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漢魏洛陽城・北魏宮城3号 建築遺構の発掘調査

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Academic year: 2021

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漢魏洛陽城・北魏宮城3号 建築遺構の発掘調査

      はじめに

 2008年3月、奈良文化財研究所と中国社会科学院考古 研究所の間で、漢魏洛陽城の共同発掘調査に関する協定

が結ばれた。それに基づき、北魏宮城中心部の発掘調査 を進めているが、2009年度は発掘第2年目にあたる。

 2009年度は春期(4月〜6月)・秋期(10月〜12月)の2回 にわたり、発掘調査を実施した。春期には2008年度に発 掘した2号建築遺構の断ち割りと3号建築遺構の試掘調

査をおこない、秋期には3号建築遺構の全面発掘をおこ なった。以下、その概要を報告する。

     1 2号建築遺構の発掘調査

 漢魏洛陽城の宮城部分については、1960年代のボーリ ング探査でおよその構造が判明している(図20)。2号建 築遺構は、1999年〜2000年に発掘調査された宮城正門:

間間門(中国社会科学院考古研究所2003)の北側95mに位置

千秋門

=隔壁 一版築   道路

14

西旅門

華林園

閣閣門 司馬門

図20 北魏宮城の構造と調査地

奈文研紀要2010

雲竜門

東抜門

し、2008年度の全面発掘によって大型の版築基壇をとも なう門遺構である事実が判明した(城倉2009、中国社会科 学院考古研究所・日本独立行政法人国立文化財机杓奈良文化財 研究所朕合考古臥2009)。

 基壇は東西44.5 m、南北24mの長方形で、真北に対し て4度時計回りに軸線が傾いている。門が使用されてい た時期は北が高く南が低い地形だと考えられ、当時の地 形を反映するように南側は残りがよく、基壇と地面には 約15cmの比高差がある。一方、北側は基壇版築と地面が 現状では平坦になっており、長さ32cm、幅16cm、厚さ6 cm 平均の傅積み外装が東西に残存している。

 基壇上には、基壇版築を更に掘り込んだ版築が認めら れ、東西2基の基台、その間に2基の隔壁が確認できる

(図21)。基台と隔壁に挟まれた3門道部分は南側に検出 している漫道(スロープ)の位置と対応している。基台

と隔壁上、さらに隔壁の南北には建物の柱位置を示すと 思われる版築と撹乱坑が確認されている。その痕跡から、

東西7間、南北4間の殿堂式建造物が推定できる。

 さらに、基壇上を東西南北に横切る形で設定した2009 年度春期の断ち割りトレンチでは、門基壇を大きく掘込 地業した後に、隔壁・基台部分を改めて栓褐色の土を用 いてさらに掘込地業している点が判明した(図22)。

     2 3号建築遺構の発掘調査

 2号建築遺構の北側には探査で大型の版築が確認され ていたが、その部分を2009年度春期に試掘調査して範囲 確認をおこなった。その成果を踏まえ、秋期には3号建 築遺構を全面発掘するため東西60m、南北30m、合計 1800 「の調査区を設定した。その結果、東西約36m、南

西門道 漫道 東門道

図21 門遺構の模式図(闇闇門より)

(2)

図22 2号建築遺構の隔壁版築の断面

     図24 3号建築遺構基壇上の版築(南東から) 北約9mの不整形な版築基壇と、その東西に続く版築を 確認した(図23)。版築基壇上には、2号門の基台・隔壁 の基礎に酷似する版築を合計6基検出した(図24)。

 版築基壇とその北側は約50cmの段差があり、低くなる 北側地面は全面版築されている可能性が高い(図25)。さ らに、版築基壇の東西には北側の段差を降りるためと思 われる階段状の遺構も検出している。また、版築基壇の 上面には、建物の柱位置を示すと思われる掘り込みが確 認できる。東西4間、南北3間の柱痕跡が中央の撹乱を はさんで東西にシンメトリーに展開する。さらに、それ ぞれの東西には2間分の張り出しが付随する。

 以上のように3号建築遺構の平面形状は、関関門およ び2号門のそれとは大きく異なっている。今後の断ち割 りと東西への拡張を踏まえた上でその位置づけを考えて いく必要があるものの、基壇版築とその上面に検出され ている栓褐色版築の位置関係は、間間門・2号門の基壇 前面の状況と相通じるものがあり、その有機的関連性が 推測される。

図23 3号建築遺構の全景(北西から)

図25 3号建築遺構北側の段差(北東から)

      おわりに

 2009年度は共同発掘調査2年目にあたり、3号建築遺 構のおよその平面形状を把握することができた。来年以 降は3号建築遺構の東西と北側に拡張区を設定し、さら には細部の断ち割り調査などを予定している。また、太 極殿周辺の試掘調査も予定しており、漢魏洛陽城の北魏 宮城構造の解明に向けて更なる進展が期待される。

      (城倉正祥) 引用文献

城倉正祥「漢魏洛陽城・北魏宮城2号門の調査」『紀要2009』。

中国社会科学院考古研究所・日本独立行政法人国立文化財机 杓奈良文化財研究所朕合考古臥「河南洛旧市膜魏故城新友現 北魏官城二号建筑遺址」『考古』2009年第5期考古茶志社、

2009。

中国社会科学院考古研究所「河南洛阻混魏故城北魏官城朗園

∩遺址」『考古』2003年第7期考古茶志社、2003。

研究報告 15

参照

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