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ハーフィズ・アブルー『歴史集成』第 3 巻中の「モンゴル史」の

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https://creativecommons.org/licenses/by/4.0/deed.ja

ハーフィズ・アブルー『歴史集成』第 3 巻中の「モンゴル史」の

「チャガタイ・ハン紀」校訂テキスト

川 本 正 知

Critical Text of Dāstān-i Chaghatāy Khān in History of the Mongols of the Third Volume of Ḥāfiẓ-i Abrū’s Majma‘ al-Tawārīkh

KAWAMOTO, Masatomo

Ḥāfiẓ-i Abrū’s Majma‘ al-Tawārīkh, which was completed in 830 Hijri (1427) and presented to the third Timurid ruler Shāh Rukh (r. 1409–47), is a compendium of world history divided in four volumes composed and written by Ḥāfiẓ-i Abrū himself. The third volume, which deals with the history of Muslim dynasties, was written in 829 Hijri (1425/26), and History of Chaghatay Khan (Dāstān-i Chaghatāy Khān) is included in History of the Mongols which occupies the last part of this third volume.

The fourth volume of Majma‘ al-Tawārīkh, which is individually referred to as Zubdat al-Tawārīkh-i Bāysunghurī (Cream of History of Baysunghur) and deals with events from the late Ilkhanate (1335) to the time contemporary to Ḥāfiẓ-i Abrū (1427), is often used by researchers as an essential historical source on Iranian and Central Asian history of the respective period. By contrast, the third volume, not being a contemporary historical source, has almost never drawn researchers’ attention. However, History of the Mongols in the last part of the third volume is also connected to the history of the Timurid dynasty depicted in the fourth volume and presents an extremely important source that provides insights for understanding the background of Amīr Tīmūr (1336–1405)’s great conquests.

In his History of the Mongols, Ḥāfiẓ-i Abrū, while following the chapter structure and narration methods adopted in the first volume of Rashīd al-Dīn’s Jāmi‘al-Tawārīkh, also introduces new information from other historical works and traditions. Dāstān-i Chaghatāy Khān is particularly noteworthy, because the modified or added content is very likely to include newly discovered facts as well as traditions passed down among the Mongols by the time of Ḥāfiẓ-i Abrū, as the Timurid dynasty was a direct successor to the Chaghatay Khānate Keywords: Ḥāfiẓ-i Abrū’s Majma‘ al-Tawārīkh, History of the Mongols, Dāstān-i

Chaghatāy Khān, History of Chaghatay Khānate, History of Timurid dynasty

キーワード : ハーフィズ・アブルー『歴史集成』,「モンゴル史」,「チャガタイ・ハン紀」,

チャガタイ ・ ハン国史,ティムール朝史

(2)

Ⅰ.解題

1.はじめに

1417/8年にハーフィズ・アブルー‘Abd

Allāh b. Luṭf Allāh b. ‘Abd al-Rashīd Bihdādīnī “Ḥāfiẓ-i Abrū”(1430年没)が ティムール朝第3代君主シャー・ルフShāh Rukh(在位1409–47)の命令によって編纂し た『選集(Majmū‘a-yi Ḥāfiẓ-i Abrū)』は,『タ バリー史翻訳(Tarjuma-yi Tārīkh-i Muḥammad b. Jarīr al-Ṭabarī)』,ラシード・ウッディー ンRashīd al-Dīn Faḍl Allāh『歴史集成

Jāmi‘ al-Tawārīkh)』(以 下JTと 略 記), ニ ザーム・ウッディーン・シャーミーNiẓām al-Dīn Shāmī『勝利の書(Ẓafar-nāma)』(以 下ẒNShと略記)の3編の「過去の「名作」

をそのまま収録し」「不足する記事をハー

フィズ・アブルーがおぎなった」,彼の時代 までに書かれていた歴史書の集大成であっ た1)。これに対してその10年ほど後に完成 した『歴史集成(Majma‘ al-Tawārīkh2)』(以 下MTと略記)は,「ハーフィズ・アブルー が自ら構想し,書き下ろし」,「1427年に完成 した4巻本の普遍史書」である[大塚2015:

64]3)。ムスリム諸王朝史を扱った第3巻が 執筆されたのは829(1425/26)年で,その 最後に「モンゴル史」が位置し,その中に

「チ ャ ガ タ イ・ ハ ン 紀(Dāstān-i Chaghatāy Khān)」が含まれる[大塚2015: 62]。

MTの第4巻は『バーイスングルの歴史精 髄(Zubdat al-Tawārīkh-i Bāysunghurī)』(以 下ZTと略記)とよばれ,イル・ハン朝末期

(1335年)からハーフィズ・アブルーの同時 代(1427年)までを扱い,この時期のイラ of the Mongols. Moreover, Dāstān-i Chaghatāy Khān may first-handedly elucidate how Timurid court historians regarded the history of Chaghatay Khānate, the preceding dynasty, or, in other words, how they perceived the roots of their state in Central Asia. Thus, based on such viewpoints, the critical text of Dāstān-i Chaghatāy Khān in Persian provided in Chapter II of this work was created.

The bibliographical introduction in Chapter I points out a few facts revealed in the process of the revision work to be used as basic premises in studying Ḥāfiẓ-i Abrū’s treatise.

Ⅰ.解題 1.はじめに 2.写本

3.MTの「チャガタイ ・ ハン紀」

4.MTとMAShSM

5.MTとJT 6.おわりに

Ⅱ.校訂テキスト 1.凡例 2.テキスト

1) 大塚2015:47–32,大塚2017:316–345によってハーフィズ・アブルーの生涯,全著作,全著作

の今日までわかっている写本の所在が明らかにされている。この優れた研究によってハーフィズ・

アブルーの歴史書およびティムール朝史研究が飛躍的に進展するであろう。本稿の解題は全面的に この研究によって書かれた。

2) 書名Majma‘ al-Tawārīkhのmajma‘は「集まる場所」を意味し,「諸歴史の集合場」という書名で あるが,ラシード・ウッディーン編纂の史書と同じく『歴史集成』と訳した。なお,『選集』と訳 されているmajmū‘aは「集められたもの」を意味し,いわゆる全集や書写されたさまざまな作品 が1冊の書物として製本された写本をさす普通名詞であり,このハーフィズ・アブルーによる編纂 本の名称ではなく,一般的にそのように呼ばれているだけである[大塚2015: 67, 注19]。

3) MTの第1巻から第4巻までの内容は大塚2015:63–61,大塚2017:328–331参照。

(3)

ン ・ 中央アジア史の根本的な史料として利用 され,4巻本の校訂本も2001年に出版され た4)。これに対して同時代史料ではない第3 巻は「イスマーイール派史」の部分が校訂出 版されているだけで[Ḥāfiz-i Abrū, Majma‘

al-Tawārīkh al-Sulṭānīya, ed. by Mudarrisī Zanjānī, Tehran, 1364kh],第4巻ZTほど 研究者によって使われることがなかった。し かし,第3巻の末尾に位置する「モンゴル史」

は第4巻のティムール朝史へ直接つながり,

ティムール朝政権が中央アジアのモンゴル政 権チャガタイ・ウルス/チャガタイ・ハン国5)

の後継王朝国家として,その前史であるモン ゴル時代の歴史をどのようにとらえていたの かを示す重要な資料として取り扱われなけれ ばならない。

川口1995は,MT第3巻の「モンゴル史」

の「部族編」から,ハーフィズ・アブルー によってJT第1巻の「部族編」に書き加え られたと考えられる情報を抜き出し翻訳し,

ティムール朝時代に重要な部族として存在し ていたエルジギデイ,ヤサウリー,カウチ ン,ウズベグ,ブダドの5部族は14世紀以 降に新たに形成された部族であることを示し た[川口2007: 218–238]。

筆者は,JT第1巻「モンゴル史」のいく つかの写本の「チャガタイ・ハン紀」を精査 し,チャガタイの息子の数と順番,チャガ

タイの息子ムアトゥケンの息子の数と順番そ の他の写本間の記述の違いによって,JT第 1巻の写本は「初版」,「増補版」,「改訂版」6)

の3つの系統の写本群に分けられることを 論証した[川本2017: 81–88]。その際,ハー フィズ・アブルー『選集』の写本(Topkapı Palace Library, Istanbul, Ms. Baǧdad köşkü 282)に含まれるJT第1巻は初版系統写本 であること,すなわちハーフィズ・アブルー が『選集』を編纂する際に書写したJT第1 巻の写本は初版の写本であったことが確認さ れた。『選集』の編纂から10年を経て書き下 ろされたMTの「チャガタイ・ハン紀」に 書き加えられたり削除されたり修正されたり した内容があるとすれば14世紀以降新たに 発見された「事実」やチャガタイ・ウルス/ チャガタイ・ハン国のモンゴル人たちが語り 伝えてきた伝承がそこに反映されている可能 性がある。また,その「チャガタイ・ハン紀」

は,チャガタイ・ウルス/チャガタイ・ハン 国の直接の後継王朝であるティムール朝の宮 廷史家が前代の歴史をどのようにとらえた か,すなわち自らの国家の成り立ちをどのよ うにとらえたかということを直接示している だろう。そのような問題意識を持って本稿第

Ⅱ章のペルシア語校訂テキスト(以下Tx.と 略す)を作成した。

現在までハーフィズ・アブルーの「モン

4) 1956年にタウアーF. Tauerによって出されたẒNShの校訂テキスト第2巻のcommentaireは主に Majma‘ al-Tawārīkh IV/Zubdat al-Tawārīkhの写本からの引用からなり,2001年の校訂テキスト出 版までこのcommentaireがMT/ZTのテキストとして使われてきた。

5) チャガタイ・ウルスとチャガタイ・ハン国という言葉の意味の違いと使い分けについては川本 2017:80参照。

6) 改訂版写本には「ガザン・ハン紀」のはじめの部分に初版,増補版と大きく異なる部分がある。増 補版のみに拠るローシャン校訂本JT(4 jild, eds. by Muḥammad Rowshan & Muṣṭafā Mūsawī,

Tehran, 1373)には改訂版の異なっている部分がテキストとして印刷されていないが,校訂本JT

/III(Jahn):1–88ではあまりに大きく異なるため1頁を左右に分けて右側に別に印刷され,JT/

III(Али-заде):572–619では全テキストの末尾にприложение 1–5として別に印刷されている。

また,他の写本では章題だけがはいっている「アルグン・ハン紀」の第3章(JT: 1185)には改訂 版写本にだけ長文のテキストがはいっており,JT/III(Али-заде):229の脚注に印刷されている。

改訂版のテキストの初版や増補版との大きな違いの意味については今後の研究が必要である。なお 前稿ではこの写本群を「ティムール朝時代の改訂版」と名付けたが,改訂がおこなわれた時期は ティムール朝時代であるかどうかは確認されていないという指摘があったので本稿では単に改訂版 とした。

(4)

ゴル史」が校訂テキストとして出版された ことはなかったので,今後の校訂作業の参 考になるように当校訂テキストにおいてはで きるだけ忠実に写本の表記を再現し,写本 間の異同を厳密に注記した。例えば,JTで はチャガタイの息子ムアトゥケンの息子の1 人はカラ・フラグQarā Hūlāgūと表記され るが,Tx.:111–112,126–127では写本に従っ てそのままカラ・フラドゥQarā Hūlādūま たはフラドゥHūlādūとした。しかし,同 じ頁に出てくるフラチュHūlāchūという人 名はすべての写本がそうなってはいるが明 らかにフラドゥHūlādūの誤りであると校 訂者が判断し本文ではそう修正し,脚注に Hūlāchūという表記をあげた[Tx.: 126, 注 188]。また,Tx.:114,2行目のエミル・ホジャ Īmil Khwājaの息子は4写本すべてがクトゥ ルグ・テムルQutlugh Tīmūrとなっている が,この人物はモグール・ウルス/モグーリ スターン・ハン国の始祖トゥグルク・テムル Tūghlūq Tīmūrであることは疑いなく本文 ではトゥグルク・テムルと修正した。

以下に校訂の過程で明らかになった,ハー フィズ・アブルーの著作の研究の前提とする べき彼のMT編纂にかかわる若干の事実を 指摘しておく。

2.写本

2-1.写本と略号

MT第3巻の写本は以下に略号と共に示し た4点が残存している[大塚2015: 44]7)。 N:MT(第3巻),Tehran,National Li- brary,Ms.F2527,「チャガタイ ・ ハン紀」部 分307b〜312b,15世紀(http://dl.nlai.ir/

UI/a6c9a455-bf1f-401b-880c-7ca22e13bb5a/

LRRView.aspx)

T:MT(第3–4巻),Istanbul, Topkapı

Palace Library, Ms.Hazīne1659,「チャガタ イ ・ ハン紀」部分38b〜42b,15世紀 S:MT(第3巻),Istanbul, Süleymaniye Library, Ms.Mehmed Murād1465,「チャガ タイ ・ ハン紀」部分246b〜250b,15世紀?

M:MT(第3–4巻),Tehran, Malek Library, Ms.4163,「チャガタイ ・ ハン紀」部分167a

〜171a,1855/56年書写 2-2.写本間の関係

N写本を校訂テキストの底本とした。N 写本は,テヘランのMalek Libraryに所蔵 されている1430年に書写された第4巻(ZT) の写本(Ms.4166)と「揃で作られた」写本 である可能性があるとされる写本であり,と すれば著者生前に写されたもっとも書写年 代の古い写本であるからである[大塚2015:

44]。

テキスト作成の過程で写本間の関係が明ら かになった。

2-2-1M写本とN写本

M写 本 はN写 本(底 本)を 直 接 書 写 し ている。チャガタイの長子とされるモチ・

イェベについて,Tx.:109,4–5行に「〔モ チ・イェベの息子のアフマドの息子の〕ソ ルガトゥSūrghātūには1人の息子がいた。

748(1347/48)年 に ア ミ ー ル・ カ ザ ガ ン

Qazāghanがチャガタイ・ウルスの皇帝とし

たバヤン・クリBāyān Qūlīである」とある が,N写本ではこの文の上に線が引かれてい る。この文章はTx.:109,注8で示されて いるようにS写本,T写本にはあるがM写 本にはない。N写本の書写後いつ線が引か れたのかはわからないが,M写本の写字生 はN写本のこの部分は線が引かれて消され ていると解釈して写さなかったのである8)

Tx.:118,6–8行 の 長 い 文 章 が 注104で 示されるようにS写本,T写本にはあるが,

7) 大塚2015:44によれば,テヘランのFarhād Mu‘tamid LibraryにあったMT第3巻の1865年書 写の写本は散逸してしまった可能性が高く所在を確認することができないとのことである。

8) この文章はM写本を除く他の3写本にある。原本にあった可能性が高いと判断して本文にそのま ま採用した。

(5)

N写本,M写本に共通してなく,Tx.:117,

注88,Tx.:122,注143で示される短いが 重要な文章がN写本,M写本共通してない。

また,Tx.:110,注23に示されるように,

N写本の誤りの部分をM写本はおそらく意 図的に写していない。M写本にしか出てこ ない少数のヴァリエーションはM写本の写 字生によるN写本の修正または写し誤りで あろう。

2-2-2S写本とT写本

S写本とT写本の「チャガタイ・ハン紀」

のすべての葉は同じ行数で,1行に書かれる 文字数もほとんど同じで,同じ行から始まり

(T: 38b, 23行,S: 246b, 23行),葉の表裏の 初めの単語と終わりの単語もほとんど一致し ている。また,ほとんどの注にS,Tのヴァ リエーションが同時にでてくることから明ら かなように両者の文章は細部にわたって一致 している。また,Tx.:113,注58,注65お よびTx.:114,注70で示されるようにN写 本,M写本にはある3つの長い文章がT写本,

S写本には共通してない。明らかにT写本,

S写本はどちらかが他方を写している。一方,

S写本は題字など他の写本では赤色で書かれ ている部分がすべて空欄になっている。T写 本はS写本の空欄の部分はすべて赤字で埋 められているのでT写本がS写本を写した のではない。S写本の写字生がT写本を写 している過程でT写本の赤字の部分を後で 書き入れようとしていたが何らかの理由でそ れができなくなったのであろう。S写本にし か出てこないヴァリエーションはS写本の 写字生によるT写本の修正または写し誤り であろう。

以上,写本間の異同を調べていく過程に おいて,N写本系統とT写本系統の2種の

MT第3巻のテキストが残されていること,

両系統の写本は「チャガタイ・ハン紀」第1 章の系譜の叙述部分にそれぞれ脱落があるこ とからどちらの系統の写本も不完全な写本で あること,が明らかになった。それらの脱落 以外,両系統の写本間には微細な表記・表現 の違いが多数みられることは校訂テキストの 脚注によって確認されよう。

3MTの「チャガタイ ・ ハン紀」

MTの「モンゴル史」は,JT第1巻と同 じように,「部族編」,「祖先紀」,「チンギス・

ハン紀」,「オゴタイ・ハン紀」と始まりJT 第1巻最後の「ガザン・ハン紀」の後に「オ ルジェイト・ハン紀」と「アブー・サイー ド・ハン紀」がハーフィズ・アブルーによっ て付け加えられているという構成になってい る。「チャガタイ・ハン紀」はJTと同じく

「ジョチ・ハン紀」の後「トゥルイ・ハン紀」

の前に置かれている。

MT「チャガタイ ・ ハン紀」第1章のチャ ガタイの子孫たちの系譜の部分には,JTが 書かれてより後MTが書かれた時点までに その存在が知られることになったチャガタイ の子孫たちがJTの「チャガタイ・ハン紀」

の系譜に書き加えられている。その中には ティムールおよび彼の一族とチャガタイ・ハ ンの子孫の女性たちとの婚姻関係も書き加え られている。それだけではなくJTが書かれ た当時には知られていなかった情報,それ による修正も書き加えられている。例えば JTではドゥアの息子たちは「チャガタイ・

ハン紀」につけられた系図の中には10人し かあげられていないが[イスタンブル写本:

171a,『五 族 譜(Shu‘ab-i Panjgāna)』(略 号 ShP):120a]9)MT(Tx.: 113–114)ではエル

9) 使用するJTの写本の略号はまとめて解題の末尾につけた。ShPはJT増補版の第4巻としてつけ られた系図集である[BḤ (Introduction): 89, 川本2017: 83]。ShP:118bのチャガタイの息子は 6人で,その名前も増補版に一致し,ShP:117b–127bのチャガタイ・ハンの系図はイスタンブル 写本:170b–171bにつけられた系図に一致する。しかし,ShPにはJT本文には書かれていないき わめて貴重な情報が注記されている場合がある[川本2017: 99]。

(6)

ジギデイ,ドゥレ・テムル,タルマシリーン,

エミル・ホジャなどラシードの時代にはイラ ン方面では知られていなかった人物を含む 20人の息子の名と彼らの1420年代までの子 孫たちの名があげられている。そこに含まれ るエミル・ホジャの息子トゥグルク ・ テムル

・ ハンTūghlūq Tīmūr Khānの子孫たちの 系譜すなわちモグール・ウルス/モグーリス ターン・ハン国のチャガタイ家の系譜[Tx.:

114]は当テキストが出るまでは後述する系図 集『モンゴル王統系統樹における高貴なる血 統の尊重(Mu‘izz al-Ansāb fī Shajarat Salāṭīn Mughūl)』(略号MAShSM)によって知られ ているだけであった。また,JTではチャガ タイの息子バイダルの息子アルグの2番目 の息子のチュベイChübäyには15人の息子 があげられているが[イスタンブル写本:

171b, ShP: 122a],Tx.:117–118には16人の 息子と彼らの4代にわたる子孫たちの名が書 かれている。これらは当校訂テキストのもた らす最も重要な情報である。これらのJT以 降の系譜情報は,シャー・ルフ治世当時各地 のティムール朝宮廷にいたチャガタイ・ウル スやモグール・ウルスの王子や王女たちやそ の側近たちから伝承として伝えられたものと 思われる。

第2章は大きく2つに分かれ,チャガタ イとチャガタイ・ウルス成立の歴史[Tx.:

119–125]とムバーラク・シャーの治世がはじ まる663(1264/65)年までのチャガタイの後 継者たちの歴史[Tx.: 125–132]である。前 半はほとんどJTの「チャガタイ・ハン紀」

の引き写しである。後半はほとんど『ワッ

サ ー フ 史(Tārīkh-i Waṣṣāf al-Ḥaḍrat)』 第1 巻(略号TW(1))の引き写しで,主にモン ケ大ハン死後のクビライとアリク・ブカとの 間の大ハン位を巡る争いにおけるチャガタ イ・ハンのアルグとアリク・ブカとの交渉 がTW(1):Per.tx.:22–32から引き写され ている。JTに書かれているその後のバラク の政権奪取と「タラスのクリルタイ」後にホ ラサーンに攻め込んだバラクがイル・ハンの アバガとの戦いに敗れた後カイドゥによって 殺され,カイドゥによってドゥアがチャガタ イ・ハンに擁立されるまでの諸事件にはまっ たく触れていない。

ほとんど全部JTTW(1)からの引き写 しである第2章には史料的価値はほとんど ないといってもよいが,そのなかでほとん ど唯一のMT独自な記事はチャガタイのア ミールの1人であったカラチャル・ノヤン Qārachār Nūyānについての記述である。

①チンギス・ハンがチャガタイに軍隊を分 配したときのJT:762の記述を補足して「大 アミールたちからは,サーヒブ・キラーン陛 下(ティムール)の先祖の1人であるバルラ ス部族のカラチャル・ノヤンがチャガタイに 与えられた」[Tx.: 119]としている10)

②「チャガタイ・ハンの大アミールであり 軍のアミールであったのは既述のアミール・

カラチャルである。彼はきわめて大きな指揮 権(amīrī)をもつ総帥(ḍābiṭ)であった。「ア ミール・カラチャル,彼こそがかの誓詞の執 行者(wāḍi‘-i möčälgä)11)である」と言われ ていた。」[Tx.: 125]

③「ホルギナ・ハトゥンHurghina Khātūn12)

10)チンギス・ハンによる息子たちや弟たちへの軍隊の分配については川本2013:65–87参照。また,

チャガタイに軍隊とアミールたちが分配されたことを記したJT:763の記述の問題点については 川本2017:88–89を参照せよ。

11)JTに現れるモンゴル語のmöčälgäについては本田1991:53–67を参照。この語は皇帝との契約・

約束言の保証としての機能を有する皇帝に提出される誓詞を意味し,チンギス・ハンがオゴタイを 後継者に指名し,その指名承認を他の諸子に求めさせて提出させた誓詞がmöčälgäの最初のもの であるとされる。また,この語は書かれた契約書 ・ 誓約書の意味を持つアラビア語khaṭṭと訳され ることもある。

12)JT:767–69ではオルキナŪrqinaと表記されるが,TW(1):29ではMTと同じ表記になっている。

(7)

がモンケ大ハンの命令によって〔チャガタ イの息子の〕イェス・モンケを殺し,王権

(salṭanat)は〔ムアトゥケンの息子の〕フ

ラドゥHūlādū13)に定まった。フラドゥ・ハ ンは自らの行政権(wizārat)をヤラワチの 息子のアミール・マスウード・ベグに委ね た。軍隊の指揮権(imārat-i lashkar)とチャ ガタイ・ハンの王国とウルス全体に対する綜 合的支配権(ikhtiyār-i kullī)はアミール・

カラチャル・ノヤンが掌握していた。〔フラ ドゥ・ハンは〕2年ほどハン位についていた が,自然の病により亡くなり,アルマリクに 埋葬された。フラドゥの死後アミール・カラ チャルも亡くなった。ウルスの支配は,ホル ギナが,フラドゥとの間に生まれた自分の息 子のムバーラク・シャーの名によっておこ なった。」[Tx.: 126]

以上の3つのMTの「チャガタイ・ハン 紀」の記述から,ハーフィズ・アブルーは自 ら書き下ろしたMTの「モンゴル史」にお いては, 間 野1976(間 野2001: 321–329所 収)およびWoods 1990:88–95によってヤ ズディーSharaf al-Dīn ‘Alī Yazdī『勝利の 書(Ẓafar-nāma)』(以下ẒNYと略記)の序 文から紹介された「ティムールの系譜」(以 下「系譜」と略記)と「この系譜に登場する 人物達に関する一伝承」(以下「伝承」と略 記)とによってJTの「モンゴル史」を微妙 に書き換えていることがわかる。その「系譜」

とは,ティムールの5代遡った祖先は,チン ギス・ハンが軍隊を分配した際に2番目の息 子チャガタイに与えたとされるバルラス部族 のカラチャル・ノヤンであり,チンギス・ハ ンとカラチャル・ノヤンの男系の血統は共通 にそれぞれトゥメネイ・ハンの息子の双子の 兄弟のカブル・ハンとバルラス部族の祖とさ れるカチュライを通してモンゴル人の始祖ア ラン・ゴワにまで遡るとするものである[間

野2001: 320系図参照]。

「伝承」は,カチュライの見た夢によって 2人の兄弟の間に「ハンの位はカブル・ハン のものである。軍事と行政はカチュライに委 任される」との誓約書(‘ahd nāma)が交わ され,両者の子々孫々に至るまでこの誓約 をまもることが遺言された,とする[ẒNY:

65–66]。そして,カブル・ハンの曾孫のテ ムチンはカチュライの曾孫のカラチャル・ノ ヤンの助力によりチンギス・ハンとして即位 した。死を目前にしたチンギス・ハンは息子 たち,兄弟たちとカラチャルを面前にして,

オゴタイを後継者に指名した後,カブルとカ チュライの間の誓約書を宝庫より持参させ,

その文言を再確認させ,「カラチャル・ノヤ ンにチャガタイ・ハンを推薦し,「私が生き ている間に国家と軍隊の諸事を掌握(ḍabṭ-i umūr-i mamlakat wa sipāh)していたよう に,私が亡くなった後はチャガタイに対して 同様にせよ」と命じ,彼らの間で親子の関係 を結ばせ,両者にかの誓約書に一文を書かせ た。そして,祖先たち(カブル・ハンとカチュ ライ)の誓約書(‘ahd nāma-i pedarān)を チャガタイ・ハンに委ね,〔新たに書かれた〕

息 子 た ち の 誓 約 書(‘ahd nāma-i pesarān) をオゴタイ・ハンに与えた」[ẒNY: 169]。「伝 承」は,また,チンギス・ハンがチャガタイ に遊牧民の軍隊を分配したとき,「約束され た規定により(bar qā‘ida-yi ma‘ahūd)」チャ ガタイの軍隊と王国の運営はカラチャル・ノ ヤンに委ねられ[ẒNY: 170],1238年にブハ ラに起こった「ターラービーの反乱」に軍隊 を送って鎮圧したのもチャガタイ・ウルスの 最高位のアミールであったカラチャルだっ た,とする[ẒNY: 205]14)

②の誓詞(möčälgä)が,「伝承」の祖先 から伝わりチンギス・ハンの後継者指名の際 に再確認され更新されて誓われた新旧の誓約 13)同じ頁ではQara Hūlādūとも表記されている。JT:767–69ではQara Hūlāgūと表記される。本

稿ではTx.の引用以外はJTに従ってカラ・フラグとする。

14)この「系譜」と「伝承」の概略は久保2014:76–81の説明が簡潔でわかりやすい。

(8)

書を指していることは明らかである。

③のカラ・フラグとカラチャルについて,

ヤズディーの伝える「伝承」では,チャガタ イがなくなった後,カラチャル・ノヤンがカ ラ・フラグを即位させたが,彼を廃して643 年Sh‘abān月(1245年12月22日〜1246年 1月19日)にイェス・モンケを即位させ,

彼が亡くなった後に再びカラ・フラグをハ ン位につけ,カラチャル・ノヤン自身は652

(1254/55)年に89歳でなくなったとされる

[ẒNY: 206–207]。

1414年 に シ ャ ー・ ル フ に 献 呈 さ れ た ム イ ー ン・ ウ ッ デ ィ ー ン・ ナ タ ン ズ ィ ー Mu‘īn al-Dīn Naṭanzīの『ムイーンの歴史 精髄(Muntakhab al-Tawārīkh-i Mu‘īnī)』(以 下MTMと略記)は「カラ・フラグは,チャ ガタイの息子のムアトゥケンの妻であったオ ルギナ・ハトゥンと結婚し,自らの行政権を マスウード・ベグ・ヤラワチに委ね,自らの 家のアミール権をカラチャル・ノヤンに与え た。〔カラ・フラグは〕2年間ハン位にいた が,その後,641年(1243/44年)に自然の 病により亡くなり,アルマリクに埋葬された」

[MTM: 103]としている15)

MT,MTMおよびẒNYに現れるカラ・フ ラグの在位期間やイェス・モンケ,カラ・フ ラグの即位年代など,誤ってはいるがきわめ て具体的な記述はこれらの史料が共通に利用 したカブル・ハンとカチュライ,チンギス・

ハンとカラチャル・ノヤン,ティムールをつ なぐ「系譜」とカラチャル・ノヤンの子孫で あるティムールがチンギス・ハンおよびその 子孫たちの支配を継承したことを正当化する

「伝承」を伝える何らかの資料が1414年以 前に存在していたことを推測させる16)

また,ハーフィズ・アブルーは,MTの「モ ンゴル史」のはじめの部分で,JT第1巻「モ ンゴル史」の「祖先紀」の「トゥメネイ・ハ ン紀」の部分のカチュライの子孫たちの部分 を,「系譜」と矛盾しないように次のように 書き変えている。

 〔トゥメネイ・ハンの〕第3子はカチュ ライで,バルラス部族は彼の一族である。

その長子はエルデムチ・バルラErdemchī Bārūlaで, そ の 長 子 は ス グ・ セ チ ェ ン Suqū Sechenで,その長子はカラチャルで,

彼はチンギス・ハンの親族(qu‘dūd)17)で あった。また,彼の息子たちはチンギス・

15)同時代史料のジュワイニーの『世界征服者の歴史(Tārīkh-i Jahāngushāī)』(TJと略記)では,ム アトゥケンの幼い息子カラ・フラグはチャガタイの後継者として即位したが[1242年],オゴタイ 家のグユクが大ハンに就任すると[1246年],チャガタイの息子のイェス・モンケをカラ・フラグ に代えてチャガタイ・ハンとして即位させた。しかし,トゥルイ家のモンケが大ハンに就任すると

[1251年],再びカラ・フラグをチャガタイ・ハンとして送った。彼は「その途上で」亡くなり再 度ハン位に着くことはなかった[TJ (1): 210–211, 230–31, TJ (Boyle): 255, 273–274]。モンゴル 時代に書かれたTJ,JTなどの史料が名前以外にはカラチャル・ノヤンにまったく言及していない ことは言うまでもない。

16) Topkapı Palace LibraryにあるJung-i Baysunghurīと呼ばれる書画集Ms.Hazine 2152に,Ḥusain b.

‘Alī Shāhなる人物が画いたNasab-nāmaという肖像画入りの系図が入っているが,Thackston

1989:xviに再現されている系図と間野2001:320の系図と見比べると,それは「系譜」を系図に

したものであることがわかる。Woods 1990:112は「フサインの系図の形態とそれに含まれる政 治的意味は,1405/807から1409/811までのサマルカンドの〔ティムール朝2代目君主の〕ハリー ル・スルタンの短い支配期間こそがその系図が画かれるにもっともふさわしい環境であったことを 示唆している」と述べている。川口2007:79も「この系図がハリール・スルタン治下で成立した のではないかと推測する」とする。少なくとも「系譜」は1409年以前から存在していたことになる。

この「系譜」と「伝承」の存在および内容がティムールおよびティムール朝にとって何を意味し ていたのかについては,間野1976およびWoods 1990の議論およびそれらを踏まえた川口2007:

185-216の議論を参照せよ。

17)次注のJTにも同じコンテクストで出てくる「近親者」「親族」「親戚」などと訳しうるアラビア語

qu‘dūdがここで具体的に何をさしているのかは不明である。

(9)

ハンの息子たちの親族であった18)。[N写 本:256b,M写本:137a]

以上,「チャガタイ・ハン記」がふくまれ るMT第3巻の「モンゴル史」は,「系譜」

と「伝承」に沿うように書き変えられている ことが明らかになった。JTにチャガタイ・

ハンのアミールとして名前だけが現れるカラ チャル・ノヤンは,MTではチンギス・ハン とチャガタイ・ハンの下で大きな権限を保持 した大アミールとされ,ティムールはその子 孫であるとされている。チンギス・ハン一族 の歴史の背景に同じトゥメネイ・ハンの子孫 であるとされるカラチャル・ノヤン一族の歴 史が巧妙に組み込まれている。そして続く MT第4巻のZTの始まりの部分にアラン・

ゴアからティムールに至る上記「系譜」が前 面に現れ[ZT (1): 34–36],カラチャル・ノ ヤンの19人の息子たちとハーフィズ・アブ ルーの時代までのその子孫たちの名前があげ られ,その後にその一族のうちで最も重要な ティムールの誕生が語られるという構成に なっている[ZT (1): 37–44]。

カラチャル・ノヤンまでの系譜とそれ以降 の系譜のつなぎの部分は,「カラチャル・ノ ヤンの子供たちと〔彼らに〕所属する者たち

(muta‘alliqān)は「緑のドーム」のごとき 町ケシュKishの諸テュメン(tūmānāt)に 下馬し,その地方(nawāḥī)に「居住」の 天幕を打ち立て,彼らの息子たちや孫たちは 世代ごとにその地方(bilād)の支配の地位

に就いてきたのである」となっている[ZT (1): 37]19)。MTでは,ティムール朝の歴史 はチンギス・ハンによってチャガタイにあた えられたモンゴル人アミールとして中央アジ アに入ってきたとされるカラチャルからはじ まっているのである。

4MTMAShSM

MAShSMはシャー・ルフの命をうけた無 名氏によって編纂され,830年(1426年11 月2日〜1427年10月21日)に完成された チンギス・ハン家とティムール家の系図集 である[MAShSM: 1b, Quinn 1989: 231, 川口2007: 75, Ghiasian 2018: 11]。その後,

別の無名氏によって830年以降の系図が追 加され,現存する写本の記述はティムール朝 末期のバディー ・ ウッザマーン・ミールザー Badī‘ al-Zamān Mīrzā(在位1506–07)にま で至っている[MAShSM: 161a]。はじめの 無名氏がShPを参照しその形式を踏襲して

MAShSMを作成していることは一見して明

ら か で あ る[Quinn 1989: 231, 233]20)。 彼 はシャー・ルフから現存する系図(おそらく ShP)の更新とティムール家の系図の作成を 命ぜられてこの系図集を作成することになっ たと述べており[MAShSM: 2a, Quinn 1989:

231],その関係から830年までのMAShSM の作者はハーフィズ・アブルーであるとの推 測もなされていた21)

ハーフィズ・アブルーがMTをシャー・ル 18)JT:245では「エルデムチ・バルラの長子はトゥダンTūdānで,その長子はチュチイェChūchīya で,その長子はブルカン・カルジャBūlūqān Qaljaで彼の息子たちはチンギス・ハンの息子たち

の親族(qu‘dūd)であった」となっている。MTは「系譜」にあわせてカラチャルの父のスグ・

セチェンSuqū Sechenをエルデムチ・バルラの子と書き換えているのである。

19)ケシュがtūmān-āt(テュメンtūmānの複数)とされていることに注意されたい。モンゴル時代の

ケシュのテュメンについては川本2000:26,37参照。中央アジア,イランのテュメン全般につい ては川本2013:183–197参照。

20)例えばチャガタイの大きな肖像が載るShP:117bの画面とMAShSM:28b–29aの画面とは,ShP では肖像が画かれている大きな正方形がMAShSMでは大きな円にかわっている以外はほぼ同じ画 面構成と注記の配置になっている。ShPでは男性の名を正方形で囲み,女性の名を円で囲み,大き な正方形には肖像画が描かれているが,MAShSMでは男性を円とし女性を正方形としている。

21) Togan1962:69は「ShPにイル・ハン朝末期とティムール朝時代に関する系図の追加を行った著

者すなわちShPMAShSMに書き換えた著者はハーフィズ・アブルーであるかもしれない」と述 べている。

(10)

フに献呈したのは830年Rabī‘ al-Ākhara月 17日(1427年2月15日)以 降 の830年 中 のことであると考えられる[大塚2015: 64,

ZT (4): 907]。同じ年に同じ君主に献呈され た史書と系図は互いに無関係に書かれ作成さ れたのであったのだろうか。

本稿のハーフィズ・アブルーの「チャガ タイ・ハン紀」第1章の校訂の過程におい て,MAShSM:28b–38aの チ ャ ガ タ イ・ ハ ンの子孫たちの830年までの系図は,系図 のところどころに挿入されている注記をふく めて,MTの「チャガタイ・ハン紀」第1章

(Tx.: 108–119)と細かな人名表記の差を除 いてほとんど一致することが明らかになっ た。別の無名氏による後の書き加えや修正を 除いたシャー・ルフに献呈されたMAShSM の原本はMTの系譜記述をもとにして描か れた系図である可能性が極めて高いことを MAShSMとTx.およびZT(1)を見比べる ことによって示そう。

MAShSM:31bの,他の資料には見られ ないバラクの第1番目の息子のベグ・テムル Bīg Tīmūrおよび彼の2人の息子ヒンドゥー HindūとサーラールSālārについての注記,

ヒンドゥーの孫のヒズルKhiḍrとその娘の マリカト・アガMalikat Āghāへの注記は

Tx.:112–113のそれぞれの人物に付けられ

た説明とまったく同じである22)

おなじくMAShSM:36bのチャガタイの 7番目の息子とされるサルバンの息子ニクペ イNīkpeiの肖像画(ṣūrat)23)につけられた

注記はTx.:118のニクペイはバラクが差し

向けたナリクに殺されたという説明そのまま である24)

JTおよびShPには10人しか記されてい ないドゥアの息子たちがMTには20人が記 されていることはすでに述べたが,20人の 息子の名はすべてMAShSM:32a–32bの系 図上に記されている。

同じく上述のTx.:117–118に記されたアル グの息子のチュベイの16人の息子と彼らか ら4代にわたる子孫たちはすべてMAShSM:

37b–38aの系図上に記されている25)。 記述が相違している部分もあるがそれは後 に加筆した無名氏による修正であろう。

MAShSM:35bのチャガタイの息子モチ・

イ ェ ベ の 系 図 の 右 か ら4番 目 の テ ク デ ル TakūdārにはソルガトゥSūrghātū,ムバー 22)ヒンドゥーとサーラールにつけられたMAShSMの注記は川本2017:94–95を見よ。

23)MAShSMではチャガタイ・ハンに即位した人物は大きな円でしめされ,その下に「某ハンの肖像」

と書かれる。大きな円とこの言葉があるということはニクペイがチャガタイ・ハンになったことを 示している。

24)この説明が誤っており,ニクペイはその後バラクの次のチャガタイ・ハンとして即位したことは

川本2017:96–97参照。前注で示したようにニクペイがチャガタイ・ハンとして即位したことを

MAShSMは認識していながら,注記にはMTの誤った説明をそのまま写してしまっている。この

ことはMAShSMMTの記述から作られた後に修正されていることを示している。

25) Tx.:117ではチュベイの2番目の息子イェルクヂYīlqūjīにはバヤン・クリBayān Qulīとい う息子がいて,彼にはエンケ・テムルEnke Tīmūr,ブヤン・クリBūyan Qulī,クナシリン

Kunāshīrīn という3人の息子がいたとあるが,MAShSM:37bの右半面ではバヤン・クリにはトゥ

ム・クリTūm Qulīという息子がいて,彼に3人の息子がいたことになっており,その名を示す3

つの小円にはエンケ・テムル,クナシリンの名が書かれているがもう1人の息子を示す真ん中の 小円にはなにも書かれていない。Tx.:118ではチュベイの12番目の息子のノム・クリNūm Qulī には2人の息子バヤン・テムルBayān Tīmūrとノム・タシュNūm Tāshがいて,ノム・タシュに はベルケ・テムルBīlkā Tīmūrとプラド・テムルPūlād Tīmūrの2人の息子がいたとされている が,MAShSM:37bの左半面ではノム・クリの2人の息子バヤン・テムルとノム・タシュのうち バヤン・テムルに2人の息子ベルケ・テムルとプラド・テムルとがいたことを示す線が引かれてい る。また,Tx.:118のプラド・テムルの息子のアジャシリンĀjāshirīnの3人の息子の1人の名前 アク・ベルディĀq BerdīがMAShSM:38aではホダイ・ベルディKhūdāy Berdīとなっている。

これらの相異が線を引いて系図にする過程で起こった誤記であるのか,一旦完成した後なんらかの 情報を得て修正して描き直されたのであるのかはわからない。

(11)

ラク・シャー,ウマルの3人の息子がそれぞ れテクデルからの線と名前を記した小さな円 で示されているが,そこには「これらの者た ちは,ある伝承によって(be-riwāyatī)〔テ クデルの兄弟の〕アフマドの息子たちと書か れている」と注記されている。MT(Tx.: 109, 2–4行)ではこの3人はアフマドの息子たち として列挙されている。MAShSMの注記の

「書かれている」とはMTに「書かれている」

ことを指し,系図が作成された段階かまたは その後に修正した内容をそこに注記しておい たものと思われる。

また,このソルガトゥは,上述の底本とし たN写本で線が引かれて消されているとし てM写本が写さなかった部分のアミール・

カザガンが擁立したバヤン・クリ・ハンの父 のソルガトゥである。ところがMAShSM:

32b–33aではバヤン・クリ・ハンの父のソ

ルガトゥはドゥアの息子とされている。ドゥ アはムアトゥケンの孫であるから,ソルガ ト ゥ を モ チ・ イ ェ ベ の 系 統 と す るMT

「チャガタイ・ハン紀」とは相容れない。MT

(Tx.: 113–114)のドゥアの息子たちの中にソ ルガトゥなる名前はない。しかし,MAShSM の系図上でのソルガトゥの現れ方は,彼以外 のドゥアの息子たち20人が32aの横線に8 人,32bの横線に12人が連なっている2本 の横線にではなく,この2本の横線をつな ぐ1本の縦線から1本だけ横線が左方向に 引かれて次の葉にその名前が書かれてバヤ ン・クリ・ハンの父であることが示されてい る。そしてバヤン・クリ・ハンにはスルタ ン・マリクSutlṭān Malikなる息子がいるこ とが彼からの縦線で示され,スルタン・マ リクの娘のハン・スルタンKhān Sulṭānは

「アミール・ティムール・キュレゲンの息子 のアミールザーデ・ジャハンギールの息子の アミールザーデ・ムハンマド・スルタンの妃

(ḥaram-i maḥram)であった」と注記され

る[MAShSM: 33a]。ソルガトゥだけ後から ドゥアの息子として書き加えられたかのよう に見える。

シャーミーはバヤン・クリ・ハンをソルガ トゥの息子としているが,ソルガトゥの父の 名は書いていない[ẒNSh: 13]26)。ヤズディー の伝える「系譜」ではバヤン・クリ・ハンは ドゥアの息子のソルガトゥの息子とされてい る[ẒNY: 219]。 お そ ら くMAShSMは 一 旦 MTに従って系図が描かれてしまった後に,

ソルガトゥをドゥアの息子として後から書き 入れなければならなくなり,結果としてムア トゥケンの系統とモチ・イェベの系統の2カ 所にソルガトゥが現れることになったのであ ろう。

JTに遡って調べてみると,JTの初版系 統写本および改訂版系統写本では確かにこ のソルガトゥ,ムバーラク・シャー,ウマ ルの3人はMTと同じくアフマドの息子に なっているが[JT/II (Blochet): 160],増補 版のJT:759およびShP:121aはこの3人 をテクデルの息子としている。JTでは初版 にも増補版にもドゥアにソルガトゥなる息子 はいない[イスタンブル写本:171a,ShP:

120a]。MT本 文 とẒNYお よ びMAShSMの どちらの記述が正しいかはにわかに判断でき ないが,N写本上の文章が線で消されてい ること,MAShSMのソルガトゥのドゥアの 息子としての系図上への現れ方の不自然さか らしてMTの記述にしたがってMAShSMが 一旦描かれた後に修正されたと考えてよいだ ろう。

MAShSM:33b–34aは ト ゥ グ ル ク ・ テ ム ル ・ ハンTūghlūq Tīmūr khānの息子のヒ ドル ・ ホジャKhiḍr Khwājaの子孫たちの 系図すなわちモグール・ウルス/モグーリス ターン・ハン国のチャガタイ家の系図である が,以下に述べる830年以降に書き加えら れた部分を除いてMT(Tx.: 114)の記述に 26)MTM:113ではBayān Qulī khān b.Yisūr Ughlānとなっているが,Yisūr UghlānはSūrghātū

の誤記かもしれない。

(12)

ほぼ完全に一致する。

モグール・ウルスのハンの王統を論じた 間野1963によれば,MTのヒドル・ホジャ の3番目の息子スルタン・シール・アリー Sulṭān Shīr ‘Alīの息子のヴァイス ・ ハンWays Khānは,ヒドル・ホジャの7番目の息子の ムハンマド・ハンが亡くなった後にモグー ル・ウルスのハンの位についていたナクシェ

・ ジャハーンNaqsh-i Jahānを1417年に殺 害してハン位についた27)。1420年にヒドル・

ホジャの6番目の息子のシャーブ ・ ジャハー ンShāb Jahānの息子シール・ムハンマド ・ ハンShīr Muḥammad Khānが反乱を起こ し,1421年にヴァイス ・ ハンを破って即位 したが,ヴァイス ・ ハンはシール ・ ムハンマ ド ・ ハンが亡くなった後に再びハンの位に ついた[間野2001: 267–269]。シール ・ ム ハンマド ・ ハンが亡くなったのは1425年,

ヴァイス ・ ハンの第2次即位は1426年のこ とと推定されている[間野2001: 269注2]。

Tx.:114には「シャーブ ・ ジャハーンには

2人の息子がいた。1人は現在モグーリスター ンの帝王であるシール ・ ムハンマド ・ ハンで ある。ヴァイス ・ ハンを解任して自らが帝王 となった」とあり,ヴァイス ・ ハンについて は「ヴァイス ・ ハンはモグーリスターンで帝 王となっていた」とあるだけである。ここに 記されているのは1426年以前の情報である ことがわかる。一方MAShSM:34aではヴァ イス ・ ハンの肖像に「シール・ムハンマド・

ハンの死後ウルスを取った」と注記されてい て,シール ・ ムハンマド ・ ハンの肖像には

「ヴァイスを帝王の地位から放逐して,ヒジュ ラ歴830年にモグール・ウルスの帝王となっ

ていた」と注記している。この注記は,シー ル ・ ムハンマド ・ ハンの即位とヴァイス ・ ハ ンの第2次即位の年代とを混同しているが,

MAShSMが一旦完成し献呈された830年以 降に得られた情報による注記である。

同一人物がMAShSMには異なる表記で書 かれている場合がある。MT(Tx.: 113)で はドゥアの息子エルジギデイĪljīgidāiの息 子の「ドルジDūrjīにはカブール・スルタ ンQabūl Sulṭānと い う 息 子 が お り, 彼 は チャガタイ・ウルスの皇帝となった」とあ る。MAShSM:32bではドルジの息子はカー ブ ル・ シ ャ ーKābul Shāhと な っ て お り,

「彼をアミール・カザガンの息子ムサッラー

Muṣallāの息子のアミール・フサインが皇帝

位につけていた」と注記されている。カブー ル・スルタンかカーブル・シャーかどちらが 正しいかわからないが28),現存のMAShSM 写本の原本が作成される段階で名前が書き直 され注記が書き加えられたのであろう。

MAShSMの注記がMTと大きく異なる場 合がある。バラクの2番目の息子ドゥアに関 してMT(Tx.: 113)では「ドゥアは30年あ るいはそれ以上チャガタイ・ウルスの皇帝で あった。706(1306/7)年に亡くなった」と 説明しているが,MAShSM:31aでは「ドゥ ア・ハンは690(1291)年にチャガタイ・ウ ルスの皇帝になった。706(1306/7)年に鷹 となった(死んだ)。16年間支配した」と注 記されている。即位690年と在位期間16年 は他史料にはみられない記述である。830年 以降ドゥアの在位年代に関して何らかの新し い情報が得られたのかもしれない。

MAShSMが上記「系譜」と「伝承」に従っ

27) Tx.:114およびMAShSM:33bはナクシェ・ジャハーンはヒドル・ホジャの11番目の息子シャー・

ジャハーンShāh Jahānの息子としているが,ZT(3):599では9番目の息子とされるシャメ・ジャ ハーンSham‘-i Jahān の息子となっている。ZT(3):300にはハーフィズ・アブルーはシャメ・ジャ ハーンをシャー・ジャハーンと呼んでいたとの写字生による注記が書かれているから,シャー・

ジャハーンとシャメ・ジャハーンの混同があると考えられるのでナクシェ ・ ジャハーンがどちらの 息子であるかをにわかに判断することはできない。

28)ẒNSh:14ではカーブル・スルタンKābul Sulṭān,ẒNY:219ではカーブル・シャーKābul shāh となっている。

(13)

て描かれていることは以前から指摘されて いた[Woods 1990: 85–86]。上述のように MTも「系譜」と「伝承」を組み込んだ史書 であることが明らかになった今,MTの系譜 の叙述がMAShSMの系図と一致するのは当 然であると見なされるかもしれない。しかし,

MT第4巻(ZT)の始まりの部分[ZT (1):

34–44] とMAShSM:79b–96aと の 対 応 関 係には両者ともが単に同じ「系譜」と「伝承」

によっているということ以上の共通性が認め られる。

MTJT第1巻「モンゴル史」の「祖先紀」

の「トゥメネイ・ハン紀」のカチュライの子 孫たちの部分を,「系譜」と矛盾しないよう 書き変えていることはすでに見たが[上記 96–97頁および前注18参照],MAShSM:7a では,トゥメネイ・ハンの息子のカチュライ の息子エルデムチ・バルラとその息子トゥダ ンを結ぶ縦線の途中からあたかもトゥダンに 兄弟がいるかのように横線を引き出し,その 線をたどると70葉ほど先79bのカラチャル の父のスグ・セチェンに至り,そこからカラ チャルの6番目の息子イジェルIjilの系図を 経てティムールへとつながっている。JTの バルラス部族の始祖の記述とShPの線引き を残しつつ,ティムールとカラチャルとカ チュライとを「伝承」を反映させたMTに 従って繋ぐとこのような系図になる。

ZT(1):36–44の カ ラ チ ャ ル・ ノ ヤ ン の15人(子孫の系譜が知られているのは7 人)29)の息子たちの子孫を列挙した部分は MAShSM:82b–95bの15人 の 息 子 た ち の ティムール朝時代までの系図にほぼ一致す

30)。また,MAShSM:81b–82aのカラチャ ル・ノヤンに対する長い注記とMAShSM:

96aのティムールの父のタラガイ・ノヤン につけられた長い注記はそれぞれZT(1): 36–37の カ ラ チ ャ ル・ ノ ヤ ン,ZT(1):

41–42のタラガイ・ノヤンの説明の文章に酷

似しており,同一人物が書いた可能性は極 めて高い。カラチャル・ノヤンへの注記の 冒頭の「トルコ人とモンゴル人の伝承者た ち(muwarrikhān-i Atrāk wa Mughūl)は

「チンギス・ハンの規則に則ったかの誓詞の 執 行 者(wāḍi‘-i möčälgä dar tūra (törä)-yi Chīngīz khānī)31)はこのカラチャル・ノヤ ンであった」と伝えている」の部分にはすで に引用したTx.:125のカラチャルの説明と同 じ言葉が使われ,その意味するところも同じ である。また,「カラチャルの子供たちと〔彼 らに〕所属する者たちは,「緑のドーム」の ごとき町ケシュに下馬し,その地方に「居住」

の天幕を打ち立て,それ以来,彼らの息子 たちや孫たちは世代ごとにその地方(diyār) の支配の地位に就いてきた」との文章および 用語もすでに引用したZT(1):37の文章と ほぼ同じである32)。MAShSMのタラガイへ の注記とZTのタラガイの説明とは一字一句 違わないと言ってよい。

以上のMAShSMのヒジュラ歴830年まで の部分とMTの記述の細部にわたる一致は,

両者が同じ1つの資料を見ているか,どちら かが他方をみて作られたかを示している。両 者共通の資料の存在の可能性は残るが,系 図を文章化する意味は無いと思われるので,

筆者はMAShSMMTの記述をもとにして

29)ZT(1):37には19人の名が知られているとされているが,実際に名前があげられているのは15 人である。

30)MAShSM:82b–84aに系図が示されているカラチャル・ノヤンの第1番目の息子のイルダルĪldār の系譜を述べた部分は,ZT校訂本がよった写本が書写された段階から抜けていたようである。そ の部分に当たるZT(1):37,9–12行は系譜の叙述が唐突に終わり,その後意味不明の文章になっ ている。

31)モンゴル語のtöräの意味については川口2007:167–68を参照。

32)MAShSMではZTではケシュにつけられていた諸テュメンという言葉が抜け,ZTのケシュをさす

bilādという言葉がdiyārにかわっている。

(14)

作られた系図であると考えている。すなわ ち,ShPのJT増補版との関係と同じように MAShSMのヒジュラ歴830年までの部分は MTから作成されMTの内容を視覚的にわか りやすく示すための系図であったと考えてい る。MAShSMがMTの記述から作成された のであるなら,830年以降の加筆部分を除く MAShSMの「著者」はハーフィズ・アブルー であり,シャー・ルフの命をうけて830年

(1426/27)にMAShSMを完成させ序文を書 いた最初の無名氏はハーフィズ・アブルーで あることになる。おそらく,830年にシャー・

ルフに献呈されたMAShSMの原本は,専門 の系図描きと画家とによってShPMTが 参照されて線や肖像画が描かれ,それにハー フィズ・アブルー自身または書家がMTを 参照しつつ序文や注記を書き込んでいったの であろう。ハーフィズ・アブルーは,JTと ShPとの関係を強く意識し,自らの編んだ史 書MTの中で最も重要なモンゴル史以降の 部分の登場人物の互いの関係が一層よく理解 されんがために美しい肖像画が多数入った 豪華な系図を作成し,おそらくMTと共に シャー・ルフに献呈したのであろう。献呈 されたMAShSMの原本は現存はしていない が,シャー・ルフ以降もティムール朝ヘラー ト政権の下にあったと思われる。後にこれ に別の無名氏によって多くの修正・加筆が 施され16世紀初頭までの記述がある現存の MAShSM写本の原本が作成された。

5MTJT

はじめに述べたようにハーフィズ・アブ ルーは『選集』の編纂においてはJT第1巻 の初版系統の写本を写している[川本2017:

87, 109]。

JT第1巻の初版系統写本と改訂版系統写

本の「チャガタイ・ハン紀」では,チャガタ イは「オゴタイ・カーアーンの死の7ヶ月前 の638年(1240年7月23日〜1241年7月 11日)中に死んだ」となっている[JT/II (Blochet): 184,パリ209写本:217b,サン クトペテルブルク写本D66:213b,サンク トペテルブルクPNS46写本:194b,ランプ ル写本:56,イスタンブル282写本:410b,

ミ ュ ン ヘ ン 写 本:253a, ロ ン ド ン7628写 本:574b]33)。一方,JT増補版系統写本はす べてチャガタイは「カーアーンの死の1年足 らず後の640年(1242年7月1日〜1243年 6月20日)中に死んだ」となっている[JT:

766,イスタンブル写本:173a,タシュケン ト写本:143a,ロンドン16688写本:15a,

ロンドン3524写本:539b–540a]。

同時代史料のジュワイニーは「カーアーン

(オゴタイ)が死んだ時,彼(チャガタイ) の御前は人びとの群れる場所となり,人びと は遠近から彼の御前に向かった。しかし,彼 に難病の徴候があらわれ,病が治療に打ちか つまで長くはかからなかった」としている

[TJ (1): 227, TJ (Boyle): 272]。 ジ ュ ワ イ ニーによれば,オゴタイ ・ 大ハンの死は639 年Jumādā al-Ākhira月5日(1241年12月 11日)とされているから[TJ (1): 158, TJ (Boyle): 200],増補版の「640年中」という 言葉が正しければ,チャガタイはその8ヶ月 後以降に死んだことになる。

JTの初版は何らかの理由によりジュワイ ニーのチャガタイの死の記述を見逃したかま たは無視してチャガタイの死をオゴタイより も早かったとした。これに対してJT増補版 の編者は初版のチャガタイの死についての記 述を誤りと見なして修正した34)

ハーフィズ・アブルーは「チャガタイ・ハ ンが死んだ時,彼の後にオゴタイ大ハンもま 33)パリ1113写本はこの部分が欠落している。

34)バルトリドはJT第1巻の写本の中にはチャガタイの死の年代が異なる写本が存在することを指摘 したうえでチャガタイの死はオゴタイの死より後であるとしている[Barthold (1928): 473, 505, 注79]。

(15)

たあの世へいった。彼らの死の間は7ヶ月以 上はなかった」[Tx.: 122, 125]とJT初版に 従っている。ヤズディーの伝える「伝承」に は「〔チャガタイは〕オゴタイ大ハンの7ヶ 月前の丑年にあたる638年のDhū al-Qa‘ada 月(1241年5月14日〜6月12日)にこの無 常の世から旅立った」[ẒNY: 206]とあり,

ハーフィズ・アブルーは「伝承」に従ったの かもしれない35)。では彼はJTの増補版を見 ていないのであろうか。

JT初版ではチャガタイの息子の数は8人 で①モチ・イェベ②ムワトゥケン③イェス・

モンケ④ベルゲシ⑤バイジュ⑥バイダル⑦カ ダカイ⑧サルバン36)の順番になっている。

増補版およびShP:108aでは初版の5番 目の息子バイジュはムアトゥケンの息子の第 1番目に移され,7番目の息子カダカイはム アトゥケンの息子ブリの息子の第1番目に移 され,2人の名がチャガタイの息子たちから 削除され,息子の数は6人になっている。ま た,初版の第1子モチ・イェベと第2子ムア トゥケンを入れ替え,2人以外の息子の順番 も変えられて①ムワトゥケン②モチ・イェベ

③ベルゲシ④サルバン⑤イェス・モンケ⑥バ イダルとなっている。増補版の編者は,初版 でチャガタイの長子とされたモチ・イェベは

「オルドの女奴隷」の子であること,初版の チャガタイの息子バイジュはムワトゥケンの 息子であること,カダカイはムワトゥケンの 息子ブリの息子であること,との情報を得て,

モチ・イェベとムアトゥケンを入れ替え,バ イジュ,カダカイをチャガタイの息子から削 除し,それぞれ孫と曾孫の位置に入れたので

ある[川本2017: 85–86, 97–98, 105–107]。

増補版をみて初版を修正している改訂版で は,初版の息子の数8人とモチ・イェベを長 子とすることは変えず,しかし③から⑥まで は増補版の順番に従い,①モチ・イェベ②ム ワトゥケン③ベルゲシ④サルバン⑤イェス・

モンケ⑥バイダル⑦カダカイ⑧バイジュと増 補版で削除された2人を最後にもってきてい る[川本2017: 83–84]。しかし,改訂版は,

ムワトゥケンの子供たちに関する説明は初版 ではなく増補版をそのまま写しているのでバ イジュ,カダカイはそれぞれ孫と曾孫の位置 に再び現れている。改訂版は初版の息子の数 をそのままにして増補版の修正をとりいれよ うとしたため,バイジュ,カダカイをチャガ タイの息子としながらも同名の2人を孫と曾 孫の位置に入れるという矛盾を抱え込んでい るのである。

これに対してMTのチャガタイの息子の 数と順番は初版に完全に一致するが,増補版 では削除された5番目,7番目の息子の名前 が初版と異なっている。Tx.:108では①モ チ・イェベ②ムワトゥケン③イェス・モンケ

④ベルゲシ⑤サン・ベルケSān Bilkā(息子な し)37)⑥バイダル⑦カラ・イルクQara Yīlkū

(息子なし)38)⑧サルバンとなっている。ハー フィズ・アブルーは増補版系統の写本をみて 初版に書かれている息子たちの数と順番を変 えずに増補版では削除された2人の息子の 名前を別の名前に変えているのである。初版 と一致しない5番目,7番目の息子の名前は MAShSM:29bの8人 の 息 子 の う ち の2人 と一致することはMAShSMMTをもとに

35)MAShSM:28bのチャガタイに対する注記には「オゴタイ・カーアーンの死の7ヶ月後の640年

中に死んだ」としてMTを修正している。しかし,共通の「7ヶ月」という言葉があることに注意 しなければならない。

36) Tx.:108では①はMītūkān,③はBerdesī,⑧はSārmānと表記されているがここではJTの一般 的な息子たちの読みに従う。

37) Tx.:117ではサイン・ベルケSāīn Bilkāとなっている。

38) Tx.:118は7番目の息子カラ・イルクQara Yīlkūに関して「彼をカダカイとも言う。息子はいなかっ た」と説明しているが,JT初版および改訂版では7番目の息子カダカイには,ナヤ,ブク,ナリク,

ブカ・テムル,ブカの5人の息子がいたとされている[JT/II (Blochet): 21, 川本2017: 97–98]。

参照

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