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16世紀後半のヨシフ=ヴォロコラムスキー修道院領における雇用労働力(1)--オブローク支払帳の分析を中心に---香川大学学術情報リポジトリ

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(1)

若 手 川 大 学 経 済 論 議 第64巻 第l号 1991年6月 27-67

1

6

世紀後半のヨシフニヴォロコラムスキー

修道院領

1)

における雇用労働力(1)

一 一 オ ブ ロ ー ク 支 払 帳 の 分 析 を 中 心 に 一 一 I はじめに 1 問題の所在 2 史料について E オプローク受領者 l オプローグ受領者の職種 2 オブローク受領者の義務

細 川

3 オブローク受領者に対する修道院侭!の対価 皿 臨時的雇用労働の種類と労働内容(以下次号〉

w

雇用労働力提供者の実態 V おわりに I は じ め に

I

問 題 の 所 在

1

6

世紀,

1

7

世 紀 の ロ シ ア に お い て 修 道 院 領 に ジ ェ チ ョ ー ヌ ィ シ 即 時HbI山が存 在 し て い た こ と は , 衆 知 の 事 実 で あ り , デ ィ ヤ ー コ ノ フ は ,

n6-17

世 紀 の モ ス クワ国家における農村住民史概論』において,

I

修 道 院 の ジ ェ チ ョ ー ヌ ィ シ 」 一 (1) これまで、バHo問中O=BOJJOKOJJaMCKH員MOHaClblpb))について,

r

イォシフォ=ウ、、オロコ ラムスキー修道院Jという訳語を用いてきたが(拙稿

f

l

6

世紀末イォシフォ・ヴォ ロコラムスキー修道院領における農民負担j, ~研究年報~ (呑川大学経済学部)26, 1986),今後,一般化している「ヨシフ=ヴォロコラムスキー修道院」と表記するこ とにしたい。

(2)

28- 香川大学経済論叢 28 般を論じ

f

i

:

)

16世紀半ばのヨシフ=ヴォロコラムスキー修道院でも,独自の労働力として ジェチョーヌィシ,[(ereHbIWが存在していた。チホミーロフは,当修道院の雑役 を割り当てられた働き手を取り上げる中で,このジェチョーヌィシの問題に触 れている。彼は,ジzチョーヌィシの出自を,自由な遍歴者Ka3aKや一時的に修 道院の仕事に雇われた雑役夫に求めているが,同時に,多数のジェチョーヌィ シが修道院領内の人々であるとと,彼らは期限の前に,受け取った金銭を返済 した上で,自由にジェチョーヌィシを止めることもできたこと,また,当該修 道院の経済に応えるためには,俸給を受領する人達だけでは不十分で,他の 人々を別に雇用しなければならなかったこと,木さじ製造職人やろくろ師の存 在は,さじゃカップなどの修道院の種々の記念品の制作を物語る可能性はある ものの,手工業者,ジェチョーヌィシの労働は主として修道院内の需要向けに 採用されたものであること,等々を指摘している。 グレーコフも,

I

修 道 院 の ジ ェ チ ョ ー ヌ ィ シ 」 に お い て , そ れ ま で の ジ ェ チョーヌィシに関する見解を整理した上で,ヨシフ=ヴォロコラムスキー修道 院の<<KHmaK.JII0qe首 H06pOKOBゆを利用して,次のような分析を行っている。 ①<<,[(erH))は,もっぱら監督のために指名された人物の監督の下に特別の家屋 の中で生活を送っていること ②<<,[(erH))に対しては,毎年,通常は年間の賃金(=オブローク〉が支払われ ているが,短期の者も存在したこと ③ 賃金に幅があること,ジェチョーヌィシの構成に変化があり,恒常的な労

( 2) L(b田OHOBb,M O</epI<U U3O ucmop即 日 品ζI<azo HaCefleH.iR品 MOCI<OBCI<OMo zo正ydapcmBe (XVI-XVll BB.), C-Oerep6ypr,1> 1898 (SLAVISTIC PRINTINGS AND REPRINTINGS 210 Ed. by CH.VAN SCHOOlぜEVELD MOUTON, 1969), c 295-321

( 3) TY!XOMY!pOB, M. H.. MOHacrblpb-BO刊 日HHY!KXVI B,αIfcmopu'-Ieuぐue3anuωu)), T 3,c.148-152チ ホミーロフは,本稿で主として利用する史料集中の文書にも言及し,利用もしてい るが,彼が主として利用しているのは,彼がヨシフ=ヴォロコラムスキー修道院の 文書保管所で発見し,後に監修者の一人となって刊行した文書である(KliuzaI<J/IO'-Ieu U dOJ/ZOBQ.R I<HUZa Ifoωifjo-BoJ/OI<OJ/aMCI<OZO MOHιmblpJ/XVI Bel<a,00且pe,l¥aKL¥Y!e首M..H.TY!

xo-MY!pOBa Y!A A 3Y!MY!Ha, M-π, 1948)。本稿では,この史料集を利用するにまでは至ら ず,今後の課題としたい。

(3)

29 16世紀後半のヨシフ=ヴォロコラムスキー修道院領における雇用労働 -29-働者ではなく,流動的な労働者であること ④ 労働に就くに当って,各人が保証人を立てているのは, 当時,修道院に は雇用労働者を確保するための他の手段がなかったからであること ⑤ 期間内の義務を遂行した後は,

I

従属性」はなくなっていること 等々を指摘し,続いて,雇用者の多数ある範障の中の一つが,なぜ区別されて ジェチョーヌィシという特別な名称を付けられているのか,という設聞を立 て,主としてディヤーコノフの見解に検討を加えつつ,最終的には,ジェ チョーヌィシについて, ① 修道院経済において,修道院独自の耕地の発生時及び拡張時に,幼児から 修道院に扶養されるに至った人々がそのために使われたが,こ.こから「修道 院のジェチョーヌィシ」という言葉が出現した。 ②修道院独自の耕地を耕作するために雇用された労働者もまた,修道院の ジェチョーヌィシと呼ばれるようになった。 ③ ジェチョーヌィシの義務は農業労働者としての機能にとどまるものではな かった。ジェチョーヌィシの中には,手工業者も,修道院当局の様々な仕事 を遂行する使用人も含まれている。 ④ 修道院のジzチョーヌィシは,世俗領においては,聞かれた雇用という形 態を取ったり,セレブレニチェストヴォというカムフラージュされた形を 取ったりして仕事に参加されられる労働者とL、う範障に相当する。 という結論を出している。 シチzベトーフは,ジェチョーヌィシについて,ジェチョーヌィシを貧困化 し,固有の生計を営む可能』性を失った農民と理解し,農民ではなく,彼らこそ が修道院の直領地における主要な農業労働力である,と捉えている。そして, ジェチョーヌィシの数的変化を,修道院の土地開墾事業との関連で理解し,支 払われた報酬額の変化,雇用期間,雇用に際しての担保の問題や給付内容にも 言及している。

( 4) rpeKoB, 6.,l,!MOHaclblpKHe iWleHbl山H,αBonpoω u ζmopuu>>, NQ 5-6, 1945, c.74-84

(5) 山.enerOB, K H.CeJIbCKOe X03匁員CIBO B BOT'IHHaX 110CHφO-BOJIOKOJIaMCKOro MOHacrblpH B KOHL¥e 16BeKa,αH(mopu即 日{'ue3anu山U,抄r 18, C 99, 100, 103

(4)

-30- 香川大学経済論叢 :30 このように, ジェチョーヌィシについて論じているようではあっても,その 内容はジェチョーヌィシに限定されているのではなく,修道院における雇用労 働力の問題がテーマとなっているのである。この点は,すでに指摘されている ことではあるが, オブロークとL、う表現と並 < < 成 田 畑oe)!(aJIOBaHbe))とか <<[0江OBoe)!(aJIOBaHbe))という表現も散見する オブロークの支払いに当たって, んで, ことから, オブロークが貨幣による俸給の支払いを意味していることは明らか である。 つまり,何らかの労働に対する報酬として, オブロークが支払われて いたのである。 さらに,オブロークの支払いを受ける雇用労働力と並んで,臨時的に雇用さ れる労働力の存在が支出帳簿の中に散見する。典型的な事例には,明らかに雇 用を意味する側首MOBaTb))という言葉が使われている;また,この言葉は使用 されていないものの,労働への対価として金銭が支払われている事例がある。 したがって,当該修道院の雇用労働力を検討する場合には,オブローク支払帳 簿に示されたオブローク受領者だけではなく,支出帳簿にオブローク受領者と しては現れない労働力をも視野に入れなければならないことになる。 本稿は,チホミーロフ,グレーコフ,シチェペトーフ等によって指摘された 諸点に関して,ジェチョーヌィシをも含めて, ヨシフ=ヴォロコラムスキー修 道院の雇用労働力の問題と捉え直し,

1

9

7

8

年に刊行された BOmttW-lHble X03.R U-cm6eHHble I<HU2U 168, Ki-tu2u deHe:JICHblX C60P06 U 8blnllam Hocuifjo司 B OIlOl<o.lla.MCK020

MOHacmblpll 万万一

1

5

9

5

2

2

中のオブロークの支払いに関する記載を主たる分析対 象としながら,

1

9

8

0

年に刊行された BOmttUHHble .xo3.RUCm6eHHble I<HU2U 166,

Ilp uχodHble U pacxoδHble KHU2U Hocuifjo-BollOKo.llaMCK02o MOHacmblpll 1570-80・x z 中 の 支 出 関 係 に 関 す る 帳 簿 を も 利 用 し て , 再 検 討 し よ う と す る も の で

(6) Bom叩HHbleX03JlUCmlleHHble /(HUi!U 1611 KIiui!u deHe:>tCHblx c6opoII U IIblnJlam Hocuifjo-B仰01<0却M O<Oi!O MOHaCmblpJl157.3-1595i!i!,1円97沌8(以下 BXK必品I<d命ζ印eと略記),c"22μ4,27冗8,お282,t

(7) Boml

d

(5)

31 16世紀後半のヨシフ=ウやオロコラムスキー修道院領における雇用労働 -31一 ある。 したがって,本稿では,当該修道院の支出関係の帳簿,とりわけオブローク 支払帳簿を利用して,修道院の雇用労働力の実態を,労働力の提供者であるオ ブロートチクの職種に焦点を当てながら,同時に,支出帳簿中の労働に対する 支払いをも視野に入れて,当該修道院は,どのような労働を必要としていたの か,被雇用者はどのような条件のもとに雇用されていたのか,労働力を提供し ていたのはどのような人達で、あったのか,等々を明らかにしていきたい。 なお,オブローク支払帳簿と,支出帳簿中の雇用労働への支出は,当然のこ とながら,支出のうちの一部に関わるものであって,支出の全てを対象とする ものではない。他方,当該修道院の収支状況を把握し,それによって修道院の 所領経営,分業,農村工業の問題,農村における分業の問題,等々について検 討を加えるためには,少なくとも収支帳簿全体の分析を行なければならない。 残念ながら,収支帳簿全体の分析を行うことは,現段階では不可能なので,そ のための基礎的研究の一端として,本稿では,労働力の雇用関係にのみ焦点を 当てて,検討を加えることとし,全体像を把握することは,今後の課題としたい。

2

史料について 分析に先立って,史料として利用する文書について触れておきたい。中心と なるのは,前述のBOmttUHHbleX03.RUCm8eHHble KHUZU 168 KHUZUδeHeJ/CHblX C60P08

(8 ) 最初の史料集については,すでに拙稿でも言及しておいたように(前掲論文, 85 ページ),オブローグの収入ではなく,オブローグの支出に関する記載も収められ ている。つまり,オブロークという同ーの用語が使用されながら,一方では収入を, 他方では支出を,と全く相反する行L為を表わすものとなっている。したがって,支 出に関する帳簿は,分類すると,ニ通りあり,一つは当該修道院の日常的支出に関 するものであり,もう一つはオブロークの支払いを中心とするものということにな る。本稿で検討の対象となるのは,後者の意味で使用されているオブロークの,そ の支払い対象となっている人々に関してである。 1980年に刊行された史料集中の支払関係の帳簿では,当該修道院に関わる支出項 目をほぼ時系列に沿って,各地に散在する所領からの覚書をも挿入しながら,した がって,実際の支払期日と支払関係の帳簿に記載された期日とが異なる場合も伴い つつ,何に,いくら支出されたのか,購入あるいは支払いの担当者は誰なのか, 等々が記載されている。

(6)

-32一 香川大学経済論議 32 U 6bln/la m H ocuifio・B O/lOI<O/laMCIWZOMOHacmblpR 157.3-1.5何 ZZ のNQ30"'39 NQ30 これは, 1573年10月 1Bから1574年4月30日までのオプロークの支払いを記 載しており,当時のカズアチェーイKa3Ha可dはニキフォール=モーリンHMKMゆop MOpMHであった。 NQ 31 1575年10月 6日から1576年5月24日までのオブローク支払いの記載を含むも カズナチェーイはイェノレマン=チョグロコフEpMaHqor.nOKOBであった。 ので, NQi32 1579年10月27日から1580年3月16日までのオブローク支払いの記載を含み, カズナチェーイはベネディクトBeH明日KTであった。 NQ 33 1581年10月 1日から1582年4月28日までのオブローク支払いの記載を含み, カズナチェーイはニキフォールであった。 NQ 34 1587年12月22日から1588年5月24日までのオブローク支払いの記載を含み, カズナチェーイはニキフォール=モーリンであった(彼の前任者はモイセイMow ce向。最初の

2

葉については下がもぎ取られているので, ほ ぼ

3

分の

l

しか保 存されていない。 NQ 35 1588年10月25日から1589年9月 8日までのオブローク支払いの記載を含み, カズナチェーイはユキフォーノレ=モーリンであった。 NQ36 1588年12月 1臼から1589年6月11日までのオプローク支払いの記載を含み, カズナチェーイはニキフォール=モーリンであった。 NQ37 1589年10月 1日から同年11月20日までのオブローク支払いの記載を含み, カ ズナチェーイはニキiフォール=モーリンであった。

(7)

33 16世紀後半のヨシフ=ヴォロコラムスキー修道院領における雇用労働 -33一 NQ 38 1589年12月

1

1

日から1590年9月4日よりも前までのオブローク支払いの記載 を含み,ニキフォール=モーリンのカズナチェーイ在任中に関わるオブローク 支払であった。 NQ 39 1592年3月15臼から1593年までのオブローク支払いの記載を含み,カズナ チェーイについては不明である。 以上が刊行者による日付けとその時のカズナチェーイの氏名であるが,本稿 では,との10の文書について, NQ30の冒頭に, 7082年10月1日 (1573年10月

l

日)に,カズアチェーイであるニキ フォール・モーリンは,馬係,ジェーチ,屋敷番,炉焚き人,漁師達にオ ブロークを与え始めた。 とあるように (NQ3,1NQ32, NQ33, NQ35の官頭でも同様である),旧露暦の新年 の始まりである 9月1日から 1ャ月後の10月1日,あるいはその直後にオブ ロークの支払いが開始され, NQ34の官頭に, -; カス.':tチェーイであるニキフォール・モーリンの支出帳簿。前任のカメ ナチェーイであるそイセイが与えなかった残りの人々に対して, 12月(破 損〉にオブロークが与えられた。 とあるように (NQ36,NQ 38, NQ 39も同様),それ以外の期日から記載されている 場合には,

r

残りの人々にオブローク」の支払いが行なわれていること,を原則と して,次のような操作を行なった。

A

NQ35については,冒頭ではα7097-roOKT1I6pll C I-ro '1I1CJIa))~,C1 588年 10月 1 日・ から〕となっているものの,途中から<<.JIera7096-ro Ma伽 B25 ):¥eHb)) 0588年 5月25日〉となっていることから,後半部分についてはNQ34と合体させ,

( 9) ((江era7082・ro MeCl!L¥a OKI匁6pl!B 1 AeHb noqen且,aBa:I'HKa3Ha明品 HIIKIIφOp MOpllH 06po・ KII KOHl{)XOM 11AereM, 11且BOpHIIKOM,IIIICro6HIIKOM, 11pbI60nOBOM)) (BXK1<.da, c, 190)。 (10) (( KHIII'Hpa3cxo且HbleKa3Ha司 悶 crapL¥a HIIK問中opaMopllHa,且aBaH06POK AOCIonbHbIM n回ー

(8)

34 それによって1587年12月22日から翌1588年9月までのオブローク支払いを反 映したものと捉えることができること, 香川大学経済論叢 -34一 N236は, N235の前半部分と合体することによって, 1588年10月から1589年 6月までのオブローク支払いを反映したものと捉えることができる

B

N938の冒頭では<<江eTa7098・ro,L¥eKa6pSlMeCSll¥a B 11,L¥eHb)) 11589年12月11 に残りのオブロートチクにニキフォール=モーリンの年のオプローグを 支払い始めた,とされているが,途中で, <<.JIeTa 7099・roMeCSll¥a ceHTSl6pSlB 4 ,L¥eHb)) 11590年9月4日」となっており,これ以降に記載されている人物と, N937で「記載されている人物の間では同一人物と比定される名前が相当数登場 していることを考慮すると, N938も前半部分と後半部分とを切り離して,前 半部分uをN937と合体させ, 1589年10月から1590年の何月かまでのオブローク 支払いを反映したものと捉え,後半部分は10月からオブローク支払いが開始 されるという原則からは逸脱するが, 1590年9月以降に新たに開始されたオ t i i 口 H C に残り ブローク支払いとして独立させる N939も冒頭では, αJIera7100-ro MapTa B 15,L¥eHb)) 11592年3月15日」 D のオブロートチクにオブロークを支払い始めた,とされているが,途中で,期 <<KHHra 06pO"lHbIH 101・roro且y110可eTbI06pOKH 11592年のオブローク帳簿。全オブローク 受領者にオブロークが与え始められた」となっており,途中から新年度の支 払いが開始されたことが分かるので,前半部分と後半部分とに分離する このような操作によって,結局,オプローク支払帳簿によって網羅できる時 日は記載されていないものの,

,L¥OBaTH BC5IKHM 06po可HbIMmO,L¥eM))

i l F l a t i -f i s t i -和 ↓h i l l p 1573年10月1日から1574年4月30日まで, 1575年:10月6日から1576年5月24日まで, 期は, (1) (2) (11) 史料集の刊行者は, NQ 35の後半部分にある,,97・rO白HT匁6p匁B1 ,1¥eHb))の箇所を,こ の帳簿は<<江era7097-ro OKT兄6p兄25,1¥eHb抄で始められているのだから, ,,98-ro ceHT1I6plJ B 1 ,1¥eHb))でなければならないとしているが (TaM .)/(e, c. 248),後半部分はぽeTa7096・ roMaHlIB 25用品))で始まっているのだから,ちょうど年がかわる9月1日にこのよ うな表記がなされているのは当然だと思われる。

(9)

35 (3) (4) (5) (6) (7)

(

8

)

(9) (1

0

)

16世紀後半のヨシフ=ヴォロコラムスキー修道院領における雇用労働 1579年10月27日から1580年3月16日まで, 1581年10月 1日から1582年4月288まで, 1587年12月22日から1588年9月 8日まで, 1588年10月25日から1589年6月11日まで, 1589年10月11日から1590年のある時期まで, 1590年9月 4日からある時期まで, 1592年3月15日からある時期まで, 1592年10月 1日から翌1593年のある時期まで -35一 の10の期間ということになる。しかし 1年間を通しての,オブローク支払い の全てを網羅したものではなく,日付けの不明確なものも含まれている。が, 当該修道院の雇用関係を探る上では,ある程度の事柄を把握することはできる であろう。

また,すでに触れたように BOm'-lUHHbleχ03RUCmeeHHble 1<加 zu16<<IlpuxoδHble upacχOdHble I<HU2U Hocu件)-BO.flOI<0/taMCI<020 MOHacmblpR 70-80-x 2 の中にもオブ ロークの支払い関係の記事が含まれているので,それをも参考にしながら,検 討を加えていきたい。ただ,支払帳簿の記載では担保に関する記述は欠けてい る場合が多い。また,多くの場合は,オブローク帳簿に記載された日付けと, 支出帳簿に記載された日付けとが異なってい岩?とれは,修道院側がオプロー クとなる金銭をオブロートチクに渡すべき人物に与えた時期と,実際にオブ ロートチクが金銭を受け取った時期とのタイムラグを示すものとも考えられる。 分析に入る前に,史料中の記載形式について,一言触れておくと,オブロー クの支払いに当たっては,支払期日,オブローク受領者の名前,職種,オブ ロークの金額,またはそれに代わるものが記載され,ついで,担保あるいは保 証人についての記載があり,保証人については,その名前,職種あるいはオブ (12) 例えば,木さじ製造職人ミハイル(アンドレイの息子)に対するオブロークの場 合,オブローク支払帳簿では10月1日となっている (TaM.)lCe, c 190)が,支出帳簿で t主10月15日となっている (BXRnp,<lc 44)。

(10)

-36- 香川大学経済論叢 36 ローク受領者との関係が記載されてい本13)が,オブロークの支払いに際して, 全ての事項が漏れなく記載されているわけではなく,とりわけ支払期日の欠け ている場合が多く見られる。

E

オブローク受領者 l オブローク受領者の職種 まず¥オブローク支払帳簿に登場するオブローク受領者の職種に注目しなが ら,当該修道院がどのような労働力を必要としていたのかを検討してみたい。 史料中に登場するオブローク受領者の職種を一覧表にまとめたものが表 II-lである。 ここに見られる職種を労働の性質によって分類してみると,

A

農業'""p;eTeHbIlll ,瓜(ereHOK),野菜栽培者 oropop;HO員,草刈り用地摘取り人 OClpOBIl¥llK,

B

牧畜関係 家畜の世話人 BO.JIOBllK,馬係KOHIOX,牧人口aClyx (rracTyx lKllBO I llHHO員)

C 漁業 漁師 pbI60刀OB

D

手工業 桶屋60可apHllK,石工KaMeHIl¥llK,製革工KOlKeBHllK, 車大工 KO-.JIeCHllK, 火掻き棒製造人 KO'le抑 制 限 , 鍛 冶 屋 町3Hel.¥,木さじ 製造職人 πOlKe明 日K, 製粉業者 Me.JIbHllK, 槌工 MO.JIOTOBlllllK, 裁縫師 rropIHO詰(rropIHO詰Macrep,rrOpIHO話 回Bel.¥},大工II.JIOIHllK 靴工carrOlKHllK, 鞍師 Cep;e.JIbHllK, テーブルクロス織工 CKaI叩

-IHllK ,ろくろ師IOKapb, ストッキング製造工可ぬπO'lHllK,

E

家内労働'""p;eIll ,炉焚き人目Cl06HllK,料理人rrOBap,

(13) 例えば, げOBO)f(MeClIQa B 23 ,!¥eHb ,!¥aHO OB,!¥OTbHHbCKOMy Hcr06HHKY 0φo即 時06pOKy 10 anIb,HlB311JI Ha Hero cTapeQ C如 y四 ) )(BXKd(6.C (91)では,αTOBO)f(Me四日a B 23 ,!¥eHb抄

が支払い期日,仲間OTbHHbCKOMy Hcr06HHKy))が職種,<<0やOHKe))がオブローク受領者,

(11)

16世紀後半のヨシフ=ヴォロコラムスキー修道院領における雇用労働 表ll-l オブロートチクの職種 職業又は職階 日本語訳 60¥lapHHK 桶 屋 B0J10BM.K (801J0閉 山 ) 野 人 且BOpHHK 且eTCHbl山(l¥eTeHOK) 領で働く下男 . u ,CTH 使 用 人 t¥b月刊OK 会の最下位勤務者〕 HKOHHI1K イコン絵師 HCT06HI1K 釜憂き人,炉焚き人 Ka3aK

H雇い審農夫議,作貢税男か召ら使自由で,雇われて Ka3aK MCJlbHHl1HO品 事者 KaMCHlUI1K ;石工;金属細工人 KaWCBOH nOBap KO)l(CSHHK KO刀eCHl-fK KOHlOX KOllCpC)KHHK Ky3HeU J 1Q>KC可HHK M CJlbHHK (M叩 bHH叩 0品) M 0J10TQBWI1K (M0J10THI1K) 鎚工;鍛冶屋;鍛工 oropo且,HOH(OropOI¥HHK) 野菜栽培者 OCTpOBI1~HK 草刈地の摘み取り人 lIacryx 枚 蚕 牧 童 日J10THHK 大 工 nOBap (nOBapKO) 料 理 人 I10pTHOH 裁縫師;仕立屋 pbl60JlOB (pbI60JlOBJlb) 漁 師 漁 夫 Canu)f(HHK (CanmKHOH) 靴工,靴屋 CC)l.CJlbHHK 鞍 師 鞍 屋 CKarcpTHHK アーブ、ルクロス織工

cJlyra (CJly百 Ka) 使 用 人 召 使 下 男

CTOpO旅 番人,見張人 CTpeJleu 射 手 rC1JC冶<HOH 4輪荷馬車や荷物運搬車の製作・修理者 rC1JC>l(HOH nosap TOKapb 旋盤工;ろくろ師 Tpane3HO詰 下級堂務者 4eJlOBeK (J1同且日) 召使い,下男 可10刀O可HHK ストッキング製造工 HCC1JbHWUU1 修J首院の下男

〔典拠) B O m'lUHHble X03,flUCm6eHHble I<HU2U XVI 6 KHU2U deHeJICHblX C60P06 U

6blnAam H ocucfio・BOAOl<OAaMCI<.020MOHa正mblpR1573-159522, M.,-凡, 1978,

(12)

-38- 香川大学経済論叢 :38

F

教会・修道院の宗教的業務関係 品別OK,イコン制作者IfKOHHIfK,使用人

c

.

rryra,下級堂務者 rparre3HOH,

G その他 屋敷番)J;BOpHIfK,番人cropo民 間3aK,射手 crpe.rreu, このように,職種として多いのは手工業関係である。 次に,職種毎の雇用人数がどのように変遷していったのか,を先の時期区分 に沿ってまとめたものが表1I

-2

である。 オブローク支払帳簿が完全なものではないため全てを網羅しているわけでも (14) なく,記載期間の不統ーもあるので年次によってばらwつきが大きいが,各年次 を通して必ず登場しているのが府民HbIW と馬係KOHIOX,1年だけ欠けている

のが炉焚き人IfCr06HlfKと番人cropO)!(,2年欠けているのが屋敷番)J;BOpHIfK,鍛 冶 屋 町3HeU,製粉業従事者 Me.rrbHIfK,大工lI.rrOIHIfK 裁縫師rropIHOH,ろくろ 師IOKapb,ストッキング製造工可ぬ月O叩献である。 Ky3HeuとMo.rrOIOBWl恨の仕 事内容が同一であること,同一人物が Ky3H聞 と も MOJlOIOBWIfKとも呼ばれて

いることを考慮すると,鍛冶屋については,欠けている年は

1

年だけということ

になる。炉焚き人目Cro6HlfKと屋敷番)J;BOpHIfKについては,個別具体的に名前を 記載してはいないものの,村々のIfCro6HlfKと)J;BOpHIfKにオブロークとして支払

う た め に 修 道 土 問P聞に金銭が渡されている事例があぷ〉表中には現れてい

(16) ない炉焚き人と屋敷番の存在が推測される。

表1I

-2

からほぼ年間の趨勢を捉えることができるのは,前述の時期区分に

従うと, (1), (6), (7) で, (5) "-' (8) は,不十分ながら,連続している。各

年次で圧倒的な部分を占めているのは用IeHbIWで,次いで炉焚き人目Clo6HlfKと

(14) 年次については, 10月l日を起点として翌年の 9月30日までを,起点の 10月1日 を含む年の年次とする。例えば, 1573年度という場合・は, 7082年10J31日(1573年 10月1日)から7083年 9月30日0574年 9月30日)までを指している。 (15) 村名が分からないものが BχRl<dCfJ, c206, 209に,また,ブジャロヴォの村々, スパスコエの村有,ウスペンスコエの村々,ルコヴニコヴォの村々について TaM )/(.e, c. 233, 234に,それぞれ記載されている。なお,後者については((且声I側bIIlIbI妙 あるいは明eni>>も対象となっている。 (16) 表中に現れていない可能性については,屋敷番と炉焚き人には限定されず,牧人 についても (TIIXOMllpOB,M..H..YKa3∞'1..,c.. 151),また,詩15に見られるように,ジェ チョーヌィシについても言えることである。

(13)

4

1

1

6

世紀後半のヨシフ=ヴォロコラムスキー修道院領における雇用労働

41-屋敷番)J:BOpHHKである。

(1)と (7) と を 検 討 す る と , 恒 常 的 に 雇 用 さ れ て い る の は 農 業 関 係 で は p;ereHbI山 ,牧畜関係では家畜の世話人BOJIOBHKと鳥係KOH!OX,手工業関係で は火掻き棒製造職人KO'lepelKHHK,鍛冶屋町3He~ ,裁縫師 nopIHO員,靴工 canOlK­ HHK 鞍 師 Cep;eJ1bHHK,テープ、ルクロス織工c問 TepTHMK,ろくろ師TOKapb,ス トッキング製造工可的刀O'lHHKまた大工 nJ10THMKを加えることができる。また, 漁 業 の 漁 師PbI6o.J10B,そして,屋敷番,炉焚き人,番人,射手,教会関係の下 級堂務者 Tpane3HO訟である。職種としては手工業関係が多いものの,その人数 は

1

"

-

'

7

人と,多くはない。圧倒的に多いのは,屋敷番,ジェチョーヌィシ, 炉焚き人,馬係で,中でもジェチョーヌィシの比率が最も高い。屋敷番と炉焚 き人についてはほぼ同数で,後述するように,修道院領内の村の数にほぼ等L く,プリカース単位に,中心となる村を基地として,各村にオブロークが配分 さ れ て い た と 思 わ れ 岩 ? 馬 係 に つ い て は , ほ ぼ

1

2

人 前 後 と な っ て い ぷ 〉 牧 人 は,

(

4

)

以降にしか現れておらず,牧人が雇用されているのは当該修道院の近 郊の村々と呼ばれているノーヴォエ村・オトチシチzヴォ村・ブイゴロド村・ イリイツィノ村の4ヵ村だけである。製粉業従事者は,複数の人物が記載され ている年もあるが, 1人だけの場合が多い。教会・修道院の宗教的業務に関わ (17) 当該修道院におけるプリカース制については,揃稿「ロシア統一国家成立期の農 村j,

W

ロシア史研究』第

4

4

号,

1

9

8

6

1

2

月,

1

7

ベ-,:/,註

9

を参照されたい。 (18) プリカース内の村々が,その中で中心となる村名を冠したヴォロスチ名で呼ば れていることについては,拙稿「ロシア統一国家成立期の農村j,4ベージを参照、さ れたい。なお,

1

5

8

9

7

月11日に,シzスタコウ、、ォ村,コンドラトヴォ村,レストウ グイツィノ村,ラグシノ村,ウエベンスコエ村,ベノレコヴォ村,ボロパノヴォ村, ヴォルシノ村の屋敷番にオブロークが支払われたが,金銭が渡された場所はウスペ ンスコエ村 (BXI<K批6,c 253, 254)で,これらの村は向ーのプリカース内にあり,その プリカースの中心がウスペンスコエ村であった。 (19) 馬は耕作用としても必要で、あり,支払帳簿でも馬の治療のために,またオプロー ク支払帳簿では保証人として,馬医者が登場しているほどであるから,

1

2

人という 数字は少ないように思われる。家畜数を考慮すると,家畜の世話人が1人だけとい うのも奇妙である。 (20) 修道院近郊の村々」ついては,拙稿「ロシア統一間家成立筋の農村j,4ページ を参照されたい。

(14)

-42一 香川大学経済論叢 42 るものについては,オブローク受領者そのものが多くない。射手は,修道院そ のものとの関係が不明確であるが,常時オブローク受領者を抱えていたようで ある。

1

5

8

8

年と

1

5

8

9

年には

2

人の射手に対して,カザン遠征の報償として追 加分0..5ループリが与えられている。なお,本稿では非宗教的業務に関わる職 種を主として扱うことにしたいので,教会・修道院の宗教的業務に関わる職種 については後の検討対象からは除外することにする。また,射手についても除 外する。 さて,このような職種の人々がオフロークの受領と引換えに,当該修道院と 何らかの関係を取り結んだことになるのだが,その際,オブローク受領者は当 該修道院に対してどのような義務を負うことに,あるいは拘束を受けることに なったのだろう。言い換えると,修道院はオブロークを与えることによって, オブローク受領者に何を期待していたのだろうか。また,なぜこのような関係 を取り結ぶ必要があったのだろうか。そこで,次にオブローク受領に際して, オブローク受領者が負うことになるであろう義務について検討を加え,続い て,オブローク受領者の負う義務に対して,修道院側はオブローク以外に何を 反対給付として与えたのか,また,オブローク受領者は何を期待していたのか の検討を行ってみたい。 2 オブローク受領者の義務 オブロークを受け取る人達は,通常「オプロートチク」ないし「オブローチ ニエ=リュージ

J

<< 06pOQHble江ぬ')J;H))と呼ばれているが,時には<<)J;e.JlOBble江IO)J;H)) (23) とも呼ばれている。また,一定の労働の対価として受け取った金銭が,全て オブロークと呼ばれているわけではない。<<瓜.eHelKHoelKaJlOBaHbe))とか<<[0瓜OBoe lKaJlOBaHbe妙という表現も見られる。また,オブローク支払帳簿ではなく,支出帳

(21)BXK"dc6, c. 250

(22) TaM JIC乙ι215,237, 238, 244, 248, 256, 261,277, 281 (23) TaM)IC己c224

(24)αB TOM 90-M ro瓜yKa3Ha明白 H阻 問 中Op且aB叩 成 田 耳 目OelKaJ10BaHbe, 06POKII, ))(TaM .)lCe,

c. 224),あるいは α.LJ:aHo ro.且aBoro班 飢OBaHbllKy3bMe KpeHIIL¥blHy 2 py6JIlI広間er川))(TaM脱 色

(15)

43 16世紀後半のヨシフ=ヴォロコラムスキー修道院領における雇用労働 -43ー 簿の中に記載されている,その時々に必要な労働への賃金の支払いに対しては, オブロークとしづ表現は使われていない。時々,賃金Ha己Mあるいは<<MorOpel¥>> とし、う表現が見られたり,賃金受領者に対して「ナイミート

J

<<HaHMsT>>という 表現が使われたりもしている。 しかし,オブロークの支払いに際しての特徴の一つは,例外があるとはいえ, すでに指摘されているように,担保あるいは保証人を必要としていたことであ る。このような形式が見られるのは,金銭の貸付の場合で,この際には金銭の 貸与と引き換えに,

r

カメラー」叩a6aJIa>>(借用証,債務証書〉が借用者から提 (26) 出されている。当該修道院でも,検討の対象となっている時期に,農民などに 金銭の貸与が行われていた。他方,賃金の支払いが行われる場合には,通常, 被雇用者の名前(記載のない場合もあるが),労働の中味,賃金の額が記載され ているだけで,被雇用者の側から修道院に対して提出されるものはない。オブ ロークの支払いに際してのみ,特別な形式が採用されていることになる。これ はどうしてなのだろうか。 この点で,注目しなければならないのは,オブローグと賃金HaeMの,次のよ うな用法である。すなわち, 同月

5

0574

2

5

日一引用者),アンゲロヴォ(村)において,レオ ンティーの息子でジェチョーヌィシであるオルチューシカにオプローク

1

0

アルトゥインが与えられた。

l

年間過ごすために,

1

5

アルトゥインが彼に与 えられる。すなわち,彼には25アルトゥインが賃金として与えられぷ〉

(25)αHaeM)), ((HaHSIIH)), ((Ha:HMHI>), ((HaHMOSaI別については BXKnp,<lc. 30, 32, 33, 35-39, 43, 44, 51, 57, 74, 77, 81, 125, 126, 128, 129, 131,206,207,210,213,215,216,259で <<MorOpeL¥)) についてはTaM.?lCe, C 31,32,58で,それぞれ使われている。

(26)貸付の場合には,次のような形式が取られている。

<<Toro lKJ,,!Hli且aHOMeHwliKy OpreMbeBy CbIHy, rypoBcKoMy KJ1回明日Ky,py6J1b且.eHer.A ,,!Ja m eMy KpecrbSlHoM B3aHMbI li B3町 民Ha Kpec r bSlH Ka6aJIbL ))

「同日,アルチェムのd息子で, トゥーロヴォ村のクリューチニクであるメンシク

に Iループリが渡されたが,彼はこのお金を農民達に貸付け,農民達に対してカパ ラ一念取らなければならないJ(TaM .?lCe, C 25)。

(27) αTOBO耳 MeCSlL¥a B 5 且eHb江.aHO B AHrliJ10Be 且.eTeHbI山 町 OpnOUlKe JleBoHIeeBy CbIHy 06pOKy 10aJIrbIH A KaK orlKliBeT ro且,liHOeMy且arb15aJITbIH..H Bcero eMy !J,,arb HaHMy no且

(16)

-44 香川大学経済論叢 44 このように,ここでは,オブロークと賃金が同ーの意味で使用されているので ある。 また, 1590年 9月 4日付のオブローク支払いに際して, 漁師グリーシャに対して,オプロークとしてカメラーにしたがって

1

ループリが支払われた。そして,彼には貧困の故に10アルトゥインが与え られた。彼の担保はチャシチャ部落にある彼の戸‘であ式〉 と記述されている。ここでは,オブロークが貸付の際に使われるカバラーと関 連づけられている。 では,オブロークという表現には,単なる労働力の雇用ではない,特別な意 味が含まれているのだろうか。そのことはまた,オブロートチクという表現が 特別な意味を持っているととをも示唆しているのだろうか。オブロートチクと は何であったのか。とのような点も問題となってくるが,それはさておき,オ ブロークの受領に際してオプローク受領者は当該修道院に対してどのような保 証を与えたのだろうか。 【オブローク受領者の当該修道院に対する保証】 保証に当っては,自己の戸を担保とする場合,保証人をたてる場合,両方 の場合,どちらも提供していない場合,の

4

つに分類できるが,保証の内容に ついては,同一人物でも固定的ではなく,時とともに変化が見られる場合もあ (29) る。とはいえ,保証人も戸を担保とする必要もない場合は

3

例しかなく,大部 分のオブローク受領者は,何らかの形で保証となるものを修道院に提供してい たことを,ここでは確認するにとどめて,保証形態の問題については,オブ ローク受領者の実態を検討する際に再び触れることにしたい。 次に,保証となるものを修道院に提供した後,オブロークを受領した人達が

(28)<<3ann剖eHO3a fpHlII回 3apb16onoBn耳 目o Ka6却e3a 06POK py6nb ,l¥eHer ).l.a eMy )!(且aHO3a 6e,l¥HOCrb 10anrblH妙(BXRi('dω.c..276)。

(29)後に触れるように,そのうち 2例は古参住民であることがその理由とされている

(17)

45 16世紀後半のヨシフ=ヴォロコラムスキー修道院領における麗用労働 -45一 当該修道院に対して負うことになった義務内容について,労働の内容と労働の 場,拘束内容の順で検討してみたい。 では,オブローク受領者は,具体的にどのような労働を行っていたのであろ うか。労働の場はどこであったのだろうか。 【労働の内容】 この点について,オブローク支払帳簿では,わずかの例外を除いて,ほとん ど記載されていない。例外的なのは,オブロークの支払に当たって,義務的に 行わなければならない労働の中味を,ある程度明記している場合で, (1) 耕地の耕作を義務づけている事例 (30) ① ブィコヴォ村の屋敷番

0574

1

8

日〉 ② イエヴレウ寸ォ村の屋敷番であるアンドレイは,

1

年前にイエヴレヴォ村に おいて耕地を耕作しているので,そのオブロークとして15アノレトゥイン受け 取っている

0574

2

1

6

日〉。 ③ エリナノレホヴォ EmmapXOBO村の屋敷番であるザハルコ 3axapKOは, 1年 前にネヴェレヴォ村にある修道院の耕地を耕作した報酬として0..5グリウやナ 受け取っている

0

5

8

8

年〉。 ④ トノレイズノヴォ TpbI3HOBO村の屋敷番であるマカノレコ MaKapKOは,オブ ローク 4グリウ、、ナの他に,耕作の報酬として 2グリヴナを受け取っている

0

5

8

8

年〉。

⑤ ウスペンスコ::r...YCneHCKOe村の屋敷番であるルカシ江yKaIllは,オブロー

ク0.25ループリの他に,雇用労働者用の耕地に対する賃金 HaeMとして 2グ リウ、ナを受け取っている

0

5

8

8

年〉。 ⑥ ボロバノヴォ EO.Jlo6aHOBO村の屋敷番であるマクシムコMaKCHMKOは,オブ (30)TaM1ICe (31)TaM前乙c203 (32) TaM .1ICe.C.236 (33)TaM .1ICe.C.246 (34)TaM 1ICe

(18)

-46 香川!大学経済論議 46 ローク

2

グリヴアの他に,雇用労働者用の耕地の耕作に対する報酬として

2

グリヴナを受け取っており,しかも,それぞれについて別の保証人を立てて いる

0588

年〉。 ⑦ 屋敷番は,雇用労働者用の耕地の耕作に対するオブロークとして10アルト (36) ウィンを受け取っている

0589

7

1

1

日〉。 ⑧ ガヴリノ ['aBpIiHO村の屋敷番であるマーカルMaKapは,オブローク10ア ノレトウィンの他に,修道院の耕地の耕作に対する報酬として 4グリヴナを受 け取っている

0589

1

2

1

1

日)。 (2) 家畜の放牧を義務づけている事例 ① ヴz リヤミノヴォ Be.JlbllMIiHOBO村の屋敷番であるイワンは,息子が家畜の 放牧を行うことを前提に

5

アノレトゥインを受け取っている

0573

1

2

7

日〉。 ② マモシノ MaMOIIlIiHO村の屋敷番であるダニルコ且aHIi:JlKO

0574

1

8

日〉。 ③ リ トウヴ守イ ノウグ、、オ江J加llE阻i灯巾叩町IIBIIBi即聞E阻 叩4位E 1)

④ オヴドチイノ O閉 脚OIbliHO川キ村すの屋敷番であるミハルコ MHXaJ波IKO(同上

?

j

⑤ トノルレイズノウヴ、守、オ T

ph凶即1訂担33HOぬOB即O村の屋敷番であるオフオンカ O中併OHK悶a(1日

5

7

4

l

1

6

日支払〉。 と,いずれも屋敷番に関するものである。屋敷番については,この他,菜園用 の野菜の種子,燕麦を購入するための費用が渡される場合があらで菜園の世話 (35)TaM JIU, c. 247 (36)TaM .JlCe, c.. 253 (37)TaM .')f(e, c.268 (38)TaMJlCe, c 197 (39)TaM .')f(e, c 201 (40)TaMJIC乙 (41)TaM .')f(e, (42)TaM JlCe, c 202 (43)TaM JlCe, c 245

(19)

47 16世紀後半のヨシフ=ヴォロコラムスキー修道院領における雇用労働 47-にも携わっていたとd思われる。 屋敷番以外では,火播き棒製造職人であるミハイルMMxaanについて,オブ ローク受け取りの代償として長い杖と火播き棒をいずれも

2

0

0

本ずつ製造する ことを義務づ、けている場合があ点) 【労働の場】 ところで,修道院はどこで労働力を必要としたのだろうか。修道院は,シェ ストラ河畔に存在する本院だけではなく,さまざまな施設を所有していた。例 えば,所領内の村には教会・教会に付属する教会堂・救貧施設,司祭rrOrr",n:bllKOH・

nOHOMapb" rrpocKypHMI.(a" c.Tlyra MOHaCTblpCKO誌の居住する戸などが,検地帳などの 史料中に登場しており,それと並んで,教会の耕地,修道院の草地などにも言 及があ志?ところが,ソートナヤによって把握されている人達は,ほとんどが 農民であり,手工業者に関しては,大工・テーブルクロス織工・鞍職人が村内 に居住している事例が 部にあるだ、けよ6)皆無に等しい。が,手工業者が相当 数村内に居住していたことは,次章で述べるとおりである。 職種の中で,村名との結びつきがとりわけ強いのは,屋敷番と炉焚き人につ いてである。屋敷番の場合,クリョコヴォKplOKOBO村・ゴルボヴォ rOp60BO村 -オボプロウ、、ォ 0606ypOBO村・ベイナBeMHa村を除く全村と関わっており, J ¥ 、、 リヤミノヴォ BeTlbllMMHOBO村・リトヴィノヴォ.JIMTBMHOBO村にωつ い て も , 屋 敷 番が登場している。) 炉焚き人については,ネヴェロヴォ村・クリヤノヴォ村・ズボヴォ村・ク

(

4

4

)

TaM)/(.e.c 190 (45) 例 え ば Al<mblrseoda/lbHOZO 3eM/le6/ladeHuJ/U X03.RucmeaXJV-XVJ eel<oe'l[2, M-江, 1956 (以下Aφ3Xと略記), NU347 (46) 1569年7月

2

0

日のソートナヤに拠ると, ルコとテーブ、ルクロス織工ガヴリルコが, (TaM .)/(.e。) ナチャピノ=ノーウ守オエ村には大工ミハ ポクロフスコェ村には鞍師が住んでいた (47) 1573年から1593年にかけての当該修道院の所領については,拙稿 f16世紀末イォ シフォ・ヴォロコラムスキー修道院領における農民負担J,66, 67ページ;

<<KHU2a1</l/OWU U dO/l208aJ/ I<HU2a Howrso-BO/loI<O/laMCI<020 MOHacmblp.RXVJ 6eK仰に収録さ

(20)

-48- 香川大学経済論叢 48 リュコヴォ村・ラグチノ村・ベノレコヴォ村・モレチキノ村・レトキノ村・コル ボヴォ村を除く

3

3

ヶ村と関わっており,モスクワにも派遣されてい♂)が,炉 焚き人の場合に特徴的なのは,炉の存在が人間の生活の場,あるいは労働の場 と結びついていることによって,後述するように,炉焚き人自身の労働の場が 他の人々の生活の場,労働の場と密接に結びついていることである。 ジェチョーヌィシの場合も,まれに村名あるいは部落名と結びついている。例 えば,ガヴリノ村については

2

件が各

l

1

件が

2

A

;

!

?

もう

l

件が

4

X

!

)

ネ ヴェロヴォ村・エリアルホヴォ村・ラグシノ村・サヴzリエヴォ村・ボロパノ ヴォ村・ブジャロヴォ村については,それぞれ

l

件 で

l

人,ブイゴロド村・ トゥーロウ、、ォ村については各

1

件 で

3

人 , レ リ ャ ヴ ィ ノ に つ い て は

l

件 で

4

人,レトキノ村については

2

件で

1

件が

5

人,もう

l

件が

8

人,クリュコ (55) ヴォ村については

1

件で

5

人,ウスペンスコエ村については

2

件で,

1

件が

3

56)もう

1

件が

l

7)ゴノレボヴォ村については

l

件で

3

f

f

〉ベーリ村につい ては

2

件あり,

1

件が

2

人 よ9)他の

l

件が

4fj

〕アンギロウ、、ォ村については

4

件あり

2

件が

l

人ずつ

1

件が

4

人,もう

1

件が

5

人,ノーヴォエ村につい ては

3

件で各

3

人ずづ64)イリイツィノ村については

l

件 が

3

;3

件 が

4

人 (6~ (48)モスクワへの派遣については ,BXI<l<.dω,c.194, 227, 236 (49)TaM .)Ice, c.270 (50)TaM .)/(e, c..281 (51)TaM班e,c..204, 245, 246, 253, 270 (52) TaM前e,c.246, 251 (53) TaM .)/(e, c.270 (54)TaM .)/(e, c.251, 270 (55)TaM1ICe, c.270 (56)TaM .)/(e, c.252 (57)TaM1ICe, c..270 (58)TaM 1ICe, c 280 (59)TaM1ICe, c 270 (60)TaM )/(e, c 280 (61)TaM )/(e, c..196, 204 (62)TaM )/(e, c..270 (63)TaM )/(e, c..281 (64)TaM班e,c.252, 269, 280 (65)TaM )/(e, c 280

(21)

49 16世紀後半のヨシフ=ヴォロコラムスキー修道院領における雇用労働 -49-ず

J

j

〕オトチシチェヴォ村については

4

件で町各

4

人ずぷ?という事例が見られ る。 しかし,ジェチョーヌィシの場合の村名との結びつきは,前2者とはその性 格が少し異なるように思われる。屋敷番と炉焚き人については,その村を担当 するという意味合いで使われているようであるが,ジェチョーヌィシの場合に は,その村に居住しているという意味合いで使われているのではないだろう か。従って,ジェチョーヌィシについては,村あるいは部落に居住しているこ とを示すものとなっている。 牧人については,すでに言及したように,イリイツィノ村・オトチシチェ ヴォ村・ノーヴォエ村・プイゴロド村という同ーのプリカースに所属する, L かもいず、れもヨシフz ヴォロコラムスキー修道院近郊の

4

ヶ村(このプリカー スの残りの

2

ヶ村のうちブィコウ、、ォ村については,

1

5

7

1

-

7

2

年に寄進されたも のであり,小村クリュコヴォについては,当時は部落でしかなかった〉〉と,他 の2ゥ村についてのみ確認することができる。さらに,時期が示されている場 合には,夏期であり,収穫後の耕地での放牧と考えられる。おそらく,その耕 地は修道院の直領地であったのではないか。日常的には,馬係,家畜の世話人 が家畜の世話に当たっていたのであろう。ただ,馬係の場合は,その存在が特 定の村に限定されなかったとはいえ,数的には限定されたものとなっていた。 , l J ,erl1については,サヴェリ Z ウ、、ォ村とアンギロヴォ村の

2

つの村について 確認でき,前者の場合は2件で,いずれも保証人が2人ずう?後者については

4

件で,

2

件については保証人が

2

ぷ〕残り

2

件については保証人が

l

人と な っ て い ぷ1)なお,

1

件「製粉場で

J(

(

Ha Me.JIbHI1町))という表現が見られる。 (66)TaM .JKe, c 233, 252, 270 (67)TaM 'JICe, c..234, 252, 269, 270, 280 (68)ブィコヴォ村についてはAφ3X,NQ354を,小村クリュコウ、、ォについては TaM.'JICe, NQ 297, 347を参照。 (69) BXKi<dUJ, c 245 (70)TaMJKe (71)TaM .JKe

(22)

50 MeITbHHKについては

1

4

件確認できるが,うち

4

件はアンギロヴ、ォ村に関わ り,いずれもノヴゴロドの人であるイワン・リャプンが製粉業従事者であ幻J 香川大学経済論議 -50 また,

8

件はオヌフリーの息子ロジオンが製粉業従事者で,そのうち

2

件につ いて「製粉場で」倒Me.ITbHH町))との言葉が付されてい£〕残り

2

件は,イゾシ ミンスキー修道院のワシーリーが製粉業従事者であぷ〉支出帳簿では,個別alI という表現が使われてい£) 番人については,比較的サーヴィス提供の場がオプローク支払帳簿の中に記 載されている。これは,提供するサーヴィスの性格が影響していると思われる Me.ITbHHu;a)) が,場として示されているのは, (80)

((Ha bOrOpO,Ll;HO員 MOHaClblpb)) 「大門で

J

((y 60月b凶HeBOPOTbI〉〉(76〕 「厩舎で」叩akOHE011Iemdmop(77) 「水門で」 qBomHbIXBOPOT〉〉(18) 「聖門で」叩CB耳 目IMBOPOTaMf〕 「ボゴロドノイ修道院で」 「邸で

J

〈〈HamopubI〉〉(81) ① ② ③ ④ ⑤ ⑥ あるいは形容詞形で, 「門の

J

((BOPOIHO首〉〉(82) 「町の

J

((rOpO瓜OBOll))側 ⑦ ⑧ (72)TaM 班~ c. 241, 26~ 274, 27~ 284 (73)TaM JKe, C 203,210,217,226,241,259,274,284 (74)TaM JKe, c. 265, 275 (75) BXKnp,<lc.31, 32, 80 (76) BXK<ldω,C. 206, 286 (77)TaM JKe, C 232, 243, 261, 276 (78)TaM班e,c.194, 195, 214, 232, 248, 276, 286 (79)TaM JKe, C. 217

(80)TaM JKe, c.248, 251, 286最後の場合には,i牢番」αcropOlKI10pe削減抄となっている。 (81)TaM JKe, C 200, 214

(82)TaM JKe, C. 243, 262 (83)TaM班巴 c.286

(23)

51 16世紀後半のヨシフ=ヴォロコラムスキー修道院領における雇用労働 -51一 ⑨ ⑮ ⑪ " 、 。 。 0 班 O ) K j 晶 伶 i ハ i レ v 河 川 い R U

J ︾ 刀 槌 u H コ ( ゆ ω m M υ 即 E M O H 1 J f お q p m

a

i

﹂ 1 H 刊 の ゆ

の ク の 庫 ス 場 金 モ 漁 ﹁ 1 1 1 ﹁ 1 1 1 F I l l である。 また,すでに触れたように,派遣先の指定が行なわれている事例があり,例 えば,モスクワへは, 1581年10月25日付で,炉焚き人としてミクルコMHKyJIKO が , 番 人 と し て ベ ル ヴ ー シ カ IIepByrn闘 が , そ れ ぞ れ 派 遣 さ れ て お り 7) 1573年11月16日には炉焚き人のクジマ(アレクセイの息子〕がモスクワで勤務 してい

f

f

?

さらに ,1592年に比モスクワ勤務への追加のオブロークとして0,,5 ループリが,馬係のワ:ンーリー・オフメートとグリゴリー・スコカ,裁縫師の ヴォイカ,靴職人のダニール(ドロガーニャの息子),ジzチョーヌィシのカリ ン(チモフェイの息子),料理人のハリシム, CJIy涼Kaのザミャトア(ワシーリー の息子〉とセメンに,そしてフォマにそれぞれ与えられてい♂〉料理人のハリ シムは1589年10月11日にも,モスクワへ炉焚き人とLて派遣されていたので, オブ町ローク lループ、リの他に0,,25オブ‘ロークが与えられてい♂)この時には, :/ ,:r.チョーヌィシであるイワンコHBaHKOが番人として派遣され,報酬として0" 25ループリの追加の上に,シューパが与えられていぷ)モスクワだけではな く,すでに1573年12月17日には被解放者トゥロヒム(ステパンの息子〉が炉焚 き人としてオボブ『ロウ〈ォ村に派遣された次 1588年にはカルガポリでの奉仕に 対 す る 報 酬 と し て 馬 係 の ラ ル ギ ー 江apr凶 に10ア ル ト ゥ イ ン が 追 加 さ れ て (84)TaM世e,c..199, 212, 214, 218, 232, 243, 261, 265, 286当該修道院の財産を保管する場所 は 2種類あったようで,刊a3eHHOH))と並んで,αMeH山 胡Ka3Ha))という表現が見られる。

これは,支出帳簿中でも,州eHblllOHKa3Ha可e員))という表現が使われていることに対応 している。 (85)TaM ,me, c 243, 287 (86)TaM JIC乙c,265, (87)TaM JlCe, C, 227 (88)TaM me, c 194 (89)TaM m乙c281. (90)TaM ,me, c, 261 (91)TaM me, c 257 (92)TaM ,me, C 198

(24)

52 香川大学経済論議 -52-(93) いる。 手工業者の労働の場の存在を示唆しているのは,炉焚き人へのオブロークの 授与に際して,炉を焚くべき具体的な建物が示されている場合である。例え

「裁縫小屋で

J

<<B nopTHyぬ1i136y))あるいはαBnOpTHyぬ kenbmJ94〉 「裁縫小屋の裁縫場で

J

<<Ha llIBaJIbHIO B nOpTHylO 1i136y沙 問

「製革小屋で

J

<<B KO)悶BHymH36y〉〉(鉛〉 「靴製造小屋で」叩caHOXHymmByj(97) 「靴製造小屋の縫製場で」州allIBa山-110B C如omymm6yfs) 「鍛冶場で」〈〈HakY3mqyJ99) ば ① ② ③ ④ ⑤ ⑥ ⑦ (100) <<B TOKapHylO 1i130y)) とL、う表現である。事実,支出帳簿の1581年7月初日付で鍛冶屋ポリス ロフの息子〉は,

r

春のニコライの臼 (5月9日)から翌年の春のニコライの日 まで鍛冶場で仕事をしなければならなしづとの記載があることから,修道院所 有の鍛冶場の存在を推測することができる。また Ka3aKの場合で,製粉場と 結びついて <<Ka3aKHa Me.JIb閉口y)),<<Me.JIbHlilqHO鼠 Ka3aK)) と な っ て い る 事 例 もある。 裁縫師,製革工,靴工,鍛冶工, (ペト 「ろくろ小屋で」 ー ! t i l l i l i -l i l i -(93) TaM .JlCe, c 241 (94) TaMJIC乙c.194, 214, 232, 236, 251 (95) TaM JlCe, C 285 (96) TaM)IC乙c 265, 285 (97) TaM.JIC乙c.214, 233, 285 (98) TaM .JlCe, C 265 (99) TaM JlCe, c. 232 (100) TaM JlCe, c. 195

(101)行OBO淑,!¥HH且.aHOKy3Hel.¥Y bOpHCy I1eTpoBy CbIHy JIy可eHHHya6poKy Ha ro且py6.11b,

,eJIOTbeMy Ha Ky3HHl.¥e OT HHKOJIHHa且HHOI BeWHeBa no HHKOJIHH瓜.eHbnO BeWHe誼

I10pyKa nO HeM 0中OHaω員BOXOTl.¥KOH紗(BXKnpl<,C 212)。

(102) BXKl<dω, c. 197, 219, 230 なお,後で触れるように Ka3aKの労働内容は極めて多 様である。

(25)

53 16世紀後半のヨシフ=ヴォロコラムスキー修道院領における雇用労働 -53一 人々,また,製粉業という特定の設備を備えた場である製粉場を必要とする製 粉業従事者は,それぞれの労働を行うにふさわしし、小屋=仕事場lで町労働を行っ ていたものと考えられる。それがどこに存在していたのかを示す記述は見つか らないが,可能性があるのは,当該修道院そのものの内部か,修道院近郊の 村々の中心地であるノーヴォエ村の内部ということであろうか。しかし,労働 の場の存在は,オブローク受領者の生活の場との関連もあり,もう少し検討を 加えてみなければならない。 次に,建物そのものの建造に携わる大工はどうであったのだろうか。オブ ローク支払帳簿では,前述のように,大工もまた恒常的にオブローク受領者と して現れ,ほほ

1

ループリのオブロークを与えられていた。しかし,彼らは, 年聞を通して,どこに居住し,どのような仕事を行っていたのだろうか。後で も触れるように,

I

大工達の戸」とし、う表現が見られることとどう結び付ける ことができるのだろうか。仕事の性格上,本来的には,大工は複数で仕事をし ていると考えられるが,オブローク受領者の数が少ないことをどう考えるべき なのだろうか。 漁業関係では,支出帳簿の中に魚類の購入が頻繁に記載されているが,その 種類を見ると,チョウザメ等の,高価な,おそらく当該修道院領内には漁場の ないものであり,日常の消費に必要な魚類ではない。漁師のうち戸を所有して (103) この点については,チホミーロフとグレーコフも指摘しているが,グレーコフ

は,居住場所としての小屋H36aを強調しており((且,eIHH,1¥BOpe山「麗用労働者用の 戸), ((,1¥eIHHa H36a>>["雇用労働者用の小屋」を指摘している (fpeKOB,J).lJ:, YKa3..CO'l.. ,

c 77"なお,註において,灯OCI聞 allH36a)), 刊 πy耳目allH36a)), ,ぽOH回 出eHHa沼H36a)),

叩OpIH倒 的6a)),(<canOlKHall H36a)), ((Ky3HH'IHbI員,1¥BOpel.¥))その他の存在に言及している)。 また,チホミーロフは居住場所兼仕事場と捉えている(THXOMHpOB,H YKa3. CO,l'c.149; KHuza I<R/ol'eu u dO/lZ08aJlI<HUZa Hocutfio・BO/lOI<O/laMCI<OZOMOH配mゐlpJlXVI 8e<la, C..4)。 (104) 例えば,

αTOBO班,1¥HlIKamaHy 4 py6iIH ,1¥eHer, KaK noeXaJI Ha KOiIOMHy KO BiIa且,bIKe.H Ha re eMy 且

,eHrHKynHTH Ha KOiIoMHeH Ha Pe3aHH CBelKa兄pbI6aWeBpHrH H C rep刀流且H,H /lell¥H, H 6eiIa匁

pbI6Hl.¥a.,) [)"同日 0573年5月23日一引用者〉コロムナの大主教の所に出かけるカルガ

ンに4ノレーブリが渡された。彼は,このお金で,コロムナとリャザンにおいて鮮魚,

すなわちシェヴ、リガとチョウザメ,ブリーム,コクチマスを購入しなければならな L 。、J(BXKnp,<lc 28)。

(26)

-54- 香川大学経済論叢 54 いる者が,どこに戸を所有しているのかを見てみると,

1

2

人中ファジェイェ ヴァ部落にl戸105)チャシチャ部落に 3戸

4

1

6

)

チャシチャ部落に多くが存在して いる。

1

5

8

9

年,

1

5

9

0

年のオブロークを受領している漁師

4

人のうち

3

人はチャ シチャ部落に戸を所有する者であった。いずれも,当該修道院から遠くない, 川沿いに位置する集落であり,漁業が営まれていたのであろう。そして,漁師 の場合は,後述するブジャロヴォ村の漁師のように,一定の村の漁師がオブ ローク受領者となっていたように思われる。 手工業・漁業関係のオブローク受領者の存在意義はどこにあったのであろう か。人数的に考えて,当該修道院が,生産あるいは捕獲されたものを販売して 貨幣を入手する,という目的を持っていたとは考えられず,チホミーロフも指 摘しているように,せいぜい当該修道院内の需要に当てるという程度のもので あったと思われる。そして,オプローク受領者だけのサーヴィスでは需要が充足 されない場合にのみ,臨時的に他の雇用労働を導入したのではないだろうか。 【期間について】 では,オブローク受領者は期間的には無制限の拘束を受けていたのだろう か。それとも,期聞が限定されていたのだろうか。オプローク支払帳簿で判断 する限り,オブローク受領者については,期間が限定されていたようであり, その期間も職種によってさまざまであったように思われる。 期聞を明記している場合,それを示す形式として,次のような

2

種類のもの があった。 (1) 期聞を示しているもの ① 始まりの期日を示さず、に,至聖生神女庇護祭(旧露暦

1

0

l

日〉まで (1

0

5

)

漁師アレクセイ(カルフ。の息子)の戸である (BXKnp,<1c 211)。 (106) 漁師アフレム (TaM班e,c 243, 261, 276 ) ,グリゴリー(TaM.?Ke, c.261,276),フョー ド、ル(TaM?Ke )の3人の戸である。 (107) ファジェイェゲ、7部洛とチャシチャ部落とは隣接しており,いずれもロクヌィ シャ川i沿いに位置していた (Aφ3X,c.14)。 (108) BXKl<dce, c.202, 203, 233, 247, 252 この場合, I居住しなければならない」との表 現が見られることもある。

(27)

55-16世紀後半のヨシフ=ヴォロコラムスキー修道院領における雇用労働 ( 109) 至聖生神女庇護祭から至聖生神女庇護祭まで 大斎から至聖生神女庇護祭まで 大斎前週〔乾酪の週〉から至聖生神御庇護祭まで 復活祭第

3

週(携香女の週〉から至聖生神女庇護祭まで 何月何日から至聖生神女庇護祭まで r:r: dυ ② ③ ④ ⑤ ⑥ 春のニコライの日

(

1

日露暦5月

9

日〉から主の降誕祭(旧露暦12月25日)まで 逆に,主の降誕祭(旧露暦12月25日〉から春のニコライの日(旧露暦5月 9日〉まで ⑦ ⑧ ワシーリーの日(1日露暦

1

月l日〉からエウドキアの日(1日露暦3月

1

日)まで フィリップの日(旧露暦11月14日〉まで 主の降誕祭まで 聖母受胎告知祭(旧暦暦

3

月25日〉から

l

年分 何月何日から何月何日までの分 単に

l

年分 期限がし、っかを示すもの 大斎(122) ⑨ ⑩ ⑪ ⑫ ⑬ ⑬

(

2

)

① ② フィリップの日 (旧露暦11月14日〉 (109)TaM JlU, c.198 (110) TaM JlCe, c 223 (111)TaM JlCe, c..248 (112)TaM JlCe, c 250 (113) TaM me, c..247, 248, 265 (114)TaM :xce, c 227 (115)TaM .JlCe, (116)TaM JlCe, c 199, 200 (117)TaM .)fCe, c.203, 204 (118)TaM .JlCe, c.264 (119)TaM .me, c 236 (120)TaM me, c 190, 192, 199, 200 (121)TaM抵e,c 199, 200, 247, 248 (122)TaM .JlCe, c.254 (123)TaM JlCe, c.193, 254, 270

(28)

-56一 香川大学経済論叢 ③ 主の洗礼祭(旧露暦

1

6

日j124) ④ 主の降誕祭

C

I

日露暦 12月25日〉 ⑤ 至聖生神女庇護祭〔旧露暦

1

O

l

日〉戸(αロ凶ωI2鉛6 56

(

ω

日)の①については屋敷番に関して

1

3

例,炉焚き人,厩番に関して

1

例ずつ, ジzチョーヌィシに関して

4

例,

(

1

)

の②については,炉焚き人に関して

l

例, (1)の③については,ジェチョーヌィシに関して

I

例,(1)の④については,ジェ チョーヌィシに関して

l

例, (1)の⑤については大工に関して

l

例,

(

1

)

の⑥につ いては家畜番と製粉業従事者に関して

l

例ずつ,屋敷番に関して

2

例,(1)の⑦ ・⑧については,製粉業者と鍛治屋に関して l例ずつ, (1)の⑨については,鍛 冶屋に関して

I

例,(1)の⑩についてはジェチョーヌィシに関して

7

例,(1)の⑪ についてはジヤチョークに関して

1

例,(1)の⑫については炉焚き人に関して

1

例,(1)の⑬については,ジェチョーヌィシ・火掻き棒製造職人・鍛冶屋につい て

1

例ずつ,(1)の⑬については屋敷番・テープ、ルクロス織工に関して

l

例 ず つ,番人に関して 2例, (2)の①については,屋敷番に関して 2例, (2)の②につ いては,屋敷番に関して

l

例,ジェチョーヌィシに関して

5

例,

(

2

)

の③・④・ ⑤については,いずれも屋敷番に関する l例,不明1例という状況である。 このように,同一職種についても,拘束される期間はさまざまであったが, <<[0瓜OBoelKaJIOBaHhe))という表現や,半年分とかl年分というような表現が頻 繁に見られることから判断すると,基本的には

1

年間であったように思われ る。また,終了時期については,

1

0

1

日(至聖生神女庇護祭〉が最も多かっ たようである。これは,

I

はじめ」において述べたように,オブロークの支払が 始まる時期が

1

0

月に入ってからということと関連しているのであろう。 では,この拘束期間は,オブローク受領者にとってどういう意味を持ってい (124)TaM me. c 253 (125)TaM me. c 254 (I26)TaM me. c.222. 253. (127) 註107と註109,註108中のジェチョーヌィシ・火掻き棒製造織人の場合には, l年とされている。半年分とされている事例は,ジェチョーヌィシ,炉焚き人, <<TeJJelKHbl品目OBap"について,それぞれ 1例ずつ見られる (TaMme. c..217. 233. 236 )。

(29)

57 16世紀後半のヨシフ=ヴォロコラムスキー修道院領における雇用労働 -57一 たのだろうか。この点については,すでに触れたように,チホミーロフが, ジェチョーヌィシの従属性を論じる中で,ジェチョーヌィシは,受領したオブ ロークを返済すれば,期限前であっても,自由に離れることができていたこと を指摘している。また,結婚のために前任者がその任を離れ,新任者が残りの 期聞に相当するオブロークを受け取っている場合も見られる。〉このような点か ら判断すると,オブローグ受領者に対する修道院側の拘束の度合は,緩やかな ものであったと言える。しかし,保証の必要性を考慮すると,そう単純に判断 ずることもむつかしい。この問題については,オブローク受領者の実態を検討 する中で,もう一度触れることにしたい。

3

オブローク受領者に対する修道院側の対価 では,オプローク受領者は,被雇用者として,雇用の際に当該修道院から労 働の対価として何を期待していたのだろうか。 【オブロークの額について】 先ず,オブローク受領者にはオブロークが支給されていたのであるから,そ の金額について検討してみたい。 オブロークの額は,職種によって異なっていただけではなく,同一職種でも 一定ではなく,年によって異なっていた。そこで, 1年に満たない短期間や特 定の時期に支給されるオブロークと追加のオプロークを除いて,各職種のオブ ローク受領額を見てみると,当該期聞を通して変化がないと思われるのは,靴 工の lループリ,鞍師の40アルトゥイン,テーブルクロス織工の20アルトゥ (128) THXOMHpOB, M H..YKa3 CO'l,c.150 (129) BXKnp,<lc 240 これは,馬係である。 (130) 靴工の場合,最高額は lループリと固定されていたようだが,オブローク受領 者となった時点で即 Iループリを支給されるということでもなかったと思われる。 例えば,父親ドロガーニャの場合には,当初から1ループリを支給されている(TaM >Ke, c. 198, 213, 220, 235, 250, 264)が,彼の息子ダニールの場合は, 10アルトゥイン から出発して,年を追って, 4グリウ",.., 0.5ループリと増額されている(TaM班e, c 236, 250, 264, 281)。また,ピョートルの場合も, 10アルトゥイン, 4グリヴナ, 30ア ルトゥイン, 1ループリと増額されているし (BXKnp,<lc 29, BXK<ioC8, c.199, 213, 222),トロヒムの場合も, 0.25ループリ (50ジェーニガ), 0..5ループリ, 30アル}ゥ イン, 1ループリと増額されている(BXKnp,<lc. 33, BXKl<dω" c 199, 213, 250, 264)鞍師 については, 1例だけ1ループリが支給されている (TaM前e,c.264-4)。 なお>.当時 1ループリ =200ジェ}ニガ 1グリヴナ=20ジェーニガ, 1アル トゥイン= 6ジzーニガであった (O'lepI<UPY

I<OU<lyJlbmypbl XVI 8e<la, '11, Mamepu-aJlbHaJl<lyJlbmypa ilOA pe且 A.BApQHXOBcKoro M., 1977, c.226-228)。

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