東 南 ア ジア研 究 20巻1号 1982年6月
生 活 環 境 と 社 会 組 織
-
南 ス ラ ウ ェ シの 一 山 村 誌
-前
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NarifumiM AEDA*
Thispaperaimstoprovideaconcisedescription ofamountain Villagesituatedinanecotonebetween the Makassarese and the Buginese,in orderto elucidateonetypeofpadi-farming communltyln SouthSula.wesi. The丘rsttllreeSectionsgiveback・ groundinfわrmation on methodology,history,and
Ⅰ は じ め に
ト1
本 報 告 は, 南 ス ラウ ェ シ の マ カ ッサ ル 族 とブ ギス族 との転 移 帯 (ecotone)に位 置す る- 山村 にお け る社会 組 織 と生 活 環 境 とを, 水 稲 耕作 に焦 点 を あて なが ら記述 す る ことを 目的 とす るol) * 京都大学東南アジア研究セ ンター;TheCenter forSoutheastAsianStudies,KyotoUniverslty 1)現地調査は1980年10月より1981年3月までイン ドネシアにおいて文部省科学研究費 (昭和55年 度海外学術調査 「熱帯島喚域における人の移動 に関わる環境形成過程の総合研究」)によ って 行われた。調査対象とな った集落には12月にチ ーム ・メンバーと短期間訪れたのち,1981年1 月より3月までの10週間単独で滞在 した。小学 校長で もあ り村の有力者で もあるR.
N.
氏宅で 生活 し,情報収集はほとんどインドネシア語で 行い,一部は R.N.氏ほかの通訳でマカ ッサル 語方言によった。注記がない限 り,本文での表 記は後者による。各戸別の世帯謝査にはすべて R・N.氏が同行 し,一部インドネシア語で筆者が 直接インタビューを したほかは,大部分土地の ことばが使われた。 114population,focusingonadaptationtoamountainl oushabitat・ The latterpartdescribesmodesof organi21ationforcultivation,andconcludeswiththe concentriccategori2;ation oflifeenvironmentand thesocialmeanlngOfthericefieldasasymbolof continuity. 最近 の 南 ス ラウ ェ シ の 研 究状 況 につ いて は, Pelras
[
1
97
8]
が各 研 究 分 野 ご との簡 単 な サ ーベ イ を行 い,1
96
7
年 以 降研 究 に従 事 し て い る研 究 者 の リス トを掲 げて い る。 その う ち外 国人 研 究者3
9
人 の 中で1
8
人 が民 族 学 者 で ,そ の また半 分 が トラジ ャ族 研 究者 で あ る。 日本 人 で は, 古 くは馬 淵 東 一 , 最 近 で は石 川 栄 吉 , 山下 晋 司 が いず れ も トラジ ャ族 の調 査 を し, 佐 久 間徹 が マ カ ッサ ル族 , 筆 者 が ブ ギ ス族 の 調査 を して い る。 しか し, トラジ ャ族 は別 と して, ブ ギス ・マ カ ッサ ル族 の農村 社 会 の モ ノ グ ラフ的記 述 は,Chabot[
1
96
7]
以 来 イ ン ドネ シア入 学 者 を も含 めて ほ とん どみ られ な い。 本 報告 で は, この ギ ャ ップ を埋 め るた め, 農 村 社会 の全 体 像 をで き るだ け簡 潔 に叙 述 したい。
記 述 内容 の取 捨 選 択 は, も ち ろん収 集 され た デ ータ に制 限 され て い るが, で き るだ け水 稲 社 会 の- 類型 を 明 らか にす る よ う意 図 した。前 田 :生活環境 と社 会組織
ト2 調 査 対 象 と な っ た パ ン テ ィ ム ル ン
(Bantimurung)は,南 ス ラウ ェ シ (Sulawesi Selatan) 州パ ン カ ジ ェ ネ ・ク プ ラ ウ ア ン
(Pangkajene-Kepulauan, 略 称パ ンケ ップ
Pangkep)県バ ロ ッチ (Balocci)郡パ ンテ ィ マ ラ(Bantimala)村 の半 分 を構成 す る。 ウジ ュ ンパ ンダ ン (UjungPandang)市 か ら西 海 岸 沿 いの 国道 を 52km ほ ど 北上 した と ころ にパ ンケ ップ県 の 県都 で あ るパ ン カ ジ ェネ (Pangkajene)の町2'が あ る。 この町 の北1km の ブ ンゴ ロ (Bungoro)とい う町 か ら東 - 7 km ほど は,道路 もよ く平 坦 部 で あ る。 そ こ か ら山 地 部 に 入 るが, 山地 部 の取 っ掛 りの 集落 シ ロロ(Siloro,下 る とい う意味) か ら山 道 を15km ほど さ らに東-行 った と ころ にパ ンテ ィマ ラ村 の村 役場 が あ る。 この村役 場 の 所在 地 がパ ンテ ィムル ン部落 で あ る。乗 合バ スの小 型 が 3台,大型 が 2台, この村 とブ ン ゴ ロな い しはパ ンカ ジェネ とを結 ぶ私営交通 機 関 と して運行 して い る。片 道約2時間 の行 程 で あ る。 パ ンテ ィマ ラ村 の東 ・北 ・南 にあ る隣接村 はボ ネ (Bone),マ ロス (Mar°s)州 と境 を接 し, 北 のバ ッル (Barru)州 境 に も近 い。 自 動車交 通 が普及 す るまで は, 山間 の小路 がボ ネ,バ ッル, マ ロス-通 じて お り, む しろ海 岸 部 との交 通 よ りは山間 部 との関係 の方 が深 か った といわれ る。 ボ ネの 邑3)で あ る山間部 の ラムル (Lamuru),チ ャムバ (Camba)な ど との歴史 的 な結 びつ き も指摘 され る。 しか し, オ ラ ンダ時代 に海岸 平 野 部 か らの 山道 が 整備 され るまで は, この地 が戦争 の落武者 の 隠 れ家 で もあ り, かつ盗 賊 な どの金銀 財宝 の 埋 め場所 が あ るとい う伝 説 な どか らみ られ る よ うに,比較 的孤 立 した集落 で あ った ことは 確 かで あ る。 2)店屋がならんだにぎやかな道筋 (街)を有 し, 比較的家屋の密集する集落。 3)くに。首長のいる集落。
ト3
南 ス ラウェシ南 部 の 主 要言 語 で あ る ブ ギス語 とマ カ ッサル語 とは, マ ロス県 とシ ソ ジ ャイ (Sinjai)県 とを結 ぶ線 によ ってわ け ら れ る。 しか し, マ ロス とシ ンジ ャイを含 め て, その隣接県 で あ るパ ンカ ジェネ とブル ク ムバ (Bulukumba)も, ブギス語 とマ カ ッサ ル語 との両 方 が用 い られ る。 この転 移帯 出身 者 は, いず れか を母 語 と しなが ら両者 を よ く す る ことで も有 名で あ る [Mattulada 1976; Mills 1975:207]。パ ンケ ップ県 の場合 ,地 名 にブ ギス語起 源 の もの とマ カ ッサル語起源 の もの とが入 りま じって い る。必 ず しもブ ギ ス語地 名の集落 にブ ギス族 が住ん で い るわ け で はな く, 中 にはブ ギス語地 名の集落 に侵攻 した マカ ッサル族 が定着 した り, その逆 の場 合 が あ る。 集落 名 に同 じよ うなの がた くさん あ るの は, 地形 ・景観 の相似 によ る偶 然以 外 に,移 住 集落 で放郷 の地 名 をその ま ま用 い る ことに もよ る。 調査対象 のパ ンテ ィムル ンと い う地 名 は, マ ロス県 にあ る同名 の村 とよ く 混 同 され るが,両 者 の問 に は歴史 的 な関係 は ない 。 パ ンテ ィムル ンで は 日常 語 と して はマ カ ッ サル方言 が使 われ るが, ブ ギス語 しか使 えな いブ ギス行 商人 が家 々を回 って も少 しも不 自 由 しな い ほど,住 民 はブ ギス語 に も堪能 で あ る。 調査対象 と してパ ンテ ィムル ンを選 ん だ 理 由の一 つ は, この よ うな マ ー ジナルな地域 にあ るた め に, ブ ギス ・マ カ ッサル文 化 の原 型 を考察 す る上 に参考 とな るデ ータを提 供 し て くれ ると考 えた か らで あ る。 選択 理 由の第 2は, こ の 地 域 は ブギス ・マ カ ッサル族以 前 の 先 住 民 の 伝 説 [Hapid 1979;Hasan 1979: 101]もあ り,集落 自体 か な り古 い とい うことで あ る。 第3
の理 由 は, 中心 とな る集 落 が コ ンパ ク トで, 戸数 か らい って も調査対 象 と して適 当で あ る とい う調査上 の都合 によ る。 115東 南 ア ジ ア研 究 20巻 1号
ⅠⅠ
立地 条件 と歴 史 的背景Ⅰ
ト1
パ ンカ ジ ェネ河 流域 の 生 態学 的景観 は 大 き く, (1)パ ンカ ジ ェネ 河 三 角州 を 中心 と し, ラグ ー ン, 砂 州 ,河川 , レグ ィ-か らな り, エ ンパ ン(empang,養 魚池 ) な い し製塩 田か ら水 田- と内陸 部 に向 か って景 観 の変 化 して い く海岸低 地 と, (2)斜 面 を 利 用 した焼 畑 ,石 灰 岩 凹地 の湿 地 稲 田,非石 灰 岩 凹地 の 水 田, ラテ ライ ト山地 斜面 の棚 田,森 林 物 採 集 をす る石 灰岩 山林 か らな る山地 部 の二 つ に 分 類 され る [高谷 1982]。パ ンテ ィムル ンは 後 者 の 山地 部 に立地 し,湿 地 稲作 を核 と して 形 成 されて きた集落 で あ るが, 住 民 は焼 畑 耕 作 ,森 林 産物 の採 集 と交 易, 鉱業 ,狩猟 に も 従 事 して きた 山地 民 で あ る。Ⅰ
ト2
南 ス ラウェ シの村 落 の 原 型 は ロ ンタ ラ (lontara)4)にあ るよ うに,(1)水 田 また は畑 の た めの広 い土地, (2)川 とな って流 れ る水 源 , (3)物 の交 換 あ るい は情 報交換 の 中心 とな る市 また は広 場 の三 つが そ ろ って いな けれ ば な ら な い とい う [AbuHamid 1981:175-176]。5) パ ンテ ィムル ンの 場合, 水 田 ・畑 お よび 水 は現在 で も豊 富 にあ るが, 村 の 中 心 (posi butta,poccitana)は昔 は現在 の 中学 分校 の 入 口あた りにあ って ブ ッブル ッ (bu'bulu')6)の木 が あ った とい うが, 現在 は 残 って いな い。 市 は約 3km はど離 れた隣部 落 マ ラカ
(Malaka)の端 にあ るチ ョレチ ョレ(Colecole)
で
5
日ご とに立 つ。パ ンテ ィムル ンの 集 落 は標 高
2
3
0m
ぐ ら4)貝葉。ZainalAbidin[1971】,Noorduyn[1965]
参照 。
5)ブギス語でそれぞれ padang lalla'na,uwae mallarinna,pasa'naである。Pasa'はインド ネシア語の pasar(育)ともpasaknegeri(広 場)とも解せ られるというtAbuHamid 1981: 176]
。
6)モラベ (katondeng,Vitex cofa∫su∫)に似た木
[Cense 1979]
。
116 いの高 み の必 ず しも平坦 で はな い丘7)に位 置 し,南 側 は石灰 岩 山地 とその崖壁 に囲 まれた 凹地,北 に は非石 灰 岩 の山地 と崖錐 が多 い。 集 落 か ら北 お よび西 2km の と ころ にはパ ン カ ジ ェネ河 に流入 す る川 が流 れて い るが,石 灰岩 山地 を伏 流 す る水路 が雨 期 には方 々 に願 わ れて網 の 目の よ うな流路 を形 成 す る。 しか し,洪水 害 にまで は至 らな い。 この よ うな湧 水 地 が豊 富 なので, この集 落 で は井戸 を掘 る 必 要 はな い。 また, 乾 期 には南 ス ラウェ シの 他 の地 域 と同 じ く非 常 に乾燥 す るが,パ ンテ ィムル ンの東南 1km の と ころ にあ るエ レタ ッラサ (EreTallasa)とい う湧 水 は, た とえ パ ンガ ジ ェネ一 帯 の井戸 の水 が澗 れて もこ こ だ け は澗 れ な い といわれ る。 パ ンテ ィムル ン の地 名 には,(1)諸 方面 か らた くさん の人 が集 ま った と ころ と, (2)た くさん の水 あ るい は洪 水 の あ った と ころ とい う二 つ の 起源 説 が あ る。Ⅰ
Ⅰ
-3
伝 承 によれ ば, この地 方 で一番 古 い統 治者 は初 代 カ ラエ ン (Karaeng)ェ レク ッラ サ8)で,13-14世紀 の こと とされ る。9) ェ レ ク ッラサ に根 拠 を置 くカ ラエ ンの 邑 は,パ ン テ ィムル ン, レア ン レア ン(Leangleang),パ ンガ (Panga),マ ニ ヤムパ (Manyampa) (図 1参 照) を もその支配下 に置 き, 海岸 部 の シ ア ンな い しは ラバ ッカ ン (Labakkang)や マ カ ッサ ル 地 方 の ゴ ワ と も交 流 が あ った とい う。 この初代 の カ ラエ ンが, この地 方 で最 初 の水 田を開 いた と言 い伝 え られ る。 7)マカ ッサル地方でいう高みの地bonto。 パ ンテ ィムル ンでは,山ではないが周囲より高いとこ ろにある平坦地をtondong,その斜面でふつう 草のはえているところを tanete,高いところに ある土地に対 して一番低いところにある土地な い しは石灰岩山地の間の凹地をalla',さらに丘 の間の凹地で沼地を含むものを allu,盆地では な く単に低いところをkabbung,草が平均 して 植わっているところをlappara,木のはえてい ない広い平地を parangと呼んでいる。前 田 :生活 環境 と社 会組織 図1 パ ンティムル ン近辺略図 8)名前不詳。墓 とされるところは現存 しているが, 死体 は埋ま っていないといわれる。遺体を木に 覚 り掛 らせて置いておいたところ,次の日には 消えて しま ったとい う伝説を もつ。カ ラエ ンは マ レー語の
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,ブギス語のma
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と同 じく 「大 きいこと」を表わす意味か ら派生 した もの で,広 くマカ ッサル族 (一部にはブギス族 も) の王族,貴族,豪族,支配者の称号として用い られている。カラエ ンは,単にた くさんある称 号の一つで,比較的広い範囲に用い られるが, 王国,地方によ って種 々の称号が必ず しも画一 的な意味ではな く使用されることはいうまで も ない。 9) この年代 は郷土史家によるものである。ガ リゴ 期【
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1982]に集落は成立 していて, ロンタ ラ期 にな って ゴワ(Gow且)王国ない しは シア ン (Siang)王国の系統の カ ラエ ンが定着 し,改めてそのカ ラエ ンの村落ない しは邑とな ったとするのが妥当な推測であろうか。1
6
世 紀 に起 こ った 事 件 でパ ンカ ジ ェネ に 関 係 の あ る 年 代 には,Antonius de Payvaが シア ンを訪 れ た の が1
5
4
4
年 , ゴ ワ ・ボ ネ戦 争 の始 ま りが1
5
6
2
年 , 商 港 と して マ カ ッサ ル が著 名 に な る の が1
6
0
0
年 ご ろ な ど が あ るl
Ha
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d1
9
7
9;Ra
c
h-mahetaZ. 1976]。そ して, 最 初 の カ ラエ ンか ら何 代 目か に, この地 方 の カ ラエ ン もイス ラー ム に改宗 す る。 エ レ ク ッ ラ サ,パ ンテ ィムル ン で は, 古老 に よれ ば1
61
7
年 と言 い伝 え ら れ て い る とい う。 カ ラエ ン ・エ レク ッラサ の系 統 が一 番 古 くか らあ る とい う こ と は衆 目の一 致 す る と ころで あ るが, カ ラエ ン を称 す る者 は上 記 の各 集 落 に も 存 在 し て い て, そ れ らカ ラエ ン間 の勢 力 関係 の変 遷 は明 らか で な い。 た だ, オ ラ ンダ が そ の 支 配 を 及 ぼ した 時 に は, す で にパ ンテ ィムル ンの カ ラエ ンが上 記 の カ ラエ ンの 中心 勢 力 とな って いた とい う。10' オ ラ ンダ の直 接 支 配 は, 他 の 地 方 同様 , 流 動 的 な土 着 の政 治 制 度 を封 建 制 的 な 固定 化 した もの に した よ うで, オ ラ ンダ が 当 時 の最 大 勢 力 だ ったパ ンテ ィムル ンの カ ラエ ンを この 邑 の代 表 と認 めた以 後 は, カ ラ 10)オランダ とのブ ンガヤ条約 は1667年11月18日を 第 1回とする。カ ラエ ンが各所に播磨 している 理由は, この地方がいろいろな方面か ら入殖 し てきた人 々か らで きた証拠であるという村人 も いる。 117東南 ア ジア研究 20巻1号 エ ン ・パ ンテ ィムル ンの地 位 は不 動 の もの と な った よ うで あ る。11) この間 , エ レタ ッラサ の集 落 はパ ンテ ィムル ンに併 合 され, カ ラエ ン ・エ レク ッラサ もパ ンテ ィムル ンに住 む よ うにな った。 オ ラ ンダ 時代 には,パ ンテ ィムル ンの ほか に, マ ラカ, ビ ラオ (Birao),ラ ンネ (Lanne) トン ドンク ラ (Tondongkura) の計五 つ の カ ムボ ン (kampong) がバ ロ ッテ郡 (Distrikt Balocci)の下 にあ って,バ ロ ッチ郡 はパ ンカ ジ ェネの controleur の支 配 を受 けた012) こ の行 政 組織 は若 干 の変 更 を加 え られ な が ら, カ ム ボ ンがデ サ (desa) とな って現在 の形 に 受 け継 が れて い く。 そ して, オ ラ ンダ が南 ス ラウ ェ シの本来 の政 治 シス テ ムを植 民地 支 配 に利 用 した遺 産 が,パ ー ソナ ルな地 方 分権 的 な土着 国家 か ら, よ り権威 主 義 的 な, 機 能 的 に分 化 した形 の行 政組 織 - の 移 行 [Suther -1and
1
9
8
0:2
41-2
42
]
で あ った よ うに, この 地 方 の政 治形 態 も国家 の行 政機 構 の 中 に組 み 込 まれ て い く。Ⅰ
ト4
独 立戦 争後 , 南 ス ラウ ェ シを席 捲 した カハ ル ・ムザ ッカ ル (Kahar M uzakkar) の 内乱 に この地 方 も1
95
6-1
95
7
年 ごろか ら巻 き 込 まれ,1
962
年 ごろ に はパ ンテ ィムル ンや周 ll)他のカラエ ンの子孫 もそれぞれカラエ ン称号を 継承 したが,オランダの行政組織の末端 として の村長 (ketuakampong)は カ ラエン ・パ ンテ ィムル ンのみで,彼だけが公式にカラエ ンと呼 ばれ得る。 12)五つのカ ンポンのうち, トンドンクラがその代 表 (連絡係)としてス レウェタ ン (sullewetang) に任命 された。なお,1
7
世紀よりマカ ッサル地 方を治めた VOC にとって,バ ロツチはラバ ッ カ ン,ブ ンゴロ,セゲリ(Segeri),マ ンダ ッレ (Mandalle)とともに Noordedistriktenの一つ であ り,1
8
5
4
年か らは Onderafdeling Pang・ kajeneの下の Adatgemenschapとなる。日本軍政時代はマカ ッサル市のパ ンカジェネ郡と呼ば れる。パ ンケ ップがマカ ッサルか ら分離 して県 として独立 したのは
1
9
5
9
年である【MasigaetaZ・1
9
7
4
]
。
118 辺 の集 落 は ほ とん ど全 部 焼 き払 わ れ て, 山 に 入 ってゲ リラに参加 す る者 , パ ンカ ジ ェネ に 逃 げ て政府 軍 の保 護 を受 け る もの と, 家 族 の 中で もバ ラバ ラにな った ケ ース も多 い。 内乱 が終 息 に近 づ き, 分 散 して いた人 々が元 の集 落 に戻 って きて 家 を建 て始 め るのが1
96
4
年 ぐ らいで, 現在 建 って い る8
0
数 戸 の家 の多 くは1
96
7
年以 後 に建 て られた もの か, そ れ を改築 した もの で あ る。1
965
年1
2
月 に新 体 制 村 (Desa Gaya Baru) と して, それ まで独 立 して いたパ ンテ ィムル ンとマ ラカ とを併 合 してパ ンテ ィマ ラ村 がで きた。1
975
年 に は さ らに, この村 と トン ドン ク ラ村 とを合 併 して トン ドンタ ッラサ ( Ton-dong Tallasa)村 が で きた. しか し, これ は ま もな くして1
9
7
9
年 に は再 び元 のパ ンテ ィマ ラ村 と トン ドンク ラ村 とに分 離 して現 在 に至 って い る。 ⅠⅠⅠ 人 口Ⅰ
Ⅰ
ト1
南 ス ラ ウ ェ シ州 の 州 域 は85,
08
8.
72
km2,人 口は5
,
72
2
,
5
01
人 で,2
3
の県 お よび市 域 にわ か れ,1
6
9
の郡 (kecamatan),そ して そ の下 に1
,1
7
0
の村 を含 む。 パ ンケ ップ県 は, そ の 中で も小 さい方 に属 し,面 積88
9.
7
4
km2, 人 口2
06,
32
2
人 (州 人 口の3.
6
%)
で,9
郡 か らな り, そ の下 に7
0
の村 , さ らに部 落 が2
6
5
あ る。 パ ンケ ップ県 の1
1
4
か らな る島峡 部 は 三 つ の郡 にわ か れ,面 積1
1
8.
85
km2,海岸 平 野 ・内陸部 はパ ンカ ジ ェネ, ブ ンゴ ロ, ラバ ッカ ン, マ ッラ ン (Ma'rang), セゲ リ ・マ ン ダ ッ レ, バ ロ ッテ の6
郡 にわ かれ, 面 積 は7
7
0.
89
km2 で あ る tKantor Sensus1
9
7
9;
Masiga〟α
/
.
1974]。 バ ロ ッチ郡 はパ ンケ ップ県 の長束 南 端 の 山 地 部 に位 置 し,七 つ の村 か らな るが,便 宜 上, 南バ ロ ッチ と北 バ ロ ッチ とにわ け られ る。 南 バ ロ ッチ 4村 は郡 都 の周 辺 にあ り, パ ンカ ジ前 田 :生活環境 と社会 組織
40 30 20 10 0 0 10 20 30
number of persons Note Shaded parts lndlCate tenPOTarHy absentpersons
図2 パ ンテ ィムル ン人 口構成 ェネ南 の トナ サ (Tonasa)か ら束 行 した と こ ろ に あ る。 郡 長 (camat)が北 バ ロ ッチの 3村 を訪 問 す る時 に は, い った ん パ ンカ ジ ェ ネ に 出 て 改 めて ブ ンゴ ロか ら東 行 す る。 郡 の面 積 は郡 役 所 に よ る と 60,000haとい い, 人 口 は 19,458人 (男 9,579, 女 9,879) で 世 帯 主 数 3,527(平 均 1世 帯5.52人 ) で あ る。 ⅠⅠト2 パ ンテ ィマ ラ村 の面 積 は 92km2 で人 口 は1,921人 (男947, 女974) (表 1参 照) で あ る。13) オ ラ ンダ 時代 に はマ ラカ とパ ンテ ィ ム ル ンの二 つ の 邑 にわ か れ て, それ ぞ れ カ ラ エ ン が い た の で, 現 在 で も カ ム ボ ン ・マ ラ カ, カ ム ボ ン ・パ ンテ ィムル ンと通 称 され る が, 正 式 に は こ の カ ム ボ ン が な くな って, RK が村 の下 部行 政 単 位 で あ る。RK ご との 人 口 は表 1の通 りで あ る。 各 RK は さ らに 2- 3の RT (RukunTetangga)にわ け られ る。 パ ンテ ィム ル ンの 中心 で あ る RK IIIの 三 つ の RT の人 口 は表2にみ られ る。本 調査 で 世 帯 イ ンタ ビ ュー を行 な った の は, これ ら 13)この数字は村役場で1980年11月現在ルクン ・カ ムプ ン (RukunKampung,RK と略称) の報 告を積算 した ものである。1980年10月に実施 さ れた全国セ ンサスでは,その時点で村に不在の 者を含めていないので,人 口1,768(男849,女 919)とな っている。 行 政 区分 と は一 致 し な いパ ンテ ィムル ン の核 集 落77戸 , 人 口 544人 (図2,3
参照)
と東 側 の水 田 を隔 て た と ころ に散 在 す る テ ィフ ア (Tihua)の 5戸 , 人 口18人 で あ る。 強 いて いえ ば, RT VI と RT VII と に ほ ぼ 対 応 す る が, 他 の RT の境 界 近 くに住 ん で い る世 帯 を含 ん で い な い。14) パ ンテ ィマ ラ村 に は, 小 学校 と してバ ンテ 表 1 パ ンテ ィマ ラ村人 口 (1980年11月現在) 計 【 集 落 513 Malaka Banti -murung RK III RK IV Malaka, Lompo'Ulu 224Fero,colecole 386i381r 767 、l
: 弓Paralombasa, ㌻EreTallasa 、心".Ill-IllIl
:I' l 計 r947芦974;1,921 注 KantorDesa・Bantimalaによる蓑 2 パ ンティマラ村 RK IIIの RT別人 口 (1980年11月現在)
宣
/{
・・
‖! 一.I :I::I, -RT VI RT VII RTVI
I
I 二二 二二 二 :二I -1101 216EParalombasa 一計 1386i3811 767L注 KantorDesaBantimalaによる
14)RT VIと RT VIIとの村役場での人 口は 551 人。筆者のイ ンタビューによる調査人 口は,一 時不在者あるいは不定期在村者を除 くと 523人 で,それ らを含めると562人である(表 3参照)0
東 南 ア ジア研究 20巻1号
Q StorehouseforfertlllZer f.BKtA k.KindergQrden b・VIHQgeOffice g.C3inic lLibrQry c.Officiclthouseofv=ogehe(コd h.Rice-mHl m Primaryschoo一 d Cooperqtivestorehouse i・ Lovver-secondoryschool n・WQIchhouseoffish-pond e Bc)lcliKQmPOng j. Resthouse o Mosque
図3 パ ンティムル ン集落略図 表
3
年齢別パ ンティムル ン (含ティフア)人 口 年 齢 F 男 L 女 l 計 ィムル ン (6年 制), マ ラカ(6年 制 ), パ ラッ ル ア ラ ッ(Para' -Iuara')(3年 制 )の3 校 が あ り,パ ンテ ィ ムル ンには中学校 分 校 が1
校 あ る。 す で に小 学校 就 学 前 か ら 水 汲 み な どの家事 手 伝 い,牛 ・水 牛 の放 牧 管 理 , 田仕 事 の補 助 な ど にそ の労 働 力 が期 待 され て い るの で, 就学 が 2∼ 3年 遅 れ た り, 3年 生 な い し5年 生 を終 えて 退 学 した りす る例 も 多 い. 一般 に, 農 繁 期 に は欠 席 児 童 が非 常 に増 加 す る。15'反 面, 中等 教 育 ,高 等 教 育 へ の志 向 も強 く,高 校 (パ ンカ ジ ェネ,ウ ジ ュ ンパ ンダ ン),大 学 (ウ ジ ュ ンパ ンダ ン) に もか な り入 学 して い るが, これ ら高校 生 , 大 学 生 は もはや 日常 的 な労 働 力 と して は期待 され な い。 表3で ( ) 内数 と して示 した数 字 に は, その よ うな他 地 で の 就 学 生 徒 ・学 生 と, 独 自でパ ンカ ジ ェネな ど の比較 的近 くで就 労 し,定 期 的 に過 ご とあ る い は月 ご と に帰 って くる者 とを含 む。16) 21 (1) 出生 地 別 に人 口を み る と, 約8
6
% がバ ンテ 23 6 14 6 5 1 ll 2 5 計 l228(19) i295(20
)
l523(39) 注 ( ) 内の数字は一時的不在者
数
120 ィムル ン生 まれで,4%
が そ の他 の村 内 の集 港 ,同 じ く4%
が周 辺 山地 部,1
・
5
%
がパ ンケ ップ の海 岸 部 生 まれ で あ る。 残 りは, ウ ジ ュ ンパ ンダ ンお よび 島峡 部生 まれ(
0.
7
%)
と不 明 (2.3%)を除 くと, ボ ネ, マ マサ (Ma -masa),タ トール (Tator),ポ ル マ ス(Polmas), タ カ ラ-ル (Takalar)か ら単 身 また は家 族 達 15)1979年以前には農繁期に休 日が設定できた。 16)45-49齢 グループの 1ケース はバ ロツチ に居住前 田 :生活環境 と社会組織 れ で公 務 の た め村 に滞 在 して い る人 た ちで あ る。 一 方 , 出稼 ぎ経 験 の あ る在 村 者 はわ ず か に 男
8
人 を数 え るの み で あ る。 ラバ ッカ ン(8
年 滞 在 ), パ ンカ ジ ェネ(5年 と数 年 ) な どの 近 接 地 の はか に, マ ッピ リ(Mappili,7年 ), カ リマ ンタ ン (Kalimantan,1
年 ,4
年 ), イ リア ンジ ャヤ (IrianJaya, 3年 ), ア ムボ ン (Ambon,3カ月 ) に 出稼 ぎ に 行 って い る。 これ らの ほ とん どの場 合 , 行 く先 に親 族 な い しは同村 者 , 知 人 が い る。 農 業 , 商売 の 手 伝 い,林 業 な い し は 石 油 工 業 の労 働 に従 事 して い る。 出稼 ぎ に行 った き り帰 村 しな い 者 もあ るが, 実 数 は不 明 と しか い い よ うが な い。17)た だ, 上 掲 の表 で 内数 と して示 され た 一 時不 在 者 , と くに高等 教 育 を受 けた者 は, そ の ま ま村 との関係 を薄 く して完 全 な 出稼 ぎ 離 村 者 とな る可 能 性 が大 きい。 ⅠⅠト3 村 内姫 は規 範 と して はな いが ,イ トコ 姫 は選 好 され る。 南 ス ラウ ェ シの 中で も, 也 域 ・階 層 に よ って は第 1イ トコ婿 が好 まれ る 場 合 もあ るが,パ ンテ ィムル ンで はむ しろ第 1イ トコ姫 は忌 避 (pemmali)され, 第 2イ トコ姫 が好 まれ る とい う。 パ ンテ ィムル ンの8
4
組 の夫 婦18)とふ た りの第2
妻 と につ いて現 在 の夫 婦 関係 の み をみ て み る と, 第 1イ トコ 婚6
, 第1
イ トコの娘 また は親 の第1
イ トコ との婚 姻4
, 第2
イ トコ婚2
4
, 第2
イ トコの 娘 また は親 の 第 2イ トコ と の 婚 姻 6を 数 え る。 第2
イ トコ姫 は全 体 の2
8
%
を しめ頻 度 が 最 も多 いが, 第 1イ トコ姫 , 異 世 代 間 の近 親1
7
)
出稼 ぎ経験者が少ないのに対 し,親族の中で出 稼 ぎ中のものが多いのは,人 が 還 流 せ ず に放 出の傾向にあるせいか。なお,集落ごとにみる と,例えば水田の少ないパ ラッルアラッでは出 稼 ぎが多い。水 田を売 って出るケースもある。 単身出稼 ぎの中には教育の ドロップ ・アウ ト者 が多いことを学校の先生は指摘する。 18)診療所の看護婦と女教員とのふた りを除 く。 表4
婚姻 ・離婚 ・再婚 (rojo)の件数 (パ ンティマラ村) 年 度 19
75 19
7
6
1
9
7
7
婚 姻 1 離婚f
rojo 2;
1
計 r 143 r 8F
0 姫 もみ られ る。 そ の ほか, 第3イ トコ, 第4 イ トコ との婚 姻以 外 で, 遠 縁 の親 族 との婚 姻 は9
ケ ース, ま った くの他 人 は3ケ ース にす ぎな い。 イ 下コ姫 は血 の純 粋 を保 持 す る も の と し て, 同 じ身分 の者 と結 婚 す るた め の階 級 内姫 の一 手 段 と も解 し得 る (後 述 Ⅴ-2参 照 )。 そ の た め,集 落 ご との地 理 的 な孤 立度19'が高 い に もか か わ らず, 通 婚 圏 が 1集 落 に集 中せ ず か な りの拡 が りを みせ る。 生 別 離 婚 は村 役 場 で の統 計 に よ る と必 ず し も多 くな い (表4)。 パ ンテ ィムル ン の婚 姻 経 験 者 全 員 の解 消 され た婚 姻 につ いて 離別 と 死 別 とを比 較 して み る と,43ケ ース対2
5
ケ ー ス で あ る。 これ か らみ る と, 近 親 婚 が多 いが 故 に生 別 離 婚 が極 端 に少 な い と は考 え られ な い (前 田[
1
9
7
3
]
参照 )。 ⅠⅠト4 村 の人 口の動 態 につ いて は資 料 が少 な い。
1
9
7
5
年 の村 役 場 の統 計 で は男8
9
6
人 ,女9
2
8
人 , 計1
,
82
4
人 で あ る。20)表1
に掲 げ た1
9
8
0
年 の人 口1
,
9
2
1
人 と比 べ て9
7
人 の増 加 で あ る。 小 学校 の児 童 数 は1
9
6
5
年 よ り毎 年 記 録 が残 さ れ て いて,1
9
6
5
年2
0
7
人 で あ った の が1
9
8
0
年 19)例えば,パ ンティムル ンと隣部落マラカは2-3 km しか離れていないが,話 し方です ぐに分別 されるという。 20)1971年のセ ンサスの資料は村役場では手に入 ら なか った。東 南 ア ジア 研 究 20巻1号 には
5
05
人 と増加 して い るの は明 らかで あ る が,就学率 が不 明で あ るので人 口推定 にはあ ま り役 に立 た な い。 あ る老 齢者 の記 憶 によ ると,1
911
年 には7
戸 がパ ンテ ィムル ンにあ り,1
戸 には5- 6
組 の夫婦 が住 んで いた とい う。他 の イ ンフ ォ ーマ ン トによ ると,6
0-8
0
年 前 には9
戸 あ っ て, それぞれ家 に名前 がつ いて お り,一香大 きい家 で7夫婦住 ん で いた とい う。 同 じイ ン フォーマ ン トは,1
900
年前後 に は カ ラエ ン ・エ レク ッラサの家, カ ラエ ン ・パ ンテ ィム ル ンの家, その イ トコの家 の3軒 しかなか っ た とい う。 その ころの家 (bola) は現在 の長 方形 の窓 で はな く,丸形 窓で家 の 中 は暗 く, 多 くの部屋 (bili') にわかれて,大 家族 が共 住 して いた。21) この よ うな家 は1
94
0
年代 には2
0
戸 に増 え, その後 も徐 々に増加 して い った とい う。
2
2
)それで も1
95
0
年代 まで は現在 のパ ンテ ィムル ンの集落 (図3) の南半分側 にの み家 が あ り,北半分 は森林 で あ った とい う。 既述 した よ うに,1
95
0
年代 の後半 か ら6
0
年代 初 め にか けて 内乱 のた め に 家 々 が 焼 き払 わ れ, その後 に建 った家 は最初 は小屋 の よ うな 家 で あ った が,1
96
4-1
965
年以 降現在建 って い るよ うな が っち り した,しか し,往 時 の家 よ りはず っと小 さい形 の家 が建 ち始 めた わ けで あ る。現在2夫婦 が 同居 して い るの は,外来 の一 時定住者 を除 いた8
0
戸 の うち, わず か に1
3
戸 を数 え るにす ぎな い。残 りは1
夫婦 を中 心 とす る世帯 で あ る。2
1
)1
9
世紀半ばにボネのチェンラナ(Cenrana)河か らテムペ (Tempe)湖周辺の ブギス族を訪れた Brookeも 「各家には1
5
人」 [Mundy1
8
4
8
Ⅰ:9
3
,9
6
】住んでいたと報告 している。 22)これらの家の数はパ ンティムル ンの中心となる 核地域にある家のことで,これ らの家に属 しな がら出小屋(bolabola)で生活 していた者がいた と推測される。1
2
2
Ⅰ
Ⅴ
水 田 ・畑 ・森 林 ⅠⅤ-1 この地方で は11月 ごろか ら雨 が降 り出 し,1
2
,1
,2
月 と毎月3
00mm
以上 の雨 が 降 る。 と くに1月 は連 日の よ うに 1日中雨 が 降 り続 くことが あ る。3,4月 と雨 量 が若干 減 って,5
月 ごろ にまた雨 が多 くな る。6
/-8
月 か ら1
0
月 は乾期 とな り,全 体 的 に水 不足 とな り,非常 に暑 く過 ご しに くい季 節 で もあ る。 水稲 作 りは1
2
月 か ら始 め,最終 的 な米 の収 穫 は6月 であ る。現在 は多 くは 3カ月米 (Ⅰ Ⅴ-2-Ⅴ) で,昔 は 5カ月 米 で あ ったが,植付始 期 はほぼ同 じで あ った。 陸稲 は同様 に1
2
月 に 種 蒔 きをす るが, トウモ ロコシと混作 して1
0
月 に種 蒔 きをす る こと もあ る。 トウモ ロコシ は7
月 か ら1
0
月 と,1
0
月 か ら1
月 の2
期 があ る。 キ ャ ッサバ ,バ ナナ は 大 体1
1
月 に 植 え る。 これ らの作 物 は古 くか ら栽 培 されて い る もので あ る。 ダ イズ は1
94
0
年 ごろ にオ ラ ンダ が導入 した ことが あ るが普及せ ず, や っと1
96
6
年 ごろか ら商 品作 物 と して広 く作 られ る よ う に な っ た。畑地 で作 るの は, 2,3月 播種,5,6月 収穫 で あ る。次 に,収 穫 さ れ た も の を種 に して,水 の得 られ る水 田で裏作 を行 う。食用 と して一部 を 自家消費 しだ したの もど く最近 で あ る。 その ほか, イモ類, ラ ッカ セィ, リ ョク トウ も植 え る。 屋敷地 の畑 で は畝立て を して ササゲ, ナス ビ,バ ナナ,パパ イヤ, カ ンキツ類, トウガ ラシ, ココヤ シ, コ- ヒ-な どを植 え るOパ ンテ ィムル ンの集落 内で は キ ャ ッサバ を ほ とん ど植 えて いな いが, 周辺 の集落 の屋敷地 にはキ ャ ッサバ が多 い。屋敷 地,水 田区画,畑 には家畜, 野獣 の侵入 を防 ぐた め に必 ず垣根 が設 け られ る。 乾期 には藤 や木材 の伐採 に従事 した り, ア レン糖 の製造 に精 を出 した りす るのが昔 のパ タ ー ンで あ るが,畑 ・水 田の整備 がすす み,前 田 :生活 環境 と社 会組織 全 体 に人 手 不 足 とな って きた 現 在 で は, 少 な
くと も中心 の 集 落 で は これ らに ほ とん ど 目 を 向 け な くな って きて い る。
ⅠⅤ-2-i 南 ス ラ ウ ェ シ 全 体 の 水 田 面 積 は
597,752ha[Kantor Sensus 1979]で, パ ン ケ ップ県 は約 21,000haの み で 比 較 的水 田の 少 な い県 に属 す る。23)パ ンケ ップ県 の 中 で も 山地 部 を しめ るバ ロ ッチ郡 は海 岸 部 に比 べ て 小 規 模 の水 田団地 (lompoつ が 点 々 とあ るだ けで,水 田面 積 はわ ず か に 1,750haといわ れ る。24)パ ンテ ィマ ラ村 で は登 記 され て い る水 田が 298haで , そ の うち, か ん が い水 田 は 150haで あ る。25)登 記 して いな い もの も含 め た面 積 は村 長 (kepaladesa)に よ る と400ha
以 上 で あ る。 この うち旧パ ンテ ィム ル ン部 落 に属 す るの は約 2901la,旧 マ ラカ部 落 に属 す る もの 113haで あ る。 ⅠⅤ-2-ii 水 田 の 一 区画 を ロム ポ ッ と い い, 人 の 名 前 , 地 理 的特 徴 , 土 地 名 な どを そ の あ と につ けて 呼 ぶ。 い わ ば水 田団地 の よ うな も の で, オ ラ ンダ の地 租徴 収 の単 位 で もあ る。 多 くはあ る時 期 に一 度 に開 田 され た. ロ ム ポ ッの な か で各 水 田 ご と にガ ル ン(galung)云 々 とい う 名 前 が つ け られ る こ と も多 い。 土 地 台 帳 (Buku Rinci')26)上 で は 旧 パ ンテ ィム ル ン部 落 の 登 記 され た 土 地 区画 は86を数 え, 23),LETj<庁の1980年の統計。ただ し,統計局の数では 1978年の水 田面積 は22,495haである[Kantor Sensus1979]。 このうちかんがいの水が得 られ るのは 5,000ha,そのうち裏作を行な っている もの3,500haである。現在クボタボ(Tabotabo)
にかんがい 施設を 工事中で, これが 完成する と,かんがい面積 は8,000-ll,0()Ohaになる。 また,新たに2,000haの開田を予定 している。 24)バ ロツチ郡役所の1980年1月10日現在の統計に よる。 25)パ ンテ ィマ ラ村役場の1980年の統計である。 26)Rinci'の語源については明 らかでないが,オ ラ ンダ時代に測量された土地台帳。現在政府は再 測量 して土地証書を発行 しつつあるが,調査対 象村にまでは及んでいない。 そ の ほ とん ど に ロム ポ ッ云 々 とい う名 が記 載 され て い る。27)村 人 は土地 台 帳 上 の 名 を そ の ま ま使 う こ と もあ るが, 同 じ区画 で も開 田時 期 の違 い, 水 懸 りの違 いな どを も とに さ らに 細 分 して 呼 ん だ り, 別 の 通 称 を 用 い る場 合 もあ る。 土 地 台 帳 に 対 応 して, 個 人 に与 え られ る証 明書 は sure'kebo (自書 ), 譲 渡 抵 当 され た 場 合 に は sure'gau'(青 書 ) といわ れ る。 これ らの書 類 と実 情 とを考 慮 して , 村 役 人 , 有 力 者 が人 頭 税 (Pareja,17才 以 上 有 収 入 者 あ た り2月00Rp)と地 方 開発 税(Ipeda, 1haあ た り2,000Rp)の額 を毎 年 査 定 す る。 パ ンテ ィム ル ンで は, 一 時 的 に外 か ら来 て い る居 住 者 を除 くと, 水 田 を所 有 して い な い の はわず か に
4
戸 (全 数7
8
戸 ) で あ る。 非常 に荒 っぽ い計 算 で あ るが,1
戸 平 均9
筆 所 有 して い る。28) ⅠⅤ-2-iii バ ロ ッチ郡 長 に よれ ば,この10- 15 年 間 に約600haの新 田が 開 か れ た とい う。パ ンテ ィマ ラ村 長 は同村 で の新 田増 加 を年 約3
ha と推 定 す る。 そ の ほ とん ど は マ ラカ地 域 の 棚 田 を 中心 と した もの で, 最 近 のパ ンテ ィ ム ル ンで は ほ とん ど新 田の 増 加 が な い とい う (Ⅴト2)。29)パ ンテ ィム ル ンで 棚 田の拡 張 に熟27)Salinan boekoerintjik Kampoeng Bantimoe -roeng nob 165,Adatgemeinschaft BalottJl,
OnderafdeelingPangkajene,AfdeelingMakas -sar. 1930年 代 に写された もの。 この村でいわ ゆるsima(徴税)が導入 されたのは1900年前 後であるとの古老の話である。ロムポ ッ名,区 画番号,シ リーズ番号,所有者名,筆数,譲渡の有 無,各所有者 ごとの面積が記載 されている。ボ ネの土地制度について Samin♂/α/.[n.d.】,マ カ ッサルについて Mangarandang[1978]など 参照。 28)平均水田所有面積 はボネ県で 0.9ha,ブルクム バ県で 0.7ha,シンジャイ県で 0.5haという (1981年末のOperasiLappoAseとい う食糧増 産運動に関 しての 農 業 副 大 臣 の発言の新聞報 道 による)。マカ ッサル の ボ ン トラムバ ( Bon-toramba)では平均水 田所有面積0.54ha (1949 年) と報告 されている [Chabot 1950‥41]。 29)トン ドンクラ村では年5haぐらいの新 田拡張が 行われているという (同村長による)。
東南 ア ジア研究 20巻1号
口 hutorhouse
巨
∃
dryfjeld庄司
wetrice-field 団 newlyreclaimedrice-field 図
4
ティフアの水田と畑 心 で はな いの は,水 田 に転化 し得 る比較 的平 坦 な畑 が まだ豊 富 にあ るか らだ とい う。 石 灰 岩 山の凹地 に水 田の多 くが かた ま って い る こ と も, その理 由の一 つで あ ろ うC イ ンタ ビュ ーの結果 で は,1
9
7
0
年代 に1
6
世帯 が4
7
筆 の水 田を造 成 して い る。30) 新 しい水 田の開 き方 を村人 は次 の よ うに説 明す る。 まず移 動畑 か ら常畑 にな る と, 相 続 な どで分配 す るた め に境 界 と して 畦 を作 る。 す る と,場 所 によ って は湛水 状 態 にな る。 陸 稲 と して作 って い る稲 は水 を好 まな いので, 水 稲 を植 え ることにな る。 それ か ら本格 的 な 水 田 と して維持 されて い く。 実 際 に は,水 田田地 の周辺 部 を徐 々 に水 田 (ana'galung) 化 して い くこと もあ る。 この 場合 もテ ィフアの例 (図4)
の よ うに水 田 と 常 畑 とが隣接 して いて, 畑 か ら水 田- とい う 30)本インタビューでは時間的制約 もあ って所有筆 数による聞取 りしか行わなか った。 124 パ タ ー ンがた ど られ る。 同様 に家 の裏 な どの 水 田 も,元 は畑 で あ った とい う例 は多 い。 ま た,昔水 田 と して使 わ れて いた と ころで,水 懸 りが うま くい か な いので 放 置 さ れ て い た り,31)あ るい は所有者 が 内乱 期 に行 方不 明 と な り,他 人 が畑 と して使 って い るよ うな とこ ろ もあ る。 ロム ポ ッダ ムパ ン(Lompo'Dampang)は, パ ンテ ィムル ンの集 落 のす ぐ南 西 に広 が る約1
3ha
の水 田団地 の 中で も最 も古 い水 田 とさ れ て い るカ ラエ ンの水 田で あ った と ころで あ る。 この ロムポ ッの南 1km にあ る ロムポ ッ ソデ (Lompo'Sode)の場合 は,1
9
4
3
年 に当 時 の カ ラエ ン ・パ ンテ ィムル ンが村 民 を動員 して ソデ 川 の東岸 に2ha
の 土地 を 開 い た (bakka)。 周囲 は切 り立 った 石 灰 岩 の 岩 山 で あ る。最 初 は陸稲 と トウモ ロコ シが主 と して 植 え られ て いた。畦 も設 け られて いた とい う。 水 稲 を植 え 出 したの は1
9
4
7
年∼1
9
4
9
年 ごろか らで あ る とい う。 ソデ 川 の水 源 は さ らに 1 km 弱南 に行 った ところの湧水 で あ る。 湧水 わ きに はパ レッベア ン (Pare'beang) と呼 ば れ る畑 が あ るが, ここに は湧水 か ら水 はひか れて いな い。 ロムポ ッソデ と ロムポ ッダ ムパ ンの間 に, ガ ル ンバ ッボ ラア ン(GalungPa'bolaang)が あ る。 ここも切 り立 った石 灰岩 の 山 の壁 に囲 まれた と ころで, ソデ川 の西 側 はア レ ンの古 い木 が な らぶ畑 で あ り, 東側 は3
筆 は どの水 田で あ る。 昔 こ こに集落 が あ った といわれ る よ うに, 開拓 は古 く,1
92
0
年 ごろ畑 と して 開 かれ た の だ と もいわ れ る。 もと もとはカ ラエ ン ・パ ンテ ィムル ンが カ ラエ ン ・エ レク ッラ サ に与 えた土 地 で あ る。 内乱後 放 置 されて叢 林 にな って いた が,1
9
7
5
年 に政府 の補 助 で セ メ ン ト製 の堰 が作 られて か ら, 不完 全 で はあ るが一 応川 の東 側 に水 が来 るよ うにな った。 31)Ku'lang(休耕田), または kombang(叢林に なった休耕田)0前 田 :生活環境 と社 会組織 そ れ を利 用 して, カ ラエ ン ・エ レク ッラサの 息子 の ひ と りが1977年 に水 稲 を試 み, 最 初 の 年 は失 敗 した が, そ れ以 後 何 とか続 けて作 っ て い る。 この場 合 は 自分 の家 族 だ けの労 働 力 で水 田化 し,最 初 の年 か ら水 稲 で あ る。 土 地 台 帳 にあ る水 田 は現 在 も水 田 と して利 用 され て お り, 畑 と して登 録 されて い る土 地
も
, 集 落 にな った の を除 いて,水 田化 して い る。 しか し,土 地 台 帳作 成 時 よ り も もっ と古 い とい う水 田, 例 え ば ロムポ ッエ レク ッラサ の一 部 が必 ず しも登 記 され て いな い。 土 地 台 帳 と現 在 の水 田 団 地 と の 対 月乳 聞 取 り か ら,水 田拡 張 に は(1)内乱 終 息 後焼 畑 禁 止 が厳 し くな った1970年 代,(2)日本 軍 占領 期 とその 直 後,(3)1920-1930年代 以 降 の陸稲 か ら水 稲 卓 越 の時 期(
Ⅰ
Ⅴ-3-
i
i
参照 ) の3
時期 が あ っ た こ とが推 定 され る。32)Ⅰ
Ⅴ-2-
i
v
比 較 的潤 沢 に水 が あ る と は い え, 雨 期 には稲 宙 が流 され た り水 没 した り しな い よ うに, 乾 期 に は飲 料水 を確 保 す る こと に腐 心 す る。 パ ンテ ィムル ン集 落 に は ロム ポ ッダ ムパ ンの東 の ロム ポ ッカ レ- (Lompo'Ka -reha)の奥 の水 源 か ら鉄 パ イプ の導 水 管 が ひ か れて い る。 これ は 日本 軍 政 時代 に この部 落 に住 ん だ 日本 人 が作 った もの で あ る とい う。 昔 か らの導 水 樋 と して は竹 また は ア レ ンヤ シ の幹 を使 った サ ル ッ (salu')が あ り, 谷 水 を 流 した り, か ん が い水 を離 れ た と ころ に送 る た め に用 い られ る。 水 田 よ り高 位 の と ころで 自然 流水 を塞 き止 めて水 が入 って くるよ うに し, あ とは田越 し で水 位 を調 節 す る工 夫 は, 水 田 を作 る前 に ま ず 農 民 が考 え る ことで あ る とい う。 現 在 そ の よ うな古 い堰 は 政 府 の 補 助 で セメ ン ト製 の もの にか わ り, かん が い水 路 も整備 され つ つ 32)現在90歳 といわれるティプア に住 む 老人 は, 父親が水田をもっていない時に生 ま れ た の で Pa'dare(畑作人) と名づけ られ, その弟は父 が水田を作 ってか ら生まれたのでPamali(mali は galung水田と同 じ) とな ったという。 あ る。 この堰 の維 持 管 理 は, 改修 な どの費 用 の捻 出 な どを も含 めて村 長 の責任 と され, 村 民相 互 の問 に維 持 組織 はな い。 昔 はカ ラエ ン な い しは開 田者 が, 強制 労 働 また は共 同作 業 で して いた といわ れ る。Ⅰ
Ⅴ-2-
Ⅴ
稲 の品種 は農 業 普及 員 の推 定 に よ る と,1981年 作 付 で はブ ラ ンタス (Berantas), チ タル ン(Citarung),I
R42
な どの新 品種 が75 % に及 ん で い る とい う。33) も っ と もこれ に は 1960年 代 のI
R
5の系 統 の プ リタ (Pelita)な ど も含 まれ て い る。伝 統種 とい って も,パ ダ ッ エ ロ(Pada'ero,7カ月稲 ,採水 に耐 え 2m近 くに もな る。収 量 が よい といわ れ る)は1975年 ごろ に こ こに入 って きて, ダ イズ の裏 作 がで きな い と ころだ け に植 え られ て お り, シ ンタ (Sinta),ガ デ ィス (Gadis)とい うの も1950年 代 か ら栽 培 され るよ うにな った。結 局 , この 地 方 で の昔 か らの 品種 は ラパ ン(Lapang,あ るい は Siga),バ ッカ(Bakka),パ ンダ (Ban-da)の梗 米 と各 種 の精 米 で あ ろ うか。 作 期 の 長 い伝 統 種 と短 い新 品種 とを 同 じ水 田団地 に植 え る と, 熟 期 の違 いが 出て ね ず み 害 が多 くな るの で, 新 品種 導 入 の場 合 は農業 普及 員 の指 導 で村 と して 試 験 的 に行 う水 田団 地 を協 議 して決 定 し,全 員 が そ れ に 従 うよ うにす る。34)1981年 に はパ ンテ ィムル ン集 落 の南 の水 田団地 にブ ラ ンタ ス が作 られ た。 こ れ は この 団地 が最 も水 懸 りが よいの で, 早 く 収 穫 して裏 作 を行 お うとい う こ と と, この団 地 の 田植 え時期 が一 番遅 い とい う こ と [高谷 33)パ ンケ ップ県での農業普及局の県内における雨 期作率
7
5
%,乾期作率100% という数字 と一致 する。 34)新品種導入に際 しての問題は,水 と労働力不足 と収穫後の処理 (新品種の場合 も穂摘み)であ る。肥料は60% ぐらいが使 っているという。水 田が石灰岩凹地に分散 していて各水田団地間の 通行が困難であるという立地条件か らい って, 個人による機械化は難 しい。病虫害はあま り問 題 とはなっていないが,噴霧器3台が購入され ている。 125東 南 ア ジア研 究 20巻1号 蓑 5 世帯員数別稲収穫量 計 計 】 3tlOl16】16I 7回 4121 113177 1982]と関 係 が あ る。 ⅠⅤ-2-vi水 稲 の2期 作 は行 わ れ て い な い。現 在 裏 作 (pabu'bulang)にダ イ ズ が 急 速 に普 及 して い る。 ロム ポ ッダ ムパ ン付 近 とパ ラ ッル ア ラ ッの一 部 の か ん が い水 の豊 富 な と ころ で 行 わ れ , 棚 田 で は植 え付 け られ て い な い。35) ダ ムパ ンで はダ イ ズ の あ と に トウモ ロ コ シが 植 え られ る。 ダ イズ が 普 及 す る前 に は ゴ マ を植 え て い た とい う。 トウモ ロ コ シな ど は昔 は畑 の み で 栽 培 して い た が ,1950年 以 降 焼 畑 が 禁 止 され て 畑 の絶 対 量 が少 な くな る につ れ , 水 田 で も水 稲 の 田植 え 前 に収 穫 す る形 で導 入 され た とい う 。 ⅠⅤ-2-vii 世 帯 別 聞 取 りに よ る1980年 度 の 米 の 収 穫 量 を総 計 す る と,10,313束 (パ ッセ, basse')とな る。不 明 を 除 い た 調 査 戸 数77で 割 る と1世 帯 あ た り約 134束 で あ る。 この地 方 で の 1パ ッセ あ た り籾 米 7-101it.36)の 換 算 35)隣部落のマ ラカではダイズに通 した耕地がない ので,パ ンテ ィムル ンの耕地を借 りて植え付け ている。 36)同 じ1パ ッセで もパ ラ ッルア ラッは 71it.,ダム パ ン(Damp礼ng)で は101it・と場所 によ って異 なる。 126 率 を適 用 す る と約 1,1401it., 即 ち 約760kgとな る (表 5)。 1日1 世 帯 1-31it.の米 を 消 費 す る と い うが , これ は トウモ ロ コ シ, キ ャ ッサバ な どの 代 用 食 もあ り,
1
年 中毎 日3度 米 を食 べ るわ け で はな い か ら, 自家 消 費 量 以 上 の米 を 産 出 して い る こ と にな る。37) 米 の平 均 収 量 は,R.
N.
氏 の 評 価 に よ る と, 比 較 的 収 量 の よ い ロ ム ポ ッダ ム パ ン で1ha
あ た り 220パ ッセ取 れ る とい う。 籾 米 約 1.5tonで あ る。農 業 普 及 員 に よ る と,伝 統 種 で 籾 に して 約 2-4ton, 新 品 種 (チ タ ル ン) で は 8tonぐ らい に達 す る と い う。 ダ イ ズ を裏 作 と して 水 田 に作 って い る世 帯 は64世 帯 あ る。 そ の 全 世 帯 の 聞 取 り収 量 の 総 計 は199.65ピクル (pikulu',3,9861it・に あ た る) で ,1世 帯 平 均3.12ピ クル で あ る。 1980 年 の 相 場 で は 11it.あ た り170Rpで 買 い付 け られ た と い う。 ⅠⅤ--3-i焼 畑 移 動 耕 作 は政 府 の 強 い指 導 もあ って 現 在 影 を ひ そ め て い る。 周 辺 の 山 々 は こ の10年 ぐ らい再 植 の 努 力 が 政 府 に よ って 続 け られ て い るが , 非 石 灰 岩 地 帯 の 多 く は 禿 山 で , わ ず か に草 や 叢 木 が茂 って い る。 1965年 ご ろ ま で は焼 畑 耕 作 (ma'koko)が ふ つ う にみ られ た とい うが, そ の作 期 は次 の 37)昔 は陸稲が平野部-売 られていたという。水稲 も昔 は収穫前に売 られることが多 く,家で は陸 相, トウモロコシを常食 していたという。現在 どれ くらい売却 され るのかは不明であるが,学 費,祭 りの費用など不時の出費の際に少 しずつ 売 るパター ンが多い。ちなみに天井裏の米 置き 場 (pamakkang)にはふつ う5001it・収容可能 であ るとい う。 なお,Pelras[1974:357】は1 日成人 1/21it.として,成人ふた り,子供4人の 家族で年間消費量を 1,1001it・あるいは900kg (11it・-0.82kg)と している。前 田 :生活環境 と社 会組織 よ うで あ る。 まず,
8
月 ごろ に一 つ の部落単 位 で森 を切 り開 き,焼 いた跡 を片 づ けて柵 を 作 る。 雨 が降 り始 め る1
0
月 ごろ に トウモ ロコ シを播 く。 男 が棒 で穴 をあ け(mattoja'),その あ とか ら女 が穴 に種 を入 れて (mangase') い く。トウモ ロ コ シが穂 を 出す ころ(11月)に,陸 稲 をその間 に播 く。梗 よ り精 が多 い。そ して , 周辺 に バ ナ ナ を 植 えた 状 態 に な る と bela' (価 , イ ン ドネ シア語 の ladang) と呼 ばれ る。 2年 目 も トウモ ロ コシ と陸稲 を 同様 に植 え るが, 畑 は tattakkang (繰返 しの 意) と 呼 ばれ る。 3年 目は allete'pakkokoang と い って, ほかの場 所 に移 る。 焼 畑 耕作 には水 稲耕作 の 時 の よ う な 儀 礼 (下 記 Ⅴ-5) が な く, 祭 司 (ピナ テ ィ,pinati) もいな い。一 説 によれば,ma'koko と呼 ばれ る焼 畑耕 作 は昔 は平 民 (tau biasa)だ けが し た もので,彼 らは中心集 落 には住 まず焼 畑 の 中で小 屋 (bolabolakoko)に住 ん で点 々 と住 居 をか えて い った とい う。 現 在 で も水 田を所 有 す る貴族 の血 統 の者 は集 落 に住 み,畑 を し て い ると して も一 時 的 に出小屋 に住 む だ けで あ る。 多 くの畑作 地 常住 者 は貴族 の称 号 を も って いな い。 ⅠⅤ-3-ii1
981
年 に畑作 を 全 然 し な い 世帯 数 は78
世 帯 中1
9
ケ ース あ った。 いず れ も人手 不 足 をその理 由 にあげ る。38)その うち実 際 に男 手 がな いの は6ケ ース,病 気 1ケ ース,老 齢 2ケ ースで あ る。 その ほか は男手 はあ るが, 教員 を して い るのが4ケ ース,バ ス運転手 1 ケ ース,村 役人 2ケ ース, 専 農3ケ ースで あ 38)ただ し,その中には水田裏作はしているケース はある。なお,パ ンティムル ンの住民で中心集 落に住んでいない世帯は,ティフア8戸, ラブ ラン(Labulang)2戸,ロシタ ン・(Lositang)1 戸,デ ラ(Dela)3戸,ア リシ(A】isi)1戸であ る。そのうちデ ラ1戸,ア リシ1戸とティフア の3戸 とはパ ンティムルンにも家をもっている ので,インタビューの中に入 っている。ティフ アの残 りの5戸に対 してもインタビューが行わ れた。 る。 これ らの うち,最後 の3
ケ ース を含 めて 9ケ ース は生 活 に十 分 な 水 田 を 占有 して お り, 畑 仕事 を しな いで もよい。1
例 を除 いて 貴族 の血 統 で あ る。 た だ し,水 田をた くさん 占有 して いて畑作 を しな い者 た ちの水 田の多 くが, ダ イズ の裏作 ので き るよい水 田で あ る ことは注 意 すべ きで あ る。 その よ うな水 田 は カ ラエ ンな どの有 力者 が開 いた と ころで,貴 族 の子孫 に よ って現在 占有 されて い るわ けで あ る。 ⅠV13-iii 畑 は占有者 が いな けれ ば 自由 に 使 って よい とい うの が 原 則 で あ る。 占有 して い る証 拠 と して は, 垣 あ るい は 土 盛 り, 哩 (tingkasa') が あ るか, 昔 そ こを開 いて 耕 作 した とい う印 に コ コヤ シ, ア レ ンヤ シ, チ -ク,バ ナナな どの lamungattaung といわ れ る永 年生 有用植 物 が あれ ば よい。 この よ うな 印の残 って い ると ころ は占有者 の許 可 が な け れ ば使 用 で きな い。 イ ンタ ビュー によれ ば 耕作 面 積 は1
/2ha
か ら2ha
ぐらいが多数 を しめ,畑作 世嵩5
8
戸 の平 均 は1ha
強 で あ る。39)全 面積 は約62
ha
とい うことにな る。 水 田 と異 な り, 畑 の場合 は通常1
カ所 にま とめて畑 を もって お り, 敬 カ所 で 同時 に畑作 をす るとい う ことはな い。 常 畑 と して継 続 して 毎 年耕作 して い る期 間 は,1- 4
年 が21
ケ ース,5- 9
年 が9
ケ -ス,1
0
年以上 が2
6
ケ ース, 不 明が2
ケ ースで あ る。 最 高 は4
0
年 間耕作 して い る とい う回答 が あ った。 ⅠⅤ-3-iv トウモ ロコ シは自家 消費 な い し は 無 償 の分 配 にあて る ことを原則 とす る。1
980
年度 に トウモ ロコ シを収穫 した世帯 は全世 帯 の70%
に達 して い る。 その うち2
/3
の世帯 は1
0-2
0
束(1
束 は2
00
本) の収 量 を得 て い る。 ダ イズ を畑 に作 った世帯 は31
世帯 で, 世帯 あ た りの平 均 量 は水 田裏作 の場合 よ り低 い2.
75
39)ボントラムバで1949年に1世帯あたり平均0.69 haの畑を所有 している [Chabot1950:41]。1
2
7
東 南 ア ジア研究 20巻1号 ピクルで あ る。 土地 に よ っ て は トウモ ロコ シ, ダ イズ だ け を 植 えて い ると ころ もあ る が, 多 くはバ ナナ, キ ャ ッサバ ,竹 , リョク トウ, サ ツマ イモ, パ パ イヤ, カボ チ ャ,ジ ャ ック フル ー ツ, ミカ ン, コー ヒー, キ ャシ ュナ ッ ト, ココヤ シ, ア レ ンヤ シ, マ ンゴな どの果 樹 , チ ー クな どを適宜 選 択 して植 えて い る。果樹 , ヤ シ, 木 が あ る と ころ は古 い開 墾 地 で あ る。 陸稲 と水 稲 とで は,水 稲 の方 が労 働 力 が よ り多 く必要 とされ,1900年 の初 め ごろ はまだ 陸稲 の生 産 量 の方 が水 稲 の それ よ り多 か った とい う。 しか し,1940年代 に はす で に水 稲 の 方 が卓越 し, 以 後陸稲 はだんだん 減 っ て い き, ダ イズ が普及 し出 して か らは ほ とん ど作 られ な くな った。1980年 に陸稲 を植 え付 けた 世 帯 は
3
ケ ースの みで あ る。Ⅰ
Ⅴ-3
-
Ⅴ
ア レ ンヤ シを畑, 集落 の近 く に 植 え, ア レ ン糖 を製造 す る ことが少 し前 まで は 盛 ん で あ った。40)1950年代 まで はパ ンテ ィム ル ンの集落 内 に も三 つ の砂糖作 り場 が あ り, ア レンヤ シ もた くさん あ った とい う。しか し, 内乱 の食糧 難 の時 に, 多 くの ア レンヤ シを切 り倒 して デ ンプ ン(
t
a
wa
r
o
)
を取 る ことが行 わ れ, 集落近 辺 で は ほ とん どア レンヤ シをみ か けな い。従 って砂糖作 り もな くな り, 現 在 は山奥 の ア リシ な どで作 られ る の を 購 入 す る。 パ ンガ周辺 で は, 昔 は水 田よ り砂糖 作 り に力 を入 れて いた が,徐 々 に水 稲 耕作 に比重 が移 って い き,最近 で はダ イズ作 りの普及 に 伴 って砂糖作 りは行 われ な くな った。Ⅰ
Ⅴ-4
パ ンテ ィムル ンの森 林 産物 は藤 と木 材 とア レ ンヤ シの繊維 で作 った綱 で あ った とい う。 木材 と して は, 鉄木 と同等 の質 で あ ると い うサ ッパ(
s
appa
)
や, フタバ ガ キ科 の木(
ke
r
i
,D
砂 erocar
Pacea)や モ ラベな どは この 40)カラエ ンは10個の砂糖生産ごとに1個の砂糖を 徴収 したという。 128 地 の特産 で あ った。 昔 は これ らの樹木 は, カ ラエ ンの許 可 が な けれ ば外 部 の者 は伐 採 で き なか った。 サ ゴヤ シは集 落 の湿 地 部 にみ られ るが, 覗 在 はデ ンプ ンを食 す る ことな く,葉, 葉柄 を 利 用 す るのみで あ る。猿 ,猪 は, 畑 ・水 田の 害 敵 と して数 は多 いが,食物 とな らな いので 捕獲 され な い. 鹿 狩 り(
pa
kanr
a
j
a t
a
nr
uk-a
ng)
は 昔 の 貴 族 の ス ポ - ツ と して盛 ん で あ った が, 現在 は行 われ な い。 山地 に住 む人 の常 と して 山か らの産物 を 日 常生 活 に利 用 す る ことは多 か っ た で あ ろ う し, い まで も気 がつ か な い よ うな と ころで 山 の産物 を利 用 して はい るが,現 在 で は森 林 生 産物 の採 集 に中心 集落 の住 民 はほ とん ど従 事 しな い とい って よい。 た だ, 大工 の仕 事 に不 定 期 的 に従 事 す る人 は多 く, この人 た ちは大 の こ, なた な どで随 時木材 を調達 す る。 Ⅴ 社 会 組 織 本章 で は農耕 に際 して の人 的動員 に関連 す る社会 組織 の側 面 を中心 と して取 りあげ る。 概 略 的 に, 親族 組 織(
Ⅴ-1
)
, 伝 統 的身分 制 皮(
V12)
, リーダ ー シ ップ(
Ⅴ-3)
を述 べ, 農業 労 働 の組 織 (Ⅴ-4) と 農耕 サ イ クル と儀 礼 (Ⅴ-5)につ いて考 察 を加 え る。Ⅴ-1
イ トコ姫 と 世 帯員 数 とにつ いて はⅠ
Ⅰ
ト
3
,Ⅰ
Ⅰ
ト4
でふ れた。 この節 で は親族組 織 につ いて若 干補 説 したい。 Ⅴ-1-iChabo
t
[1950:17;1967:192]はその 調査地 ボ ン トラムバ にお いて数個 の双 系 的 内 婚 親族 集団 を指 摘 して い るが,パ ンテ ィムル ンで は この よ うな分 類 をす る ことは難 しい。 この ことは, 前者 が は っ き りと した外 来 者 グ ル ープ を含 ん だ異質 的 な構成 で あ る の に 対 し,後 者 が比 較 的 同質 的 で あ るとい う違 いだ けで はな く, その よ うな親族 関係以外 の決 定前 田 :生活環境 と社会組織 要 因 が な い とグル ープわ けが難 しい とい う, 親族 「集 団」 の特 質 に関 わ って くる問題 で あ る。41) パ ンテ ィムル ンで は夫 婦 とその子 供 だ けを 指 す単 位 はな い。42)夫婦 は sikalabine43) と 呼 ばれ る。 Sibola は一 つ の家 に住 ん で い る 者 で あ る。 同様 に世 帯 員 を 指 す が, そ れ に 「世 話 をみ な けれ ばな らぬ範 囲 の者」とい う意 味 が加 わ る とrepo'とな る。 村 人 に よれ ば, この単 位 が最 も小 さい家族 (イ ン ドネ シア語 keluarga) の単 位 で あ る とい う。 この 中 に は 同居 して い る召 使 の よ う な 使 用 人 (toribola) も含 む。 いわ ゆ る家族 な い し親族 を指 す の は sipammanakang (あ る い は sibija) で, 血 縁 者 とそ の配 偶 者 を含 む。 その範 囲 は必 ず し も明確 で はな いが,パ ンテ ィムル ンで は第4 イ トコまで を bija pammanakang (あ るい は bijambani)とい い, 第 5イ トコ以 上 の遠 い縁 者 を bija bella とす る。 第3あ るい は第4イ トコ とい った 同世代 の 拡 が りに対応 す る尊属 親 は必 ず しも系 図 がた どれ る とい うわ けで はな く, 実 際 に は第 2イ トコで さえ も共 通 の 曽祖父 母 がわ か らな い場 合 が多 い。 親 族 名称 に して も曽祖 父 (boe)ま で しか常 用 され な い。 Ⅴ-Lii 相 続 は慣 習 法 に よ り, 男 子 2に 対 し女 子
1
の割 合 で行 われ, 同性 の問 で は均 等 に配 分 され る。44)財 産 の種 類 に関係 な く, 倍 41)この問題および親族組織の分析は別稿を期 した い。なお Maeda[1978]参照。 42)ゴワ地方では夫婦 と子供 とを sianakkangと呼 ぶ という報告[AbdulRahim Mone♂/α/.1978: 12]がある。43)Cense[1979]によると kalabiniとは対 (pa礼r) を指す。 マ レー語のkelamin にあたると思わ れる。 44)この相続法はイスラーム法か ら出た ものではな く伝統的なものである。比境 として,女 は頭上 に物をのせて運ぶので,一つ しか運べないが, 男は天秤棒で両端に物を掛け肩で担 うのでふた つ運べるように,男女の取 り分は2対1となる という。水田が分配するのには小さすぎる時は 売却せずに,遺産相続者の間で1年交代で耕作 (taunge)が行われることもある。 金 を も含 めた す べ て の遺 産 が分 配 の対 象 とな る。 両 親 と も死 亡 す る と,3日, 7日,40日 の葬 儀 の費用 (tawa attumateang) お よび負 債 を清 算 して残 った財 産 を 初 め て 分 配 で き る。 もちろん, 遺 言 に よ って財 産 を わ け た り, 生 前 に譲 渡 して しま った りす る こ とは認 め られ て い る