─ 運命の円環を断ち切る力

全文

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はじめに:女たちの物語『精霊たちの家』

 イサベル・アジェンデ(Isabel Allende, 1942- )の処女作『精霊たちの家』(La casa de los espíritus,

1982)

1は、しばしば女たちの物語だと論じられる。クラーラからブランカ、そしてアルバへとい

たる三世代の女たちの物語は、家父長制や男性優位主義〈マチスモ〉が強く根づいた時代の社会 を背景としながらも、強力な存在感を発揮する。男性の登場人物エステーバン・トゥルエバは、

物語の中心に存在し、一人称の語りを与えられているにもかかわらず、まるで女たちの存在に よってのみ立ち現れてくるかのようである。祖母であるクラーラの残した記録をもとに孫である アルバが綴るという、この小説の円環的な構造そのものも女たちの繋がりを基盤にして成り立っ ている。しかし、この作品には、そのナラティヴを牽引していく中心的な女性登場人物たちだけ ではなく、固有名詞すら与えられていない女性も数多く登場し、それぞれの生を生き抜くさまが 描かれる。本稿では、ストーリーの周縁にいる女、とりわけ、作品の終盤にたった一度だけ登場 し、二ページにも満たない分量でわずかに描写される、ある女の微笑みに注目し、その力がもた らす可能性について考察する。

Ⅰ.軽やかな魔法の世界から重苦しい現実へ

 女たちの物語は、美女ローサから始まる。この美しい娘にエステーバン・トゥルエバは心を奪 われ、結婚を約束するが、あるパーティが行われた日にローサは突然亡くなってしまう。知らせ を聞いて駆けつけたトゥルエバを見て、奇妙な透視能力があったローサの妹クラーラは、いずれ 自分がこの人と結婚することになるだろうと予感する。実際、トゥルエバは成長したクラーラと 再会し、結婚する。二人の間には、ブランカという娘とハイメとニコラスという双子の息子たち が生まれる。トゥルエバは、鉱山で富を築き、農場を再興し、のちに保守党の国会議員となる。

一家は毎年、農場で夏を過ごしていたが、娘のブランカは差配人の息子ペドロ・テルセーロ・ガ ルシアと幼友達として育つ。やがて成長した二人は恋仲となり、ブランカはテルセーロの子供を 身ごもるが、二人の仲はトゥルエバの意に沿わなかったため、ブランカはフランス人の伯爵ジャ ン・ド・サティニィと政略結婚させられてしまう。ところが、彼に異常な性癖があることが分か り、ブランカは実家に逃げ帰る。その後、ブランカはアルバという女の子を出産する。アルバは

花 田   愛

運命の円環を断ち切る力

─『精霊たちの家』における名もなき女の沈黙の微笑み

◆ 研究ノート

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トゥルエバにかわいがられてすくすく育つが、彼女が大学へ進学した頃から国内の政治情勢が揺 らぎ始め、ついに左派政党による社会主義政権が樹立する。しかし、右派である軍がクーデター を起こし、大統領官邸の宮殿は爆撃され、国民への激しい弾圧が始まる。アルバも捕らえられて 凄まじい拷問を受け、レイプされる。その後、釈放されて路上に打ち棄てられたアルバは、(本 稿でも注目する)名もなき女の手助けもあり、何とか生き延びて屋敷に戻り、祖母クラーラの手 記をもとに一族の歴史を綴りながら自分のお腹に宿った命を産み育てることを決意する。

 この三世代にわたる女たちの物語には、一族の百年近い歴史が織り込まれている。小説の前半 は、精霊たちが現れたり、不思議な出来事が起こったりして、魔術的な世界が繰り広げられるが、

それもブランカの世代までで、アルバの世代になると物語は国内の政治不安や軍による弾圧およ び虐殺へと照準が絞られていく。出来事の展開がはやく軽やかな序盤とはうってかわって、小説 後半になると語りの速度は遅くなり、あらゆる描写が重く濃密になっていく。これほどの濃度で もって小説の最後に語られるのは、軍によって行使される非日常的な暴力である。ガルシア大佐 のもとへと連行されたアルバは、何度も暴行され、独房に入れられ、電気ショックを受ける。数々 の苦痛に耐えられなくなり、ひと思いに死なせてもらおうとアルバは精霊たちの名を呼ぶが、彼 女の求めに応じるものはない。この重苦しいナラティヴに奇跡を起こすような魔術的要素はほと んどない。アルバに対するガルシア大佐の個人的な怨恨だけではなく、軍部による組織的な暴力 が人々の社会的な地位や人間としての尊厳までをも剥ぎ取り、あらゆる規範や理念を破壊してい く様子が終盤で語られる。女性たちは組織的にレイプされ、収容所へと送られる。特に、最終章 とエピローグにおける生々しい暴力の描写は、読者にとって目を背けたくなるほど凄惨である2 この圧倒的な暴力が語られた後に迎えるエンディングは、それゆえに、読者に戸惑いにも似た感 情を残す。本稿では、名もなき女の微笑みの力を検証するために、まずはこの小説のエピローグ で語られるアルバの決意と物語の結末を紐解くことで、彼女の語りに内在する再生産という問題 を提起してみたいと思う。

Ⅱ.アルバの選択と運命論的な円環構造がはらむ再生産という問題

 アルバはエピローグにおいてある決意を語る。拷問のときのレイプによってか、愛するミゲル との間にできたのかはわからないが、自分のお腹に宿った命を産むという決意である。以下の引 用は、その決意を表した文章である。

私は今、生きることが自分のつとめであり、憎しみをこれ以上持続させず、この物語を書き つづけることが自分の使命だと考えようとしている。その一方で、ミゲルを待ちつづけ、(中 略)自分のお腹の中にいる赤ちゃんをはぐくみながら、もっといい時代が来るのを待とうと 考えている。お腹の子は、何度も暴行されたためにできたのか、それともミゲルとの間にで きたのかは分からない。けれども、私の子であることだけはまちがいない。[下巻 371]

 唐突とも思えるこの告白に、動揺をおぼえる読者も多いだろう。というのも、最終章とエピ ローグで展開する軍組織による圧倒的で凄惨な暴力を嫌というほど目撃させられ、アルバの受け

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た苦痛をほとんど追体験しているせいで、読者は、憎しみや怒りの感情をいとも簡単に消し去り、

すべてを許容しようとする、彼女のこの決意を容易には受け止められないのである。

 また、お腹の子を産むというアルバの選択から、読者は逆説的に、堕胎という選択肢はなかっ たのかと思い至るかもしれない。妊娠中絶をめぐる問題はこれまで世界中で議論されてきたが、

彼女の選択について考えるときに、この国で─チリであるとは明確には言及されていないもの の─長らく堕胎が非合法であったということを想起する必要がある。チリにおいては、2017年、

初の女性大統領で小児科医でもあったミチェル・バチェレ前大統領が、ピノチェト大統領政権下 で導入された厳格な妊娠中絶禁止法の緩和に成功したばかりである。チリでは、女性の身体に対 する自己決定権の正当性を得る闘いは始まったばかりなのだ。この国では、女性たちは二重に蹂 躙されてきた。強姦され、たとえそれで妊娠したとしても、堕胎を許されなかったのである。こ のような史実を踏まえると、アルバの選択は、彼女自身が生き延びるためには、やむをえない選 択であったのかもしれない。

 しかしながら、文学テクストとして、フィクショナルな言説として、この作品を読むときに、

アルバの選択の危うさに目を向けておく必要があるだろう。彼女がお腹の子供を産むという象徴 的なエンディングは、母性を強調し、称揚する。軍の組織的なレイプによる妊娠かもしれないの に、アルバの語りにおいては、すべてを許し包み込むというような母性が強調され、「それでも 子供を生む」という決意が重ね書きされていく。この重ね書きによって、本来、一連の出来事の 原因であったはずの暴力が、不可視なものとされてしまうのではないだろうか。それは、妊娠と いう現象の起因となっている性的暴力を、母性という覆いを被せることで不可視にし、出産を選 択することでその構造を再生産してしまっているとも言える。母性主義を担う女性像は、裏返す と男性優位主義や父権主義と共犯関係にあると言える。

 それと同時に、産まれた子を育てる育児という行為は、再び繰り返されるであろう因縁の再生 産へと加担することにもなる。次の引用は、同じくエピローグにおいてアルバが一連の出来事を 振り返っている場面だが、この小説において最も問題をはらんでいると私が考える箇所である。

すべてのことは偶然の所産ではなく、生まれる前からすでに定められていた運命の図式にほ かならず、エステーバン・ガルシアもその図式の一部でしかなかったのではないだろうかと いう気がする。たしかにゆがみねじれた図にはちがいないが、すべての線はなんらかの意味 を備えている。遂行されるべき一連の行為はすでに定められていた。そして、祖父が川岸の 茂みで彼の祖母パンチャ・ガルシアを押し倒した時、その一連の行為にひとつまた新しい結 び目が付け加えられたのだ。その後、強姦された女の孫が強姦した男の孫娘に対して同じこ とをし、おそらく四十年後には私の孫が彼の孫娘を川岸の茂みで押し倒すことになるだろう。

苦痛と血と愛の果てしない歴史の中で、これから何世紀にもわたってそういうことがくり返 されるのだ。[下巻 369]

 このアルバの語りは、運命論的な円環構造のうちに物語を閉じてしまおうとする。「すべての 行為」を「変えることのできない儀式」[下巻 370]として捉えるこの結末は、あらゆることを事

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物間の連関に過ぎないものとし、そこに自由な意志が介在する余地を与えない。どんなに強い意 志があろうとも、どんなに抗おうとも、すべては運命の輪の中に回収されてしまうのだ。アルバ にとっては、祖父トゥルエバの悪行も、軍組織のもとで自らが受けたレイプも、自分の子孫が将 来、犯すであろう過ちも、それぞれ過去・現在・未来を繋ぐ運命の糸にひとつずつ付け加えられ ていく結び目に過ぎず、避けようもない、乗り越えられない出来事として扱われる。お腹の子を 生むというアルバの選択も、のちの世代に因縁が引き継がれることによって、新たな暴力を再び 生む因子となる。そして、彼女の語りは、それを運命論的な円環構造の中に組み込むことによっ て、あたかも果てしない歴史の因果に過ぎないものとして諦観のうちに許容しようとする。

 再生産されていく暴力は、小説後半の残酷で組織的なものだけにとどまらず、前半に描かれる 日常のそれにまで及ぶ。日常の暴力は「些末なもの」であるかのような印象を与えるかもしれな いが、この諦観を含んだ語りからは、アルバが経験した軍政による組織的なレイプという非日常 的な出来事の裏に、トゥルエバの暴力に代表されるような家父長制という日常的権力が作動して いることが透けて見える。

 例えば、「祖父が川岸の茂みで彼の祖母パンチャ・ガルシアを押し倒した」[下巻 369]行為とい うのは、エステーバン・トゥルエバがラス・トレス・マリーアスの農場で屋敷の修復や農地の改 良に着手した頃のエピソードを指している。トゥルエバの支配は、階級的なものだけではなく、

性的なものにまで及んでいく。その一人目の犠牲者となったのが

15歳の少女パンチャ・ガルシア

だ。ある日の夕方、トゥルエバは帰宅途中のパンチャを川岸の茂みで強姦する。処女を奪われた パンチャは静かにすすり泣き、その後はただ黙ってトゥルエバに従い3、翌日から屋敷で働き始め、

トゥルエバに「所有」されることになる。「自分の前には母親が、母親の前には祖母が牝犬のよ うに犯されたが、彼女も同じ運命をたどった」[上巻 103]という記述からは、この農場での支配 者による被支配者へのレイプはこれが初めてではないことがわかる。さらにトゥルエバの暴虐非 道ぶりや猟色ぶりは度を越すようになっていく。パンチャの妊娠が分かると彼は次のターゲット を探すようになり、農場周辺の少女たちはひとり残らずトゥルエバに処女を奪われてしまう。こ うしてトゥルエバは、数多くの私生児を作るが、口答えや反論を一切許さない彼の怒りっぽい性 格は伝説と化し、誰も正面切って反抗することができない。第二、第三のパンチャが、そして彼 女たちによって産み落とされた第二、第三の私生児エステーバン・ガルシアが、家父長制のもと で振るわれた暴力の副産物としてあまた存在しているわけだ。小説の後半に描かれる弾圧や虐殺 と比べて、トゥルエバによる農場の再建は、あたかも日常の風景、あるいは平時の出来事として 描かれているが、断行されていく植民地化のプロセス4と捉えると、そこに介在する暴力は決して

「些末なもの」ではない。

 このほかにもトゥルエバによる日常的権力が作動している例として、彼の家庭内暴力も挙げる ことができる。トゥルエバは自分の支配が及ばないと分かると、怒りに任せて娘のブランカや妻 のクラーラに暴力を振るう。特にひどいのは、娘ブランカの恋の相手が差配人の息子ペドロ・テル セーロ・ガルシアであると知ったときである。テルセーロは革命の思想を広めたかどで、農場か ら追放されていた。幼い頃からテルセーロを慕っていたブランカは、それでも彼との密会を繰り 返す5。このことを知ったトゥルエバは、烈火のごとく怒り、ブランカに襲い掛かって鞭を振り上

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げ、情け容赦なく打ちすえる。血と泥にまみれて屋敷に担ぎこまれたブランカを見た妻のクラー ラがトゥルエバを諫めようとすると、彼は歯を数本折るほどにクラーラの顔を殴りつける。ク ラーラは、以後死ぬまで夫とは口をきかなくなる6。妻と娘は農場を去り首都へと逃れるが、トゥ ルエバは怒りの矛先をテルセーロにも向ける。彼はテルセーロを見つけ出し、斧を振り下ろして 右手の指を三本切り落とす。このトゥルエバのエピソードからは、家父長としての、あるいは支 配者としての権威を脅かされることへの不安が暴力へと転化していく様子がみてとれる。トゥル エバにとって暴力は権力を維持するための手段であり、それは日常のなかでいとも簡単に被支配 者へと向けられていく。

 ブランカが無理やり結婚させられた相手ジャン・ド・サティニィ伯爵による性的暴力も同質で ある。彼は、屋敷内の奥の部屋を《実験室》と呼び、鍵をかけ、写真の暗室として使っていた。

表向きは写真芸術に造詣が深いふりをしていたが、実際にはミイラに扮したインディオの使用人 たちを毎晩、ひそかに《実験室》に呼びよせ、拷問を思わせるみだりがわしい彼らの姿を写真に 撮り、それを壁一面に貼り付けていたのだ。規範から逸脱した自らの性的欲望を満たすために、

サティニィ伯爵がインディオの使用人たちをその対象として搾取していたことを知ったブランカ は身重の体で屋敷を出て実家へと逃げ帰る。

 このように物語の前半部分では、トゥルエバによるレイプや家庭内暴力、サティニィ伯爵の性 的強要が、日常のなかに根深く入り込んでいる様子が描かれる。こうした日常のなかで行われる 身体的、精神的、性的な暴力による支配は、後半の軍による残酷で組織的な拷問の描写のせいで、

一見、相対的に「些末なもの」であるかのような印象を与える。しかし、実は、これらの日常の 支配と非日常の暴力は地続きなのだということを忘れてはなるまい。近代における家父長制度や 男性優位主義〈マチスモ〉と軍事システムとの間に根深い関係があることは、これまでにも指摘 されている7。日常的な支配の構造が露出するのが戦場という非日常的な場所であるとも言える。

そして、アルバの語りは、非日常的な組織的暴力だけではなく、先に挙げたような日常的権力に よって構築された文化コード(例えば、社会的規範や価値観、慣習など)までをも、運命論的な 円環構造のうちに組み込み、物語を閉じることで、それらを再生産しているのである。

 子を産むというアルバの決意は、軍による組織的な暴力を不可視化してしまう可能性を内包し ている。また、彼女のこの選択が、運命論的な円環構造のなかに組み込まれることによって、因 縁の再生産へとつながっている。アルバの導く結末は、さらに、諦観のうちに自由な意志を否定 し、軍による組織的な暴力と日常における暴力の両者を、男性優位や家父長制によって構築され る文化コードを再生産することで容認してしまっているのである。

Ⅲ.アルバを救済する名もなき女の表象

 さて、エピローグでは、アルバが(自身の語りで)、ガルシア大佐や軍組織による激しい拷問 とレイプののちに釈放され、ゴミ捨て場にトラックで運ばれて瀕死の状態で打ち棄てられる様子 が描かれる。どうにかたどり着いた貧しいあばら屋には、一人の女性がいる。この女性がアルバ を救済するその人なのであるが、彼女の描写は極めて少ない。しかし、その少ない記述からでも 彼女の人となりや貧しい生活ぶりが具体性をもって伝わってくる。「背が低くて色が黒く、脚の

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血管が浮き出」て、「歯が二、三本欠けている」[下巻 364]、この女性が暮らすあばら屋は、「裸 電球がひとつぽつんとついているだけで、(中略)家具らしいものと言えば、松の木のテーブル がひとつに安物の椅子が二脚、それに大勢の子供たちが重なりあうようにして眠っているベッド が一台しか」[下巻 364]ない。彼女は毛布と温かい飲み物を用意し、明け方までアルバと色々な 話をするのだが、この後、アルバの語りは、彼女のことを次のように描写する。

彼女はわが国でよく見られる逞ましくて働きものの女性だった。つまり、自分の人生を通過 していった男たちとの間にひとりずつ子供をもうけ、さらに捨てられた子供や貧窮にあえい でいる親戚のもの、母親や姉、叔母を必要としているいとけない子供たちを引き取ってやる ような、多くの人たちを陰ながら支えているタイプの女性だった。こういう女性たちは、い ずれは自分の手もとを離れてゆくと分かっていながら子供を育て、男たちが自分のもとから 去っていっても、やむを得ない事情があるのだろうと考えて、相手を難じたりはしない。彼 女は、私がそれまでに大衆食堂やハイメ叔父が働いていた病院、行方不明者を捜す人たちの 集まる役所、死体が並べられている死体公示所で見かけた人たちにそっくりだった。[下巻

365]

 興味深いのは、この女性(たち)の人称の変化である。この引用以前の記述は、原文におい て “ella (彼女)”8という単数形で表現され、動詞もすべて三人称単数形が用いられている。ところ が、この引用部分にいたると “una de esas mujeres (女たちの一人)”9と表現され、その後は、

“esas mujeres

(女たち)”10を説明する動詞が “tienen (〈子供を〉もうける)”、

“recogen

(引き取る)”、

“crían

(育てる)” 11のように三人称複数形で並ぶ。ある一人の女性が、にわかに複数性を帯びていること がわかる。この人称の変化は、何を示唆しているのだろうか。アルバによる語りは、彼女を「わ が国でよく見られる」[下巻 365]タイプの女性として、いわば類型化された集合体の中の一人に 位置付ける。彼女(たち)は、語り手によってひとまとめにされ、カテゴライズされ、表象され ている。言い換えれば、実体としての彼女(たち)一人ひとりの具体性は、ここには存在してい ない。アルバという語り手によってこの国の社会の底辺で生き延びてきた女性(たち)は、一枚 岩的な総体として表象されているのである。このように分析すると、アルバの語りはもはや「彼 女(たち)」を他者化、あるいは客体化して表象しているようにすら感じられてくる。

 さらに、ここに描かれている女性(たち)の表象について注意深く見てみると、命を育む性が 強調されていることがわかる。女性であることと母親であることがほとんど同一視されているよ うな描写である。母性に満ちあふれた女性像として、ヒロイックに審美化され表象されている。

一見すると、運命を受け入れて生きるこの女性(たち)は、肯定的に語られている印象を受け る。彼女(たち)にとって、男とは「人生を通過して」[下巻 365]いくだけの存在であり、それ に伴う妊娠・出産・育児もコントロール不能な出来事なのだ12。しかし、それらの存在や出来事を 受動的な態度で背負うわけにはいかないのは、そうしないと彼女(たち)自身が生き延びること ができないからである。暴力的な軍政、あるいは強力な家父長制の下では、母性主義的な選択し かできないという制約も頷ける。この「女性(たち)」の表象についてジティ・チャンドラ (Giti

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Chandra) は、著者であるイサベル・アジェンデが「彼女

(たち)」を生き延びる人たち、語り継 ぐ人たち、再生産する人たち、記憶を留めてきた人たち13として称え、未来における希望の象徴 として描いていると説明する[Chandra 2009: 151]14。望ましい状況にはなくても、そこから抜け 出そうとする女(たち)の姿がみてとれる。

 しかし、彼女(たち)の母性を強調して描くことは、同時に、抑圧に耐えるという行為をヒロ イズムに転換し、美化する危険性を持ち合わせるということも指摘しておかねばなるまい。ここ に描かれているのは、中絶を選ばないと決意したアルバと同様、「自分の人生を通過していった 男たち」[下巻 365]による家父長制の構造を(彼女たちの意志とは裏腹に)母性主義によって下 支えし、補完してしまう女性像である。このような女性像を構築する行為は認識の暴力ともいえ るだろうが、その行為主体が、語り手のアルバ、すなわち同じ女性であることに注目しておく必 要がある。

Ⅳ.名もなき女の沈黙の微笑みがもつ運命の円環を断ち切る力

 同じ女性であるアルバという語り手によって、他者化され、都合よく美化され、家父長制のシ ステムの内部に取り込まれてしまった「彼女」の生きた経験を、果たして取り戻すことは可能な のであろうか。ここで、この複数性を帯びた母性主義的な女性像の記述が、この後、にわかに、

単数形の “ella (彼女)”15へと戻り、そしてかすかに意志を帯びる点に注目してみたい。それが先 の引用部分に続く、以下の記述である。

私を助けたりしたら、危険なんじゃないのと言うと、彼女はにっこり笑った。その笑顔を見 て、この人たちの魂まで破壊する事ができなかったのだから、ガルシア大佐や彼と同じよう な人間たちの命運が尽きるのもそう遠いことではないと考えた。[下巻 365]

 軍組織に捕囚されていたアルバに手を差し伸べるという行為は、恐怖政治のもとでは、当然、

彼女自身の身の危険を意味する。そのことを十分に理解しているアルバが、心配してたずねると、

彼女は言葉で語ることこそしないが、ただ黙って微笑んでみせる。彼女のこの沈黙の微笑みとい う行為を見過ごしてはなるまい。

 この女の沈黙は、無論、単なるコミュニケーションの欠如や空白を示すものではない。彼女は ただ沈黙するだけではなく、同時に微笑んでいる。微笑むという行為は、意志の表れでもあり、

それによって、沈黙そのものにも表現されざる意志が存在していることが暗示される。実際、語 り手であるアルバは、彼女の微笑みのなかに─ここでもアルバは彼女のことを「この人たち」

と集合的な表象へと置き換えてしまっているが─ガルシア大佐や軍が破壊できなかった強い意 志を感じ取り、軍事政権の命運が尽きるのも遠くはないと考えている。アルバは、彼女の沈黙の 微笑みを、軍の圧力に屈しない、あるいは、軍による管理を拒絶する、という意志の表れと解釈 したことが分かる。確かに、この女が行った行為、すなわち、アルバを匿い、介抱し、救済する という行いは、軍組織の意向にはそぐわないものである。たとえ釈放されたとはいえ、アルバは 軍に捕らえられていた身である。彼女を救済することで、軍にマークされるかもしれない。自分

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に身の危険が及ぶ可能性を感じながらも、彼女は自己の倫理観に基づいてアルバを救済したわけ である。おそらくアルバの解釈を裏付けているのは、沈黙の背後にある、彼女のこのような行動 であろう。アルバの語りに基づいて解釈すると、この女性は、声を上げることこそしないものの、

その沈黙の微笑みによって、暴力で民衆を弾圧する軍政に断固として抵抗するという強い不服従 の姿勢を示しているということになる。

 しかし、ここでこの女の沈黙の意味をもう少し解きほぐしてみる必要がある。水田宗子は、〈女 性の沈黙〉は、内面が言葉にならないゆえに、けっして一面的ではない複雑な意味の構造を持っ ているため、作品の内部に言葉では表現されえない、いくつものテクストが重層的に作られるこ とになり、それを解読するには視点をずらしながら読むことが必要になってくると述べる[水田

1991: 79]

16。女の沈黙のなかにある複雑な意味を探ることの必要性を水田の主張から学ぶとすれ

ば、「私を助けたりしたら、危険なんじゃないの」という問いかけに対するあの無名の女の沈黙 は、軍に対する抵抗を示しているというアルバの解釈だけで片付けてはなるまい。

 さらに言えば、アルバが、あの無名の女の沈黙についてどれだけ核心に迫った理解をしている のだろうかという疑問もわいてくる。アルバは、この無名の女に、この国の逞しい母親たちとい う女性像を当てはめた。無名の女と同一化された忍耐強く寛容な母親像は、いわば、審美化され た表象である。そして、アルバは、この無名の女の沈黙のなかに軍に対する抵抗や拒絶の姿勢を 読み取ることで、彼女の沈黙から「抗う主体」というイメージを構築しようとする。アルバの語 りによる、この「抗う主体」のイメージの構築は、ガヤトリ・C・スピヴァク (Gayatori C. Spivak)

が痛切に批判した〈サバルタン〉表象を思い起こさせる。スピヴァクは、著書『サバルタンは語 ることができるか』のなかで、様々な勢力が、無力な人々 〈サバルタン〉をまとまった政治主体 として象徴的に表象することで、かえって彼女らの個々の声を封じ、沈黙を強いることになると 主張した17。無名の女に強くて優しい母親像をあてがい、更には「抗う主体」のイメージを構築す るアルバの語りは、むしろ彼女の沈黙の微笑みに秘められた複層的な意味を、単純化しミスリー ドしている可能性もある。

 では、彼女の沈黙の微笑みが持つ意味について、アルバの解釈以外でどのような可能性がある だろうか。彼女がアルバの問いに「答えられない」のか「答えない」のかによっても、その意味 は変わってくる。

 まず、「答えられない」という場合であるが、これは、発せられるはずの言葉を抑圧して呑み 込むしかないという受動的態度と考えられる。自分の身が危険にさらされるからといって、瀕死 の状態のアルバを放っておくわけにもいかず、だからといって状況を変えることもできはしない し、そんなやるせなさや無力感、苦しい胸のうちを、当の本人アルバに打ち明けられるはずもな い、そういった複雑な意味や感情の重なり合いである。この場合、彼女の本当に言いたいことは 抑圧され、言語化しえない虚しさや悲しみ、行き場のない怒りなどの複層的な感情が沈黙という 領域の中に蓄えられていくと考えられる。ところが、彼女は、実際にはこの場面でただ沈黙する のではなく、微笑んでいる。この複雑な意味や感情がない交ぜになった状態と同時に起こる微笑 みをどのように理解したら良いだろうか。考えられるのは、彼女が好意的・肯定的な意味で微笑 んだのではなく、寂しさや諦め、あるいは自嘲や自虐などの歪められた感情を笑顔で取り繕って

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いるということだが、果たしてその可能性はどれほどあるだろうか。彼女が「答えられない」た めに沈黙したという可能性は、主体性の欠如という点で、スピヴァクがいうところの〈サバルタ ン〉の声が消されてしまっている状況といえるだろう。この場合、彼女は彼女を取り巻く制度、

例えば家父長制や軍の独裁制の内部にとどまったままであるが故に、言葉にできないということ になる。

 一方、「答えない」というのは、沈黙することを主体的に選びとるという能動的態度である。そ れは、「私を助けたりしたら、危険なんじゃないの」というアルバの問いに「はい」か「いいえ」

という単純な二者択一では表現し得ない答えがそこにあるからではないだろうか。そもそもこの 問いは、アルバを救済して身を危険にさらすか、見て見ぬふりをして安全に過ごすか、という軍 が迫る二者択一のロジックに基づいた懸念である。つまり、アルバの問いは、軍のロジックの再 生産に過ぎないのである。無名の女が沈黙するのは、相手のやり口にはまらない、あるいは、別 の選択肢を模索するという態度ではないだろうか。フェミニストで民俗学者のカマラ・ヴィス ウェスワラン (Kamala Visweswaran)

は、スピヴァクの議論に従いながらも、語りは自主性を示

す特権的な媒体であり、語りの不在は主体性の欠如を示すという前提には一石を投じ、〈サバル タン〉の沈黙を支配的な政治表象のなかで語ることを拒否する姿勢として解釈しうると指摘する

[Visweswaran 1994: 68-69]。ヴィスウェスワランの主張に依拠して、アルバの問いかけに対する この女の沈黙という行為を支配的な政治表象のなかで語ることを拒否する姿勢と捉えると、彼女 の沈黙は、「答えない」という能動的な選択をすることによって、二者択一という限定された状 況から脱け出し、そのロジックそのものを無化する力を持ちえることになる。軍の支配の論理を 再生産するアルバに対して、この女の沈黙は、その論理に絡めとられることを拒み、逆にその論 理を無化する、いわば「ゼロ地点」としての意味を持ちえることになる。この場合、女性は既に ガルシア大佐ら、軍の組織が生み出した(そして、アルバが再生産している)システムの外部で 生きていると考えることが可能になるだろう。

 さらにここで、今一度、水田の〈女性の沈黙〉に関する考察を参照してみたい。水田は、女性 が沈黙する様々な作品を取り上げているが、男性による支配的な社会構造のもとで狂気として扱 われていた女の〈失語〉が、徐々に、女たちによって主体的に選び取られ、表現のひとつである

〈沈黙〉へと変化していく過程を辿りながら、〈女性の沈黙〉のなかにいわば潜勢力を見出す。そ もそも、言葉=言語がラカンのいう〈象徴領域〉に属する、〈性の政治学〉に汚染された要素で ある限り、〈言葉〉という男性的文化のディスコースを介することは、女性にとって自己分裂の 深みにはまり込んでしまうことになりかねず、対して、逆説的に、女性にとって〈沈黙〉

という

表現を選び取っていくということは、強いられた状況を逆転し、明らかな意図を持つひとつの表 現となりえると水田は指摘する[水田 1991: 67-68, 97]。そして、「女性の沈黙は、言葉を奪われ ているが故に、言葉以上の表現力を内包していて、それは自己主張の抑圧、被害者としての怨念 の貯蔵庫であると同時に、したたかな認識と自己肯定の根拠であり、相手を破壊させる力の源泉 であった」と述べる[水田 1991: 87]。水田の主張に依拠して、あの無名の女の沈黙を能動的に選 び取った表現のひとつと捉えると、言葉を使って答えるという行為そのものに異を唱えていると も考えられる。それは、非日常における軍の支配的な論理以前に、〈言葉〉という男性的文化の

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ディスコースによって構築されていく世界に取り込まれてしまうことを拒んでいるということに なる。言い換えれば、日常のなかに深く浸透した男性優位や家父長制よる文化コードから逸脱す るということでもある。このように解釈すると、女の沈黙は、《敗北》には決して還元できない 現実性を湛えているように思われる。

 登場人物としての名前すら持たないこの女性は、そもそもアルバの意識下では「(運命の)図式 の一部」にすら含まれない存在、あるいは「新しい結び目」[下巻 369]ですらない存在である。

そんな存在の女の沈黙の微笑みから、語り手のアルバは、軍の圧力に屈しない不服従の姿勢を読 み取り、強く逞しい母親像と重ね合わせることで「抗う主体」の表象を構築する。

 しかし、テクストの表層には現れてこない、彼女の沈黙が包含しうる、より複層的な意味につ いて考察すると、言語化しえない虚しさや悲しみ、無力感、行き場のない怒りなどが彼女の内側 に蓄えられている可能性もみえてくる。また、もう一方で、彼女の沈黙を、より能動的な態度と して捉えると、語り手アルバが再生産する軍の支配的な論理を無化する力を持つ可能性や、〈言 葉〉で語らないという選択をし、男性的文化によって構築されていく世界に取り込まれてしまう ことを拒む力を持つ可能性までをも見出すことができる。

 読者が、この女の沈黙のディスコースを見過ごさず、その意味を物語の表層に現れる語り手ア ルバの解釈にのみ委ねるのではなく、(しかし、本稿を含め、どんな読解行為も社会的・政治的 意味を持ちうるということを自覚しながらも、)奥深くに潜む、より複層的な意味を解き明かそ うとする試みを続けることで、独自の意味をはらんだ物語の世界が展開し始めるだろう。そのと き初めて、この女の生きた経験は取り戻され、彼女は真に微笑むに違いない。

おわりに:閉じようとする結末に抗うということ

 この小説は、エピローグにおいてアルバが運命論的な円環構造で物語を閉じることによって収 束へと向かう。名前を与えられた中心的登場人物たち、すなわち、支配者としての権威を暴力と いうかたちで誇示し続けたトゥルエバも、ブルジョア階級のお嬢様アルバも、私生児としての運 命を呪い、拷問によって怨恨を晴らすガルシア大佐も、「生まれる前からすでに定められていた 運命の図式」[下巻 369]の一部として、あるいは「(ジグソーパズルの)断片」[下巻 369-370]と して、途切れることのない円環の中に収斂されていく。物語におけるこのような閉ざされる結末 をどのように解釈すべきだろうか。批評家バーバラ・フォーレイ (Barbara Foley)

は、小説という

形式、特にリアリズム小説や物語形式が、本質的にブルジョア的な圧力を持っている要因のひと つに、ナラティヴが閉ざされた結末に向かっていく過程において矛盾を解消するという「傾向」

を持ち合わせていることを挙げている[Foley 2003: 261]。フォーレイの主張に依拠するならば、

アルバを救済した、あの名もなき女の沈黙の微笑みは、ナラティヴを円環構造のうちに閉ざそう とする、また、女性(たち)をカテゴライズして他者化しようとする、あるいは男性主義的・家 父長的文化によって構築された世界を再生産し続ける、アルバの語りの圧力を打ち破り、独自の 意味をはらんだ物語を差し挟む可能性を持っていると言えるのではないだろうか。

 物語の登場人物としての名も、公的人物としての名も持たない女は、「個人」に回収されるこ とも、偶像化されることもないが、物語の周縁にあるこの名もなき女の物言わぬ微笑みが、闇で

(11)

覆われたこの作品の結末に一筋の光を与えている。

〈註〉

1

本稿における『精霊たちの家』における引用はすべて

La casa de los espíritus

(2003. Barcelona:

Random House Mondadori)、および『精霊たちの家 上・下』

(2017、木村榮一訳、河出書

房)に拠る。上・下巻の別、およびページ数は日本語訳に拠り、角括弧に入れて記す。原文 からの引用については、別途、註にて示す。なお、引用における括弧内の説明はすべて引用 者に拠るものである。

2

池澤夏樹は、「イサベル・アジェンデは(中略)三万人が殺され、数十万人が強制収容所に 送られ、国民の一〇パーセントが亡命したチリ史の大事件を正しい遠近法に沿って書くため に、敢えてアルバの二世代前から筆を起こしたかのようだ。ここまで来ると(中略)マジッ クの要素はもう背景でしかない」[池澤 2009: 3-4]と述べている。

3

この作品における中心的な女性登場人物たちの沈黙について分析しているのがクシュビル・

ダリワル(Khushbeer Dhaliwal)である。ダリワルは特に、ここで言及している、パンチャ がトゥルエバにレイプされる場面や、クラーラとアルバが家庭内暴力を振るわれる場面、更 には、アルバがまだ幼い頃、エステーバン・ガルシアに無理やりキスをされながらも何も言 えずにいる場面などを取り上げ、その根底に家父長制の社会における、様々なかたちで振る われる暴力があることを指摘している。[Dhaliwal 2017: 854]

4

農場再建の初期段階では、トゥルエバがイギリス人の入植者たちの生活様式を模倣している 様子が描かれている。「イギリス人の入植者は、アジアやアフリカの奥地の村へ行くと権威 と尊厳を失ってはいけないというので、夕食前に必ずシャワーを浴び、服を着替えると教え られたので、彼(トゥルエバ)も最初のうちは必ずシャワーを浴び、服を着替えるように心 がけた。毎晩、一張羅の服を着、髭を剃り、お気に入りのオペラのアリアのレコードをかけ ていた。」[上巻 99]この記述からも、トゥルエバ自身が、農場再建の過程で自らの権力を確 実なものとしていくために、かつての入植者たちが植民地を支配したやり方を真似ていたこ とがわかる。ラス・トレス・マリーアスの再建は、植民地化のプロセスと言える。

5

ブランカとテルセーロが逢瀬を重ねた川岸の茂みは、皮肉にもトゥルエバがパンチャの処女 を奪った場所でもある[上巻 265]。この設定からも物語の円環を成す構造が読み取れる。

6

今井洋子は、クラーラの二度の長きにわたる沈黙を分析することで、彼女にとっての沈黙は 抵抗を意味すると主張する。一度目は姉のローサが毒殺された時であるが、ローサの死体を 無残に解剖した上にその死体の恥部にまで接吻した医者の助手の行為を、女性の尊厳と性を 踏みにじるものと捉えて怒って沈黙したと考察する。二度目の沈黙が、ここで言及している、

トゥルエバに殴られた時であるが、夫(あるいは家父長制社会)から完全には飛び出すこと ができない時代と社会という制約の中での最大限の抵抗が自らの意志で口をつぐむことだっ たと分析する[今井 1995: 167-168]。

7

イギリスのモダニズム作家ヴァージニア・ウルフ (Virginia Woolf, 1882-1941)は、『私ひと りの部屋』(A Room of One’s Own, 1929)で家父長制と国家の暴力との間の相補性について言

(12)

及している[Woolf 1992: 46, 49]し、スペイン内戦を経て執筆した著書『三ギニー』(Three

Guineas, 1938)のなかでは、例えば、男性たちの中にある競争心、嫉妬心、幼児性固着、虚

栄心などの潜在意識こそが社会を戦争へ向かわせる原動力となると主張して、「戦争のジェ ンダー」を問題にしている[Woolf 1992: 180-181, 339, 401]。アメリカの政治学者シンシア・

エンロー (Cynthia Enloe)

は『戦争の翌朝』の中で冷戦とレイプの関係を男らしさ・女らし

さの視点から分析している[エンロー 1999: 132-137]。フェミニズム思想が、戦時における 性暴力と日常における性暴力や家庭内暴力をともに問題化してきた経緯については土佐弘之 に詳しい[土佐 2000]。

8 Allende, Isabel. 2003. La casa de los espíritus, Barcelona: Random House Mondadori. pp. 449- 450.

9 Ibid., p. 450.

10 Ibid., p. 450.

11 Ibid., p. 450.

12

トゥルエバの姉フェルラのエピソードに注目すると、妊娠・出産・育児だけでなく、家事や 介護もジェンダー化されたコントロール不能な出来事として捉えられていることがわかる。

フェルラは長年、母のドーニャ・エステール・トゥルエバを看病し、奴隷のように仕える。母 の死後も、一時はトゥルエバ家でクラーラの代わりに家事をして過ごすが、晩年は貧民街で 貧しい者や病を患った者たちの世話をしながら、ひっそりと暮らす。

13

引用にある「大衆食堂やハイメ叔父が働いていた病院、行方不明者を捜す人たちの集まる役 所、死体が並べられている死体公示所で見かけた人たち」[下巻 365]を特に意識していると 考えられる。残虐行為を目撃し、経験しながらも、それに耐えて生き抜き、産み育て、声を 上げて語り継ぎ、歴史を忘れずに生きてきた女性たちを、このように表現していると考えら れる。

14

しかしながら、チャンドラは(実際に女性たちは様々な記憶によって文化を紡いできている ものの)、このような女性像を構築することは、社会的な文脈のなかで女性に脆弱性という 性質をあてがい、かえって弱い立場へと追いやることになると主張し、アジェンデと自身の 考えは異なると釘を刺している[Chandra 2009: 164]。

15 Allende, op. cit., p. 450.

16

例えば水田は、シルヴィア・プラスの『ベルジャー』の主人公エスター・グリーンウッドや、

円地文子の『女坂』の倫、大庭みな子の『山姥の微笑』の主婦、増田みず子の『一人暮ら し』の主人公・矢須、富岡多恵子の『芻狗』の「わたし」や『白光』の主人公タマキ、マル グリット・デュラスの映像作品『ナタリー・グランジェ(女の館)』におけるイザベラをはじ めとする女たちなど、様々な形態の沈黙について分析している[水田 1991: 66-102]。特に、

『山姥の微笑』における主婦の性役割を強いられながらも実際には男たちの心理や欲望を操 作し、支配するという沈黙の微笑みや、『白光』の主人公タマキの「わからない人には言っ てもはじまらない」と考えて言葉によるコミュニケーションを拒むという沈黙の分析は、本 稿で焦点を当てる無名の女の沈黙においても、類似した意味合いを持つ可能性があると考え

(13)

られる。

17

スピヴァクは、著書『サバルタンは語ることができるか』のなかで、ミシェル・フーコーや ジル・ドゥルーズら西洋知識人が、自らの知識人としての役割を隠蔽しながら、力なき者の 経験を集団的なものとして表象し、代弁しようとすることの功罪を指摘している[スピヴァ ク 1998: 3-29]。また、ヒンドゥー社会における寡婦殉死 (サティー)

の慣習についても考察

し、〈サバルタン〉

の声が消されてしまう過程を明らかにしている。サティーとは未亡人を夫

の亡骸とともに燃やすという儀式だが、この儀式を野蛮な女性差別の伝統とみなして禁止し ようとする英国帝国主義と、よき妻としての女性の自由意志と道徳的振る舞いの模範として ことほごうとするヒンドゥー勢力とのせめぎ合いのもとで、当の未亡人の声や主体的行動は かき消され、沈黙させられてしまっているとスピヴァクは指摘する。そして、単に帝国主義 勢力のみではなく、他のローカルな勢力が別のかたちで〈サバルタン〉である女性の存在を 抑圧し、彼女たちに沈黙を強いていることを批判する[スピヴァク 1998: 81-112]。

※本稿は、本学のラテンアメリカ講座受講生セミナー(2019年5

25

日開催、於・立教大学池袋 キャンパス)の発表原稿に加筆修正したものである。

〈引用文献〉

池澤夏樹、

2009、

「マジックとリアリズムの間」、『池澤夏樹゠個人編集 世界文学全集 Ⅱ-07 精 霊たちの家』月報

2009.3、河出書房新社、1-4

ページ。

今井洋子、

1995、

「亡命女性作家イサベル・アジェンデについて─フェミニズムの視点から─」、

HISPÁNICA

39

号、161-176ページ。

エンロー、シンシア、1999、『戦争の翌朝─ポスト冷戦時代をジェンダーで読む』、池田悦子訳、

緑風出版。

大庭みな子、1976、「山姥の微笑」(ジェイ・ルービン編、2019、『ペンギン・ブックスが選んだ日 本の名短編

29』、新潮社、147-165

ページ)。

スピヴァク、ガヤトリ・C、1998、『サバルタンは語ることができるか』、上村忠男訳、みすず書 房。

土佐弘之、2000、『グローバル/ジェンダー・ポリティクス─国際関係論とフェミニズム』、世 界思想社。

富岡多恵子、1988、『白光』、新潮社。

水田宗子、1991、『フェミニズムの彼方─女性表現の深層』、講談社。

Allende, Isabel. 2003. La casa de los espíritus, Barcelona: Random House Mondadori.

(邦訳:イサベ ル・アジェンデ、2017、『精霊たちの家 上・下』、木村榮一訳、河出書房)

Chandra, Giti. 2009. Narrating Violence, Constructing Collective Identities: ‘To Witness These Wrongs Unspeakable’, Basingstoke, Hampshire: Palgrave Macmillan.

Dhaliwal, Khushbeer. 2017. “Patterns of Reticence and Counter Affirmation in Isabel Allendeʼs The

House of the Spirits,” International Journal of Academic Research and Development, Vol. 2, Issue

(14)

6, November 2017, pp. 852-855.

Foley, Barbara. 2003. Radical Representations: Politics and Form in U.S. Proletarian Fiction, 1929- 1941, Durham and London: Duke UP.

Spivak, Gayatori C. 1996. “Subaltern Talk: Interviews with the Editors,” in Donna Landry and Gerald Maclean(eds.), The Spivak Reader, London: Routlege, pp. 287-308.

Visweswaran, Kamala. 1994. Fictions of Feminist Ethnography, Minneapolis and London: U of Minnesota P.

Woolf, Virginia. 1992. (first edition 1929) A Room of One’s Own, in Morag Shiach(ed.), A Room of One’s Own; Three Guineas, Oxford and NY: Oxford UP, pp. 3-149.

─. 1992. (first edition 1938) Three Guineas, in Morag Shiach(ed.), A Room of One’s Own; Three

Guineas, Oxford and NY: Oxford UP, pp. 153-367.

(はなだ あい 本講座受講生、アメリカ文学研究者)

(15)

<ABSTRACT>

Breaking the Chain of Fate:

The Silent Smile of a Nameless Woman in Isabel Allende’s The House of the Spirits

Ai Hanada

In Isabel Allende’s The House of the Spirits, Alba’s narrative has some problematic points. The first one is in her decision. Alba, who is heavily tortured, raped and consequently pregnant, decides to give birth to the child. In her decision of not aborting the unborn child, Alba is making the hard choice of not accusing the rapist(s), which paradoxically endorses the sexual violence. The second one is in the ending of her narrative. In the epilogue, Alba ends her narrative by saying that all events are determined by destiny. This fatalistic ending of the narrative with resignation denies an opportunity for free will. It tacitly condones all the acts of violence, considering them as inevitable fates. The third one is in Alba’s view of womanhood. When a nameless woman shelters Alba for her first night after she was released from prison, Alba considers this woman as a typical image of a mother. Alba constructs a monolithic view of womanhood from her, by assuming that she is one of those women who are passive and oppressed. This can be criticized as epistemic violence. Besides, her stoical and patient view of mothers transforms victimhood into a type of heroism esthetically and keeps women in subordinate positions in a patriarchal society.

In this article, I attempt to explore the possibility of overcoming these problematic points in

Alba’s narrative. I especially focus on the nameless woman who shelters Alba, and show that her

silent smile has the power to overcome these problematic points in Alba’s narrative.

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参照

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