九州大学学術情報リポジトリ
Kyushu University Institutional Repository
唐·河陽三城節度使考
日野, 開三郎
https://doi.org/10.15017/2341052
出版情報:史淵. 14, pp.9-38, 1936-11-20. Faculty of Law and Letters of the Kyushu Imperial University
バージョン:
権利関係:
勺
I
本稿は河陽三城鎭過使考の附編として執躯したのを︑都合により本編より切離し︑且つ本編に先んじて發表したものであるo文中に本細或は前細とあろは河陽三城錘遇使老を指すが︑此の論文は未だ發表してゐないoか上る發表2剛後顛倒によって誠考に多大の不便を與へることと恩はれるが︑木綿も近く他誌に發表の豫定であるから︑その節併せ子塞藩の上本稲の難解なる鮎を袖充明解せられ︑御高教を賜らんことを切望する次第である︒一︑序言
二︑河陽三城節度使の沿革
I河陽三城節度使の世駿
唐・河陽三城節度使考
唐・河陽三城節度使考
唐・河陽三城節度使考發表の蒋静
目
次
日
野
九
開
郎
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本細は題して唐︒河賜三城節度仙老と稲するも︑時代を総宗の末年たる威通十四年︵西紀八七三︶
以前に限定し︑次代僻宗の乾符元年︵西紀八七四︶より脈朝の絶滅せし哀宗の天佑四年︵西紀九
○六︶に至る三十餘年間は研究の範囲外に世くこととした︒それは乾符元年王仙芝なる者飢を作
し︑翌二年黄災此に雁じてより︑店の天下は騒飢止むことなく︑中和元年︵西紀八八一︶僻宗が黄巣
に逐はれて成都に蒙塵してからは店朝の勢威全く地に陸ち︑蒋鎭は朝命を無硯して相攻伐し︑弱肉弧
食到る所に行はれて中央に國家經醤の大策を施す可き威信無く︑応の國家は事質上己に崩壊してゐた
からである︒但し河陽三城節度使は此の店朝の表勢に乘じて勢成を張りし一世の姦雄朱全忠︵五代後
梁の胆︶と河東の驍雄李克川︵五代後勝山皿李存勤の父︶とかその争珊の開ケ原として互に心血を伽
けて占領確保に力め︑此の輪珈に勝利を得たる朱全忠が遂に李克川に先んじて天下に號令せし所で︑
河陽の政治的意義は李店没落後も益交重要性を加へたのである︒されば店末五代の河賜も早晩研究問 唐・河陽三城而度使考
Ⅲ河陽三城節度使の巡暁︵以上本號︶
三︑河陽三城節度使と隣接諸蹴との關係
四︑河陽三城節度使の沿革を通じて見たる店朝の蒋鋲統禦策
一
︑序
言
一
○
題として取上げらる可きで︑筆者も機會を得ば之を取扱ひ本編の綾編として諸賢の叱正を得たいと希
ってゐる所である︒
’
勝代節度使の沿革を取纏めたものに新店害の方鎭表があり︑節度使關係の文献として他書に見られ︹誰p
ざる史料を含んでゐるととは凱明の事皆であるが︑新店沓の杜撰に就いても定評のある所である︒さ
れば方鋲表の記載が節度使研究の主要毒一考となり時に得難き史料を提供することあるは勿淌なるも︑
その利用に際しては術に全文の械討を行ひ$以てその史料的慨仙を明確にしなければならぬ︒河陽三城
節度使の湫革を取纏めてゐるのは方鋲表第一の束畿の側で︑河陽三城節度使の研究も此を参考とする
時多大の便宜を得るのであるが︑その記載は表たるの性質上簡略を旨として締密を畝き︑然も泄の定
評に叛かす撰者の謬見が所産に混入せられてゐるので︑その記戦を直ちに信用して研究の基礎となす
ことは危険で︑沿革榔槍討の必要が認められるのであるっよって以下方鎭表の記載を参考餐料の中心
としつ曳河陽三城節度使の浩革を椎討することとする︒術行文の便通上新店書方鋲表を単に表叉は方
鎭表と略稲することとする︒又別に巻数︑棡名を梁げざる場合は表︑束畿の棚を指すものと理解せら
れ度い︒
唐・河陽三城節度使考
二河陽三城節度使の沿革
I
一﹄
一 一
I
I
から︑此所では建中二年創世説の是非を稔討するに止める︒
先づ注意す可きは奮暦害華一一李十凡傳に
徳宗胴位︒授棯校大常少郷縦御史中一水︒河賜三城鋲過使︒撫労術至ワ費座膳者o必先甲士o間一
年︒篤節度便路胴恭之刑︒加稔校左庶子︒河賜三城・懐州節度槻察使o以東幾氾水等五縣隷形︒
とある記事である︒此の記事に依れば徳宗の即位當時は未だ河陽二一城節度使の設置を見ず︑そこには
河陽二琉鎭過使が駐在し︑徳︽示即位後杢苅が此の職に任ぜられ︑爾後約一年引綾いて同職に在り︑此
の時路胴恭が河陽三城節度使に任ぜられ︑彼はその副使となり︑更に同年路胴恭に代って節度使とな
ったのである︒奮府害華一徳宗本紀に擦れば徳宗の即位は犬歴十四年五月であり︑李兀が河陽三城鋲 河陽三城節度使の名が初めて表に現はれて来るのは徳宗の建中二年︵西紀七八こである︒即ち何
年の條下に
置河陽三城節度使︒以東部畿槻察使乖之︒価懐・鄭・汝・峡四州︒尋置使︒云云︒
と見えてゐる︒此の記事に依れば洲陽三城節度使は建中一罪創設せられ︑懐︑鄭︑汝︑峡の四州を領
し︑樹初束畿澗察使の綻任とせられ︑次いで専任の節度使を赴いたこととなる︒価し表の記栽は上文
に三一面せし如く誤謬が多いので一雁の検討を必要とする︒然し傾州の問題は後節に詳論する筈である 唐・河陽三城筋腫使考
1河陽三城節度使の置腰
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一 一 一
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過使に任ぜられたのも同月で︑彼は前鎭過使馬燧の河東節度使榮郷の後任として陳州刺史より抜擢せ︹注二︺られて此の職に就いたのである︒因みに河賜鋲過使は本締に詳論せし如く鹿徳元年︵西紀七六三︶|初
めて設置せられ︑深泌節度使の所管に脱してゐたが︑大雁五六年の唖より朝廷の重要硯する所となり︑
名義的には依然澤溌の所脇なりしも震際には朝廷直脇の扱ひを受け︑鋲遇使の任免も朝廷の手を以て
行はれてゐたのである︒叉河陽三城鎭過使はその符下の砿隊の杵︿川に充てる爲束都洛陽の所管中より
河陽︑河清︑濟源︑洲︑氾水の五縣を荊恥そられてゐた︒かくの如く河賜二琉纐過使は河陽の城主とし
て康篭兀年創世せられ︑爾後引綾いて斐凡に至ったのであるから︑此の李礼の後を引受けて河陽三城
節度使となった路胴恭こそは初代の節度使であり︑同時に副使になった李非凡は同じく初代の副使であ
ったこととなる︒而して李兀が路伽恭の副使になったのは彼が銀過使となった時︑即ち犬歴十四年五月
から約一年後であるcされば路州恭の節度使枕任は大雁十旧年の翌年︑即ち建中一兀年の五月前後と推定
される︒幸ひ此の一初代節度使と目せられる路刷恭の就任年月は安治通鑑華一建中二年正月丙子の條に
叉以東都留守路胴恭爲懐・鄭・汝・侠四州河陽三城節度使
とあって建中二年正月と明記した記録を有するのである︒此の年月は先の推定年月たる元年五月とは
約牛年の開きがあるが︑李兀体に云ふ所の一年とは概数を畢けたので正確に一年ぞ意味してゐるので
はあるまいから︑牛年の祁述も敢て問題とするに足るまい︒術濟店書一奎徳︽一本本紀にも路伽恭の河陽
三城節度使就任を建中二年正月に梁けてゐる︒かく初代節度使の就任が建中二年正月である以上︑河陽
店︒河陽三城節度使考一三
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以懐・鄭・河陽節度副使李茄爲河賜三城懐州節度使︒価割束畿五蝶隷焉︒
︹献三︺とあるに依れば同年六月のことで︑彼は束縦獅察使を縦ねず︑河陽三城節度使専任となってゐたので
ある︒從って表に同年専任の使溌継ぐとある記事は信用して韮支へないのである︒以上を要するに河
陽三城節度使は建中元年正月創世せられ︑初めは束維獅察使の粂任となってゐたのを︑同年六月専任
制に改めたのである︒
節度使は多く軍號を賜皿︿せられたが︑河陽二玩節度使も養治邇鑑塞坐建中四年二月丙寅の條に
以河陽三城・懐・術州爲河陽軍︒
とある如く創置の翌糞年河陽軍なる軍號を與へられたのである︒尚奮唐書華一徳宗本紀︑建中四年二 ろ︒但し嗣恭は雨使就任後間もなく卒し︑その後任には先掲圭凡傅に見﹃↓郷したのである︒彼の榮進は賛治通鑑華仁府紀聿建中一革六月壬子の條に とあって初代節度使たる彼が束縦槻察使をも領して居たとと見え︑表の雨使粂任の記事と一致してゐ るのである︒尚表には設世當初の河陽三城節度使は東維棚察使の飛任とせられ︑次いで︑同年節度使を世いたと記してゐるが︑齊店書垂一一路胴恭仰に
唐・河陽三城陥度使考一四
三城節度使の創置も此の時なること疑ひなく︑從って表に云ふ建中二年の創置は誤なきことが知られ
ノサレテ陽三城節度使・東都維槻察使︒微至京師卒︒時年七十一・膳朝一日︒ 二岨︒及徳宗即位︒楊炎受共安︒始叙前功︒除丘へ部尚書︒東都研守c雰加懐・鄭・汝・険四州・河
I
へる如く節度刑使の彼が柴 専任の
月戌申の條に
於河陽三城置河陽軍節度︒
とあって一見河陽軍節度使創置の如く解せられる記事が載せられてゐるが噸此れは軍額賜與の事賃を
傳へたもので︑節度便の創置ではない︒然しかかる暖昧なる記述方法はとかく後人を誤らしめ勝で︑
後に論手る如く方鎭表の誤謬中にもかかる暇味記事に曲因するのが少くないのである︒
次に表︑貞元元年︵西紀七八五︶の篠に
罷河陽節度︒置都剛練使
とあって河陽節度を罷め都剛練使冴世いたことが見える︒此の記事に照應するものに奮店書圭一徳宗
本紀︑貞元元年四月の條に
以河陽都知丘馬使雍希顔爲河陽・懐都剛練使
なる記事があり︑彼是一致するから︑表の河陽節度腰罷の記事は誤りなきものと見て差支へない︒降
って表︐貞元士一年の條に
復置河陽・懐節度︒治河陽︒
とあって貞元十二年に至り都剛練使を罷めて呼び節度便を世いたことが見える︒表の此の記事に照雁
する史料は目下索め得ないが︑蒋脈北唖幸一徳宗本紀︑貞元十五年三月の條に 成午.昭義軍節匪使.稔校工部術書王嵯休卒.戊辰.以河陽三城節度使李元錐患辮長史.
唐︒河陽三城節度使考一五
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先づ表に河陽三城節度使を腰止したりと云ふ元和十三年餅時此の職に在りし者を細年史の椛威登治
通鑑によって調べるにそれは烏亜胤と令狐楚の雨人であった︒重胤は登治通鑑華痙店紀唖元和五年三
月の條に とあり︑降って愈昌一罪︵西紀八四三︶の條に
復置河陽節度︒徒治孟州︒
とあって元和土一卒より命叩昌二卒に至る約一子五年朋河陽二褒節度使を陵してゐたかの如き記事が見
える︒然し此の匪止︑復世の剛記事は表の探考の担造せる所で正しくない︒以下その所以を論じよ
涙ノ0 しめる記事があるから︑先の表の記城は信川して誤りないであらう︒
次に表︐元和十三年︵西紀八一八︶の條に
汝州隷束畿︒復世束畿・汝州都防禦使︒錠東都冊守如故︒龍河賜節度使︒ とあり︑妥冶通鑑菫迄店紀証同年同月の條にも同様の記事が見え︑貞元十五年の初め李河陽一一琉節度使より昭義節度使に榮艸し︑彼が己に粗野両期川節度使として河陽に在った
紐︺上嘉烏重胤之功︒欲即授以昭義節度使︒李鋒以爲不可o誘授重胤河陽o以河陽節度使孟元陽町
鎭昭義︒︵中略︶上悦g皆如趣く諦︒壬辰以軍胤爲河陽節度使︒元陽爲昭義節度使 厩・河陽三城師匪使考
一一ハ
昭義軍節度・澤・瀦・磁・滴概察使︒以河陽節度抑衙術濟爲懐州刺史︑河陽三城︑
1 1
懐州節度使︒
元淳なる者が
ことを想像せ
とあり同書確匪麻紀錘一兀和十三年十一月の條に
壬寅︒以河陽節度使烏軍胤爲械海節度使︒丁未︒以華州刺史令狐楚爲河陽節度使︒
とある如く︑元和五年︑前任者芯九陽の昭義節度使への榮卿を承けて河陽三城節度使と蔵り︑爾来元
︹註九︺和土一扉に至る迄此の職に在り︑土一禿十一月︑樅海軍節度使に卿川して後を革州刺史令狐楚に引繼い
だのである︒此の引繼を受けた令狐楚は読治迦鑑唾一一階紀匪元和十四年七月丁酉の條に
以河陽節度使令狐楚爲中諜侍郎・川平章事︒云云
とあるに依って知られる如く︑翌十四年七月宰相となって中央入りをする迄河陽節度使の職に在った
のである︒以上は登治迩鑑に塞ぐ調在であるが︑窪肝書珪一志宗本紀︑下︑同書篭一馬重胤傳︑同書 ︹誰六︺
罐一一一令狐楚傅等の記事も大概費治迩鑑に云ふ所と合致し︑元和十三年に於いても河陽節度使は厳とし
て存在し︑大鵬十一月以前は烏或胤か︑十一月後は令狐楚か此の職に在ったことを立證してゐる︒從
って一兀和十三年河陽三城節匪使を罷めたりと云ふ表の記赦は信ずるに足らぬ所説と見るべきである︒
然し表に會昌二一年河陽節度を復世せりとある以上︑河陽三城節度使は會昌二一年以前の或る年鷹能めら れ︑表は何かの事怖で誤って此産一九和十三年に梁けたのではあるまいかとの老へが一應浮かんで來ろ︒
然し元和士一年以後に於いても河陽二薮節度使を罷めし形迩は見出されない︒一兀和より獅昌に至る迄
には
L元和十五年迄 唐・河陽二一城節度使考一七
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」
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2長慶六年迄 a賓暦二年迄 4太和九年迄 a開成五年迄 6會昌九年迄
と六度の改元を經てゐろが︑此の間に於︑いても河陽節度使の名孵及びその就任考の氏名が吸糞見受け
られる︒左にその數例をあけると
L元和十五年年多田布を以て河陽三城節度使となす︒︵齊階普畦一田悦傳︶
2穆宗即位︵元和十五年正月︶の初め郭釧を以て司鯉卿とし︑未だ幾ならず稔校戸部尚書︐河陽
二琉節度使と爲し︑同年更に河中・晉・様︒慈・蝶節度使に卿じだ︒︵奮店書率缶郭釧体︶
此の記事に依れば郭釧の河陽三城節庇使となったのは長座の初めで︑田布の後任と推測される︒
a元和十二年義武軍飢れし時此の地に赴任して鈑定に成功せし陳楚は後河陽三城節度使となり︑
次いで龍武統軍となり︒慶長二犀卒した︒︵奮唐垂画嘩一陳楚体︶
長度三年河陽三城節度使陳楚奏す︒︵薔店書罐一穆宗本紀︶
一/
右雨記事に依れば陳楚は長慶三年迄河陽三城節度使の職に在ったので︑恐らく郭釧の後任と恩
はれる︒ 唐・河陽三城節庇使考
一八
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得ない︒
以上は元和十三年より會昌三年に至る二十五年間の節度使中今日迄に筆者の知り得た総てであ
る︒不幸二十五年問の節度使名を逐次列畢し誰す能はす︑殊に禽昌三年節度使復世を記減せる表の是
非を批判する上に妓も必要なる愈昌二年の節度使名を梁け得ね峡陥があるが︑大隅右の列畢によって
表がその存在を否定せる元和十三年よh称昌三年に至る二十五年間に於いても依然河陽三城節度使は
厳然として存在してゐたこと浄認め得るであらう︒即ち表の元和十三年及び命胴昌三年に於ける河陽三
唐︒河陽三城節産使考一九
4長座の初め淫原節度使とたりし楊元卿は同鍾に在ろこと六年にして河陽三城節度使に鱒じ︑太和五年迄在任した︒︵醤唐書罐一楊元卿傅︶
右記事に依れば元卿の河陽三城節度使の就任は早くて喪雁年間と推測せられる︒而して長座三
年陳楚罷任後楊兀卿就任に至る迄の節度使は目下検索し得ない︒
丘大和五年九月温迭河陽節度使となり︑七年十一月迄在任す︑罐走︵窪唐書淵迭傳︶
a開成中磁州刺史楊延宗河賜節度使老逐ふて自立せんとし糊せらる︒︵奮唐書捲一楊元卿傅︶
開成二年六月河陽の軍飢れ節度使李泳を逐ふ︒李執方代って節度使となり︑同年九月乱の首謀
者今密捕斬す︒︵餐治邇鑑巻二四五︶
右雨記事に依って開成二年の前後︑恐らく開成年間を迦じて河陽節度使の世かれてゐたであら
うことが察せられるo但し淵造より李泳に至り︑叉李執方以後の節度使の氏名は目下明かにし
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勝代の蕪鎭は何れも巡脇︵領州を指し支那とも云ふ︶の堺減愛更が艇掩行はれ︑河陽二玩節度使の
巡脇も此の通例に洩れず創世以来数度の蛎減愛更があった︒本項では此の巡鴎の愛遷を通観すること
とする︒
唐・河陽三城節度使考二○
城節度使の腱龍並びに復世の記赦は事疫行はれざりし所で︑表の撰考の誤謬担迭と断ぜざろを得ぬの
である︒術此の断定は表の撰者の誤謬を犯せし腺川及び記事担迭の過稚を考察する時一暦碓め得るの
であるが︑その考察は河陽一一琉節度使の巡厨問題に絡んでゐるので後節に誰ることとする︒
河陽二一城節度使は會昌以後も世嵯せられることなく︑店.五代を辿じて存綾し︐方銀表も此の事狂
を反映して置應の記載は見受けられない︒
以上を要するに︑河陽三城節度使は建中二年正月創世せられ︑哩兀元年一日一都囲練使とせられた
が︑土一年呼び節度使に還り︑爾後店︑五代を迦じて存統したのであって︑一部の史書に元和十三年
より命︑昌一犀迄約一千五年間隙能してゐたかの如く仰ふるものあるも収るに足らぬ妄説にすぎぬので
ある︒因みに都閣練使は節度使に比して格は下位にあるも︑槻察使︑都防禦使・経略使等と共に蕪鎭
︹註七︺たることに於いては愛りなかったのである︒されば河陽一一琉節度使は貞元年問約十年餘中断したとは
云へ︑藩鎭としての河陽は創世以来嘗て際能せられず︑宋の藩鎭腱止迄引綴いてゐたのである︒
I河陽三城節度使の巡厨
1 1
Ⅱ
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1 先 づ 創 置 常 時 の 巡 馬 よ り 考 察 す る に ︑ 表 ︑ 建 中 二 年 の 條 に は 次 の 如 く 記 載 し て ゐ る
︒
以汝州隷河陽︒尋復森︒復世映西防禦使︒澄河陽三城節度使︒以東都畿槻察使縦之︒領懐・鄭・
汝︒映四州︒郭世使︒増領束畿五縣及術州坐亦日懐・術節度使︒
右記事に依れば
L創置賞初の東畿槻察使轆任時代は懐︑鄭︑汝︑陳の四州を領したこと
2同年専任の節度便設世と同時に術州及び束畿五縣を墹傾したこと
が知られ︑此の記事を信川すれば建中二年末に於ける河陽三城節度使の領地は懐︑鄭︑汝︑峡︑術の
五州及び束畿五縣となる︒尚表に依れば
3河陽節度使設世以前一度汝州を河陽に隷し︑蔀いで醤に復したこと
が記戴せられてゐる︒然し表の記戦は先牽の例にて知られる如く誤謬が多いので右三項共に検討を必
要とする︒
先づ鋪一mの束縦概盗使簸任時代の巡脇を他の文献に微するに︑齊厭書奉一一一路胴恭仰に
牡︒尋加懐p郷・汝・映凹州︒河賜一二城節度及束都縦槻察使︒云云︒
Ⅲとあり︑登治迩鑑垂一脈紀勢建叩二年正月丙子の條に
叉以東都研守路Ⅲ恭爲懐・鄭・汝︒映四州・河隆一藏節度使︒
とあって︑共に兼任時代の巡脇として懐︑鄭︑汝︑映川州と河賜三城と今や一畢げてゐる︒此堂州掲表の
膳︒河陽三一城肺匪使老二一
|
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次に第二項発検討するに︑専任節度使の設世と同時に術州及び束畿五縣を増領した如く体へてゐる
が︑此の中東畿五縣とは例の河賜︐河清︐濟源︑洲︑氾水の諸縣たること疑な︑︑果して然りとせぱ
東畿五縣は己に庚徳元年以米河賜三城鋲過使に荊脇せられ︑鋲過使の節度使昇格と共にその巡脇とな
ってゐたのであるから︑此の時吏めて追増せられる筈なく︑表の五縣に開する記載は誤りと云はなけ
ればならぬ︒然らば表は何故にかかる誤謬を犯したか︒思ふにそれは撰者がその使用史料に對する理
解の不充分なりし爲と察せられる︒左に此の推察の不當ならざる所以を立證しよう︒
唐︒河陽三城筋度使考一三
第一項と比するに四州の名は合致するも河陽三城の有無に於いて相逮する︒河陽三城とは木細に詳論
せし如く河陽に築造せられし三城︵南城︑中押城︑北城︶を指すと共に︑此所に駐屯する大軍を支持
する財源として三城に荊踊せら脱し河賜︑河清︑濟源︑温︑氾水の五縣全地域をも意味したのであ
る︒尚此の五縣は東都洛陽より剛與せられたもので︑五縣支配の疵椛は河陽の城主︵建中二年の節度
使設世以前は城主として河陽三城鎭辿使が世かれてゐた︶に蹄してゐたとは云へ︑その名義的所脇は
依然洛陽に留保せられてゐたのである︒河陽三城節度使は河賜城の重大性に鑑み︑従來鋲遇使をして
統帥せしめてゐのたを升裕せしめたものであるから︑河陽三城は河陽三城節度使と雛る可からざる關
係を有し︑五縣の支配椎も鎭過使よりそのまま節度使に引繼がれたに相逹ないのである︒即ち河賜三
城管下の五縣は節度使創瞳と同時にその巡脇極細入せられたのであって︑之を脱した表の記載は粗忽
と云はざるを得ない︒
’
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1
兼任節度使路胴恭の没後︑節度刑使李兀が専係節度使に選ばれし當時の模様語新店書以外の文献に
就いて見るに︑甕店書率一徳︽示本紀︑建中二年六月王子の條及び餐治迩鑑華仁店紀聖同年月日の條
には1︹註八︺
以懐︒鄭︒河賜節度剛使李一凡爲洲脇三城︑懐州節度使︒価制束畿五縣隷粥︒
く
とあり︑醤店沓李一一李斗凡傅にも
加検校左庶子・河賜三城・懐州節度槻築使︒以東畿氾水等五縣隷粥︒
とあって何れも束畿五縣の釧與を特筆し︑その筆法が略凌一致してゐる︒此の一致は恐らく右諸書が
共通の或る費料に振った爲であらう︒而して此の共通の蚕料は箭然方鎭表の作者にも使用せられたで
あらう︒此の諸沓の韮礎となりし養料に云ふ川の東畿五縣の荊與は決して此の時初めて行はれたので
はなく︑此れより先約二十年︑欣徳元年の測賜三城鐡過使設世以来悩行せられて来た所で︑此の時も此
を繰返したに過ぎないのである︒然しかかる來歴を充分理解せざる考に取っては一見如何にも初めて
割典せられしかの如き筆法を取ってゐる爲︑表の作新は不兇にも此の筆法し談られ︑束畿五縣を奎凡
の専任節度使就任の際に於ける地領と解したのであらう︒若し表の製作者が先の河陽三城なる語に意
を留め︑此の河賜三城が即ち束畿五縣に外ならざることを皿解してゐたならばかかる過誤を免れ得た
のであらうが︑恐らく作表考は逆中二年正月の節度使創設の記録を談みし時懐︑鄭.汝︐陳の四州
と共に翠げられたる河陽三城を節度使の巡脇の一として理解せず︑そのまま﹁河陽一二城節度使﹂と一氣
唐・河陽三城筋度使考
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喰逹ひを生じ︑その何れが是なるかに迷はされるのである︒而して此の処非令杉一判断する鰯には先づ昭
厩・河陽三城而度他考二四
に読み下し︑巡馬としての河賜三城詫間有名詞の河賜三城節度使に解読したのであらう︒かくて重大
なる過誤が生れたものと惣倣せられるのである︒次に東縦五縣と北へに追辮せられたりと云ふ術州に就
いて考察しよう︒
術州が一時河賜三城節度使の仙有となってゐたことは賓治迩鑑華に唐紀叫建中四年二月丙寅の條に
以河賜三城・懐・衛州爲洲陽車︒
とあって表に云ふ所と一致する班料が並存してゐるとと故此を是認して誤りあるまい︒而して表はそ
の恥領の時期孝専任師庇使就任後︑即ち李凡の就任せる延中二年六月以後としてゐるが︑此の時期の
常否は如何であらうか︒同じく方鍾表︑第三︑深路沁の棚にはその建中二年の條に
昭義軍節度罷領懐・術二州・河賜三城︒
とあって建中二年︑即ち河賜三城節度使刺設の年懐︑術の雨州及び河陽三城の領有を罷めたことが見
える︒此の罷価は云ふ迄もなく之を河賜三城節庇使の管下に移さんが爲である︒而して此の表の文僻
よりすれば術州の罷領は懐州︑河賜三城と同時に行はれし如く解せられる︒而して懐州︑河賜三城の
河陽三城節度使への移管は建節と同時に行はれてゐるのであるから︐右表の記赦に依れば術州の移符
も河陽建節の時たる建中二年正月であったこととなる︒
かく槻來れぱ河陽三城節度使の衞州領有の時期に開する表の記載は束畿の柵と澤漉沁の欄との間に 一
義の衞州領有の時期より明かにする必要孝一認めるのであるが︑他に参考す可き史料なき爲如何ともし
難い︒叉昭義が衛州ぞ領有してゐたことを識する史料も右表の外に求められず︑此所にも疑問が礎さ
れるのである︒然し昭義の術州俵有に開する疑問は昭義節度便自綴の研究問題L﹂して他日に讓り︑此
所では假に表の記戦を信川して昭義の術州領有を認め︑論議の進展をはかることとする︒
かく表の記戟を信用すれば昭義は何時の頃よりか術州を領し︑建中二年之を河陽の所管に移したこ
ととなるが︑更に他の文献を参照するに此の移符は単に朝廷の僻令たるに止まり︑営時昭義・河陽の
何れも實際には術州を領有してゐ庇かつた様である︒そこで備蒔の従際の衞州領有者ぞ索むるに︑そ
れは魏陣節度使であった︵︾而して此の魏呼淘徴初より術州溌與へられてゐたのではなく︑武力を以て
朝廷の命に抗し他鋲より弧奪したのである︒寺茎仰辿錐垂一噛紀程臓徳元年間正月癸亥の條に
以史朝義降將藤涌爲相・術・邪・淵・貝・磁六州節度使︒田承伽爲魏・坤・徳︒論・漉五州都防
禦使︒云云︒
とあり︑同六月庚爽の條に
以魏博都防禦使川承刎煽節度使
とあるに依って知られる如く︑魏沖節度使は賑徳元年史棚義の降勝冊承胴を以て魏椰都防禦使とし︑
次いで此を節度使に昇格せしめたるに始まり︑常時は魏・沖・徳・諭・減の五州を値し︑術州は同時
に世かれた祁術六州節度使朧尚の川仙となってゐたのである︒然るに田承胴は群糊の死に乘じ︑安治
厩・河陽三城節度使考二五
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態や踵1扇三瓶中や割J掲心負心.隠砦時蝿容徴里龍神和心昼挫浄QAj誉中心岳FQ。負、/講堂型ヨ三郷 鴬筵FJ' P<崖壹伸冨調J挫損1森旦謹.蕊。嬉蝉譜も""P<堤三一弐這且時廷畏′渠瞑煮萱・辱・窪 ・匡く ・湧Q1<=Aj"s,′善Q1<臺型雪特糾霞萱渇劃這g謂遺A」‑)P周負侭負?呉Sや褐BQ・趨舌1崎
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有力なる地撚として安史の飢以來河牝の叛軍を側面より抑雌す可き要鎭となってゐたからである︒叉
此を河陽に移したのは術州が懐州と境か一接し河賜の巡蹄とするを最も適策としてゐたからである︒
かく槻来れば術州の名義的所有樅が魏博より離れたのは愈堂魏博の叛志が露れ朝廷が討伐を決定し
た後でなければならぬ︒魏博節度使川悦︵田承胴の子︶が兵を畢け店軍と衝突を起したのは費治通鑑
萎へ店紀墾に擦れば建中二年五月である︒從って朝廷が衛州の所有名義を奪ったのも此の時以後でな
ければならぬ︒而して許治通鑑華逵店紀聿建中二一年正月の條に
河陽節度使李苑︒引兵迩術州︒田悦守將任履服詐降︒既而復叛
とあって建中三年正月早凌河陽三城節度使李兀が術州を攻めた記事が見えるが︑此の攻準は衞州の名
義的所有樅を現澄化せんとしたものと解せれられ︑從って河陽三城節度使の衛州所有権は己に建中二
年に與へられてゐたことが察知せられる︑即ち河賜三城節度使が衛州を領有した時期は建中二年五月
より同年末迄の間に在ったのである︒表に云ふ昭義の術州仙有を信用すれば︑その仙有の時期は恐ら
く魏跡の叛乱せる五月の頃で︑その翌月専任節度使が河賜E世かれると共にその管帷に移されたので
あらう︒河陽の術州領有を懐・河賜三城の価有と川時なるが如く記せる表︑澤慨沁の棚の記載は︑魏
博叛乱の時期から見て承服し難く︑撰考の誤謹若しくは記述方法心不完全と云はざるを得ない︒然ら
ば撰者は何故かかる記事を禍けたか︒此の疑問は昭義の術州伽有の眞否に對する辨別と共に今後更に
史料を蒐集して解明せられなければならぬ︒
黒 鼻
唐・河陽三城節度仙老二七
﹄11
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1
I
店︒河陽三城而庇伽老二八
次に表節三項に云ふ所を一考して世かう︑鋪三項に云ふ所に依れば河陽三城節度使刺世豊別︑然も
建中一牢に入って後︑一度汝州を河陽に隷し︑次いで之を行いたとのことであるが︑河陽二琉節度使
が創世せられたのは建中二年正月であるから︑此の創世以前に於いて︑然も建中二年に入って後︑一
日汝州を河陽に隷し︑再び此を省くに足る丈の円歎が果してあったか否か疑問となる︒されば假に表
の此の記載浄信じて汝州の制風︒還付が企てられたとしても︑それは軍なろ計喪若しくは勅令の發布
たるに止まり︑礎現される除裕はなかったものと恩はれる︒
以上老證が煩雑となったが︑之を要するに河賜姓節の年たる姓中一革に於いてその巡厨に細入せら
れたものは鄭︒汝・峡・懐・術・河隆一蕊の五州五縣浄数へるのである︒故に若し此等の五州五縣の
支配を完全に霞現し且つ永綾せしめたならば︑河賜は浅に堂堂たる大鍾となった澤である︒然し事査
に於いては右諸州の支配は水練せず︑和次いで河賜の巡脇を晩したのである︒
方鎭表第二・洲術の棚・建中二年の條に
是年以鄭州隷河賜三城節度︒既而復奮︒
とあり︑此に對應する記事として安治迦鑑華一↑府紀型建中二年正月の條に
叉以東部留守路胴恭爲懐・鄭・汝・侠四州・河賜三城節度使︒旬日︒叉以永平節度使李勉都統
治・胴恭一這︒価割鄭州隷之︒
とあるから︑鄭州は河陽の巡脇たること繩かに旬日にして早くも︑水平節度使に移管せられたのであ
I
|
る︒次に表・建中四年の條に
龍観察︒世束畿・汝州節度
とあり︑此に對唯する記事として褥唐書華一徳宗本紀・延中四年正月戊戌の條に
以詑武大將軍那好唯爲東都縦・汝節度使
とあるから︑汝州も建中四年の一初めには己に他鎭に移されたのである︒叉表・同年の條に
世映西都防禦使︒誹升爲節度使
とあり︑此に對膝する記事として奮店書華一徳︽|不本紀・建中二年十一月丁丑の條に
以商州刺史眺明敷爲映州長史・本州防禦雌迩使
とあり︑賛治迩鑑華準店紀廼建中四年十一月の條に
上之剛幸奉天也︒映號棚察使眺明城︒以軍事委都防禦剛使張糊去詣行在︒糊募兵得数萬人︒甲申
以鋤爲峡號節度使︒
とあって建中二年眺明激なる者侠州防禦使となり︑次いで侠號都防禦槻察使となり︑都防禦観察は建
中四年節度使に升されたことが見えるから︑映州も遅くも建中四年には河陽を離れて他鋲に移ってゐ
たのである︒登冶通鑑華に店紀叫建中四年二月丙寅の條に
以河陽三城・懐・術州爲河賜軍
とて河賜軍の領域を列畢せる中に己に汝︒侠二州の名の見えざるは當時己に叩州がその巡脇より離れ
暦・河陽三雄節度使考二九
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1
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店︒河隆一玩節庇使老三○
てゐた爲に外ならぬ︒かくて河賜の巡脇は懐・術の二州と河鵬三城の五縣のみとなったが︑此
州の領有も胆平なる名義にfり︑牌朝の努力にも拘らず途に此を睡收する能は寺〃︑魏沖の和を術
にそのま凶魏博に安堵された︒されば洲脇は懐州・河賜三城の一州五縣を価する小鎭となって経った
のである︒
次に表・元和九年の條に
河陽節度︒琳領汝州︒徒治汝州︒
とあって河陽の汝州坤領並に治所移郷のことが見える︒同株の記蕊は蚕治通鑑華症聯紀琿元利九年Ⅲ
八月辛酉の條に
以河陽節度使烏重胤爲汝州刺史︒充河陽・懐・汝節度使︒徒理汝州
と見え︑奮唐雲基一鳥亜胤傳に 李光進傅に
・元和中︒︹中略︺悲宗幹
砿境︒価割汝州隷河陽
と見え︑表に云ふ所と一致
悲宗賞
三蚊
叉與懐・汝節度烏重胤同破元桝
とあるから︑河陽三城節度使は汝州の増価後懐汝節使度とも稲せられたこ︲とが知られる︒降って表︒ 其功疑泌府左司馬︒してゐるから︑
I
元和九年の汝州坤恢は誤りなき史霞である︒尚奮店害罐一 遜懐州刺史兼充河陽三城節度使︒稗討准蕊︒川軍胤
’
の中術
ふと共
元和十三年の條に
とて烏重胤が汝州の刺史を罷めて懐州刺史となり︑且つ節度使の理所を汝州より河陽に蹄したことが
見え︑表の記載と一致するから史踵と認めて誤りあるまい︒此より二十餘年の間河陽の巡厩は懐州と
河陽等五縣に限られてゐたが︑會昌年間に至り呼び異動があった︒表・會昌三年の催に
復世河陽節度︒徒治孟州︒
とて河陽節度使の復世と孟州徒治のことが見える︒此の中河陽節度使の復世が表の撰者の誤謬による
記載で事置無根なりしことは己に老證した如くである︒然らば河陽節度使の孟州徒治の度否は如何︑
此の問題を解決する鱈には孟州の沿革を先づ明かにする必要がある︒孟州の沿革に就いては新暦書
権三蛾川志・河北逆・一流州の條︑衝・店普稚三地迎志・河流逆・誰州の條︑府御要確七州縣分離道・河
南道孟州の條等に見えてゐるが︑それ等の比岐考察は符略し︑最も詳細にしてHつ轍を得てゐろ齊店
書の記事を引川すると
腰・河陽三城節庇使考三一
汝州隷東綻︒復催東幾.汝州都防禦使兼東都留守如故︒罷河陽節度使︒とて汝州を再び河陽より省いて束畿に遼附し︑且つ河陽節度使浄罷めたことが見える︒此の河陽節度
使陵止は先章に詳論せし如く表の撰者の誤載であるが︑汝州の遼附は費治通鑑唯匪店紀極一兀和十三年
六月丁丑の條に
復以烏重胤領懐州刺史︒鋲河陽﹄
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あ
る
︒
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の
記
事
に
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い
て
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に
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綿
に
詳
論
し
て
ゐ
る
の
で
此
所
に
再
び
批
判
説
明
す
る
老
避
け
る
が
︑
要
す
るに孟州は河賜三城︵纐遇︶使設世︵吹徳元年︶以來︑その符下軍隊の維持炎として割屍せられてゐ
た河賜・河清・耕源・湖・氾水の五縣を以て禽呂三年一州となしたものを云ふのである︒五縣は早く
より河賜三城鈑遇使に脇し乍ら称呂三年迄此を澗立の一州としなかったのは︑貧際支配雛は河陽に移
り乍ら︑その所有名義が依前洛陽に留保せられてゐた篤である︒因みに孟州創設以前に於いては五縣
職は絶えた字・に拘らす.︑五脾の總稲としての河陽三城鋲過使の箱は依然慨川せられてゐた︒要するに
孟州は御昌三年所訓束畿五縣の地を潴溌共に東都洛陽より分離凋立せしめて創置したものである︒從
って孟州が創世以来河陽三城節度使の管下に世かれたことは正に表に云ふか如くであるが︑然し河賜
三城節度使は孟州の祇布によって新に得た土地は一塊もないのである︒又孟州の治所は河賜であり︐ の總稲としてその支配蒜たる河賜三城鋲鋤使なる稲が川ひられ︑鋲鋤使の節度使昇格以後は鋲遇使の 命昌三年九月︒巾評凹下奏︒河陽五縣︒同搬難已來荊脇河賜三城使U共和賦色役誰師河賜︒河南尹仙總杵箔額而己︒使帥一統便爲定制︒既処雄鋲︒足壯三城︒其河陽望升爲孟州︒価爲望︒河陽
︹註一○︺等五縣︒改爲望縣︒
唐q河陽三雌節度仙考三二
孟州上︒本河南府之河南縣︒木脇懐州︒熱度二年荊脇河南府︒以城脈大河長橋架水︒古元中史思叩再陥洛陽U太尉李光弼以亜兵守河賜︒及雍王平賊︒翻棚軍容使魚朝恩守河南府之河浦・齋派︒淵川縣和税入河賜三城使︒河南尹仙総仙共縣額︒尋又以氾水︵軍’
癖' #驚
隷召乃瞼
之以 ・
, 河乾
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河賜節度使陳楚奏︒移使府於三城ワ未有門戦︒欲移樫州門戦於河賜︒從之︒
とあるに依れば長座年間︑時の河賜節度使陳楚が節度使府を河賜に移す迄使府は懐州に在ったことが
隣・河陽三城節度使考三三
長座三年二月の條に 節度使は店・五代を通じて通例二州以上を価し︑而して自ら治する所の州の刺史をも韮ねてゐたのである︒然るに河陽三城節度使は異例をなし︑一州五縣即ち懐州と束綻五縣とを領し︑而してその治所は東都の所有名義に係る河賜縣に在ったのである︒されば一般節度使の例に従って治所の刺史を兼ねることが川來なかったのであるcそこで河賜一一褒節度使は懐州刺史を兼ねた︒奮唐塞蕊一烏璽胤傳及び同巻︑楊元卿傅に耐人共に懐州刺史飛洲陽三城節度使となるとあるはその淀例である︒而して河賜三城節度使は河賜に屯駐してゐたのであるから︑懐州刺史を兼ねても賛際にその職ぞ行ふことは出来なかった︒そこで養治迩鑑畦璋命筒目三年九月丙午の條に社︒叉河鵬節度︒先領懐州刺史︒常判宵撤事︒云云︒
Ⅲ
とあるに依って知られる如く節度判宵をして州政を執らしめてゐたのである︒尚衝店書誌一穆宗本紀 様である③ 從來河陽三城節度使の屯駐所も河陽であるから︑節度使の治所が孟州に置かれたとしても査際には一寸も移動するを要しなかったのである︒然るに表には徒治孟州と記しゞ節度使の屯駐地が移動したかの如く恩はしめてゐる︒されば表の此の記載は例の如く撰者の誤謬かと云ふに必ずしもそうではない
叩ⅢⅢⅢMⅢⅢⅢⅢⅡⅢⅢⅢⅢ町割岬Ⅱ︑︑
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とある如く︑此の不使を除誉節度使をして治所の長官を兼ねしめんとしたのが孟州設世の一大動機を
なしてゐたのである︒されば河陽節庇使は孟州設世と同時にその刺史孝一兼ね︑從って懐州の刺史か罷
め︑此所に初めて一般節鎭の如く治州の長官海兼任し得たのである︒表に徒治孟州とあデoは︑此を文
字通りに解すれば表の撰者の淺學として嘘はざるを得ないが︑兼任刺史の移動と解すれば決して無意 身は河陽に在り乍ら︑淌所を懐州に世くの形式を取り︑以って治州の刺史を錠ねるの罷裁房装ってゐ陽に移されたが︑時人には術節度使は滴所の刺史を兼任するとの通念から︑依然懐州を治州 たのであらう︒そして河賜の屯駐は創世以來の事洗であり︑ 河陽に駐し︑只汝州を坤緬せし際治所を一時此所に移したのみであるが︑使府は之を久しく懐州に置
唐・河陽三城飾庇使老三四
知られる︒使府は節度元槻漆︑防禦︑剛練等の諾使の役宅である︒されば河陽三城飾度使は
形式槻が跨ってゐたと老へられる︒何れにしても節度使が治所の長官を兼ねざろは不便とせられたの き︑且つ本州の刺史淀飛ねて居たのである︒因って恩ふに河陽節度使も一般節度使の例に倣ひ︑
で︑費治迩鑑歴や愈昌三年九月の條の宰相李徳裕の上奏に が洛陽の所有名義となってゐたととも一要阿となってゐたであらう︒節度使府は長座年間懐州より河 て駐管するの形式を取ってゐたものであらう︒而してかかる形に拘泥したのは︑河陽初め智下の五縣
刺 史
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叉河陽節度︒先領懐州刺史︒稚以判官撫事︒割河南五縣和賦隷河陽︒不若逢澄孟州︒其懐州刑置
11
叉刎世の目的であるに拘らず懐州より川で
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とするの 刺礎以來
その
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とあり︑新蕉唐書にも夫糞孟州の條に此と同様の記事あるに依って知られる︒ Ⅲ 杜︒其河陰縣宣割鴎孟州︒価改爲鶚縣︒其河清縣郁遼河南府 J 此のことは唐大詔令集港九置孟州救に あるが︑此の中河清縣は孟州創置と同時に洛陽に還付せられ︑代って河陰縣が孟州に編入せられた︒ 味とはならないのである︒因みに孟州は河陽︑河清︑濟源︑温︑氾水の五縣を以て創世せられたので束畿五縣は時に河陽三城叉は河陽三城鍾過使の名を以て總括指稲せらるれことがあり︑鎭過使の應
止後も此の用法の慨行せられたことは己に述ぺたが︑蒋府書唯一武宗本紀︑命凹昌四年の條に︵此の繋
一ノ
年は誤り︶
勅︒以河陽三城鎭過使爲孟州︒
とあろはその一例である︒所が御要も亦此の川例を用ひ︑然も頗る粉はしき記事を掲げてゐるのであ
る︒即ち同書罐七節度使の條に
河陽節度使︒称昌四年十月平劉祓︒以河賜三城鋲遇使爲孟州︒號河陽軍額︒悌二州隷鴻︒
とあるo河賜三城鎭遇使を孟州としたのは會昌三年である︒術此の文を一見すれば恰も河賜節度使は
此の時設世せられたかの印象を受ける︒恩ふに庶向要の此の記事の典擴となりし登料は方鎭表の作者
にも使用せられたのではあるまいか︒そうして表の作考は此の姿料を一見し︑直ちに本年河陽節度使
の設世ありたりと解したのであらう︒但し河賜節度使の創世が建中二年に在るを熟知せる撰者は此の
唐・河陽三城節度仙考三五
I
︑︐卜fF・■■■■■■■■■■
註に
用李徳裕三年之議也
とあり︑同書酷仁會昌二一年九月の條の李徳裕の上奏中に
暦︒河勝二城節度使考三六
時の設世を以て仰世の意味なりと早合鮎し︑かくて︑表や命昌三年の條に河陽節度使の復世を記載した
のであらう︒但し復世と升する以上︑その以前に臓止がなければならぬ︒然し事涯は陵止せられてゐ
なかったのであるから︑礎止の記錐もなく︑その虚世に窮したことと思はれるが︑復澄の記事と辻棲
を合せる爲逢に應叶の記録なきに拘らず︑命日三年以前に於いて河賜節度使の巡脇の愛動したる元和
十三年に腱止の年を梁けたのであらう︒元和十三年の巡脇鍵動は轆加に非ずして減少であったから︑
此の辻棲主義の記載を添加するに比較的好都合であったことも︑表の撰者の輕畢を決行せしめた一因
となったことと思はれる︒
次に表︑禽昌四年の條に
河陽節度輔領澤州
とて孟州創置の翌年更に澤州を輌祇したことが見える︒同様の記事は賓治通鑑峠痙店紀酷命昌四年九
月の條に
詔︒以澤州隷河陽節度使
とあるから︑表に云ふが如く澤州は會昌四年以後河賜の巡脇となったと見て誤りない︒尚右通鑑の胡
及び河陽三城︵會昌一
領せられたのである︒ 俟昭義平日︒価割澤州隷河陽節度使︒云云︒
とあるに依れば︑孟州の創世と同様宰相李徳裕の議に依り昭義より割廃したのである︒
河陽の巡暁は此の後本稲の取扱範囲たる乾符元年以前に於いては異動せす︑表によれば唐末光化二
年に至って澤州の領有を罷められ︑翌登年の天復元年に再び昭義の巡脇に還付せられたと云ふ︒
以上を要するに河賜三城節度使の巡脇は常初五州を配せられたろもその価有は永綾せず︑大冊懐州
及び河陽三城︵會昌三年後孟州となる︶が経始一Hせる仙地となり︑之に汝州及び深州が一定期間増
以上一二雨頂に於いて河賜三城節度使の沿革を通慨したが︑その結果を方鍾表に比すれば︑方鎭表
には少からず誤謬のあることが知られろ︒かかる誤謬は河賜節度使に開してだけでなく︑恐らく他に
於いても同じく撰考の輕卒が数多く織込まれてゐることであらう︒されば此の研究により吾人は表が
節度使研究の文献として庇に飛蛮にして又得難き史料を提供してゐることを知ると共に︑その使川に
際しては愼亜たる松討を要することを浦感するのである︒
一︑新鵬書の方銅表が他の繩纂秘に見られざる壷料を肴んでゐることは東洋畢報二三雀二臓所戦︑器佐精一耶
畢士の﹁河西術陛仙に繩いて﹂に於いて論及せられて居る︒叉新雌沖の杜撰に就いては從遮砥を言はれて
↑﹄︽ゐる所であるが︑右諭丈中にもその兵志の杜撰を指抽せられてゐる︒
唐・河陽三城節度使考三七
註
11
頃であったことは砿であらう︒
六︑奮唐抑巻一七二令狐推偲の祀駆も此と全く一致する︒
七︑河陽三城蛎辿使考参照︒
八︑武治通錨には坊の字雌し︒
九︑術字c
一○︑此の丈の考証は本編に詳論した︒中に疑川の簡所もあるが︑↓てれは木綿の考證を参照せられ度い︒
三︑本文に云ふ樫︑郷︑洲隆一扇の鄭は正しくは剛らるMきである︒皿山は第二攻の巡脇研究に於いてⅢかに
する︒
四︑淳の脱落は読治迩鑑の記躯にょzL知られる︒
五︑醤概書穆一七二令狐楚仰には十月とあり︑壷給通蛾の十一月と結確には一致しないが︑大膿十月十一月の
噸︒河窒三域柿皮使考三八
二︑河陽三城砿辿使考参照︒
ノ