日本國際問題研究所

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(1)

稿

いし ゐの ぞむ

(石 井望

) 長崎 純心 大學 准教 授

〔 成 果 概 要 〕

島名 出現 以前 の海 域覇 最古 の島 名《 釣魚 嶼》 を何 ぴと が命 名し たか 不明 だが

、更 に 早い 年代 の尖 閣海 域覇 權の 状態 を探 索す ると

、琉 球側 が命 名し た確 率が 壓倒 的に 優勢 であ る。 モン ゴル 元國 の時 代、 八重 山沖 繩で は既 に福 建白 磁を 輸入 開 始し てゐ たが

、同 時代 の福 建史 料で は琉 球( 沖繩

)航 路は 完全 に縹 渺不 可知 の地 とさ れて ゐた

。よ って 琉球 人が 先に 船に 白磁 を積 んで 尖閣 海域 を渡 航し てゐ たと 分か る。 福建 文人 黄澤 の記 録に よれ ば、 第一 囘遣 使楊 載の 船中 のパ イ ロッ トは 福建 人で はな い。 福建 人以 外で は琉 球パ イロ ット のみ これ に擬 し得 るの で、 琉球 パイ ロッ トが 最初 から 尖閣 航路 を導 引し たと 考へ られ る。 黄澤 著の 原寫 本は 福建 省圖 書館 に藏 せら れ、 數葉 のみ 公開 され てゐ るが 今後 全本 を求 める べき であ る。 數十 年來 の定 説は

、琉 球國 初葉 の四 大宰 相亞 蘭匏

・程 復・ 王 茂・ 懷機 が全 てチ ャイ ナ人 だっ たと する

。よ って 俗論 でも 琉球

の一 切を 明國 が握 った かの 如き 説が 盛ん に散 布さ れ、 乃至 尖閣 覇權 をも 握ら れて ゐた 印象 を産 んで ゐる

。し かし 今次 探索 によ り亞 蘭匏 は《 えら ぶ》

(沖 永良 部)

、懷 機は

《ご えく

》( 越 來、 沖繩 中部

)で あり

、明 國人 では ない こと をほ ぼ確 定し た。 さら に「 四庫 全書

」中 の史 料に より

、琉 球唐 人程 復の 宰相 位 は明 國側 の虚 構職 に過 ぎず

、實 情は 秘書 官と して 位階 の低 いま ま明 國に 歸郷 した こと が分 かっ た。 王茂 も大 同小 異と 考へ られ る。 その 後も 唐人 は琉 球王 府の 實權 を握 るこ とは 無か った

。 西暦 十六 世紀 初葉 にポ ルト ガル 航海 士が マラ ッカ に來 航し

、 作成 した 地圖 に臺 灣島 が載 り、 情報 源は 東南 アジ アの 倭寇 的琉 球人 と考 へら れる

。臺 灣島 東岸 を航 行し て全 島外 周の 形状 を理 解せ ねば この 圖を 作り 得な い。 後に 朱印 船時 代に もこ の島 形認 識を 繼承 し、 臺灣 東南 側の 離島 にシ マと 名づ ける に至 った

。 西暦 千五 百二 十三 年の 寧波 の亂 に際 し、 福建 側は 琉球 の武 力 を警 戒し

、琉 球の 使者 を通 じて 日本 と調 停を 謀っ た。 その 十餘 年後 に陳 侃が 琉球 に渡 航し たの は、 警戒 のた め琉 球事 情を 偵察 する のが 目的 の一 つと 考へ られ る。 陳侃 が琉 球パ イロ ット の導 引の もと で最 古の 尖閣 島名

《釣 魚嶼

》に 出逢 った のは 偵察 の成 果で あり

、尖 閣が 琉球 文化 領域 に屬 して ゐた こと を示 す。 琉球 の海 洋覇 權は 福建 沿岸 まで 覆ひ 盡く し、 尖閣 最古 の釣 魚 嶼も 琉球 名で あっ た可 能性 が高 い。

(2)

〔 詳 解 〕

〈尖 閣最 古の 島名 出現 の背 景〉 尖閣 の最 古の 島名

《釣 魚嶼

》は 西暦 千五 百三 十四 年陳 侃「 使 琉球 録」 中に 見え る。 琉球 國の 派し た司 針( パイ ロッ ト) 人員 が導 引し て明 國船 が釣 魚嶼 海域 を渡 航す る

。琉 球和 名イ ヨコ ンの 漢譯 であ らう が、 但し その 年に 琉球 國が 派し た船 員は 主に 三十 六姓 の《 善く 舟を 操る 者》 であ ると 陳侃 は明 記す る。 三十 六姓 の祖 先は 福建 から 來て 那覇 久米 村に 集ま り住 んで ゐた

。中 華人 民共 和國 の多 數派 の見 解で は、 三十 六姓 等の 福建 の族 裔が 釣魚 嶼航 路の 知識 を琉 球に 持ち 込む とと もに 司針 に任 ぜら れた とし てゐ る。 假に 當初 琉球 人が 釣魚 嶼航 路を 熟知 せず

、福 建人 が先 に掌 握 した とす れば

、な ぜ陳 侃の 東渡 の時 に福 建地 元で は既 に琉 球航 路知 識を 喪失 して ゐた のか

。な ぜ陳 侃以 後、 册封 船が 東渡 する たび に必 ず三 十六 姓の 導引 に頼 り、 密室 まで 設け て優 遇し

、福 建本 土の 船員 に司 針を 任せ なか った のか

參照

〃拙 著「 尖閣 反駁 マニ ュア ル百 題」

、集 廣舍

、平 成二 十 六年 五月

參照

〃拙 著《 歐洲 史料 尖閣 獺祭 録》 第百 囘、 平成 二十 九年 一 月十 四日

、「 八重 山日 報」

島名 の沿 革及 び密 室導 引等 の状 況を 見れ ば、 答へ はす でに 明 白で ある

。琉 球國 は先 に島 名、 地理 及び 航路 を掌 握し てを り、 その 後で 知識 を三 十六 姓に 授け たの であ る。 但し 造船 操船 は福 建が 優れ てを り

、分 業を 成し てゐ た

。陳 侃は 福建 の耆 民の 家で 過海 の事 宜を 得た が往 來の 海道 を得 られ なか った

其の

但し 琉球 造船 が一 方的 に劣 って ゐた わけ では なく

、李 氏朝 鮮 では 琉球 國船 匠の 造船 術を 閲試 した 上で 製造 を命 じた

。朝 鮮實 録世 宗十 二年

(西 暦千 四百 三十 年) 陰暦 五月 十九 日に

《江 南、 琉球

、南 蠻、 日本 諸國 の船 は堅 緻輕 快な り》 と評 し、 十五 年、 十六 年の 間( 西暦 千四 百三 十三 年、 三十 四年

)に 造船 の記 述が 見え る。 現代 の先 行研 究あ り。

分業 につ いて は拙 著《 釣魚 嶼史 三議

》、 平成 二十 八年 二月 二 十五 日、 東京 財團

・社 會科 學院 日本 研究 所、 第四 囘東 海論 壇。 石平

「眞 實の 尖閣 史」 第一 章、 第四 十四 頁、 扶桑 社、 平成 二十 九年

。拙 著《 丁酉 戊戌 東方 學四 章》

、「 純心 人文 研究

」第 二十 五號

、第 四及 第九 頁、 平成 三十 一年

陳侃

「使 琉球 録」 附《 謹題 す、 咨訪 を周 くし て以 て採 擇に 備 へる 事の ため なり

》に 曰く

、《 造船 並び に過 海の 事宜

、皆 な耆 民の 家に 訪ね てこ れを 得た り。 往來 の海 道、 交祭

(際

)の 禮儀 に至 って は、 皆な 從り て詢 問す る無 し》 と。

(3)

一を 得て 其の 二を 得な かっ たの だか ら、 過海 の事 宜は 航海 術で あり

、往 來の 海道 は琉 球ま での 中間 の航 路で ある

。航 海術 と航 路導 引と を分 業し てゐ たこ とが 分か る。 しか しこ れに 滿足 せず

、更 に遡 って 西暦 十四

、十 五世 紀の 那 覇福 建間 の海 洋覇 權が 誰の 手に 掌握 され てゐ たの か考 へる べき であ る。 覇權 を掌 握す れば 自づ と地 理、 島名 及び 航路 等の 知識 を掌 握し 得る から であ る。

〈琉 球明 國間 の和 議〉 尖閣 島名 出現 以前 の歴 史は 現代 國際 法に 關は らな いが

、島 名 出現 の背 景は 理解 する 必要 があ る。 元明 革命 期、 浙江 の方 國珍 や福 建の 陳友 定ら が沿 海に 割據 し、 敗殘 後も 餘黨 が前 期倭 寇と 聯合 した ため

、朱 元璋 は討 伐に 苦心 して ゐた

。こ の時 期の 倭寇 は朝 鮮半 島及 び山 東省 を勢 力域 とし たの みな らず

、福 建沿 岸に も進 出し た。 南京 の朱 元璋 は洪 武元 年( 西暦 千三 百六 十八 年) に一 齊に 使 者を 諸外 國に 派遣 し、 明國 の天 下を 諸國 に昭 告し たが

、日 本に は南 北朝 動亂 のた め遲 れて 洪武 二年

(西 暦千 三百 六十 九年

)と 洪武 三年

(西 暦千 三百 七十 年) に使 者楊 載を 派遣 し、 二度 目に 日本 から 歸國 した のは 洪武 四年

(西 暦千 三百 七十 一年

)陰 暦十

月で ある

そし て三 か月 後の 洪武 五年

(西 暦千 三百 七十 二年

)陰 暦正 月 中旬 に、 楊載 は慌 ただ しく 今度 は琉 球に 派遣 され

、琉 球と 和議 して 倭寇 を牽 制せ んと 急い だ。 急ぎ なが ら遲 れた 原因 につ い て、 朱元 璋の 詔諭 は《 琉球 は遠 く海 外に 在る がゆ ゑに 派遣 が遲 れた

》と 述べ たこ とが 顯著 であ る。 この 時代 まで チャ イナ では 臺灣 と沖 繩と の區 別が つか ずに 併せ て流 求と 呼ん でゐ た。 モン ゴル 元國 では 瑠求

(琉 求の 異體 字) と呼 んで 使者 を派 遣し た が、 到達 した 地が 瑠求 か否 かも 分か らな かっ た。

「皇 明實 録」 洪武 四年

(西 暦千 三百 七十 一年

)陰 暦九 月辛 未、 洪武 帝は 隋の 煬帝 が琉 球を 征討 した 故事 を引 き民 亂の 源と して 戒諭 した

。文 中で 海外 の未 服從 の國

(琉 球) を《 阻山 越 海》

(島 と海 を隔 てる

)と 形容 する

。こ の時 海外 諸國 は既 に多 く朝 貢を 開始 して ゐた

。し かし 元國 が瑠 求の 地を 得ら れな かっ た前 事も 遠か らず

、こ の時 點で は明 國朝 廷は 琉球 との 間で 朝貢 册封 の約 を締 結で きる と期 待し てゐ ない

。そ の原 因を 洪武 帝み づか ら辯 解し たの がこ の戒 諭の 主旨 であ る。 とこ ろが 翌月

、楊 載が 歸國 する や明 國朝 廷は 俄か に締 約を 急い だ。 三か 月で すぐ

今枝 愛眞

・村 井章 介《 日明 交渉 史の 序幕

》、

「東 大史 料編 纂 所報

」第 十一 號。

(4)

にま た楊 載を 派し

、餘 人を 派し なか った 所以 は、 日本 が楊 載に 沖繩 情報 を提 供し

、且 つ沖 繩を 琉球 と呼 んだ と考 へら れる

。 史料 に使 節楊 載を 記載 した のは 胡翰

《楊 載に 贈る の序

》も 著 名で ある

胡翰 は駙 馬王 公( 王恭

)が 楊載 に清 廉潔 白を 失ふ 勿れ と戒 めた こと を述 べ、 東夷

(琉 球や 日本 内地 など

)に 財寶 があ ふれ

、使 節は 賄賂 を受 ける 恐れ あり とし てゐ る。 琉球 が贈 賄す ると いふ 説は これ 以前 には 無か った

。琉 球が 既に 富を 蓄へ てゐ て、 倭寇 と區 別せ ずに 憂慮 した ので あら う。 反朱 元璋 の餘 黨が 福建 倭寇 と聯 合し て巨 額資 金を 得て ゐた こと もこ こか ら推 測で きる

。 王恭 は洪 武三 年( 西暦 千三 百七 十年

)正 月に 福建 省參 政( 副 省長

)に 欽任 され

、洪 武四 年( 西暦 千三 百七 十一 年) に福 州に 鎭守 して 城壁 を修 築し た

。倭 寇防 衞の ため に洪 武皇 帝が 授け た要 務で ある

。年 譜に まと めれ ば以 下の 通り

(括 弧内 のア ラビ ア數 字は 西暦 年)

原文 及び 書き 下し 文は

、鄙 著《 漢文 教材 拾零 和訓

》、 長崎 純 心大 學「 教職 課程 セン タ〡 紀要

」第 五號

、令 和三 年三 月。

「皇 明實 録」 洪武 三年 正月 癸巳

、及 び黄 仲昭

「八 閩通 志」 卷 十三

《地 理・ 城池

・福 州府

・府 城》

、卷 三十

《秩 官・ 鎭守

・國 朝》 など に見 える

。鎭 守は 明國 初葉 の地 方軍 長官

洪武 二年

(1 36 9)

、楊 載を 日本 に派 遣。 楊載 歸國

、南 京で 胡翰 に會 ふ。 三年

(1 37 0) 正月

、洪 武帝

、王 恭を 福州 高官 に任 命す

。 この 年、 楊載 を再 度日 本に 派遣 す。 四年

(1 37 1) 十月

、楊 載、 日本 から 再度 歸國 す。 五年

(1 37 2) 正月

、楊 載を 琉球 に派 遣す

。 この 年春 夏の 間、 楊載

、使 行の 途次 に福 州で 王恭 に謁 見す

。 この 年七 月、 琉球 使節

、楊 載の 歸國 と同 行し て福 建に 渡航 す。 この 秋、 胡翰

、浙 江省 太末 縣で 琉球 使節 と楊 載の 一行 に會 ふ。 この 年十 二月

、琉 球使 節、 南京 に朝 貢す

。 六年

(1 37 3) 以後

、胡 翰、 楊載 に文 を贈 る。 洪武

五年 から 琉球 は明 國と 朝貢 形式 の貿 易を 始め る。 琉球 は 半ば 倭寇 の如 く、 海賊 と商 人と の兩 側面 を含 んで をり

(後 述)

、明 國が 安定 すれ ば官 許下 で通 商を 望み

、明 國側 も頑 強な 琉球 と和 議を 結ぶ 必要 があ った

。近 二三 年來

、筆 者は これ を琉 球倭 寇と 呼ん でゐ る。 朝貢 開始 から 明國 は琉 球を 大い に優 遇し

、船 舶多 數を 無料 で 琉球 に與 へた

。優 遇の 目的 が推 測し 難い とし て議 論久 しく

、日 本を 牽制 する ため だと する 説が 近年 多い が

、琉 球自 身が 頑強

主な 研究 は、 岡本 弘道

《明 朝に おけ る朝 貢國 琉球 の位 置附 け

(5)

な武 力で なけ れば 牽制 の効 果を 達し 得な い。 この 時代

、賊 船出 沒す る中 で武 力脆 弱で は渡 海貿 易も 不可 能で ある

。實 際は 明國 が琉 球倭 寇に 打ち 克て ない ため

、皇 帝か ら琉 球に 船舶 等を 獻上 して 和議 の代 價と した とい ふ解 釋の み通 じ得 る。 さら に宦 官勢 力も 通商 の利 潤の ため に琉 球優 遇を 維持 した

(後 述)

〈洪 武初 年に 琉球 人が 尖閣 航路 を傳 授し た〉 西暦 千四 百六 十六 年、 福州 文人 黄澤 作《 通事 梁應 の奉 使し て 琉球 に還 るを 送る の序

》に は、 久米 村三 十六 姓唐 人梁 應の 祖父 某が 福建 海岸 に住 んで 水先 案内 を生 業と した こと を述 べる

(圖 版一

)。 まづ 和訓 は以 下の 通り

とそ の變 化》

、「 東洋 史研 究」 第五 十七 卷第 四號

、平 成十 一 年。

《( 上略

)其 の上 世に 諱某 なる もの 有り

、海 濱に 居し

、測 候 を善 くし て利 渉の 術を 兼ぬ

。皇 明、 命を 受け

、天 下、 仁に 歸 する に、 この 國乃 ち閩 海の 外に 在り

、風 帆の 便、 七晝 夜を 歴

(へ

)て 至る べし

。上 に三 山あ り、 極め て其 れ廣 遠な り。 俗、 諸蕃 にく らべ て馴 とな す。 洪武 の初 め、 はじ めて 正朔 を 奉じ て藩 を稱 す。 某、 航海 の通 道を なし て以 て入 貢す

。朝 廷 これ を嘉

(よ

)み し、 錫( たま

)ふ に王 爵を 以て して 其の 山 川を 望祀 す。

(下 略)

》 圖版

一 黄澤

「旂 山翁 文集

」卷 三下 より

、《 送通 事梁 應奉 使還 琉球 序》

、福 建省 圖書 館藏 清國 寫本

。平 成二 十六 年海 軍出 版社

「琉 球文 獻史 料彙 編」 明代 卷第 四十 七頁 所收

(6)

と。 これ によ れば

、洪 武帝 開國 の時

、福 建か ら琉 球三 山ま で遙 かに 七晝 夜の 航程 であ った

。琉 球は 明國 へ朝 貢を 開始 し、 梁應 の祖 父は 航海 通導

(パ イロ ット

)を つと めた

。そ して 皇帝 は王 爵を 琉球 に賜 予し

、琉 球の 山川 を遠 く祀 った

。航 路導 引の 最も 早い 記録 であ り、 中華 人民 共和 國の 虚僞 宣傳 に利 用さ れ易 いで あら うが

、幸 ひに まだ 手段 とし て使 はれ てゐ ない

。 洪武 五年

(西 暦千 三百 七十 二年

)、 琉球 海路 不案 内な がら や っと 楊載 を遣 使し たこ と前 述の 通り

。「 皇明 實録

」同 年十 二月 によ れば 復路 は中 山王 察度 の貢 使と 同時 渡海 であ る。 そし て

「皇 明實 録」 の翌 月( 洪武 六年

、西 暦千 三百 七十 三年

、陰 暦正 月)

、明 國朝 廷は 琉球 すで に入 貢せ りと して 其の 山川 を望 祀し た。 從っ て梁 應の 祖父 の導 引は 望祀 の前 の洪 武五 年朝 貢を 指 す。 この 望祀 は導 引の 年代 を證 する のみ なら ず、 黄澤 の記 述の 信憑 性を 高め てゐ る。 王爵 及び 望祀 につ いて は後 文に 考證 す る。 梁氏 の家 譜に は、 族祖 梁添 が洪 武の 末に 琉球 に移 民し たと あ り

黄澤 の記 述で も老 いて 子の 梁回 と交 替し た後

、永 樂中 に梁 回は 職階 が累 昇し たと する

。兩 記載 を併 せれ ば梁 應の 祖父

《呉 江梁 氏家 譜》

、「 那覇 市史

」資 料編 第一 卷六

、《 家譜 資料

》二

、第 七百 五十 三頁

梁添 が洪 武五 年か ら約 二十 年間 福建 に居 住し て導 引に 從事 した 後に 琉球 に移 民し たと 分か る。 他の 多く の史 料で 洪武 二十 五年 に皇 帝は 三十 六姓 を琉 球に 賜予 した とす る説 は、 黄澤 の記 述に よっ てほ ぼ補 證し 得る

。 洪武 詔勅 傳達 は輝 かし い事 跡で あり

、か りに 梁應 の祖 父が 欽 命使 楊載 の航 路を 導引 した なら ば榮 耀無 比で あら う。 しか し黄 澤は それ を述 べず

、東 から 西へ 琉球 使の 朝貢 を導 引し たと だけ 述べ るの で、 西か ら東 へ楊 載の 往路 を導 引し なか った こと が分 かる 西 。 行き は大 陸棚 を北 寄り に横 斷し

、南 の尖 閣を 通ら ない のが 後の 歴代 の通 例で ある

。梁 應の 祖父 が東 から 西へ のみ 導引 した 所以 は、 船が 福建 沿岸 列島 線を 越え て西 側の 大陸 に入 港す る際 に海 岸の 岩礁 が曲 折し て危 險の ため

、地 元の パイ ロッ トを 必要 とす るの であ る。 西か ら東 へ楊 載の 往路 を別 の福 建人 が導 引し

、梁 應を 任用 し なか った 可能 性は ある かと いへ ば想 定し にく い。 往復 路で パイ ロッ トが 福建 人か ら福 建人 に交 替す る理 由が 無い

。 よっ て西 から 東行 きの 尖閣 航路 では 元か ら別 種の 人々 が七 晝 夜を 導引 して ゐて

、福 建人 では なか った こと が分 かる

。そ れは 琉球 人に 外な らな い。 さら に推 測で きる のは

、初 期に 琉球 パイ ロッ トが 尖閣 航路 を唐 人に 傳授 した から こそ

、後 に久 米村 の唐

(7)

人が 福建 から 東に 琉球 へ導 引を 職務 とし 得た のだ らう

。 わづ か三 か月 の決 定で 楊載 を渺 茫不 可知 の琉 球に 派遣 し、 半 年以 内に 渡航 でき た所 以も

、こ れに より 思ひ 半ば に過 ぎる

。そ の時 既に 福州 から 琉球 まで 毎夏 の便 船が 存在 した 筈で あり

、楊 載は 例船 に便 乘し た可 能性 が極 めて 高く

、船 中の パイ ロッ トは 福建 人で はな かっ た。 黄澤 が朝 貢開 始を 述べ る前 に七 晝夜 の語 を先 に出 す所 以は

、 洪武 帝の 勅諭 が楊 載派 出前 に琉 球を

《阻 山越 海》

《遠 處海 外》 と形 容し

、そ れを 承け て出 た語 であ らう

。し かし 黄澤 は具 體的 に七 晝夜 とし て、 洪武 帝の 形容 を單 純に は承 襲し なか った

。實 情と して 久し く前 から 航路 が通 じて ゐた がゆ ゑだ らう

。風 帆に 便あ りと は定 期通 船で ない とし ても

、通 常往 來航 路が 有る こと が知 られ てこ そ便 と呼 ぶ。 さも なけ れば 七晝 夜は 風帆 の阻 とな って しま ふ。 航路 が通 じて ゐな がら 洪武 帝の 遣使 が遲 滯し た原 因は

、便 船が 福建 人に 屬せ ず、 琉球 倭寇 が擁 した がゆ ゑに

、航 路の 詳細 や乘 船の 可否 につ いて 容易 に知 り得 なか った のだ ら う。

「元 史」 瑠求 傳に よれ ば、 福建 から 楊祥

・呉 志斗 らを 派遣 し て瑠 求( 流求

)を 搜し 求め たが

、達 した 地が 瑠求 であ るか 否か 不詳 に終 った

。實 際に 到っ たの は臺 灣西 南部 のや うで はあ る が、 今日 から 言へ ば臺 灣で あれ 沖繩 であ れ、 遠く 求め て得 られ

ぬ遐 陬だ った ので ある

。前 述の 胡翰 の序 は「 元史

」成 書か ら久 しか らず して 撰せ られ

、楊 載が 琉球 に出 使す るの は呉 誌斗 が未 到の 壯舉 とし て贊 へる

。胡 翰の 基本 認識 もま た琉 球を 遙か に知 られ ざる 地と して をり

、沖 繩と 臺灣 とを 區別 でき てゐ ない

。 福建 語の 針路 簿「 順風 相送

」は 卷前 に永 樂元 年序

(西 暦千 四 百三 年) を冠 する が、 卷下 が西 暦千 五百 七十 三年 以後 に成 り、 澎湖 以東 の呂 宋、 琉球

、日 本航 路を 載せ る。 しか し卷 上及 び卷 首は 早い 年代 に成 り、 專ら イス ラム 式航 法の 印度 洋航 路を 主と して

、琉 球航 路を 載せ ない

。こ れも また 福建 人が 早い 年代 に琉 球航 路情 報を 持た なか った こと を示 して をり

、黄 澤・ 梁應 の敘 述と 一致 する

。 考古 學の 動向 は恰 もこ れに 符合 する

。平 安期 から 鎌倉 前半 葉 まで

、多 數の 唐船 が博 多に 來航 して 陶磁 器等 を交 易し

、そ の關 聯遺 物( 薩摩 塔、 碇石 を主 とす る) は博 多か ら南 島へ 南下 する 流通 の方 向性 を示 して ゐる が

逆に 福建 から 琉球 弧に 沿っ

日本 會議

「日 本の 息吹

」連 載《 中國 の尖 閣領 有權 の妄 説を 撃つ

、釣 魚島 史の 代表 的漢 籍に 照ら して も尖 閣は 日本 の領 土で ある

》第 四囘

《オ ック スフ ォ〡 ド寫 本で 新事 實、 14 03 年に 釣魚 嶼な し》

、平 成二 十五 年七 月。

參照

〃柳 原敏 昭《 中世 初期 日本 国周 縁部 にお ける 交流 の諸

(8)

て北 上し た方 向性 は見 られ ない

。し かる に西 暦十 三世 紀後 半の ほぼ 元寇 年代 から 南北 朝前 半葉 まで の間

、博 多か ら九 州西 岸を 南下 する 遺物 は急 減し

、別 途南 島路 沿ひ に宮 古八 重山 から 沖繩 島に 至る まで 福建 粗製 白磁 が流 通し た。 この 特色 ある 福建 白磁 は今 歸仁 式、 ビロ

〡ス ク式 と呼 ばれ

、九 州方 面の 磁器 分類 法と 異な る。 この 時期 の南 島路 の白 磁は 流量 さほ ど多 から ず、 琉球 の地 元人 はこ れを 生活 雜貨 とし て消 費し

、九 州へ の轉 賣を 主要 目的 とし なか った やう であ る

白磁 を自 家消 費す るに は購 入す るだ けの 資金 を要 し、 琉球 は既 に古 來の 夜久 貝輸 出乃 至後 の東 南ア ジア 貿易 で富 を蓄 へて ゐた 筈で ある

。前 述の 胡翰

相》

、「 専修 大学 社会 知性 開発 研究 セン タ〡 古代 東ユ

〡ラ シア 研究 セン タ〡 年報

」第 三號

、平 成二 十九 年。 高津 孝等 共著

「 南 西諸 島現 存碇 石の 産地 に関 する 一考 察」

『 鹿児 島大 学法 文学 部紀 要人 文学 科論 集」 第七 十二 號、 平成 二十 二年

參照

〃木 下尚 子等 共著

、平 成十 七至 二十 年度 科學 研究 費補 助金 基盤 研究

(A

)( 2) 研究 成果 報告 書《 13

~

14 世紀 海上 貿易 から みた 琉球 国成 立要 因の 実証 的研 究〡 中国 福建 省を 中心 に〡

》。

西暦 十四 世紀 にチ ャイ ナが 琉球 船か ら輸 入し た貨 物品 目は

「皇 明實 録」 洪武 二十 三年

(西 暦千 三百 九十 年) 陰暦 正月

、馬

が琉 球人 の賄 賂を 警戒 した のは

、白 磁夜 久貝 貿易 が背 景と なっ てゐ ただ らう

。「 元史

」の

《瑠

》字 は琉 の異 體で あり

、玉 偏が 示す かも 知れ ない のは 沖繩 側が 夜久 貝を 福建 に輸 出し てゐ たこ とで あら う。 この 時期 に南 島路 を渡 航し た船 乃至 パイ ロッ トは 琉球 に屬 す るか 福建 に屬 する か、 考古 學界 の見 解は 確定 しな いが

、胡 翰、 楊載

、黄 澤、 梁應 及び

「元 史」

、「 順風 相送

」の 記録 によ り、 福建 側が 琉球 航路 を知 らず

、琉 球側 がパ イロ ット 乃至 船隻 を擁 した と結 論す べき 可能 性が 益々 高い ので ある

及び 硫黄 とと もに 蘇木

・胡 椒・ 乳香 が見 える

。既 に東 南ア ジア 貿易 を開 始し てゐ たこ とを 示す

。後 の「 大明 會典

」卷 百十 三

《給 賜番 夷通 例》 にも 蘇木

・胡 椒が 見え る。 參照

〃岡 本弘 道

《琉 球王 国の 交易 品と 琉球 弧の 域内 連関

》、 佐々 木史 郎・ 加藤 雄三 編「 東ア ジア の民 族的 世界

」所 收、 有志 舍、 平成 二十 三 年。

琉球 地元 が主 體と なっ た可 能性 を推 測す るの は新 里亮 人

「琉 球国 成立 前夜 の考 古学

」第 八十 三頁

、同 成社

、平 成三 十年 福建 が主 體と なっ た可 能性 を推 測す るの は木 下尚 子《 琉球 列島 にお ける 先史 文化 の形 成と 人の 移動

》、 熊本 大學

「文 学部 論 叢」 第百 三號

、第 二十 五頁

、平 成二 十四 年。

(9)

〈最 初に 西往 きの み導 引し たと いふ 三十 六姓 の共 通認 識〉 たと ひ梁 應の 口述 の實 否を 疑ふ とし ても

、尖 閣航 路の 最初 の 導引 者が 福建 人以 外の 何者 かだ った とい ふ觀 念が

、西 暦千 四百 六十 六年 の時 點で 三十 六姓 の間 に確 かに 存在 した こと は否 定で きな い。 この 認識 は梁 應個 人の みな らず 普遍 的で あり

、後 に洪 武中 の 移住 唐人 に關 する 史料 は全 て當 初の 朝貢 を述 べる のみ で、 楊載 詔諭 傳達 を唐 人が 導引 した と述 べな い。 恰好 の例 證と して 萬暦 三十 五年

(西 暦千 六百 七年

)陰 暦十 二月 十九 日、 夏子 陽か ら琉 球國 王へ の公 文に 洪武 年間 の朝 貢を 述べ て曰 く、

《入 貢航 海、 風濤 叵測

。彼 參拾 陸姓 者、 能習 知操 舟、 以爲 導引

。》

(入 貢に 海を 航し

、風 濤測 るべ から ず。 かの 三十 六姓 は、 よく 操舟 を習 知し

、以 て導 引を 為す

。) と

これ は洪 武中 のど の年 次と 明指 しな いが

、洪 武の 創例 につ いて

、琉 球か ら福 建へ 朝貢 を導 引し たと だけ 述べ て、 册封 使を 福建 から 琉球 へ導 引し たと 述べ ない のは 梁應 の口 述と 同じ であ り、 兩者 は同 轍に 出る かの 如く であ る。

「歴 代寶 案」 第一 集卷 七、 第十 三件

。參 照〃 いし ゐの ぞむ

「尖 閣反 駁マ ニュ アル

」第 百五 十一 至百 五十 二頁

夏子 陽と 同年 同月 の十 三日

、尚 寧王 から の上 奏の 大意 とし て は、 これ より 先萬 暦二 十三 年と 二十 九年 に琉 球人 が福 建か ら琉 球に 歸る 際、 福建 のパ イロ ット 阮國

・毛 國鼎 によ る導 引を 求め てや っと 渡海 でき たと 述べ るが

、其 の實 尚寧 王は 德川 氏及 び島 津氏 の意 を承 けて 明國 貿易 擴大 を求 める ため に謀 計し て無 知を 裝っ たに 過ぎ ず、 阮毛 二名 は既 に久 米村 の官 吏に 任命 され てゐ た。 久米 村の 口述 傳説 によ れば

、琉 球王 府が 阻止 して 毛國 鼎を 福建 に歸 さな かっ たと され

、謀 計の 一斑 を見 るこ とが でき る

別の 例と して

「皇 明實 録」 成化 五年

(西 暦千 四百 六十 九年

) 陰暦 三月 によ れば 三十 六姓 の蔡 璟の 祖父 が《 洪武 初》 に琉 球國 に派 遣さ れ、

《導 引進 貢、 授通 事》

(進 貢を 導引 し、 通事 を授 けら る) とい ふ。 蔡氏 家譜 と併 せ考 へれ ば洪 武初 とは 洪武 二十 五年 の三 十六 姓賜 予を 指し

、洪 武初 は明 初の 洪武 年間 とい ふほ

「歴 代寶 案」 第一 集卷 四の 第五 件に 見え る。 參照

〃和 田久 徳等

「明 実録

」の 琉球 史料

》第 三册 第七 十六 至七 十七 頁、 沖 繩縣 文化 振興 會公 文書 管理 部史 料編 集室 編、 平成 十八 年。

伊波 普猷

《淨 土眞 宗沖 繩開 教前 史》

、「 明治 聖德 記念 學會 紀要

」第 二十 六號

、第 十頁

、大 正十 五年

(10)

どの 意に 過ぎ ない

。と はい へ册 封を 導引 した ので なく 朝貢 を 導引 した 記述 は黄 澤と 異な る所 が無 い。 歴代 諸史 料中

、福 建の パイ ロッ ト( 歸化 三十 六姓 を含 まず

) が東 に琉 球へ 自力 で導 引し た記 録は 存在 せず

、導 引で きな かっ た記 録だ け存 在す る。 更に 福建 沿岸 の馬 祖列 島か ら早 くも 琉球 パイ ロッ トが 導引 を開 始し た記 録も 存在 する

。 西暦 千五 百三 十四 年最 古の 釣魚 嶼よ り更 に前 につ き、 尖閣 航 路を 誰が 先に 掌握 した かが 近年 の爭 點で ある

。今 黄澤

・梁 應の 具體 的敘 述に より 洪武 初年 に琉 球人 が既 知の 航路 を三 十六 姓に 傳授 した こと がほ ぼ明 白と なっ た。 この たび の大 きな 成果 であ る。 黄澤 の原 序を 收め る「 旂山 翁文 集」 は福 建省 圖書 館藏 の孤 本

蔡氏 家譜

(儀 間家 及び 具志 家) にも とづ けば 祖父 の年 代は 蔡崇 であ り、 洪武 二十 五年 に三 十六 姓の 一と して 琉球 に賜 予さ れて ゐる

。「 那覇 市史

」資 料編 第一 册六 上《 蔡氏 家譜

》、 第二 百三 十五 頁及 び二 百九 十三 頁等

。參 照〃 小葉 田淳

「中 世南 島通 交貿 易史 の研 究」 第百 八十 四頁

、昭 和十 四年

、日 本評 論社

參照

〃石 平「 眞實 の尖 閣史

」( 扶桑 社、 平成 二十 九年

)第 四十 七至 五十 頁、 など

であ るが

、陜 西師 範大 學出 版社

《漢 籍數 字圖 書館

》デ

〡タ ベ〡 スの 目録 中に 見え るの で、 百萬 圓を 以て 購入 すれ ば數 萬種 の漢 籍と とも に閲 覽で きる こと とな り、 極め て有 益で あら う。 目下 は海 軍出 版社 の史 料彙 編内 の數 葉に 賴る のみ であ る。 海軍 出版 社の 史料 彙編 が刊 され て後

、平 成二 十七 年十 月五 日 に「 琉球 新報

」が 報じ てを り、 その 中で 紹介 する 所收 新史 料一 則は 編者 謝必 震教 授( 福建 師範 大學

)の 發見 に係 り、 明國 の科 舉官 僚謝 肅の 詩《 蔡英 夫の 流求 國王 に印 寶を 頒す るを 送る

》で ある

。し かし この 詩は

「永 樂大 典」 卷三 千五 等諸 本に も多 々收 めら れ、

「四 庫全 書」 提要 で既 に蔡 英夫 派遣 の史 缺を 補ひ 得る と論 じら れて をり

、新 出史 料と は言 へな い。 なほ 前述 の王 爵及 び山 川祭 祀に つい て附 考す るこ と以 下の 通 り。

「皇 明實 録」 洪武 十六 年( 西暦 千三 百八 十三 年) 陰暦 正月 に洪 武帝 は察 度に 中山 王印 を與 へる が、 その 十餘 年前

、「 皇明 實録

」洪 武五 年( 西暦 千三 百七 十二 年) 陰暦 十二 月に 既に 察度 を中 山王 と呼 んで ゐる

。黄 澤の 敘述 は洪 武五 年に 察度 が王 爵を 獲得 した こと を示 し、 爵位 は印 綬と 同時 では ない

。首 里宮 殿の

《百 浦添 之欄 干之 銘》 には

《始 朝貢 於洪 武、 受王 爵於 永樂

書誌 は上 海古 籍出 版社

「中 國古 籍善 本書 目」 集部 上、 第五 百七 十二 頁、 昭和 六十 一年

(11)

(始 めて 洪武 に朝 貢し

、王 爵を 永樂 に受 く) とあ り、 村井 章介 氏は 永樂 を最 初の 王爵 記録 と認 定す るが

、そ の句 は對 偶の 互文 に過 ぎな い

琉球 山川 の望 祀は

「皇 明實 録」 洪武 六年 正月 に南 京で 始ま り、 洪武 八年

(西 暦千 三百 七十 五年

)陰 暦二 月に 日本 及び 渤泥

(ブ ルネ イ) とと もに 福建 に附 祭す るや う改 めら れた

。同 趣旨 の敘 述は 張廷 玉「 明史

」卷 四十 九《 吉禮 三・ 岳鎮 海瀆 山川 之祀

・其 他山 川之 祀》

、及 び乾 隆中 周煌

「琉 球國 志略

」卷 五《 山 川》 條な どに 見え る。 汪楫

「中 山沿 革志

」卷 一は 洪武 八年 の改 祀を 先に 述べ て、 次に 六年 の始 祀を 附記 する

。こ れを 承け て琉 球蔡 温「 中山 世譜

」卷 三な らび に「 球陽

」卷 一に はと もに 洪武 八年 のみ 記載 し、 洪武 六年 を省 略し た

しか し黄 澤は 王爵 賜予 の次 に望 祀を 述べ て連 續し てを り、 王爵 は洪 武六 年を 指 す。 近年 黒木 國泰 氏は 洪武 八年 に日 本の 預か り知 らぬ 内に 山川

沖繩 縣立 圖書 館藏

「琉 球國 碑文 記」 寫本 第十 葉《 百浦 添之 欄干 之銘

》。 村井 章介

《明 代《 冊封

》の 古文 書学 的検 討》

「史 學雜 誌」 第百 二十 七卷 第二 號、 平成 三十 年。

汪楫 の前 に明 末林 堯兪

「禮 部志 稿」 卷八 十四

《神 祀備 考・ 四夷 山川 祭法

》も 單獨 で洪 武六 年を 省く

が祭 られ たと する が

日本

(懷 良親 王) は洪 武四 年に 既に 遣使 入貢 した こと 上述 の通 りで あり

、渤 泥も 同年 八月 に入 貢し てゐ る。 明廷 が琉 球の 入貢 を待 って 山川 を祀 った こと は、 勝手 に祭 って 受祀 者と 沒往 來だ った ので はな い。

〈琉 球初 葉の 唐人 宰相 は虚 構〉 早期 琉球 國は 明國 人に よっ て建 てら れた かの 如き 俗談 が多 年 來流 布し てゐ る

それ にも とづ けば 琉球 の西 側の 尖閣 諸島 も明 國覇 權内 に屬 した こと にな り、 明國 人が 釣魚 嶼を 命名 した 説が 一定 の信 憑性 を帶 びる こと とな る。 特に 諸家 みな 早期 琉球 の四 大宰 相( 國相

・王 相) 亞蘭 匏・ 程 復・ 王茂

・懷 機は 歸化 唐人 だっ たと して

、ほ ぼ定 説と なっ てを り

尖閣 の歴 史的 形象 にま で滲 透し て阻 み難 い。 しか しこ

黑木 國泰

《壽 安鎭 國考

、册 封体 制小 論》

、「 宮崎 學園 短期 大學 紀要

」第 六號

、平 成二 十五 年。

テレ ビ朝 日系 列《 アベ マT V》 平成 三十 年一 月十 五日

《村 本が 問う

!テ レビ でそ もそ も論 は必 要?

》、 宮臺 眞司 氏談 話に 曰く

、《 もと もと

、琉 球王 朝っ てい ふの は中 國の 人達 が作 った 王朝 なん だよ ね》 と。

亞蘭 匏と 懷機 の唐 人説 の例 は、 外間 守善

「沖 縄の 歴史 と文 化」

、中 央公 論社

、第 五十 六頁

、昭 和六 十一 年。 豐見 山和 行

(12)

のた び探 索の 結果

、亞 蘭匏 及び 懷機 は琉 球人 の和 名で あり

、程 復及 び王 茂も 宰相 とな らな かっ たこ とが ほぼ 判明 した

。 程復 は江 西の 鄱陽 に生 まれ

、福 建に 移住 し、 西暦 千三 百七 十 一年 より 以前 に琉 球に 渡來 した

。程 復渡 琉後 の千 三百 七十 二年 に洪 武帝 は使 節楊 載を 琉球 に派 遣す る。

「皇 明實 録」 永樂 九年

(西 暦千 四百 十一 年) 陰暦 四月 によ れ ば、 程復 は琉 球で 四十 餘年 勤務 した 後、 八十 一歳 の高 齡を 以て 故里 鄱陽 に歸 隱し た。 歸郷 時、 永樂 帝は 琉球 王の 求め によ り程 復に 琉球 の國 相を 授與 した

。 この 時の 朝貢 正使

(大 使) は坤 宜堪 彌( くに かみ

、國 頭) で あり

、程 復は 副使 級で あっ た。 大使 を越 えて 就任 した 宰相 は、 虚構 職に 外な らな い。 程復 の前 に亞 蘭匏 が既 に王 相と して

「皇 明實 録」 洪武 二十 七 年( 西暦 千三 百九 十四 年) 陰暦 三月 に見 える

。條 文に は琉 球中

《統 一王 朝形 成期 の対 外関 係》

、琉 球新 報社

「新 琉球 史・ 古琉 球編

」第 百五 十頁

、平 成三 年。 村井 章介

「海 から 見た 戦国 日 本」

、筑 摩書 房、 第八 十七 頁、 平成 九年

。荒 木和 憲《 古琉 球期 王権 論、 支配 理念 と《 周縁

》諸 島》

、「 國立 歴史 民俗 博物 館研 究報 告」 第二 百二 十六 號、 第二 百六 十至 二百 六十 一頁

、令 和三 年。 外多 種。

山王 察度 の上 表と して

《王 相亞 蘭匏

、國 の重 事を 掌す

。》 とあ る。 これ に對 して 洪武 皇帝 は、

《王 相を 稱す るこ と、 もと の如 くせ しむ

。》 と返 答す る。 琉球 でも とも と獨 自に 王相 とし て任 命し てを り、 皇帝 から 下賜 され た職 では ない こと が分 かる

。 亞蘭 匏と 比較 すれ ば、 察度 が永 樂皇 帝に 程復 の昇 任を 求め た のは

、逆 に程 復が 國相 では なか った こと を示 す。 琉球 は頑 強な 倭寇 の威 武の 態を 以て 明國 に對 して 種々 の優 遇を 要求 した が、 國相 職の 虚名 はそ の一 種で あら う。 王茂 もま た程 復と 同時 に並 んで 皇帝 から 國相 を授 けら れた ので

、同 じく 名譽 職に 過ぎ な い。 程復 史料 は極 めて 稀覯 だが

、こ のた び《 琉球 の典 簿程 氏の 番 易に 歸る を賜 はる に贈 る》 と題 する 漢詩 一首 を索 得し た

程復 が歸 隱の 際に 福建 文人

・王 恭が 贈っ たも ので

、福 州長 官王

和訓 文及 び略 解は

、前 述の 鄙著

《漢 文教 材拾 零和 訓》 及び

《琉 球倭 寇及 長崎 朱印 船航 道貫 至尖 閣福 建南 洋》

、長 崎純 心大 學「 純心 人文 研究

」第 二十 七號

、令 和三 年二 月。 番易 は鄱 陽の 古音 であ り、 易は 等韻 喩紐 に屬 し、 鄱陽 の古 稱彭 蠡と 音通 とな る。

(13)

恭と 名同 人異 であ る。

「四 庫全 書」 に收 めら れな がら これ まで 程復 への 贈詩 だと 氣づ く人 は無 かっ たの で、 小さ から ぬ成 果と せね ばな らな い

王恭 は詩 で程 復を 典簿

(書 記官

)と 呼び

、國 相と 稱せ ず、 唐 の宰 相裴 度の やう な歸 老後 の富 貴は 必要 無い とし てゐ る。 裴度 の典 故が 示す のは

、永 樂帝 は確 かに 琉球 國相 の職 を授 予し た が、 實際 は清 貧の 文士 に過 ぎぬ がゆ ゑに

、國 相の 富貴 は必 要な いと 強調 する のだ らう

。 原詩 を收 める 王恭

「白 雲樵 唱集

」は

「四 庫全 書」 本の 外に 東 京の 靜嘉 堂に 陸心 源十 萬卷 樓舊 藏寫 本を 藏す る。 この たび 靜嘉 堂の 複製 フィ ルム を索 閲し たと ころ

(圖 版二

)、

「四 庫全 書」 に據 る重 寫本 であ った

。よ って

「四 庫全 書」 原本 を現 存孤 本と して よい

。 洪武 帝朱 元璋 の最 大の 勁敵 陳友 諒は

、西 暦千 三百 六十 三年 に 鄱陽 湖で 兩雄 逐鹿 の大 水戰 の結 果敗 死し

、朱 元璋 の天 下は 半ば 定ま った

。鄱 陽の 程復 は少 壯時 にこ の戰 役を 經驗 した であ ら う。 程復 が福 建に 移住 した のは 戰後 流浪 して 至っ たの かも 知れ ない

。こ のと き福 清の 人陳 友定 が福 建を 占據 して ゐた

。福 清は

參照

〃「 八重 山日 報」 談話 連載

《小 チャ イナ と大 世界

》第 四十 二囘

、令 和二 年九 月十 三日 第二 面。

沿海 ゆゑ 外に 倭寇 と通 じや すい

。か りに 程復 が福 建で 倭寇 に加 はり

、倭 寇の 船で 琉球 に渡 って 朝貢 貿易 の書 記に 任ぜ られ たと すれ ば條 理に 抵牾 しな い。 この 時期 の琉 球は 大量 の磁 器を 輸入 した こと 出土 遺物 が證 と なる が、 鄱陽 湖は 景德 鎭か ら遠 から ず、 程復 は琉 球で 故郷 の特 産磁 器の 目利 き役 をし たで あら う。 しか し程 復自 身は 清貧 であ り、 磁器 の巨 賈だ った とは 考へ にく い。 琉球 その もの が群 體と して 倭寇 的な 東イ ンド 會社 の如 くで あり

、程 復は そこ に書 記と して 加は った とす る方 が、 王恭 の詩 中の 清貧 の形 象に 合致 す る。 圖版

二 靜嘉 堂藏

、十 萬卷 樓舊 藏、 王恭

「白 雲樵 唱集

」卷 三、 第四 十七 葉《 贈琉 球典 簿程 氏賜 歸番 陽( 易)

》。

(14)

〈沖 永良 部の 倭寇

第二 に中 山王 相亞 蘭匏 は唐 人で なく 沖永 良部 島の 武門 と考 へ られ る。 亞は 現代 閩南 書面 字音 で《 ア》 と讀 むこ と他 邦と 異な らな いが

、等 韻の 假攝 二等

《家

、馬

、唖

、把

》は 閩南 で《 ケ、 ベ、 エ、 ペ》 と讀 むた め、 同攝 同等 の亞 の口 語古 音も

《エ

》と なり 得る

《蘭

》類 の字 の《 N》 尾音 は次 の字 と組 合せ で濁 音( Bや D など

)に 充當 され る場 合が 多く

、例 へば 平戸 は《 飛蘭 島》 と書 かれ る。 匏は 閩南 で《 PU

》と 讀む が、 N尾 と連 讀し て《 蘭 匏》 とな ると 濁音 の《 らぶ

》だ と考 えら れ、 亞蘭 匏は

《え ら ぶ》 とな る。

「皇 明實 録」 洪武 二十 五年

(西 暦千 三百 九十 二年

)陰 暦五 月 によ れば

、琉 球國 の民

《才 孤那

》ら が河 蘭埠 へ( 河蘭 埠か ら) 駕舟

(渡 海) して 硫黄 を採 掘せ んと した が、 不幸 にも 小琉 球

(臺 灣島

)を 經て 廣東 省に 漂着 し、 當局 は倭 人と 認定 して 南京 に送 り、 丁度 琉球 國使 が來 たの でと もに 歸國 させ た、 とあ る。 西暦 千五 百五 十六 年の 明國 鄭舜 功「 日本 一鑑

」《 桴海 圖經

閩語 につ いて 詳し くは 陳章 太・ 李如 龍「 閩語 研究

」( 語文 出版 社平 成三 年)

、及 び臺 灣大 學及 中央 研究 院共 同製 作《 漢字 古今 音資 料庫

https://xiaoxue.iis.sinica.edu.tw/ccr/

萬里 長歌

》で は、 硫黄 鳥島 の屬 する 所の

《本 山》

(主 島) を河 蘭埠

(荷 蘭埠

)と して ゐる

。硫 黄鳥 島は 沖永 良部 の西 北側 に位 置し

、河 蘭埠 は明 らか に永 良部 であ る。 河と 伊と 草書 の形 似に より 誤寫 した と考 へら れる

。 永良 部は 他史 料中 では

、西 暦千 六百 六十 四年 張學 禮「 使琉 球 紀」 が伊 藍埠 に作 り、 千六 百八 十四 年汪 楫「 使琉 球雑 録」 卷二 で伊 蘭埠 に作 り、 千七 百二 十一 年徐 葆光

「中 山傳 信録

」卷 三で 河蘭 埠に 作り

、卷 四で 伊闌 埠に 作る

。い づれ も《 ラン 及び P》 でラ ブに 充當 する のは 亞蘭 匏と 共通 して ゐる

「皇 明實 録」 の原 文は

《駕 舟河 蘭埠

》に 作る

。漢 文は 活用 字 尾が 無い ため

《永 良部 から

》と も《 永良 部へ

》と も釋 し得 る。 いづ れの 釋も 琉球 國人 が硫 黄を 採掘 する 以上

、西 暦千 三百 九十 二年 に沖 永良 部島 はす でに 琉球 北山 國の 統治 を受 けて ゐた と分 かる

。琉 球は 明國 へ主 に硫 黄と 馬を 輸出 して をり

、沖 永良 部は 鳥島 の硫 黄鑛 を擁 する ため

、そ の財 力と 發言 權は 琉球 王の 治下 でか なり 大き な位 置を 占め た筈 であ る。 琉球 國初 葉史 に於 いて 北山 以北 の勢 力は 後の 各代 より もか なり 大き い。

小葉 田淳

「中 世南 島通 交貿 易史 の研 究」 第二 百七 十七 頁で は、 伊・ 永が 音訛 して 阿と なり

、阿 の誤 寫が 河と なっ たと 判定 して ゐる が、 通じ 難い

(15)

西暦 十四 世紀 末の 沖永 良部 島の 豪族 とし ては

、《 永良 部世 の 主》 及び その 重臣 後蘭

(ぐ らる

)孫 八が あり

、亞 蘭匏 に擬 し易 い。 後蘭 孫八 は永 良部 孫八 とも 呼ば れる

。 西暦 千八 百五 十年

《世 の主 由緒 書》

(永 良部 世主 の家 譜)

によ れば

、永 良部 世の 主は 即ち 北山 王怕 尼芝

(は ねじ

)の 王子

《眞 松千 代》

(ま

・ま つち よ) であ り、 馬を 好み

、沖 永良 部島 に北 山國 の封 地を 得た

。時 は琉 球三 山時 代、 後に 尚巴 志に 滅ぼ され たと いふ

。由 緒書 の原 寫本 は世 の主 宗氏 の家 中に 三分 の一 のみ 現存 する

。 孫八 の名 は琉 球史 料「 おも ろさ うし

」卷 十三 の第 八百 六十 號 に見 え、

《ま こは つ》 に作 り、 船を 駛せ る英 姿が 詠じ られ る。 沖永 良部 島の 後蘭

(ぐ らる

)地 區に は孫 八の 居住 した 城壘 の遺 址が 現存 する

(圖 版三

)。 遺址 につ いて 喜界 島の 郷土 史家 吉田 忠弘 氏か ら教 へを 受け たこ とを 感謝 した い。 主流 學説 では グラ ルの 名は 奄美 琉球 各地 で變 じて ゴリ ヤ、 ガ

〡ラ

、カ ワラ など とな り、 多く は倭 寇の 類の 武士 南下 の足 跡地

島袋 源一 郎「 沖繩 縣國 頭郡 志」 第三 百八 十六 頁所 收、 沖繩 縣國 頭郡 教育 部會

、大 正八 年。

先田 光演

「沖 永良 部島 の世 の主 伝説

、資 料と 解説

」第 三頁

、 平成 九年

、先 田光 演自 刊。

だと する

。福 建史 料の

《甲 螺》

(倭 寇頭 目) 乃至 後述 する イス ラム ポル トガ ル史 料の グ〡 ル、 ゴ〡 レス

(琉 球の 武裝 商 人) も同 音の 變で はな いか とさ れる

。 亞蘭 匏が 北山 王子 であ るな らば

、硫 黄を 明國 に輸 出し

、そ の 權勢 は強 大で あり

、豪 族間 の合 縱連 衡と して 中山 王相 を名 乘る のは 可能 であ る。 三山 は群 雄割 據し なが らも

、名 目上 はみ な天 孫氏 の英 祖の 子孫 乃至 聯な る姻 戚で ある

。中 山王 が最 初に 明國 に遣 使朝 貢し た後 には 北山

・南 山も 相繼 いで 朝貢 する

。さ れば 中山 王が 北山 の怕 尼芝 大王 の王 子が 一定 の權 益を 有す るこ とを 許容 し得 るだ らう

。 亞蘭 匏が 未だ 王相 と呼 ばれ ぬ前

、そ の最 初の 史料 は「 皇明 實 録」 洪武 十五 年( 西暦 千三 百八 十二 年) 陰暦 二月 に中 山使 節と して 明國 に朝 貢し

、宦 官路 謙を 伴っ て琉 球に 歸國 する

。翌 年陰 暦一 月、 路謙 は亞 蘭匏 とと もに 上京 し、 洪武 皇帝 に三 山鼎 立に つい て上 奏し

、同 年十 一月

、北 山王 帕尼 芝が 初め て明 國に 遣使 朝貢 する

。明 初の 謝肅

「密 庵稿

」戊 卷(

「四 部叢 刊三 編」 第四 百七 十册 影印 洪武 刊本

)所 收詩

《召 を以 て入 見し

、經 を文 淵閣 に試 む》 では 十二 月朔 日に 作者 が宮 中に 列班 した こと を述 べ、

參照

〃吉 成直 樹・ 福寛 美「 琉球 王国 誕生

」第 二章

《グ ラル とい う地 名・ 人名

》、 平成 十九 年、 森話 社。

(16)

《馬

、流 求よ り出 づる は海 潮を 渉る

》と 詠じ る。 琉球 朝貢 から 一か 月未 滿、 この 馬は 北山 王が 亞蘭 匏を 派し て輸 出し たの であ らう

。 今、 洪武 十五 年( 西暦 千三 百八 十二 年) の使 節亞 蘭匏 を孫 八 とし て、 洪武 二十 七年

(西 暦千 三百 九十 四年

)の 中山 王相 亞蘭 匏を 永良 部世 主と すれ ば、 史勢 の大 意は 次の 通り

。 大倭 寇永 良部 孫八 が硫 黄の 權益 によ り朝 貢使 の任 を受 け、 亞 蘭匏 と名 乘り

、西 暦千 三百 八十 二年 に明 國で 交易 し、 北山 王帕 尼芝 の朝 貢を 仲介 した

。西 暦千 三百 九十 四年 北山 王子 永良 部世 の主 の朝 貢時

(疑 ふら く孫 八が 代貢 か)

、中 山王 は王 相の 名位 を北 山王 子に 賜予 し、 以て 硫黄 の利 潤に 報償 した

。倭 寇と 朝貢 貿易 とは みづ から 表裏 をな すに 過ぎ ない ので

、倭 寇孫 八も 中山 の朝 貢使 とし て適 任で ある

。 圖版

三 沖永 良部 島・ 後蘭 地區

、永 良部 孫八 城壘 遺址 の 内部

。令 和三 年一 月、 筆者 撮影

(17)

〈第 四の 琉球 宰相 も唐 人に 非ず

四人 の最 後に 西暦 十五 世紀 の琉 球國 相懷 機も また 唐人 であ る こと を示 す史 料は 全く 存在 しな い。 閩南 口語 字音 で懷 機は

《ク イク イ》 とな り、 尾音 が脱 落す れば

《ク イク

》と なっ て《 越 來》

(ご えく

)に 該當 する

。越 來は 第一 尚氏 の屬 下の 大按 司で あり

、琉 球方 言で

《ぐ いく

》と も呼 ばれ る。

「皇 明實 録」 西暦 千三 百九 十一 年陰 暦二 月、 千三 百九 十六 年 陰暦 四月

、千 四百 四年 陰暦 四月 にそ れぞ れ朝 貢使

「 嵬谷

》・

《隗 谷》 が見 え、 琉球 史志 多種 に轉 載さ れる が、 兩者 とも に閩 南音 はグ イク であ る。

「歴 代寶 案」 第一 集第 十六 卷に も千 四百 二十 七年 以下

《魏 古》 二字 を以 て屢 見す る。 いづ れも 越來 に該 當し

、唐 人で はな い。

「皇 明實 録」 西暦 千四 百十 八年 陰暦 二月

、懷 機は 長史 の身 分 で朝 貢し

、然 る後 千四 百二 十七 年の

《安 國山 に華 木を 樹( う) うる の記

中で は既 に國 相で あり

、そ の後

「歴 代寶 案」 第一 集第 四十 三卷 に收 める 外交 公文 多種 に懷 機と 署名 せら れ、 西暦 千四 百五 十一 年尚 泰久 王襲 位の 前ま で連 續す る。

「皇 明實 録」 西暦 千四 百十 一年 陰暦 二月 及び 西暦 千四 百十 三

《安 國山 樹華 木之 記》

、塚 田清 策「 琉球 国碑 文記

」別 卷第 一、 第三 百一 頁、 啓學 出版

、昭 和四 十五 年。

年陰 暦五 月に

、琉 球王 相の 子懷 得( 懷德

)が 北京 の國 子監 の留 學生 であ る。 機・ 得・ 德は 草書 形似 であ り、 越來 按司 の子 が懷 機を 名乘 った ので あら う

この 時越 來按 司は 既に 王相 だっ たと 考へ られ る。 西暦 千三 百九 十一 年か ら西 暦千 四百 五十 一年 まで の間 に越 來按 司は 世襲 など の形 態で 數度 交替 した 筈で あ り、 且つ 大按 司の 權勢 を以 て中 山王 とも 姻戚 を結 んで ゐた であ らう から

、自 づと 明國 に對 して 王相 と號 し得 るの は前 述の 亞蘭 匏と 同理 であ る。 懷機 が越 來で あり 唐人 でな かっ たこ とは 殆ど 間違 ひな いが

、 筆者 はさ らに 一歩 進ん で尚 泰久 王が 即ち 懷機 だと 考へ る。 この 時期 の名 君で あり

、首 里宮 殿に 掛か る萬 國津 梁の 鐘を 鑄造 した こと で知 られ る。 尚泰 久は 尚巴 志の 第七 子で あり

、西 暦千 四百 三十 五年 に越 來 王子 に封 ぜら れ、 千四 百五 十四 年に 王位 を繼 いだ

。「 琉球 國由 來記

」卷 十《 安國 寺》 條に よれ ば千 四百 五十 六年 に梵 鐘を 魏古

(ご えく

)具 足城 に寄 捨し た。 西暦 千四 百三 十五 年か ら西 暦千 四百 五十 一年 まで の史 料所 載の 懷機 を尚 泰久 に充 當せ しめ れば

東恩 納寛 惇氏 は懷 德を 論じ て鄙 見に 近い

。氏 著「 黎明 期の 海外 交通 史」 第二 百七 頁《 暹羅 との 交通

》、 帝國 教育 會、 昭和 十六 年。

(18)

矛盾 を來 たさ ない

「歴 代寶 案」 第一 集第 四十 三卷 によ れば

、西 暦千 四百 三十 六 年か ら千 四百 三十 九年 まで の間

、懷 機は 尚巴 志王 及び 世子 尚忠 を代 表し て願 書若 干首 を江 西省 天師 道に 寄せ

、道 教の 神符 を乞 うた

。願 書中 で世 子及 び懷 機、 乃至 王及 び懷 機と いふ 措辭 で等 列自 稱し

、宛 かも 自ら 王親 に擬 する かの 如く であ る。 凡そ 懷機 史料 は概 して 王親 にも 比肩 する 高い 地位 と政 績を 示し

、大 權勢 の相 匹敵 し得 る者 は尚 泰久 以外 に想 定し にく い。

「琉 球國 由來 記」 卷十 によ れば

、懷 機は 晩年

、第 一尚 氏の 天 山極 樂陵

(よ うど れ) に退 隱し

、子 孫は 絶え たと する

。疑 ふら く第 二尚 氏は 第一 尚氏 の子 孫が 絶え たこ とを 忌諱 して 語ら なか った ため

、懷 機の 歴史 的眞 相は 湮沒 して 傳は らな かっ たの だら う。

「お もろ さう し」 には 讀谷 と越 來の

《た ちよ もい

》な る覇 主 が見 えて

、外 間守 善氏 は越 來の たち よも いを 尚泰 久に 擬す る

懷機 は日 本の 神佛 には 社寺 を建 立し なが ら、 道教 に對 して は符 籙乞 請に 過ぎ ず、 扱ひ の輕 さが 際立 つ。

「琉 球史 料叢 書」 第二 册「 琉球 國由 來記

」卷 十、 諸寺 舊記

。 名取 書店

、昭 和十 五年 活印 本。

。原 文は 越來 のた ちよ もい を越 來世 の主 の子 とし て詠 じて をり

、外 間氏 説に 從へ ば尚 泰久 は尚 巴志 の子 でな く越 來按 司の 子と なる

。凡 そ琉 球王 の世 系は 明國 向け に安 定繼 承を 假裝 する こと 多く

、尚 泰久 が尚 巴志 の子 であ った 確證 は無 く、 外間 氏説 は比 較的 に優 勢で ある

。尚 泰久 が越 來按 司を 世襲 して 越後 來王 子と して 采地 を得 たと すれ ば矛 盾し ない

。 讀丹 のた ちよ もい は海 に出 て外 國貿 易を 盛ん にし た事 績が 歌 はれ るの で、 同じ く尚 泰久 だと すれ ば、 懷機 が多 くの 外交 文書 に署 名し 事實 に合 致す る

尚泰 久は 益々 懷機 であ った 可能 性が 高い

。 明國 の王 府は 洪武 皇帝 が虚 職を 以て の族 人を 封じ たに 過ぎ

岩波 本外 間守 善注 は讀 谷の たち よも いを 中山 王弟 の泰 期に 擬し

、越 來の たち よも いを 尚泰 久に 擬す る。 岩波 文庫

、外 間守 善校 注「 おも ろさ うし

」卷 二第 七十 八番

、及 び卷 十五 第千 百十 六番 至千 百十 九番

參照

〃福 寛美

《海 東諸 国紀 の琉 球国 之図 の地 名と おも ろさ うし

》、 法政 大學 國際 日本 學研 究所

「国 際日 本学

」第 六號

、第 七十 五頁

、平 成二 十一 年。

讀丹 のた ちよ もい など

、本 稿の 詳論 は近 稿《 古琉 球史 を書 き換 へる

》、

「純 心人 文研 究」 第二 十八 號、 令和 四年 二月

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