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幻住庵記と嵯峨日記

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公卿 加味して、この頃左大臣であった人は補任により実頼が天 暦元年四月廿六日から康保四年十二月十三日左大臣となる 正云うのを見お事が出来るので乙の間に交際があったもの と 解 し た い 。 相思に関して本家集で、 ゴ一条のおほびまうち君の賀権中納言のつかうまつれる拝 風の絵に花見て帰る所︹二

O

七 六 七 ︺ の歌は詞花集で﹁三条太政大臣賀の

ll

﹂とゐり風雅集で ﹁ 康 義 公 費 志 け る

ll

﹂によりて詞書に表記された人物が 同一人と思われる。諸資料によれば頼忠の誼が廉義公、号 が一二条太政大臣と云うのが分った。では頼忠のこの時の賀 は何才であったろうか、官名の表記の低いと考えられる本 家集の詞書から考えると、大臣となったのは天時二年十一 月二日任右大臣一路以后となるだろう。天時四年に五十を 迎える利忠は一簡によれば乙の年五月に﹁資五十算﹂と云 う記事が見えているのでこの五十の賀を詠んだものと考え 4 − 、 ‘ ハ ︾ み jlu 師輔の本家集に関係する歌は、 坊城の右のおばひ殿の五十賀中宮し給ふ、村上先帝のめ 一 し た る ︹ 一 一

O

八 二 五 ︺ の一首である。坊域の右 D 大臣とは諸資料とも師輔でゐ る。乙白人の五十と云うのは駒山一で天徳元年である。この 年正月十四日に賀を行つた記事が山一一議一蹴等に見えている のでこの時の歌詠でゐる事は充分うな守つけよう。 師輔の子で兼通については、 堀川中納言の韻のふたぎの所めしたりけるに︹ニ

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八八 七 ︺ が見える。間んによれば兼通は﹁堀川股﹂と号していた。 差禁中納言であったのは献酬で天禄三年二月廿九日から 同年十一月廿七日までで、その聞の歌詠と思われる。 以上家集を基礎資料として中務の伝記の考察を歌の制作 年時から併せてながめてみたわけである。 註・引削歌は国歌大観及び続国歌大観の呑号のみで掲げ た 。

幻往庵記と嵯峨日記

芭蕉は武士の出ではあったが、その世界を捨て﹀庶民と 共に生活をした。芭蕉自身僧形であったが、隠者、漂泊者 の生活をしていた。それで芭蕉を一般に自然の詩人、ある いは閑寂の詩人とも言っている。然し、それと同時に芭蕉

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はいわば人情の詩人ででもゐった。それは芭蕉が常に人聞 を、生活を、人生を考えている人だという事である。芭蕉 に於ては白然の風詠も、歌枕への執蒼も古人への追慕も芭 蕉の生活態度の重要な一商でゐる ζ とは、すでによく認め られているところであるが、そうした面が俳文﹁幻叫庵 記﹂や﹁嵯峨日記﹂にも現われていることは骨一口うまでもな い。それ故に芭蕉作品中、日記、紀行を除いて最も傑作と いわれている﹁幻性庵記﹂と芭蕉唯一の日記でゐる﹁嵯峨 日記﹂を比較することにより芭蕉のかくされた一部分でも 指摘出来たらと忠うのである。先ず、作品自体の分析を行 小つ﹀、作者の生活態度及び、心境、思想に如何なる相違 があるか‘比較対照し精査して行きにい。﹁幻住府記﹂と ﹁嵯峨日記﹂の作品の特色や性格を知るために、これらの 作品が草庵生活に於ての執筆であるという意味においては 同質的なものでゐりながら、それにも拘わらず、生活態 度、心境に於て異質的なものがあるということに着目して 行 き た い 。 ︵ 一 ︶ ﹁幻佐庵記﹂の本文については所伝が多く最近初案、再 案、成案の過程中に四種ゐることが認められている。こ﹀ に取上げるのは、文章、構造共に整い一一般に決定稿と注れ ている﹁猿蓑﹂所収のもので本文引用及び書簡呑号は、日 本 古 典 文 学 大 系 羽 ﹁ 芭 蕉 文 集 ﹂ 皆 同 市 一 ト 柑 一 一 一 服 校 、 正 に よ る Q ﹁幻住庵記﹂の成稿年共は﹁芭蕉俳文集﹂︵阿部喜三男著︶ 所収真跡︵﹁芭蕉附録﹂所収︶により文末に﹁元禄三仲秋日 芭蕉白書﹂とゐりまた去来宛芭蕉書簡制などから考証して 元禄三年八月とする Q 元禄二年暮春、当時必才の芭蕉は門 人曽良を随加えて、前後六カ月にわたる東北への旅に出て同 年九月奥の細道の旅を終えたが、なお中間、四国首九州へ の行脚をするつもりであったらしい。しかし奥の細道の長 途の旅の疲れと健康の衰えは、その行脚をは Y んだ。当時 の彼の書簡を見ても明らかなように、しきりに﹁残生﹂の 言葉を使っている。健康の衰えを感じた所以であろう。 ζ うしてやむなく元禄三年四月訂才で門人的翠の提供による 幻位庵に入庵したのでゐった。そして半年も住まずして、 同年八月彼の肉体の不調等で幻佐庵をすて﹀、粟津義仲寺 へ 移 っ た の で あ る 。 ﹁暁峨日記﹂は言うまでもなく、元禄四年四月十八日か ら、同年五月四日まで、門人去来の別壁、嵯峨の落柿舎に 滞在していた実聞の日記である。芭蕉一代の中で日記とい う日記はこの﹁嵯峨日記﹂のみである。しかし芭蕉が当時 日記をつけていた事や記す文は見えず、﹁嵯峨日記﹂も仔 細にこれを見れば、芭蕉がこれを一個の文芸作品として完 成しようとしたものであることがはっきり判り、決して単 なる共日、共日の備忘的目録の偶然残ったものではない。 即ち、芭蕉には普通の意味にいう日記は一つも伝わってい

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-10-ないのであり‘純粋な文芸作品としての意図をもった﹁嵯 峨日記﹂という作品があるのみである。しかし﹁嵯峨日 記﹂が明らかに文芸作品としての意図必もって書かれたと はいうもの﹀、作者が意識して書いた筆の中にも真の作者 の性格、思想、人間性というものが伺えると思うし、叉、 案外意識せずに筆をすべらした所もあるのではないかと思 い、そういう所に重点をおき論をす﹀めたい。 ︵ 一 一 ︶ 芭蕉の作品を読み感得出来ることは、彼の作口聞に漢土の 影響左、また我国先行の旅の詩人、西行ゃ、長明、宗祇、 心敬等の如き代表的な作家の作品及び、思想の影響のある ζ と で あ る 。 ζ 白﹁幻杭庵記﹂も去来宛書簡叫︵元禄三年 七 ・ 八 月 頃 筆 ︶ に ﹁ 長 明 方 丈 の 記 を 読 ︵ む ︶ : : : ﹂ と あ り 芭 蕉が﹁幻住庵記﹂の執筆にあたり長明の﹁方丈記﹂を胸裏 に持っていたことは想像にかたくない。そ ζ で ﹁ 方 丈 記 ﹂ と﹁幻住府記﹂を対比しつ﹀どの椋度の影響、暗示を受け たか、重要と思われる構成の面を主に比較してみたい。先 ず、入庵以前の両者の人生体験も長明が生きた時代が、日 本時史の上で古代から中世への移りという大きな歴史の転 換期に生き、そうした社会的、自然的に不安定な時代を身 を以て休験し、しかもその生涯のよりどころが日野外山白 方丈庵という隠遁の生活であり、波澗多き六十年間の自己 の生涯の悶顕であるのに比し、芭蕉のそれは、青年時代か ら遊蕩気味のあったことも推定され、主君の死等にも直面 し、放浪難苦の時代もあったが.芭蕉の生きた寛文から元 禄の時代は一雪一口で言えば町人の時代であり、戦もなく世は 全く平安であった。それで社会的、自然的条件に於ては長 明ほどでもなかった。両作品に於て言えることは、短編で はあるが構造が極めて整然としており、しかも全体が明確 に意図された構成でなされて、その主題も﹁方丈記﹂に於 ては﹁無常の世にいかに生くべきかの人生記録﹂であり、 ﹁幻住麿記﹂は﹁さびを愛し、身の無能無才をなげきなが らも、風雅一すじに生きた﹂自己の反省である。構成に於 ては、両作品共、五段に分ける乙とが出来るが、構成田に 於ては、部分的には似ていてもほとんど﹁方丈記﹂の手法 は模倣しておらず芭蕉は彼独特な要を得た手法で論を進め ている。そこで﹁方丈記﹂の前半の天変地異に関する項は 略し、重要と思われる庵生活と芭蕉の﹁幻住庵記﹂を比較 し、その内容を精査してみたい。入庵当初の年令及び、草 庵の状態を見ると、﹁方丈記﹂に於ては、﹁六十の露消え がたに及び﹂てであり、その心境も﹁いは Y 旅人 D 一 夜 の 宿をつくり、老︵い︶たる蚕の繭を営むが如し﹂であり、 庵のありさまも﹁よ D つねにも似ず、広きはわずかに方 丈、高さは七尺がうちなり﹂とあり、﹁幻住庵記﹂に於て は﹁五十年や﹀ちかき身﹂で入庵し、草庵の有様も﹁根笹 軒をか乙み屋ねもり壁落て狐狸ふしどを得たり﹂という状 - 11ー

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態で、その心境も﹁や﹀病身人に倦て、世をいとびし人に 似たり﹂で両者宍晩年にいたりしばしの老後の住居、それ も位問普通の家とは似ても似つかない簡易な草庵住いでゐ る。弐に草庵ぞ囲む北大景は﹁幻住府記﹂は﹁つ﹀じ咲残り 山藤松に懸て:・小田に早苗とる歌、蛍飛かふタ聞の空に 水鶏の初出﹂など﹁美景物としてたらずと云事なし︶でゐ る。それは民共にわたる旅の実践を通して白然を探り、そ の美に酔い在じていこうとした貞享期の風狂的態度を止揚 して、今、こ﹀に求道苫にも似た一種宗教態度を以て自然 の水速の生命に帰入合二ヨるところに一つの到達点を見出 ハ 沖 1 ﹀ 1

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ん と し つ J ﹀ゐったのである。一方﹁方丈記﹂は胞の問問 の同季折々の情趣必述べ﹁春は藤波を見吋?:・:支は、郭公 今回一く:::秋はひぐらしの戸、耳に満てり:・冬は雪をゐ はれぷ:・﹂として、﹁幻住庵記﹂とは全く趣を具にし、 乙の四季折々の情趣を描いたところは、仏教徒の目に映る 自然のみごとな描写といえる。それは自然愛釘の心と修道 者の心が閑かな白然の美的情趣への陶酔によって立派な融 ハ 注 2 U A 円をなしとげているのである。 次に賂での生活状態は、幻佐曜に於ては多少﹁軒端茨ゐ らため、垣ね結添などした﹂けれども家の円部は﹁一炉心 備へ﹂という杭態で調度品とてもないわびた生活でゐる ω 乙の生活で唯一の者りといえば一向良山の僧正から書いても らった﹁幻杭庵﹂の矧ぐらいなもので何の器物もなく﹁木 曽の檎笠、越の背斐計枕の上の桂﹂にかけてあるという賃 僧の山荘生活である。﹁方丈記﹂は﹁阿掬陀の絵像、普 賢、法花経﹂を置き﹁和歌、官絃、往生要集﹂や、﹁琴、 警琶﹂。守立て\遁世者としでの閑居生活の中に自ら否定 し去ったはずの俗世的な、あるいは貴族的な生活様式を混 入念せていることは、多くの論者も指摘しているようであ るが、これを宗教的な立場から見る時は不徹底なことはま ぬがれ持ない。裂なるべち方丈庵に貴族的な教委を保持し 続けていた事は長明が芸術的心の持主であり、仏道修業者 としての面と芸術家としての固とが共存していることに相 応するのでゐる υ やがてその関知生活の状態も峰に登り、 故旦の空をのぞみすでに捨てたはず白部を但しみ﹁蝉歌の 翁がゐとをとぶらひ﹂﹁猿丸太夫が基﹂や訪ねたりで修道 生活からはほとんどはずれてしまっているようでゐる。そ の結果﹁山中の景気尽くる事なし﹂である。今までの苦し かった都の生活はすでにこ﹀にはなく﹁身を知り、世を知 れ﹀ば願はず走ら、ず、たゾしづかなるを望︵み︶とし憂へ 無きぞ楽しみとす﹂であり、方丈生活の一つの結論ともい え る ο この関屈の気味も﹁住まずして誰かさとらむ﹂と自 信をもって言っている。都の生活とこの草庵生活を比較 し、この草庵生活がよ∼り純粋に貴族的な風雅世界を享受出 来るそういった楽しみの心境を述べているのだと思う。一 方﹁幻柏崎記﹂は人間嫌いをして入庵したもの\さすが

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-にその裏には常に人恋しさ、泉恋しさがあったようでみの る。たとえば﹁三上山は士峯の悌にかよひて、武蔵野の占 き栖﹂も思い出され、﹁王翁、除佳﹂の真似はしても、実 生活たるや﹁とく/\の雫を位て一炉の備へ﹂という何の 調度品とてもない荒涼たる生活である。たまたま訪れてく ︵ 手 ︶ ︵ ゐ υ る﹁宮守の翁、里のおのこ﹂と﹁いのししの稲くびゐら し、兎の一足畑にかよふなど我開しらぬ農談﹂にうさを慰め ることはゐっても、夜はびとり月に向って冥想に心をこら すのである。幻住躍での生活は仏教的な支桂を捨てた芭駕 が風雅に生きようとする生活を見出し、安住の地在見出し ているようである。以上のように両者間における生活態度 に大きな隔たりを認めることが出来る。最後に人生、処世 観についてみるに﹁方丈記﹂は今まで長明が、・日由な気持 で仏徒の生活を行い、自由な気持で風雅に親しむ事が出 来、いわば孤独な方丈庵生活を﹁閑尉の気味住まずして融 か悟らな﹂と楽しく安住していたのであるが、やがてその ような風雅に執着すること自体が往生の障害となることを ・自覚するに到るのである。﹁今‘草踏を愛するも L しがと す、閑寂に著するもさはりなるべし﹂という閑屈生活を反 省 し 、

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面から対決するのである。この閑話生活、換言す れば独居の楽しみは、長明にとって再び苦悩に逆転するの であった。ついに﹁しづかなる暁、このことわりを思ひっ Y けて:::すがたは聖人にて、心は濁りに染めり﹂と以下 強烈な内的葛藤が展開される。姿は出家でゐりながら内心 ハ 注 3 U は濁世への執心をたち、されぬという自己矛盾がえぐり出さ れ、それは避けてとおる事の出来ない内心への深刻な問責

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なり彼に解決を迫るのでゐる Q この却しい自己追究の結 果﹁不請︵の︶阿掬陀仏、岡三編中︵し︶てやみぬ﹂と絶 句するところに終る。一方﹁幻住暗記﹂は﹁かりそめに入 し山のやがて出じとさへおもびそみぬ﹂と固い決心をしな がらも﹁かくいへばとて、びたぶるに閑寂を好み、山野に 跡をかくさむとにはあらず﹂といわば﹁病身人に倦て、世 をいとひし人に似たり﹂とそれは俗世間を憂しとするので みつて、こういう閑居生活をいつまでも続けようとするの ではない。こ﹀で芭蕉が﹁ひたぶるに関寂を好む﹂のでは ないとはいうもの﹀、この会構成からしてさびを愛すると い う

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老年的性格とした方が良いかも知れぬがーその気持 が現われているの勺ゐる。叉、白諒一小が過去五十年間を反省 し、我が身の五らない失敗を反省し、ある時は﹁仕官懸命 の地﹂を得たいと思ったのである。それは、彼が武士の出 でゐるという事からすれば当然な事でゐるが、彼が文芸に よって身を立てるべく決意し、行動したという事実こそ尊 いものであり、中世以来こ﹀に始めて実行主れたのでゐ る。叉、ある時は﹁仏能川室ヘ入らむとせしも﹂と述憎し ているように、すでに武家及び町人によってリードされる 封建社会と訣別し、孤独と窮之の中に活路や求めた芭蕉 - 13

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-は、当然おのれの内なる人間性とも対決せざるをえなかっ た。世にそむいた上に、おのれの情欲と対決するその困難 さがそのように彼を仏門へい、ぎなったのである。しかし彼 は詩人であることを放棄することが出来なかった。﹁風雲 に身をせめ、花鳥に情を労して暫く生涯のはかり事とさへ なれば、終に無能無才にして比一筋につながる﹂と芭蕉が 身の無能無才をなげきながらも、向、ゃみがたい風雅に生 き、人生の道必見出すに至ったことは、俳譜に生きること にすべてを賭け、人間嫌いをして、乞食同然の行脚を続 け、その生活の中に自然を追求してきたこれまでの求道者 的実践の結果だと思う。次に人生観についてみるに一賢愚

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文質のびとしからざるも、いづれか幻の栖ならずや﹂とい うこのところに芭蕉の言わんとする人生観があるのだと思 う。いわば人生はどこも幻の栖の如くはかないものであ る。彼が幻住躍での生活で到達したものは、自然と交感合 一し、自然によって自己の人生を象徴するといった一種独 自な表現法をこ﹀に完成したのでゐる。このように見てく ると、長明が遁世者としての閑閉店生活に徹しきれぬ有様で あったのに比し芭蕉のそれはさびを愛し寂しきそのもの﹀ 意味ぞ生かしている事が感得出来、風雅一筋に生きて来た 芭蕉の徹底した生活態度が感じられる。 ﹁方丈記﹂と﹁幻住庵記﹂は構成の上でわずかに共通点を 認めるが、その根本的な問題である生活態度や人生観に至 つては、非常な隔たりがゐる。従って両者の関係は比較的 に外部商にわずかの影響左受け、その根本的な内面的な事 に関しては、余り深く影響は受けていない。従って﹁幻住 庵記﹂は彼独自の要を得た構成法であったということが出 来 る 。 国 ﹁嵯情日記﹂は﹁幻住庵記﹂のように先縦の文学を心に もって推織に苦心を要した作品ではない。この日記は、芭 蕉が思うま h をくつろいだ態度で書き記して推敵ぞ重ねた というだけに興味深いものを含んでいる。それは、芭焦の 人間的、人情的友温かさを感ずると同時に白蕉の真の姿を 見出す事が出来る。この落柿令は、去来の提供によるもの であるが、一芭蕉が入庵した当時は、相当に住み荒していた らしく﹁落柿合ノ記﹂には、﹁五月雨漏尽して畳障子かびく さく、打臥処もいと不自由﹂とあるけれども、それでも幻 性庵などとは比較にならず、その昔は日記にもゐる如く ﹁彫せし梁、一四ル畔己もあったらしく、今はそれも風に破 れ、雨にぬれて、﹁奇石怪松﹂も葎の下にかくれてしまっ ている。しかし芭蕉は﹁中々に作みがかれたる昔のさまよ り、今のあはれなるさまこそ心と

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まれ﹂といい、この頚 破した家ら去来は﹁障子つ Y く三り葎引かなぐり﹂して暫く 住民にしたのである。なお生活に必要な調度品等も幻刊庵 での﹁一炉の備﹂という簡易なものではなく、乙の落柿合

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-では、﹁抗一、硯、文庫、白氏集、本朝一人一首、世継物 語、源氏物語、土佐日記::﹂を置き﹁

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の菓子: ・:名酒一査盃を添﹂え﹁夜の会、調菜の物共:・:乏しから ず﹂と芭蕉自身﹁我貧賎をわすれて清閑ニ楽﹂といってい るのも彼にしてみれば最もなことであろう。叉、この日記 を読み感得出来るととは、庵生一活に於て非常に門人達との 交際が烈しく行われたということでゐる。乙れは幻快庵で 時たま村人達との由民談で過す生活とは少し違っているよう に思う。叉、興味がわけば句を作り、天気の良い日には附 近の寺院に詣で﹀、名所旧跡を廻ったりして古を懐しむと いった具合に庵の生活は淋しいと一=守ノよりは、むしろ賑や かでさえあった Q しかし時たま﹁人不来、終日得閑﹂とい うこともあり、叉﹁昼伏たれば、夜も寝られぬ﹂時もあ り、そういう時は﹁幻住庵﹂で書き捨℃た﹁反古を苓出し て清書﹂するのであった。いまこの日記で注意すべきは、 廿二日と廿八日の条であろう。まず廿二日の条必見円心と芭 蕉の閑屈生活についての考えが伺える。本文を引用してみ 岬 O L ﹂ ﹁けふは人もなく、さびし主ま﹀にむだ書してめそぷ 0 4 4れことば、喪に居る者は悲をあるじとし、酒令飲ものは 楽ゆそあるじとす。﹁会びしさなくばうからまし﹂と同上 人のよみ侍るは、さびしさをあるじなるべし。古人、よめ 4 0

山里に乙は叉誰ぞよぶ乙烏独すま h u とおもひしものを 砂住民山小ザいいろきはない ο 長暗隠士の日、﹁容は半日 の閑を得れば、ゐるじは半日の閑をうしなふ﹂と。素堂 比 一 言 葉 を 常 に あ は れ ぷ 。 予 も 叉 、 うき我をきびしがらせよかんこどり と は あ る 寺 に 独 居 て 一 五 し 旬 、 な り : : : ﹂

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こ L で重要なことは﹁独性ほどおもしろきはなし﹂とい う 一 言 葉 で あ る 。 芭 蕉 は 西 行 や 長 晴 子 治 ︸ 引 L U 合いに出して、 自らもその先輩達と同じく、独出の閑寂を士号ぶ気持を述べ たものと思われる。しかしよく考えてみると、芭蕉の寂び を楽しむ心と回行や長晴子のそれは、多少開ちがあるよう に思われる。そこでこ﹀に引かれた西行の歌を検討してみ る ム ﹄ 、 - 15 -山県一にこは叉散をよぷこ烏独すまむとおもひしものを とふ人も思び絶えたる山虫のさびしさなくば住みうか 戸 川 ノ 古 山 Y U 主 ﹂ ゐ る 、 こ﹀でいう西行のむびし

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は、そのきびしさにす がりつこうとする心である。身は出家しているけれども心 の底には詩人的な人間愛が動いており、悩み多い世をのが れて憂いを忘れようとする閑屈生活でゐり、隠活である。 それに比べると、芭蕉のそれはさほどに世ゃいとう気持は なく、﹁や﹀病身人に倦て、世をいとびし人に似たり﹂と いう程度で芭蕉は世捨人になる気持は少しもないのでゐ

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I る。だから芭蕉はわ、さん

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﹁ 似 た り ﹂ と い う 一 = 円 棄 を 用 い て 自己の生活を表現したのである ο それは﹁独住ほとおもし ろ主はなし﹂といっているように世の憂や悩みぞ忘れる為 ではなく、積極的に寂びを愛し、印刷雅に徹しようとする心 でゐる。長附子のそれは、煩わしい程に賑やかな生活から 退いて林泉の静寂を愛した貴族趣味の変形に近いのでゐ る。それに比すと、芭蕉にはそうした豊か

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はなく、積極 的に寂びを愛するといったいわばヨびた世凶作でゐる。+引に 廿八日の条は、世?に門入社国を見て、その薄命に涙を流し たのでみのる。こ﹀には芭蕉の燃えるような子弟愛、陥別言す れば、彼の胸一義にある人間愛のゐらわれだと思われる。周 知の文章であるが引用してみると、 ﹁古?に社国が事をいひ出して、沸泣して覚ム。心神相交 時は夢をなす。:::我に士山深く伊陽旧里迄したび来り て、夜ば床を同じう起臥、行脚の労をともにたすけて、 百臼が程かげの

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く に と も な ふ 。 あ る 時 は た は い ぶ れ 、 ゐる時は悲しび、共士山我心裏に染て、忘る﹀事なければ なるべし。覚て叉扶をしぼる。﹂ このように杜国に対しての信望が厚かっただけに、その 死が芭蕉をより悲しませたのでゐる。芭蕉の子弟に対する 切々たる愛情が遺憾なく表現されていると思う。このよう な情熱的なまでの子弟愛が胸裏にゐるからこそ、多くの門 人遠からも慕われ、尊敬されたのでゐる。この条は子弟愛 の悩湖、いいかえれば芭蕉の胸裏にゐる人間愛、即ち、古 の人間性のゐらわれとみてよいと思 P 7 0 結び ﹁幻性庵記﹂と﹁嵯峨日記﹂は共に臼廷の草庵関屈の折 に執沼・芯れたものでゐり、草庵住いという点においては同 質的なものでありながら、草胞での生活態度及び、心境、 思想に於ては趣の違いを見出す。﹁幻性一暗記﹂に於ては、 簡宗な生活の中にひたすらに寂びを愛し、過去五十年間の 自己を反省じ、無能無才を歎きながらも俳講一筋に生き、 そこに安住の境地在見出したのでゐる。要するに、﹁幻怯 庵記﹂は﹁奥の細道﹂の長い旅の疲れと病弱の身を詫’ 7 た めに、仮の庵に一時的に身を詑し、一方には風雅に身をせ めながらも、一方には﹁いつれか幻の栖ならずや﹂という 人生観に到達することによって、五日と五日が心を慰めている も の で ゐ る 。 それに対して﹁嵯峨日記 1一は、その文章は日記形態で簡 潔ではゐるが、独屈をよろこび、寂びに徹しようとする

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駕の積倒的な態度の現れと、芭蕉の人間愛が最もよく現わ されているものでゐる。﹁時峨日記﹂を読んではじめて出 蕉の真実な人間性に触れることが出来るように思われる。 そして芭蕉という人間性にいよ/\魅力を感じるようにな る。それは彼が十一夜間的には病弱で涙もろく、何かたよりな さを感じ合せるようでゐりながら、自己及び、自己芸術に 16

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-対しては厳しく批判して、一日として精進を休めることの ないのに、他の人に対しては、非常に愛情深く、何事も積 極的に指導するとともにその人間性を喜び、愛していこう とする真撃な態度に心をびかれるからであると思う。 注 1 尾形働著﹁芭蕉とその門流﹂岩波講座 注 2 畠倉徳次郎著﹁万丈記詳解﹂有精宝 注 3 ﹁方丈記と徒然草﹂氷積安川著

西鶴文学に於ける

リアリズ

ムの限界

! 日 本 永 代 蔵 を 中 心 と し て | 同文専攻四年九弓

Jj_J.三 日也と 子 序 論 西鶴が生きた時代、寛永末から元日開初年まで、十七世紀 中頃から半世紀は、中央集権的封建制度の完成矧でゐると 共にその反対勢力ともいうべ色町人階級の掩同期でもゐっ た。慶長十七年の鎖国令、寛永十二年に於ける参親交代制 の確立など、対外的対内的な中央集権の為の新制度はさて おき、世襲を建前とする身分制度と家族制度を確立し、個 人の価値や尊厳や自由はもとより、人同性をも能 pコ限り否 酬欄閉店司圃 認して、秩序を保とうとする封建的支配隷属の関係を整備 して、自由に仲びようとする被支配階級をしめゐげた事は まさしく中世の分権時代に見られないこの時代の悲劇的な 特色でゐった。 人間の力の認められぬ所に、心の白由。虐げられる所に 発展も創立もゐり得るはずはない。このよ︶な陪問の袋小 路をった︶故げて新しい人間、即ち近世叫人は生まれ山内たの でゐる。はじめて己れ述の為の新しい附史の搾台にな場し て来た彼等町人にとっては、ト

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い 中 叶 一 の 凶 羽 目 的 な 物 の 出 川 十 々 を払いすて、訴しい白山な物の見方を身につける、そ

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為 には大切な芸分となる生ちた知識を我が物とするという仕 事が緊念の課題となって来ていたのでめった。 内 裏 様 の と て ほ か に な し 今 日 の 月 間 的 というような平等の主阪と抵抗の意識守政した川人俳詰の 成立、ひいてはそういう意識や主張守随所に露出している 問脱文学の武士は以ヒのような近世前矧の政治、経一併的な いし思想的諸条件を前提としてのみ正しく川解しうるでゐ ろ う 。

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ー 文学が新しい町人の為の文学である為にはそれが他の誰 のでもない、町人自身の生活のあるがま﹀の再現で 3 の る 事 が紫ましい。そこで前時代から残

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れ て 米 た 古 典 ゃ 、 ト 口 説 話の索同な近世化や殊更な近世化、もじりやパロデ i の 他 に在来の文学の中からは全然求め得ない新しい題材や主題

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