薗田香融先生のご逝去を悼む
その他のタイトル Commemorating Prof. Emeritus SONODA Koyu
著者 西本 昌弘
雑誌名 史泉
巻 125
ページ 1‑3
発行年 2017‑01‑31
URL http://hdl.handle.net/10112/16348
私 たち の敬 愛す る薗 田香 融先 生に は︑ 去る 二〇 一六 年八 月四 日︑ 入院 先で ある 和歌 山市 の堀 口記 念病 院に おい て逝 去さ れた
︒享 年八 十七
︒二
〇〇 九年 三月 の傘 寿の お祝 い会 前後 から は︑ 肺の 機能 を補 うた め酸 素ボ ンベ を携 帯し てお られ たが
︑ま だま だお 元気 で各 地の シン ポジ ウム や博 物館 など に出 かけ てお られ た︒ 今年 一月 に腰 を痛 めて 入院 され たの は︑ さす がに 心配 であ った が︑ 暖か くな れば ご退 院の 予定 とう かが い︑ 楽観 して いた ので
︑急 な訃 報に 接し
︑た だた だ驚 くば かり であ った
︒八 月八 日に お通 夜︑ 九日 に告 別式 が行 われ たが
︑猛 暑の 中︑ 宗門 関係
︑和 歌山 市・ 和歌 山県 関係
︑関 西大 学・ 京都 大学 関係
︑日 本古 代史
・仏 教史 関係 など の弔 問者 が大 勢詰 めか け︑ 先生 との 別れ を惜 しん だ︒ 薗 田先 生は
︑一 九二 九年
︵昭 和四
︶に 和歌 山市 でお 生ま れに なり
︑第 三高 等学 校を へて
︑一 九四 八年 に京 都大 学文 学部 史学 科に 入学 され た︒ 一九 五一 年の ご卒 業後 は︑ 同大 学大 学院 に進 学さ れた
︒一 九五 三年 六月 に関 西大 学に 助手 とし て迎 えら れ︑ 専任 講師
・助 教授 をへ て︑ 一九 六五 年に 教授 に昇 任さ れた
︒そ の後
︑一 九九 九年
︵平 成十 一︶ に定 年退 職さ れる まで
︑実 に約 四十 六年 の長 きに わた って 関西 大学 に在 職さ れた
︒こ の間
︑恩 師の 横田 健一 先生 とと もに 関西 大学 古代 史研 究会 を主 宰さ れ︑ 多く の古 代史 研究 者・ 考古 学研 究者 を育 てら れた
︒ま た︑ 関西 大学 史学
・地 理学 科の まと め役 とし て長 年骨 を折 り︑ 同窓 会の 創設
・運 営に も尽 力さ れた
︒本 学の 史学
・地 理学 部門 が長 く繁 栄し たの は︑ 薗田 先生 が表 看板 とし て活 躍さ れた だけ では なく
︑縁 の下 の力 持ち とし ても 支え て下 さっ たこ とが 大き く与 って いる
︒ 第 三高 等学 校に おい て横 田健 一先 生︑ 京都 大学
・同 大学 院に おい て柴 田實
・赤 松俊 秀・ 那波 利貞 の諸 先生 に学 び︑ 日本 古代 の仏 教史
・政 治史 の研 究を 志さ れた 薗田 先生 は︑ 大学 院生 時代 から 粒ぞ ろい の名 論文 を次 々に 発表 され
︑や がて 戦後 を代 表す る古 代史 家と して 万人 の認 める 存在 とな られ た︒
﹃日 本古 代財 政史 の研 究﹄
︵ 一九 八一 年︶ に 結実 し た 正 税帳 や 出 挙に 関 す る緻 密 な ご 研究
︑﹃ 平 安 仏教 の 研究
﹄︵ 一 九 八 一年
︶に 集 成 され た 山 林仏 教 や 最 澄の 東 国 伝道 に 関 する 透 徹 し たご 研 究︑
﹃ 日本 古 代 の貴 族 と 地 方豪 族
﹄︵ 一 九九 二 年
︶
薗 田 香 融 先 生 の ご 逝 去 を 悼 む
西 本 昌 弘
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に まと めら れた 藤原 仲麻 呂や 紀国 造の 精密 なご 研究 など は︑ 他の 追随 を許 さ ない 重厚 な業 績と して
︑現 在も 通説 の地 位を 保っ てい る︒ また
︑紀 伊半 島 にお け る仏 教 関 係 史料 を 集 成し
︑詳 細 な 解説 を 付 し た﹃ 南紀 寺 社 史料
﹄
︵ 二〇
〇 八年
︶は
︑二
〇 余 年 間に わ た る共 同 研 究の 成 果 を 凝縮 し た もの で あ る
︒さ ら に
︑二
〇 一 六 年 二 月 に 刊 行 さ れ た﹃ 日 本 古 代 仏 教 の 伝 来 と 受 容
﹄に は︑ かの 有名 な間 写経 や最 澄の 思想 に関 する ご論 考は いう まで もな く
︑ア ジ ア全 体 を 視 野に 入 れ て 仏 教 の 伝 播 を 論 じ た 力 作 が 収 録 さ れ て お り
︑米 寿 を 迎 え る 八 十 七 歳 で の ご 出 版 に︑ 受 講 生 一 同︑ 大 変 驚 く と と も に
︑大 いに 勇気 づけ られ たこ とで あっ た︒ 薗田 史学 の真 骨頂 は︑ 精緻 な実 証と 明快 な論 理に よっ て︑ 説得 力あ ふれ る 新見 解を 打ち 立て られ ると ころ にあ るが
︑そ の背 景に は︑ 広い 視野 から 物 事の 本質 を見 抜く 卓越 した 能力 を備 えら れて いた こと があ ろう
︒先 生の 学問 に魅 了さ れた 研究 者は 数多 く︑ 各地 の大 学か ら先 生を 慕う 門下 生が 集ま って きた
︒先 生の 探究 心は 病床 でも 衰え るこ とが なく
︑最 澄の
﹁照 千一 隅﹂ 問題 や﹁ 石山 本願 寺﹂ の呼 称問 題の 行方 に最 後ま で関 心を 寄せ
︑先 生な りの 解決 を目 指さ れて いた
︒研 究へ のあ くな き執 念に は感 じ入 るば かり であ る︒ 大 学運 営の 面で は︑ 一九 六九 年と 一九 七四 年に 文学 部長 を務 めら れた
︒最 初の 学部 長時 代は 関大 の学 園紛 争が もっ とも 激し くな った 時期 で︑ 先生 は学 長事 務代 行代 理に 任命 され
︑難 局の 収拾 に 当た ら れ た︒ こ のと き 先 生は
︑﹃ 岩 波 講座 日 本 歴 史﹄ に﹁ 国家 仏 教 と社 会 生活
﹂と いう ご論 考を 執筆 中で あっ たが
︑多 忙の ため なか なか 進捗 しな かっ たの で︑ 学生
・機 動隊 が取 り囲 む夜 中の 関西 大学 まで
︑岩 波書 店の 重役 が原 稿の 督促 に来 られ たと いう エピ ソー ドを
︑近 著の あと がき で披 露さ れて いる
︒関 大古 代史 研究 会の 先駆 けと なる 続日 本紀 輪読 会が
︑先 生と 学生 三名 とで はじ まっ たの も︑ この 学園 紛 争の 年 で あ った
︒そ の 後︑ 関 西大 学 の 百周 年 に あ たっ て は︑
﹃ 大学 百 年史
﹄の 執筆
・編 集・ 監修 に奔 走さ れ︑ 百周 年記 念事 業と して イン ドの 祇園 精舎 遺跡 を発 掘す るこ とが 決ま ると
︑先 生は 副本 部長 に就 任さ れ︑ 本部 長の 網干 善教 教授 を支 えな がら
︑日 本・ イン ドの 共同 発掘 を指 揮さ れた
︒ 先 生は 学外 でも
︑さ まざ まな 分野 で活 躍さ れた
︒一 九六 三年 以降
︑和 歌山 市で は岩 橋千 塚を はじ めと する 古墳 群の 発掘 調査 を牽 引さ れ︑ 一九 七八 年に は和 歌山 県野 上町 の小 川地 区で 天平 年間 の﹁ 御毛 寺知 識経
﹂を 含む 大般 若経 六〇
〇巻 を発 見し
︑こ れを 学界 に紹 介さ
1999年3月13日 古稀記念祝賀会にて
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れた
︒ま た︑ 兵庫 県史
・和 歌山 県史
・吹 田市 史・ 和歌 山市 史の 編纂 に尽 力さ れた
︒一 九八 九年 に和 歌山 市の 和歌 の浦 にお いて
﹁新 不老 橋﹂ の建 設計 画が 持ち 上が ると
︑先 生は この 車道 橋は 和歌 の浦 の歴 史的 景観 を破 壊す るも ので ある とし て反 対す る住 民訴 訟の 原告 団長 に就 任さ れた
︒こ れは 住民 の景 観利 益に 注目 した 最初 の訴 訟と して 画期 的な もの であ った が︑ 先生 は研 究に 対す ると 同じ 厳し さを もっ て︑ 社会 正 義 を 追求 さ れ たの で あ った
︒さ ら に︑ 奈 良 県立 橿 原 考古 学 研 究所 の 指 導 研究 員 や 研究 顧 問 を長 く 務 め られ
︑仏 教 史 学会 会 長︑ 大阪 歴史 学会 代表 委員
・同 事務 局長 を歴 任さ れる など
︑全 国的 な学 会活 動の 面で も大 きな 役割 を果 たさ れた
︒ 最 後に 教育 の面 では
︑先 生は 大変 厳し い指 導を され たと 聞き 及ぶ
︒先 生の 犀利 な頭 脳は
︑学 生・ 院生 の報 告や 論文 の問 題点
・誤 りを 瞬時 に見 破っ たの では なか ろう か︒ その 一方 で︑ 学部 生の ゼミ 旅行 や大 学院 生の 研修 旅行 を熱 心に 催さ れ︑ 日本 各地 の史 跡や 寺社 を訪 ねて は︑ 学生
・院 生と の交 流を 深め られ た︒ 普段 の教 室で は目 にす るこ との ない 先生 の一 面に 触れ て︑ 認識 を改 めた り︑ 親近 感を 深く した 人も 多か った に違 いな い︒ 先生 は卒 業生 の行 く末 にも 細や かな 配慮 を忘 れな かっ たと いう
︒本 務校 以外 でも
︑先 生は 東北 大学
・京 都大 学・ 大阪 大学
・富 山大 学な どに もご 出講 され
︑各 地に 門下 生を 増や して いか れた
︒ 薗 田先 生の ご発 案で
︑二
〇一
〇年 三月 から 年に 一回
︑同 窓会 を兼 ねた 関西 大学 古代 史研 究会 の懇 談会
・懇 親会 が開 催さ れ︑ 新大 阪・ 関西 大学
・和 歌山 市な どと 会場 を変 えな がら
︑二
〇一 四年 三月 ま で 継 続さ れ た︒ 先 生み ず か ら﹁ 法師 天 皇 考﹂
︑﹁ 本 願 寺 史へ の 一 断想
﹂ など と題 して 講演 され
︑横 田健 一先 生ご 夫妻 もお 招き して
︑新 旧会 員の 交流 をは かる 楽し い会 とな った
︒若 い学 生・ 院生 が薗 田先 生の 謦咳 に接 する よい 機会 とも なり
︑先 輩諸 氏と 懇親 を深 める 貴重 な時 間と もな った
︒最 後ま で学 問へ の探 究心 を失 わず
︑門 下生
・受 講生 とと もに 楽し く学 ぶこ とを 実践 され た先 生に は︑ まこ とに 頭の 下が る思 いが する
︒先 生の 生前 のご 指導 とご 厚情 に対 して
︑心 から 感謝 申し 上げ
︑謹 んで ご冥 福を お祈 りい たし ます
︒
︵ 関 西 大 学 文 学 部 教 授
︶
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