直後、ネブラスカ州のノースプレートの町で独立記念日のお祭りに出し物を 頼まれ、John Burke(1842 ― 1917)というマネージャーを雇ってOld Glory Blowout
と いうショーを企画運営したことである。先住民族の出演、多くの馬や動物、本物の駅馬車 まで調達して臨んだこの企画では、今でいうロデオのような投げ縄の技術や猟銃の射撃技 の披露、ポニー・エクスプレスの曲乗りや、駅馬車襲撃場面の再現などを出し物とした。その後、Salsburyも加わり、83年に旗揚げしたのがバッファロー・ビルの代名詞となる 大西部のショー、
Buffalo Bill’s Wild West
である。翌年には、little sure shot
の愛称 で親しまれることになるAnnie Oakley
ことPhoebe Ann Moses(1860 ― 26)が一座に加 わった。身長が152センチという小柄な可愛らしい女性がバッファロー・ビルとおそろい
のバックスキンにフリンジのドレスを着て、涼しげに猟銃で次々と的を当てていく様子は、荒くれた場面の多いショーの雰囲気を和らげ、特にヨーロッパの観客には、最初にアニー を出して銃撃への「免疫」をつけてからショーを始めた、と記録されている(Kasson
112
― 3)。また、「ショーの出演者」として本物の先住民族が「管理された状況」で参加す ることは何よりも観客をひきつけた。初めは先住民族に扮した役者を起用していたコー ディーだが、1878年には居留地に隔離されていた先住民族から劇団員を募るようになり、
以後のショーでは大々的に呼び物とした。1885年のシーズンには度重なる熱心な勧誘が 実ってスー族のリーダー的存在として知名度の高かったSitting Bull(1831 ― 90)の出演も 果たし、興業的に大成功を収めている。この時戦争捕虜の状態だった
Sitting Bull
は、1
年 限りしか軟禁先を離れることを許可されなかったが、この公演の間、出演料の他、お供の 者と通訳の給料も保証され、会場で最も人気のあった記念品である自身のブロマイドの売 り上げも全額もらうことになった。また、一座と一緒に国内を自由に移動し、旅先では、ある程度の自由を持って観光することもできた。ショーで注目を得たことによって公にイ ンタビューを受ける機会も増え、直接主張を発信することもできている。ワイルド・ウェ スト・ショーは、後年、アメリカ先住民族を商業的に利用して辱め、搾取した、と批評家
や研究者にそしられることも多かったが、L. G. Mosesの
Wild West Shows and the Images
of American Indians
に丁寧に集められた出演者たちの言説を読むと、多くの先住民がこのショーを割のよい仕事先ととらえていたことがうかがえる。どんどん僻地へと転地を強要 され、狭い居留地に押し込められる先住民族にとっては、コーディーのショーに出ること は自由に国内を見てまわれるチャンスでもあり、馬上でのパフォーマンスも、彼らにとっ ては、奪われた活動のショーによる再現、ということで、ストレス解消となり、また、現 実問題として貴重な収入源であったことがわかる(101 ― 3)。また、幼い頃にコロラド州で 育ち、先住民族の子どもたちと親しく遊んだ経験を持つ写真家の
Gertrude Käsebier
(1852
―1934)が 1898年のニューヨーク公演の際にコーディーに頼み込んで撮影した先住民出演
者たちのポートレイトを見ても、屈辱感を示す表情は皆無で、みな、澄んだ、気品のある 表情をしている(Delaney)。
以上のことからもわかるように、大西部に生まれ育ち、移りゆくフロンティアの「消滅」
の直前に現れては消えた過渡的な歴史の過程(カウボーイ、ポニー・エクスプレス、バッ ファロー狩り等)にタイムリーに立ち会った労働者階級の少年は、軍のお偉方に仕える中 で、金持ちを喜ばせ、見たいものを見せる方法を学習し、大地を奪われ、不当に追い立て られて滅びに瀕していた先住民族にも、東部やヨーロッパの白人たちのファンタジーに答 えてやることによって居場所と稼ぎを得るという観光ビジネスの枠組みを提供した。ワイ ルド・ウェスト・ショーは、
1887年以降、ヨーロッパでの成功をめざし、より highbrow
にアピールするために、ニューヨークで実績のある脚本家兼舞台監督と契約してショーの ストーリーを品のあるメロドラマに書き直し、舞台効果などにも工夫をこらした。そして1887から 92年まで、大所帯の団員たちと多くの動物たちをすべてひきつれてヨーロッパ
興業を行うことになったが、アメリカ国内よりも熱烈に迎えられ、辺境のエキゾチズムと いうのではなく、アメリカそのもののエキゾチズムとして大歓迎された。87年はヴィク トリア女王の即位50周年のジュビリーでのアメリカ展にイベントとして参加したワイル ド・ウェスト・ショーであったが、ロンドン公演の4日前に英国皇太子が下見に訪れ、1 週間もたたないうちに、長く公の席に姿を現さなかったヴィクトリア女王自身が見物に訪 れ、一気に評判となって皇族や貴族も続々と訪れた(
Kasson 77
)。ここでも本物のアメリ カ先住民族が参加していることが大きな呼び物となった。ショーのマネージャーであった バークが後に述懐するように、バッファロー狩りのパフォーマンスにしても、それは単に サーカスのような「見世物」ではなく、間もなく滅びようとしている過去のアメリカの最 後の瞬間を目の当たりにしている、という一期一会のノスタルジックな思いによって権威 づけられていた。バークはこのことを十分理解して、このノスタルジアに訴えかけるよう に演出したのである。バークの認識についてカッソンはこう書いている。No better expression could be found for the Wild West’s self-definition at the
intersection of history, drama, and nostalgia. Burke demonstrated that Buffalo Bill’s business was the creation of memory. He knew that the Wild West’s task was to make the memory of this entertainment spectacle become, for its audiences, the memory of the real thing. (85)
1893
年、アメリカは世界に向かって国力をつけた自らの輝かしい姿を視覚的にアピー ルする巨大なイベントを用意していた。シカゴ万博である。だが、さまざまな意味で「白 い祭典」であったこのhighbrow
の人工空間は、別のシステムのもとにエキゾチズム をすでに組み入れており、ワイルド・ウェスト・ショーの参加は実現しなかった。そこで コーディーは万博会場と駅をはさんで隣接する立地に広大な敷地を確保し、万博の来場者 がついでに(もしくは代わりに)寄ることができる絶好の環境で、万博にちなんでthe
rough riders of the world
(カウボーイや先住民族に加え、メキシコやアラブ、ドイツやフランスの騎馬隊が
100人以上で走り抜けるショー)を大々的に宣伝してWild West
の興 業をし、アメリカ人にも、その創造された「本物の記憶」を流布することになった。カッソンはこのシカゴ万博の際の興業において特別誂えで配布された64ページにもな るプログラム冊子について興味深い指摘をしている。それは、冊子が、注意深く計算され たバランス感覚の中で史実と演出されたイメージを混在させ、イメージとして創り出した 西部が「本物である」という錯覚を誘っているという指摘である。ダイムノヴェルの誇張 されたイメージを視覚化したショーの場面のイラストや、ショーの中のロマンティックな 芝居の筋と、実際にコーディーが
1889年にネブラスカ州の州兵の准将に任命された時の
任命書のコピーや人物の生写真など、リアルな資料を取り混ぜて掲載し、幻想とリアルの バランスをとりながら、ショーでの疑似体験がリアルな西部の体験であると思い込むよう 誘導しているというのだ。このバランスのとり方が絶妙であって、決して単なるエンター テイメントである、という作り物の感覚を持たせないように工夫されている。また、表紙 には、コーディーの横顔のアップを取り囲んで、バッファロー狩りの場面や先住民族の駅 馬車襲撃の場面、馬上で銃を撃つコーディーの姿が鮮やかなリトグラフで華々しく描かれ ているが、裏表紙は、他紙から転載した現実の西部の風景画で、広大な山々の上に広がる 先住民族のテントと、岩肌に沿った長い山道を、族長たちが小さなシルエットで上ってい る遠景である。「これらのリトグラフには独自の表象の力があった」とカッソンは言う(105
―114)。
以前、
1840
年代から70
年代におけるロンドンの新聞、Illustrated London News
において、イラストが報道写真の役割をしていることを考察したことがあるが(Saito 3 ― 4)、ワイルド・
ウェスト・ショーの黄金期である
19
世紀末が、ちょうど写真のように使用されるイラス トの伝統から実際の写真が使用されるようになる過渡期であったことも、視覚表象という 点では特異な時期であったと言えよう。ショーの場面を描いたイラストやダイムノヴェルの挿絵、それらにまざって掲載される生写真は、それが手描きの風景をバックに西部風の 豪華なステージ衣装を身につけて室内で撮影したブロマイド写真であっても、また、明ら かにショーの出演者としてシッティング・ブルが民族衣装に身を包んでコーディーと並ん で取ったプロモーション用の写真であっても、ひときわ「リアル」な視覚媒体としてのイ ンパクトを持っていたと考えられる。土産物として全国にばらまかれたそれらの生写真は、
人の目に触れ続けることで、視覚的なイメージとして
authentic
な西部の記憶になって 行った。Theodore Roosevelt大統領(1858 ― 1919)が西部マニアであり、ダコタの牧場に 静養に行ってから、西部に男らしさとアメリカ精神の原点を見出してロマンティックな西 部のイメージを助長する紀行文やエッセーを書いたことは有名であるが、中でも広く知ら れているルーズベルト自慢の「本物のカウボーイの服装」を着て男らしくポーズをとった 写真は、バッファロー・ビルのショーに出ていた団員たちのカウボーイの衣装を模してい た。レザーストッキングの「森林と孤高な猟師のフロンティア」は、こうして
19世紀末に
は「カウボーイと馬上のヒーローの荒野」になった。白いノスタルジーと階級の断絶
「視覚効果」は、世紀末の文化イメージ形成の切り札でもあった。シカゴ万博自体も今 まで誰も見たことのないスペクタクルを、科学技術の最先端の粋を集めた電力供給と、そ れによって可能となったライトアップなども駆使して展開していた。パリ万博のエッフェ ル塔に対抗して巨大なフェリスの観覧車がそびえたつ敷地に、ネオクラシック様式の目も くらむようなスケールの白亜のパヴィリオンが立ち並び、パリのボザール学派の流麗な彫 像と噴水の点在する人口湖をそれらのパヴィリオンが取り囲む中央広場は、「ホワイト・
シティ」と呼ばれ、美と荘厳さで観衆を圧倒した。シカゴ、という、東部と大西部の中間 にある中西部の新興都市で行われたこともアメリカの全体性を代表するという点で象徴的 だった。中西部の作家
Hamlin Garland(1860
― 1940)がダコタにいる両親への手紙で「台 所のかまどを売ってでも見に来なければなりません。」と言ったというのはしばしば引用 される一節であるが、H. W. Brandsはそれに併記して、博覧会見物に来た年配の夫婦の夫 が、「なあ、スーザン、来た甲斐はあったなあ。葬式代をみんな使っちゃったがなあ。」と 言ったことを記録している(44)。中西部のあちこちから、多くの庶民が蓄えをはたいて この世紀の祭典を見物に訪れた。当時の新聞や日記等に数多く残されているのは、ホワイ ト・シティを初めて見た者の第一印象は、夢うつつの気分になり、そこがユートピアであ る よ う に 感 じ た、 と い う 感 想 で あ る。 後 にCosmopolitan
誌 の オ ー ナ ー に な るJohn
Brisbane Walker(1847
― 1931)はこう記している。...there was not...one ill-tempered face, one drunken man. What a change has come over our civilization in the past twenty-five years
!...only happy smiling faces, women and children...all feeling kindly toward each other, all taking part in the general joy and universal pride that this was the creation of their countrymen. (Bolotin and Laing 36)
しかし、これは例のコーヒーハウスのユートピアである。また、実は「すべての人」が 幸せになれるはずの博覧会場は、表面化しない階級間格差のくすぶる場所でもあった。出 費のかさむ入場料(多くのアトラクションが別料金だった)だけでなく、日曜日を(正し いキリスト教徒らしく)休園日にすることで、日曜日しか休みのない低賃金で長時間労働 の都市の貧しい労働者にとっては行きたくても行かれないところだった。さらに、展示品 やパヴィリオンの企画やマネージメント、果ては建設現場の雇用に至るまで、アフリカ系 アメリカ人はあからさまに差別されていて、
The Reason Why the Colored American is not Represented in the World’s Columbian Exhibition
という抗議のパンフレットがIda Barnett(1862
― 31) に よ っ て 配 布 さ れ た。Alan TrachtenbergはThe Incorporation of
America で、ホワイト・シティにつながる沿道に配置された Midway Plaisance
という遊園地について、世界各国の異文化や風習が、(ちょうどワイルド・ウェスト・ショーの先住 民族のように)「本物の」アジア人やアラブ人、アフリカ人たちによってデモンストレーショ ンされるショーになっていた点が、アメリカの象徴であるホワイト・シティの帝国主義的 引き立て役であったことを指摘している(213)。そこは、多くの庶民にとっては、珍しい ものを見て、珍しいものが食べられる観光スポットであったが、のちの上院議員である
Chauncey M. Depewは 1893年、 6
月19日のNew York Timesのインタビューに答えて、Thedenizens of the Midway...give the observer an opportunity to investigate these barbarous and semi-civilized people without the unpleasant accompaniments of travel through their countries and contact with them.
と公言している(5)。さらに、シカゴのさびれた沼地に忽然と現れた夢のユートピアも、本当のところは、6 か月間の開催期間を持たせるだけの張りぼて構造で、ホワイト・シティの荘厳なパヴィリ オンも彫像たちも、白い つた4 4入り石膏で固められた期間限定の幻だった(Bolotin and
Laing 18
)。オズのエメラルド・シティの鍵つきメガネのように、まばゆい一時的視覚効果のためのしかけのある魔法だった、と言えるかもしれない。
Sell the cook-stove if
necessary
とまで言われて熱心に呼び寄せられたガーランドの両親も、始めは夢うつつであったが、母親は1日で、父は3日で食傷して帰ってしまった経緯は、大井浩二が『ホ ワイト・シティの幻影』の中で詳しく述べている(
97
―100
)。さて、見た目の荘厳さではホワイト・シティに及ばなかったコーディーのワイルド・ウェ スト・ショーは、ここで、あることをして庶民の人気を一気に勝ち取ることになった。そ
れは、
7
月にシカゴ前市長のCarter Harrison(1825
― 93)から「めぐまれない子どもの日」という日を作って、浮浪児を博覧会に招待し、場内を見学してから、ワイルド・ウェスト・
ショーも見て、夕刊の配達に行かなければならない時間までに返す、というチャリティー 企画が提案されたことだった。しかし、博覧会の会長をしていたシカゴの企業家は、浮浪 児が会場を練り歩くことで一般客が来なくなるのではないか、と恐れ、「入場無料」にす ることを許可しなかった。この機をとらえて、コーディーは自腹で弁当つきのピクニック とパレードをふるまい、ワイルド・ウェスト・ショーの無料招待を申し出て、シカゴの複 数の孤児院や、慈善団体の職業学校などに通う子どもたちを招待したのである。たちまち バッファロー・ビルは子どもたちのヒーローになった。このことをきっかけにコーディー は終生「子ども好き」という公のイメージを大切にし、子ども向けのチャリティー・イベ ントを行うことがワイルド・ウェスト・ショーの恒例行事となった(Kasson 102 ― 3)。シ カゴ万博がシカゴの経済人によって仕切られ、トラクテンバーグが指摘したように、絵に 描いたように帝国主義的なアメリカの富裕な中産階級の白い想像力を体現する構成になっ ていたのに比べ、ダイムノヴェルの世界観を舞台化したワイルド・ウェスト・ショーは、
ダイムノヴェルの読者層が大切なファン層であることを理解していたと同時に、一度企画 したチャリティー・イベントが却下された後に議論が巻き起こり、メディアでの注目度が 高くなることもしたたかに理解していた。この一件によって、バッファロー・ビルは各地 の地方新聞で「博愛主義者」「庶民の味方」としてほめたたえられ、ワイルド・ウェスト・
ショーの入場者も着実に増やしたのである。その意味では、ワイルド・ウェストのマネー ジメント・チームは、シカゴ万博の環境を最大限に活用したと言ってよかった。ロンドン において皇族に気に入られるよう心を砕いたワイルド・ウェストは、帰国公演においては、
「庶民の西部」を演出した。
19世紀末は、産業化が進んで格差が広がる中、中産階級のユートピア志向が労働者階 級のリアリティーに背を向け、その結果階級の断絶が顕在化する時期でもあった。トラク テンバーグは、The Incorporation of Americaの中で白人富裕層の啓蒙思想が自己満足と欺 瞞に陥って階級の断絶を招いた例を、博覧会の他に二つ挙げている。ひとつは、同じシカ ゴ市内にある、プルマンというプルマン列車車両会社の社長が作った企業城下町である。
ここは人工的に作られた、酒場の代わりに図書館のあるような、倫理的で文化的な、労働 者のための
highbrow
な啓蒙の町として見学者が絶えない「ユートピア」であった。しかし、町の家屋はみなプルマン社の賃貸で、高い家賃を取り、博覧会の後に不景気の波 が押し寄せると、大幅な賃金カットを断行しながら、家賃は据え置いたため、ついに労働 者の不満が爆発して、米国史上最悪と言われるストライキが始まったのである。各地で暴 動へと飛び火したこのストライキは軍を投入して鎮圧する騒ぎになった(
222
―5
)。もうひとつの例は、上掲書5章の
The Politics of Culture
でとりあげられた、WilliamJames
(1842
―1910
)のWhat Makes a Life Significant?
(1899
)という講演の中で言及されるChautauquaというニューヨーク州北部のメソジストの夏期研修コミュニティーであ る。そこは、牧師や教育者のための快適な環境と学びのための設備が整っており、まさに
「中産階級のパラダイス」であった(James)。
You have no zymotic diseases, no poverty, no drunkenness, no crime, no police. You have culture, you have kindness, you have cheapness, you have equality, you have the best fruits of what mankind has fought and bled and striven for under the name of civilization for centuries. You have, in short, a foretaste of what human society might be, were it all in the light, with no suffering and no dark corners. (James)
だが、ジェームズはやがて、そこが究極的に凡庸で生気がなく、逃避的で、人間の本性に 反した耐え難い場所である、と感じるようになる。
Even now, in our own country, correctness, fairness, and compromise for every small advantage are crowding out all other qualities. The higher heroisms and the old rare flavors are passing out of life (James).
そうしてChautauquaから逃げ出したジェームズは、汽車の車窓から見た高所作業をする 労働者の姿に、美化されていない、根源的な、生きることに直結した人間のヒロイズムを 感じて圧倒されるのである。ジェームズは最終的に、「富の再分配」の必要性というよう なことにもほのかに言及しながら、「何が人生を意味深いものにするのか」という自らの 問いかけに「惰性の産物ではない理想が、忠誠や勇気や忍耐、そしてそれぞれの人間の痛 みと結びついた時にこそ、人生は意義深くなるのであり、そのような機会がみつかる可能 性はいつでもそこにあるものなのだ。」と答えて終わっている(James)。
生きることに
higher heroism
を求め、昔はもっと人生に趣があった、と感じ、今は それが「失われてしまった」と感じるのは、これまで見てきたトランセンデンタリズムに も、西部神話にも共通した思いである。ホワイト・シティのギリシャやローマ風に仕立て たネオクラッシックなパヴィリオンにも、建築や室内装飾で流行した中世趣味にも、その 思いは通底している。だが、多くは資本家でもあった都市部の富裕層が、ジェームズのよ うに、労働という生きることの根源から切り離されて、安楽に惰性的理想主義に逃避する ことは何も生み出さない、と悟り、労働する人から学んでもう一度生きることの根源と誠 実に向かい合いたい、と考えることは まれ4 4で、ヒロイズムへの渇望は、美化されたヒロイッ クな昔へのノスタルジアに浸ることで解消し、美化した世界観をフレミングの言うように「アナクロ的」に視覚化して自己満足することの方が一般的だった。ワイルド・ウェスト のバークが見抜いたように、世紀末は「終わり」という哀惜の感覚に満ち溢れていて、失
われていくように思われる古き良き時代の美やヒロイズムをイメージとして視覚的な表象 の中に留めようと熱望していた。そしてそのような気分をとらえることに優れた娯楽ビジ ネスを楽しみ、観客の期待通りに再編成された「演出された過去」を疑似体験し、創造さ れた喪失の記憶をお土産に持ち帰ったのである。
西部劇のモデル
19
世紀末は、映画の技術が発明された時期でもあった。20
世紀初頭になると、黎明期 の作品が続々と現れ始める。きちんとした作品として上映され、社会的なインパクトを持っ たという意味でアメリカ映画最初期の本格映画作品と評価されているのが1903
年のThe
Great Train Robbery
である。たった12分の作品だが、アメリカ映画の「西部劇」の歴
史はここから始まる。だが、映画の黄金期に作られたジャンルとしての西部劇には、実は 文学のモデル作品が存在すると言われている。それが1902年に刊行された
Owen Wister
(
1860
―1938
)のThe Virginian
である。ウィスターは、前にも述べた西部マニアのセオドア・ルーズベルト大統領のハーバード大学での学友であり、この本はルーズベルトに捧げられ ている。ところで、バッファロー・ビルのショーのポスターは現在でも多数保存されてい るが、その多くに銃が描かれているものの、ほとんどが「猟銃」である。バッファロー・
ビルが銃を持っていたのはバッファローを狩るためであり、アニー・オークリーも猟銃の 狙撃の正確さが素晴らしかったのであって、腰からピストルを抜くような早撃ちの名手 だったわけではない。しかし、ハリウッド映画のカウボーイは、大概腰に拳銃をさし、銃 弾のベルトを巻いていて、西部の宿場町の通りで、敵と早撃ちの決闘をしたりする。これ はすべてこの『ヴァージニアン』が作った新たな西部神話である。
物語は東部の紳士である「私」が、ワイオミング州の大きな牧場を経営している「ヘン リー判事」に招かれて田舎の駅に降り立つところから始まる。到着するなり、手荷物の紛 失が告げられ、翌日の便まで待たなければならない。そこで「私」は穏やかな南部なまり で話をする「絵にも描けないほど」ハンサムな青年を見かけるのだが、これが判事のよこ した「迎え」だった。話し方からヴァージニア出身だと気が付いた「私」は、この青年に 好感を持って、親しくなろうとフレンドリーにふるまうが、なかなかうちとけてもらえな い。さらに、判事の牧場はこの「町」から
263
マイルも離れており、町のたったひとつの 宿屋も満員で、今夜寝るところもない、というカルチャーショックに打ちのめされるとこ ろから始まる。このあたりは西部の口承伝統であるtall tale
ばりにユーモラスに語ら れる。やがて判事の牧場についた「私」はこの「ヴァージニアの男」(と言っても、成人 してからはずっとワイオミングで牧童などをしてきた青年)と多くの時間を過ごし、奇妙 な、母性本能にかられて他の動物の子を育てたがる「狂った雌鶏」に互いに同情したこと から意気投合して、信頼関係を築き、その後、別れた後、彼の後日談を書いている、という体裁を取っている。
後日談はほぼ全体がラブ・ロマンスで、北東部のバーモント州からやってきた、率直で、
元気で、若草物語のジョーのような「女先生」モリーとヴァージニアン(結局名前は最後 までわからない)が出会って結婚するまでの顛末である。最初の出会いは、クーパーの作 品同様、馬車の馬が暴れ出して美女が危機一髪のところをヒーローが救い、静かに去る、
という定番である。ヴァージニアンは寡黙であるが、一本筋の通った男で、常に「男気」
を感じさせる、というのがこの作品の一番強調するところであるが、その「男気」が、レ ザーストッキングの騎士道精神とは異なり、なかなかきわどいのである。作中、「私」が 再びヴァージニアンに会いに行く
30章で、ヴァージニアンはある任務を遂行しようとし
ている。牛泥棒を捕まえたので、翌朝リンチにするのだ。「私」は馬小屋に入ってつかまっ ている男の一人を見て仰天する。それは、かつて、はじめてヴァージニアンと出会った日、ヴァージニアンと親友のように親しげに話していた
Steve
だったのだ。その時、スティー ヴはヴァージニアンをson-of-a ― と笑いながら呼び、
「私」はヴァージニアンが怒って 殴るのではないか、と思ったが、全くそんなことはなく、機嫌よくしていたので非常に驚 く。田舎では悪い言葉も気にしないのか、と考えた。ところが、そのすぐ後に酒場でポー カーを始めたヴァージニアンに、このあたりで悪い噂の多いTrampusという男(悪役)が同じように
son-of-a ― という言葉を使うと、ヴァージニアンは拳銃をテーブルに置
いてトランパスを真顔で見据えWhen you call me that, smile.
と挑発して、あわや撃ち 合いか、という緊迫した場面になるのである。この一件で「私」はスティーヴとヴァージ ニアンの間の友情の深さを知るのだった。そのスティーヴが、今、捕われていて、ヴァー ジニアンは明日の朝、彼を殺そうとしている。スティーヴは達観していて、穏やかだ。ヴァー ジニアンが親友をリンチするのは、ヘンリー判事に牛泥棒を捕まえるミッションを与えら れたからで、男は、一度引き受けた任務は、責任を持って遂行する、というわけである。また、トランパスの一味になり下り、悪に走ったからには、親友といえども見逃すわけに はいかない、というのがヴァージニアンの倫理感だ。リンチの後、ヴァージニアンは「私」
に、スティーヴがどんなに問い詰められても仲間を売るようなことをしなかったことを、
彼の「男気」としてほめ、涙を流す。これはどこか任侠道の世界である。それもそのはず、
実は、これはワイオミングであった実際の牧畜戦争における抗争が歴史背景にある話であ り、大牧場主と、それに反乱した弱小の牧畜業者たちの暴力抗争において戦闘員だったの が、この時の「カウボーイ」である。彼らは常に敵を撃てるように、短銃と銃弾を腰に巻 いていた。ヴァージニアンの仕える判事は大牧場主である。そういう構図だと改めて思え ば、トランパスは反乱側の人間で、反乱軍が悪役に描かれているならば、これは「体制側」
の物語である。
ヴァージニアンは素朴な流れ者で、スティーヴや、少し知恵のおくれたショーティーな どは、同じような流れ者のカウボーイ同士、一緒に旅をし、仕事をし、仲間意識を強めて
行った。だが、ショーティーもスティーヴもトランパスの一味になってしまう。なぜかは 語られず、「手っ取り早く儲けたくなって悪に魂を売ってしまったのだろう」というニュ アンスの推測で語られる。だが、23章のくだりを読むと、少し懐疑的な気持ちがわいて くる。無学なショーティーは、ヘンリー判事の牧場では下働きのような仕事しかまかされ ず、ヴァージニアンよりも賃金が低い。そして、そのことを不満に思っている。
I can
make more
と抗議するショーティーに、ヴァージニアンは、自分の身の程に合った仕事を与えられたら、文句など言わず、黙ってそれをまじめにやり遂げればいいのだ、と諭す。
それでもショーティーの不満は収まらない。お前はいろいろと優遇されている、と羨む。
だが、ヴァージニアンは、自分には、まかされた仕事でしっかり働いて貯蓄をし、それで 土地を購入する分別と才覚があったのに、お前は何もしなかっただけだ、と反論する。
ショーティーは、自分は不当に扱われている、と譲らず、
Virginian knew that the boy had learned his lesson of discontent from Trampus
と締めくくられる(272
―4
)。これを読 むと、トランパスというのは、資本家に挑戦する労働組合の組合長のようにも思えてくる。そして、彼のもとに弱い立場の末端労働者たちが集まっている。しかし、この作品では、
トランパス「一味」は、あくまでも、牛泥棒のごろつき集団なのである。
さて、ヴァージニアンと恋に落ちた村の先生のモリーは、ある日、学校の建物の外で子 どもたちがけんかしているのを聞きつけ、止めに入る。そして、なんと、子どもたちが「リ ンチごっこ」をしていて、スティーヴ役の子どもが首に縄を巻かれて、柵から飛び降りる のを嫌がり、囃し立てられていることを知るのである。仰天したモリーは、ヴァージニア ンがスティーヴたちをリンチしたことを知り、自分の倫理感と、平気でリンチという名の 殺人行為を実行した恋人の倫理感との折り合いがつかなくなり、深い悩みに陥っていく。
行動派の彼女はまず、判事のところに行って、リンチというものは、法律による裁きでは なく、野蛮な暴力行為ではないのか、と質問する。判事はワイオミングで牛泥棒をリンチ するのは南部で黒人をリンチで火あぶりにするのとはわけが違う、と弁明し、モリーはあっ けにとられる。「いったいどこが違うのですか。」と食い下がるモリーに、判事は、なぜそ のような当たり前のことがわからないのか、といぶかりながらこう説明する。
I consider the burning a proof that the South is semi-barbarous, and the hanging a proof that Wyoming is determined to become civilized. We do not tor ture our criminals...We execute our criminals by the swiftest means, and in the quietest way....
For in the South they take a negro from jail where he was waiting to be duly hung.
The South has never claimed that the law would let him go. But in Wyoming the law
has been letting our cattle-thieves go for two years....The courts, or rather the juries,
into whose hands we have put the law, are not dealing the law....Call this primitive, if
you will. But so far from being a defiance of the law, it is an assertion of it... (434
―6)
ところで、これが牧場主たちの
range war
(放牧方法をめぐる戦争)を背景にした、利権をめぐる一種のやくざ抗争であると考えれば、この判事の言葉というのは、大きな組 の親分の言い分ということになる。また、「陪審員」が「牛泥棒を野放しにしてきた」のも、
もしかすると、その牛が誰の所有物か、ということへの言い分は被告と原告では食い違っ ていて、陪審員は親分とは見解が違うために有罪にしないのかもしれない。しかし、現代 の読者に簡単にそのような懐疑を抱かせる描写を含みつつ、この物語は、あくまでも仕事 に忠実な男気のある若者が、「必要悪」の暴力行為を粛々と遂行しながら、純粋無垢な気 持ちで無理をして指輪を買ったり、頑張って晴れ着を着て親族にあいさつに行ったりして、
誠意を尽くして、ロマンティックにお嫁さんをもらう話なのである。
結婚を目前に控えたある日、トランパスとすれ違って思わず腰の拳銃に手をかけた ヴァージニアンを見て、モリーは、もうそういうことはやめてほしい、と率直に頼む。ト ランパスと決闘に行かなければならなくなったときには、もし、どうしても行くなら、結 婚はできない、とまで迫る。が、ヴァージニアンは
Can’t you see how it must be about a man?
(475
)と言って、悲しそうにでかけていく。そして土埃のあがる通りでトランパ スと対峙し、相手が先に撃ってはずし、こちらが発砲した瞬間、敵はどさりと倒れる。モ リーはどんなに考えても、理性では最後までリンチや決闘を受け入れることができなかっ たにもかかわらず、戻ってきたヴァージニアンがあまりにもいとしくて、女心の命じるま まに、もう深く考えるのはやめて結婚を受け入れ、最後はハッピーエンドである。ヴァー ジニアンの土地にはやがて鉄道の支線が通り、石炭も採掘され、すっかり立派な事業主と なったヴァージニアンには、跡継ぎの息子もいて、今では妻に欲しいものはなんでも買っ てやれる ひとかどの4 4 4 4 4金持ちになった、というのが物語のエンディングである。これが東部のブルジョワの書いた「男」の西部である。たちまちベストセラーになった この作品は、物語そのものも4回映画化され、後年テレビドラマにもなったが、それよりも、
無法地帯の西部の町で、ガンファイターのカウボーイがごろつきたちと対決し、決闘する、
という展開が、西部劇のジャンルそのものの定番モデルとなって、以後の西部神話のシン ボルとなった。しかし、素朴で男気があり、個としての筋の通った倫理感を持つ「一匹狼」
の気質を備えた男が、どうして結局は資本家の手先になっているのか、という部分につい ては、あまり触れられていない。
映画の時代を迎え、バッファロー・ビルも
1913
年にHistorical Pictures Company
という 映画製作会社をたちあげ、インディアン戦争の歴史を描く映画を製作した。だが、ショー にあったノスタルジックなエンターテイメント性の高い演出と異なり、映画はあまりにリ アルに暴力を描きだしたため、特にウーンデッド・ニーの戦いで、先住民族の女、子ども が無差別に大量虐殺される場面は、見た者に大きな動揺を与え、映画評もさんざんで、terrible realism
と評された。映画の失敗の後、コーディーは2年間サーカス団と一緒に
公演し、マネージャーのバークが「西部の物語をわかりやすく、小さなお子さまにも適し
た方法で伝える」というキャッチフレーズで表現したように(Kasson 262)、完全にリア リズムと切り離したエンターテイメントとしてワイルド・ウェストの場面を演ずるように なり、1916年に他のショーの一場面に参加したのを最後に、翌年、その「生ける伝説」
の生涯を閉じた。
若者たちの西部
このように、西部神話の、ぼんやりとしたノスタルジーの中で、個が個として輝いてい た頃の古き良き倫理的なヒーロー、失われた世界の夕日の向こうに去っていく物悲しく美 しいヒーロー、は、よくよく検証してみれば、中世騎士であったり、ショーの演出であっ たり、利権抗争のヒットマンであったりしたのだが、「素朴な男気」と「一匹狼」のイメー ジは映画の時代もテレビの時代も生き抜いて、ずっと継承されてきた。そして、
1950
年代、60年代の若者革命の頃、再び西部は、個の自由を体現するノスタルジックな理想形とし
て夢想されることが多くなった。だが、若者の時代の「西部」は、夢想の先のリアリティー が見えているのに、夢想の幻影にまみれて破滅に向かうしかない現実そのものに哀愁を感 じるところが特徴的である。Jack Kerouac(1922 ― 69)の
On the Road
(1957)はビート・ジェネレーションの代表作 であり、いわゆる「ロードもの」のバイブルでもあるが、ニューヨークで作家をしている主人公の
Sal Paradiseが旅に出ようと考えたきっかけは、「知識人」の友人たちの様子に飽
き飽きして、西部からやってきた快活な男、Deanの原始的な生命力に惹きつけられたか らであった。
...it was a wild yea-saying overburst of American joy; it was Western, the west wind, an ode from the Plains, something new, long prophesied, long a-coming... Besides, all my New York friends were in the negative, nightmare position of putting down society and giving their tired bookish or political or psychoanalytical reasons, but Dean just raced in society, eager for bread and love; he didn’t care one way or the other (7).
知識人たちのモラトリアムに辟易してより人生の根源的な側面に向かい合いたい、と切望 するのはウィリアム・ジェームズの思いに似ている。そして、19世紀の東部の知識人た ちがそうしたように、西に行けば、何か素晴らしい力に満ちた真新しい世界が待っている のではないか、という期待に、ビート世代の若者も胸を膨らませるのだ。サルは地図を開 き、ケープコッドの近くからネバダまでまっすぐに地図を横切る
Route 6
という赤い 線をみつけて、どうせなら、この6
号線の起点から、一本の道をまっすぐに西へ行ったら 粋なのではないか、と夢想する。しかし、現実は、6
号線の起点までヒッチハイクした結果、バケツをひっくり返したような雨の中、人っ子一人いない山中に置きざれにされ、泣きな がらやっとのことでガソリンスタンドまでたどりつき、みじめな姿でニューヨークに逃げ 帰るはめになった。気を取り直して一般的なルートで西へと旅に出たサルとディーンが放 浪するのは、どこも同じようにうらさびれた町で、恋と冒険を夢見て流れていく先で会う のは、低賃金で働く男女と、停滞と退屈の中でその日その日を生きる若者たちだった。デ トロイトからミシガンに向かうバスの中で出会った美しい少女を、なんとか色っぽい話題 に誘い込もうと思ってサルは質問を始める。
“What do you do on a warm summer’s night?” She sat on the porch, she watched the cars in the road. She and her mother made popcorn. “What does your father do on a summer’s night?” He works, he has an all-night shift at the boiler factory....“What are we all aching to do? What do we want?” She didn’t know....Nobody could tell. Nobody would ever tell. It was all over. She was eighteen and most lovely, and lost (245).
時折ケルアックの文体がたそがれた現実描写の中で詩的な調子を帯びる時、そこに、西部 神話の残り香がたちこめる。「長い間ずっと、訪れることが予言されていた」西部の約束。
でも、その中に実際に身を浸してみれば、それらはみんな「過ぎ去って」しまっている。
行きずりの恋を繰り返す行き当たりばったりなディーンは、やがて複数の妻と子どもを あちこちにかかえ、離婚や再婚を繰り返しながら最後は西海岸とニューヨークを、どうし てよいかわからないまま、ただ何日も何日も汽車にゆられて往復するようになり、メキシ コ・シティーで風邪をひいて大熱を出したサルは置き去りにされる。再びニューヨークに いるサルのもとに現れたディーンは、もう、ろれつが回らなくなっており、サルは、気取 り屋の友人が所有するキャディラックの後部座席で、乗車を拒否されたディーンが凍てつ く寒さの中で置いて行かれるのに、すまなそうに手を振り続ける。そして、それっきり、
ディーンと音信のとだえたサルは、「アメリカで夕日が沈む時」はいつも、果てしなく広 がる大陸の、「子どもがどこかで泣いているあたり」の平原の上に星が降る夜、「誰もが年 を取っていくという寂しさ以外に、人に何がおこるかなんて、誰にもわからない」世界で、
ディーンのことを想うのだった(307)。
映画の世界でも、アメリカ映画の西部劇ブームが去って久しい
60
年代の終わりに、ア メリカン・ニューシネマの鬼才George Roy Hill(1921
― 2002)が全く新しい視点から「若 者たち」の西部劇を映画化して、ニューシネマの金字塔を打ち立てた。Butch Cassidy &
Sundance Kid
(1969)(邦題、「明日に向かって撃て」)である。この作品は、アウトロー、ガンファイター、列車強盗、あらゆる西部劇の定番を取り込みながら、西部神話の根底に ある、「個人」と「自由」と「幻想」について鮮やかに描いて見せた。
斬新だったのは、「一匹狼」ではなく、口のうまい洒落者の盗賊ブッチと無口で早撃ち