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平成18年度 修士論文

張謇と日本

−南通博物苑の創設をめぐって―

金海蓮 京都ノートルダム女子大学 大学院人間文化研究科 人間文化専攻

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はじめに ··· 1 第1 章 張謇と彼の生きた時代 ··· 8 第1 節 張謇 ··· 8 第2 節「日本モデル」 ··· 9 第3 節 中国の博物館の萌芽 ··· 11 第2 章 日本人との交友および張謇の来日 ··· 14 第1 節 天囚との交友 ··· 14 (1) 天囚の渡清 ··· 14 (2) 帰朝後 ··· 17 第2 節 張謇来日の動機 ··· 18 第3 節 第五回内国勧業博覧会 ··· 19 (1) 外国人の招待 ··· 20 (2) 待遇 ··· 21 第3 章 張謇の日本見学 ··· 23 第1 節 日本人の案内 ··· 23 第2 節 博覧会の見学 ··· 27 第3 節 博物館の見学 ··· 29 (1) 東京帝室博物館 ··· 29 (2) 東京教育博物館 ··· 34 (3) 小石川植物園··· 37 (4) 札幌農学校博物館・植物園 ··· 38 第4 章 帰国後の南通博物苑の創設 ··· 40 第1 節 人材の登用 ··· 41 第2 節 蔵品の分類と蒐集 ··· 43 (1) 分類 ··· 43 (2) 蒐集 ··· 45

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第3 節 陳列館および諸施設 ··· 47

第4 節 南通博物苑創設の意義 ··· 48

むすび ··· 51

注 ··· 54

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図版等一覧

図版1 張謇 ··· 7 図版2 『癸卯東游日記』(張謇) ··· 7 図版3 南通県博物苑図(南通博物苑,1914) ··· .7 年表1 張謇及び張謇関係年表 ··· .11 表1 清国への第五回内国勧業博覧会招待状交付 ··· .21 表2 招待状に対する来館者割合 ··· 21 図版4 帝国博物館建物位置図 ··· 32 表3 出品統計表 ··· 33 図版5 東京教育博物館(明治 36 年) ··· 36 年表2 南通博物苑及その関連年表 ··· 41 表4 東京帝室博物館と南通博物苑の資料分類比較 ··· 44 表5 1914 年南通博物苑分類・所蔵数とその比率 ··· 45 表6 明治 36 年東京帝室博物館の分類と所蔵数とその比率 ··· 45 図版6 「設為庠序学校以教、多知鳥獣草木之名」と掲げられた南館··· 50 表7 『癸卯東游日記』所載の人物および参観箇所一覧 ··· 65 表8 第一回以来の敷地面積、建築坪数等に関する比較 ··· 68

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はじめに

南通と云う土地には張謇(季直)と云う偉らい人がおって、南通は俗に張謇王国と云 うくらいであるが、実際色々の文化施設が季直先生一人の手で行なわれて居るのであ る。南通医学院、同農学院、狼山天文台、博物館、図書館、師範学校、中学校、戯劇 学校等があり、博物館の陳列品にはことごとく日英中三国の品名が記されて居り(中 略)紡績工場大生棉紗公司があり、大生油厰あり、電燈公司あり、墾木公司があって 開墾をつづけていると云う。中国における理想の文化都市であるのだ1 これは当時大阪参天堂の上海出張員であって後に内山書店を開き、魯迅とも交友を持つ ことになる内山完造が、たまたま 1913 年南通を訪れた時の印象を述べたものである。また 時の袁世凱政府もこの南通を「全国の模範都市」として取り上げて顕彰した2 ここで、内山が「偉い人」と述べている張謇が、本稿で取り上げる人物であり、内山や 袁世凱が「理想の文化都市」「全国の模範都市」と称讃した南通は、張謇が事業を展開した 江蘇省の地方都市である。そして、内山が「博物館の陳列品にはことごとく日英中三国の 品名が記されて」いたというその博物館こそが、本稿で取り上げる南通博物苑である。 張謇(zhāng jiǎn チョウケン 1853∼1926 )(図版 1 張謇 p.7)は、1894 年科挙制度最 上位の状元となり、翰林院で修選として働くが、後に翰林院を辞職し、中央官吏の道を断 念した。張謇は、清朝末期より中華民国初頭(以下清末民初)という、過渡期に生き、中国 近代化の道のりのなかで重要な役割を果した郷紳であった。当時一部の知識人たちは「実 業救国」「教育救国」をスローガンとして掲げて近代化を模索していたが、張謇は内山が「理 想の文化都市」というように、それを実践を通してみせてくれた人物であった。その実践 の場がまさに地方都市南通であり、南通博物苑は、張謇の「理想の文化都市」のなかの一 事業として生まれたのであった。 ところで、張謇が活動した時代、つまり 19 世紀末から 20 世紀初の中国は列強諸国によ り半植民地化におかれた混沌とした時代であった。そのなかで中国は列強の重圧から解放 されるため、また富国強兵のために、近代化の道を進もうとしていた。そしてそのモデル となったのが、明治維新以降文明開化により近代化の道を歩み出し、すでにその経験を積 んでいた日本だったのであった。清国では教育方面でも日本をモデルとし、教育近代化を

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2 目指していた。日本には清国から多くの留学生や視察者がおとずれ、また中国には日本人 教習が招聘された。そうしたなかで張謇も、実業や教育について見聞を深めるために、1903 年大阪で開催された第五回内国勧業博覧会をきっかけに、5 月 21 日(陰暦 4 月 25 日)か ら 7 月 29 日(陰暦 6 月 6 日)までおよそ 70 日間の日本視察を行なった。そして、その日 本視察記録を『癸卯東游日記』3として出版した(図版 2 『癸卯東游日記』(張謇)p.7) 張謇はこの博覧会を幾度も見学し、また、各地の「教育機関 35 ヶ所、農工商機関 30 ヶ所」 4を見学した。 張謇は帰国後、日本の東京帝室博物館の制度を範として、『上南皮相国請京師建設帝国博 覧館議』および『上学部請設博覧館議』を書き、民衆の教育や国威の発揚のため、まず北 京に博物館を設置し、漸次に博物館を全国へ波及させることを張之洞や清国政府に建議し た5。張謇はまた、光緒 30 年 12 月 9 日(西暦 1905.1.14)には自ら故郷の地方都市南通に 通州師範学校の附属機関として植物園を造成しはじめ6、約一年後の 1905(光緒 31)年 12 月 9 日(西暦 1906.1.3)にはこの建設中の植物園を博物苑と変更して、中国で最初となる 博物館創設に乗り出したのである7。この 1905 年は、南通博物苑の創立の年とされる。そ して、1912 年には観覧規則「博物苑観覧簡章」8、1914 年には「南通博物苑品目」9の目録 などが作成された。この目録によれば所蔵品は、天産・歴史・美術・教育の四部に分類さ れた。南通博物苑は、約 10 年をかけて 1914 年にはほぼ完成をみせたのであった。南通博 物苑は、博物楼(南館)・測候室(中館)・北館の陳列館を中心として、周囲は植物園・動 物園・伝統園林や諸施設が配置された(図 3 南通県博物苑図 p.7)。「陳列品にはことごと く日英中三国の品名」を記した博物館を創設したのであった。中国での文物は、それまで は歴代皇室の所蔵や私蔵が主流であったが、張謇は公開することを前提として南通博物苑 を創設したのであった。そうしたことからこの博物苑は、中国の博物館の歴史のなかで画 期的な事業となったのである。そして、中国の博物館の歴史は、この 1905 年張謇による南 通博物苑を、中国最初の「近代的意義をもつ博物館」10としている。 日本をモデルとしていたこの清末の時代趨勢に後押しされるように、張謇の来日による 日本体験は、張謇の諸事業に生かされた。本稿で取り上げる南通博物苑の創設もそうした 日本からの影響が色濃く反映されていると思われる。こうした前提にたって本稿では、張 謇の南通博物苑、とりわけ南通博物苑創設に重要な意味をもったと思われる張謇と日本と の関係を取り上げる。 張謇は実業、教育、社会事業など多方面で活動した人物であり、彼についてはこれまで

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3 豊富な研究蓄積がある。例えば伝記的な研究にあっては、張謇の生涯を書き、主として実 業や教育方面での彼の中国近代化のパイオニアとしての存在を述べた章開沅の『張謇伝稿 中国近代化のパイオニア』(1989)11をはじめ数多くある。実業方面では、張謇の紡績と開 墾を中心に彼の企業活動を分析して、中国近代化に果たした張謇の功績を明らかにした中 井英基の『張謇と中国近代企業』(1996)12などがある。教育方面では、張謇の生涯、教育 主張、興学方向及び張謇の教育思想の歴史的地位について論述した張蘭馨の『張謇教育思 想研究』(1995)13などがある。また、2005 年には南通において、日本の渋沢栄一記念財団 と張謇研究センターの共催で、「中日近代企業家の文化事業と社会事業―渋沢栄一と張謇の 比較研究」と題した国際会議が開催された14。会議では、社会・教育・文化出版・慈善・ 環境保護事業および経営倫理問題などについて、「社会の公益を追求する経世家として」15 活躍した両者について比較研究が行われた。 ここでは、主として張謇の教育事業のうち文化事業、特に南通博物苑について、日本視 察及び日本人教習と関連する先行研究を取り上げる。まず、日本で発表されている研究を 挙げる。野沢豊は「1903 年の大阪博覧会と張謇の来日」(1971)のなかで、張謇の日本考 察が彼の実業、教育事業及び政治活動に与えた影響について論述する16。王長発は「百年 前、張謇眼中的日本」(2001)で、張謇の『癸卯東游日記』とその日本視察の際に作られた 詩を参照しつつ、その見聞と収穫について論述するが17、この両者とも博物館への言及は なされない。汪婉の「通州張謇の日本視察と教育実践」(1998)は、『癸卯東游日記』を手 掛かりに、郷紳張謇の日本視察の成果として単級学校制度を導入し、通州ないし江蘇省の 普通教育の発展を促進させ、さらに中国の学制に影響を及ぼしていることについて論述し たものであるが、それも博物館については触れていない18。陶徳民の「1903 年勧業博覧会 に来遊した張謇と大阪の文士たち―翰墨林書局版『癸卯東游日記』を手掛かりに―」(2006) は、来日時の張謇と大阪の西村時彦、内藤虎次郎ら文士たちとの関わりについて論述して いるが、博物館については述べられていない19 さらに蔭山雅博 の「清末江蘇省における『日本型』学校制度の導入過程―張謇の活動を 中心として」(1992)は、「日本型」学制導入における張謇の活動と、木村忠治郎ら 7 名の 日本人教習の活躍について明らかにした論文である。ここで蔭山は、南通博物苑が、綜合 図書館・測候所・翰墨林書局とともに通州師範学校の附属機関として創設され教育普及事 業に大きな役割を果たした経緯を述べてはいるが、博物館については具体的な言及がない 20。また呉偉明の「張謇の社会事業と日本」(2004)は、張謇の日本考察が彼の教育、社会

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4 公益事業に影響を与えたことを通じて、日本が中国の近代化に果たした役割を論述したも のである。南通博物苑については、その規模及び設計が、東京の上野公園に類似している との論述はあるが、その具体的な事例の提示はない21 以上は日本で発表されたものであり、いずれも張謇の日本視察が彼の諸実業、教育事業、 特に単級学制制度の取り入れや、日本人教習の通州師範学校での役割について、また張謇 と大阪での文士たちの関係について論述はしているものの、張謇が創設した博物館につい ては、言及がないか、または言及されてはいてもその具体的な状況は検討されてない。 次に、中国側の先行研究を挙げる。まず、南通博物苑が 2005 年に迎えた百周年を紀年し て出版した論文集『南通博物苑百年苑慶紀年文集』(2005)22 がある。この論文集には、 66 編の論文が収録されており、これはこれまでの研究を踏まえた集大成とも言えるもので ある。このなかで、本稿と関連がある主要なものは次の通りである。王倚海の「伝承張謇 博物館思想与実践鋳造中国博物第一館新的輝煌」は、張謇の博物館思想を継承し、また、 今日南通政府が博物館事業に力を入れている時機をとらえて、南通博物苑の新発展を果た すことを述べたものである。ここでは、1903 年日本視察により、多くの文化教育機関を参 観して、博物館創設の意欲を持ち帰国後南通博物苑の創設に至ると述べられてはいるが、 具体性を欠いたものである23。甄朔男の「用当代博物館学的新理念看中国博物館事業的拓 荒人張謇」は、現代博物館学の新理念により、中国博物館の開拓者である張謇の当時の博 物館建設の理念を考察したものである。ここでも、1903 年日本視察のなかで、博物館が教 育機能を発揮していることを考察し、帰国後博物館創設の目的を教育としたと述べている のみである24。周国興の「南通博物苑的興衰与復興」は、1905 年から 1995 年までの南通博 物苑の歩みを論述している。ここでは、1903 年日本視察で張謇は、中国が富強化するには 日本の経験を参考として、教育と実業に最も力を入れなければならないと述べていて、そ の時に北京に帝室博覧館を創設し、漸次それを全国に広める考え方が芽生えたという。そ して、後の清朝への建議が採用されず、故郷南通で博物館を創設するに至ったという25 これらのほかに、陳衛平の「百年回眸風雨路 万里展望雲霞天―紀念南通博物苑 100 年」、 黄然・徐冬昌・穆烜「張謇倡辦博物館的理論和実践」、金艶の「多致真知瀹众愚 先从格物 救凭虚―張謇与博物館」、凌振栄の「論張謇設苑為教育的思想」、許振国の「論南通博物苑 的保護和建設」なども 1903 年の張謇の日本視察の影響については言及しているが、同じく 張謇の日本見学箇所の実情などを具体的に論述したものではない26 この『南通博物苑百年苑慶紀年文集』以外の研究として、例えば次のようなものがある。

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5 呂济(済)民の「中国博物館歴史発展概貌」は、中国博物館の歴史を述べたものである27 王宏鈞編の『中国博物館学基礎』(2001)は, 中国の国家文物局主持の文物博物館系列教材 である28。両者はともに、1903 年張謇が実業と教育の視察のため来日して、日本の博覧会 と博物館を参観し、そこで啓発をうけて、博物館創設を提議したと述べる。宋伯胤の「張 謇与南通博物苑―博物館史事与人物之二」(2002)は、張謇の博物館についての認識は、一 つは外国に派遣された知識人による情報から、もう一つは日本見聞であり、これがもっと も直接な要因だと述べている29。趙鵬の『漫歩博物苑』(2002)は、張謇と南通博物苑の歴 史沿革について述べた研究であるが、ここでは、1903 年張謇は 70 日間の日本視察のなか で、明治維新が日本社会に大きな変化をもたらしていることについて、そこから大きな刺 激をうけ、また、学校教育の補助的な機関である博物館について深い印象を受けたと記し ている30。そして、孫渠の『南通博物苑回憶录』(1981)では、張謇が日本の「帝国博物館」 (東京帝室博物館のことである)を参観し、それに感銘を受けて博物館を創設するように なったと回想する31 これら中国で出版された先行研究は、南通博物苑の状況については詳しく記述されてい る。しかしながら、1903 年張謇の日本視察について様々な形で触れてはいるが、その詳細 な研究がなされているとは言えない状況である。 以上 1903 年の張謇の日本見学及び日本人教習、さらにまた南通博物苑の創設についても 触れたものをあげたが、それらは、南通博物苑の創設にあたって日本からの影響がみられ る旨を短く触れてはいる。しかしながら、それが実際にどのような影響関係であったか、 詳細にまた具体的にその当時の状況を記した研究はまだない。そして、また張謇自身が日 本で見学した箇所について触れたものはあるが、彼が見学した諸機関がその当時どのよう な状況であったか、張謇がどのような状態にある機関を見学したのかについて具体的に述 べたものはまだないのが実情である。そして、日中両国ともに張謇来日のきっかけなどそ の過程について詳しくて述べたものはない。 このように張謇の来日を含め、南通博物苑について日本との関係を具体的に研究したも のはまたないのが現状である。 本稿は、このような先行研究を踏まえた上で、主として南通博物苑をとりあげて論述し ていく。本稿の目的は次の通りである。第一に、張謇が日本人とどのような交友のなかで 来日を果たしたか、また日本の見学を意義あるものにすることができたか、そのための日 本人の協力を明らかにする。第二に、張謇が見学した第五回内国博覧会及び張謇が実際に

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6 見学し、見聞を広めたとされる当時・ ・の日本の博物館の実態を明らかにする。第三に、帰国 後に創設された南通博物苑の実情及びその後の運営の形を検討することによって、その博 物館が日本からのどのような影響のもとに創設されたかということを明らかにする。こう した論述を通して、この清末民初という苦難の時代のなかにあって、張謇が南通という地 方都市を舞台とし、いかにして博物館を創設することができたかについて詳細に検討する。 そして、本稿を通じて中央官吏の道を断念して野に下り、社会的な諸事業に尽すことで、 中国近代化に大きな役割を果たし、まさに過渡期に生きた郷紳張謇の全体像の一部でも明 らかにすることができればよいと考えている。 本稿は先学の研究成果によりながら、主に博物館関係の張謇の所論や日記を検討し、ま た殖産興業の道を歩む当時の日本の事情を念頭におきつつ、まず張謇と彼が生きた時代の 背景を述べ、次に張謇と日本人との交友および彼の来日の経緯について述べる。そして、 張謇が来日したおりの日本人の案内および見聞を深めたと思われる各機関の当時の実情に ついて明らかにする。最後に帰国後創設することになった南通博物館に張謇の日本見聞が どのように生かされたか、検討していきたいと思う。

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7 図版 1 張謇(1853-1926) 図版 2 『癸卯東游日記』(張謇) (翰墨林印書局,1903.8)

(出典:洋々生(木村忠治郎)「清国江蘇省通州師範学校と (出典:張緒武主編『張謇』 同校設立者張季直氏」『教育界』,4(2),金港堂 1904.12)。 中国工商聨合出版社,2004,p.14)。 図版 3 南通県博物苑図(南通博物苑,1914) (南通博物苑所蔵)

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第 1 章 張謇と彼の生きた時代

第 1 節 張謇

あらためて張謇のことから述べていく。張謇(zhāng jiǎn チョウケン 1853∼1926)は 江蘇省の南通(旧通州)生まれである。字は季直、号は嗇庵、晩号は嗇翁。清末民初の中 国の激動の時代を生き、南通一帯で実業、教育、文化、社会事業などに大きく貢献した郷 紳である。(年表 1 張謇及び張謇関係略年表 p.11 参照) 張謇は、1894 年 42 歳で科挙制度最上位の状元となり、翰林院で修選として働くが、後 に翰林院を辞職し、中央官吏の道を断念した32。張謇は、1899 年に紡績工場である大生紗 厰の開業をはじめ、1901 年には大生紗厰に綿花などの原料を供給する通海墾牧公司を開業 し、続けて 1907 年までに南通を中心として約 20 企業を設立した33 張謇は、『癸卯東游日記』の冒頭に書いているように「以実業与教育迭相為用」34つまり、 実業は教育を補助し、教育は実業を促進するという考えのもとに、実業と教育をともに推 進することを主張した。また、張謇は「実業教育、富強大本也」35、つまり実業と教育を 富強の根本となるものとした。 張謇は 1902 年「大生紗厰からの所得 2 万元を資金としてそれに知人らの賛助を加えて」 36(訳文筆者)通州師範学校を設立し、1903 年来日直前に開校した。張謇はまた、通州女子 師範学校・墾牧小学校・農学校・医学校・戯劇学校など南通地方で自身が主導となりある いは資金援助をしておよそ 70 の学校を設立した37。そして、図書館・博物館・気象台・病 院・劇場・養老院・盲唖学校などを設立し、文化事業や社会事業を行った。 このように張謇は、南通一帯で実業、教育、文化、社会福祉などの地方における産業や 文化に大きく貢献した郷紳である。張謇は「国をよくしたいのならば、まず地方をよくす ることが先である」38と認識し、南通を「理想の文化都市」として創りあげ、実業救国・ 教育救国の道に進み、富国の目標を達成しようとしたのであった。南通博物苑はそのうち の文化機関の一つとして創設されたのである。

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第 2 節 「日本モデル」

清末という時代に中国は、1840 年の第一次鴉片戦争から、第二次鴉片戦争、日清戦争(甲 午戦争)、北清事変(義和団事変)などにより高額の賠償金の支払い義務を負わされ、国土 が列強により分割された半植民時代であった。これは、「実に数千年来、未曾有の変局」39 であった。一方、列強の重圧のなかで、富国強兵などの近代化に向けての改革が行なわれ た。1856 年の第二次鴉片戦争後 60∼90 年代には曽国藩・李鴻章らの洋務派官僚によって、 洋務運動が展開された。運動のなかでは、経済、教育などに西洋の近代的技術が取り入ら れ、軍事工業などが建設され、新式学堂も開設、アメリカやヨーロッパに留学生が派遣さ れるなど、中国近代化の第一歩が踏み出された。特に軍事工業に力をいれていたが、日清 戦争(1894−1895)で敗戦した。日清戦争の敗戦は、洋務運動の終焉でもあり、中国近代 化の転換点ともなっているとされる40。日清戦争後中国では、変法自強の改革がはじまっ た。1898 年光緒帝(1871-1908)の下で康有為ら維新派が日本の明治維新に範をとって戊 戍維新(1898 年戊戍の年、百日維新とも呼ぶ)を行なった。この戊戍維新のなかでは、憲 法の制定・国会の開設・学制の改革・実業の振興などについて政策が提出されたが、この 維新は実権を握っていた西太后らによって弾圧された。しかし、1901 年八カ国連合軍によ り北京が陥落した際に、西安に逃走した西太后(1835-1908)は、改革を行わざるを得なかっ た(この改革を清末新政ともいう)。新政では、多くは日本に範をとって予備立憲、官制の 改革が行なわれた。1905 年には科挙制度が廃止された。こうして清末中国では立憲君主制 度を掲げ近代化への歩みが進められた。しかしながら、1911 年革命派による辛亥革命に至 り、中華民国が誕生し、清朝は滅亡した。張謇はまさにこうした2千年来の封建王朝時代 が、その終止符を打った、過渡期の混沌とした時代を生き抜いたことになる。 上述の戊戍維新の年である 1898 年に、張之洞が『勧学篇』41を出版した。陶徳民はこの 書について次のように述べる42。本書は、張之洞の「中学為体、西学為用」(中国の伝統的 道徳と学問を基本とし、洋学も採用する)という洋学受容の姿勢を示したものであり、光 緒帝により価値あるものと認められて全国に配布された。このことは、清国において洋学 受容が正当化された、ということを意味している。その洋学の受容は、日本を通じて学び 取るという点に特徴がある。そして本書は、福澤諭吉(1835-1901)の『学問ノススメ』が 明治前期の日本にもたらした影響ときわめて似ていると述べている。 この『勧学篇』は日本留学にたいする大宣言というべきものであり、清国の日本留学を

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10 大きく促す役割を果たしたとされる43。洋務運動のなか、ヨーロッパやアメリカに留学し たものが、これにより日本留学へと変ったのであった。中国から日本への留学生の数はそ のはじまりの 1896 年には 13 名でしかなかったのに対して、『勧学篇』が書かれた翌年の 1899 年には急速に増えて 2 百名を越えた。そして清朝が新政を行なうという政策が発表さ れて以後はますます増え、1903 年には 1,000 名、1906 年には 8,000 名とピークに達した44 そして日本政府は、このように多くの留学生を受け入れると同時に、清国の招聘に応じて 日本人教習を派遣した。1906 年ごろには 500∼600 人の日本人教習が中国の各地で教鞭を とっていた45 このようにして日本に留学、視察に訪れた人々は、視察記録や日記などを発刊し46、当 時の日本の状況を清末中国に広く伝えた。また彼らは帰国後には、日本人教習と共に清末 中国の教育改革に重要な役割を果たした。そして、「清末中国の教育改革において日本教育 の影響が大きく働いていることはほぼ定説」47とされているのである。実に、1904 年に発 布される中国最初の近代学制である「奏定学堂章程」48は、日本の教育制度をモデルとし ており、1905 年 12 月に清政府が北京に設立した近代的中央教育行政機関である「学部」 は、日本の文部省をモデルとした49。1905 年 9 月には科挙制度が廃止され、各地では日本 に範をとった大学、師範学校、初、中、高等学校が多く開設された。清末のこの時期は「日 本モデル」の教育近代化の時代であったと言われている50。この時期は「日本がいかにし て急速に西洋の近代的教育システムを『伝統文化』に接合したかという方法」を清国は学 ぼうとしていたのだといわれている51 このように清末中国は半植民地化の危機に瀕した時代であり、一方ではそれを乗り越え ようとし、近代化の道を歩もうとした時代であった。そしてその近代化のモデルが日本で あり、産業や教育や文化などを日本から学ぼうとしていた時期にあたっていたのである。

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11 年表 1 張謇及び張謇関係略年表 1840 年 第一次阿片戦争 1842 年まで イギリス 南京条約締結 1853 年 江蘇省 南通(旧通州)に生まれる 1894 年 2 月 科挙(恩科会式)進士(最上位 状元)(42 歳)となり、翰林院修撰となる 日清戦争(1894∼1895)下関条約締結 1895 年 10 月 上海強学会に入る 12 月 張之洞総督の聘に応じ、文正書院院長に着任する 1897 年 明治 30(1897)年 12 月から 1898 年 2 月の間西村天囚の第一回目の渡清 1898 年 6 月 戊戍変法(康有為、梁啓超 百日維新ともいう) 1899 年 4 月 大生紗廠業務を開始 1900 年 2 月 天囚西村時彦 南京留学 文正書院に寄寓 6 月 北清事変(義和団事件)1901 年北京議定書調印 1901 年 2 月 『変法平議』を書く。5 月 19 日(西暦)大阪朝日新聞 天囚西村時彦の「張修 撰の変法平議」。11 月 通海墾牧公司業務を開始。1901 年 12 月から 1902 年 1 月まで 羅振玉教育視察のため来日。 1902 年 6 月から 10 月まで呉汝綸日本教育視察のため来日 1903 年 西暦 3 月 1 日から 7 月 31 日大阪で第五回内国勧業博覧会開会開始 計 153 日間 4 月通州師範学校開校。 4 月 25 日(西暦 5 月 21)から 6 月 6 日(西暦 7 月 29 日)来日 計 70 日間 8 月 張謇『癸卯東游日記』出版 日露戦争 1905 年まで。1 月 13 日(西暦)『奏定学堂章程』の発布あり 1905 年 11 月 10 日(西暦 12 月 6 日) 清朝が学部を設置。12 月 9 日博物苑を創立 1906 年 水産学校・通州女子師範学校開校。通州師範学校に土木、工科、測絵特班を附設 1910 年 清朝が南京南洋勧業博覧会を開く。張謇らが勧業研究会を設ける 1911 年 辛亥革命がおこる 1912 年 中華民国成立。盲唖学校を創建する 1913 年 農業学校設立 1917 年 南通図書館開館 1926 年 張謇逝去(享年 73歳) 2005 年 南通で、渋沢栄一と張謇について「中日近代企業家の人文関懐と社会貢献について― 渋沢栄一と張謇の比較研究」と題した国際会議行なわれる *中国は、1912 年 1 月 1 日から西暦を使うようになっており、年表の 1911 年までのことで西 暦と表記されてないのは、旧暦である。

第 3 節 中国の博物館の萌芽

ここで少し当時の中国における博物館設立の事情をみておきたい。 中国の文物は従来、皇室所蔵や私蔵が多かった。博物館は西学の東進のなかで、清末の 中国にも紹介されるようになり、知識人や清朝政府は博物館設立を提唱した。そのうち、5 例を挙げて当時の博物館の事情について述べていきたい。 ① 1895 年に康有為ら維新派が上海強学会を設立した。この会の事業としては、図書の 翻訳出版、新聞の発刊、大書蔵(図書館)の設立とともに博物館の設立もあげられ、この 四つの事業は「最重要四事」として文化面においての近代化の基礎と位置づけていた52 ② 1898 年戊戍維新の期間、維新派たちの博物館設立の主張が光緒帝(1875-1908)の支

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12 持を得ていた。それらの提言により、総理衙門の奨励章程のなかには私立博物館の設立を 奨励することが定められた。例えば、20 万両以上を出資して博物館をつくる者には特別に 世職を与えるとされた53 ③ 羅振玉(1866-1944)は、1901 年 4 月の「教育私議」のなかで、「教育の普及は、国民 の見聞を広めることから始まる。国民の見聞を広めるには図書館・博物館を設立が急務で ある」(訳文筆者)と述べ、中外古今の書籍及び教育の物品を収集して、北京に博物館をつく り、また各省、州、県も同じく博物館をつくることを提唱した54 また、1902 年 4 月の「学制私議」のなかで、教育用品を蒐集して教育博物館をつくるこ とを提唱したが、その資料は次の三つの部に分類されていた。「1.家庭教育、幼稚園及小 学校用具及其成績(学生が造った書画、手工科で作った器物類)2.物理、数学、星学、地 学、化学、生理学、動物植物学之教授用具及標本、図画、3.実業教育用具及成績品及図画 の類(訳文筆者)」55 この「学制私議」は、羅振玉が来日後に書いたものである。羅振玉は、1901 年 12 月か ら 1902 年 1 月までの日本教育視察記録である「扶桑両月記」のなかに、東京高等師範学校 の附属教育博物館の資料の分類を記している56。それは、先の「学制私議」の教育博物館 の資料分類とほぼ同一であった。つまり、羅振玉は日本の東京高等師範学校の附属教育博 物館に範をとって中国に教育博物館を設立することを提唱したというわけであった。彼は また、教育博物館には毎年、中学生・実業学校・専門学生生徒が「本をもって実物と対照」 しに来館することもあり、年間の来館者数はおよそ6,7万人に上ると記してもいる57 このように羅振玉は博物館に関心をもち、その設立を熱心に提唱していた人物でもあっ たが、中国の博物館の範を、日本視察のなかで見聞した東京高等師範学校の附属教育博物 館にとったのであった。 ④ 張謇来日の翌 1904 年には、中国最初の近代学制の「奏定優級師範学堂章程」が定め られる。そこには「優級師範学堂は中、小学堂を附属として設けるほかに、教育博物館を も附設し、中国及び外国の学堂建築模型図式・学校備品・教授用具・学生成績品・学事統 計規則・教育図書等を広く蒐集して陳列し、本学堂学生に役立て、また外部からの来館者 にも自由に参観をさせ、教育の普及改善を期する」58(訳文筆者)と記されていた。これは、 明治 36 年の東京高等師範学校の附属東京教育博物館と状況とほぼ同じである。要するに、 日本の東京高等師範学校の附属教育博物館に範をとったものであったのである。 つまり、羅振玉のように来日して見聞を深めた者は、日本に範をとって博物館をつくる

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13 ことを提唱しており、なお近代学制のなかの博物館設立も東京高等師範学校の附属東京教 育博物館に範をとっていた時期であったのである。 ⑤ 清末中央官制の改革後 1905 年に設立された教育行政機関である学部が、博物館事業 を管理することとなった。学部は中央では五司一庁を擁していた59。そのうちの専門司専 門庶務科の部署で図書館・博物館・天文台・気象台の事業を担当しており、普通司師範教 育科では教育博物館等の事務を取扱った。さらに、会計司建築科では、各学堂の図書館・ 博物館の建造について審査した。そして、地方の各省学務公所では、六科を設置していた が、そのうちの図書課では、図書館・博物館を、普通課で教育博物館の事務を管理するこ ととなった60 このように、皇室蔵・私蔵などが多い中国のなかで、公開を前提とした公共の文化施設 としてあるいは学校の附属機関として博物館を創設するという気運が高まっていた。そし て、そのモデルの一つとされたのが、日本の東京教育博物館であったのである。また、学 部のなかでも博物館設立の態勢は整備されており、こうしたことは、博物館の発展にとっ ても有利な条件となったと考えられよう。

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第 2 章 日本人との交友および張謇の来日

第 1 節 天囚との交友

張謇は 1903(明治 36)年に来日し、大阪に到着した 5 月 30 日(陰暦 5 月 4 日)に「朝 日新聞社に西村天囚時彦」を訪ねている61。この「西村天囚時彦」は、西村時彦である。 西村時彦(にしむらときつね62 1865∼1924)は、鹿児島県種子島の生まれ、名は時彦、 字は子俊、号は天囚・碩園で、小説家、新聞記者、漢学者である(以下天囚とよぶ)。帝国 大学の古典講習科漢籍科に第一期官費生として在学し(1883-87)、大阪朝日新聞社には 1890 年から 1919 年まで(一時東京朝日新聞社勤務 1896-1898)約 30 年間勤務した。また、 江戸時代の大阪の漢学所である懐徳堂の再興にも積極的に尽力した人物である。 天囚は、張謇とは来日以前に中国ですでに交友をもっていて、張謇の来日にあたって大 きな役割を果たしたと考えられる人物であり、また張謇の来日時の日本の各地施設の見学 に便宜を与えた人物であった。ここでは、張謇来日前の天囚と張謇との交友関係を述べ、 三章で張謇来日時に便宜を与えた事情について論述する。

(1)天囚の渡清

天囚と張謇との交友は天囚の渡清の時期にはじまる。天囚は張謇が来日する前に三回渡 清している。それは、それぞれ 1897-1898、1900、1901-1902 年であった63。そして、1907 年には四度目の渡清をしている64 天囚の第一回目の渡清は、1897(明治 30)年 12 月から 1898 年 2 月の間であった。この 渡清は、陸軍参謀次長川上操六(1848−1899)から特命を受け、排日主義者であった湖広 総督張之洞の工作のために派遣されたものである。天囚は川上参謀が提出した「1.視察 員派遣 2.留学生派遣 3.日本人招聘」との内容の文章を得意の漢文をもって書き記 し、張之洞の説得に成功したという65。そして、これらの提議は後に張之洞が発表した『勧 学篇』に反映されて、前述のように清国の日本留学ブームを引き起こす要因となり、清国 人の日本視察や清国の学校に日本人教習が招聘されることになる重要な背景の一つにもな ったのであった。張之洞の『勧学篇』は天囚の影響が強く反映されているのである66 天囚はこの渡清の帰途に南京を訪れ名勝を観光し、この観光の様子を「金陵勝概」と題

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15 して『太陽』に掲載した67。なお、金陵は南京の旧称である。この「金陵勝概」によれば、 天囚は 1898(明治 31)年 1 月 16 日に「曾文正の祠」を訪ねている68。曾文正とは曽国藩 のことで、文正は曽国藩の諡号である69。1890 年曽国藩を記念するために、文正を書院の 名称として冠し文正書院が設立され、その書院のなかに曾文正の祠があった70。張謇はこ の時期にこの文正書院の院長として勤めており、天囚はおそらくこの書院に行き、曾文正 の祠をみたのではないかと考える。そして、この時期に会見したという明確な資料は、い まのところみつからないが、そこで張謇とはじめで出会っていたのではないかと思われる。 第二回目の渡清は、1900(明治 33)年で同じく張謇が院長として勤めていた南京の文正 書院に留学したときである。天囚は、後にこの留学の動機について「私の此処に住居をし たのは親しく其の文正公の徳風に達したいと云ふ希望からでござりました」と述べている 71。天囚はこの文正書院の一室に寄寓し、「文正公の全集を読んで其の徳を慕ふて」いたの であった72。この時の出会いについては、両者とも明確な記録を残している。張謇は、1900 年 3 月 16 日(光緒 26 年 2 月 16 日)の「嗇翁自訂年譜」に、「日人岩崎、西村、僧長谷川 至院論学、因借小住」と記している73。つまり、西村らが文正書院にきて、そこで学び寄 寓したと述べているのである。一方、天囚のほうは大阪朝日新聞の 1900(明治 33)年 4 月 3 日の「金陵漫録」に「文正書院に西学堂あり(中略)西学堂内の一間房に借住するを 得たり」と文正書院に寄寓したことについて述べている74。この時期が両者のはじめの出 会いといわれている75。天囚が文正書院に寄寓して、「文正公の全集を読んで」留学生活を 送っているとき、張謇は天囚に「贈日本西村子隽(雋)(時彦)」という詩を贈ってもおり76 両者は交流を深めていたと思われる。 そして第三回目の渡清は、1901(明治 34)年 4 月から 1902 年の晩春まで同じく留学の 時である。この間天囚は大阪朝日新聞社に数編の記事を書き送っているが、そのなかには 1901 年 5 月 19 日付きで「張修撰の変法平議」という記事がある77「張修撰」78とは張謇の ことで、この記事は天囚が張謇の「変法平議」79について論評をしたものである。この「変 法平議」というのは、清政府が新政を行い、各官僚らに改革案の提出を命じたときに、張 謇が提出した変革の意見書である80。その内容は、清政府の 6 部の中央政府機関(吏・戸・ 礼・兵・刑・工部)について 42 条にもわたる改革の措置を提案したものであった。張謇は その提案の多くを明治維新以後の日本に範をとった。例えば、「普興学校」つまり、広く学 校を興すということで、師範学校を設立し、小・中・高等学堂、京師大学堂を設けること を提唱している。これは、日本の学制に範をとったものである。

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16 天囚は、この記事で張謇について「張修撰名は謇字は季直江蘇通州の人にして湖北に有 名なる張濂亭の門人なるが清国読書人の無上栄誉と謂うべき状元及第を得て翰林修撰と為 り(中略)その後は意を仕途を経ちて金陵文正書院の山長と為り(中略)通州大生紗厰を 剏設し氏は郷紳としてその總辦と為り文正書院の山長を兼務する者年あり」と詳しく紹介 している。また、天囚は記事のなかで、張謇の改革の提案を一部翻訳して紹介し、張謇の 改革についての主張を賞賛し、特に教育方面で日本に範をとっていることに対して「奮て 此任に当るべき我邦人は誠に友邦の信頼に背むくなからんことを期せざる可からず」と敬 意を表している。天囚は、張謇がその改革について日本に範をとっていることを評価し、 日本はその信頼にこたえ、清国を支援することを訴えているのである。第一回の渡清以後、 天囚は張謇の考え方に深い関心をもつようになったと思われる。 第 4 回目の渡清は、1907(明治 40)年 8 月から 11 月までの時である。この時も天囚は 一連の記事を大阪朝日新聞に送っているが、そのなかに 1907 年 10 月 6 日付けの「奉天の 二日」81という記事がある。この記事で天囚は、四庫全書が収蔵されている奉天の文溯閣 を訪れたときに、四庫全書の閲覧がかなわなかった件に対して、「支那は斯く大図書館数処 を有するも、皆帝室の秘閣にして公開せず(中略)学問は人類の公器にして、一国帝王の 私すべきに非ず{中略}速かに之等の秘閣を公開して一大図書館を立んことを望むになん」 と述べる。これは、天囚が清国には四庫全書を収蔵する「大図書館」が数箇所あるものの、 帝室の秘閣として公開しないことに対して、公開を前提とした図書館をつくることを望ん でいる記事である。 実に天囚は図書館に関して非常に関心をもっていて、1892(明治 25)年「なにはがた一 周年」と文のなかで、「我なにはがたの日を遂ひ月を累ねてますます観を改め美を集むるや また一言すべき者あり何ぞや我文学会の会員は各其所蔵の書籍を随意本会に寄附し及び有 志者の寄附を紹介して文学書庫を事務所中に設けんことを決議せし事是なり寄附書籍も 追々集まり居り居ればやがて公開する時節もあるべし是浪花文学会の既往なり」82と述べ る。これは天囚が、大阪に図書館がないことを憂い、その設立を訴えていた時期のことで ある。また当時大阪図書館の初代館長である今井貫一によれば、天囚とは張謇来日の明治 36 年春に初めて対面しており、天囚は図書館を大阪で望まれている三種の文化事業のなか の第一の事業であると述べていたという83。そして、日本においては、天囚も待望してい た大阪図書館が 1904 年に開館となり、帝国図書館はすでに 1897 年に設立されていた時期 であり、天囚は清国においても公開の図書館の創設を訴えたというわけである。

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17 ところで、天囚が清国に公開の図書館がないという記事については、張謇の論とは相反 するところがある。張謇は、博物館建設の上奏文「上南皮相国請京師建設帝国博覧館議」 のなかで、江南では四庫全書を収蔵する南三閣が、図書館のように公開されていて、民は 皇帝の恩恵に感謝の念を禁じえない、と述べているのである84。ここで張謇は、南三閣が 図書館のように公開されていると述べているが、それを「図書館」と称するかどうかはひ とまず措くとして、ここでは両者とも、図書館とは公開の施設であるべきであるという、 共通の問題意識をもっていることを確認しておきたいと思う。とりわけ、天囚は図書館の ような文化施設に対して一家言を持っており、張謇が天囚の世話により日本視察で各所を まわった時に一層その意を強くしたと考えても不思議ではない。

(2)帰朝後

天囚は、足掛け二年間の清国留学を終えて、1902(明治 35 年)の晩春に帰国した。天囚 はこの清国留学後、「青年時代からの持ちつづけた豪放磊落の気風は一変し、温厚な性格に なったといわれる。年齢的にも不惑の年に近かったせいもあろうが、儒学の本場に留学中、 修得した学問によって何物かがそうさせたのであろうか」85と後醍院良正が『西村天囚伝 (上巻)』で述べているように、清国留学後、性格も変化し、周囲のことなどにも気遣うよ うになったようだ。 天囚は、帰朝後も清国の改革に対して以前と同様に関心を寄せて数編の社説を書いた。 1902 年 6 月 29 日に「教育家の渡清を望む」86という社説を書いた。この記事で天囚は、日 本には清国から多くの留学生や視察員が来ているのに対して、日本側からも清国にもっと 多くの教育家を派遣すべきであり、この面で文部省が積極的ではないことについて批判を した。清国の実地で留学したこともあり、清国の事情をよく知ることになった天囚は、こ のように清国の現状を憂い、清国における教育の発展について心をくだいているのであっ た。 1903 年 4 月 16 日には「東游の清人」という社説を書いた87。ここでは、現に開催されて いる大阪の第五回内国勧業博覧会についての、清国人の見学について言及した。天囚はこ の記事のなかで、まず今回の博覧会は、教育・美術・工芸・農林・水産・機械分野のすぐ れたものや、動物・植物の珍しいものが網羅的に一堂に陳列されていて、日本の国勢をよ く知ることができると述べている。そして、清国の「変法の志ある者、則を取りて倣傚せ んと欲せば、則今日の博覧会を観るより好き機会あらじ」と記して博覧会見学の意義を説

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18 き、また、「近日清人の游蹤暫く多からんとするは、我輩の欣慰に禁へざる所と為す」と清 国からの見学が増加しつつある実情に喜びを表した。ここで天囚は、「変法の志ある者、則 を取りて倣傚せんと欲せば」と述べているが、この「変法の志ある者」というのは、先に 述べた天囚の「張修撰の変法平議」を考慮に入れて考えてみれば、張謇をも念頭において 書かれていると考えてよいだろう。

第 2 節 張謇来日の動機

すでに述べたように張謇は、1903 年の来日以前に南通の地で、実業面では 1899 年に大 生紗厰、1901 年には通州墾牧公司を開業し、教育面では 1903 年 4 月に通州師範学校を開 校した。このうち通州師範学校はその範を多く日本からとっていた。例えば、張謇は、「日 本学校の建築法を取り入れ」(訳文筆者)て通州師範学校を建てたと「嗇翁自訂年譜」に記し ている88。この師範学校の設立については、日本教育視察を経験し、また日本の藤田豊八 (1869−1929)とは旧友であった羅振玉の助力が大きかったという89。張謇は、日本の教 育の実情については、このように羅振玉や、日本教育視察を終えた呉汝綸90らの訪日の記 録や見聞記などによって、また前述のように天囚との交友を通じて、相当把握していたの であった。そして、張謇は来日するに当たっては次のような心構えを持っていた。 第一に 従来の自尊自大の看板と先入観はこの老大帝国に残しておき、謙虚な心をも って、思う存分に観察し、細部まで記録する。そしてその国の実情がどのようなもの であるかを確かめる。第二に その国の外観のみならず、さらに内面も観察する。大 なるところを観察するが、さらに小さいところも観察する91(訳文筆者) 張謇は「以実業与教育迭相為用」つまり、実業と教育両方ともに振興させようという考 えをもっていた。彼は来日する数日前の日記には、視察にあたって「農工及び市町村の小 学校を考察」92すると述べている。つまり、これは「農工」は実業であり、「市町村の小学 校」は教育であり、その両者をともに見学しようという計画を立てたのである。さらにま た張謇は、来日中に会見した嘉納治五郎との談話のなかで、今回の来日の趣旨を次のよう に述べる。

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19 学校の規模については、大きい者より、小さいものをみたい。教科書については、新 しいものより古いものをみたい。学風の上では、大都市より市町村を訊ねてみたい。 経験については、完全なものより未完成なものを訊ねてみたい。経済の面については、 政府や地方官に優遇されているものより地方の人が自立しているものを訊ねてみたい 93(訳文筆者) このようにすでに郷里の南通で事業を興し、南通地方の開発に乗り出していた張謇は、 またこの来日のねらいを「小さい者」、「市町村」、「地方」においているわけだが、それは 今後の南通という地方都市の開発にとっての有効な資料や情報を入手しようと考えていた のであろうと思われる。このように日本をモデルとしていた時代のなかで、張謇はこれま で中国国内で得た日本についての知識だけでなく、実際に来日することにより日本の実情 がどのようなものであるかを確かめるために、また、そのなかで南通地方の発展に有効な 資料や材料を得るために、約 70 日間の日本視察を行なったのである。

第 3 節 第五回内国勧業博覧会

張謇にとって、渡清時の天囚との出会いは、大きな意味を持ったと思われる。両者とも に儒学の思想を持ちながら近代化の道筋を推進しようという共通意志をもっていた。こう した天囚との出会いを通じて、張謇は一層日本視察を望むことになり、また日本をモデル としようとした時代の動向とともに張謇の日本行きを促したと思われる。張謇はこの来日 の約 4 年前の 1899 年ごろには、建設した大生紗厰もようやく軌道に乗せ、日本視察を思案 していたが、戊戍変法や義和団事変など相ついで起こる政治的激動の時期ということもあ って、世間からの批判を恐れて中止していたのである94 張謇念願の来日は、1903 年大阪で開催される第五回内国勧業博覧会を機として実現する ことになった。 張謇は南京駐在の日本領事天野恭太郎からの第五回博覧会の招待状を持ち、来日した95 つまり、張謇は第五回内国勧業博覧会に招待されて来日しているのだが、ここでは、この 博覧会への外国人の招待と待遇について述べ、そのなかで張謇の来日の経緯を考察してい く。なお、第五回内国勧業博覧会の見学を含め日本の見学箇所についての詳細は第 3 章で 述べる。 第五回内国勧業博覧会への外国人の招待については、博覧会終了後に、博覧会事務局が、

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20 今次の博覧会をまとめた「第五回内国勧業博覧会事務報告」の「外人ノ招待及待遇」(以下 「招待及待遇」)の項目により、その状況をみてみる96

(1)外国人の招待

「招待及待遇」によれば、第五回内国勧業博覧会への外国人招待の目的はおおむね次の ようである97 この博覧会は、以前の博覧会より規模が大きく、参考館を設けて外国の物品を陳列して おり、万国博覧会の如くであった。明治 27-28 年の日清戦争(甲午戦争)の勝利により、 日本に対して外国からの見方が大きく変ってきた。日本はこの博覧会を機会に、なるべく 多くの外国人の来日を促し、親しく日本の産業に接触させ、「国家国民ノ信用ヲ重クスルノ ミナラス自然彼我貿易ノ上ニモ一新面ヲ開クヲ得ヘシ」98とその目的を述べた。そこで事 務局は、各国に多数の招待状を発送することを決め、招待状及附属文書が作成したのであ った。 そして、作成された招待状と附属文書の送付については「外務省ニ托シ公使及領事ノ手 ニ由ルヲ便宜ノ方法ト認メ」99て、外務省に委任した。そして、1902 年7月 21 日付をもっ て、清国と韓国の外務省に甲種 2,500 通、乙種 1,700 通の招待状と「赴会須知」(心得書) 及び招待状代用券が交付されることになる。招待状はその後に追加されたものも合わせる と、4,410 通にのぼる100。そのうち清国には清国公使館と 12 ヶ所の領事館に 4,130 通が交 付されており、南京領事館には 250 通の招待状が交付されていた(表 1 清国への第五回内 国勧業博覧会招待状交付 p.21 参照)。南京領事館に交付された 250 通の招待状は、当時 南京駐在の日本領事である天野恭太郎にわたり、張謇の招待状は、この天野の 250 通招待 状のうちの一枚だったのであった。 また「招待及待遇」によれば、清国に交付された招待状 4,130 通に対して、実際に来日 した清国の来館者数は 263 人、その割合は約 6%でしかない(表 2 招待状に対する来館者 比率 を参照)。これは博覧会事務局が予想していた 2 割をずっと下回っている。このよう に張謇は、詳細は第 3 章で述べることになるが、清国がまだ博覧会を重視していない状況 のなかで、6%しか来なかった数少ない来館者のなかの一人として来日することになったの であった。

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21 表 1 清国への第五回内国勧業博覧会招待状交付 送付先 通数 送付先 通数 清国公使館 上海領事館 天津領事館 芝罘領事館 牛荘領事館 厦門領事館 南京領事館 600 450 (30) 450(25) 250 250 250 250 蘇州領事館 杭州領事館 沙市領事館 福州領事館 重慶領事館 漢口領事館 総計 250 250 250 250(25) 250 250(50) 4000(130) 4130 (出典:「外人ノ招待及待遇」『第五回内国勧業博覧会事務報告 下巻』 農商務省,1904.8, p.144-145 より作成。()の数字は追加の分である)。 表 2 招待状に対する来館者比率 国 来館者(人) 招待状交附(通) 招待状に対する来館者割合 清国 欧米各国 263 242 4,130 4,365 約 6% 約 5% (出典:「外人ノ招待及待遇」『第五回内国勧業博覧会事務報告 下巻』 農商務,1904.8, p.144-146 より筆者作成)。

(2)待遇

博覧会事務局では外国人に対していろいろな便宜を図っていた。招待状と同時に渡され た「心得書」によれば、招待状をもっている来館者に対して、本博覧会の観覧や日本国内 の観光、宿泊地などについて、博覧会事務局が世話をし、便宜をはかると記していた101 そして、博覧会事務局では、学校や工場の参観を希望する来館者に対しては、大阪府に依 頼して便宜をはかるようにした102。張謇は大阪府を訪ねて書記官山田新一郎に、農工場の 参観のための府知事の紹介を頼んだ103。また張謇は、大阪から帰国の途で、製塩業の実況 を知るために、岡山や広島に立ち寄る予定であったが、これについては大阪府庁が岡山と 広島の塩田の責任者への紹介状を書いている104 さらにまた、博覧会事務局では、来館者に対して優待の意を表するためとして優待券を 贈与している105。張謇も最初に博覧会の会場に出向いたときに、優待券の配布を受けてい た106。この「優待券」というのは、今回の博覧会に直接間接的に功労ある者に対して与え る券であり、博覧会の観覧が無料になり、また京都御所や桂離宮などを拝観することがで きた107。外国の来館者にもこの優待券を与えることになったのであり、張謇は、この優待 券を利用して京都御所を観光したと日記に記している108

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22 外国人の宿泊、通訳、会場の内外の案内については、清韓協会及び喜賓会、第五回内国 勧業博覧会協賛会(大阪)などの団体が便宜を図った。清韓協会109は、第五回内国勧業博 覧会開催の際に、来日中国人や韓国人の便宜を図るために、大阪市内の貿易家や有志者に より設立された協会であった。協会は、日本郵船・大阪商船と交渉して、乗船賃を 3 割引 とすることとした。また協会は、宿泊のための施設として清賓館、韓賓館の 2 館を設け、 通訳者も配した。張謇もこの清賓館を利用していた110。この協会は、博覧会および大阪市 内の官公庁・会社・工場・学校・観光地の案内に便宜をはかったという。喜賓会111は、同 会の開催の際に、来日外国人の便宜を図るために設立された会であった。この会は、大阪 支部事務所を大阪ホテルに置き、博覧会正門に出張所を設けた。そして、そこに通訳を 15 名(英語 5 名、フランス語 3 名、ドイツ語 2 名、ロシア語 1 名、スペイン語 1 名、中国語 1 名、韓国語 1 名)を配し、外国人の応接に当てられた。喜賓会では、博覧会が開かれる 前に部員を東京など各地に派遣して旅館の設備や名勝古跡を調査させて外国の来館者の日 本の各地参観に便宜を図った。また、北濱銀行の楼上での古美術品の展覧会や、生花会・ お茶会などの催しも開いた。喜賓会には欧米人 4,270 人、清国韓国人 210 人が訪問したと いう。第五回内国勧業博覧会協賛会(大阪)112は、博覧会の事業を協賛し、同会の盛況と 利用者の便宜をはかるために大阪市民によってつくられた協賛会であった。パンフレット の発行、各地の市町村・外国語新聞等への広報活動、築港等の観覧の斡旋、公会堂の建設 などの事業に携わっていた。また協賛会では、喜賓会には 1 万 670 円、清韓協会には 1 千 円の資金を寄附した。 このように第五回内国勧業博覧会の事務局や大阪府、また上記の団体などが外国人の来 館者に対して便宜を図ったのである。

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第 3 章 張謇の日本見学

前章で述べたように張謇は、1903 年大阪で開催された第五回内国勧業博覧会を機として、 念願の来日を果たした。 張謇は、上海―長崎航路の日本郵船博愛丸を利用して来日し、前述のように 5 月 21 日(旧 暦 4 月 25 日)から 7 月 29 日まで(旧暦 6 月 6 日)までのおよそ 70 日間の日本参観を行い 見聞を広めた。張謇は博覧会場に数度も足を運んでおり、また、九州・神戸・大阪・名古 屋・静岡・東京・函館・札幌・小樽・姫路・倉敷・松江の各地の教育機関 35 ヶ所、農工商 機関 30 ヶ所を精力的に廻った。そして、張謇はこの日本視察記録を『癸卯東游日記』とし て出版した。(『癸卯東游日記』のなかに登場する主な教育関係の参観機関は、表 7 「『癸 卯東游日記』所載の人物および参観箇所一覧」p.65 参照)。 この来日は、帰国後張謇の諸事業に大きく影響を与えており、そのなかで南通博物苑の 創設にあたっても影響を及ぼしているとされる。しかし、これまでの研究においては、日 本での見学箇所についてふれられたものはあるが、張謇が実際にまわった教育機関の当時 の実情を明らかにしたものはない。この章では、まず張謇の見学に便宜を与えた日本人に よる張謇の各所見学への助力について述べる。次に、張謇の南通博物苑創設に影響を与え たと思われる日本見学の箇所のうち、第五回内国勧業博覧会及び博物館としての東京帝室 博物館・東京教育博物館・小石川植物園・札幌農学校博物館・植物園についてその時代の 実情をみておきたい。そして、張謇が実際に見学し、見聞したこれらの施設について当時 の実態を明らかにしていきたいと思う。

第 1 節 日本人の案内

張謇の日本の各所見学に大いに便宜を図った人物は、天囚をはじめとして幾人かいた。 まず彼らについて述べていきたい(表7「『癸卯東游日記』所載の人物および参観箇所一覧 」 p.65 参照) 。 張謇は、来日の 5 月 30 日(旧暦 5 月 4 日)に大阪朝日新聞社に天囚を訪ねた。この日天 囚は、張謇と同じ新聞社の記者で、上海にも五年間滞在して中国語に堪能な小池信美を紹 介した113。翌日には大阪城で開催された大阪市小学校創立三十年紀念会に張謇を連れて行

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24 き、そこで天囚は漢学者藤沢南岳(1842-1920 名恒 号南岳 以下南岳とよぶ)を張謇に紹 介した。そして後に張謇は藤沢南岳の息子藤沢元造を知ることになる114。また、6 月 8 日 (旧暦 5 月 13 日)の天囚らとの宴会のなかで張謇は、天囚と同じ大阪朝日新聞社の内藤虎 次郎(1866-1934 名虎次郎 号湖南 以下湖南とよぶ)と大阪三十四銀行の頭取小山健三 (1858-1920)を相知ることとなった115 南岳は、香川県生まれで、張謇も日記に書いているように、漢学者、儒者である。南岳 は、泊園書院を再興するが、張謇も訪れたこの泊園書院というのは、漢学を学ぶ学校であ り、南岳の父親である藤沢東畡(とうがい 1794−1864)が 1825(文政 8)年に開いたもの である。東畡の死により一旦閉校したところを、南岳により再興されたのである。 小山は、埼玉県に生まれで、漢学・数学・英語や測量術を修めた。埼玉県の医学校教師、 長崎県立師範学校長などを勤めており、1898(明治 31)年 5 月には文部省次官に任じられ るが、7 月に文部省次官の任を去るのである。そして、1899 年に大阪の三十四銀行の頭取 となる。張謇は、この元文部省の官僚でもあった小山に日本の教育の沿革について、とり わけ 20 年前の教育について詳しく聞いた116。このことは、第 2 章に述べた東京での嘉納治 五郎との談話のなかの今回の来日趣旨と一致する。つまり、張謇は南通という地方都市の 実情と対比するために、その時点での日本の状況を見学するだけではなく、明治維新から 現在に至るまでの約 30 年間の発展の過程を研究しようとしたのである。それゆえ、こうし た関心をもってこれらの箇所を見学し、その経営や来歴・実情を聴取したのであった。小 山が張謇と会見したことについて 1903 年の小山の年譜には、「6 月 清国翰林院修撰張謇 ト会見ス、張氏ハ実業及ヒ教育方面ノ視察ノタメニ来朝シタル支那ノ名士ナリ」と出る117 張謇は帰国後まもなくして「寄詩贈小山」として、小山に詩を贈っている118。小山は張謇 と同じく官僚の道を捨てて、実業入りをした人物で、実業と教育をともに推進していこう とする張謇にとってはお互いにひかれるところもあり、その聴取は大きく役に立ったと思 われる。 湖南は、秋田県生まれで、東洋史学者である。大阪朝日新聞などの記者を経て後に京都 帝国大学の教授となる。彼は、張謇が来日する前の 1899 年および 1902 年 10 月から 1903 年の 1 月まで二度清国に遊学した経験があり、中国についてよく理解していた。湖南は、 張謇と相知ることとなった第五回内国勧業博覧会開催前年の 1902 年には「博覧会と支那人 の来観」119を書いている。そこで湖南は、「近日往々、明年の内国勧業博覧会に、支那人の 来観を誘導せんことを主張する者あり、吾輩も亦最も此議を賛し」と述べ、清国からの来

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25 観に賛意を表した。そしてさらに、「支那産業の開発と、購買力の増進とを導く所以に於て、 此次博覧会の来観を勧誘するの効力あるべき」と博覧会の見学が清国の産業の開発などに 大いに役立つ旨を述べた。また、来館者に対する接待、滞留、観覧などに便宜を与える面 では、開催地である大阪市が尽力すべきであると主張し、ただ、「近年我邦には不十分なが らも欧米人の接待に関する設備は、略具はれるも、数年以来の新顧主たる支那人に対する 接待の設備は、未だ之あらざるが若し」と欧米人に対しては設備が整っていても、来日す る清国人に対する設備は不充分であることについて訴えていた。 前述のように第五回内国勧業博覧会の喜賓会の 15 名の通訳者の割合を繰り返してみる が、英語 5 名、フランス語 3 名、ドイツ語 2 名、ロシア語 1 名、スペイン語 1 名、中国語 1 名、韓国語 1 名となっており120、喜賓会は欧米向けの接待を主にしていたことがみてと れる。また、第五回内国勧業博覧会に対する外国人への招待状の交付数は欧米が 4,365 通、 清国が 4,410 通であり、その差はあまりない。しかし、第五回内国勧業博覧会協賛会(大 阪)が各会に寄附した資金を比較すれば、喜賓会には 1 万 670 円、清韓協会には 1 千円で あり121、10 倍の開きがある。 このようにみれば、湖南の「支那人に対する接待」の貧困さの指摘もよく理解できると ころであろう。日本にとって清国や韓国はさほど重視されていなかったのである。こうし た実情にあって、東洋学者である湖南や漢学者天囚は中国の国力の増進を訴え、博覧会参 加の意義をとなえたのである。このような状況のなかでの張謇の来日であった。 『湖南全集』所蔵の「年譜」には「3 月より 7 月まで大阪に開催されたる第五回内国勧 業博覧会のために来日せる中国人と接触する機会を得」122と記されている。この「来日せ る中国人」とは張謇のことである。張謇は離日するにあたって、湖南から「夷匪犯境聞見 録」を寄贈されている123 西村天囚をはじめ藤沢南岳・藤沢元造・内藤湖南・小山健三・小池信美らは張謇を通訳 し、また各所を案内し、さらに各地の文化機関教育機関の見学を斡旋した。彼らが斡旋し、 またともに見学した箇所を挙げると例えば次のようなところである。大阪朝日新聞社・大 阪城で開催された大阪市小学校創立三十年紀念会・大阪愛日小学校・愛珠幼稚園・泊園書 院・大阪女子師範学校・中之島高等工業学校・医学校・造幣局・水源局・大阪府師範学校・ 天満橋北織物株式会社・大阪府立農学校・大阪築港・大阪鉄工所・三十四銀行・静岡商業 学校などであった。 そのうち大阪府立農学校では、動物・植物・農具の各標本室をも参観した124。これらの

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