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帝国主義の時代の英国における東欧系ユダヤ人移民1887-1905年 : 文献史的考察

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(1)     帝 国 主 義 の 時 代 の 英 国 に お け る 東 欧 系 ユ ダ ヤ 人 移 民                     1887-1905年――. 文 献 史 的 考 察.       Jewish . in the  Age . Immigrants . in  Britain .                     1887-1905: . a bibliographical . of  Imperialism. survey.                                           奥. 田 伸 子.   I  は じめ に   こ こに1889年 の カ レ ンダ ー と して 、 『バ ンチ 』 誌 に 発 表 され た 一 枚 の絵 が あ る(図1)1。1888 年 、 「地 方 自 治 体(イ Wales)Act)」. ン グ ラ ン ドお よ び ウ ェ ー ル ズ)法(Local . Government(England . and. が 成 立 し2、 単一 の ロ ン ドン県 が誕 生 した こ とを 、記 念 して 描 か れ た もの で あ る。. 絵 が 示 す 内容 は単 純 で あ る。 右 上部 に大 き く 「 都 市 改革 、地 方 自治 体 法 」 と書 か れ た 旗 が 翻 り、 図 の右 半 分 は、 これ か らの ロ ン ドンに ふ さわ しい も の 、す なわ ち 、光 や 酸 素 、 農 業 カ レッ ジ、 科 学 、 芸 術 、 そ して、 貧 民 の子 ど もの手 を 引 く慈 善 な どが描 か れ て い る。 一 方 、 図 の 左 半 分 に は、 駆 逐 され るべ き も のが あ ふれ て い る。 そ の 中 に は 旧 来 の 都 市 行 政 組 織(Metropolitan  Board of Works,  M.B.W.)も. 含 ま れ て お り、 左 端 は 、 さ ま ざ ま な 社 会 悪 で 占 め ら れ て い る 。 高 利 貸 し. (Money  Lent/100  per cent)や. ス ラム 、粗 悪 な 住 宅(To  be Let or  Sold/Charming . Jerry Builders)と な らん で 、苦 汗制 度(sweating  system)が 巻物 を も った 人 物 に 注 目 し よ う(図2)。. Villas/A. 描 か れ て い る。苦 汗 制 度 と書 か れ た. 独 特 の長 い あ ごひ げ 、鼻 を 強調 した顔 、長 い 上 着 、猫 背. な ど非 常 に 特 徴 的 に 描 か れ て い る。 これ を 、1901年 に 出 版 され た 『ロ ン ドンの 生 態(Living London)』. に掲 載 され た 「 上 陸 直 後 」 とい う挿 し絵(図3)3に. 描 か れ た 東 欧 系 ユ ダヤ 人 の 男 性 と比. 較 す れ ば 、 苦 汗 制 度 を 担 っ て い る人 物 は、 あ き らか に 東 欧 系 ユ ダ ヤ人 の カ リカ チ ュ アで あ る こ と が わ か る。 『パ ンチ』 誌 の この 絵 は19世 紀 末 の 英 国 に お け る どの よ うな 視 点 を 反 映 して い る の で あ ろ うか 。 この 絵 を 手 が か りに 、19-20世 紀 転 換 点(以 下 、世 紀 転 換 点 と はす べ て19世 紀 か ら20世 紀 へ の 転 換 点 を 指 す)に 英 国 に移 民 して きた 東 欧 系 ユ ダ ヤ人 を 例 と して 当時 の英 国 に お け る移 民 へ の 対 応 を 検 討 し よ う。   近 現 代 英 国 に お け る反=ユ. ダ ヤ主 義 に か んす る本 格 的 な研 究 が 開 始 され た の は 、 比 較 的 近 年 の. こ とで あ る。 そ れ も、 英 国 に お け る ユ ダ ヤ人 そ の も のへ の関 心 の高 ま りに よ って 誘 発 され た と い うわ け で は な い 。む しろ戦 後 の新 英 連邦(the  New  Commonwealth)か. らの 移 民 の増 大 と レイ シ. ス トに よ る彼 らへ の 攻 撃 と い う現 実 が 、 英 国 に おけ る マ イ ノ リテ ィへ の差 別 の 系 譜 の 研 究 を 促 し、 反=ユ. ダ ヤ主 義 を 研 究 の射 程 に取 り込 ん だ 、 と い う方 が 正 確 で あ る。 こ う した 研 究 の 多 くは 、 い. くつ か の エ ス ニッ ク ・グル ー プ のひ とつ と して ユ ダ ヤ人 を 取 り上 げ る4。   一 方 、英 国 ユ ダ ヤ 人(Anglo-Jewry)5研. 究 は 、反 ユ ダヤ 主 義 研 究 よ りも長 い歴 史 が あ る。こ の分. 野 の研 究 は 、 ユ ダ ヤ人 研 究 者 に よっ て行 わ れ る こ とが 多 か った 。 近 年 に おけ る、 そ の 集 大 成 は 、.

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(4) VD.  Lipmanに. よる研 究 で あ るが6、 こ う した 研 究 の中 心 は 、19世 紀 末 まで に す で に 何 世 代 か に わ. た り、英 国に 定 住 して い た ユ ダ ヤ 人 で あ る。 彼 らは 独 自の宗 教 組 織 、 互助 組 織 を もち 、 エ ス ニ ッ ク ・グ ル ー プ と して の ま と ま りを も って い た が 、 一 方 で は英 国 化 も進 ん で い た 。 そ うした 彼 らは 、 東 欧 系 ユ ダ ヤ人 移 民 を 、 自 ら とは異 質 な もの と して 、 最 良 で も救貧 の対 象 で あ る 「 哀 れ な 同朋 」 と して見 て いた 。   世 紀 末 の英 国 に お け る さ まざ まな不 安 の あ らわ れ と して の外 国恐 怖 症 を文 化 の側 面 か ら研 究 し た 丹 治 愛 は、1897年 に英 国 に お い て 出版 され た 恐 怖 小説 『ドラキ ュラ』 を 題 材 に 、東 欧 系 ユ ダ ヤ 人 移 民 へ の恐 怖 心 が 、 ドラキ ュ ラへ の恐 怖 心 に 二 重写 しに な っ て い る さ ま を分 析 した7。 た だ し、 丹 治 の指 摘 す る 「ドラキ ュ ラ」 は 、東 欧 系 ユ ダ ヤ人 だ け で は な く、 当時 英 国 を脅 か し始 め て い た ドイ ツ 、 ア メ リカ合 衆 国 、19世 紀 に世 界 的 流 行 病 と化 した コ レ ラに 代 表 され る病 気 で もあ る。   英 国 に おけ るユ ダヤ 人 、特 に彼 らに対 す る排 斥 の歴 史 に つ い て は 、 佐 藤 唯 行 が 『英 国 ユ ダ ヤ 人 』 に お いて 中 世 か ら現代 に 至 る ま で概 説 して い る8。同書 を一 読 す れ ば、英 国 に も様 々 な形 で の ユ ダ ヤ 人排 斥 の 歴 史 が あ り、宗 教 的 に寛 容 な 国 とい う英 国 の 自己 認 識9は 、ア ング ロ ・サ ク ソ ン中 心 の偏 った歴 史 観 で あ る こ とが 明 白で あ る。 しか し、 佐藤 の著 書 に お いて 、 反 ユ ダ ヤ人 的活 動 と して 分析 の対 象 とな って い るの が 、主 と して ユ ダヤ 人 の財 産 ・身 体 へ の直 接 的 な攻 撃 で あ り、 言 論 に つ い て は分 析 され て い な い 。   1880年 代 に本 格 化 す る東 欧 系 ユ ダヤ 人 の 英 国 へ の流 入 は 、英 国社 会 に深 刻 な 影 響 を 与 え た が 、 「 反 ユ ダ ヤ人 」 暴 動 は 、 近 代 以 降 、 ユ ダヤ 人 流 入 の ピ ー クが終 了 した 後 の1911年 ま で 、 目立 った 動 きは な か った 。 一 方 、 言 論 レヴ ェル で は 、1880年 代 末か ら議 会 の 内外 で 、 移 入 民 の法 的規 制 の 是 非 に つ い て広 範 な 議 論 が わ き起 こ って い た 。『パ ンチ 』誌掲 載 の絵 は 、1889年 年 頭 に お い て 、社 会 悪 と して の苦 汗 制 度 と ユ ダヤ 人 が結 び つ け られ 、社 会 悪 と して の移 民 、 英 国社 会 か ら駆 逐 され る べ き存在 と して の 移 民 、 とい う反=外. 国 人 感 情 、 移民 の流 入 を制 限 す る 「 外 国人 法 」 へ の道 筋. が この 時 点 です で に つ け られ て い た こ とを 示 し てい る。 しか し、 外 国 人 移 民 制 限 にか んす る議 論 の 進 展 に も紆 余 曲折 が あ った 。 「 貧 窮 外 国 人 」 の流 入 を 制 限 す る 必 要 性 に つ い て 声 高 に 語 られ な が ら、 「1905年外 国人 法(Aliens  Act 1905)」 成 立 まで20年 近 い年 月 が かか った。 この 間 に 「 外国 人 法」 案 が1894年 、1898年 、 と二 度 、 上 程 され なが ら、廃 案 に な った 。 この法 律 にか んす る議 論 は 、 必 ず し も保 守 党 が 賛 成 、 自 由党 が 反 対 と一 貫 して い たわ け で はな い。   東 欧 系 ユ ダ ヤ人 移 民 は 、19世 紀 末 か ら20世 紀 初 頭 に お け る、「外 国 人 」へ の英 国人 の対 応 を あ ぶ り出 す と とも に、 英 国 史 の転 換 点 に お け る諸 問 題 と移 民 問題 が いか に 関 連 す る か を示 す 興 味深 い 例 で あ る。本 論 は 、 世 紀 転 換 点 に お け るユ ダ ヤ人 問 題 が単 に移 民 の流 入 とそ の対 策 と して で は な く、 当 時 の英 国 社 会 に お け る焦 眉 の 課 題 と密 接 に結 び つ け られ て いた こ とを 、 先行 研 究 の文 献 的 調 査 を とお して あ き らか に し、 今 後 の 研 究 の方 向を 探 る こ とを 目的 と して い る。 本 研 究 に お け る 直 接 的 な 先行 研 究 は 、1880年 か ら、1905年 移 民 の成 立 まで の約25年 間 に お け る東 欧 系 ユ ダ ヤ 人 に か ん す る政治 過 程 を 詳 細 に 検 討 した バ ー ナ ー ド ・ゲイ ナ ー(Bernard  Gainer)の. 研究 量10で あ る。 と. こ ろで 本 稿 で は、世 紀 転 換 点 の 重 要 課 題 を 以 下 の3点 に絞 る。第 一 は 、 「貧 困 の 発 見」 と社 会 改 良.

(5) の動 き で あ る。 第 二 は 、第 一 の 問題 と密 接 に 関連 す る が 、帝 国主 義 、 特 に、 国 家 的 効 率(national efficiency)を め ぐる 問題 で あ る 。第 三 は 、保 護 貿 易 論 、後 に 関 税 改 革 運 動 へ とつ な が る動 き で あ る。 東 欧 系 ユ ダ ヤ人 は、 これ ら の いず れ の課 題 と も関 連 す る形 で、 問 題 視 され た 。 一 方 、 移 民 制 限 を 求 め る議 論 に た い して、 移 民 そ れ 自体 へ の 賛 否 とい うよ りも、 そ の 背後 に あ る別 の 問題 へ の 賛 否 か ら、 態 度 が 決 定 され る こ と も あ った 。 以 下 、Ⅱ で は 、 まず 、 英 国 に来 た移 民 数 に か ん す る 議 論 を検 討 す る。 こ こで は 移 民 数 の 水増 しが行 わ れ 、移 民 の恐 怖 が過 度 に喧 伝 され た こ とが 示 さ れ る。 以下 、 皿で は社 会 改 良 の 引 き金 とな った チ ャー ル ズ ・ブ ース の ロ ン ドン調 査 、Ⅳ で は 国 家 的効 率 、Ⅴ で は 、保 護 貿 易論 と、 それ ぞ れ の課 題 とユ ダ ヤ人 問題 の 関連 を検 討 す る。.  Ⅱ   東 欧 系 ユダ ヤ人 の流 入 規 模 をめ ぐ る議 論   19世 紀 末 の東 欧 系 ユ ダ ヤ人 の大 量 移 動 は、1881年3月. の ロシ ア皇 帝 ア レキ サ ン ドルⅡ 世 の 暗 殺. に 端 を 発 した ユ ダ ヤ人 へ の弾 圧 、 いわ ゆ る ポ グ ロムを 契 機 とす る。 とは い え 、 現 在 の 研 究 は 、 政 治 的 、 宗 教 的 弾 圧 と同様 に 、 東 欧 のユ ダ ヤ人 定 住 地 に お け る経 済 的 ・社 会 的原 因 を 強 調 す る。   一 連 の 移 民 の 波 のな か で 、 どの くらい の 数 の 東 欧 系 ユ ダ ヤ人 が 英 国 に 移 動 し、定 住 した の で あ ろ うか 。 意 外 な こ とで あ るが 、 この 時 代 に 、 どの 程 度 の ユ ダ ヤ 人 が 英 国 に 入 国 した の か に つ い て は 正 確 な 資 料 が な い 。 そ の 理 由の 一 つ は 、 当 時 の 出 入 国 デ ー タの 不備 に あ る。 後 に 見 る よ うに 、 当 時 の資 料 の 多 くは 、 英 国 に 定 住 した 移 民 数 を 誇 大 に 示 す傾 向 が あ った 。   まず 、 東 欧 系 ユ ダヤ 人 の 流 入 数 を 検 討 し よ う。 佐藤 は 、東 欧 系 ユ ダ ヤ 人 に とっ て 、 ア メ リカ は 黄 金 の 国 、英 国 は 白銀 の 国 で あ り、1880年 か ら1910年 代 に約200万 人 が 合 衆 国 へ 、約30万 人 が英 国 に渡 っ た が 、そ の30万 人 の うち20万 人 は 合 衆 国 な どに 再 移 住 した 、と して い る11。英 国側 の様 々 な 現 在 利 用 可能 な統 計資 料 も この数 字 を 支持 して い る。   東 欧 系 ユ ダ ヤ人 の流 入数 を計 る ひ とつ の方 法 は 、 国勢 調 査 の 出生 地 デ ー タ を利 用 し、 ロシ ア お よび ロシ ア領 ポ ー ラ ン ドを 出生 地 とす る もの の増 加 を見 る こ と で あ る。 国勢 調 査 に よれ ば イ ン グ ラ ン ドお よび ウ ェー ル ズ に お い て 、1881年 に14468人(ロ 生 まれ10679人)で. シ ア生 まれ3789人 、ロ シ ア領 ポ ー ラ ン ド. あ った ロ シ アお よび ポ ー ラ ン ド生 まれ の 人 々 の数 は1891年 に45074人(ロ. 生 まれ23626人 、 ロ シ ア領 ポ ー ラ ン ド生 まれ21448人),1901年 ロ シ ア領 ポ ー ラ ン ド生 まれ21055人)へ. に82844人(ロ. シア. シ ア生 まれ61789人 、. と20年 間 に 約68000人 の 増 加 とな って い る12。 も ち ろ ん こ. れ らの 人 々 の全 て が ユ ダ ヤ人 と は限 ら な いが 、 大 部 分 は 、 ユ ダ ヤ人 と見 な して よい だ ろ うとい う の が 、研 究 者 の一 致 した見 解 で あ る13。他 方 、定 住 ユ ダ ヤ人 も含 め た 英 国 在 住 ユ ダヤ 人 人 口に つ い て は 、 ユ ダ ヤ人 団 体 の推 計 が 利 用 可 能 で あ る。 東 欧 系 ユ ダ ヤ人 の 大 量 流 入 を 前 に した 英 国 在 住 ユ ダヤ 人 人 口は 、1875年 時 点 で 、51250人. と推 計 され て い る14。 この 人 口 は 、 『ユ ダ ヤ年 鑑(the. )』 で は 、1891年 に101189人 とな り、1901年 に は160000人 とわず か10年 で60%近 Jewish Yeay Book くの増 加 を 示 して い る。 この 人 口は さ らに 増 え 続 け 、1905年 に は227166人 と15年 間 に 約125000人 の増 加 とな って い る15。19世紀 末 か ら20世 紀 初 頭 ま で のユ ダ ヤ人 人 口の 増 加 は 、結 局 、10万 人前 後 で あ った 。.

(6)   19世 紀 後 半 か ら20世 紀 に か け て 、 イ ング ラ ン ドお よび ウ ェー ル ズ の 人 口に と って 、 最 大 の 「外 国 生 ま れ」 人 口は ア イル ラ ン ド出身 者 で あ っ た。1861年 に は70万 人 弱 の 「外 国 生 まれ 」 人 口の う ち 、60万 人 が ア イル ラ ン ド生 まれ で あ る。 そ の後 、 ア イ ル ラ ン ド生 まれ 人 口は減 少 す る もの の 、 世 紀 転 換 点 頃に も、 「 外 国 生 ま れ」人 口の 約7割 が アイ ル ラ ン ドの生 まれ で あ り、依 然 と して マ イ ノ リテ ィ ・グル ー プ のな か で は最 大 で あ っ た。 世 紀 転 換 点 に 、 そ れ ま で の ドイ ツ出 身 者 に か わ っ て 、 第2位 の マ イ ノ リテ ィ ・グル ー プ と な った の が、 ロシ ア 、 お よび ロ シア 領 ポ ー ラ ン ド生 まれ の 人 々 で あ った16。19世 紀 末 、東 欧系 ユ ダ ヤ 人 が 注 目を 集 め た 理 由は そ の相 対 的 な 拡 大 で あ っ た。 とは い え 、東 欧 系 ユ ダ ヤ人 の流 入 期 は 、19世 紀 末 か ら始 ま っ た東 欧 お よび 南 欧 か ら大 量 に 人 々が 移 動 した 国際 労 働 力 移 動 の波 と一 致 し て い る。 実 際、 ユ ダ ヤ人 以 外 に も ドイ ツ 、 フ ラ ンス 、 イ タ リアな どの ヨー ロ ッパ 諸 国 の 出 身 者 も、 こ の 間 増 加 し て い る 。 同 時 代 に イ ン グ ラ ン ドお よ び ウ ェー ル ズ の人 口 は、1881年 の2600万 人 か ら1901年 の3250万 人へ と増 加 した。 ロシ ア お よび ロ シ ア 領 ポ ー ラ ン ド生 まれ の 人 口が 全 人 口に 占め る割 合 は 、 こ の 間0、2%前 後 で 安定 して い た 。15年 間 で 人 口が2倍 以上 に な った 英 国 ユ ダ ヤ人 社 会 へ の影 響 は と もか く、 東 欧系 ユ ダ ヤ 人 の流 入 が 英 国 社 会 全体 に吸 収 で きな い ほ ど の大 き な衝 撃 を 与 えた か は疑 問 で あ る。   19世 紀 後 半 の英 国に おい て 、 移 入 民 に か んす る統 計 は、 国 勢 調 査 を 除 け ば、 商 務 庁(Board  of Trade)の. 管 轄 下 に あ った 外 国 人 リス ト(Alien List)で あ った 。 「1836年外 国人 法 」 は ナ ポ レオ ン. 戦 争 中 に あ った 入 国 の 規 制 を 全 て 撤廃 す る と と も に、 パ ス ポ ー トを所 持 して い る外 国人 に は そ の 提 示 を 、英 国 の港 に入 港 す る船 の船 長 に は 、 乗 船 して い る外 国人 の職 業 な どを記 した リス トを税 関 に 提 出す る よ う求 め た 。 しか し、 世 紀 半 ば に は ロン ドン と い くつか の港 だ け で リス トを 回収 し て い るだ け にす ぎず 、 この 法 律 は 有 名 無 実 とな っ て いた 。 反=外. 国人 運 動 が盛 ん に な っ た1889年. に は 制 限論 者 の圧 力 に よ って 、 全 て の 港 で リス トの提 出が 求 め られ る よ うにな る も の の、 リス ト を 英 国 側 で確 認 す る こ とは 人 手 不 足 の た め に 行 わ れ な か った 。 そ の後 、制 限 論 者 の更 な る圧 力 の た め に 、 サ ンプ リン グ調 査 が 行 わ れ る よ うに な り、 さ らに 、 全 て の船 舶 につ い て 英 国 税 関 に よる 調 査 が 行 わ れ る よ うに な った17。とは い え 、商 務 庁 の デ ー タは 移 民 の 実 態 を 示 して い な か った 。商 務 庁 の デ ー タが 誤 解 を 招 い た 原 因 は 、 英 国 の 港 に 到 着 した 移 民 を 、第 三 国へ の 移 動 中 か 、 英 国 に 定 住 す るか いず れ か に 分 け た の で あ るが 、 そ の 基 準 と して 、 英 国か ら第 三 国 へ の 乗 船 券 を も っ て い るか 否 か で あ った 。 ゲイ ナ ーに よれ ば この 基 準 は意 味 が な か っ た。 なぜ な らば 、 移 民 の多 くは、 英 国 に 入港 後 に そ の先 の 乗 船 券 を 購 入 す るつ も りだ った か ら で あ る。 商 務 庁 自身 が 行 った 追 跡 調 査 で も、定 住 す る はず だ った 移 民 のか な りの 割 合 が 、 第 三 国 に 移 民 す る た め に 英 国 を 離 れ て い た18。   商 務庁 の統 計 に お いて 、 英 国 に 定 住 す る移 民 数 が 水 増 しされ て い る こ とを 移 民 制 限 論 者 た ち は、 故 意 に しろ不 注 意 に し ろ認 識 せ ず 、 誇 張 され た 数 字 を そ の ま ま利 用 し、 自 らの 議 論 の 裏 付 け と し て い た 。制 限 論 者 た ち に と って は 、国 勢調 査 に 見 られ る、「外 国 生 まれ 人 口」の 数 は あ き らか に過 少 で あ った。 この原 因 を、 商 務 庁 の統 計 部 門 に い た ス リャ ヴ ェ リン ・ス ミス(Hurbert  Llewellyn Smith,1864-1945)は. 、 多 くの 移 民 は 無知 の た め に 、 国 勢 調 査 の 記 述 を 正 確 に 行 うこ とが で き な.

(7) い た め 、 と 考 え た 。 よ り強 硬 な 移 民 制 限 論 者 た ち は 、 移 民 は 法 的 措 置 を 警 戒 し て 故 意 に 国 勢 調 査 を 逃 れ て い る と 考 え た 。 英 語 を 理 解 しな い 移 民 の た め に 、1891年 委 員 会(Jewish . Board  of  Guardians)19に. の国 勢 調査 時 は 、 ユ ダヤ 人 保 護. よ っ て 、 ヘ ブ ラ イ 語 と ドイ ツ 語 で 書 か れ た 国 勢 調 査 は 移. 民 に 不 利 益 を 与 え る 目 的 で は な い 旨 の 回 状 が 作 成 さ れ た 。1901年. の 国 勢 調査 で は 、 ユ ダ ヤ人 団 体. と 国 勢 調 査 担 当 者 と の あ い だ の 協 力 関 係 は さ ら に 深 め ら れ た 。1891年. 時 と同様 の回 状が 、 イ. デ ィ ッ シ ュ語 を 含 め て 作 成 さ れ 、 ロ ン ド ン 、 イ ー ス トエ ン ドで は 国 勢 調 査 票 に 記 入 で き な い 移 民 を 手 助 け す る た め 、 世 帯 を 一 戸 ず つ 回 る た め の 委 員 会 も組 織 さ れ た 。 国 勢 調 査 の 責 任 者 で あ る 身 分 登 録 本 署 長 官(Registrar . Genera1)は. 、 ロ ン ド ン東 部 に お け る 移 民 に か ん し て も 、お お よ そ 正 確. な 調 査 結 果 が 得 られ た と考 え て い た20。   しか し、 当 時 の 英 国 世 論 の 受 け 止 め 方 は 異 な っ て い た 。 「貧 窮 外 国 人 の 侵 略 」 「貧 民 外 国 人 の 侵 入 」 と い っ た 表 現 が 、 し ば し ば 使 わ れ 、 洪 水 の よ うに 東 欧 系 ユ ダ ヤ 人 が 流 入 して い る と い うの が 、 当時 の人 々が も った 印象 で あ った 。 た とえば 、 「 移 民 た ち は 、 『こ の 国 へ 毎 月 、 何 千 と い う規 模 で 押 し寄 せ る 』 」21とい う の が 、 移 民 反 対 論 者 が 多 用 し た 表 現 で あ っ た 。1903年. に 保 守 党 が 出 した 出. 版 物 に は 、 そ れ 以 前 の10年 間 の 移 民 数 を 約43万 人 と して い る22。 移 民 制 限 法 を め ぐ る 議 会 の 議 論 に お い て も 、 法 案 に 賛 成 す る と き に は 、 誇 張 さ れ た 数 字 が 利 用 さ れ た 。1894年 上 程 さ れ た 折 りに は 、 ソ ー ル ズ ベ リ(third  Marquis  of Salisbury,1830-1903)は に 少 な く と も2万. に移 民制 限法 案 が 、1894年. 上半 期. 人 の 移 民 が 英 国 に 定 住 す る た め に 到 着 し た 、 と 述 べ た23。1904年 に は 、移 民 制 限. 法 案 の 責 任 者 で あ る 内 務 大 臣 、 エ イ カ ー ズ=ダ 1901年 お よ び1902年. に そ れ ぞ れ 、80000人. グ ラ ス(Aretas . 、. 強 の 定 住 目的 の 移 民 が 到 着 した と 述 べ 、 移 民 制 限 法 反. 対 の 急 先 鋒 で あ っ た チ ャ ー ル ズ ・デ ィ ル ク(Charles    同 時代 の移 民 反 対 論 者 は. Akers-Douglas,1851-1926)は. Dilke,1843-1911)の. 批 判 を 招 い た24。. 「 洪 水 の よ うに 流 入 す る ユ ダ ヤ 人 移 民 」 と い う自 ら の 言 説 と 、 国 勢 調. 査 に示 され る ユ ダ ヤ 人移 民 の増 加数 の あ い だ との 矛盾 に気 が つ い て い た。 移 民 反 対 論 者 は 、 国 勢 調 査 は 当 て に な ら な い 、 と論 ず る こ と に よ っ て 、 こ の 矛 盾 を 切 り抜 け よ う と し た 。 も ち ろ ん 、 ユ ダ ヤ人 移 民 はそ の数 以上 に 、英 国社 会 に重 大 な影 響 を与 え て い る 、 とい うのが 移 民 制 限 論 者 の主 た る主 張 で あ った 。.  Ⅲ   社 会 調 査 に 見 る ユ ダ ヤ 人 像   1880年 代 後 半 に 行 わ れ 、 「貧 困 の 発 見 」 の 契 機 と な っ た 、 チ ャ ー ル ズ ・ブ ー ス(Charles  1840-1916)の. Booth,. ロ ン ド ン調 査 は 、世 紀 転 換 点 の ユ ダ ヤ 人 と 社 会 問 題 の 関 連 を 考 察 す る 上 で 、検 討 を. 欠 か せ な い 資 料 で あ る。 そ の理 由 は、 以 下 の三 点 に 要 約 で き る。 第 一 は、 ブ ース の 調査 が 与 え た 社 会 的影 響 の 大 き さで あ る。 第 二 に は 、 ブ ー ス の調 査 は 、 東 欧 系 ユ ダ ヤ人 移 民 が 集 中 して い た ロ ン ドン 、 イ ー ス ト ・エ ン ドを 集 中 的 に 調 査 し た こ と で あ る 。 そ し て 、 ユ ダ ヤ 人 コ ミ ュ ニ テ ィ を 調 査 し た の が 、 後 に フ ェ ビ ア ン 協 会 の 中 心 人 物 の 一 人 と な る ベ ア ト リ ス ・ポ ッ タ ー(Beatrice Potter、1858-1943、. 後 の ウ ェ ッ ブ 夫 人Mrs,  S. Webb)で. あ る こ とが 第 三 の理 由 と して あ げ られ. る 。 ポッ タ ー は 、 ブ ー ス の ロ ン ドン 調 査 に お い て 、 ユ ダ ヤ 人 コ ミ ュ ニ テ ィの 他 に 、 縫 製 業――. こ.

(8) れ は ユ ダ ヤ 人 移 民 が 多 く参 入 し て い る 職 場 で あ る――. と ドッ ク を 担 当 し た 。 英 国 の 社 会 学 、 社 会. 政 策 、 そ して社 会 調 査 の歴 史 の なか で 大 きな 意 味 を持 つ ブ ー ス の 調 査 の なか で、 ユ ダ ヤ人 は どの よ うに 扱 わ れ て い た の で あ ろ うか 。 そ し て 、 そ の 扱 い は 、 調 査 当 事 者 た ち の エ ス ニ ッ ク ・マ イ ノ リテ ィ へ の 偏 見 を ど の よ うに 反 映 して い た の だ ろ うか 。 そ し て 、 調 査 結 果 は 、 社 会 全 体 の 偏 見 に ど の よ う な 影 響 を 与 え た の で あ ろ うか 。 本 稿 で は 、 こ う した 問 題 に 答 え る た め に 、 ブ ー ス の ロ ン ド ン調 査 そ の も の を 検 討 す る 前 段 階 と し て 、 ロ ン ドン 調 査 に か ん す る 近 年 の 研 究 を 中 心 に 整 理 す る 。 こ の テ ー マ は 、 近 年 急 速 に 研 究 が 深 化 し た 分 野 で あ る 。 従 来 未 公 開 だ っ た ブ ー ス の ロ ン ドン 調 査 の オ リジ ナ ル 資 料25、 お よ び ベ ア ト リス ・ポ ッ タ ー の 日 記 の オ リ ジ ナ ル 版26を 利 用 し た 研 究 が 発 表 され て い る 。   ブ ー ス の ロ ン ドン調 査 に 協 力 した メ ンバ ー の な か で の は ポ ッ タ ー の 他 、 デ ィ ヴ ィ ッ ド ・シ ュ ロ ッ ス(David . 「ユ ダ ヤ 人 問 題 」 と の 関 係 が 特 に 深 か っ た Schloss、1850-1912)と. ス リ ャ ヴ ェ リン. ・ス ミス の 二 人 だ っ た 。 ブ ー ス は も と よ り、 ロ ン ド ン調 査 の 協 力 者 は 、 一 人 を 除 い て 、 全 員 ユ ダ ヤ 人 で は な か っ た 。 そ の 一 人 と は 、 ブ ー ス の 調 査 に お い て 、 ブ ー ツ 製 造 業 を 担 当 した シ ュ ロ ッ ス で あ る 。 ブ ー ツ 製 造 業 も ユ ダ ヤ 人 移 民 が 多 い 産 業 と し て 知 ら れ て い た 。 シ ュ ロ ッ ス は 、19世 紀 後 半 の 英 国 ユ ダ ヤ 人 社 会 に お け る 指 導 者 の 一 人 フ レ ド リッ ク ・モ カッ タ(Fredrick  1828-1905)の. David  Mocatta,. 甥 で あ り、 自 身 、 法 廷 弁 護 士 お よ び 商 務 庁 の 官 僚 で あ り、産 業 お よ び 労 働 問 題 の 専. 門 家 と して 知 ら れ て い た 。 シ ュ ロッ ス は 、 ま た 、 ユ ダ ヤ 人 保 護 委 員 会 で 活 躍 し、 ブ ー ス の 調 査 に 参 加 した 当 時 、衛 生 部 会 の 書 記 の 職 に あ っ た27。イ ン グ ラ ン ダ ー と オ デ ィ は 、 ポッ タ ー の ユ ダ ヤ 人 コ ミ ュ ニ テ ィの 調 査 は 、 彼 女 が 重 要 な 情 報 源 と した ユ ダ ヤ 人 保 護 委 員 会 の 見 解 を 強 く反 映 し て い る と 考 え る 。 ポッ タ ー に と っ て 、 シ ュ ロ ッス は 調 査 の 協 力 者 仲 間 で あ る と と も に 、 調 査 対 象 で も あ っ た 。 ポ ッ タ ー は 、 ユ ダ ヤ 人 コ ミ ュ ニ テ ィ の 調 査 を 始 め た1887年10月. に 、 シ ュ ロ ッス に イ ン タ. ヴ ュ ー を し て い る28。   ス リ ャ ヴ ェ リ ン ・ス ミ ス は 、 ク ェ ー カ ー 教 徒 の 家 庭 の 出 身 で あ り、 ブ ー ス の ロ ン ド ン調 査 が 始 ま る1886年. に オ ッ ク ス フ ォ ー ド大 学 を 卒 業 し(数 学 専 攻)、 政 治 経 済 学 を 講 義 し始 め た 。 ブ ー ス の. 調 査 で は 、 移 民 問 題 を 担 当 し た 。 ブ ー ス の 調 査 の 後 、 い くつ か の 政 府 組 織 、 半 政 府 組 織 に か か わ り、1893年 に 商 務 庁 に 入 った29。 そ の 後 、 商 務 庁 の 統 計 部 門 に 在 籍 して い た ス リ ャ ヴ ェ リ ン ・ス ミ ス は 、 第2節. で 見 た よ うに 、 ユ ダ ヤ 人 人 口 に か ん す る 限 り、 世 紀 転 換 点 の 国 勢 調 査 に 懐 疑 的 だ っ. た 。 そ の 後 、 彼 は 労 働 省 の 事 務 次 官 に 任 命 さ れ た 。 ス リ ャ ヴ ェ リ ン ・ス ミス は 、 ま た 、1920年. 代. 末 か ら1930年 代 に 行 わ れ た 、 新 ロ ン ドン 調 査(the New Survey of London Life and Labour)の 責 任 者 で もあ っ た 。   ベ ア ト リス ・ポ ッ タ ー は 、 『私 の 修 業 時 代(My Apprenticeship)』 を. の なか で 、自身 の父 方 の祖 母. 「ヘ ブ ラ イ 語 を 読 み 、 音 楽 を 愛 し 、 祖 父 の 後 半 生 に は 精 神 病 院 に 入 れ られ た 。 背 が 高 く、 色 黒. の ユ ダ ヤ 人 タ イ プ の 女 性 」 と表 現 し て い る30。 ポ ッ タ ー は そ の 祖 母 と 自 分 自 身 の 共 通 点 を い くつ か あ げ て い る も の の 、 自 身 は 、 敬虔 な 非 国 教 徒 の 家 庭 に 育 っ た 。 ポ ッ タ ー と イ ー ス ト ・エ ン ドの ユ ダ ヤ 人 と の 最 初 の 直 接 的 な 関 わ りは 、1880年. 代 半 ば に 、 ロ ン ド ン 東 部 の ス テッ プ ニ ー 地 区 に あ.

(9) る キ ャサ リン ビル デ ィ ン グの 管理 を行 って い た 時 の こ とで あ る 。 未 発 表 の 日 記 に よれ ば 、 ポ ッ タ ー は 、 「典 型 的 ユ ダ ヤ 人 」 の ブ ロ ー カ ー に. 「3軒 に 警 告 の 訪 問 を す る た め に5シ. リン グ払 っ た 。. も し彼 が 、 これ 以 上 、 金 を か け さ せ ず に 、 二 人 の い か が わ し い 女 性 を 追 い 出 す の に 成 功 し た ら 、 これ は よ い 買 い 物 だ(I  have  made  a good  bargain)」31。 一 方 、 ブ ー ス の 調 査 に 参 加 し て い る と き 、 ポッ タ ー は 、 友 人 に 、 ユ ダ ヤ 人 に 好 意 を 持 ち 尊 敬 し て い る と も書 き 送 っ て い る 。   最 近 、 シ ドニ ー とベ ア ト リ ス ・ウ ェ ッ ブ 夫 妻 の 伝 記 を 著 した ロ イ ド ン ・ハ リ ソ ン は 、 ベ ア ト リ ス ・ポ ッ タ ー の ユ ダ ヤ 人 コ ミ ュ ニ テ ィ の 調 査 に つ い て 以 下 の よ う に 評 価 して い る 。 「 彼 女 の論文 の 主 要 な 力 点 は 、 ア ー ノ ル ド ・ホ ワ イ トの よ う な 反 ユ ダ ヤ 的 中 傷 へ の 反 論 に 向 け ら れ て い た 。 ホ ワ イ トは 、 ユ ダ ヤ 人 を. 『動 物 並 の 』 生 活 水 準 で 暮 ら して い る 『貧 窮 外 国 人 』 と して 描 い て い た 。. … 彼 女 は 、 タ ル ム ー ドに よ る 知 的 訓 練 の お か げ で ユ ダ ヤ 人 は 、 イ ー ス ト ・エ ン ドに お け る 英 国 人 の 隣 人 よ り遥 か に 優 秀 に し た と考 え た 」32。しか し、 ブ ー ス の ロ ン ドン 調 査 の オ リ ジ ナ ル 資 料 や ポ ッ タ ー(ウ. ェ ッ ブ)の. 日記 の 未 公 開 部 分 を 利 用 した 研 究 は 、 ポッ タ ー や ブ ー ス も ユ ダ ヤ 人 へ の. 偏 見 か ら 自 由で な か った ことを あ き らか に して い る。   ポ鵜 タ ー の 日記 に お け る. 「 典 型 的 ユ ダ ヤ 人 」 と い う表 現 が 示 す よ うに 、 ユ ダ ヤ 人 に あ る 種 の 民. 族 的 な 特 徴 が あ る と 考 え る の は 、 ブ ー ス 、 ポ ッ タ ー を は じめ ロ ン ドン 調 査 の メ ン バ ー に 共 通 し て い た 。 そ れ は 身 体 的 特 徴 で も あ る が 、 「ユ ダ ヤ 人 的 心 の 機 敏 さ 」 で も あ っ た 。 こ こ か ら ユ ダ ヤ 人 に た い す る 偏 見 が 、 ポッ タ ー の ユ ダ ヤ 人 へ の 個 人 的 好 意 と は 無 関 係 に 浮 か び 上 が る 。 ポ ッ タ ー は 、 ユ ダ ヤ教 が 、肉体 的 な 健 康 と精 神 的 な 強 さに 寄 与 す る一方 で 、「 社 会 的 な モ ラル の欠 如 」を 招 い て い る と考 え た 。 さ らに ユ ダ ヤ人 は. 「利 益 の た め に プ ロ グ ラ ム さ れ て お り(programmed . profit)」、 「旧 約 聖 書 と タ ル ム ー ドの 教 え は 彼 ら(ユ money-making . machine)と. ダ ヤ 人)を. for. 完 全 な 利 益 追 求 の 機 械(a  perfect. した」 と コメ ン トして い る。 ポ ッタ ー は こ の よ うに ユ ダ ヤ人 を描 く. こ と に よ っ て 、 ブ ー ス を 満 足 さ せ 、 本 の 魅 力 の ひ と つ と な る だ ろ う、 と い う 自 身 の 考 え を 日 記 に 記 し て い る33。   利 益 追 求 を 第 一 と す る ユ ダ ヤ 人 像 が 、 道 徳 的 に は 好 ま し くな い も の の 、 非 難 の 対 象 で な い と す れ ば 、 ギ ャ ン ブ ル 好 き の ユ ダ ヤ 人 と い う今 ひ と つ の ユ ダ ヤ 人 へ の 偏 見 は 、 社 会 的 に 是 認 さ れ 得 な い も の で あ っ た 。 合 同 仕 立 工 組 合 ユ ダ ヤ 人 支 部(Jewish . Branch  of the Amalgamated . Tailors). の 書 記 で あ り、 ポ ッ タ ー の 衣 服 製 造 業 、 お よ び ユ ダ ヤ 人 コ ミ ュ ニ テ ィ 調 査 の 協 力 者 で あ る 、 ウ ォ ー ル フ ・ザ イ ト リ ン(Woolf . Zeitlin)が. 紹 介 し た あ る ア イ ロ ン工 の 話――. そ の ア イ ロ ン工 は. 9年 か け て £22貯 蓄 し 、 そ れ を 一 晩 で す っ て し ま っ た の で あ る が―― に 、 ポ ッ タ ー は 興 味 を 持 っ た 。 こ の 話 を ポッ タ ー か ら 聞 か さ れ た ブ ー ス は 、 ユ ダ ヤ 人 が 金 持 ち に な れ ば. 「そ れ を 競 馬 や 株 式. 市 場 に 賭 け る さ 。 そ こ で よ り大 き な 寄 生 虫 に 食 わ れ る ん だ 」 と 答 え た と 、 ポ ッ タ ー は 日 記 に 書 い て い る34。   世 紀 転 換 点 に 改 良 の 必 要 が 強 調 さ れ た さ ま ざ ま な 社 会 悪 の ひ と つ が 苦 汗 制 度 で あ り、 苦 汗 制 度 が 広 が っ て い る イ ー ス ト ・エ ン ドを 調 査 し た ブ ー ス ら の 研 究 も こ の 問 題 を さ け て は 通 れ な か っ た 。 苦 汗 制 度 は 、 近 年 の 研 究 が 示 す よ うに 、 産 業 の 発 展 の 一 形 態 で あ り、 未 発 展 の 産 業 の 存 在 形 態 で.

(10) も な け れ ば 、産 業 の 発 展 の 遅 れ が 招 い た も の で も な い35。 ま た 、確 か に 苦 汗 産 業 の 代 表 の ひ と つ で あ る 衣 服 製 造 業 に ユ ダ ヤ 人 移 民 が 多 く見 ら れ た も の の 、 苦 汗 労 働 そ の も の は 移 民 と は 無 関 係 で あ っ た 。 し か し 、19世 紀 末 か ら20世 紀 に か け て な さ れ た 苦 汗 労 働 に か ん す る 発 言 は 、 し ば し ば 、 苦 汗 労 働 を ユ ダ ヤ 人 移 民 と 結 び つ け て い た 。 ポ ッ タ ー は 、 イ ー ス ト ・エ ン ドの 衣 服 産 業 の 調 査 を 行 い 、 そ の 結 果 を 、 社 会 的 影 響 力 を 持 っ た ブ ー ス の ロ ン ドン 調 査 に 発 表 した が 、 そ の 報 告 は 、 ユ ダ ヤ人 移 民 と苦 汗 制 度 を 結 び つ け た 責 任 の 一 端 を負 って い る。 ポ ッタ ーは 、 貴 族 院 苦 汗 制 度 調 査 委 員 会 で は 、 イ ー ス ト ・エ ン ドに つ い て か な り の 経 験 が あ る と 述 べ て い る も の の 、 オ デ ィ お よび イ ン グ ラ ン ダ ー の 研 究 に よ れ ば 、 実 際 に 衣 服 製 造 業 で 働 い た の は2日. で あ り、 イ ー ス ト ・エ ン ド. の 衣 服 産 業 に か ん す る情 報 の 多 くを 、 ミシ ンを 分 割 払 い で購 入 した この地 区 の 作 業 場 か ら、 毎 週 の 支 払 い を 集 め て い る シ ン ガ ー な ど の ミ シ ン 製 造 販 売 会 社 の 集 金 人 か ら得 て い た36。 ポッ タ ー は 委 員 会 に お い て 、 ポ ッ タ ー は 、 議 長(Ⅳ. に 述 べ る ダ ン レイ ヴ ェ ン)の. 執拗 な 質 問に た い して、. イ ー ス ト ・エ ン ドの 衣 服 産 業 に た い す る 移 民 の 影 響 を 否 定 し た37。 しか し 、 ロ ン ド ン調 査 で は 、仕 立 業 の うち コ ー ト製 造 は も っ ぱ ら ユ ダ ヤ 人 の 手 に あ る こ と を 強 調 し 、 そ こ で の 製 造 過 程 を ヤ 的 製 造 方 法(Jewish . method  of production)」. 「ユ ダ. と表 現 した。 イ ング ラ ンダ ー は 、 こ こに ユ ダヤ 人. と 苦 汗 産 業 と の 結 び つ き が な さ れ た と み る38。   社 会 調 査 と ユ ダ ヤ 人 と の 関 連 は 、 ポッ タ ー の 調 査 以 外 に も 見 ら れ た 。 イ ン グ ラ ン ド北 西 部 の 都 市 リ ー ズ は 、19世 紀 後 半 か ら紳 土 服(お. よ び 男 児 服)の. 中 心 地 の ひ とつ で あ り、 同 市 の 代 表 的 な. 紳 士 服 製 造 業 者 が ユ ダ ヤ 人 製 造 業 者 を 下 請 け と し て 利 用 し成 功 を 収 め た こ と か ら 、 ユ ダ ヤ 人 製 造 業 者 の 下 請 け が 常 態 と な っ た39。 こ れ に 伴 っ て リー ズ の ユ ダ ヤ 人 人 口 は 急 速 に 増 加 し、1850年 は100人 前 後 で あ っ た も の が 、1881年. に は 約2500人. と な っ た 。 彼 ら の 多 く は 、 レ イ ラ ンズ(Leylands)地 す で に 、 「リ ー ズ の テ ム プ ラ ー 通 り(Templar . 、1897年 に は 約10000人. 、1907年 に は 約20000人. 区 と呼 ば れ る 一 角 に 集 住 し た 。1884年. Street)は. に. には. 、 古 き 日の ローマ 、 プ ラ ハ 、フ ラ ン クフ. ル ト=ア ム=マ イ ン に あ っ た よ う な ゲッ トー で あ る 」40とい わ れ た 。 こ の レ イ ラ ン ズ 地 区 に1888年. に. 発 生 した 天然 痘 の 流行 は 、 さ ま ざ まな 調 査 者 を この地 区 に引 きつ け る こ と と な っ た。 商 務 庁 か ら ジ ョ ン ・バ ー ネッ ト(John  Burnett),医. 学 雑 誌 『ラ ン セッ ト(the  Lancet)』. そ し て 、 『経 済 学 雑 誌(the . Journal)』. 1860-1948)41が. Economic . 誌 か ら は ク ラ ラ ・ コ レッ. か らの レポ ー タ ー、 ト(Clara . Collet,. 、そ れ ぞ れ 独 立 に 、 この 時期 の リーズ の調 査 を 行 っ た。そ のほ か に も、 同市 の ユ ダ. ヤ 人 が 何 人 か 、 この 問題 に つ い て発 言 した。 三 人 の調 査 者 、 お よ び発 言 を 行 った ユ ダ ヤ 人 た ち の 見 解 は ま ち ま ち で あ っ た 。 コ レ ッ トは リー ズ に お け る 苦 汗 制 度 の 存 在 を 実 際 上 否 定 し た 。 バ ー ネ ッ トは 、 リ ー ズ の ロ ン ド ン よ り も清 潔 で 、 広 く 、 換 気 も よ い 、 と考 え た 。 他 方 、 『ラ ン セ ッ ト』 誌 の レポ ー タ ー は 、 作 業 場 の 床 は 、 清 掃 を ほ と ん ど し て い な い し 、 トイ レの 状 況 は 目 を 覆 う も の が あ る 、 と し て 、 も っ と も清 潔 な 作 業 場 で す ら 、 感 染 の 危 険 性 を 免 れ な い と 考 え た 。 ユ ダ ヤ 人 の 社 会 主 義 者 で あ り 労 働 組 合 運 動 家 で も あ っ た 、 ジ ョセ フ ・フ ィ ン は 、 労 働 者 は 極 悪 な 環 境 に 苦 し ん で い る と考 え た42。1889年7月11日 製 造 業 者(お. よそ60-70人. 貴 族 院 苦 汗 制 度 調 査 委員 会 で 証 言 に た った 、 ユ ダ ヤ 人 衣 服. を 雇 用 して い る)デ. ィ ヴ ィ ッ ド ・ル ー ベ ル ス キ ー は 、 リ ー ズ に お け る.

(11) 下 請 け 制 度 を詳 し く説 明す る と と もに 、労 働 者 が ひ どい状 況 に あ る と述 べた43。   社 会 調 査 が あ き らか に した苦 汗 制 度 の 問題 点 や 労 働 者 の貧 困 は そ れ 自体 深 刻 な 問 題 で あ る が 、 世 紀 末 の帝 国 主 義 思 想 の も と で は、 大 英 帝 国 の 根 幹 に か か わ る問 題 と して 注 目を 集 め る こ とに な る。 そ れ 故 、 ユ ダ ヤ人 問 題 は 、 帝 国 主 義 者 に と って も座 視 で きな い 問 題 とな り、 さ まざ ま な発 言 が な され る こ と とな る。 つ ぎに 、 東 欧 系 ユ ダ ヤ 人 移 民 へ の 帝 国主 義 者 た ち の ま な ざ しを検 討 し よ う。.  Ⅲ   帝 国 と反 移 民 運 動   社 会 改 良 を求 め る動 き は帝 国 主 義 の動 き と絡 み 合 って い た 。 時 代 は また 優 生 学 の 時 代 で もあ っ た44。19世 紀 の 最後 の20-30年 は、国 家 の 経 済 ・社 会 へ の 介 入 の 必 要 性 が 次 第 に 是認 され る よ うに な った 時 期 で あ る。 そ の 最 初 は1875年 の 一 連 の トー リー ・デ モ ク ラ シ ーで あ る。 ま た 、1873年 か ら3年. 間 、 バ ー ミ ン ガ ム の 市 長 を 務 め た ジ ョ セ フ ・チ ェ ム バ レ ン(Joseph  Chamberlain ,. 1836-1914)に. よ る一 連 の都 市 改 革 、 い わ ゆ る都 市 社 会 主 義(municipal  socialism)も そ の流 れ と. 考 え られ る。 こ の動 き の一 端 は帝 国 主 義 と分 か ち難 く結 び つ き、国 家 的 効 率(national efficincy) を合 い 言葉 とす る社 会 帝 国 主義 とな る。 社 会 帝 国主 義 者 の 代 表 の 一 人 で あ り、 自 由 党 に 属 す る ロー ズ ベ リ(fifth Earl of Rosebery,1847-1929)に. よれ ば、 効 率 とは 「帝 国 存 立 の た め に 必 要 と. な る行 政 、議 会 、商 業 、教 育 、公 衆 衛 生 、道 徳 、陸 海 軍 な ど の多 方 面 に おけ る国 民 の 適 性 を 確 保 す る こ と」45であ った 。1899年 勃 発 した第2次. ボ ー ア戦 争 は、兵 役 志 願 者 の健 康 状 態 が 非常 に 悪 い. こ とを あ き らか に し、 こ の こ とが き っか け と な っ て一 層 の 社 会 改 良 へ の 必 要性 が広 く認識 され た 。 世 紀 の 転 換 点 頃 か ら急 速 に進 ん だ 母 子 福 祉 政 策 は 、 そ の 必 要性 へ の ひ とつ の対 応 で あ る。 しか し、 「人 口の 質 的 低 下 」 の 原 因 とそ の 対 策 を 論 ず る論 者 た ち の あ い だ に は 、 この 問題 と移 民 問題 を 関 連 づ け 、 反 二移 民 を 訴 え る もの もの い た 。   1894年3月 か ら95年6月. ま で首 相 を 務 め た ローズ ベ リは 、 「帝 国 は 、 第一 条 件 と して 、帝 国 に ふ. さわ しい 人種(imperial race)を 必 要 と して い る。強 健 で 勤 勉 で 、勇 敢 な人 種 で あ る。…未 だ 残 存 して い る貧 民 窟 や ス ラ ムに お い て は 、帝 国 に ふ さわ しい人 種 は育 た な い」46と 暗 に イ ー ス ト ・エ ン ドの状 況 を批 判 した。 ま た 、移 民 制 限 に ふ れ 、 「この世 界 に ひ とつ確 実 な こ とが あ る とす れ ば、そ れ は この よ うな こ とだ。 移 民 の増 加 に と もな って 、 そ して合 衆 国が 次 第 に他 国 か らの 貧 窮 した 移 民 に た い して制 限 を強 め て い る の に と もな っ て 、 自国 の労 働 者 階 級 の地 位 と状 態 を 、 永 久 的 に貶 め よ う と願 うの で なけ れ ば、 世 界 の いか な る 国 も貧 民 移 民 に た いす る 自国 の 立 場 を 再 考 せ ざ るを 得 な い 」47と、 あ き らか に反=移 民 の立 場 に立 っ た発 言 を行 っ て い る。 この発 言 は1893年 に な され た 。1894年. 「外 国 人 法 」 が 上 程 され た とき も、 第 一 読 会 の 直 前 まで 、 ローズ ベ リは 反=移 民 的 発. 言 を 行 って い た48。 しか し、 議 場 で は 、 ロ ーズ ベ リは 、 「 外 国 人 法 」 反 対 の 討 論 を 行 った 。 ゲ イ ナ ーは ローズ ベ リの この 心 変 わ りの 理 由は わ か らな い 、 と しな が ら も閣 内 の圧 力 が 働 い て い た 、 とい う理 由を 重 視 した49。1894年 、外 国 人 法 案 を廃 案 にす る上 で 、ロ ーズ ベ リが 果 た した 役 割 は 大 きい。 しか し、 彼 が 、 反=移 民 的 な 発 言 を 繰 り返 して い た こ と も事 実 で あ る50。.

(12)   帝 国 主 義 者 は ま た 、 英 国 の 自治 領 や 植 民 地 へ 英 国 人 の 移 住 に よ っ て 、 英 国 的 な も の を 広 め 、 自 治 領 や 植 民 地 と 本 国 と の 密 接 な 連 携 を 促 進 す る こ と を 進 め た 。1880年 熱 を 高 め 、D.ベ. イ ン ズ の 推 計 に よ れ ば 、1880年. 民 の 純 移 住(net  native emigration)の. 代 の 不 況 は英 国 か らの 移 住. 代 は イ ン グ ラ ン ドお よ び ウ ェ ー ル ズ か ら の 英 国. ピ ー ク で あ り、 こ の10年 間 に お け る 移 民 数 は 男 女 あ わ せ て. 約80万 人 で あ っ た51。 ユ ダ ヤ 人 問 題 に 関 し て 、 議 会 内 外 で 積 極 的 な 発 言 を 行 っ た ダ ン レ イ ヴ ェ ン (fourth  Earl of Dunraven,1841-1926)や ン ト(Ⅴ を 参 照)は. 、 保 護 貿 易 論 と移 民 問 題 を 絡 め た ハ ワ ー ド ・ヴ ィ ン セ. 、 帝 国 連 邦 同 盟(Imperial . Federation  League)の. 活 動 家 で あ り、彼 ら は 植 民. 地 へ の英 国 民 の移 民 を 、 帝 国 の 絆 を強 め 、 英 国本 国 に利 す る もの と して推 進 して い た。   英 国 民 の 移 住 を 国 内 失 業 解 消 の 立 場 か ら す す め る 移 民 推 進 論 者 に と っ て 、 英 国 に 押 し寄 せ る 東 欧 系 ユ ダ ヤ 人 は 目 障 りな 存 在 だ っ た 。 例 を 一 人 挙 げ よ う 。 ミ ー ス(twelfth  1841-1929)は. Earl of  Meath,. 、帝 国 の 熱 烈 な 支 持 者 と して さ ま ざ ま な 活 動 を 行 い 、 ヴ ィ ト リ ア 女 王 の 誕 生 日 を 帝. 国 記 念 日(the  Empire  Day)と. す る こ と を 最 初 に 提 案 した 人 物 で あ り、 夫 人 と と も に さ ま ざ ま な. 社 会 活 動 、 慈 善 活 動 に た ず さ わ っ た 人 物 で あ る 。 彼 は 、1890年 「も し も こ の 国 の 労 働 諸 階 級(working  (poorer classes)が. classes)の. に議 会 で次 の よ うに 述 べ て い る 。. 状 況 を 改 善 し た い と 、 そ して 、 貧 し い 諸 階 級. 私 た ち の 植 民 地 に 移 住 す る こ と を 援 助 し た い と欲 す る の な ら ば 、 … 同 時 に こ. の 国 が ヨ ー ロ ッ パ の ゴ ミの 山 と な る こ と を 防 ぐ た め に 何 ら か の 方 法 を 講 じ な け れ ば な ら な い 」52。   こ の よ うな 考 え は 、 優 生 学 と 容 易 に 結 び つ く 。19世 紀 末 か ら20世 紀 初 め に 、 英 国 に お い て 言 論 界 の一 翼 を 占め た優 生 論 者 に と って 、 国 内 の ユ ダ ヤ 人 は無 視 で きな い存 在 で あ っ た。 帝 国 主義 と 優 生 学 を 結 び つ け て 論 陣 を は っ た 、 カ ー ル ・ピ ア ソ ン(Karl  Pearson,1857-1936)は. 、 帝 国主 義. 者 と し て 国 外 に 向 か う一 方 、 国 内 に お い て は 、 不 適 正 者 の 出 産 を 抑 制 す る 必 要 性 を 強 調 し た 。 彼 は 、 ま た 、 移 民 制 限 論 者 と し て 、 ボ ー ア 戦 争 の さ な か に 感 情 的 な 演 説 を 行 っ た53。   フ ェ ビ ア ン 主 義 者 の 主 張 が 、 帝 国 主 義 お よ び ピ ア ソ ン流 優 性 主 義 と親 和 的 だ っ た こ と は つ と に 指 摘 さ れ て い る 。 セ ン メ ル は 、 シ ドニ ー ・ ウ ェ ッ ブ(Sydney . Webb,1859-1947)が1907年. し た フ ェ ビ ア ン ・ ト ラ ク トの 一 冊 『出 生 率 の 低 下(The Decline in the Birth Rate)』 ピア ソ ンを. に 出版 において、. 「鼻 に つ くほ ど 」 賞 賛 し て い る 、 と 指 摘 す る 。 そ こ に は 、 優 生 学 的 立 場 に 立 つ 移 民 制. 限 論 者 と 共 通 す る 言 葉 が 語 れ て い る 。 す な わ ち 、 「… 今 の 世 代 の 親 の 四 分 の 一 が 次 の 世 代 の 半 分 を 生 み 出 して い る の だ 。 こ れ で は 国 家 の 衰 退 を 招 く し か な い 。 あ る い は も う一 つ 考 え ら れ る の は 、 わ が 国 が 次 第 に ア イ ル ラ ン ド人 と ユ ダ ヤ 人 の 手 に 陥 ち て い く と い う こ と で あ る 」54。   帝 国 主 義 的 お よび 優 性 主 義 的 立 場 か ら も っ と も積 極 的 に反 二 外 国 人 の論 陣 を は っ た の は ア ー ノ ル ド ・ホ ワ イ ト(Arnold  は 、 ホ ワ イ トに つ い て. White,1848-1925)と. 「他 の 大 半 の 反=外. い う ジ ャ ー ナ リ ス トで あ っ た 。 イ ン グ ラ ン ダ ー 国 人 主 義 者 た ち と 異 な っ て 、 彼 は そ の 明 確 な 反=ユ. ヤ 主 義 を あ え て 隠 そ う と は しな か っ た 」55と述 べ て い る 。1884年. ダ. か ら イ ー ス ト ・エ ン ドで 活 動 を 続. け る 一 方 、 毎 年 南 ア フ リ カ を 訪 れ 、 英 国 人 の 入 植 地 の 建 設 を 試 み て い た 。 ホ ワ イ トは ま た 、1886 年 に. 『大 都 市 の 諸 問 題(Problems of the Great City)』. 書 物(The Modern Jew, . 1899)を. を 出版 し、そ の後 、 ユ ダ ヤ 人 に か ん す る. 書 き 、 論 文 を 当 時 の 代 表 的 な 論 説 誌(The Nineteenth.

(13) Century. ,The Fortnightly Review, The Contemporary Review)な. どに 発表 して い た 。 ホ ワイ ト. の 支 持 者 は 当 時 帝 国 主 義 者 と し て 知 られ た 議 員 を 多 く含 み 、 彼 の 一 連 の 論 説 は 、 移 民 制 限 を 持 論 とす る議 員 た ち の意 見 を代 表 して いた 。  . ホ ワイ トは ま た 、19世 紀 末 か ら20世 紀 は じめ に か け て 、 結 成 さ れ た い くつ か の 反=外. 国人団体. で も 積 極 的 な 役 割 を 果 た した 。 こ の 分 野 で の ホ ワイ トの 最 大 の 支 持 者 は 、 ダ ン レイ ヴ ェ ン で あ っ た 。 近 代 英 国 に お い て 最 初 に 確 立 し た 反=外. 国 人 団 体 は 、1901年. ザ ー ズ ・ リ ー グ(British  Brothers'  League,以 短 命 な が ら反=外. 下BBFと. 結 成 の ブ リテ ィ ッ シ ュ ・ブ ラ. 略 記)で. あ る が 、19世 紀 中 に も す で に. 国 人 団 体 が 存 在 し て い た 。 ホ ワ イ ト と ダ ン レ イ ヴ ェ ン は1886年. 移 住 廃 止 協 会(the . Society  for the Suppression  of the Immigration . に、貧窮外国人. of the Destitute  Aliens)に. 資 金 援 助 を し て い た 。 ゲ イ ナ ー に よれ ば 、 こ の 団 体 は 、 名 前 と は 裏 腹 に 、 善 意 の 博 愛 活 動 家 が 創 設 した も の で あ っ た が 、 ホ ワ イ ト と ダ ン レ イ ヴ ェ ン が か か わ っ た こ と に よ り、 反=外. 国 人 団体 と. して の 性 格 を 強 め た 。 集 会 の様 子 を 伝 え る新 聞 記 事 を 除 くと、 この 団 体 の詳 細 はわ か って い な い が 、 非 常 に 短 命 で あ った ら しい 。   ダ ン レイ ヴ ェ ン が 委 員 長 を 務 め る 貴 族 院 苦 汗 制 度 調 査 委 員 会 と と も に 庶 民 院 に は 、 出 国 移 住 お よ び 入 国 移 住(外. 国 人)調. 査 委 員 会 が 設 立 さ れ る と 、 これ ら の 委 員 会 の 成 果 を 期 待 し て 、 反=外. 国 人 運 動 は 一 端 沈 静 化 し た 。 ホ ワ イ トは 、 苦 汗 制 度 調 査 委 員 会 で 数 回 、 証 人 と して 自 ら の 考 え を 披 露 す る 機 会 を 得 た 。 し か し 、 両 委 員 会 と も反=外 き な か っ た 。 こ れ に 失 望 し 、1891年. 国人 の立 場 に たつ 人 々を 納 得 させ る こ とが で. ダ ン レイ ヴ ェ ン を 会 長 に 、 貧 窮 外 国 人 移 住 防 止 協 会. (Association  for Preventing  the Immigration  of Destitute  Aliens)が. 結 成 さ れ た56。 しか し、 こ. の 協 会 も 政 治 運 動 と して 何 ら の 成 功 を 収 め る こ と が で き な か っ た 。 そ の 理 由 の ひ と つ は 、 協 会 の メ ン バ ー が あ ま りに も 貴 族 層 な ど の 上 層 階 級 に 偏 り、 移 民 の 影 響 を 肌 で 感 じて い る イ ー ス ト ・エ ン ド と の つ な が りが 、 ホ ワ イ トを 除 い て ほ と ん ど な か っ た こ と 、 お よ び こ の 協 会 が 公 正 貿 易 、 す な わ ち 保 護 貿 易 と あ ま りに も 強 い 絆 を も っ て い た こ と 、 そ し て 、1890年. 代 英 国 の経 済 が 大 不 況 を. 脱 し 、 や や 上 向 き に な っ た こ と が あ げ ら れ る57。   こ の 時 期 、 国 論 を 二 分 す る 議 論 と な っ た 一 つ が 、 自 由 貿 易 か 保 護 主 義 か と い う議 論 で あ っ た 。 帝 国 主 義 的 立 場 に た っ た 反=外. 国 人 団 体 が 、 保 護 貿 易 論 を 唱 え て 、 そ の 支 持 を 失 う一 方 、 反=移. 民 と 保 護 貿 易 を 積 極 的 に 関 連 さ せ て 訴 え た 言 説 も あ っ た 。 次 に 、 貿 易 問 題 に ユ ダ ヤ 人 移 民が い か に 関 連 づ け ら れ た か を 検 討 し よ う。.  Ⅴ   関 税 改 革 運 動 と 反 移 民   自 由 貿 易 に 反 対 す る と と も に 移 民 制 限 を 積 極 的 に 主 張 し た 一 人 に 、 庶 民 院 出 国 移 住 お よび 入 国 移 住(外. 国 人)調. Vincent,1848-1908)が は1880年. 査 委 員 会 の 委 員 の 一 人 と し て 活 躍 し た ハ ワ ー ド ・ヴ ィ ン セ ン ト(Sir  Howard い る 。 自 由 主 義 的 な 傾 向 を 示 し な が ら 始 ま っ た ヴ ィ ン セ ン トの キ ャ リ ア. 代 に は 大 き な 変 化 を と げ 、 保 護 貿 易 論 者 と し て 、 ま た 、 移 民 制 限 論 者 と して 議 会 の 内 外. で 論 陣 を は る よ う に な っ た 。 ゲ イ ナ ー は 、 ヴ ィ ン セ ン トの 選 挙 区 が 、 自 由 貿 易 に よ っ て 外 国 か ら.

(14) の追 い 上 げ に 苦 しん で い る シ ェフ ィール ドに あ った こ と と1884年 の外 国旅 行 が彼 の見 解 を大 き く 変 化 させ た と推 測 して い る58。   1885年 の選 挙 で は 自 由貿 易論 争 は大 きな 焦 点 に な りな が ら も、 アイ ル ラ ン ド問題 の た め に一 時 棚 上 げ 状 態 に な った。 しか し、1887年 ア イル ラ ン ド問 題 が もた ら した 危 機 が 去 る と再 び 、 国論 を 二 分 す る重 要 課 題 と して浮 か び 上 が っ て くる。 と 同時 に、 移 民 の制 限 と帝 国 特 恵 、保 護 貿 易 を結 びつ け て論 陣 を は る ヴ ィ ンセ ン トお よび ダ ン レイ ヴ ェン な どが 積 極 的 な 活 動 を繰 り広 げ る よ うに な る の も この年 で あ った 。 ゲイ ナ ー は1887年 こそ が 「公 正 貿 易(Fair Trade)論. の復 活 の年 、前 年. か らの 不 況 が 引 き続 い て い た 年 とい うだ け で な く、移 民 制 限運 動 の実 質 的 な 開 始年 と して 記憶 に と どめ られ る」年 と主 張す る59。1887年秋 、ヴ ィン セ ン トは 、ア ー ノル ド ・ホ ワイ トと と もに イ ー ス ト ・エ ン ドの 集 会 で 、 保 護 貿 易 と と もに 、外 国 人移 民 の流 入 を制 限 す る こ とを 要 求 す る演 説 を 行 った 。   保 護 貿 易 論 は 、 どの よ うな 論 法 で 東 欧 系 ユ ダ ヤ 人 移 民 へ と結 びつ け られ た ので あ ろ うか 。 一 つ の 方 法 は 、 特 に こ の時 代 に顕 著 であ った 、 ドイ ツ嫌 い 、 ドイ ツ へ の恐 怖 と移 民 を 結 び つ け て 感 情 的 に 移 民 へ の恐 怖 感 を あ お り立 て る形 で 行 わ れ た 。 す な わ ち 、移 民 た ち の多 くが 、 ドイ ツの 港 か ら ドイ ツ船 籍 の 船 で 英 国 に 向か うこ とを 指摘 し、 ドイ ツの船 会 社 が英 国 を破 壊 しな が ら金 儲 け を して い る、 と非 難 した り、 ビス マル クは 、 東 プ ロ シ アか ら追 放 され た ポ ー ラ ン ド人 を 押 しつ け る こ と に よっ て、 イ ン グ ラ ン ドを ゴ ミ捨 て 場 に して い る、 と非難 した り した60。   よ り巧 妙 な議 論 は、 ダ ン レイ ヴ ェ ンの 行 った 次 の よ うな 議 論 の展 開 に要 約 され る。 す な わ ち、 外 国 に お い て安 価 な労 働 力 を利 用 して 作 られ た 製 品 は 英 国 市 場 で 安価 に売 られ 、 英 国製 品 を 駆 逐 す る。 他 方 、英 国 内 に お い て移 民 の安 価 な 労 働 力 を 利 用 して い て も結 果 は お な じで あ る。 こ の二 つ の 間 の差 は実 質 上 な い 、 とい う議 論 で あ る。 英 国 へ の 移 民 は 「貧 民 の 自由貿 易(free  trade of paupers)」 と表 現 され た61。ゲイ ナ ー は、 こ う した議 論 は 、労 働 者 階級 を保 護 貿 易 論 支 持 に 引 きつ け る た め に 多用 され た と考 え る。 「飢 餓 の40年 代 」 の記 憶 が生 々 しい労 働 者 階 級 が 保 護 貿 易 論 を 受 け 入 れ る はず が な い が 、彼 らが必 然 的 に 保 護 主 義 的 に な る問 題 、 す な わ ち雇 用 と結 びつ け る こ とに よ って 、 自 らの論 陣 に 労 働 者階 級 の支 持 を 取 り付 け る こ とが で きる 、 とい う考 え が、 保 護 貿 易論 者 の 脳 裏 に あ った か らで あ る。   実 際 、1880年 代 か ら90年 代 は じめ の労 働 者 階 級 は、 移 民 制 限 論 を 支 持 す る発 言 を し て い る。 1889年7月. 、 出 国 移 住 お よび 入 国 移 住(外. (James Keir Hardie,1856-1915)は. 国 人)調. 査 委 員 会 の 証 人 と な っ た ケ ア ・バ ー デ ィ. 、 委員 長 の 質 問 に答 え る形 で 、外 国 人(た だ しそ の全 て が ユ. ダ ヤ 人 とい うわ け で は な い)は 、 ス コ ッ トラ ン ドの労 働 者 よ りも 「低 い 賃 金 を 受 け 入 れ とい う こ とが 不 満 の 種 で す 。彼 ら の 大半 は、 労働 搾 取 者(sweater)の. た め に 働 い て い て 、低 賃金 を受 け 入. れ て い るの で す 」62と 答 え た。 また 、そ の 主 た る 解 決 法 と して 、「我 が 国 と同 程 度 の 賃 金 水 準 の 国 か らの 移 民 、 あ る いは 政 治 的 亡 命 者 、 これ らの 人 々は例 外 と して、 そ れ 以 外 の 場 合 は 英 国 の 雇 用 主 に よ る外 国 人 の 雇 用 を 禁 止 す る こ と」 を あ げ た63。1892年 か ら1894年 の3力 年 に わ た って 、TUC に お い て も移 民 制 限 を 求 め る決 議 が な され た 。 ロ ン ドンや リー ズ の労 働 組 合 評 議 会 で も1890年 代.

(15) の 前 半 、 同 様 の 決 議 が 行 わ れ て い る64。   しか し、 労 働 組 合 の反=外 国 人 熱 は 短 期 的 な もので あ った 。1895年 頃 を境 に 、 こ う した 議 決 は 姿 を 消 した 。 ゲイ ナ ー は、 こ の理 由 と して、 景 気 回 復 、 伝 統 的 な亡 命 の権 利 の 重 視 、 国 際 的 な労 働 者 の 団 結 へ の 社 会 主 義 者 の 信 頼 、 移 民 の制 限 は単 に 問 題 か ら 目を逸 らす こ とで あ り、 失 業 や 苦 汗 制 度 へ の 根 本 的 な 解 決 に な らな い とい う認 識 の定 着 な どを あげ て い る65。 さ らに 、TUCが. 反=. 外 国 人 決 議 を 行 って い る と き も、 彼 らは 、 移 民 制 限 論 と保 護 貿 易 論 とは 明 確 に 区 別 して い た66。   1890年 代 半 ば 、 外 国 人 移 民 の 問 題 で は 労 働 者 階 級 の 支 持 を 得 られ な い こ とが 明 確 に な りつ つ あ った と き、J.チ. ェ ムバ レンが この 問題 で 発 言 を繰 り返 す よ うに な った。 他 の 移 民 制 限 論 者 と. 同 様 に 、 彼 も また 、 移 民 問 題 は 労 働 者 の 問 題 で あ り、 い ず れ 、 労 働 者 も移 民 制 限 に 賛 成 す る よ う に な る と考 え て い た 。   ゲイ ナ ーに よれ ば 、 チ ェムバ レンの 最 初 の 反=移 民 発 言 は 、1892年11月 に 『一九 世 紀 』 誌 に 発 表 した 「労 働 問 題 」 とい う論 説 で あ る67。彼 は 、 この 論 説 に お い て 、炭 坑 に おけ る労 働 時 間 短 縮 、 労 働紛 争 調 停委 員 会 、 老 齢 年 金 、 労 働 者 住 宅 建 設 の た め に 地 方 自治 体 の 権 限 を増 大 す る こ とな ど の一 連 の 労働 ・社 会 政 策 、 と な ら ん で、 「 貧 窮 移 民 の制 限 と統 制 」を か か げ た 。そ の理 由は 、最 下 層 の移 民 に よる雇 用 を め ぐる 競 争 が 、 す で に 十 分 な 雇 用 が 得 られ な い 英 国 の 労働 者 の 状 況 を 悪 化 さ せ て い る か ら、 とい う内 容 で あ り、 当 時 労 働 者 を 対 象 と し、 しば しば繰 り返 され た 議 論 で あ っ た68。彼 は ま た、 英 国 に流 入 して き た移 民 は 、統 計 に あ らわれ て い る よ りも数 が多 い と考 え て い た。 チ ェ ムバ レンは 、 こ う した考 え をTUCの. 年 次 大 会 な どで繰 り返 して述 べ て い た が 、 労働 者 を. 反=移 民 の論 陣 に 引 き込 む こ とは で き な か った69。   こ の後 も、チ ェムバ レ ンは移 民 制 限 論 を展 開 し続 け た。1902年 に は 、「ア メ リカ合 衆 国 の よ うな 国 、 す なわ ち、 世 界 中 に た い して 開 か れ た そ の 受容 力 を 自慢 し、 他 の い か な る 国 も得 た ことが な い、 雇 用 機 会 を 提 供 で き る 国、 そ ん な 国 で す らr貧 窮 外 国 人』 の 流 入 を制 限す る法 律 を制 定 せ ざ るを 得 な い の な ら ば、 …我 が 国 に お い て も何 らか の方 策 が な され るべ き で は な い のか 、考 慮 して も よい の で は なか ろ うか」70と述 べ て い る。チ ェ ムバ レンは 、1903年 以降 、関税 改 革 を訴 え る キ ャ ンペ ー ンに 専 念 し、1904年 に上 程 され た 、外 国 人法 に か んす る議 論 の急 先 鋒 とは い え なか った が 、 一 定 の 貢 献 は 行 った71。   労 働 者 階 級 を 保 護 貿 易 陣 営 に 引 き込 む た め の移 民 制 限論 を離 れ て 、 チ ェム バ レン は移 民 に つ い て どの よ うな 考 え を も っ て いた の で あ ろ うか。 彼 は 、東 欧系 ユ ダ ヤ 人 は 、迫 害 の犠 牲 者 と考 え 、 同 情 の 念 を も っ て い る こ とを 明言 して い た。 た だ し、 移 民 が英 国 国 内 に流 入 す る こ とは 、 自国 の 労 働 者 の た め に は な ら な い、 と い う固 い信 念 を持 っ て い た。 こ うした考 え の行 きつ く結 論 は、 シ オ ニズ ムへ の 共 感 で あ り、 「 哀 れ な流 民 た ち は 、他 人 の生 存 を 脅 か す こ と な く、自 ら の宿 命 を追 求 で き る」 こ とが 可 能 と な る 「どこか の 国 …可 能 な らば英 国 旗 の は た め く と こ ろ … を 見 つ け る こ と」 がそ の解 決 策 で あ った72この 候 補 地 と して 、 チ ェム バ レンは 、消 去法 で ウガ ン ダを 考 え た が 、 もち ろん 、 シ オ ニ ス トた ち の賛 成 は得 られ な か っ た。 ゲ イ ナ ー は 、 チ ェ ムバ レン は 人道 主義 者 で あ る よ りも、 帝 国 主 義 者 で あ っ た と評 価 す る 。 ウ ガ ン ダ に ユ ダ ヤ 人 国 家 を 樹 立 す る 考 え は 、.

(16) BBFの. 中 心 人 物 エ ヴ ァ ン ス=ゴ. ー ドン(Major . William  Evans-Gordon)に. も共 通 して い た し、 ホ. ワ イ ト も英 国 以 外 の 地 域 に ユ ダ ヤ 人 の 国 家 が 再 建 さ れ る こ と に 異 論 は な か っ た73。 こ う し た 考 え は1917年. の ・ミル フ ォ ア 宣 言 の 底 流 とな っ て い る 。 ア ー サ ー ・バ ル フ ォ ア(Arthur . 1848-1930)は. 、外 国 人 法 案 が 上 程 さ れ た 時 の 総 理 大 臣 で あ っ た が 、彼 は1905年. James  Balfour,. 、 反=ユ. ダヤ人的. 発 言 を 議 会 で 行 っ て い る74。 移 民 制 限 論 者 と シ オ ニ ズ ム の 関 係 に つ い て は 、 こ の 時 代 の 英 国 ユ ダ ヤ 人 の 歴 史 を 考 え る 上 で 重 要 な 論 点 で あ る。.  Ⅵ   ま と め   これ ま で に 見 て き た よ うに ブ ー ス の ロ ン ド ン調 査 、 議 会 の 特 別 委 員 会 に よ る苦 汗 制 度 や 移 民 の 影 響 の 調 査 、 ヴ ィ ン セ ン トや チ ェ ム バ レ ン、 ダ ン レイ ヴ ェ ン 、 ホ ワ イ トな ど の 反=外. 国 人論 者 お. よび保 護 貿 易 論 者 の さ ま ざ ま な言 説 は 、 東欧 系 ユ ダ ヤ 人 移 民 が 持 つ 負 の イ メー ジ を増 幅 した。 世 紀 末 英 国 に お け る 重 大 な 政 治 的 ・社 会 的 問 題 は ユ ダ ヤ 人 移 民 と 関 連 づ け ら れ 、 彼 ら は 、 絶 好 の ス ケ ー プ ゴ ー ト とな っ た 。   しか し、 こ う した 言 説 が 、 この 時 点 で は 、 大 衆 動 員 を 伴 っ て い な か っ た 点 も考 慮 す る 必 要 が あ る。 移 民 と直 接 的 な 競 争 に さ ら さ れ て い る 、 と さ れ た 労 働 者 階 級 は 、 移 民 制 限 論 に も 、 ユ ダ ヤ 人 移 民 問 題 を 挺 子 に 支 持 を 集め よ う と した 保 護 貿 易 論 に も 賛 同 し な か っ た 。 す で に 述 べ た よ う に TUCは. 移 民 規 制 を 求 め る決 議 を した もの の、継 続 的 な 要 求 で は な か った 。チ ェム バ レン の努 力 に. も か か わ らず 、 組 織 労 働 者 は 一 貫 して 保 護 貿 易 論 を 批 判 し た75。1905年 れ た1906年1月. 外 国人 法 成 立 直 後 に 行 わ. の 総 選 挙 は 、 自 由党 の 「 地 滑 り的 勝 利 」、統 一 党 の 壊 滅 的 敗 北 に 終 わ っ た 。 こ の 選. 挙 の 最 大 の 争 点 が 、 貿 易 政 策 で あ り、 保 護 貿 易 論 者 は こ の 敗 北 に よ り、 決 定 的 な 打 撃 を 被 っ た 。 外 国 人 問 題 が 深 刻 だ と 思 わ れ て い た 、 ロ ン ド ン、 イ ー ス ト ・エ ン ドで も 、 エ ヴ ァ ン ス=ゴ ら2人. ー ドン. の 統 一 党 候 補 が 当 選 した の み で 、10年 来 の 統 一 党 の 議 席 も い くつ か 失 わ れ た76。 イ ー ス ト. ・エ ン ドの 有 権 者 た ち は. 、 外 国 人 問題 故 に統 一 党 に投 票 す る こ とは なか った。.   とは い え 、20世 紀 に 入 る と ユ ダ ヤ 人 移 民 へ の 攻 撃 の み な らず 、 さ ま ざ ま な 外 国 人 移 民 へ の 暴 力 を 伴 っ た 排 斥 行 動 が 頻 発 す る よ うに な る 。 ユ ダ ヤ 人 を 対 象 と し た 排 斥 行 動 と して は 、1907年 イ ル ラ ン ドの リ マ リ ッ ク お よ び1911年. の 南 ウ ェ ー ル ズ モ ン マ ス 州 に お け る 暴 動 、1930年. フ ァ シ ス ト同 盟(British  Union  of Fascists)な. の ア. 代の英国. ど が あ げ ら れ る 。 そ の 他 の マ イ ノ リテ ィ に た い す. る 排 斥 行 動 を あ げ れ ば 、 以 下 の よ うに な る 。 第 一 次 世 界 大 戦 中 の1915年. を 中 心 に 反=ド. イ ツ人 暴. 動 が 、 ロ ン ドン の い くつ か の 地 域 、 リヴ ァ プ ー ル 、 マ ン チ ェ ス タ 、 シ ェ フ ィ ー ル ドな ど で 発 生 し た 。 第 二 次 世 界 大 戦 中 の1940年 =イ. に は 、 や は り ロ ン ドン を は じめ と し た い くつ か の 都 市 に お い て 反. タ リ ア 人 暴 動 が 起 き て い る 。1919年. に は 、 戦 争 中 雇 用 され て い た 黒 人 船 員 へ の 暴 行 が 港 湾 都. 市 で 発 生 し、 黒 人 二 名 と 白 人 三 名 が 死 亡 して い る 。 有 色 人 種 に た い す る 本 格 的 な 集 団 暴 力 は 、 1958年 の ノ ッテ ィ ン ガ ム お よ び ロ ン ド ン 、 ノッ テ ィ ン グ ・ヒ ル で 発 生 し た 。   以 上 を ふ ま え て 、 世 紀 転 換 点 以 降 の 反=ユ. ダ ヤ 人 感 情 を 、20世 紀 に お け る 、 ユ ダ ヤ 人 以 外 の 外. 国 人 排 斥 を 含 め た 歴 史 の な か で 考 察す る こ とを 次 の課 題 と した い。.

(17)                           註. 1 . 小 池[1995],pp.86-87.. 2   Davis[1988],  pp.96-114. 3   Englander,[1994], . p.20.. 4   Panayi[1996]. 5 . 本 稿 で い う 「英 国 ユ ダ ヤ 人 」 と は 、19世 紀 後 半 に 始 ま る 東 欧 系 ユ ダ ヤ 人 の 大 量 移 民 の 以 前 か ら 、英 国 に 定.   住 し て い た ユ ダ ヤ 人 を 指 す 緩 や か な 定 義 の 概 念 で あ る 。 佐 藤 に よ れ ば 、1656年. の ユ ダヤ 人 再 入 国 以 降 比 較.   的 初 期 に 英 国 に 定 住 し た イ ベ リ ア 半 島 に ル ー ツ を 持 つ セ フ ァ ル デ ィ ム と 、18世. 紀 半 ば 以 降 、 ドイ ツ か ら移.   民 して き た ア シ ュ ケ ナ ー ジ ム と の あ い だ の 経 済 社 会 的 格 差 は 大 き く、19世. 紀 初 期 ま で ドイ ツ 系 ユ ダ ヤ 人 の.   貧 困 は ユ ダ ヤ 人 社 会 の 大 き な 問 題 で あ っ た 。 しか し、 そ の 後 、 ドイ ツ系 ユ ダ ヤ 人 の 定 住 化 、 中 産 階 級 化 が 進   展 し て き た(佐. 藤[1995]pp.123-216)。. 「英 国 ユ ダ ヤ 人 」 は 大 き く は こ の 二 つ の グ ル ー プ か ら な っ て い る 。. 6 . Lipman,[1990].. 7 . 丹 治[1997].. 8 . 佐 藤[1995].. g . こ う した 自 己 認 識 に は 、19世 紀 の 歴 史 家T.B.マ.  を. 「人 類 の 聖 な る 避 難 所 」   . コ ー リ ー も 大 き く関 係 し て い る 、彼 は 、 同 時 代 の 英 国 社 会. す な わ ち 、 世 界 各 地 で 抑 圧 さ れ た 人 々 を 受 け 入 れ る社 会 と 表 現 し た 。. 10  Gainer[1972]. 11  佐 藤[1995],P.219. 12  Englander,[1994], . p.16.. 13  Holms,[1988], . p.26, Englander,[1994], . 14  Holms,[1988], . p.26.. 15  Englander,[1994], . pp.15-16.. p.15.. 16  Panayi[1994], . pp.50-52.. 17  Gainer[1972], . pp.8-9. 18  Gainer[1972], . p.9.. 19  ユ ダ ヤ 人 保 護 委 員 会 は1859年. 、 英 国 ユ ダ ヤ人 の中 央 集 権 化 の 一 環 と して 結成 され た 。 貧 困 な 人 々 が 多 い.   ア シ ュ ケ ナ ー ジ ム を確 立 され た ユ ダ ヤ人 社 会 へ 統 合 す る こ とを そ の 目的 と して い る。 保護 委 員 会 と い う名   称 は 、 英 国 の 新 救 貧 法 に お け る 行 政 組 織 と 同 名 で あ る が 、 イ ン グ ラ ン ダ ー に よ れ ば 、 こ の 委 員 会 は 、新 救 貧   法 の 原 則 を ユ ダ ヤ 人 の 互 助 に 適 応 す る こ と を 目 的 と し て 結 成 さ れ た も の で あ っ た(Englander,[1994],   p.36)。. ユ ダ ヤ 人 保 護 委 員 会 の 組 織 と 活 動 の 詳 細 に つ い て は 、Black[1988], . pp71-103を. 参 照 。1880年. 代 以.   降 、 ユ ダ ヤ 人 保 護 委 員 会 は 東 欧 系 ユ ダ ヤ 人 移 民 の 問 題 に 深 くか か わ る こ と に な り、 同 時 代 の 社 会 調 査 や 議   会 で の 証 言 な ど を と お し て 、 ユ ダ ヤ 人 の 「実 態 」 を 広 く知 ら し め る 役 割 を 果 た し た 。 し か し 、 そ の 設 立 の 経   緯 か ら 、 そ の 「実 態 」 に は 、 長 く英 国 に 定 住 し、 社 会 的 な 地 位 を 築 き 上 げ た ユ ダ ヤ 人 の 偏 見 が 反 映 され て い   る こ と が容 易 に想 像 され る。 ユ ダ ヤ人 保 護 委 員 会 に つ い て は 稿 を 改 めて 考 察 す る。 20  Gainer[1972], . p.7.. 21  Gainer[1972],  p.6. 22  Gainer[1972], . p.6.. 23  Gainer[1972], . p.11.. 24  Gainer[1972], . p.11.. 25  1989年. に 公 開 さ れ た ブ ー ス の ロ ン ド ン調 査 の 手 稿 に つ い て の 紹 介 と し て 、 高 井[1991]が. 26  オ デ ィ に よれ ば 、 ポ ッ タ ー(ウ   イ プ ラ イ タ ー 書 き が2種. ェ ッ ブ)の. 日 記 の ヴ ァ ー ジ ョ ン は4種. あ る。. 類 あ る 。 ひ と つ は 自 筆(手. 稿)、. タ. 類 、 そ し て 、編 集 出 版 さ れ た 日記 で あ る 。 タ イ プ 稿 は 互 い に 異 な り、 し か も 手 稿 と.   も 異 な っ て い る が 、 日 記 を 編 集 出 版 し た ノ ー マ ン お よ び ジ ー ン ・マ ッ ケ ン ジ ー(Norman . and  Jeanne.

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