岡山大学経済学会雑誌30(4),1999,527‑554
《史料紹介≫
大正初期 の岡山県南部農村 にお ける農業 ・商業
‑ 佐藤悦太郎 『ある百性の 日記』の紹介‑
神 立 春 樹
目 次
1 は じめ に 2 地域 の産業的特性 3 農家 の仕事 4 農業 5 簡延製造
1
は じ め に本稿は佐藤悦太郎氏の記録を紹介 し,それを通 じて明治末 ・大正初期の農 業 ・商業の生産 ・労働の状況を示す ものである。
佐藤悦太郎氏は1900(明治33)年8月22日に岡山県都窪郡早島町の畑岡に 生まれた。生家は水田
7
反歩 ,畑1
反歩ばか りを自小作する農家であった。7人兄弟姉妹の4人めであるが上はすべて女で,長男であった。1907(明治 40)年4月,早島尋常小学校に入学 し,1913(大正2)年3月に卒業 した。
引き続 き町村風合立開成高等小学校に入学 したが,病のため同年中に退学 し たO静養 して健康を取 り戻 した後,1915(大正4)年1月 ,青年団への入団 を契横に家業である農業及び蘭延製造に従事 した。戦後 ,早島町議会議員 , 早島町商事蘭製品農業協同組合長な どを歴任 した。
‑ 527 ‑
1470
佐藤悦太郎氏は,生後物心がついてか らの回顧 を 『ある老人 の思い出の 記
』( 1 9 8 4
(昭和5 9
)年11日2 8
日付は しがきB5
判全4 9
丁 手書 き ・謄写印し‑I‑Il一
刷) として記 したが,それ以後のことを 『ある百性の 日記
』( 1 9 8 4
(昭和5 9 )
年1 2
月1 5
日) として記 している。 これはB5
判全5 3
丁で,通 しの丁数が付 し てあるが,「ある百性の 日記」 と 「ある老人の思い出の記」か らなっている。「大正4年1月か ら昭和3年初め頃まで」 (表 目次),あるいは 「大正4年1 月か ら昭和2年終 り頃まで」(裏 目次)とあって,従事 した農業 ・蘭業につい てのものを取 り出して独立 させ ,それ とそれ以外についてとい う二つにわけ たものであるoこれまた手書 き謄写印刷である.『ある老人の思い出の記』は 農業に従事 していなかった時期についてのもので,農業についての記述が少 ないのに対 して 『ある百性の日記』においては農業に初めて本格的に従事 し た経験か らの農業に関する叙述が多い。 ここでは,明治末期 ・大正初期の実 態をこの記録を通 じて示す ことを 目的 とす る。以下の 『ある老人の思い出の 記』,『ある百性の 日記』か らの引用などは,前者は*,後者は**で示 し, その丁数を記す ものとする。
2
地域 の産業的特性岡山県南部は,水田が広が り,稲作が展開 している。 また,平坦地域では 蘭草の栽培が盛んである。そ もそも岡山県は戦前期 ,わが国最大の蘭延生産 県であるが,この岡山県にあって,この早島町が属す る都窪郡は蘭草の栽培
とその加工である蘭延製造の中心地であった。
この ような地域にあって早島は江戸時代か ら畳表の取引の中心地で,この 地域の畳表は早島表 と称 されるように,その名は広 く知 られていた。明治に なってか らも,たとえば
1 8 8 6
(明治1 9 )
年 の岡山県 の畳表 問屋名簿に よる と,東京積問屋が県下市町村のなかで最 も多い所である。問屋の取扱い量 ち 大 きく,有力な問屋がある取引の中心地であった。明治2 0
年前後か らの輸出大正初期の岡山県南部農村における農業 ・蘭業 1471
に支えられた花延生産が興隆すると,これ ら問屋が会社形態での工場生産を 開始 した りしている。
1 9 1 0
(明治4 3 )
年の早島町の生産高は合計3 7
万7 3 7 2
円で,生産物の数量 ・ 価格 とその比率は,畳表1 5
万枚・4
万5 0 0 0
円 (ll . 9 %)
, ミノ共産6 0 0 0
枚・3 6 0 0
円( 0. 9 5 %
),花延2
万2 5 0 0
本・1 3
万5 0 0 0
円( 3 5. 8 %)
,蘭革1 6
万1 7 0 0
貫・5
万4 0 0 0
円( 1 4. 3 %)
,米8 1 4 0
石・1
0万1 7 5 0
円( 2 7. 0 %)
,小麦2 2 0 0
石・2
万2 0 0 0
円( 5. 8 %)
,裸麦1 1 9 4
石・8 9 5 5
円( 2. 4%)
,蚕豆4 5 0
石・3 6 0 0
円( 0. 6 9 %)
,その他3 4 6 7
円( 0. 6 %)
である。米を最大 とし, それ と麦類が主要農産物であるが,米の半額を越える蘭草 ,米を遥かに上回、̲1、 るその加工品である花延 ・畳表な どの蘭製品,とい う蘭業の町である。
3
農家 の仕事この地域の農家は,水田の表作に稲を,裏作に麦や蘭革を栽培す る。 この 蘭草はそのまま販売す るか,あるいはそれをもって畳表を製織 して収入を得 る。悦太郎の生家 もそのような農家であった。すでに記 した よ うに ,生家 は,耕地両横は田7反歩 ,畑9畝歩で ,約8反歩 の経営 の 自小作農家 であ る。副業 として畳表 ・共産織を行な う。 この農業 と蘭産業が生計のもとであ
るO *1D
悦太郎は,幼少の頃,母親が田圃‑行 くときはついて行 った り,蘭刈の傍
*13 *15
らにいた り,家の前の田圃での父母の草 とりを見た り,した。 また,小学校
*36
のとき,稲の害虫のずい虫取 りを先生に引率 されて行な った ことがあ った
*43
り,母の言いつけで近 くの道端の田圃のえん ど うちぎ りを した。 この よ う に,悦太郎に とって農業は身近であった。
1 9 1 3
(大正2)
年4
月に高等小学校 に入学 した。男子 は商業科 と農業科 で,農業科に入 った悦太郎は,農業実習を経扱す る。その5
月 ,近 くの実習 田で苗代の準備があ り,主な作業は近 くの農家の人がや って くれたが,軽い‑ 529‑
1472
*45
作業 は先生 と生徒 が した。高等小学校 に入 った年 に健康上 の理 由でそ こを悦 太郎 は退学 した。 そ の年 ,
畑にもよくついて行って,いも類,大小豆,莱,そば,野菜類の耕作を手伝い,家 ではなわをな うけいこをした り,ぞお りの作 り方を教えてもらった りして.少 しづ つ体をきたえるかたわら仕事を覚えることにして,当分勉強は病気がよくなるまで
*47 はせぬようにしたo何でも早 くこの病をなおさねばと懸命であったC
1915(大正4)年1月1日,長津 の青年 団の一員 とな る。 これ まで仕事 ら しい仕事を して こなか ったが ,これか ら家 の仕事 に従 事す る。
7反歩 の水 田は表作 には稲 ,裏作 に麦 ,蘭革 ,蚕豆 を栽培 した。蘭草 は1
**11 **4
反歩 ,蚕豆 は 1反歩 と記 され てい るので ,麦 は5反歩 とい うことにな る。畑 は9畝歩 で家か ら150メー トルほ ど離れ た小高 い丘 に あ る。 こ こで は後 に み る よ うに ,多種類 の作物 が栽培 され る。
これ の作物栽培 ,収穫 な どに農具 を使用す る。
**15 **1O **u**41 耕転 に関す る もの と しては鰍 ,除草 には手鍬 ,す り機 (田の草) ,が 出て
**11
くる。 また泥 を さら うのに じょれ ん ,が用 い られた。記 され ていないが収穫 には鎌 が使用 された。
**8 **9
田植 の ときの苗 を入れ る苗か ご,雨 の ときの蓑 (ゴザ を張 った) も記 され てい る。
**8
脱穀 ・調整 に関す るものは多 く記 され てい る。唐竿 ・よ じろ ,稲 扱 ・手 こ
**15 **17 **7 **16**17 **9 **16 **7 ぎ ・千歯 ,豆 こぎ,麦打 台 ,土 日 ・石 臼 ,白 ,唐 白 ,唐箕 ・ふ るいであ る。
**7
脱穀 した麦 を入れ るのは俵 ・久 であ る。米 もそ うであろ う。
**8
田に水 を入れ るのtこ水車 を使用す る。足 で踏 む のであ るO
**19
運搬用具 と しては ,天秤棒 ,川舟 ,馬車 ,中辛 ,猫 車が あげ られ てい る。
物 を運ぶ には ,天秤棒 でかつ ぐのが主 であ った。農家 な どでは一部 の地域 で川舟 を使 っていた。専業 ,事業用 には馬車 ,中辛 があ ったが ,一般 には猫
大正初期の岡山県南部農村における農業 ・蘭業 1473
辛 (一輪車) が僅かに 目についた。
**8 牛は飼育 していないので牛 に よる耕転は他 にや って もら う。
馬を もっている農家 も相 当あ って ,若 い者 たちが よく乗 りまわ していた。
農閑期 (春 の末頃) には田んぼに臨時の馬場をつ くって ,草競馬がほ とん ど 毎年行 なわれ ,各地か ら同好 の者が馬をつれて きて競馬を した。大勢が見物
**19
した。
**18**2g‑3)
農 閑期 に総がか りで行 な うのは麦打 ち,す なわ ち畳表 , ゴザ織 である。表 を織 るために使用す る経 糸を紡 ぐヒメウ ミがある。 これ には ヒメウ ミ機 を使
**19
う。 これについては後 に記すが ,それ以外 の営み もあるo
その一つは藁仕事である。 「この地方では秋 の農閑期 には ど この家 で も総 がか りで表 うちをす るので ,わ ら仕事 は出来得 る限 り春 に済 ま してお く」。
雨の 日には父 と二人で藁仕事 を した。
まず細いなわをなって米 ・麦を入れる俵編み,それを結える太いなわ,蘭を束ね る蘭つがい,田んぼに引 く蘭田引きなわ,俵の口をかがる小口なわ,となわにもい ろいろあるものだと思ったo**6
この よ うに ,さまざまの絶類 ,俵編 み で あ るo と きに は草履 ・鞍 も作 っ
**6 た。
収穫物 の加工 もあるo畑 の最後 の仕事は大根 ひ きで ,聖書院大根 ,練馬大 根 を収穫す るが ,その加工保存 である。
当座に食べるものはそのま 、畑に残 しておいて,引いた大枚は家に持ち帰って大 小いろいろ分けて,適当に束ねて軒先や竿をこしらえてかけて乾した (大きいもの は沢庵濃に,長 く細いものはね じ大根に,折れた りキズのあるものは切干大根に し た)。
適当に乾いた頃,竿から下ろして表面を藁でこすって,大きい樽に糠 と塩 とで潰
‑5 31 ‑
1474
けたが,これは父 さんの仕事であった。 また浅漬 といって余 り乾か さずに漬 けて ,
**17 数 日経 って食べるものも掃 えた 。
そ の他 に ,農 民 の賃 稼 ぎ もあ った。
1917(大正6)年 に早 島紡 績 会 社 が設 立 され ,工 場 が建 設 され た 。 工 場 用 地 は早 島町 の字 山崎 か ら官 の後 に亘 る
3
町4
反4
畝7
歩 で ,半 分 が 水 田 ,辛(2)
分 が 山地 で ,山 を崩 して水 田を埋 め ,敷 地 を造 成 した。 この工 場 用 地 造成 工 事 に悦 太 郎 も参 加 した。
資本金は敷地の大部分が長津の人の耕作 していた農地 であ り,また村続 きであ っ たか ら,会社か らも村‑挨拶に来て協力の要請があ り,附属 の建物 も地 内に建 て ら れることになって会社 と村は密接な関係にあった。
南側の山の土を採 って地上げを し,一体の厚い岩盤を割 って建物をす る部分を敷 きつめて,長 い期間何回 も 「エ ンヤ コラサー」 をや った。
常雇人夫は長津の人を優先的に使 って くれたか ら村の人は大勢働 きに行 った.辛 い村の人が二人人夫頭を していたか ら自分 も農閑期や仕事の合間に働 きに行 った。
日当は一 日四十八銭であった。始めは他の人たちと働いていたが,監督に認 め られ て仕事の果 な材料係 となって材料の出 し入れの方に変 ったか ら,雨の 日に も働 に行
* * 4 0
けて よか った。
4
農 業(1) 稲 作
・1苗代
苗代田は父 と一緒にこしらえた0枚 まきは自分には少 々無理だ ったので ,父がひ と りで蒔いた。 もみをま くとす ぐ雀が寄 って来 て拾いあらすか ら鳴子や案 山子 を掃 えて立てた。それでも来 るのでつ ききりで番を した。隣の老翁 さんは苗代 のあぜ に
大正初期の岡山県南部農村における農業 ・商業 1475
ゴザを敷 き古いカサを立てかけてその下でゾ‑ 1)をつ くっていた。
もみまきについて,自分はもみを洗 って くず もみを浮か してとることや ,久に入 れて三 ,四 日州に投げ こんで芽を出す こと,苗代 田の作 り方 ,もみのまきかたな ど,
**5 いろいろ覚えることができた。
もみ種を洗 うとき,父は反当 り四升五合位 のあてで洗 うといっていた。他家 に も
**21 大体それ位 らしか った。
稲 の 品種 は,「神力」 が 主 で,「吉備穂」 が何 程 か あ ったO 柿 は 「カ ラス も
**5 ち」 で ,次 第 に 「大 正 もち」 にか わ った。
堆肥づ くり
春の田んぼの仕事に,重要なものがもう一つ ,堆肥づ くりがあった。寒 中土 が よ く凍 る頃に川泥をあげておいて,それが乾いた頃何回も轍を入れて少 し砕 いて ,痩 か くなった頃藁や塵芥 と交互に高 く積 み上げて ,雨水 のはい らない よ うに ワラで 覆 ってお く。
之を八 ,九月頃に,もう一度麦わ らや川岸の草 ,はきだめのごみな どを交ぜ て積 みかえるO秋麦をま くときその上におそ うので,麦作には極めて重要な仕事 であ っ た 。**5
② 田植
**8 田植えは用水の関係か ら日を決めて一斉に始めることになっていた。
田植えが始 まった。雨は降 らなか ったが川に‑パイ水がきて,低 い田にはの りこ んでいた。家の田は中田であったか ら全部水車をふんで水を入れた。早速‑ ます代 を してもらって植えることに して苗代にはいった。苗を とるのは始めてで ど うも他 の者の ように うま く根元が揃わないO 「少 々手間はいって もていね いに元 を揃 え る ようにせえよ」 といわれて少 しづつ念を入れてとった ら,何程か揃 って格好 が よ く
‑ 533‑
1476
な った。
父は苗か ごに苗を入れながら 「悦がかつ ぐよりはまだわ しの方が余程余計 にかつ ぐか らの う」 といってかついで行 ったo後の者は二把づつ両手に提げて行 ったo
「ぼちぼちでもええか らきれいに うえよ」 といって植 え始めた。田植えは去年少 しばか り植 えた経験 もあるので,早 くはなか ったが どうにか人並に うえられた。
あ くる日は朝か ら雨だ ったD今 日はみのを著わはならんのか ,退儀だなあ と思 っ たが,みんなだか ら元気を出さねばときゅうくつなみのを着て出かけたが ,身体 が 小 さいのに普通の型のみのだ ったか ら,ち ょいち ょいすそが水につか って要領が悪 い0
両は終 日降 り続いたか らゴザを張 ったみのは水をふ くんで次第に重 くな り,少 し づ ゝ裏側にもしみ通 って じぽんが湿めって気拝が悪いo早 よう日が暮れれ ば よいが と思いなが ら雁張 った。晩仕事を終えて帰 った ときは背中の方が全部濡れ ていた。
急いで素裸身になった らじぽんか ら湯気がた っていた。 「今 日はほん とに悪か った
* * 8 ‑9
なあ」 と云いなが ら他のものも着がえていた。
田植 がす む と 「代 み て」をす る。 「代 み て」に は寿 司 をつ くって食 べ る習慣 で あ った。 材 料 は ,魚屋 で買 った ヒラ,竹 薮 か ら掘 って きた 真 竹 の苛 ,そ れ
* *9
に椎 茸 ,か ん ぴ ょ う,高 野 , じゃが い もで あ る。
[蘭 草 ] の跡 植 え は本 田 とは異 な った。
跡植えはチソマチ植 えで,一人一人で植えたが,ナ ワも何んにもひかず に無茶 う えに したか ら,広い所や狭い所ができた。本 田はきれいにナ ワをひいて うえ るのに どうして無茶 うえにす るのかわか らなか った。 自分が少 し大 きくなった ら本 田の よ
(77)
* * 1 3
うに正条植に しょうと思 った。
③稲の肥入れ
田植えがすんで父は肥入れを した。何程 いれたかは,量は聞いてないが ,ニシン
大正初期の岡山県南部農村における農業 ・商業 1477
粕 と大豆粕をいれていた。その頃はニシソ粕が大 きな俵に入れ られて大量 に売 られ ていた。五 ,六寸 もの長 さの大 きいもので,カズの子な ども混 じっていた。カラウス (米をつ くうす)で小 さ く粉に して田んぼに入れる。大豆粕は蘭草に使 った もの と 同 じであった。
当時の稲肥には殆ん どが この二種が使われていたが,父は 「ニシン粕は稲 のため によいが少 し高いか らのお」 と云 っていたO
ニシン粕の新 らしいものは食べ られ るようなものがあって,隣のおぢさんは 「こ
**9‑10 れはええぞ」 といいなが らニシン粕を食べた りしていたO
④田の草取 り
代みてがすぎて‑ ,二 日たつ ともう田の草 とりが始 まった。 田の草 と りと云 って も,手鍬 と云 うものを片手に もって土をひっくり返 し,片方の手で均 らす ので ,い つ もかがんで両手を使 うか らなかなか しんどい仕事で,これを縦横二回や るo これ は一番草 ,二番草 とい った。 自分は一年 生だか ら少 し軽 い手鍬 を買 って もらって や ったが,始めてのことで とてもつかれた。
三番草は手取 りで,も うその頃は稲株の根元に小 さい草が生えているか ら,これ を手で土 ごと混ぜ返す。 この三番草を取 ってか ら蘭刈 りをす るのが普通であ った。
近所に人手の少ない家があって,三番草を取 らずに蘭刈を していたが,蘭刈後 には
**10
草が大 きくなって,とるのが大変だ った と云 っていたO
蘭刈 りを している間に田の草が余計生えたQ手で取 るのは大変だか ら総 出です り 機をもって株間をす った。縦横に二回す った らさしもの草 も往生 して水の中に浮 い て,ぶ らぶ らす るようにな ったO
草が浮いて弱った ところで手取 りをす る。手取 りは機械でとれない根元 の草 と浮 いている草を取 って土に埋めるので,跡はさっぱ りときれいになる。 これ で も う始 めか ら六回もとっている。最後は水を落 として,土をならす ように して塗 るo これ は麦をまくときのために地面をな らすのと,草を塗 りこむ との両方であった。後 は
‑ 5 3 5 ‑
1478
足跡がつかない位の硬 さまで干す。 これで田の草は終 って,後は時折 り水か きをす
**13
る程度で仕事が楽になった 。
⑤稲刈 り
稲刈 りは十一月にはいってか ら始めた。その頃は米に青があってはいけない こと になっていたので,よく熟れ るのを待 って刈 った。併 しよくうれ ると味が悪 いので 自家用のものは早 く刈 り,検査を受けるものは中旬以後に刈 っていた。
稲刈 りを半分足 らず した十一月十 日に天皇陛下の御即位式があって五 日間の家業 止めで稲刈 りもできなか ったか ら,残 りは十五 日以後に刈 った。余 り遅 くな る と う れすぎて米はきれいであったが,茎が枯れて茎節が黒 くなって,刈 るとき千切れ る か ら昼は刈れないO朝早 く茎の しめっているときに刈 って,一振 り振 って茎 をのば
して並べた。
この地方ではべた刈 りと云 って三株幅位に刈 って,田んぼ一面に並べて乾す家 が 多か った。穂 も藁 もよく乾 いて後の始末が早か った。中旬以後には茎 も枯れ る よ う になるか ら,穂だけ拡げ根元を重ね る扇形に刈 った。下旬になると穂 も茎 もず っと 水分が無 くなっているか ら,適当に寄せてお くC
べた刈 りを天気の よいとき,三 日から五 日位 してお くとよく乾いてもみの乾燥 も 早 くすみ,わ らもす ぐ重ね られて非常に よか ったが,運悪 く途中で天気が悪 くな っ て夜雨など降ると,寄 して重ね る訳にもゆかず濡 らして仕舞 う。それが乾かぬ うち にまた雨が降ることになると,いつまでも放 っておかねばならぬか ら麦 まきに も差 支える。 よく乾いた ものは‑か 、え位づつ一ヶ所に集めて丸 く穂を真申に して積 み 重ねてお く (九 ぐろといった)。扇形 ,寄せ刈 りに したもの も一応丸 ぐろに重ねる家
**14・‑15
が多か った。
⑥稲 こぎ
禰 こぎは手 こぎで一握 りづつ千歯でこいだ。一握 りづつだか ら,なかなか はか ど らないOふるいでおろ して持 って帰るがかつ ぐことには一番困った。 これだけは ビ
大正初期の岡山県南部農村における農業 ・商業 1479
うにも我慢の仕様がな く,途中でおろ して休みながら帰 った。
藁は大 き く束ねて元を広げ先を両方合せて立て 、おいて,よく乾いた頃に長 ぐろ に本積 した。
もみは唐箕で ゴミや しいらを とって延に入れて乾 し,一 日に‑ ,二回さ ぐる。 田 んぼでの乾 き具合に よって違 うが普通の天気で二 日か ら三 日,田んぼで乾 いてない ものはそれ以上に乾 した。乾燥が悪いと検査で不合格 となるO不合格米は売 るに も 安 く地主 もきらったか ら乾燥は よくしていた。
適当に乾娩 した ら ト‑ス引 きをす る (もみす り)。昔なが らの大 きな土のウスを引 いてもみが らを とるが,これがまた難行であった。普通の人だ と二人で引 いたが , 自分の家では半人前が多か ったか ら,少 し小型 のウスに三人かか って引いたDそれ でも終いには腕がなえて痛か った。
その後 ,唐箕や万石を使 って撰別す るが,自家用米は よい加減に したが ,検査 を 受けるものは厳重に撰別を して俵に入れて小 口を結 って俵〆で真申を しっか りしめ
**15‑16
て外側を規定通 りに結 うO これで米造 りの総ての作業は終 ったO
稲 の収穫 が終 り籾 摺 りがす んだ後 に は ,新 しい精 米 で赤 飯 を炊 き ,神 棚 に 供 え , また粗 摺 りに使 った道 具 に も供 えた。 庭 上 げ とい って一 日仕 事 を休 ん
**18
だ 。
思えば春のもみ種洗いか ら今 日までのことをふ り返 ると,昔の人が米造 りには八 十八回手数がかか る,と云 っていたがほんとにそ うか も知れない,と延に座 ってつ
**16
くづ く思 った 。
作柄は普通であると,みんな云 っていた。家では本 田が反当 り六俵半位 (出来す ぎて早 く倒れた田がひ とますあったか ら,少々少なか った),そ の当時 は七俵 は上 田,三石はなかなか とれなか った。蘭 田跡は四俵位 しか とれなか ったが ,それで も よい方だ と人 々は話 していた0
‑537‑
1480
もみす りも終 って農家はほっと一息。 これか ら麦田の谷明けにか 、るが ,も う一
**18 つ蘭植えとゆ う大仕事がひかえてい るQ
(2)麦 作
① 麦 播 き
麦 まきは直拝をす る家が殆ん どで,家でも田んぼの空いた処か ら次ぎつ ぎに播 い
**15 た 。
稲 の後 の水 田に は ,塞 (裸 ) を
1
反 歩 ばか り,あ とは蘭 田 と小 麦 で,1 0
月 の下 旬 に稲 の 中 に蚕豆 を植 え て あ る。 この蚕 豆 は , も う大 き くな って いた の で堆 肥 を お い て ってや るo 地 面 の草 を うす く鍬 で 削 って二 条 に播 い て堆 肥 を**L5 覆 った。
品種 は裸 麦 は コ ビ ンカ タギ ,小 麦 は大 ボ ーズ を まいた 。 どこの家 で も殆 ん
**L5 ど この品種 を まい て い た。
堆肥をかつ ぐのも始めてで肩が痛 く,少 しづ ゝかついたが,それでも晩に風 削 こ
**15 はいった とき見 ると赤 くうれ上 っていた。
麦の耕作 も始めの うちは とても辛かった。毎 日綿入れの胴着を着て指の出た足袋 に ワラジをはいて,父について田んぼに行 って教えてもらった り,また見 て少 しづ つ仕事を覚えたが,鍬を握 ると掌に豆ができて,痛 くて満足に持てない。
直 まきの田に谷を明けて漸 く瞳ができたが ,更に小 さ く砕いて仕上げる。 まだ寒 いか ら麦は地に くっついている。寒が明けて漸 く日差 しが伸び,少 しづ ゝ暖か さが 感 じられるか と思‑ば,もう麦 より先に草が元気に頭をもたげて くる。麦 に混 じっ ている草を取 るのは端か ら見 ると何んでもないように見えるが ,仲 々骨の折れ る仕
**3‑4
事であ った。
大正初期の岡山県南部農村における農業 ・商業 1481
②葺取 と中耕
彼岸をす ぎると,急に麦が伸び始めるか ら革 と りと中桝を くり返す。‑
五月の上旬 ,麦が倒れないように と最後の土寄せを してひ とまず麦の耕作 は終 っ
* *3 ‑4
たが,施肥については詳 しく聞いていないので解 らな い。
③麦刈 り
六月になると麦が熟れて,あちこちで麦刈 りが始 まった。
正直にいって麦刈 りは嫌だったD小麦はまだ よいが,大麦 (裸麦)にはイガがあっ て身体がチカチカさして,かゆ くて閉 口 した。 自分は こおゆ うものに弱 い体質 で あったが,それでも自分の仕事 となれば しかたな く,みんな と一緒に麦を刈 り麦 こ ぎを して機械です った。摺ればす ぐに実になるか ら仕事が早 く片付 くので ,この点 は助か った。
小麦は小 さい束に して麦打台でポ ッテンポ ッテンとたたいて実を落すが ,天気 が よくて よく乾いているとよく落ちるが,乾 きが悪いとなかなか落ちない。二 ,三時 間もたた くと腕がだる く肩が痛 くなって閉 口す る。
実は家に持 って帰 ってふるいにかけて延にひろげて天 日で乾すC適当に乾 いた ら 撰別 して俵や臥に入れて一応収穫は終 るが‑0
六月の太陽は相当に烈 しく,汗は流れる,身体はチカチカす るで,麦の収穫 は一
**7
年生には無理す ぎる位の重労働であった。
(3) 蘭 革 の栽培
① 蘭 革 の繁 殖
悦 太 郎 の家 も この地 方 の特 産 の蘭草 の栽 培 を 行 な っ て い た
。1 91 0
(明治 43)年 刊行 の 岡 山県 内務 部 編 『岡 山県 の商 事 』 は この 岡 山県 の蘭 草 栽 培 につ い て の もの で あ るが ,以後 , これ を援 用 しな が ら悦 太 郎 の従 業 状 況 な どを み て い こ うOこの商 事 の栽 培 で あ るが ,『岡 山県 の蘭 草 』 は,「蘭 草 の繁 殖 法 は種 子 を 以
‑ 539‑
1482
てす ることな く,総て分株法に より酉を仕立つ るものな りC其方法種 々あ り と錐 も大別 して田苗 ,畑苗及ひ家立苗の三種 とす」 るが ,広 く行なわれてい るのは畑苗お よび家立苗で田苗ははなはだ少ない として,畑苗床について説 明 しているOそれに よると
,
「蘭苗は総て蘭 田の周囲に於 け る刈株 よ り発生 せ るものを以て仕立つ るもの」である。蘭 田の周囲畦畔に接す る部分の棟を やや高刈 として,かつ普通 の蘭株は潅水 または株の切 口に泥土を塗 るが,商 用のものはその ような ことはせずに,新芽を発生 させ る。翌年3月下旬か ら 4月上旬にその株を掘 り,土を落 し,枯茎 を除去 して,6,7本ずつに分株 し,根元か ら6,7寸づつを残 してその先端を切 り捨 て,それを畑苗床に移り、
植す る。
②蘭葦の畑苗床
畑苗床は,『岡山県の蘭革』には
,
「可成本 田と其土質を異にす る所を撰ふ へ し」,
「其床地は春彼岸頃耕起 し,土塊を細砕 し地面を均平に し,之れに株 間四五寸 ,深 さ一寸許 りに苗を移植 し能 く踏み固め,床地の乾燥及雑草の発 生を防 ぐ為粗穀又は切藁を一面に散布 し,爾後格別の培養は為 さ上るものな り上
「八月下旬乃至九月上旬に至 り地上三四寸を残 して刈 り取 り,此時初め て肥料 として‑畝歩に付 き大豆粕又は錬 〆粕三四貫匁及人糞尿を施 し,爾後 二三回人糞尿を施与 し培養す るものとす.之れ即ち畑苗に して本 田一反歩に(4) 要す る苗を仕立 るには苗床凡そ二十歩を要す」,と記 されている。
この ように,蘭草 の百は多 くは畑でつ くるが,悦太郎は,
村ではこの頃みな蘭苗を畑にしていた.わたしの家でも四月頃,畑を田んぼのよ うに一面に均らし,川から水をかつぎあげて土を煉って植えて,藁を切って上に振 りまいていた。そして八 ・九月頃,五 ・六寸位の所から頭を刈って施肥をした。そ
**21 の前にも肥料をやっていた (夏分は使いみちのないし尿などを)0
大正初期の岡山県南部農村における農業 ・蘭業 1483
と記 し,さらに畑 で苗を作 ることについては,「それは,本 田に植 えるとき, 苗がかぎ易 く,たた くときに も土が よく落ち,本 田に植 えてか ら,よく分け
**21 つ」す るか らであろ う,としている。
しか し一軒だけ畑 のない家があって,そ こでは田に苗をつ くっていたo大 変熱心な人で毎年 よい商事をつ くった。商人は遠州積みにす るといって偲の 家 よりも高 く買 っていた。その うちには田に苗をつ くらねば と思 った ,と悦
**21 太郎は記 している。
③蘭苗の本田への移植
移植に先だつ この整地は,「蘭 田は水掛 り良き土地を撰 び ,稲 収穫後 充分 田面の乾燥す るを待 ち,稲株を切 り牛撃にて耕起 し,四尺許 りの畦 とし,局 兜にて之を均 し,元肥 として錬粕又は大豆粕十貫乃至二十貫を施 し,再び牛 力にて鋤返 しを行ふ上 「斯 くて移植期即 ち一 月上 旬乃至 中旬 に至 れ ほ濯漉
(5)
し,馬把にて縦横に耕寂 し土塊を細砕 し,田面を掻 き均 らす」 ,とい うよう にかな りていねいに行なわれ る。
この整地ずみの田に苗を植付けるo
この蘭苗の移植は 「移植 の時期は普通一月上旬乃至中旬に して稀れには下 旬に亘 ることあ り。其早 きに過 くれは収量多 きも品質佳良な らす晩 きに失す れは収量大に減ず といひ,通常寒 の入 りよ り大寒十 日前 までを移植に最良の
(6) 時期 と」す る。
まず,「移植す‑ き苗はその前 日苗床 よ り蘭株を掘 り起 し土 を落 し,家 に 運び,一株五六本づ 、に分株 し,六七寸許 りに其先端を切除」す るとい う苗 の掘 り起 こしと分株を行ない,ついで移植す るが,それは 「株間四寸乃至五
(7) 寸 とし,‑坪に百二十株乃至百六十株を植ふ るを普通 とす」 るo
悦太郎には この苗の移植 についてつ ぎの ように記 している。
蘭苗の掘 り起 こし,分株な どについて,苗掘 り,苗かざが行なわれ る,と して,
‑ 54 1‑
1484
畑に行 って百を掘 り土を落 してかついで帰るのもち ょっぴ り肩にこたえたが ,こ れは序の口Oそれか ら夜の十時頃までみんなと納屋の隅で苗をかいだが,夜が更け
**2 るに従がって寒 さが身にしみて,一年生にはこたえた。
そ して移植 で あ るが ,
さて蘭植え,寒中の水の中,素足ではいると冷たさを通 り越 して痛い。冷た さが 足をはいあがって腰の方 まで冷た くなる。藁をたいて手足をよく温めて植 えるが , 少 しうえるともう指が屈 って苗を思 うようにつまめない。植えようとすると指がの らないのでこぶ Lでさす。それでも他の者が雁張 っているのにと思ったが ,歯がが たがた して我慢が出来な くなって,そのま 、上って トン ド場‑急いだが,足 の裏が 痛 くてまともに歩かれないC トン ド場に火がつ くとみんな も急 いであが って来て,
「あ 、冷たいCそれでもお前 よく我慢 したな」 といって くれたが,植え方 は良 くな かった。平素か ら蘭植えは冷た くて難儀だ とは聞いてはいたが,今 日はそれが身に
しみてわかった。**3
『岡山県 の蘭草』は この蘭 苗 の移植 につ いて,「之れ を植 ふ るに は午 前 は東 に 向ひ午後 は西 に面 し,日光 に 向っ て植 ‑下 るを常 と」す るが ,それ は,「蓋
(8)
し日に 向‑ は幾 分温 暖 な るた め な らん」 , とそ の寒気 の厳 しさを記 して い る が ,悦 太 郎 の記録 は ,そ の厳 しさを具体 的 に記 した もの とな って い る。
④肥 料
この蘭草 の栽培 の肥料 につ い で 悦太 郎 は,「この蘭作 りの 施 肥 に つ い て は 父 が全部 や った のでそ の 内容 は よ くわか らな いが ,当時 は肥 料 と して は大豆 粕 が主 と して使 わ れ ていた。清 洲 か ら大 量 に輸 入 され て い た か ら稲 作 に も 使 った。即 効性 の肥 料 と しては多木 とい う会社 で製造 され た硫 曹 とか云 う肥
**3
料 を使 っていた が詳 し くは知 らな い」 , と記 してい る。
『岡山県 の蘭草』は ,この蘭草 栽培 の肥 料 につ いて,「上 等 の蘭 を作 らん と
大正初期の岡山県南部農村における農業 ・簡業 1485
欲せは充分の肥料を施 さ 、る‑か らす。殊 に花延及畳表 の優品を製織す るに は品質良好なる長蘭にあ らされは価値少 きを以て,蘭草には多量の肥料を施 用せ り。蘭草 の肥料 として従来一般に用ひ られた るは錬粕 とす。俗言に 『蘭 田には百貫肥 の召人夫』 と称す るは,肥料には錬粕百貫を要 し,栽培には人 夫百人を要す と言ふに在 り。然れ ども近来肥料供給上の変遷 と価格に変動を 来せ る結果 ,経済上 よ り魚肥を廃 し之に代ふ るに大豆粕又は人造肥料を配合
(9)
使用す るもの多 きに及べ り」 ,と記 しているが,蘭草栽培には多 くの肥料を 要す る。悦太郎は硫菅 と記 しているが ,硫酸加里の誤 りであろ うか。
⑤耕転 ・葺取 り
蘭苗移植後 の蘭田には絶えず水を湛え,寒気の厳 しい ときは約2寸位 の水 を張 り,温か くな ると可な り浅 くす ることが肝要である。深田は春彼岸頃か ら八十八夜頃の間に一回排水 し,細かい亀裂が生ず る程度に田面を乾燥 させ るのが よい。梅雨以後 は と くに排水に注意 し,ただ田面に充分な湿気を保た た しめる程度 とし,夏土用刈 り取前にはすべて排水す る。除草は普通3月か
、lい ら5月の間に,2‑ 3回行な う。
悦太郎は草取 りについてつ ぎの ように記 している。
蘭田草とりもなかなか骨の折れる仕事で,よく生えた田んぼの草取 りはきゅうく つで肩がこり,渡が痛 くてとてもつかれた。
その他に水かきの仕事があったが,これはその時に応 じて随時行なっていた。**3
⑥収穫蘭刈 り
蘭草の収穫は 『岡山県の蘭草』に よれば
,
「南軍の刈取 りほ七月中旬 より着 手す るものあ りと錐 も普通七月二十 日頃 よ り姶むるもの多 し。即ち土用入 り 後五 日間を刈取 りの好期 とせ り。刈取 りの 日は晴天を見定め早朝 より着手」す る。刈 り取 った蘭は泥染す る。刈取 って束ねた蘭草は,刈 り取 り前に予め
‑543‑
1486
造 って お いた染 壷 に入 れ て染 め る. 染 壷 は蘭 田の一 隅 , また はそ の他 適 当 の 場 所 に設 け た
,5
尺 四方 ,深 さ1
尺 許 りの小 池 で ,そ こに は川 底 に沈 殿 す る 黒 色 の泥土 を入 れ ,水 を入 れ て よ く撹 拝 して泥 水 を湛 え て あ るO そ こに入 れ て塗 め るので あ る。この泥 塗 め した蘭 の乾 燥 を行 な う。 充 分 泥 水 を付 着 させ た 蘭 は 引 きあげ , 傍 らに設 け た立 木 に た て ,水 分 が滴 り落 ち た ら乾 燥 場 に運 ぶ 。 乾 燥 場 は普 通 は蘭 田の刈跡 で あ るが ,附 近 の畦 畔 ,路 傍 ,堤 頻 ,河 原 な ど も乾 燥 場 とす
しlい る。通 常 は晴 天2日間で乾 燥 が終 る。
悦 太 郎 は この蘭 刈 りに取 り範 んだ.
蘭刈 りは天気次第ではあるが,その頃で土用 (七月二十 日) にはいってか ら刈 る 習慣になっていた。併 し昔か ら土用には土を掘 ってはいけないと云 う伝説 が あ った ので,どこの家で も染つぼ (蘭を泥染めにす る坪)だけは七月二十 日以前 に掘 って いた。
染土にはその田んぼの側の川泥を使 っていたか ら,染つぼはみな川 に近 い所 に
**10 掘 った。つぼに水を入れ るにも都合が よか った。
蘭刈 りが始 まったo蘭植 えは寒 さと水 との戦いであったが ,今度は暑 さと泥 との 戦いで一年生の自分に どれだけやれ るかの試練であった。併 し家のは一反歩 ばか り で,働 きては一応四人いたか ら頭割 りにす ると二畝半だか らそ う恐れ ることはない と思 ったO
だが今 まで一度 も蘭を刈 ったことはない。父 さんの半分 も刈れないOそ ぐ り手は 二人いるか ら父 さんは しん どか ったが,「今年は一人ふえて楽にな った」と菩 こんで
くれたD
晩に染めるのは父が一人で染めた
。
川泥 もじょれんでひいて染つぼに入れ ,自分 は杓子でつぼに水を入れたO染めた蘭を立てるのは,どうにか一人前にで きた よ う に思 う。少 し手ぎわは悪かったが。大正初期の岡山県南部農村におけ る農業 ・商業 1487
生ゆを染場に運ぶのは雁張 ったO母は 「そ う無理をす るな,少 しづつ再 々にせえ, 渡が折れたらどうす る」と心配 した。で も昼の暑 さのことを思 うと晩のこの涼 しさ, 気持のよさ,ゆが らに腰をすえて汗 と泥の中にも何かいい知れぬ さわやか さがあ る
**11 なあ,とつ くづ く思 った 。
「悦 よ,どうした」といわれて 目をさます と,もうほかの者は田んぼにでかけ る用 意を していた。 「ユをは してか ら朝め Lにするか らな」,母は云 って出て行 った。 こ れはと起 きあがると腰がべ きべ きす るようで痛か ったC我慢 して仕度を してい る う ちに次第に よくなって,急 いで田んぼに行 って,頼べたに泥がつ くので手拭 をほ う かむ りを して生イをかついだ。 うすい じぽんを通 して生イの冷たいのが‑ ダに浸 み るようで,初めはち ょっと気拝が悪か ったがす ぐなれたO
すべてが始めてだか らイを拡げるのも厚いところや うすい所ができて,なかなか 思 うように拡が らない。手で直 しなが ら干 したが,それでも他の老 よりは手 ぎわが 悪か ったO「よい よいo生イだか らまた返のだか ら拡げてあればえ 、んだ」oそ うい えば何時聞かの後に一度返すので,別に差支えはないようであった。
朝め Lを食べて‑ぶ くしなが ら父は 「今 日は よく照 るようだか ら,朝刈 りを少 し す るかなあ」 と云 って,少 しばか り刈 って染めては したが,朝刈 りの蘭はべ ち ゃべ ちゃしてさっぱ り拡が らない0‑度地面 に大 き くたた きつけて水 を切 って拡げ る が, うま く拡がらなか ったo 自分は この ようにおそ く乾 して結構乾 くのか と父に聞 くに,「陽さえ照ればもっと遅 く干 しても乾 く。却 って朝刈の方が色 もよい」と教え て くれたO見ると他の家では,まだ これか ら染めて干す らしく,染める準備 を して
**11‑12 いた 。
「今 日は よく照 りますなあ,よく乾 きますなあ」と人々は挨拶 している。暑ければ 暑い程 よいのか も知れないが,一年生にはこたえる。「こうまで照 らな くてもよいの になあ」,と思いなが らみんなのす るように,朝早 くか ら生ユを拡げる,朝刈 りをす る,ダキを干す ,蘭を刈 る,ダキを返す ,生イを返す ,蘭を刈る,ダキを収納 ,蘭を
‑5 4 5 一
1488
刈る,生を束ねるQほんとに暑い中でこうまで働かねばならないのか,と思 う程忙 しい。
一仕事をすまして 日覆の下で休んでいると,西の山の上えに不気味な雲が出て き た。まだ生イは拡げてあるからみんな立ち上がった。刈っている家には,手を休め て西の空をみている。早い家では束ねは じめているQそ こでどこの家でも一斉に束 ねは じめた.隣の村でも忙 しく束ねているo雲は次第にこちらに拡がって くる。 も うみな必死である。遠 くでは雷が鳴っているO近所の腰のまがったぢいさんまでが 飛び出して近 くに干 してあるのを束ねている。
ようや く束ね終 って‑ と所に重ねてコモで覆いをしていると,ポッリポッ リと来 た.雷 も大 きくなったO「ヤ レヤ レ間に合 うてよかった」と汗をふきながら見ると, 遠 くの家では遅れているのか,大勢の人が寄 って手伝 っている。併 し雨は大 した こ
ともな く,ほんのば らばらですんだ。
「大きうの うてよかったなあ
」
「ほんとになあ」とは,このときのみんなの合言葉**12‑ほ であ った。
こ こに は蘭 刈 り労働 の激 しさが具体 的 に記 され て い る。
(4) 畑 作 物
畑 は家 か ら150メー トル ほ ど離 れ た小 高 い丘 に あ った。 広 さは9畝 歩 ほ ど で あ る。上下 二段 にな って いて ,そ の境 い 目に桐 の木 が7,8本 ,一 直線 に植 えて あ って ,暑 い時 な ど涼 み休 む のに都合 が 良か った。 隅 には孟 宗竹 の薮 も あ り,一段 高 い隣 りには真 竹 の薮 が あ った. この畑 では多種類 の作物 が栽培 され るo
高等 小学校 を中退 して家 で養 生 して い る頃
,
「畑 に も よ くつ い て 行 って ,*45
い も類 ,大 小豆 ,莱 ,そ ば ,野菜類 の耕作 を手伝」 った。 9畝歩 の畑 で は , 蘭草 苗 ,麦 , さつ まい も,馬鈴 薯 ,ササ ゲ,大根 ,栗 , ソバ , ゴマな どを輪
**5‑6
作 し,また牛穿 , ラ ッキ ョウ,蕗 な どが作 られ る。大根 には聖護 院大根 ,蘇
大正初期の岡山県南部農村における農業 ・蘭業 1489
**1T
馬 大根 の名 が 出 る. また , 日常 よ く食 べ るネ ギ ・ナ ス ・キ ュ ウ 1) ・葉 菜 芙削ま 屋 敷 続 きの菜 園 でつ くられ る。 くも し (堆 肥 の 山) の裾 に土 を寄 せ て ユ ウガ
**5‑6 **a)‑21
ホ , カボチ ャを植 え る。一 時 は大 麻 を 田
3
畝 歩 ,畑1
畝 歩 作 付 した 。畑は今 まで手人が よか ったのか余 り草 が生 えなか ったので助 か ったが ,植物 に よっては忙が しか った。ササギを余計植えた ところ熟す る頃それを千切 るのに閉 口 した。朝晩取 りに行 ったが,ともすれば熟れす ぎてきゃがほ じけて実が落 ち るので 困った。
大根が生えて少 し大 きくなった頃,コガネと云 う虫が出て,取 って もとって もと りきれず ,少 し油断を していると全部食われて しま うC比較的のんび りで きたのは さつ まいも,きんかいもに麦b
ゴマは成育期間が短か くて収穫 でき,ソバは秋の彼岸にまいても晩秋 ,初冬 の頃 とれ,粟は‑穂 ごと摘むがはが大 きいので左程手数 もか 上らなか った。
牛努にラッキ ョウ,蕗は殆ん ど手間がかか らなか った。
ソバをウスでひいて ソバ粉をつ くり,おい しい汁をこしらへて ソバがきに して食
**6‑7
べたが とても美味 しか った。
蚕豆 もつ くっていた。家では毎年一反歩ばか り蚕豆を植 えていた。蚕豆 をつ くる のには別に肥料がいらない上に跡の稲 もよくできるので ,どこの家でも一反歩位 は 作 っていたo併 し五月頃大雨で田んぼに浸水す ることがあれば,後 日木が しおれ て 満足に実が とれないことがあるので,少 し高めの田んぼでつ くらねはいけない。
栽培の方法は大体麦 と同 じであったが,肝心な ことは五月上旬最後の土寄せをす るとき,根元に近い処に錐を入れないことで (若 し草が生えていた ら抜かず にそ っ と千切 る),坂元の草を抜 くと次第に木が しおれて枯れ る ことがあ るか ら注意せね ばいけなか った。
五月の中旬頃か ら若い実が とれ る。千切って来て若い実を ミソな どで炊 くととて も美味 しい。た くさん植えてあるので毎 日とりに行 ったが,自分でつ くった木 か ら
‑547‑
1490
若いきゃを千切るのもまた楽 しか った。 日々腹‑パイたべて終いにはもう食べた く ない程に食べた。
熟 した実をP^に何バイか とったが,売 った ことはな く,退屈のとき妙 ってオヤ ツ
**4‑5 代 りに食べ,またあんな どに して結構始末 していた。
大小麦の収穫を終 って田植えの準備にか 、るが,まだ蚕豆が残 っているので きゃ を全部千切 ったD普通の家ではさや ごと木を抜いて乾 し,後 日田植を済 ま してゆ っ
くり始末す る家 もあったが。
**8
千切 った豆を延に拡げて乾 して唐竿また よじろで打 って実 と皮 とを別けた0
‑‑寸畑にも行 って見たが何 もしなか った。ササギや さつまいもも大豆 な ども見
**13 違える程大 きくなって,ここではひ と雨欲 しい状況であった。
畑では蘭刈 りの終 った頃か らぼつぼつササギが熟れだすか ら,これは何 をおいて も取 りに行かねはならん。採 るのが後れるとほ じけて実が落ちるか ら油断が 出来 な い。他の作物の耕作は取急いです る要 もなか ったが,ササギだけは忙が しか った。
それでも田の草の合い間に行 って,大豆や粟の中耕 ,さつ まい ものつるを あげて谷 の草を削って谷を引いた りしたo畑 の仕事は田の草 とは違 って何処で も腰 をかけて
**13‑14 休めるか らよか った。
祭 りがすんで畑の粟が よく熟れたので穂をつみに行 った。粟の穂は大 きいOそれ が大 きく頭を下げているのを見 ると,何だか今年は豊年 と云 う感 じが した.大 きい か ら摘むのにそ う大 した手間はかか らない。乾 して実にす ると可成 りの収穫 が あ っ た. ウスでついて精 白に して精米を六割ばか り交ぜて粟餅をつ くった ら黄 色でキ レ イな餅が出来たので早速食べて見た ら味は思 った程のことはなか った。 きれ いでは あったが矢張 り雑穀は雑穀 であった。
田のあぜや畑の大豆 も熟れたので抜いて帰 って豆 こぎをこいで実を とったO黒豆
大正初期の岡山県南部農村における農業 ・蘭業 1491
の よいのもとれた。家では これで味噌をつき,キナ粉やオイ 1)に して食べ て残 りは 売 った。
楽 しみだったのはいも掘 りだったoつ るを切 りあげて太いぢ くのまわ りを大 き く うがす と大 きないもが鈴な りに出て来 るので面 白 く楽 しか った。家ではみんない も が好 きだ ったか ら総がか りで畑に行 って掘 った。いものちちが手についてなかなか 落ちずち ょっぴ り嫌な ところがあったが,当分焼いた りフカシた りしてふ んだんに 食べ られるか,と思 った らかついで帰 るのもそ うしん どく感 じなか ったD
少 し遅れて ソバが熟れた。刈 って帰 って豆 こぎでこいで,何 日も乾 した ちょい実 が とれたが,少 々収量がす くなか った。併 しこれは或いは栽培の方法がまずか った のではないか と思 ったO寒 くなった時 これを ウスでひいて ソバ粉をつ くり熱 いおい しい汁でこの粉を練 って 「ソバガキ」を して食べてたが とても美味 しか った。
畑の今年の最後 の仕事は大根ひきであった。天候 もよくて丸い聖護院大根 に ,長 い練馬大根が よくできた。練馬大根な どは余 っ程気をつけて上手に引かない と途 中 か ら折れることがあったO
当座に食べ るものはそのま 、畑に残 しておいて,引いた大根は家に持ち帰 って大 小いろいろに分けて適当に束ねて軒先や竿をこしらえてかけて乾 した (大 きい もの は沢庵漁に,長 く細いものはね じ大根に ,折れた りキズのあるものは切干大根 に し た)。
適当に乾いた頃竿か ら下ろ して表面を藁でこす って大 きい樽に糠 と塩 とで漬けた が,これは父 さんの仕事であった。 また浅漬 とい って余 り乾 か さず に漬けて数 日
**16‑17
経 って食べるのも拾 え た。
(5) 農 業 の 改善
以上 は初 め て本 格 的 に農 業 に従 事 した1915(大 正4) 年 の 農 業 従 事 で あ る。 「た だ 父母 に 言 いつ け られ た仕 事 を手伝 った程 度 で ,わ た し と して 何 ら 積 極 的 な勉 強 も しな か っ
た
」。つ ぎの年,17歳 とな り,少 し勉 強 しな け れ ば な らな い と思 って いた矢 先 ,農 業 熱 心 な人 が い て ,種 苗 会 社 や の カ タ ログを く‑549‑
1492
れた。種 々めず らしい草花や果樹の絵な どがあったが,そ こにあった 「薬草
**19‑a)
と毒草」,「日本農事改良会報」の広告があ り,それを取 り寄せて勉強 した。
新 しい作物を栽培 した。それは大麻である。 この地方の特産の畳表の経糸 をこの地方では ヒメといったが,この経糸の原料の荒そは栃木県か ら移入 し ていた。その皮が荒そ となる大麻を試作 して好成績をあげた先例をみて,一 斉に栽培 しは じめた。町の農会でも力を入れて種子の購入斡旋や栽培指導を 行なった。悦太郎の家でも畑に 1畝歩 ,田に3畝歩ばか り植えた。春彼岸頃 ていねいに整地 して,広い
6,7
尺の畦に してガンギを横に切 って密植に播 く。 7月上旬に収穫する頃には7,8尺 くらいになった。 6月の暑 くなった 頃には谷に水を入れて水分を補給 したC畑は乾 きやすか ったか ら5, 6尺 くらいに しかならなか ったが,その代 り皮が薄 く良質のものが とれた。
収穫は7月上旬である。丈夫な特製の鉄で根元か ら刈 って,刀の形を した 棒で葉を しごくように して払い落す。それを釜で蒸 した り,茄でた りした。
蒸 しあがったものは乾かぬ ように束 ごと川に投げ込む。皮むきは根元の部分 の皮を少 し剥いで指に爽み皮を手前に しごく。剥いだ皮は竿にかけて陽で乾 かす。
大麻づ くりは畳表に必要な よい作物であったが,収穫時期が7月であった ので,蘭刈前 と田の草取 りのもっとも忙 しい時であったので,手間の少ない
**a)‑21
家は思 うようにいかなかった。
1918(大正 7)年には米騒動があった。農家では米を売 って麦を食べるこ とが行われた。米をつ くることに力を入れるとともに,麦作に力を入れだ し
た。 **25
各地に麦作講習会が行われた。稲作 と蘭作の講習 も行われ,改良研究会が
**25
結成 されて多収穫品評会が毎年行われるようになった。村の青年の間に農業
**25 研究熱が高ま り,「長津青年農事改良研究会」が結成 された。
大正初期の岡山県南部農村における農業 ・商業 1493
やがて ,研究会 の会長 とな った悦太郎は ,いっそ う責任 を感 じて,会員 と ともに研究 ・改良 ・増産 に励 んだ。町主催 の多収穫共進会 は もとよ り,郡 の 共進会 ,さらに都窪 ・浅 口二郡連合 の共進会 に も出品 して入賞 していた。そ して一応若 い精農家 と人にいわれ るよ うにな って ,ある年 ,町か ら選抜 され て愛媛県の余土村 に稲作 の視察 を行った。余土村 は当時稲作 の多収穫 で名を 知 られた ところで ,その村 の役場や精農家 の家 を訪ね ていろいろ説 明を聞い
**28 たo
栽培の方法についてはそ う大した変 りはなかったが,その人は 「二化めい虫の被 害の茎を極めて早期に発見 して切 り取る」とのことであった。稲の穂ばらみのとき,
「ほんの少し色が変っているときに切 り取るo赤 くなってからでは効果が少ない」
**58
といっていた。
この愛媛県 の余土村 は ,温泉郡 に属 し,松 山市か ら西南 1里 の地 である。
ここには盲 目の村長 の森恒太郎な る人物 の もと,折か らの 「町村是」作成 に (12)
熱心な所 である。そ こに派遣 され るな ど,まさ しく青年精農家 として活躍 し は じめた。 しか し,まもな く,後 にみ る よ うにわず か りの耕 地 の農 家 とな
り,蘭延づ くりを仕事 としてい くようにな るのである。
5
蘭 蓮 製 造畳表 ・花共産 に関す るものに
,
「蘭植 え」,
「蘭刈 り」,
「祭 りまえ」 (畳表織 り),
「大麻 をつ くる上 「蘭草 について上 「ゴザ織 り」 な どがある。佐藤悦太郎は,1915(大正4)年 の項 でつ ぎの ように記 してい る。
盆がすぎて秋の鶴崎様の大祭まで五六十日の間は田んぼの仕事がずっと少 くなる ので,父が蘭落しをしっ 、外の仕事をすることになって,自分は内の仕事を手伝 う
‑ 5 5 1 ‑
1494
ことに した。 この地方の副業は特産 の畳表 を織 る ことで , どこの家 で も祭 り前 と いって‑生けん命にこの期間,表を織 った。
自分は ヒメウミ (経糸をつむ ぐ)のけいこか ら始めた。最初は うまくウメなか っ たが ,す ぐなれて上手にウメるようになったO蘭の本を抜いた り蘭選 りを母 と交代 で,また母は姉 と交代で表を織 った。
彼岸が来て涼 しくなれば どこの家 も必死の状態で,手間の よい家では交代 で夜通 し表織 りに精を出す。真夜中す ぎて小用に外に出ると,はなれた隣村にあち こち灯
**18 が見え,耳をす ませばカ ッタンコットンの音が しき りに聞 こえて くる。
自分はガラガラとヒメウ ミ稜を踏みなが ら 「どうして この地方の者は この様 にガ ムシャラに働かねばな らんのだろ う,祭に金がいることは一応わか るが ,こ うまで
**19 しな くても‑」 と考 えたが どうも解 らなか った。
旧盆 す ぎか らの2カ月 ほ どの 間 ,農 家 の婦 女 子 が 畳表 の製 造 に従 事 す る様 子 が描 か れ て い る。 原 料 の麻 を も って経 糸 を 紡 ぐ こ と ,蘭 草 の 芯 を 抜 く こ
と,そ して織 り立 て る こ とを婦 女 子 が行 な うこ と,秋 の鶴 崎 神 社 の大 祭 を 目 途 に ,そ の間 ,人 手 の あ る と ころで は交 代 で徹 夜 で行 な わ れ る こ と,そ の徹 夜 で の織 り立 て が か な りの家 で行 なわ れ て い る こ と ,な どの描 写 で あ る。
蘭 草 は ,長 蘭 は花 延 製 造 用 と して販 売 され ,短 蘭 ‑六 蘭 で も って 中継 ぎの 畳表 を製 造 した とい う記述 が あ ったo Lか し,悦 太 郎 は ,
蘭草については蘭草をつ くって売 るばか りではな くこれを利用 して特産 の畳表 を 製造 して農家の経営の一助 とす ることで,い草作 りはこの地方では米麦 と共 に重要 な作物であるか らしぜん この栽培に力を入れたが,長津の部落でも講習会 を開 き研 修 したが,更に と思 って茶屋 ・帯江 ・豊州 ・早島の四ケ町村連合の講習会 に も出席
して一応の技術は習得 したが,ここで私は考えたO
只 ものを作 ることばか り考えていては駄 目だ。出来得 る限 りこれを利用 して収益
大正初期の岡山県南部農村における農業 ・商業 1495
をあげ農家の経済を豊かにす ることが第一である。幸いこの地方は良質の蘭草 がで きるか ら益 々この革の増産を図る反面 ,特産の畳表の製造に も今一層努力す る必要 があると思 って,少 しづつではあるが農作業 も経済的に行なわねば と,良質 の大麻 が とれなか ったので栽培をやめ,畑作 も粟,ソバをやめて手間のかか らぬ さつ まい もと大豆を主 とし,大根 ,ササギは父の仕事 として極力わた しの余暇をつ くって閑 さえあれば畳表を手伝い,また私 自身 も此頃では充分人並に織れるようにな ってい
た 。
蓑を織 りなが ら私は今は短 い蘭ばか りで蓑をおっているが,長い蘭を織 れ ばなあ
**2&‑29 と終始思 っていたO ‑いや 「きっとそ うしてみせる」 と意欲をもや してい たo
そ して ,
二十五才の春 ,私は妻を迎えた。弟 も大分大 きくなったので蘭草を四反 ばか り植 えた.その頃 この地方で四反植える家は少な く二反余 りが普通であったD これ は予
(†マ)
てか ら考えていた長イを使 っての ゴザ織を仕様 と考えたか らであった。妻 が家‑来 る前 ゴザを織 っていたので丁度都合が よか った。早速 ,機を新調 して残 していた蘭 をもって織 って売 ると蘭草で売 るよりず っと利益が多 くもうか ったので,今度 出来
**Z) る蘭は全部 自家製に して売 るとして村では始めて ゴザを織 った。
新蘭が とれた時分に古い機を一台買いた して長 イ ものか ら短 い もの も殆 ん ど織 り,ず っと短いものは畳表に織 った。家のものも表を綴 るよ りもこの方が よい とゴ ザ織 りを喜 こんで して くれた。次の年 も植えて益 々田んぼの合い間に盛業 にや ろ う
**2g‑3) と思 った矢先思わぬ大障害が起 きた。
そ れ は思 い も しなか った肺 尖 カ タル と神 経 痛 に な った こ とで あ る。 肺 尖 カ タル は数 カ月 で治 った が ,神 経 痛 は続 いた。 左 半 身 が痛 くて思 うよ うに仕 事 が で きな い。 大 分 長 ら く医者 に通 った が駄 目で あ ったO 「重 労 働 は で きな い
**3] か ら農 業 は無 理 だ 。 何 か 軽 い仕 事 を しな さい」, と医者 に宣 言 され た。
‑ 553‑
1496
家を弟に譲 って近 くの田路に小 さい家を建て 、貰 って分家 した。三反ばか り分け てもらって飯米百姓になった。当分蘭草を少 しばか りつ くって ゴザ織 りで もす る よ り外に道はないO これで私は百性に別 れをつげて どっちつかず の人間にな って仕
**3L)
舞 った。
当初 ,畳表 を造 って いた が
,2 5
歳 の と きに花 延 の製 造 の経 験 の あ る女性 を 妻 に迎 え た のを契機 に 自家 生 産 の蘭 草 の うち の長 蘭 を使 っ た ゴザ ‑花 延 製 造 を始 め た。 そ して ,家 督 を弟 に譲 り, ご く小 さい農 地 のみ を貰 い受 け た悦 太 郎 は ,以後 は この花 延 製 造 を行 な うよ うに な って い くの で あ る。註
(1)以上2の節の叙述については,その出所などは拙稿 「主要蘭業地早島町における蘭産 業」『岡山大学経済学会雑誌』第29巻第4号1998年3月。なお拙稿 「蘭業」『早島の歴史
2通史編 (下)』1998年 早島町O
)))))))))))23456789101112(((((((((((
『早島の歴史2通史編 (上)』1997年 早島町 129‑130ページ。
岡山県内務部編 『岡山県の蘭草』1910年 18‑19ページ。
(3)と同一書 (3)と同一書 (3)と同一書 (3)と同一書 (3)と同一書 (3)と同一書 (3)と同一書 (3)と同一書
19‑20ページ。
21ページD 22ペ‑ジ。
22ページ.
22′‑23ページ。
23ページ。
30ページ。
39‑40ページ。
森恒太郎 『町村是調査方針』1909年 丁未出版社。