はじめに マレー半島中部にはポンドック︵Pondok︶と呼ばれるイスラーム塾︵学校︶が多数存在する︒パタニ・マレー語 ではポノ︵Ponoh︶という︒旧パタニ王国地域である南タイのパタニ︑ヤラー︑ナラティワート県の他︑マレーシ
アのクダー州︵旧クダー王国︶とクランタン州に多い︒一九〇九年の英=シャム条約により設定された国境はその 論文要旨 マレー半島中部のパタニとクダーは一三〜一五世紀頃にマレー半島でもっとも早くイスラーム王権が誕生したと言われる︒交易都市としての繁栄は一七世紀を頂点とし︑以後は辺境地に凋落する︒その代わりパタニは一九世紀の末から東南アジアのイスラーム学習の拠点となった︒パタニ出身のイスラーム学者シェイク・ダウドがメッカに留学して︑パタニ・マレー語によるイスラームの翻訳書を多数著し︑それが弟子によって持ち帰られ伝統的学習塾であるポンドックで教科書となっている︒ ポンドックは現在のタイ=マレーシア国境地域にあたるパタニ︑クランタン︑クダーに広がっており︑その影響は現在の国境の枠で考えるべきではない︒ポンドックはメッカ留学のための予備教育の場として機能し﹁メッカのベランダ﹂と呼ばれる︒ポンドックとメッカ間の知的ネットワークは一九世紀後半から二〇世紀前半にかけて活発になり︑一般ムスリムのイスラーム実践をもより深化させた︒キーワード イスラーム︑ポンドック︑パタニ︑クダー
『宗教研究』94巻2輯(2020年)
シェイク ・ ダウドとポンドック ︵ ポノ ︶ の役割
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マレー半島中部におけるイスラームの﹁越境する﹂学術ネットワーク
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黒 田 景 子
ポンドック分布地域を分断している︒ ポンドックとその教育の広がりによりこの地域のイスラーム実践は一九世紀後半から二〇世紀にかけて深化し︑特にイスラーム実践の厳格な地域としても知られるようになった︒
本稿では︑ポンドックとそこにイスラームの知をもたらした歴史的過程を見ることによって︑国境を越えた地域
認識やさらにメッカにつながるイスラームの知的ネットワークの広がりを示すことを目的とする︒パタニやクダーは東西交易の拠点であると同時に︑マレー半島で最も早くにイスラーム化した地域でもある︒交易拠点としてはす
でに辺縁化しているが︑イスラームの知を担う役割はいまだに大きい︒国境分断によりパタニでは仏教的価値観を
国是とするタイの同化政策に対する反発からパタニ独立運動が生じ現在もなおテロ行為は続いている︒一方︑国教
をイスラームとするマレーシアでは︑より﹁正しいイスラーム﹂を求める社会的気運が高まり︑南タイからの移住民であるクダーのシャム語話者ムスリムは﹁不真面目なムスリム﹂としてマジョリティの中のマイノリティとして
の不遇を受けてきた︒国境によって分断されたポンドック・ベルト地帯をどう認識し︑理解するべきであろうか︒
一 マレー半島中部の交易都市群 1 地域認識 本稿で言及するマレー半島中部とは旧パタニ王国︵現タイのパタニ県︑ヤラー県︑ナラティワート県︶とマレーシアのクランタン州︑トルンガヌ州︑旧クダー王国︵現マレーシアのクダー州︑プルリス州︑ペナン州︑現タイの
サトゥーン県︶を指す︒
シェイク・ダウドとポンドック(ポノ)の役割
このような細かい説明を要するのは︑一九〇九年の英=シャム条約によって近代国境が設定され︑以後の近代国家建設の中で国民言語や宗教などの条件が異なる中で︑地域の姿が見えにくくなっているからである︵地図1︶︒
地図1 マレー半島中部
またこれらの地域は王がイスラームに改宗したと言われる一五世紀半ば頃からシャムへの朝貢国でもあり︑二〇
世紀初頭までその関係は続いた︒
仏教を王権の基盤にもつシャムがこれらの諸国との朝貢関係を維持したのは︑これらの港市国家がシャムの交易
ネットワーク拠点であったからに他ならない︒マレー半島中部の港市はシャムの登場以前から重要な東西交易の舞
台であった︒
イスラーム化以前のこの地域の状況については漢籍の記録が主であるが︑いずれも外世界からの訪問︑観察記録
であり︑当地が自らをどのように認識していたのかについての史料は極めて少ない︒
その中で一七世紀にパタニで書かれたと言う﹃タリク・ファタニ︵Tarikh FataniあるいはTarikh Patani︶﹄は︑イ スラーム化以前のパタニと近隣港市についての古記録を綴ったもので︑その地域認識は興味深いものである︒パタニのペルシャ系ムスリム高官シェイク・ファキ・アリ︵Sheik Faqih Ali︶がパタニスルタンの要請により︑アラビア
語で書したものを原著とする︒原資料はその父シェイク・サフィユッディン︵Sheikh Safiyuddin︶の手稿︑またスル
タンからの提供やさらにリゴール︵ナコンシータマラート︶の元仏僧によるサンスクリット語やパーリ語史料の読み解き︑ボゴール出身のジャワ人の協力︑華人の伝承などを元にしている︒
この書によれば︑パタニはランカスカ国の中心がクダー南部にあった時代の一港市であり︑ソンクラー︵Song-khla︶︑ナコンシータマラート︵Nakhon Si Thammarat︶︑クランタン︵Kelantan︶︑クダー︵Kedah︶などが近隣諸国と認識されている︒もとはインドからのバラモン教やヒンドゥー教︑仏教の影響をうけた慣習や寺院を有していた
が︑交易商人の華人やインド人︑イスラーム商人などが訪れて︑土地の人間と婚姻しパタニのマレー人はその結果
シェイク・ダウドとポンドック(ポノ)の役割
生まれたと記述する︒仏教徒とムスリムの間では豚を巡る多少の衝突はあったものの︑多宗教の共存する港市世界の姿が描かれている︒この書に出てくる港市はいずれもパタニ王権と婚姻関係で結びつきがある︒この港市群の地
域認識は当地の歴史理解にとって必須の視点である︒
2 イスラーム化の過程 まず﹁イスラーム化﹂について確認をしておきたい︒なにをもって﹁イスラーム化﹂と呼ぶかは︑たぶんに現地
の時間や空間によって異なる過程を経る︒急進的な解釈が生まれ続ける西方のイスラーム世界からみれば︑時に東
南アジアのイスラームは﹁逸脱・堕落﹂したもの︑あるいは﹁古い﹂理解であると否定︑ないしは批判される場合
もある︒東南アジアのイスラーム学術は常にメッカやカイロなどからの情報によって更新されつづけてはいるが︑それが急速に広まったのは実に一九世紀の後半以降のことである︒東南アジアの﹁イスラーム化﹂の浸透は極めて
長い期間を要してきた︒
いつ東南アジアの王国が﹁イスラーム化﹂したか︑と問うことは二重の意味で非常に難しい︒一つは﹁イスラーム化﹂の規範をなにに置くか︑という問題であり︑もうひとつは圧倒的に近現代以前のイスラーム実践についての
記述が少ないという史料的な制約によるものである︒
東南アジア島嶼部でイスラーム化が始まったのは一三世紀末からであるとされる︒そして港市の王権がイスラーム化したのは一五世紀半ばと言うのが定説である︒この場合︑王権がイスラーム化した証左は王がイスラーム名を
名乗ったという伝承による︒
パタニにおいては︑王が改宗する以前からすでにムスリム商人が当地に居住し︑仏教徒やヒンドゥー・バラモン
との共存関係にあった︒パタニの王がイスラームに改宗したのは︑﹃ヒカヤット・パタニ︵Hikayat Patani︶﹄によれ
ば︑皮膚病を患った王を︑パサイからきたシェイク・サイードが治療し︑イスラームへの改宗を求めたという︒王が改宗の約束を破ったため二年後にまた病気が復活し︑シェイク・サイードが再び治療するかわりに強く改宗を迫
ったため︑王は病が治ると﹁信仰の告白﹂をし︑スルタン・マンスール・シャー︵Sultan Manzur Syah︶とイスラー
ム名に変えたという︒しかし︑王宮の外は非イスラーム教徒であり︑王自身も︑偶像礼拝と豚肉を食べることをやめたが︑それ以外は従来の習慣を一つも変えていない︒
次世代の王ムザッファール・シャーの時代に︑パサイからシェイク・サフィウディンが来て︑王は彼の助言を入 れて︑モスクを作った︒初期のモスクは木造であり建築様式や装飾などに︑仏教寺院のウィハーン︵Wihan︶と共 通点が見られる︒ウィハーンがモスクに作り直された可能性も示唆される 1︒しかしイスラームの広がりの一方で︑霊や自然神︑石像への崇拝の慣習は残っていた︒
一方西海岸のクダー︵Kedah︶の﹃ヒカヤット・メロン・マハーワンサ︵Hikayat Merong Mahawangsa︶﹄はクダー 王のイスラームへの改宗とスルタン・ムザファル・シャー︵Sultan Mudzafar Shah︶への改名を一一三六年とするが︑年代については信頼性が薄い︒しかし︑クダーはアチェ︵Aceh︶王がイスラームに改宗した一四世紀以降︑アチェ
のクダーへの圧力が減じた後に︑首都をクダー南部のブジャン渓谷周辺から北部へ遷都している︒クダー王のイス
ラーム化はその前後であろうと考えられる︒
﹁イスラーム化﹂とは現在進行形で変化しつづけていくものでもある︒現地の慣習法などとの﹁現地化﹂も伴う︒
﹃ウンダン・ウンダン・クダー︵Undang Undang Kedah︶﹄は一七世紀半ばから一八世紀にかけて編纂されたクダー
シェイク・ダウドとポンドック(ポノ)の役割
王国の法令集である︒そのなかには王に関する儀式や港湾法︑婚姻や商法に関するもの︑シャムへの朝貢品やパタニやジョホールなどへの典礼の取り決めなどが納められている︒王の役割や儀礼︑王の衣服などの規定に関する部
分などは︑バラモンや仏教的な儀礼要素が未だ強くのこっている︒民法にあたる部分にはイスラーム法が完全には
取り入れられているとは言えず︑地元の慣習法︵Adat︶との融合が見られる 2︒ 3 繁栄の一七世紀 マレー半島中部の港市の繁栄期は一七世紀である︒東南アジア世界の﹁交易の時代﹂の後期であり様々な勢力が
活発に交易活動をおこなった︒一五世紀頃から西欧や日本も参入していた︒
パタニは東西港市の拠点であると同時に︑南のジャワ︑北のシャム・アユタヤ朝との交易︑政治における焦点となっていた︒西方のペルシャやインド︑西欧諸国の商人もパタニに商館を置いた︒胡椒が交易の主品目であった︒ 東方からは華人商人や日本商人が到来した︒近世日本史料﹃唐船風説書﹄の記録ではこの地域は﹁じゃわ﹂と呼 ばれていた︒華人商人は米を︑日本商人は鹿革や蘇芳などを商っており︑パタニやソンクラー︑ナコンシータマラートを経由したシャム︵暹羅︶からの船が琉球や九州に到来していた 3︒
西方からのペルシャ商人の活動が活発で︑シャム・アユタヤ朝では一七世紀初頭にはペルシャ系ムスリムのシェ イク・アフマッド・コーミ︵Sheikh Ahmad Qomi︶とその一族がアユタヤ朝の高官となり︑国際交易都市としてのアユタヤの隆盛を象徴する︒アユタヤにはシャム王の改宗を目的としたスマトラからのイスラーム使節やフランス
のキリスト教使節なども訪れた︒交易に熱心なナライ王︵ラーマーティボーディ三世 在位一六五六︱一六八八︶
の時代はアユタヤ朝にとっても黄金期で︑シャムの﹁朝貢国﹂であるマレー半島の港市もまた隆盛を誇った︒
パタニではスルタンの死後︑女王が四代続いた︒最初の女王のラジャ・ヒジャウ︵Raja Hijau︶は一五九二年に日 本へも使いをよこしている︒妹のラジャ・ウング︵Raja Ungu︶はパハンのスルタンと結婚した︒この時期には華人で当地に居住する者も増えた︒二代目女王のラジャ・ビル︵Raja Biru︶の時代に華人商人でイスラームに改宗した
林道乾︵Lim Toh Khiam︶は﹁パタニ女王﹂の名をもつ大砲の鋳造と︑クルセモスクの建設を試みている 4︒クルセ
モスクはペルシャ型石造モスクで︑建設中に屋根が崩落して何度も完成せず︑それにまつわる伝説でも有名だが︑屋根部分の設計が未熟でドームが作れなかったのだろうと言われている︒初期のモスクは木造であり︑一七世紀に
ペルシャ式のイスラーム建築技術も入ってきたということであろう︒
この世紀はマレー半島にもっともイスラーム勢力が伸張した時代でもある︒また︑ジャワから逃れてきたという ペルシャ系商人モゴール︵Mogol︶とその息子のスライマン︵Sulaiman︶が一七世紀にソンクラーに根拠地をおいて港市の主となり︑自由貿易を行った︒このムスリム政権はパタニに貢納していたと言われる 5︒
ナコンシータマラートにはムスリム総督が派遣され︑ラジャ・ビルは︑ラジャ・ウングの娘をこの総督と婚約さ
せた︒しかし︑次代女王になったラジャ・ウングはこの婚約を破棄して︑ジョホールのスルタンと結婚させた︒交易拠点の地位を維持するための政治的駆け引きである︒
パタニはなんどかシャムと戦っている︒一六三六年にはシャム軍の攻撃をうけたが︑内陸に籠城して耐えた︒パ タニの交易に影響が出る頃に︑クダーのスルタンの仲介によってシャムと和睦し︑またシャムへの朝貢を再開している︒Bradley はこの戦いのころパタニにはシャムと対抗するだけの力があったと判断する 6︒
シェイク・ダウドとポンドック(ポノ)の役割
二 パタニの試練と政治力の凋落 1 風向きの変化 港市パタニの繁栄に陰りが出てきたのは一七世紀の末︑交易品の流行が変わったことによる︒清朝の康煕帝はタイ米の輸入を求め︑アユタヤは中国向けの交易品に多量の米の輸出をすることになった︒華人によるジャンク船交
易の数量が増え︑パタニ︑ソンクラー経由の船が増加した︒逆にパタニ︑ナコンシータマラートに拠点をおいた西
欧勢力は商館をたたんで撤退し︑オランダはジャワに︑英国はインドに植民地経営の主力をおくことになった︒パ
タニの四代目の女王ラジャ・クニン︵Raja Kuning︶の死後︑クランタンからスルタンを迎え︑クランタン系のチャ バン・ティガ︵Cabang Tiga︶王家が誕生して現在のパタニ市内に王宮を移した︒ パタニとクランタンの結びつきで︑王家のみならず庶民の言語状況にも変化が生じた︒現在でもタイ深南部三県
とマレーシアのクランタン州はマレー語のパタニ・クランタン方言を共有している︒このパタニ・クランタン方言はタイ語の借用語をも含み︑現在のマレーシアでも癖の強い方言として知られている︒このパタニ・クランタン方
言マレー語︑すなわち﹁パタニ・マレー語﹂は後述するように︑ポンドック︵ポノ︶での教育においても大きな役
割を果たしている︒
その後パタニは港市としての優位性を徐々に失っていく︒華人のジャンク船交易が増加し︑ナコンシータマラー
トやソンクラーが交易の主導権を握るようになった︒
さらに︑一七三三年に即位したアユタヤのボロマコット王は熱心な仏教徒であり︑自らの病気治癒祈願成就とし
て宮廷官僚と共に仏足石参拝をした︒その行幸のメンバーに含まれなかったシェイク・アフマッドから四世代目に 当たるペルシャ系ムスリム官僚は︑ムスリムであるが故にリストから外されたことを知り︑仏教徒に改宗して行事に参加した 7︒また︑一七五五年にはソンクラーのムスリム政権であるパタルン︵Phatthalung︶国主の一族も同じこ ろイスラームの行事をやめて仏教徒に改宗している 8︒領主の仏教への改宗が進行する中︑アユタヤ朝はビルマの度
重なる攻撃により︑一七六七年に首都アユタヤを攻略されて崩壊した︒
2 アユタヤ崩壊とマレー系朝貢国 アユタヤを中心とする交易網の崩壊により︑ナコンシータマラートはすぐに独立を宣言して自らを中心とするシ
ャム湾交易網を維持しようとした︒パタニ︑クダー︑クランタン︑トルンガヌはこの時にシャムへの朝貢関係が清
算されたと判断した︒
ところが︑トンブリーに新シャムの政権をたてたタークシンは直ちにナコンシータマラートを攻略して取り込み
︵一七六九年︶︑シャムの再建を図った︒さらに︑ソンクラーに福建省出身の華人呉氏一族を新国主として据えて独
立港市とし︑華人交易をさらに首都直結型に改編した 9︒ タークシンの後︑シャム・ラタナコーシン朝を建てたラーマ一世はアユタヤ時代の勢力圏を取り戻すことに熱心
であり︑旧マレー系朝貢国にも朝貢の再開を求めた︵一七八六年︶︒パタニがこれを拒否するとラーマ一世は親征
してパタニを攻撃し︑パタニスルタンを捕らえてバンコクに送り︑パタニのシンボルでもある﹁パタニ女王﹂の大砲を戦利品として持ち帰った︒このとき多くのパタニ人が捕虜となって︑シャムへ連れ帰られた︒パタニにはトン
ク・ラミディン︵Tungku Lamidin︶が新スルタンとしておかれ︑シャムへの朝貢が再開された︒
シェイク・ダウドとポンドック(ポノ)の役割
再朝貢を要求されていたクダーはシャムを恐れており︑当時ペナンの租借交渉中であった英国東インド会社に︑シャムからの保護条項を求めたが入れられず︑なし崩しに英国のペナン占領を許した︵一七八五年︶︒パタニの敗
戦の報をきいたクダーは再びシャムへの朝貢に同意した︒クランタンやトルンガヌも同じくシャム・ラタナコーシ
ン朝への朝貢を再開した︒
ほどなくパタニにおいてはトンク・ラミディンや避難民の抵抗運動が続き︑一七八九年に蜂起が起こった︒さら
に︑一七九一年にはメッカから到着したシャイフがパタニの蜂起を支援し︑クダーにも援助を求めた︒クダーはパ
タニ鎮圧をシャムから命じられており︑シャムの要求に応えつつ︑非公式に義勇軍四〇〇人を集めてパタニに送っ
た︒Bradley はこのメッカからの支援をパタニのイスラームの台頭と解釈する A︒この乱は結局シャムによって鎮 圧され︑トンク・ラミディンは処刑され︑チャナの副支配者でタイ称号のルアン︵luang︶を持つダト・パンカラン
︵Datuk Pangkalan︶がパタニ支配を任ぜられ︑力を伸ばしてきた華人政権のソンクラーがパタニを監督国とする︒ ソンクラーは国主呉氏に連なる華人をチャナに領主として送り込み︑錫や金の鉱床の開発に取りかかりさらに勢力拡大を図った B︒
3 パタニエリートの抵抗と敗北 一八〇八年にパタニのヤリン︵Yaring︶でダト・パンカランとサヤード︵Sayaud︶が︑パタニと華人国主ジンサイ︵Yim-Xai︶を襲った事件について︑Kobkua は︑精神的指導者はサヤードであるとする C︒この乱が鎮圧されたあ と︑パタニ王国は七つの小国︑パタニ︵Patani︶︑ヤリン︑サイブリー︵Saiburi︶︑ノンチック︵Nongchik︶︑ラーマン
︵Raman︶︑レゲ︵Legeh︶︑ヤラー︵Yala︶に分割され︑互いに協力的とは言えないマレー人国主が置かれた︒ノンチ
ックにはソンクラーからの華人国主が置かれた︒これによりパタニは大乱を起こす力の集中を失った一方︑西海岸 ではペナンの英国東インド会社が商業中心として注目されるようになり︑ビルマが一八〇九年に錫交易拠点のタラーン︵Thalang現プーケット︶と周辺小港市群を襲い壊滅的な被害を与えた︒その結果港の再建を担うナコンシ
ータマラートはソンクラーを排除してペナンにつながるルートを確保しようとした︒より具体的にはペナンで入手
できるアヘン交易をもこれらの港市が担っていたのである D︒一八二一年にナコンシータマラート軍はクダーを攻撃し占領した︒シャムのラーマ二世にはクダーの朝貢規定違反を理由としている︒クダースルタンは追っ手を逃れて
ペナンに逃げ込んだが︑重臣や民は殺害され︑あるいは捕虜になってシャムへ奴隷として連れ去られ︑クダーは初
めて異教徒の直接支配を経験することになる︒この事件から一八四二年までのクダースルタンの復帰に至るまでの
期間はプラン・ムソビシ︵Perang Musuh Bisik敵の来襲を囁く戦争︶と呼ばれ︑スルタンと親族︑支援者がナコンシータマラートに対して繰り返し蜂起し︑抵抗運動を支援した︒一八三〇年のトンク・クディン︵Tunku kudin︶ の乱︑一八三八︱三九年のモハマッド・サード︵Mohamad Saad︶とワン・マット・アリ︵Wan Mat Ali︶の乱ではク
ダーのみならず︑ソンクラーを包囲︑パタニの七国にも戦乱が及び︑またクダーを支持するパタニ人がこれに参加して戦火は一部クランタンにまで及んだが︑シャムはこれを鎮圧し主謀者は戦死あるいは︑追放された︒
パタニはこの一連の過程で宮廷エリートの多数とその支配力を失った︒また人々は捕虜として連れ去られパタニ
地域の人口も減少した︒ムスリム庶民はイスラーム以外に頼るべきものを失った︒
クダー占領を主導していたナコンシータマラートの有力国主の死︵一八三九年謀殺とも言われる︶と度重なる
戦乱にシャムは倦んでクダーには一八四二年にスルタンが復帰する︒クダーはパタニのように四つに分割され︑シ
シェイク・ダウドとポンドック(ポノ)の役割
ャムの経済圏に近いクバンパス︵Kubang Pasu︶︑プルリス︑サトゥーンにはシャムに近い領主が残り︑のちサトゥーンは国境設定でシャムの一部となる︒
4 汽船の時代の到来と中小港市の淘汰 より大きな流れが東南アジアを飲み込もうとしていた︒一九世紀の半ばから︑帆船に代わり︑汽船が海洋輸送の主役になる︒シャムは一八五〇年代に自前の汽船製造を果たし︑またカントリートレーダーから汽船を借り王がヨ
ーロッパまで行幸するようになった︒水深の浅い港は汽船の立ち寄り先として不向きで︑ナコンシータマラートと
パタニは国際交易港市としての能力を失い︑ローカルな漁港と化した︒現在においても存続しているタイの深海港
はソンクラーとプーケットである︒汽船による長距離海運は交易港としてのパタニの凋落を決定的にした E︒ さらにシャムは一八五四年に中国への朝貢を廃止し︑一八五五年には英国とボウリング条約を結んで︑西欧近代
技術の導入に向かった︒そして﹁チャクリー改革﹂と言われる一連の近代制度改革の中で中央集権化を進め︑地方
統治制度においても中央官吏が各地の知事として派遣された︒ナコンシータマラート︑パタルン︑ソンクラーにおいてもそれまでの世襲領主は廃止された︒
パタニにおいても一九〇二年にパタニスルタン制度が廃止され︑抗議し抵抗したスルタンは結局縁戚のクランタ
ンに逃れた︒一九〇九年には英国とシャムの間での条約が締結され︑現在とほぼ同じ近代国境線が設定された︒
この結果︑旧パタニ王国の大部分と旧クダー王国北端のサトゥーンがシャム領内に残り︑クランタン︑トルンガ
ヌ︑クダーは英領マラヤに編入された︒地域民の意向は顧みられなかったため︑この処分をパタニやクダーの人々
は自国の植民地化ととらえた︒パタニの分離独立運動がこれを契機とし︑様々な分派を生みながら今にいたる抵抗
に至っている︒ このようにパタニ︑クランタン︑クダーは政治経済的にはシャム︑英領マラヤの辺縁的存在に追いやられたが︑汽船の就航はパタニにとって別の大きな機会をもたらした︒すなわち︑ジェッダと東南アジアをむすぶ長距離汽船 運行によって︑メッカへのマレー半島︑ジャワなどヌサンタラのムスリムの留学や巡礼が増加した F︒その中で︑パ
タニ出身学者が著したマレー語のイスラーム教本がメッカからパタニに運ばれ︑一九世紀後半から二〇世紀にかけて︑この地域のみならず︑東南アジアのイスラーム教育︑イスラーム実践に大きな広がりと深化をもたらしたので
ある︒
三 シェイク
・
ダウドとその著書のパタニへの帰還 1 イスラーム教育拠点としてのパタニ 一九世紀にメッカへ留学したパタニの学者たち︑特にシェイク・ダウド・アル・ファタニ︵Sheiku Daud al-Fatani︶による多数の著作とその写本は︑メッカから帰還した弟子たちによりパタニにもたらされた︒イスラームの知のネットワークを通じて︑それはマレー語世界のみならず︑カンボジア︑南アフリカまで広がった︒またそれに伴って︑
一般庶民のイスラーム実践もより深化することになった︒
イスラーム教育の拠点となったのはポンドック︵Pondok︶あるいはパタニ・マレー語でポノ︵Ponoh︶と呼ばれる寄宿制の塾である︒ポンドックは中世イスラーム世界でのイスラーム教育︑研究の場の形を基礎とするが︑マレー
半島においては一七世紀に存在していたと思われる︒初期の教育は教師による口承である︒ポンドックは旧パタニ
シェイク・ダウドとポンドック(ポノ)の役割
王国とクダー王国を中心に多数分布する︒
シェイク・ダウド・アル・ファタニの著作はいまなお︑これらのポンドックで主要な教科書として使われてい
る︒
2 シェイク・ダウドとその著作 シェイク・ダウドの生没年については諸説あるが︑一七六九年頃にパタニのクルセモスク周辺の旧王宮地域で生 まれた G︒パタニの宮廷と近いイスラーム学者一族の出身である︒アラビア語をパタニで習得した後に︑メッカに留 学し︑マレー世界からの留学生たちのコミュニティ︵﹁ジャワjawa﹂とよばれる︶に参加しつつ︑メッカやカイ
ロからの高名なイスラーム学者の元でも学んだ︒研鑽を積み︑一八〇九年にメッカでの最初の著作を書き︑六九才でイスラーム学者としての地位を確立した︒
彼の著作は二〇一八年現在わかっているだけで六一冊ある︒アラビア語のものとマレー語︵パタニ・マレー語︶ のジャウィー文字綴りで書かれたものがあり︑アラビア語書籍の翻訳や注釈書をマレー語で書した︒彼の著作活動は一八〇五年から一八四三年にかけてであり︑一八四七年頃にメッカ近郊のタイフ︵Taif︶で死去した︒
彼の著作の範囲は広く︑法学︵Fiqh︶︑礼拝︵Ibadah︶︑神学︑スーフィズム︑日常生活指標︑ムスリム同胞と非 ムスリムに対する義務︑一般法︑祈りの教え︑商法︑儀式的義務と相続法︵Faraid︶︑結婚と離婚など︑イスラーム科学のほぼすべての分野を網羅している H︒
彼の著作は︑マレー世界の﹁いまだイスラーム実践が不十分な﹂人々のために書かれたマレー語の書籍が多いこ
とが特徴である︒礼拝の実践の重要性を説き︑より高次段階にすすむ人のためにはスーフィズムについての著作が
ある︒学派としてはスンナのシャフィイー派に属する︒シャイフ・ダウドは︑人間は一般的に自由意志に基づいて 決定を下すが︑一部の行動はまだ運命づけられていないと主張し︑運命と自由意志の間の中間の道を作り上げた I︒ メッカでシェイク・ダウドの弟子は少なくとも二四名いた︒彼らはシェイク・ダウドの著作を手写して持ち帰っ
た︒シェイク・ダウドの﹃アルダルル・アルタミン・フィ・アカド・アルムミニン︵Al-Durr al-Thamin Fi ‘Aqa’id al-
Mu’minin信仰する者の信条の中の︑貴重な真珠︶﹄︵一八一七年︶は人気があり︑いまなおポンドックの主要教科書である︒後に一九世紀末からはメッカ︑エジプト︑シンガポール︑ペナン︑パタニで印刷本が発行されている︒
シェイク・ダウドはパタニの四大ウラマーの一人で最も評価が高いが︑その他のウラマーの著作もまたアラビア 語やマレー語でかかれたものである J︒後の三名の著作はいずれも一八八〇年代から一八九〇年代に書かれた︒ パタニのウラマーの著作が迅速に広まったのは一九世紀後半の印刷技術の広がりによる︒イスラーム学習用教本はその紙の色からキターブ・クニン︵Kitab kuning黄色い教本︶と呼ばれ︑いまもその体裁のまま発行されてい
る︒
また︑一九世紀の半ばから東南アジアからのメッカ巡礼者が増加した︒一八六九年にスエズ運河が開通すると︑一八七〇年代には従来のインド洋沿岸航路よりもさらに大型の汽船によるジェッダと東南アジアをむすぶ航路が運
営された︒オランダ︑英国の海運会社が巡礼者の輸送とその利益に群がった︒それに従来のアラブ系海運業者が参
加し︑多くの著書の運び手と東南アジア各地への拡散を後押しした K︒ メッカへ巡礼するためには︑まずアラビア語などを地元の教育機関で学び︑その上で︑より高次の知識を身につ
ける必要がある︒ポンドックで学ばれるアラビア語と︑シェイク・ダウドらの著書の学習はその準備教育に必要で
シェイク・ダウドとポンドック(ポノ)の役割
あった︒タイ南部と北部マレーシアにまたがるパタニ︑クランタン︑クダーのポンドック集中地域はそれ故に﹁メッカのベランダ﹂と呼ばれる︒
ポンドックでの教育が重視されるようになると︑一般ムスリムの日常のイスラーム実践にも変化があらわれた︒ シェイク・ダウドはパタニの人々の日々のイスラーム実践について不十分であると感じており︑それ故に︑基本的な日々の礼拝や︑婚姻法︑屠殺法︑ハラールについて詳しく書した L︒
3 一九世紀ムスリムの日常のイスラーム実践 ではマレー半島中部の一般のムスリムの日常はどのようなものだったのか︒庶民の生活実態について十分な資料
がないなか︑それらの一端をうかがわせるものとして︑ある碑文をあげておきたい︒
ソンクラーとクダーの首都アロースターをむすぶ﹁サイブリー道路﹂は朝貢品をシャムに移送するためにも使わ
れる主要な交易路である︒福建系華人のソンクラー国主はペナンやマラッカの華人商人とも商取引があった︒ソン
クラーのサムロン︵Samrong︶運河の橋の改修は一八四四︱一八四七年に行われ︑ソンクラー国主の他︑広く地元有志からの資金供与を得た︒サイブリー道路はこの橋をわたるとすぐサムロン三叉路にさしかかり︑この分岐点は
パタニへ向かう道と︑クダーへ向かう半島横断路に分かれる重要な地点でもある︒その橋のたもとに改修を記念す
る三つの石碑が建ち︑それぞれ︑漢語︑タイ語︑ジャウィー綴りのマレー語が刻まれている︒石碑の裏側には資金を出した人々の名前と献金額が刻まれている︒それぞれの碑文の内容は同一ではない︒漢語碑文ではソンクラー国
主への賞賛と橋改修にいたる経緯が述べられているが︑紀年は清朝の﹁道光二十七年丁未﹂と記される︒
一方タイ語の碑文のほうは︑仏暦二三八八年巳年七年土曜第一二月八白分︵上弦の月八日︶︵一八四四年一一月
六日に当たる︶と記され︑役人の他タイ人︑華人とケーク︵Kheekインド系︑マレームスリム︶の喜捨によって
資金を得たこと︑完成した午年八年の三月一二白分の木曜日︵一八四六年一月八日︶には一同がそれを祝い︑仏舎利の神輿が据えられ︑僧侶たちが三日間︑経文を唱え︑バラモンの呪文を献じたこと︑参加者一八四五六人がそれ
ぞれの為に用意された食べ物で︑ケーク︑華人︑タイ人の男女が一同に会して食事をしたと記す︒
そしてジャウィー綴りマレー語の碑文には︑辰年二月八白分五番曜日︵タイの数え方で木曜︶一二日というタイ碑文と同様の十二支紀年が記され︑﹁マレーの民や兵士は国内に多くなり︑外国の商人とイスラーム学生は麗しき
行為を結ぶこと多く余りある﹂と書かれ︑共食に参加し︑袈裟布三三二枚が献じられたとあるが︑イスラーム暦や
クルアーンの章句などの記述は一切見られない︒献金者の名前にはパタニの七国の領主の名やカピタン︵Kapitan︶
などマレー世界の商人の名も見られる︒
この碑文からは︑一九世紀半ばのソンクラー周辺の人々の生活は多言語的で多宗教が共存︑時には混じり合って
いた状況が伺われる︒橋の改修祝いの行事においては︑参加した市民は︑仏教行事や土地信仰的なバラモン的な祭
り︑あるいはマレー風の儀式を行い︑皆で共に食事をしたと記述されている M︒ここには二〇世紀以降︑イスラーム実践を厳格に行い︑非ムスリムと距離をおいてマレー・ナショナリズムに傾いていくパタニのマレー・ムスリムの
姿は見られない︒
また二〇世紀からのイスラーム実践の深化の過程で︑サムサム︵Samsam︶とも呼ばれるシャム語話者ムスリムが婚姻のため仏教徒に改宗する例や日常生活で親密に交流する事例が﹁ふまじめなムスリム﹂として非難され︑彼 らの社会的評価を低いものにしていた N︒
シェイク・ダウドとポンドック(ポノ)の役割
サムロン橋碑文にみられる光景は一九世紀前半の庶民の姿であり︑イスラーム実践や知識はまだ限られたものであったと考えられる︒従って︑シェイク・ダウドらの著作がもたらした︑ポンドックでの教育の影響はパタニ王国
の経済的凋落と反対に︑イスラーム教育と実践︑ムスリムの日常的行為をよりイスラーム的にし︑イスラーム教育
中心としてのパタニの名声を高めることになった︒
四 ポンドック
︵
ポノ︶
とその教育の広がり 1 ポンドック︵ポノ︶の教育風景 ポンドックとはト・グル︵Tok Guru︶と呼ばれる宗教指導者︑教師の下で学ぶためにト・グルの家と礼拝所の周りに学習者が小屋をたてて︑学びと生活を共にする伝統的なイスラーム知識伝達の場である︒
ポンドックは一七世紀には存在していたと考えられるが︑最初は口承による知識の伝達による︒現在知られてい
る主要なポンドックは一九世紀半ばに成立したと伝わるものが多い︒
ポンドックの分布地域については︑現在の国境概念を取捨しなければならない︒ポンドックの分布はタイにおい
ては旧パタニ王国領︑マレーシア︵英領マラヤ︶においてはクランタン︑クダーに多く存在する︒旧パタニ王国地
域であるパタニ︑ヤラー︑ナラティワート県のポンドックの数は五〇〇ほどあるが︑タイ政府による正式な認可を受けないものが三〇〇ほど存在する O︒
一方マレーシアでは寄宿塾としてのポンドックはマレー半島で八六存在するが︑クランタン︑クダー︑プルリ ス︑ペナン︵半島側︶︑トルンガヌで七〇を占める P︒マレーシアではイスラーム教育は近代教育システムの中に取
り込まれた︒ このような形はシャムと英国によって定められた国境が現地住民の事情を考慮せず設定され︑ポンドック地帯を分断したために生じた︒両国におけるポンドック数の違いはその後︑それぞれの近代国民教育制度のもとで適応を
強いられた結果である︒
ポンドック︵ポノ︶で用いられる教本はアラビア語教本やシェイク・ダウドやシェイク・アフマッドなどのパタニの学者による著作をパタニ・マレー語に翻訳した教本である︒一九世紀末から印刷版が出回り一般的になってい
るが︑学習方法としての手写もあり︑今でも古い手写本が発見されることもある︒
典型的な学びの光景はMadmarnがパタニのポノについて報告しているように︑教師がアラビア語をマレー語 に翻訳したものを読み︑文法構造を分析しながら教本を読み直し︑学習者がそれを理解していることを確認する︒学習者はアラビア語の教本の行の余白や空白に解説︑訳文などを書き留めていく Q︒
パタニ・マレー語の教本︑キターブ・ジャウィ︵Kitab Jawi︶として知られるシェイク・ダウドらの著作は古典的
なマレー語の知識が必要で︑アラビア語の節や詩が挿入︑引用されている︒また︑キターブ・ジャウィの議論そのものが中心となっている教本は︑アラビア語の能力にかなり精通していることが求められるので一般のマレー語話
者にとっても難解である︒
教師は︑マレー半島出身者でメッカ留学経験者が多い︒教授言語は基本的にパタニ・マレー語である︒インドネシア出身者やそのほかの地方︑タイ中央部から来ているタイ・ムスリムもいる︒
ポンドックの学習実践の実態についての歴史的な記録は少ない︒近年の学びの光景としてはパタニについては
シェイク・ダウドとポンドック(ポノ)の役割
Madmarnが︑クダーについては久志本の著述が参考となる R︒ 2 ポンドック︵ポノ︶と近代国民国家 一九〇九年の国境設置により︑ポンドックはそれぞれ︑タイ︵一九三九年にシャムから国名変更︶のもとでの
﹁タイ国民﹂としての同化と︑英領マラヤからマレーシアへの再編の過程で︑異なった条件に置かれることになった︒
まず︑シャムについては一九世紀の西欧キリスト教宣教師たちの到来とラーマ四世の接触によって︑西欧キリス
ト教思想から仏教を守り︑合理的哲学として再編し︑仏教を王権の基礎とし︑近代技術の導入において︑キリスト
教の要素を排除する形での近代化がすすんだ︒その結果︑殆どが仏教徒であるタイ北部︑東北部︑中部のタイ人︑また華人をも﹁シャム国民﹂とし取り込むための国籍法の設定︵一九一三年︶や︑タイ語教育の導入で︑国民同化
が推し進められた︒さらに︑一九三二年のピブーン首相による﹁ラッタニヨム︵Ratthaniyom︶﹂政策は国名をシャ
ムからタイに変え︑タイ語使用の義務化︑中部タイの習俗を模範とした﹁文化的な﹂服装までを指導した国民意識創造を目的とした︒
これは︑パタニ・スルタン制度の廃止とスルタンのクランタンへの亡命などでタイ政府に反発を覚えている南部
のムスリム︑特に︑日常的にパタニ・マレー語を話している東海岸のムスリムには容認できないものであった︒ タイ語の語彙には仏教用語とその価値観が溶け込んでいる︒反発する親世代はタイ語教育に反発し︑ポンドックで
子供を学ばせた︒また︑中央から派遣されるタイ人仏教徒官吏がムスリムを蔑視し︑汚職や密輸にかかわるケース
も多く︑ムスリムの反感は増した︒イスラームに適した自治規準を求めたパタニのウラマー︑ハジ・スロン︵Haji
Sulong︶の逮捕とその﹁抹殺﹂事件︵一九四七年︶は︑マレー語話者ムスリムの激しい反発と行動を引き起こした︒ パタニの独立運動組織が多数誕生し︑マレー・ナショナリズム︑イスラーム主義などを掲げてテロを含む抵抗が続いている S︒
タイ政府は軍と警察による暴力的な鎮圧をくりかえしてきたが︑一九七〇年代以降︑深南部へのタイ語教育の浸
透を目的としてポノにタイ語教育プログラムの導入を迫った︒それを受け入れないポノは政府に認可されないままの私立学校となった︒現状では世代交代によりある程度のタイ語の理解はすすんだもののタイ政府が目標としたほ
ど効果は上がっていない︒キターブの学習やアラビア語の学習はマレー語による解説のほうが容易であり︑ある程
度のアラビア語を学んでしまうと︑タイ語を使う利点がないことが挙げられている︒また︑ポノは過激なイスラー
ム主義の流行の温床となっているのではないかと疑われるケースもある︒
一九九〇年代には一端暴力事件が沈静化し︑タイ政府は﹁独立運動組織の消滅﹂を宣言したが︵二〇〇〇年︶︑
二〇〇四年にはゲリラ的同時多発テロが復活した︒イスラーム原理主義︵シーア派︶の関与が疑われたが︑クルセ
モスクの籠城事件では﹁不死身の祈禱﹂﹁聖水を撒いて戦車の進入を阻む﹂など︑スーフィズム的カルトの存在が明らかになった︒タイ軍・警察の鎮圧方法に対する国際的批判があるものの︑現在も軍警察施設︑一般のタイ語学
校や教師︑仏教寺院や僧侶などに対する散発的な襲撃︑放火︑発砲︑殺人などがつづいていて出口が見えない︒
他方︑英領マラヤから独立したマレーシアは︑国教をイスラームと定めた︒近代学校教育システムの中に宗教教育︑マレー語教育が浸透し︑ポンドックの多くはそのなかに吸収された︒タイ深南部に比して数が少ないのはその
せいである︒現存するポンドックでは︑より深いイスラーム学習を希望するもののほか︑学びを極めたい高齢者
シェイク・ダウドとポンドック(ポノ)の役割
や︑﹁不良行為の矯正﹂のために親から送り込まれる学習者なども存在している︒
多民族国家の民族マジョリティであるマレー人には﹁ブミプトラ﹂として一九七一年からの経済や教育における 優遇策がとられる一方︑イスラーム革命以来の原理主義運動であるダクワ︵Dakwah︶運動が流行し︑ますますイス
ラーム的規範に誠実であることが﹁まじめなイスラーム実践﹂として推奨され︑その規範がムスリムへの社会的圧力となった︒その結果非イスラーム的と判断された伝統芸能の公的な公演が禁じられて︑継承が絶えたものもあ
る︒
ここで問題になるのは︑クダー北部に存在するシャム語話者たちである︒彼らはアユタヤ後期から一九世紀にか
けて疫病︑戦乱から逃れて︑クダーの奥地に移住してきたパタルン︑ソンクラー周辺の米作農民である︒サムロン橋の碑文に描かれたようなムスリムと上座仏教徒たちで︑クダーに移住してからはムスリムも仏教徒も双方の婚姻
や祭りに相互参加をしてきたが︑マレー語話者ムスリムたちからは﹁イスラーム的に正しくないムスリム﹂とみな
されてきた︒英領マラヤのセンサスに﹁サムサム﹂という名で登録されてきたが︑彼ら自身はその名を避けるようになった︒
﹁正しいイスラーム﹂が推奨されるなか︑シャム語話者ムスリムはシャム人仏教徒との関係を断ち︑﹁よきムスリ
ム﹂としてブミプトラとしての態度と評価を獲得するために努力してきた︒シャム語話者ムスリムの人口はごく少数であるとはいえ︑マレー人のマイノリティとして︑その社会的評価に悩んできた︒近年SNSなどで彼らは情報
を共有し︑移住のルーツを現在の南タイにもつことを知り︑越境者ムスリムとしての存在理由と正当性を模索して
いる T︒
おわりに マレー半島中部の港市は古代よりの東西交易の拠点である︒人々の地域認識は常に越境するネットワークを意識
してきた︒まずバラモン・ヒンドゥーや仏教の影響を受けた現地政権が誕生し︑その後︑イスラーム商人がおとず
れ︑当地の王がイスラーム名を名乗ったのは概ね一五世紀中頃と言われている︒イスラーム化は極めて長期をかけて緩やかに進行し︑交易の繁栄期に成立した港湾法や民法においてイスラームと当地の慣習法との融合が見られ
る︒
一九世紀前半においてもマレー半島中部の一般ムスリムのイスラーム実践はかなり緩いものであった︒現在︑特
に厳格なイスラーム地域として知られるパタニ︑クランタン︑クダーのイスラーム実践が進行したのは︑一九世紀後半以降である︒メッカ留学したパタニ出身のイスラーム学者のパタニ・マレー語によるアラビア語からの翻訳と
教本がマレー半島に弟子たちによって持ち帰られて頒布され︑メッカと東南アジアをむすぶイスラームの知のネッ
トワークが活性化した︒メッカ留学の為の予備学習施設としてのポンドック教育の果たす役割は大きい︒
現在のポンドックの役割やその意味を考える時には︑ポンドックの分布が﹁越境﹂しているのではなく︑そもそ
も現在の国境によって分断された地域の姿が見えにくくなっているのを念頭に置いておかねばならない︒国境設定
から一一〇年を経過し︑両国の国民言語教育によって︑ポンドックのありさまも変化しつつある︒ポンドックにインドネシアやバンコク︑カンボジアからの学生が訪問して学ぶようになった現在︑教授用語︑テキストとしてのパ
タニ・マレー語が直面しているあらたな﹁越境﹂による試練の行方も考慮する必要がある︒
シェイク・ダウドとポンドック(ポノ)の役割
注︵
︵ Wayne Bougas, “Surau Aur: Patani Oldest Mosque,” in , vol. 43, 1992, pp. 89‑112.1︶ Siti Fairus binti Kamarudin, “Manuskrip Undang-Undang Kedah: Kajian Insur-Unsur etnografi Islam,” Master thesis 2︶
(Kuala Lumpur University of Malaya, 2015).︵
︵ 3︶林春勝・林信篤編﹃華夷変態﹄東洋文庫︹再版︺︑一九八一年︒
︵ sapha, 1963). Phrayaa Wichienkiri, (Bangkok, Ongkankha Khru-4︶
︵ 5︶林春勝・林信篤編︑前褐書︑一六九四頁︒
︵ (Honolulu, Univ. of Hawaii Press, 2015). Francis R. Bradley, 6︶
︵ Chomrom Saisakun Bunnak, (Bangkok, Chomrom Saisakun Bunnak, 1999).7︶
︵ Si Worawat, Luang, (Bangkok, Ongkankha Khrusapha, 1965).8︶
︵ 9︶黒田景子﹁華僑地方国ソンクラーの成立﹂︵﹃南方文化﹄第一二輯︑天理南方文化研究会︑一九八五年︶︑七七︱九二頁︒
︵ 10 Francis R. Bradley, , p. 62.︶
︵ 11 ︶黒田景子﹁ソンクラー国年代記訳注︵上︶﹂︵﹃南方文化﹄第一二輯︑天理南方文化研究会︑一九八五年︶︑九三︱一一四頁︒
︵ (Singapore, Oxford Univ. Press, 1988), p. 82. 12 Kobkua Suwannathat-Pian, ︶
︵ 頁︒ 13 ︶黒田景子﹁ナコンシータマラートの拡大政策││一八一一︱一八三九﹂︵﹃東洋學報﹄第八〇巻四号︑一九九九年︶︑一︱二九
︵ 文学科論集﹄七九号︑二〇一四年︶︑七︱二六頁︒ 14 ︶黒田景子﹁ソンクラーの発展とパタニの衰退││一九世紀におけるマレー半島部港市の淘汰と再編﹂︵﹃鹿児島大学法文学部人
︵ ing Company, 2019). 15 Anthony Green, Mohd Daud, (Singapore, World Scientific Publish-︶ , ed. by Patrick Jory (Singapore, NUS Press, 2013), p. 139. 16 Christfar Joll, Patanis Creole Ambassadors, in “’”︶
︵
︵ pubco.com/index.php/IJET, 332‑337. Overview on His Writings, , no. 7 (2.29), 2018, https://www.science ” tapha, Abdul Karim Bin Ali, Nur Zainatul Nadra Binti Zainol, Sheikh Daud al-Fatani as Scholar in Malay Archipelago: “ IbadahAhmad Sharifuddin Bin Mus-二%︵七冊︶︑礼拝︵︶一一%︵六冊︶︑文学九%︵五冊︶︑歴史六%︵三冊︶と伝わっている︒ 17 FiquAqidah︶法学︵︶が三〇%︵一六冊︶︑礼拝や信仰に関するもの︵︶二三%︵二三冊︶︑スーフィズム二一%︵一一冊︶︑倫理一
︵ 18 Francis R. Bradley, , p. 119.︶
︵ Penerbit Universiti Kebangsaan Malaysia, 1999). Fatani, Shaykh Muhammad bin Ismail DawudHasan Madmarn, (Bangi, を指す︒ 19 Shaykh Ahmad, Al-Fatani, Shaykh Zayn al-Abidin bin Muhammad al-︶パタニの四大ウラマーとはシェイク・ダウドの他︑
︵ 20 Anthony Green, Mohd Daud, , Chapter 2.︶
︵ 21 Ahmad Sharifuddin Bin Mustapha︶シェイク・ダウドの全著作と内容についてはらの前掲書に一覧と分析が載っている︒
︵ 22 ︶黒田景子﹁南タイ︑ソンクラーのサムロン橋碑文について﹂︵﹃上智アジア学﹄二〇︑二〇〇二年︶︑九三︱一一〇頁︒
︵ 23 Thai-speaker︶黒田景子﹁サムサムとシャム人││ケダーにおける小史﹂︵﹃南方文化﹄天理南方文化研究会︑一九九五年︶︒
︵ 24 http://islamhouse.muslimthaipost.com/article/18711︶二〇一八年データ︒二〇二〇年五月二〇日閲覧︒
︵ 25 https://epondok.wordpress.com/pondok-malaysia/︶一九九七年データ︒二〇二〇年五月二〇日閲覧︒
︵ 26 Hasan Madmarn, , p. 59.︶
︵ 号︑二〇一〇年︶︑二五五︱二九二頁︒ 27 ︶久志本裕子﹁マレーシアにおける伝統的イスラーム知識伝達││構成要素と学びの意味﹂︵﹃イスラーム世界研究﹄第三巻二
︵ ジアのイスラーム﹄東京外国語大学出版︑二〇一二年︶︑一四一︱一七〇頁︒ 28 ︶黒田景子﹁パタニの二つの顔││タイ国の辺境︑そしてイスラーム教育の中心﹂︵床呂郁也・西井凉子・福島康博編﹃東南ア 文化﹄四五巻︑二〇一九年︶︑四三︱七八頁︒ 29 ︶黒田景子﹁コタムンクアンのシャリフ・アブ・バカール・シャー伝承と﹁シャム語﹂話者たち││クダー史の再検討﹂︵﹃南方
Sheik Daud Al-Fatani and the Role of Pondok Schools ( Pono )
Cross-Border Academic Networks of Islam in the Mid-Malay Peninsula
K
URODAKeiko
Patani and Kedah in the middle of the Malay Peninsula are said to have been the earliest states of Islamic kingship in the Malay Peninsula around the fifteenth century. The region’s prosperity as a trade center reached its peak in the seventeenth century, before its economic significance began to decline. Instead, Patani emerged as a center of Islamic learning in South- east Asia from the end of the nineteenth century. Sheik Daud al-Fatani, an Islamic scholar from Patani, studied in Mecca in the middle of the nine- teenth century and wrote many translated books on Islam in the Patani Malay language. They were brought back to Southeast Asia by his disciples to be used as textbooks in pondoks, or traditional Islamic schools.
Pondok schools have spread to Pattani, Kelantan and Kedah in the present-day Thai-Malaysian border region, and their impact should not be considered in the framework of the present nation-state borders. Pondok schools serve as places of preliminary education for study in Mecca. They are therefore also sometimes called the “verandahs of Mecca.” The academic networks between pondok schools and Mecca became active in the first half of the twentieth century; at a time when ordinary Muslims engaged more actively in Islamic practices.