人間の福祉 第23号(2009)45〜55
〈報 告〉
「塙保己一・賞」の創設と障害者社会参加推進※
堺 正 一※※
他県と同様,埼玉県内においても,多くの事業所は障害者雇用の法定雇用率を満たしてはい ない。障害者の社会参加推進の視点からも,「ノーマライゼーション」及び「リハビリテー ション」の理念のもとに,誰もが相互に人格と個性を尊重し支えあう「共生社会」の構築は今 日の緊急課題の一つである。
その具体的な施策の一環として,2006年6月,埼玉県は「平成の塙保己一プロジェクト」
(以下「塙プロジェクト」と表記)を立ち上げた。ロールモデルとして,その郷土の先人の生 き様を示すことによって,社会に障害者理解啓発を進めるとともに,障害者自身の社会参加へ の意欲の高揚を図ろうとするものである。特に障害者の社会参加推進のために高等教育機関へ 障害学生の受け入れを働きかけることを提議したことに注目していきたい。
筆者は本プロジェクトに議長としてかかわり,知事へ提言をした立場から,プロジェクトの 柱の一つである「塙保己一賞」創設の経緯と障害学生修学支援の今日的意義について,障害者 福祉及び教育の観点から報告したい。
1 「塙プロジェクト」と「雪解己一賞」の創設
江戸時代の盲目の文献学者である塙保己一(以下「保己刊と表記)は,埼玉県本庄市児玉 町の出身である。全盲の身にもかかわらず,江戸に出て学問の道に進み,『群書類従』をはじ め,日本古来の稀少な書物を全国から収集し,編纂,校訂,刊行し,わが国固有の精神文化を 現代に伝えている。同時に,超多忙という状況の下で,自分と同じ盲人たちの社会的地位の向 上のためにも情熱を注いだという事実に注目してほしい。
埼玉県はこの「塙プロジェクト」を通して,保己一を顕彰し,「自助」と「互助」の精神,
いわゆる「塙精神」を現代社会に具現化しようとするものである。価値観が多様化し,混迷の 度を深めている現代社会において,障害の有無とは関係なく,この盲偉人の生き様から学ぶこ
とが少なくないからである。
※Newly Bom Hanawa Hokiichi P煮ze and Soclal Rehabilitadon for the Disabled
※※Shoichi SAKAI,立正大学社会福祉学部社会福祉学科
キーワード:塙保己一賞,塙保己一プロジェクト,障害者社会参加推進,埼玉県
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「塙保己一賞」の創設と障害者社会参加推進(堺)
その保己一の功績の第一は,散逸する恐れのある我が国の貴重な文献・書籍を保存・継承し たことである。国際化時代において,日本人としてのアイデンティティーを再確認するため に,自国の伝統文化に目を向けることが求められている。また,保己一はヘレン・ケラー女史 が敬愛し,人生の目標とした人物としても知られている。
塙プロジェクトは障害者の社会参加を推進するために,多方面から検討し,その一環として
「塙保己一賞」が創設された。本プロジェクトの主管は福祉部障害者福祉課障害者社会参加推 進室であることからも,この賞制定の趣旨は自ずと明らかである。
塙プロジェクトのねらいは,障害者が,その能力を十二分に発揮でき,「第2,第3の塙保 己一を輩出できる社会の構築」である。しかし,障害者の自己実現を考えるうえで,この人物 評価の視点をどこに置くかによって,このプロジェクトの性格は変わらざるをえない。そのた め,各回のプロジェクト会議において議論百出で統一した結論を出すことはきわめて困難で あった。同病一つを取りあげてみても,委員の数だけ見解があったといってよい。
しかし,保己一が盲人であり,担当が福祉部であったことから,同プロジェクトの事務局は 当初より視覚障害者に限定しようとする意向が強かった。そのために,本来の「障害者の社会 参加推進」の意義が倭小化される懸念があった。この賞は埼玉県が設ける唯一の障害者の表彰 制度であり,今後新たに別の障害者表彰制度の創設はないことを考慮すると,障害者全体が対 象になるように慎重に検討する必要があった。事実,保己一は障害の有無とは関係なく,すべ ての人の目指す人物像となりうる存在であるといえるだろう。
プロジェクト関係者自身が「良心己一」という人物についての具体的人物像を持てきれない 状況下で,作業は進められた。今日,この盲偉人の存在が,出身地の埼玉県においてさえ忘れ
られかけている現実を如実に物語っている。
検討作業を進めるにあたって,議論は紆余曲折したが,一応の集約がなされ,提言書が知事 に提出された。これを踏まえて策定された2007年度の「埼玉県障害者支援計画」から塙プロ ジェクトに関する一部を,次に紹介する。
主な取組
19年中(1年以内)に実施するもの ・新たな教育環境をつくる (略)
・大学等への進学の道を広げる
①各大学等の障害者受け入れ体制について実態を調査し,障害者に情報を提供すると ともに,大学等に障害者の受け入れ拡大を要請する。
②大学の担当者を集め,障害者の受け入れ促進のための研修会を開催する。
・職業選択の幅を広げる ①(略)
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②就業している障害者の活躍事例を県のホームページで公表する。
③就労支援センター等の就労支援担当者や盲学校教員に対する研修会を開催する。
④障害者を雇用している企業のネットワークを立ち上げ,随時,就業事例やジョブ コーチ等の制度を紹介する。
21年差で(3年以内)に成果を出すもの ・新たな教育環境をつくる
①県立盲学校と他の学校とにおいて,生徒の実態に応じて教科学習による「交流及び 共同学習」を充実する。
・大学等への進学の道を広げる
①県立大学の協力を得て,大学等に進学した障害者個々の事例から要因等を分析し,
公表する。
・職業選択の幅を広げる
①就職した障害者個々の事例から,就職に結びついた要因等を分析し,公表する。
②身体障害者を対象とした県職員採用選考において点字による試験を実施し,県職員 への採用機会を拡大する。
塙保己一賞の創設(平成19年度〜)
賞の種類
・塙保己一大賞(障害者本人) 〔全国から募集予定〕
・塙保己一奨励賞(障害のある若い人) 〔県内から募集予定〕
・塙保己一貢献賞(支援者,貢献者) 〔全国から募集予定〕
要するに,本プロジェクトの目的は「ノーマライゼーションの理念の実現」と「障害者の社 会参加と自立の推進」に資することを主眼としている。
2007年度,「塙町己一賞」の創設と表彰が行われた。厳しい財政のもとであるが,この賞の 他に,障害者の社会参加推進の観点から学校の整備,障害者の大学進学への方策を探る取り組 みが進行している。
2 受賞者と障害者の社会参加への影響
同訓の募集要項と第1回塙吟声一州大賞受賞者のプロフィールから,この賞制定の意義を逆 にたどってみたい。受賞者である本間昭雄氏のプロフィールを紹介することによって,同賞の 趣旨が,事例を通して,自ずと明確になると考えるからである。
(D 塙 保己一賞の趣旨(募集要項から)
埼玉県には,幼くして失明したにもかかわらず,学問の世界に果敢に挑戦し,文化史上
未曾有の文献集「群書類従(ぐんしょるいじゅう)」を編集・出版した江戸時代後期に活
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「塙保己一賞」の創設と障害者杜会参加推進(堺)
賦した大学者がいます。世界的な偉人として讃えられるヘレン・ケラーも人生の目標とし た現・本庄市出身の塙(はなわ)保己一(ほきいち)です。
埼玉県では,平成19年度から塙 保己一の精神を受け継ぎ,障害がありながらも不屈の 努力を続け社会的に顕著な活躍をしている方又はこのような障害者のために様々な貢献を している方に「塙保己一賞」を贈ることとなりました。
障害のある子供たちが「塙 保己一」という先人のみならず,同じ障害のある方々の活 躍を通じて,自分の将来の夢や希望を描くことができるチャンスにあふれる共生社会づく りを推進します。
(2)受賞者のプロフィールと授賞理由(表彰式のパンフレットから)
第1回の大賞を受賞したのは長年東京都青梅市で視覚障害者施設の経営をされている社 会福祉法人聖明福祉協会理事長の本間昭雄氏(78歳)である。
ア 受賞者の略歴
・20歳の時に医療事故により失明。同じ苦境に立つ失明者の福祉のために聖明福祉協 会を設立。
・家に閉じこもりがちの視覚障害のある高齢者の家庭を地道に訪問し,点字指導や社 会復帰の相談を行う中で専門施設の必要性を痛感し盲養護老人ホームを設立。
・日本で最初の盲大学生奨学金制度を創設し,現在まで182こ口奨学生を送りだし,
弁護士,大学教授,音楽家など第一線で活躍している。日本代表として数々の国際 的な社会福祉会議に出席。社会福祉法人日本盲人社会福祉施設協議会理事長 ・全国盲老人福祉施設連絡協議会会長,社団法人日本ペンクラブ会員,藍綬褒章 イ 表彰理由
同じ苦境に立つ視覚障害者の福祉のために盲養護老人ホームを開設するなど,我が国 における視覚障害者のための福祉施設運営の草分け的存在です。現在も特別養護i老人 ホームなど3個所の高齢者福祉施設を運営されている。
1969年には,後進育成のために視覚障害のある学生に対する奨学金制度を日本で初め て創設した。
その奨学金制度からは大学教授や弁護士など視覚障害を持つ優秀な人材が数多く輩出 されている。
このような本間氏の活動によって「生きる希望」を与えられ,重度の障害にもかかわらず
「勇気と希望」をもって社会参加を果たしている視覚障害者は多い。しかし,同氏を知る人 は,視覚障害関係者を除いて限られている。この度の受賞を通して,氏のような人物の存在が 広く知られることによって,生きる勇気を与えられる若者や障害者は決して少なくないだろ
う。
2008年1月26日「第1回塙保己一賞」の授賞式が保己一の生誕地である本庄市児玉町で開催 された。わが国の福祉,芸術,文化の分野で貢献のあった4名が受賞した。
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価値観が多様化し,解決困難な課題が山積している現代,「生きがい」や「生きる目標」が もてず,悩んでいるという若者の声は相変わらず多い。いじめ,不登校,中途退学,ニート,
自殺等の社会問題を抱える現在,全盲という重度障害の不自由な身でありながら,喜びのうち に揺るぎない人生を全うした生き方に,福祉,教育の視点からもう一度光をあてることの意義 は大きい。
盲聾唖という三重の障害を負った偉人として知られるアメリカの女性・ヘレン・ケラーだ が,日本のこの盲学者を目標として,どんな困難をも乗り越え,いっか世界的偉人の一人と称 えられるようになったという逸話は広く知られている。母親から保己一の話を聞かされ,生き る勇気を与えられたこの女性は,今度は全世界の社会的に弱い立場に置かれた人々に向かっ て,前向きに生きる人生の素晴らしさを訴えた。その影響を受けて,重度の身体障害にもかか わらず困難な状況に置かれながらも,輝いた人生を送った人たちは,我が国においても少なく
ない。
今から260年ほど前,現在の本庄市に生まれた保己一は,幼くして失明した。学問への思い を断ち切れず,ためらう父親を説得し,ひとり江戸に出たが,現実は想像以上に厳しいもので あった。1年後についに挫折…,失意のうちに近くの江戸城の堀で自殺未遂事件を起こした。
今でいえば中学3年生の年齢である。思春期の悩みは今も昔も変わらない。
「いじめ」や「自殺」が後を絶たないこの時代だからこそ,多くの課題をかかえつつも,た くましく生きた先人の足跡に目を向けることに意味がある。保己一はその生涯にわたって「差 別」も受けた。しかし,重度の身体障害に加え,封建時代という厳しい制約のもとで,精神的
自由を謳歌し,「世のため,後のために」(1)その生涯を捧げた。同時に,「座中取締役」として 厳しい状況の下で苦しむ盲人たちの社会的地位の向上のためには労を惜しまなかったのであ
る。
今,学校,家庭,地域社会では,それぞれ多くの困難iな課題を抱えている。なかでも青少年 の自殺は後を絶たない。しかし,この間文部科学省や各教育委員会も手をこまねいてきたわけ ではないが,その件数は減ることもなく,解決の糸口さえ見つからないのが現状である。その 原因の一つは,具体的に目指す人間像を心に描き,生きる希望をもつことができないことであ
る。具体的な生きる目標を示すことが教育現場に求められている。
2006年6月県議会において,「塙保己一賞」制定の提案がなされたのには,障害者の社会参 加推進に加えて,ロールモデルを示すという背景があったのである。埼玉県立盲学校を訪問し
た知事は中学部生の弁論を聞き,次のように述べている。
その生徒さんは「自分は障害者だから」,「目が見えないから」と決めつけ,自分で自分
を枠に閉じこめていたのです。しかし,一編の「詩」に出会ってから「人間としてもっと
自由に,積極的に生きて行こう。」と考え方を変えて,今,懸命に勉強に励んでいるとい
うふうに聞きました。そういうふうに,ひたむきに努力する生徒を見ると,周囲から支援
する仕組みさえあれば,第二,第三の塙保己一が出て来るのではないかというふうに思っ
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「塙保己一賞」の創設と障害者社会参加推進(堺)
ています。実際,そうした活躍をされている方々もたくさんおられると思います。(以下
略)
自己実現を果たした障害者を紹介することによって,その人物とその業績を顕彰するだけで はなく,社会的に弱い立場の人,将来に希望をもてない若者たち,そしてすべての人たちが生 きる目標がもてる社会の構築への行政の積極的取り組みを埼玉から全国に向かって発信するこ とになった。
3 人物評価の視点
保己一が社会から忘れ去られようとしてきた原因はどこにあったのかを考えてみたい。この 人物への評価は,これまで主に次の2点が挙げられてきた。
①「盲人」には困難と思われた学問の世界で,偉大な業績を残したこと ②「盲人社会」の最高位である総検校にまで出世したこと
しかし,その人物評価は障害の有無とは関係なくなされるべきものである。幕府や著名な学 者たちでさえ手をつけられなかった国家的大文化事業に,「世のため,後のため」という一途 な思いから,一私人として果敢に取り組んでいったのである。
だれはばかることなく幕府や大名に対しても,大坂の豪商に対しても,積極的に支援を求 め,自ら企画,運営に取り組み,その目標をやりとげたのである。
これまでの保己一への評価には,常に「盲人にもかかわらず…」という枕詞がつけられてき た。あわせて「大名にも匹敵するといわれた盲人社会の最高位にのぼりつめた」という「出世 物語」の主人公として名があげられてきた。これは純粋に一人の人物の評価がなされたとは言 えず,「障害者」という枠のなかでの評価であり,これは結果的には「差別的な目」で人物評 価が行われてきたと言っても過言ではない。
しかし,保己一が目指したものは,「名声」,「地位」,「権力」,言うまでもなく「財」を手に することでもなかった。「世のため,後のために」働くことに自分自身の喜びをも見いだした のであり,その人生には,どんなに厳しい人生を歩むことになったとしても,自己を犠牲にし て生きたという思いは,保己一にはなかった。
後に渋沢栄一が保己一を敬愛し,評して「寡欲淡白」②といったのは,この生き方をさして いる。その生き方は,昨今の「格差社会」を是認し,「勝ち組」を称え,いわゆる「負け組」
を見下すという風潮の社会では,保己一のような生き方には目が向けられることが少ないのは 当然かもしれない。
保己一の学問的業績は偉大なものであったが,当時の学者からは,その功績を故意に無視さ れたり,また時には身体の障害を理由に差別的な扱いを受けたりすることもあった。
ア「自説を打ち出すこともなく,古来の書物をただ集めて刊行したところでなんの価値が あろう」
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イ「あれだけのことを盲人にできるはずはない。目が見えない振りをして,世人の関心を 集めている」
ウ「百姓の出の盲人ごときを仲間に加えるのは恥だ」
等々である。
いずれも嫉妬から出た差別によるものであろう。しかし,弁解することもなく,あえて自分 の努力や学問的業績を喧伝することも,それまでの生き方を変えることもなかった。背伸びす るでもなく,肩肘を張るでもなく,不自由な身にもかかわらず,常.に「ありのままに」生き た。身分差別の激しい封建時代にあって,しかも重度の身体障害の身であるにもかかわらず,
精神的自由を謳歌していたといってよい。自分の事業の遂行に当たっては,幕府や大名に対し ても,言うべきことは言い,主張すべきは主張し,要求すべきは要求したのである。ここに障 害者の生き方を示すロールモデルを見ることができる。
4 教育を受ける機会の保障と障害者
埼玉県は,近年「埼玉の三偉人」として,この塙保己一,「日本の資本主義の父」であり
「社会福祉事業の父」でもある渋沢栄一,「日本最初の公認女性医師」・.である荻野吟子をあ げ,その顕彰に努めている。後者2名を顕彰する賞は,既に制定されており,「今回の急信己一 賞の創設によって三つの賞が揃うことになった。いわゆる埼玉の三偉人の育った環境に目を向 けると,現在の「共生社会の構築」という面から学ぶべきことが多い。
この三人に以下の点が共通した人物像が見えてくる。
ア 誠実と努力の人 . ・ イ 人の尊厳を守るために理想を追求した人
ウ 社会正義の実現のために行動した人
工 人を愛し,なにごとにおいても社会の利益を優先した人 オ どのような厳しい環境のもとでも精神的自由を謳歌した人
この3人の人物が育った少年少女時代の社会的な背景に目を向ける必要がある。これまで,
いずれの人物についても,個人の努力,才能だけに注意が向けられ,特異な人物と見られてき たことは否定できない。しかし,一人の人物の「偉大さ」は一個人だけの努力の結果ではな い。その生き方を可能ならしめたのは,この人たちに影響を与えた多くの先人や同じ時代を共 に生きた隣…人たちがいたからである。そこから今日でいう「共生社会」の理念が見えてくる。
保己一の人生に影響を与えた先人や隣人は驚くほど多い。当時の庶民生活に目を当ててみると
「共生」の理念が生きていた社会であったことが窺がえる。
ところが,そのような個人的な支援に加え,さらに広く伝統的な制度にも目を向ける必要が ある。人は人的な環境だけではなくて,伝統や社会制度のなかで成長するからである。
(D 庶民の教育制度
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寺子屋制度について考えてみたい。保己一が江戸に出る前,ほかの子どもたちと同じよう に,盲目の少年に学問を教えた近くの寺の住職がいた。もし「目の見えない子に学問などとて も無理だ」と断られていたら「盲目の大学者・塙保己一」 はなかった。おそらく学問に関心 をもつこともなく,まったく別の人生を歩んでいたにちがいない。
実は江戸時代,多くの子どもたちに混じって,盲児,聾児,それに知的発達に遅れのある子 どもまでもが,この寺子屋で学んでいたという記録が残されている。(3)江戸時代には障害があ る子もない子もいっしょに学ぶという,今でいう「統合教育」が自然な形で行なわれており,
保己一が寺の住職から学問を教えてもらったのも当時の教育制度の枠の中でのことであったと 考えることができる6現在の「ノーマライゼーション」の考え方が,江戸時代にこの庶民の教 育機関において自然な形で見られたのである。
生涯婦人病で苦しむことになった荻野吟子の少女時代,女性についても寺子屋や私塾は決し て共に学ぶことを拒んではいなかった。現に,吟子は幼くして寺子屋に学び,その後も著名な 学者の私塾で男性とともに学んでいる。松本万年ω,井上頼囲.といった当時を代表する学者た ちである。
しかし,明治維新後,この伝統は健常児と障害児は別の場所での教育へと変わった。1872
(明治5)・年の学制頒布によ.る「廃人学校アルヘシ」の規定である。結果として,障害児は自 分の住む地域社会で教育を受ける機会を失うことになった。この時それぞれが別の場所で勉強 するという,いわゆる「分離主義」を原則とした近代教育制度が確立され,現在に至ってい る。2007(平成19)年度から障害児への教育制度は「場」の教育である「特殊教育」から「一 人ひとりのニーズ」を重視する「特別支援教育」へと大きく変わった意義を,この機会に再度 吟味する必要があろう。「完全参加と平等」をうたった1981(昭和56)年の国際障害者年の精 神が一層大きな流れとなって今日に至っているQ』
(2)幕府の盲人保護政策と盲官制度
当時の盲官制度は障害者保護政策として無視できない存在である。保己一が学者として活躍 できた背景には,長い歴史をもつ日本独特の盲人一座(5)の制度があった。平安時代の終わり頃
そうぎょう