失われたもう一つの解放 : 一九四五年フランス国 民の帝国意識
著者 杉本 淑彦
雑誌名 静岡大学教養部研究報告. 人文・社会科学篇
巻 26
号 2
ページ 75‑104
発行年 1991‑03‑10
出版者 静岡大学教養部
URL http://doi.org/10.14945/00008524
失われたもう一つの解放
ー一九四五年フランス国民の帝国意識ll
杉 本 淑 彦
緒
識
フランス国民の戦後史は︑帝国意識との苦闘の歴史だと言えるのではないだろうか︒植民地の独立は戦後世界の歴史
的必然であり︑また︑安価な外国人労働力流入も先進工業国にとっては同様の必然なのだろうが︑フランスが前者を平
和裡に承認し︑後者を差別なしに歓迎するには︑フランス国民は帝国意識に余りにも深く呪縛されていた︒一九五〇年
代後半まで頻発し︑ニューカレド一一アでは現在でもみられる植民地の民族独立運動弾圧は︑国民の帝国意識が下から支
えてきたのである︒また︑一九七〇年代以降深刻化し現在では最大の社会問題となっている旧植民地出身労働者との摩
擦も︑フランス国民の帝国意識の反映に他ならないのである︒そして弾圧も摩擦も︑結局は︑フランス国民自身の精神
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表1 政府許可公認発行部数
1945年1月 i1945年12月
加Fε9αr・(1944年8月23日再干ll)
k協uと}8 (1944年8月23日禽!1干ID
蘒テMoηdθ(1944年12月19日創刊)
k鞠09με (1945年5月3日再干畦)
231◎00
P48000 P50000s明
i 445◎00 c 143000
堰E7…◎
Histo ire g6ntrαle de Zαpre8$ε加鴛すα醜, tome 4,1975, p.300より作成。
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を蝕み・さらには多大な出血と出費とを強いることで彼らの生活をも脅かしてきた︒フラ
ンス国民は帝国意識から蟹され底いことで︑歴史の流れにあがらい苦悶し続けているの
である︒ ところで・戦後のフランス国民には︑実は帝国意識を払拭しえる一つの好機があった︒
大戦中のドイツ軍占領である︒なぜなら︑フランス人の自由と民主主義︵ドイッからの民
族的解放︶を目指す抗独レジスタンスの思想は︑自分達だけでなくフランス帝国内の植民
地原住民の自由と民主主義︵フランスからの民族的解放︶をも擁護する運動へと発展しえる
可能性を内包していた︑つまり︑ドイツからの民族的抑圧の体験ほ︑フランス植民地帝国.
内では抑圧者であった自分達の立場の反省を促す契機でありえたはずだからである︒一九
四五年のフランス国民には︑成就されたドイッからの解放に加えて︑帝国意識からも自ら
を解放する好機が提供されていたのである︒では︑このもう一つの解放はなぜ失われたの
だろうか︒
本稿はこのような問題意識に基づき︑パリ解放後のド・ゴール首班臨時政府時代︵一九
四四年八月Σ九四六年亘叢り上げ︑国民︑とりわけド・デル支講のいわゆる国民
保守層の帝國意識の温存・強化のあり様を明かにしようとするものである︒
そして方法としては︑まず第一に︑保守層が購読していたと考えられる新聞の報道を中
心にして︑帝国意識の温存・強化のプロセスを検討する︒取り扱う新聞は︑ω一般紙の中
では当時最大部数を誇っていた密箋碧︑o︑②ド・ゴール派政党﹃人民共和運動MRP﹄
系新聞卜誠gぽ︑③一般夕刊紙の中では最大部数であり︑戦前の保守高級紙b偽§§°︒の後継紙卜鳴§嵩魯︑最後に︑
㈲有カ一般紙の中で最保守のb槽◎嶋§である︵表−参照︶︒そして第二に︑帝国意識の実体を直接抽出するために︑大
戦後のこの時期にフランスでも本格的に開始された世論調査を用いる︒一霧鉱け蓉津き09︒δ窪.○覧巳9℃暮︸5¢①︵以下
囲゜男O°やと略記︶が調査⁝機関で︑サンプル数は平均二五〇〇人である︒
なお︑以下の引用文中の丸括弧・傍点は筆者の補筆であり︑また︑新聞田付に記す*と聯の記号はそれぞれ一九四四
年と︸九四六年を表し︑無記号は一九四五年を意味する︒
1
一九四五︑四六年当時︑アメリカを除く第二次世界大戦交戦国全てに共通する国民的課題が﹁戦後復興﹂であったこ
とは︑議論の余地がないところだろう︒フランスでも︑左は共産党から右はド・ゴール派まで︑あらゆる党派が復興を
訴えていた︒だがド︒ゴール派の訴えの中には特殊なものが加味されていた︒フランスにとって戦後復興とは﹁大国﹂
の地位を取り戻すことに他ならないという論点である︒一九四四年八月二九日解放直後のパリからド・ゴールはラジオ
演説をおこない次のように主張したのである︒
﹁熱烈な復活の見通しを︑世界のなかでこの国がつねに占めていた地位に︑すなわち最大国のひとつとしての地位にふたたび姿
を現わす可能性を︑将来がこれからは自分たちにさし出してくれるのだということを︑いまや国民は感じとっているのでありま ② す﹂︵緯褐粛ミP卜︑︾S俺恵8・30︶
またド・ゴールは︑四新聞に掲載されはしなかったが︑同年全国巡視旅行の一環としてノルマンディー地方のカーン
市︵10︒9︶とブルゴーニュ地方のディジョン市︵10・23︶を訪れた際︑それぞれ市民を前に次のような演説もしていた︒
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﹁わが国を蓬しなければならないのは︑わが国劣を持ち強く大きくなるために︑つまり︑われわれが望む地位を鰯癸国の第
一列において手に入れるためなのです︒そうです︑誰もわれわれに与えてはくれないのです々り︑その地位繕分で手に入れる ③ 必要があるのです﹂
﹁わが国を蓬しなければなりません︒わが国は手酷く傷つけられ︑港と交通・通信線も手酷い打撃を受けたのであります︒︸﹂
れまで以走力を持ち強い国に再びなるように︑われわれはそれらを蓬しなければなりません︒⁝⁝︵申略︶−⁝・われわれが追
い求めている顕標は︑フランスの全ての男性︑全ての女性にとって同じものであります︒それは︑生活と︑偉大なフランスなの であります︒ディジョン万歳︑ブルゴーニュ万歳︑フランス万歳﹂
戦後復興11大国化というこの論点は︑新聞紙上で他にも次のように展開された︒
﹁皆さんに・全てのフランス人に私がお願いしたい仕事︑それは︑フランスに宙由を取り戻すりしとと︑偉大なフランスを再建す
る仕事であります遍去四年間われわれが失っていた地位を︸あ国曇求する権利と霧がわれわれにはある︑とい.つり﹂とを決
して忘れてはなりません﹂︵一九四四年九月十二日パリのシャイヨ宮でおこなわれたレジスタンス統同組織﹃全国レジスタンス
評議会﹄大会における同評議会議長ビドゐ§σqΦωゆ蕾葺の演説︒卜⑩譜§﹄︑︾§・*9︒欝︒ビドーはMRP議長
で︑臨時政府外相でもある︶
O九四四年+百+百フランスがヨ占ッパ諮問奮会メンバーになっな﹂とについて︑︶強調しなければなりない︾﹂とは︑
連合国政府代表と完全同権の立場でフランス政府が委員会に席を占めることである︒つまりフランスは大国の地位を取り戻すの
である・⁝⁝︵中略︶⁝三九四四年+頁+百は民族復興の重要な日の一つとなったのである﹂︵密壽Q︑︒・*u.㈱︐−3︶
﹁ド轡ゴール将軍の政治ドクトリンであり︑また同時に今日のフランスの政治ドクトリンでもあるべきものは︑われわれが肝に
銘じなければならない一つの言葉−大国化の勧めーに要約できる﹂︵卜偽団粛ミP2︑15︶
﹁フランスは今も将来も大国でなければならない︒フランスの過去と未来は︑ヨー難ッパと世界を指導するうえで第一級の役
割を果たすことを放棄してはならないとフランスに命じている﹂︵トメきゃ2・22︶
では第二の論点︑この大国化の鍵は何か︒ド・ゴールは前述の全国レジスタンス評議会大会で演説をおこないその中
で︑フランス復興のためには国家が経済に介入する必要があると述べたのち︑復興には﹁まったく別なことが︑そして
もっとおおくのことが必要であり﹂︑それは﹁国民全体の︑広汎で勇敢な努力﹂だとしたうえで︑フランス本土と植民
地の潜在的豊かさゆえにその努力は必ずや報われるだろうと︑次のように主張した︒
﹁さあ/ この努力をおこなうようにと︑われわれは国民によびかけるのであります︒物的に︑民勢統計学的に︑精神的に︑わ
が国がいかなる状態にたちいたっているかを︑われわれは知っております︒⁝⁝︵中略︶⁝⁝しかし︑わが国の大地が︑地下が︑
A民地がいかなるものであるかということをも︑⁝︵露︶⁝われわれは同様に知っ三るのでありま殉﹂︵貯曇3
卜.︾Sや林9・13︶
同じくド︒ゴールは十月一日︑ドイッ軍⁝撤退後間もないリール市のノール県県庁バルコェーから︑集まった一万人の
市民を前に次のようにも演説した︒
﹁包み隠さず申せば︑今日のわれわれは貧しくなった大国なのであります︒⁝⁝︵中略︶⁝⁝われわれの前に待ち受けている試煉
は戦争であると同時に︑今や国の再建なのであります︒⁝⁝︵中略︶⁝⁝このように小さくなった世界の中で︑われわれには共通
のなすべきことがあります︒それは︑わが国の大地の上に︑わが国の大地の下に︑われわれの帝国の中にわれわれが所有してい
るものを活用することであります﹂︵卜偽国偽自︑P卜︑︾Sρ *10︒3︶
またド.ゴールは︑フランス本土の解放がほぼ完了した一九四五年三月二日︑ラジオ中継されていた諮問議会で戦後
復興のための努力を国民に訴え︑﹁勝利のかなたを予想して下図がかかれつつある︑同時に活動的でしかも非常に粗野
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な戦後世界におかれたばあいを考えても︑⁝⁝︵申略Y::・わが国の︿歴史﹀をつくるなかで強国の地位をめざす登馨を
いまひとたび企てない限り︑⁝⁝︵中略︶:⁝・重い発言力をもちえないであろう⁝⁝︵中略︶⁝⁝︒この点にかんしては︑
経済的︒社会的に偉大な回生を遂げるのが︑第一条件をなすものである﹂とした上で︑この条件を満たす複数の方策の
うち﹁本国および植民地の既知の資源﹂をまず最初に指摘し︑その開発の必要を次のようにも主張した︒
﹁北アフリカのわが領土においては︑灌概︒トラクター・肥料の力を借りれば︑農業生産において数倍におよぶ大飛躍を遂げる
ことがで鳶ますし︑また︑そこには工業化の展望がひろびうとひらけておりま.す︒西アフリカおよび赤道アフリカのわが領土で
も︑インドシナでもマダガスカル島でも︑アンティル諸島でも︑ギアナでも︑すでに開発のために多大の仕事がつぎこまれまし
たが︑そこにはなすべきことがたくさん残っているのでありまして︑これらの土地はフランスの熱烈な努力をさし招いておりま ⑥ 芝︵卜偽霊偽ミP卜.︾導魯3・3BΦ§ミや3・4−5︶
つまり︑植民地こそが大国化の鍵の重要な一つだ︑というわけである︒そしてこの第二の論点は︑新聞紙上で他にも
次のように展開された︒
﹁戦時と同様平時にあっても︑集団の力を大量に結集することでしか︑命を保ち︑他を押さえつけ薗分の意見を押し通すことは
できない︒したがってわれわれは︑フランス人もチュニジア人も︑全力を尽くし︑帝国を構成要素とするこの力の体系を再建し
なければならない﹂︵フランス領インドシナ国民協会チュニス事務局開設式典でのチュニジア総督マスOげ§◎臨Φω竃器幹の演説・
ト鳶§鳶儀魯 −︒rO︶
﹁︵フランス︶連合に住む一徳一千万の人間がフランス大家族のために漸次展開できる活動を想い浮かべると︑複国の将来と︑
祖國が大国であることに対するド︒ゴール将軍の自信もよく理解できる﹂︵卜衛ミ§忌㌧3・27︶
コ八八五年頃︑二つの考え方が議会で対立していた︒フェリー︵フランス首相︒煽巳雷男鐙蔓︶ら極少数の人たちは︑諸国家
がますます懸命に自分の殼に閉じ込もりつつあった当時の世界で︑フランスは新しい領土を探し資源を見つけ生産物と思想を輸
出しなければならないと信じていた︒⁝⁝︵中略︶⁝⁝将来もわれわれを救済する最良の好⁝機であり続けているこの帝国に対して
フランス人が皆心から感謝している今この時︑恥辱の最悪の時期にフランスが一層大国となることを切望しその実現に努めたあ
のフェリ⁝を振り返れば︑われわれは大いに励まされるだろうL︵密類晦ミP3・29︶
﹁海外領土がなくなれば︑フランスは急速で確実な頽廃を運命づけられるだろう﹂︵富§ミ♪6・14︶
﹁帝国をフランス系国家の共同体へと変えていくことでしか帝国を救うことはできないだろう︒このような責務の巨大さを前に
して︑太陽が決して沈まない地にあったスペインのようにたじろぎ後ずさりすれば︑わが国は大国でなくなってしまうだろう﹂
︵卜噂鉢蟹ぴや ◎vのU︶
﹁国旗が世界のあらゆる地域でもうはためかないとしたら︑フランスは 流の大国では最早なくなってしまうだろう﹂︵ 九四
五年十二月MRP全国大会植民地部会での部会長ジュグラq$講︑q餌£9の脳¢σQ冨ωの挨拶︒卜.︾さや 12・16−17︶
さらに植民地は︑広島・長崎への投下で当時世界に衝撃を与え保有することが大国の条件とみなされた原爆の開発に
おいてもフランスに便宜をもたらす︑と次のように強調された︒
﹁戦争によって世界の均衡に変化が生じた︒︽超大国︾が誕生し︑それらの間で諸大陸の運命が賭けられるようになったのであ
ヘママ る︒先週ポツダムからわれわれに託宣を下したのは三大国︒そして︑原子力爆弾はこの三位 体体制の申にさえ力の新しいヒエ
ラルキーを持ち込むことになるのではないだろうか︒﹂﹁臼本に射して用いられたばかりの新型爆弾の驚異的爆発力をイギリス人
とアメリヵ人が創り出すのに利用した金属が︑言われているようにウラ詣ウムだとすれば︑フランスには不安に思う理由がない︑
というのも︑フランスは放射性金属をブルターニュ︑ピレネー︑中央山塊に有するばかりでなく︑マダガスカルにもその種のか
なり大きな鉱脈を有しているのである︒⁝⁝︵中略︶⁝⁝われわれは︑ベルギー領コンゴやカナダ︑アメリカと競争できるほどの
八一
八二
量を有しているわけでは確かにないが︑しかし︑様々可能な利用においてわれわれ自身が必要な分には︑完全な自立が保証され
ているのである﹂︵卜.薯oQ黛食8︒8/8︒9︶
﹁サハラが核実験の舞台になるでしょうか︒﹃はい︑必要となれば︒﹄とドートリ氏︵政党無所属の復興相︒男舜︒o巳Uga葺蔓︶は
断葺した﹂︵い︑︾さ辞10・27︶
そして︑植民地は大国化の鍵だと訴えるこの第二の論点を国民に納得させる環境づくりの役を果たしたのが︑植罠地
の戦争貢献を強調する次のような第三の論点である︒
﹁祖国が最重要な地位を完全に取り戻すために︑全フランス入に特に明示しなければならない条件がいくつかある︒それは︑
︵戦争完遂︑労働再開︑家族精神尊重と︶帝国の存在理由を高めることである︒帝国がフランスの国力維持と本土解放に果たし
た役割を通じて︑非常に多くのフランス人は帝国の重要性に気付いたのである﹂︵卜︑︾さや *8・30︶
確かに大戦中︑植民地および原住民兵は順次ド・ゴールの﹁自由フランス﹂のもとに結集し連合国側に立ち参戦︑フ
ランス本土の解放に貢献した︒しかしこの事実の喧伝は︑解放と同様戦後復興にも植民地は有用だろうと国民に類推さ
せる機能を持っていたこともまた事実だろう︒実のところ意図的と思えるほど︑解放における植民地の貢献が喧伝され
た︒代表例をあげよう︒
﹁彼ら︵原住民兵︶のおかげで︑帝国のおかげで︑解放勢力はアフリカの地で敵を打ち砕き︑比較的早い段階でヨーロッパへの
道が開けたのである﹂︵卜︑︾さや*9・24−25︶
﹁︵海洋協会一.﹀$詠ヨδ留ヨ霞ぎ⑩での講演で︶ダルジャンリ論1︵日寓霞蔓伽︑諺茜魯鉱窪︶提督は︑太平洋と極東のフ
ランス領土が合衆国におこなった支援に言及した︒⁝⁝︵中略︶⁝⁝ニューカレドニア︑ニューヘブリジーズ諸島︑ウォリス諸農︑
フランス領オセアニア︑クリッパートン島の基地は自由フランスと共に自由であり続け︑アメリカ兵に門戸を大きく開き共通の
大義に貢献したのである﹂︵卜嚇謬ミP4・8−9︶
﹁もしもドイツ軍がアフリカにおけるフランスの権益を思うままに処理していたら︑戦争はどのように展開していたかを想像し
ていただきたいのです︒それにひきかえ︑ヨーロッパ解放の進撃基地としてのわが北アフリカの重要性はいかばかりであったで ⑦しょう/﹂︵一九四五年五月十五日諮問議会でのド・ゴール演説︒卜侮鳩粛ミP卜︑︾黛ぴ魯5・16嚇b偽§ミや5・17︶
「(
鼡緕l〇年八月以降︶フランスは︑再建された軍隊の他に︑将来の再征服のための発進基地の役割を果たすことになった広
大で忠実な領土を持つことになったのである︒⁝⁝︵申略︶⁝⁝フランス領赤道アフリカとカメルーンは︑フランスと連合国の戦
争努力に︑物的にも人的にも相当な貢献を休むことなくおこなったのである﹂︵卜.︾さ魯 8・29︶
2
以上三つの論点は︑フランスの大国化を訴え︑そして大国となるうえでの植民地の有用性を説くという︑極めて利己
的なものであった︒それゆえこれらの論点には︑フランス国民の正義感を︑彼らがファシスト・ドイッによる民族的抑
圧を身をもって経験したばかりであるだけに一層痛ませかねない刺が含まれていた︒そして実はこの刺を包み込み︑痛
みを与えずこれらの論点を嚥下させる役を果たしたのが︑﹁文明化の使命﹂1大革命を産んだ自由で平等で民主的な
文明国フランスは︑遅れた野蛮な植民地原住民にそれら文明の諸価値を教える使命があり︑一方植民地原住民はそのよ
うなフランスの支配下にあって文明化を享受しフランスに感謝するーという前世紀以来のイデオロギーであった︒ま
ず第一に︑フランスの植民地政策は自由で平等で民主的だとする一般的主張のうち︑代表的なものを列挙してみよう︒
﹁シャルル・ニコル︵フランスの細菌学者で︑一九〇三年から死振の三六年までチュニスのパストゥ⁝ル研究所所長︒O冨瓢霧
羅o巳冨︶はアフリカで三〇年以上生活し︑植民者としてのわれわれの祖国の役割について︑高貴で棄晴らしい考えをもってい
八三
八四
た︒彼は原住民を指さし私に次のように言ったのである︒﹃私たちがここにいるのは︑彼らに読み書きを教え︑彼らの面倒をみ︑
語の本来の意味通りに彼らを育み︑そして︑値するようになれば彼らを人夫の地位から職工長の地位へと昇進させ︑いつの日に
ぐ ト ゆ ン シぬフ かは︑彼らの中の最良の部分から︑医師︑経営者︑長︑行政官を見いだせるようにするためなのです﹄﹂
︵Ω8茜霧U§簿ヨ巴論説︒卜Φ藷ミ9 *憩︒27︶
﹁フランスは植民地原住民をよく理解し︑有色人種を不当であると同時に悲惨な差別にさらすことを決してせず︑語の最も高尚
で広い意味において︽人間的︾な自己の姿をあらゆる人々に示すことができた﹂︵卜Φ§嵩§層2︒1︶
﹁歴史的大事業につきものの緩慢と過ちにもかかわらず全体としては︑フランスの植民事業は人間味があり人間解放の精神に沿っ
たものでありました﹂︵八月 =田︑急進社会党所属植民地相ジャコビ℃簿巳Ω鉱ooげ三のラジオ演説︒卜鳴ミ§儀魯 8︒21︶
﹁すべての海外領土︑とりわけわれわれとは非常に長いあいだ離れていたインドシナ領土は︑フランスの理解︑友情︑援助のう ⑧ ちに︑彼ら自身が進歩と自由をめざして発展するための条件と方法とを見いだすにちがいありません﹂︵十一月二三日憲法制定
国民議会でのド・ゴール演説︒卜恥ミo奉犠♪卜①肉粛ミP卜︑︾さ食卜.書o◎g辞 11︒24︶
﹁宙分の利益にかかわる闇題だけでわが国には果たすべき荘厳な使命があるというのではない︒というのは︑海外諸昆族に人間
としてふさわしい資格を与えられる国はフランスをおいて他にないからである﹂︵前掲MRP全国大会ジュグラ挨拶︒卜.︾さ♪
12・16−17︶
﹁わが国の成功の結果として︑わが国の影響下で西洋思想が浸透し︑工業・科学・近代的技術の導入と︑生活水準の向上︑フラ
ンス文明を完全に身につけた新エリート層の育成をもたらしたのである﹂︵卜︑薯o心§噛糊1︒8︶
そして第二に︑そのような進歩的・民主的植民地政策の具体例として︑一九四五年八月二二日布告と九月二〜日布告
によって︑フランス市民権を持たない植民地原住民にも憲法制定国民議会の選挙権と被選挙権を与えたことが︑次のよ
うに喧伝された︒
﹁これは実に巨大な民主的改革であります︒これには高遮な精神が刻印されております﹂︵八月二一日植民地相ジャコビのラジ
オ演説︒卜帖§鳶織魯 8・23︶
﹁史上初めて︑そして世界で例をみないと思いますが︑フランス植民地はフランス憲法制定議会選挙︵10・21︶に参加するよう
呼びかけられることになっています︒実にこれは巨大な革新であります﹂︵八月二四日ワシントンでのド・ゴール記者会見︒卜軸
漣偽ミP卜.吾さ辞8・25脳偽ミ§懸b8・26︐27︶
﹁フランス共同体の全領土︒全住民に憲法制定議会選挙への参加を呼びかけることで︑フランス政府は真の政治革命を成し遂げ
たのである﹂︵十月十三日ジャコビ記者会見︒卜偽鳴甜R︑P 10・14−15︶ あニヴあじル ﹁フランス共同体とは︑自由と平等に基礎を置くフランス︽世界︾の中への代表権と平等権を植民地住民に認めることにより
彼ら住民を将来最終的に解放する連合である︒憲法制定議会の構成とその開催は︑前例のないこの進化の第 段階を画すもので
あるし︵卜軸ミO嵩犠♪ 11・20︶
﹁あらゆる自由の先駆者であるフランスは︑その伝統に患実である︒無情な抑圧によって追いやられた暗黒の世界から脱出する
やいなやフランスは︑その帝團に目を向け︑解放者としての責務を遂行している﹂︵フランス領赤道アフリカのブラザヴィルに
おける原住民の投票風景ルポ︒卜︑︾gぴ魯 11・28︶
十月一=日に投票がおこなわれたこの憲法制定国民議会の議席総数は五八六で︑植民地代表分︵インドシナは未決定﹀
は六五︒そのうち二三議席がフランス市民権保有者︵大半はヨーロッパ系フランス人︶のみによる選出︑ 一九議席がフラ
ンス市民権保有者と非保有者︵植民地原佳民の大半︶混合による選出︑残り工三議席がフランス市民権非保有者のみによ
る選出であった︒フランス本土総人口は四一九〇万人︑インドシナを除く植民地のヨーロッパ系住民は一四四万人︑同
八五
八六
じく原住民入口は四四七二万人︵数字は何れも一九三九年次︶︒フランス人と植民地原住民との問に一票の重みの大きな格
差があったことには多言を要しないだろう︒
ともあれ︑このようにフランス植民地政策は進歩的・民主的だと強調された上で︑植民地原住民もそのようなフラン
スに忠節でありその支配を歓迎しているという論点が︑次のように展開された︒
﹁この四年聞の試煉は︑われわれの帝国の連帯性を世界の前にはっきりと示した︒本国から遮断されたのだから︑海外のわれわ
れの柱民たちは・もし望めば分離主義運動を起こすこともできただろう︒しかし現実は正反対であった︒全ての希望が潰えたよ
うに思われたとき︑早くも最初の日から︑侵略された本国に自由を回復させるために何千もの原住民兵がド︑ゴール将軍のもと
に身を捧げたのである﹂︵卜︑︾gぴ♪ *9︒24︑25︶
﹁過去四年間︑自由フランスの植民地で動員の壮大な努力がおこなわれ︑可能人員の四〇%が動員されました︒またこの間︑海
外領土は解放後すぐに需要を満たすために︑本土向けの食料晶をかなりの量ストックしておりました︒:・⁝︵中略︶⁝:こういっ
た努力は全て︑原住民の忠節のおかげで始めて可能だったのです﹂︵植民地相プレヴァン幻Φ畠娼一Φ<霧の記者会見︒卜.﹄儲9・
*10・13︶
﹁父親が倒れるとすぐに子供が働きにでるという︑固い絆で結ばれた家族のように︑われわれの海外の国々は︑母国を救う名誉
が巡ってきたことを悟ったのだった︒かの国々は順次﹃戦うフランス﹄︵﹃自由フランス﹄と同じ︶に馳せ参じ︑兵員︑原料︑
賃金︑食糧を供給したのである︒⁝⁝︵中略︶⁝⁝アフリカの小農民︑北アフリカの山岳の羊飼い︑リン鉱夫︵北アフリカとフラ
ンス領西アフリカ︑ニューカレド一一アが世界有数のリン産出地︶︑そして白人であろうと黒人であろうと︑あなたたちが天然痘
から守り︑チフスから救い︑狂犬病から治療したあれらの青年らが︑恩を忘れず︑世界中のフランスの全兄弟と一緒に︑その恩
に報いようとしていることを知りあなたたちは嬉しく思うことでし︑いう﹂︵Ω§σq窃U夢舞①剛論説︒密勾蒔ミ◎・*10︒27︶
﹁大きな犠牲を払い︑誰からも助けを得ずしてフランスは︑進歩と文明を︑それらを知らなかづた世界中の様々な地域に長年伝
えてきたのです︒それがなされるにあたっては︑兵士の命が失われ︑行政官の奮闘と︑宣教師およびそれらの国での進歩創造に
貢献した全ての人々の献身がありました︒その結果︑彼ら注民とフランスとの間に人間味ある関係があまた結ばれたのです︒あ
らゆるものから遮断され︑ほとんど誰からも支えられていないという驚くべき危機をフランスが経験していた時︑周知のように︑
彼ら住民は全てフランスに忠実であり続けました︒そしてそのことは︑彼らとわれわれとの間には何か揺るぎないものがあるこ
とを良く証明しているのです﹂︵一九四五年一月二五臼パリでのド・ゴール記者会見︒卜範﹄§き織食卜︑諺さ魯1・26︶
﹁苦難を脱した新フランスは︑原住民の利益のために︽人類の偉大な理想に仕え昔もこれからもその擁護者であらん︾と決意し
ている︒そして︑フランス人自身と同じようにその被保護者たちも︑フランスの主権がその理想の真の保証であると考えている﹂
︵卜.︾さ魯2・17︶
﹁ド・ゴール将軍の政府におかれましては︑北アフリカの全イスラム教徒の全幅の協力を期待していただきたいと思います︒北
アフリカ全イスラム教徒のフランスに魁する変わりなき忠節は︑︸九四二年チ晶ニジアで始めた戦闘を今現在もライン河の両岸
で続けているアフリカ軍部隊が書き記している栄光のページの数々が証明しているのであります﹂︵モロッ3のスルタンの儀典
長兼全権公使o◎一国巴鳥o罎σ露O冨耳騨の一二月十五日アルジェでの記者会見︒卜砧§︑ミ♪3・17︶
﹁世界の四大州にまたがる︑わが協力国として国運をともにさせてきた地域が︑万難を排してわれらの大義名分に依然として忠
誠を誓っているのを確認しましょう︒敵日本軍の圧制に苦しんでいるインドシナは︑実質的にフランス連邦に協力することはま
だできませんが︑きっと︑苦しんだだけにいっそう親しみをまし︑またそれに価するようになったがゆえにいっそう自由な国と ⑨して︑フランス連邦にもどってこようとしております﹂︵ラジオ放送された八月十一日パ薩ドロカレー繋ベテユーヌでのド・ゴー
ル演説︒卜亀鳩軸晦9︑P卜.︾gぴ獅卜︑警o心黛食 8︒12唾13崩卜侮竃o嵩織食 8︒14︶
八七
八八 3
そして︑以上の様々な論点を具現化し帝国意識を宣揚する格好の手段と舞台になったのが︑ω紙幣交換に伴い一九四
五年六月発行された新五千フラン紙幣︵最高額紙幣︶と︑②保護国モロッコ・チュニジアの両君主︵前者はスルタンのべン︒ ナぼユーセブげ雪団◎鶴器Φh︑後者はベイのラミーヌ・パシャい9︒議器勺碧冨︶の訪仏ならびに両入が臨席した二つの軍事パレ!
ドと︑そして︑⑧パリのグラン・パレで開かれた︽戦争のなかの海外フランス展︾︵植民地省主催︶であった︒
まず新五千フラン紙幣︒純経済的にはインフレ対策の一環として六月四日から十五日までの期間に旧紙幣と交換され
たこの巨大紙幣︵二〇七x=二㎜︶は︑その図像︑とりわけ表側︵図1︶に極めて政治的な意味合が込められてもいた︒
亜熱帯等の植民地産を中心とした彩り豊かな植物を四周に配し︑自由で平等で民主的なフランス共和国のそれぞれ肖像
と象徴であるマリアンヌと三色旗を中央前後に置き︑その左にスーダン地方の黒人︑右にベトナム人とアラブ人を配す
ることでこの紙幣は︑ωフランスは多様な地域と人種を包摂する大植民地帝国であり︑②その帝国の中心国であるフラ
ンス共和国は自由等の文明の諸価値の中心地でもあり︑そして︑③そのようなフランス共和国に植民地原住民は惹き付
けられ感謝し忠節を誓っている︑という思い込みを︑図像を通じてフランス国民の意識の中へ浸潤させるものであった︑
といえるだろう︒
また︑未見だが︑紙幣裏側にはマリアンヌが表側同様描かれその左右にバスク地方の海岸風景とモロッコの政都ラバ ⑩トの港風景が描かれていた︒一九一二年以来このラバトにモロッコ支配のためのフランス総督府が置かれその港はフラ
ンスの近代技術によって整備拡充されていたわけだから︑紙幣の︽ラバト港風景︾には︑ωフランスによる植民地の
﹁文明化﹂の証という意味合が込められ︑さらに︑マリアンヌを間に挟み本土の一風景と並列に置かれることで︑②自
図一
蟹.
剛菊>ZOω 窃
︵諮知ミα︶
護︒げ9U9ω嘆ρ孚︒融゜︒隷︒N①゜︒§ミ§°︒誉§B酵お︒︒㊤ら゜O穽O︒
八九
図2 コンコルド広場観閲席上のスルタンとド・ゴール(1945年6月18日)
L・αrmee franρatSe dαns lαguerre:du Tchαdαu Rhin,1945, p.91より。
九〇
由等の文明の諸価値を媒介とする本土と植民地の一体感を醸し出す機能があったのではないだろうか︒ともあれ︑︿帝
国﹀を題材とする図像の紙幣は︑フランス史上これが最初にして唯︷である︒
次は同年同月スルタンの訪仏︵6・14〜7︑・2︶︒四新聞はこれを次のように報じた︒
﹁フランスに対するモロッコの不変の愛着を今一度確証するのが︑スルタン陛下の今回のパリ訪問である︒﹂﹁フランス軍が敗北
したにもかかわらず︑そして祖国︵フランス本土︶が占領され恥辱を受けていたにもかかわらず︑北アフリカを解放し︑ついで
本土を解放するために︑モロッコは連合国側に立って再び武器をとったのである︒このようにしてモロッコは︑フランスに対す
る愛着と︑︽フランスとモロッコ双方が幸福になり大国になるために不可欠な︾両国の結合に対する全面的同意を示したのであ
る﹂︵卜偽ミ§譜㌧6︒16︶
﹁︵六月十五日スルタンがブーローニュの森駅に到着し︑︶昨朝の駅周辺は群衆で溢れかえっていた︒若き君主を歓迎しようと多
くのパリ市民が集まったのである︒窟主はフランスの忠実な友であり︑またその臣民は︑わが国の軍隊に非常に数多く徴募され︑
チご一ジア戦︑イタリア戦︑そして本土の解放戦といった先の戦争の激しい戦闘に雄々しく参加したのである﹂︵卜.警◎頗竃
6・16︶
﹁スルタン陛下のフランス訪問は政治的意思表示に他ならず︑その成果は幸福で豊かなものになる可能性があり︑またそうなら
なければならない︒海外諸国でフランスが取り組んだ仕事のなかで︑モロッコで実現されたものこそ︑おそらくフランスが最も
誇るものであろう︒わが国と︑慰主が今日パリの招待客になっているかの国との間にこのように結ばれた繋がりは︑強固で決し
て断つことのできないものである︒ 九三九年の宣戦布告と一九四〇年六月の敗北という二つの重大な事態に際しモロッコのス
ルタンは︑戦争努力と災禍︑試煉︑希望をわれわれと共有し協力するよう彼の民に呼びかけたのである︒⁝⁝︵中略︶⁝⁝わが国
の解放のために多くの血を流したモロッコ人戦士がスルタンとド・ゴール将軍の眼前を進むことになっている六月十八田のバレー
九一
九二
ドは・モロッ灘とわれわれとを結ぶ運命と︑われわれの費務の大きさを︵フランス︶共同体全体に呼び覚ますことができるだろ
う﹂︵b侮窯鷺・p6︒16︶
﹁自由と︑平等︑進歩︑正義︑真の文明の理想がいつもフランスを導いてきました︒そしてこれらの理想こそ︑モロッコで私た
ちが共同で進めている事業を成功させる最も確かな保証なのであります﹂︵十六日ド.ゴール主催午餐会でのスルタンの挨拶︒
卜偽鳴粛9︑P卜︑︾蟹9卜︑薯o心竃蟻6︐17︐18︶
﹁今次の三〇年戦争から生じたこの厳しい世界の中でフランスが本来の地位を回復し強固にするためには︑情熱と理性をもって
フランス革新の仕事に取り組まなければならないと︑ド・ゴール将軍は︵ピュイ鐸ドーードーム県︶県庁で地方名士達を前にして
強く訴えた︒そしてド・ゴ!ル将軍はモロッコのスルタンを同伴することで︑帝国の忠節を思い起こさせ︑フランスの将来に対
する信頼を呼び趨こしたのである﹂︵b範き嵩§恥7︒3︶
そして六月十八日︒ド・ゴールがロンドンのBBCからフランス国民に抗独レジスタンスを呼びかけて五周年に当た
るこの日︑パリで繰り広げられた戦勝軍事パレードは参加兵員五万入︑総延長十三キロ︑一九一九年の革命記念日軍事
パレード以来の規模で︑ブーローニュの森を出発し凱旋門をくぐり抜けシャンゼリゼを東下し︑ド︒ゴールとスルタン
らが観閲するコンコルド広場へ︑その後二手に分かれてパリ市街を横断した︒四新聞のうち二新聞の報道を紹介しよう︒
﹁各部隊は若さと情熱を競っていた︒陸軍婦人補助部隊と海軍婦人部隊は女性のエレガンスで魅了︒くすんだ青色の制服の水兵
と航空兵︒アフリカ部隊︒ヌバ︵北アフリカ原住民部隊の軍楽隊︶と略綬をつけた仔羊を先頭に︑モロッコとソマリアの原住民
部隊︒白シャツと伝統的な黄色いリボンをつけたアルプス守備隊︒カーキ服の歩兵隊︒ブルヌス︵頭巾つきの白いアラブ外套︶
姿のスパイ︵北アフリカ原佐民中心の騎兵隊︶︒それら全てが次々と繰り出してきて︑若々しく倦むことのない歓呼を浴びつつ
歓喜と美の一つの大シンフォニーと化した︒﹂﹁︵コンコルド広場に︶スルタンがビド!外相に随伴され黒塗の大型無蓋車で現れ
図ω 一⑩蔭窪刊①血一coロ一倒蝦︑るてーてθ誰蝦蒔脈がヌ︑る義 ︵掛︶伴醐油翼︵財︶
卜︑Q︑§簿書§ミ欝織Ωき⑦NΩ恥黛⑩︑奉戴g浮詳Ω織9寒肉蕊き矯お&℃b°8肝G°
九三
図4 Albert Brenet筆の水彩画『モロッコの第五スパイ連隊』
.L αrm壱e d Afrique 1830−1962,1977, p.420より。 九四
る︒次の車には皇太子︒公式観閲席に着席︒⁝⁝︵中略︶⁝⁝ブルヌスを着たスパイ分遣隊がパレードの先頭をきり︑シャンゼリ
ゼを下る︒⁝⁝︵中略︶⁝⁝厄除けの羊を先頭におくアルジェリア歩兵第三師団のヌバが大喝采を博す︒ついで大西洋方面軍︑極
東方薗軍︑アルプス守備隊と続き︑その後の有色入部隊1ーフランス領赤道アフリカとソマリアの突撃大隊iも︑群衆の特に
大きな拍手歓声を浴びる﹂︵密ミ9§鳩6・19︶
﹁︵ド・ゴ⁝ル︶将軍のカーキ色の制服の側で︑スルタンの白のゆったりとしたジェラバ︵モロッ3入の頭巾付の長い上っ張り︶
が人目を引く︒このようにしてこの歓喜の日に︑忠実な帝国が本土と一体であることが明らかになる︒白いブルヌス姿のスパイ
と︑金ぴかの騎兵の前を行く盛装の憲兵隊︒これが行進の火蓋を切る︒⁝⁝︵中略︶⁝⁝三時間の途切れない行進︒フランス軍の
全部隊︑深紅色のベレー帽をかぶり腿に短刀を着けた特別攻撃隊から︑緑のベレー帽の落下傘兵まで︑そしてその間にジェラバ
とシェシュ︵長いターバン︶を着けたズワ!ヴ︵アルジェリア原住民歩兵︶﹂︵卜.︾忌ρ6︒19︶
なお︑図2・3はこのパレードの記録写真︵陸軍映画部撮影︶である︒
さて︑ついで七月にはベイが訪仏︵7・12〜7・30︶し︑十四日の革命記念日政府主催軍事パレードをバスチーユ広場
でド・ゴールと観閲した︒このパレード︵徒歩・騎馬部隊はバスチーユ広場からレピュブリック広場まで︑機動装甲部隊はバス
チーユ広場から凱旋門経由ボルト・マイヨまで︶の模様の報道を︑これも二紙紹介しよう︒
﹁金色の軍礼服をぴったり身にまとい現れたのはチュ一一スのベイ︒九時三〇分︑大喝采がおこった︒ド︒ゴール将軍が大観閲席
に進み︑ラ・マルセイエーズが鳴り響く中︑栄誉旗への敬礼︒ついで将軍は︑陸︒海軍のわが国の偉大な軍指導者︑ならびに何
カイド バシャ
人かのイスラム教徒行政宮・高宮に勲章を授与した︒観衆の拍手︒九時四五分︑鳩が放たれた後︑機動部隊の行進が始まった︒⁝・︵申略︶⁝⁝スパイは︑公式観閲席に敬意を表するために鐙のうえで立ち上がり︑見物入を大いにわかせた︒⁝⁝︵中略︶:⁝その
後約一時間行進が続いた︒くすんだ色の制服に身を包んだ水兵と航空兵︒華麗な白のズボンをはいたチュニジア人近衛兵︒つぎ
九五
九六
は植民地軍部隊で︑その歩調のリズムとまっすぐな隊列は完壁であった﹂︵卜︑轡ε舞7︒15︶
﹁ビドー氏に随伴されてチュニスのベイが到着し︑パリ駐屯軍楽隊が演奏するなか︑観閲席に登壇︒最高位の記章がちりばめら
れレジョン︒ドヌール一等勲章大綬をつけたその礼服は︑他の公職者の間で一際輝いている︒⁝⁝︵申略︶:⁝.ド︒ゴール将軍は
三名のアルジェリア入高宮に+字勲章を授与する︒⁝⁝︵申略︶−⁝次は非機動部隊が勝利の足立臼を広場に響かせる︒帝国と旧フ
ランス国内軍部隊が今や渾然一体となる︒先頭は憲兵中隊︑すぐ後に海軍陸戦隊︒ついで航空兵の白い鋼帽︒その後にズワーヴ
のシェシア︵ふさ付の赤い縁なしアラブ帽︶︒舗石の上に蹄の乾いた響きがするdグム︵北アフリカの各部族から出される原住
民兵︶連隊だ︒鐙のうえで立ち上がり敬意を表す︒⁝⁝︵申略︶⁝⁝チュニジアのベイの近衛兵分遣隊が︑かつてのテ識ルコ︵ク
リミア戦争におけるトルコ風服のアルジェリア人狙撃兵︶を想い出させる白のズボンと短いベスト姿で︑彼らの国王の前を誇ら︐
しげに進む・汚れ一つない真っ赤なシェシアをかぶったアルジェリア第三歩兵師団のヌバの後ろに︑チュニジア狙撃兵連隊の行
進﹂︵卜偽零伽§P7︒15︶
なお︑図4はこのパレードの一部︵ブルヌス姿のスパイ︶を描いたものである︒
このようにスルタンとベイの訪仏︑とりわけ軍事パレードへの臨席は︑パレードへの植民地原住民兵の参加︑ならび
に原住民高官への叙勲とあいまって︑ω植民地大国としてのフランスの戦後復興︑②大戦中の植民地の貢献︑③︷七八
九年革命に象徴される文明国フランスに対する植民地の忠節︑を喧伝する舞含︑つまり帝国意識を鼓吹する舞台に他な
らなかったのである︒事実﹃ザ・ニューヨーク・タイムズ﹄のパリ特派員は両パレードを次のように打電している︒
﹁おそらく二百万のパリ市民が街頭に繰り出し︑これらの部隊を︑フランスが大国として復興する象徴として眺めていた︒⁝⁝ インベリアルのアイデア へ中略︶⁝⁝スルタンの出席だけでなく︑北アフリカからの多くの原住民兵部隊の参加によって︑帝国意識が強調された﹂︵6︒
19︶
﹁チュニジアのベイの出席で帝国精神が祝典に加味されるだろう︒し﹁午前の公式パレードはまったくの軍事パレードであり︑帝
国パレードであったし︵7・14/7・15︶
またド・ゴール自身︑後日次のように語ってもいる︒
﹁モロッコのスルタン陛下と︑その後のチご一ジアのベイ殿下のフランス訪問は︑両国家とフランス共和国とを結び付けるつな ⑪ がりには疑いをさしはさむことができないことを示したのであります﹂︵ 九四七年五月十五日ボルドー市での︑黒人最初の植民
地総督エブエ団鱗錠図げo愚記念碑序幕式典挨拶︶
そして最後に同年一九四五年秋の︽戦争のなかの海外フランス展︾︵10・12〜11・11︶︒展示品はもちろんのこと︑展
覧会場で毎日おこなわれた講演や︑その新聞報道によって︑ω戦後復興︵再大国化︶における植民地の有用性と︑㈲大
戦中の植民地の貢献︑㈹﹁文明化﹂の諸事業︑㈲植民地原住民の忠節が︑次のように喧伝されたのである︒
﹁レジスタンスと勝利に果たしたフランス共岡体成員の役割を本土フランス人に示す必要がある︑という政府の判断は正鵠を射
ている︒なぜなら︑この役割はただ漢然と気付かれているに過ぎないからである︒そして同時にこの展覧会は︑フランス連合の
機構を決めるようにと史上初めて全フランス領が憲法制定議会に招かれている今この時にあって︑形成途上のこのフランス連合
の重要性を国民が理解する好機でもある︒⁝⁝︵中略︶⁝⁝展覧会の一コ!ナ!全部が︑フランス帝国精神の探求のために充てら
れており︑帝国の多様性と魅力を形づくっている様々な文明と︑まさにフランス的なヒューマニズムの懐に全ての人々が抱かれ
るのに果たす本土の貢献とが︑手早く示されている﹂︵卜驚§き繕食憩︒10︶
﹁大胆でエキゾチックな︑色彩豊かな陳列によって︑母国の解放と連合国の勝利に対するマダガスカルと暗黒大陸︑アンティー
ル諸島の貢献が説明されている﹂︵卜.︾さ魯10・13︶
﹁毎日グラン・パレで最適任の講演者が︑順次解放された膏国の軍事・経済貢献が過去五年間どのようなものであったかを話し︑
九七
九八
また・征服した土地が自らを支配できるようになるようにフランスが各地に派遣した医師・教師︒文筆家︒芸術家︒聖職者の保
健︒教育・文化・精神面での業績の明細を語っている︒⁝⁝︵申略︶⁝⁝三軍の司令部所属の士官連が武勲を︑そして植民地行政
官と技師達が体験を語り︑人類博物館︵アフリカと太平洋方面の資料を主とする国立博物館︶とギメ博物館︵クメール文化関係
を筆頭とする東洋美術専門の国立搏物館︶も最大隈の協力をおこなっている﹂︵い傷ミo趨欝ヒー1︒1︶
﹁一九四〇年八月二五日以降海外フランスがどのようにわれわれの解放に与ったかがわかるようになっている︒そして︑海外フ
ランスがわれわれの革新に将来どのように貢献でき︑われわれにどれほど広大で多様な活動の舞台を提供しているかが気付くよ
うになっている︒新しい町︑世界的規模の⁝港︑学校群︑病院︑工場︑ダム﹂︵卜.︾さや 11︑3︶
﹁観容が殺到しているけれども︑展覧会が閉幕するのは十一月十一日である︒敵に対する戦いの申でわれわれの植民地がおこなρ
た努力の数々を︑目で見ることができるようになっている︒軍事協力︑海・空軍の参戦︑資源開発という三つの角度で展示がお
こなわれている︒壁蔵・大画面の写真・軍関係の記念品・美術品・植民地産品が︑文字通り植民地博物館と化した建物の中に隣
あって並び︑軍人・民間人・宗教人などわが国の植民地開拓者の成果と︑先の戦争の時に立派な忠節心からわれわれに全てを与
えた植民地住民のわが国に対する愛着が示されている﹂︵卜︑導oQ§℃11︒4−5︶
﹁一九四〇年からアフリカの地でフランスが戦っていることを主張し続けた人々の華やかな武勲が回顧され︑そしてわれわれの
帝国がおこなった軍事・経済努力が紹介されている︒また同時にパネルで︑フランス共同体の精神が呼び覚まされており︑その ヘ へことでわれわれと彼方の国々とを結ぶ強い紐帯が理解できるようになっている﹂︵卜恥鳩甜ミP11・9︶
結
琶蕊PR
では︑ド・ゴールや四新聞などによって鼓吹されたこの﹁紐帯﹂意識︵帝国意識︶に︑当時のフランス国民はどの程
世論調査(1)ユ945年5月18−30日実施
〔質問〕フランスは大国だと思いますか、小国だと思いますか。
(単位%)
大国だと思う…………80 小国だと思う…………10 無回答………一…・…・10
〔フランスが大国であるか小国であるかについての、回答者の自由コメント〕
常に大国であったし、そうあり続ける・……・…………・………7 その文化と歴史ゆえに大国である…・………・……◆………・……・…・5 舵とりがうまければ再び大国になるだろう・………・…・……… 5 帝国とその資源ゆえに大国である………・………・・……・………・…・8 ド・ゴール将軍とレジスタンスのおかげで大国である……… 7 大国であることにっいて他のコメント・………・・……… 8
大国であったが弱体化した・・………・・…………・……・………
申等国、あるいは小国の中の第一国………
小国であることにっいて他のコメント・…・………・………
2 1 5
コメントなし……・…・………・…・・………・・……・…………・……52
Bulletin(i 1敏)rmation,1.F.αP.,工e「juilleも1945,p.134.
度まきとられていたのだろうか︒
まず︑戦後復興を再大国化ととらえる視点の国民へ
の浸透度をみてみよう︒
世論調査︵1・亘︶は︑大国化願望の有無を直接明
かにするものではないが︑それでもフランスの大国化︑
少なくとも米・ソ・英に次ぐ世界第四位の大国である
ことを願っていた入がかなりいたことを推測させる︒
そして世論調査︵1︶のコメント内容は︑﹁帝国と
その資源ゆえに大国である﹂という意見が絶対数とし
ては少ないが相対的には最大であることから︑植民地
所有が大国化の鍵の一つであるという意識が国民の間
に少なからず浸透していたことを教えてくれる︒また
世論調査︵斑︶も同様の浸透状況を示唆している︒な
ぜなら︑植民地の利益を伴うにせよそうでないにせよ︑
フランスの利益になるように植民地を経営すべきだと
いう考えは︑植民地所有がフランスに利益をもたらす
︵その一つがフランス大国化︶という考えと双子の兄弟と
言えるからである︒さらに世論調査︵W︶は︑植民地
九九
世論調査(II)1945年12月20日一1946年1月8日実施
二25 位
アメリカ合衆国 ソ連邦・………
イギリス……・
フランス・……
申国………・…
カナダ………・
ドイツ・………
日本・…………
他の国……・…
わからない・…
So ndages , 1.F.O.P.,16 j anvier 1946,p.20.
一〇〇
所有が大国化の鍵だと唱えた一九四五年三月二日ド・ゴール演説︵七
九頁参照︶の影響度の大きさを教えてくれる︒
つぎに︑﹁文明化の使命﹂論への思い込み度︵世論調査V参照︶︒肯
定派の中の制隈論者のコメントから推測するに︑肯定派の中には︑植
民地原住民が文明化したから︑あるいは文明化すればという条件でフ
ランス市民権の付与を承認する人が少なからずおり︑他方否定派の大
多数は︑植民地原住民は未だ文明化していないからという認識でフラ
ンス市民権付与に反対していた︑という可能性がかなり高いのではな
いだろうか︒つまり︑﹁文明化の使命﹂論を受容し︑フランス市民権
付与は文明化した人への文明人からの贈物︑と考える国民がとりわけ
保守層め間に相当数いたのではないだろうか︒
そして最後に︑リヨンのアメリカ領事館がパリの同国大使館宛送っ
た報告書に次のような一節がある︒
﹁ベテユーヌで最近ド︒ゴールがおこなった演説︵八七頁参照︶の重要な
部分は︑インドシナに言及したところで︑この部分でおくられた拍手喝 ⑫ 采はフランスで帝国主義を是とする感情がいかに強いかを示している﹂
︵一九四五年八月一=日付︶
このように︑当時のフランス国民は占領ドイッ軍による民族的抑圧
世論調査 (1[(> 1946年5月10−27日実力笹
〔質問〕何よりもフランスの利益になるように私たちの植民地を治めるべ きでしょうか、それとも、何よりも原住民の利益になるように治 めるべきでしょうか。 (単位%)
フランスの利益になるように・・………・……31 原住民の利益になるように・・………・……28
フランスと原佐民同時の利益になるように……25
意見なし・……・…………・…・………・・………16
Son{ゴα98ε,LF.0.P。,16 juh}ユ94{3,P・146・
世論調査(A7)1945年3月5−18日実施
○
〔質問〕3月2臼諮問議会でのド・ゴール将軍の演説を読みましたか、ラ ジオで聞きましたか。 (単位%)
〔回答)読んだだけ・…・………・………33 闘いただけ……・………・…………・23 読みもし聞きもした………26 読みも聞きもしなかった…………18
(質問〕その演説に賛成ですか。
〔回答〕賛成…・…………・…・………62 反対………・………・・………
意見なし・……・…………・…………30
Bulletin(1 1nformαtion,LF.O.P.,16 avril 1945, p.90,
世言綱査(V)ig46年3月6−15喉施
〔質問〕フランス市民と同じ権利を植民地住民に与えるべきだと考えますか・
(単位%)
全 体……・………・…9………
ゐ EI)o《7 ue疑薄霊売者…… ………
Le Figaro購読者…………
」ニノ,ノ4Lこtと♪θ 疑il孝言売者 一一・・.一一。。一一●一一・一一聰
Lθ 2F)()pulαire 貝薄読者 一・辱。噂6の●.
ヱン1磁僧τα痂滋購読者…・……・・
肯定 63 40 58 64 77 80
否定 22 58 34 20
11
3意見なし
15
〔冑定派の中の制限論自由コメント〕
北アフリカとインドシナのみ与える 中央コンゴの後進民族は除外
植昆地に応じ、文明の程度に応じて与える 知識人など特定の社会層に与える
文明化した人々とキリスト教徒に与える
㈱Le Poputai,reは社会党、 L H〃man,iteは共産党各機関紙
80πdlαgεs,王。F.○.]P、,1e「avri1 2946,pp.84・−85.
一〇二
を経験したばかりであったが︑この経験を帝国意識から
の解放に活かすことができなかった︒そもそも当時のフ
ランス国民には︑︸九四〇年の敗北とそれに続く被占領
体験から導き出す教訓に︑少なくとも二つの選択肢があ
りえたはずである︒一つは︑フランス帝国内では抑圧者
であることを自覚し︑ファシスト・ドイッからばかりで・
なく帝国意識からも解放され自由になるという︑選ばれ
なかった道︒もう一つは︑アメリカ駐仏大使キャファリー
︵転Φh審屋80餌R①蔓︶が次のように指摘した︑劣等意識
を鞭う大国願望の道である︒
﹁フランス国民は︑国内問題︑特に食糧・暖房・経済復
興・対独協力者粛正に関する問題を臨時政府が適切に処
理できないでいることに批判的である一方で︑ド︒ゴー
ル外交政策の大成功については非常に感激している︒し
かし︑自分たちが何を感じ︑そしてなぜそう感じるのか
を立ち止まって分析するフランス人はほとんどいない︒
実は大半のフランス人は︑認め難い事実︑つまり︑フラ
ンスは三大国に列していないという事契を心底では受け
入れざるを得なくした︑一九四〇年の敗北に起因する彼らの劣等感に基づいて思考しているのである︒したがって︑外交分野で
のド・ゴールの成功に対するフランス国民の感謝は︑フランスがもう一度再び外交的に平等な立場で合衆国︑イギリス︑ソビエ ⑬ ト・ロシアという大国と交渉できるという誇りに他ならない﹂︵一九四五年二月三日付国務長官宛報告書︶
これまでみてきたド・ゴールの言説と四新聞の報道等は︑結局︑ω戦後復腰→大国化と喧伝することで︑キャファリー
が指摘するように当時のフランス国民の意識の中に萌芽的にあったこの大国願望を刺激し︑そして︑②植民地が大国化
の鍵だと喧伝することで︑この大国願望を植民地大国願望へと偏曲させ︑同時に︑③﹁文明化の使命﹂論の喧伝と併せ
て︑ドイッ軍占領から導き出せる帝国意識からの解放というもう一方の幼芽を摘んでしまった︑と言えるのではないだ
ろうか︒
注
①本稿は︑小論﹁一九四五年フランス国民の帝国意識−新聞報道からみるシリア騒擾とベトナム八月箪命ー﹂﹃史林﹄第七三巻
第六号︵一九九〇年十一月︶の続編にあたる︒先の小論ではレヴァントとインドシナを例に取り上げ︑植民地原住民の反仏感情噴
出およびフランス側の非人道的弾圧にもかかわらずフランス国民の間で帝国意識が温存された過程を論じた︒ ︸方本稿では植民地
全般を取り上げ︑ドイッ軍・占領の経験に関わる問題を検討する︒
②村上・山崎訳﹃ドゴール大戦回顧録︵W︶﹄一九六六年みすず書房三二六頁︒
③Q峯ユ窃9Q窪︸圃ρ卜織鮮︑貴ま欝゜ウミミ︑︑§勲︑ミ嵩N漣馳言aNミ黛お︒︒︒Q一窓電︒︒ω︒︒°
④♂ミこ讐の︒︒ホ己&書
⑤﹃ドゴ⁝ル大戦回顧録︵1︶﹄一九六〇年一四〇〜一四︸頁︒
⑥同上書二七八〜二八〇頁︒
⑦﹃ドゴール大戦回顧録︵∬︶﹄一九六一年一八二頁︒
一〇三