大 久 保   孝    洋 吉野讃歌 の 世界

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しかし︑厳冬期にも行幸が行われたことから︑単に自然に魅了されただけではなく︑その根底に「聖なる吉野の山と川」へ

の信仰が存在していた︒つまり︑吉野讃歌において吉野が仙境

として描かれたのは︑水銀鉱床︑そして不老不死の願いによる

ものであったと言える︒

はじめに

﹃万葉集﹄の雑歌には︑行幸従駕に際して詠まれた歌が多く残されている︒行幸の目的地として歌に詠まれた土地には︑都

の置かれた明日香︑難波︑近江や行幸の地として栄えた吉野︑伊勢など︑現在の西日本を中心に多岐にわたる︒中でも︑吉野

では多くの歌がうたわれ︑その数はおよそ七〇首に及ぶ︒吉野で多くの歌が詠まれた要因の一つとして︑持統天皇の存在が挙げられる︒在任中三十一回にも及ぶ行幸を繰り返したと

されるからだ︒その時期は﹃日本書紀﹄によると︑一定の季節

に偏ることなく︑厳冬期にも行幸が行われていた︒つまり︑吉 キーワード万葉集・従駕歌・柿本人麻呂・山部赤人・吉野讃歌

要  旨

持統天皇は在任中三十一回もの吉野行幸を行い︑人麻呂や赤人によって吉野讃歌がうたわれた︒なぜ吉野に離宮が造営さ

れ︑持統は行幸を繰り返したのか︒吉野讃歌には神仙思想の影響が強く現れている︒そこは神仙郷と見做されたが︑不老不死の仙薬とされたのが水銀だった︒中央構造線上には水銀鉱床が分布しているが︑その線上にある吉野にも水銀鉱床があった︒人麻呂・赤人の吉野讃歌では︑天皇は仙境を支配する神として描かれた︒またそれらが永遠に続

くことを願い︑天皇を讃美するための﹁型﹂が形成された︒こ

れも︑吉野が豊かな自然を有し︑生命感に溢れる狩場だったこ

とによるものと考えられる︒

大 久 保   孝    洋 吉野讃歌世界

︱神仙思想との関係を中心に︱

︿

令和二年度  国文学科卒業論文優秀賞論文

(2)

す豊かな猟場は︑吉野特有の風土や歴史を産んだ要因ではない か︒﹃万葉集﹄には︑﹁淑き人  良しとよく見て  好しと言ひし 芳野よく見よ  良き人よく﹂︵

1・二七︶という天武が吉野の宮

に行幸の際の御製歌が残されている︒﹁淑き人﹂とは︑天武天皇自身を指し示すとされ︑自らの治世を言祝ぎ︑息子たちに皇位継承の宣言をしたのである︒もちろん天武自身が詠んだかは定かではない︒しかし︑天武にとって壬申の乱の舞台ともなっ

た吉野に特別な思いがあったことは間違いないだろう︒歴代天皇を魅了し︑要所となった吉野は︑山水が揃い︑生命力に溢れる土地の美称から﹁ヨシノ﹂と呼ばれていたのであろ

う︒﹃古事記﹄や﹃日本書紀﹄が編纂された頃には﹁ヨシノ﹂と呼ばれていた︒﹃日本書紀﹄には︑応神天皇や雄略天皇の時代

にも吉野の記述が見えるが︑史実に基づくと︑吉野の宮が造営

されたのは斉明朝であると考えられる︒吉野の範囲に関しては︑吉野川に沿って東西に伸びる平地を吉野というのがもっと相応しいと考えられる︒この平地を走る東西の道は︑古代から重要な役割を果たしていたという︒一方

で︑奈良時代になると︑青根ヶ峰や山上ヶ岳など吉野に対する信仰が増すことで︑吉野の範囲も拡大され︑吉野山全体を指す

ようにな

2

ったと考えられる︒本稿で吉野と記述する際は︑吉野郡一帯の地域を示すこととする︒

第二章  讃歌に見る吉野の姿

奈良時代︑行幸従駕に際して天皇を讃美する歌が宮廷歌人に 野の自然に魅了されたという理由だけでは説明がつかない︒す

ると︑行幸の理由は様々な要因が絡み合っていることは事実な

のであるが︑根底には﹁聖なる吉野の山と川﹂に対する信仰が存在しているようである

吉野を題材にした歌で代表的なものに吉野讃歌がある︒持統 ︒ 1

の行幸の際に詠まれた人麻呂の作を皮切りに赤人︑金村︑旅人

とうたい継がれた︒特に︑赤人作の吉野讃歌は︑ほぼ全ての句

に人麻呂作との関連が見られるのだ︒この共通点の多さは︑吉野を詠む上でのある種の﹁型﹂が形成されていたのではないか

と考える︒この﹁型﹂には︑当時の人々の吉野に対する考えや思いを読み取ることができ︑なぜ吉野がこれほどまで多くの歌

に詠まれたのか︑その要因を探る手掛かりとなるのではないだ

ろうか︒本稿では︑人麻呂と赤人の吉野讃歌から﹁聖なる吉野﹂の姿

を整理し︑なぜ吉野は神聖な土地となったのか︑その要因を思想や地理など様々な観点から究明していきたい︒

第一章  吉野﹁良し野﹂の姿

まずは︑古代から現在に至るまでの吉野について簡単に整理

しておきたい︒﹁吉野﹂とは奈良県の約三分の二の面積を占め

る吉野郡一帯を示す︒奈良時代以降︑この吉野の山々には神が宿るとされ︑中国の神仙思想の影響とともに︑仙境として崇め

られていたという︒青い木々に囲まれ︑吉野川という都にはな

い急流が流れる土地には︑当時の人々が憧れを抱いていたのだ

ろう︒また︑鮎が上る吉野川に︑鳥や鹿など生き物が多く暮ら

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絶ゆることなく  またかへり見む︵

1・三七︶ やすみしし  我が大君  神ながら  神さびせすと  芳野川  激つ河内に  高殿を  高知りまして  登り立ち   国見をせせば  たたなはる  青垣山  やまつみの  奉るみ調と  春べには  花挿頭し持ち  秋立てば  もみちかざせり  行副ふ  川の神も  おほみ食に  仕へ奉ると  上つ瀬に  鵜川を立ち

下つ瀬に  小網さし渡す 山川も  依りて仕ふる  神のみ代かも︵

1・三八︶ 反歌 山川も  依りて仕ふる  神ながら  激つ河内に  舟出せすかも︵

1・三九︶ 右︑日本紀に曰く︑﹁三年己丑の正月︑天皇吉野

の宮に幸す︒八月︑吉野の宮に幸す︒四年庚寅の二月︑吉野の宮に幸す︒五月︑吉野の宮に幸す︒五年辛卯の正月︑吉野の宮に幸す︒四月︑吉野の宮に幸す﹂と︒未だ詳らかに何れの月に従駕にし

て作れる歌なるか知らず︒

本稿では︑三六︑三七を第一歌群︑三八︑三九を第二歌群と示

す︒まず︑三六を﹁土地褒めの表現﹂そして﹁吉野の姿﹂の二点に着目して考察したい︒三六は冒頭﹁やすみしし我が大君の﹂か よって詠まれ︑﹃万葉集﹄にもその姿を見ることができる︒中

でも︑吉野行幸は他の土地を圧倒するほどの回数が繰り返され

たため︑吉野に関する長歌の数も群を抜いて多いのである︒そ

の大半は持統天皇によるものであることは︑既に書いた通りで

ある︒持統の行幸の目的は決して遊覧を楽しむことにあったの

ではなく︑﹁聖地の霊力を付着させて王権の充実を期するとこ

ろにあった

本章では︑人麻呂と赤人の二人の吉野讃歌に着目し︑吉野を ﹂と言えよう︒ 3

どのように表現したのか整理する︒さらに︑吉野讃歌における土地褒めの﹁型﹂を考察し︑多角的に吉野が聖地化した理由を考える糸口にしたい︒

1︑人麻呂の讃歌に見る吉野 吉野の宮に幸す時に︑柿本人麻呂の作れる歌 やすみしし  我が大君の  聞こしめす  天の下に  国は しも  さはにあれども  山川の  清き河内と  みこころ を  吉野の国の  花散らふ  秋津の野辺に  宮柱  太敷きませば  ももしきの  大宮人は  舟並めて  旦川渡り  舟競ひ  夕河渡る  この川の  絶ゆることなく  この山の  いや高知らす  みなそそく  滝の宮子は  見れど飽かぬかも︵

1・三六︶ 反歌 見れど飽かぬ  吉野の河の  常滑の

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の場面で用いられている︒また︑天皇の玉座である高御座や天皇陵といわれる古墳群も八角であることが多い︒ではなぜ﹁八﹂

という数が大切であるのか︒八角の古墳群に関連して福永光司氏

哲学に基盤を支えられた墳墓もしくは墓室のなかで永遠の憩い 角形の壇上で祭る地上の帝王たちはまた︑死後も八角形の宗教 者の世界とは常に相似の形で考えられており︑天上の神々を八 は﹁中国古代の宗教思想では︑天上の神々の世界と冥界の死 8

を静かに楽しむと説かれています︒﹂と述べ︑道教との繋がり

から詳説している︒道教は不老長生を主な目的とすることか

ら︑吉野が聖地として崇められる要因の一つとも考えられ︑こ

れらの関係を探る必要があるだろう︒

では︑﹁やすみしし﹂の原義とは何であるのか︒﹁八﹂を使う

ことで︑道教に基づき八方や八角と言った意味を持たせる︒同時に︑聖数として広く全世界を表すことが︑﹁我が大君﹂とい

う言葉にかかるもっとも相応しい言葉として当てられたのが原義であろう︒次に︑﹁八隅﹂と﹁安見﹂の表記の違いについて考えたい︒後

で考察する赤人作においても﹁八隅﹂︱﹁安見﹂という順でうた

われていることからなんらかの意味があったと考えられる︒伊藤博氏

何らかの違いから︑表記を分けた可能性があると述べている︒ 考えられる︒﹂としており︑当時の音調は明らかではないが︑ は﹁書き残す時にのみ︑変化を意識したのではないかと 9

また橋本氏

は﹁安見は人麻呂に始まり︑それを鑽仰しつつ踏襲 10

した宮廷歌人ないしその亜流が主に継承している場合が多いの

である︒﹂と述べるにとどまり︑意味の違いについては触れて ら始まる︒この﹁やすみしし﹂という言葉は︑土地讃めの歌の冒頭に現れ︑この後挙げる赤人作にも共通する︒﹁やすみしし﹂

というフレーズは︑簡潔に説明するならば﹁わが︵わご︶おほ

きみ﹂の枕詞である︒では︑﹁やすみしし﹂の原義は何であるの

か︒枕詞は︑特に地名や神名である固有名詞にかかるものがもっ

とも原初的であるとされ︑もともと地名や神名を呪的にほめ讃

える意図をもとに冠せたも

4

のと考えられている︒事実︑枕詞は古い時期のものであるほど固有名詞に掛かる比率が高いことが土橋寛氏の研

究で明かされている︒しかし︑枕詞には原義不明 5

なものが多い︒その理由として橋本達雄

氏が﹁託宣や呪詞のよ 6

うないわゆる律文中に︑神の言葉として発せられ︑尊むべき詞

として保存せられ伝承されたことが︑枕詞として早く固定する

ことになったと思われるのだが︑それが伝承されてゆく時点に

おいては︑すでに原義は忘れられていても︑律文中でその地を重々しく言あげする際には必須の詞として習慣化して冠せられ

ていったことと考えられる︒﹂と解説している︒﹁やすみしし﹂

という言葉に関しても︑明確な原義が未だ挙げられないことか

ら︑原義が忘れられ継承されたと言えるのではないか︒

ここでは﹁やすみしし﹂の表記から原義について考えたい︒

﹁やすみしし  我が大君﹂の成句は推古朝をまって初めて登場

7

たと考えられ︑人麻呂が三八において﹁安見知之﹂の表記を使用するまでは﹁八隅知之﹂のみが用いられていた︒中でも﹁八﹂

は日本の文化と深く結びついているのだ︒例えば︑﹃古事記﹄﹃日本書紀﹄では︑実数としての﹁八﹂ではなく︑聖数として多く

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を詠んだとも考えられる︒しかし︑この表現は漢籍の影響を強

く受けていることを忘れてはならない︒

﹁吉野の国﹂の﹁国﹂は︑既出﹁国はしも﹂における﹁国﹂とは性質が異なる︒吉野という地名に﹁国﹂という言葉をつけるこ

とにより︑同じ大和国ではありながら︑他とは違った特別な地域であるとの認識を示している︒こうした意識と吉野宮が設置

されたことが重なり︑奈良時代には国と郡の中間に位置する行政単位である吉野監が設置されたのだろう

︒また︑﹁国﹂とい 11

う言葉で︑吉野を﹁囲う﹂ことにより︑内と外とを仕切ること

に意味があった︒仕切ることはその内側を神聖化する︒このよ

うに﹁国﹂をつけて詠まれた地域は吉野のほか︑泊瀬︑春日︑難波に限られ︑これらが特別な地域であったことがわかる

12

この長歌を解釈する上で注目すべきは対句である︒ここで

は︑﹁舟並めて  旦川渡り  舟競ひ  夕河渡る﹂﹁この川の  絶 ゆることなく  この山の  いや高知らす﹂の二つの対句を考え たい︒﹁舟並めて  旦川渡り﹂とは︑狩場が吉野離宮の対岸にあっ たからだと考えられる︒一方︑﹁舟競ひ  夕河渡る﹂とは︑狩

の後離宮に戻る官人達の姿を詠んでいるものであろう︒舟とい

う人工物を河という自然の中に落とし込み︑偉大な自然を支配

する天皇の支配力の偉大さを表現するのである︒さらにここで

は︑早朝狩りに出かけ︑夕方離宮に戻るという時間の流れをう

たう︒決して実体としての時間を表現したかったのではなく︑時間のサイクルを表し︑永続性を感じさせるのだ︒多くの官人達がこぞって狩りに出かける姿からは天皇の支配の強大さを︑ いない︒私は三六と三八の主語の違いから︑表記が分けられたのでは

ないかと考えたい︒三六では︑聖なる吉野の土地を主語に置き︑三八では天皇を主語として置く︒つまり︑土地を主語とする時

には︑﹁広い﹂ことを強調するために︑﹁あまねく広大な天下を支配する﹂といった意味で﹁八隅知之﹂と表記する︒一方で︑天皇を主語に置く時は︑﹁安らかに﹂﹁目を遣る﹂など天皇の行動を表現するために﹁安らかに広い天下に目を遣り支配する﹂

といった意味で﹁安見知之﹂と表記したのではないか︒いずれ

にしろ︑天皇が支配する吉野と天皇そのものへの敬意の両方が込められた言葉であり︑﹁八隅知之﹂を踏まえた上で解釈しな

ければならないだろう︒続く六句で吉野の情景を﹁国はしも  さはにあれども  山川 の  清き河内と  みこころを  吉野の国の﹂とうたう︒﹁しも﹂

は︑強意の﹁し﹂に詠嘆の﹁も﹂が接続したものである︒数多く

ある中で一つを選んで強調するかたちであり︑﹁さはにあれど

も﹂と接続することで国褒めを表現する︒﹁清き﹂は︑﹁さやけし﹂

などと同様に対象を褒める言葉であり︑国褒めの常套句と言え

る︒﹁河内﹂とは︑河を中心とし︑山に囲まれた生活圏を示し︑

ここでは吉野離宮の周囲を示すものと思われる︒﹁みこころを﹂

は︑﹁吉野﹂の枕詞であり︑﹁みこころを︱よし﹂と掛ける︒次の﹁山川の﹂で︑青い山々に囲まれ︑川が流れる生命力に満ちた吉野全体を表し︑﹁清き河内と﹂では吉野川に囲まれた吉野の特徴的な地形を表す︒現在の吉野がそうであるように︑当時から多くの山々に囲まれ︑吉野川が流れる吉野一帯の実景

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ながら神さびせすと﹂とは︑﹁我が大君が神であるままに神ら

しくなさることで﹂と天皇の神格性を高めるとともに︑直接的

に天皇を讃える表現である︒また︑三六には見えなかった︑天皇の﹁動く﹂姿が感じられるのもこの歌の特徴と言えよう︒仙境吉野に行幸した天皇が︑国見をすることで︑土地への支配と天皇の権威を示したものと考えられる︒

しかし︑多くの国褒めでは︑天皇がその土地に向き合い︑土地の神を崇める形式が多く取られる︒三八のように︑天皇が主語として土地を外から眺めている関係にあるのは︑国褒めとし

て珍しいかたちである︒この形式はいわば︑吉野の神に服従す

る天皇から吉野の神が天皇に服従する関係への﹁逆転現象﹂と解釈できるのではないだろうか︒言い換えれば︑頂点に君臨す

るのは天皇と表現するのである︒この神聖な吉野︑とりわけこ

の歌の中では︑天皇は国︑地霊その全てを支配する絶対神とし

てうたわれているのだ︒持統が吉野行幸を繰り返した目的の一つは︑五穀豊穣を願う

ものであったとされる︒律令制下において︑天皇がみずから行

う祭祀としては︑大嘗祭において大嘗宮の中で行われる神マツ

リのみだったことからも︑天皇の役割の一つとして五穀豊穣を願うことが大切であったことがわかる︒そして︑持統は吉野行幸の際には幾度となく︑吉野川を渡り水分山︵青根ヶ峰︶を仰

ぎ見る場所で祭祀を行なっていた

︒さらに︑正式に天皇に即位 14

した持統は神格化されたのであろう︒そのような偉大な女帝の姿を描き出す中で︑過去の従駕歌の﹁型﹂を超え︑天皇讃美が強まったと考えられる︒ そして永遠に続く時間の流れの中に天皇の支配の永続性をも表現する︒つまり︑天皇讃美を強める役割を担っているのだ︒続く﹁この川の  絶ゆることなく  この山の  いや高知ら

す﹂では︑﹁川﹂と﹁山﹂との対比がなされており︑先に述べた漢籍の影響が見られる︒最終句の﹁見れど飽かぬかも﹂という表現は︑人麻呂が初め

て使用した表現と考えられている︒﹁かも﹂からもわかるよう

に︑これまで国褒めの常套句を並べ吉野を褒め天皇讃美に徹し

たが︑この三句には人麻呂︑あるいは吉野を訪れた人々の気持

ちが表れている︒反歌三七では︑三六最終句﹁見れど飽かぬかも﹂を受けると

ともに︑長歌を継承し︑吉野の情景を讃えることで︑天皇の支配の永続性を表現している︒ここでは後半で﹁常滑の  絶ゆる ことなく  またかへり見む﹂と表現されていることに注目した

い︒﹁常滑﹂は解釈が分かれるが︑川底や川岸の︑苔などが生

えて滑らかにつるつるとしたところを指し︑次の﹁絶ゆること

なく﹂と呼応して︑﹁常滑が絶えることがないように︑絶える

ことなく﹂と解釈するのが最も有力である

︒﹁また﹂という表現 13

は︑短い言葉でありながら︑長歌を永遠の空間軸の上に乗せ︑将来に繋げると同時に︑天皇讃美として完結に導く大きな役割

を果たしているのだ︒第二歌群長歌では︑﹁やすみしし  我が大君  神ながら  神 さびせすと  芳野川  激つ河内に  高殿を  高知りまして  登 り立ち  国見をせせば﹂とあるように︑三六が﹁吉野﹂を主語

としていたのに対し︑天皇が主語として詠まれているのだ︒﹁神

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移動しながら川全体をうたい︑天皇の支配範囲の広がりを表現

している︒﹁鵜川を立ち﹂とは︑鮎漁の方法を表し︑﹁小網さし渡す﹂とは川魚の漁を表す︒これは吉野川に魚を大御食として調達していたことに由来する︒﹃古事記﹄や﹃日本書紀﹄にも神武天皇が大和平定を前に︑吉野へ至った際︑吉野川で魚を獲る贄持に子に出会った話が伝えられている︒﹃万葉集﹄において

は︑大和国の川では初瀬川を除いて鮎は詠まれておらず︑吉野川は古くから鮎の産地であったことが伺える︒最終句は﹁山川も  依りて仕ふる  神のみ代かも﹂と擬人化

した山川までもがこぞってお仕えする神の御代であることだ︑

と締めくくる︒吉野の自然を擬人化し︑それが歌の主語である天皇に仕えるかたちで詠まれており︑整然とした讃歌のかたち

に組み立てられているのである︒反歌の三九では︑﹁山川も  依りて仕ふる﹂と三八の最終三句を承け︑続く﹁神ながら  激つ河内に﹂は︑三八の前半部に

ある表現をまとめて承けていると考えられる︒一方最終句を

﹁舟出せすかも﹂とすることで︑国見をする天皇に動きをつけ

ることで︑支配が進行する様子を表す︒また︑﹁激つ河内﹂は︑川の霊威が最も強く現れる場所であり︑そこへ舟を漕ぎ出す天皇の姿を歌うことで︑天皇の偉大さの強調にも繋がる︒さらに︑三八の長歌には﹁舟﹂がうたわれていないにも関わらず︑反歌

では﹁舟﹂をうたう︒これにより︑第一歌群の﹁ももしきの 大宮人は  舟並めて  旦川渡り  舟競ひ  夕河渡る﹂という表現を承けることとなり︑歌群全体で天皇が吉野の国を支配し︑

その臣下を支配することに成功している︒さらに︑山や川の 続く︑﹁たたはなる﹂は︑幾重にも重なる様子を表し︑﹁やま

つみ﹂は山の神を表す︒この八句目からは︑幾重にも重なる青垣のような山々の実景を表現すると共に︑それらは山の神の天皇への貢物であることを意味している︒﹁青垣山﹂は吉野を神聖な地として表現するには欠かせないものであった︒

﹁垣﹂は︑外界との仕切りを意味し︑神の宿る特殊な土地を示す言葉でもあった︒外界と垣で仕切ることで︑﹁来臨した神

が内部に鎮座し︑隠る聖空間を意味したとされる

古代の人々は︑常緑樹を強く讃仰し︑生命の永遠性を願ったと 垣は︑聖域を取り囲む常緑樹の垣根をイメージしたのである︒ ︒﹂つまり青 15

される︒﹁﹁あを﹂は青々としたみずみずしい状態を表す接頭語

であること

隠るという表現で︑垣の内として区切ることにより︑聖空間と ﹂からも︑生命力の永続性を感じる︒こうして青垣 16

して表現したのである︒これも︑第一歌群に同様に神仙思想の影響を受け︑山水が揃う吉野を理想の地として讃美する言葉の一つなのである︒つまり﹁天皇を讃美する上での儀礼的な詞章

の伝統に基づく表現﹂といえる

続く︑﹁やまつみの﹂は後の﹁川の神も﹂と対応しており︑﹁山﹂ ︒ 17

﹁川﹂吉野の神が天皇に貢物を献上する姿を表現している︒﹁春

へには花挿頭し持ち﹂とは︑春になると山に花が咲くさまを︑擬人化︑並びに神格化する︒つまり︑吉野の山全体を神とみな

し︑天皇に仕える様子を表しているのだ︒続く﹁秋立てばもみ

ちかざせり﹂は︑春と秋という季節の対比がなされると共に︑天皇の支配の永続性を表現する︒

﹁上つ瀬に﹂﹁下つ瀬に﹂とこれらもまた対句として︑視線を

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う土地そのものが永遠と続く空間に存在する崇高な場所である

と表現することで︑天皇の支配の永続性をも表したのであろ

う︒

2.赤人の讃歌に見る吉野 山部宿禰赤人の作れる歌二首  并びに短歌 やすみしし  わご大君の  高知らす  芳野の宮は  たたなづく  青垣隠り  河なみの  清き河内そ  春へには  花咲きををり  秋へには  霧立ち渡る  その山の  いやますますに  この川の  絶ゆることなく  ももしきの  大宮人は  常に通はむ ︵

6・九二三︶ 反歌二首 み吉野の  象山のまの  木末には ここだもさわく  とりの声かも︵

6・九二四︶ ぬばたまの  夜のふけ去けば  久木生ふる  清き河原  千鳥しば鳴く︵

6・九二五︶ やすみしし  我ご大君は  み吉野の  秋津の小野の  野の上には  跡見すゑ置きて  み山には  射目立て渡し  朝狩に  鹿猪踏み起こし  夕狩に  鳥踏み立て  うま並めて  み狩そ立たす  春の茂野に(

6・九二六)

反歌一首 神々を支配する偉大な権威を保持する存在であることを表現し

ている︒吉野讃歌の第二歌群では︑第一歌群とは違った視点から天皇

の権威を讃えることで︑仙境吉野の姿が明確に浮かび上がっ

た︒また︑山川対比を中心に吉野の自然がうたわれ︑土地を神聖化することで天皇を讃えるわけであって︑これは吉野讃歌に

は欠かせない﹁型﹂と言えるのではないか︒吉野を詠む際に山川対比の構成が表れることには︑神仙思想や吉野が山水の充足

を備えていたことに一因する︒しかしながら︑天皇の行幸の際

にうたわれたことを鑑みると︑大和朝廷との関係も見過ごせな

い︒これに関して伊藤氏

が︑ 18

吉野が大和朝廷の格別の聖地であり︑聖地には︑国土形成︑五穀豊穣の二大要素である﹁土﹂と﹁水﹂とが相ともに充ち足りているのでなければならぬという思想がはたらいてい

る︒︵中略︶﹃論語﹄に見える孔子の言葉﹁知者は水を楽しび︑仁者は山を楽しぶ﹂に代表される中国人の精神的伝統をう

けいれることによってなりたったものと思われる︒

と述べている

︒吉野は大和朝廷の格別の聖地であり︑﹁土﹂と 18

﹁水﹂という国家形成の二大要素を重んじているがゆえの対比

だと述べ︑川を重んじることを孔子の言葉を引用し︑中国の精神的伝統が影響を及ぼしているからだとしている︒総じて人麻呂作の吉野讃歌では︑吉野の自然の豊かさ︑そし

て天皇の支配の永続性が歌の主題であると考える︒天皇が行幸

する吉野の自然の素晴らしさや雄大さを褒め讃えることで︑間接的にその土地を支配する天皇を褒め讃える︒また︑吉野とい

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いで大きな意味の差異はないだろう︒原文は三六同様に﹁八隅知之﹂とある︒支配する天皇を示した上で︑吉野の宮を提示す る︒既に考察したように︑道教の影響を強く受けた国褒めには欠かせない表現といえよう︒続く五句目以降で﹁たたなづく  青垣隠り  河なみの  清き河内そ﹂と幾重にも重なる青垣のような青々とした吉野の山々

を表現し︑﹁隠り﹂とはそれに﹁囲まれて﹂いる状態と解釈でき

る︒三六﹁青垣山﹂同様に︑囲うことによって︑これもまた仙境吉野を際立たせているのである︒﹁河なみの﹂という表現は少々難解な表現であるが伊藤氏は︑﹁川の流れていく道筋︒﹁山

なみ﹂の対︒﹁なみ﹂は﹁並む﹂の名詞形︒原文﹁次﹂は︑順序︑行列の意

続いて流れている様子﹂を表している︒絶え間なく流れる様子︑ ︒﹂と解釈している︒ここでは︑﹁吉野川が絶え間なく 20

つまり﹁永続性﹂を意識することで︑天皇の支配が永遠に続く

ことを表現しているのではないか︒ここでも漢籍の影響である山川対比が行われ︑人麻呂作の吉野讃歌に通ずる国褒めのかた

ちをみることができる︒﹁河内﹂は︑宮滝周辺の吉野川に囲ま

れた︑吉野離宮を表すものと考えられる︒続く﹁春へには  花咲きををり  秋されば  霧立ち渡る﹂で

は︑春秋の季節の対比から吉野の自然の優美さを表現する︒そ

して︑﹁春︱秋﹂の季節の対比にも﹁永続性﹂が感じられること

も押さえておくべきだろう︒永遠に続く四季の移ろいの中にあ

る神聖な吉野をうたうことが︑天皇の支配の永続性を映し出

す︒これも人麻呂に継ぐ土地褒めの﹁型﹂が継承されていると

いえよう︒ あしひきの  山にも野にも

み狩人  猟矢手挟み  散動てあり見ゆ︵6・九二七︶ 右︑先後を審らかにせず︒ただし︑便を以てす

なはちこの次に載す︒

本稿において︑九二三から九二五を第一歌群︑九二六から九二七を第二歌群と示す︒

はじめに︑第一歌群は梶川信行氏

が︑ 19

特に近代以後︑島木赤彦らアララギ派の歌人たちによっ

て︑赤人の歌が称揚されるようになってからは︑長歌から反歌が切り離され︑独立の︿短歌﹀として鑑賞されるよう

にもなった︒もっとも︑真淵のような明確な評言は見られ

ないものの︑反歌のみを︿名歌﹀として称揚する例は︑﹃古今和歌集﹄の仮名序をもって嚆矢とすると言った方がよ

い。

と指摘しているように︑長く反歌二首が一人歩きし著名となっ

ていた︒たしかに九二三の長歌は︑人麻呂の吉野讃歌の影響を強く受けて詠まれ︑新しい表現技巧は見られない︒しかしそれ

は伝統の踏襲とも捉えることができるのではないだろうか︒ま

た︑対句構造を見る限り︑長歌︱反歌というまとまりによって一つの主題を詠んでおり切り離すべきではない︒人麻呂に始ま

る対句構造による国褒めの型を赤人は継承し︑仙境吉野の姿を

より強固なものへとしていったのではないだろうか︒冒頭は︑三六︑三八の長歌と同様に﹁やすみしし  我ご大君﹂

と始まる︒﹁我が﹂と﹁我ご﹂の違いはあるが︑音変化程度の違

(10)

唯一︑赤人の独自性が見られるのは︑﹁霧立ち渡る﹂の一句 なのである︒ここで﹁霧﹂は﹁春へには  花咲きををり﹂﹁秋さ れば  霧立ち渡る﹂という形で対句構造の中でうたわれてい

る︒つまり︑﹁花﹂と同様の性格を持つものと考えられる︒﹁花﹂

をはじめ︑植物が生い茂る様子は︑国の繁栄のしるしである︒

﹁枝がたわむほど︑満開の花が咲いている様子﹂は先に述べた

﹁青垣﹂同様にみずみずしく︑生命力の永続性を感じ取ること

ができる︒一方の﹁霧﹂は︑梶川氏

巻︶に見られる天の安の河の誓約では︑アマテラスがスサノヲ が﹃古事記﹄を例に挙げ︑﹁﹃古事記﹄︵上 21

の﹁十拳剣﹂を物実として︑宗像三女神を生んでいる︒その﹁息吹の狭霧﹂から︑霧の神格化とされるタキリビメノミコトをは

じめとする三女神が生まれた︒スサノヲも同様に︑アマテラス

の﹁八尺の勾﹂を物実として五柱の神を生むのだが︑やはりそ

の﹁息吹の狭霧﹂から五柱の神は生まれている︒﹂と述べている︒梶川氏も︑﹃古事記﹄の﹁霧﹂と吉野の﹁霧﹂を同列に扱うこと

は問題があるとしているが︑霧が立ち込める様子は︑神の出現

を暗示するものであると言ってよいのではないか︒古代の人々

にとって︑霧は霊威のあるものとして捉えられていた︒つまり︑赤人は吉野の川に霧立ち渡る様子を﹁大地の霊気の顕われ

表現したのであろう︒ ﹂と 21

﹁その山の  いや益々に  この河の  絶ゆることなく  もも しきの  大宮人は  常に通はむ﹂は︑注釈書により大きな解釈

の違いは見られなかった︒この八句では︑﹁青垣﹂のように青々

と幾重にも重なり︑春になると枝が撓むほど花が咲く木々の生 さらに︑ここでは﹁霧﹂という言葉にも着目したい︒多くの注釈書には﹁霧が立ち込める﹂程度の訳のみで︑﹁霧﹂について詳しく考察しているものはない︒次の表は︑関連する語句を順

に並べ︑上段に赤人作︵九二三︶を下段に人麻呂作︵三六〜三八︶を記した︒すると︑赤人作の吉野讃歌の全ての句が人麻呂作と関連づけることができることがわかる︒

はむ ももしきの大宮人 この ゆることなく そのいやますますに 霧立 されば へには花咲きををり なみの河内 たたなづく青垣隠 芳野 高知らす やすみししわご大君 赤人作吉野讃歌九二三

またかへり三七 ももしきの大宮人三六 この ゆることなく三六 このいや高知らす三六 秋立てば三八 べには 花挿頭三八 山川河内三六 たたなはる青垣山三八 吉野三六 高知りまして三八 やすみしし大君三六やすみしし 大君 三八 人麻呂作吉野讃歌歌番号

(11)

いると見てよいだろう︒鳥は元来霊威との関わりがある動物とされ︑鳴き声は夜明け をもたらすと考えられてきた︒﹃万葉集﹄には﹁ことさへく  百済﹂︵

 2・一九九︶﹁さひづるや韓﹂︵

例が見られる︒これに関して野田浩子氏 16・三八八六︶などの用 は﹁地方や外国のこと 23

ばと共に鳥のさえずりは普通の人には意味の捉えられない音の連なりでそれをマジカルなことば即ち神のことばと感じとった

のである︒鳥は飛翔の不可思議とともに鳴き声がマジカルなこ

とでも神の側のものであった︒﹂と述べている︒つまり︑地方

の人々の言葉や外国の言葉のように︑意味の捉えられないもの

を鳥のさえずりに喩えたのである︒さらに︑霊威との関わりが

あるとされた鳥の鳴き声は︑神のことばとして感じ取られてい

たという︒つまり︑ここで赤人が︑鳥の﹁さわく﹂姿をうたう

ことで︑﹁マジカルな音﹂に満ちた吉野が生み出された︒人に

は理解し得ない言葉が交わされる︑霊威溢れる土地と讃えたと

いえる︒続く九二五では︑山々に鳴く鳥から川辺で鳴く鳥へと視点が移る︒この歌の特徴として︑九二四では﹁鳥﹂として抽象的に表現されていたものが﹁千鳥﹂として具体化される︒﹁千鳥﹂と

は︑各時代を通じ﹁故郷思慕﹂﹁恋の歌﹂の素材として歌に詠ま

れ︑千鳥の鳴き声を晴れやかに楽しむというのは大変珍しい用例である︒なぜ赤人はあえて︑旅の歌には珍しい﹁千鳥﹂を使っ

て歌を詠んだのか︒髙松寿夫氏

は︑﹁﹁知鳥﹂は万葉集ではよく思慕の情を起こさ 24

しめるものとして詠まれるが︑九二五歌では九二三歌の人麻呂 い茂る吉野の山々︒絶え間なく続く川の流れに秋になると霧が立ち込める︒この二つの情景が永遠に続くことを詠みながら︑

﹁いやしくしくに﹂﹁絶ゆることなく﹂と大宮人の離宮への往来

を誓う形で締めくくられている︒このようにして︑吉野離宮の自然を述べることが︑その土地を支配する天皇や宮廷を褒める

ことに繋がった︒そして繰り返し﹁天皇の支配力の永続性﹂と

いう主題を大宮人の離宮への往来が永遠に続くことを通して表現し締め括るのである︒次に︑九二四︑九二五の反歌に表れる吉野の姿を考える︒九二四では︑吉野の象山を舞台にさえずる鳥の美しさを歌に詠んでいる︒前三句で︑吉野の山々の情景を提示し︑後ろ二句

で﹁さわく﹂鳥の声を歌うのみの簡潔な表現と言える︒九二三

の長歌では︑土地褒めの﹁型﹂を継承し︑吉野を褒める歌となっ

ていたが︑九二四ではその流れは途絶えているように見える︒

しかし本来︑長歌と反歌によって一つの歌群と見るのが自然

であり︑それによって国褒めの﹁型﹂が成立しているのではな

いか︒この反歌では︑﹁み吉野の  象山の際の﹂と地名を重ね

て詠むことで︑よりその土地が特定され︑吉野の象山という一

つの山に焦点を絞る︒すると︑長歌において概念的に歌われた吉野の自然の美しさが具現化していくのである︒またこの歌で

は︑﹁木末には  ここだもさわく  とりの声かも﹂と鳥の鳴き声が歌の中心に据えられていることに着目したい︒﹁さわく﹂

とは︑﹁さえずりあう﹂鳥の鳴き声を表現している︒語源は︑擬声語﹁さわ﹂が動詞化したもので︑この鳥の鳴き声は﹁決し

て騒がしくなく︑清く静かな感じを助長する

﹂ように表現して 22

(12)

ならない︒﹁吉野﹂が﹁芳野﹂に変化したのは︑平城京遷都後︑七一三年に発令された﹁諸国郡郷名著好字令﹂︵﹃続日本紀﹄︶に

よるものだと考えられる︒なぜ既に好字である﹁吉野﹂を﹁芳野﹂

と表記するようになったのか︒﹃万葉集﹄に﹁芳を詠む﹂という歌がある︒

高松の  この峰も狭に  笠立てて  満ち盛りたる  秋の香

のよさ︵

10・二二三三︶

この短歌は︑作者未詳の雑歌ではあるが︑当時﹁芳﹂という文字が良い香りを表していることがわかる︒つまり︑﹁吉野﹂

を﹁芳野﹂と表記することは︑文字では伝えることが難しい﹁香

り﹂を表現することを可能にした︒この﹁香り﹂というのは︑決して吉野の生命力溢れる自然の香りだけはない︒当時︑﹁香

り﹂には様々な意味が込められたと言えるからだ︒﹃万葉集﹄に

は︑持統天皇が潮の香りとともに︑亡き夫である天武を詠んだ

ものとされる長歌︵

2・一六二︶があり︑故人を偲び連想する

ものの一つとして﹁香り﹂が用いられている︒私は︑吉野の自然の香りとともに︑歴代天皇を連想させる﹁香り﹂が漂うこと

を表現したと考える︒﹁芳﹂と表記することで︑仙境ヨシノを褒めるだけではなく︑多くの天皇が魅了されたヨシノに彼らの

﹁香り﹂を乗せるのである︒つまり︑天皇を思慕する念を﹁芳野﹂

という漢字に込めたのであろう︒第二歌群の長歌は︑第一歌群と連作であったか︑否かが議論

されていた︒また︑人麻呂作や赤人作︵九二三︶のように長歌一︑短歌二の対になっていない点が特徴である︒九二六は︑九二三とは異なり  天皇の指示行動を主体にうた 的雰囲気を受け︑特に懐旧の念を触発するモチーフとして機能

しているのであると思われる︒﹂と述べている︒赤人が人麻呂

に強い影響を受けてこの吉野讃歌を作歌していたことを考慮す

ると︑この解釈は納得できるものである︒同様に︑九二四では

﹁木﹂として用いているものが︑九二五では﹁久木﹂とまた具体化しているのも︑﹁久しいとき﹂﹁悠久の古﹂といったものを喚起しているものと考えられる︒反歌二首を通してうたわれる共通の題材は︑﹁鳥の鳴き声﹂

である︒これまで吉野の自然の優美さや壮大さについて詠んだ歌を多くあげたが︑ここでは生き物を中心に取り上げているの

だ︒これは︑﹁ここだも騒く鳥の声﹂︑﹁千鳥しば鳴く﹂どちら

も吉野を取り巻く自然の雄大さと神聖さを述べる点に主眼があ

ると考えるべきではないか︒また︑九二五のように︑夜に千鳥

がしきりに鳴いているという表現からは︑果たして夜に威勢よ

く鳥が鳴くことがあるのか︑という疑問が生じる︒しかし︑歌

は目に見た現実世界を詠むばかりが評価されるのではない︒場面や場所など目的に応じて︑誇張や比喩︑想像を膨らませなが

ら表現する必要がある︒よって︑この時の赤人に求められたの

は︑三十一音で吉野という土地の情景を通して天皇や宮廷讃美

をするのかということである︒つまり︑あえて現実から離れ︑

まるで空想の世界かのように吉野を詠むことで︑吉野が古来仙境と崇められ︑歴代天皇が訪れた霊力の宿る場所であることを鮮明に表現しているのだ︒ そしてここでは︑人麻呂作における表記が﹁吉野﹂に対して九二三では﹁芳野﹂と示されている点は押さえておかなければ

(13)

時に発生する︒つまり︑人が立ち入らない土地には地名は付か

ない︒日本は火山活動が盛んで︑降水量も多い︒国土の約七割

が山岳地域であり︑それに伴い傾斜地も多い︒日本列島に住む人々は︑傾斜地で生活をせざるを得なかった︒だからこそ︑山裾の緩やかな傾斜地を﹁野﹂と呼び︑日本各地に﹁野﹂が付く地名が広がっていったのではないだろうか︒

﹁吉野﹂の﹁野﹂の範囲に関しては︑既に記述した通り︑吉野川に沿って点在する︑辛うじて住める狭隘な傾斜地と解釈する

のが相応しいといえる︒時代が下ると青根ヶ峰や山上ヶ岳など吉野に対する信仰が増すことで︑吉野の範囲も拡大され︑吉野山全体を表す地名へと変化していった︒そして︑いつしか吉野

という地名は︑﹁良い﹂﹁野﹂という本来の意味が薄れて利用さ

れるようになったのであろう︒最終句の﹁春の茂野に﹂という表現では︑初冬︑秋に行われ

る狩が春にうたう︒あえて︑季節外れに狩を行うことは︑吉野

の神聖さの強調に繋がっているのではないか︒また︑この長歌

の主題は天皇讃美である︒つまり︑季節に関係なく狩をさせる天皇の姿を讃えていることも押さえておくべきだろう︒対する反歌一首は︑九二六を素直に受けた一首といえる︒長歌における天皇の指示に︑供奉の狩人達が︑一面に乱れ騒ぎ狩

をしている様子をうたっている︒次の章で詳しく考察するが︑長歌とは時間と空間︑二つの面で対句の形を取っている︒人麻呂の吉野讃歌に比べ︑赤人は自然に重きを置き︑吉野の情景をより実感的に表してきた︒しかし︑反歌であえて︑仙境

の地としての吉野を明瞭に表現する︒これがまた人麻呂の吉野 われている︒これまであげた︑人麻呂作や赤人作︵九二三︶の長歌は︑神聖な吉野を介して︑天皇︑宮廷讃美を間接的に表現

していた︒一方で︑九二六は︑天皇自身の行動や指示を詠むこ

とで︑直接的に天皇讃美を行っているのである︒つまり︑九二六では国土讃美の意識は希薄になりつつあるといえよう︒具体的に︑﹁野の上には  跡見すゑ置きて  み山には  射目立 て渡し  朝狩に  鹿猪踏み起こし  夕狩に  鳥踏み立て  うま並めて  み狩そ立たす﹂という表現では︑大半が天皇﹁やすみ しし  わご大君﹂が吉野離宮﹁み吉野の  秋津の小野﹂で行っ

た狩の示威行動が占めている︒

ここでは︑﹁野﹂に着目したい︒時代別国語大辞典・上代編

25

には﹁野︒ただし︑広々とした野原は︑ハラといい︑﹁ノ﹂は山裾のゆるい傾斜地などをいったようである︒﹂とある︒吉野離宮宮滝遺跡の立地を踏まえると﹁山裾のゆるい傾斜地﹂とい

う﹁野﹂に一致する︒吉野に限らず︑一般的に﹁野﹂はどのよう

な土地に見られる地名なのか︒柳田国男氏

によると﹁漢語の野という字を宛てた結果︑今で 26

は平板なる低地のようにも解せられているけれども︑﹁ノ﹂は本来は支那にはやや珍しい地形で︑実は訳字の選定のむつかし

かるべき語であった︒︵中略︶元は野︵ノ︶というのは山の裾野︑緩傾斜の地帯を意味する日本語であった︒﹂とある︒つまり︑

﹁ノ﹂という土地を指すことばは︑日本で誕生したといえる︒私は︑﹁野﹂は島国の特性が生んだものであると考える︒古代中国の都市は︑いずれも唐の都長安のように平原に置かれた

が︑土地に名前をつけることは︑人々の間で共通認識が必要な

(14)

すみしし  我が︵わご︶大君の﹂で始まる点は︑先にあげた共通項の①に該当する︒冒頭﹁主語の提示﹂をすると同時に︑吉野が仙境であること︑そして天皇が多大なる権力のもと国を統治していることを強調するのである︒

﹁B・叙景対句部分﹂では︑Aで提示した天皇が統治する吉野の情景をうたう︒空間と時間の対比構造の中で︑山︑野︑川

の対比が行われる︒

﹁C・尻取り式転換部分﹂は︑Bで対比した景物を受け︑D

へと転換する役割を果たす︒すべての歌で︑対句表現が用いら

れていることも押さえたい︒ここでは︑天皇の支配力の広さと天皇の権威の永続性が示されるのだ︒

そして最後が﹁D・本旨﹂である︒三六﹁見れど飽かぬかも﹂︑三八﹁山川も  依りて仕ふる  神のみ代かも﹂九二三﹁大宮人 は  常に通はむ﹂九二六﹁うま並めて  み狩そ立たす  春の茂野に﹂とうたう︒AからCには表現方法や技巧に類似点が多く見られるが︑本旨では作者の独自性が表れていると考えてい

る︒

このように︑四首の﹁吉野讃歌﹂は︑ある種の段落分けが容易にできることがわかった︒そして︑これが人麻呂の確立した讃美の﹁型﹂といえるのではないか︒天皇を前にした公の場である以上︑歌人たちに失敗は許され

ない︒そういった場面で︑作者が自由に構想し︑思いつきで歌

を詠むとは考えにくい︒だからこそ﹁A・主語の提示﹂↓﹁B・叙景対句部分﹂↓﹁C・尻取り式転換部分﹂↓﹁D・本旨﹂とい

う︑天皇讃美のマニュアルとも言うべき伝統的な型式を踏襲し 讃歌からの伝統の踏襲に繋がり︑天皇︑宮廷を褒める歌として

の性格を︑長歌と共に強めていると言える︒

第三章  吉野讃歌の構造と﹁型﹂

吉野讃歌における山川対比は︑四首の長歌に共通する特徴と言え︑国褒めの﹁型﹂と考えられる︒これらは︑吉野など天皇

に所縁ある土地を讃美する上では欠かせないかたちであった︒

もちろん︑吉野が山水の充足を備えていたことに一因するのだ

が︑それ以上に神仙思想の影響により吉野が神聖な土地であっ

たことも大きな要因であると考えられる︒これに関して︑伊藤氏

が︑﹁土﹂と﹁水﹂を重んじ︑中国の精神的伝統が影響を及ぼ 27

していると述べていたのはすでに紹介した︒私は︑吉野讃歌における対比構造を分析した上で左記の表の

ように分類し︑土橋氏﹃古代歌謡論

﹄を参考に︑AからDまで 28

それぞれ名称をつけた︒

A・主語の提示 B・叙景対句部分 C・尻取り式転換部分 D・本旨人麻呂︑赤人の吉野讃歌は︑右の四つの部分に区分できる︒

まず﹁A・主語の提示﹂では︑歌の主語を提示する︒四つの長歌のうち三六︑九二三は︑吉野が主語に当たる︒具体的に﹁吉野の国﹂︑﹁芳野の宮﹂と地名がうたわれている︒一方三八︑九二六では天皇が主語となることは既に述べた通りであ

る︒また︑﹁我が﹂と﹁我ご﹂の細かな違いはあるものの︑﹁や

(15)

たのであろう︒吉野讃歌では︑作者の感想や考えは排除し︑讃美に徹したと言える︒また︑赤人作には独自の表現技巧や目新しい表現は見

えない︒しかし︑この人麻呂が確立した﹁型﹂に徹底的に倣う

ことが︑宮廷歌人としての役割であり︑高く評価された要因に違いない︒宮廷歌人たちには︑作歌のマニュアルを遵守するこ

とが強く求められていたのであろう︒

第四章  まとめ

﹃万葉集﹄におよそ七〇首の歌が収められた仙境吉野︒斉明天皇が吉野離宮を造営して以降︑歴代の天皇の行幸の地として栄えた歴史が残る︒中でも持統は︑在任中三十一回に及ぶ吉野行幸を繰り返した︒

なぜ吉野に離宮が造営され︑持統が行幸を繰り返したのか︒

その根本の要因は︑水銀鉱床と考えて良いだろう︒吉野讃歌に繰り返し現れる神仙思想︒その主たる目的は不老不死であり︑晋の時代より不老不死の薬として水銀が重宝されていた︒漢籍にも見えるように︑唐の影響を受けて日本でも不老不死

の薬として水銀が伝来し︑道教の広まりとともに歴代天皇に重宝されたのである︒結果︑古事記や日本書紀に見えるように水銀鉱床として有名であった吉野は︑仙境として崇められるよう

になった︒またそれは︑現在にも﹁丹生﹂という地名により︑我々に水銀鉱床の歴史を伝えている︒

そして︑その神仙思想をもとに吉野讃歌が形成された︒人麻呂に始まる吉野讃歌は︑仙境として吉野が描かれ︑それを支配

D・本旨 C・尻取式転換部分 B・叙景対句部分 A・主語提示

みなそそく宮子れどかぬかも このゆることなくこのいや高知らす 花散らふ秋津野辺宮柱太敷きませばももしきの大宮人舟並めて旦川渡舟競夕河渡 やすみしし大君こしめすはしもさはにあれども山川河内みこころを吉野 巻一三六

山川りてふるのみかも おほみると鵜川小網さし 高殿高知りまして国見をせせばたたなはる青垣山やまつみのみる調べには花挿頭秋立てばもみちかざせり やすみしし大君ながらさびせすと芳野川河内 巻一三八

ももしきの大宮人はむ そのいやますますにこのゆることなく たたなづく青垣隠なみの河内へには花咲きををりされば霧立 やすみしし大君高知らす芳野 巻六九二三

うまめてたす茂野 朝狩鹿猪踏こし夕狩鳥踏 には跡見すゑきてには射目立 やすみししわご大君吉野秋津小野 巻六九二六

(16)

︵ 12︶注

3に同じ

13︶多田一臣編﹃万葉集全解一﹄筑摩書房・二〇〇九年

14︶注

1に同じ

15︶注

13に同じ

16︶注

6に同じ

年 17︶古橋信孝著﹃ことばの古代生活誌﹄河出書房新書・一九八九

18︶注

3に同じ

19︶梶川信行著﹃万葉の論山部赤人﹄翰林書房・一九九七年

20︶注

3に同じ

21︶注

19に同じ

22︶阿蘇瑞枝編﹃萬葉集全歌講義三﹄笠間書院・二〇〇七年

楓社・一九九八年 23︶古代語誌刊行会編﹃古代語を読む﹄野田浩子著﹁さわく﹂桜

24︶髙松寿夫著﹁赤人の吉野讃歌︱作歌年月不審の作群につい

て︱﹂﹁国文学研究﹂早稲田大学・一九九〇年

一九六七年 25︶上代語辞典編集委員会編﹃時代別国語大辞典﹄三省堂・

一九三二年 26︶柳田国男著﹁地名と地理﹂﹃地理学評論﹄古今書院・

27︶注

3に同じ

28︶注

5に同じ

﹇付記﹈  本稿は︑令和二年度国文学科卒業論文﹁吉野讃歌の世界︱神仙思想との関係を中心に︱﹂の﹁第一章  吉野﹁良し野﹂の姿﹂︑﹁第二章 讃歌に見る吉野の姿﹂︑﹁第三章 吉野讃歌の構造と﹁型﹂﹂を改稿したものである︒なお紙数の関係上︑﹁第 する神として天皇の姿がうたわれた︒それは︑天皇を讃美する目的のために︑仙境吉野が利用されていたと言える︒もちろん︑吉野が豊かな自然を有することや生命に溢れた狩場であったこ

とにも由来するのかもしれない︒しかし︑歌の目的が天皇讃美

であった以上︑水銀鉱床や道教︑漢籍による神仙思想の影響か

ら吉野が選ばれたと考えるのが妥当であろう︒また︑仙境吉野

を詠み天皇を讃美するために︑﹁型﹂が形成され︑赤人︑金村︑家持とうたい継がれることである種のマニュアルが生まれたの

である︒

つまり︑﹃万葉集﹄吉野讃歌において吉野が仙境として描か

れたのは︑水銀鉱床︑そして道教による不老不死の願いによる

ものであったのである︒

注︵

一九九五年 1︶和田萃著﹃日本古代の儀礼と祭祀・信仰・下﹄塙書房・

界﹂講談社・一九九〇年 2︶上田正明著﹃吉野︱悠久の風景﹄足利健亮著﹁吉野という世

3︶伊藤博編﹃萬葉集釋注一﹄集英社・一九九五年

4︶橋本達雄著﹃万葉集の時空﹄笠間書院・二〇〇〇年

5︶土橋寛著﹃古代歌謡論﹄三一書房・一九六〇年

6︶橋本達雄著﹃万葉集の作品と歌風﹄笠間書院・一九九一年

7︶注

5に同じ

8︶福永光司著﹃道教と日本文化﹄人文書院・一九八二年

9︶注

3に同じ

10︶注

4に同じ

11︶注

1に同じ

(17)

四章﹃懐風藻﹄に見る吉野の姿﹂︑と﹁第五章﹁仙境﹂吉野の形成﹂は割愛した︒

︵おおくぼ  たかひろ︑令和二年度国文学科卒業生︶

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