本書は、著者の十数篇の論文をもとに、まとまった形におさ めたものである。かつての諸論文は、霊我︵プルシャ︶に関する 個別的な独立した問題の研究の積み重ねであったが、それらを 本書にまとめる際、主として霊我という一視点から、サーンク ャの体系を把握しようとし、同時に、他学派の資料も用いつつ、 霊我観を中心とするインド哲学史をも志向している。﹁lイ ンド哲学における自我観l﹂と副題が付けられるゆえんであ づ︵︾O 著者は、﹁序論﹂において大略右のように述慧へている。 本書は八章より成る。﹁序論﹂より﹁あとがき﹂まで七九四 ●ヘージ。﹁英文梗概﹂と﹁索引﹂あわせて一四四・ヘージ。大著 である。取り扱われる問題は、かなり個別的な細部にまで及び、 その逐一に批評の眼を向けることに困難を覚える。加えるに、 本稿担当の筆者は、それら諸交の問題に全て通暁しているわけ でないので、一人の読者として、本書の内容の概要を示し、他
村上真完著
﹃サーンクャ哲学研究
fインド哲学における自我観l﹄
山下幸一
第一章﹁プルシャとアートマンーサーンクャ前史における 魂の問題l﹂︵一二’一四四.ヘージ︶ 序説において、主として閃叩く①§︲普冒冨威をとりあげ、プ ルシャやアートマンの概念が分化していない点を指摘する。 第一節﹁初期の古ウパニシャドにおけるプルシャの観念﹂で は、切替紗Q胃自営想丙pldも四目協只缶岸凹Hg四︲dや︾H巴詳耳目①︲己や におけるアートマンによる世界創造説話がプルシャ観にふかく 結びついていること、また、陣冨蜀晶葛四首ご勺を中心とす るヤージュ’一ヤヴァルクャの説において、個我にして最高我と いう全一的な意味では、プルシャでなくアートマンが用いられ るが、プルシャは、いのち、生命であり、魂、霊魂であり、身 体の機能とくに眼の機能に深く結びつき、光と不離の関係があ り、心臓に住するということが考察されている。 第二節﹁中期・後期の古ウパニシャドにおけるプルシャの観 念とサーンクャ哲学lプルシャとアートマンとの区別の問題 l﹂において、園鼻冨︲写︾野§芽;国︲弓:旨四日目己 各章において扱われる文献を可能な限り紹介したいと思う。 り起こし、それに解答を与えようとしている研究態度に鑑みて、 際、本書において著者が、常に文献・原典に拠りつつ問題を掘 の読者の便宜になればと思い紹介の筆を執る次第である。その また、各章はいくつかの節に、さらに各節はいくつかの項目 に分けられているが、この紹介においては、その一左をあげな いことのあることを、あらかじめお断わりしておきたい。 88をとりあげ、ジョンストンの嗣閏毎︲設冒丙耳四F。且。ご己對︶ の説を批判した上で、次のように結論する。﹁ジョンストンが 考えた図式は、インド思想史においては当たらない、というべ きである。むしろジョンストンの図式とは逆に、生命原理と霊 魂とが浬然としたものが、アートマンやプルシャの語をもって 示されていたが、アートマンの分析的思弁が進むにしたがって、 純粋の霊魂︵プルシャ、不死なるアートマ乙と生命や身体機能や 我執等と深く結びついた魂︵元素我冒昇騨日昌︶とが区別せられ るようになった、と見るべきであろう。﹂︵二一二・へiジ︶ 第三節﹁親指大のプルシャ︵目唱”昏騨︲目弾恩冒目笛︶l 中期の古ウ・︿ニシャド等におけるプルシャ観の一特徴とその後 世における諸解釈l﹂において、属鼻冒︲dや以後に見られ る﹁親指大のプルシャ﹂という特徴的な用例をとりあげ、後世 のヴェーダーンタ学派とサーンクャ学派における解釈の相違を 見、プルシャ観の発展をあとづける。 以上、やや多く紙数を割いて第一章の内容を紹介した。本章 は、著者によると、サーンクャ哲学以前におけるアートマンや プルシャの概念をたずねることによって、サーンクャ哲学のプ ルシャの観念がより明確に認識せられることになるという観点 から企てられたものである。読者としても、古いプルシャの観 念から、どのようにサーンクャのプルシャ観につながっている のかが関心事であるが、その点は明確な結論が与えられていな い。著者自身次のように述懐している。すなわち﹁しかし、そ こにおいては、サーンクャ哲学の霊我観の形成への方向を予想 するところでとどめた。したがって、サーンクャ史という観点 から見ると、第二章以下の内容との間に未だ空白を残したこと になる。それについての研究は他日に期したい。﹂︵序論四。ヘー ジ︶と。 さて、第二章以下は本書の本論をなす部分である。ここにお いて、サーンクャ哲学の資料が継横に引用される。以下にその 著者の用いる略号ともども、資料名をあげる。 尿ごPH四︲耳筥Pゞ留日丙耳四許胃時脚︵の〆︶︺その公刊されている 九種の註釈書、真諦訳﹃金七十論﹂、o伊且名目“︲切目当四︵⑦︶、 ⑳画昌屏百望四1ぐ稗武︵ぐ函︶︾⑫画昌丙画昌ゆめ四℃含Pは︲ぐ稗は︵ぐ淵︶︾旨騨ぽゅHP︲ ご再武︵旨︶ゞ倒巨丙は︲呂己時ロ︵園︶・]ゆく蝕昌四口、騨嵐︵]︶︾⑳習糧ぽぽ吋四︲ 目色#ぐゅ︲民四口目ロ日︵笥嗣︶・めぃ昌丙ぽ罰④︲○騨国骨房倒︵e 留日昏冨︲普煎ゅ︵閉︶とその四種の註釈害、留日唇冨︲ の算H四︲ぐ再匪gシ旨胃ロ・旦昏④︵シロ︶︾の習冒丙画割塑︲己門伊ぐゅo25︲団宮中 ぶゆ具ぐ]蔵倒画いざ巨厨ロ︵ぐgゞ印脚昌ぽぽ君い︲く料は加目色旦昌ゆぱ酔 号ぐゅ︾伊紺旨口切口巳汽琶昌騨加目H④︲ぐ粋はaz樹○首︲嗣旨鼻冨.そし て短篇目餌茸くぃ︲留日閉。または目沙詳ぐ四︲留日閉。︲閨q四角の︶ 第二章﹁サーンクャ哲学における霊我の問題﹂︵一四五’二五 六・ヘージ︶ 本章では、サーンクャ哲学のプルシャを霊我と訳し、、屍と その註釈書類にもとづいて、その概念を明らかにしようとする。 第一節において、閏ハミに言うところの、①集合体は他の ためにあるから、②三要素の反対であるから、③統御があるか 89
第三章﹁サーンクャ哲学における知とこころの問題﹂︵二五 七’三○八・ヘージ︶ 第一節において、⑳園にもとづき、知るというはたらき厩能、 作用︶と、知るはたらきをなすもの︵器官︶とが覚であること、 そして、知る主体、即ち知のはたらきを享受し、見る者として の霊我があることが明らかにされる。 第二節において、五の感覚器官の作用から、意、自我意識の 作用、そして、覚の決心判断の作用までを、諸註釈書の関係箇 所をあげて検討する。 第三節では﹁覚の八相﹂、第四節では﹁覚の五十分﹂が諸註 釈にもとづいて検討されている。第五節は﹁小結﹂。その一部 を引用しておく。すなわち﹁ここで、感官のはたらきは勿論、 こころのはたらきである自我意識や知までも、物質的原理の所 という霊我存在の五つの理由を、詳細に検討している。 ら、⑳享受者があるから、⑤独存性のために活動があるから、 第二節において、望肉己で説かれる霊我の特性、⑩証人であ ること、③独存であること、③中立であること、③見る者であ ること、⑤作者でないこと、の五項目が検討される。 第三節において、、厨岳で説かれる霊我の多数であることの 理由、仙生と死と器官がそれぞれきまっているから、②同時の 活動がないから、③三要素性に反対︵I差異︶があるから、の三 項を立ちいって考え、霊我の多くの議論の問題点を明らかにす づ︵句0 第四章﹁霊我と原質との関係﹂︵三○九’四四○。ヘージ︶ 韮サーンクャの二元論は、非精神的な原質およびその所産と精 神そのものである霊我とが骨子となっている。第一節において、 ⑳属9.国.億.割.禺認︺3.$︾臼︶$︾急﹄の文脈をたどり ながら、二元論の構造を見、さらに、その問題点を取り出す。 すなわち、霊我と原質との対応と、霊我の多、原質の多という ことである。そこで著者は、Yが伝えるパウリカの原質多数説 と胃○個︲圏勵⑳︲田圃塑国箆団に引かれるヴァールシャガンャ の断片および復註の解釈、昌○鴇︲曽爾四四.侭の説を検討した うえで、この問題に答えている。 第二節において、原質と霊我、とりわけ覚と霊我との関係 を説明する﹁映像説﹂の種登相を明らかにすることによって、 サーソクャ哲学の二元論のしくみを、さらに考えようとする。 本節で紹介、検討される文献は、Yと、日嗣とその復註二害 設獄号且匡昌︺曾笛国風と、ヨーガ派の禺○唱︲普角四︾田。唱! の副国︲国威望四︼国○mゆめ算国︲国ぽ動望色︲くぎ凹国づゆ々周國洋ぐ四︲ぐ凰獣︲ ることがほとんどなかったのである。﹂︵三○八・ヘージ︶ ﹁知とこころの問題﹂を考察した本章においては、霊我にふれ 精神的な作用をはなれ、知的な活動をはなれている。だから、 為主体ではない霊我は、こころのはたらき、即ち我灸の考える たましい︵魂︶であるプルシャ即ち霊我には排除されている。行 注意しなければならない。こころのはたらきである覚の作用は、 産として、非精神的︵胃の3弓閣︶であると見散されていることに 90
H四日︾畠○m四︲ぐ脚吋洋涛斡詞副四︲日腎冨︺且沙ゞとシャンカラの園尉P宇 目四1普首P︲切目薯四と、清弁の﹃中観心註思択炎﹄、シャーンタ ラクシタの﹃真理綱要﹄及びカマラシーラの註釈と、ヴァイシ ェーシカ派のく苫目2国罰﹄z箇冨︲冨且四扇ゞ嗣胃色目ぐゅ園と、 ジャイナ教徒、ハリバハドラの昌○鴇︲豆且口、へIマチャンド ラのシ昌騨︲冒鴨︲ぐ葛くい。目①§︲号弾Hg霞圃およびそれに対す るマッリシェーナの註釈野呂︲ぐ圏。︲目白茜働と、ハリバハドラ の、且︲烏臥Ppp︲出目ロ8昌四に対するグナラトナの註釈目胃冨︲ 圃冨の笛︲目酒圃およびマ’一バハドラの註釈尉紺目︲く粋威そし て、閉︺炉冒︶ぐずとである。映像説は種灸な説かれ方をしてい るが、大別すると、覚から霊我へ、霊我から覚への二種になる。 そしてぐずは相互反映説を説いている。 第五章﹁サーンクャ哲学における霊我の一。多の問題﹂︵四 四一’五三四。ヘージ︶ の〆昂は霊我の多数であることを明記するが、その理由は説 得的でない。よって本章では、改めて霊我が本来一ではないか ということを考察する。 第一節では、め周ごにおける顕現および未顕現の六つの性質 と、霊我がそれと反対であること、そして、の属己に挙げる顕 現の九つの性質と、未顕現がそれの反対であること及び、霊我 が未顕現︵Ⅱ勝因︶と同様であること、それらを諸註釈に拠って 考察し、更に、霊我の遍在と一、勝因の遍在と一.多の問題を とりあげ、結局、の属では不明確のまま残されたとしている。 第六章﹁サーンクャ学派の霊我観と他学派の自我観﹂︵五三五 ’六四○.ヘージ︶ 霊我が遍在にして同時に多であることの矛盾を、インド哲学 の他の学派の説をかえりみることによって、もう一度考えてみ づく︾○ 第一節において、サーンクャ派は本来霊我を無限に小さいも のとするが、後にそれを遍在とするのはヴェーダーンタ哲学の 影響であるとするR・ガルペの説を検討する。扱かわれる原典 は、霊魂を微小なるものとするパソチャシカ︿の断片に言及す る昌○鴨︲普陣四︲切目簿四.及びそれに対する三種の復註、そし て、﹃ブラフマ・スートラ﹄におけるアートマンの大きさを巡 っては、主としてシャンカラの註釈が取りあげられる。著者は ﹁結論的には、サーンクャ派命嗣およびそれ以後︶において、プ ルシャ霊我︶を遍在とするのは、ヴェーダーンタ哲学の影響で ある、とは断定しがたいであろう。﹂︵五六二。ヘージ︶と小結を与 えている。 第二節において、シャンカラ作と伝えられるJについて、そ の作者の真像、日展との前後をめぐって、八成就の解釈、十根 本義と六十科論、五唯から五大が生ずる次第、古き典拠、以上 第二節では、⑩嵐において残された問題を考察するが、器と その註釈書類によって、﹁個別的相違﹂﹁限定条件﹂﹁付託﹂ ﹁命我﹂﹁種類﹂などの概念を明らかにしつつ、霊我の遍在は 解脱後に得られるという結論に達する。 91
第四節において、清弁が伝える原質解脱論を検討し、それが い嵐の説からは異説であることを明らかにする。 第五節では、解脱と霊我の独存の同一性を確認する。 第七章﹁サーンクャ哲学における解脱の主体の問題﹂︵六四一 ’六八六。ヘージ︶ 第一節において、サーンクャ哲学において解脱が何故に要請 されるか、またその方法について、の〆を中心に明らかにする。 第二節において、解脱の主体を霊我とする見解と、原質とす る見解とが、ともに⑳属に認められるという、サーンクャの解 脱論の問題点を指摘する。 第三節では、右の問題の解答としての、属置の説を、諸註釈 書を精査しつつ明らかにし、霊我の自覚という解脱の立場を示 一。 す の問題点をとりあげて考察する。 第三節においては、サーンクャ派において古くはアートマン を単数と見ていたが、ヴァィシェーシカ哲学の影響の下に、霊 我の多数なることを採用したと推定する、フラウワルネルの説 を検討しつつ、ヴァィシェーシカ哲学におけるアートマンの存 在、一.多の問題、遍在、解脱と知との関係、不可視力、以上 の問題を、サーンクャ派の霊我観と対比する。文献として、 ぐゅ融①、時璽︲普茸色とその三註釈、甸騨&騨冒︲目閏冒P︲困日四目囚 などを加えている。 結論﹁転変説と霊我解脱﹂︵七八七’七九三・ヘージ︶ ここでは、宇宙論的な転変説と霊我解説の問題とがどのよう に関連するのか、また、サーンクャの体系において霊我解脱は どう位置づけられているかを考察して、むすびとする。 第八章﹁サーンクャ哲学と無我の問題﹂︵六八七’七八六.ヘー ジ︶ 第一節。の嵐重において﹁我れはない。わがものではない。 我れではない﹂という、我の否定が説かれる。諸註釈を検討す るに、原質に属する自己を否定し、永遠なる霊我を自我として 意識するというように理解される。 第二節において、覚の五十分のうちの闇と藻とに、誤まった アートマンの否定、我執の否定がの閲の諸註釈害から認められ る。また、無我にあたる語を用いる諸註釈書をあげ、サーンク ャ哲学における無我の意味を検討する。そして、冨巴日︲ロやと ヨーガ派の無我観を参照する。 第三節において、﹃無我相経﹄をとりあげつつ、R・ガル、、へ、 H・オルデン零ヘルクなどの佛教とサーンクャ哲学の関係につい ての説を検討し、また、冒巴日︲ロやと佛教の共通点を参照す 字︵︾O 第四節において、馬鳴の嗣巨呂冨︲8国目、清弁の﹃般若燈 論﹄を中心に、佛教からサーンクャの無我説に対する論難を見 づく︾O 第五節﹁むすび﹂ 92
以上、本書に取り扱われる問題と文献を中心に要点のみ紹介 したが、著者の精査を重ねたうえでの見解を、紙幅の超過を恐 れて書けなかったのは遺憾である。 サーンクャの研究で、霊我を主題にし、かくも多くの視点か ら、それを追求した本書は、他に類書を見ない。著者の積年の 研究に敬服する。最後に読後感を一言添えるならば、本書は、 問題が多岐、細部に亘ることもあり、加えて、引用する原典の 多様さから、著者の主張が、時として明確でなくなっている場 合もあるように思われる。ただし、逆に、原典引用の多さ、ま た、サーンクャ研究において欠くことの出きない倒口〆武︲日ロ園 の解読の面の見られることは、研究者にとって実に有益である。 ︵一九八七年七月春秋社菊版七九四頁索引一四四頁英文要 旨二三頁一二、○○○円︶