Title
古代琉球における経済と技術
Author(s)
石川, 政秀
Citation
沖大経済論叢 = OKIDAI KEIZAI RONSO, 3(1): 1-31
Issue Date
1977-03
URL
http://hdl.handle.net/20.500.12001/6665
古代琉球における経済と技術
石川政秀
屯くじ
沖縄人の先祖はどこから渡来したのか.………..…2 漁業技術の発達………・…・………9 農耕文化への移行…・………・……・…………・……….….15 村落共同体の経済…・………・……….………19 古代の発展方向..………・………・…・26 -1-沖縄人の先祖はどこから渡来したのか
沖縄県は地図の上から見ると、日本列島の最南端に位置し、地勢上中国大陸 に近く、黒潮の流れに沿って台湾、フィリピン、南洋群島にもつながっている。 古来「琉球」の名前をもって呼ばれるこれらの島々は、かつて中国大陸の一部 であったけれども、地殻の変動で分離し、ある時代には沈下し、ある時代には 浮上し、これを繰返しているうちに、ほぼ現在の形にできあがったのであろう。 歴史書の「中山世鑑」、「球陽」には、波が西の海に越えたり、西から東の 海へ越えたりして、低い状態であったけれども、ある時代に浮きあがったとし ている.1万8千年前まで地球の3分の1が氷河でおおわれ日本列島の気候 は今より十度くらい気候が低かったとしたら、ちょうど今の北九州の福岡ぐら いの気候にあたった南西諸島周辺は、各地から鹿やイノシシを追いかける原始 人類が見られたのであろう。先年、伊江島海岸にあるカタ原洞窟から人骨や石 器が発見されたけれども、それらの人骨や遺物は洪積世の中期、すなわちいま から3万5千年前、原始人が中国大陸から渡ってきたときに、残したものとさ れ、遺物の鹿の骨器は彼らが狩猟用に使ったものだと考えられている。昭和37年、時の琉球政府文化財保護委員会は那覇市山下町の洞窟から3万
2千年前と見られる7,8歳ぐらいの女の子の骨を発掘したけれども、その際 Quと測定された消炭、骨器も出土したので、これらの地域では原始人が洞窟の なかで生活が営まれたと考えられている。 昭和42年、大山盛保氏は沖縄本島南部の港川採石場からほぼ完全に近い原始. 人の骨を岩石の裂け目で採取し、また獣骨も発掘した。原始人がナウマン象を 追いかけ、鹿やイノシシを狩猟していた洪積世とは、今から150万年乃至1 万年前とされているが、そのころの琉球列島の東方や南支那海側は深い海溝 にさえぎら払約60万年乃至50万年にかけて本土、中国とも分断し、大小無 数の島々が点在するにいたった。今日本土各地で見られる多くの台地、丘陵や、 また琉球列島の台地、丘陵もこのころにできあがったのであろう。 本土では長崎県の福井洞窟から3万9千年と見られる石器が発見され、静岡 イ -2-県の三ケ日、平川遺跡からもほぼ1万年前と見られる人骨が発見されたけれど も、これらの遺跡から発見された類似品は沖縄本島でも見つかり、鹿の骨をフ ォーク状にとがらせた道具だと思えるが、最初の人類は狩猟を生業にしていた ことは間違いがない。彼らは海岸に近い洞窟で群居生活をし、山野を駆けめぐ って鹿やイノシシを狩猟し、野獣を追いかけて漂泊し、病気・災害におそれお ののきつつ、哀れな生活を送っていたのであろう。沖縄の人々はいまでも洞窟 を霊域と考え、先祖居住の場所として拝礼を行っている。 や口, 彼らは石の鍼からできている矢や弓を用いて狩猟し、犬を使っては犬弓|き、 槍や槍落しなどの原始的猟法をしたらしく、沖縄本島北部では最近まで村落の
なかに,人、2人の鍔j(i):おり、狩猟はさかんだった。このころは男子力漉や
イノシシ狩に熱中すれば、女子は植物採集に出かけて木の実、球根類電生の植 物を採集し、あるときは海辺で海草類、貝類も採集したのであろう。原始時代 の琉球列島は生産性が異常なほどの低さから、とうてい狩猟生活で飢餓をみた すことは困難だったらしく、間もなく漁業も始まったと考えられる。沖縄本島 東海岸は黒潮の流れが南方から押し寄せ、西海岸は対島暖流が岸を洗い、これ らの流れに乗っておびただしい魚群が本島・離島の沿岸めがけて押し寄せ、豊 富な漁場を形成している。本土、台湾、各地からこれらの漁場めがけて漁民が 押し寄せることは今も昔も変りがない。 琉球列島の考古学的発掘によれば、旧石器時代とそれに続く貝塚時代との間 には、かなりの空白が認められるけれども、いったいいつごろから漁業がさか んとなったのだろうか。また稲作技術がいつ入ってきたのかOA新石器時代に中 国の中南部沿岸から漁業民が九州南西部へ移住し、これらの漁業民がまた稲作をもたらしたのではないかと考えられてI望(
本土で稲作栽培が始められたのは縄文後期とされているが、水田耕作技術が一 般に普及したのは弥生時代、すなわち紀元前2世紀から紀元前後にかけて各地 に普及したが、元来水田耕作技術は中国で完成し、縄文後期に日本に入ってき たけれども、それ以前は陸稲を焼畑農法で細々と生産していたらしく、この水 田耕作技術を持ち込んだ民は中国沿岸に住んでいた漁業民であった。 これら漁業氏は北九州の博多から九州南端に及び、海岸づたいに西日本一帯、 献臘 hと.--- -3-東北沿岸にも移動した。紀元4世紀ごろさらに有力な騎馬民族が朝鮮半島南部 から壱岐、対島を経て九州に上陸し、先住民を征服しつつ、4世紀末から5世 紀末にかけて大和地方に強力な中央政権を確立したというのが、有名な江上波 夫氏の「騎馬民族征服説」であるけれども、日本の皇室を形成した氏族が、は たして満州から南~下した騎馬民であったかどうかは、大いに異論があるだろう が、彼らが先住民に金属器、馬を使うことを教えたとすれば、よりすぐれた文 化をもつ移住民が、新しい血液と文化をもたらすたびに、その社会にひとつの 変革をなしとげることは、東西の文化史に共通する史実である。 日本本土で稲作が普及するにつれて、弥生中期から鉄製の刃物、斧、槍、鋸など が製作され、弥生後期から鉄製農機具も普及したけれども、南方の琉球に及ん でくるのはそれよりも7,8百年もおくれている。それまでの沖縄本島、先島 諸島では縄文時代の農機具、掘棒(長い棒の一端をとがらせて±を掘る)、石 !I 第1表沖縄諸島編年表
11」
--4 多和田真淳氏の編年表を高宮贋衛氏が修正した年表である。(沖縄本島の先史文化一概 観、昭和36年) 斧、石鍬などが使わオム農耕時代に入ってもきわめて生産力は低く、台風、旱 伐、病虫害、鼠、イノシシの横行にまかせて、自然災害、病虫害におそれお -4- 高官氏の編年 遺跡 O】4による測定値その他 前期 上半 下半 伊波、八重山、熱田原(一部 下平)、嘉手納(-部下平) 浦添、兼城(-部下平) 大山↓、城嶽 熱田原 1408±80年B、0. 八重山710±80年B、0. 嘉手納、浦添(九州縄文後期 土器片出土) 明刀銭出土 中期 カヤウチパンタ、宇佐浜A 赤犬子 後期 具志原、備瀬、アカンジャンガー 野国、津堅、米須、川田原、 謝名堂、ガラビ壕 具志原、備瀬、須玖糸(弥生 中期)土器出土 野国、開元通宝出土(表採色) ガラピ壕760±60年A、,. の晩期) 参和田氏 城時代 フ エンサ城、具志頭城、 ヒニ城、糸数城、具志川域 勝連城 須恵器、青lBil器、鉄製品(刀 子が主)が出土 炭化米、炭化麦が出土ののいていた。
沖縄本島、離島、先島で発見された貝塚は約120といわれるカミ発掘され
た貝塚の土器は5千年前がいちばん古く、昭和50年、読谷村渡具知海岸から 5千年前と見られる曽畑式土器が発見されたけれども、(これらの土器は熊本 県の曽畑貝塚から出土したものとよく似ているので「曽畑式土器」と呼ばれるが)、伊波貝塚からもこれと同じものが出土しているのを見ると、琉球では5
千年前から貝塚時代が始まったのであろう。沖縄本島のフェンサ城から発見された須恵器は弥生時代の後期に属し、これ
らの時代から外来文化の影響を受けはじめ、はじめに芋、粟、稲、鉄器がつづ~」 いて渡来した。熊本大学の松本雅明教授によると、「これらの須恵器は本士の 影響があるにしても、沖縄列島で焼かれたことはたしかで、伝来品ではあり得 ない。その窯跡も将来発見されるにちがいない」と、本島内での窯焼成を強く 油2主張している力えこれらの土器が沖縄本島で使用されたことは、原始時代でも
ある程度の文化、技術を持っていたものと考えられる。その一例として粟のような穀物は、土器のようなものでしか貯蔵できないが、貝塚時代、稲作渡来以
前に粟が栽培されていたと考えられる。粟の調理法はまず孟松竹の節の一端を 残して切り、そのなかへ粟を水でといでから入れ、木の葉で上端を包んでから 妖火の中へ入れておくと、暫らくするとおいしい粟が炊けてくる。琉球列島全 体に竹林があるかどうかは問題だが、竹林のない地域ではシャコ貝を使って炊 いたのではないだろうか。一般に食料資源としてはヤムイモ(山の芋といわれ る)、サトイモ、タロイモなどが挙げら払根菜類を常食としていたのであろ う。 まず琉球列島に先に渡来した常民の文化とはどんなものだったのか。、久米邦 武博士は最机アジア高原に住んでいたウラル、アルタイ語系に属する民族が 移動を開始し、インドに南下し、さらに南洋に出て、飛石づたいに南西諸島を北上し、黒潮の流れに沿って九州南端に上陸したと推定し、これら民族の移動
中、琉球列島に落ちこぼれたのが琉球人の先祖と考えた。また明治38年、人類学者の島居竜蔵博士も雑誌「太陽」紙上に、八重山石垣市の獅子森に15,
6世紀までマレー人が住んでいたと発表した。 #‘ -5-当時、日本民族の起源を南方から北上した人種とする説は一笑に付されたけ れども、最近考古学的発掘がすすむにつれて、再び脚光を浴びるようになった。 九州大学の金関武夫教授は八重山波照間島から石斧を発掘した際、この石斧が ルソン島リザール州で発掘したものとよく似ているところから、波照間島民は ㈱3 インドネシア系ではないか、と推定した。八重山群島で14,5世紀まで原始 的な生活が続いていたとすれば、ポリネシア系農耕文化が入ってきたと考えて も、別に不思議ではない。沖縄本島ではこれまで豚が山へ逃げてイノシシにな ったと考えていたけれども、熊本大学の国分直一教授は八重山波照間島の下田 原貝塚を発掘した際、はっきりとイノシシを飼っていた形跡が見られると主張 ㈱4 した。 宮古列島では先史遺跡が見つからないところから、宮古人は八重山から移住 した人の子孫ではないかと見られるが、八重山で先史時代に土器が登場するこ ろ、沖縄本島でも土器が使われたらしく、知念村の熱田原貝塚からは平底の低 い土器が発見されたけれども、粟の貯蔵に使われたのであろう。そう考えると、 この地域では紀元前1,400年ごろまでは水田耕作が始まってなく、粟が栽培さ れたことになる。原始時代後期稲作と関係のない石包丁などの農機具が発見さ れた蝋炭化米が発見されていないところから彼らが砂丘からグシクと呼ばれる 丘陵台地に移り住む以前、なお弥生式土器が本土から渡来しても、なぜ5百 年以上も稲作のできない砂丘上に住んでいたのか。彼らは長い年月後背地の畑 でヤマイモ、サトイモのような根菜類、粟を栽培し、稲作技術は長い間普及し てはなかったのではないだろうか。 朝鮮では紀元108年、漢の武帝が朝鮮の衛氏を倒し、楽浪郡ほか4郡を漢 の植民地とし、楽浪郡をとおって漢文化は南朝鮮から北九州へ流れ込んだけれ ども、つづいて青銅器、鉄製農具も輸入されはじめ、さらに1世紀ごろ朝鮮の 技術者が相次いで入国、帰化して日本文化の先導者となった。これら移住者の 波は原住民を北へ、北へと追いやり、移住者の波は本州にまで達した。金石器 文化を持った北方人種がまず九州から本州へ浸透し、北九州の一角に宇佐文化 圏を形成した。これら移住民は勢力を各地に伸ばすようになって群小国家を築 いた。 -6-
紀元前3世紀ごろ、これら移住者によって稲作栽培が九州から本州へ、また
九州から南島へと普及の波をひろげはじめたころ、これら弥生文化を持った九州地方では朝鮮文化の影響を受けつつ、耶馬台国、伊都国、末蘆国などが生ま
れ、中国地方では出雲国、吉備国が成立し、これらの地方政権はやがて大和国家に征服され、ほほ上古日本ができあがった。弥生後期の3世紀ごろ、魏の使
者が書いたといわれる「魏志倭人伝」によると、これら群小国家では鉄器が使 われるようになると各地で大乱がおこり、政情不安に恐怖をいだいた耶馬台国ひみこ の卑弥呼は最初滴り||の公孫子の支配を受け~後にそれを倒した魏の国に朝貢し たが、そのころ本土各地では水稲耕地が普及しているにもかかわらず、壱岐、対島などでは良田がなく、住民は船に乗って朝鮮と交易を開き、あるいは漁民
が体に鰯を施し、海にもぐって魚や鞄を取って生活していたと述べている。
封つり: 「好んで魚i1fI(鞄)を捕え、水の深浅無く、皆沈没して之を取る。」(魏志 倭人伝) これらの漁民は海中にもぐって魚や鮪を採取して生計を立てていたが、九州あつみhロハと 人は彼らを東雲氏、隻人氏と呼び、これらのi魚民は全国津々浦々にいプこった。 あ戎 昔は東北を「あずま」と呼んだり、今日志摩半島の海女プとちを「海人」と呼ん でいるとおり、彼らは海人部を構成し、各地を転々と移動していたのであろう。 郷士史家伊波普猷は沖縄人の先祖を九州の海人部に求め、彼らはある日海の彼 方にある島々へあこがれ、丸木舟に乗り、集団をなして渡来したと考えた。彼らは奄美大島に上陸し、さらに沖縄本島に来てから海人は奄美に転じ、アマミ
キヨになったと解釈する。(キヨは沖縄方言では人になる)その際、これら海の彼方から訪れた稀人を沖縄人はアマミキヨと名付けたらしいが、それは彼ら
が稲作栽培をもたらし、定住生活を教えたところからくるのであろう。最初 うけK,、四Wゴロ'vu妙知念、玉城の受水走水で稲作が始められたらしいが、その地方では鳥が
稲をくわえて落したと伝えら奴対岸の久高島では穀物の入った壷が漂着し、
それから五穀が普及したけれども、ただし籾は入っていなかったとしている。 黒潮の流れが南洋群島からフィリピンのバシー海峡を北上し、先島から本島知念岬、勝連半島に達するが、沖縄本島の東海岸が先に開発され、本土との往来
もこの地方から開けたのであろう。それゆえ南方系の根菜類もまず渡来し、稲
-7-作もこの地から各地へ普及したのであろう。国頭村の東海岸は最近まで交通の 第1図琉球近海の黒潮の流れ
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便が悪く、海岸の段丘では焼畑農法が行なわれ、ヤムイモ、サトイモが栽培さ れ、まず初年度にサトイモを植え、2年目にアワを栽培する農耕が行なわれて いたが、国頭の各地に行なわれた「芋の折り目」は、はじめサトイモやヤムイ モを収穫して祭ったらしいが、中南部では水田の開墾が進んだために「イモの 折り目」は早くすたれてしまった。「琉球国由来記」にアワの祭りが稲作儀礼よりも古くから見られることは、
本土から稲作が渡来する以前、南支かポリネシア方面からアワ、サトイモ、ヤ
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繩爵 11 南大 109 ● ● 烹島 。沖不束島 = ̄ 11 日本近海の海流図 '5。 1! 0● 〃 硫 ● 0 母島 覧島 -251ムイモが入っていたことを意味し、柳田国男氏は晩年、「海上の道」を書いて、 日本人の先祖は中国の逝江沿岸から琉球列島をつうじて九州に達したのではな いかという大胆な説を発表したが、その際、中国大陸では3,500年前までま だ貨幣は出現せず、宝貝が珍重され、この宝貝(子安貝)の主産地が東南の琉 球列島であったと考えた。彼は沖縄人の先祖は南海の海底深く眠る宝貝を求め て、各地から入り込んだ民と推定したけれども、もし黒潮の流れを追って行く ならば、波照間島、蘭紅喚、パタン島へとたどりつく。 最近佐々木高明氏の研究はパタン島のヤムイモと漁業技術に注目し、琉球の先 住文化の起源をここに求めている。この島では最近までイモ類を主食とする焼 畑農法が行なわれ、とくにヤムイモは起源が古く、価値の高い作物だと住民は 考えている。さらに漁民はタタヤと呼ばれる小型の板を組み合わせた構造の船 に乗り、4月から5月にかけてトビウオとシイラを漁獲する。さらに台湾から移住 したヤミ族の住んでいる蘭紅喚へ行くと、主食はサトイモに変っているが、男 子はトビウオ漁業に従事し、女子は掘棒を使って水田耕作しているという。 これら漁業に男たちが従事すると、女たちは農耕作業に従事する労働慣習は 今でも久高島、離島周辺では行なわれており、原始時代に支配的であった生産 形態である。魚が海の寄り物であったころ、これら南方や北方の島々を彼らは 祖霊のいます国として「ニライカナイ」と呼んだのであろうか。いすiれにして も五穀や大漁が海の彼方から運ばれるという思想は、漁業民にありがちな信仰 形態であり、漂泊の民に共通のものであろう。 注1比嘉春潮著「新稿沖縄の歴史」121頁 2.松本雅明箸「沖縄の歴史と文化」16頁 3.金園武夫教授論文「八重山の古文化」谷川健一編「起源論争」所収86頁 4.国分直一、佐々木高明編「南島の古代文化」31頁 5.柳田国男箸「海上の通」34頁 6.国分、佐々木編前掲書79頁以下
漁業技術の発達
古代における民族移動は、第一にある地方へ人口増加にともなう圧力が加 -9-わり蕊二に何らかの政治的変動がある部族を他の地方へと移らざるを得ないよ うにするのが民族の大移動をひきおこす要因である斌中国史によれば秦の始 皇帝にいたるまで、貨幣は使用されずにもっぱら宝貝が珍重され、段の時代か らすべての財宝、金銭取引関係まで貝の字をもって表現していた。たとえば 売買貿貨貯販資貧貫寶貸賑購や、人事関係では貴賎賓賜貰賃賀賄などを現わし ているが、これらすべては貝の象形文字にほかならない。これらの貝類の主産 地として琉球列島周辺、とくに宮古地方は古代から豊富な産地として知られ、 今も近隣の島々へ供給している状況である。 まだ金銀が鋳造されず、山が照り輝く鉱石を産出しなかった時代、中国の民 は宝貝の主産地として知られた東方の海、黒潮の及ぶところから運ばれる宝貝 に眼を輝かし、自家愛玩の道具としたことは想像に難くない。琉球列島の漁業 民が単に魚群を追うのみでなく、海底深く眠る宝貝を求めて沖縄本島周辺、宮 古の浜辺近くに居を構え、獲物を捜しつつ海辺づたいに移動をしていったので あろう。これら南海の島々では先住民が根菜類、バナナも栽培しており、牛、 豚、山羊などの家畜も飼育していただろう。(バナナは熱帯地方では常食になっ ているが、湿地帯でもよく自生するし、糸芭蕉は衣服用の繊維ともなる。) タロイモは一名ミズイモともいわれ沼沢、湿地帯でよく栽培される。苧麻も 乾燥地帯に自生し、縄文時代からよく衣服に用いられた植物である。 中国人はこれらの貝類を欲しがって南方地域を侵そうとしたが、撃退されて 北方の夷狄に向ったようである。しかし彼らはどんな手段を講じても、宝貝 を交易を通じてたぐり寄せようとしたのであろう。中国人は東の琉球列島、南 方の台湾などの民を東夷または島夷と呼んで蔑視したけれども、多くの人々に とって宝貝を豊富に産する琉球列島こそ、東方に浮ぶ宝島と考えたにちがいな ㈱l い◎ 腕に覚えのある漁師たちは北から、南から数人、数十人が丸木舟に分乗し、 群団をなして押し寄せたが、まず彼らを驚かせたものは先住民が海浜近くに生 活しており、山岳地帯が密林のままで放棄されていることであった。 八重山の石垣島、西表島などは比較的山岳が多いところから水利の便がよく、 稲作にも適していたが、マラリヤのような風土病が椙騒し、猛獣毒蛇も棲息し -10-
てのに反して、古成層からできた国頭山地では大小の山々が重なり、その合間
を縫って川が走り、侵食された山地、台地は癖せ、椎や樫の広葉樹林が山間部
をおおっていた。彼らは水、住居、耕作に適する盆地を求めて移動していった
が、本部半島の今帰仁地方は石灰岩地帯が広いため、土地の生産力も高かった
のだろう□ここに有力氏族の居住の場所となったことは開発村落を他地方より
も多くした理由で、沖縄本島の中、南部は波浪状の台地が多く、東に金武湾、
中城湾が断層によってでき、西海岸の北谷、豊見城は隆起して格好の低地、海
浜を成していた。大小無数の河川によってできた入江では、沖積土が堆積して
農耕に適しているから、人々は群れをなして低地に集まったのであろう。戦前、
那覇市城岳から小学生が明刀銭を採取して話題を呼んだが、低地、台地は今で
もめずらしい発掘物が出るときがある。戦国時代末期の明刀銭がどうして沖縄
本島に来たのか、今もって謎といわなければならぬカヘやはり中国から漁民た
ちが海浜地帯に入り込み、居住していたと考えたほうが適当であろう。毎年定
期的に襲ってくる台風、その後に訪れる飢鐘、旱魅を考えると、これらの先祖
は海浜に近い、毒蛇の棲息しない砂地から通風のよい、見とおしのきく丘陵地
帯へ移り住んだもようである。1年近くも台風が続き、そのうえ湿気も高く、
病虫害の多い琉球では野獣毒蛇と戦って生産力を伸ばすことは、そう容易なこ
とではない。 .ひ上陸した人々は男子が漁業に従事し、磯回りをしたのであろう。サグリと称
する、素手で岩蔭に潜むタコ、サカナを手握みする方法は原始的だが、沖縄の
漁業はこれらの手掬い漁法から発達したと思われ、ソウケ掬いで円形の竹編み
ソウケを使ったものから、次第に発達して又手、網を使用するようになったり、
あるいは松のトポシをつけて漁火を用いて夜漁りをする。3,4月から夏にか
けて男子は肩にザルをかけて漁火をともしながら、浜辺に向かう姿は戦前の漁
村でよく見かけた風景であるが、11月ごろ黒潮に乗ってくるイカ釣りも、ま
たこの部類に属するものであろう。男子が漁業にいそがしいと、女子は掘棒を
使って農耕に従事した。山を焼いて焼畑にする開墾は男子が行い、できあがっ
た畑での植付け、除草、整地はすべて女子の手を要した。久高島では明治36
年土地整理の際、共有地を私有地に分配しようと男子で決議したところ、女子
-11-のほうが「男子の決議は決議ではない」として、無効を宣言し、女子のほうで 改めて決議したという。農耕作業が女子の専業であったことを示す好例であろ う。 漁村では海岸は生活の場であるとともに競争の場所でもあり、その海岸線の 左 境界をめぐって、とき|こは血で血を洗う場所にもなりかねない。その結果、漁 力違 垣を設定しなければならなくなる。最近まで大宜味村、平安座島fj:どで見られ た方法は曰を決めて隣接村落の長老を招いて協議し、境界線の目じるしとして 岩石か樹木をもって標識とし、それを基準にして海面に仮定線を引く。これを 土地の人々は「ミトウシ」と呼んでいるけれども、ミトウシの線で囲まれた水 域が彼らの漁場であり、漁業権が設定されると、奥行きを成人男子の肩の丈ま でとし、それ以上は自由に採取される場所となる。干潮時に隣り村の承認を得 つりあい陸 つ1,じ」二 て漁垣を作り、背丈:以上を「釣合所」または「釣所」といし、、一般に解放され る共同漁場になるが、協定漁場には漁場の条件に従い、漁場の方法が決められ たがき る。比較的海底の変化が少い海辺では定置式の漁垣が築かれ、砂の多U、浜辺で こも
は殿、寶笠、蕊ブスなどが営まれる。漁垣は篭りの部分と袖の部分から成り、
寵りの部分は入口を海辺に向けて.の字型につくり(次図参職、間口2間半、
奥行き2間、高さは2尺乃至3尺の石垣を積みあげる。島の人々がナマス、ヤ クと呼んでいるこの部分は、中央に幅3尺ほどの魚群の誘導口をつくり、その 両側に1坪ほどの部屋が用意されている。漁師たちはこれらの漁垣めがけて沖 から魚群を追い込み、木や草をおおっているナマスやヤクのところで魚群を捕 獲したらしく、「縄かけの内」と称する漁垣は、当然お互いの権利を尊重しな ければでき尊いもので、他村落の祝女を招いて、漁場の災いを止めさせるよう、氏族Dijfff4を先頭に全女性総出で「ウンジャミ」(海神祭)を盛大に挙行した。
沖縄本島では先史時代後期に入ると、人々は再び台地、丘陵から海浜、砂丘 に下っているが、このころ細目の刺網が使われ、放置して刺させたか、あるい 追い込んで刺させたか、どちらも原始的ではあるが、魚を遠巻きにして追い込 み、刺させて捕る漁法である。この網は元来荒目の網で魚を追い込んで角や脚 を踏み込ませて捕獲するものから、漁網にも使われ、さらに細目の網になった のだろう。 -12-漁垣の構造
夢墨lIf2-
熟
---2.5閲一二一.---=-- 島袋源七氏「阿見奈波の人々」沖縄文イ畷説298頁以下より。 15世紀に勝連城主となった阿麻和利は、北谷屋良村の出身で元来漁業を生業 としもある日クモの巣を見て漁網を発明したと伝えられているが、1458年 ごろから彼の考案した漁網はまず東海岸で使われ、だんだん全域に普及した のであろう。京、鎌倉にたとえられた勝連文化の裏には、彼の漁網によって数 多くの大漁があり、彼の名を不朽にしたのだろう. 漁網法がさかんになると、ヒメジャコ貝の先頭部に穴をあけ、錘りに使って 袋部、袖部をつけるなど、さらに漁獲物は増加し、塩づけ、天日干しにする加 工も考案されたが、それには海岸、海浜が便利がよく、遠浅の海辺では「兼久」 の名前のとおり、磯浜よりも砂浜、土砂の多い泥地浜が底物捕獲に適していた のであろう。漁垣から漁網へと発達するにつれ、漁師たちは集団をなして魚群 を追いかけ、3人づつ組んでくり舟に乗り、1日乃至2日がかりで遠海まで出 漁し、漁舟の列でまず魚群を追い、中剛央に袋のついた網をi前面に張ると、漁師 たちは手に錘りや鎖のついた縄を持って、もぐりながら魚を網の中央へと追い 込む。漁獲物はたいてい蟻、マグロ、アジ、イカ、トビウオなど、ときにはも ぐって高瀬貝、サザエ、夜光貝を採取したり、ときには海参草も採る。沖縄本 島南部の糸満人などは追込漁業を営み、もぐっている最中もフカやサメと格闘 してそれを仕止めた話は数多い。 -13-彼らは貝や骨を使って蕊や職を作り、網を用いて魚を採ったが、いずれ
も沿岸漁業の域を脱せず、1500年ごろを境として比較的漁場を遠海に求め るようになり、分乗する漁船もそれぞれ遠洋に適するものとなった。荒海や深 海では回遊魚のカツオ、マグロ、トビウオなどを採るけれども、彼らは丸木舟か筏で遠くの沖まで出て、回遊魚を得意の鑿で突いたりしたが<もぐっている
ふく’どし 最中フカを恐れて赤い樟を着用したらしい。琉球近海の据礁、b:壜礁、暗礁など 0。,F1 は危険な水域ともなるが、いつぼう堅牢な松、椎の木、杉材など力造船|と使われ 「くり舟」は名のとおり昔は松の木をくり抜いたものから発達し、現在は杉板 と組み合わせてサバニにしている。干潮時には磯は干瀬となって貝類タコが 採れる漁場となるカヘ伊波普猷はアマミキヨを磯回りの人と解釈し、漁業がと くに古代人の職業だったと考えている。宣徳4年(1434)に琉球から明国 に献上した貢物目録のなかには海巴五百五十万個という彪大な貝殻を載せてい る。海巴とは宝貝、すなわち子安貝のことであり、これらの宝貝は南海の海辺 ではいくらでも転がる産物である。14,5世紀沖縄本島、宮古、八重山のア ジの船がこれを満載して南方地域と交易しだのであろう。…~ 沖縄本島の中、南部にはグシクと呼ばれる丘陵が多く、今日城の漢字を宛て ているけれども、元来野づらの石を積んで囲ったところが多く、お獄のあると ころではグシクはなく、グシクのないところではお嶽が存在しないところが多 い。グシクの起源については仲松弥秀氏は人骨がよく見出せるところから、お 嶽などの拝所からおこったとしている.すなわち「祖霊神の屋敷」神のいられ所と解釈してい鷲しかし嵩元政秀氏は原始社会の終末期から古代社会へ移行
する時代、防禦または自衛意識をもってつくられた集落の遺跡だと規定してい I生)6 る゜これら移行の段階でかつてのお嶽を囲い、聖域を城内にしたらしく、これ らの城趾から今日でもおびただしい南栄、元時代の青磁南蛮陶器の破片が出 土するけれども、青磁には中国福建省、広東省の民窯で焼かれたものが多く、 形は碗、鈍盤などがあり、なかには生焼きの粗製品も見出されるが、南蛮が めの優秀品も多い。これらの出土品からすると、古代琉球人は宝貝を満載して 中国沿岸に行き交易ししたり、あるいは南方地域と蘇木胡椒と交易したので あろう。秦の姑皇帝時代以降、銅貨が鋳造されてからは、おいおい価値も減じ -14-㈱Z 士であろうカヘなお補助貨幣としての役割は、そうとう長く果したのであるっ。 注1.柳田国男箸前掲書193頁 2伊波普猷箸「古琉球の政治」全集第1巻448頁 3.島袋源七氏論文「阿見奈波の人々」沖縄文化叢説298頁に例示してあ・ のろのろ 4.祝女本土の神主とちがい、沖縄の女人祭司を「祝女」とI呼ぶ。祝女は氏族から選 ばれた巫女があたり、祝女には領地として祝女地が授けられる。祝女はマキヨの原始 ねヨコヘ, 村落時代に根神からおこり、アジ(按司)の時代にその姉妹カヌ祝女となって間切内の 根神を主宰した。 5.仲松弥秀著「古層の村」226頁 6.嵩元政秀論文「沖縄における原始社会の終末期」南島史論35頁 7.柳田国男箸前掲書219頁
農耕文化への移行
南方系の根菜類南支系のアワを中心にした文化の上に北方系の稲作が入っ てくると、優越した技術体系を持った民族は次第に海流や季節風に乗って北上 した南方系民族を融合同化しつつ、支配機構を確立していった。彼らが後期砂 丘での漁業生活から米作中心の丘陵、または山狭などを利用してつくられた村 落へ移る時期は学者によって一致しないけれども、たとえば仲原善忠は紀元3、 4世紀ごろと推定しているのにたいし、多和田真淳氏は900年頃、10世紀 初めと推測している。 このような学者の推測が年代に大きくくいちがう理由・のひとつは、稲作技術 の普及がかなり長い年月を要したことを意味するもので、稲作技術の進歩はだ いたい次のような順序をたどってきたものと思われろ。 (1)天水田、すなわち自然の雨水を貯めて稲作を営む。 (2)山間の合間を縫って流れる水を利用して次々と傾斜面に水田を設ける。 (3)灌概用の池を掘ったり、あるいは川の水を矛l用して大規模に水田耕作地帯 を設ける。 琉球ではいたるところ水田が存在するカヘほとんど全部が天水田によってい たため、明治25年ごろまで凶作が多く、農家は不安感を抱いていたことを仲 -15-松弥秀氏は指摘しておら鵬。明治2,年ごろ、甘薦作付制限令が撤廃される
や、農民は甘薦作が有利なことを悟り、畑化していった。沖縄本島ではこれを 「田倒し」と呼んでいるけれども、天水田は生産性が低いため、漁業狩猟段階 から農耕段階へ移行したのは、比較的長い期間にわたっていたものと見なけれ ばいけない。従って沖縄本島、宮古、八重山では漁携が主体であった。また野 国貝塚はじめ各地から開元通宝の古銭が出士していることは、漁業に依存する 生活がそうとう続いたことを意味し、新しく日本におこった稲作、金属文化の 波はまだ琉球の縄文文化を洗い流すほどの力を持たなかった。本土では紀元前3世紀ごろから北九州に水稲栽培技術が普及しているが、そ
れ以前の縄文時代でも陸稲、大豆、ヒエなどが栽培されており、戦後秋田県千 尾村の堅穴から大豆、籾などの炭化物が発見されている圦弥生式土器の底には籾の付着痕が認められまた倉敷市の上東遺跡の深さ2.8メートルの深層か
らは稲の花粉が出たことなどからも、縄文時代の晩期から稲が栽培されたものと認められている。しかし照葉樹林文化を持った移住民が中国大陸から移動す
るまで、本土では10年を周期とする焼畑農法が営まれ、山焼き野焼きの光景
は各地で見られたのであろう。先住者の焼畑農耕民はまず河流に沿ってのぼり、
川岸に近い、山の傾斜面の接近したところで、上流に向かって焼畑をひらき、
オカボを掘棒を使って植えたらしく、彼らは平地での生活を好まず、山の傾斜
面に住んでいた。しかしこれら山棲みの農耕民にたいし、海岸近くに林野を開
いた農耕民力炊第に各地に波及してくると、もっとも沼沢の多い、葦の繁り合
う近畿地方が先に農耕文化のもたらす恩恵を克ち取った。すなわち豊葦原と呼
ばれた地方に大和国家は成立し、上古国家形成の生産的基盤となったのである.
南方の海洋上に点在する琉球列島ではまず八重山諸島に北進してきた南方系
の人々が住みつき、はるかおくれて多数の北方系の民族が島々を支配したのであろうが、宝貝を求めて中国沿岸から、あるいは北方から押し寄せる漁民たち
が入り込むと、それらの人々は先進的な稲作技術をもたらし、そこでひとつの
生産力の変革と発展をうながすことになった。最初は漁業、狩猟を主業にして
いた民は、稲作農耕に移るにつれて、人口は増え、民はさらに奥地へ、上流へ
と移動をうながすことになった。原始時代の琉球人が石器、貝殻、骨器、土器 -16-などを貝塚に残してくれたが、現在の貝殻層が厚く残存しているのは食物の残 津ばかりでなく、水産加工のため大量に貝類を採取しそれを加熱処理していた ためだろう。いつばんに琉球における貝塚前期は本土の縄文後期に相当するけ れども、縄文前期の熱田原貝塚、八重島貝塚、宇佐浜貝塚などから奄美大島の 宇宿貝塚の土器と同一のものが出土しており、土器の表面に刻まれた文様、穀 物を貯えるためのロがせまい壷などがそっくり似ていることから、考古学者は これら移住民力滝美大島から舟で沖縄本島北端に上陸し、宇佐浜貝塚を残して 移動したものと考えている。昭和29年、琉球政府文化財保護委員会の発掘で 片匁石斧の農耕用石鍬が発見され、昭和51年、県教育庁が今帰仁村西長浜原 遺跡を発掘した際にも石斧6個、約50センチの大型石皿大山式土器(押 刻文)が出土したことから、これらの移住民は堅穴式住居をつくり、ヒエ、粟、 小豆、ウク豆などを栽培していたのではないか、と考えられる。 八重島貝塚萩堂貝塚、伊波貝塚なども琉球列島では縄文前期に相当するカミ 明治37年、島居竜蔵博士は萩堂貝塚を発掘し、続いて大正9年島居、大山柏 両氏は伊波貝塚を発掘した際、縄文土器を発見し、かなり長い期間にわたって 琉球人は原始的な農耕を営んでいたと発表したけれども、戦後考古学的発掘調 査が進められ、琉球列島ではかなり以前から人間が棲息し、また彼らは黒潮の 流れに沿って初夏のころ南よりの季節風に乗って八重山群島にたどりついたと 考えられた。南方、北方文化がどの地点で融合交渉したかは今後の発掘調査に ゆだねられるであろうが、沖縄人の先祖がはるか南方の彼方から、あるいは北 方の同胞から分かれ、一片の孤舟に運命を托して、万里の波涛を乗り切って来 島したことは、考えただけでも愉快な話ではないか。 原始時代後期の代表的な遺跡として久米島の具志川村地荒原貝塚があるけれ ども、昭和30年発掘調査の際片匁石斧が馬の歯や骨とともに発見されたこと からすると、あるいにこのころから農耕時代に入っていたのではないか、と考 えられている。また宇佐浜貝塚からも三味線胴型の石斧や片匁石斧も出土した ことからすると、まず新しい移住者は九州南部から大島郡宇宿に移動し、さらに 本島辺土岬に上陸し、宇佐浜から国頭各地へ、さらに中、南部へ移動したもの と考えられている。これらの新しい移動民は先住の萩堂貝塚人に影響を与えつ -17-
つ、稲作技術を普及させたのであろう。 原始終末期のグシク時代に入ると、人々は標高数メートルの砂丘から丘陵地 帯へ移動をし、住居をつくって集落を形成する。上古日本に見られる氏族す なわち「ウジ」と称する血縁団体は琉球では「マキヨ」「ハラ」(腹)「ク久 フグ」と称し原始村落を意味し、最初の血縁村落はたいてい山の中腹、丘の上 か、傾斜地を利用して開設された。傾斜地が選ばれたのは排水のことを考えた らしいが台風を避けて南側に向け、泉井を求めて構えた。原始村落はまず丘陵、 山脈の傾斜地から始まり、それから低地に分散、拡大したものと思われる。沖 縄本島中、南部では隆起珊瑚礁が多いため、水資源は豊富であり、珊瑚礁の地 下には鍾乳洞があって、地下水の流れている穴川がある。沖縄本島では村落の 後背にクバの樹が見える森があり、村落は森(お嶽)を背景にして前方に村落 を構える。お嶽は本土の村の守護神を祭ってある鎮守の森と等しく、琉球では ここを祖先の墓地と考えている。 仲松弥秀氏はグシクの起源を墓地と考え、「グシクは一般に城として知られ ているものであるが、これも筆者は城ではなくて、神聖なお嶽、すなわち大昔 の祖先の葬所を石垣で囲ったものと考えている。本丸に凝せられている部分が お獄に当る処であって、二の丸と思っている処は祭祀場であった。貝塚や陶器 の破片が出土する瓜それは神への供物で死者への使用物として持たしめたも
のであり、瓦が出土するのは祭屋の瓦の残片であろう。」と述べてい錨鬘本
島南部には60以上のグシクがあり、沖縄の人々の名前にも城(グシク)のつ いたのが多い。グシクの発達は次のとおりと考えられる。 (1)按司以前、もっぱら村落共同体の拝所から防備を施した城砦へ移行する。 ②按司抗争から三山分立時代にいたるまで征覇のためにつくられた城。 (3)尚巴志の三山統一以後、按司居住のためにつくられた。しかし後になって から貿易倉庫のあった御物城茂ど那覇港内の小島にもこの名称が付された。 以上の3種類がそれぞれの時代につくられたが、最近宇佐浜貝塚から鉄律が 3個、川田原貝塚から1個出土したのを見ると、弥生中期から九州と沖縄との 間には鉄器がいくらか商取引されていたのではないか、と多和田真淳氏は考えていられ餅この時期のフェンサ城貝塚、勝連城南貝塚などから土器、石斧、
-18-貝製品、骨器、須恵器、陶磁器、瓦破片が同じ層に混入して発掘されているけ れども、須恵器の文様が消えているのは労働力の節約があったらしく、貝類の 出土が少<なっているのは彼らが農耕作業にせわしく、もはや土器づくりに時
間をかける余裕がなかったのではないだろ雪ろ。
このころから石斧も刃部が欠落し、叩石に変り、凹石も不整形となり、粗雑 になってきている。鉄器がどこの鍜治場で、どのような入手経路でいつ本島に きたかはまだ未解決だが、鉄器の使用によって石器が粗雑になっているのは、 人々の生活のなかでもはや石器に頼る必要がなくなったのではあるまいか。本 島では6,7,8世紀まで漁業と農業とは並立しており、鉄器が使用されるよ うになってからアワ、水稲、キピゴモ類が栽培され、人々は麻布か芭蕉布を着 用していたのであろう。織物は大昔を「クパの葉世」といわれているとおり、 クバの葉から繊維を取ったらしいが、結局、苧麻と芭蕉に資源を求めたと思わ れる。琉球では糸芭蕉は山野の湿地帯に、苧麻は乾燥地帯に繁茂しているカミ 戦前芭蕉布は農村といわず、都市といわずに織られていたから、芭蕉布と麻布 が織物の起源といえるのであろう。 注1.仲原善忠著「おもろ新訳」序文15頁 2.多和田真淳「琉球列島における遺跡の土器、須恵器、磁器、瓦の時代区分」 「文化財要覧」1961年版琉球政府 3.中尾佐助箸「栽培植物と農耕の起源」岩波新書136頁 4グシクについては仲松説と嵩元説については前に述べたが、グシクが集落の起源な るか、墓地なるかはまだ決定されていない。集落説は嵩元政秀論文「グシクについて の試論」琉大史学創刊号1970年にくわしい。 5.仲松弥秀著前掲書99頁 6多和田寡淳前掲論文130頁 7.嵩元政秀「沖縄における原始社会の終末期」南島史論所収374頁以下村落共同体の経済
沖縄本島では6,7世紀までまだ貝塚時代であり、鉄;器は除々に本土から伝 わったものの、それは局地的であり、稲作は普及しはじめたばかりであった。 -19-国頭の古成層からできた地域では昔から粟、甘藷、甘鳶などを産するが、山地 では最近パイン、茶、柑橘類を栽培しており、もっとも畜産にも適する地域で もある。第三紀層は方言で「ジャーガル」と称し、灰色の腐植土で有機質に乏 しいけれども保水力があるために干害に強く、甘鳶、甘藷、蔬菜園芸に適する カヘ余りにも粘着力に強いため耕作に人力を要する。 これら古成層、三紀層が農業に適するにかかわらず、長い間放棄されてきた のは風土病、毒蛇を恐れたからであろう。彼らの農耕は相変らず焼畑農法であ り、海岸周辺や丘陵地帯を除いてはまだ未開拓の原野と山林が前方をさえぎっ ていたから、海の彼方から新作物の種子、植物が伝わるたびに人々は農業に関 心を示してきた。本土では弥生後期に朝鮮半島と交渉を持ち土器、鉄器も輸入 されたが、沖縄では朝鮮半島とは交渉がなかったので鉄器と稲は本土か南支あ たりと交渉を持って輸入したのではないだろうカコ・ か何K, 大業2年(606)、海師の何蛮は春秋の季節ごとI乙海東を望むと、ぼんや よう りと煙霧の気があるカヘ幾千里あるかわからないと言った。その翌年、随の'陽 プiSn 帝(ま羽騎府の朱寛に命じて海東の異俗を求めさせた。朱寛は何蛮を水先案内人 にさせ、琉球国に到達したけれども、言語が適しないので、住民1人を掠め捕 えてきた。随の暢帝は朱寛に命じて尉撫させようとしたが、再び琉球は朱寛の 求めに応じなかった。そこでその布と甲を取って還ると、倭国の使者、小野妹 いや〈じん 子らは「これは夷耶久人の用いるものである」と進言しプご・帝は陳綾、張鎮 と効ユ匹 州をして義安から軍船をもって撃たせたが、一行は高華喚にいプこり、東行2日
でi拳勤iiiにいたり、それから,日がかりで琉球に着いたという。
綾は南方の諸国人を率いたため、そのなかに篦喬人(マレー人)がおり、す こぶるその語を解したといい、人を遣わして尉撫させたところ、琉球は従わな いで随軍に敵対したから、綾はそれを撃って走らせ、進んで都に入り、その宮 とに 廷を焼いた。その際、男女数千人を虜にし、戦禾I品を満載して帰国したけれど も、それ以後、琉球との交渉は絶えたといわれる。その時の東夷の見聞を書い た記録を元にして「随書琉求伝」が清代の初めどろ書かれたとされているが、 果してそのときの琉求がわが琉球なりや否や、あるいは小琉球と呼ばれた台湾 のことではないかともいわれ、今にいたるまで諸説紛々と定説を見ない。 -20-「琉求国は海島のなかにあり、建安郡(福建省の北側)の東にあたり、水行
くわんじ5日で到達する。その土地には山洞(洞穴)が多し、。王は姓を歓斬(按司)、
カコらと 力ろう 名は渇刺兜、その由来は知れないが、国は相当に古し、。土人は王を呼んで可老 ねんたidbとばらだへどう年、その妻を多抜茶と云う。そのおるところを波羅壇洞といい、蓬や論を三重
とけあるき |こし、流水をめぐらし、樹疎を垣にしている。王の居る舎はその大きさは16 とろうじゆ間、禽獣を彫亥Uしている。斗楼樹(ガジュマノレ)が多く、橘に似て葉が密生し、
条繊は髪のように下垂する。国に4,5師ありて諸洞を統くる。洞には小王が
”ようし あり、方々に村があって、村には,烏了師がいる。いずれも善く戦う者がそれに なり、みずから立って一村のことを治める。」(随書琉求伝) くわんじあんじかしら 文中に出る歓斬というのは按司のことらしく、可老年とは頭の意味らしい。 それらから見ると、もはや各村の小王(按司)や烏了師(酋長)が統べ、按司てだこ のなかlこは「世の主」、「太陽子」と呼ばれた国王もおり、洞すなわち間切を 支配していたのであろう。アジは元来アサ、アサイ、アサーという語の父親の名称から発生し、後には村落の長老や一般から尊称された呼名となった。法政
大学の外間守善教授はその語謂変化を次のように考えておられ壁アサ→アサ
イ(アサー)→アシェ→アシ→了一→アジ→アンジ
アヂ アサは元来父親か家の家長の名称として用いられたのが、血縁集団の族長と なり、家族の幸福を守ってくれる優れた人に変り、村落が血縁集団から地縁集 団に広がると、生活の知恵や武力にまさる村の長老が支配者となって数村落の 「長老のなかの長老」という意味に転化するようになった。たとえば「謝名のアサ」、「城間のアサイ」のように単なる村落の長老というよりも、数ケ
村落の歴史や生活の知恵に長けながら、次第に武力をもって支配する武将の性 格を兼ねるようになる。マキヨ(血縁村落)は6,7世紀から11,2世紀の間に地縁集団に変るが、
ぐし〈その城時代|こ入ってから政治的変革がおこって離合集iiiを繰返しているあいだ
に、マキヨの血縁村落はいつしか地縁集落に変ったらしいo本土の氏族が多く うDEPクみ の氏人を率いる氏上が中ノDであるように、琉球でも各村にアジと称.する族長が おり、嫁取り、婿取りまで支配する。 -21-外間守善氏が述べておられるように寸奄美大島や島尻地方の一部においては、 力みう 父親をi'千称するのにアジといい、また沖縄の人々は皆アジの子孫であり、神御
清明祭には各人の属する同族共同の祖先を祭っているアジ艫に参拝して演乏。
レーみ- 原義的には父親から次第に祖父になり、曽祖父I乙押上がり、さらに長兄、兄 の意味ともなり、祖先神まで昇格する。沖縄本島の人々は今でも「自分たちは 某按司の子孫である」と考え、血縁関係の意味から祖先神までを含めてアジと呼んでいる。おもる双紙ではアジは単なる村落の長老から日本史のH量(拳眞鳧
じ 知)と同じような政治的支配者にも使わオlヘアジのなかのアジ、すなわち国王 よぬし 世の主Iこも使われ、政治的支配者としての国王の一族Iこも「按司」の呼称をつ けている。 沖縄本島では中頭、島尻のほうが地味が肥え、農作物がよくできたと見え、 この地方から人口は増え、各村落はひとりのアジの支配の下に、強力な政権を 確立していった。いつIまう国頭郡は山岳がけわしく、村落は山峡を隔てて点在 していたから、互いに血縁的な交わりは濃く、ひとつの氏族から成るマキヨ村 落は後々まで続いた。13世紀の中ごろまで(英祖王代)琉球の人口は沖縄本島でもせいぜい3万人乃至4万人ぐらいであったらしく苧I人口の大半は中頭
島尻に集中したようである。けだし中頭、島尻のほうが稲作のために生産が安 定し、地勢的にも村落が接近していたから、開墾の事情で村落の人々が入り混 り、いくつかの血縁が同じ村落内に共存するようになったのであろう。 さらに9世紀乃至12世紀のアジの時代に入ると勢力抗争がおこり、丘陵上の グシクはやがて按司の居城と変った。 まゆ 現存の村に相当する間切の語源については|日記に「天孫子始めて野を画し、 間切を置く」とある圦諸按司の勢力抗争の結果、田野を画する契約が、彼ら 戎 の間で交わされたのであろう。間とlま琉球方言で場所、居所を表わし、日本語 まゆ の部屋、距離を表わすのとは少しニュアンスがちがう。tiEって間切はその地方 を区切るときにできたと考えられ、ある村落は台地から低地に下ろされ、ある もと唾 家族は|日村落の元島に残ったり、ある家族は新村に移ってから、数家系力圦り 混っている村落へ入っていったと考えられる。, 琉球の村落は俗にシマ(島)と呼ばれているが、それは本土のように離島で-22-はな〈、生れ故郷を指している。新村落にもシマ、ウラと呼んでいるが、浦は すべて海岸にのぞんだ村落につけられ、名護の漁百名浦と呼ばれている地名
が多寝:浦はマキヨと同じく今日では廃語となっているが、新村落に移住させ
られた人々は旧村落をサト、フルサト、シマ、モトジマと呼んでなつかしがっ たけれども、時代の推移はアワの栽培から稲の栽培に移るにつれて余剰農産物 の分配をめぐって各地で支配者と被支配者、アヅとアジが対立した。「国人は好んで相攻撃し、人みな;雛で善く走る。死をおそれず、創に耐え
重iか をい る。諸洞はおのおの部隊をつくり、たがいに救助しあい両陣Iま相当るとき、 あいαDし勇者が3,5人すすみ出てiijif蕊し、言葉を交えて相罵り、そこから撃ったり、
射たりする。もし勝てないと一軍みな走り逃げて人を遣わして謝り、そこで和 あつ蚕 どく 解する。闘って死んだ者を収め取って、ともに聚ってこれを食う。それカコら韻 ろ 六.ハブV、 膜をもって王の所へ行くとT王はすなわちこれに冠を賜し、、隊師(隊長)とす ふれん る゜賦敵(租税)がなく、事があるときは均等に税を課する。升lを用いるにも とが きまった規準がなく、みな事に臨んで科をきめる。罪を犯した者はみな,烏了師 に裁断され、それに伏しないときは、王に上請する。」(随書琉求伝) 以上の記事のなかで按司の抗争時代の戦争は似ているが、死人の肉を食いど くろを尊ぶ風習は沖縄にないと云うけれども、しかし近世まで葬儀の際、豚肉 を食べる風習が島尻地方の一部に残っていたことから、あるいは誤り伝えられ て、こう記録されたものであろうか。租税らしい租税もなく、ただ事あるとき に必要に応じて徴収していたらしい。アワは中国では黄河文明開始のころまで 重要な作物だったけれども、水利の便がすすんで水稲栽培に代ったと同じく、 琉球では原住民のサトイモ、タロイモ(ミヅイモ)詞ヤムイモが雑穀のアワ、 キビ、ヒエなどに代り、さらに水稲栽培が普及するにつれて生産力は増えていったのだろう。玉城村の;鬘iil尭蝋稲作ゆかりの地と考えられているが、同村
では稲作伝来の家を「米之子」と呼び、米須、米洲の姓も同;地に多い。本土で も中世まで米をTヨネ」と呼んで、米のなる木を知らなかった時代があったように、琉球でも米は常食ではなく、酒の原料として用いられたらしい。「菜逢
を議して酒をつくるカヘその味ははなはだ薄い」(囎嚇伝)とあるように、
酒は乙女たちが米を噛んで吐き出し、醗酵したものから作られたカヘ8,9日 -23-するとアルコール分が強くなり、泡盛とちがって味は薄いものであっただろう。 こみ 八重山群島では西表島の古見カヌ稲作ゆかりの地とされ、それから久米島に伝 わったとされている。「古見」、「久米」の字はいずれも琉球方言のクミから発 展したものだろう。稲作は照葉樹林文化の柑橘類シソ、茶などとともに中国 から日本へ、本土から琉球へと伝わったものか、稲作が古代琉球へ導入される につれて、米の持つエネルギー、栄養の豊富さと美味とが雑穀をしのぎ、稲作 を導入した氏族はたちまち先住民を圧倒し、融合同化していったのだろう。 マキヨ時代から農業生産力が発達するにつれ、村落は稲作のために丘の中腹、 IC-だ 頂上から低地に下りていったが、そこを前田と呼び、海岸'こ再び移ったところ かに〈 を兼久と呼んだようである。その際、農業と漁業とは分化し、村落'ま他地方か らの移住者を加えて複雑となったが、また彼らは焼畑農法をしている氏族から キネとウスでアワや籾を精白して食べることを学んだのであろう。 人口が旧村落で増え、土地の不足をかこったとき、彼らは分村の必要を認め、 新村を設立したが、これらの村落を大きく分類すると、3つに大別される。 (1)平民百姓村 や-どい (2)士族百姓村(屋取) (3)明治以降の開墾村 新開墾地が屋取りと称するのは近世の首里士族が無禄のため帰農した村で、 開拓村では新たに新村創立の意志がなく、その土地に宿ったからそう呼ばれた のであろう。彼ら士族は祭礼に'こなればそれぞれの出身地に帰えり、その氏族 の祭礼に参加したようである。また農村に地割制が始まったころ、支配者の按 司は住民を移動させて隣接地を開墾させたらしい。それらの新村は現在でも だかりうふんだか!)’か人だか1,劫、んだかbうぐノリピか1, 「村渠」と呼ばれているカミ沖縄本島では大村渠、前村渠、仲村渠、奥村渠、 J9Kだか,そい 新村県とI'千ばれ、宮古では東仲間添、西里添、下里添、前里添、池間添と呼ば そいむらぞい れている。添は沖縄本島の村渠と同じように村添と呼ばれ、分村の意味カメ含ま れている。 古代の琉球は大小50余の孤島から成り立ち、それぞれが封鎖的な自立経済 を営んでいたが、やはり内側に拡大するのは限度があり、外側にも伸びていく しかなかった。宮古の村添は沖縄の村渠のように本村に隣接していないばかり -24-
か、池間添、前里添のように池間島から伊良部島に飛んでいるが、元来池間島
は水田に乏しかったから、漁業に従事していた住民は貢租との都合上、耕地を
求めて伊良部村に分村したのではないか寧豊た八重山の西表の古見はマラリヤ
椙獄地であるので、住民は小浜、竹富、新城、黒島の4島から舟で通って稲作 をやっているのであろう。 注1.比嘉春潮箸前掲書47頁 2.外間守善氏論文「按司の語源」沖縄文化第8巻4号21頁以下 3.仲原善忠、外間守善編「おもるそうし辞典」30頁 4.田村浩著「琉球共産村落の研究」176頁 5.焼辺名浩太郎箸「沖縄経済史」117頁 6.東恩納寛惇著「南島風土記」432頁古代の発展方向
村落共同体のなかで農業生産がすすむにつれて、支配者と被支配者に余剰農 産物を分配したけれども、村落内でも知恵のある者や力のある者が地位、門閥 を承け継ぎ、支配者となった。村落内の支配者である根屋、根神はこうして村 落内のあるじからすべり落ち、他の征服者を迎えた。防禦砦としてのグシクは やがて城壁、邸宅を張りめぐらして按司の居城となった。今でも城趾遺跡から は南栄の青磁、須恵器、南蛮がめの破片もおびただしく発見されるが、それら は10世紀を境として按司が貿易商人としての性格を持ったからと見られてい る。勝連城からは南蛮がめや南支の粗陶のほかに安南、シャムものがまじり、「香酒」 の印のある±板もここから発見されている。それらはかつて南海の香料、酒類 謎ころ〈tま)1 を運んだ壷であり、シャムの宋胡録の破片もまじっているといつ。 漁携民は定着して農耕に従事するよりは、琉球の島々を往来する船頭になる か、あるいは按司と契約して遠方の地域へ出向いたほうが利益が多い。いくら 大漁で漁獲物を得ても、加工技術が幼稚であれば、産業は成り立たない。 彼らは交通が不便な時代、物々交換が思うにまかせないところから、漁業の限 界を知って交易に従事したのであろう。東海岸では平安座島、久高島の船頭た ち、西海岸では糸満、伊平屋の漁師たちも商船をあやつって、列島間の往来か -25-ら遠く本土まで航海したのであろう。按司時代から明治の中ごろまで、列島間 の交易に使用した船舶は10トン内外の山原船、テンマ船であったけれども、国 頭では交通が思うにまかせないため各間切ではそれぞれが帆船を持ち、山林地 帯からは薪炭、材木肥沃な地方からは米、畜産物〃水産物を中頭、島尻の港 へ積出し、帰航のときは日用雑貨、塩、醤油などを積んで帰った。人々はこれを 仙原船」筐畑と呼んでいたそうだカミ陸路を通れば、他間切を通るたびに交通、 積荷の制限を受けるばかりか、道なき道も通らねばならない。いきおい海路が 選ばれ、彼らは幼稚な航海術をもって大海に躍り出たものと考えられる。 これら村落、間切単位の船舶は按司時代がすすむにつれて、だんだん通商交 易の性格をおび、大型化するにいたった。たとえば平安座船は漁船というより 運搬に利用される帆船であるが、本土あたりとも交易した伊平屋島の十棚船に なると奄美大島あたりから牛馬を持ち運び、糸満、久米島あたりの船頭たちは 中国沿岸まで硫黄採取に出かけている。 古代の航海では東海岸のほうが便利であったらしく、知念、玉城から那覇、泊 へ回航するよりも、東海岸の砂浜をねらって北風に強く押されて、沖縄本島 から宮古へ、宮古から多良間島を通って八重山群島へ行くほうがやさしい。 古代の貿易ルートとして東西ふたつの道があったと古老たちは語っているカヘ (たしかに那覇港が開かれたのは久米島を通る北の航路からであるが)それは 随時代以降といわれている。この北の道はかなり骨の折れる航路で、船足も早 くなければならず、途中で船の修繕する余裕がなかったらしく、よほど風と潮
の流れを知っている船頭でなければ、乗り切ることは困難であっ室:
古代人の貿易は外交使節か、あるいは服属の名を借りて行なわれたらしい。 奈良朝時代にわが国に入貢した済州の渤海国は海路の犠牲を払いながら人参、 蜂蜜、毛皮を大量に持ち込んだが、南島人も7世紀から8世紀にかけて、服属 入貢の形で大和朝廷に出入りしている.推古朝の616黒液久人(屋久島人) が始めて大和朝廷に参内し、707年に南島人に位を授けられているが、714 しがきくみ 年には奄美、信覚(石垣)、球美(久米島)の民52人力x来朝し、724年に は南島人132人に位を授けたと日本書紀は述べているが、なぜか沖縄本島は 朝貢していない。たぶんこの時代は原始社会終末期で、農耕の変革が村落の移 -26-動をうながし、本土への入貢、交易まで考えつかなかったかも知れない。 伊波普猷は遠く楠で造られた商船が大和、山城地方へ曲玉や貨物を買いつけ に行った例として、おもる双紙巻10の28を挙げているが、琉球船は古代か