The purpose of this study is to examine some features of the missionary theology of D.
T. Niles, a Ceylonese theologian, and his theological contribution to the ecumenical move- ment from historical and missiological perspectives. Niles had already discussed in the 1930’s the missionary nature of the church in relation to the total mission of God in Christ operative in the historical world. He made an initial contribution as an Asian church leader to the development of the concept of “missio Dei” (mission of God) which appeared in the 1950’s. He stressed the selfhood and integrity of the church in each place and Christ’s prior crossing of every religious or secular frontier. In his theology in which the historical and cul- tural context of the Asian churches is seriously taken, the indigenization of the church and the relationship with people of other faiths are the essential and inseparable agendas for the church in the mission of God. Some of his proposals crystallized in the projects or study processes in the ecumenical movement in the post-war period and they are still significant for the church today.
はじめに
1910年に開催されたエディンバラ世界宣教会議を嚆矢とするエキュメニカル運動は、現代 における世界のキリスト教を特徴づける最も重要な動向のひとつであると言っても過言では ない。エキュメニカル運動に関わるアジア人神学者たちは、この運動の中で、それぞれの教 会が置かれた固有の状況に応答する神学の必要性を痛切に認識し、第二次世界大戦以後のア ジアの時代状況に応答する神学形成に取り組んできた。日本においても、戦後、日本やアジ アの歴史的状況を意識した神学形成の必要性が叫ばれてきた。ところが、日本においては、
アジアの神学に関する研究はそれほど盛んに行なわれてきていないのが実情である。宗教、
思想、言語、民族などにおいて実に多様で、しかもほとんどの地域でキリスト者が少数派を 構成しているアジアの状況におけるキリスト教宣教や教会形成のあり方を模索するうえで、
それぞれの教会が置かれた地に根ざした神学を構築することが求められることは言うまでも
D.T. ナイルズの宣教思想に関する一考察
村 瀬 義 史
A Study on the Missionary Theology of D.T. Niles
Yoshifumi MURASE
活水論文集 第52集 15
ない。そして、そのような神学の構築に際しては、欧米はじめ世界の神学との対話の中でア ジア人キリスト者たちによって行なわれてきた神学的営為から学び、それらの神学が提起す る課題を検証し、さらにすでに行なわれてきた試みの内に認められる独自性を評価する作業 が不可欠ではなかろうか。
ところで、アジアのエキュメニカル運動は、1938年のタンバラム世界宣教会議を転機とし てめざましい展開を見せ、戦後の東アジア・キリスト教協議会(EACC)結成という形で結 実してゆく。この展開において重要な役割を果たし、戦後のエキュメニカル運動における最 も際立った指導者となったのが、セイロン(現在のスリランカ)出身のD.T.ナイルズ(Dan- iel Tambyrajah Niles,1908‐1970)であった。ナイルズは南インドの神学大学で神学を学んだ 後、セイロンのメソジスト教会の牧師となり、一貫して母国を働きの場としながら、アジア 独自の神学と教会の形成における開拓者の一人として、アジアのみならず世界のエキュメニ カル運動に多大な貢献を果たしているのである。
そのような貢献にもかかわらず、とりわけアジアのエキュメニカル運動の組織面において、
ナイルズが指導的役割を担ったことが数々の研究において指摘されてきたものの、そのよう な貢献の背景をなす彼の神学的思想に関しては、これまでの研究の中でほとんど言及されて こなかった。ナイルズの思想を直接扱った日本語による研究は見当たらず、三点の著作が邦 訳されているのみである1。数少ない外国語によるナイルズの研究では、たとえば、C.レイ
シーとA.J.ヴァンデルベントの論文が挙げられるであろう2。レイシーは、ナイルズの主要
著作に基づいてその神学思想を分析し、ナイルズが組織神学者というよりも実践的な福音伝 道者であったこと、そして聖書を基盤とするナイルズの神学においては、キリスト論が重要 な役割を果たしていることなどを論じている。また、ヴァンデルベントは、ナイルズのエキュ メニカル運動への貢献を概観しながら、彼の神学に対するバルトらの弁証法神学とメソジス トの教理的伝統の影響を指摘している。
いずれも重要な指摘を含む研究であるが、両者においては、ナイルズの神学の歴史的な、
そして宣教論的な意義に関する考察が不十分であるように筆者には思われる。ナイルズが活 躍した戦後の四半世紀には、世界教会協議会(WCC)や東アジア・キリスト教協議会(EACC)
の創立など、エキュメニカル運動が具体的な形をとりはじめ、エキュメニカルな宣教論にお いても根本的な転換が見られた。たとえば、1950年代には「神の宣教」(ミッシオ・デイ)
という神学的概念が展開され、「西洋から東洋へ」といった近代的な宣教思考から「世界宣 教」の宣教思考へと転換したのである。そして、本稿で明らかにされるように、このような 歴史的展開に対して、ナイルズがひとりのアジア人キリスト者としてきわめて重要な貢献を 果たしているのであり、彼の世界のキリスト教界への神学的貢献は、特に宣教論において際 立っていると思われるのである。
そこで、本稿においては、ナイルズの著作の中でも特に彼の宣教思想が展開されている二 村 瀬 義 史
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つの著作、すなわち『彼らが命を得るために』(That They May Have Life,1951)と『大地の 上に』(Upon the Earth,1962)を主な資料として、ナイルズの宣教思想の特徴を明らかにし つつ、エキュメニカル運動に対する彼の神学的貢献の意義について歴史的な一考察を試みた い。まず、ナイルズのエキュメニカル運動との関わりについて歴史的に素描し、その後、エ キュメニカルな宣教論に対するナイルズの貢献に関して、「神の宣教」(ミッシオ・デイ)の 宣教論、土着的教会論、さらに他宗教の人々との関わりにおける宣教論という、互いに関連 する三つの論点をめぐって論じる。最後に、ナイルズの貢献の意義について言及して結びと したい。
1.ナイルズとエキュメニカル運動
ダニエル・タムビラジャ・ナイルズは、1908年にセイロン北部のジャフナ州テリパライで3、 タミル系の家庭に生まれた4。祖父はメソジスト教会の牧師であり、曾祖父は1812年にタミ ル人として初めてヒンドゥー教からキリスト教会衆派に改宗し、後に牧師また詩人として活 動した人物であった5。ジャフナの学校で学んだナイルズは、1929年から1933年に南インド・
バンガロールの合同神学大学で神学を学ぶが、在学中に学生キリスト者運動(SCM)に関 わり6、エキュメニカル運動に関心を抱くようになった。
神学大学を卒業後、ナイルズはSCMのセイロン担当幹事となり、この働きの中で、世界 学生キリスト者連盟(WSCF)やキリスト教青年会(YMCA)の国際会議に参与し、J.R.モッ ト、J.H.オールダム、W.A.ヴィッサートーフト、W.ペイトンをはじめとする草創期のエキュ メニカル運動の指導者たち、また指導的神学者であったK.バルトやE.ブルンナーらと個人 的接触をもつことになる。とりわけ、後に世界教会協議会(WCC)の初代総幹事となるW.
A.ヴィッサートーフトとの出会いが、エキュメニカル運動に参与する重大な転機になった、
とナイルズは後に述懐している7。
SCMにおける数年の活動の後、ナイルズは、1936年にセイロン・メソジスト教会の按手 礼を受けてセイロン北部ポイント・ペドロ地区の巡回説教者に着任し、在任中の1938年に、
南インド・タンバラムで開催された国際宣教協議会(IMC)の第三回世界宣教会議に、最も 若い代議員として参加している。この会議は、エキュメニカルな世界会議として初めてアジ アで開催され、アジアをはじめとする「若い教会」8の代議員が全参加者のほぼ半数を占め た点で画期的な会議であったが、ナイルズは、この会議に準備段階から参与することを通し て、世界のエキュメニカル運動への参与を開始することになるのである。
ところで、ナイルズが自らの神学的基礎を築いた1920年から1930年代は、南アジアの歴史 的状況が、キリスト教の宣教活動に深刻な影響を及ぼすとともに、教会内では外国人宣教師 と現地のキリスト者との間に教会形成の主導権をめぐる問題が広く生じていた時期であった。
セイロンでは、19世紀末よりアナガーリカ・ダルマパーラらが出家者中心から在家者中心の D.T.ナイルズの宣教思想に関する一考察 17
仏教を提唱してシンハラ人の民族意識を高め、英国植民地政府への抵抗とキリスト教への対 抗意識をはらむナショナリズム的仏教が展開されていた。そして、20世紀に入ると、この仏 教復興運動は、反キリスト教的要素を強めながら労働運動や政治運動へと拡がっていき、と りわけ、ナイルズが青年期を過ごした時期に重なる1919年のセイロン国民会議の創設以降 1930年代にかけては、反キリスト教的運動がかつてないほどに激化したのであった9。
このような厳しい情勢の反映とも言えるが、セイロンではとりわけ北部において、宣教活 動の教派を超えた協力と現地のキリスト者を主体とする活動が、比較的早い時期から顕著で あった10。このことはセイロンのみならず、ナイルズが神学を学びつつ多様なキリスト教的 運動の影響を受けた場である南インドにおいても言えることであった11。セイロンでは仏教 が、インドではヒンドゥー教が圧倒的多数を占めていたが、まさにこのような状況の中で、
福音を伝達するためのキリスト者たちの協力と一致が進められていたのである。また、20世 紀の初頭におけるセイロンと南インドのキリスト教史において重要であったのは、諸外国の 宣教協会間の協力と並行しながらも、この形態の協力を凌ぐ形で、現地のキリスト者たちの リーダーシップによる教会合同運動が始まりつつあったことである。さらに1930年代は、エ ルサレムで開催されたIMC第二回世界宣教会議(1928年)の影響のもと、各地の教会が、
アジアにおける多様な政治的・社会的変動の中、宣教事業に関するさまざまな神学的・宣教 的な試みを重ねた時期であり12、特に欧米のエキュメニカル運動において、バルト神学の影 響が鮮明に見出されるようになった時期である。このような時期に、ナイルズは後の働きの ための基礎を築いたのであった。
さて、タンバラム会議において世界のエキュメニカル運動の舞台に登場したナイルズで あったが、その後、スイスの世界キリスト教青年会(World’s YMCA)福音宣教部担当幹事 を経て、1941年には再びセイロンに戻ってセイロン・キリスト教協議会(National Christian Council:NCC)の常勤総主事に就任し、セイロンの諸教会の一致と協働のために指導的役 割を担っている。この間、彼は、教会合同に関する研究と交渉、ローマ・カトリック教会の 代表を含めたセイロン国内のエキュメニカルな神学協議会の開催、また他宗教との対話に取 り組んでいる13。第二次世界大戦終結後はNCC総幹事を辞し、地元セイロンでのメソジス ト教会の職務を負いつつ、世界とアジア地域の双方におけるエキュメニカル運動の前進に貢 献する。
ナイルズは、1947年に「若い教会」側からの初めての信仰職制委員会常任委員に選出され14、 セイロン独立の年である1948年に、オランダのアムステルダムで開催された世界教会協議会
(World Council of Churches:WCC)の創立総会における開会礼拝で説教を担当している。
また、創立したばかりのWCCでは、青年部議長(1948〜1952年)と福音宣教部担当幹事(1953
〜1959年)を歴任し、1953年から1960年にかけてはアジア人としては初めてのWSCF議長 として活躍した。1968年にスウェーデンのウプサラで開催されたWCC第四回総会では、開
村 瀬 義 史 18
会礼拝の説教予定者であったM.L.キング牧師の暗殺に伴い、急遽、説教者として挙げられ、
この総会では6人のWCC議長団のひとりに選出されているのである。
一方、アジアにおいてはWCCの創立からおよそ10年後の1957年に、アジアの諸教会およ び宣教団体の協力機構として東アジア・キリスト教協議会(East Asia Christian Conference:
EACC)が設立されており15、ナイルズはその初代総幹事に選出されている。彼は、タンバ
ラム会議以後に展開されたEACC設立準備から総幹事在職期間(1957〜1968年)を通じて、
第二次世界大戦後の新しい歴史を歩み始めたアジアのキリスト教の形成に指導的役割を果た してゆくのである。
以上のように、世界とアジア地域のエキュメニカル運動においていくつもの重責を負って いたにもかかわらず、エキュメニカル運動における地域の各個教会の存在をきわめて大切に 考えていたナイルズは16、セイロンのメソジスト教会牧師・巡回説教者としての役割を手放 すことはしなかった。1946年以降、一貫してセイロンのポイント・ペドロやコロンボのマラ ダナ地区の牧師としての役割を担いつつ、コロンボYMCA聖書研究所所長(1949〜1952年)
およびジャフナ中央大学の学長(1953〜1961年)を務めている。さらにセイロン・メソジス ト教会北部総会の議長(1954〜1964年)、セイロン・メソジスト教会議長(1968〜1970年)
を歴任し、この立場から、セイロンで問題となっていたタミル人とシンハラ人の関係修繕の ためにも尽くしているのである17。
1970年7月にインドの病院で逝去した時、ナイルズは、セイロン・メソジスト教会議長、
EACC議長、そしてWCC議長という役職にあった。これら三つの役職に象徴的に表現され ているように、彼のエキュメニカル運動への参与は、セイロン(自国)、アジア(地域)、そ して世界という三つの次元におけるものであった。彼のエキュメニカル運動への貢献は、決 して部分的なものではなくトータルなものであり、20世紀初頭から中庸にかけてのエキュメ ニカル運動の発展を見事に反映するものであったと言えよう。
ナイルズがエキュメニカル運動に貢献した戦後の約25年間には、1910年のエディンバラ世 界宣教会議を嚆矢とする現代エキュメニカル運動史上、きわめて重要な出来事が相次いだ。
たとえば、第二次世界大戦とWCCの創立(1948年)、EACCの創立(1957年)、そしてWCC 第三回総会(1961年)におけるWCCとIMCの統合などが挙げられるであろう。WCCが、
欧米の諸教会と非欧米圏の諸教会の対等な関係を謳いながらも実質的には多くの困難を抱 え18、さらに1960年代には、第三世界の多くの教会が南北問題を背景とする国内の開発問題 や貧困問題、そして急激な社会変動に直面する中、エキュメニカル運動においてキリスト者 の政治的・社会的使命に関する神学的理解をめぐって緊張関係が生じ始めている19。そうし た時期に、彼はアジアの教会の指導者として、エキュメニカル運動の発展に貢献したのであ る。
D.T.ナイルズの宣教思想に関する一考察 19
2.「神の宣教」(ミッシオ・デイ)とナイルズの宣教論
エキュメニカルな宣教論の変遷において、宣教のパラダイム転換とも呼べる出来事が1950 年代から60年代にかけて生じている。その基盤をなす画期的な宣教神学的理念が「神の宣教」
(ミッシオ・デイ:missio Dei)の理念であった20。伝統的な宣教理解の構図に従えば、神は、
教会を媒介としてのみ世界に働きかけるという理解であり、しかも、G.ヴァルネックが言う ようにこの場合の「世界」とは、欧米キリスト教世界以外の世界のことであり、したがって 宣教とはその異邦世界における「教会植え込み」(plantatio ecclesiae)にほかならない。その 理解のもとでは、宣教が教会の、あるいは特定の教派の拡張運動と見られたり、東洋および 第三世界の人々に西欧キリスト教の祝福と特権を紹介するといった、文化的な観点から受け 止められたりすることもあった21。しかしながら、伝統的な宣教理解に対して、ヨハネによ る福音書3章16節やコリントの信徒への手紙!5章19節などの聖句を手がかりとしつつ、神 の愛と和解の働きかけは、まず直接に世界に向けられているのであり、この神の働きに参与 することが教会の宣教に他ならないというのが、「神の宣教」のパースペクティブである。
宣教理念としての「神の宣教」が、明確な形でエキュメニカル運動に登場したのは、1952 年にドイツのヴィリンゲンで開催されたIMC第五回世界宣教会議においてであった。ヴィ リンゲン会議の声明文は、宣教が、父・子・聖霊なる三位一体の神ご自身の働きであること を宣言して、宣教を三一論的に基礎づけている22。このパースペクティブのもとでは、宣教 の第一義的な主体は神であり、この世に向けられている神の宣教の働きの内に、教会が位置 するものとされるのである。D.ボッシュによれば、「神の宣教」論は、エキュメニカル運動 にかかわるプロテスタント主流派のみならず、ほとんどすべての教会において受け入れられ、
それ以前の数世紀にわたる宣教活動のあり方に対して、新しいあり方を模索するための神学 的パラダイムとなった23。ヴィリンゲン会議以後、神の宣教、つまり世界に対する神の働き かけの内容理解をめぐってさまざまな議論が展開されていくことになるが24、現在において も、「神の宣教」は、教会や宣教のあり方に関する思考の基本的指針になっているのである25。
ところで、D.T.ナイルズの宣教論においても、「神の宣教」理念が重要な神学的枠組みと なっているが、彼はヴィリンゲン会議以前に、すでに独自な仕方でこのパースペクティブを エキュメニカル運動に導入していた。
「神の宣教」理念の歴史的起源に関して、D.ボッシュはドイツの神学的運動にその源流を 求め、K.バルトが、「1932年に発表された論文において、宣教が神ご自身の活動であること を、神学者として初めて明確に語った」としており、K.ハルテンシュタインも同じ確信を表 明して、ミッシオ・デイという用語を最初に用いたことを指摘している26。さらに、1938年 のタンバラム会議におけるドイツの代議員たちによる特別声明にも、この点をめぐるバルト の影響がうかがえると言う27。
しかしながら、まさにこのタンバラム会議において、ナイルズが、バルトの影響を受けつ 村 瀬 義 史
20
つもドイツの神学者たちとは異なる観点から「神の宣教」の伏線となる神学的理念を導入し ていたということは、看過されてはならないであろう。ナイルズは、タンバラム会議に向け ての国際的な共同研究に加わっているが28、会議中も、世界に対するキリスト者の姿勢につ いて述べた講演を行なっている。その中で、彼は、使徒言行録のペトロの説教を分析しなが ら、神の支配が「必要とされているのではなく、神がすでに支配している」という事実に立 つ宣教のあり方が求められていることを述べている29。そして、「この方によってわれわれは 生き、この方と共にわれわれは働く」のであり、「イエスの『父は今もなお働いておられる。
だから、わたしも働くのだ(ヨハネ5:17)』という言葉は、われわれにとっての指針でも あるのだ」と30、先行する神の働きに促されるキリスト教宣教のあり方を示唆しているので ある。
講演の終盤におけるナイルズの次の言葉は、より鮮明に、戦後のエキュメニカルな宣教論 の新機軸となった「神の宣教」理念の基礎的表現をとっていると言えよう。
「神に代わってわれわれが人々に訴えかける以前に、神はすでに人々に働きかけており、
彼らのために死んでいる。われわれが地上に神の御心を実現しようと模索している間にも、
神の霊はすでに現臨しており、神の世界の中でご自分の教会を通して働きつつあるのであ る」31。
タンバラム会議でおこなわれた講演の中で、ナイルズの講演ほど、教会の宣教活動の源泉 としての神自身の働きを明確な形で語っているものは見当たらない32。そして、この会議の 声明文が、「福音宣教とは、単にキリスト者たちによる熱心さによってなされるものではな く、むしろ神のイニシャティブの結果であることが、明確になりつつ」あり33、その目的は、
「弱々しい人間の行動に先立って、また、それらを通して聖霊ご自身が働かれることなしに は、決して達成することはできない。本質的に、福音宣教とは、活ける神が、聖霊によって 人々の魂に力強い影響を与えるための手段なのである」34、と力強く宣言している点に、ナ イルズの貢献を伺うことができるのである。
ナイルズの著作からは、彼が、タンバラム会議後も一貫して、この世において先行する神 の働きを基盤にすえて宣教論を展開していることを知ることができる。1951年の著作『彼ら が命を得るために』は、ナイルズが始めて自覚的に「宣教の神学」(missionary theology)の 叙述に取り組んだものとして重要である35。
本書において、宣教論の叙述にあたって重要な役割を果たすのが「福音宣教(エヴァンジェ リズム)」(evangelism)という用語である36。新約聖書における「福音」の原語を意識したこ の概念は、とくに1930年代において、アジアの教会主体の多様な宣教活動の試みと苦闘の中 で探求されてきたものである37。欧米による海外宣教活動ないしその団体を指す語であった D.T.ナイルズの宣教思想に関する一考察 21
ミッション(mission)という語に対する批判的姿勢も含みつつ、「福音宣教」という用語が、
アジア人キリスト者たち自身による、宣教に関する議論の活性化に寄与したことは明らかで あろう。
ナイルズによれば、聖書が告げる福音、すなわちイエス・キリストにおける神の救いの業 は、人間の認証のあるなしにかかわらず生起したものである。「神は、イエスを主とし、ま たキリストとされたのです」(使徒言行録2:36)という宣言は、教えられ説明されるもの ではなく、人間の意見や選択に左右されることのない厳然とした真理の宣言なのである38。 また、イエスが復活された世界に生きるということは、すなわち、イエスが同時代的に働い ている世界に生きるということである39。聖書が語る神は、今まさにイエス・キリストにお いて、この世界で働いている神なのである40。
キリストにおいて神が先立って働いているという確信は、ナイルズの宣教論の出発点に なっている。「福音宣教とは、神の救いの活動」であり、それは、第一に「われわれがなす 何事かではなく、神がなす事柄」なのである41。さらに、ナイルズは、「われわれ福音宣教者 の置かれている場は、イエス・キリストがすでに働いている場であり、われわれの働きとは、
そこで彼に仕えることなのである」と述べ、キリストに従うことと宣教活動との不可分のつ ながりを示唆している42。われわれが福音宣教というとき、ともすれば、われわれがイエス において見出した何事かを他者に共有することであると考えられがちであるが、ナイルズに よれば、それは福音に対する不完全な見方である。個人的な「福音の体験」ではなく、福音 そのもののうちに、福音を告げ、他者に奉仕させる力の源泉があるのである。なぜなら、す べての人にかかわっている出来事が福音だからである43。福音は人類すべてに向けられてい るのであり、われわれはその福音の広がりに参与するのである。義務からではなく、神が他 者を愛しているからこそ、キリスト者は他者を愛するのであって、その事実こそがキリスト 者を福音宣教者とするのである44。ナイルズにとって、福音宣教とは一部のキリスト者の業 ではなく、全てのキリスト者が、神との出会いの中でおのずから促される生き方そのものな のである。
ナイルズにおいては、聖霊に関する教理も宣教論のもとで展開される。教会は神の招きの 結実であり、キリストのいやしと救いの過程が進行している交わりであり、またこの世界に おける神の力の遂行者である聖霊が宿る場である45。そして、聖霊が教会をこの世界と向か わせるのである46。「教会は神に代わって働いているのではなく、先行する神の働きを具体的 な形で表現するのである」47。したがって、あらゆる宣教活動は神の御業の完成という終末 論的な光のもとに置かれることになる。ナイルズによれば、福音を宣べ伝えるということは、
歴史的状況に向き合いながら、時を見極め、神が働いておられる所に従うことであり、キリ ストの来られる時に備えることである。宣教は、その起源と終わりとを神の内にもつのであ る48。
村 瀬 義 史 22
以上のように、ナイルズが三位一体論的な宣教論を、ヴィリンゲン会議に先立つ1951年の 著作においてすでに明確に主張しているということは注目に値する。しかも、アジアにおい て少数派として存在する「若い」教会の立場から提示されているのである。
G.F.フィツェドムなどの著作によってエキュメニカル運動に広く知られるようになった
「ミッシオ・デイ」という用語を伴う「神の宣教」の理念は、ドイツを中心とする欧米の教 会、つまり宣教師を派遣し、海外へ宣教を行なっていた教会側の、宣教活動に関する批判的 検証の中から獲得されてきたものである。その趣旨は、宣教を、教会中心的ではなく神中心 的にとらえることを強調するものであった。そこには、「ミッシオ・デイ」という教義学的 用語の導入によって、教会および宣教事業の世俗化を牽制する意図もあったのであろう。一 方では、制度的教会への鋭い批判のモチーフも見られた。この傾向は1960年代のエキュメニ カル運動に広く現れることになるが、例えば、後に「神の宣教」を神学的に展開した一人の
J.C.ホーケンダイクは、ヴィリンゲン会議直前の論文の中で、1938年のタンバラム世界宣教
会議で強調された、教会を中心とする宣教(church-centered mission)に対する批判を込めて、
神を主体とする神の国を中心とする宣教(kingdom-centered mission)を提唱している。彼は、
従来の海外宣教運動に見られる、教会を宣教の出発点とし、教会に人々を招き入れるといっ た教会の数量的・地理的拡大を目的とする宣教観を鋭く批判し、「教会を越えて世界に向け られている」神の救いの業に参与するところにのみ、教会は位置をもつことを強調している のである49。
しかし、ナイルズは、従来の宣教観への批判を共有しつつも、「神ご自身の宣教」のもと に、世界とそこに遣わされている教会を中心とする宣教論を展開するのである。そして「神 の宣教」が世界に触れる接点として歴史の中に置かれている各個教会の多様な宣教活動や教 会一致の課題を考察してゆくのである。
『彼らが命を得るために』に見られる「神の宣教」の理念は、欧米の文脈から提示された
「ミッシオ・デイ」の思想的系譜とは別に、非キリスト教世界に置かれたアジアの諸教会に おいて潜在的に存在していたものではないだろうか。彼の宣教理解の基本的枠組みは、1950 年代のエキュメニカルな議論と経験を通して練り上げた彼の宣教論をまとめた『大地の上 で』においても貫かれ、さらに展開されている50。宣教を、教会やキリスト者が為す諸活動 として教会論の下に置くのではなく、第一義的には、神ご自身による世界に向けられた救い の働きそのものを宣教と捉え、先行する神の働きのもとにあるこの世界を考察し、またこの 世界に実在させられている教会の使命について考察してゆくこと51。これがナイルズの神学 の方法であった。
本節においては、エキュメニカル運動において、ナイルズが「神の宣教」理念を先駆的に 提示しており、さらにナイルズの議論が、「非キリスト教的な宣教地」において福音宣教の 最前線に置かれた「若い教会」の現実を反映する独自のものであったことを指摘した。全世 D.T.ナイルズの宣教思想に関する一考察 23
界が「宣教地」であり、欧米圏の教会も、非欧米圏の教会と同じく福音宣教の最前線に置か れていることが現実としてようやく認識されつつあった時期において、ナイルズの宣教論は、
「宣教地の教会」からの貴重な貢献と言えるものであった。
3.土着的教会論への貢献
「神の宣教」を出発点とするナイルズの宣教論において、教会はどのように位置づけられ、
教会が担う宣教活動はどのようなものとして理解されているのであろうか。ナイルズが「福 音」と呼ぶこの世に向けられた神の働きを、どのような拡がりで理解していたかをふまえな がら、ナイルズの教会論を見てゆきたい。
ナイルズは、「聖書の主題は、現在において働いている神である」として、世界における 神の働きについて、とりわけ創世記とヨハネ黙示録の句節を取り上げながら三つの次元にお いて描写している。その三つとは、全体としての全被造物という次元、人々の共同生活とい う次元、そして、個人の生活という次元である。ナイルズは、この三つの次元を包摂してトー タルに展開されている神の業こそが福音の運動であり、われわれはこれに参与するよう招か れているのであり、部分的な働きをわれわれが担うとしても、神の活動の全体性の中で位置 づけられていなければならないと言う52。彼は、イエス・キリストによる神の救いの業を「全 体性の回復」(the recovery of wholeness)として解釈し、これに対応して、福音宣教の課題を
「失われたものを神の秩序に即した位置に戻すということ」と捉えている53。キリストの働 きは、人間の肉体的欲求と精神的欲求、個人の内面と社会生活などを分断することなく、人 間の生のあらゆる側面に向けられている54。キリストは人間の生を全体としてとらえ、これ を救われた。しかし、究極的にもたらされるのは、単に人の救いでなく「新しい天と地」(ヨ ハネの黙示録21:1)であり、「キリスト教の関心は魂にあるのではなく、世界にある」と いうのである55。
ナイルズにおいては、人々に福音を語ることが最たる宣教的行為とされており、イエスの もとに人を招くことが中心に据えられている56。しかし、「福音宣教者は、単に福音を語るも のではなく、その福音がダイナミックな形をとるための器になるのである」57、「福音を宣言 すると言っても、福音は、聞くものにふさわしい形で表現されなければならないし、単に、
福音を言葉で語るだけでは意味のある伝達にはならない」58と述べられているとおり、ナイ ルズにおいて、福音宣教の働きは幅広く理解されている。すなわち、福音宣教とは、個人へ の直接的な福音告知のみならず、福音によって全世界にもたらされた調和や全体性を有効な ものする学校、病院、農村センター、職業訓練所などの諸活動59、あるいは世界で周縁に置 かれた人々への配慮なども含む包括的なものと理解されているのである60。
このような福音宣教の働きにおいて、教会は、世界に対する、また世界における「神の宣 教」の器として積極的な位置づけをもつ。教会は、「神の宣教」の見える結果として形成さ
村 瀬 義 史 24
れ、この世に遣わされているのであり、教会の行なうあらゆる活動は世界に向けられた神の 業のもとにある時に、初めて意義をもつものである61。キリスト者は神の行為が向けられて いるところの世界の一員である。しかし、また同時にキリスト者の群れとしての教会は、「福 音を伝える器であり福音そのもののひとつの具現」と見なされているのである62。
教会は「神の民」となり、自らが宣べ伝えているものの現実的表現とならねばらない63。 このことのゆえに、ナイルズにとっては「教会の一致」が宣教課題として把握されることに なる。無数の教派に分断されている教会の一致は、宣教事業の効率化のための戦略ではなく、
神がキリストを通して世界に与えた全体性と調和の証しとなるのである64。それと同時に、
ナイルズにおいては、それぞれの歴史的状況の中に置かれている各個教会が真の意味で教会 になる、ということがきわめて重大な宣教的課題として受け止められているのである65。こ の観点から、ナイルズが特に強調したのが、教会の主体性と土着化の課題である。
D.ボッシュは、『宣教のパラダイム転換』(1991年)の中で、啓蒙主義時代において、西洋
の植民地政策、文化的優越感、「領土拡大政策」が西洋の海外宣教活動に及ぼしてきた決定 的な影響を語っている。彼によると、西洋による大規模な植民地拡大が始まる時期まで、西 洋のキリスト者は自らの神学が文化的に条件付けられている事実に気付かず、その神学は文 化を超え、普遍的に有効であると考えられていた。また、西洋文化がキリスト教的であり、
キリスト教信仰と共に輸出されるべきことも、旧来の宣教活動において自明のこととされて いた。そのような活動において、宣教地の人々の改宗を促進するための戦略として、「土着 化」という方法がとられた。これは、主に、現地の人々ではなく宣教師たちによって進めら れたものであった66。20世紀初頭に至るまで、宣教地における教会形成という宣教課題は、
かつては欧米から派遣された外国人宣教師たちの任務であり、現地のキリスト者はそれに協 力するものとされていた。1928年のエルサレム世界宣教会議でこの問題が一つの焦点となり、
教会形成において、現地のキリスト者が指導的な役割を持つべきことが認識されるように なったが、戦中から戦後にかけても、多くの宣教地において、教会の外来性や宣教協会の支 配的干渉が宣教活動における障害でありつづけていた。
『彼らが命を得るために』に見られるナイルズの強い主張は、この事実を反映している。
彼は、しばしば欧米の宣教協会の干渉が、アジアの諸教会の主体性を損なわせていること、
そして、外国人宣教師が、彼らの国のキリスト教文化と福音とを混同していることについて 不満を示しつつ、このよう主張している。
「福音は種であり、それがある国の暮らしの土壌に撒かれると一つの植物となる。それが キリスト教である。それは、種とその土壌の特徴を兼ね備えたものになる。福音は一つだが 多くのキリスト教が存在するのである。人々は自らのキリスト教信仰を多様な文化において それぞれ表現するからである。宣教師が、鉢に入った植物を、つまり彼らの文化において表 D.T.ナイルズの宣教思想に関する一考察 25
現されたキリスト教を持ち込むのは止むを得ないことである。しかし、その鉢を割って、そ の国の土壌に根づかせることが決定的に重要なのである」67。
ナイルズは、タンバラム会議において、宣教師は「キリスト教を輸入するのではなく、福 音を語るべきこと」、また、キリスト教が「生活の状況において表現されるべきものである こと」を強く訴えていたが68、教会の土着化に関するナイルズの際立った貢献は1959年にク アラルンプールで開催された第二回EACC総会における「教会の主体性」(The Selfhood of a
Church)と題する講演に見ることができる69。
戦前の欧米による海外宣教活動においては、H.ヴェンやR.アンダーソンの影響のもと、「自 給、自治、自らによる宣教」という資質を備えた教会を築くことこそが宣教の目的とされて いた時代があった70。しかしナイルズは、その考えのもとで管理された教会の主体性が育た なかったことを指摘して、「何十年にもわたって、宣教協会によって設置された教会のほと んどは対象化されたモノであった。すなわち、それらの教会が自分たちについて語っても、
第三人称で語りかけられていた。宣教地の地図上の点に過ぎなかったのだ」と言うのである71。 しかし、「今こそ、『若い』教会が『海外宣教活動』の一部分ではなく、もはや教会になっ ている、ということの全ての結果を見出すべき時である」と、ナイルズは訴える72。1948年 のWCCの設立によって、初めて、公式に欧米の諸教会と宣教活動によって生み出された諸 教会との、教会どうしとしての交わりが始まっている。しかし、WCCなどの機構さえあれ ば、それで十分な対話関係が保証される、ということにはならない。ナイルズによれば、今、
それぞれの教会に求められるのは「自らの言葉」を語ることである73。教会が「自らの言葉 を語る」とは、ここでは、神との呼応関係における応答を意味している。つまり、各個教会 がその置かれたその具体的な歴史的状況の中で、直接的な神との関わりの中で、自らの神信 仰を告白する共同体であることにおいて自己を発見し、また他の教会に発信することのでき る主体的な存在となるべきことが緊急の課題である、と彼は呼びかけているのである。
ナイルズは『彼らが命を得るために』(1951年)において、すでに、この点に関する問題 意識を、「教会の礎となった岩とは、ペトロの信仰告白(Peter’s Confession)ではなく、信仰 を告白しているペトロ(confessing Peter)なのである」という言い方で表明していた74。こ うした主張の背景のひとつには、ドイツ教会闘争における告白教会の影響も考えられる。彼 によれば、教会にとってより重要なのは、与えられた信条や伝統のうちに自分たちを枠づけ ることよりも、自分たちが自らの言葉や行いにおいて信仰を告白している存在となることな のである。
ナイルズは、信仰を告白するという行為をキリスト者の全生活の基礎に据えるべく、次の 三つの側面に注目して自己検証すべきことを促している。第一に、礼拝のあり方に関する検 証である。教会は、礼拝をささげることを通して神に語りかけ、また神の語りかけを受ける
村 瀬 義 史 26
集いである。礼拝が信仰を告白する第一の場であることは論を待たないであろう。ナイルズ は、礼拝に関して、音楽、美術、建築、典礼などあらゆる礼拝の要素において、その教会の 人々にとって最も自然な様式でささげられるべきこと、すなわちその共同体に連なる人々の 共同生活と文化において固有な文化的素材や様式を用いて神に語りかけ、また神からの語り かけを受ける礼拝生活の検討を提案している75。また、この関連では、「礼拝は宣教的でなけ ればならない」76と礼拝を宣教と一致させ、礼拝を「神の宣教」のもとで外向的に位置づけ ている点にも、ナイルズ独自の着想が見られるであろう。
第二に検証されるべき点は、地域との関わりである。教会の自己発見に欠かすことができ ないのは、その教会が置かれている場所や地域を意識することである。つまり、教会は人を 改宗させて教会に招き入れるという宣教姿勢から抜け出し、その置かれた地域や国のために 存在するあり方を探求すべきなのである77。この点で課題となるのは、福音をそれぞれの特 定の歴史的状況の中でどのように表現するか、ということである。
そして、第三の点は、日常生活における証しである。教会は礼拝・集会時のみ教会である のではなく、各自の暮らしに戻っている間も教会は存在しているのであるから、教会のメン バーがそれぞれに神との対面の中で、「神の民」として世俗の日常生活を送ることにおいて 福音を証することが求められる。「教会の最も重要な礼拝とは、普段の日常生活における神 の民としての働き」なのである78。日常生活においてこそ、世界のために存在していると同 時にその一部にもなっている教会の姿が表現されるからである。
ナイルズが訴えているのは、アジアの教会の主体性確立の必要性とそれに伴う欧米諸国の 教会との教会としての関係構築の必要性であって、決して海外宣教を通して受け取ってきた ものへの反発や否定ではない。教会がそれぞれの場で真に教会になるためには、全体として の神の民(the people of God as a whole)という観点から、各個教会を正しく位置づけなけれ ばならないし79、アジアの諸教会は自分たちの内にすでにある伝統や歴史を研究しまた評価 し、さらにあらゆる時代と場所におけるキリスト教の歴史と伝統の広がりを、自分たちの置 かれた状況から見なければならないのである。ナイルズは、欧米のキリスト教史において生 み出された教派的伝統がもつ意義を十分に評価し、ナイルズ自身、メソジストの伝統をきわ めて大切に受け止めて意識していた80。しかし彼は、信仰告白が本来もつ状況的性格を指摘 しつつ、各個教会の信仰告白の強調点が、その教会が置かれた歴史的現実に関わる中から産 み出されるべきであり、「真の土着化」とはすなわちイエス・キリストを真に告白すること であると主張するのである81。
ナイルズにとって、「土着」とは、教会がそれぞれの地の文化に埋没することを意味して はいない。福音に根ざす教会は、地域性をもつものでありながら同時に普遍性をもつという 点で文化を越える性格を本質的にもっていると言う82。彼においては、教会がこの世に属す るものであると同時に、福音宣教の担い手としてこの世界に向かい合う、教会という存在の D.T.ナイルズの宣教思想に関する一考察 27
弁証法的な性格が保持されているのである。
「教会の主体性」と題する講演(1959年)においてナイルズによって示唆された課題は、
EACCにおいてプログラム化され、1960年代にわたって調査や共同研究が実施されることに なる。ウェーバーによれば、ナイルズの講演をもとに導入されたこのプログラムにおいて、
すべてのキリスト教の歴史と伝統における自分たちの位置と課題を見出すための、アジアの 諸教会の自己発見のプロセスが開始されたのである83。なお、ナイルズは、自らアジア初の 讃美歌集『EACC Hymnal』の編集責任者として、本書後半のアジアで生まれた讃美歌100の うち44曲の歌詞を提供し84、きわめて具体的な貢献を果たしている。
EACCにおける礼拝をめぐる取り組みの経験は、初めてアジアの諸教会が準備段階に参画 した1963年のモントリオール信仰職制世界会議において「礼拝の土着化」という主題で反映 され85、さらにはWCC総会第四回総会(1968年)において神学的議論のひとつの焦点に上 ることになる。これはアジアの教会独自の、世界の教会に対する宣教論的な貢献であったと 言えるのではないだろうか。長い歴史を通して、「受け取る教会」であったアジアの諸教会 が、自らの独自のものを産み出すものとなったのである。神との関係において「自らの言葉」
を語るときに、他の教会との主体的な関係が拓かれてゆくことがこのような展開に実際に見 受けられるのである。この観点からすれば、1946年に、ナイルズが『今、永遠の命を』をタ ミル語で著し、セイロンという土壌では馴染み深い仏教的概念を多用しながらキリスト教の 使信を叙述したのも、きわめて宣教神学的な試みであったと言えるであろう86。
以上、本節においては、ナイルズの福音理解を概観し、彼の宣教理解のもとに教会の存在 とその課題がどのように把握されているのかを述べてきた。そこに見られる「福音―地域―
教会」という三者の構造は、1967年に発表されたWCC宣教研究部の共同研究「教会の宣教 的構造」の報告書における87、神と教会と世界という三者の構造と軌を一にするものとなっ ている。この議論を、ナイルズは10年近く先取りして、とりわけアジアの諸教会において具 体的に展開しようとしたのである。ナイルズの議論において特に注目されるのは、宣教にお いて各個教会の存在がきわめて重要であり、教会形成が、信仰の告白という行為と結び付け られて宣教課題そのものとして論じられていることであろう。彼においては、教会が、神の 民として土着している教会であるということがきわめて重要な宣教課題であり、それゆえに、
彼は礼拝と教会・信徒の生活の検討を呼びかけたのである。ここでナイルズが展開している 土着的教会論は、教会や福音の「土着化」に関する議論から1970年代に展開を見せた福音と 文化に関する文脈化(コンテクチュアリゼーション)の議論を先取りしているものであり、
この点にもナイルズの優れた洞察を見ることができるのである。
4.宗教間対話への貢献
教会の土着という宣教的課題に関連して、ナイルズの宣教思想において重要な位置を占め 村 瀬 義 史
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ているのは、非キリスト教徒への福音宣教の課題である。彼にとって、福音宣教の働きかけ の相手とは他ならぬセイロンのヒンドゥー教徒や仏教徒であり、この課題は、圧倒的多数の 他宗教の信徒に囲まれ続けているアジアの教会にとっては避けることのできないものである。
WCCにおいても、創立当初から、他の宗教的伝統に属する人々への福音宣教という課題 がきわめて重要な宣教課題の一つでありつづけているが、他宗教とキリスト教の関係をめぐ る問題が、エキュメニカル運動において初めて神学的に検討されたのは、1938年のタンバラ ム世界宣教会議においてであった。この会議で最も重要な貢献を果たしたのは、会議の討議 資料として『非キリスト教的世界におけるキリスト教の使信』を著したH.クレーマーであ る。彼は、バルト神学の影響のもとでキリストにおける啓示の独自性を強調し、キリストに おける神の啓示と他の諸宗教の要素とのいかなる混合、合同、調和も宗教的混乱の産物に過 ぎないという立場を示している88。そして、この立場に応答する形で白熱した議論が展開さ れたのである。
タンバラム会議におけるこの問題を取り扱った分科会において、H.ヴァンドゥーセンと共 に幹事を務めていたのは、最も若い代議員として出席していた当時30歳のナイルズであった。
仏教徒が圧倒的多数を占めるセイロンを働きの拠点としていたナイルズにとって、他宗教に 生きる人々との接触は日常的な経験であり、彼が当初から、他宗教とキリスト教との関わり に深い関心を寄せていたことは、1934年に彼が最初に発表した論文においてこの問題が取り 上げられていることからも伺い知ることができる89。彼は、タンバラム会議においてクレー マーと出会い、その影響を受けつつ、この議論の発展にアジア人として寄与してゆくことに なる。
C.F.ハレンクロイツによれば、ナイルズは、1954年にエヴァンストンで開催されたWCC
第二回総会において、諸信仰に生きる人々に対する宣教課題を主題とする分科会の幹事とし て役割を果たし、WCCがタンバラム会議以降の議論の枠組みを乗り越える新しい議論の枠 組みを導入するうえで大きな貢献を果たしている90。1955年に開始されるWCCの共同研究
「神の言葉と人々の生きた諸信仰」を推進する部門の担当幹事としてナイルズが抜擢された のは、決して偶然ではなかった。
それでは、他宗教の信者との関係をめぐる宣教的課題をめぐって、ナイルズはどのような 思想を展開しているのであろうか。ナイルズは、1950年代のエキュメニカルな議論を踏まえ つつ、『大地の上に』(1962年)において、この課題に関する彼の見方を明らかにしている91。 彼によれば、エキュメニカル運動において、他宗教との関係に関する見解は、いくつもの立 場に分かれている。それらは、他宗教とキリスト教における信仰内容の体系を比較し、対置 したり並置させたりして、その結果として、キリスト者が採るべき信仰的立場や具体的態度 を主張するものである。キリストにおける啓示の独自性や他宗教との非連続性を主張するも のもあれば、他宗教の教えにも真理契機がありキリスト教はあらゆる信仰形態が完成した形 D.T.ナイルズの宣教思想に関する一考察 29
であると見なすものもある。また、ひとつの宗教としてのキリスト教がもつ相対性を強調す るものもある92。
ナイルズは、これら様々な立場の間に大きな隔たりがあることを指摘しつつ、「果たして、
この議論の当事者たちは、議論すべき事柄や、議論がなされる思考の枠組みについて十分に 同意しているのか」、という問いを投げかける。そして、キリスト教の他宗教との間の関係 に関する議論において、検討すべき関係にある両者が、そもそも何であるかを、まず定める べきであるという。そこで、彼は、この議論において混乱して用いられがちな用語を整理し ている。それによると、まず、「キリスト教信仰」とはキリスト教の教義、信条、実践が一 体となったものを意味する。また、「キリスト教」という場合には、歴史的な宗教的現象を 指している。それは、キリスト者たちによる営みであり、多かれ少なかれその存在する土地 の歴史的、社会的、文化的な要素に規定されている。そして「キリスト教の教会」という場 合には、キリスト教信仰を告白し、キリスト教を構成する人々を指している。ナイルズは、
以上三つの言葉はいずれも、他の宗教との関わりに関する議論に用いるには不十分であると して、キリスト教の独自性を明確にするために「キリスト教の福音」あるいは「キリスト教 の使信」という用語を用いる。なぜなら、この二つは、教義の体系や固定的な真理ではなく、
人間の歴史に作用する現実であり神の救いのわざそれ自体として理解されうるからである。
つまり、彼はここで、福音自体の独自性を強調するのである93。
この議論においても、「神の宣教」の理念が、重要な役割を演じている。ナイルズによれ ば、福音が向けられているのは生活・信条体系としての「諸宗教」ではなく、その伝統のう ちに生きている人間に向けられているものなのである。ナイルズにとっては、キリスト教と 他宗教の関係よりも、福音宣教において向かい合う具体的な相手との関係こそがきわめて重 要な課題であった94。議論の焦点とならねばならないのは、キリスト者と非キリスト者の互 いの宗教や宗教生活の間の関係でも、宗教的信条の間の関係でもなく、「むしろ、キリスト 者とそうでない人々における福音そのものの作用についてである。私たちが理解しようと求 めている関係が立てられているのは、まさに福音が述べ伝えられる時においてである」と彼 は言うのである95。つまりキリスト教も含め諸宗教に生きている人間の世界と福音との関係 として、この問題を考察しようとしているのである。
キリスト教と他宗教の間に何らかの「連続性」があるかないか、その関係は「成就」なの か「審判」なのか、という伝統的な枠組みは、ナイルズによればキリスト教が他宗教につい て研究する際に生じてくることについて、つまり諸宗教の知恵とキリスト教信仰がいかに関 係するかを見出そうとした結果に過ぎない。実際は、人々がイエス・キリストを信仰するよ うになる実際の生きたプロセスは、一つの型に従って記述できるものではないのである96。
彼は、この議論を通して、さまざまな角度でなされている現在の議論の焦点を「福音とそ れぞれの宗教に生きる人々との関係」に移行すべきことを提案している97。問題とすべきは、
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キリスト教の福音が他宗教の人々に、キリスト者によって宣べ伝えられる時に生じてくる事 柄なのである。この点について、ナイルズは次のように訴えている。
「キリスト教の使信は、他宗教に向けて語りかけられているのでもなく、他宗教について のものでもない。キリスト教の使信は世界に関するものであって、世界に一つの真理を告げ ている。…(中略)…世界はすでにそのためにイエスが死なれ、そして支配しておられる世 界である。イエスを自分たちの主また救い主として受け入れないで今なお拒否している多く の人々がいることは確かであるが、しかし、彼らもキリストの支配と救いのわざの中にいる のである。…(中略)…究極的にはわれわれが理解しようと求めている『関係』とは、イエ スご自身が立てられた関係なのである」98。
ナイルズによれば、福音を伝えようとする相手の生において、神がすでに先立って働いて おられることを認めないならば、その福音宣教者は、自分自身の働きの真相を把握していな い。人間は自分自身をキリスト教徒とかイスラム教徒とか仏教徒とそれぞれ呼んでいるが、
「神は、すべての人々のことで常に多忙」なのである99。今こそ、このような神の前で、こ の議論がそもそも何のためになされているのか、という問いに立ち返らなければならない、
ということをナイルズは訴えているのである。
W.アリアラジャが指摘しているように、ナイルズは、従来のこの問題の扱い方をしのぐ 新しい議論の展開をもたらしている100。ナイルズが果たしている重要な貢献は、「キリスト 教と他宗教」という伝統的な問題設定と、その下に展開されてきたキリスト教絶対主義や相 対主義などの立場の対立を止揚し、福音とわれわれの世界との関係を問う、新しい思考の枠 組みを導入していることである。そして、このことに示されているナイルズの主張は、福音 宣教という教会の本質的役割が、この議論の出発点であり着地点でなければならないという ことなのである。また、次の言葉に示されているように、キリスト者と非キリスト者の関係 をめぐる問題とは、福音宣教を担う者たちが、いかにしてこの世界において継続されている 神の働きに参与するのか、という問題なのである。
「つまるところキリスト教の使信は、使信を伝える者、つまり神の宣教への参与者を造り だすことに関わっている。したがって、キリスト教の使信が非キリスト教世界に置かれる時 に何が生じるかという議論は、『誰が救われるのだろうか』という問いの領域を超えて、『神 は何を求めておられるのか』という決定的な問いの領域へと押し進められなければならない のである」101。
D.T.ナイルズの宣教思想に関する一考察 31
ナイルズは、このように主張してこの議論に加わる者を、多様な神学的立場に立ちながら も福音宣教においては一致した所に立ち、福音を伝えようとする者のあり方に関する議論の 端緒を開こうとしているのである。ナイルズの貢献は、多様な神学的立場を福音宣教という 課題のもとに包み込みながら、宣教という最前線における不一致を克服する論点を打ち出そ うとしたことにあるのではなかろうか。ナイルズは、セイロンで1947年に出版した仏教徒と の対話に基づく著作を1967年に欧米で出版しているが、その冒頭において、他宗教に対する 自身の神学的立場について、とりわけH.クレーマーとP.デヴァナンダンの二人から強い影 響を受けていることを明言している点にも、そのような意図が伺えるのである102。WCCに おける他宗教との関係に関する研究と取り組みは、1967年にセイロンのカンディで行なわれ た研究会議以降、「対話」に強調点が置かれることになり、現在に至っているが、この発展 にナイルズは寄与しているのである。
おわりに
以上、本稿においては、ナイルズのエキュメニカル運動との関わりについて素描した後、
エキュメニカル運動への貢献の背景にあったナイルズの宣教思想の特徴を明らかにしつつ、
彼の神学的貢献について歴史的に考察してきた。そこでは、ナイルズが、アジアのキリスト 教指導者としての立場から、エキュメニカル運動における「神の宣教」の神学的概念の展開 に先駆的な貢献を果たしたことを指摘した。さらに彼の宣教論の不可避の展開として、土着 的教会論、そして他宗教に生きる人々への積極的な関わりという具体的展開が見られること を指摘して、このことが彼のエキュメニカル運動への多面的な貢献と密接に関わっているこ とを論じた。
本稿を閉じるにあたり、これまで考察してきた事柄の今日的意義について、いくつかの点 を挙げて言及したいと思う。まず、ナイルズが、各教会の置かれた土地の社会的・政治的状 況を神学的営為の中に取り入れて、神学の文脈的・状況的性格と各個教会の地域性を強調し ている点を挙げたい。このような方法を打ち出すことによって、ナイルズは、普遍性を標榜 してきた欧米の諸神学とその実践も、実際は状況的な性格をもつことを指摘することになっ たのである。神学的実践や信仰表現の具体的なあり方は、他の教会に学びつつも、それぞれ の教会が聖書の使信と同時に自らが置かれた歴史的状況と向かい合う中で構築すべきものな のである。
また、アジアの状況を取り入れるナイルズの神学的営みは、決して西洋の神学的影響を否 定するものではなく、長い歴史をもつ欧米のキリスト教における神学的影響を吸収しつつ、
それを自分の置かれた宣教活動の最前線において批判的に乗り越え、独自の働きの中に「受 肉」させていく努力であったことも重要である。ナイルズは、全く新しい神学を提示したわ けではない。しかし、彼は、欧米の歴史的状況の中で生まれた弁証法的神学やメソジズムを
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