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真宗研究45号 018藤田宏達「<記念講演>親鸞聖人と浄土三部経」

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は じ め に 本日は真宗連合学会の大会に際しまして、記念講演を 仰せつかり大変光栄に存じております。プリントを作つ て参りましたので、これに沿って﹁親鷲聖人と浄土三部 経 ﹂ に つ い て お 話 し 申 し 上 げ た い と 思 い ま す 。 ﹁浄土三部経﹂は、申すまでもなく法然上人の﹃選択 集 ﹄ ︵ ﹁ せ ん ち ゃ く し ゅ う ﹂ 、 真 宗 で は ﹁ せ ん じ ゃ く し ゅ う﹂︶の中で示された言葉であります。法然上人は﹁弥 陀の三部﹂ともおっしゃっておりますし、また﹃西方指 二 五 六

南抄﹄によりますと、﹁浄土の三部経﹂と並んで﹁弥陀 の 三 部 経 ﹂ も よ く お 使 い に な っ て い た よ う で あ り ま す 。 しかし一般には﹁浄土の三部経﹂あるいは﹁浄土三部 経﹂、これが今日まで広く用いられている呼称でありま す 親 驚 聖 人 は プ リ ン ト に 記 し ま し た よ う に ﹁ 浄 土 三 経 ﹂ 、 それから法然上人もお使いになっている﹁三経﹂とか ﹁三部経﹂、あるいは﹁三部経典﹂というような呼称を 用いられておりまして、﹁浄土三部経﹂という言葉その ものは全著作の中には見あたらないようですが、しかし 実質的に法然上人の﹁浄土三部経﹂の見方を受けておら

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れ た こ と は 、 申 す ま で も な い と こ ろ で あ り ま す 。 ところでこの三部経については成立の問題があります。 まず表記法についてプリントでは︿無量寿経﹀と︿阿弥 陀 経 ﹀ は 山 パ 1 レンで示しましたが、これから申し上げ ます通りに、この二つの経典については種種な異本があ り、それらにはもちろん原本があるわけですが、そのよ うな様々な原本の全体を総称する経名として、私どもに 親しい﹃無量寿経﹂﹃阿弥陀経﹂という経名を山パ l レ ン で 示 し た の で あ り ま す 。 こ れ に 対 し て 、 ﹃ 観 無 量 寿 経 ﹄ は固有の経名ということで、二重かぎ括弧で示してあり ま す 。 さてこの三部経につきましては、初めからまとめて編 纂されたものではなく、成立史的には前後関係が認めら れるのであります。この点について法然上人が既に﹁観 無量寿経釈﹄において﹁無量寿経﹂と﹃観無量寿経﹄の 前後関係を論じておられまして、文証と理証を挙げて、 ﹃無量寿経﹂が﹃観無量寿経﹄よりも前の成立であると 説かれております。もちろんこれは釈尊一代の説法の中 での前後関係ということですが、今日の学問的な立場か 親 鷺 聖 人 と 浄 土 三 部 経 ら 見 て 、 ︿ 無 量 寿 経 ﹀ ・ ︿ 阿 弥 陀 経 ﹀ と ﹃ 観 無 量 寿 経 ﹄ を 比較いたしますと、﹁観無量寿経﹄がかなり遅れて成立 したものであるということは、学界のほほ定説となって い る と 思 い ま す 。 それでは︿無量寿経﹀と︿阿弥陀経﹀はどちらが先か ということになりますと、いろいろ異論があります。漢 訳の歴史から見ますと、確かに︿無量寿経﹀の方が先に 訳されていますけれども、直ちに︿無量寿経﹀が先の成 立とは言いきれない面があります。私は現在のところ ︿無量寿経﹀と︿阿弥陀経﹀の原初形態というのは、ほ ぽ 同 じ 頃 、 具 体 的 に は 西 暦 一

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年頃、地域としては北 西インドにおいて、編纂の事情をやや異にして成立した のではないかと考えております。そして、この二つの経 典の原初形態によって想定される浄土思想を、先程ご紹 介いただきましたように、﹁原始浄土思想﹂と名づけて い る 次 第 で あ り ま す 。 ところで、親鷲聖人と浄土三部経との関係を窺います ときにまず一番問題になるのは、聖人が三部経をどのよ うに受け取られていたかということであろうと思います。 二 五 七

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親 鷺 聖 人 と 浄 土 三 部 経 ご承知の通り﹃教行信証﹄の﹁教巻﹂において、﹃大無 量寿経﹂こそが真実の教であると説かれており、浄土三 部経の中で中心をなす経典は﹃無量寿経﹄であるとされ ております。そして﹁観無量寿経﹂と﹃阿弥陀経﹂につ いては﹁化身土巻﹂において方便の経典であると見なさ れています。つまり三経は区別されているのであります。 しかし同時に、この三経は一致する面があるということ を 示 さ れ る 解 釈 法 と し て 、 ﹁ 化 身 土 巻 ﹂ で は ﹁ 顕 彰 隠 密 ﹂ の義を説かれます。これは ﹃浄土文類衆紗﹄では﹁隠 顕﹂という言葉で示されますが、顕の立場では三経はそ れぞれ異なっているけれども、隠の立場では完全に一致 するとされているわけです。﹁化身土巻﹂の言葉では ﹁三経の大綱、顕彰隠密の義有りと雌も信心を彰して能 入 と す ﹂ と い う よ う に 一 一 一 経 一 致 の 立 場 が 示 さ れ る の で あ り ま す 。 このほかに親驚聖人の独自な三部経観は他の著作にも 認められますが、特に三部経を直接対比されているのが ﹃浄土三経往生文類﹂であります。これは申すまでもな く、三経を往生という観点から、その教証を挙げて真仮 二 五 人 を論ぜられたものであります。その他﹃愚禿紗﹄などい ろいろありますが、思想的ないし教義学的な面から申し ますと、親鷲聖人が三部経をどのようにとらえておられ たかという解釈法の問題、これを仏教の伝統的な解釈法 の流れからどう考えていくべきであるか、またその中で 聖 人 の 独 自 性 が ど う い う 点 に あ る か と い う こ と を 考 ゑ 小 す るのが、今日の﹁親鷲聖人と浄土三部経﹂というテ l

についての最も中心的な課題であろうと思います。しか し、その点につきましては皆様方のほうがむしろご専門 でございまして、私からあえて新しい知見を申し上げる までには至っておりませんので、今日はこの問題に言及 することはカットさせていただきまして、 いささか違う 視 点 か ら お 話 し ・ 申 し 上 げ た い と 思 い ま す 。 近代の仏教学は、ご承知の通り、歴史学と文献学の方 法論的基礎に立って行われているわけですが、そういう 面から聖人と浄土三部経との関係を考えてみたい。具体 的には、聖人がどのような浄土三部経を用いられたのか という問題に焦点を合わせて考えてみたいのであります。 それについてプリントに﹁親鷺の三部経千部読諦﹂と記

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しておきました。これは有名な話でして、建保二年、聖 人が四十二歳の時に、関東に移られたその最初のよく知 られた事跡が、佐貫で三部経の千部読諦を発願されたこ とであります。それは﹁衆生利益のため﹂ということで ありましたが、四・五日後には読請を中止されたとあり ます。これは﹃恵信尼文書﹂に伝えられ、﹃口伝紗﹂に もほぼ同じようなことが述べられております。その後寛 喜三年、聖人が五十九歳の時、風邪で寝ておられたとき に﹁大経を読む事、ひまもなし。たまたま目をふさげば、 経の文字の一字も残らず、きららかに、 つ ぶ さ に 見 ゆ る 也 ﹂ と ﹃ 恵 信 尼 文 書 ﹄ に 書 か れ て い ま す 。 そ 、 つ い た し ま すと、これは﹃大経﹄についてですが、経文を完全にそ らんじておられたことを示しております。この佐貫で行 われた三部経千部読誠については、最近では興行型の勧 進の一つではないかという研究︵平松令三氏︶がござい ま す が 、 いずれにせよ三部経のテキストがあったのだろ うと思われます。その三部経のテキストはどういうのを お使いになったのであろうか。﹃観経﹄と﹃阿弥陀経﹄ についてはいわゆる﹃集註﹄がありますので聖人がお使 親驚聖人と浄土三部経 いになったテキストはわかりますけれども、﹃大経﹄に ついては、どういうわけか﹃集註﹂に当たるものがあり ません。そこで、これらの点についてもう少し具体的に 確認してみたいというのが、今日の話の目的であります。

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早速﹃無量寿経﹂から始めていきたいと思います。最 初 に ﹁ ︿ 無 量 寿 経 ﹀ の諸異本﹂と記しておきましたが、 こ こ で 現 存 の ︿ 無 量 寿 経 ﹀ の諾異本について簡単に述べ ておきます。まず、サンスクリット本は ﹃ ス カ l ヴ ア テ ィ l ・ ヴ ュ l ハ ﹄ ︵

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印 口

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口 宮 ︶ と い う 経 題 、 ﹁ 極 楽の荘厳﹂という意味ですが、一八八三年にオックスフ ォ l ドで原典が出版されました。今から一一七年前にな り ま す が 、 マックス・ミユラ!と南条文雄先生が共編の 形 で 出 版 さ れ た 、 いわゆるオックスフォード本でありま す。その時点ではネパ l ル 写 本 を 五 本 入 手 さ れ て 、 ク リ テイカルなエデイシヨンを出されたのであります。とこ ろが、その後百有余年の聞に﹃スカ l ヴアティ l ・ ヴ 二 五 九

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親鷺聖人と浄土三部経 ュ l ハ ﹄ の ネ パ 1 ル写本がいろいろ出てまいりました。 私が集めた限りにおいても、現在までに三十八部ありま す。そこでそれらをロ l マナイズして、集成したものを 数年前に出版いたしました︵﹃党文無量寿経写本ローマ 字本集成﹄全三巻︶。しかし最終的にはクリティカルな 新しいエディシヨンが望まれるわけで、これはなかなか 二 六 O あります。この断片の続きが出ますと、ちょうど第十八 願に当たる箇所が出るはずですが、現在のところその行 方を確かめることが出来ません。五世紀半ば|六世紀末 の頃といたしますと、七闘の一つに曇摩蜜多が訳した ﹃新無量寿経﹄というのがあり、私はどうもそれではな いかと見当をつけております。しかしこれはもともと散 難しい作業ですけれども、現在微力ながらその準備を進逸した経典ですから、手がかりが乏しく断定しがたい面 め て い る 次 第 で あ り ま す 。 次に漢訳ですが、異訳として①から⑥まで並べました が、ご承知の通り、凝然の言葉で﹁五存七闘﹂、すなわ ち十二訳があったと言われています。五存は①から⑤ま があります。もし曇摩蜜多訳であるとすれば、五存七閥 ではなくて、六存六闘の十二訳ということになります。 しかし、そうでなければ六存七闘の十三訳になります。 ︵百済康義氏︶。これはトルファン出土のもので、現在 でですが、近年⑥の﹁新出漢訳断片﹂が発見されましたないであろうと思います。 いずれにしても、従来の五存七欄説は改めなければなら イスタンプ l ル大学図書館に所蔵されています。五世紀 半ばから六世紀末の頃のものと見られております。私も 一 昨 年 イ ス タ ン プ l ル大学に参りまして、現物を実際に 見てきましたが、確かに︿無量寿経﹀の漢訳の断片であ ります。内容的には、法蔵書薩の発願から本願文の第五 願のところまでの断片一紙ですけれども、見事な写本で 次にチベット訳ですが、これは﹃聖なる、無量光の荘 厳と名づけられる大乗経﹄と言います。﹁無量光﹂はチ ベット語のウパメ︵ f o 仏 身 同 −

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包︶で、サンスクリッ トのアミタ l パ ︵ ﹀ 自 足 削 σ ︸

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︶の訳ですので、この経題 は サ ン ス ク リ ッ ト で は ﹁ ア ミ タ l パ・ヴュ l ハ ﹄ ︵ ﹀ 邑

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曲 目

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白︶になります。これは現存のサンス クリット本の経題とは違います。チベット訳では他に、

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④ の ﹁ 無 量 寿 如 来 会 ﹄ か ら 、 つまり漢訳からチベット語 に 訳 さ れ た も の も あ り ま す 。 そ の 他 に 、 プ リ ン ト に 記 し ま し た よ う に 、

l タ ン 語 訳 、 ウ イ グ ル 語 訳 、 西 夏 語 訳 、 モンゴル語訳、満洲語訳 があります。これらは近年になって分かったもので、以 前にはこういう訳本があるということすらも分からなか ったのです。これらを見ますと、︿無量寿経﹀が中央ア ジアの諸言語に広く翻訳され流布した事実が窺われるの で あ り ま す 。 さ て 次 に 、 ﹁ 親 鷺 と 漢 訳 諸 本 ﹂ の 問 題 に 移 り ま す が 、 親鷺聖人が以上の諸異本の中でご覧になり得たのは、言 うまでもなく漢訳の①から⑤までであります。このうち ①につきましては、﹃諸仏阿弥陀三那三仏薩楼仏檀過度 人 道 経 ﹂ と し て 、 ﹃ 教 行 信 証 ﹄ ﹁ 行 巻 ﹂ ﹁ 真 仏 土 巻 ﹂ 、 ﹁ 愚 禿紗﹄等に引用されています。この中で﹁三那﹂とある のは﹁三耶﹂の誤写であり、﹁支謙訳﹂を﹁友謙訳﹂と 書かれているのも誤写であろうと思います。﹃愚禿紗﹂ では、きちんと﹁支謙訳﹂と書かれています。経題につ いて注意されるのは﹁諸仏﹂という言葉が加わっている 親鷲聖人と浄土三部経 ことであります。漢訳の①をご覧いただきますと、﹁諸 仏﹂はついておりません。どうして聖人の引用された経 題についているのかを尋ねてみますと、聖人が重視され た﹃無量寿経﹄の註釈書である環輿の﹃無量寿経連義述 文賛同それから智昇の﹃開元録﹄ の中にも﹁諸仏﹂が ついておりまして、これらをご覧になられて経題をこう いう風に示されたのではないかと思います。そしてこの ﹁諸仏﹂があることによって、聖人の独自なお考えが窺 われます。例えば﹁浄土和讃﹄の﹁大経讃﹂の中で女人 成仏の有名な和讃は﹁弥陀の大悲ふかければ﹂という句 から始まっておりますが、これは高田専修寺の国宝本で は﹁諸仏の大悲ふかければ﹂というように、﹁弥陀﹂が ﹁諸仏﹂に替わっております。それについて国宝本には ﹁弥陀を諸仏と申す。過度人道のこころなり﹂という左 訓があります。そういたしますと、ここではこの経題に 基づいて諸仏即阿弥陀というお考えが示されていると見 ら れ る わ け で あ り ま す 。 それから②の﹃無量清浄平等覚経﹄については、聖人 は吊延訳を採用しておられます。やはりこれも、環輿の 一 一 ム ハ

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親 鴛 聖 人 と 浄 土 三 部 経 ﹃連義述文賛﹂、あるいは﹃高僧伝﹄とか﹁法経録﹂の 説に基づかれたものと思います。﹁平等覚経﹄の訳者が 支婁迦識でないことは確かと思いますけれども、吊延訳 というのは、私もいろいろと調べたところでは最も妥当 な説ではないかと考えております。そういう意味で聖人 ー ム ノ、 ょうですが、真宗では親鷺聖人に従って﹁大無量寿経﹂ のほうをよく用い、これが広く知られるに至ったのであ ろうと思います。訳者としては、康僧鎧訳とされている こ と は 言 う ま で も あ り ま せ ん 。 次の④は﹃大宝積経﹄に含まれる﹁無量寿如来会﹂で が吊延訳を採用されていることについて大変嬉しい感じあります。これは菩提流志訳ですが、聖人は﹁菩提流 支﹂として﹁志﹂の字を﹁支﹂で書かれています。これ を持ったことがございます。ただ聖人が吊延訳をお使い になったのは、おそらく先行の文献に基づかれたもので あ ろ う と 思 い ま す 。 次に③は正依の﹃無量寿経﹂ですが、聖人は﹃無量寿 経﹄という経題を用いておられます。もちろん﹃無量寿 経﹄も用いられますけれども、これに﹁大﹂をつけるの は、中国の唐代のいろいろな文献に既に認められます。 例えば﹃選択集﹂において中唐の頃の﹃浄土十疑論﹄を 引用しており、その中に﹃大無量寿経﹄という経名が出 ておりますので、法然上人もご存じなわけですが、しか しこれは引文としてお使いになっているだけで、ご自身 は﹃大無量寿経﹄という呼び方はなさっていないのであ ります。したがって後の浄土宗ではこの呼称を用いない は﹁信巻﹂に出るのですが、坂東本を見ますと下の欄に 朱書されており、あとから追記されたことが分かります。 それから﹃愚禿紗﹂でもやはりこの﹁支﹂を使っておら れます。菩提流支と言えば菩提流志と原語は同じですけ れ ど も 、 言 う ま で も な く ﹃ 浄 土 論 ﹂ 、 も し く は ﹁ 往 生 論 ﹂ の訳者で、六世紀初めの人であります。これに対して菩 提流志は八世紀の人ですから別人になります。聖人が ﹁浄土論﹄の訳者を菩提流支︵または菩提留支︶と見ら れていたことは、﹃高僧和讃﹂や﹃入出二門偶頒﹄で知 られますから、これはやはり誤写であろうと思われます。 以上、経題・訳者について気づいたことを少し挙げてみ 中 ま 1 レ れ ∼ 。

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それから、今度は引用文についてみますと、当然のこ とながら正依の③﹃無量寿経﹄を最も多く用いられてい ます。﹃教行信証﹂で見ますと全六巻に、私は正引四十 一回と書いておきましたが、例えば中井玄道氏によりま すと正引三十五回︵実数は三十七回︶とされております ︵ ﹃ 教 行 信 証 附 録 ﹄ ︶ 。 あ と 子 引 き を 挙 げ ま す と 、 ま だ ま だ多くなるわけです。けれどもこれは数え方に依ります ので、計算に異説が立てられると思います。いずれにし ても、こういうように非常に多く引用されているのであ ります。﹃浬繋経﹄も﹃教行信証﹄に大変多く引用され ており、私の計算では三十五回位ではないかと思います が、分量を別にしますと、やはり﹃大無量寿経﹂には及 びません。このように最も多く引用されている﹃大無量 寿経﹄の、どの箇所を聖人は引用されているのか、その 部分を検討してみると、幾つかの間題点が明らかになる と思います。例えば本願文については、十一の願文だけ を引用されていること、あるいは五悪段については三毒 段を別にして全然引用されていないことなど、聖人が ﹃ 大 無 量 寿 経 ﹂ を ど の よ う に 読 ま れ て い た か を 知 る 手 が 親 鷺 聖 人 と 浄 土 三 部 経 か り が 得 ら れ る の で は な い か と 思 い ま す 。 次に、④の﹁無量寿如来会﹄ですが、聖人はこれを非 常に重用されております。﹃教行信証﹂で言えば全六巻 に、私の計算では二十五回﹁如来会﹄を引用されており ます。ちなみに﹁大阿弥陀経﹂は四回、﹃平等覚経﹄は 六回ですから、漢訳異本の中では﹃如来会﹂の引用が極 めて多いことが分かります。 一体、この普提流志訳の ﹃ 知 来 会 ﹂ は 、 現 存 の 諸 異 本 の 中 で は サ ン ス ク リ ッ ト 本 に一番近い訳であります。例えば三毒五悪段というのは サンスクリット本にはありませんが、﹃如来会﹄にもな いのです。ところが﹃大阿弥陀経﹄と ﹁ 平 等 覚 経 ﹄ 、 そ れ に ﹃ 大 経 ﹄ に は あ り ま す 。 こ う い う よ う に ﹁ 加 来 会 ﹄ は 現 存 の 漢 訳 と 対 比 し ま す と 、 対応していることが知られます。訳出の点でも唐代の新 一 番 サ ン ス ク リ ッ ト 本 に 訳であり、﹃如来会﹄を﹃大経﹄の助顕として重用され る の で あ り ま す 。 こ の こ と は ﹃ 教 ﹁ 窪 田 証 ﹄ ば か り で は な く、他の著作においても同じように認められます。それ か ら 例 え ば ﹃ 浄 土 和 讃 ﹂ の﹁大経讃﹂の中にも﹃如来 会﹄の文言がいくつか出てまいります。こういう点から ーム ノ、

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親鷲聖人と浄土三部経 も、この﹃知来会﹂を重用されていることが窺われます。 それから、⑤の﹁大乗無量寿荘厳経﹄についてプリン トには﹁不引﹂と書いておきましたが、これは全く引用 されていないということで、おそらく無視されたのでは ないかと思われます。この﹁荘厳経﹄は宋代の法賢訳で すから、聖人にとっては一番近い時代の訳です。聖人は ﹃楽邦文類﹂のような宋代の文献については敏感に注目 されていますから、この法賢訳についても当然注目され たはずであるにもかかわらず、これには全く言及されて い な い の で あ り ま す 。 一 説 に こ れ を 入 手 す る こ と が 出 来 なかったのではないかという見方もありますが、決して そうではないと思います。いろいろな点からみて、この ﹃荘厳経﹂をご覧になることは出来たであろうと推定さ れます。ただ現在の文献学的な立場から申しますと、漢 訳五存の中で﹃荘厳経﹂だけは非常に特異な訳風を持っ ております。これは三十六願経であり、二十四願経と四 十八願経の中間にあるということで、ひと頃大変注目さ れました。しかし内容的に検討しますと、本願文の願意 も特殊であり、また誤訳と思われるところもありまして、 二六四 どうも信用がおけない訳本であると私は考えております。 三十六願であるけれども、決して二十四願から三十六願、 それから四十八願という風になったのではなくて、三十 六願は別個に考えなくてはならないと思っております。 そ う い う わ け で 、 こ れ は 一 番 新 し い 訳 で す が 、 一 番 問 題 の あ る 訳 本 で あ ろ う と 思 い ま す 。 そ 、 つ い た し ま す と 、 親 鷺聖人がこれを無視されたのは、現代の文献学的な研究 から見て非常な卓見であると考えられるのであります。 それでは、聖人が依用された﹃大経﹂はどういうもの で あ っ た か と 言 い ま す と 、 ﹃ 観 経 ﹂ ﹃ 阿 弥 陀 経 ﹄ と 違 っ て ﹃ 集 註 ﹄ が あ り ま せ ん か ら 、 い ろ い ろ な 引 用 文 が 現 在 の 流布本や版本等とどのような異同を示しているかで判断 するよりしょうがないわけです。そこで例として三つ挙 げ て お き ま し た 。 最初のは五徳瑞現の段の文です。﹃教行信証﹄の﹁教 巻﹂で出世本懐を示す文として、最初に引用されている ﹃ 大 経 ﹄ の 文 言 の 中 に 、 ﹁ 光 顔 貌 貌 如 明 浄 鏡 影 暢 表 裏 ﹂ という言葉があります。このうち私どもが﹁知明浄鏡﹂ と読んでいるその文言が、聖人の場合は﹁知明鏡浄﹂と

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書かれています。つまり﹁鏡﹂と﹁浄﹂という字がひっ くり返っているのです。これは私どもが依用している流 布本とは違います。ではこれは聖人が間違われたのかと 言いますと、決してそうではありません。それは﹃大 経 ﹄ の 版 本 、 敦 憧 本 、 石 経 と 対 照 し て み る と 分 か り ま す 。 版本は現在八点あります。例えば﹁大正大蔵経﹄の底本 は高麗版です。また最近中国で出版されている﹃中華大 蔵経﹄では﹁金蔵﹄が収められています?それから宋版 に は 古 い 福 州 版 、 思 漢 版 が あ り 、 ま た 積 砂 版 が あ り ま す 。 さらに元版、明版、清版というように版本だけでも人種 あるわけですが、それらがすべて﹁如明鏡浄﹂となって おり、聖人の読み方と一致するのです。このほか、敦憧 本があり、﹃大経﹄の場合はスタイン本、北京本など十 二点程あります。その他にトルファン本も二点程ありま すが、これらの中で北京本の一点だけが﹁如明鏡浄﹂の 読みをとっています。また房山の石経は一点だけですけ れども、同じ読み方をしています。こういうわけで、聖 人の読み方は実はこうした版本、敦憧本、石経の読み方 と 同 系 統 で あ る こ と が 知 ら れ る の で あ り ま す 。 親 鷲 聖 人 と 浄 土 三 部 経 次に、これと同じ文の中で﹁如来以無蓋大悲斡哀三 界﹂という有名な言葉があります。この中の﹁無蓋大 悲﹂というのは聖人の引用文も現在の流布本も同じであ ります。ところが七種の版本は、全部﹁無尽大悲﹂とあ ります。﹁無蓋大悲﹂ではないのです。どうして七種の 版本かと申しますと、積砂版が違う読み方をしています 一 つ 抜 け ま す 。 そ こ で 、 版 本 ︵ 7 ︶と書いておき の で 、 ました。その次に建仁四年︵一二

O

四︶版と書いてあり ますのは親鷲聖人が吉水時代、三十二歳の折に、京都で 開 板 さ れ た 日 本 最 古 の ﹁ 無 量 寿 経 ﹂ の 版 経 で あ り ま す 。 これは現在名古屋の住田智見先生のお寺、祐誓寺さんに ありますが、これを見ますと﹁無尽大悲﹂となっており ま す 。 こ こ で も 流 布 本 と 違 う こ と が 分 か る の で あ り ま す 。 それからもう一つ、﹁信巻﹂に引用されているのです が 、 ﹁ 東 方 偏 ﹂ ︵ ﹁ 往 鋭 偽 ﹂ ︶ の 一 番 最 後 に 出 て く る ﹁ 広 度 生死流﹂すなわち﹁広く生死の流れを度すべし﹂という 句 が あ り ま す 。 こ の 場 合 聖 人 が 使 っ て お ら れ る ﹁ 広 度 ﹂ は、流布本を見ますと大谷派や高田派では、同じであり ま す 。 そ れ か ら 版 本 も 六 種 、 敦 埠 本 一 点 、 石 経 の 一 円 J 、 二 六 五

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親鴛聖人と浄土三部経 一 一 ム ハ ム ハ これらも﹁広度生死流﹂となっております。ところが同お使いになられたのであろう、と住田先生もおっしゃっ て い ま す が ︵ ﹃ 真 宗 大 系 ﹂ 第 二 巻 、 末 ︶ 、 こ れ を 対 照 い た し じ流布本でも、本願寺派や浄土宗では、﹁広度﹂ではな くて﹁広済﹂とあります。また版本では高庫版だけが ﹁広済生死流﹂です。そういうわけで流布本の中でも伝 承 の 相 違 が 窺 わ れ ま す 。 ますと、例えば上に挙げましたように﹁無蓋大悲﹂が ﹁無尽大悲﹂となっていて相違が認められますから、決 し て そ う は 一 言 尽 え な い こ と に な り ま す 。 こ う い う わ け で 、 以上、大変細かなことを申しましたが、こうして見ま結局は分からないという結論になりまして、甚だ申しわ すと、親鷲聖人が用いられた﹁大経﹄は、現在の流布本 とも違う点があるし、版本などとも違う点があることに な り ま す 。 し た が っ て 、 一 体 ど の 系 統 の ﹁ 大 経 ﹂ を お 使 いになられたかということがどうもまだ明確ではないの です。聖人が関東に移られた時に宋版の﹃一切経﹄をご 覧になられたと言われることがありますが、しかし宋版 の﹃一切経﹂が鹿島神社に奉納されたのは、聖人が京都 にお帰りになった後であり、これをご覧になられたわけ がありません。事実、宋版の﹃大経﹄と聖人の引用文を 対比してみますと、読みの相違点があります。それから 今触れました建仁四年版は、聖人の吉水時代に京都で開 板されていますから法然上人もご覧になったであろうし、 親鷲聖人もご覧になったに違いない。したがってこれを けないことでございますが、この点、皆様方にご教授を 賜 り た い と 思 う 次 第 で あ り ま す 。

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それでは、今度は﹃観無量寿経﹂に移りたいと思いま す。プリントに﹁﹃観経﹂と重訳﹂と書いておきました が、﹃観経﹄は亘良耶舎訳が現存の唯一の伝本でありま す。異本としては、トルファンで出たウイグル語訳の断 片三種があるだけです。その年代ははっきりとは分かり ませんけれども、九世紀から十四世紀の問、おそらく十 世 紀 前 後 で あ ろ う と 思 わ れ ま す 。 ﹁ 観 経 ﹄ の 冒 頭 部 分 と 、 第十観音観、下品中生段の一部分に相当する訳ですが、

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従来より現存の直良耶舎訳からウイグル語に訳されたも のであろうと言われております。したがってこれは異本 と い っ て も 重 訳 で す か ら 、 原 本 と 言 、 つ べ き も の は 現 存 の ﹃観無量寿経﹂だけということになります。サンスクリ ット本もありませんし、チベット訳もない。それから漢 訳には﹁観無量寿経﹄のように﹁観﹂をつける経典がこ の他に五つ程ありますが、それらにも全く同じような事 情でサンスクリット本やチベット訳がありません。もつ ともそのうち一本だけはチベット訳がありますけれども、 漢訳からの重訳であり、サンスクリット原典を想定する ことはできません。また﹃観経﹂には内容的にインドで はなく中国的な文言が見出されます。こういうわけでイ ンド成立への疑問が立てられており、私はもっともなこ とと考えております。近年インド成立の復権を主張され る方もおりますが、これはどうも支持しがたい。ですか ら、残るのは中央アジア撰述説か中国撰述説であります。 これについて、私は明快を欠くきらいがありますが、両 説の折衷説を採っております。その理由を申し述べるこ とは今は省略させていただきます。 親 鴛 聖 人 と 浄 土 三 部 経 以上のような﹃観経﹄につきまして、次に親鷺聖人と の関係を窺ってみることにいたします。まず引用されて いるのは﹃教行信証﹂の﹁信巻﹂﹁化身土巻﹂で、正引 三回と記しておきましたが、先程の中井氏によりますと、 正引二回になっております。これも計算の仕方によって 違うわけでして、例えば﹁化身土巻﹂の﹃観経﹄の文言 は、序分、第八観、上品上生段からというように、一つ 一つを挙げれば十三の経文を引用して、隠顕釈を適用さ れており、さらに流通分の文言も挙げておられます。し たがって、見方によっては正引はもう少し多く数えるこ と も で き る と 思 い ま す 。 ところで次に記しました﹃観無量寿経集註﹄が、聖人 のお使いになった﹁観経﹄を示す文献であります。これ は申すまでもなく、西本願寺で発見され、現在国宝とな っております。国宝本としては﹁観無量寿経註﹄と呼ば れていますが、ここでは一般に行われている﹃集註﹂と しておきました。これは後に挙げる﹁阿弥陀経集註﹂と あわせて一巻二経になっておりますが、現在、高田専修 寺に存覚上人の転写本があり、そこに﹃観阿弥陀経﹄と 二 六 七

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親鴛聖人と浄土三部経 なっているところから﹃観阿弥陀経集註﹂という呼称も 用いられています。これはいつ頃書かれたものかという と 一般に聖人の吉水時代とされております。ただし朱 書がいろいろありまして、後から追記されたと思います が、それらがいつ頃書かれたものかはっきりしない点が あります。ご承知の通り﹁観経﹄の本文を書写し、善導 の﹃観経四帖疏﹄を中心として﹃往生札讃﹂とか﹃観念 法 門 ﹂ と か の 文 を び っ し り と 註 記 の か た ち で 書 き 込 み 、 それが表書から裏書に及ぶというものであります。これ は と も か く ﹃ 観 経 ﹄ を き ち ん と 書 か れ た も の で す か ら 、 聖 人 の 依 用 さ れ た ﹁ 観 経 ﹂ が 実 際 に 分 か る の で あ り ま す 。 この﹃集註﹄の経文を今の流布本や版本と対照してみ ますと、またいろいろと読みの異同が認められます。そ れ で 例 と し て 三 つ 挙 げ て お き ま し た 。 ま ず 経 題 で す が 、 聖人は﹁仏説無量寿観経﹂と書かれております。そして そ の 上 欄 に 朱 書 が あ り ま し て 、 ﹁ 或 本 に ﹂ i | | こ れ は 私 が推定して読んだのですけれども||﹁仏の字有り﹂と 朱書されています。つまり、﹃仏説無量寿仏観経﹂と読 む伝本もあることを註記されているのです。いずれにせ 二 六 八 よ私どもの流布本の﹁仏説観無量寿経﹄とは違っており ます。ところがこの﹁仏説無量寿観経﹄という読み方に は典拠があります。敦埠写本を見ますと、﹃観経﹂は四 十三点程あります。その他にトルファン本も六点程ある のですが、今まで直接調べただけでも敦憧本の中の十九 点の写本が聖人の読み方と同じになっております。︵目 録によるとなお数点増えます。︶それでは、聖人の著作 の 中 で は ど う な の か と 言 い ま す と 、 ﹁ 教 行 信 証 ﹄ 、 ﹃ 愚 禿 紗 ﹄ 、 ﹃ 浄 土 三 経 往 生 文 類 ﹄ 等 で は ﹃ 無 量 寿 仏 観 経 ﹄ と な っていて、﹁仏﹂の字が入っております。やはり私ども の流布本と違うのであります。ちなみに版本のほうはど う か と 申 し ま す と 、 高 麗 版 を 初 め と し て 七 点 あ り ま す が 、 そのすべてが流布本の﹃仏説観無量寿経﹂ではなく﹃仏 説観無量寿仏経﹂というふうに﹁仏﹂の字が入っており ます。このように経題一つとってみましでも異なってお ります。そこでこれらを整理してみますと、大きく分け て三つの経題になるかと思います。第一はまず流布本の ﹃ 観 無 量 寿 経 ﹂ で す 。 こ れ は 現 存 の 一 番 古 い 経 録 で あ る ﹃ 出 三 蔵 記 集 ﹄ に 用 い ら れ て お り ま す 。 ︵ た だ し 、 宋

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元・明三本は﹃観無量寿仏経﹄となっています。︶第二 はやや後の経録の﹃歴代三宝紀﹄に出る﹃観無量寿仏 経﹄です。これが現在の版本で用いる経題であります。 第三は﹃無量寿観経﹄ですが、これは﹃歴代三宝紀﹄よ り少し前の経録である﹃法経録﹄や梁の﹁高僧伝﹄に出 てまいります。聖人が書写された﹃仏説無量寿観経﹂は この系統と言えます。この三つの経題、つまり﹁観﹂の 字が前にくるか後にくるか、それから﹁仏﹂の字が入る か入らないか、こういう相違であります。これがどうい う意味を持っかということですが、私はこの三つの経題 は区別して使われておりませんから、やはり経録ないし 伝承の相違によるに過ぎないものと考えております。た だ﹃教行信証﹄等で用いる﹃無量寿仏観経﹄という呼称 は、経録にはないのです。﹃集註﹂の中で上欄に朱書し て﹁仏の字有り﹂というのは一体何をご覧になられたの か分かりませんが、推測いたしますに、どうも版本の系 統の伝本をご覧になったことによるのではないかと思い ます。版本の場合は今述べました通り、すべて﹃仏説観 無量寿仏経﹂とあり、﹁仏﹂の字が入っています。そう 親 鷲 聖 人 と 浄 土 コ 一 部 経 いうことから、聖人は著作の中でも﹁無量寿﹂に﹁仏﹂ の字を加えられたのではないかと、推定されるのであり ま す 。 次に挙げました﹁古本に作是観者名為正観若他観者名 為邪観と云う﹂のは、初観のところに、やはり上欄に朱 書されています。この文言は現在の流布本にはありませ ん。しかし版本を見ますと高麗版だけにあります。そう いたしますと、聖人がご覧になられた﹁古本﹂というの は、高麗版の系統ではないかと推定されます。したがっ て今申しました経題の﹁或本﹂というのも、また﹁教行 信証﹄等で﹁無量寿仏観経﹂と呼ばれたのも、具体的に はおそらくは高麗版の系統の伝本を参照されたことを示 し て い る の で は な い か と 思 わ れ ま す 。 次の例は第十三観の﹁雑想観﹂についてです。流布本 の中で本願寺派・高田派・浄土宗の依用本では、同じく ﹁雑想観﹂になっております。それから七種の版本、敦 埠本の五点、石経は二種ある中の一つがやはり同じであ ります。ところが大谷派が用いている流布本では﹁雑観 想﹂となっています。また敦埠本の十四点が﹁雑観想﹂ 二 六 九

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親鷲聖人と浄土三部経 を用いていますから、どちらの読みもあるということに な り ま す 。 以上のように見ますと、親鷲聖人が﹃観経﹂をお読み になっている場合に他の伝本と校合されていることが確 かめられます。そしてその結果が現在の私どもが用いて いる流布本とは違う点のあることが窺われるのでありま す

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では次に、﹁阿弥陀経﹂に移ります。︿阿弥陀経﹀の諸 異本については、まずサンスクリット本があります。こ れはもとは悉曇本でして、﹃無量寿経﹂のサンスクリツ ト 本 と 同 じ く ﹃ ス カ l ヴ ア テ ィ 1 ・ヴユ 1 ハ ﹂ ︵

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島田︶という経題であります。この悉曇 本に基づいて、マックス・ミユラーが一八八

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年、今か ら百二十年前に最初のデ l ヴァナ l ガ リ l 刊本を出しま した。これは仏典のクリティカルなエデイシヨンとして は最初期に属するものであります。先に申しましたよう 七

に、三年後の一八八三年に﹃無量寿経﹄のサンスクリツ ト原典が出版されましたが、そのアペンディクスとして 再録されております。ところで、この悉曇本は、中国か ら日本に伝来したものです。平安時代初期に慈覚大師円 仁が請来したものと、やや遅れて同じく入唐人家の一人 である宗叡が請来したものがあります。しかし、その後 の経緯を調べてみますと、円仁の請来本については叡山 で鎌倉時代初期まで保存されていたことが知られます。 詳しく申し上げるいとまはありませんが、叡山の前唐院 の目録が鎌倉初期に出ておりまして、そこに円仁の請来 した﹃唐党対訳阿弥陀経﹄があることが記録されている からです。悉曇本はもともとインドに由来するわけです が、七年ほど前にネパ l ルで︿阿弥陀経﹀のサンスクリ ット本が出たことが分かり、写真版で見たところ、確か に︿阿弥陀経﹀の原本でした。しかし不審な点もあり、 現物にあたらないとはっきりしませんので、私はカトマ ンドゥに行きまして、 ア 1 シ ャ l ・ サ フ 1 ・クテイ ︵ ﹀ 臼 宮

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むという民間の古文書館に所蔵さ れている原本を見てきました。正直に言いますと、これ

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はどうも怪しいのです。ちゃんと古い写本のように書か れていますけれども、種種な点で信頼できないことが判 明しました。ヵトマンドウの国立古文書館にはもう一点 の写本が写真だけですけれどもあります。しかし、これ もよくよく見ると怪しい点があり、信頼すべきものでは 申しました通り私は﹃無量寿経﹂の写本を三十八点集め ることが出来ました。まだ探せば出てくるかと存じます。 しかし︿阿弥陀経﹀のサンスクリット写本は出てこない のです。これは不思議なことであります。もし皆様方の 中 で ネ パ 1 ルに行かれてどこかでご発見になれば、世界 ないのです。近年、ネパ l ルではドイツの学者が写本保的に著名になられるのではないかと思います。 以 上 の よ う な わ け で 、 ︿ 阿 弥 陀 経 ﹀ 存のプロジェクトを組んで盛んに写本を集めマイクロフ イルムに収めました。そうしましたらネパ l ルの各寺に の原点は日本に伝 わった悉曇本しかないのであります。ところがこの悉曇 ある仏典の写本が珍重され、蒐集・撮影料もだんだん値本が先程述べましたように、鎌倉時代の初期には残って 上がりをして、そのうちに偽作なども行われるようにな ったようです。ちょうど敦憧本がそうでして、日本にも たらされた敦煙本の大半はどうも怪しいということです が、それと同じような現象がネパ 1 ルの一部のサンスク リット写本についても認められるのであります。こうい うわけで結局︿阿弥陀経﹀のサンスクリット本はネパ l ルには今のところまだ見つかっていないのです。しかし、 次に記しましたようにチベット訳がありますし、ないは ずはないのです。必ずどこかにあるに違いないと思うの ですけれども、どういうわけか出てまいりません。先程 親 鷲 聖 人 と 浄 土 コ 一 部 経 いたようであり、また意外に広く流布していたことが知 られます。親鷲聖人との関係で申しますと、聖人が叡山 に上っておられた時には、円仁請来の悉曇本が叡山の前 唐院にあったはずです。それから平安末期、天台宗では 明 覚 ︵ 一

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五 六 l 一 一

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六︶の﹃悉曇要訣﹂という、悉 曇学の非常に水準の高い書物に、悉曇本︿阿弥陀経﹀の 語棄を十箇所ほど引用しております。また真言宗の心覚 ︵ 一 一 一 七 | 一 一 八

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︶が著した﹃多羅葉記﹄というの は現存最古のサンスクリットの辞書ですが、この中には 三十箇所ほども︿阿弥陀経﹀を引用しているのです。そ 七

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親 驚 聖 人 と 浄 土 一 一 一 部 経 ういう点から見ますと、平安時代から、悉曇本︿阿弥陀 経﹀が台密、東密の両方で広く用いられていたことが窺 われます。悉曇本の開板が行われるようになったのは江 戸時代中期以降でありますけれども、そのもとになった 写本で一番古いのは建久六年本︵二九五年︶です。こ れは親鷺聖人のご在世中で二十三歳の時にあたります。 そ れ か ら 承 久 三 年 本 ︵ 一 一 一 一 一 一 年 ︶ と い う も の も 伝 え ら れていますが、これは聖人が四十九歳の時です。ちょう ど聖人が関東におられた頃に、信州に伝わっていた写本 と言われますから、そう遠くないところで既に流布され ていたことが分かります。また﹃多羅葉記﹂を見ますと、 七 視されます。これは後に述べます。また﹃無量寿経﹄に ついても、異本を重視され、特にその中でサンスクリッ ト本に最も近い﹃無量寿如来会﹄を﹃大経﹄の解釈の助 顕としてしばしば参照されます。これは法然上人には見 られないことです。親鷺聖人はいわば今日の学問的な方 法論というものをきちんと押さえて経典を解釈しておら れるように思います。このように原典に近いものを重用 される点からすると、もし悉曇本を手にされることがあ ったならば、聖人は叡山で悉曇等を学ばれたことでしょ うから、当然お読みになられたのではないかと推測する 次第です。しかしこれを手にすることはなく、残念なが 文暦二年︵一二三五年︶の紀年をもっ写本が京都の醍醐らその機会はついになかったわけであります。 では次に、少し急ぎますが、漢訳では二存一閥、すな 寺にありまして、聖人が六十三歳の時、おそらく京都に お帰りになった頃でありますから、ご覧になろうと思え わち①﹃阿弥陀経﹄と②﹃称讃浄土仏播受経﹂がありま におられた頃でも、もし望むならば写本を手にされるこ ば、あるいは出来たのではないかと推測されます。関東す。このうち羅什訳﹃阿弥陀経﹄は、サンスクリット本 に非常に近いのです。ただ本文の読み方について、流布 とも可能であったかも知れないと、勝手な推測ですけれ 本と蔵経本の聞に重大な相違がありますが、この点はご ども思われます。どうしてそういう推測をするかと申し承知のことと思いますので省略いたします。 次の玄英訳﹃称讃浄土仏揖受経﹄ですが、羅什訳と異 ますと、聖人は﹃阿弥陀経﹄の異訳の玄葉訳を非常に重

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なる点が多々あります。たとえば羅什訳の六方段は玄英 訳では十方段となっています。この点から、玄英訳の原 典は現在の悉曇本とは違ったものではないかというのが 今までの解釈です。ところがよく検討してみますと、ど うもそうとは一言えないのです。十方段について言えば、 玄英訳は訳出にあたって、悉曇本や羅什訳の六方段に四 般 方を付加したのではないかと考えられるのです。 玄英訳というのは訳経の中では最も正確で厳密な訳風を 示していると言われます。しかし﹃称讃浄土仏掃受経﹂ に 関 す る 限 り は 、 いろいろな疑問点があり、時には誤訳 とすら考えられるものもあります。ただ玄英訳というの ってすべて玄英訳になっていますけれども、実際は沢山 の優秀な学僧が集まって翻訳を行ったわけです。この玄 英訳﹃称讃浄土仏措受経﹂の場合は、大乗詞という人物 いわば下訳をして最後に玄突が見 が筆受者になったり、 てこれで可となったのであろうと思います。ところがど うもこの人物が問題であります。高麗版では大乗光と言 われますが、宋・元・明三本の大乗詞という名が本当の ょうであり、この人について種種調べてみても、どうい う人物かということが一向に分からないのです。玄撲の 訳経の中にはもう一本この大乗詞が筆受者として訳した ものがありますが、それしか分からないのです。玄奨門 を疑うことは出来ませんので、そこで考えられるのは玄下として優れた人物が中国全体から長安に集められまし たけれども、大乗諦は無名の人物であり、その力量にも 業の下についた筆受者である大乗光

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実は大乗詞とい う人物についてです。筆受者というのは、実際に漢文に 調訳し筆記する役であり、訳経の際の中心的役割を果た す人物と言えます。玄撲は大変な数の訳経を行いました が、もちろん一人で行ったのではなく、 いわば翻訳セン ターのようなものがあり、玄実はそのトップとして最終 的に訳経を認定することを行ったと思われます。したが 親 鴛 聖 人 と 浄 土 三 部 経 疑問があるように思われます。したがってこの人物が中 心になって訳出したものを玄突がよく検討しなかったの かも知れません。が、ともかく﹃称讃浄土仏措受経﹄に は種々な疑問点があり、玄英が訳主として十分な責を果 たしたものかどうか疑わしいのであります。 次に、プリントに記しましたように、チベット訳があ 七

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親驚聖人と浄土三部経 七 四 ります。これは﹁極楽の荘厳﹂という経題になっていま陀経集註﹄によりますと、聖人が用いられた﹃小経﹂に はこの文言はないのです。ないにもかかわらず、これを すから、現在のサンスクリット本と同じであります。他 にチベット訳としては羅什訳からチベット語に重訳した ものもあります。その他、やはり近年になって分かった こ と で す が 、 ウ イ グ ル 語 訳 、 西 夏 語 訳 、 モ ン ゴ ル 語 訳 、 満州語訳などがあります。︿無量寿経﹀に比べますと コ l タ ン 語 訳 が あ り ま せ ん け れ ど も 、 こ れ ら に よ っ て 、 ︿阿弥陀経﹀も中央アジアで広く流布したということが 窺 わ れ る の で あ り ま す 。 さ て 最 後 に な り ま し た が 、 ﹁ 親 鷲 と ﹁ 小 経 ﹄ ﹂ に つ い て であります。まず引用文ですが、﹃教行信証﹄﹁化身土 巻﹂に正引としては一回あります。その他に称名念仏が ﹁多善根多功徳多福徳因縁﹂であるという嚢陽石経の文 言を引用されております。これはもとは法然上人が﹁選 択集﹂に裏陽石経の文を引用されているのに由来します。 ﹁選択集﹄では王日休の﹃龍箭浄土文﹄の二十一字をあ げ、この文言が羅什訳の伝本に欠けていると法然上人は お考えになっているわけです。それを親鷺聖人が受け継 いでおられるのです。しかしながら、次に述べる﹃阿弥 引用されているのですが、ただしその出典は法然上人の 場合とは違って元照の﹁阿弥陀経義疏﹄に出る裏陽石経 の文言です。厳密に言えば、そこにも若干の違いが認め られますが、いずれにせよ、この文言に注目されている のは、法然上人によると思われます。しかし、この文言 がもともと羅什訳にはなく、後代のものであることは明 ら か で あ り ま す 。 次に﹃阿弥陀経集註﹄でありますが、これは先程申し ました﹃観無量寿経集註﹄とコンビネーションになって い る も の で 、 ご 承 知 の 通 り 善 導 の ﹃ 法 事 讃 ﹄ に 基 づ き 、 ほかに﹃観念法門﹄や、今触れました元照の﹃阿弥陀経 義疏﹂、それから玄英訳﹃称讃浄土仏掻受経﹄について は朱書ですけれども、丹念に引用されているのです。玄 英訳は、私の計算では表書に五文、裏書には三文、計八 文が朱で書かれています。そういたしますと、これは後 から書かれたものであろうと考えられます。﹃阿弥陀経 集註﹂は聖人の吉水時代に書かれたものと推定されてい

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ますから、後に朱書されているのが、はたしていつ頃か ということが問題になるわけです。そうではありますも の の 、 こ こ で は 聖 人 が 依 用 さ れ た 羅 什 訳 の ﹁ 阿 弥 陀 経 ﹂ ははっきり示されております。そして、それを私どもの 流布本や版本などと比較してみますと、また違うところ が あ り ま す 。 ここでも三つの例を挙げておきましたが、まず依報段 の中に、﹁雨天憂陀羅華﹂とあります。これは流布本で は﹁而雨量陀羅華﹂となっていますが、聖人の場合は ﹁雨天量陀羅華﹂です。そこで版本、敦埋本、石経、所 引本を調べてみますと、聖人と同じ読みが認められます。 版本︵ 6 ︶と記しておきましたように、六種の版本が ﹁ 雨 天 量 陀 羅 華 ﹂ と な っ て お り ま す 。 敦 憧 本 は 大 変 多 く 、 私が参照しただけでも百六十四点あります。それにトル ファン本が二十四点ありますから、写本だけでも現在の ところ百八十八点を数えます。それらに全部当たってみ ますと、敦憧本の一点だけが﹁雨天呈陀羅華﹂となって おります。石経は四種あり、その中の一つはまだ確認出 来ませんが、少なくとも一つの石経はやはり﹁雨天量陀 親鷺聖人と浄土三部経 羅華﹂とあります。それから所引本というのは、善導の ﹃法事讃﹂のほか幾つかの注釈書に引用されている﹃阿 弥陀経﹂の全文を指します。このうち明代の智旭﹃阿弥 陀経要解﹄の所引本を見ますと﹁雨天是陀羅華﹂になっ ていて、私どもの流布本とは異なっているのであります。 なお、六種の版本に入らないものとして、高麗版があり ますが、そこでは﹁天雨量陀羅華﹂、 つまり﹁雨﹂と ﹁天﹂がひっくり返っております。これは他に見られな い独自な読みであります。敦埠本とトルファン本をあわ せて百八十八点と申しましたが、そのうち、この文言が あ る 写 本 の ほ と ん ど す べ て は ﹁ 而 雨 量 陀 羅 華 ﹂ 、 つ ま り 今の流布本と同じであります。だから流布本の読み方も 決して由緒がないわけではないのですが、しかしここに ﹁而﹂という字があるのはどうも理解し難いのです。ち なみにサンスクリット本を参照してみますと、﹁天のマ ン ダ l ラ l ヴア華の花の雨が降る﹂となっていますから ﹁雨天呈陀羅華﹂の読み方が最も原典に即したものであ ろうと考えられます。その意味でも私どもが現在﹁而雨 長陀羅華﹂と読請しているのは、いかがなものかという 二 七 五

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親 鷲 聖 人 と 浄 土 コ 一 部 経 問 題 が 浮 か び 上 が っ て く る の で あ り ま す 。 次に、東方段の初めに聖人の書写本では﹁不可思議功 徳 之 利 ﹂ と あ り 、 ﹁ 之 利 ﹂ と い う 字 が 加 わ っ て お り ま す 。 これは今の流布本にはありません。しかし、﹁之利﹂の 字は五種の版本にありますし、敦憧本の四点、石経の一 つ、所引本の中でやはり智旭のものですが、同じように あります。もっとも、敦僅本の大多数は、流布本のよう に﹁之利﹂の字がありません。版本の中でも高麗版と宋 版 の 中 の 福 州 版 の 二 本 に は や は り ﹁ 之 利 ﹂ が あ り ま せ ん 。 し た が っ て 現 在 の 流 布 本 の 読 み も 根 拠 が あ る の で す が 、 一方では聖人の読みにも根拠があるわけで、どちらを選 ぶ か と い う こ と が こ こ で 問 わ れ る の で あ り ま す 。 もう一つ例として挙げましたのは、正宗分最後の釈迦 讃歎のところに﹁彼諸仏等亦称説我不可思議功徳﹂とあ る文の中に出てくる﹁亦称説我﹂であります。この文言 の﹁説﹂について聖人は﹁有る本には讃の字﹂というよ うに上欄に朱書しておられます。現在の流布本はどうか と言いますと、聖人と同じく﹁亦称説我﹂です。ところ が 版 本 を 見 ま す と 、 そ の う ち の 五 本 、 そ れ か ら 所 引 本 、 二 七 六 これも智旭のものですけれども、確かに﹁亦称讃我﹂に なっています。そうすると、ここで﹁有る本﹂というの は、この版本か所引本| l これらはもちろん聖人より後 代のものが多いわけですが、そうした系統の伝本をご覧 になったことが推定されます。ちなみに版本の中で高麗 版と福州版の二本、それに敦憧本のほとんどは今の流布 本と同じく﹁亦称説我﹂となっております。こういうよ うに幾つかの例を検討してみますと、親鷺聖人が依用さ れた﹁阿弥陀経﹄は私どもの現在用いている流布本と違 う面があることが知られると同時に、聖人が当時ご覧に なることができた伝本を常に参照されていたことも窺わ れ る の で あ り ま す 。 最後に﹁玄英訳の重用﹂についてでありますが、先程 ﹁ 集 註 ﹄ の 中 に 玄 英 訳 ﹃ 称 讃 浄 土 経 ﹄ の 文 を 朱 書 で い ろ い ろ 書 き 加 え て い る と い う こ と を 申 し ま し た 。 そ の 他 に 、 例 え ば ﹁ 浄 土 和 讃 ﹄ の ﹁ 小 経 讃 ﹂ で は 第 一 一 一 首 に ﹁ 十 方 恒 沙の諸仏は極難信ののりをとき﹂とありますが、これ は玄英訳の﹁世間極難信法﹂という語句に基づいたもの です。また﹁諸経讃﹂では第三首の﹁百千倶抵の劫をへ

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て弥陀をほめんになおつきじ﹂、これは完全に玄英訳 て百千倶肱のしたをいだししたごと無量のこえをし江戸時代の講者の中にも、これが﹃称讃浄土経﹂に基づ いたものと見ている方がおられます。確かにそういうふ の文によっておられるわけです。この文は玄英訳のみに あり、訳出に当たって付加されたものと思われます。と ころが、聖人はこの玄英訳の経文に非常に感銘を覚えら れたようでありまして、﹃浄土和讃﹂の高田専修寺の国 宝本では、その表紙見返しに﹁称讃浄土経言﹂としてこ の文を自ら書き加えておられます。同じ文が﹃入出二門 偏頒﹄の表紙見返しにも書かれています。それから﹁唯 信 紗 文 意 ﹂ や 、 ﹃ 浄 土 文 類 束 紗 ﹄ に は や は り ﹁ 極 難 信 法 ﹂ という言葉を引用されており、玄英訳を非常に重視され て い た こ と が 窺 わ れ ま す 。 ところが﹁教行信証﹄を見ますと、この玄英訳を引用 されることは全くありません。これは﹃阿弥陀経﹄につ いては異訳の玄英訳を引用する必要がなかったから、と も考えられるのですが、それにしても、﹃教行信証﹄に おいて全然言及がないのはいかなるわけか、どうも分か らないのです。ただ﹁証巻﹂に﹁雑染堪忍﹂という言葉 がありますが、これは玄英訳に出てまいります。すでに 親 鴛 聖 人 と 浄 土 三 部 経 うに見ることができそうです。この語は ﹃ 浄 土 文 類 緊 紗﹄にも用いられています。しかし聖人は﹃大経﹄の解 釈に当たって、新訳の﹃如来会﹄を重視されたように、 ﹁ 阿 弥 陀 経 ﹄ に つ い て 玄 英 訳 を 参 照 さ れ た と は 明 確 に は 言えないのであります。では﹃教行信証﹂をお書きにな った時に、玄英訳をご存じなかったかというと、そうで はないと思います。聖人に先立って法然上人が用いてお られますし、遡れば源信僧都も玄英訳を常に参照してお られます。それに﹃集註﹂や﹃教行信証﹄で引用されて いる元照の﹃阿弥陀経義疏﹄でも玄英訳に言及していま すから、聖人がご存じでなかったということは到底言え ないと思います。そこで問題になるのはこの﹁集註﹄に お い て ﹃ 称 讃 浄 土 経 ﹄ の 朱 書 が 、 い つ 頃 な さ れ た か と い うことです。もし吉水時代に朱書されたとするならば、 晩年になって玄英訳を重用されたことを比べてみますと、 その聞の時期、すなわち﹁教行信証﹄制作の頃がいわば ・ 空 白 に な り ま す 。 こ れ を ど う い う ふ う に 解 す べ き か と い 七 七

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親鷲聖人と浄土三部経 う問題が出てまいります。また、もしその朱書を晩年に なされたとすれば、ああいう細かな朱書を本当に晩年に なってお出来になったのかという問題も出てくるわけで あ り ま す 。 いずれにしましでも、聖人が晩年に玄英訳を重用され た こ と に つ い て は 、 一 つ の 大 き な テ i マであると言えま す。ご承知のように、﹁入出二門偶填﹄には旧訳の﹁天 親﹂は靴りで、新訳の﹁世親﹂が正しいとおっしゃって います。にもかかわらず﹁天親﹂をお使いになっている 場合もあります。それから﹁衆生﹂を﹁有情﹂に改めら れますけれども、実際には﹁衆生﹂もお使いになってお ります。そういうところもなお問題があるかと思います が、聖人が晩年になって新訳に対して深い関心を寄せら れたという事実、これとの関連で玄英訳の重用を考えて みる必要があると思われるのであります。 ﹂れでいただいた時聞が尽きました。以上大変雑駁で したけれども、﹁毅鷺聖人と浄土三部経﹂について、従 来あまり問題にされていなかったと思われる文献学的な 観点から、若干尋ねてみました。これまで申し上げたこ 七 J¥ とは解決していない点が多く、要するに問題点を提起さ せていただいたということでありまして、今後ご教授を 賜ればありがたく思う次第でございます。 ご 清 聴 あ り が と う ご ざ い ま し た 。

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親鷺聖人と浄土三部経︵配布プリント︶ は じ め に ・ ﹁ 浄 土 三 部 経 ﹂ | | 浄 土 三 経 ・ 三 経 ・ 三 部 経 ・ 一 二 部 経 典 土 一 一 部 経 の 成 立 問 題 | | ︿ 無 量 寿 経 ﹀ ︿ 阿 弥 陀 経 ﹀ と ﹃ 観 無 量 寿 経 ﹂ − 親 鴬 の 三 部 経 観 | | ﹁ 顕 彰 隠 密 ﹂ ︵ ﹃ 教 主 量 ﹄ ﹁ 化 身 土 巻 ﹂ ︶ ﹁ 隠 顕 ﹂ ︵ ﹃ 浄 土 文 類 衆 紗 ﹂ ︶ − 親 鷺 の = 一 部 経 千 部 読 諦 | | 建 保 二 年 ︵ 一 一 一 一 四 ︶ 、 ︿ 四 十 二 歳 ﹀ 、 佐 貫 で 千 部 読 諦 中 止 ︵ ﹃ 恵 信 尼 文 書 ﹂ ﹃ 口 伝 紗 ﹂ ︶ I ﹃無量寿経﹂ 1 ︿無量寿経﹀の諸異本 − サ ン ス ク リ ッ ト 本 | | め 岳

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同 宮 ︵ 極 楽 の 荘 厳 ︶ − 漢 訳 | | ① ﹃ 阿 弥 陀 三 耶 一 一 一 仏 薩 楼 仏 檀 過 度 人 道 経 ﹄ ︵ ﹃ 大 阿 弥 陀 経 ﹄ ︶ ︿ 支 謙 訳 、 二 一 一 一 一 l 二 五 三 年 ﹀ ② ﹃ 無 量 清 浄 平 等 覚 経 ﹄ ︿ 支 婁 迦 識 訳 ? 自 巾 延 ︵ ま た は 白 延 ︶ 訳 、 二 五 八 年 頃 ﹀ ③ ﹃ 無 量 寿 経 ﹂ ︿ 康 僧 鎧 訳 ? 仏 陀 駿 陀 羅 ・ 宝 雲 共 訳 、 四 一 二 年 ﹀ ④ ﹃ 無 量 寿 知 来 会 ﹄ ︿ 菩 提 流 志 訳 、 七 O 六 l 七 一 一 一 一 年 ﹀ ⑤ ﹃ 大 乗 無 量 寿 荘 厳 経 ﹄ ︿ 法 賢 訳 、 九 九 一 年 ﹀ ⑥新出漢訳断片︿トルファン出土、イスタンプ I ル 大 学 図 書 館 所 蔵 、 五 世 紀 半 ば l 六 世 紀 末 ﹀ − チ ベ ッ ト 訳 | | ﹃ 聖 な る 、 無 量 光 の 荘 厳 と 名 づ け ら れ る 大 乗 経 ﹂ ︿ 九 世 紀 初 ﹀ − そ の 他 | | コ l タン語訳、ウイグル語訳、西夏語訳、モンゴル訳、満洲語訳 親鷲聖人と浄土三部経 七 九

(25)

親鴛聖人と浄土三部経 j\

2 親鷺と漢訳諸本 経 題

大i諸

i

無 仏

i

量 阿 寿 弥 経 陀

長 部

僧 ニL 組 仏

仏 ④ 檀 〈 過 菩 度 提 人 流 道 支

i

経 訳 』

訳 ② 吊 延 訳 − 引 用 文 | | ① の 多 用 、 ﹃ 教 行 信 証 ﹄ ︵ 全 六 巻 ︶ 正 引 四 十 一 回 、 ④ の 重 用 、 ⑤ は 不 引 − 親 驚 依 用 の ﹃ 大 経 ﹄ | | 流 布 本 ・ 版 本 等 と の 異 同 ︵例︶﹁知明館前﹂︿附河川︶詞持労 1 ︶ 、 石 経 ︵ 1 ︶ は 同 じ 流 布 本 は 同 じ ﹁ 無 蓋 大 悲 ﹂ ︿ 版 本 ︵ 7 ︶ 、 建 仁 四 年 ︵ 二 一 O 四 ︶ 版 は ﹁ 無 尽 大 悲 ﹂ 流 布 本 ︿ 大 谷 派 ・ 高 田 派 ﹀ 、 版 本 ︵ 6 ︶ 、 敦 憧 本 ︵ 1 ︶ 、 石 経 ︵ 1 ︶ は 同 じ ﹁ 広 度 生 死 流 ﹂ ︿ 流 布 本 ︿ 本 願 寺 派 ・ 浄 土 宗 ﹀ 、 版 本 ︵ 高 麗 版 ︶ は ﹁ 広 済 生 死 流 ﹂ E ﹃ 観 無 量 寿 経 ﹄ 1 ﹃ 観 経 ﹄ と 重 訳 ・ 漢 訳 | | ﹃ 観 無 量 寿 経 ﹂ ︿ 重 良 耶 舎 訳 、 四 二 四 ︵ ま た は 四 三 O ︶ l 四 回 二 年 ﹀ − ウ イ グ ル 語 訳 | | 断 片 三 種 ︿ ト ル フ ァ ン 出 土 、 九 l 十 四 世 紀 ﹀ ︹ 亘 良 耶 舎 訳 か ら の 重 訳 ︺ −成立問題||インド成立への疑問・中央アジア撰述説・中国撰述説 2 親 鴛 と ﹁ 観 経 ﹄ − 引 用 文 | | ﹃ 教

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同 証 ﹂ ﹁ 信 巻 ﹂ ﹁ 化 身 土 巻 ﹂ 正 引 三 回 ﹃ 観 加 熱 量 寿 経 集 註 ﹂ | | 流 布 本 ・ 版 本 等 と の 異 同

(26)

︵例︶﹁仏童書館経﹂︵﹁︹或本︺有似字﹂上欄朱書︶︿部材ば説明量寿経﹂ ︹ ﹃ 教 行 信 証 ﹄ 等 で は ﹁ 無 量 寿 仏 観 経 ﹂ ︺ ﹁ 首 材 一 可 作 是 観 者 名 為 正 観 者 他 観 者 名 為 邪 観 ﹂ ︵ 上 欄 朱 書 ︶ ︹ 初 観 ︺ ︿ 流 布 本 は な し 版 本 ︵ 高 麗 版 ︶ は 同 じ ﹁ 雑 郷 郵 ﹂ ︹ 第 十 三 観 ︺ ︿ 流 布 本 ︿ 本 願 寺 派 ・ 高 田 派 ・ 浄 土 宗 ﹀ 、 版 本 ︵ 7 ︶ 、 敦 偉 本 ︵ 5 ︶ 、 石 経 ︵ 1 ︶ は 同 じ 流 布 本 ︿ 大 谷 派 ﹀ 、 敦 埋 本 ︵ 日 比 ︶ は ﹁ 雑 観 想 ﹂ III ﹁阿弥陀経﹂ 1 ︿阿弥陀経﹀の諸異本 − サ ン ス ク リ ッ ト 本 1 1 悉曇本

E

F雪

印 ヨ

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− 漢 訳

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i

① ﹃ 阿 弥 陀 経 ﹄ ︿ 鳩 摩 羅 什 訳 、 四 O 二 年 ﹀ ② ﹃ 称 讃 浄 土 仏 摂 受 経 ﹄ ︿ 玄 英 訳 、 六 五 O 年 ﹀ − チ ベ ッ ト 訳 1 1 4 ﹃ 聖 な る 、 極 楽 の 荘 厳 と 名 づ け ら れ る 大 乗 経 ﹂ ︿ 九 世 紀 初 ﹀ − そ の 他 | | ウ イ グ ル 語 訳 、 西 夏 語 訳 、 モ ン ゴ ル 語 訳 、 満 洲 語 訳 2 親 鷺 と ﹃ 小 経 ﹂ − 引 用 文 | | ﹃ 教 行 信 証 ﹄ ﹁ 化 身 土 巻 ﹂ 正 引 一 回 、 ほ か に ﹁ 多 善 根 多 功 徳 多 福 徳 因 縁 ﹂ ︵ 裏 陽 石 経 ︶ を 引 用 ・ ﹃ 阿 弥 陀 経 集 註 ﹄ | | 流 布 本 ・ 版 本 等 と の 異 同 流 布 本 は ﹁ 而 雨 量 陀 羅 華 ﹂ ︵ 例 ︶ ﹁ 雨 天 憂 陀 緩 華 ﹂ ︿ 版 本 ︵ 6 ︶ 、 敦 僅 本 ︵ 1 ︶ 、 石 経 ︵ 1 ︶ 、 所 引 本 ︵ 1 ︶ は 同 じ 親 驚 聖 人 と 浄 土 コ 一 部 経 J¥

(27)

親 鴛 聖 人 と 浄 土 コ 一 部 経 ﹁ 不 可 思 議 功 徳 お 利 ﹂ ︿ 流 布 本 は ﹁ 之 利 ﹂ な し 版 本 ︵ 5 ︶ 、 敦 埠 本 ︵ 4 ︶ 、 石 経 ︵ 1 ︶ 、 所 引 本 ︵ 1 ︶ は 同 じ ﹁ 亦 称 部 我 ﹂ ︵ ﹁ 有 本 識 字 ﹂ 上 欄 朱 書 ︶ ︿ 流 布 本 は 同 じ 版 本 ︵ 5 ︶ 、 所 引 本 ︵ 1 ︶ は ﹁ 亦 称 讃 我 ﹂ − 玄 英 訳 の 重 用 | | ﹃ 浄 土 和 讃 ﹄ ﹃ 入 出 二 門 偏 頒 ﹂ ﹃ 唯 信 紗 文 意 ﹂ ﹃ 浄 土 文 類 衆 紗 ﹄ た だ し ﹃ 教 行 信 証 ﹂ に 一 言 及 な し ︵ ﹁ 証 巻 ﹂ の ﹁ 雑 染 堪 忍 ﹂ ? ︶ J¥

参照

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