密
教
文
化
ダ ル マ キ ー ル テ イの 生 涯 と作 品 (上)
宮
坂
宥
勝
I
ダ ル マ キ ー ル テ ィの 生 涯
〔1〕 ダ ル マ キ ー ル テ ィの 呼称
(1) ダ ル マ キ ー ル テ イ (Dharmaklrti) の 漢 訳 名 は、 義 浄 が 『南 海 寄 帰 内 法 伝 』 に 記 し て い る ご ど く、 「法 称 」 で、 チ ベ ッ ト語 の 訳 名 は Chogs-kyi grags-pa で あ る。 ダ ル マ キ ー ル テ イ は 仏 教 内 外 の 人 び と よ り、 た だ 単 に キ ー ル テ ィ(Kirti) と 略 称 さ れ、 ま た 弟 子 か ら ア ー チ ャ ー リ ヤ (Acarya 阿 閣 梨) と よ ば れ て い る。 さ ら に ダ ル マ キ ・ ル テ イ ・パ ー ダ (Dharmaklrti-pada) と尊 称 され る が、こ れ は 単 に キ ー (2) ル テ イ ・パ ー ダ (Kirti-pada) と 略 称 さ れ る こ と も あ る。 こ の ほ か、 ダ ル マ キ ー ル テ イ の 別 称 が 二、 三 伝 え られ る。 カ ル ナ カ ゴ ー ミ ン (Karnakagmin) は 論 典 作 者 (3) (Sastra-kara) と よ ぶ。 モ ー ク シ ャ ー カ ラ グ プ タ (Moksakaragupta) は 『 タ ル カ ・ バ ー シ ャ ー 』(Tarka-bhasa) の 中 で、 パ ン デ ィ タ ・ チ ャ ク ラ ・ チ ュ ー一ダ ー マ ニ (PaBditacakracadamani)(4)と称し、 ド ゥ ル ヴ ェ ー カ ・ ミ シ ュ ラ(Durvekamisra) は プ (5) ラ ー マ ー ニ カ ・チ ャ ク ラ ・ チ ュ ー ダ ー マ ニ (Pramanikacakracadamani) と よ び、 (6) あ る い は 評 釈 作 者 (Varttikakara) と も い っ て い る。こ れ ら の 中、Panditacakracu damani お よ び Pramanikacakracadamani の 呼 び 名 は ダ ル マ キ ー ル テ イ が 南 イ ン ド の チ ュ ー ダ ー マ ニ (cedamani) 領 の 出 身 で あ る と い う 後 の チ ベ ッ ト 所 伝 の 一 つ の 典 拠 た り う る も の で あ る と 考 え ら れ る。
(1) 大 正、54巻229頁 中。
(2) Tarkabhasa G.O.S. P. 38, Iz. 14∼15ま た ラ トナ キ ー ル テ イ の 小 品sthirasiddhidttsap-am (Ratnaklrtinibandhanavall p. 114 l. 18) に も み え る。
(3) Svavrtti p. 5 (4) Tarkabhasa p. 7 l. 10
(5) Hetubindutika. G.O.S. p. 386に は Pramanavarttika I, 70を、 こ の 名 の 下 に 引 用 して い る の で、 ダ ル マ キ ー ル テ イ の 別 名 で あ る こ と が 知 ら れ る。"na tv apatanadharmana iti tad atha-"
(2)
(6) Pramanya...syad...
(Pramana-va
1-70) iti/Hetubindutikaloka.
〔2〕 伝
記
イ ン ド本 土 で書 かれ た ダ ル マ キー ル テ イ の伝 記 は存 しな い の で、 チ ベ ッ トに
お け る諸 文 献 記 録、 す な わ ち プ トンの仏 教 史、 『ラー マ ー ・ター ラナ ー タ』 『バ
ク ・サ ン ・ジ ョ ン ・サ ン』 な どの資 料 に これ を求 めな けれ ぼな らな い。 か れ の
生 涯 が これ ら にお い て は少 な か らず 潤 飾 され創 作 の 手 が加 え られ て い るが、 そ
の背 後 に は ま た い く らか の史 的事 実 を読 み と る こ と も可 能 で あ る と思 われ る。
チ ベ ッ トの 諸 伝 に よ る と、 ダル マ キ ー ル テ イ は 南 イ ン ドの チ ュー ダ ー マ ニ領
(1)(Gtsug gi Nor-bu=Cttdamapi) の ト ゥ リ マ ラ ヤ (Trimalaya) の 地 に 生 を 受 け た。 バ ラ モ ン の 家 庭 で あ っ て、 か れ の 父 は パ リ ヴ ラ 「 ジ ャ カ ・コ ー ル ナ ン ダ (Parivrajaka-: Korunanda) と よ ば れ、 バ ラ モ ン の 遍 歴 者 で あ っ た。 ダ ル マ キ ー ル テ イ は 幼 に し て 俊 敏、 青 年 期 に 至 る ま で ヴ ェ ー ダ 聖 典 を は じ め とす る バ ラ モ ン の 諸 文 献 を 学 習 し、 よ く通 達 す る こ と が で き た。 仏 教 者 の 講 義 も し ば し ば 聴 講 し た。 青 年 時 代 の か れ は 仏 教 に傾 倒 し て い た よ う で あ る。 仏 陀 の 教 説 が 真 実 な る こ と を痛 感 し て、つ い に優 婆 塞 の 衣 を 身 に ま と う に 至 り、や が て バ ラ モ ン か ら 追 放 され た。 中 イ ン ドの ナ ー ラ ン ダ ー 大 学 に い る ダ ル マ パ ー ラ (Dharmapala 護 法) を は る ば (2) る 訪 ね て ゆ き、 か れ に つ い て 出 家 得 度 し た。 そ し て 経 部 お よ び 真 言 陀 羅 尼 五 百 部 に 精 通 した の で あ っ た。 し か し、 か れ の 興 味 を 引 い た の は 論 理 学 で あ っ た。 そ こ で 多 く の 論 理 学 書 を学 ん だ が、 い ず れ も 満 され る こ と な く、 デ イ グ ナ ー ガ (Dignaga 陳 那) の 弟 子 イ ー シ ュ ヴ ァ ラ セ ー ナ (Isvarasena) か ら 『フ。ラ マ ー ナ ・サ ム ッチ ャ ヤ 』(Pramanasamuccaya) を 学 ん だ。 師 を 凌 駕 す る ほ ど に 上 達 し た か れ は、デ イ グ ナ ー ガ の 論 理 学 説 の 若 干 の 誤 謬 を す ら 発 見 す る こ とが で き た。イ ー シ ュ ヴ ァ ラ セ ー ナ は か れ に 『フ. ラ マ ー ナ ・サ ム ッ チ ャ ヤ 』を 自 由 に 批 判 的 に 説 明 す る 注 解 書 を 作 る こ と を す す め た の で、 か れ は 師 の 許 可 を え て 『評 釈 』(Varttika) を 著 し た。 そ の 後 も 述 作 に 弟 子 の 指 導 に 布 教 に、 あ る い は 論 義 に 献 身 し た。 公 開 の 席 上 に お け る論 義 は ミー マ ー ン サ ー 学 者 ク マ ー リ ラ (Kumarila) と の 論 戦 が 圧 巻 で あ っ た。 か ね て バ ラ モ ン の 聖 な る テ イ ー ル タ (Tlrtha) の 秘 教 を 知 ろ う と し て い た ダ ル マ キ ー ル テ イ は 奴 隷 の 身 に 紛 し て 南 イ ン ドへ の 旅 に の ぼ っ た。 ク マ ー リ ラ の 名 声 を 聞 い て、 か れ の と こ ろ へ ゆ き 奴 隷 と な っ て 働 き、 そ の ダ ル マ キ ー ル テ イ の 生 涯 と 作 品 ( 上)
-103-密 教 文 化
精励 振 りが 認 め られ て ク マー リラ夫 妻 は秘 教 聴 聞 の許 可 を与 え た。 ダ ル マ キー
ル テ イは秘 教 を盗 む や、 ク マ ー リラ の家 を去 る こ と を決 意 し、 そ の 前夜、 バ ラ
モ ンた ち を招 い て 大饗 宴 を催 した。 そ れ か ら ヴ ァイ シ ェ ー シ カ学 者 カ ナ ー ダ ・
グプ タ (Kanadagupta) をは じ め とす る多 くのバ ラモ ンた ち と論 争 を行 な い、 三
カ月 後 に、 かれ ら を仏 教 徒 に改 宗 させ て しま った。 こ の仕 儀 は ク マ ー リラ の憤
激 を買 い、 かれ は五 百 人 のバ ラ モ ン と とも に ダ ル マ キ ール テ イ に 挑 戦 した。 ク
マー リラは、 敗 者 とな っ た者 は殺 して も よ い とい う条 件 を持 出 した が、 ダ ル マ
キー ル テ イは クマ ー リラ の死 を欲 せ ず、 改 めて 敗 者 は勝 利 者 の真 理 に服 す べ き
こ と を条 件 と して、 これ を納 得 させ た上 で討 論 を開始 し、 そ の結 果、 クマ ー リ
ラは敗 れ た の で、 かれ は 五百 人 のバ ラモ ン と と もに 仏教 に改 宗 した。
また ヴ イ ンデ イ ヤ (Vindhya) 山 中 の ジ ャイ ナ教 学 者 ラ ー フ ヴ ラテ イ ン (Rahu
vratin)
た ち と も討 論 した。 そ の後 も、学 院 を再 興 し、 あ るい は 閑 寂 な森 林 で玲
伽 を行 な った。 後 年、 東 イ ン ドの カ リンガ (Kalinga)
地 方 に1僧 院 を建 立 した と
い わ れ る。 そ して、 そ こ を根 拠 地 と して多 くの人 び とを化 導 した。 晩 年 は こ の
僧 院 の 中 で多 くの 弟 子 た ち に取 囲 まれ な が ら、 多 彩 な 生 涯 を 閉 じた。 人 び とは
ダ ル マ キ ー ル テ ィ を火 葬 に 付 した 時、 荘 厳 華 麗 な 花 の雨 が 降 り、7日 間 全 国 く
ま な く香 と妙 な る音 楽 で 満 た され た と伝 え られ る。
ダ ル マ キ ー ル テ イ の 作 品 が 当 時、 世 に歓 迎 され な か った こ とに 関連 して、 興
味 あ る エ ピソー トが残 され て い る。 かれ の反 対 者 た ち は ダ ル マ キー ル テ イ の作
品 (員葉) を1匹 の犬 の 尻 尾 に く く りつ けて 街 に放 っ た とこ ろ、 犬 は通 りを走
りな が ら、 貝 葉 を舞 い 散 ら して しま っ た。 そ こ で、 ダル マ キ ー ル テ イ は こ うい
った。 「こ の犬 が街 々 を走 り去 る よ うに、 そ の よ うに、 わ が 作 品 も また 世 界 に
くま な く流 布 す る で あ ろ う。
」
以 上 の伝 説 は諸 記 録 文献 に よ って 多 少 の 異 同 が あ る。 ク マ ー リ ラ をは じ め と
す る五 百 人 のバ ラ モ ン を仏教 に改 宗 させ た こ とは、 『ター ラ ナ ー タ』 と 『バ ク
・サ ン ・ジ ョン ・サ ン』 に記 され て い るが、ジ ャイ ナ教 徒 との論 争 は、 『バ ク ・
サ ン ・ジ ョ ン ・サ ン』 に の み み え て い る。
ダル マ キー ル テ イ とク マ ー リラ との 問 に論 戦 が あ っ た こ とは、 かれ とシ ャ ン
カ ラ との論 争 と同 様 に、 事 実 と して受 取 りがた い。 ク マ ー リ ラや シ ャ ンカ ラが
世 に 出 て、 ダ ル マ キー ル テ イ の説 を手 厳 し く批 判 し、 さ らに 後代 の 仏 教 者 た ち
が、 か れ ら両 人 に 反 撃 を加 え た と い う史 実 が 投 影 さ れ て、 か よ うな 伝 説 が 出 来 上 っ た こ と は 明 ら か で あ る。 ク マ ー リ ラ は ダ ル マ キ ー ル テ イ の 叔 父 で あ っ た と い う伝 説 は、 今 日、 イ ン ドの 諸 学 者 も全 く こ れ を 否 定 し て い る。 経 部 お よ び 真 言 陀 羅 尼 五 百 部 に 精 通 し た と い う所 伝 は、 現 に チ ベ ッ ト蔵 経 中 に は 同 名 の ダ ル マ キ ー ル テ ィ に 帰 せ ら れ る密 典 の 若 干 の 作 品 が 収 め ら れ て い る も の に よ る か。 こ の 場 合 の 密 教 者 ダ ル マ キ ー ル テ イ が、 当 の ダ ル マ キ ー ル テ イ と 同 人 か 異 人 か は 目 下 の と こ ろ 確 め え な い が、 か よ う な 密 教 的 著 作 が 残 さ れ て い る こ と が、 右 の 伝 承 を 形 成 し た も の と み で よ い で あ ろ う。 デ イ グ ナ ー ガ の 論 理 学 の 誤 謬 を指 摘 し た と い う伝 え は、 『評 釈 』 の 「為 自比 量 」 に 関 す るIII. 15∼20の 諸 頚 に お い て、 そ の 事 実 が 認 め ら れ る の で、 史 実 で あ っ た と し な け れ ば な ら な い。 『評 釈 』 の 中 に は、 ミー マ ー ンサ ー、ヴ ァ イ シ ェ ー シ カ の 哲 学 説 お よ び ジ ャ イ ナ 教 を批 判 し て い る か ら、 こ の 作 品 が 作 成 され る ま で の あ る期 間、 実 際 に 公 開 の 席 上 で 論 義 を行 な っ た こ と は 想 像 に 難 く な い。 そ の よ う な 事 実 に も と つ い て、 か よ う な 伝 説 が 生 ま れ た も の と 思 わ れ る。 (1) チ ュ ー ダ ー マ ニ は東 デ カ ン (Deccan) に お け る チ ョーダ (Coda) ま た は チ ョー ラ (Chola)
で あ る と され る。 な おS.C, Vidyabhusana に よ れ ば、 トゥ リマ ラ ヤ は トゥ リル ・マ ッ ラ (Trirumalla) で あ ろ うと い う (History Of Indian Logic. Calcutta. P. 303)。 (2) ダ ル マ キ ー ル テ ィが ダ ル マパ ー ラにつ いて 出家 した こ とは、 スチ ャバ ツキ ー (Th.
Stcherbatsky) のBuddhist Logic, Leningrad. vol. I. Intro., pp. 34∼36. 同 じ く Erkenntnistheorie. s. 254f. Dharmakirti's Leben and Werke. HIL. pp. 303-4, G.O.S. NO. CXIII, Intro., (ス チャ バ ッ キ ー の前 著 の転 載 に近 い) が す べ て承 認す るが、 こ れ は疑 問 視 され る (中 村 元 博士『 初 期 の ヴ ェー ダ ー ン タ哲 学』105頁 参 照)。 た だ し、 ダ ル マ キー ル テ イ と チベ ッ ト王 ソ ンツ ェ ンガ ン ポ (Sron bstan sgam po) 王 と同 時 代 で あ る とす る 『タ ー ラ ナ ー タ』 の所 伝 は、 王 が 大 体 七 世 紀 前 半 の人 であ る とす る と正
しい で あ ろ う。
〔3〕 史 実 の 断 片
ダ ル マ キ ー ル テ イ が 南 イ ン ドの デ カ ン (Deccan) 地 方 に 生 ま れ た こ と は、 チ ベ ッ ト訳 の 『量 評 釈 』(Pramapavarttika) の 次 の 別 碩 の 奥 書 に よ っ て 知 ら れ る。
"Tshad ma rnams hgrel
tshig lehur
byas pa/yul
lho phyogs kyi
rgyud du byuh ba/gshun
lugs ream pa thalns cad tshes sin to hkhrul
par hjug pa/(1)
ダ ル マ キ ー ル テ イ の 生 涯 と 作 品 ( 上)
-101-密
教
文
化
span pahi grags pas sahi stepi ma lus pa khyab pa/hgran
zla med
pahi mkhas pa chen po dpal/chos
kyi grags pa mdsan pa rdsogs so//
南 方 地 方 の家 系 に 生 まれ、
〔外 道 の〕 悪 しき一 切 の典 籍 の
は な は だ しき誤 謬 を あば き、
栄 誉 の 称 讃、 〔
全 〕 土 に 満 ち、
無 敵 の 大 智 者
光 栄 あ る ダル マ キー ル テ イ に よ っ て
量 評 釈 頬 は 作 られ た。
これ は チ ベ ッ ト訳 の み に附 加 され た讃 頭 で あ る か ら、 お そ ら く後 人 の加 筆 で
あ ろ う。 そ の うち、 栄 誉 の 称 讃 の句 は ダ ル マ キ ー ル テ イ (Klrti 称讃)
に掛 けた も
の で あ る が、 ダ ル マ キ ー ル テ ィ の生 存 中 に はか よ うな称 讃 は え られ な か った よ
うで あ る。 そ の事 を物 語 る 自作 の 二 っ の詩 が伝 え られ る(後 述)。
『
評 釈 』 の 中 で、 ダ ル マ キー ル テ ィ は デ イ グナ ー ガ を指 して 「正理 を知 る者 」
(2) (Nyayavit) あ る い は 「正 理 論 者 」(Nyayavadin) と よ ぶ。 そ れ が 確 実 に デ イ グ ナ ー ガ で あ る こ と は、 諸 注 解 書 に 徴 して 全 く明 ら か で あ る。 『評 釈 』 で は ダ ル マ パ ー ラ に は 言 及 し て い な い。 た だ し、 イ ー シ ュ ヴ ァ ラ セ ー ナ が 学 問 上 の 直 接 の (3)師 で あ った こ とは諸 伝 の一 致 をみ る。 今 日、 イ ー シ ュ ヴ ァラ セ ー ナ の著 作 は伝
え られ な いが、 少 く と も入世 紀 こ ろ まで に は何 らか の 著 述 ま た は かれ の学 説 と
(4)され る もの が 残 され て い た こ とは確 か で あ る。
『評 釈 』 に 「また、 そ れ 〔=二 つ の 月 な どの認 識 〕 は、 あ る意 的 な認 識 で あ る
(5)
と、 あ る 者 た ち は 説 く 」 と あ る が、 こ の 二 っ の 月 の 認 識 はindriya-gata-vibh-(6) rama を 指 し、 『諭 伽 師 地 論 』 所 見 の 数 錯 乱 ま で 遡 り う る。 マ ノ ー ラ タ ナ ン デ イ ン (Manorathanandin) は 右 の 「あ る 者 た ち 」 を 「師 た ち 」 と 解 す る。 だ が、 後 述 す る ご と く、チ ベ ッ ト所 伝 に よ る と、マ イ ト レ ー ヤ (Maitreya 弥 勒)、 ア サ ン ガ (Asanga 無 着) の 両 者 は 因 明 の 相 承 系 譜 に 記 載 を み な い。 ダ ル マ キ ー ル テ イ の 弟 子 に デ ー ヴ ェ ー ン ドラ ・ブ ッ デ イ (Devendrabuddhi) が あ る が、 ジ ャ マ ー リ (Jamari) お よ び 荘 厳 学 者 (Alamkara-papdita) す な わ ち プ ラ ジ ニ ャー カ ラ ・ グ プ タ (Prajfiakaragupta) は 直 弟 子 で あ る と い う伝 説 は、 ほ と ん ど全 く確 実 性 の (7) な い も の で あ る。(1) Sde-dge. ed. Ce. 秩151b1-2参 照。 こ れ は Pramanaviniscaya の 巻 末 に も 同 文 が 認 め ら れ る (Sde-dge. ed-Ce. 秩230a5) が、 『量 評 釈 は …』 と い う の が 「量 決 択 と い う の は …』(Tshad ma rnam par nes pa shes bya ba) と な っ て い る 相 違 を み る の み。 (2) PV. III, 212, 331参 照。
(3)「 タ ー ラ ナ ー タ 印 度 仏 教 史』(寺 本) 248頁。
(4) E. Steinkellner: Bemerkungen zu Isvarasenas Lehre vom Grund (WZKSO, Band. x. 1966)
(5) PV. II, 294 (6) 大 正、30巻357頁 下。 『顕 揚 聖 教 論』(大 正、31巻532頁 中、 下)参 照。 (7) こ の 点、 『ター ラ ナ ー タ 仏 教 史 」256-257頁 の 記 述 は 信 葱 性 が な い。 フ。ト ン は そ の 著
Tshad ma rnam par Aes pahi mtshan dOn bshugs. 秩5a. l. 4ffで、 プ ラ ジ ニ ャ ー カ ラ ・ グ プ タ を デ ー ヴ ェ ー ン ド ラ ・ブ ッ デ イ の 弟 子 と す る。 〔4〕 生 存 年 代 ダ ル マ キ ー ル テ イ の 年 代 は、 こ れ ま で 内 外 の 諸 学 者 に よ っ て し ば し ば 論 ぜ ら (1) れ て い る が、見 解 の 一 致 を み な い。こ れ に つ い て、イ ン ドの サ ン ガ ヴ イ(Sukhalalji Sanghavi) 教 授 は、従 来 の 主 要 な 学 者 の 意 見 を 批 評 し な が ら 次 の ご と く の べ て い (2) る。 「ス チ ャ バ ツ キ ー 教 授 は 上 の 記 述 一 伝 記 紹 介 を 指 す 一 の うち で、 ダ ル マ キ ー ル テ イ の 年 代 を 論 じ て い な い け れ ど も、 ヴ イ デ イ ヤ ー ブ ー シ ャ ナ 博 士(Dr. Vidyabhasana) お よ び ラ ー フ ラ ジ ー (Syt Rahulaji) 氏 は、 そ れ を 論 じ て い る。 ヴ イ デ イ ヤ ー ブ ー シ ャ ナ 博 士 は、 か れ を635年 か ら650年 の 間 に 置 く が、 ラ ー フ ラ ジ ー 氏 は (Vadanyaya の かれ の序 文 中 で) や や 早 め に、 か れ を625年 に 置 く。 こ れ ら の 年 代 論 は 死 殻 の 年 代 に は 言 及 し な い で、 た だ か れ の 活 動 し た お よ そ の 期 間 に ふ れ て い る の み で あ る。 も ち ろ ん、 そ れ は 確 定 的 な 年 代 に 到 達 す る こ と は 不 可 能 で あ る。 だ が、マ ヘ ー ン ドラ ク マ ー ラ (Pt. Mahendrakumara Nyayacarya) 氏 の 考 量 は、 『ア カ ラ ン カ グ ラ ン タ ト ゥ ラ ヤ』(Akalamkagranthatraya) に た い す る 自分 の 序 文 (18-23頁) に お い て、 か れ の 年 代 を 考 え て い る が、 非 常 に 首 尾 一 貫 し て お り、 そ れ ゆ え、 注 意 深 く、 留 意 に 価 す る も の で あ る。 こ れ ら の 考 量 に し た が え ば、 ダ ル マ キ ー ル テ イ の 期 間 は、620年 か ら690年 の 間 で あ る。」 教 授 は 幾 分 の 疑 問 を 残 し て は い る け れ ど も、 こ の マ ヘ ー ン ドラ ク マ ー ラ 氏 に 賛 意 を 表 し て い る。 な お、 こ こ に 言 及 さ れ る ヴ イ デ イ ヤ ー ブ ー シ ャ ナ 説 に つ い て い う と、 か れ が ダ ル マ キ ー ル テ イ の 生 涯 と 作 品 ( 上)
-99-密 教 文 化 ダ ル マ キ ー ル テ ィ の 上 限 年 代 を635年 と し た の は、 そ の 著HILに お い て ダ ル マ キ ー ル テ イ の 師 事 し た ダ ル マ パ ー ラ は そ の 頃 生 存 した とす る の に よ る も の で あ る。 ま た ス チ ャ バ ツ キ ー 教 授 はHIで ダ ル マ キ ー ル テ イ が ダ ル マ パ ー ラ に 就 学 した 時、 ダ ル マ パ ー ラ は 非 常 な 老 齢 で あ っ た こ と、 ま た か れ ダ ル マ パ ー ラ は ヴ ァ ス バ ン ド ゥ の 弟 子 で あ っ た、 と す る。 し か し、 近 年 わ が 国 に お け る 研 究 成 (3) 果 に よ る と、 ダ ル マ パ ー ラ の 生 存 年 代 は 厳 密 に530-561年 と算 定 さ れ て い る。 した が っ て ダ ル マ パ ー ラ を 一 つ の 基 準 と し て ダ ル マ キ ー ル テ イ の 年 代 を 推 定 す る こ と、 す な わ ち ダ ル マ キ ー ル テ イ の 師 を ダ ル マ パ ー ラ な り と す る チ ベ ッ トの 伝 説 を 無 批 判 に 受 け 取 る こ と は で き な い。
(1) Th. Stcherbatsky-Dharmakirt が Dharmapala に 就 学 した と き、Dharmapala は 非 常 な 老 齢 に達 して い た。Dharmapala は Vasubandhu の 弟 子 で あ る。Buddhist Logic. I. p. 34. S.C. Vidyabhttsana-A.D. 635∼650. Rahula Sahkrtyayana-A.D. 625. F. Gonda-A.D. 650. 宇 井 博 士-A. D. 643∼673(「 東 洋 の 論理 』232頁)。 金 倉 博 士-7世 紀 中 葉(A.D. 650)「 印度 精 神 文 化 の 研究 」313頁)。 中村 元 博 士 一 玄婁 入竺 と義 浄離 竺 (643∼673)の 間、 そ の 前後。(『初 期 の ヴ ェ ー ダ ー ン タ哲 学』108頁)。
(2) Hetu. bindutika. G.O.S., NO. CXII. Intro., P. 8. (3) 宇 井 博 士 「印 度 哲 学 史 」434頁 参 照。 (1)『 南 海 寄 帰 内 法 伝 』 な ら び に 『大 唐 西 域 求 法 高 僧 伝 』 の 記 録 『大 唐 大 慈 恩 寺 三 蔵 法 師 伝 』 に よ る と、 ナ ー ラ ン ダ ー (那 燗 陀 寺) に お い て、 玄
奨 は 「
因 明 」 「
声 明」 「
集 量 」 な どの 論 書 を お の お の 二 回聴 講 して い る。 ま た
「
南 僑 薩 羅 国 に あ って、 そ の国 のバ ラモ ンで 因 明 を解 す る者 に就 い て 留 ま る こ
と月 余 日、 『集 量 論 』 を 読 ん だ 」 と 記 録 さ れ て い る。 こ れ ら に よ っ て 玄 奨 は デ イ グ ナ ー ガ の Pramauasamuccaya を 学 ん だ こ と が 知 られ る。 か れ は、 い か な る 事 情 が あ っ て か、 『集 量 論 』 を漢 訳 す る こ と が な か っ た。 そ の の ち、 義 浄 が イ ン ドに 留 学 し た と き に も、 デ イ グ ナ ー ガ の 名 声 は、 噴 々 た る も の が あ っ た。 『南 海 寄 帰 内 法 伝 』 に は い わ ゆ る デ ィ グ ナ ー ガ の 八 論 な る も の を 記 し て い る。「因 明 著 レ 功。 鏡 二 徹 陳 那 之 八 論 一 観 三世 論、 二 観 総 相論、 三 観 境 論、 四 因 門 論、 (1) 五 似 因 門 論、 六 理 門 論、 七 取 事 施 設 論、 八 集 量 論 也。」 シ ャ ー キ ャ キ ー ル テ イ (Sakyaklrti) とい う仏 教 論 理 学 者 が 現 在 の ス マ ト ラ 島 (お そ ら くパ レン バ ン) に い た ら し い。 か れ に 関 連 し て 義 浄 は ま た デ イ グ ナ ー ガ の 名 に 言 及 し て い る。 「南 海 仏 逝 国。 則 有 二 釈 迦 鶏 栗 底 一 今現 在 仏 誓 国。 歴五 天 而度 学 突。 斯 並 比 二 (2)
秀 前 賢 一。追 二 躍 往 哲 一。 暁二 因 明 論一。 則 思 擬 二 陳 那 一。」
デ ィ グナ ー ガ につ い て は、 『大 唐 西 域 求 法 高 僧 伝 』 の 「
道 琳 伝 」 に も次 の ご
と く出 て い る。
「
後 陳 那 論 師見 其製 作功 殊 人 智 恩 極 情 端。
(3)撫 経 歎 日。 郷 使 此 賢致 意 因 明者。 我復 何 顔 之有 乎。」
『集 量 論 』 は義 浄 に よっ て4巻 に分 け て訳 出 され、 そ れ が ま も な く散 侠 した こ
とは、 『
法 華 論 』5巻
と と もに 失 訳 と記 載 され てい る 『開元 釈 教録 』 の示 す と
(4)こ ろで あ る。
とこ ろで、 デ イ グナ ー ガ に関 す る限 りこ の よ うに 中 国資 料 に 記 録 され て い る
けれ ど も、 ダ ル マ キ ー ル テ イ につ い て は、 『三蔵 法 師 伝 』、『大 唐 西 域 記 』 を み
て も、 一 言 半 句 のふ れ る と ころ が な い。 そ れ ゆ え、 これ ま で に、 玄 奨 が イ ン ド
に留 学 した 当時 は、 ま だ ダ ル マ キ ー ル テ イは世 に 出 な か った も の と一 般 にみ な
され て い る。 す で に先 賢 の指 摘 した とお り、義 浄 の 『内 法伝 』 に は法 称 す な わ
ち ダル マ キー ル テ イ の名 が二 回 出 て く る。
「
斯 乃遠 則 龍 猛 ・提 婆 ・馬 鳴 之 類。 中則 世 親 ・無 着 ・僧 賢 ・清 弁 之 徒。 近 則
陳 那 ・護 法 ・法 称 ・戒 賢 及 師 子 月 ・
安 慧 ・
徳 慧……法
称 則 重 顕 二 因 明一。
(5)徳 光 乃 再 弘 二 律蔵一。」
これ に よ って ダル マ キ ー ル テ イ は す くな く と も玄 奨 が イ ン ドを去 っ て 後、 義
浄 が イ ン ドに ゆ くまで の間 に活 動 した事 実 が認 め られ る。 した が っ て、 ダル マ
キ ー ル テ イ の年 代 は、 こ こ に一 つ の基 準 を お くこ とが で き るわ けで あ るが、 た
だ義 浄 がイ ン ドに渡 つた 当 時 もか れ が 生 存 して い た か ど うか は と も か く、 この
よ うに令 名 を馳 せ てい る点 か らみ る と、 す で に 久 しい 以 前 か ら論 理 学 の著 作 を
もの して い た の で あ ろ う と推 察 され る。 と こ ろで、 そ れ を裏 書 き す る も の と し
て、 義 浄 とほ ぼ 同 じ頃 イ ン ドに留 学 し、 ナ ー ラ ンダ ー で義 浄 と別 れ た とい う無
ダ ル マ キ ー ル テ ィ の 生 涯 と 作 品 ( 上)-97-笛 教 文 化 (6)
行 の伝 記 の一
一節 に注 意 した い。 無 行 に関 して は従 来 わ が 国 の学 界 で ダル マ キ ー
ル テ イ の年 代 塗論 ず る場 合、 な ぜ か全 然 問題 視 され る こ とが な か った が・ 筆 者
は非 常 に重 要 な こ とが らで あ る と考 え る。 さて、 義 浄 は渡 印 の翌 年 す な わ ち西
紀672年 よ り10年 間 ナ ー ラ ンダ ー に在 住 して仏 教 を研鎭 した。 した が っ て、 義
浄 と無 行 とが遭 遇 した の は 明確 な 年 月 を欠 くけれ ど も672年 か ら680年 の 問 の こ
とで あ る。
義 浄 の 『大 唐 西 域 求 法 高僧 伝 』 に 次 の ご と く記 され てい る。
「
復 往 抵 羅 茶 寺。 去 斯 両 駅。彼 有 法 匠 善 解 因 明。屡 々右 芳 錘 習 陳 那 法 称 之 作。
(7)莫 不 漸 入 玄関 頗 開幽 鍵 」
義 浄 が無 行 と と もに霊 鷲 山 に詣 で た とき の一 詩 が現 に義 浄 の 「無 行 伝 」 に見
え てい る ほ どで あ る か ら、右 の無 行 に 関す る記 事 は、 当時 の義 浄 の 見 聞 した も
の の実 録 とみ て よ く、史 的確 実 性 を保 有 す る。無 行 は 『開 元 釈 教 録 』 の 「
善 無
(8)畏 伝 」 の うち に 「
嚢 時 沙 門無 行 西 進 天 竺 学 畢 言 帰 廻。 至 北 天 不 幸 而卒 」 とあ る
ご と く、帰 朝 の途 路、 北 イ ン ドの地 で殿 した よ うで あ る。 かれ が イ ン ドを発 つ
に あた り携 え て き た原 典 中 に 『
大 日経 』 の梵 本 が あ っ た の で、 そ れ を、 かれ の
死 後 中 国 へ 請 来 し、善 無 畏 と一 行 とが漢 訳 した こ とは 中国 密 教 史 の 一 頁 を飾 る
著 名 な 出 来 事 で あ る。
と も あれ、 無 行 は イ ン ド留 学 中、 デ イ グ ナ ー ガ お よび ダ ル マ キ ー ル テ イ の著
作 を学 び 頗 る幽 鍵 を 開 い た とい うの で あ っ て みれ ば、 ダル マ キ ー ル テ イ が よ し
ん ば 当 時 在 世 中 で あ っ た と一 歩 をゆ ず っ た にせ よ、 かれ の最 初 期 の 作 品 で あ る
『量評 釈 』 の ご とき が義 浄 ・無 行 の 渡 印 前、 す くな く と も670年 代 ま で に は 完
成 し世 に流 布 喧 伝 され て い た こ とは 明確 な事 実 とし て是 認 され な けれ ば な らな
い。 も し義 浄 の場 合 を し ば ら く不 問 に付 す る とす れ ば、 無 行 は 中 国 人 で ダ ル マ
キー ル テ ィ の著 作 を学 ん だ ひ と と して、 在 来 仏 教 史 に知 られ る 限 りで は、 お そ
ら くた だ一 人 の ひ とで あ っ た わ け で あ る。 この 史 実 は 充 分 注 目に価 す る。 な お
無行 が 無 事帰 国 し え たな らば、 あ る い は ダル マ キー ル テ ィ の著 作 も何 らか の か
た ち で紹 介 され た か も知 れ な い。
(1) 大 正、54巻230頁上。
(2) 同54巻229頁下。
(3) 同51巻7頁 上。
(4)「又至 書宗 景雲二年辛亥。於大薦福寺復訳称讃如来。功徳神究。 仏為龍王説法 印。 暑
教 誠等経。 能断般若論頒。及釈因明理 門。観総相頒、止観門頒、手杖等論、及法華集
量、百五十讃。合一十二部二十一巻。沙門易利未底鳥帝提婆等読梵本。沙門玄傘智積
等筆受。沙 門慧 沼等謹義。太常郷衛国公醇崇胤監護。」(大正、55巻569頁上)
『
法華論』五巻 下署
喋 量論』 四巻
行 年 月所 以 出 日名 同。景 雲 二 年 訳 已上 多 取 奏右六十一部三百三十九巻
法 華 論 下二 部九 巻 失 本 』 (大 正55、 巻568頁 中)。 (5) 金 倉 博 士 『印 度 精 神 文 化 の 研 究 』312-313頁 。 大 正 、54、 巻229頁 中 。 (6) 栂 尾 祥 雲 博 士 『秘 密 仏 教 史 』92頁 参 照 。 (7) 大 正 、51巻9頁 中 、 下 。 (8) 大 正 、55巻572頁 上 。 (2) ミ ー マ ー ン サ ー 学 者 ク マ ー リ ラ そ の 他 の 諸 学 匠 の 年 代 よ りみ た る 推 定 年 代 ダ ル マ キ ー ル テ イ は 、 ニ ヤ ー ヤ 学 者 ウ ッデ イ ヨ ー タ カ ラ (Uddyotakara) を 批 (1) 判 し攻 撃 し て い る 。 ウ ッ デ イ ヨ ー タ カ ラ を550-600年 とす る宇 井 説 に し た が う (2) な ら ば 、 ダ ル マ キ ー ル テ イ の 年 代 は6世 紀 の 中 葉 を遡 る こ と は あ り え な い 。 一 方 、 ウ ッデ イ ヨ ー タ カ ラ が 、 『ニ ヤ ー ヤ ・ヴ ァ ー ル テ イ カ 』(Nyayavarttika) に お い て 論 撃 を加 え て い る の は 、デ イ グ ナ ー ガ お よ び ヴ ァ ス バ ン ド ゥ (Vasubandhu 世 親) の 現 量 説 で あ っ て 、 ダ ル マ キ ー ル テ ィ の そ れ で は な い か ら 、 ダ ル マ キ ー ル テ イ と ウ ッ デ イ ヨ ー タ カ ラ は ま ず 同 時 代 人 で は な い で あ ろ う。 こ れ に よ っ て ダ ル マ キ ー ル テ イ の 上 限 年 代 は6世 紀 以 前 に 遡 る こ と は な い と 考 え ら れ る 。 チ ベ ッ トの 諸 伝 に よ る と、 ク マ ー リ ラ は ダ ル マ キ ー ル テ イ と 同 時 代 の 人 とせ (4) られ る 。ク マ ー リ ラ の 年 代 は 他 の 諸 学 者 と の 関 係 上650-700年 と み られ て い る 。 と こ ろ で 、 ク マ ー リ ラ と ダ ル マ キ ー ル テ イ と の 積 極 的 な 関 係 を 『量 評 釈 』 に 探 出 す こ と は で き な い 。 な る ほ ど、 『量 評 釈 』 に お い て は ミ ー マ ー ン サ ー 学 説 を 批 判 し て は い る が 、 そ れ だ け で は 果 し て ク マ ー リ ラ 説 を 予 想 し論 駁 し て い る も の か ど う か 判 断 し か ね る。 ダ ル マ キ ー ル テ イ の 自 註 (Svavrtti) で は 、 「ジ ャ イ ミ ニ 」(Jaimini) の 語 を3回 、 「ジ ャ イ ミ ニ の 徒 た ち 」(Jaiminlya) の 語 を1回 用 (5) い る 。 し か も後 者 の 場 合 に 、 ク マ ー リ ラ を 含 め て 考 え な け れ ば な ら な い 積 極 的 な 理 由 は 見 出 し が た い 。 マ ノ ー ラ タ ナ ン デ イ ン (Manorathanandin) の 『量 評 釈 註 』 を み る と、PV. III, 330の註解にあたり 、 次 の よ うに い う。 「今 や 、 古 ミ ー マ ー ン サ ー 論 者 (Brddhamimamsaka) た ち の 思 想 を 論 難 す べ ダ ル マ キ ー ル テ ィ の 生 涯 と 作 品 ( 上 )-95-密 教 文 化 く立 上 ら し め る。」 こ れ に よ る と、PV. III, 330∼339ま で の10頚 は 古 ミー マ ー ンサ ー の 哲 学 思 想 を 批 判 す る も の で あ り、 こ れ 以 前 の 部 分 は 新 ミー マ ー ン サー 論 者 (Navyamlmams-aka) に た い す る 駁 撃 で あ る。 こ れ は も ち ろ ん マ ノ ー ラ タ ナ ン デ イ ン の 所 見 で は あ る が、 こ こ に い う Brddha, Navya《 古、 新 》 の 区 別 の 基 準 た る も の が 目下 の と こ ろ 判 明 し え な い 事 情 に あ り、 し た が っ て 新 ミー マ ー ン サ ー 論 者 に プ ラ バ ー カ ラ (Prabhakara) や ク マ ー リ ラ を ふ くめ る べ き か ど う か は、 問 題 の 残 る と こ ろ で あ る。 他 方、 『因 一 滴 論 』 の 注 作 者 ア ル チ ャ タ の 見 解 に した が う と、 ダ ル マ キ ー ル テ イ は 明 ら か に イ ー シ ュ ヴ ァ ラ セ ー ナ、 ウ ッデ ィ ヨー タ カ ラ、 ク マ ー リ ラ の こ (6)
と き を 批 判 した こ とに な っ て い る。 問題 は クマ ー リ ラで あ るが、 右 の 小 篇 が
『量 評 釈 』 以 後 の著 作 で あ る こ と を念 頭 に 置 くな らば、 あ る い は この 点 の解 決
(7) に 何 ら か の 手 が か りが え ら れ る か も 知 れ な い。 カ ル ナ カ ゴ 」 ミ ン、 カ マ ラ シ ー ラ な ど700年 代 の 仏 教 論 理 学 者 は す で に ク マ ー リ ラ の 三 部 作 の 一 っ の 『頽 評 釈 』(Slokavarttika) か らお び た だ し く引 用 し、 論 駁 し て い る。 ク マ ー リ ラ の 最 下 年 代 に つ い て は、 近 年 厳 密 に 算 定 せ ら れ て お り720年 を 下 る こ と は 全 くな い。 ジ ャ イ ナ 教 空 衣 派 の 大 学 者 サ マ ン タ バ ドラ (Samantabhadra) の、 ウ マ ー ス ヴ ァ ー テ ィ の 経 に た い す る 注 解 の 序 論 の 部 分 を な す 『ア ー プ タ ・ ミ ー マ ー ン サ ー 』 (Aptamimasa) の は、 お そ ら く 『量 評 釈 』 の 第1章 (Pramatrpasiddhi) の 構 成 に 則 っ て 著 わ さ れ た も の で あ り、 サ マ ン タ バ ド ラ は ダ ノレマ キ ー ル テ イ と 同 時 代 の 後 (8) 輩 で あ っ た と い わ れ て い る。サ マ ン タ バ ドラ の 年 代 は ヤ コ ー ビ教 授 の600年 説 を も っ て わ が 国 で も 一 般 に 認 め ら れ て い る。 ま た 『ア ー プ タ ・ ミ ー マ ー ン サ ー 』 (9) の 注 解 者 ア カ ラ ン カ (Akalanka, Akalahkadeva) は700-750年 に 生 存 し た。 し た が っ て、 ダ ル マ キ ー ル テ イ は、700年 を 下 る こ と は あ り え な い。(サ マ ン タバ ドラ の 年代 につ いて は な お 検 討 の 余地 を残 して い る と考 え られ る。) な お、 筆 者 の 検 出 に よ れ ば、 ダ ル マ キ ー ル テ イ は 明 ら か に バ ル ト リハ リ (10) artrhari) の こ と ば の 形 而 上 学 を 予 想 し て こ れ を 排 撃 し て い る。 バ ル ト リ ハ リ の 活 動 し た 時 代 は 義 浄・ 護 法 と の 関 係 か ら相 当 詳 し く知 る こ と が で き る。 中 村 元 博 士 に よ り、 だ い た い530-630年 の 頃 の 人 と 考 え られ て い る。 玄 樂 が 帰 国 の 途に っ い た の は、641 (貞 観15) 年、40歳 の 時 の こ と で あ り、『大 唐 西 域 記 』 の 成 っ た の は、646年 で あ る。 前 述 の ご と く 『西 域 記 』 に ダ ル マ キ ー ル テ イ の こ と が 全 く記 さ れ て い な い と こ ろ か ら み て、640年 頃 に は、た と い 在 世 中 で あ っ て も ま だ ダ ル マ キー ル テ イ の 名 声 が 世 に 伝 え ら れ て い な か っ た と み る べ き で は な か ろ う か。 『大 唐 西 域 求 法 高 僧 伝 』 所 載 の 無 行 に 関 す る 記 事 を 参 照 す る と き、 義 浄 が イ ン ドに 渡 っ た671年 頃 ま で に は、 す で に ダ ル マ キ ー ル テ イ の 高 名 が 世 に 鳴 りひ び き、 『量 評 釈 』 の ご と き が 成 立 し て い た こ とが 知 られ る の で あ る。 の ち に の べ る ご と く7世 紀 後 半 に は、 す で に 『量 評 釈 』 に た い す る初 期 の 注 解 書 が 著 わ さ れ て い る。 以 上、 ウ ッ デ イ ヨ ー タ カ ラ、 バ ル ト リハ リ、サ マ ン タ バ ドラ、無 行、義 浄、 ク マ ー リ ラ た ち の 年 代 を 勘 案 し て み る と、 主 著 『量 評 釈 』 は 玄 が イ ン ドを 去 っ て か ら 約20年 の 間、 す な わ ち640-660年 の 期 間 に 著 わ され、そ の た め、義 浄 が 渡 印 し た と き は す で に ダ ル マ キ ー ル テ イ の 名 前 は 人 品 に 膳 表 さ れ て い た の で あ る。 (1) Manorathanandin ad. PV. IV, 153 "ity aparo 'bravlt" (か く、他 の 者 は 云 っ た) と
あ るの に た い す る ヴ イブ ー テ イチ ャン ドラの割 注 に よ る と、「他 の者 」(aparah) とい う の は ウ ッデ イ ヨー タ カ ラを指 す。 した が って ダ ル マ キー ル テ イ は ウ ッデ イ ヨー タ カ ラ を 批 判 して い る こ とに な る。 な お、 両 者 の 関 係 に つ い て はB. Pathak: Bhartrhari and kumarila (Journal of the Bombay Branch of the Royal Asiatic Society, 1892, vol. xviii, p. 229) が あ るが、 筆 者 は 披 見 の機 を 得 な い。
(2) 宇 井 博士 『印度 哲学 史 』 に よ る と、550-600年 とす る。
(3) Obermiller: History of Buddhism by Bu-ston, part II, P. 152.
(4) 中 村元 博 士 『初 期 の ヴ ェ ー ダ ー ン タ哲 学 』114頁 で は、 従 来 の 定 説 よ り約1世 紀 繰 上 げ て650-700年 と す る。 これ は 他 の 諸 学者 の年 代 と の 関 係 か らみ て も、 ほ ぼ首 肯 され る (拙 稿 『ア ル チ ャ タお よ び 諸学 者 の年 代 論 」 参 照)。
(5) Rahula Sankrtyayana:
Pramanavarttikam
(Svarthanumanapariccheda )
parisistha
参 照。(6) Hetubindutika. G.O.S., NO. CXIII, Index. な お、 ダ ル マ キ ー ル テ イ が 果 し て ク マ ー リ ラ を 反 駁 し て い る か ど うか に つ い て は、 な お 検 討 の 余 地 を 残 し て い る。
(7) ダ ル マ キ-ル テ イ は ウ ッデ イ ヨ ー タ カ ラ お よ び ク マ ー リ ラ た ち の 見 解 を 批 判 し て い る と い う。Dharmottarapradipa, Patna. 1955. Intro. p. X IV参 照。 ク マ ー リ ラ は デ イ グ ナ ー ガ の 見 解 を 退 け、 ダ ル マ キ ー ル テ イ は ク マ ー リ ラ の そ れ を 退 け た こ と を、 Papdita Dalsukhbhal Malvania は 前 掲 書 序 文 でPt. M. K. Jain-Akalamka-grantha-traya, Intro・p. 18を 指 摘 して の べ て い るが、 そ の 書 の 披 見 を え な い。 (8) G.O.S., No. CX III, Intro. P. IX.
(9) 中 村 博 士 『初 期 の ヴ ェ ー ダ ー ン タ哲 学 』102頁、416頁 に よ る。 ダ ル マ キ ー ル テ イ の 生 涯 と 作 品 ( 上)
-93-笛 教 文 化 (10) 拙 稿 「シ ュバ グ プ タの こ とば 論 」(『 智 山学 報』 第7輯)。 〔5〕 詩 人 と し て の ダ ル マ キ ー ル テ ィ シローカ
7部 作 の うち の 『量 評 釈 』 の み は、 韻文 で綴 られ て い る。 簡 古 に して典 雅 な
る行 文 の間 に ダル マ キー ル テ イ の豊 か な る詩 才 が た だ よ っ て い る。現 に、 か れ
に帰 せ られ る数種 の詩 が 残 され て お り、 チ ベ ッ ト蔵 経 に収 め る 『仏 浬 葉 讃 』、
(1) 『吉 祥 金 剛 茶 迦 常 愛 讃 』 の ご と き も ま た、 そ う で あ る。 西 紀1205年 に シ ュ リ ー ダ ラ ダ ー サ (Sridharadasa) が 『サ ド ゥ ー ク テ イ ・ カ ル ナ ー ム リ タ 』(Sadaktikarnamrta) を 編 ん だ が、そ の な か に ダ ル マ キ ー ル テ イ の (2)一 詩 が載 っ て い る。 それ は ダル マ キー ル テ イ の難 解 きわ ま る文 章 に た い す る世
評 に、 かれ が侮 蔑 の 言葉 をな げ か え した も の で あ る。
Sailair bandhayati
sma vanarahrtair
Valmikir
ambhonidhim,
Vyasah
Parthasarais
tathapi na tayor atyuktir
udbhavyate/
vagarthau
ca tuladhrtav
iva tathapy
asmat-prabandhan(3) ayam loko
dusayitum
prasaritamukhas
tubhyam pratisthe
namah//
ヴ ァー ル ミー キ は猿 の 運 ん だ
も ろ も ろ の石 を もっ て
海 に排 列 せ しめ た。
ヴ イ ヤ ー サは パ ール タの も ろ矢 を も って
[それ を な し た、 と説 い た。]
しか る に、 こ の二 〔人〕 の
非難 を 品 にす る もの は な い。
〔わ が 〕 言 葉 と意 味 とは、
あ た か も秤 に量 られ た も の
の ご と くで あ る。 し か し、
世 の人 は わ が 著 作 (prabandha) を
論 難 し よ うと して 品 を開 い た。
名 望 よ、 われ は そ な た に 敬 礼 す る。
さ らに、 『量 評 釈 』 の チベ ッ ト訳 別 頒 の巻 末 には、 この 著 作 が難 解 で あ っ て
人 び と に 理 解 さ れ な い こ と を か こ っ た 自 作 の 詩 が 見 え て い る。 こ れ は、 現 在 ま で 公 刊 さ れ た す べ て の サ ン ス ク リ ッ ト本 に な く、 ダ ル モ ッ タ ラ (Dharmottara) 系 統 の 仏 教 論 理 学 者 ア ー ナ ン ダ ヴ ァ ル ダ ナ (Anandavardhana) の 詩 花 集、 『 ド ゥ ヴ ァ ニ ャ ー ロ ー カ 』(Dhvanyaloka) に よ っ て、そ れ の サ ン ス ク リ ッ ト原 文 が 知 ら (4) れ て い る。 こ れ は、 次 の ご と き も の で あ る。
Au adliyarasitavagahanin
analpa-dhisaktlnapy
adrstaparamarthasarani
adhikabhiyogair
api/
matam mama jagaty alabdha-sadrsa-pratigrahakaun
prayasyati
payoni-dheh paya iva svadehe jaram//(5)
多 くの知 性 の 力 を も っ てす ら
深 み が定 め られ ず、 〔かつ 〕
もろ もろ の 非 常 な努 力 を も っ てす ら
第 一 義 の精 髄 が 認 め られ ぬ わ が思 想 は、
この世 に お い て 適 当 な る理 解 者 が え られ な い。
あ た か も大 洋 の 水 の ご と く、 自体 に お い て
老 齢 に達 す るで あ ろ う。
こ の詩 はPV. の結 頬 で あ っ て、 プ トン (Bu-ston) の 仏 教 史 に も 引 用 され て い
(6) る が、 こ れ と一 緒 に 次 の 一 詩 も ま た 『 ド ゥ ヴ ァ ニ ャ ー ロー カ 』 に 載 っ て お り、 仮 想 的 に ダ ル マ キ ー ル テ イ の 作 と い う こ と に な っ て い る。Lavanya-dravina-vyayo
na ganitah
kleso
mahan
arjitah
rvacchandam
carato
janasya
hrdaye
cintajavo
niznitalh
esa 'pi svayam
eva tnlya-ramanabhavad
varaki
hata,
ko' rthas
cetasi
vedhasa
vinihitas
tanayas
tannin
tanvata.
たくみ乙女 の身 体 の結 構 は、 創 造 主 に よ っ て創 られ た。
〔
そ の とき、 かれ の〕 心 に
い か な る 〔
心 残 り〕 が あ った か?
〔
神 は 〕 美 の素 材 を使 い果 し
大 な い 労 の え られ る こ とを
ダ ル マ キ ー ル テ ィ の 生 涯 と 作 品 ( 上)-91-密 教 文 化
惜 しま な か っ た。
お の お の願 い をか けて
くら し生 活 なす 人 の心 に
思 案 の炎 は生 じた。
され ど、 げ に、 か の 女 自 らは
似 合 い の 恋 人 な き が ゆ え、
(7) 哀 れ な る、 願 い な き者。 こ れ は 自 分 の 作 品 を、 神 の 創 っ た こ よ な く美 し き 乙 女 に あ た か も適 当 な 花 婿 の 見 つ か らぬ さ ま に な ぞ ら え た も の で、 ダ ル マ キ ー ル テ イ が か れ 自 身 の 作 品 に た い す る 自 己 満 悦 の 程 を示 す と と も に、 当 時 の イ ン ドに お い て 『量 評 釈 』 を 真 に 理 解 し う る 者 が 一 人 と し て な か っ た こ と を 調 刺 し て 余 りあ る。 (1) 東北 目録No. 1158.(2) Punlub Sanskrit Book Depor, Lahore. Saduktikarnamrta. P. 327. Rahula に よ る量 評釈 別 頚 Skt. の 出版 の序 文 に も、 こ の原 文 が 引 用 され て い る。 (3) prabandhaは、pra-√bandh (結 び つ け る) が 語根。 これ を 「排 列 せ しめ る」(bandh-ayati) にか け る こ とに よ って、 個 々 の文 字 を 結 び つ け、 排 列 して つ くる文 章 を、 石 を 排 列 して つ くる防 波堤 に た と えた もの で あ る。 (4) Dhvanyaloka (N.S.P. 1891) P. 217. (5) こ の詩 は同 じ くダル マ キ ー ル テ イ の Vallyaya に も認 め られ る。 ま たDhvallyaloka, p. 217に も、 それ が 引用 され て い る。 な おG.O.S., No. CX III序 文 参 照。
チ ベ ッ ト訳 別 頒 は、 これ を第4章286頒 とす る。 た だ し、PVM. VA. には、この 詩 頒 を 欠 く。 ヴ ィ ン テル ニ ッツ もの べ て い る ご と く、ダ ル マ キ ール テ イが 詩 人 と して も著 名 で あ った こ とは、 注 意 さ るべ きで あ る (Winternitz's II, s. 468)。
(6) Bu-ston: History of Buddhism. pt. II, PP. 154∼155. (7) Dhvanyaloka の 引用。Dharmottara-pradlpa の 序 文 参 照。
II ダ ル マ キ ー ル テ ィ の 諸 著 作 〔1〕 ダ ル マ キ ー ル テ ィ の 著 作
ダ ル マ キ ー ル テ イ の 論 理 学、 認 識 論 に 関 す る 作 品 は、 チ ベ ッ トで は 古 く よ り 「七 部 の 量 」 《 ま た は 因 明 七 部 作 Tsha ma sde bdun》 と よ び な ら わ し て い る。 そ れ は 次 の ご と き も の で あ っ て、 こ れ ら は す べ て か れ の 真 作 と み て よ い。
(二) Pramanavizliscaya. (量 決 択) (三) Nyayabindu. (正 理 一 滴 論) (四) Sambandhapariksa. (結 合 の 考 察) (五) Hetubindu. (因 一 滴 論) (六) Vadanyaya. (諄 正 理 論) (七) Santanantarasiddhi. (他 者 の 存 在 の 論 証) な お ダ ル マ キ ー ル テ イ に 帰 せ ら れ る も の と し て は、 次 の も の が あ る。 か れ は Dharani に も精 通 し て い た と い わ れ る。 現 に チ ベ ッ ト蔵 経 に は、 次 の ご と き秘 密 仏 教 関 係 の 文 献 の 著 者 が 同 名 の ダ ル マ キ ー ル テ イ に な っ て い る。 (1) 恒 特 羅 大 王 吉 祥 喜 金 剛 難 語 釈 開 眼 (東 北 目録 No. 1191) (2) 曼 茶 羅 尺 度 儀 軌 (同 No. 2508) (3) 一 切 悪 趣 清 浄 死 屍 護 摩 曼 茶 羅 儀 軌 (同 No. 2637) こ れ ら の 作 者 を 七 部 因 明 の 作 者 と 同 人 と す べ き か 否 か に つ い て は、 今 後 な お 検 討 を 要 す る。 目下 の と こ ろ で は 同 名 異 人 と み て お き た い。 な お、 こ の ほ か に 次 の 二 つ の 仏 教 詩 お よ び 『本 生 の 花 環 』(Jaakamala) の 注 が 同 名 の ダ ル マ キー ル テ イ の 作 品 と な っ て い る。 (4) 仏 浬 葉 讃 (東 北 目録No. 1158) (5) 吉 祥 金 剛 茶 迦 常 愛 讃 (同No. 1442) (6) 本 生 広 疏 (同 No. 4151) 義 浄 三 蔵 の 『南 海 寄 帰 内法 伝 』 に記 録 され て い る Sure の Jatakamala に た い す る注。 た だ し、義 浄 は注 作 者 に言 及 して い な い。 な お、本 広 疏 は 「荻 原 雲 来 文 集 」 (世 に知 られ た る梵 語 仏典) 451頁 所載 の Jatakamalatlka と一 致 す る か 否 か 確 め え な い。
Rupavatara (ed. B.M. Rangacharya, Madras) も 同 名 の ダ ル マ キ ー ル テ イ に 帰 せ ら れ て い る (『 仏 教 の 根 本 真 理』347頁 参 照)。
右 の 諸 著 作 中(4)に 類 似 し た 作 品 が 東 北 目録No. 1157《Gunaparyantastot-rapadakarika 無 辺 功 徳 讃 義 碩、 な お No. 1156 Gunaparyantastotra-tika 無 辺 功 徳 讃 註 釈 を み よ》 に 認 め ら れ、 デ イ グ ナ ー ガ の 作 と な っ て い る。 『金 剛 針 論 』(Vajra-suci) は 『金 剛 針 ウ パ ニ シ ヤ ッ ド』(Vajra-sucika-upanisad) と 関 連 し た 作 品 で サ ン ス ク リ ッ ト原 典 で は 帰 敬 頒 に あ る ご と く、 ア シ ヴ ァ ゴ ダ ル マ キ ー ル テ ィ の 生 涯 と 作 品 ( 上)
-89-笛 教 文 化 ー シ ヤ (馬 鳴) の 作 で あ る が、 こ れ に 該 当 す る法 天 訳 の 漢 訳 で は 法 称 造 と な っ て い る。 金 倉 博 士 は ア シ ヴ ァ ゴ ー シ ヤ の 原 作 で 法 称 の 改 作 と み る。 こ の 法 称 が 論 理 学 者 ダ ル マ キ ー ル テ イ と同 人 か ど うか は、 な お 問 題 の 余 地 を残 し て い る と 思 わ れ る。 な お 馬 鳴 に 関 し て は、 金 倉 円 照 博 士 『馬 鳴 の 著 作 』(「宗 教 研 究 」 第153号、 の ち 『馬 鳴 の研 究 』 平 楽 寺書 店1966年 に収 め る) 参 照。 『大 乗 集 菩 薩 学 論 』25巻 も 法 称 菩 薩 の 作 と され る が、 こ れ は 明 ら か に シ ヤー ン テ イ デ ー ヴ ァ (Santideva) の 誤 りで あ る。 な お、 プ ト ン の 『量 決 択 相 承 系 譜 』 お よ び 『デ プ テ ル グ ン ポ 』 に は 同 名 の 二 人 の ダ ル マ キ ー ル テ イ を伝 え て い る が、 こ れ は 注 意 す べ き で あ る。 (1) 量 評 釈 ダ ル マ キ ー ル テ イ の 主 著 で あ る。 漢 訳 が な く従 来 チ ベ ッ ト訳 だ け が 伝 え ら れ (1) て い た。 チ ベ ッ ト訳 の 書 名 は、 次 の よ う で あ る。
Tshad ma rnam hgrel gyi tshig lehur bya pa (skt. =Pramapavarttika karika) 訳 者 は イ ン ド人 学 者 の ス ブ ー テ イ ・シ ュ リー ・シ ヤー ン テ イ (Subhuti Srl Santi) と チ ベ ッ ト人 学 者 ゲ ー ・ワ イ ・ロ ・テ (Dge-bahi blo-gras) と で あ る。 そ の 分 科 は 次 の よ う に な っ て い る。
(章) (題 目)〔 頬 数 〕
1. Ran gi don rjes su dpag pa...
340
2. Tshad ma grub pa...
2881/2
3. Mnon
sum...
541
4. Gshan gyi don gyi tshig...
286
(2)
1930年、
フ ラ ウワル ネ ル教 授 が 右 の第1章 の 部 分 的 研 究 を発 表 した。1935
(昭和10) 年、金 倉 博 士 が この 第1章 の うちの ジ ヤイ ナ教 批 判 の 部 分 の研 究 を発
(3) 表 し て い る。 か ね て ラ ー フ ラ ・サ ー ン ク リテ イ ヤ ー ヤ ナ (Rahula Samkrtyayana) 師 は 数 度 に お よ ぶ チ ベ ッ ト探 険 旅 行 の 結 果、 数 か ず の 梵 本 を 発 見 し た。 そ こ で こ の 作 品 の 五 種 七 箇 の 梵 本 に チ ベ ッ トの サ キ ヤ (派) 僧 院 に お い て 作 られ た サ (4)キ ヤ派 系 の版 本 (チベ ッ ト訳) を参 照 す る こ とに よ つ て、 そ れ を公 表 した。 頒 数
は前 記 チ ベ ッ ト訳 と若 干 の相 違 が あ る。
(章) (題 目)〔 頒 数 〕 1. Svarthanumana... 342 2. Pramanasiddhi... 2851/2 3. Pratyaksa... 541 4. Pararthamlmana... 286 14541/2 こ の 梵 本 の 章 の 順 序 は 前 記 チ ベ ッ ト訳 と 同 じ で あ る。 し か し、 ダ ル マ キ ー ル テ イ が こ れ を 述 作 し た 当 時 の 章 の 順 序 は、PS. (PSV), Pramanaviniscaya, NB. (5) な ど を 照 合 し て 考 察 す れ ば、 明 ら か に 次 の よ う に な っ て い た こ と が 知 ら れ る。 1. Pramanasiddhi (PS. の 帰 敬類 に対 す る varttika) 2. Pratyaksa 3. Svarthanurana 4. Pararthanulnana } (量 決 択、正 理 一 滴 論 の 章 の 順 序 と一 致す る。)
とこ ろ が、 こ の うち の第3章
《為 自比 量 》 はイ ン ド諸 哲 学 思想 の批 判 を多 く
ふ くみ、 他 派 との 関係 上、 詳 細 な解 明 の必 要 に せ ま られ た の で、 ダ ル マ キ ー ル
(6)テ イは、 こ の章 の み に 自 ら註 解 をほ どこ した の で あ る。 した が っ て、 第3章
の
(7) み が 別 出 さ れ て お こ な わ れ る に 至 つ た。 こ の 間 の 事 情 は、 カ ル ナ カ ゴ ー ミ ン (Karnakagomin) が 第3章 の み に た い す る 複 註 を 作 っ て い る こ と に よ っ て 知 ら れ よ う。 デ ー ヴ ェ ー ン ド ラ ・ ブ ッ デ イ は、 さ ら に 後 の3章 (右 の 第1、2、4章) に 難 語 釈 を 与 え て 全4章 の 註 解 書 の 体 裁 を 整 え た た め、 師 の 自 註 (Svavrtti) が 壁 頭 の 第1章 に 置 か れ る こ と と な っ た わ け で あ る。 ダ ル マ キ ー ル テ イ のPV.を 中 心 と し た 認 識 論 に 関 す る す ぐ れ た 一 書 が 公 刊 さ れ て い る。Tilmann Vetter: Erkenntnisprobleme bei Dharmakirti, Wien 1964.(1) 東 北 目 録No. 4210, Ce 鉄94b1-151a7.
(2) E. Frauwallner: Wiener Zeitschrift fur die Kunde des Morgenlandes. Bd. 37. フ ラ ウ ワル ネ ル 教 授 は 第3章 Svarthanumana-pariccheda の サ ン ス ク リ ッ ト断 片 (頒) を 回 収 し て い る。 (3)「 法 称 の 離 と 書 那 教 説 」(岩 波 書 店 『仏 教 学 の 諸 問 題 」 昭 和10年6月)。 こ の 論 文 は 後 に 「印 度 精 神 文 化 の 研 究 』355頁-396頁 (培 風 舘、 昭 和19年)に 「法 称 の 量 釈 頒 と ジ ャ イ ナ 教 義 」 と 題 し て 収 め ら れ て い る。 ダ ル マ キ ー ル テ イ の 生 涯 と 作 品 ( 上)
-87-笛
教
文
化
(4) Pramanavarttikam
by Acarya Dharmakirti,
ed. by Rahula Lamkrtyayana
(App-endex to the Journal of the Bihar and Orissa Research Society, vol. X.X. parts
I-II,
March-June. 1938)
(5) Manorathanandin の Pramanavarttikatika にお し) て の み、 こ の本 来 の 順序 に した が って 注 解 され て い る。 な お 「集 量 論 と量評 釈 」 の項 参 照。 (6) 東 北 目録NO. 4216 Pramanavatrttikavrtti=Svavrtti. (7) 後 代 の哲 学 者 た ちが ダル マ キ ー ル テ イの 断 片 を 引用 批 判 して い る場 合 は、 ほ と ん ど と い って いい 位、この 章 に限 られ て い る。それ だ け に、 こ の章 の重 要 性 は看 過 しえ な い。 (2) 量 決 択 こ れ は 『量 評 釈 』 の 要 約 的 註 解 書 と み る こ と が で き る。 次 の チ ベ ッ ト訳 の み (1) が 現 存 す る。Tshad ma rnam par nes pa (skt. =Pramanaviniscaya) 3章 よ り な る。
〔1〕Mhon sum gtan pa dbab pa la hjug pa ste lehu daft paho/(=Prama-aviniScaya)…Sdc-dge ed. Ce. 候152b1-167b1
〔2〕Rah gi don gyi rj es su dpag pa rnam par: hes pa ste lehu gnis paho/(=SvarthanumanaviniScaya)…op. ce. 秩 167b1-187a6 〔3〕Gshan gyidon gyi rjes su dpag pa ste lehu-gsum paho/(=
Pararthanumatnaviniscaya)…op. Cc. 秩 187a6-230a5 こ れ に よ っ て 分 か る よ う に、 章 の 順 序 は 従 来 一 般 に 知 ら れ て い る 『正 理 一 滴 論 』 の 場 合 と 全 同 で あ る。 内 容 は 散 文 と 韻 文 よ り な る。 韻 文 の ほ と ん ど 全 部 は 『量 評 釈 』 が 引 用 せ ら れ、 さ ら に 『正 理 一 滴 論 』 よ り の 引 用 句 も 若 干 散 見 さ れ る。 そ れ ゆ え、本 書 は こ れ ら 二 著 作 以 後 の 作 な る こ と が 明 ら か に 知 ら れ る。 『量 評 釈 』 よ り も 簡 単 で 分 量 も 少 な い が 要 を 尽 し、 ダ ル マ キ ー ル テ イ の 比 較 的 晩 年 (2) の 作 で あ る こ と を 思 わ せ る。 『量 決 択 』 の サ ン ス ク リ ッ ト断 片 が、14世 紀 の ヴ エ ー ダ ー ン タ 学 者 マ ー ダ ヴ ァ (Madhava) の 『全 哲 学 綱 要 』(SarvadarSanasamgraha) に 引 用 さ れ て い る こ と が (3) つ と に 指 摘 さ れ て い る。 ま た ド ゥ ル ヴ ェ ー カ ・ ミ シ ュ ラ (Durveka Misra) に よ っ (4) て 引 用 され た 断 片 が 存 す る。 本 書 の チ ベ ッ ト訳 者 は、 カ シ ミ ー ル の 学 者 パ ラ ヒ タ ・バ ト ラ (Parahitabhadra)
と チ ベ ッ ト人 翻 訳 官 ロ ー デ ン ・ シ ー ラ プ (Blo-ldan ses-rab) で あ る。 『量 決 択 』 の 結 頭 が チ ベ ッ ト訳 『量 評 釈 』 の そ れ と 全 同 で あ る こ と は、 す で に 指 摘 し た。
本 書 に は 次 の 二 っ の 注 解 書 が チ ベ ッ ト訳 さ れ て 現 存 す る。 1. Tshad-ma-rn-am-par nes-pahi hgrel bsad (skt.=Pramanaviniseayaika.
「量 決 択 註 」。(6)
著 者 は ジ ニ ヤ ー ナ シ ュ リ ー バ ド ラ (Jnatnasrlbhadra、 チ ベ ッ ト名Ye Ses dpal bzafi Po)。 チ ベ ッ ト訳 は ジ ニ ヤー ナ シ ュ リ ー バ ド ラ 自 身 と チ ュ ・キ ・ツ オ ン ・ ド ウ (Chos kyi brtson hgrus) の 共 訳。
2. 右 同 題。(7)
著 者 は、ダ ル モ ッ タ ラ (Dharmottara チ ベ ッ ト名 Chos mchog)。 チ ベ ッ ト訳 者 は 不 明。 こ れ に た い す る ア ー ナ ン ダ ヴ ァ ル ダ ナ の 副 注 『最 高 の 法
』(Dharmo-ttama) が 存 在 し た が、 現 存 し て い な い。
な お、 チ ベ ッ ト蔵 経 蔵 外 に は 『プ ト ン全 集 』 の な か に pramana-viniscaya の 名 義 を 説 明 し た 次 の 小 品 が 伝 え られ て い る。
"Tshad ma rnam par hes pahi mtshan don bshugs"(8)
最 近、 ウ イ ー ン 大 学 のT. Vetter 教 授 に よ っ て 『量 決 釈 』 第1章 Pratyaksa の 部 分 の チ ベ ッ ト訳、 サ ン ス ク リ ッ ト断 片、 そ れ に 対 応 す る ドイ ツ 訳 が 公 刊 さ れ た。 こ れ は 全 三 冊 を も っ て 完 結 す る予 定 で あ る。Tilmann Vetter:
Dharma-kirti's
Pramdnaviniscayah
I. Kapitel, Pratyaksam
Einleitung,
Text der
Libetischen Ubersetzung,
Sanskritfragmente,
deutsche Ubersetzetzung
(=
Osterreichische
Akademie der Wissenschaften,
phil-hist. Klasse,
Sitzung-sberichte, 250. Band, 3. Abh: Verobfentliehungen
der Kommission fur
Sprachen and Kulturen
Sud- und Ostasiens, Heft 3) Wien, 1966. III pp.
148.
(1) 東 北 目録No. 4211, Ce 秩 152b1-250?.
(2) 本 書 を 評 釈 と比 較 して 気 づ く点 は、 そ の 第2章 svarthanumana の決 択 の壁 頭 に 『比 量 は2種 あ る。 自 己の た め と他 者 のた め の もの で あ る」(Sde-dge ed. Ce. 鉄167b1) と 説 き起 して い る点 か ら して、 おそ ら く 『量決 択 」 は 『評釈 』 を 略述 した も の で あ ろ う こ とが 知 られ る。 したが っ て、 この点 か らみ て も、 現 行 の 『量 評 釈 頒 』(サ ンス ク リ ッ ト、チ ベ ッ ト訳 共) にお い て、 第1章 を Svarthanumana とす るの は 不 自然 で あ る こ とが分 か る。 ダ ル マ キ ー ル テ ィ の 生 涯 と 作 品 ( 上)
-85-笛
教
文
化
(3) こ れ を 最 初 に 発 見 した の は、 フ ラ ン ス の プ ー サ ン 教 授 で あ る。"Le Bouddhisme d'a-pres les sources brahmaniques" pp. 32∼34. な おHIL P. 308に も こ れ を 指 摘 し、 金 倉 博 士 は Parthasarathi-misra お よ び Jayanta Bhatta も 同 文 を 引 用 し て い る 事 実 を 指 摘 す る (哲 学 雑 誌 「法 称 の 断 片 」 同 誌547号68-69頁)。
(4) Dharmottarapradipa に 次 の6箇 の 断 片 が 存 す る。
Yadviniscayah "caturaryasatyadarsanavaditi"
(p. 67, 1. 12) viniscaye "srutamaye'
tyadinabhihito...tatraiva
"kamasoke" ityadina...(p.
68, 11. 5-6)
ata eva viniscayah
-"na
pramanaphalayorvisayabhedah"
iti/ (p. 91, l. 16)
viniscaye hi navapaksadharmapravedananirdesaprakarane
na samanah paksah sapaksastadabhavo
' sapaksah" ityuktam/
(p. 98, l. 9-10)
Yatha
'nupapannastatha
cacaryenaiva
viniscaye
"duhkham
batayam
tapasvi"
ityadyupahasapurvakam-
"yatha
niketena pratipatteh"
ityadina
pratipadita
iti
nehocyate// (p. 98, ll. 30-31)
(5) Rgya gar gyi kha chehi, pa-ndi-ta gshan la phan pa bzan po la sogs pa daii/lo
tsa ba blo ldam ses rab kyis/kha
chehi gron khyer dpe med du bsgyur bubo/
(Sde-dge, ed. 230a7ff)
(6) 東 北 目 録No. 4228. Tsha. 秩 178b4-295?. (7) 東 北 目 録No. 4229. Dsc. 鉄1b1-289a7.
Durveka Misra の 副 注 に 引 用 さ れ る ダ ル モ ツタ ラ の 注 の3箇 の 断 片 が あ る。
viniscayatikayam
punar anena "yuktiprabhave"
tyadi hetubhavena
visesanamupa-ttam. (Dharmottarapradipa's
p. 3, ll. 9-10)
syadetat-yadyavasi
tam svalaksanam pravrttivisayo
'numanasya tada kathamesa
dharmottaro
viniscayatikayamavadit
"avasitascakaro
vikalpanarn
grahyah"
iti
(ibid, p. 72, ll. 26-27)
yatha'yam
viniscayatikayam
svarthanumanavyakhyanavasare
vyaktamaha
-dvividho jnananam visayo grahyascadhyavaseyascetyadi"/tato
na kincidavadyam/
(p. 73, 11. 20-21)
(8) 筆 者 は、 詩 華 集 Dhvanyaloka の 作 者 と 同 一 人 で あ る。Dhvanyalokatlka. p. 233参 照。
(9) 西 蔵 撰 述 仏 典 目 録No. 5194. こ の 書 の、奥付 に 『量 決 択 』 の 相 承 系 譜 が 記 録 さ れ て い る が、 そ れ は 同 じ くプ ト ン の 著 『量 決 択 に 関 す る 相 承 系 譜 』Tshad ma rnam nes kyi brgyad pa. by Bu-ston Rin-cher-grub. (撰 述 仏 典 目 録No. 5170 (40)) に も 認 め ら れ る。 た だ し、 両 者 は 伝 承 を 異 に し て 一 致 を み な い。
(3) 正 理 一 滴 論
本 書 の チ ベ ッ ト題 名 は、 次 の ご と く で あ る。(1)
(skt.=Nyaya-bindu-nama-prakarana『 正 理 一 滴 と 名 づ け る 書 』)
こ れ は き わ め て 簡 明 な 綱 要 書 (prakarapa) で、 そ の 内 容 分 科 は、 『量 決 択 』 の 場 合 の 構 成 と全 く 同 じ で あ る。
〔1〕Mholl sum gyi lehu dall po
〔2〕Rafl gi don gyi rjes su dpag pahi lehu gnis pa 〔3〕Gshan gyi don gyi rjes su dpag pahi lehu gsum pa
本 書 は、 ダ ル マ キ ー ル テ イ の も ろ も ろ の 論 理 学 書 の う ち で、 も っ と も早 く に サ ン ス ク リ ッ ト原 典 が 発 見 出 版 さ れ た の で、 従 来 よ く、 研 究 され て き た。 こ れ に 関 す る 原 典 出 版、 研 究 書 の み で、 優 に 一 っ の 研 究 史 を 書 く こ と が で き る ほ ど (2)
で あ る。
(3) ダ ル モ ッ タ ラ の 『正 理 一 滴 論 注 』(Nyayabindutika) の サ ン ス ク リ ッ ト原 典 は、 そ の 副 注 (Tippani) と と も に1909年 に、 ス チ ヤバ ツ キ ー 教 授 に よ っ て 出 版 さ れ た。 さ ら に、こ の ほ か、次 の ご と き 三 つ の 注 解 書 が チ ベ ッ ト訳 で 伝 え ら れ て い る。 (4) 1. Nyayabindutika『 正 理 一 滴 論 注 』 著 者 は、 ヴ イ ニ ー タ ー デ ー ヴ ァ (Vhintadeva チ ベ ッ ト名 Dnl ba lha) 2. Nyayabinduprtrvapaksasaipksipta『 正 理 一 滴 論 の 前 主 張 を く っ が え せ (5) る 〔書 〕』 著 者 は カ マ ラ シ ー ラ (Kamalasila 中国 名、 蓮 華 戒)。 チ ベ ッ ト訳 の み が 現 存 す る。 (6) 3. Nyayabindllpipdartha『 正 理 一 滴 摂 義 論 』著 者 は ジ ナ ミ ト ラ(Jinamitra)。 正 理 一 滴 論 の 簡 潔 な 綱 要 書 で あ る。 チ ベ ッ ト訳 の み が 現 存。 (7) こ の ほ か、 『ダ ル モ ッ タ ラ ・プ ラ デ イ ー パ 』(Dharmottarapradlpa) お よ (8) yabindutika-tippani に シ ャ ー ン タバ ドラ (Satntabhadra) の 註 解 書 が 引 用 され て い る。 そ う し て、 ダ ル モ ッ タ ラ は シ ャ ー ン タ バ ドラ を 批 判 し て い る。 し た が っ て、 こ の 当 時、 『正 理 一 滴 論 』 に た い す る シ ャ ー ン タバ ドラ の 註 解 書 が 存 在 し て い た こ と が 知 ら れ る。 な お、 ダ ル モ ッ タ ラ は ヴ イ ニ ー タ デ ー ヴ ァ と シ ャ ー ン タ バ ドラ と を 批 判 し て い る か ら、 か れ ら二 人 は 同 じ傾 向 の 見 解 を 抱 い て い た の で あ ろ う。 ア カ ラ ン カ (Akalamka) が そ の 著 『ニ ヤ ー ヤ・ ヴ イ ニ シ ュ チ ヤ ヤ ・ヴ イ ヴ ァ ラ ナ 』(Nyaya-ダ ル マ キ ー ル テ ィ の 生 涯 と 作 品 ( 上)-83-笛 教 文 化 viniscaya-vivarana) に お い て シ ヤ ー ン タ バ ド ラ を 排 撃 し て い る 点 か ら み る と、 シ ヤ ー ン タ バ ド ラ は ダ ル モ ッ タ ラ 以 前 の 人 で あ ろ う。 (1) 東 北 目 録No. 4212. (2) 正 理 一 滴 論 の 原 典 の 発 見、 出 版、 研 究 に つ い て は、 金 倉 博 士 『印 度 精 神 文 化 の 研 究 」 358頁 以 下 に 紹 介 さ れ て い る が、 こ れ を も と に し て、 そ の 後 の 成 果 な ど を 補 充 増 加 し て 列 挙 して み る と、 次 の と お り で あ る。
1889年。 ボ ン ベ イ大 学 の ピー タ ー ソ ン (Peter Peterson) が、The Nyaya-bindu-tike of Dharmottara Acarya to with is added the Nyaya-bindu (Nyayabindu and Nyayabindutlka) と 題 し て、 原 典 を Bibliotheca Indica, A Collection of Oriental Works. よ り 出 す。 原 本 は Santinatha の ジ ャ ィ ナ 教 寺 院 で 発 見 さ れ た も の。1929年 再 版。 1903年。 ソ 連 の ス チ ャ バ ツ キ ー が 『後 期 仏 教 徒 の 教 理 に よ る 認 識 論 と 論 理 学 』 第 一 部 を 出 版 (ロ シ ヤ 語 訳 の ダ ル モ ッ タ ラ注 を ふ く む。) 1904年。 ス チ ャ バ ツ キ ー が レ ー ニ ン グ ラー ドの Bibliotheca Buddhica で 正 理 一 滴 論 と ダ ル モ ッ タ ラ注 の サ ン ス ク リ ッ ト原 典 と チ ベ ッ ト訳 を 出 版。
Tibetan tr. ed, by Th. Stcherbatsky, Bibl. Bu. VIII. St. Peteisbourg 1904 (こ の 文 庫 は 現 在 廃 刊 に な つ て い る)。
1909年。 ス チ ャ バ ツ キ ー Bibl. Bu. よ り ダ ル モ ッ タ ラ 注 に た い す る副 注 こ れ は 従 来 マ ッ ラ ヴ ア ー デ イ ン の 著 作 と さ れ て い る が、 そ う で な い) を 出 す。Bibl. Lu. XI, St. Petersbourg, 1909.
1909年。 ス チ ャバ ツ キ ーP後 期 仏 教 徒 の 教 理 に よ る 認 識 論 と 論 理 学 』 第2部 を 出 版 す。
1909年。 イ ン ド の サ テ イ ス ・チ ャ ン ド ラ ・ ヴ イ デ ィ ヤ ー ブ ー シ ャ ナ (Satis Candra Vidyabhusaoa) が 次 の 研 究 書 を 出 版。
History of the Meadiaeval School of Indian Logic, Calcutta.
1917年。 ピ ー タ ー ソ ン、 前 記 の 「正 理 一 滴 論 な ら び に 注 」 の 再 版 を 出 す。 Bibl. In., Wozrk No. 128.
1917年。 ヴ イ デ イ ヤー ブー シ ャ ナ、Bibl. In. で A Bilingual Index of Nyaya-bin Calcutta を 出 す。
1918年。 ス チ ャ バ ツ キー、Nyayabilldu, ed. by Th. Stcherbatsly, Bibl. Ll., VII. Peterbourg を 出 版。 後、 同 文 庫 よ り Nyayabindu of Dharma-uttara, tr. from the
Sanskrit by Th. Stcherbatsky, Bibl. Bu., XXVIを 出 版 す る。
1921年。 ヴ イ デ イ ヤー ブ ー シ ャ ナ History of Indian Logic. Calcutta. を 出 版。 1924年。Nyaya Binduh by Dharzna kirti with a commentary Of Shridharmottara Charya ed. by Chandra Skekhar Shastri with his own Sanskrit notes, hindi trans., and Prefaee. Benares. Kashi Sanskrit Series, No. 22の 出 版 あ り。 ダ ル モ ロ タ ラ 注 の
ヒ ン ド ゥ ー 語 訳 と し て 最 初 の も の 。