家元制度 : その形成をめぐって
著者 守屋 毅
雑誌名 国立民族学博物館研究報告
巻 4
号 4
ページ 709‑737
発行年 1980‑03‑25
URL http://doi.org/10.15021/00004540
守屋 家元制度
家 元 制 度
そ の 形 成 を め ぐつて
守 屋 毅*
The Formation of the lyemoto System
Takeshi MORIYA
This article examines the iyemoto system, focusing on its histori- cal development. In chapter I the difference between personal and individual iyemoto and the iyemoto system as an organization or institution is discussed. Then the various usages of the word iyemoto in the literature of Edo period are examined. In chapter II popularization of performing arts is discussed from the following aspects: (1) the spread of aesthetic pastime in chonin (townsmen) society: (2) the enlightenment of performing arts and publication of secret traditions; and (3) the appearance of masters in town.
This chapter attempts to clarify the situation which led to the formation of the iyemoto system. In chapter III activities of the iyemoto itself which preceded the formation of iyemoto system are discussed, mainly focusing on: (1) dependence on the Tokugawa feudal system; (2) the establishment of iyemoto in Kyoto; and (3) the legitimization of iyemoto. That particular iyemoto retained supremacy over the others is pointed out. In chapter IV organi- zational methods adopted by the iyemoto are discussed. These methods are: (1) systematization of 'aesthetic pastime' population and natori (accredited master) system; (2) renovation of curriculum for educating the public, and the awarding of a diploma; (3) iyemoto and the right of issuance of a diploma; and (4) renewal of the charisma of iyemoto. In chapter V changes in methods of performance incidental to the formation of the iyemoto system are
referred to, such as: (1) the seven special ceremonies of the Senke family in the tea ceremony; (2) the change from rikka to ikebana in flower arrangement; and (3) the emergence of utai chanting in
*国 立民族学博物館第1研 究部
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the noh play. The relationship between the formation of the iyemoto system and the popularization of performing arts is speculated on. The article concludes with a discussion of wholely future development of the iyemoto system.
1.緒 論
1,小 稿 の課題 と意 図 2.家 元 と家元 制 度 をめ ぐ って 3. 「家 元 」 とい う言 葉 の史 料 上 の所 見 U.本 論 一 そ の1
1.町 人 社 会 にお け る遊 芸 の普 及 2,啓 蒙 期 の芸能 と秘 伝 の公 開 3. 「諸 師」 の輩 出 と芸 能者 の変 貌 皿.本 論一 そ の2
1.幕 藩 体 制 と芸能 師範 2.家 元 の京 都 在住 と そ の意 味 3.家 元 に お け る正 統 性 の確 立
(1)大 住 院事 件 と池 坊 ② 利 休百 回 忌 前後 の茶 湯 界 N.本 論一 そ の3
1.名 取 制 度 と遊 芸 人 ロ の系 列 化 2.大 衆 教 授 の メカ ニ ズ ム 3・ 完 全 相 伝 と不 完 全相 伝 4.カ リス マ性 の存 立 根拠 V、 本 論 一 そ の4
1.千 家 七 事式 の歴 史 的位 置 2。 立 花 か ら生 花 へ 3.能 太 夫 と素 謡 諸 師 w.結 語
1.緒 論
1.小 稿 の 課 題 と意 図
い わ ゆ る家 元 制 度 は,江 戸時 代 の歴 史 的 所 産 で あ る。 しか し,に もか か わ らず 現 代 もな お伝 統 的 芸 能 の 過 半 を制 す る組 織 と して機 能 して い る し,ま た 新分 野へ も拡 張 を つ づ け,近 年 で は国 際 的 な ネ ッ ト ・ワ ー ク さえ 確立 しつつ あ る。 した が って それ を, 単 に封 建 遺 制 とい った 性 格 の もの と み るの は当 を え て い な い し,'い まさ ら家 元 功 罪 論 を た た か わせ て み た と こ ろで,あ ま り意 味 はな い1)。 家 元 制 度 の 存 続 は,そ れ が近 世
・近 代 を貫 流 した とい う意 味 で,日 本 文 化 史 にお け る前 近 代 ・近 代 の 連続 性 ・非 連 続 性,は た また 江 戸 時 代 文 化 の性 格 に つ い て,か な り本 質 的 な 問題 を 提 起 して い る とい え よ う。
1)家 元 制度 に関 す る研 究 は,第 二 次 世 界大 戦 後 に な って 開始 され た とい つて よ い。 しか も戦 後 の思 潮 を背 景 に,封 建 制 批 判 な い しは 封建 遺 制打破 と い った命 題 の も とに,家 元 研 究 が 出 発 し た 。 した が って,こ の時 期 の 議論 の なか に は,家 元 の 功罪 を と う とい う性 格 が ぬ ぐい が た い [立川 ・広 瀬1978;175‑178]。 現在,こ う した皮 相 な功 罪 論 は お こなわ れ な くな った が,芸 能 の 現 場 に ちか い人 々の な か に は,芸 能 の継 承 や 創造 を め ぐって,家 元 の存 在 に批 判 的 な 見解
を のべ る も の もあ る[権 藤 1978:104110]。 また,か つ て家 元 に批 判 的 な言 論 を な した もの で,い まや 条 件 つ き なが ら一 種 の擁 護論 に転 じた例 もあ る[武 智 1978:56‑61】 。
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守屋 家元制度
小稿 は,そ の家 元 制 度 に つ い て,と くに 成 立 の 歴 史 的経 過 に さ かの ぼ って,あ らた め て考 察 を こ ころ み よ う とす る もので あ る。 あ らた め て とい うの は,家 元 制 度 の 成立 を め ぐる 研 究 は,す で にか な りの 量 の蓄 積 を み て い るか らで あ る 。今 日の研 究 動 向 と
そ の水 準 は,『 歴 史 公 論 』第4巻 第4号 く特 集 ・家 元 制 度 と 日本 の社 会 〉 に網 羅 され て お り2),ま た 同号 にはす ぐれ た 研 究 史 の 要 約 もあ る こ とゆ え[立 川 ・広瀬 1978:
175‑185],こ こで くりか えす こ と は さけ る 。
に もか かわ らず,筆 者 が あ えて 小 稿 を と うに は,す くな くと も二 つ の理 由 が あ る。
第 一 は,従 来 の研 究 が 家 元制 度 の成 立 を と くにあ た って,主 と して 相 伝 形 態 の変 化 に 力点 を お くた め,そ の 組 織 の解 明 に か な らず し も充 分 で は ない と お もわ れ る こ とに あ る。 私 見 に よ れ ば相 伝 形 式 の 変 化 も,組 織 化 の一 環 と して と らえ な おす 必 要 が あ る と かん が え る。第 二 は,近 来,人 類学 者 の一 部 に家 元 制 度 を超 歴 史 的 に 日本 の社 会 原理 一 般 に まで 敷 衡 す る論 が あ るの に対 して,な お そ れ が,あ る時 代 の 固有 の歴 史 的 条 件 の もとで 成 立 した こ とを 明示 して お きた い とい う点 に あ る。 す くな く と も,そ の 成 立 の歴 史 的 経 過 を み るか ぎ り,家 元 制 度 が 日本社 会 に本 来 的 に存 在 す る原理 で あ るや 否 や の判 定 に は,慎 重 にな らざ るを えな い の で あ る 。
した が って,小 稿 は家 元 制 度 が,ど の よ うな 状 況 に対応 して 生 じた,ど の よ うな組 織 な の か とい う解 明 に,従 来 あ ま り鮮 明 で な か った 視 点 を提 示 し うる もの とか ん が え
る。
2.家 元 と 家 元 制 度 を め ぐ っ て
ひ と くち に家 元 とよ ば れ るが,そ の 内実 はす こぶ る多 岐 に わ た る 。 い ま こ こに 『諸 流 家 元 鑑 』 と題 す る刷物 が あ る。 刊 年 の記 載 を か くが,お よそ19世 紀 前 期 の板 行 と考 証 さ れて い る3》。 そ こに は,表 題 の ご と く,分 野 に して31種,流 派 に して100に あ ま る家 元 の家 名 が記 され て お り(表2参 照),江 戸 後 期 にお け る一一rcの 家 元 に対 す る通 念 を しる うえで,興 味 ぷ か い 内容 を も って い る とい え よ う。 も っと も,そ の 呈示 す る と ころ と,今 日 の常 識 で い う家 元 との間 に は,す くな か らず 異 和 の 感 を 禁 じえ な い が, その こ とは,こ こで はふ か おい は しな い。 当 面 は,家 元 の 名 を も って よば れ る対 象 の 多様 性 が,了 解 され れ ば い い。
2)筆 者 もま た 同誌 に 「家元 制 度 の 成立 」 と題 す る小 論 を よせ た もので あ る[守 屋 1978a:33‑
40]。 しか し前稿 は紙 数 の制 約 上,考 察 の骨 子 をの べ る に と どま った。 本 稿 は前 稿 の素 描 の う え に,さ らに 同誌 の諸 論文 に啓 発 されて,よ り具 体 的 に論 旨を 詳述 す る もの で あ る。
3)『 諸 流 家 元 鑑」 に つ いて は,[林 屋 1974a:244]に 言 及 す る と ころが あ り,そ の全 容 は,『 歴 史 公論 』 第4巻 第4号 に影 印で も って摘 出 されて い る。刊 期 につ いて は[林 屋 1974]が 「化 政 期 な い し天 保期 」 と し,[筒 井 1978a:87]が 「化 政期 以 後 」 とす る。
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コ鱒
書 道
詩 文
儒 学
連 歌
連 俳
茶 湯
立 花
聞 香
能 楽
音 曲
一・ 節 切 浄 瑠 璃
踊
歌 謡
箏
遊 女
野 郎
滑 稽
曲 芸
口 上
蹴 鞠
囲 碁
楊 弓
有 職
表1西 鶴 諸 作 品 に み え る 遊 芸 堺の芸 自慢(r躰 永代蔵捲 二)1
手 は平 野 仲庵 に筆 道 を 許 され … … 詩 文 は深 草 の元 政 に学 び … … 伊 藤 源 吉(仁 斎)に 道 を 聞 き … …
連 俳 は西 山宗 因の 門 下 … … 茶 の 湯 は金 森 宗 和 の 流 れ … …
能 は小 畠 の扇 を 請 け … … 鼓 は生 田与 右 衛 門 の手 筋 … … 一 夜 切 は宗 三 に弟子 … … 浄 る りは宇 治 嘉 太夫 節 … … お ど りは大 和屋 甚兵 衛 に … … 八橋検校 に弾な らひ……
女郎狂ひは島原 の太夫高橋……
野郎遊びは鈴木平八を こな し……
燥 ぎは両色里 の太鼓
飛 鳥 井 殿 の御 鞠 ……
玄 斎(上 手 井)の 碁 学 … …
室 町 の器 用(r日 本 永代 蔵 』 巻 六) 目安 も自筆
連 俳 も当流(宗 因 風) 茶 の湯 は利 休 の な が れ … …
香 を 聞 くこ と京 に もな らび な し… … 謡 は三 百 五 十 番覚 へ … …
浄 る りは 山 本 角太 夫 … … 小 歌 は本 手 の 名人 … …
文 作 は神楽 ・願 斎 もは だ し… … 杖 が へ しな ど は古 伝 内 に横手 ・・… ・ 長 口上 もい ひか ね ず … …
蹴 は む ら さき腰 を ゆ る され … … 棊 二 つ と申 ……
楊 弓 は金 書 ぐ らい … …
陣 丹の醒 の暢 子(r醐 織留』巻一)
物 読 は宇 津 宮(遜 庵)に 道 を 聞 き… … 連 歌 は新 在 家 へ 立入 … …
俳 譜 は難 波 の 梅 翁(宗 因)… … 茶 湯 は金 森 の 一伝 … … 立 花 は池 の 坊 に相 生 迄 習 ひ… … 十 焼 香 は山 口 円体 に聞 覚 え … … 音 曲鳴 物 四座 の直 伝 を 習 ひ … …
嘉太夫節
小 歌 は岩 井(弥 四郎)… … 琵 琶 ・琴 は葉 山 ……
弥 七 が文 作,鵬 鵡 が物 まね … …
鞠 は紫 腰 を ゆ る され … … 碁 所 に二 つ まで 打 な し……
楊 弓 は一 中(今 井)がXり に … … 有 職 の 道 者 に した ひ… …
ロ膝 劇 も
守屋 家元制度
と りあえ ず 教 派 ・宗 派 とで も称 す べ き宗教 関係 の分 野 を除 外 す れ ば,『 諸 流 家 元 鑑 』 が 掲載 す る雑 多 な 諸 分 野 に も,大 別 して二 つ の 系 統 が み いだ せ る よ う にお もわ れ る 。
ご く大 雑 把 に い って,そ れ は,王 朝 この か た なが い 歴 史 を有 す る分 野 と,中 世 後 期 な い し近 世 初 頭 に そ の地 位 を 確 立 した もの との 二 つ で あ る。 そ して ほ ぼ上 記 に対 応 して, 公 家 家業 に属 す る もの と,民 間 に お け る もの とい った相 違 が,指 摘 で き るで あ ろ う。
と ころ で,小 稿 の考 察 の 対 象 は,家 元 一 般 あ る い は家 元個 人 で は な く,あ くまで も 家 元制 度 に あ る。 家 元 一般 ・家 元個 人 と家 元 制 度 とを わ け て か ん がえ る こ とに つ い て は,す で に研 究 者 間 に一 定 の 了解 が で きて い る。 す なわ ち,家 元 制 度 とい う場 合 は, 家 元 を 中心 に して形 成 され た 制 度 的 な組 織 体 を さす 。 家 元 を 自称 ・他 称 す る も の はす
くな くな い が,そ れ らの す べ て が 家元 制 度 と よぶ にた る組織 体 を か た ちつ くって い る わ けで は な い。 む しろ,家 元 制度 の水 準 に まで 達 した 家 元 は,か な り限 定 され た 分 野
に み られ る と さえ い え よ う。
それ は,先 引 の 『諸 流 家 元 鑑 』 に羅列 さ れ た諸 家 元 に おい て も,同 様 で あ る。 これ らの う ちで,当 時(そ して 今 日 もな お)典 型 的 ・理 想 的 なか た ちで家 元 制 度 を 形 成 し て いた もの とな る と,お の ず とそ の 範 囲 は しぽ られ て しま うの で あ って,分 野 で い え ば茶 ・花 ・香 お よび謡(史 料 上 の 記 載 は 「申楽 」)と い う こ とに な ろ う。 これ らは と もに,中 世 後 期 な い し近 世 初 頭 に,そ れ も民 間 人 と して家 元 の 実 体 を か た め た とい う 共 通項 を もつ もの で あ り,先 に指 摘 した 系 譜 で い う と,後 者 の列 にそ の ま ま重複 す る こ とに な る。 前 者 す なわ ち公 家 系 の 家 元 が 幕 初 に お け る徳 川 家 の 宮 廷 政策 に よ っ て,一家 業 に専 念 す る とい う 名 目の も とヲ 宮 廷 社 会 に 封 じ こめ一られて しま っ一た[熊 倉 1970a:8‑17]の に対 して,後 者 は,徳 川 封建 体制 に依 存 し,か つ 町 人社 会 の 昂揚 に あ い の りす る か た ちで,流 勢 の伸 張 を え た グル ープ な の で あ った4)。
な お付 言 す れ ば,右 の よ うな意 味 で の 家 元 制 度 の 形成 が,ほ ぼ18世 紀 の 出来 事 で あ る こ と も,現 在,定 説 化 して い る とい って よい 。 分 野 あ る い は流 派 に よ って 多少 の遅 速 はみ られ る もの の,茶 ・花 ・香 ・謡 な どの 領 域 で は,踵 を接 す る かの よ うに,18世 紀 に家 元制 度 の実 体 が と との った ので あ る。 した が って,そ れ らの分 野 にお い て はジ この 時 期,共 通 して 家 元 制 度 の形 成 を うな が す 芸 能 史 的状 況 が存 在 して い た とか ん が えね ば な らな い。 す なわ ち,小 稿 の考 察 の 範 囲 は,と りあ え ず18世 紀 お よび そ れ に先 行 す る時 代 に しぼ られ る こ と にな る。
4)こ の 点 をか ん が え るに,香 が 好 材 料 とな る。 実 は 香 は公 家 系 ・民 間 系 の両 方 にま たが るか ら で あ る。 この う ち,公 家 の 三条 西 家 に伝承 され た 御 家流 香 道 は,つ い に家元 制 度 にま で発 展 せ ず,お な じ香 道 で も,室 町 時代 の町 衆 志 野家 に は じま る志 野 流 は,蜂 谷 家 に継 承 され て,家 元 制度 の形 成 を みた の で あ った[守 屋 1979b:225‑226]。
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国立民族学博物館研究報告 4巻4号
3.「 家 元 」 と い う言 葉 の 史 料 上 の所 見
さ て ここで,家 元 とい う言 葉 それ 自体 につ い て,す こ し く史 料 上 の 吟味 を くわ え て お か な くて は な らな い 。 とい うの も,家 元 とい う言 葉 が流 布 を み るの は,史 料 上 の 所 見 に よる か ぎ り,そ うふ る くか らの こ との よ うに は,お もえ な い か らで あ る[筒 井 1978:86‑87]◎
現 在 ま で に紹 介 され て い る史 料 の範 囲で は,天 明3年(1783)の 『不 白 筆記 』 にみ え る2用 例 を 初 見 と し,そ れ を さ か の ぼ る例 は,い ま だ に み いだ す こ とが で き な い。
『不 白筆 記 』 は,茶 道 江 戸 千家 の祖,川 上 不 白の 手 記 で あ る が,同 書 に は 「家 元 代 々 の 像」 「家 本 二有 之 ハ … …」 とい う表 現 が あ って,「 家 元 」 も し くは 「家 本 」 とい う語 が 記 され て い る ので あ る。前 者 は 宗家 歴 代 の画 像 とい う意 で あ り,今 日で い う家 元 と い う言 葉 と 同様 に解 され る。 た だ し後 者 は,不 白か らみ て主 筋 に あ た る千 家 を さ して お り,む しろ御 本 家 とい った 意 味 に ちか い。 家 元 とい う言 葉 に は,芸 能 の 宗 家 を さす ほ か に,分 家 に対 す る本 家(と き に はそ の 逆)を 意 味す る用 法 もあ るか ら5),こ れ な ど は,そ の 用例 に くわ えて い い もので あ ろ う。
当 面 の 話題 か ら して 問 題 とな るの は,い うまで もな く前 者 の 例 で あ る。 この 線 に そ って 他 の 用例 を みて い くと,寛 政9年(1797)刊 『瓶 花 容 導 集 』 に,「 家 本 撰 」 と記 して あ るの が,注 目 され る[伊 藤 1978:27]。 この 「家 本 」 は 花道 の池 坊22代 専 定 そ の 人 の 謂 で あ る。 これ は特 定 の 人 物 を さ して家 元 と明 記 した 最初 の例 と な る。 つ い で 茶 道 の方 で は 享 和3年(1803)刊 『茶 話 真 向翁 』 に6),「 千 家 お よ び 藪 内を 茶 の 家 本 と唱 ふ 」 とい う記事 を み,さ らに同 年 の 『後 はむ か し物 語 』 に能(謡)の 稽 古 に関 連 して 「早 く家 も との弟 子 と成 り,伝 授 事 を も多 くす ます を 旨 と し,家 もと も謝 礼 を と る事 なれ ば」 と,弟 子 ・伝 授 ・謝 礼 とい った家 元 制 度 を 構 成 す る キ ー ・ワ ー ドを と
もな って,「 家 もと」 の 語 が つ か わ れ て い る 。
上 述 の ご と く,家 元 とい う言 葉 は,よ うや く18世紀 末 か ら19世 紀 初頭 に い た って, 史 料 上 に用例 を ま す の で あ る。 つ ま りそ れ は,今 日い うと ころ の家 元 制 度 が 成 立 した の ち に,は じめ て 意 識 され た 呼称 だ とい うこ と にな ろ う。 逆 に いえ ば,家 元 制 度 とい 5)『 大 日本 国語 辞 典 」 は,「 い え も と」 の項 に,芸 能 の伝 統 的技 芸 を 継 承 して きた家 筋 ・者 ・身
分 とい う第一 の解 と と もに,第 二 と して 「分 家 か ら本 家 を指 して い う語 。 大 分県 や 鹿 児 島県 の 一 部 で は分 家 を い う」 とす る[日 本 大 辞典 刊 行 会 1972:624] 。
6)こ れ まで は,『 茶 話 真 向翁 」 の 刊 年 を享 保3年(1718)と して,そ れ よ り前 の元 禄 期 には, す で に家 元 の称 が 生 じて い た と みな されて きた 。 これ は[西 山 1959]に はじ ま り,以 後 の研 究 者 も無 批 判 に う けつ い だ が,同 書 が翻 刻 され る に際 して刊 年 が 享 保 で はな く享和3年 で あ る こ とが 指 摘 され[筒 井 1976;17‑18],家 元 とい う言葉 の初 見 が おお はば に時 代 を さげ る こ と にな った。
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った あ た ら しい組 織 体 が 形成 を み た と き,そ の中 枢 を な す 諸 流 宗家 の存 在 が,従 来 と は ちが った 名称 で よば れ な くて は な らな か った と理 解 され る の で あ る7)。 家 元 とい う 言 葉 の 通行 そ の もの に,家 元 制度 形 成 とい う歴 史 的 経 過 が は らま れ て い た こ と に,わ れ わ れ は気 づ か ね ば な らな い。 そ の家 元 とい う言 葉 が,『 諸 流 家 元 鑑』 に み られ る よ
うに,き わ め て ひ ろ い領 域 に汎 用 され るの は,さ らに そ の後 の毅 階 な の で あ った。
II.本 論 そ の1
先 述 の よ う に,家 元 制 度 の形 成 が18世 紀 の 事象 で あ った とす る な らば,そ の 形成 過 程 を論 ず る小 稿 は,ま ず,そ れ に先 行 す る17世 紀 の 芸能 状 況 の考 察 よ り出発 す るの が 穏 当 で あ ろ う。 む ろん,こ こで17世 紀 に お け る芸 能史 の一 般 的記 述 をな す 必 要 はな い し,そ のつ も り もない 。 当 面 の 課題 に 即 して 肝 要 なの は,近 世 初 期 芸 能 史 の 諸 現 象 の な か に,将 来,家 元 制 度 の 形 成 を 促 進 してい くこ とに な るで あ ろ うはず の,そ の い く 筋 か の動 向 を み きわ め る こ とに あ る。 この考 察 は,と り もな お さず,家 元 制 度 形 成 の 端 緒 も し くは前 提 とな る条 件 を 明 確化 す る作 業 に ほ か な らな い 。
い ま結 論 を先 ど り して いえ ば,そ の諸 動 向 は,総 じて 遊 芸 の 大 衆化 とい う言 葉 で 概 括 す る こ との で きる もので あ る。 家 元 制 度 の組 織 的 整 備 は,そ の 大 衆化 状 況 へ の対 応
と して 理解 す べ き もの とか んが え られ る。
1. 一町 人 社 会 に お け,る遊 芸 の 普 及 一
家 元 制 度 が 形 成 を み る前 提 と して,ま ず 第 一 に指 摘 ざれ な くて はな らな い の は,町 人社 会 に お け る遊 芸 の 広 汎 な浸 透 につ い て で あ る。 こ こで い う遊 芸 と は,専 門 的 な芸 能 者 以 外 の一 般 人 が,余 技 と して お こな う芸 能 行 為 を さ して い る。 今 日の 用語 で い え ば,芸 事 も し くは習 事 に あた る もの で あ る。 かか る素 人 の 演 芸 は,か な らず し も当該 時 期 に 固有 の事 柄 で はな い 。 王 朝貴 族 の遊 宴 な ど は,そ の 好 例 とす べ き もので あ った が,し か しそ れ らは,い わ ば芸 能 史 の 周辺 に生 じた 現 象 で あ って,各 時 代 の芸 能 状 況 の 中心 的 話 題 とす る に は,た らぬ もの で しか な か った。
しか るに,17世 紀 を 通 じて 遊 芸 が 各 界 ・各 層 にい ち じ る し く拡 張 した傾 向 は,あ ら 7)で は,家 元 と い う語 が生 ず る以前 に,宗 家 な い しそ の 当主 を どの よ うな 称 で よん だ か が 疑 問
とな るが,そ れ を 論 ず るだ けの 史料 が ない 。 ただ,立 花 池 坊 につ いて は,松 葉軒 玉 翁 著 『ふ」
に 「彼 家(池 坊)ハ 古 今 道 の本 所 」,荒 木 田成季 著 『立 花 聞書 良 禽 紗」 に 「本 家 の後 の 障 」 な どと あ り,「本 所 」 「本 家 」 と い った 表現 が み え る。 も っと も後 者 の例 は,池 坊 よ り分 派 した大 住 院(後 述)に 対 して 池 坊 を 「本 家 」 とい って い るわ けで,い わ ゆ る家 元 に先行 す る用 語 の例 とは な らな い か も しれ な い 。
国立民族学博物館研究報告 4巻4号 た め て注 目 に値 す る もの が あ った。 劇 場 に よ る玄 人 の 舞 台 芸能(歌 舞 伎 や 人形 浄瑠 璃 な ど)と,座 敷 を 会 場 とす る素 人 の室 内芸 能(い う と ころ の遊 芸)と が,ひ と し く存 在 を 主 張 しあ う近 世 芸 能 史 の構 造 が,こ の 時期 に か た ちつ く られ た の で あ った[守 屋 1979b:202]。 こ とに 遊 芸 の 普及 は,新 興 の町 人 層 に 顕 著 に あ らわれ,元 禄 期 を む か え る頃一 す な わ ち17世 紀 末 に は,町 人 の生 活 と遊 芸 はわ か ち が た くむ す び つ い て い た の で あ る。
町 人 社 会 へ の遊 芸 の浸 透 が,彼 らの経 済 力 の 向 上 に と もな って もた らされ た こ とは
表2 『諸 流 家元 鑑 』 に み え る家 元 ・流 派 神 道
仏 道
修 験 道
儒 道 医 道
陰 陽 道
亀 卜 衣 紋 諸 礼 算 法 花 道 茶 道 香 道 申(能)楽 幸 若 音 曲 和 歌
笙
箏 築
笛
琵 …琶 箏 ・ 和 琴 神楽歌 ・歌曲 左 舞 右 舞 書 道.
画 工 蹴 鞠 連 歌 俳 譜 囲 碁 将 棊
唯 一 宗源,両 部 習 合,本 跡 縁起,長 官 白川 家,長 職吉 田家
三 輪 宗,法 相 宗,倶 舎 宗,成 実 宗,律 宗,華 厳 宗,天 台宗,真 言 宗,禅 宗, 浄 土 宗,一 向宗,日 蓮 宗,時 宗,融 通念 仏 宗
本 山聖護 院宮,当 山三 宝 院 殿 菅 家,清 家,林 家
丹 波 家
土 御 門 家,幸 徳 井 家 吉 田家
家 元 高 倉 家,家 元 山科 家 家 元 小笠 原 家,今 川家,伊 勢 家
関流,宅 間 流,宮 城流,和 田 流,最 上 流,中 根 流,三 木 流 生 花 松月 堂 古 流 家 元植 松家,立 花 家 元 六 角 堂池 坊
家元 嚢者奈路 千家
志 野流,相 阿弥 流
上 掛 家 元 観世,同 宝生 下 掛 家 元金 春,同 金 剛,同 喜 多 家 元 幸 若
二 条 流,冷 泉流 家 元 冷 泉家 家 元 豊 家,同 辻 家,同 薗家,同 林家
家元 阿 部 家,同 窪家,同 東 儀 家 家元 山井 家,同 上 家,同 岡 家
御家 元 伏 見 家,家 元 西 園寺 殿,同 今 出川 殿,同 花 園家 家元 四辻 家
家元綾小路家,同 持明院家,艘 楽諮 家元多家 家 元辻 家
家 元 林家,同 東 儀家
一 流 御家 元 有 栖 川宮 ,一 流 御 家 元青 蓮 院 宮,一 流 家 元 花 山院 殿,一 流家 元 持 明 院 家
一 流 家元 土 佐 家,一 流 家 元狩 野家 家 元飛 鳥井 家,同 難 波 家 家 元 里村 家
伊 勢 流,西 山流,貞 門,蕉 門,江 戸 派,美 濃 派 家 元 本 因坊,同 井上 氏,同 安井 氏,同 林 氏 家 元 大 橋氏,同 伊藤 氏
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守屋 家元制度
い うを ま た な い が,そ の態 様 や機 能 に は複 雑 な 内 容 が は らま れて い た。 それ らの点 に つ い て は,す で に くわ し く論 述 した こ とが あ るか ら[守 屋 1977:32‑54],委 細 は前 稿 に ゆず り,い ま は端 的 な事 例 を か か げて,町 人 た ちの 遊 芸 へ の傾 倒 を指 摘 す る に と どめ る。 そ の事 例 は,当 時 の 浮世 草 子 作 者 井原 西 鶴 の作 品 に みい だ さ れ る(表1参 照)。
西 鶴 が 『日本永 代蔵 』 巻 二 の な か で,江 戸 東 海 寺 門前 に た たせ た 乞 食 の 告 白 は,か つ て そ の 男 が 修 得 した16種 もの芸 事 を か た って い る 。 さ らに 『西 鶴 織 留 』 に え が か れ た 摂 州 伊 丹 の 豪 商 の 息子 の描 写 に も,や は り ほぼ 同 数 の芸 事 を かぞ え る ことが で き,同 様 の文 章 は他 に もみ うけ られ る。 いず れ も一 人 の 人 間 が お さめ る に して は過 大 な 数 で
あ り,草 子 にあ りが ちな文 飾 の誇 張 を まぬ が れ え ない が,こ こに列 挙 され た諸 芸 は, そ の 頃の 町 人 が 参 与 した遊 芸 の総 覧 とみ るべ く,.町人 的遊 芸 世 界 の構 図 なの で あ った 。 そ れ に な に よ り も,こ う した遊 芸 に か かわ る話 題 が,く りか え し大 衆 的文 芸 の 素 材 と な る こ と自体 に,町 入 生 活 に しめ る遊 芸 の位 置 が反 映 して い る。
2.啓 蒙 期 の 芸 能 と 秘 伝 の 公 開
第 二 に 指 摘 し う る こ と は,出 版 と い う近 世 的 な 伝 達 手 段 の 展 開 に と も な って 生 じ た, あ らた な 芸 能 史 上 の 現 象 に つ い て で あ る 。
17世 紀 は,各 分 野 を と わ ず,知 識 や 技 術 の 啓 蒙 が 活 発 に 進 行 した 時 代 で あ っ た 。 出 版 と く に 大 量 印 刷 を 可 能 に した 整 板 本 の 出 現 と い う あ た ら し い マ ス ・メ デ ィ ア の 開 発 に 先 導 さ れ て,各 種 の 「全 書 」 「図 彙 」(全 集 ・図 録)の 表 題 を か か げ る 書 物8)が,し か も 「訓 蒙 」(入 門 書)の 名 を そ え て,あ い つ い で 開 板 を み た こ と に つ い て は,す で に 先 学 に 論 が あ る[林 屋 1964a:371‑374]。 そ れ ら の う ち に,芸 能 関 係 の 書 籍 が 相 応 の 比 重 を しめ た こ と は,こ の 際 も う一 度,着 目 す べ き で あ ろ う9)。 芸 能 も ま た,い わ ば 啓 蒙 期 に 際 会 して い た の で あ っ て,そ れ と,町 人 社 会 へ の 遊 芸 の 浸 透 と は,表 裏 一 体 の 現 象 で あ った と 理 解 す る の が た だ し い 。
出 版 と芸 能 が 連 動 す る こ と で,そ の 知 識 や 技 術 が 公 刊 を み る 事 態 は,な に も芸 能 に 対 す る一 般 の 関 心 が た か ま った こ と ば か り を,意 味 し て い た わ け で は な か っ た 。 そ れ は,『 古 今 茶 道 全 書 』 が 序 文 に 「諸 家 の 秘 奥 を 集 め 」 と うた って い る ご と く,よ り つ 8)元 禄3年(1690)刊r人 倫 訓蒙 図彙 』,元 禄9年(1696)刊 『農 業全 書 」(宮 崎 安貞 著),正 徳3年(1713)刊 『和 漢三 才 図 会 』 な ど の 出版 物 を想 起 され た い。
9)た とえ ば能 楽 にお い て は,貞 享4年(1687)刊r能 之 訓 蒙 図彙 』,同r舞 楽 大 会』,元 禄10年 (1697)刊r能 之 図式 』,元 禄12年(1699)刊 『舞楽 蘂 葉 大 全」 な どの書 物 が,こ れ に あた る。
花道 で は天 和3年(1682)刊r立 花大 全 』,貞 享5年(1688)刊r立 花 指南 』,元 禄8年(1695) 刊r立 花 便 覧 』,享 保2年(1717)刊r立 花 訓 蒙 図 彙』,享 保5年(1720)刊 『立 花全 書 」 な ど が あ る。 また茶 書 につ い て は,[筒 井 1978b]を 参 照 の こ と。
国立民 族学博物 館研究報告 4巻4号 きつ めて ば え い,従 来 ご く限定 さ れ た人 々 専 門 的芸 能 者 集 団 の 内部 に 占有 さ れて き た伝 統 的 な芸 能伝 承,い わ ゆ る秘 伝 の一 部 も し くは 全 部 が,ひ ろ く大 衆 の まえ に 開 陳 され る こ とを 意 味 して い た の で あ る10》。 そ して それ は,「 一 子 相 伝 」 とい った言 葉 に典 型 的 に あ らわ され る閉 鎖 的 な芸 能 教 授 の 形 態 に,根 本 的 な 変化 を しい る もの で あ った とい わ ね ば な らな い 。 い ま や 奥儀 は,厳 格 な 徒 弟 的 修 業 の の ちに,ひ そか に伝授 され る もの で は な く,市 井 の書 騨 の 店 頭 に あ った と いえ る。
遊 芸 が,「 稽古 事 」 「な らい事 」 の 側 面 を か かせ ない とす れ ば,教 授 形 態 の簡 易 化 は, い っそ うそ の普 及 ・拡 散 に拍 車 を か け る こ とに な る。 「全 書 」 「図 彙 」 と い った一 般 的 啓 蒙書 が具 体 的 な教 習 と どれ ほ ど関 連 して い た か は検 討 の 余 地 を の こす が,い わ ゆ る 稽古 本 の 出版 が盛 行 を み るに つ け,上 の事 態 は よ り顕 在 化 した 。 こ こで は,浄 瑠 璃 正 本 を例 に のべ よ う。 「正本 」 とは,文 字 ど お り権 威 者 のか た った 正統 の本 文 と い う意 で あ り,も とも と は浄 瑠 璃 の 詞 章 を 印刷 に付 した 出版 物 に ほか な らな い 。 と こ ろが そ の 浄 瑠璃 正本 は,宇 治 加 賀橡 を 画 期 と して,先 行 の謡 本 に な ら って 節 付 を ほ ど こ し, 稽 古 本 の 体 裁 を とる に いた った と され て い る。秘 伝 も し くは 口伝 と され て い た節 付 を 公 開 す る こ とに よ って,そ れ は,単 な る読 物 で は な く,浄 瑠 璃 の 独 習 用 教 本 も し くは 教 授 用教 本 と して の機 能 を か ね る こ と にな った わ けで あ る。 大 衆 が 一 冊 の書 物 に よ っ て,そ の 道 の権 威 に むす ば れ る と い う図式 が,こ こに うま れ る。
3.「 諸 師 」 の 輩 出 と芸 能 者 の 変 貌
しか し,遊 芸 とは い え芸 能 が あ くまで も技 芸 の体 得 に よ って な りた つ もの で あ る か ぎ り,書 物 に よ る伝 達 に一 定 の 限界 が あ るの は,自 明 で あ った。 出版 に よ る啓 蒙 は, 同時 に その 不 備 を お ぎな う芸 能 教 授 ス タ ッフの 出現 を うな が して いた の で あ る。家 元 制 度 の形 成 の前 提 を な す第 三 の動 向 が,こ の 点 に も とめ られ る。
先 に 関説 した 西 鶴 の 記述 が,「 手 は平 野 仲庵 に筆 道 を許 され …… 」 とい った具 合 に, 諸 芸 そ れ ぞれ に相承 の 関係 を 列 記 して い る の は,出 版 物 に よ る普及 ・啓 蒙 が す す ん だ に もせ よ,や は り芸 事 が しか る べ き 師 匠 につ いて 伝 授 され ね ば な らな か った こ とを, 示 唆 して い る。 む ろん,西 鶴 の 列 挙 す る師 匠た ち は,当 代 著 名 の人 物 ば か りで あ って,
これ らを巷 間 の 町 師 匠 と同 列 に み な す こ と はで き ない 。 しか し,そ う した名 人 上 手 に 10)林 屋辰 三 郎 氏 は,『 古今 茶 道 全 書 」 の 分析 を 通 じて,そ の 書物 の特 色 を 「中世 的秘 伝 の世 界 か らの解 放 」 「説 明 の合 理 性 」「諸 流 を 公 平 に通 観 して一 流 に偏 さな い こ と」 の三 点 を 指摘 し, 「平 易 な振 仮 名 つ き の文 章 」 「図解 を も って説 き明 か す」 とい った手 法 に もふ れ,「 元 禄 時 代 と い う町 人 の大衆 社 会 の 成 立 を まえ に して,大 きな啓 蒙 的 役 割 を果 した 」 とむ す んで い る[林 屋 1964b:382‑383]。 これ らの性 格 は,花 道伝 書 の公 刊 に 関す る研 究{波 戸 1967:26‑‑34]な ど か ら して,こ の時 期 の他 の芸 能 啓 蒙 書 にも共 通 す るも ので あ った と いえ よ う。
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お い て さ え,素 人 を 対 象 と した 芸 能教 授 に たず さわ って い た現 実 が,上 の記 事 に は う か が え る の で あ る。
わ れ わ れ は,17世 紀 にお い て 芸 能者 の社 会 的 な存 在 に,お お き な変 化 が あ った こ と に気 づ か ね ば な らな いだ ろ う。 芸 能者 そ れ 自体 が,求 道 者 か ら啓 蒙者 へ の変 貌 を と げ た と ま で い うの が 過 言 にす ぎる な ら,そ の両 方 を 兼 備 せ ね ば な らな い と ころ に,
さ しか か って い たの だ った 。 な ぜ な らば,町 人 社 会 に形 成 され た 膨 大 な遊 芸 人 口 は, そ れ に み あ った 量 の 教 授 陣 を 必 要 と して い た か らで あ る。
西 鶴 が い わ ば名 鑑 風 につ づ った 著 名 芸能 者 の背 後 に は,そ れ に数倍 す る大 量 の諸 師 が ひ か え て い た ので あ る。 『京 羽二 重 』 『江 戸鹿 子 』 『難 波 鶴』 な どの 町 鑑(都 市 案 内 書)が,改 板 の た び に掲 載 を か か さな か った 「諸 師 諸 芸 」 の項 は,そ の状 況 の一 端 を つ た え て い る11)。む ろ ん,こ う した書 物 に も登 載 され な い群小 の 町 師 匠 の お び ただ し く分 布 した こと,類 推 に かた くな い 。 こ とに無 名諸 師 の生 態 は,そ もそ も最 初 か らみ ず か らの 芸 道 に精 進 す る とい った もの で は な か った。 あ るい は 後継 者 の 養成 に あ た る もの で もな い。 む しろ素 人 大 衆 を 相手 に,芸 の手 ほ ど きを す る と ころ に,彼 らの存 在 理 由が あ った の で あ る。
皿.本 論 そ の2
以 上 の べ きた った よ うな 遊 芸 の大 衆 化 が進 行 す る一 方 で,や が て家 元 制 度 の 中核 に す わ る こ と にな る諸 流 宗 家 い わ ゆ る家元 は,ど の よ うな う ご きを しめ して い たの で あ ろ うか 。 つ ぎ に,こ れ ら家 元 た ち の17世 紀 に お け る動 向 に つ い て 概 観 す る 。む ろ ん,こ こで も家 元全 般 につ いて の 議 論 は,必 要 で な い。 話 題 は,の ち に家元 制 度 とよ ぶ に充 分 な 組 織 を形 成 す る こ との で きた特 定 の もの に 限定 され る。 家 元 制 度形 成 の契 機 を あ き らか に す る小 稿 の意 図 か らして,彼 らの足 跡 を た ど る こ とで,こ とた りる で
あ ろ うか らで あ る。
以 下,そ の動 向 の な か よ り特 徴 的 な事 実 を三 点 に わ た って 検 討 して み る。
1.幕 藩 体 制 と芸 能 師 範
そ の 第 一一ICあ げ る べ き は,の ち に 家 元 制 度 を 達 成 す る 流 派 宗 家 の お お くが,17世 紀 の あ る 時 点 で 諸 大 名 の 「お か か え 」 と な り,な に が し か の 扶 持 を 給 付 さ れ る立 場 に 身 11)『 京 都 の 歴 史」 第6巻[京 都 市 編 1973:124‑125]に,『 京 羽 二 重」 諸板(宝 永 ・延 享 ・文 化)の 「諸 師諸 芸 」 の 一 覧表 が 掲載 され て い る ので,参 照 され た い。 上 に よれ ば,宝 永 板で は 24種117名,延 享板 で は30種122名,文 化 板 で は30種211名 の記 載 が み られ る。
国立民 族学博物館研究報告 4巻4号 をお くに い た る事 実 で あ った。 彼 らは,世 にい う 「知行 と り」 に な った の で あ る。 そ れ は,足 利 義 満 と世 阿 弥,豊 臣秀 吉 と千 利 休 の ご とき個 人 的 関 係 で はな く,御 数 寄 屋 頭 な どの 名 称 の も と,各 家 の職 制 の な か に位 置 づ け られ,か つ 世 襲 的 にそ の 職を つ ぐ の が通 常 で あ った 。 公家 系 の家 元 と は こ とな り,も と もと一 介 の 民 間 人 に す ぎな か っ た町 人 宗 匠 が,幕 藩体 制 支 配 層 のな か に一 定 の 地 位 を え た と い う意 味 で,こ れ は看 過
しが た い 出来 事 で あ った とい え よ う12)。
幕 政初 期 に お け る武 断 的 態勢 が,ほ ど な く文 治 的 な そ れへ と移 行 す る過 程 で,武 家 社 会 の 内部 に は遊 芸 へ の志 向 が顕 在 化 した 。 武 士 の修 養 と して,武 芸 よ り遊 芸 へ と力 点 の推 移 が み られ た ので あ る[村 井 1969a:251〜252]。 か く して 武 家 社 会 へ の 遊芸 の 普及 は,む しろ町 人 社 会 に先行 して あ らわ れ る こと にな る。諸 々 の大 名 家 にお い て 著 名 な宗 匠 を め しか かえ,藩 主 は も とよ り家 臣 に対 す る芸道 師範 の役 に任 ず る風 潮 が し き りで あ った。 家 元 た ちが 芸業 を も って官 途 につ く道 は,大 名 の側 か らひ らか れ た の で あ る 。 も っ と も,彼 らが 仕 官 に応 ず る こと は,そ の 求道 者 よ り教 授 者 へ の 転 身 を
もの が た って お り,そ の か ぎ りで は巷 間 の 町 師 匠 の動 向 と軌 を一 に して い た。
例 を 茶道 の 千家 の場 合 に と る と,こ の芸 能 者 と して の い きか た の差 は,千 宗 旦 とそ の 息 子 た ち との 間 に歴 然 と あ らわ れ る。 宗旦 彼 自身 は,一 生 を 千家 再 興 に つ いや し, 主 家 を もつ こ と もな く清 貧 の う ちに 生涯 を お く り,た め に 「乞食 宗旦 」 の異 名を も甘 受 せ ね ば な らな か った13)。 しか しそ の宗 旦 に して,こ と息 子 た ち の 身上 と な る と,彼
らの 「あ りつ き」(主 ど り)に,な み な み な らぬ 関心 を い だ い て い た様 子 が,宗 旦 文 書 の 公 刊 に よ って し られ る よ うに な った[林 屋 1974b:158]。 宗旦 自 身 は 出仕 しな
くと も,世 の 趨 勢 は彼 の 眼 に もみ え て い た ので あ る。
そ して 父 親 の 期 待 どお り,宗 旦 の 嗣子 宗 左(表 千家 ・不 審 庵)は,は じめ唐 津 城 主 寺 沢 志 摩 守 広 高 の も とに 就職 し,つ いで 寛 永19年(1642)に 紀 州 徳 川 頼 宣 の も とに お 12)将 軍 家 ない し幕 府 にお け る芸 能 師範 の あ りよ うは,分 野 に よ って 一一ecで な い。茶 湯 の 場 合 は, 五代 将 軍 綱 吉 の代 に いた り,そ れ まで 古 田織 部(秀 忠),小 堀 遠 州(家 光),片 桐古 州(家 綱) とつ づ い て きた武 人 茶 匠 に よ る茶湯 師範 の慣 行 が途 絶 し,以 後 は幕府 職 制 によ る数 寄 屋 頭 以下 が,柳 営 茶 湯 を管 掌 す る こと にな る。 これ につ い て は 「幕 府 体 制 の確 立 の結 果,将 軍 の 権威 は 確 立 し,も はや将 軍 は指南 され る対象 で はな くな った 」 とされ る[村 井 1969:243]。 しか し 能 楽だ と,観 世太 夫 元 章(1722〜1774)は,父 に つづ いて 家重 ・家 治二 代 の将 軍家 能 指 南 役 を っ と めて お り,元 章 によ る家 元 制 度 の 強化(た とえば 明 和 改正 謡 本 の刊 行)も,将 軍 や 有 力諸 候 の後 援 の も とに推 進 され た もの といわ れ る[竹 本 1978:141]か ら,一 概 に村井 説 の みでわ りきれ る もの で は な い。
13)宗 旦 の貧 窮 を しめす 史 料 はす くな くな いが,こ こにはr隔 糞 記」 寛 永17年(1640)4月2日 条 を か か げ る。
今 日,宗 旦 先 年借 用 之 銀 子之 借 状 持 参 而 返 千宗 旦,則 宗旦 喜 悦也 。
これ は金 閣 寺 の鳳 林 和 尚 が,宗 旦 の 借金 を 棒 び きに して や った こ とを記 して お り,宗 旦 が 各方 面 の知 己 に金 を か りて い た様 子 が うか が えて 興 味 を ひ く。
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もむ き,や が て 御 数 寄 屋頭 と して200石 の高 禄 を も って 遇 され た とい わ れ る。 さ らに 次 男 宗 守(武 者 小 路 千家 ・官休 庵)は 讃 岐 松平 家 に,四 男宗 室(裏 千 家 ・今 日庵)は 加 賀 前 田家 に,そ れ ぞ れ茶 頭 と して つ か え る な ど,有 力大 名 の も とに 仕 官 を は た した
の で あ る[西 山 1962:174]。 門 人 た ち もま た 山 田宗 偏 が三 河 吉 田藩 へ,藤 村 庸 軒 が 藤 堂 家 へ と い った 具 合 に,大 名 の もと に 出仕 を え て い る 。
当 時,人 々 は こ う した 芸 能 師範 の仕 官 を 「お 館 い り114)と 称 した 。 そ して そ の 「お 館 い り」 は,同 業 芸 能者 間 に あ って 彼 らの地 位 を優 越 させ る こと に な り,や が て家 元 制 度 が成 立 して い くに際 して,現 実 的 な体 制 の 裏 づ け と して,有 利 に作 用 した の で あ る。
2.家 元 の 京 都 在 住 とそ の 意 味
第 二 に考 慮 に いれ て お いて い い の は,こ れ らの 宗 家 が,諸 家 中 の芸 道 師 範 と して 知 行 を とる よ うに な って も,な お依 然 と し℃京 都 か らはな れ よ う と しな か った点 で あ る。
上記 の よ うに三 千 家 はお の お の大 名 の もと に 出仕 した が,本 拠 を京 の地 か らうつ して はい な い。60人 扶 持 をた まわ って前 田家 に め しか か え られ た 宗 室 は,金 沢 移 住 を要 請 され な が ら,父 宗旦 よ りゆず られ た京 の茶 亭 の 断 絶 を お しん で,移 住 を 固辞 した とつ たえ られ る。 彼 らは仕 官 した とは いえ 非 常 勤 とで もい うべ く,時 季 を さだ め て い わ ば 集 中 講 義 に 任 地 へ お もむ い た のだ った 。
あ るい は能 楽 の 観世 家 の場 合,は や くよ り本 拠 を江 戸 に うつ しな が ら,そ の後 もな お,由 緒 あ る京 都 大 宮 の観 世 屋 敷 の 経 営 を持 続 した の も,注 目 され て よい 。 これ の逆 を い った の が,能 楽 の 渋 谷 流 で あ って,紀 州 徳 川 家 の お か か え とな った の を機 に,そ の主 力 を 和 歌 山 城 下 へ うつ した た め,結 局,地 方 能 楽 師 とな って しまい,手 猿 楽 渋谷 に発 し,一 時 は禁 裏 御 能 楽 師 を もつ と め た200年 の栄 光 を う らぎ る結 果 を まね い た の で あ る[堀 口 1973:31‑32]。 この渋 谷 のた ど った 道 程 は,そ の ま ま,京 都在 住 の有 利 性 を示 唆 す る もの で あ った とい え よ う。 た とえ大 名家 の指 南 役 と して 禄 を は も う と
も,京 都 の 地 に固 執 す る家 元 の い た こ と は,そ れ な りに理 由 の あ る ことだ った とい わ ね ば な らな い 。
と りあ え ず想 定 し うる理 由 は三 つ で あ る。
そ の一 は,古 都 京 都 とい うオ ー ソ ライ ズ され た 土 地柄 と,そ の か も しだす 文 化 的 雰 14)宗 旦 が仕 官 を 拒 否 した 話 と して,『 本 阿弥 行 状 記』168条 に,次 の よ うな記 述 を み る。
或 年 宗旦 子 を 御 大 名方 よ り達 て御 招 きに付,江 戸 表 へ 被 参 候事 極 り,大 津 迄 行 て,俄 に不 快 とて 終 に 出府 止 候 由。 實 は虚 病 にて,其 人 へ 屈 し候 て 御 館 入 の事,一 向 に不 同 心故 と相 聞 申 候 。 我等 な ど も別 て念 比 に候 へ共,此 氣先 に於 て は甚 だ 以 て 心恥 敷 存 る事 度 々有 之候 。
国立民族学博物館研究報告 4巻4号 囲 気 に 依 存 す る こ とに あ った 。 芸能 者 とい う もの は,か な らず しも技 芸 の優 劣 の み に
よ って 評 価 を うけ る もので は ない 。 しか も彼 らが啓 蒙 者 ・教 授 者 と して 存 在 す る とな る と,い っそ うそ れ を と りま く雰 囲 気 が大 切 な要 素 と なる 。 そ の 時,京 都 とい う土 地 の もつ 雰 囲 気 を 背 景 に す る こ との利 点 は,お お き か った とい え るで あ ろ う。
そ の二 は,い ます こ し現 実 的 な理 由で あ る。 それ は,家 元 が 家 業 を ま っと うす るた め に必 要 な物 資 が,京 都 以 外 の と ころで は容 易 に 調達 しがた か った とい う事 情 で あ る。
遊 芸 は,高 級 奢 修 生 産 な い し伝 統 的手 工 業 の うみ だす 製 品 に よ って 維 持 され る。 い う まで もな く京 都 は,そ の 中 心 地 で あ る。 の ち に 「千 家十 職 」 の 編 成 を み るよ うに,京 都 在住 の 家元 は,み ず か らの 「この み 」 の用 具 を手 ち か に入 手 す る条 件 を も って い た のだ った 。
そ の 三一 お そ ら くこれ が 最 大 の理 由で あ ろ う一 は,京 都 に は町 衆 文 化 以 来 の遊 芸 人 口が,他 の都 市 に先 だ って 形 成 され て お り,宗 家 が そ れ との接 触 に おお きな 魅 力 を感 じて い た こ とが あ る。 宗 旦 の 高 弟 い わ ゆ る宗 旦 四 天 王 は いず れ も町人 茶 人 で あ っ た し,花 道 の 池 坊 に も 「好 立 花 町 人 」 の 出入 が,は や くか らみ られ た の で あ る。 町 人 社 会 の遊 芸 人 口を 相手 ど る点 に お いて は,名 門宗 家 も町 師 匠 もか わ る と ころ は な い。
家 元 た ち は 「二 足 の わ ら じ」を は い た のだ とい う先 学 の指 摘 はす る どい[西 山 1962:
183‑184]。
理 由 あ る い は動 機 が どの よ うに あ った に もせ よ,一 部 の家 元 が京 都 在 住 を つ づ け た こ とは,結 果 と して,彼 らが 家 元 制 度 の組 織 化 に着 手 した と き,有 力 な はた らきを な した こ と,疑 問 の余 地 が ない15)。
3.家 元 に お け る正 統 性 の確 立
さ て 第 三 に,諸 流 派 宗 家 が あ る 種 の 正 統 性 を 鮮 明 に す る 過 程 の あ っ た こ と を,指 摘 して お く。 そ れ は そ の ま ま,家 元 制 度 の 形 成 に あ た り,家 元 の 名 の も と に そ の 中 枢 に す わ る 資 格 も し く は 名 門 性 の 確 立 と い って も よ い 。
(1) 大 住 院 事 件 と 池 坊
立 花 の 池 坊 で は,一 連 の お 家 騒 動 を 剋 服 す る こ と で,そ れ が は た さ れ る[森 谷 19 76:16‑19]。 ま ず そ の 第 一 段 階 は,二 代 専 好 と そ の 養 子 専 存 の 対 立 に は じ ま る 。 対 立 の 契 機 は分 明 で な い が,寛 永 の 末 年 よ り正 保 年 間 に か け て,専 存 は 伊 勢 国 に 「遷 流 漂 泊 」(『立 花 聞 書 良 禽 紗 』)を 余 儀 な く さ れ た ほ ど で あ った か ら,父 子 の 関 係 は,勘 当 15)林 屋 民 は,京 と家 元 をつ な ぐ もの と して,京 都 とい う都市 の 「中 華 性 」「企 業性 」「伝 統 性 」 を 「三 つ の性 格 」 と して あげ て い る[林 屋 1975:165・・‑166]。
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同 然 の 深 刻 な 状 態 に あ った こ とが うか が え る。 この 内紛 は,高 弟 河 原 町 周 玉 らの和 解 工 作 を う けい れ た専 好 が妥 協 す る こ と によ って,終 結 した。 しか しこの 結 末 は,宗 家 の後 継 者 決 定 が 高 弟 の発 言 力 に よ って 左 右 され た こ とを 意 味 して い た。
当時,池 坊 で は宗 家 側 近 の 門 弟 を,一 門衆 も し くは外 弟 と16)よ ん だが,そ の 外 弟 た ちの抗 争 が お家 騒 動 の 第 二毅 階 と な る。 専 好 の 没 後,4年 ば か りで 嗣子 専 存 が 死 に,
しか も後 嗣専 養 が い まだ 幼 年 とい う状 況下 で,そ の抗 争 が 激 化 した 。 対立 の一 方 の極 が 河 原 町 周 玉,他 方 に大 住 院 以 信(別 の 名 を 日甫)が いた 。 こ の時,周 玉 は幼 少 の専 養 を 擁 して,宗 家 の後 見 役 を も って 任 じ,他 の一 門衆 を も結 集 して い わ ば 主 流 派 を形 成 す る こ と に成 功 す る。 大住 院 は,近 衛 予楽 院 を して 「門 人 の 随 一」(『椀 記 』)と い わ しめた 人 物 で あ った が,専 好 生 存 中 は主 と して 江 戸 で活 躍 して い たた め,作 風 は も とよ り支 持 層 につ い て も,他 の一 門衆 との 間 に懸 隔 が生 じて い た。 大 住 院 はお の ず と 反 主 流 派 とな る。
ちな み に,周 玉 ら外 弟 の お お くが町 人 出身 あ るい は町人 社 会 を よ りど こ ろ に して い た の に 対 して,大 住 院 は本 能 寺 の僧 侶 に 出 自 し,江 戸 で は武 家 社 会 と,帰 京 後 は宮 廷 社 会 と交 渉 が ふ か か った1?)。
この 両 者 の 角 逐 は,池 坊 門弟 よ りの 大住 院除 名 とい うか た ち に発 展 す る。寛 文13年 (1673)刊 の 『六 角堂 池坊 井 門 弟 立 花 砂 之物 図』 一 冊 の な か に,大 住 院 の 作 品 は一 点
もと られ て い ない 。 前 年 刊行 の 『立 花 古 今 集』 に は彼 の作 品 も採 用 され て い る か ら, 大 住 院除 名 の時 期 を 推 定 す る こ とがで き る。大 住 院 は延 宝6年(167ユ)に 自撰 作 品 集
『大 住 院立 花 砂 之 物 図』 一 巻 を刊 行 して い る[山 根 1970:107‑110]。 この 頃 に はす で に別 派 を形 成 して い た もの の ご と くで あ る。 貞 享2年(1685)『 京 羽 二 重 』 は,例 の 「諸 師 諸 芸」 の項 に,池 坊 と対 等 に大 住 院 の名 を 記 して い る。 これ は,大 住 院 が宗 家 た る池 坊 を は なれ て一 家 を な した も し くは世 間 が そ う認 知 した一 ことを 示 唆 す る 。
周 玉 らは,か か る大住 院 の分 立 を 許 容 せ ず,京 都 町 奉 行所 に 訴 訟 し,「 巳 ノ七 月 七 日」18)大住 院主 催 の七 夕 立 花 会 破 却 とい う実 力行 使 の挙 にで た ので あ る。 そ して そ の 16)r立 花 聞書 良 禽 鋤」 に は,池 坊 家 の外 弟 と して,大 住 院 ・十 一 屋 弥 兵衛 尉 ・同太 右 衛 門 尉 ・ 高 田安立 坊 周 玉(河 原 町)の4人 の 名が あげ られて お り,「 此四 人 ハ 花 洛 の高 手 に撰 れ て,人 の執 せ し器 な り」 と記 され て い る。
17)大 住 院 が宮 廷 社会 と 関係 を もって い た ことは,『 発 恕 法 親 王 日記 」 天 和元 年(1681)7、 月3 日条 に,「 大 住 院於 客 殿 蓮 花一 色 立 之,大 住 院 ハ本 能 寺 ノ寺 家 ノ僧 也,池 之 房 一 流 立花 之 名 人 也 」 とみ え る のな ど が参 考 とな る。
18)こ の 「巳 」を いつ と推 定 す るか によ って,大 住 院追 放 の 時 期が 前 後 す る。[森 谷 1978:90]
の ご と く,延 宝5年(1677)と す れば,『 池 坊 永 代 門弟 帳」 が延 宝6年 よ りか きお こされ るの
と符 合 す る。 ただ し,大 住 院 の京 にお け る活 躍 はそ の後 も顕 著 で あ る事 実(註17参 照)と 矛 盾 す る。 しか らば12年 お くら して,元 禄2年(1689)か 。 な お検 討 の余 地 を の こ して い る。
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国立民族学博物館研究報告 4巻4号 現 場 に は,周 玉 に と もなわ れ て,∫ 専 養 母 子 」 が た ちあ って い た19)。 そ もそ も七 夕 立 花 会 は,花 匠 が 門弟 の 出 品 を え て もよ お す もの で,そ の 流 勢 を誇 示 す る盛 儀 で あ った 。
そ れ を,公 権 力 を た のん で 破 却 した ので あ る か ら,こ とは重 大 で あ る 。そ の時,池 坊 主 流 派 が用 意 した論 理 は,「 七 夕之 花 之 儀 は池 坊 よ り外 ニ ハ不 仕 候 」(「乍恐 言 上 」池 坊 文 書),つ ま り池坊 の特 権 だ と い う もの で あ り,そ の 正 統 性 の 証 と して,「 専 養 母 子 」の臨 場 を 必要 と した の だ った 。 大 住 院 とい う別 派 が生 じた と き,花 道 界 に お け る池 坊 の正 統性 が つ よ く主 張 され,町 奉 行所 が そ れ を公 認 す る こ とで,そ の正 統 性 は確 立 され た の で あ る。 今 日,池 坊 に伝 存 す る 大部 の 門弟 帳 が,延 宝6年(1678)に 記 載 を 開 始 し て い る こ とは,こ の紛 争 の 経 過 と無 関係 で は な か った[守 屋 1978b:45‑67]。
(2) 利 休 百 回 忌 前 後 の茶 湯 界
17世 紀 後 期 の 茶 湯 界 に あ って は,競 合 す る諸派 の 間 に,共 通 して 利 休 回 帰 の 志 向 が あ らわれ て い た 。 それ ぞ れ の 流 派 が,み ず か らの 流 風 の 正 統性 と独 自性 を 表 明 す るに 際 し,自 派 の 流 祖 を こえ て,い ず れ も直 接 に利 休 との 関 係 を 強調 す る傾 向 が,期 せず して 顕 在 化 し,そ れ は元 禄3年(1690)の 利 休 百 回 忌 を む か えて,ひ とつ の 頂 点 に達 した[守 屋 1974:15]。 利 休 を茶 聖 視 す る素 地 が,つ ちかわ れ つ つ あ った の で あ る。
利 休 百 回 忌 の そ の 年,山 田 宗偏 の 『茶 道 便 蒙 抄 』 が上 梓 を みた 。 著 者 の 宗 偏 は 宗旦 四天 王 の 一 人,宗 偏 流 を お こ した人 物 で あ る。 この書 に序 文 を よせ た 中根 素 庵 は,宗 偏 を 「今 之 利休 」 とよ び,利 休 正 脈 の 茶 法 の 体現 者 だ と評 して い る。 そ う した評 言 が 最 大 の 讃辞 とな る世 相 だ った とい え よ う。翌 年 に は,同i著 者 の 『茶 道要 録』 が刊 行 さ れ るが,そ の付 録 に 「利 休 伝 」 が 掲 出 され て い る 。宗 偏 の意 識 で は 師 宗旦 を介 して, 少 庵 ・利 休 と遡 源 す れ ば,相 承 の 原 点 に利 休 が 位 置 して い る こ とを 主張 した か った に
ちが い な い 。
同 様 の 論 法 は,現 状 の批 判 に も も ちい られ た 。 や や くだ って,藪 内流 五 世 紹 智(竹 心)は,そ の著 『源 流 茶 話 』 にお い て 「初 心 の人 」 がみ だ り に末法 を弄 し法 を み だ し 道 を う しな って い る 状 態 を な げ き,「 茶 道 の本 源 」 す な わ ち利休 の茶 法 に依 拠 す べ き こ とを とい て い る。 殿 誉 両 様 に,利 休 回 帰 を か か げ るの が,正 論 と して うけい れ られ る風 潮 が た か ま って いた 。 そ して そ の 間 に は,黒 田藩 士 立 花 実 山 に よ る利 休 伝 書 『南 方 録 』 の発 見 とい う,い さ さか い か が わ しさ を禁 じえな い 出来 事 も,お こ づて い るが,
こ こで は 詳述 の要 は な い[守 屋 1974]。
19)『立花聞書良禽砂』 に,以 下のごとくみえる。
彼三人(周 玉 ・弥兵衛尉 ・太右衛門尉)正 しきを頼 ミ,誠 を尽 して二条 の御陳(陣)に なけ きしかは,大 住院が不恐天命働きハ,唯 天命を しらさるにてそ,其 儀 な らば其会所 に参て打 破れ と蒙公裁,専 養母子 ・周玉等,彼 所 に至て一座 の連花を破却 し早 。
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