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倉田 稔

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(1)

一 ハ プ ス ブ ル グ 帝 国 め 第1次 世 界 戦 争 時 代 一

目次 は じめ に

123456789

第1次 世 界 戦 争 とオ ー スbリ ア社 会 民 主 党 ヒル フ ァデ ィ ソ グ の帰 還

イ タ リア 戦 線

ア イ ロ ル

軍 事 状況 野戦 病 院

ア メ リカの参 戦 ロシ ア革命 終 戦 の年

は 『じ め に

本 稿 は,ル ー ドル フ ・ ヒ ル フ ァ デ イ ソ グ(1877〜1941)が,主 に ハ プ ス ブ ル

こエひ

グ 帝 国 の 軍 医 と し て 従 軍 し た 時 期 に お け る,か れ の ラ イ フ ・ヒ ス ト リ ー で あ る 。 (1)筆 者 は,今 ま で 若 き ヒ ル フ ァ デ ィ ソ グ の 伝 記 を,以 下 の 作 品 で 書 い て 来 た の で,

参 照 願 え れ ば 幸 い で あ る 。

「ル ー… ドル フ ・ヒル フ ァデ ィ ン グ の 伝 記 的 新 資 料 」(r三 田 学 会 雑 誌 』 第65巻 第10号)

「若 き ヒ ル フ ァ デ ィ ン グ 」(r季 刊 社 会 思 想 』1973年,第3巻 第2号)

「ドイ ッ 社 会 民 主 党 と ス ト ラ イ キ 論 争 」(r労 働 運 動 史 研 究 』 第59号,労 働 旬 報 社 1976年)

「ヒル フ ァ デ ィ ン グ と 『金 融 資 本 論 』 の 時 代 」(r歴 史 学 研 究 』 第418号,1975年 3月)

「第 一 次 世 界 戦 争 と ヒル フ ァデ ィ ン グ 」(r商 学 討 究 』(小 樽 商 大)第27巻 第2号 1976年10月)一 一本 稿 は,こ の 稿 の 継 続 で あ る 。

r金 融 資 本 論 の成 立 』(青 木 書 店1975年)

[150コ

(2)

ヒ ル フ ァ デ ィ ン グ(1915‑1918)

一 ハ プ ス ブ ル グ 帝 国 の 第1次 世 界 戦 争 時 代 一(倉 田) 151

1.第1次 世 界 戦 争 と オ ー ス ト リア 社 会 民 主 党

第1次 世 界 戦 争 の 直 接 の き っ か け は,オ ー ス トリア=ハ ソ ガ リー二 重 帝 国 と セ ル ビア 国 との 間 で つ く られ た 。 この 「直 接 の 原 因 は,南 ス ラ ヴ 民 族 の 自 由 と

ぐ ラ

統 一 の 熱 望 と ハ プス ブル グ帝 国 の 衝 突 で あ った 。」 い わ ゆ る サ ラ イ ェ ヴ ォの 「悲

劇 」 が そ れ で あ る。

ボ ス ニ ア 州 とヘ ル ツ ェ ゴ ヴ ィナ 州(現 在 ユ ー ゴス ラ ヴ ィア に 属 す る)は1908 年 に ハ プ ス ブ ル グ帝 国 に併 合 され て い た 。 ボ ス ニ ア の 首 都 サ ラ イ ェ ヴ ォで,隣 国 セ ル ビ アの 過 激 な 民 族 主 義 的 結 社 「統 一 か 死 か 」 の メ ンバ ーが,1914年 に,

・・プ ス ブ ル グ 皇 位 継 承 者 フ ラ ソ ツ ・フ ェル デ ィナ ン トFranzFerdinand大 とそ の 妃 を 射 殺 した 。 大 公 とそ の 妻 の遺 体 が ウ ィー ソ に 戻 る と,ウ ィ ー ソで は 反 セ ル ピ ア感 情 が 噴 出 した 。 外 交 史 上 は こ の 事 件 が 戦 争 の 導 火 線 に火 を つ け た 。

第1次 世 界 戦 争 の 勃 発 が,オ ー ス ト リア社 会 民 主 党 に どの よ うな 作 用 を与 え た の で あ ろ うか?

合 法 的 労 働 者 党 や 労 働 組 合 が 組 織 的 に 発 達 ・増 大 す る と,労 働 官 僚 が 発 生 す る。 す な わ ち 国 会 議 員,地 方 議 会 議 員,行 政 活 動 家,党 専 従 役 員 ・職 員,そ て これ に 加 え て,党 働 組 合 の 役 員 ・専 従 活 動 家 の層 で あ る。 か れ らは,労 働 者 運 動 とそ の 発 展 に よ って 直 接 扶 養 され る層 で あ る。 これ らの 労 働 官 僚 だ け で は

な く,間 接 に扶 養 され る 層 も発 生 して くる。

労 働 官 僚 た ち は,ど ん な活 動 で も,合 法 性 を 破 る よ うな 大 衆 の 活 動 は,危 とみ な す よ うに な る。 権 力 側 の 弾 圧 に よ っ て,そ れ ま で 営 為 築 き あ げ て きた か れ らの 成 果 が 危 う くされ,あ る い は 失 うこ とに な る か らで あ る。か く して,労 働

官僚 た ちは,は じめ の うちは労 働 運 動 のた め に生 き ていた が,次 第 に労働 運動

よ っ て 生 き る よ う に な る 。

(2)OttoBauer,Die6sterreichischeRevolution.in:OttoBauer.「Urerkausgabe, Band2,EuropaverlagWien1976,S.493.

(3)オ ー ス ト リ ア 側 で は 悲 劇 と よ び,ユ ー ゴ ス ラ ヴ ィ ア で は 英 雄 的 行 為 と よ ん で い る 。 (4)Vg1.EmilFranzel,FranzFerdinandd'Este.Wien1964.

(3)

戦 争 は,こ の 点 で 問 題 を 最 も鋭 く提 起 す る。 国 が 戦 争 を 決 定 す れ ば,反 戦 活 動 は 非 合 法 とな り,こ れ ま で の合 法 組 織 は 壊 滅 す る。 もち ろ ん 非 合 法 政 党 ・非 合 法 組 合 は こ の心 配 は な い わ け で あ る。 ドイ ツ社 会 民 主 党(SPD)も,オ

ス トリア社 会 民 主 党(SPO)も, ,これ は 例 外 で な く,両 党 と も結 局 戦 争 に 協 力 して ゆ くの で あ った 。

た だSP6は,1点 に お い てSPDと 違 っ て,特 殊 な 状 況 に あ っ た 。 す な わ ち SPOは こ の時 帝 国 議 会 に 出席 で き な か った の で あ る。オ ー ス ト リア首 相 シ ュ テ ユ ル クSttirgkhは,1914年 の3月 に 例 外 法 を も っ て 帝 国 議 会 を 休 会 させ て い た 。 これ に よ っ て 政 府 は,無 制 限 な 新 聞 検 閲,市 民 的 権 利 の 制 限,集 会 の 禁 止, 等 が 可 能 に な っ た 。 一 種 の 政 府 独 裁 で あ っ た 。 戦 争 の 勃 発 した 時,SPOは

国 議 会 の 演 壇 で 自 らの 主 張 を 述 べ られ な か っ た の で あ る。SPδ は そ の 代 り, 刊 行 物 で そ の 意 見 を 主 張 した 。

オ ー ス トリア の 憲 法 は,戦 時 中 こ の た め に実 施 され なか っ た し,R.A.Kann は,議 会 が 開 か れ て い た な らば,サ ラ イ ェ ヴ ォの 暗 殺 の 危 機 か ら戦 争 を 防 げ た

くらり

か も知 れ な い,と 書 い て い る。

戦 争 以 前 のSP◎ の特 徴 は,革 命 的 マ ル クス 主 義 を 外 観 と し,平 和 主 義 を 標 榜 して い る こ とに あ っ た 。 戦 争 が 起 き る と,党 は,も ち ろ ん 戦 争 に は 賛 成 しな か っ た が,中 央 機 関 紙rア ル バ イ タ ー ・ツ ァ イ トゥ ン グ』 は 批 判 性 の 欠 如 した 論 文 を 掲 げ た 。政 府 は,Pシ ア ・ツ ァ ー リズ ムか ら国 を 護 る と保 証 し,SP6は 次 第 に 戦 争 歓 迎 へ と向 か っ て い った 。 党 は ドイ ッ党 と同 じ く,ロ シ ァ ・ッ ァ ー

リズ ムが 反 動 の 砦 で あ る とい うマ ル ク ス や エ ソ ゲ ル ス の昔 の 意 見 を,利 用 して い た の で あ る。 帝 国 労 働 組 合 委 員 会 は,そ の組 合 員 に対 し,「 戦 争 継 続 中 に は, 賃 金 闘 争 を す べ て 止 め よ」 と,呼 び か け た 。

労 働 者 層 は,党 と労 働 組 合 か ら離 脱 す る よ うに な り,1914年7月 か ら1916年 6月 ま で の2年 間 に,ウ ィー ソ と ニ ー ダ ー ・エ ス テ ル ラ イ ヒだ け で65%の 党 員 を 失 な った し,そ の他 の地 域 で は74%か ら80%を 失 な った 。 労 働 組 合 員 数 は,

(5)RA.Kann,AHistoryo/theHabsburgEmpire.1526‑1918,Berkeley/

LosAngeles/London1974,p.487,

(4)

ヒル フ ァ デ ィ ン グ(1915‑1918)

一 ハ プ ス ブル グ 帝 国 の 第1次 世 界 戦 争 時 代 一(倉 田)

く な

ナ み ス ドリ ア で 次 の よ うな趨 勢 を 示 した 。

153

2.ヒ ル フ ァ デ ィ ソ グ の 帰 還

1913年 末 1914年 末 1915年 末 1916年 末 1917年 末 1918年 末

41,5195 24,0681 17,7113 16,6937 31,1068 41,2910

ドイ ツ社 会 民 主 党 員 で,党 中 央 機 関 紙rフ ォル ヴ ェル ツ』 の 編 集 局 員,ヒ フ ァデ ィ ソ グは,ベ ル リ ンが ら故 郷 ウ ィー ンへ 戻 っ た 。 第 一 次 世 界 大 戦 が 勃 発 して か ら,そ れ で もか れ は,8〜9ケ 月 は,ド イ ッ社 会 民 主 党 で 実 際 活 躍 して い た こ とに な る。 後 年 ヒル フ ァ デ ィ ソ グ は,第 一 次 世 界 戦 争 の 時 代 に 社 会 主 義 運 動 で 「な に も しな か った 」,と 非 難 さ れ る が,パ プ ス ブル グ帝 国 の 軍 隊 に こ の 時 と う と う召 集 され た の で あ る。 時 に37才 で あ った 。 同僚 オ ッ トー ・バ ゥ ァ

ー もす で に 召 集 され て い た 。

ヒル フ ァデ ィ ソ グ は,医 学 博 士 の 学位 を もち,か つ て は 開 業 医 で もあ っ た の で,ウ ィ ー/で は す ぐ軍 務 と して 病 院 に 勤 務 した の で あ る。 は じ め は,ウ ィー ソ市 内 の ル ー一ドル フ ス ガ ッセ21番 地 の ル ー ドル フ シ ュ ピ タル 皿で あ った 。 ヵ 一 ル ・カ ウ ツ キ ー夫 人 ル ィ ー ゼ か ら手 紙 が 来 て ,ル ー ドル フは そ れ に 返 事 を 書 い た 。 「ドイ ツ か ら何 か を き くの は 大 変 うれ しい … … 」。 病 院 で は 内科 担 当 で,

「思 っ た よ り早 く熟 達 した 」 とい っ て い る。3日 毎 に24時 間 の 勤 務 で あ っ た 。

ウ ィ ー ソに 留 まれ る の は 不 確 か で,こ こで は 絶 え ず 医 師 否 出 て ゆ く・と 書 い た よ うに,か れ は6月 に は も う他 の 病 院(フ ァ ヴ ォ リー テ ン シ ュ トラ ー セ67番 地 ウ ィ ー ン第10区)へ 移 っ て い っ た 。 これ は 伝 染 病 の 「戦 時 病 院 」 で,ベ ッ ド数

2,500の 大 き な バ ラ ッ ク建 て で あ った 。 「こ こ に は 新 し い こ とが 何 もな い 」 と

(6)Hautmann/Kropf,Dieb'sterreichischeArbeiterbewegungvomVormdrg bis1945,2.Aufl,,Wien1974,S.118.

(7)HilferdinganLuiseKautsky,29.IV.[19]15.InternationaalInstituutvoor

SocialeGeschiedenis,Amsterdam(以 下IISGと 略),KautskyArchivDPart (以 下KDと 略)XII607.

(8)HilferdinganKarlKautsky,23.VI.[19]15,IISGKDXII608.

(5)

歎 い て い る。1915年7月29日 に は,こ の病 院 が 来 週 か ら運 営 され,午 前 中 は 忙

が し く,午 後 は 自由 に な る,と 書 い て い る。 同15年12月 に は,第1戦 時 病 院 (ウ1一 ソ16区,ブ リュ ッ ツ ェル シ ュ タ イ ク)に 移 っ て い る こ とが わ か るo

そ こ か ら ヒル フ ァデ ィ ソ グは カ ウ ツ キ ー に 書 い て い る。 「あ な た 〔=カ ー ル

・カ ウ ツ キ ー 〕 が ナ ウ マ ンに つ い て お 書 き に な っ た とは 嬉 しい で す 。 そ の 公 刊

は 大 変 急 が れ ま す 。 」 ナ ウ マ ン の 書 は,r中 央 ヨ ー ロ ッ パ 』(ベ ル リ ソ,1915

ロ の

年)で あ り,カ ウ ツ キ ーが 公 刊 す る で あ ろ う書 物 は,r中 央 ヨ ー ロ ッパ 合 衆 国 』 (シ ュ トゥ ッ トガ ル ト,1916年)で あ る。 ドイ ッ は,中 央 ヨ ・一 ロ ッパ 構 想 を 持 っ て 戦 争 に 臨 ん で い た の で,こ れ ら諸 作 品 は 時 論 的 に 見 て 重 要 な もの で あ る。

く  エ

1916年7月1日 付 カ ウ ツキ ー あ て の 手 紙 で ル ー ドル フは 書 く,「 あ な た の ご 判 断 を,私 は い つ もの よ うに お 聞 き した い 。 ひ ょっ とす る と,金 融 資 本 〔=ヒ ル フ ァデ ィ ソ グr金 融 資 本 論 』 〕 の 経 済 政 策 篇 か ら歴 史 を 増 補 ・修 正 して,小 冊 子 と して 刊 行 す るか も しれ な い の で す 。 私 に は 材 料 が す べ て う ま く入 手 で き る か ど うか,す な わ ち,そ こ に 資 本 家 的 植 民 地 〔論 〕を 加 え る べ きか ど うか,ど もわ か らな い の で す 。 」 ル ー ドル フ の こ の小 冊 子 は 刊 行 され な か っ た が,か が 『金 融 資 本 論 』 第5篇 の 増 補 を 考 え て いた こ とが わ か る。 っ つ い て ドイ ツ の 運 動 状 況 に つ い て 述 べ て い る」。あ な た は,諸 経 過 を 悲 観 的 に 見 す ぎ て い る と思 い ます 。 ベ ル リソ の 全 体 会 議 で の 諸 経 過,こ れ に つ い て 私 は 短 い 報 告 を まず 読 ん だ の で す が,… … そ れ ほ ど不 満 足 で は な い と思 い ます 。 党 委 員 会 へ派 遣 す る 二 つ の 反 対 派 グ ル ー プ のベ ル リ ソ代 表 者 の 事 件 は,ま っ た く正 しい示 威 行 為 で, 今 は,方 向 性 の 多 様 さ が 本 質 的 な もの で は あ り ませ ん。 これ を 拒 絶 す る こ とは, 健 全 な 理 性 を 発 揮 す る こ とを や め る こ とで あ り,ロ ーザ 〔・ル ク セ ソ ブル グ〕

に 利 用 され る 言 質(Denkzettle)に な る の で す 。 」

(9)Ders.anK.Kautsky,29.VII.[19]15,IISGKDXII609.

(1()Ders.anK.Kautsky,27.XII.[1915],IISGKDXII610.

(11)FriedrichNaumann,MitteleκroPa.Berlin1915.

⑫KDXII611.こ の 番 号 の も の に は,7月5日 付 の 文 章,7月12日 付 の 文 章,も

る 。

(6)

ヒル フ ァ デ ィン グ(1915‑‑1918)

一 ハ プ ス ブル グ 帝 国 の 第1次 世 界 戦 争 時 代 一(倉 田) 155

3.イ タ リ ア 戦 線

ハ プ ス ブ ル グ帝 国 に と っ て 世 界 戦 争 の前 半 期 に,二 つ の 重 要 な 外 交 問 題 が あ っ た 。 一 つ は,対 ドイ ツ との 同 盟 の調 整 で あ り,他 の 一 つ は,イ タ リア が 協 商 国 側 に 加 わ る の を い か に 妨 ぐか で あ った 。 しか し,1915年5月23日 に,イ タ リ

ア は 協 商 国 側 に 立 っ て,オ ー ス ト リア=ハ ソガ リー に 宣 戦 布 告 を した 。 オ ー ス ト リア外 交 は 失 敗 した とい うべ き で あ る。

1885年 に,ド イ ツ,オ ー ス ト リア=ハ ソ ガ リー,イ タ リア の 間 で 秘 密 条 約 が 調 印 され た。 こ の 条 約 に よれ ば,ド イ ツ と オ ー ス ト リア=ハ ソ ガ リ ーは,イ リアが も し フ ラ ンス の 攻 撃 を 受 け た 場 合,イ タ リア側 に 立 っ て 行 動 す る義 務 を 負 い,一 方 イ タ リア は,ド イ ツ に 対 して 同 様 の義 務 を 負 っ た 。 ま た こ の 条 約 参 加 の三 国 が,他 諸 国 に 攻 撃 さ れ た 場 合,攻 撃 国 に 対 して 宣 戦 す る義 務 を 負 っ た 。 た だ し,イ ギ リス が ドイ ツ ま た は オ ー ス ト リア=ハ ソガ リー を 攻 撃 した 場 合 に は,イ タ リア は こ の 同 盟 国 を 援 助 しな くて も よい こ とに な っ て い た 。 い わ ゆ る

「三 国 同 盟 」 が 成 立 して い た 。

一 方,1904年 に 英 仏 協 商 が,1907年 に 英 露 協 商 が,で き,こ こ に,三 国 同 盟 と三 国 協 商 とい う二 大 帝 国 主 義 グル ー プが 存 立 して い た の で あ る。

しか し20世 紀 に 入 っ て か ら イ タ リアが 徐 々 に 三 国 同 盟 か ら離 反 しだ して き た 。 オ ー ス ト リア と して は,イ タ リア が 三 国 同 盟 の 約 束 を 守 る で あ ろ う,と 期 待 し て い た が,イ タ リア と長 く領 土 係 争 問 題 を か か え て い た の で,こ れ は 危 な っ か

しい もの で あ っ た 。 事 実,世 界 戦 争 が お き る と,イ タ リア は 中 立 を 宣 言 した 。 同 盟 国 側 と協 商 国 側 は,イ タ リ アを 味 方 に つ け る べ く競 い 合 った が,イ タ リア は 協 商 国 に つ い て し ま った 。1915年4月26日 に イ タ リアは,ロ ソ ドソで イギ リ

ス ・フ ラ ンス と秘 密 条 約 を 結 び,一 ケ 月 以 内 に 参 戦 す る,と 署 名 した 。 イ タ リ アが 協 商 国 側 に立 っ た 理 由 の1つ は,協 商 国 側 が 同 盟 国側 よ りも戦 勝 後 の領 土

く  ラ

に つ い て 好 条 件 の 提 案 を し た か ら で あ っ た 。

⑬Cf.A.J.P,Taylor,TheFirst17VorldWar,Harmondsworth1970,

邦 訳,テ イ ラ ーr第 一 次 世 界 大 戦 』 新 評 論 社(予 定)。

(7)

イ タ リ ア は,5月23日,オ ー ス ト リ ア=ハ ソ ガ リ ー に 宣 戦 布 告 し た 。 こ の 時 ヨ ー ロ ッ パ に,ま た は オ ー ス ト リ ア=ハ ソ ガ リ ー に と っ て,新 し く イ タ リ ア 戦 線 が 発 生 し た の で あ る 。

4.テ ィ ロ ル

イ タ リアが オ ー ス ト リア に 宣 戦 布 告 した 時 に,ヒ ル フ ァデ ィ ソ グ は ち ょ うど ウ ィ ー ソに つ い た ば か りの頃 と思 わ れ る。 そ して,そ れ か ら1年 余 りウ ィ ー ソ で 軍 医 と して 勤 務 して い た わ け で あ り,少 な くて も1916年 の7月 ま で ウ ィ ー ソ に,家 族 と と もに い た 。 お そ ら く,・7月 の 下 旬 に は,テ ィ ロル へ 向 っ た 。 そ の 理 由 は,も ち ろ ん イ タ リア戦 線 の 発 生 に よ っ て い る。 か れ は,テ ィ ロル 地 方 ブ

t/ソ ナ ー一河 畔 シ ュ タ イ ナ ッハ の緊 急 予 備 病 院 の,国 民 軍 医(Landsturmarzt)

ヒ 

と して 赴 任 した 。8月1日 に は す で に そ こ に い た 。

テ ィ ロル は,オ ー ス トリア の 一 番 奥 深 い 西 部 に あ り,ア ル プ ス地 方 で あ る。

西 か ら東 へ,イ ソ河 が 流 れ,そ の河 畔 に あ っ て テ ィ ロル 最 大 の都 市 は イ ソス ブ ル ッ クで あ る。 こ の イ ン河 に,イ ン ス ブ ル ッ ク付 近 で,ブ レ ン ネ ル 河 が 南 か ら 注 ぎ込 む 。 そ こか らブ レ ソ ネ ル 河 に そ っ て 南 下 す る こ と お よそ20㎞ に,シ

タ イ ナ ッ・・が あ る。 シ ュ タ イ ナ ッハ か ら南 へ10kmの 所 に,交 通 の 要 所 ブ レ ソ ネル 峠 が あ り,こ れ は 現 在 の オ ー ス ト リア と イ タ リア の 国 境 を な して い る。 当 時 は,も ち ろ ん 国 境 で は な か っ た。 す な わ ち,ハ プ ス ブル グ帝 国 は 終 戦 ま で 南

テ ィ ロル,す な わ ち北 イ タ リア の 一 部 を 領 有 して い た か らで あ る。

5.軍 事 状 況

ハ プ ス ブ ル グ 帝 国 は,戦 争 を 開 始 し て か ら,ま ず 当 面 の 敵 で あ る セ ル ピ ア に

攻 撃 を か け た 。1914年 中 に 合 計3度 の 攻 撃 を し た が,成 果 は 小 さ か っ た 。 む し ろ 連 敗 し た,と い っ た 方 が あ た っ て い た 。 こ の3連 敗 に よ っ て 帝 国 の 威 信 は 失 墜 し た 。

⑭HilferdinganKKautsky,1.VIII[19]16,IISGKDXII612.

FeldpOstkorrespOndenzkarte.

(8)

ヒル ファデ ィソグ(1915‑1918)

一 ハ プス ブル グ帝国 の第1次 世界 戦争時 代 一(倉 田)'167

ロ シ ア軍 は,東 プ ロ イ セ ソに 攻 め 込 み,タ ソ ネ ソベ ル グ の 戦 い で 敗 北 した 。 だ が ロ シ ア軍 は,ハ プ ス ブ ル グ帝 国 の 東 北 部 ガ リチ エ ン を攻 撃 し,こ れ を 占領

した 。

イ タ リア 戦 線 が 生 じ る と,帝 国 は ロ シ ア と イ タ リア に 対 す る攻 撃 を 行 な い は じめ た 。 対 イ タ リア 戦 線 に は,当 初10万 人 の ハ プ ス ブ ル グ軍 が 国 境 を 守 備 して い た だ け で あ っ た 。 守 備 隊 は,二 つ の部 分 に い た 。 第1は,ト レ ソチ ー ノ と し て 知 られ る南 テ ィ ロル で あ り,ク ラ ウ ス将 軍 と ダ ソ クル 将 軍 が 卒 い て い た 。 第

2は,ボ レオ ヴ ィチ 将 軍 が 指 揮 を した,戦 線 の 東 方 で,イ ソ ソ ツ ォ川 の 谷 と ト リエ ス トへ い た る地 域 で あ っ た 。2つ の地 域 と も,軍 事 的 に は,防 衛 に まわ っ た オ ー ス トリア に 都 合 が よか っ た 。 とい うの は,自 然 環 境 が 荒 く,山 岳 地 帯 で あ り,雪 と氷 で お お わ れ て い た か らで あ る。 雪 の上 で の 闘 か い,そ して,単 調 で,の ろ い 闘 か い で は,両 軍 と も闘 か っ て も利 は 小 さ か った 。

オ ー ス ト リア は,師 団 の 数 が 少 な い うえ に,輸 送 力 で 損 を して い た 。 とい う の は,こ の 戦 線 は,帝 国 の辺 境 に 位 置 して い た か らで あ る。 一 方,イ タ リ ア と

して は,こ れ は 国 内 戦 線 だ とい っ て よか った 。 イ タ リア の 軍 隊 で は,1914年6 月 以 来,参 謀 長 カ ドル ナCadoma将 軍 が 軍 事 戦 略 の 指 導 を と った 。 か れ の 考 え は,北 で 防 衛 し,東 で 攻 撃 す る こ とで あ っ て,ト リエ ス トと ラ イバ ッハ を 取

ぐユらひ

る こ と が 大 目 標 で あ っ た 。

カ ドル ナ は,1915年6月 お そ く,イ ソ ソ ツ ォ 川 に 向 か っ て 断 固 攻 撃 を し た 。 そ れ は,こ の 年 行 な わ れ た4回 の 攻 撃 の ・ 第1叩 目 で あ っ た ・ 戦 争 中 ・ イ ソ ソ

ツ ォ 川 攻 撃 は11回 行 な わ れ た が,オ ー ス ト リ ア 軍,と り わ け 南 ス ラ ヴ 人 は 精 力 的 に 戦 っ た 。1915年 の お わ り ま で に,イ タ リ ア は オ ー ス ト リ ア 軍 の2倍 の 兵 を 失 な っ た 。

1915年 か ら16年 に か け て,軍 事 行 動 の 中 心 が ロ シ ア 戦 線(ド イ ツ か ら 見 れ ば 東 部 戦 線)に 移 っ た の で,英 ・仏 は そ の 間,西 部 戦 線 で,兵 力 を 補 給 す る こ と が で き た 。 ド イ ツ は2正 面 作 戦 を 行 な う 力 は な か っ た の で あ る 。1916年2月 末,

㈲ArthurJ.May,ThePassingo/theHabsburgMonarchy.1914‑1918, 2.vols.Philadelphia1966,vol.1,P.104.

(9)

ドイ ツ軍 は ヴ ェル ダ ソ を 攻 撃 した が,フ ラ ンス の 防 禦 線 を粉 砕 で き な か っ た 。 7月 と9月 に,英 ・仏 軍 は,ソ ン ムで ドイ ツ軍 に 打 撃 を与 え,10〜12月 に フ ラ ソス軍 は ヴ ェル ダ ソを 反 撃 し ドイ ツ軍 を 完 全 に駆 逐 し,ヴ ェ ル ダ ン攻 撃 を 断 念 させ た 。 これ に は,ロ シ ア軍 の 南 西 方 面 軍 も援 護 攻 撃 を 行 な っ た 。 ロ シ ア軍 に よ っ て,、 オ ー ス ト リア=ハ ソ ガ リー軍 の 相 当 部 分 が 壊 滅 した の で,ド イ ツ軍 は,ヴ ェル ダ ソ会 戦 とい う最 も重 大 な 時 に 東 部 戦 線 に 兵 力 を 投 入 せ ざ るを え な か った し,オ ー ス ト リア軍 も イ タ リア 戦 線 か ら6個 師 団 を ロシ ア 戦 線 に 移 動 さ せ た 。 そ れ に もか か わ らず,ロ シ ア軍 は,オ ー ス トリア=ハ ン ガ リーに 猛 攻 を 加 え,陣 地 線 を 突 破 した 。

1916年3月,イ タ リア軍 は,ヴ ェル ダ ンで 攻 撃 され て い る フ ラ ソス軍 を 援 助 す るた め,イ ソ ソ ツ ォで 新 た に 攻 撃 を 開 始 した が,失 敗 に お わ った 。

1916年5月,ハ プス ブ ル グ参 謀 総 長 コ ソ ラ ッ ト ・フ ォ ソ ・ヘ ッ ツ ェ ソ ドル フ は,イ タ リア攻 撃 を 行 な う こ とに 決 め た 。 こ の作 戦 を ドイ ツは 拒 否 した 。 な ぜ な ら ドイ ツは フ ラ ソ ス の 中 央 部 を 撃 つ 計 画 を も っ て い た か らで あ り,イ タ リア 戦 線 は ドイ ツの 直 接 の 関 心 で は な か っ た 。 ヘ ッツ ェ ソ ドル フは,や む な く単 独 攻 撃 を した 。 い わ ゆ る ト レ ソテ ィ ー ノ攻 撃 で あ る。5月15日,大 兵 力 を 集 中 し て ガ ル ダ湖 と ブ レ ソ タ河 の 間 で 攻 撃 を 加 え,イ タ リア軍 は 敗 走 した 。 オ ー ス ト

リア は,ア シ ア ジ ェ平 原 を 占領 した 。 こ の た め イ タ リア首 相 サ ラ ソ ドラ は 辞 任 した 。 カ ドル ナ 将 軍 に とっ て 救 い とな った の は,こ の 時 ロ シ ア が ブル シ ー ロフ 将 軍 の 攻 撃 で応 答 して くれ た こ とで あ っ た 。 こ の い わ ゆ る ブ ル シ ー ロ フ攻 撃 (6月4日)で,オ ー ス ト リア の 前 線 は 崩 壊 した 。 オ ー ス ト リアは トレ ソテ ィ ー ノ攻 撃 を 中 止 し東 へ 兵 力 を 投 入 した

。 ブル シ ー ロ フ攻 撃 は,オ ー ス ト リア=

ハ ン ガ リー軍 の 志 気 を喪 失 させ た し,こ れ 以 降 ハ プ ス ブル グは ドイ ツ軍 に た よ っ て 戦 争 を続 け る よ うに な っ た 。 ブル シ ー ロ フ攻 撃 が な く,ま た ドイ ツ が こ の 作 戦 に 加 わ っ て い た な らば,イ タ リア は1916年 に 破 壊 した だ ろ う,と 言 わ れ る。

ドイ ツ 最 高 司 令 部 は こ の 唯 一 の 機 会 を 見 逃 した こ とに な る。カ ドル ナ は 反 撃 し, 失 な っ た 領 土 の 半 分 を 奪 回 し,ト レ ソ テ ィ ー ノ は か な り収 ま っ た 。1916年8月

6日,カ ドル ナ は イ ソ ン ツ ォ方 面 に 主 要 攻 撃 を か け た 。 オ ー ス ト リア は抵 抗 し

(10)

ヒル フ ァデ ィソ グ(1915‑1918)

一 ハ プス ブル グ帝国 の第1次 世界戦争時 代一(倉 田)159

な が ら ゲル ツ(G6rz),す な わ ち イ ソ ソ ツ ォ川 の重 要 基 地 に 退 却 した 。 戦 闘 は 陣 地 戦 とな っ た 。

1916年 の 後 半,イ タ リア 軍 は イ ソ ソ ツ ォで そ の 後3回 の 攻 撃 を 行 な い,ゴ ツ ァ(ゲ ル ツ)を 奪 取 した が,ト リエ ス トへ は ドイ ツ軍 と オ ー ス トリア軍 に は ば まれ て,進 撃 で き な か っ た 。

1916年8月27日 に,そ れ まで 中 立 で あ っ た ル ー マ ニ ア は,協 商 国 側 に 立 ち, オ ー ス トリア=ハ ン ガ リー に 宣 戦 布 告 した 。1916年 の 戦 闘 の 結 果 は,協 商 国 側

に 有 利 で あ った 。

6.野 戦 病 院

ヒル フ ァデ ィ ソ グ が ウ ィ ー ンか らテ ィ ロル へ 配 置 替 え され た の は,こ の 時 期 で あ っ た 。 もち ろ ん,病 院 勤 務 で あ る か ら,戦 闘 に は ま っ た く加 わ らな い し, ブ レ ン ナ ー峠 よ り北 で あ る の で,い わ ば 後 方 勤 務 で,お だ や か で あ った 。 か れ

ロゆ

の 生 活 は,「 と くに 新 しい こ とは 起 き て い な い 」 し,9月10日 ご ろ は,ウ ィー ソか ら高 校 生 の 息 子 カ ール が 数 日間 遊 び に 来 て い た ほ どで あ る。

こ こ で ヒル フ ァデ ィ ソ グは,学 術 的 問 題 を カ ウ ツ キ ー に 書 い て い る。 「カ ー

ロ の

ル ・エ ミール の 作 品 に か ん して は,そ の 長 さ を 否 認 す べ きで は あ りませ ん 。」

に ロ

ヒル フ ァ デ ィ ソ グはr貿 易 政 策 の 諸 問 題 』 とい う長 い 論 文 を 『ノ イ エ ・ツ ァ イ ト』 に 送 っ て い た 。 カ ール ・ エ ミー ル は,も ち ろ ん か れ の ペ ソ ・ネ ー ム で あ る。 こ れ は 連 続 論 文 と して7回 連 載 され た もの で,い わ ゆ る 「崩 壊 理 論 」 の 批

こ  ラ

判,な どを 含 ん で い た 。 か れ は 書 く,「 私 の 見 る か ぎ り,種 々 の 個 別 局 面 で 崩 壊 理 論 の 誤 りを 証 明 す る こ とが 問 題 とな っ て い ます 。 」 「も し崩 壊 理 論 を 救 済 す る ロ ーザ 〔・ル ク セ ン ブ ル グ〕 の 試 み が 黙 っ て 見 逃 され る な らば,カ 〔一

ル 〕 ・ エ 〔 ミ ー ル 〕 は 正 し か っ た の で す ◎ 」

⑯HilferdinganKautsky,10.IX[1916],IISGKDX[1615.

㈲Ders.anKautsky,15.IX[19]16,IISGKDXII616.

a$KarlEmil[=Hilferding],HandelspolitischeFragen,in:NeueZθ ゴ'J9.35.

(1916/17),Bd.1,S.5‑11;40‑47;91‑99;118‑126;141‑146;205‑216;241」146,

拙 書 『金 融 資 本 論 の 成 立 』(青 木 書 店)で 短 か く ふ れ て い るg

注 ㊥ の 手 紙g

(11)

同 じ手 紙 の 中 で ベ ネ デ ィ ク ト ・ カ ウ ツ キ ー 〔カ ール ・ カ ウ ツ キ ー の 息 子,' 愛 称 ペ ソデ ル 〕 あ て の 文 が 含 まれ て い る。 ヒル フ ァデ ィ ソ グは 教 え て い る 。「君 は 必 ず 高 等 数 学 を 学 ん で お か な くて は い け ませ ん 。」 「そ れ か ら数 学 の あ とで 根 本 的 に 近 代 物 理 学 ・化 学 を 勉 強 しつ く し,… … そ れ か ら君 に 忠 告 し ます が,

くヨユリ く  コ

ラ ソゲ のr唯 物 論 史 』 を 読 む こ と,そ して シ ュ ヴ ェ ー グ ラ ー か あ るい は フ ォ ア

ご  ひ

レ ソ ダ ー のr哲 学 史 』,そ う した ら哲 学 者 自 身 を は じめ る,す な わ ち シ ョー ペ

ご ね こ リコ

ンハ ウエ ル のr充 足 根 拠 の 原 理 』,r倫 理 』 な どを 。」 とす す め て い る。 これ らは,ヒ ル フ ァデ ィ ン グの 基 礎 教 養 の 一 部 を の ぞ か せ る もの で もあ ろ う。 ラ ン ゲや フ ォ ア レ ン ダ ー は,い わ ゆ る新 カ ン ト派 哲 学 者 で あ り,ヒ ル フ ァデ ィ ソ グ

く  コ

は ヨ リ若 い 頃 こ れ らの 著 作 を よ く読 ん だ の で あ ろ う。 す で に 記 した よ うに,ヒ ル フ ァデ ィ ソ グた ち の グル ー プは,新 カ ソ ト派 社 会 主i義で あ っ た 。

テ ィ ロル地 方 は 冬 が 早 い 。こ の 年 こ こ で は9月20日 か ら雪 が 降 りは じ め,大 変 寒 くな っ た 。 妻 マ ル ガ レ ー テ は 数 日 こ こを 訪 れ る は ず で あ った 。 また ヒル フ ァ

で  ヤ

デ ィ ソ グは,こ こ シ ュ タ イ ナ ッハ に は10月20日 ま で しか い な い,と 書 い て い る。

10月25日 に は す で に 移 動 伝 染 病 院Nr.2に 移 っ て い る。 これ 以 降 こ こ で 勤 務 を つ づ け て い る よ うに 思 わ れ る。 た だ し予 備 病 院rイ ェ ー ゲル ソ ドル フ』 発 の は が き も時 々 あ り,そ の 二 つ の 病 院 の 関 連 は 不 明 で あ る。

「とい うわ け で,私 は 新 しい 場 所 に 来 て い ます 。 こ こは ま た 美 し く,仕 事 の

  り

関 係 は と て も よ く な る は ず で す 」 。 こ こ で も,か れ は カ ウ ッ キ ー に 書 籍 を 所 望

⑳FriedrichAlbertLange,DieGeschichtedesMaterialismus。..

囲AlbertSchwegler(1819‑1857),GeschichtederPhilosoPhieimUmriss.

1.Auf1.,1847;14.Auf1.,1887.

㈱KarlVorlander(1860‑1928),GeschichtederPhilosoPhie.

②4}ArthurSchopenhauer(1788‑1860),UeberdievierfachenWurzeldes

Satzesvom2ureichendenCrecnde.(短 く はSatzvomzureichenden

Gr"ndeで あ る が,ヒ ル フ ァ デ ィ ン グ は,SatzvondervierfachenWurzelと 書 い

て い る よ う に 読 め る 。)

㈱Ders.,DiebeidenGrundProblemederEthik.(ヒ ル フ ァ デ ィ ソ グ はEthik

と の み 書 い て い る 。)

⑳.拙 稿 「若 き ヒ ル フ ァ デ ィ ソ グ 」(『 季 刊 社 会 思 想 』3‑2)。

伽HilferdinganKautsky,21.IX[19]16,IISGKDXII617.

(28)Ders。anKautsky,25.X.[19コ16.IISGKDXII620.

(12)

ヒル フ ァデ ィ ン グ(1915‑1918)

一 ハ プ ス ブ ル グ 帝 国 の 第1次 世 界 戦 争 時 代 一(倉 田)161

こ りし

した り,『 ノ イエ ・ッ ァ イ ト』 の 必 要 な 号 を 送 る よ う頼 ん で い る。

この 頃 か れ は,ド イ ツ社 会 民 主 党 党 首 で,友 人 で もあ る フ ー ゴ ー ・ ハ ー ゼ (HugoHaase)の こ とを い つ も書 い て い る。 また,親 友 オ ッ トー ・パ ウ ア ー の こ とを 心 配 して い る。 な ぜ な ら,オ ッ トー ・バ ウ ア ーは,ロ シ ア軍 の 捕 虜 と して 抑 留 され て い た か らで あ る。 バ ウ ア ー は,戦 争 勃 発 後 予 備 役 大 佐 と して 召 集 され,ガ リチ エ ソで 対 ロ シ ア戦 に 参 加 した 。1914年 の11月23日 に ロ シ ア軍 に 捕 ま っ た 。 まず バ イ カル 湖 の 東 の べ レ ゾ ウ カへ,そ して数 ケ 月 後 に は,蒙 古 国 境

に近 い トロ イ ツ コ サ ウ ス クへ 送 られ た 。 ヒル フ ァデ ィ ン グは 書 い て い る,「 ッ トー は,い つ で も私 の 支 え で す 。 か れ の 帰還 が まだ 餐 め られ る とい う危 険 は もち ろ ん 大 そ う大 き い で す,ま た,か れ が そ れ を 克 服 す るた め に 状 況 が い く ら か で も好 転 す るか ど うか は,ま だ 全 く不 確 か で す 。 」 そ して 時 局 に つ い て ふ れ て い る。 「平 和 の提 案 は,一 つ の歴 史 的 行 程 で す 。 … … 今 や た しか に 戦 争 の 全 盤 的 尖 鋭 化 が や っ て くるは ず で す,そ して 議 会 で は 熱 狂 が 増 大 す る で し よ う。

フ ー ゴ ー 〔・ハ ー ゼ 〕 の 声 明 は 良 か っ た 。」 こ こ に 言 う,平 和 の 提 案 と は,

1916年12月12日 の ド イ ツ 政 府 の 平 和 提 案 で あ ろ う。19i6年 の 秋 か ら交 戦 諸 国 の 中 で 平 和 討 議 が お き て き た 。 そ の 理 由 の 一 つ は,決 定 的 勝 利 の 見 込 み が な い と わ か り は じ め た か ら で あ っ た 。 ド イ ツ 政 府(あ る い は 中 央 列 強)の 平 和 提 案 は, 12月12日 の ドイ ツ 帝 国 議 会 の 前 日 に 突 然 提 起 さ れ た 。 議 会 で 帝 国 宰 相 が 説 明 し た が,勝 利 へ の 強 硬 な 態 度 と 具 体 的 平 和 条 件 な し で,敵 側 諸 国 と 平 和 交 渉 し て

も よ い と い う も の で あ っ た 。 「ハ ー ゼ の 声 明 」 と は,こ の 際 ハ ー ゼ が 行 な っ た 警 告 の よ う に 思 わ れ る 。

一 方,ハ プ ス ブ ル グ 帝 国 に と っ て も,1916年 の 末 は,戦 争 の 外 交 的 転 換 期 を

示 し た 。 第1の 契 機 は,皇 帝 フ ラ ソ ツ ・ ヨ ー ゼ フ1世(FranzJosephI,在

位1848〜1916)の 死 去(11月20日)で あ っ た 。 老 帝 は,ド イ ッ と 固 く 同 盟 し つ (29)Ders.anKautsky,21.XI.[19]16,IISGKDXII621.

(30)Vg1.JuliusBraunthal,OttoBauer.EinLebensbild.in:OttoBauer.Eine AuswahlausseinemLebenswerle,Wien1961.

⑳HilferdinganKautsky,20.XII.[19]16,IISGKDXII627.

プ リ ッ ツ ・フ ィ ッ シ ャ ー 『世 界 強 国 へ の 道 』1,岩 波 書 店1972年,367ペ ー ジ 以 下g

(13)

つ,戦 争 を 遂 行 し よ う と した が,次 に 即 位 した カ ー ル1世(KarlL)は,ド イ ツ の軍 事 同 盟 を追 求 せ ず,戦 争 の 休 止 ・和 平 の 努 力 を 模 索 し よ う と した の で あ る。

ヒル フ ァデ ィ ソ グは 書 い て い る。 「個 人 的 な 事 で す が,私 は 大 変 元 気 で,ウ ィ ー ン よ り も こ ち らの方 が ず っ と好 き で す 。 医 療 の 点 で も ま った く 面 白 い で す 。」 か れ は チ フ ス 部 門,そ れ か らヂ フ テ リアそ の 他 も扱 っ て い た 。 個 人 的

に は,勤 務 の 境 遇 は とて も気 に 入 っ て い ます 。 」

7.ア メ リ カ の 参 戦

1916年 末,ア メ リ カ合 衆 国 で ウ ィル ソ ン(ThomasWoodrowWilson1856

‑1924)が 大 統 領 に 再 選 され た

。 ア メ リ カの 資 本 家 階 級 は,世 界 戦 争 へ の 参 加 を 早 め よ う と欲 して い た 。 ウ ィル ソ ソは,中 立 主 義 を 掲 げ,戦 争 を 押 しつ け ら れ る こ とは 自分 の 意 に 反 す る,と い うポ ー ズ を と り続 け て い た 。 だ が1ド イ ッ政 府 が1917年2月1日 に 無 差 別 潜 水艦 戦 を 宣 言 した た め に,2月2日 ア メ リ カは ドイ ツ と外 交 関 係 を 断 絶 した 。 そ して4月6日 ア メ リカは ドイ ツに 宣 戦 布 告 し た 。 も っ と も,積 極 的 に 軍 事 介 入 した の は,1918年 か らで あ っ た 。

ヒル フ ァデ ィ ソ グは,1917年1月31日 に カ ウ ッキ ー に 書 い た 。 「非 常 に 興 味 あ る の は,ウ ィル ソ ソの 外 交 とそ の と りあ げ 方 で した 。 こ の 民 主 的 な 原 理 の 声 明 が,ま さ に 初 期 の ドイ ッ とオ ー ス トリア の社 会 主 義 者 に よ っ て 空 想 的 な もの と して 片 づ け られ て い る こ と,そ して,こ れ ま で の 権 力 政 治 一 般 に 反 対 して 向 け られ る こ とを 洞 察 す る代 りに,列 強 グ ル ー プの 一 方 か また は 他 方 に 対 して ヨ リ向 け られ るか ど うか だ け が 問 わ れ る こ とは,ま さ に 特 徴 的 で す 。 そ して また 特 徴 的 な こ とは,連 合 国 側 が ウ ィル ソ ソ と同 結 して,r同 盟 国 〕 』 に 反 対 し

こ  ラ

て い る こ と で す 。」

ウ イ ル ソ ソ は,1916年12月18日 に,全 交 戦 国 の 政 府 に 向 か っ て,戦 争'目 的 を あ き ら か に す る よ う 提 議 し た 。 ヒ ル フ ァ デ ィ ソ グ の 手 紙 は こ れ を 指 し て い る も の と 思 わ れ る 。

{33)注(31)の 手 紙 。

(34)HilferdingaロKautsky,31.1・[19]17,IISGKpXJI628,

(14)

ヒル フ ァ デ ィ ソ グ(1915‑1918)

一 ハ プ ス ブ ル グ 帝 国 の 第1次 世 界 戦 争 時 代 一(倉 田) 163

「ウ ィ ー ン で は す べ て が 異 常 な し で し た 。 」 と ヒ ル フ ァ デ ィ ソ グ は 続 け る 。 か れ は,ウ ィ ー ソ を こ の 時 訪 れ た の で あ る 。 「私 は,ブ リ ッ ツ 〔=フ リ ー ド リ

ヒ ・ア ドラ ー〕 に 会 い,お よそ%時 間 話 し ま した 。」 フ リ ー ドリ ヒ ・ア ドラ ー は,ヴ ィ ク トル ・ア ドラ ーの 実 子 で あ る。 か れ は,戦 時 中 ナ ー ス トリア社 会 民 主 党 指 導 部 に で き あ が った 左 翼 の 指 導 者 とな り,1916年10月21日,オ ー ス ト リ

ア 首 相 シ ュ テ ユ ル クを 射 殺 した 。 ア ドラ ーは 死 刑 を 宣 告 され,そ の 後18年 の懲 役 に か え られ た 。 ヒル フ ァ デ ィ ン グ は 暗 殺 事 件 後 の ア ドラ ーを 訪 れ た わ け で あ

る。 「オ ッ トー 〔・バ ウ ア ー〕 に つ い て は,相 当 規 則 的 に 通 信 を 」 得 て お り,

ご  き

「か れ は,元 気 で働 らい て 〔あ るいは 研究 して 〕 い ます。 」 バ ウァ ーは苦 しい 捕 虜生 活 を送 って い た。 そ の 間か れ は研 究 を続 け,戦 後そ の成 果 を著 書 『資 本

主義 の世 界像 』 と して公 刊 した 。

8.ロ シ ア 革 命

ヒ ル フ ァ デ ィ ソ グ は,1917年10月16日 に ベ ル リ ソ へ ゆ き,カ ウ ッ キ ー と 話 を'

エさ カ

した い と,書 い て い る◎

12月3日 付 の 手 紙 で,カ ウ ッキ ー一に 書 い て い る。 「わ れ わ れ の 病 院 は,目 の 所,増 大 して い ます 。 そ の た め に,私 自身 は 非 常 に 多 くの こ とを し な け れ ぽ な らず,ほ と ん ど1日 中,私 の 部 局 に お り,私 の歴 史 的 関 心 は,病 気 の 歴 史 の 作 成 に 」 あ る,と 皮 肉 を 言 っ て い る。 「マ ッ ク ス ・ア ドラ ーが,マ ル クス 生 誕 100年 の た め に,3月 に 出 る と思 い ます が,rマ ル ク ス ・シ ュ トゥデ ィエ ソ』

でお ニ ほ ゆ

第4巻 の 公 刊 を い そ い で い ま す 。」

わ れ わ れ の 興 味 か ら す れ ば,ヒ フ ァ デ ィ ソ グ が ロ シ ア 革 命 ど の よ う に 見

{35)Ibid.、

(36)Ibid.

(37)Bauer,DasWeltbilddesKapitalismu's.1924.

(38)HilferdinganKautsky,13.X.[19]17,IISGKDXII630.

(39)Marx・‑Studien,IV.Band,ErsterHalbband,Wien1918.こ の 巻 頭 にMaxAdler が,DiesozialistischeIdeederBefreiungbeiKarlMarx.Zuseinemhundertsten

Geburtstageam5.Mai1918.を 書 い て い る 。

(4e)HilferdinganKautsky,3,XII.[19]17,IISGKPXII631,

(15)

て い た か で あ る。

1917年 の2月 革 命 で,ロ シ ア ・ツ ァ ー リズ ム が 打 倒 され た 。 同 盟 国 側 は,ツ ァ ー リズ ム を 野 蛮 な もの と見,そ れ に 対 す る 戦 い を一 つ の 理 由 に して い た の で, ツ ァ ー リズ ムの 除 去 は,協 商 国 側 に と っ て モ ラル の 点 で 有 利 とな った 。2月 革 命 は,10月 の 社 会 主 義 革 命 に 転 化 す る。 ヒル フ ァデ ィ ソ グ の 発 言 は,こ の 直 後 の こ とで あ る。

「ボ ル シ ェ ヴ ィキ に つ い て の 貴 方 〔=カ ウ ッキ ー〕 の 見 解 は,論 文 と同様 に, 大 変,非 常 に 興 味 深 い 。」 お そ ら く,カ ウ ツキ ー の 見 解 とい うの は,12月2日, す な わ ち こ の 手 紙 の1日 前 に ヒル フ ァデ ィ ン グが 落 手 した カ ウ ッキ ーの 手 紙 で

 ラ

あ ろ う。そ れ は 現 在 失 な わ れ て い る 。論 文 とは,DieErhebungderBolschewiki の こ とで は あ る ま い か 。

「また そ こに 私 は 一 つ の 新 しい 論 拠 を 見 ます,わ れ わ れ の 見 方 と見 解 の 大 い な る一 致 で す 。 そ れ は,一 般 的 に は ロシ 〔ア〕 革 命 の,特 殊 的 に は ボ ル シ ェ ヴ ィキ の 運 命 に お け る,悲 劇 的 な もの で す 。 私 の 〕 心 は そ れ で もか れ らの側 に 立 っ て い ます 。」 「か れ らは 以 前 と違 っ て 今 や … … 実 際 に 単 独 講 和 を 求 め よ う と す る の か,そ して か れ らは 実 際 に,協 商 国側 に 対 して 持 続 して 中 立 を 主 張 す る こ とが で き る と信 じて い る の か?そ して 単 独 講 和 は,も し可 能 な場 合(そ して ど ん な条 件 で?),他 の 戦 線 で の 戦 争 の 長 期 化 を 意 味 しな い の だ ろ うか?」 ヒル フ ァデ ィ ソ グが 発 した こ れ らの 疑 問 は,誰 で もが 抱 くで あ ろ う当 然 な もの で あ る。 こ こ で 単 独 講 和 とは,も ち ろ ん ドイ ッ と ソ ヴ ィエ ト ・ロシ ア との 間 の そ れ で あ る。 ドイ ッが 東 部 戦 線 で 講 和 を す れ ば,当 然,西 部 戦 線 に 軍 事 力 を 集 中 で

き る,と い う心 配 が で て くる。

「1905年 に トロ ッキ ーは,も し ロシ 〔ア〕 の 運 動 が 他 の ヨ ー一ロ ッパ で も同 じ く引 き 継 が れ れ ば,ロ シ 〔ア 〕 ・プ ロ レ タ リ ア ー トの 独 裁 は 可 能 で あ っ た,と 考 え た 。 か れ は 今 た しか に 同 じ こ とを 期 待 して い る に ち が い な い 。 しか し こ の 期 待 は,余 り正 当 で は な い よ うに 見 え る。」 「な お私 が 恐 れ た こ とは,現 在 の

(41>LeiPzi8erVolkszeitun8,16,XI.1917,

(16)

ヒル フ ァデ ィング(1915‑‑1918)

一 ハ プス ブル グ帝国 の第1次 世 界戦 争時 代一(倉 田)165

体 制 自体 〔ロ シ ア の 体 制 一 引用 者 〕 が 維 持 され 得 な い こ とで す 。 状 況 は た し か に 今 だ か つ て な か っ た もの で す,と い うの は,革 命 的 プ ロ レ タ リア ー トと革 命 〔的 〕農 民 の結 合 体 が,武 装 して 軍 隊 に組 織 化 さ れ て い る,そ して,将 校 団 は 完 全 に 解 体 して い る … 。 そ れ ゆ え,権 力 は,ま っ た くか れ らの 側 に あ る。 しか し,敵 対 者 は,〔 ロシ ア の 〕 全 ブ ル ジ ョア ジ ーだ け で は な く,あ らゆ る他 国 の 国 家 権 力 で す 。 また,ド イ ツが 東 方 作 戦 を ま った く放 棄 して,ボ ル シ ェ ヴ ィキ に た や す く事 を な さ しめ,そ して ま さ に そ れ に よ っ て 隣 国 〔=ロ シ ア〕 で 大 革

にか

命 が 安 定 化 す るだ ろ う,と い うこ とは まず 考 え られ る で し ょ う。」

ヒル フ ァデ ィ ン グは,戦 時 に 不 十 分 な ニ ュ ー ス ・ソ ー ス を も っ て い た だ け で あ っ た ろ うが,か れ の 判 断 は,こ こで は 適 正 で あ る 。

だ が,ヒ ル フ ァデ ィ ソ グは,ロ シ ア 革 命 に 対 して,微 妙 な 見 方 を もっ て い た わ け で あ る。

か れ は,ト ロ ツキ ー に 手 紙 を か い た 。 この 時,ト ロ ツキ ーは,10月 革 命 成 功 の 直 後,外 務 人 民 委 員 に任 ぜ られ,ブ レス ト=リ トフ ス クの 講 和 会 議 に ロ シ ア 側 代 表 と し て 出 席 して い た 。 だ か ら ヒル フ ァデ ィ ソ グの 手 紙 を 受 け と った の は, 1917年12月 か ら翌 年 の1月 まで の 頃 で あ ろ う。 そ れ は,10月 革 命 以 降,西 欧 社 会 主 義 者 か ら ロシ ア ・ボ ル シ ェ ヴ ィキ へ と ど い た 最 初 の 反 響 だ った 。 と こ ろ が そ こ で,ヒ ル フ ァデ ィ ソ グは,ウ ィ ー ソ の た くさ ん い る 「ドク トル」 の うち で,

1人 の,ロ シ ア に い る捕 虜 の 釈 放 を トロ ツキ ーに 願 っ て い た 。 こ れ は,も しか す る と,オ ッ トー ・バ ウ ア ーの こ とか も知 れ な い。 そ して,手 紙 で は,革 命 の

こ とな ど一 言 もふ れ られ て い な か った 。 しか し,Du〔=君 〕 で 書 か れ て い た 。 トロ ッキ ーは,わ れ とわ が 目を 信 ず る こ とが で き な か った 。

ブ レス ト=リ トフ ス クの 会 議 が 終 っ て か ら,ト ロ ツキ ーは,レ ー ニ ソ に 会 っ た が,か れ は 元 気 よ く トロ ッキ ーに 尋 ね た 。

「ヒル フ ァデ ィ ン グか ら手 紙 を 受 け と った そ うで す ね?」

「え え,手 紙 を 受 け 取 り ま した 。」

「そ れ で?」

注㈹ の手紙。

(17)

「捕 虜 に な った 同 国 人 の釈 放 を 願 っ て い る の で す 。」

「そ れ で,革 命 に つ い て は 何 ん て 言 っ て る ん で す?」

「革 命 の こ とは,か れ は 何 も言 っ て い ませ ん 。」

「何 も言 っ て な い っ て?」

何 ん に も!」

ぐるおヤ

「考 え ら れ ん!」

レ ー ニ ン は,目 を 見 開 い て ト ロ ツ キ ー の 顔 を 見 つ め た の で あ る 。

9.終 戦 の 年

1918年,そ れ は 第1次 世 界 戦 争 の 終 る年 で あ っ た 。 ロ シ ア が 戦 線 か ら離 脱 し て い た た め 。 そ の た め,同 盟 国 側 は 一 時 的 に 有 利 とな っ た 。 もっ と もア メ リ カ が1918年 の な か ば か ら ヨ ー ロ ッパ に 派 兵 しは じめ た 。 戦 線 で は 脱 走 兵 が ふ え, 交 戦 諸 国 内 で は 反 戦 気 運 が 高 ま っ た 。 ボ ル シ ェ ヴ ィ キ の 平 和 ア ピ ー ル は,諸 人 民 と国 際 政 治 に 影 響 を与 え た 。 す な わ ち,直 ち に 戦 争 へ の 反 応 策 が 捻 出 さ れ ね ば な らな か った の で あ る。1918年1月8日,ウ ィル ソ ソ大 統 領 は 講 和 条 件 に か ん す る14ケ 条 の 提 案 を お こ な っ た 。3月 か ら7月 に か け て ドイ ッ軍 は 西 部 戦 線 で 総 攻 撃 を か け た 。 しか し,結 局 勝 利 で き ず,反 対 に7月 か ら戦 局 は 変 化 し は じめ,協 商 国 が 戦 略 上 の優 位 に 立 った 。g月 に 協 商 国 が,総 攻 撃 に 移 った 。

ヒル フ ァデ ィ ソ グは9月 に書 い て い る。 「10月 の は じめ の 日 々に ベ ル リ ソに ゆ こ う とい う希 望 が あ り ます … 」。 つ づ い て わ れ わ れ の興 味 を ひ くの は,フ

く  ラ

ン ッ ・ メ ー リ ン グ のrマ ル ク ス 伝 』 に 対 す る か れ の 見 解 で あ る 。 「私 は,か

〔=F・ メ ー リ ソ グ 〕 の マ ル ク ス 伝 記 を 読 み ま し た 。 そ れ は 新 し い も の で は 絶

対 に な い 。 最 良 の も の は,若 き マ ル ク ス に 関 す る 諸 章 で す,す な わ ち,遺 稿 出

(43)LeoTrotzki,MeinLeben.Berlin1930,S.197‑198.ト ロ ツ キ ー 『わ が 生 涯 』 1.現 代 思 潮 社,1968年,381ペ ー ジ 。

ト ロ ツ キe・一は,だ か ら こ こ で 「ヒ ル フ ァ デ ィ ン グ に と っ て は,10月 革 命 も,ブ レ ス ト の 悲 劇 も,か れ の 同 国 人 の と り な し を す る 機 会 に 過 ぎ な か っ た 」 と 考 え た 。 (44FranzMehring,KarlMarx.GeschichteseinesLebens.Leipzig1918.

(18)

ヒル フ ァデ ィ ソ グ(1915‑1918)

一 ハ プ ス ブ ル グ 帝 国 の 第1次 世 界 戦 争 時 代 一(倉 田)167

  り

で か れ が 光 を あ て た こ との 総 括 で す 。そ れ か らの ち は,事 柄 は 絶 対 に 不 十 分 で す 。 そ れ ら,た とえ ば,東 洋 問 題 に 対 す る マ ル クス の あ らゆ る立 場,戦 争 に 対 す る か れ の 立 場,そ して か れ が そ こで 経 た 発 展 は,完 全 に表 面 的 な こ とに と

ど ま り,多 か れ 少 な か れ 一 般 的 に 知 られ た こ とで す 。 も ち ろ ん,シ ュ ヴ ァ イ ツ

  ヤ

ァ ー や バ ク ー ニ ン 〔の 問 題 〕 は うま く切 り抜 け て い る が,メ ー リソ グは,も 貴 方 や ア ウ グ ス ト 〔・ベ ーベ ル 〕 とな る とで き な い 一 要 す る に,ま さ に,か

れ の 叙 述 は,通 俗 的 で,実 際 手 軽 に 認 め る初 心 者 向 き の 入 門 書 と して は,否 で き な い 効 用 を もち え ます,一 「当面,イ ソ タ ー ナ シ ョナ ル の 扱 い の よ う に,不 十 分 で また は 誤 っ て い る もの,そ れ ゆ え た しか に 余 り比 重 が お か れ て い な い わ け で す が 一 こ の叙 述 は 今 こそ 科 学 的 伝 記 を 必 要 に させ ます 。」

ヒル フ ァデ ィ ン グは,ロ シ ア の社 会 主 義 に つ い て 書 い て い る。 「さ しあ た り, ま さ に,武 器 の 批 判 が,批 判 の 武 器 よ り もな お 決 定 的 で す,そ して 後 者 は,ボ ル シ 〔エ ヴ ィキ〕 に 対 して は,前 者 よ り もな お 急 速 に 決 定 的 に な る,と 私 は 推 察 し ます 。 ア ジ ア的 マ ル クス 主 義 〔・=ボル シ ェ ヴ ィズ ム〕 が な ん と多 くの 損 害

ほ り

を な し,ひ き 起 し た の か が,今 後 盲 人 に さ え 明 ら か に な る で し ょ うQ」 こ れ は, レ ー ニ ソ 指 導 の 社 会 主 義 建 設,と り わ け 戦 時 共 産 主 義 を 指 し て い る の か ど う か, 判 断 は む ず か し い 。

9月 に は,西 部 戦 線 で,協 商 国 側 が 総 攻 撃 に 移 り,ド イ ッ 軍 が 退 却 し た 。9 月 末,ド イ ッ 参 謀 本 部 は, 、大 破 局 を 恐 れ,休 戦 提 案 を ド イ ッ 政 府 と の 会 議 上 で 述 べ た 。 協 商 国 と の 休 戦 交 渉 を や りや す くす る た め,政 府 を 民 主 主i義 的 に 装 お う と し,自 由 主 義 的 と い わ れ た マ ッ ク ス ・ フ ォ ン ・バ ー デ ソ を 首 相 と す る 内 閣 を 急 い で 発 表 し た 。 協 商 国 側 で は,休 戦 条 件 は,国 益 の 相 違 に よ りそ れ ぞ れ 不 一 致 で あ っ た が

,ウ ィ ル ソ ソ の14ケ 条 を も と に 講 和 す る こ と に 落 着 し た 。 同 盟 国 側 も そ れ に 基 づ く 講 和 締 結 を 申 し 出 た 。

(45)AusdemliterarischenNachlaBvonKarlMarx.FreidrichEngelsund FerdinandLassalle.herausg.vonF.Mehring,4.Bde,,Stuttgart1902.

㈹JohannBaptistvonSchweitzerラ サ ル の 創 立 した 全 ドイ ツ 労 働 者 協 会 の,ラ ル 死 後,会 長 に な っ た 。

(47)HilferdinganKautsky,8.IX,[19コ18,IISGKDXII632.

参照

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