Title
観光産業の歴史
Author(s)
石川, 政秀
Citation
沖大経済論叢 = OKIDAI KEIZAI RONSO, 6(1): 71-85
Issue Date
1981-12-20
URL
http://hdl.handle.net/20.500.12001/6709
〔研 究 ノー ト〕
観 光 産 業 の 歴 史
石
川
政
秀
観光事業 の原点は宗教的巡礼 欧米諸国 の新 しい観光事業形態 日本 における観光事業の歴史 沖縄観光産業 の歩み 観 光 事 業 の 原 点 は 宗 教 的 巡 礼 観光 の歴史を述 べ るな らば、古典古代 か ら始 まった といったほ うがよいだろ う。なぜな ら原始時代 は種族 の生産力が乏 しく、かつ人 口増加を支 えるだけの 産業基盤が帯か ったか ら、人 口過剰 の圧 力は他地方へ の排 出移動を促 したO メ ソポタ ミヤのチグ リス、ユーフ ラテス河 流域、 エデブ トのナイル河流域、 中国 の黄河流域では地味肥沃 なため多 くの民族を招いて古代 文明を築 いた0 原始時代 の種族 は原始林、草原、海浜 の洞窟 のなか に住ん でお り、資源が少 な くな るとカヌー、筏をあやつ りながら、漂 泊の移動を開始 した。 狩猟、牧畜 の民 も草 資源 に乏 しくなる と、新 しい地方- の移住を促が し、人類 は こうして 地球上に散在す るにいた った.従 って古代 文明は豊鍵 な河 の流域か ら発達 し、 海上 の道 を伝 って沿岸地方-移 っていく。
「山は隔て海はつ な ぐ」 と言われて いるよ うに、 地中海文明は エーゲ海に面す るギ リシャ地方か ら興 ったO 彼 らは商業民族 として地 中海を航海 し、黒海沿岸か ら中近東 にいた る広大な 地域 に植民 市を建設 した.彼 らの築 いたポ リス (都市 )は奴隷 労働 の うえに栄 えてい るが、ふつ うの市民 は勇敢 な戦士 として外敵 にあたり、かつ民会で一票を投ず る統治者階級で あった。 アメ リカの社 会学 者ヴェブ レンは、 ギ リシャ ・ t3-マ の古典 古代か ら中世 の封建 社会 にいた るまで、西洋 で は生 産的 な 下層階 級(現夢 )と統治者 階級 (有閑階級 )のふたつ に分 かれ、社会的 に も分化機能 し 1) て いた と説 明す る。 た とえば 古代 の哲学者 が 自由 に学問研究 がで きたの も、 これ ら被統治者 の奴 隷 が いたか らで (市民 のなか にも借金 のために奴隷 身分 に落 ちた者 もいたけれ ど も )、 奴隷社全 体か ら見 れば生産活 動 に従事す る者 が 多 く、 家計的労働、金 銭 的業務 に従事す る者 は少なか った. そ のため統治者は も っぱ ら政治、軍事、 教育 、学 問、芸 術 の仕事 にたず さわ り、い っぽ うギ リシャ商人 は自国 の商船で 本国 と植民市 の交易 に従事 し、 商用 のため公共施 設、神 殿等 に宿泊 し、祭 りに な ると知人 の家 に泊めて葉 った。 スパ ル タや アテネでは さかん にスポー ツが行 な われ、 紀元前八世紀以降 、オ リン ピア の競技 にはギ リシャ全土、植民市 か ら多数 の観客 が押 し寄せ、競技 は 連 日観客 を賑 わせ、 今 日のオ リンピ ックの起源 とな った ぐらいで、ギ リシャ時 代 の余暇 といえば、 スポー ツ、学 問、保 養、祭 り行事が さかんで、その ころの 旅行者 は公共施設 、神 殿 に宿 泊で きな い ときは、 たいて い知 人、友人 の家に泊 めて も らうので常 例で、一般 に旅人を ねん ごろ にもてなす ことが美徳 と された。 歴史家 アー ノル ド・ トイ ン ビーは紀元4世 紀前、 ア レキサ ン ドロス帝の東方遠 征で - レニ ズム文明が興 り、 人間尊 重 の風 潮 は旅 行者へ の接待 、慈善、奉 仕等 2) を意味す るhospitztlityが さかん だ った とい う。 次 の ロ-マ帝 国 の時代 に入 る と、地 中海沿岸 のほ とん どを支配 し、一大植民 帝国を築 いた。 ローマ帝国 の繁栄 は ローマ軍団 の支 配 力 と植 民地 か らの貢納で もた ら され た けれ ども、植 民地 で は塵 々人 口調 査が行 なわれ、被征服者 は半 ケ 年以 内 に原糸地 に登録せ ねば な らず、 口-マ政府 によ って築 か れ た道路 を伝 っ て旅行 を した。 しか し統治者 で あるロ-マ市民 は保養 地 に出か け、公衆浴場を 利用 し、食 事、物見遊 山、芸術 を楽 しむ こ ともで きた。 と くにローマ市民 の祭 り好 きは有 名で、 彼 らは剣 闘士 の競技 に昂曹 したO わ ざわ ざア フ リカか らライ オ ンを取 り寄せ、 円形劇場で剣 闘 士 と格 闘 させ るとか、 この残 酷な シ ョーは クラウデ ウス帝 のときか ら公共 の費用 で始め られ、 1ヶ年9 3日か ら多 い年に
-72-は1 59日まで遷 し、 そのため市民は 仕事を休 む 日がマル クス ・7 ウ レリクス 帝 の ときには1ヶ年135日に ものぼ った とい うo 植民地で徴集 された租税 や物資 は ローマに運 ばれ、市民 の間 に分配 され たけ れ ども、 シシ リー島、 エ ジプ トか らは穀物、 東方 のオ リエ ン トか らは絹、 胡轍、 オ リーブ油が商船 に より、 あ るいは軍用道路 を伝 って運ば れた けれ ども、 当時 「あらゆ る道は ローマ に通 ず 」 といわれ た ぐらい道路網 は完備 し、水 道、 公共 施設 は整備 され た。港 町で は植民地 との往来 で宿泊所 が設け られ たが、当時 の 宿 泊所 とい えば売春婦 の巣窟 で あったため、 地方 民か らは嫌 われて いた。 また 旅 行 には現金を持 ち運 ぶ ため、 いつ も生 命の危険が と もな って いた。 やがて紀 元5、 6世紀 ごろ、ゲルマ ン民族 の大移動 がお こ り、 ローマ帝国は 崩襲 した。 古代 の秩序 と権 威が失 われた とき、 これを回復 した のは ロー マ ・カ トリック教会 とそれを支 えた神聖 ローマ帝 国で あ った。 中世社会 の特 質 は 身分 制 の固定 と軍事的義務 の強制 にあ るけ れ ども、帯 教的理 由か ら聖 地巡礼 や ら聖 徒 の遺 物崇拝 が始 ま った。 聖 地 エルサ レムを イス ラム教徒 か ら奪還す るため紀 元1 0 9 5年 か ら12 70年 まで 、屡 々大 規模 な遠征軍 が ヨー ロ ッパ各 国で組 織 され、 これ ら遠征軍か らア ラ ビアのめず ら しい文化 、科学 、技術 等が 伝 え ら れ、十字軍 の騎士 たちの冒険談 が語 られ たo ロー マ ・カ トリック教 会では法王 の回勅 を教会法 として発 布す るけれ ど も、 1 06 5年 に出 された 「神 の休 戦 」 の回勅 には祭 りの期間中 に私闘、 戦 争行為 を禁 じ、 旅行者 の接待を義務 づけて いた。 このため地方 の修道 院、 旅鋸 では宗 教的巡礼者を喜 んで受け入れ、 中世 ヨー ロ ッパで は宗教的動機 か ら旅行 をす る 者 が多か った よ うで あ る。 しか し当時 の旅行 は 宿泊、 交通 手段 が 発達 せず、旅 行その ものは危 険を意味 して いた。 産業革命 の時代 に入 ると、機 械制工業 が 発展 し、 交通 手段 は飛躍的 に伸 びた. しか し労働者 の就 労時間 は長 くな り、 余暇 (レジャー )を軽 視す る風潮が お こ った。歴 史家マ ックス ・ウェーバ ーは禁欲 的 なプ ロテ ス タンテ ィズム (新教派 ) のため職業倫 理 として労働、 技術を尊 び、合理 的 な生活 態度 が勤勉 貯蓄 を もた らした とした。 そ の結果 、 さび しい労働慣 習 のなか にだんだん r労働 は苦痛 な り」とい う考え方がお こり、や がて動労 の代償 として労働時間を短縮 す る組 合
運 動が始 まった。 イギ リスで は 18 4 7年 に 10時間 労働法 が施行 され、 余暇 も絶 対量が 少な い ため休 養、 慰安 、 物見遊 山 とい う性格が強 か った。 18世 紀の終 り、 ナポ レオ ン将 軍 のアルプス越 えか ら登 山者 がふえ、 文豪ゲ ー テが イ タ l)了に旅行 してか らアルプ ス山脈 が若者 の賑 い場所 とな ったo Lか し若者を受 け入れ る宿泊場所は村 の旅 虎で はな く、 その地 亘の牧師虎で あったo 村 の旅鋸 は高級 な外人宿泊所 で あり、若者 は教会 の牧 師飴に泊めて もらった。 これ か ら高級 な ホテル、安 い公共 宿泊所 とい う二橿分解がお こ り、観光国スイ スの出発点 とな った。
欧米 諸 国 の新 しい 観 光事 業形 態
紀元10世 紀以 来、神聖ロ-マ帝 国 の栄 華は 消えてヨー-ロッパは閣 とな ったO 中 世 の経済的荒廃、 疾病、 民族移動、戦争 等で ヨー ロ ッパ の人 口は18世紀 にい た るまで はほ とん ど増 加 しなか った。 しか し産業 革 命が イギ リスにお ころと、 爆 発的 な人 口増 加が おこ り、 イギ リスの主導の下 に世界経済 が形成 されていったO ヨーロッパ諸 国では汽車・汽船 等の交通 手段 が導 入 され、新 しい資本主義 文明は 会社企業 の勃興 を促 した。 かつては貴 族や軍人の余暇 も生産能率 の向上 ととも に労働者階級 に及 び、旅客 の大量輸 送は汽車、 汽船 の出現 で可能 とな った. 184 1年鉄道 網 の完成を 見たバプ テ ス ト派 の牧 師 トーマ ス ・ク ックは貸 切 列車 によ る運賃 の切下 げを成 功 させ た。 彼は 息子 たち とと もに ロン ドンで旅行 業 の トーマ ス ・ク ック社を創立 し、 ヨー ロ ッパ、 アメ リカで は じめて旅行社 に よ って 団体旅行客 の誘致 に乗 り出 した. また観 光案 内 と して雑 誌、署 籍を刊行 し、 18 50年貸 切列車 ・汽船 に主力を お き、普 通 便 による団体旅行を加えた。 186 1年以来 ホテル の予約受 付を 始め、 1 87 2年 には旅 行′J、切手 の発行を 行 った0 1 8 7 1年 ク ック社 の営業所 が ア メ リカに もおかれ 、多数 のアメ リカ 人旅行 客 を ヨー ロッパ に誘 致 した. それ以後 ヨー ロッパで は旅行 社が普及 し、 海岸、 田園、 山鳥地方へ 出かけ、 避暑地で は貸 切別荘、 テナ ン ト小屋 も出現 し、 人 々の長期、夏季 休暇が普及す -74-るにつれて、外国人を始め一般 の人 々に利用 され た。 所得 の低 い層 には国家が 家族旅行をすすめ、国民休暇村、 キ ャンプ場、 ユ ース ・ホステル、旅 行 クラブ 等 の宿泊施設 が整備 され た。 イギ リスで は第二次 大戦後、 労働 党内 閣主 導 の下 に国定公 園、 国民休 暇村、 キ ャンプ場が 国民 の余 暇計画 の形で進め られ、 フ ランスで は1 9 4 7年か ら 19 70年 まで 5回 にわた って観 光整備計画 が行なわれ、第 五次計画で は 4倭 フ ランの予算 で家族休暇 の家に 2万 ベ ッ トを準 備 し、 キ ャンプ場 として40万 ヶ所 の整備 が図 られ た。 スウェーデ ンを始 め とす る北欧三 国 では子 ど もの多い 家庭 に種 々の旅行特典 を与え て いるけれ ど も、 スイスの場合旅行公 庫が 国の援 助で旅行用 スタンプを発売 し、国民 はこれ を異いためて乗物、 ホテル の宿泊料 に充て てい る。西 ドイツでは=場 労働者 は企業 の経 理内容を調べ た うえで 費用 の5 0%を限度 とす る援 助 申請 を な し、子 どもが5人以上 い る家庭 には全額を 3I 援助す る仕組み にな って い るO 東欧 の社会主 義国 では原則 と して国が国民 の余暇管理を行 って お り、 リゾー ト・ホ テル、海水 浴場、行楽施設 を国営企業 として国民 に利 用 させ て い る。 ヨ - ロ ッパ諸 国で は資本主 義、社会 主義を問わず国 は国民 の余暇対 策 に熱 心で あ り、若 い従業 員を獲得 す るため、観光事業 を 研修す る大学.専門学 校が 多いC 最近経済 地理学が 発達 し、観光収 入が貿 易 外 収 支 と して 外貨獲得 の手段 に利 用 され るところか ら高 等学校、大学、 専門学校 で も観光学 を学ばせ て い る。 ア メ リカ合 衆国では19世紀 の終 りごろか らヨ- ロ・ソバ との往 来が さかん と な り、 I9世紀前半 に豪華客船 が出現 して一般 の旅行 需要 が伸 びた。 す なわち 1840年 蒙華 客船 によ るヨー ロッパ 、地中 海への遊 覧旅 行が さかん とな って 旅行業 が普 及 した。 18 50年 ア メ リカン ・エキスプ レス社が ニ ュー ヨー クに 設立 され、それ以来 多 くの旅行社が全米 に設立 され た.最初 ョ- ロッパで は ド ル獲碑 をね らって 対米 宣伝 を始め たが、逆 にア メ リカに妹行業 の繁栄 を招 いた ので、 ア メ リカ ン ・エキスプ レス社 も18 7 0年か ら旅行′J、切手 を発行 して旅 行者 の便宜を図 った ので あ る。 18 9 0年 ナ シ ョナル ・ア ン ド・ トラス ト社 も 旅行 部を 始め、 これ が銀 行業 の旅行業 界 への進 出とな り、 1946年 にはパ ン ・ ア メ リカン航空 などの航空会社 もホテル業 界 に進 出、 現在 ホテル ・チェー ンの
-75-イ ンター ・コンチ ネンタル ・ホテルを も系列下 において い る。 19 2 9年 ア メ リカ、 カナ ダで は2,2 00社 の旅行社を乱立 させたけれ ども、 第 二次大戦後は銀行、 デパ ー トも進 出 し、 それ ぞれが旅行地 によ って専 門化 さ れ、業務 内容 も国際的 に複雑 とな り、大 型企業 の コ ング ロマ リッ ト化が すすん で い る。 すな わち旅 行社 の送 出、 受入 れ のほか貸物輸 送、外 国への小包輸送、 ホテル投 資、交通機 関 の手配 等 の兼業 部 門が ふえ、旅行業 界 に コン ピューター が持ち込 まれて シス テム化 して い る。 た とえば ア メ リカ ン ・エキ スプ レス社 の業 務 内容を見 る と、 旅行業 のはか貸 付、 手形割 引、 為替、債券 の引受 な どの金 融業務 が あ り、小荷 物、 貨物 の托送 まで 幅広 い業務 を 行な って い るが. 1 7ヶ国に 48支店を持 ち、系列会社 のア メ リカ ン ・ホールデ ィング社 の下に 7社 の保険会社 のクループを有 し、国債、 為替 債券穀 資、その他 の系列会社 への投 資をも行って い るOパ ン ・ア メ リカ ン航 空 の系列 会社で あ るイ ンター ・コンチネ ンタル ・ホテルチ ェー ンで は45ヶ国 に 63の大型 ホテルを経営 し、 部屋数 15,000垂 を設備 して い る. 南太平洋 の ラウン ド・トリップのため現在 パキ スタン、 エ クア ドル、 ガーナ、 ニ ュージラ ン ド、 イ ン ドネ シア、 サモア、 タ ヒチ島に も進 出 し、大 型航空機 による旅客 の 大量輸送 に ともな い宿 泊施設 も大型化 して い る。 ア メ ))カと 日本 の旅 行形態を比鞍す ると、 アメ リカでは乗 用車か 空路 に よる 広域旅行 が中心 であ り、 このため航空会 社、 ホテル、 モ ーテル、 レンタカーの 専門機能 を持つ 大企業 が結合 し、世界的 な レジャー施設 のシステム化がすすめ られて い る。 日本 では航 空機 、汽車、 電車、バ ス旅行が主体 で短期間 の団体旅 行が 多い。 最近若 者
、oL
の クループ旅行 もあ るが 長期休暇 は まだ普 及 してい ない。 そ の点ア メ リカでは週 休2日制 、長期休 暇が普 及 し、 国内で は 自家用車 によ る広域旅行 が主体で、- イ クエ一昨沿 って ドライブ ・イ ン、 モ-テル、 レ ス トラン等 の食料品店 、宿泊施設が立 ち並 び、 これ らのチ ェー ン施設 は いずれ もセ ン トラル ・キ ッチ ンと コン ピュー ター によ るオ ン ・ライ ン ・システム化 が すす んでい る。-76-日本 に おけ る観 光 事 業 の 歴史 日本では古代 、中世 のころよ り貴族、武士間で物見遊 山、温 泉地へ の湯治が 流行 した。 しか し近 世はもっぱ ら宗教的動機か ら百姓、町 人のお伊 勢参 り、古 寺 参詣が さかん とな ったoすな わち室町時代後期か ら戦 国時代 に移ろにつ れて 諸国で妹 下町が発達 し、徳川時代 に入 ると諸大名 の参勤交代で宿場町、港町が 繁昌 し(有 名な十返舎 一九の 「東海道膝 栗毛
」
に出て くるよ うに )、文化、文 政年間にな ると全 国的 に徒歩、駕寵、 馬等 を使 って街道 筋を往来 した.西 国 8 8ヶ所 の札所 め ぐりな ど、宗教的動機 か ら旅す る者が多か った。 明治期 に入 ると外国人宿泊客 のためのホテルが1 8 6 8年 (明治元年 )東京 市築地 に建て られ、 これ より以後外国資本合弁 で洋式 ホテルが横浜、 日光、箱 根、神 戸 に建設 された. しか しそれだけでは外 国人 にわが国 の文化、 産業 を誤 り な く知 らしめるこ とはで きない ので、 1 8 9 3年 (明治2 6 )東京商工会議所 内に貴賓会 がつ くられ、 1 9 1 2年 (明治4 5 )にはジャパン・ツー リス ト・ピ エ ロー (現在 の日本交通公社 の前身 )が官民合弁で設立 され、戦時中社 名 も東 亜旅行社、 東亜 交通公社 な どに変更 され たけれ ども、 19 63年 (昭和 3 8) 公益部門は財団法人 として残 し、営業部門 は株式会社 「日本 交通公 社」 として 分離独立 した。 日本交通公社 (秩 )はイギ リスの トーマス ・クック社、 アメ リカのア メ リカ ン ・エキスプ レス社 と並ぶ世界三大旅行社 のひ とつ に数 え られ、現在全 国主要 都市に 2 6 5の営業所を持 ち、 世界中 に海外事務所、現地法人を設置 して いる. 社員は昭和5 3年1月1日現在11,126名で、わが国 で観 光産業を語 る場合、 日本 交通公社 な くしては語れないほ ど、 同公社 の存在は大 きい。 1946年 (昭 和 2 1)日本交通公社を は じめ観光関係者が集 ま り、全 国連絡機 閑 として 「全 国 日本観光連盟 」を作 った. 1948年 (昭和 2 3 )内 閣 に 「観光事業 審議会 」 が設け られ、 19 5 5年 (昭和 3 0)に財団法人 r国際敏光協会 」が設立 され、 同協会 は19 55年 (昭和3 4 )発展的 に解散 し、全 日本観光連盟 と統合 して 「日本観光協会 」 となった。 19 5 4年 (昭和2 9)観光事業審議会 は観光事業振興5ケ年計画を 策定 し、19 63年 (昭和36)6月20日法律第 10 7号 を もって 「観光基本法」を 公布 した。観光憲法 とも呼ば れ る基本法 では観 光は国際平和 と国民生活 の安定 を象琴す るもので、「その発達 は恒久平和 と国際社会 の相互理解 の増進を念離 し、 健康 と文化的 な生活を享受 させ ることを理 想 とす る」 として、 日本人 の国内、 海外旅行を積 極的 にすす め ることが望 ま しいとして いる.観光事業 と観光産業 とは内容 の面ではそ う変 らな いけれども、観光 事業 が もっぱら観光客 の往来 に 即応 し、そ の受入 れ体制 を促進す る総合的活動 を指す のにたい し、観光産業を いう場合は経済的効果面を期待す る向きが強 い。観光産業 は一般に営利企業 と非 営利 (公益 )部 門 に分け られ るけれ ども、観光産業 には国の側か ら積 極的 に援 助 され るメ リッ トが大 きいo農漁村では自然壌境や年 間の祭 り行等が息抜 きに な るが、都市周辺で は毎 日職場の緊張 、 交通混雑 、簾竜公害等に悩んでい るた め、国 は観光 リク リェー ション活 動を国 民の基本的入棺 のひ とつ と考 えて いる。 観 光事業 がひ とつ の産業形態 を成 したのは第一次大戦後で、最初外貨獲得 の 必要 に迫 られ、 193 2年 (昭和 5 )鉄道省 の外局 として国際観光局 が新設さ れ、外来客 の誘致宣伝が行なわれ た。 しか し戦時中観光事業 は中断 し、第二次 大戦後再 び活 発 とな った。 戦後 の日本憲法では国際平和 の樹立 と国際協調の精 神を 唱 って いるため、 昭和 30年代 か ら海外渡 航 の手続 きを簡素化 し、国民の 健全な旅行を普及す ることを 目標 に観 光事 業振興 法、 観光施設整備4ケ年計画 を樹立 した. また従来 の国立公園法 を改正 し、国立公 園に国定公園 および都道 府県 立 の 自然公 園を加 えて 19 57年 (昭和 32)に 自然公園法を制定 した。 また国は公共 的な側 面か ら個 々の観光企業 に指導 ・助成を行 っているけれども、 とくに観 光産業 の三本柱 といわれ る交通業、旅行業、宿泊業 の育成 を図 り、各 地 の観光協会、観 光連盟、 業者団体をつ うじて指導 ・助成を行 ってい る。 日本は1960年代か ら輸出貿易が 伸展 し、国民所得、生活水準 の向上 は海 外旅行 の自由化 を もた らし、 7 0年代 に入 ると大衆旅行 の時代を迎え、 大型旅 客機の就航 によって旅行は国内、海外 を問わず一般的に普及 した。 1980年 (昭 和 55)は国内旅行回数 が国 民1人 当 り平均2.03回に達 し、延2億 4,7 00 万人 にも及んだo 従 って海外旅行者 も3 90万 人 と前年を 下回 ったけれ ども、 4) これは国民 の先行不安感、 航空運賃 の値上 げ によるものと思われ る。
-78-日本人の海外 旅行先は主 と して アメ I)カでは- ワイが多 く、 ヨー ロッパを除 いて台湾、香港、 シンガポール、韓国等の東南ア ジア観光地 も徐 々にふえてい る。従 って 日本の航空会社、観光資本、商社 等では 日本人の海外旅行 熱を見越 して米領 ク丁ム、ハ ワイ等 にも大型 ホテルを新設 して い る。 これ らの動 きに対 応 し国内の旅行業社は旅行コー スをパ ッケージにした り、 セ ッ ト旅券販売を し てい るが、 日本航 空 の 「ジャルパ ック」や 日本通運 ・日本航空捷携 の 「ル ック」 は海外旅行客 の大量 動員 に成功 し、規 格商品 の量販化によるコス ト・ダ ウンを 可能 忙しも しか し国際線で はジャ ンボ旅客機 の就航 により各社 と も激 しい貨 客 の争奪戦 を演 じ、 日本航空 はパ ン ・アメ リカン航空 の約 半分 しか獲得 してい ない。 国内では 自家用車 の普 及により国鉄 は カーフェ リーの就航 をすす め、高速道 路 の整備 によ ってバ ス旅行 を拡大 した。 各職場 で の週休2日制 の普及 により職 域、地域の団体旅行客 もふえ、新婚、家族旅行 も近距離 か ら遠距離へ移 った。 東海道新幹線 が福 岡まで延長 され、九州全域 にわた って観光客がふえて きたこ とで九州各県 の経済 発展 に大き く寄与 して いる。観光地も既成 のものより南西 諸島の離島め ぐりに移 りつつあ り、 宮崎県 の 日南海岸 より奄美 ・沖縄 の ビーチ 観光へ と変 って きた。 東京周辺 の目帰 えり観光地 といえば房総 、伊豆半 島、書士 五湖め ぐりで、関 西地区では京都 ・奈良 の古都 め ぐり、九州では長崎市、鹿 児島の指宿温 泉、大 分県の別府温 泉、四国では高知市が既成観光地 とな っている。 しか し北海道 が 国内ベ ス トテ ンの うち1位か ら3位 まで の礼幌、知床、摩周湖 の贋で トップの 座を保 ってお りさらに7位 に商銀が入 って 国民 のなかで横 づ よい人気 を集めて い るO これ らの全 国観光地調査は 日本世論 調査会が19 8 1年暮れ に発表 した もので、 2 0才以_上の男女を全国2 5 0地点 か ら選ばれたa 00O人 に直接 面 談 して得た資料で ある. これか ら見 ると沖組県 は3,0 0 0人 中、 男10 7人、 女子6 8人 とな って、 九州諸県では トップ に立 って い る。 (次頁参照 ) 旅行社の窓 口サーヴィスが宿泊先 のホテル、旅館 とオ ン ・ラインで結ばれ、 航空会社の座席予約か ら乗物 の手配 まで 瞬時にして コンビュ- タ-で計算 され る。 まず コンピューターが国鉄 の座席予約 の 「み どりの窓口」に導入 され、 日
-79-日 本 世 論 調 査 会 全 国 調 査 航、 全 日空 の座 席 予 約まで オ ン ・ライ ン化 され、旅行者 は旅行先、予 算、滞 在 日数 を いえば コン ピュー ターで即座 に詳細 な旅 行 スケ ジュールが組 まれ、案 内 の旅行 社 (イ ンバ ウ ン ド・サー ヴィス )、 ホテル、旅館 まで 手配 され、乗物 の バ ス、 タクシー、 その他 が決 まると旅蟹が計算 され、予約 クーポ ン券が発行 され る。 これ ぐらい現在 の旅行兵務 は システム化 され、旅行商品 の大丑 需要に 成功 して いる。 しか しこの システム化 のため頗大 な時 刻表 のデー タ、運賃 の等 級 づけ、経路 の接続 等が コン ピュー ターに記憶 させ ねばな らない。旅行 サーヴ ィスが一般 に商品 で ある以上、均 質化 され、 オー トメ化 され ることによって窓 口サ-ヴ ィ スは完全 に機 能す ることにな る。
沖 縄 観 光 産 業 の 歩 み 沖縄県内で観光産業が定着 したのは第 二次大戦後 の ことで、 194 5年 (昭 和 20)夏、県民 は 日本軍戦没者 10万人、一般住民 13万人 の遺体収容作業 を摩文仁、首里方面で始 めたが、戦没者 の遺骨はて いねいに 269ヶ所 の納骨 堂に安置 された。 その後間 もな く沖縄を訪れた他府県 の遺族 団が これ らの実情 を各都道府県の議会 に訴 え、慰裏塔 をそれぞれ のゆか りの地 に建立 したC こ うして沖縄観光 は遺族団の戦跡参拝から始 まり、亡 き人をねんごろに弔 う県 民の美風がいたく遺族 団を感激せしめ、遺族団の宣伝は戦跡参拝者 の群れを増 し た。 1976年(昭和53)9月、糸満市、具志頭村にまたがる平和公園は国 によって 沖縄 戦跡EL]定公園に指定 され、庵年県内外から百万人 の参拝客を呼んでいるO公 園内面ま軟 争の悲惨 さを訴え、平和 の尊 さを教 える平和祈念館をはじめ、故 山田 真山画伯 の平和祈念傍、また付近 にはひめゆりの塔や健児の塔などが散在 してい るo 基地経済が米軍 占領下で進め られ ると、 1 958年 (昭和 33)以降 通貨が ド ルに変 ったこともあ って、沖縄 では高価 な外国商品が安 く買え、本土客 の ショ ッピング観光がふえて きた。 I97 2年 (昭和 47 )本土復帰後、特別措 置法 によって観光客誘致 のため 「観光戻税 」とい う租税上の制度がつ くられた. ま ず旅行者 が特定の小売店 で ウィスキー、 その他 の商品を買 ったな らば、法 の定 める範囲内で 出城す る際.税関 の確認を受 けたのち空港 (または港 )内銀行支 店 で一定 の金額が払 い戻 され るO指 定物色名は(1) ウィスキーおよび ブランデ I (3本以内、 1本の容量は 760cc程度 )、(2)腕暗計 (2個、 1個の価格 が4万円以下 )、 (3)香水 (2オ ンス )、 (4)奥煙用 ライター、 (5)万 年筆、 (6)革製の- ン ド・バ ッグ、 (7)身辺用細貸類、(8) さん ご、ぞ うげ、 または べ っ甲製品((4)か ら(8)まで は合計1 3万 円以下 )とな っている。 本法令は 当初1977年 (昭和5 2 )5月14日までの期限付立法 であ った が、国は沖縄県の経済 情勢を勘案 し、 さらに 5年 間 の延長を認め、 1982年 (昭和57)まで と した。 最近 戻税額は79年度が19億7448万 円、 80 年度が17億a 7 9 1万 円に落 ちその年慶の観光客 と消費意欲を反映 している。 運輸省関係 の統計年報 vcよれば、栽光 入城客 とは(1)通過頼光客 (滞在許可
観光客数 と頼 光収入 0 50 -観 光 収 入 45 46 47 48 49 50 51 52 53 54 55年 (沖縄県 庁 観 光要覧 よ り ) 期 間 15日以 内 )、(2) 通過客 (滞在許 可期間 15日以 内 )、(3) 観光 旅行者 (滞 在許 可期 間30日以 内 )の三種 vc分類 してお り、 沖縄県で は観光 目的 の本 土 旅行客 が多 く、 たいて い団体旅行客 か、 3、4.人春慶 の グループ、 または新 婚客 で ある。 これ ら旅行客 Kは若者が 多 く、団体旅行 は本土旅行 社の斡旋 vcよ って県 内各地を訪れ る。 復 帰 前まで、入 城者 は 17万^ ぐらいだ ったのが復期暗 く 1974年 )vcは 4 4万 人 と 急 上 昇 し、79年、 80年 は 180万 人 に達 し、 81年 は 200 万人台 qe追 った。 これ らの急 上昇 は入城手続 きの 自由化、通貨 の制限 が な くな り、長 期滞在が 可能 vEな ったか らで.最近台湾か らの観光 客が ふ えて いるけれ ど も、 まだ外国人客 は61.00 0人 vcとどま って いる (80年度現在 )O徒 つ て観 光入城客 の主流は 本土か らの観光旅行客 で、全体の8 3
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に も達 している。沖縄県 vcおける観光入込客数推移 のマ ク ロな把 握 (沖縄 県観光 開発基 本計画 より ) 人/午 商 正入 込上限 値 港 洋 博 木 賃 嘉 蓋 壌 罪 _一■-■ 潜在 需要 I 昭 和47年 昭 和50年 潜在 需 要の な観光開発の推 回復 進 靭
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」 海洋鰍 こよ る 一時増 現在滞在 日数 は8 0年度 が3泊4日型 で もっとも多 く、 80年度 は航空運賃 の 値上げ、消費 の低迷 で前年産 平均 5.2日か ら 4.78日vE下降 したO 観 光産業 研究所 の長期予測 による と、 この ままの上昇率で い くと昭和 85年 QCは旅行者 は国 内、外国を含めて延28億2.00 0万 人 QC達 し、現在 の約a5 倍vcふ える もの と見込 まれている。 従 って 日本政 府は これ らの旅行客 の増 加v
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対処す るため シス テム開発の委 員会をつ くり、 I9 75年度か ら社団法人 「日 本観光tii会 Jを通'.;!tl:主体に、全国 軌光 情報77イルを完成 し、 7 6年度か ら東京 に中央観光 ・rlj一報 セ ンターを 開設 し、県庁所在地 の全 国 47主要 都市 vc地 方観光 情報 セ ンタ-を殺催 した。 北海道 と並ぶ観光地 沖縄県で は、 19 79年 (昭和5 4 ) 12月、県議 会で 観光 条例 を制定 したけれ ど も、同灸例 は観光立 県をめ ざ し、修景莫化 区域 の指 -83-定、集落景観保存 区域の指定、環境 の美化、不当な客 引 き行為を禁止 している。 と くvc全 国で も初めて といわれ る罰則条項を定 めて空港、港周辺 vcおける客引 き行為やお土産品
店
vc客 を案内 した者への金品の授受 vc関 し、店内への立 ち入 り調査を行 う権限 を県職員 vc与 え、観光地 vcお いて迷惑 となる行為を禁 じてい る。 なお県民が観 光 vcっ いて認識を新 たにす るため、毎年8月 IE]を 「観光の 日」 と定 め、観光週間を設けて県観 光産業 の振興を図 っている。 同条例は施行 細 則 とともに 19 8 0年 (昭和5 5 )3月1日よ り施行 された。 沖縄観光 の魅 力は何 とい って も亜熱帯特有の動植物群落、海浜 レジャー、海 中景観 vc富んでいること、個性的 な民族舞踊 と琉球料理が本土の観光地 vc見 ら れ ない特 色を誇 って い る。 たとえば本土で旅行 といえば神社仏 閣、温泉地 めぐ りとい ったパ ター ンが多いけれ ど も、 沖縄県は北海道 と並んで遠隔地 に属する ため航空会社、旅行社 にとっては交通運賃 vE加え長期滞 在vc適す る地域であるO しか し観光客の大半はノヾック旅行であり、周遊型 の団体旅行が多い。昨今流行 の個性化 商品か らす ると旅行需要 の多様化 vc備え フ リー タイムのオプシ ョナル・ ツ ァーがふえて もよさそ うな ものだが、 まだパ ー ソナル型の旅行形態は少 ない。 沖縄県を全 国的 な観光地 vcす るため、県 は1 97 6年 (昭和5 1) 6月、観 光開発基本計画を策定 した。 まず 76年度を基準年次 と して向 こ う 10年間の 長期 にわた って沖縄全域 を全国民の保 養 ・休着地 と して位置づ け、県内をあま ねく沖縄本 島、 本島周辺の離島、宮古、八重山の四圏域 に分 け、地域の特性に 応 じた地域開発をめざ し、 また地 域産業、伝統工芸、芸能、民俗行事等が観光 資源 に役立つ よ う、美 しい郷士 づ くりを ね らい地域 の経済開発効果を高め るも の と して いる. と くに自然環境を こわ さないよ う観光産糞 の立地条件か ら見て、 目標年次 の19 8 5年 (昭和60 )には入込客 の上限値を2 15万人 と抑え、 7) 望 ま しい入込量を地域毎 に模索 しよ うと している。-84-〔参考資料 〕 年 次別観 光入込客 実績 (沖縄 県観 光 開発 茶本 計 画 よ り ) (単位 :千 人 )