ヴェブレンと教育経済学 : 教育経済学研究の一齣
著者 澤村 勞治
雑誌名 關西大學經済論集
巻 創立70周年特集号
ページ 83‑109
発行年 1955‑11‑04
URL http://hdl.handle.net/10112/15697
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t i e s
by
B u s i
n e s s
M e
n ,
1918)
を 八 ム
i
にしたのは一九一六年であった︒
( l )
﹁彼の著作のうちでも最もすぐれたもののひとつ﹂といわれるこの著作は︑社会学者ヴェプレンの大学論である
が︑またひとしく︑大学の教育学であるとも︑大学に焦点をおいた教育社会学であるとも︑教育経済学であると
もいえるであろうし︑更にまた近代大学の分析をつうじて近代社会︑とりわけ近代資本主義社会を形成する指導 が
ヽ経済学史上特異な一学派︑制度学派の始祖として︑経済学をそれまでの経済学に対して︑現実に即した動態理
論としての経済学たらしめるため︑近代的行動心理学と進化論とをとり入れて社会経済的制度の進化に関する究
明を指向した学者︑たんに経済学者というよりも同時に社会学者であり社会思想家であったかの T ・ヴェプレン
「アメリカにおける大学の学問ー—実業家による大学運営についての一党え害」
ヴェプ>ンと教育経済学︵海村︶ ヴ
二
プ
ー 教 育 経 済 学 研 究 の
V ン と
澤
一 齢
1
教 育 経 済 学
村
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榮
治
83
的理論要素の分析である︑ともみうるであろう︒このように種々な観点からそれぞれことなった問題構成の可能
な本著作の紹介なり︑又批評なりをここに試みる由もないことはいうまでもない︒けれども︑
その全容を概説した際に︑
( 2 )
( E c o n o m i c s f o E d u c
a 苦
n )
を展開したものとしている点に注目し︑教育経済学として︑どのような問題が採り上げ
られ︑どういう風に取扱われているか︑などという一連の問題についてのみ︑この小編では若干の考察がはらわ
れるのである︒ この著作をもつて﹁教育経済学﹂
註 (1)J•Dorfmann;
T h o r s t e i n V e b l e n a n d H i s A m e r i c a
̀ 1 9 3 4 , P . 3 5 3 ( 2 ) J . A . H o b s o n ; V e b l e n , 9 3 1 6 . ( i n M o d e r n S o c i o l o g i s t s ) C h a p .
V l ,
p p . 1 0 4
‑ 2 0
た︒彼は序論で︑
﹁ 第
一 章
序 論
﹂ ︑
﹁第五章大学の人事﹂︑ ﹁ 第 二 章 理 事 会 ﹂ ︑
章大学の名声と物的施設﹂︑
( 2 )
結論と試算表﹂から構成され︑概して大学の学問と大学の教育とを含む大学論が︑その所論の主たるものとなっ
まず︑ヴェプレンが大学の分析に当つて採ろうとする観点は︑
近代社会学者叢
﹁第三章大学教育行政﹂︑
﹁第七章職業教育﹂︑
一般に学者として︑社会学者として︑経済学者
﹁多くの他の最近の現象と離れつつ︑また離れることなく︑大学の学問はそれのおかれている として︑また教育学者としてのそのいずれでもなく︑
むしろそのいずれからもいささかずれた角度からであっ
て い
る ︒
﹁第六章科学者の役目﹂︑ ﹁ 第 八 章
( l )
今問題としようとする前記の著作は︑ 書中 J.A ・ホプソンがヴェプレンを担当し︑
﹁ 第
四
84
諸境位によって集団に影響を及ぽす生活様式からその性格をうけている︒かくの如く学問の範囲と方法とを条件 づけるこれらの拘束的境位は︑まず第一に︑そして恐らく最も有力に︑工芸とか技術の状況によって押つけられ た諸条件である︒が第二には御他聞にもれず︑他の諸聯関における慣習
( u s e a n d w o n t ) の従来の図式が︑知識の形
( 3 )
成に︑その内容のみならず知識組成の規範と方法とにまでも︑効力を及ぽしている﹂のであり︑
( 4 )
う最近の図式を構成する要素のうち明瞭にして支配的なものが実業の遂行であって﹂みれば︑
変貌が大学の学問の遂行に及ぼした影響についていささかなりと研究しようとすれば︑現代における実業遂行慣 習が︑大学の学問に献身する学者や学校の理想︑
( 5 )
ることが必要となるであろう﹂と述べている︒この点は同じく社会学者たるデュルケムが︑
﹁ひとつの教育体系を︑
時の経過するにつれて徐々に組織化される︑他 のすべての社会諸制度
( i n s t i t i o n s s o c i a l e s ) と連帯的であり且つそれらを表示するところの︑
したがつてまた社会
( 6 )
の構造そのものよりも一層恣意的に変ぜしめることの出来ない︑諸実践及び諸制度の︱つの総和で﹂あるとか︑
(7 )
﹁学校﹂が﹁社会的︑クロニスム﹂だと見る︑その考えと相通ずるところがある︒
ともあれヴェプレンの主張は︑まさしく制度主義の理論家らしく︑
る の で あ る ︒
ヴェプレンと教育紐済学︵滓村︶
( E d u c a t i o n e t S o c i o l o g i e ,
19 22 )
の 中
̲ で
﹁最近の制度上の
﹁ 教 育 と 社 会 学 ﹂
しかも先にのぺた如きいろいろの角度から 考察されうる素材を含んでいることを暗示している︒従ってヴェプレンの大学分析を以つて︑あるいはドォフマ
( 8 )
ンの如くに︑簡単に﹁近代資本の支配と関係している﹂とするのは︑当をえているとはいえないようにおもわれ
目的及び方法に及ぼした結果と特に一致させるよう考えられ
﹁この慣習とい
85
も高度のいわゆる﹁実用的﹂効果を慣習的偏見で追い求め︑ さてまず彼の大学観をみるに︑ヴェプレンは大学を文化社会学的背景において考察し︑
生活のひとつの制度として︑中世の野蛮文化から現代への変転を示すひとつの出来事であり︑その最近における
成長と性格の取得とは現代文明の更に進んだ成長を示す出来事である︒この最近における大学発展の性格は現代
( 9 )
文明の性向を反映している﹂のであるが︑特にアメリカにおける綜合大学のあらわれたのは︑産業主義とか株式
( 1 0 )
会社等の播頭による︑次第に複雑化して来た社会的境位の時代と一致しているのであって︑殊に一八六二年モリ
ル法による︑ランド・グラント・カレッヂ
( l a n
d g r a n t 8 l l e g e )
の成立は﹁プロフェッシ畢ナルな性格をもった伝
( 1 1 )
統的大学に対するインダストリアルな性格をもった近代的大学の出現を意味する﹂ものであった︒インダストリ
ァリズムの目まぐるしい発展は︑
に 主
眼 を
お き
︑
る︒さればこのことが︑
当 然
技 術
を ︑
一面において大学の科学 ﹁大学の生成は︑文明
従つて技術家を必要とするようになり︑
( 1 2 )
は︑かくして獲得された知識の外界への使用から離れて求め﹂られることなく︑いわゆる﹁実用性﹂
( p r a c t i c a l )
( 1 3 )
﹁この事実の知識こそ人生の唯一の目的であると文明人は考えるに至った﹂︒このような﹁近代
社会では︑価格制度の緊張ならびに牧入と支出との競争という必然性の下にあって﹂︑人間の教育の面において
またこれと併行して﹁主に好機会︵私利︶を望み︑
生活乎段をその主たる目的とする教育政策を追求﹂しようとする風潮が︑ 大学の内にも押し寄せて来たのであ
﹁アメリカ大学の民主主義的特質に基づく大学教育の普及は︑
的雰囲気をやや稀薄にしているが︑他面においては科学研究の大衆生活への応用に主眼をおく実用主義的特質を
( 1 5 )
発達させ﹂るよすがともなったのでもあろう︒ ﹁事物についての知識
ヴェプレソと教育経済学︵澤村︶ かくて︑かかる経済的社会的境位にある当時のアメリカ大学を姐上にあげて︑ホプソンのいわゆる﹁ヴェプレ ンの教育経済学﹂が始まるのである︒
三 0
五頁
三一八頁 註(1)The
H i g h e r L e a m i n g i n A m e r i c a
̀ 1 9 1 8 ~一九一六年に書かれ一九一八年に序文の終り数章句が加えられて始め
て刊行された︒
(2 )
トライアル・バランスと名付けられているけれども決してそれは会計学的な用語法ではなく︑単に試論という租の
意味にすぎない︒
( 3 ) V e b l e n , o p . c i t
` .
p p .
3
ー4
( 4 ) i b i d . , p .
4
( 5 ) i b i d . , p 4 及び .
H . R u g g n a d W . W i t h e r s , S o c i a l F o u n d a t i o n s o f E d u c a t i o n , 1 9 5 5 , p p 4 . 4 3
‑ 4 . ( 6 ) E m i l e D u r k h e i m , E d u c a t i o n e t S o c i o l o g i e , 1 9 2 2 . 田 辺 櫛 利 訳 デ ュ ル ケ ム 数 育 と 社 会 学 八 九 頁
( 7 )
同 訳 書 二 四 七 頁
(8)J•Dofmann,
V e b l g a n d i H s A m e r i c a , 1 9 3 4 , . P 3 9 6 ( 9 ) V e b l e n , o p . c i t . , P . 3 3
(10)R•Hc.fstadter
a n
d C•D•H
日dy,T h e D e v e l o p B g t a n d S c
o p e
o f H i g h e r d E u c a t i o n i n t h
e U
n i t e d S t a t e s , 1 9 5 2
̀
P .57
参照 ( 1 1 ) 皇 至 道 大 学 制 度 の 研 究 ( 1 2 ) V e b l e n , o p . c i t . , p .
5
( 1 3 ) i b i d . ,
P .1 0
( 1
4 )
i b
i d
. ,
P .4
2
( 1 5 )
皇
至
道
前
掲
薔
( 2 )
関していえば︑大学はひとつの企業である﹂ことをば率直に認めてもいるのである︒しかしこの実業原理が大学
﹁大学内の業務監督のため管理機構の組織を考えたり︑また大学本来の仕事を統制したり
( 3 )
発揮したりするため︑扱いやすいが厳格な会計・計算制を確立﹂したりすることになり︑競争的企業の諸原則が あらゆる方面の管理︑たとえば﹁教職員の人事︑教師と学生との統制と交流︑講義計画︑物的施設の配置︑大学
( 4 )
の公開展示事業や式典﹂にまでも浸透する︒とりわけ第一にその影響をうけるのは人事と購義とであって︑部局
( 5 )
の管刑組織が官僚主義的となり︑中央集中化が行われることが︑指摘せられている︒
これら大学行政管理上の諸問題︑特にヴェプレンが取扱っているもろもろの問題における大学の学問と近代資 本宅義社会の諸原理との間に起りうる緊張的動揺関係の分析については︑
も︑狭義における教育経済学からみてとくに興味をひく問題は︑実業的諸原理のうちヴェプレンのいう﹁扱い易 の中に輸入されると︑ こない﹂けれども︑
アメリカに近代的というよりも更に現代的な大学の拾頭しはじめた頃︑しかもいまだドイツ流大学の洗礼をう けていた頃のヴェプレンとしてみれば︑大学には﹁自己監督の完全な力が賦与されていなければならない﹂こと
( 1 )
が﹁大学の伝統であると共に現在の必要事ででもある﹂となされるのは当然のことであったろうけれども︑また
‑ T h
i において︑彼は大学において︑それは﹁大学の外部にのみ関することで︑大学政策や大学管理の範囲に入って
﹁実業的方法が法人の財政問題と物的施設の保管に係る事務管掌には重要であり︑
これらに
その詳細の論評はしばらく措くとして
けることが︑管理の腕の見せどころとなって来る﹂が︑ 的一様性とか︑学識の標準単位とか︑ にますますその重要度を加えたが︑
と ︒
﹁この競争では大学の外観が学問的レヴニルよりも重要
( 6 )
もと会計は前期的商業資本の時代に資本・財産の計算として成立し︑資本がいわゆる産業資本へ転化すると共
その成立当初から本来的に﹁経営の会計﹂として実業的諸原理のうちの重要
項目なのであった︒従って実業的諸原理が大学内に移入されると︑統制執行がますます厳密にして大なる会計・
計第制を必要とするに至ったのである︒このようにして﹁大学政策の前面に漸次的にあらわれて来た︵これらの︶
( 7 )
﹃実用的﹄にして得策な関心﹂に対してヴェプレンは次の如くにのべている︒
級的等級や官僚的従属関係の殆んどない︑必要度の高いものであり︑また奉仕的なものなのである︒されば統計 ヴ ェ
プ レ ン と 教 育 経 済
︵ 学 涸 村
︶
﹁大学の学問の日常の仕事は︑階
また詳細な会計・計算制とかは選も実際には行われやすからぬものであ
る︒この仕事はメカニカルな性質のものではなく︑従ってその方法においてもまたその成果においても︑なんら か機械的に標準化された測定図式とか︑あるいは時間単位での百分比会計制度とか︑に適応するものではない︒
•••このような標準化や会計・計算制という尺度を受け入れることを強いると、
( 8 )
り害ったりすることは不可避である﹂ その所以を更に若千具体的にのべれば︑
( s c h o l a s t i c a c c o u n t a n c y ) 邸叩の実施は﹂﹁予斯しないことであるにしても︑
︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑
大学間の競争という現実の状況下にあって︵傍点筆者︶大学のもつ利用出来るかぎりの諸力を競争的目的の方に向
事となることがしばしばあるのは︑恰も競争的企業において大きく且つ分散した多数の願客群に訴えるに相似て いが厳格な会計・計算制﹂の問題であろう︒
それは教育の仕事を弱めた
完全な教育上の会計・計算
人事及び講義﹂を統制するし又更に﹁
'
告 に は 日 く ︒ 更にヴェプレンはつづけて﹁事業体の目にみえる成功︑否むしろこの目に見える成功によって潜在的顧客に吹 き込まれた信頼と依存の感情
( s e n t i m e n t s )
が︑その事業体の目に見えない資産の重要な︑しかも最も基体的な要
( 1 2 )
素として資本化される﹂︑という︒ここに事業体とはすでに大学をも意味し︑その点において大学の外観を近代経
済社会に反映させて分析した興味をひく一節ではあるが︑しかしいうまでもなくこれは大学のもついわば信用資
本のうちもっとも低クラスのもののひとつであろう︒又一方潜在的顧客についてみれば︑ヴェブレンは自身が指
摘した﹁大学間の競争という現実の状況下﹂にあって︑しかも殊に本著作が世に出る前一九︱一年に︑すでにカ
ァネギィ財団報告に次の如くに示される現実に直面していた筈なのであった︒而も上述の如きまことにあきたら
ぬ批判を下すのは︑たとえそれが名目上大学の学問を擁護する形︑あるいはそれへの過度の強調︑であるにして
も︑言わば全体としてセンティメンクリズム乃至は反動的という印象から容易には免れえないのである︒その報
ろはない︒如何なる文明国でも大学は学生の取り合いをしていない︒いずれの国においても大学教育の誘惑と利 買
手 ﹂
C 9 )
いる﹂︒けだし﹁競令は顧客に対してであり︑顧客を確保するための名声に対してである﹂からである︒なおヴ
︵ 苫 t e n t i a l c u s t o m e r s )
といつて実際には大学志望者を意味しながらも︑
﹁普通の素人﹂であると巧妙に問題をぼかしてはいるが︑今日のアメリカ大学教育財政委員会報告ではすでに明
( 1 0 )
瞭 に
顧 ﹁
客 ﹂
( g s t o m e r s )
と い
い ︑
S.E .ハリスの如きは﹁顧客﹂はいうに及ばず︑更に明確に大学教育の﹁
( l l )
( b u y e r s )
と呼んでいる︒
﹁おそらく世界のいずれの国においてもアメリカの大学と同じような方法で学生が募集されるとこ ェプレンはこの際﹁潜在的顧客﹂ それを
育計画を要求﹂し︑ とがめることは出来ないであろうけれども︒ 益とが青年達の眼前にかくも広告されるところはない︒アメリカの大学教育は生命保険や特許医薬と何らか一詠
( 1 3 )
通ずる方法で売られる裔品
( 8
目 n &
i w )
な の で あ る ﹂
︑ と
︒
更にヴェプレンはこの信用資本を確保するために実業諸原理は大学に﹁アクセサリィ﹂をつけさせるといい︑
a )
﹁アクセサリィ﹂として﹁運動競技︑クラプ︑団体︑いわゆる﹃学生活動﹄及びそれに似た道楽﹂などがあげら
れており︑いわゆる﹁課外活動﹂
( g
甘a , c u c 丑 岳
i r a c
t i v i
t i e s
)
を大学の外道であるとしているが︑この点全くいわ
(15)
ば﹁古い型の教授のイデオロギィ﹂をあらわすものというぺく︑今日の一般教育における﹁課外活動﹂の重視︑
すなわち大学における人格形成の場としてのそれの重視︑についての不知︑
(1 6)
についての教育学的理解の欠除︑を注意することが出来る︒いうまでもなくヴェプレン以後の一九三 0 年代から
の﹁一般教育運動﹂
( g e n e r a l
e d
u c a
苦 n
v g m o g t )
をば︑彼が知らない︑或は察しえなかった︑ということを強く
更にまたヴェブレンによれば︑﹁競争的企業は︑大きな数字への感情的な嗜好によって増疏せられて︑完全な教
( " ︶
﹁大学の仕事を新しい学校事業の分野に拡張し︑計画したがる﹂︒その結果は﹁競争的拡張
の圧力のため︑絶えず未完成の施設を附け加え︑大学の教職員には十分の食を与えず︵目
d g 筍
i
︑過剰労仇をさ
)せる﹂ことになろう︒かくて﹁また確実な企業経営は財の大盤生産と同様コストの節約を主張する︒市場が需
要するよりももっとよりよい品質の財を︑その差異を知らぬ顧客に特に提供したり︑他の競争的企業よりもより
高いコストで財を製造することは︑それはいわゆるバッド・ビジネスなのである﹂から︑そのため大学の﹁学部
ヴ ェ プ レ ソ と 教 育 経 済 学 ︵ 海 村
︶
一般教育が意図し主張する教育意義
91
要するにヴェプレンによれば︑
( 2 0 )
の 施 設 ﹂ で あ り ︑
ろ う
か ︒
(18)
がそのベストをつくすことの出来る仕事に尽力するのを妨げ﹂られるにいたるのである︒
かかる見解について二三の首肯出来る点を別としていえば︑それは企業経営の一般方式論の大学への適用結果
についての漠然たるいわば感想にすぎず︑もっと積極的な︑乃至はもっと厳密な意味において問題を取扱うなら
ば︑すなわちとりわけその後に発展した企業技術の面︑たとえば管理会計的観察の詳細と大学というテェマに整
序するならば︑おそらく結論はヴェブレンをこえること遠く且明晰にして正しいものとなるであろう︒おもうに
ヴェプレンにもすでに﹁競争企業の原則では︑大学の︵学部的な︶区分が非常に重要におもわれ︑大いに注目に値
( 1 9 )
する﹂点が指摘せられ︑わたくしのいう学部の独立採算制への朋芽を蔵し乍らも︑而もついにそれ以上には出で
なかったのは︑なおその後に四十年にわたる歴史の歩み︑とりわけ企業経営学の発展を必要としたからなのであ
﹁大学は︑私心なく知識の探求に献げられた大学の学問の保存と進歩とのため
﹁この仕事を支配する・・・体制と秩序とは知的企業の論理的な体制と秩序とであって︑
( 2 1 )
施設の管理や企業の財務に役立つ機械的なまたは統計的な体制化ではない﹂のであるから︑
り上げる人閤の知性と創始力という費目は︑
( 2 2 )
と は
1 1 1
来ない﹂のであって︑
工 場
﹁知識の探求をつく
・・・数量的に説明されたり︑損益計算表であらわされたりするこ
﹁大学の学問が実業的手腕とは一致しないとするならば︑同様な意味で企業は大学
G23)
の学問の精神には一致しない﹂のである︒
かかる考えの根底には︑大学はなお象牙の塔であるという︑今日のアメリカ大学人からみればすでに
P r
o v
e r
b
哲学のためである︒かかるものはコストの角度から容易に測定されるものでもなければ︑教育責任時間という項
( 2 4 )
目で容易に評価されえない﹂という考え方がいまなお行われているのであるから︑
大学に影響されているヴェプレンとしては︑あるいは止むをえないことでもあったろう︒しかし乍ら極めて優れ た社会科学者であったヴェプレンにして︑大学の内に入り来った実業的諸原理が︑しかもその当時﹁金銭的性向
が大学教育に関する会計・計算制
( a g d e m i c a 8 0 目 百
y ) 1 c への動きと一致し︑またそれを援け﹂はじめて︑
者 達
﹂ を
︑
会計士﹂たる
"
e f f i c i e n y c e n g i n e e r
"
とみる考えが弥漫し︑
( 2 5 )
とする動向のあらわれて来ていることを認めながらも︑なお今日担頭せる﹁教育の原価計算﹂
accounting)
の考えにまで進展するのを予見'—ー予望しえなかったのは、まことに惜しむぺきことといえよう。又 彼は︑会計・計算制の流入を知りつつも︑しかも﹁一般大衆や理事会の実用的見解では︑大学はまづ第一に学部
( 2 6 )
である﹂とみるのが普通であるが故に︑
﹁大学内に採り入れられた実業的秩序と体制とは︑まづ第一に学部の必
( 2 7 )
要に応じ︑それを出来るだけ有効に開発することに向けられる﹂ことを認めながら︑而もこれを﹁大学の学問﹂
(28)
( h i g h e r l e a r n i n g ) の方向に向けて考察し︑あえて﹁大学教育﹂︵圧
g h e r e d u c a 苦 n )
という技術の方向に志向させる
ヴェプレンと教育経済学︵渾村︶
い て す ら も ︑
( e d u c a t i o n a l c o s t
ティラァのいわゆる﹁科学的管理﹂に適応しよう
となったような︑教育哲学がひそんでおり︑ヴェプレンの如き当時の進歩的学者にしてなおこのいわば保守的セ ンティメンタリズムを脱却出来なかったようである︒いうまでもなく爾来四十年を閲した今日︑
﹁ 教
育
一九五三年にお
﹁大学における原価計節をおくらせているのは︑教育︑研究及び学究等によって織りなされる教育
一 九
一
0 年頃の而もドイツ流
﹁コスト単位当り商品産出高をいかにしてもっともよく増加させるかを企業に助言することに秀でた
93
h e r s ) ということが主眼となり︑
の 中
で ︑
この大きな数がアメリカの教育測定制度を生み出した︒
ことが出来なかった︒従って
s y
s t
e m
o f e
d u c a
t i o n
a l a
c c
o u
n t i n g
と せ
ず し
て ︑
s y
s t
e m
o f
s c h o
l a s t
i c a
c c
o u
n ,
t a
n c
y
としたととろに︑
教育経済学からみて概念構成上の誤謬があるといつてよかろう︒
a c
c o
u n
t a
n c
y
ということが
c o n t
r a d i
c t i o
i n
a d j e
c t i o
で あ ろ ろ
4︒
を計算出来るとする侭どに無知的知性ではある筈がない︒さきに引用した言葉にも察知されるように︑ヴェブレ
ン に
は
s c h o
l a s t
i c を﹁学問の﹂と﹁教育︵又は学校︶の﹂との二重の意味に用いられるところが随所に散見せら れるのである︒この概念構成上の曖昧さは︑
ついに彼の三十頁にわたる論議をある意味では空しくせしめ︑
ては全体の所説を理解に困難なものたらしめている︑と言うことも出来るのである︒
ひ い
大学に実業的諸原理が導入されたため大学がいわゆるセンティメンクリィに考えられた大学ー—ヽ敢えて大学
︑ ︑
︑ の本質とはいわないー'ーより離れて行ったことは︑前シカゴ大学総長︑アメリカ大学教育の権威者ハッチンス ( R o b e r t
M•Hutchins) もこれを認め、 その﹁アメリカにおける大学の学問﹂
( T h e H i g h e r L e a
r n 甘
g e r A m e r i c a ,
19 36 )
( 2 9 )
﹁金銭欲は大学内で最も予期しなかったところにあらわれた︒それは総長や理事らにあらわれ﹂たが︑
それは﹁大学が学生をひきつけなければならないことを意味し﹂︑
﹁青年に住居を︑食事を︑娯楽を与えねばな らないことと解釈され﹂︑大学の学問とは凡そ縁遠いこと︑たとえば運動競技とか社会生活とかがアメリカの大 学の学問を混乱させ︑破損させていることが語られている一方︑更に進んで﹁金銭欲は畢党大きな数合
H g e n u m ,
この制度の下では青
年の知的進歩が在学年数とか︑教室に坐つている時間とか︑教えられたことを試験で反複する比率等で決定せら
いかに近代資本主義経済社会といえども学問
そもそも
s c h o
l a s t
i c
れる︒このような基準がひとつの教育単位から他の教育単位への進歩を決定し︑入学したり卒業したりする基礎
︵けれども︶若干の強制的な自動的方法が
学生の大きな集団を取扱うには仕方のないこととして要求せられ︑またこれらの方法が最も容易である︒︵他に
( 8 0 )
なんらかよい方法が考えられるだろうけれども︶︑しかし大きな数はそんなことを考える余裕を与えない﹂こと
が述べられている︒これらの言葉を通じて︑先のヴェブレンと対比するに︑同じく﹁アメリカにおける大学の学
問﹂と題した書物を公けにした両者の︑ヴェプレンは一九一 0 年代の﹁アメリカ工業の目まぐるしい発達︑大陸
( 3 1 )
︵3 2
)
経営︑好況の到来﹂等による学生数の膨脹に対して驚きの念をいだき︑ハッチンスは一九三 0 年代の膨脹した学
生数をもはやむしろ現実として諦観している︑その両者の年代と社会的境位の相異を凡そ理解することが出来
る︒なお一九五 0 年代の今日︑少くともアメリカ大学教育財政委員会報告に﹁単科及び綜合諸大学の経営は過去
( 3 3 )
二十五年間に長足の進歩を遂げた﹂といわれる現状からみて︑ハッチンス︵一九三六年の︶も︑更にヴェブレンに
至っては︑隔世の感をいだかしめられる︒殊に第二次世界大戦後の世界的インフレェシ日ンの波は大学の学園に
も押し寄せ︑加えるに学生数の激増︑及びこれに伴う教育サァビスの拡張や教育施設の増設等に迫られたアメリ
( 3 4 )
カの大学は全く財政的危機にさらされている︑と叫ばれつづけて来ている︒中でも学生数の膨脹はますます増大
( 8 5 )
すると予想せられている現状でほ︑
教育機関の乱立︑ ﹁マス・エデュケィション
0 m a s s e d u c a t i g )
は質的にも撒的にも変化した︒
( 8 6 )
一万を数える学生は︑これを処理するに特別な教育学上の工夫をこらさざるをえなかった﹂の
である︒ヴェプレン自身が︵たとえ異った観点からであるにしても︶論じた﹁ある一冊の筆記された︑または印
ヴ ェ プ > ン と 教 育 経 済 学 ︵ 揮 村
︶
と な
る ︒
こんなことが知性力の真実の表示とは考えられない︒
9 9 .
c
(3 7)
刷されたテキストや講投方式﹂が必然的な現実となってあらわれ︑
筏 制
﹂
( m a s s l e c t u r e s y s t e m )
が 一
000 名を対象とする﹁公開講演制﹂
( p u b l i c ‑ a d d r e s s s y s t e m )
と変貌し来つてい
( 33 )
る︒ために今日では﹁優れた新しい教育方法が用いられ︑大きな大学ではマス・エデュケィションという非常手
(36)︵
4 0)
段を余儀なくされている﹂が︑ここに今日アメリカ大学及び大学教育における混乱が生れ︑
ぃ以任を伴う財政的効県と屯制的経済を伴う教育的効束とについての知識﹂が統一せられて﹁教育目的と財政
U 的
(4 1)
とを適合させよう﹂との努力が不可避的に生じて来たのである︒
なお附け加えてドイツ大学の現代的傾向をうかがうに︑
v e r s
i t きをあらわして大学の理想セ義的解釈を表明し︑
かつて一九二三年に﹁大学の理念﹂
( 4 2 )
哲学による諸科学の統一体として大学を権威づけたヤス
(42)
︒ハァスが︑殷近一九五二年に﹁旧内のわずかな個処だけを取入れ﹂て令く新しく改稿した﹁大学の理念﹂を公け
に し
た が
︑
•*
その序論で﹁大学の課題は研究者と学生との共同体のなかで真理を探求する
(44)
である﹂︑と大学及び﹁学問の本質と︑学問を担う
m e m s c h a f t v o n o F r s c h e r n u n d S c h i i l e r n z
u s u c h e n )
A l . ,
J •つこレ ,
精神生活{般の本竹に関する問いからはじめ﹂た彼は︑第十章にぉいて﹁経済的基礎﹂を取扱い︑
( 4 5 )
りて米た﹂︒
﹁勉学と研究﹂に必要な﹁賓力は︑自分の経済生活を支える個人の仕事によっては︑直ちに得られ
( 46 )
るものではない﹂から︑大学と大学人との﹁経済的依存性が精神的作業に対して︑いかなる結果を生むであろう
( 47 )
かが問題となり﹂︑また﹁現在のドイツでは資産階級が破壊され︑とくに中産階級の零落は生存の可能性を蚊小 限度におしつめてしまった︒研究と勉学が果してその生命を保つてゆけるか否かが︑今や決定的な問題になって
﹁近は下へ降
( d i e W a h r h e i t i n d e r e G
‑
( D i e d ! e e d e r U n i ,
﹁カリキュラムの無
1 0
0 名内弔五
00
名を対象とする﹁根団講
(48)
いる﹂のである︒ドイツの大学がこの経済的基盤に動揺を感じ出し︑
( 4 9 )
理念そのものから外れるもの﹂へ︑
を意味するのみならず︑ ャスパァスが﹁経済的基礎﹂という﹁大学
﹁道は下へ降りてきた﹂とするならば︑これはドイツ流の理念的大学の没落
アメリカ流大学へのある意味での近接をもあらわすものではなかろうか︒
註
( 1
) V
e b
l e
n ,
T h
e H
i g
h e
r L
e a
m i
n g
n i A
m e
r i
c a
,
P .
97
( 2
) i
b i
d .
,
P P .
97ー8
( 3
) i
b i
d .
,
P .
98
( 4
) i
b i
d .
,
P .
98
( 5
) i
b i
d .
,
P P .
98ー9
( 6
) ここに会計とはいうまでもなく近代的ないみでのそれである︒古代より会計はみとめられなくはないけれども︑︵
たとえば︑ウルフ古代会計史等参照︶いまはそのことの吟味が重要であるのではないが故に︑一般的見解にのみよる︒
( 7
) V
e b
l e
n ,
o p . c i t . , P .
47
( 8
) i
b i
d .
,
P .
99
及び
P P .
114—
5
(9)ibid••p.
105
( 1
0 )
N a
t u
r e
a
n d
N
e e
d s
o f
H i
g h
e r
d u E
c a t i
c n
( T
h e
R
e p
c r
t
c f
t h e
C o m m
i s s i
c n ! :
c t F
i n
a n
c i
n g
H i
g h
e r
E d u
c a t i
o n ) ,
1952
参照
( 1
1 )
S e
y m
o u
r
E•Harris•E8ncmigof
H i
g h
e r
Edugtion•(The
A m
e r
i c
a n
E c
o n
o m
i c
R e
v i
e w
, J
u n e ,
1 95 3)
P . 3 4 4
( 1
2 )
V e
b l
e n
, o
p .
c i t . , P .
106
( 1
3 )
C a
r n
e g
i e
c F
u n
d a n 苦
R e
p o
r t
f o r
1
91 1,
なおヴェプレンも
"
S u
m m
a r
y "
. b
l おいては
C o
m m
o d
i t
y
という言華でを使 用している。 Veb!En•cp.
c i t . , P .
2 2 1
参照︑又かかる問題に関しては
G 8
r g
e
D .
S t o d
d a r ̲
d ( P
r e s i
d e n t
, U
n i
v .
o f
I l l i
n o i s
) ,
I s
E d u c
a t i o
n a
C o
m m
o d
i t
y ?
( C o
l l e g
P u e
b l i c
R e
l a t i
o n s
Q u a r
t e r l
y ,
V o l .
2•No.
1•1950) をも砒 5
せみられ た い ︒
グエプレンと教育経済学︵渾村︶
91
( U ) V e b l e n , o p .
cit••p.11 9
(15)
大 内 兵 循 大 学 精 神 の 復 興 法 政 三 十 一 号 五 頁
( 1 6 )
拙稿﹁大学の多様性原珊﹂︵関西大学新開策一
0 二号所載︶参照
( 1 7 ) V e b l e n , o p .
cit••p.11 5
( 1 8 ) i b i d . , p p .
11516
(19)ibid••p.
108
( 2 0 ) i b i d . , P .
85
( 2 1 )
︵
2 2
) i b i d . , P .
86
( 2 3 ) i b i d , P
75
.
︵ 公 ︶ H . L . W e l l s , H i g h e r
d u E c a t i o n i s S e r i o u s B u s i n e s s ,
19 53 ,
P .
1
器
( 2 5 ) V e b l e n , o p . c i t . , P .
2 2 4
な*テイラアの諸主張は一八九
0
年代よりはじまるが︑その代表的著作
T h e P r i n c i p l e s o f S c i e n t i f i c M a n a g e m e n t
の刊行は一九︱一年である︒
( 2 6 ) V e b l e n . o p . c i t . , P .
99
︵ 町 ) i b i d . , P .
1 0 0
( 2 8 )
ヴェブ>ソは
" l e a r n i n g a n d u n i v e r s i t i n y s t r u c t i o n "
と使っている︒
i b i d . , P .
1 16( 2 9 ) H u t c h i n s , T h e H i g h e r
L e a r n i n g n i A m e r i c a ,
19 36 ,
P .
12
なおハッチソスには一九五三年に
T h e U n i v e r s i t y o f U t o p i a を公けにしている︒これは彼の講演が基礎をなしているが︑ここにもられた見解と前褐害の対比を見ること は第二次大戦を間にもつ二
0
年近い歴史の変化を通じて大学のひいては大学綱の変化をうかがわせてくれるであろ う︒他日とりあげることを約したいとおもう︒
( 3 0 ) i b i d . , P P .
11‑2
イギリスの大学においても︑﹁嘗つてない学生数の圧力をうけながら︑大学の質を維持し︑更 に改良する﹂ことが^'日の大学の当面する課題であるといわれている
( U n i v e r s i t y G r a n t s C o m m i t t e e , U n i v e r s i t y D e v e l o p m e n t ,
1
94 5,
p .
2 6 )
︒
( 3 1 ) H o f s t a d t e r n a d H a r d y ,
T h e D e v e l o p m e n t a n d S 8 p e f o H i g h e r E d u c a t i o n i n t h e U n i t e d S t a t e s ,
1 95 2,P .
31
( 3 2 ) V e b l e n , o p . c i t . , P .
12 3
98
( 窃 ) Nature and Needs o f H i g h e r E d u c a t i o n (The R e p o r t o f t h e C o m m i s s i o n o f F i n a n c i n g Higher E d u c a t i o n ) , 1 9 5 2 , P . 1 0 9
( 苫 ) 杜ふ出ピ i b i d . ,P P . 5 8
ー9 1 ~淫
( 埒 ) HigherE d u c a t i c n f o r American DEmccracy (The R e p o r t o f t h e P r e s i d e n t ' s C o m m i s s i o n on Higher E d u c a t i o n ) , 1 9 4 8 , P . 3 9 , P P . 78‑9 ~名 i」 e 螂年辻臣疵 1/. P r e s i d e n t ' s R e p c r t
‑'J.1'JTruman's R e p o r t
‑'Jや→と共心゜式ド P r e r i d e n t ' s R e p o r t , l , J l i t : ‑ >
lQ゜
ギ
Q華
Seymour E . H a r r i s , The F u t u r e o f Higher E d u c a t i o n i n t h e U n i t e d S t a t e s ( H a r v a r d E d u c a t i o n a l R e v i e w , V o l . 1 8 , N o . 4 , 1 9 4 8 ) , P P . 1 8 3
ー2 0 8
N a t i o n a l E d u c a t i o n A~sociaticn o f t h e U n i t e d S t a t e s , C u r r e n t Trends i n H i g h e r E d u c a t i o n , 1 9 4 9 , P . 1 0 C o u n c i l f o r F i n a n c i a l Aid t o E d u c a t o n . I n c . , I n f o r m a t i o n B u l l e t i n , A p r i l , 1954. 婚心~\匪初名ゼニ
海) H c f s t a c l t e rand H a r d y , c p . c i t . , P . 1 0 8函1 5 P r e s i d e n t ' s R e p c r t 丑 V o l . I . E s t a b l i s h i n g t h e G o a l s , V o l . I V . S t a f ‑ f i n g H i g h e r E d u c a t i o n , ~睡
( お ) V e b l e n ,o p . c i t . , P . 1 0 5
( 笥 ) H o f s t a d t e rand H a r d y , o p . c i t . , P P . 1 0 8
ー9
( 為 ) i b i d . ,P . 5 6
(~)
W. H . C o w l e y , The H i g h e r L e a r n i n g v e r s u s t h e H i g h e r E d u c a t i o n 給 匪
(~)
N a t u r e and Needs o f H i g h e r E d u c a t i o n (The R e p o r t o f t h e Commission o f F i n a n c i n g H i g h e r E d u c a t i o n ) , 1 9 5 2 , P . 1 0 8
(~) K . J a s p e r s , P h i l o s o p h i e und W i s s e n s c h a f t , 1 9 4 9 . S . 1 4姐 バ 詣
( i j ) J a s p e r s , D i e ! d e e d e r U n i v e r s i t a t , 2 A u f l a g e , 1 9 5 2 , 漆 国 峯 ヤ 町 < hK ‑ 1 < 訃 e 煕 ¥ .
I! 嵐
(~)匡 笛 蜘 1 1 1 1 属
(~)
匝 ‑ ' ‑ l 1 1 用く属
ト
H \込入心謳伽進燃訃(殿:!(:)
66
さて学者︑学生︑学校などを意味する
s c h o l a r
とか︑ラテン語の
s c h o l a
などは︑もとギリシァ語
S ( O ざ か
て﹁有閑の仕事﹂ 代の経済社会において︑閑暇があるとか有閑であるとかいうことは︑諸種の仕事を奴隷等に委ねて自らは労仇しな
( 1 )
いことであり︑かかる構成にあったものがギリシァのポリス的経済であった︒従って
︒ a x
i 7
が第二の意味とし
( 3
(a
w o r k o f l e i s u r e )
を︑換言すると﹁学問的討論﹂ (a
l e a g e d d i s c u s s i o n )
をあらわすように︑
有閑人の事とすることとなった︒有閑人が暇にまかせて学問をするということが︑
( 3 )
( l e a r n i n f o g r t h e
器
k e o f l e a r n i n g )
ということの経済的基盤なのであった︒
ヴェプレンも﹁勿論︑事実上また経済組織におけるその位置からいつて︑学問の追求は一種の閑暇
( l e i s u r e )
であり︑教育の仕事は﹃人間の間に知識を増したり伝播したりすること﹄に費される種類の生活様式のひとつで
ある︒経済的な︑もっと特殊的にいうと金銭的な目的とか等価物をもたない他の活動形式に適用されるような意
( 4 )
味においてのみ﹃閑暇﹄として部類に入れらるべきである﹂といい︑またその﹁有閑階級論﹂
( T h e T h g r y o f t h e L e i s u r e C l a s s ,
18 99 )
ら出たものであり︑
( 4 6 )
( 4 8 )
( 4 9 )
四
の 中
で ︑
その原語の意味が﹁閑暇﹂とか﹁有閑﹂
( 4 7 )
同 上 二 四 九 頁 同 上 二 五
0 頁
同 上 二 五 八 頁
いわゆる﹁学問のための学問﹂
﹁大学の学問﹂を﹁金銭的文化の表現﹂として取扱い︑ ﹁有閑階級の理想の影響が
( l e i s u r e )
とかをあらわす言葉である︒ ギリシァ時
100
られているのである︒ 学の理念﹂をもつてきこえるヤスパァスにも関説しうる︒
( 5 )
︵6)
最も顕著なのは学問領域︑もっと特色的には大学の学問においてであり﹂︑﹁有閑階級生活の副産物である﹂と述
( 7 )
﹁有閑階級が教育に影響する方法や傾向を例証﹂し︑
している︒しかし教育経済学の観点からみると︑ヴェプレン自らがいうように︑
( 8 )
響を示すデェタをことごとく照合することがここでの目的ではない﹂のである︒なおこの点に関してはかの﹁大
おける大学の﹁経済的基礎﹂の中で︑
購師などは︑﹁多少の差はあるが少額の利子牧入によって生活し︑以前にはなお広く存在した中産階級層によっ
(1 0)
︵1 1
)
て荷われ﹂たのであり︑﹁利子生活者﹂という有閑階級がまさしく大学の学問の経済的基礎であることがみとめ
しかし乍ら︑ヴェプレンが大学の学問を有閑の仕事とすることは︑決して学問の意義とか目的とかを軽視する
( 1 2 )
のではなく︑﹁経済外﹂
( e x t r a ‑ e c o n o m i c )
とみることである︑と弁明し︑従って大学の内外において学者に与えられ
( 1 3 )
る俸給とか賞与などは﹁
S t i p e n
d (牧師の俸給︶の性質のものである︵またなければならない︶︑﹂として︑いわゆる
( U )
賃銀的性質のものではないのであるが︑大学が実業的経営となると︑﹁学者の仕事を概算的に適用される出来高
( 1 5 )
賃銀制
( p i e c e
‑ w a g e p l a n )
で最低入札者にしよう﹂とする︒ところが﹁出来高賃銀制が普通最も効果的に適用され
( 1 6 )
るのは︑無組織的で無力な人達の間においてである﹂から︑大学の被傭者達を賃銀労仇者と同じような無防備で
( 1 7 )
無組織的なものとみることになる︒まことに社会学者らしき又制度主義の経済学者らしき観察を下している︒さ
ヴ ェ プ レ ソ と 教 育 経 済 学 ︵ 澤 村
︶
( ! d e d e e r U n i v e r s i t i i t . ) ~I 一
g版に
( 9 )
﹁勉学と研究とには閑暇が必要であり︑閑暇には資力が必要であり﹂︑私 ベ
ヽその﹁大学の理念﹂ ﹁金銭的文化が教育に及ぼす影 ﹁大学の学問について若干の顕著な特徴﹂を明らかに
1 0 1
い う よ う に ︑
けれどもしかしこの論は︑ おわれわれの胸をうつものがあるのである︒ ら に す す ん で ︑
( 1 8 )
いわゆる﹁﹃労仇組合﹄
(tr ad e
u n i o n ) を 結 成 し て い な い ﹂ の だ が︑大学の実業的管理が上述の機構醸成を促進することによって︑大学の伝統的なウーーヴェルシタス・ステゥデ イの精神的結合を破壊し︑大学をして近代資本主義社会における労資間のそれに似た斗争の場面たらしめること を惧れ︑かかる事態の形成されることを極力阻まんとするヴェプレンの悲願が︑ここにはまことにあらわである︒
真に大学を精神的場たらしめ︑それを守りぬこうとするヴェプレンの熱意のまことは︑しばしば行われる主張の ひとつ︑大学教授の体面というが如き︑
﹁有閑階級論﹂で有閑性に対して批判的であった筈の彼ヴェプレンが︑有閑性にお
いて成立する﹁大学の学問﹂論で︑
いわば一種のセンティメンタリズムによるものでないだけに︑
つよくな
その有閑性を弁護するものであるということが出来︑従ってその所論が︑明 晰な論法にも似ず︑極めて精彩を欠く︑という結果を招来している所以なのでもあろう︒けだしこれはヤス︒ハァ スと同じように︑大学の理念的理想主義的側面を強調するためであって︑従って大学教育の経済学ではなく︑少 くとも前節にのべたような現代の社会的経済的境位におかれた大学の現実分析ではない︒とりわけドォフマンが
•(19)
﹁大学の学問は有閑階級人のための教育であって社会への奉仕ではない﹂という考えがヴェプレン にひそんでいるとするならば︑その基礎となっている大学論そのものが既に過去的であって現在的なものではな く︑今日のアメリカの大学論とは凡そ懸絶したものといわざるをえないのである︒
( 2 0 )
︵2 1
)
さ て S t i p e n d
という言葉は︑今日ではイギリスの大学でまれに使用せられるくらいで︑アメリカ大学では殆 大学教授はその職掌的倫理から︑
ら も
︑
六年三月に書き了えた時︑
( 2 3 ) V e b l e n , o p . c i t
` .
P .
233
(24)R•H.
O s t h e i m e r , S t u d e n t C h a r g e s
n a d ・ F i n a n c i n g H i g h e r d u E c a t i o n ,
19 53 ,
F o r e w o r d , i i v ( 2 5 ) i b i d . , P P .
3│74
又 F
M . o
C h a m b e r l a i n ,
i F n a n c e
: S
t u d e n t F e e s ( C u r r e n t
r P o b l e m s i n H i g h e r
E d u c a t i o n ,
19 47 ),
P
P .
15361︑ ヴェプレンが「アメリカにおける大学の学問ー—士
K
業家による大学運営についての一党え書」の草稿を一九一 ハンドマンが﹁副題をいかにするか﹂と尋ねると彼は﹁全般的堕落の研究﹂
( A
S t u d y o f T o t a
l Depravity) と笠口えている。茄 i つてマアズルゥ—ーが最初の部分は自分の見た書物のうちで最も辛辣なもの
と批評したのは︑その予定された副題にうかがえる気慨のあらわれででもあろう︒ともあれ彼はその批評を黙認 し︑若干の修正を加えて後︑ミズゥリー大学刊行の﹁大学研究﹂叢書に出版することを予定した︒しかるに当時 の学長ヒルが︑その草稿は見解に些か極端のところはあるがもっともすぐれたもののひとつである︑とみとめ乍
﹁大学の教育的指導者達に論及した章節があまりにも多く︑ミズゥリー大学としてその刊行と販売とを大 学が引きうけるのはふさわしくない﹂として︑刊行の時期でないことを勧告したため︑ヴェプレンも遂にこれに
( 1 )
応じた︑といわれている︒
このような経緯があったためか︑その副題も現在の如くに変化し︑又その内容においても本文と結論とで格調 のちがいをあらわしている︒すなわち前の部分では実業的諸原理の大学に及在す影響︑たとえば学問の会計・計 ヴェプレンと教育揺済学︵澤村︶
五
IO5
れなかったのである︒たとえば
H a
器 b r o e c k , S t a a u t n d H a n d e l i m a l t e n i e G r c h e n l a n d
1
,
92 8
山 内 得 立 都 市 国 家 の 成 立 哲 学 研 究 三 一 三
︑ 三 一 七
︑ 三 二 0 号︵特に三二 0 号︶及び拙稿﹁経済社会学試論﹂第一︑第二分冊等参照
( 2
)
たとえば
L i d d e l l a n d S c o t t
,
Greek•EnglishL e x i 8 n 参 照 (3)大学の本来の精神はこのスコレエから出たものではなくして︑わたくしが﹁大学の社会的機能﹂でのべた如くに︑
ギリッャの昔︑アテナイの西北アカデメイアにおいて︑プラトンがマテマアタを教えてポリス的人間の形成につとめ たが︑これが大学の精神なのであった︒拙稿﹁大学の社会的機能﹂︵関西大学新聞第一
00
号所載︶ならびに拙稿パ
ンフレット﹁大学図書館の行方﹂等を参照されたい︒
( 4 ) V e b l e n , h T e H i g h e r L e a r n i n g i n A m e r i c a ,
. P
1 1 6
( 5 ) V e b l e n , h T e T h e o r y o f t h e L e i s u r e C l a s s ,
1 89 9,P .
364
( 6 ) i b i d . , P .
3 87( 7
)
︵
8
i ) b i d . , P
.
364( 9 ) J a s p e r s , D i e l d e e d e r U n i v e r s i t 1 i t ,
2
A u f l a g e .
1
95 4
l i 昭
訳 ヤ ス パ ア ス 大 学 の 輝 念 二 四 九 頁
( 1 0 )
同訳帯二四九ー五 0 頁
( 1 1 )
同 上 二 五 一 頁
( 1 2 )
︵
1
3 ) V e b l e n , T h e H i g h e r
L e a r n i n g n i A m e r i c a , . P
1 1 7
( 1 4 ) i b i d . , . P
162
( 1 5 )
︵
1 6
)
︵
1 7
) i b i d . , P .
1 1 7
( 1 ) 8 i b i d . , . P
162
註
(19)J•Dorfmann,
V e b l e n a n d H i s A m e r i c a ,
193 4,
P .
189
( 2 0 ) S t i p e n d
とはラテン語
S t i p e n d i u m
より出で
S t i p s
は
g i f t i n s m a l c o l i n
をいみし
P e n d e r e
は
p a y
で あ る ︒
( 2 1 ) U n i v e r s i y G r a n t s C o m m i t t e e , U n i v e r s i t y D e v e l o p m e n t ,
19 48
参 照
( 2 2 )
紆
y m o u r
E•Harris,E 8 o n 且
8 o f H i g
h e r E d u c a t i o n ( T h e m A e r i c a n E c o n o m i c R e v i e w , J u n e ,
1 95 3) ,P P .
3511
3
︑
P .
356
104
( 2 3 ) V e b l e n , o p . c i t . , P .
2 3 3
(24)R•H•Ostheimer,
S t u d e n t C h a r g e s
n a d ・ F i n a n c i n g H i g h e r E d u c a t i o n ,
1 95 3,F o r e w o r d , v i i ( 2 5 ) i b i d . , P P .
3‑74
又
L e o M . C
h a m ぽ r l a i F n , i n a n c e : S t u d e n t F e e s ( C u r r e n t
P r o b l e m s i n H i g h e r E d u c a t i o n ,
19 47 ),
P
P .
1 53‑6 1
ヴェプレンが﹁アメリカにおける大学の学問ー│'実業家による大学運営についての一党え書﹂の草稿を一九一
ハンドマンが﹁副題をいかにするか﹂と尋ねると彼は﹁全般的堕落の研究﹂
( A
S t u d y o f T o t a l D e p r a v i t y )
と答えている︒従ってマアズルゥニが最初の部分は自分の見た書物のうちで最も辛辣なもの と批評したのは︑その予定された副題にうかがえる気慨のあらわれででもあろう︒ともあれ彼はその批評を黙認 し︑若干の修正を加えて後︑ミズゥリー大学刊行の﹁大学研究﹂叢書に出版することを予定した︒しかるに当時 の学長ヒルが︑その草稿は見解に些か極端のところはあるがもっともすぐれたもののひとつである︑とみとめ乍
﹁大学の教育的指導者達に論及した章節があまりにも多く︑ミズゥリー大学としてその刊行と販売とを大 学が引きうけるのはふさわしくない﹂として︑刊行の時期でないことを勧告したため︑ヴェプレンも遂にこれに
( 1 )
応じた︑といわれている︒
このような経緯があったためか︑その副題も現在の如くに変化し︑又その内容においても本文と結論とで格調
のちがいをあらわしている︒すなわち前の部分では実業的諸原理の大学に及匠す影響︑たとえば学問の会計・計 ら
も ︑
ヴェプ>ソと教育経済学︵澤村︶
六年三月に書き了えた時︑
五
905