東南ア ジ ア研 究
35
巻1
号1997
年6
月ダ
ンド
ゥ ット
の
成 立
と
発 展
(
1
)
近
代演 劇
の成
立
と オル ケス ・ ム ラ ユ田 子 内
進
*The
Formation
andDevelopment
of 」Dangdut
(
1
)
:Modern
Theatre
andOrkes
Melayu
Susumu
TAKoNAI
*The origin of dangdut
,
the most popular music in Indonesia,
is said tobe
musih Metayu,
which was played
by
orhes ルtelayu
in
the 1950s.
But it has not been clarified how musihMet
αyu,
which was only playedin
theMalay
Peninsula,
the
east coast ofSumatera ,
andWest Kalimantan
,
became popular and firmly established inJawa ,
particularly in Bataviabefore
thel950s.
This paper highlights the change and development of or 々¢ ∫ Metayu in the late 19th
century and early decades of the 20th century through the development of bangsawan and
Komedi
Stamboe1,
pre−
modern theatrein
Indonesia
andMalaysia.
In
thelate
lgth
century,
bangsawan
was not widely popular among theJavanese
in
Jawa
because
of ltshigh
Malaylanguage and musik ルfetayu
.
But
in
the
early20th
century,
〃lusileルfetayu
began
to spreadamong
Javanese
peoplethrough
Komedi
Stamboel and othertroupes
which imitatedthe
style of Komedi Stamboe1
.
Under
these conditions,
samrahBetawi,
which was greatlyinfluenced
by
bangsawan ,
wasformed
atBatavia
in
1918.
Because
Malay
language
calledMelayu Betawi had been used as a common language among the inhabitants of Batavia , it
was relatively easy
for
them to accept and enjoyMalay
theatre and music,
Musih
samrahplayed
in
samrahBetawi
was alsoinfluenced
by
musih ハ4etayu
in
terms
of the compositionof musical
instruments,
scale and rhythm.
The characteristic of musile samrah was the useof the harmonium
,
a typical Indian musical instrument,
as a result of which musik samrahwas often called orkes
hamaonium .
It
is
likely
that this orhesharmonium
was the same as o 沈θs Melayu which was often called orkes har7nonium in the 1930s.
1
はじ め
にダン ドゥ ッ ト
(
dangdut )
は,
ム ラユ音
楽 を 基 本に,
ザ ピン (kapin
),
D イ ン ド の映 画 音 楽,
本
1 )
J1
.
Mappanyukki
No .74,
Ujung
Pandang ,
Indonesia.
e−
mail :takonai
@upg.
mega.
net.
id
ア ラ ブ起 源の ポ ピ
ュ
ラー
ダン ス。 ガ ン ブス (9ambus
) と呼ばれるア ラブ.
音 楽の ウ
ー
ド にあたる 6弦の旋律楽器と, マ ル ワ ス (marwas ) と呼ばれ る小型両 面 太 鼓が主に使われ る。 娯 楽 舞 踊と して
して演 じられ
,
イ ス ラム教の教義を伝道 する手 段と して も使わ れ た。 現 在で は,
スマ ト ラ東 海岸部
,
カ リマ ン タ ン,
マ レー
半 島 部で 演 じ ら れて い る [EnsikloPedi
IVasional
lndonesia
l990
:VoL
17,434
;滝沢1994
:57
]e田子 内 :ダン ドゥ ッ ト の成立 と発 展 (1) ロ ッ ク等が
融合
し た現 代イ ン ドネ シ ア の代 表 的ポ ピュ ラー
音 楽で[
Tambajong
l992
:Vel .
1,
98],
グン ダン (9endang
)と呼ば れる片 面 太 鼓 とス リ ン (suling )と呼 ば れる竹 笛が奏で る そ の リズム ,音
色に最 大の特徴
が ある。本稿
は,
こ の ダ ン ドゥ ッ ト の基礎
と な っ たム ラユ 音 楽 (musikMelaNU
)
の演
奏 楽 団,
オ ル ケ ス・
ム ラユ (orleesMelayu
)
に焦 点を当て, その 発 展,
変容
につ い て分 析 しよ うとする も の で あ る。 ダン ドゥ ッ トとい う用 語が イ ン ドネシ ア社
会一
般に 定 着 する前 , 即ち70
年 代 以 前,
こ の音
楽はイ ラマ ・ ム ラユ (irama
Melayu
)や ム ラユ・
モ デル ン (Melayu
modern ) とい う名で呼ば れて い た。 ダ ン ドゥ ッ ト の歌
手, 作曲家
達 が結
成 して いる最大
の
業界組織
イ ン ドネ シ ア ムラユ 音 楽 家 連 盟 (
PAMMI
:Persatuan
Artis
Musik
Melayu
lndonesia
)2)が 自らの団 体に ダン ドゥ ッ トとい う用
語
を使
わず,
敢えて ム ラユ音楽
とい う用 語を使
用 して い る こ と か ら も窺え る よ う に, 現 在の イ ン ドネ シ ア音楽 界
で は,
ダ ン ドゥ ッ ト の原 形は オル ケ ス・
ム ラユ と呼ば れて い た楽 団が演 奏 し たム ラユ 音 楽で あるとい う 認識で ほぼ一
致 し て い る。 3)オル ケ ス
・
ム ラユ は通 常,
Orhes
とMelayu
の頭 文 字を とっ て0 .
M .
と 表 現 され る。 この方
式は現 在の ダ ン ドゥ ッ ト で も行 わ れ て お り,
ダ ン ドゥ ッ トを演 奏 す る グルー
プ は,
例えば0 ,
M .Kharisma
の よ うに グルー
プ名
の前
にO .
・M .
を付け る場 合が多い。 オル ケス・
ム ラユ の 名前
が イ ン ドネ シ ア音
楽 界に定 着 し たの はム ラ ユ 音 楽が 人 気 を獲 得 し始めた50
年 代 初期
の 頃であ る [Aneka
,
10
September
1952]
。 そ れ以降
オル ケス・
ム ラユ が演奏
し たム ラユ音楽
は急速
な 発 展 を 遂 げる こ とに な るが,
この 発 展に 大 きな影 響を与
え たの が 当 時イ ン ドネ シ アを席 巻 した マ レー
映 画の流 行であ る。 特 に ピー ・
ラム リー
(P.Ramlee
)主演
の映画
は人 気が高
く,彼
が歌 うム ラユ 音 楽の ス タ イル を模
倣 し た楽 団
が メ ダン,
ジ ャ カル タ等
で数 多
く結 成 され た。 そ し て,50
年代 中 頃
に は,
そ れ まで 国 民音 楽
と し て広 く人 衆か ら支持
を得て い た ク ロ ン チ ョ ン(
kroncong
) に代
わ っ て 最 も人 気の あ る音
楽と まで み な さ れ る よ う に なっ た [Ane
々a,1May
1954
]。しか し,
50
年
代以前,即
ちマ レー映画
の影響
を受
け る以前
にム ラユ
音楽
が どの程度
イ ン ド ネ2) 1989年 8月 11 日設立
。
前 身は,
50年 代 末か ら60年 代 前 半にか けて オル ケス・
ム ラユ・
ク ラ ナ・
リァ
(Orkes
Melayu
Kelana
Ria
)の り
一
ダー
兼 歌 手と して活 躍した ム ニ フ・
バ ハ ス ア ン(
MunifBahasuan
) を中 心に,
1978年に設 立さ れ たイ ン ドネシ ア ム ラユ 音楽 家 財 団 (YAMMI :Yayasan
Artis
Musik
Melayu
Indonesia
)で あるD そ の 後,
YAMMI は 1984年,
イン ドネ シ ァム ラユ 音 楽 家 協 会 (LAMMI ;Lembaga Artis Musik Melayu
Indonesia
) に名 称を替え,
更に1989 年に 現在の PAMMI に 名 称 を変 更 した
。
PAMMI の 現在の 会 長はロ マ・
イラ マ (RhomaIrama )が務め てい る [Faブar
,
27
Feb .
1995」。
3)ダン ドゥ
・
ソ トの 基 礎 とな っ たの はム ラユ 音 楽で ある とい う意見が多 数 を 占めて い る中で [Siladol995: 1
−
2],
ダン ドゥ・
ソ ト の成 }‘
nに はイ ン ド映 画 音 楽が重要な役 割 を 果た し た とい う立場か ら,
ム ラユ 音楽 と ダン ドゥ
・
ソ トの関 係に異 議 を 唱え る人 もい る [Lohanda 1991:137」。 まtこ,
“
ダンドゥ
・
ソ トの 女hl
”
エ ル フ ィ
・
スカエ シ (ElvySukaesih
) も同様の立 場を とっ て いる[Pos Fitm
1994,
No.
1124]。東 南ア ジア研 究
35
巻 1号 シ ァ社
会に浸 透 して いた か にっ い て は,1930
年代
, ム ラユ音楽
がバ タビ ア で頻 繁
に演奏
され,
そ れを 専 門に演 奏 する オ ル ケス ・ハ ル モ ニ ウム(
o焼 2∫ 施 跏 oη抛7π :後
述 )と呼 ば れる楽 団が 既 に存在 して い た こ と以外,
詳 しい こ とは ほ とん ど わか っ て い ない [PENSI 1983 :155]。フ レ デ リッ ク
(
William
H
.
Frederick
)
は,
ダン ドゥ ッ トの起源
をオル ケ ス ・ ム ラユ が演奏
した ム ラユ 音 楽で ある と して お り , オ ル ケス・
ム ラユ成
立の背
景を植 民 地時
代の バ タ ビ アの状
況 に求めて い る。 バ タビ ア で は,西洋
楽器
と イン ド ネ シ ア 固 有の楽 器か ら構 成 される混 成 楽 団 タ ン ジ ドー
ル αα頭
40
γ)や,中
国,
ス ン ダ,
マ ル 久 ポル トガル の音 楽 要 素が混 入 し たバ タ ビ ア独 特の ア ンサ ン ブル , ガ ンバ ン・
ク ロ モ ン (9ambang
hromong
) 等の 混 成 音 楽が演奏
さ れて い た[
Frederick
1982
:105
]。 これ らの中で最も幅広
い人気
を得
て いたのが クロ ン チ ョ ンで あ る。当
時 下 層 階 級の音 楽 とみ な さ れて い たク ロ ン チ ョ ンを国 民音
楽に格
上げ しよ うとする試み が一
部
の ナシ ョ ナ リ ズム指 導 者に よ っ て行わ れ,
そ の結 果ク ロ ン チ ョ ン は,
西洋
人と中国
人と は明 白
に異な るム ラユ的特徴
を もっ た音楽
と して大 衆 意識
の中
で共 有され るよ うにな っ た。 こ の クロ ンチ ョ ン及 び関 連の音
楽を演奏
し た グルー
プ が1940
年 代 にオ ル ケス・
ム ラユ とい う名 で知 ら れ る よ うに な り, こ の 名 称が そ の 後 引 き続 き使 われ た [ibid.
:106
]。 換 言 する と,
クロ ンチ ョ ン その他
の関
連音
楽は,
ナ シ ョ ナ リス ト達に よ っ て支 配 者である西 洋 人や中 国 人 達の音
楽
と は明
ら か に違 う 「イン ドネシ ア固 有の音
楽 」 と して意
図的
に定 義
さ れ る よ うにな り, これ らの 「民族
的 」な音
楽を演 奏 する グルー
プに ム ラユ とい う イ ン ドネ シ ア全 域の プ リ ブ ミを 包 括 する意味
の単 語が付 さ れた結
果, オル ケス・
ム ラユ とい う用語
が生
ま れ た とい うことで ある。オル ケス ・ ム ラユ の成 立に関す るフ レ デ リッ クの こ の
分析
は示 唆に富 む ものであるが,
問 題 なの は,
オ ル ケ ス ・ ム ラユ とい う用 語が果た して本
当に クロ ン チ ョ ン及びそ の 関 連 音 楽を演 奏 し た楽 団に対
して 用い ら れ た用 語で ある か ということである。
こ こ で い う 関 連 音 楽は,
非 西 洋 音 楽 とい う意
味で当
然ム ラ ユ音
楽 も含ま れ る と考
え ら れ るが,50 年代
に は ク ロ ン チ ョ ン を演奏
する楽 団
は オル ケス・
クロ ンチ ョ ン と呼 ば れ,
ム ラユ 音 楽を演 奏 する楽 団とは明 白に区 別さ れ て お り,
双方
をオル ケス・
ム ラユ と呼
ぶ こ とはあ りえな か っ た[
Aneha ,1May
1954]
。 ナ シ ョ ナ リズム が燃え上 がる40 年
代 前 半に民 族 性 を 強め た クロ ンチ ョ ン と, ム ラユ音
楽を演奏
する楽 団 等 をひ と括 りに して オル ケ ス ・ ム ラユ と呼び ,独
立後
,今
度は一
転
して ム ラユ 音 楽を 演奏 す る楽 団の み を オル ケス・
ム ラユ と呼ん で , クロ ン チ ョ ン の 楽 団と 区 別 す るこ と は果た し て あり得るだろ うか。 4)本 稿で は以 上の 問
題意識
に基
づ き, まず
, ム ラユ音
楽
のバ タ ビ ア定着
に何
が重
要
な役
割
を果
た し たの か につ き19
世 紀 末 まで時 代 を 遡 っ て検 証 し,次
に ム ラユ音楽
及び そ れを 演 奏 した楽4
)また
,
独 立 後,
既に イン ド ネシアとい う国 が 存 在 して いたに も拘 らず,
植民地時代に イ ン ド ネシアを指す言葉で あっ た 「ム ラユ 」 が 何 故
,
楽 団の名 前として採 用 され たの で あ ろ う か。 こ の点に つ い ては稿を改め て検 討 してみ たい。 138田 子 内 :ダン ドゥ ッ トの 成 立 と 発展 (1) 団の 楽 器 編 成が, 時 代の変 遷 と ともに どの よ うに変 化 して い っ たの か にっ い て みて いくことに する。
ll
大 衆 演劇
の発
展
とム ラユ音 楽
ム ラ ユ 音楽 は , 地 理的に は タ イ南 部
,
マ レー
半 島, シ ン ガポー
ル,
ブル ネ イ,
東マ レー
シ ア,
イ ン ド ネ シ ァ の う ち東ア チ ェ か らジャ ン ビ まで の ス マ ト ラ東海
岸部
と西カ リマ ン タ ンで演
奏 さ れて い る音 楽 を 指 す。
ム ラユ音楽
で は,
ジャ ワ,
ス ン ダ音楽
で み ら れるス レ ン ドロ音階
や ペ ロ ッ グ音
階 等の 東 南ア ジア や東
ア ジ ア の大部
分で用い ら れてい る五音音階
よ り も,
西ア ジアや南
ア ジ ア で用い ら れて い る七 音 音 階 的施法
の方
が 主流で あ る。 これは イス ラム文化
の影 響を強 く受
けて い るた めで,
音律
も基本的
に微分音律
が用い られてい る[
川口1994
:68
;戸口1982
:37
,49 −
50
,278
]。 ム ラユ 音 楽は地 域に よ っ てその 名 称を変え,
特に イ ン ドネ シ ア に限 っ た場 合,
北ス マ ト ラ地方
で古
くか ら演 奏されて い た ム ラユ・
デ リ (Melayu
−Deli
) と呼
ば れ るム ラユ 音 楽が有
名で,
バ タビ ア で 演 奏さ れ た ム ラユ 音 楽はム ラユ・
ブタ ウ ィ (Melayu
・
Betawi
) と呼
ばれて い る。 ル クマ ン (
Tengku
Lukman
Sinar
)は ム ラユ音
楽 を,
オ リジ ナル (musik asli)
,伝統音楽
(musih tradisionat
)
,近代音
楽(musih modern
)
の3
つ の段階
に分類
して い る [Lukman
1990
:2−3
]。
具体 的には, オ リ ジ ナ ル は
13
世 紀以降に マ レー
宮
廷音 楽 隊 (Angkatan
Nobat
Diraja
)
が王
の即
位式
,葬式等
の様
々な宮廷
行事
の時
に演奏
した音楽
の ことを指
し, グン ダ ン
,
ス ルナ イ (serunai 笛 ), タ ワ ッ ク・
タワ ッ ク (taω aletawa
々 コ ブつ きの 二 っ の ゴ ン グ )等の 伝 統 楽器が使 用された。 伝 統 音 楽はマ ッ ヨ ン (mahyong )や メ ノ ラ (menor α)等の マ レ
ー
伝統
劇の中
で演 奏 さ れ た音 楽の こ とをいい,楽
器は オ リ ジ ナ ル と同 じ く伝 統 楽器
が使
用さ れ た。 そ して,
近代音楽
は,19
世 紀 末に成 立 した ム ン ドゥ (mendu )5)やバ ン サ ワ ン (bangsawan
: 後 述 ) 等の マ レー
大衆 商 業 演 劇の 中で演 奏 され た音 楽の こ と を指し, そ こ で は, オ リジナ ル,
伝 統 音 楽で 使用 さ れ た 伝 統 楽器 は ほ とん ど使 用さ れず,
バ イ オ リン,
ピア ノ等の 西 洋 楽 器や タ ブ ラ (tabla 片面 太 鼓 ),
ハ ル モ ニ ウム (harmonium
:後 述 )の イ ン ド系の 楽 器 等が使 用された。 し か し,
西洋楽
器 が多
く使 用 さ れてい る ものの,演奏
さ れ る音
楽に は前 述のム ラユ音楽
の特徴
が維 持 されてお り, そ れ が近代音楽
の 最 大の特 徴 と なっ て い る [ibid.
:3 ]。 1950 年 代に 流 行 し た オル ケ ス・
ム ラ ユ の 基本 的な楽 器 編 成は,
例えば,
著 名な コ メ デ ィ 映 画監督,
ニ ャ・
ア ッ バス
・
ア クッ プ (Nya
Abbas
Acup )
の処
女 作 品で あ る映 画 「Heboh
騒動
」(
1954)
の冒頭部
分に登
場
する オル ケス ・ ム ラユ の観察
より,
バ イ オ1丿ン , ス ト リン グバ ス,
ト ラ ンペ ッ ト,
トロ5
)スマ トラ島 リア ウ地 方で行 な わ れてい る演 劇。 起 源にっ いて はバ ンサ ワ ン起源 説
,
中 国オペ ラ影 響 説 等 が ある。 19世 紀 末に はマ レー
半 島や パ レ ンバ ン等で既に人 気を集めて い た [Yousof l994: 174−
175]。 139東 南ア ジア研 究 35巻 1 号 ンボ
ー
ン, サ ッ クス , ピア ノ, マ ラ カス の西洋楽器
が中
心であ っ た。 ま た, 当時
の オル ケス・
ム ラユ で は , ダン ドゥ ッ トの特 徴
で あるグン ダンは 既に使 われて いた もの の,
も う一
っ の特徴
であ るス リン はまだ使
わ れ てい な かっ た 。従
っ て,以
下
で検証
す
るム ラユ音楽
は近代
音
楽
の段
階
と して の ムラユ 音 楽である。そ れで はム ラ ユ 音 楽は
一
体どのよ うな 理 由,
経緯
でバ タビ ア で演奏
さ れ る よ うに な っ た の で あろ うか。 この 問 題にっ い て考
え る際
参考
に な るのは,50 年代
に ジ ャ カル タの オ ル ケ ス ・ ム ラ ユ で 活 躍 し た人気歌手達
の経
歴に み ら れ る興味
深い 共 通点
である。 彼,
彼 女 らの ほ と ん ど が, オル ケス・
ム ラ ユ に参加 す る前 何 ら か の形で大 衆 演 劇に関 与 して い たの で あ る 。例
え ば, 50年
代中頃
に人気
の高
かっ たオル ケス ・ ム ラユ ・ ブ キ ッ ト ・ シ グン タン(
0
,
M
.
Bukit
Siguntang
)
の 看 板 女 性 歌 手ハ ス ナ ・ タハ ル (Hasnah
Tahar
)
は,戦後
間 もない頃
,西
ス マ ト ラを拠点
に活
躍 して い た 劇団ラ トゥ・
ア シ ア (Ratu
Asia
ア ジ ア の女 王 )で 役 者 兼 歌 手 と して活 躍 して い た[
Anelea ,
10June
l954]
。
ま た,
オル ケス ・ ム ラ ユ・
シ ナル。
メダ ン (O .
M ,
Sinar
Medan
)で活躍
し た女性歌手
エ マ ・ ガ ンガ(
Emma
Gangga
) も,
30
年 代に東 南ア ジ ア各 地で巡 回 公演
を 行っ た人 気 大 衆 劇 団ダル ダ ネラ (Dardanella
:後
述)
で5
歳
の頃役者
と して活
躍 し た後,
劇 団 ビ ン タ ン ・ マ ス (Bintang
Mas )
を経
て,劇団
ラ トゥ・
ア シ ア に参
加 し た。 劇団
の 中で,
ハ ス ナ・
タハ ル , エ マ・
ガ ン ガ両
人と も, ム ラユ 音 楽 を 歌っ て い た とい う[
Sinematek
Indonesia
l979
:162
;Dangdut
1995,
No .1
コ。 ラ トゥ・
ア シ ア は19
世 紀 末か ら20
世 紀 前 半にか けて マ 写 莫 1 ム ラユ 音 楽 (近 代 音 楽 )の主 な楽 器 左 上より右へ,
ビ オラ,
ガ ンブス。 左中よ り右へ , グンダ ン,
ハ ル モ ニ ウム (手 動 式 )。 左下,
ギ ター
(2
っ )。 (タマ ン ・ ミニ 公 園で撮 影 )140
田 子 内 ダン ドゥッ ト の成 立と発 展 (1) レ
ー
半島
か らス マ ト ラ にかけて大 流 行したマ レー
大 衆 演 劇バ ン サ ワ ン,
そ して,
ダル ダ ネ ラ は 同時
期, ジ ャ ワ で 大 流 行 した大 衆 演 劇コ メ デ ィ ・ ス タン ブル (komedi
stamboel :後 述 )の流
れ をそれぞれ汲 む 劇団
で あ る。以上の事
実
か ら,
ム ラユ 音 楽の バ タ ビア定 着の過 程に は当時
の 大衆演劇
が何ら かの 形で重 要 な役 割を果
た して い た の で はない か との 推 測が成 り立つ 。 また, ム ラユ 音 楽の 発 展 段 階か ら 見 る と,
こ の大 衆 演 劇の成 立はム ラユ音
楽が伝統音楽
か ら近代音
楽へ 移 行す る過 程の巾で 大 きな 役割
を果た して い る [Lukman
1990
:51]
。 以下で はこ の推
測に沿
っ て, 19 世紀 末の 大 衆 演 劇 の発
展とム ラユ音
楽の関 係につ い て 検討
することにする 。イ ン ドネシ ア 演 劇
史
上,19 世紀末
は伝
統 演 劇か ら近 代 演 劇 (大 衆 演 劇 )に移 行 する重 要な時期
で あ っ た[
Sumardjo
1992
:101
] 。 イ ン ドネシ ア の近 代演
劇は,
そ れ 以前
の伝統演劇
の形
態 とは大 き く異
なり,西洋
近代芸術
の影響
を強
く受
け た都市住
民によ る都市
住 民のた めの芸 能 で あ っ た [ibid.
:99
]。
こ の 近 代演 劇の 黎 明 期に あ た る 1885 年か ら1925
年の40
年 間で イ ン ド ネ シ ア最 初の近 代 演 劇 と位 置づ け られて い るのが コ メデ ィ・
ス タン ブル と呼
ば れ る劇
団であ る。
コ メデ ィ・
ス タン ブル は当初劇団
の名前
を指
して いた が,
後に演 劇そ の もの を 指 すよ うに な っ た。 そ して,
こ の劇団
の結成
に多
大な影 響を与え たの が当 時マ レー
半 島で大 流 行 して い た大衆演劇
バ ンサ ワンであ る [ibid
.
:102
]。バ ン サ ワ ン は
, 19 世紀
末イギ リス植 民 地時
代に貿易
の中継
地 と して栄え たペ ナ ン 島を舞 台 に, マ レー人,
イ ン ド人,
ア ラブ人,
中 国 人,
ブ ギス 人,
アチェ 人 等の移民
に よ る文化融合
の中
か ら生 まれ た大衆娯楽
で,歌
や舞
踊, 寸劇
が混在
するオ ペ ラ的 性 格を持 っ たマ レー
大 衆 商 業 演 劇で あ っ た。 最 初にバ ンサ ワ ン とい う名 称を使 用 し た劇 団は,
ペ ナ ン 在 住の イ ン ド人イス ラ ム教 徒マ マ ッ ・ プ シ (Mamak
Pushi
)が1885
年に結 成 し た劇団
プシ・
イ ン ド ラ・
バ ンサ ワ ン(
Pushi
lndera
Bangsawan
ofPenang ,
以 下PIBP
)で,1870 年代
にペ ナン 島を巡 回 公 演 し たボ ン ベ イの 劇 団ワ ヤ ン
・
パ ル シ (Wayang
Parsi
)の影 響を強く受けて い た [Tan
Sooi
Beng
l993
:16
;Yousof
1994
:309 − 310
ユ。
マ レー
半 島で成 功を収め た後,
PIBP
は シ ン ガポー
ル,
ス マ ト ラ,
ジャ ワ に渡 り巡 回 公演
を行
っ た が, ジャ ワ巡 回 公 演はバ タビ ア6)で ま ず ま ずの反 応 を 得た以 外は失 敗に終わ っ て い る [Muhammad
TWH
1992
:47ユ
。 失 敗の 原 因は,
上級ム ラユ 語 (ム ラユ 語 はマ レー
語 と も呼ば れ る)を使 用 して い た た めマ レー
人 以外
の一
般 大 衆が物 語の 内 容をほ とんど 理解
で き な か っ た か ら と言わ れて い る [Sumardjo
1992
:104
;Manusama
1922
:6
) バ タビア 公 演の後,
PIBP はバ タ ビ ア 在 住の トル コ 人商人ジ ャー
フ ァ ル・
ト ゥ ル キ (Jaafar
Turki
)に道 具や衣 装 等の 全 財 産を売 却 し た。 ジャー
フ ァ ル・
トゥル キはこ の財 産 を 基にワ ヤ ン・
ス タン ブル (Wayang
Stamboel
ス タ ン ブル はイ ス タン ブー
ル の意 味 )と呼 ばれ る劇団を 結 成し, 中東の物語を中心に公演 活動を行 っ た [Yousof1994
:166]。 こ の ワ ヤ ン・
ス タ ン ブルがジャワに おけ る最 初のバ ンサワ ン と 言 わ れ ている [Pasaribu
1955
:59
」。 141東 南ア ジ ア研 究 35巻 1号
2
− 3
]。
バ ン サ ワ ン の 舞 台で使わ れ た 上級ム ラユ 語 は,
マ レー
占典 文 学 以 来 用い ら れて き た文
語ム ラユ 語で ある
。
一
方, 19世紀末
にジャ ワ島等
で 広く使わ れて いた ム ラユ
語
は,
ム ラ ユ・
パサ
ー
ル(
Melayu
Pasar
市 場ム ラユ 語 )やム ラユ・
ル ン ダー
(
Melayu
rendah 低 級ム ラユ 語 )と呼ば れる 口語 ム ラユ 語で , 完
成度
が か な り低い もの であ っ た。 こ の ため,
マ レー
半 島や ス マ ト ラ島の マ レー
人が話 すム ラユ 語と ジャ ワ島や他の 地域
の 人 達が話
すム ラユ 語には か な りの 隔 た りが あり,
言 葉が原 因で演劇
や映画等
の娯楽
が理解
されな い こ とがあっ た ようであ る。例
え ば,1937
年 に イ ン ドネ シ ア で制作
さ れ大
人気
を得た 映 画 「トゥ ラ ン・
ブー
ラ ン (Ter
αngBoelan
月 光 )」は,
マ レー
半島
の マ レー
人に はすこ ぶ る評 判が悪か っ た。 こ の映画
の 中で は,
通 常 使わ れてい る低級
ム ラユ 語よ りも高 級なム ラユ 語が使
わ れ たに もか か わ らず,
マ レー
人にとっ ては 「粗 野 」な もの に聞こえ た とい う
[
Tan
Sooi
Beng
l993
:28 − 29,33
]。一
方,
バ ンサ ワ ンの 人気
は瞬
く間
にマ レー
半 島 及 びシン ガ ポー
ル,
ス マ ト ラ島
に広が り,
各 地で多 くの バ ンサ ワンが結
成さ れ た。 バ ンサ ワ ン は純粋
な商業演劇
と して発
達し た た め,
公 演 地 域によっ て演 目,
音楽,
舞 踊 等の 内 容を 自 由に変え た。 例えばイ ン ド人 居 住 区で は イ ン ド音
楽や イ ン ドの物
語が 主 に演
じ ら れた。 し か し,
そ こ に は中国的
, ム ラユ 的要
素 も混 在 し,
時に は 流行の ポ ピュ ラー
音 楽 等 も演 奏さ れる等, バ ン サ ワン は大衆
文 化の担い手と して異 文 化が衝 突 融 合 する場で もあっ た[
ibid
.
:35
]
。バ ン サ ワ ンで は劇の 始ま り や
幕
間に専
属の楽 団に よ る音楽
が演奏
さ れ, かつ劇中
で は西 洋オ ペ ラの よ うに歌い な が ら演 技をする ス タイル が採ら れ てい た。 バ ンサ ワンで音 楽 を 担 当 し た こ れ らの楽団
は,
当 時マ レー
半 島
を演奏
旅行
し た西 洋オー
ケ ス ト ラ の影 響 を 強 く受 けて お り,楽
器 編 成 もイ ン ド系 楽 器で あ る タブ ラやハ ル モ ニ ウム の他に,
ピア ノ,
フ ルー
ト, バ イ オ リン, コ ル ネ ッ ト, ドラ ム等の 西 洋 楽 器が使 われて いた。 ハ ル モ ニ ウム はフ リー
リー
ドを足 踏み (手 動 )ふ い ご, 又は送風機
を用い て鳴ら す リー
ド オル ガ ン 属の 楽器で,19
世 紀にヨー
ロ ッパ で発達
し た。19
世紀中頃,
キ リス ト教 宣 教 師によ っ て イ ン ド に伝わ り,1870
年代
ボ ンベ イか らペ ナ ン に や っ て きた巡 回 劇 団 ワ ヤ ン・
パ ル シ に よ っ てマ レー
社 会に もた らされた。 そ の た め, マ レー
社 会で は一
般 的にイ ン ド系
の楽
器と考
え られて いる [ibid.
:78
]。 バ ン サ ワ ン の こ の ような楽 団はオル ケス ト ラ
・
ム ラユ (orkestraMelayu
)と呼ば れてい た [ibid,
:73 − 74
]。 オル ケス トラは英 語の orchestra に由
来
し,
イ ン ドネシ ア語で はオ ラ ン ダ 語で楽 団を意 味 する orleest の単
語か ら オル ケ スと呼ば れ る ため, オル ケス ト ラ・
ム ラユ は楽 団 名にム ラユ とい う名 前を初
めて 使 用 した楽 団と言
っ てい い だ ろ う。
興 味 深い こ とは,
ム ラユ の名 前を初めて使 用 し た楽 団が,
その成立
当初
既に イ ン ド音楽
を始
め とする様
々 な音
楽 を演
奏 して い た こ とで ある。 ダン ド ゥ ッ トも様
々な音楽要素
を吸収
して現在
の姿
へ と発 展 している た め,
こ の事 実
は示唆的
であ る。更
に注 目 すべ き は , オル ケス ト ラ ・ ム ラユ は時に はバ ン サ ワ ン を離れ,
結 婚 式やパー
テ ィ等の場 で単独
で演
奏 を 行 っ たことで あ る [ibid
.
:76
コ
。 マ レー
シ ア や イン ドネシ ア では元 来,
音 楽は独 142田 子 内 ニダ ン ドゥ ッ ト の成 凱と 発 展 (1) 立 し た形 態 とは見 做さ れ ず, 演 劇 (人 形 劇 も 含 む )や
舞
踊の一
部と考え られて い た。例
え ば,
マ レー
半
島を中
心 に行 われ た伝 統演
劇マ ヨ ン で伴 奏音
楽と して演 奏さ れたム ラユ音楽
(伝
統 音楽)
はマ ヨ ンを 離れ て演奏
すること は あ りえ な かっ た 。従
っ て,
オル ケ ス トラ・
ム ラユ は演劇
か ら独 立 した音楽
とい う芸 能 形 態 を 初め て実
現 さ せ た楽 団 とも言え るであ ろ う。 とすれ ば,
オ ル ケス トラ ・ ム ラ ユ とい う名 称の 他に.
楽 器 編 成及 び演 奏さ れた音 楽,
更に は演 劇か ら独 立 し た楽
団という観 点か ら判断
す る と,1950
年 代に ジャ カル タで流
行 し た オル ケス・
ム ラユ の 原形
は この バ ン サワ ン の 楽 団オル ケス ト ラ・
ム ラユ に求め る こ と が で き よ う 。こ の バ ン サ ワ ン の 影 響を強 く受けて結 成さ れ たのが コ メ デ ィ
・
ス タン ブル である。 ジャ ワ で は19
世紀 前 半に導 入 さ れ た強 制栽
培 制 度の 結 果,
19世紀
後 半か らバ タ ビア を は じめとする各 都 市が急 速 に発 展 し始め た。 ジ ャ ワ 島や外 島で強制栽培
さ れ たコー
ヒー,
砂糖,
藍 等の商 品 作物
がバ タビ ア やス ラバ ヤ等 を経
由して輸出
さ れ た結 果,
多額
の富
が輸出巾
継 都 市に もた ら さ れ た。
そ れ に伴
っ て人
口 は増 大 しtl854年
,約 6
万 人 [永
積1980
:7 ]
で あっ たバ タビア の人囗 は40
年 後の1893
年に は11
万 人 [永 積1977
:305
]へ と , ほ ぼ倍 増 して い る。 こ の急 激な都 市 人凵の 増 加が新 しい都
市文化
の成
立 に大 きな影 響 を与
え た。 強 制 栽 培制度
で潤
っ た オラ ン ダ人 実 業 家や一
部
の裕
福な教養
あ るユー
ラ シ ア ン や中 国 人,
原 住 民達 は, ジャ ワ各 都 市で 頻 繁に巡 回 公 演 を 行っ た ヨー
ロ ッ パ 演 劇や オ ペ ラ等 に興 じて い た。 し か しそ の一
方で,
増 大 した都 市 人 口 の大 部 分を占める教育水
準の低い原 住 民 (プ リブ ミ)や ユー
ラ シ ァ ン達
には ま だ娯 楽 と呼べ る もの が存在
して い な か っ た。彼
ら は新
しい娯 楽 を欲
していた 。1891 年
, ス ラ バ ヤ で こ の新 しい都 市住
民の 欲 求を満たす 劇 団コ メ デ ィ・
ス タ ン ブル が フ ラ ン ス 系ユー
ラ シ ア ン の ア グ ス ト ゥ・
マ ヒ ュー
(August Mahieu,
以 下 マ ヒ ュー
)の 手に よ っ て 結 成さ れ た [Manusama
1922
:4
]。
マ ヒ ュー
は,
青 年 時 代に頻 繁に観た西洋
オペ ラやバ ンサ ワ 写 真2
現 代の オル ケス・
ム ラユ。
グンダン の 演 奏 者の 下に0 .
M.
の 文 字が 見え る。 (南ス ラ ウェ
シ州ウ ジ ュ ン・
パ ンダン市で撮影
,
行 事は結 婚 式の披 露宴 )143
東南ア ジ ア研 究
35
巻 1号 ンの ス タ イ ル を模
倣 す る一
方
で,PIBP
の ジ ャ ワ公 演の 失 敗を教 訓に コ メ デ ィ・
ス タン ブル の ス タ イル に様々な工 夫を施した。 例え ば,
言 葉は大 衆に 馴染みの あ る低 級ム ラユ 語を採 用し,
演 目は ジャ ワの一
般 大 衆に広 く親
し ま れて い る 「千 夜一
夜 物 語 」の中
か ら 「ア ラ ジ ン と魔法
の ラン プ」 や 「ア リバ バ と40
人の 盗賊」等を取 り 上 げ た 。 幻 想 的な背 景,
ア ラ ブ風の派 手な衣 装,
舞 台と観 客 席 を 仕 切る幕の設 置,料
金の徴収
,劇中
の軽快
な歌
と踊 り等,
これ まで の伝 統 演 劇 と は全
くス タイル の異
な る劇団
コ メ デ ィ・
ス タ ン ブル の 誕 生 をス ラバ ヤの民 衆 は熱 狂 的に歓 迎 し た。 役 者の ほ と ん ど はユー
ラ シ ア ンで あっ た が,観衆
はユー
ラ シ ア ンの他 にオ ラン ダ人か ら プ リブ ミ ま で の 幅 広い 人 達で あ っ た。 ス ラバ ヤ で大 成 功を収め た コ メ デ ィ ・ ス タ ン ブル は 「千 夜一
夜 物 語 」の他 に 「白雪 姫 」や 「眠れ る森
の美女
」等
の ヨー
ロ ッ パ の御 伽 話 も演 目に取 り入 れ, ジ ャ ワ巡 回 公 演を開 始 し た。 コ メ デ ィ・
ス タ ン ブル は各 地で大喝采
を受 け,特
にバ タ ビ ァ 公演
は大 成 功に終わ っ た。 コ メ デ ィ・
ス タ ン ブル は1906
年に解 散す る が , その 後 もコ メ デ ィ・
ス タ ン ブル のス タ イル を受
け継
ぐ劇 団
が各地
で結成
さ れ た。コ メ デ ィ ・ ス タ ン ブル の
楽 団
はバ ンサ ワ ン の楽団
オル ケス トラ ・ ム ラユ の影
響 を 強 く受 けて お り, 楽 器 編 成の点で は オ ル ケス トラ・
ム ラユ のそれと は大
きな相違
は な か っ た。 しか し,
演奏
さ れ た音楽
の内
容は,
オル ケ ス ト ラ・
ム ラユ の そ れ とは趣 を 異に し た。前
述の 通 り,19 世紀
末
に行
わ れ たバ ンサ ワ ン の ジ ャ ワ公 演は失 敗に終 わっ た が,言葉
以外
の も う一
っ の 原因
が オル ケ ス ト ラ・
ム ラユ が演
奏 するム ラユ音楽
であ っ た。PIBP
の ジ ャ ワ公 演の 後に ジ ョ ホー
ル の劇
団
, ア ブ ドゥル・
ム ル ッ ク (Abdoel
Mauloek
)7)が ジャ ワ公 演 を行
っ た が, この劇
団に対
す る ジャ ワー
般 大 衆の評 価 は,演奏
さ れ る音楽
は単 調で楽 器 編 成 もハ ル モニ ウ ム や タン バ リン等の 単 純な楽 器ば か りで ある と,
かな り厳 しい もの であ っ た[
ibid.
:2
]。 マ ヒュー
は こ の よ うに ジ ャ ワ で はム ラユ 音 楽が人 気が ない とい う事 実 を既
に教訓
と して認識
して い た 。 彼は,
バ ンサ ワ ン の専
属楽 団
オル ケ ス ト ラ ・ ム ラ ユ に な らっ て,
ギター
,
ピ ア ノ,
バ イ オ リン,
フルー
ト,
ク ラ リ ネ ッ ト,
コ ル ネ ッ ト,
トロ ン ボー
ン,
コ ン ト ラバ ス等
の 西洋
楽 器を コ メ デ ィ・
ス タ ン ブ ル の 楽団
で使用
し た が,
オル ケ ス ト ラ ・ ム ラユ で使 用されてい た タブラ, ハ ル モ ニ ウ ム,
ル バ ナ (rebana タンバ リン型の 大 型片
面 太 鼓 ) 等の イ ン ド,
ム ラユ系
の楽
器は使 用 し な か っ た。 従っ て,
オル ケ ス トラ・
ム ラユ と異な り,
こ の楽 団はム ラユ 音楽
を演奏
すること は ほ と ん ど な か っ た よ うで ある 。 その せ い か,
マ ヒ ュー
の結
成 し たコ メ デ ィ ・ ス タン ブル の専
属 楽 団は単にオル ケス (
Orkes
),
も し くは オル ケス・
ス タ ン ブル (Orkes
StambQe1
)とい う名 前で しか 呼 ば れず,
ム ラユ とい う用 語は使 用 され なか っ た[
ibid
.
:15
]
。そ れで は
,
コ メ デ ィ ・ ス タン ブルで はどん な音楽
が演奏
さ れ て いたの で あろ うか 。 バ ン サ ワ 7) 工9世 紀 末 頃バ ンサ ワ ン の 影 響を受けて ジ ョ ホー
ル (マ ラ ッ カ) で結 成された劇 団で,
劇 団の リー
ダ
ー
の名 前が その ま ま劇 団の名 前と な っ た。 ドゥル ム ル ッ ク (dulmutuk
) と も呼ば れ, スマ ト ラ で も人 気が高か っ た [Yousof l994:72]。
144田子 内 :ダ ン ドゥ ッ ト の成 、アと発 展 (1) ン の オル ケス ト ラ
・
ム ラ ユ と コ メ デ ィ・
ス タ ン ブル の楽 団の最 大の 違い は,
前 者が ム ラユ 音 楽 を中
心に演 奏 し たの に対
し,
後者
は クロ ンチ ョ ン を主に演奏
し た こ とにある匚
Sumardjo
1992
:106]
。 し か し,実 際
に は クロ ン チ ョ ン よ りワ ル ッや ポル カ とい っ た西洋
舞 踏 音 楽の方
が頻
繁に演 奏
さ れて いた よ うで ある [Manusama
l922
:3
]。
ポル トガル に起 源 を もっ クロ ン チ ョ ン は, 17世紀
か らバ タ ビ ア北 部に 居 住す るポ ル トガル系住
民に よっ て 細々 と歌
い続
け ら れて きた が,
バ タビア の発 展 と ともに徐々 に外部世
界に広
が り始あ,19 世紀末
に はバ タ ビ ア に しっ か り根を 下ろす まで に な っ て いた [土 屋1991
:125
]。 クロ ン チ ョ ン は, バ タ ビ アの港
に出 入 りする商
人 や船員
達に よ っ て ス マ ラ ンや ス ラバ ヤ等の ジ ャ ワ 島 北 部沿岸
地 域に伝え ら れ,20 世
紀 初 頭 頃 ま で に はス ラバ ヤ でもク ロ ン チ ョ ンを 演 奏 す る グルー
プ が い くっ か生
ま れ た。
マ ヒ ュー
が コ メ デ ィ・
ス タン ブル で ク ロ ン チ ョ ンを採 用 し た ことは, 8) コ メ デ ィ・
ス タン ブル 自 身の 人 気 を押 し上げ る と と もに,
こ の混 成 音 楽 クロ ンチ ョ ン の ジャ ワ の 他の 地 域特
に内 陸 部へ の拡散
流行
を促進 す る結 果 と な っ た [Kornhauser
1978
:129 − 131
]。し か し, コ メ デ ィ
・
ス タン ブル は西 洋 音 楽と ク ロ ン チ ョ ン だ け を演 奏 したわ けで はな か っ た。 バ ンサ ワ ン と同様
大 衆 商 業 演 劇と し て人 気 を集め た コ メ デ ィ・
ス タン ブル は公演場
所の民 族 構 成に よっ て演 目や音楽
を 変え た よ うである。例
えばジャ ワ 人の多
い地 域で はジャ ワ舞
踊や クロ ン チ ョ ン が演じ ら れ, ム ラ ユ 系 住民
の人冂が比較的多
いバ タ ビア で はマ レー
の物
語 も演 目 に取 り入れ ら れた。 マ ヌサ マ は1894 年
バ タ ビ ア で 行わ れ た コ メ デ ィ・
ス タ ン ブル の公演
の模
様に つ い て,
おそ ら く記録
に よ る復 元 と思
われるが, 詳細
な記 述を残
し てい る[
Manusama
1922
:14
]。 こ の 時の題目
は バ ン サ ワ ン で も お馴 染みの マ レー
の物 語 「ジ ュ ラ ・ ジュ リ・
ビ ン タン
・
テ ィ ガ(
Jula
/uliBintang
Tig
α)」であ る。 そ こ で演奏
さ れた音 楽はガ ンバ ン
・
ク ロ モ ン, クロ ン チ ョ ン,
ワ ル ツ,
タ ン ゴ等 多岐 に亘 っ て お り,
演 目 が マ レー
の 物 語だか ら と い っ て 演 奏 される音楽
が ム ラユ 音楽
と は限
ら ない こ と を 示 して い る が,
それ と同時
にム ラユ音楽
も演奏
さ れて いた可 能性
も ある。 し か し,前述
の通 り, コ メ デ ィ ・ ス タ ン ブル の 楽 団の楽 器編 成
は西 洋 楽 器ば か りで,
ム ラユ 音 楽に 欠か せ な い グン ダン やハ ル モ ニ ウム とい っ た楽 器が ま だ導入 され て い な かっ た こ と か ら考え れ ば,
こ の時期
, コ メデ ィ・
ス タ ン ブル の楽団
が ム ラユ音楽
を演
奏 するこ と は ほ とん どな か っ た と推 測 され よ う。8
) ユー
ラシア ・で あるマ ヒ 。一
が ク ・ ン チ ・ ンを採肌 た理 由}・つ い て K・ ・nh ・use ・ は・ ジ ・ ワ人とガ ム ラ ン 音楽
,
オ ラ ン ダ人と西洋 音楽とい う関係と同 様ユ
ー
ラ シ ア ン の大 部 分 は 「混成 音楽」ク ロ ン チ ョ ンを 自ら の 自L 楽と み な して いた ため で は ない か と推測 して い る [
Kornhauser
1978: 130−
132]e145
東 南ア ジア研 究 35巻 1号 皿
20
世 紀
の大 衆 演 劇
の発 展
と音 楽
マ ヒ ュ
ー
が死
亡 し た1906
年に コ メ デ ィ・
ス タン ブル は解 散 した が,
その後
バ タ ビ アを 中 心 にマ ヒ =一
の意
志 を受
け継 ぐ多くの 第二次
コ メ デ ィ ・ ス タ ン ブル が結
成 さ れた。 これ らの劇 団 のス タ イル は,
派 手な衣装
,幻想 的
な背景
の他
に, 劇中
の歌
,踊
りが強調
される等基本的
には コ メデ ィ ・ ス タ ンブル の スタ イル を踏襲
す る もの であ
っ たが,役者
はユー
ラシ ア ンか ら徐
々 に プ リ ブ ミが多 数を占
める ように な っ て い っ た。 こ れ らの 劇 団の名 称は,設
立 者や劇 団の 所 有者
の名前
を付
すこと が 多か っ た が,
1920
年代初
頭 頃に は,
これ らの第二次
コ メ デ ィ ・ ス タ ン ブル の 劇 団は一般的
にバ ン サ ワ ン とい う名 称で呼
ばれ る よ う になっ た [ibid
.
;10
]。 こ のバ ンサ ワ ン は, もちろんペ ナ ンで結 成さ れ たバ ン サ ワ ン と は異な る。 従っ て,
以下
では区 別 する た めに第
二次 コ メ デ ィ・
ス タ ン ブル劇 団の総 称で あ るバ ン サ ワ ンを第二次
コ メ デ ィ・
ス タン ブル と呼ぶ こ と にする。 こ の時 期,
イ ン ド ネシ ア で も バ ン サ ワ ン とい う用語
が使
われる よ うになっ た背景
には,
マ レー
半 島の バ ンサ ワ ンが頻 繁に ジャ ワ公 演を行
っ て い た事 実が ある。 バ ン サ ワ ン は1920
年 代 後 半に は,
マ レー
半 島の み な らずス マ ト ラ,
ジャ ワ の各 都 市で も相 当の 大 衆 動 員 力を示 して い た
[
Tan
Sooi
Beng
1993
:25]
。マ ヒ ュ
ー
が結 成 し たコ メ デ ィ・
ス タン ブル の活 動の拠 点はス ラ バ ヤであっ たことは前 述の 通 りで ある が, そ の後 結 成 さ れ た第二 次コ メ デ ィ・
ス タ ン ブル の活 動の拠 点は徐
々 に ス ラバ ヤを 離れバ タ ビ アへ と移
っ て い っ た。 バ タ ビア は 以前よ り オ ラン ダ領 東イ ン ドの 行 政・文化
の中 心都市
と しての 役 割 を 担 っ て いた が,
人口及 び 貿 易の面か ら み た都 市の規模
で は20
世 紀 初 頭ま で ス ラバ ヤ の後 塵を拝 して い た。1910 年頃
の バ タビ アの人
口 はス ラバ ヤ より も若干多
い程度
で あっ た が,
輸 出 貿 易額
はス ラバ ヤ に大き く水を あ け ら れて い た [加 納1995
; 5 ]。19 世
紀 後 半 よ りオ ラン ダ領 東
イン ド最大
の貿易都市
として栄 え,
多 様な民 族が往来
して いた ス ラバ ヤ で大衆商業劇 団
コ メデ ィ ・ ス タン ブル が結成
されたのは必 ず し も偶然
では な か っ たの で ある。 そ し て,20
世 紀に入り, バ タビア が行 政 ・ 文 化 面の他に貿易
面で もオ ラ ン ダ領 東イ ン ドの最
大都
市 と して 発 展 し始め ると, 都市
文 化の 中心 も徐々 にス ラ バ ヤか らバ タ ビ アへ と移
っ て ゆ くことに な る。前 述の 通 り, 第二次 コ メ デ ィ
・
ス タン ブル は基本 的
に はマ ヒ ュー
が 創 り上 げた初期
の コ メ デ ィ・
ス タン ブル の ス タ イル を 受 け継い でい たが,演
目の選 択や音楽
の面
で 大きな変 化を遂げ た。演 目
は 「千 夜一
夜 物 語 」 やヨー
ロ ッ パ の御
伽 話の他に, 西洋人
の妾 (
= ヤ イ)が プ リブ ミ に騙さ れ惨殺
さ れ る様
子を物語
っ た 「ニ ャ イ ・ ダシマ物
語(
IVyai
Dasima
)」
や,
強 盗や殺人
,美
女 誘 拐 等の悪 事を繰り返す プ リ ブ ミ男 性チ ョ ナ ッ トの様子
を物
語っ た 「チ ョ ナ ッ ト物 語 (Si
野oη αの」等の 当時
バ タ ビア で 人 気 の あ っ た大 衆 流 行 文 学を取 り上 げ, 更 に 「 ハ ム レ ッ ト」, 146H
子 内 :ダン ドゥッ トの 成 立と 発展 (1) 「ヴェ ニ ス の 商 人」 とい っ た ヨー
ロ ッ パ・
オ ペ ラで頻 繁に上演
さ れ る古 典 的 物 語 も演
じ た 。1920
年代初頭
の頃
と思わ れ る記録
に よ る と,第
二次
コ メ デ ィ ・ ス タ ン ブル で演 じ ら れ た代表
的な物 語の種類
及びそ の数は,
ア ラ ブ (千 夜一
夜 物 語よ り)− 9 本
, 西 洋一 9
本,
イ ン ドー 7 本,
ペ ル シ アー
6
本
, 流 行 物 語 (バ タ ビア)−
4
本,
ジ ャ ワー
3
本,
マ レー−
3
本,中
国一 2
本 , 西 洋 古 典 (ロー
マ )−
1 本
の 順になっ て い る [Manusama
l922
:24
]。 以上の 統計か ら わ か る こ とは,
第二次コ メ デ ィ ・ ス タン ブル で取り上 げら れ た 演 目の種 類は,
マ レー
の物語
が ま だ少
な く, ジ ャ ワ の物 語が若 干 見 受け ら れ る とい う地 域 性がある もの の,様
々 な物 語が演
じ ら れ たバ ン サ ワ ン に か な り類
似 して い た と言え るで あろ う。 そ れで は,
こ の 事実
は演 奏され る音 楽に ど の よ うな影響
を与
え たのだ ろうか。第二 次コ メ デ ィ
・
ス タン ブル の 中で演 奏さ れ た音楽
につ い て マ ヌ サ マ は次
の様
に述べ て い る。1
オー
ケ ス ト ラ は 以 前の よ うに大部
分は西 洋 楽 器 を 使 用 して い た。 彼 らは吹 奏 楽 器や ピァ ノ,
コ ン トラ バ ス,
ギ ター
等を演 奏 して い た。
東イ ン ド特 有の歌や ヨー
ロ ッ パ の歌の 他に,
時々 ム ラユ 語で ドゥ ン ダ ン(
dendang
)と呼 ばれ るマ ラッ カ (ジ ョ ホー
ル や ペ ナ ン)
の 音 楽や英 領イ ン ド, ペ ル シ ア の音 楽 も演奏
さ れ た。 ドゥ ン ダ ンを 演 奏す る時
には西 洋 楽 器にル バ ナ や足 踏み オル ガン(
seraphine )が加え られ た」 [ibid.
:12 ] 。 こ の記 述より,Z
っ の 重 要な点が明 ら かに なる。即
ち, 西洋音
楽, ク ロ ン チ ョ ンが中
心で あ っ た初 期の コ メデ ィ・
ス タ ン ブル に比べ て,
第二 次コ メデ ィ・
ス タン ブル で は イン ド,
ア ラ ブ, ム ラユ等
の音 楽 も演 奏される よ うに な っ た こ と,
そ して, 西 洋 楽 器ばか り が使わ れて い た初 期の コ メ デ ィ・
ス タン ブル の オル ケ ス とは異 な り, ル バ ナ とい うム ラユ 系の 楽 器が使 用 さ れ始めた こ とで あ る。 こ こ にお い て50
年 代の オル ケス・
ム ラユ の輪郭
が徐
々 に で は ある が浮か び上が っ て くる。第二 次コ メ デ ィ
・
ス タン ブル は, 1925
年,
テ ィ オ (T
.
D
.
Tio
Jr
)が結成
し た劇 団オ リオ ン (Orion
)に よ っ て大 きな変 化を経 験す る 。 9) バ タビア 商 業 学校
卒 業の イ ン テ リで ある テ ィ オ は 西 洋演劇
に通 じて いた た め,
自 ら が 結 成 した劇団
に そ の西 洋演劇
の手法
を大 胆に取 り入 れた。 幻想的 な背 景は現 実 的な そ れ に変わ り, 固 定さ れて い た演 目は, 専 属の脚 本 家を雇
うことで 劇 団 独 自の オ リジナ リ テ ィ のあ る演
目に変
わ っ た。 オ リ オ ンが切
り開い た こ の ス タ イル は, 翌 1926年
ペ ナ ン生
ま れ の ロ シ ア 人ペ ド ロ (A .Piedro
)に よ っ て結 成 され た劇 団 ダル ダ ネラ (Dardanella
)le) に よ り更に顕 著に な っ て く る。 ダル ダ ネ ラは結 成 当 初は映画
や西 洋 小 説か ら 演 目を選んで上 演 して い た が, ア ン ジャ ル ・ ア スマ ラ (Andjar
Asmara
)が専 属脚
本 家と して参
加 し た1930 年
か ら,
大衆
に広 く知
ら れて いる有 名な物 語よ りも劇 団 独 自の オ リ ジ ナル の物
語 を演
じ る ようにな っ た。 西 洋化指向
が強
まっ た オ リオ ン,
ダル ダネラ以降
の演 劇は一
般
的に9
) 後にオ リ オ ン は,
看 板 役 者ミ ス・
1丿プ ッ ト (Miss Riboet’
s) の名 前を付 して ミス・
リブ・
ソ ト・ オリオ ン (Miss
RiboeVs
Orion
)と呼は れ る よ うに なっ
た。10)