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昭和戦前・戦中期における子供漫画出版の基盤形成

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昭和戦前・戦中期における

子供漫画出版の基盤形成

宮本 大人

Formation of a Foundation for

Children’s Manga Publishing

in Showa Prewartime and Wartime

Hirohito Miyamoto

 本稿の目的は,昭和戦前・戦中期における子供漫画の出版状況を,各種資料 に基づいて明らかにすることである.主要な児童雑誌に掲載された漫画は,昭 和 10 年代前半には総頁数の約 10%を占めるようになっていた.子供漫画の単 行本は,昭和 10 年代前半には発行点数で年間 500 点以上,発行部数で 350 万 部以上が出ていたと推定される.こうした数量は,戦後の子供漫画出版の基盤 がすでにこの時期形成されていたことを示している.

The purpose of this paper is to clarify the publishing situation of children’s comics in Showa prewartime and wartime based on various materials. The percentage of comic pages in the space of major children’s magazines and the number of titles and circulation of children’s comic books indicate that the basis for children’s comic book publishing after the war was already formed during this period.

キーワード:子供,漫画,赤本,児童雑誌,日本出版文化協会

[論文]

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1. はじめに

 本稿の目的は,出版史研究と漫画史研究の知見を踏まえつつ,昭和戦前・ 戦中期の児童雑誌における漫画の掲載状況,および,単行本の形で出された 子供漫画本の発行部数について,各種資料に基づいてその概要を明らかに し,世界に類を見ない規模で発展を遂げた日本の漫画出版の基盤がこの時期 に形成されていたことを示すことである.  この時期の子供漫画については,その表現や主題に関する研究として,竹 内オサムの著作1)や宮本大人の一連の論文2)がある.その出版・流通状況に ついても,『少年倶楽部』(大日本雄弁会講談社)に連載され,単行本化もさ れた,『のらくろ』(田河水泡,昭和 5 ∼ 16 年),『冒険ダン吉』(島田啓三, 昭和 8 ∼ 14 年)の二作の人気に牽引される形で,子供漫画単行本の「未曾 有の出版ラッシュ」があったことが竹内によって指摘され3),宮本による当 時の資料に基づいた,子供漫画単行本の具体的な出版点数の検討も行われて いる4)  また,出版流通の観点から戦後の漫画産業の発展を分析した著作として 中野晴行のものがある.中野は,「巨大な読者集団」としての団塊の世代の 成長に合わせて,少年週刊誌が創刊され,青年向け漫画雑誌が創刊され,と いった具合に,漫画出版がそのターゲット層を拡大してきたことを明らかに している.これは,大学生になっても大人になっても漫画を卒業しない戦後 の漫画産業の基盤は子供向けの漫画出版にあることを意味しているが,中野 の著作では戦前・戦中期の子供向けの漫画出版の状況にはアプローチされて いない5)  昭和戦前・戦中期から戦後占領期にかけての子供漫画出版において無視で きない比重を占める「赤本漫画」を含む「赤本」の出版流通史における位置 づけについては柴野京子の研究があり6),宮本大人も明治以後の赤本絵本の 出版流通に関する研究を行なっているが7),昭和戦前・戦中期の赤本漫画に 焦点を合わせた議論は不十分であった.児童雑誌の中での漫画の比重の高ま りについての数量的な検討もなされてきていない.  本稿は,これらの先行研究の知見を踏まえつつ,その不備を補い,当時の

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出版物の中で子供漫画が占める比重がどのようなものだったのかについて, 雑誌,単行本の両面から,具体的なデータに基づいてその全体像を概観する 試みである.

2. 児童雑誌における漫画の数量的推移

2. 1 児童雑誌の出版状況と漫画の比重  この節では児童雑誌における漫画の数量的推移を見て行くが,まずは当時 の児童雑誌全般の出版状況を概観しておく.  表 1 は,『出版年鑑』掲載の「少年少女雑誌」主要 13 種と「幼年雑誌」主 要 30 種の売上部数データの推移をまとめたものである8).なお本論では, これら「少年少女雑誌」と「幼年雑誌」の総称として「児童雑誌」という言 葉を用いることにする.『出版年鑑』掲載のデータは,昭和 15 年分までは取 次業者の一つである東京堂の調査だが,出版統制のための取次一元化によっ て日本出版配給株式会社(日配)が昭和 16 年に成立して以後は,日配調べ のデータになるため,データがどの程度包括的で信頼できるものかはこの前 後で異なる.ただし,東京堂はもともと雑誌の取次を中心としたいわゆる雑 誌大取次であるためか,書籍に関するデータには日配成立の前後で大きな不 連続が見られるのに対して,雑誌に関するデータには大きな不連続は見られ ない.  昭和 2 年の 1200 万部から昭和 15 年の 2877 万部まで,基本的には売上部 数が伸び続け,14 年間で 2 倍以上の伸びを見せており,対米開戦の昭和 16 年を境に減少に転じ,敗戦の昭和 20 年には急落している.  今述べたように,この時期,児童雑誌は順調にその売上部数を伸ばしてい るのだが,児童雑誌における漫画の役割とその比率の増加という点との関 連で無視できないのは,昭和 5 年から 6 年,7 年と,いったん売上部数が落 ちている点である.『出版年鑑』における概況の解説にも,少年少女雑誌に ついては「昭和二年より五年までは逐年増加してゐたものが,昭和五年以後 はかへつて売れ行き部数減退を示し,八年度に至つて漸く三年振りに増加 してゐる.しかし,それでも昭和五年の九百二十万部と大差ない状態であつ

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た」9),幼年雑誌についても「近年振はぬ組であり,昭和三年より昭和五年 までは順次増加してゐるが,昭和六年以後は部数減退し,八年度にやや回 復,引続き九年度も増加してゐるが,五年度の九百四十万部に比べると可成 表 1 主要少年少女雑誌・幼年雑誌の年間発行部数 少年少女雑誌(13 種) 幼年雑誌(30 種) 計 昭和 2 年 7,100,000 5,500,000 12,600,000 昭和 3 年 7,700,000 6,700,000 14,400,000 昭和 4 年 8,350,000 8,300,000 16,650,000 昭和 5 年 9,200,000 9,400,000 18,600,000 昭和 6 年 8,500,000 8,500,000 17,000,000 昭和 7 年 8,450,000 7,100,000 15,550,000 昭和 8 年 9,210,000 7,300,000 16,510,000 昭和 9 年 9,740,000 7,480,000 17,220,000 昭和 10 年 10,382,000 7,716,000 18,098,000 昭和 11 年 11,264,000 8,093,100 19,357,100 *1 昭和 12 年 11,897,000 8,205,000 20,102,000 *2 昭和 13 年 12,957,000 10,825,000 23,782,000 *3 昭和 14 年 13,175,480 13,127,950 26,303,430 *4 昭和 15 年 13,914,860 14,864,580 28,779,440 昭和 16 年 *5 昭和 17 年 26,984,282 *6 昭和 18 年 15,344,258 10,746,865 26,091,123 昭和 19 年 12,725,498 9,158,669 21,884,167 昭和 20 年 7,738,925 5,159,284 12,898,209 *1 幼年雑誌は 28 種の数値. *2 幼年雑誌は 26 種の数値. *3 幼年雑誌は 25 種の数値.この 13 年 4 月号から『講談社の絵本』が雑誌扱いとなったため,ここ に算入. *4 幼年雑誌は 25 種の数値. *5 この年のみ雑誌に関する諸統計は『雑誌年鑑』に掲載されることとなったが,『雑誌年鑑』掲載 の「日配扱雑誌種目別売行統計」は 12 月分のみのデータになっている. *6 「児童雑誌」として一まとめに.月ごとの統計もあるがその都度雑誌の種類数 27 種から 36 種ま でばらつきがあることから,「主要」なものを選定せず日配扱い分全て対象にしているのでは?(月 刊誌でない雑誌もあることや,創刊・廃刊もあることなど)

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りの懸隔があつたのである」10)といった記述がある.  この時期は昭和 5 年の昭和恐慌以後の不況で,児童雑誌に限らず雑誌全般 の売上が停滞している.昭和 9 年版の『出版年鑑』は,調査対象としている (児童雑誌を含む)雑誌全 83 種の総売上部数の推移を示した上で「昭和二年 より昭和五年までは逐年約一割位の増加をなしたが,昭和五,六,七年の三年 間は,ほとんど変化なく,昭和八年に至って,久しぶりに一割の増加率を示 した」と述べている11).ちょうどこの時期に,児童雑誌の誌面に占める漫画 の比率が伸び始めている.つまり,児童雑誌においてはその売上停滞の打開 策の一つとして漫画が導入された蓋然性がある.  当時『少年倶楽部』の編集長だった加藤謙一の自伝には,講談社の営業部 門で長く勤めた堀江常吉によるという同誌の発行部数の記録が掲載されてい る.これによると『少年倶楽部』は昭和 4 年 1 月号 50 万部,5 年 1 月号 63 万部,6 年 1 月号 67 万部,7 年 1 月号 65 万部,8 年 1 月号 70 万部で,わず かな上下はあるものの少しずつ部数を伸ばしている12).この間の昭和 6 年 1 月号から「のらくろ」を連載し始め,また翌昭和 7 年の 1 月号から 2 色刷り の漫画特集ページを設け,いずれも好評を博していたことは,他誌の追随を 促したのではないか.ちょうど昭和 8 年から景気の回復とともに再び児童雑 誌全般の売上が伸長に転じたこともあって,その後,一定の比率で主要児童 雑誌に漫画が定着したのではないかと考えられる.  表 2 は,『のらくろ』連載開始の前年,昭和 5 年から,敗戦の昭和 20 年ま での,それぞれ 2 月号について,『少年倶楽部』,および『日本少年』(実業 之日本社),『少年少女譚海』(博文館)の三大少年雑誌における漫画掲載頁 の総頁数に占める比率をまとめたものである.2 月号を対象としたのは,新 年号となる 1 月号は,別冊附録などがつくことによって,平常号とは異なる 誌面構成になる場合が多いからである.ただし,『日本少年』と『少年少女 譚海』については,必ずしも 2 月号が公共機関で閲覧可能ではなかったた め,2 月号がなかった場合,2 月に近い月の号を採っている.また,『日本少 年』は昭和 13 年に廃刊になり,『少年少女譚海』も昭和 14 年の途中に『譚 海』と改題し対象年齢を上げる大幅な誌面刷新を行なっているのでそれ以降 のデータは取っていない.

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 まず,『少年倶楽部』から見ていくと,誌面に占める漫画の比率は,昭和 6 年と 9 年にそれぞれ大きな伸びを見せた後,昭和 16 年まで総ページ数の 8 ∼ 10%程度を維持した後,昭和 17 年に急落したまま敗戦を迎えていること が分かる.  先に触れたように,児童雑誌の売上部数も,17 年以後減少に転じている のだが,これほど極端な急落ではないし,漫画が雑誌のセールスポイントの 一つであれば,売上が低下したからといって誌面に占める比率が急落する理 由はない.この 17 年における雑誌内での漫画の比率の急落には,児童雑誌 の内容に対する統制の影響があると考えられる.  『日本少年』と『少年少女譚海』については,年ごとの変動が『少年倶楽 部』に比べて大きい.資料の所蔵状況の問題もあって網羅的な検証ができて いないのだが,両誌は月ごとの変動も『少年倶楽部』に比べると大きいよ うである.とはいえ,昭和 8 年から 13 年にかけては,6%から 10%の辺り 表 2 三大少年雑誌に占める漫画掲載頁の比率推移 少年倶楽部 比率 日本少年 比率 少年少女譚海 比率 昭和 5 年 2 月号 0.30% 7 月号 2.90% 1 月号 9.30% 昭和 6 年 2 月号 4.20% 1 月号 7.40% 4 月号 10.50% 昭和 7 年 2 月号 5.20% 4 月号 4.20% 2 月号 1.70% 昭和 8 年 2 月号 5.10% 2 月号 3.00% 2 月号 8.60% 昭和 9 年 2 月号 13.70% 2 月号 8.50% 2 月号 9.50% 昭和 10 年 2 月号 10.00% 2 月号 8.20% 2 月号 5.00% 昭和 11 年 2 月号 10.40% 2 月号 6.40% 2 月号 10.80% 昭和 12 年 2 月号 9.00% 2 月号 9.90% 2 月号 10.20% 昭和 13 年 2 月号 9.30% 2 月号 9.80% 2 月号 7.00% 昭和 14 年 2 月号 8.90% 2 月号 4.00% 昭和 15 年 2 月号 9.20% 昭和 16 年 2 月号 7.90% 昭和 17 年 2 月号 1.90% 昭和 18 年 2 月号 2.20% 昭和 19 年 2 月号 4.40% 昭和 20 年 2 月号 3.20%

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で安定している.また,別冊付録の形で漫画が多くの頁を与えられる例は, 『少年倶楽部』より多いように見受けられる.  表 3 は,『少年倶楽部』で最も連載物語漫画の比重が高まっている昭和 13 年について,主要な少年少女雑誌,および小学館発行の学年誌における漫画 関連のデータをまとめたものである.『主婦之友』(主婦之友社)を含んでい るのは,少年少女雑誌を持たない同社が,同誌に,子を持つ主婦を狙って, 表 3 昭和 13 年における主要児童雑誌における漫画関連データ 誌名 発行所 巻号 発行日 定価 本誌総頁数 漫画・本数 漫画・連載 本数 漫画・ 頁数 連載 漫画・ 頁数 漫画家 人数 漫画/総頁数 少年 倶樂部 大日本雄辯會講談社 25 巻3 号 2 月 1 日 0.51938 年 432 19 5 40 24 15 9.30% 少女 倶樂部 大日本雄辯會講談社 16 巻2 号 2 月 1 日 0.51938 年 384 13 3 22.5 12 11 5.90% 幼年 倶樂部 大日本雄辯會講談社 13 巻3 号 2 月 1 日 0.51938 年 230 15 4 47 34 13 20.40% 少年少女 譚海 株式會社博文館 19 巻3 号 2 月 1 日 0.31938 年 316 17 2 22 12 11 7.00% 新少年 株式會社博文館 4 巻2 号 2 月 1 日 0.61938 年 292 12 2 10.5,別冊 付録 3, 別冊 付録 7 3.60% 日本少年 株式會社實業之日本社 33 巻2 号 2 月 1 日 0.551938 年 326 14 4 32 22 8 9.80% 少女の友 株式會社實業之日本社 31 巻2 号 2 月 1 日 0.51938 年 332 3 2 16 8 2 4.80% 主婦之友 株式會社主婦之友社 22 巻2 号 2 月 1 日 0.71938 年 588 2 2 11 11 2 1.90% セウガク 一年生 小學館 14 巻1 号 4 月 1 日 0.451938 年 106 5 2 11 7 3 10.40% セウガク 二年生 小學館 13 巻14 号 2 月 1 日 0.41938 年 106 3 1 6, 別冊 付録 4 3 5.70% せうがく 三年生 小學館 15 巻1 号 4 月 1 日 0.51938 年 164 3 1 6, 別冊 付録 5 3 3.70% 小學 四年生 小學館 15 巻12 号 1 月 1 日 0.551938 年 236 15 3 15 9 4 6.40% 小學 五年生 小學館 17 巻12 号 2 月 1 日 0.551938 年 318 15 2 14 9 4 4.40% 小學 六年生 小學館 17 巻12 号 2 月 1 日 0.551938 年 326 12 4 24 18 5 7.40%

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子供向けの頁を設けていたからである.ここでは採っていないが,朝日新 聞社発行のグラフ誌『アサヒグラフ』や農山漁村向けの総合雑誌『家の光』 (産業組合中央会)のように,家族全員での享受を想定した雑誌も,継続的 に子供向け物語漫画の連載を行なっている.昭和 13 年ごろには,児童雑誌 だけでなく,子供も読むことが想定される雑誌は,全般にわたって,子供向 けの物語漫画の連載を行なう例が増えていたと見られる.  児童雑誌界における漫画ブームを裏付ける現象として,中小出版社によっ て「漫画」の語を表題に含む雑誌が複数創刊されていることにも注目すべ きだろう.『出版年鑑』によれば,昭和 8 年に『ニコニコ漫畫館』(成海堂ポ ケット講談社),昭和 9 年に『ニコニコ面白漫畫』(不動社),『少年少女マン ガ倶楽部』(マンガ倶楽部社),昭和 11 年に『マンガキング』(銀羊社),『コ ドモ漫畫』(大隆社),昭和 12 年に『マンガブック』(銀羊社)が,それぞれ 創刊されていることがわかる.このほかにも大阪府立中央図書館大阪国際児 童文学館所蔵の『漫畫 愛國幼年』(愛國幼年社,創刊年不明)の発行が確 認できる.  これらは,いずれも 2 ∼ 3 年のうちに『出版年鑑』の雑誌目録から姿を消 しており,短命な雑誌であったと考えられるが,次々に漫画を売り物とした 雑誌が創刊されるような状況が昭和 8 年から 12 年にかけて形成されていた ことは確かだろう.  また,こうした流れの上に登場した極めて大きな存在が,『講談社の絵 本』である.『少年倶楽部』編集長であった加藤謙一がその創刊の準備に当 たり,昭和戦前・戦中期の講談社の新企画としては最も大きなものの一つで ある13).昭和 11 年 12 月,毎月 4 冊ずつ刊行の絵本叢書として創刊された. 創刊時の 4 冊は「各々四十万部,合計百六十万部」発行されたと社史には ある14).昭和 13 年 4 月より新聞紙法に定められた定期刊行物として,第三 種郵便物の認可を受け,流通上は雑誌扱いとなった.昭和 17 年 4 月まで全 203 巻を刊行した後,『コドモエバナシ』と改題し巻号を引き継いで昭和 19 年 3 月まで月刊誌として存続した.  この『講談社の絵本』には,創刊当初から,毎月 1 点ずつ,漫画中心の巻 が含まれており,『講談社の絵本・漫画と武勇絵話』など,「漫画」を含む表

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題が付けられていた.創刊当初は読み切り作品のアンソロジーであったが, すぐに田河水泡「玩太郎日記」,島田啓三「キバツ三勇士」などの作品が連 載されるようになり,新関けんの介「虎ノ子トラチャン」,芳賀まさを「カ バサン」など,漫画史においてもその名を記憶される作品を生んだ.  『講談社の絵本』の発行部数は巻ごとに異なると考えられ,特に漫画の巻 の具体的な発行部数は,社史等にも記載がない.しかし,『出版年鑑』の記 述などから,漫画の巻も少なくとも毎月数万部が発行されていたのではない かと推測できる.  『出版年鑑』によれば,昭和 13 年における幼年雑誌の売上部数が一気に 約 260 万部も増加しているのは,この年の 4 月から『講談社の絵本』が雑誌 扱いとなり,この幼年雑誌の売上部数に算入されることになったからであ る15).仮に他の雑誌の部数の変動は無視してよい程度だったとすれば,この 約 260 万部が,4 月から 12 月までの 9 か月分,計 36 巻の『講談社の絵本』 売上部数だということになり,同誌が 1 巻平均 7 万部弱の売上部数を記録し ていたとの推定が成り立つ.漫画の巻も 1 巻あたり少なくとも 5 万部程度が 発行されていたことはほぼ確実ではないかと考えられる.  『講談社の絵本』の漫画の巻は,B5 判全 100 頁前後のうち 60 頁前後を, 連載作品 4,5 点を含む十数点(各 1 ∼ 12 頁)の漫画作品が占め,その大 半は 3 色刷り,残りも 2 色刷りという体裁をとっている.先に見たように, 当時の主要少年少女雑誌における漫画掲載頁の比率は全頁数の 10%程度で あったことを考えれば,こうした誌面構成の『講談社の絵本』の漫画の巻 は,事実上この時期最大の月刊漫画誌であったと言えるのであり,その存在 は,当時の子供向け物語漫画ジャンルの中で極めて大きな意味を持つもの だったと考えられる. 2. 2 児童雑誌における漫画の掲載形態の確立  では,主要な児童雑誌において漫画はどのような形で掲載されていたの か.巻頭グラビアページに続く 2 色から 3 色刷りのページに,2 分の 1 ペー ジから 4 ページ程度の長さのごく短い読み切り作品を集めた漫画特集コー ナーを設け,誌面に彩りをもたらし,これに加えて,毎回 4 ページから 8

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ページ程度の長さの連載物語漫画が 3 本から 5 本程度掲載される,というの がこの時期の少年少女雑誌の漫画掲載の一般的な形態であった.  先の表 2 を見ると,昭和 5,6 年における誌面に占める比率では『日本少 年』,『少年少女譚海』の方が『少年倶楽部』より高い数値を示しているのだ が,これには,絵のコマの隣または上下にそのコマと同程度の広さを占める 形で文章が添えられた,「漫画漫文」形式のものも多く含まれている.基本 的に全てが,コマわりと絵とセリフで進行するコミック・ストリップ形式の 作品で,図 1 のような 2 色刷り漫画特集 30 ページ前後と連載漫画 3 ∼ 5 本, という基本形態を確立したと見られるのは,やはり『少年倶楽部』だと言え る.  竹内オサムは,『少年倶楽部』掲載の漫画について,その創刊から敗戦の 年までを,「表現形式の特性にポイントをおいて」次の 4 つの時期に区分し 図 1 「漫画大博覧会」の一部(『少年倶楽部』昭和 7 年 7 月号)

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て概観している16)   第一期:短編中心の時期(大正三年∼十一年)   第二期:絵物語形式による長編漫画の時期(大正十二年∼昭和五年)   第三期:コミック・ストリップ形式による漫画の時期       (昭和六年∼十四年)   第四期:リアルな画風の絵物語が主流となる時期       (昭和十五年∼二十年)  竹内の議論に即してそれぞれの時期のポイントをまとめると次のようにな る.すなわち,第一期は,竹内の言う「絵物語」,本論で言う「漫画漫文」 形式の作品,それも「短編」(おそらくその月限りの読み切り作品を指す) 作品がほとんどで,大人漫画の描き手たちによって余技的に担われていた.  第二期になると,宮尾しげをによる「漫画漫文」形式の長編連載作品が登 場し,また藤井一郎による,アメリカ映画の翻案ものをコミック・ストリッ プ形式で描いた作品が登場し,二つの形式の作品が対等に共存するようにな る.だが総じてこの時期,『少年倶楽部』に占める漫画の比率は下がってい た.竹内は,編集長だった加藤謙一の自伝から,大正 14 年に高畠華宵が対 抗誌であった『日本少年』に移籍してしまった事件以来,「読み物のいいの を集めることに夢中になって,漫画はあまり重要に考えていなかった」とい う記述を引いている.  この二つの時期を経て,竹内が「黄金時代」とする第三期が到来する.画 期となったのはやはり「のらくろ」の成功であると竹内も位置づけ,その影 響がもたらしたものを 3 点にまとめている.すなわち,①『少年倶楽部』に おける漫画重視の傾向,②漫画ページの増加に伴い,数多くの新人が起用さ れ,同誌からデビューしたこと,③ジャンルの多様化,である.  この後の第四期は,街頭紙芝居から雑誌の「絵物語」へと進出してきた山 川惣治の作品によって代表され,コミック・ストリップ形式の作品は「国 策」的な性格を持つものが増え,「漫画的なおもしろさに欠ける作品が支配 的になっていった」とされる.第三期から第四期への以降の背景には,内務 省から昭和 13 年 10 月に通達された「児童読物改善ニ関スル指示要綱」以後 の児童読物統制があることも指摘されている.

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 竹内の言う第二期から第三期への移行,および第三期から第四期への移行 は,先に見た表に示されているように,その誌面に占める頁数の割合の変化 によっても裏付けられるだろう.また,第三期における数多くの新人の起用 という点についても,誌面に記名入りで登場する漫画家は,昭和 8 年ごろか ら各誌とも急増し,最終的に 10 人台前半へと推移している.ではこの第二 期に,『少年倶楽部』が他誌も踏襲することになる,先ほど述べた基本形態 を確立していく過程はどのようなものであったか.これについては,竹内も 触れているように,当時の編集者たちの回顧によってかなり詳しく知ること ができる.  まず,「漫画はあまり重要に考えていなかった」加藤に「漫画に対する開 眼」をもたらしたのは,佐藤紅緑の「少年倶楽部には漫画が少ないようだ が,いい漫画をたくさんいれるんだね.雑誌全体が明るくなるし,家じゅう の人がたのしめるからね」という言葉であったと,先の自伝の中で加藤は述 べている17).そこでまず「のらくろ」の連載が立ち上がり,コミック・スト リップ形式の連載物語漫画という柱がまずできあがる.  もう一本の柱である,2 色刷りの漫画特集も加藤の発案であった.当時の 編集部員の一人,松井利一は,加藤の案が出された昭和 7 年の新年号の企画 会議を次のように振り返る.    「漫画の特集頁をつけるのはどうか.二色三十二頁,これを新年号か ら毎月続けてゆく.来年の巻頭はそれで通す,どうだ…….」    ずばりとした発言であった.    漫画のそうした大がかりな特集を連載している子供雑誌は,どこにも なかった.たしかに新案であり,新企画である.18)  松井は,別の場で,「巻頭に色刷りの漫画ページを据えるという雑誌づく りは,「あれはおもしろい」というので,講談社の各誌が競ってこの漫画特 集を試みるようになったこと.これが他社の雑誌にも及んで,子供雑誌にも 大人雑誌にも,大量の漫画が進出する時代をもたらしたのでした」19)とも述 べている.実際,昭和 8 年までに『日本少年』も『少年少女譚海』も,『少

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年倶楽部』と同様の 2 色刷り漫画特集頁を毎月設けるようになっており,こ こでの証言が裏付けられるのだが,この巻頭漫画特集の構成自体は,全くの 加藤の独創であったとは言えない.  巻頭の色刷りページに,見開き 2 ページのパノラマ的な(のちに「漫景」 とも呼ばれる)漫画や,数コマの短い漫画を取り混ぜて掲載すること自体 は,昭和 5 年の『少年少女譚海』に先例があり,毎月ではないがこれを「笑 の国」の表題の下にまとめているのである.昭和 5 年に入社したばかりの 松井は知らなかったかもしれないが,加藤がライバル誌のこの構成を知らな かったとは考えにくい.  『少年少女譚海』の「笑の国」は,『少年倶楽部』の巻頭漫画特集よりは頁 数も少なく,数カ月の試みに終わったと見られ,昭和 6・7 年については巻 頭漫画特集は設けられていない.  加藤と『少年倶楽部』の功績は,『少年少女譚海』以上に多くの頁を割き, 「漫画愉快文庫」という表題の下,新年号から毎月掲載するという強いア ピールによって巻頭漫画特集を定着させたところにあると言うべきだろう.  松井は,この漫画特集が,当初不足していた漫画家の育成の場になって いったとも述べている.当初は,「子供漫画家不在―今から考えるとウソ のような話だが,そんな時代であった」ことから,「社にある外国雑誌に目 を通して,自身の漫画眼を養いながら採れそうなものを選んで,軽妙な画 風の画家に焼きなおしや模写をしてもらう」といったやり方をしていたが, 「いつということなしに,この特集頁をめざして無名の新人漫画家が,作品 を持って編集部へ現われるように」なり,彼らを育てていった経緯が述べら れている20)  こうして先にも触れたように,同誌に登場する漫画家の数は,昭和 10 年 代前半には常に 10 名を超えるようになり,『少年少女譚海』,『日本少年』な どでもこの時期には 10 人前後の漫画家が名を連ねるようになっている.  以上,不十分ながら,いくつかのデータや証言を検討してきた.昭和 7 年 ごろから児童雑誌における漫画の比重の高まりがあり,連載漫画数本と巻頭 漫画特集頁の二本柱を誌面に設ける掲載形態が確立され,それに伴って,編 集者の指導のもと,新人漫画家の育成が行なわれ,主要な児童雑誌で活躍す

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る児童漫画プロパーの作家たちが各誌の総計で数十人規模にまでなったもの の,戦局の推移と統制の影響によって,漫画の比率が下がっていくという流 れが,推定できた.  先に触れたように,この時期,児童雑誌は 1700 万部強から 2800 万部弱 まで,順調に売上を伸ばしている.昭和 13 年を例に取れば,年間約 2600 万 部である.これら全ての雑誌に同じ比率で漫画が掲載されていたわけではな いとしても,1 ヶ月平均にして約 200 万部以上の子供向け雑誌が発行されて いる中で,最も売れている数誌の誌面の 10%程度を漫画が占めていたこと, 『講談社の絵本』の漫画の巻のような,事実上月刊の漫画誌と言えるものが 数万部単位で出ていたことの意味は,漫画出版の歴史を考える上で,小さく ないはずである.  戦後の子供漫画状況が論じられるときには,ほとんど皆無といっていいと ころまで,子供漫画の比率が下がったところから,戦後の児童雑誌が出発し ていることを踏まえるべきである.今後の戦後漫画史研究は,戦後しばらく の間に起こった,少年少女雑誌における漫画の比重の増加が,単なる増加で はなく,「回復」であることを,確認しておかねばならない.  また,戦前戦中の子供漫画状況を論じる際にも,発表されている連載物語 漫画の点数だけから言っても,『のらくろ』や『冒険ダン吉』のみによって, その全体像を代表させることには問題があると考えておくべきである.

3. 単行本形態での漫画出版

 次に,単行本形態での出版について見ていく.この時期の漫画単行本は, 出版のありようとして二種に分かれる.  一つは,大手出版社による,少品種大量出版販売型のもの.100 頁以上の 箱入りの上製本が多く,価格は 1 円前後で,漫画単行本としては最も高い. 大日本雄弁会講談社が自社発行の雑誌に連載した作品を単行本化した『のら くろ』のシリーズや『冒険ダン吉』のシリーズ,朝日新聞社が同紙に連載さ れていた作品を単行本化した横山隆一の『フクチャン』のシリーズなどが, これに当たる.

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 もう一つは,「赤本漫画」と呼ばれる,中小出版社による多品種少量出版 販売型のものである.頁数は 16 頁から 100 頁以上のものまで,判型は B7 判から B5 判まで,並製本のものが多いが上製本のものもあり,価格も 10 銭未満から 1 円まで,多種多様な形態のものが出ていた.この時期の漫画単 行本全体に占める割合としては,出版点数では圧倒的多数,総発行部数でも 過半数を占めていたと考えられる. 3. 1 漫画単行本の発行点数  漫画単行本の発行点数については,すでに,宮本大人によって,戦前戦中 期の児童書とそのうちに占める漫画本の比重を知ることのできる三つの主要 な統計,すなわち先にも見てきた東京堂編『出版年鑑』掲載の書籍目録,大 阪市保育会による調査(昭和 11 年実施),内務省警保局検閲課の上月景尊が まとめた統計(昭和 14 年と 15 年 1 月∼ 8 月のデータ)を対象にした検討が 行われている.これによれば,内務省から「児童読物改善ニ関スル指示要 綱」が通達される昭和 13 年には,年間 500 ∼ 600 点以上の新刊漫画本が出 ていたと推測される状況があった21)  戦後,占領検閲期に GHQ に納本された出版物を収めたメリーランド大学 プランゲ文庫所蔵の児童書目録によれば,子供向け漫画本の点数は,昭和 21 年発行のものが 143 点,22 年のもの 334 点,23 年のもの 956 点,24 年の もの 622 点と推移する22).GHQ による出版物検閲は 24 年 10 月に終了する ので,24 年のデータは全体を示していない.また,プランゲ文庫は当時検 閲を受けたはずの出版物を完全に網羅しているわけではないことも知られて いる.とはいえ,100 点を越えるような誤差はないと今のところ考えられる. 1 点あたりの平均的な発行部数や頁数の違いは無視して,単純に年間新刊点 数だけで比べるなら,戦前最盛期の水準にまで回復するのは,戦後の「赤本 漫画」ブームの時期である,昭和 22 年から 23 年にかけてであることが分か る.これを準備するような市場が,昭和 10 年代前半には形成されていたと いう仮説が成り立つ.このことを踏まえて,本論では,発行部数について検 討する.

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3. 2 漫画単行本の発行部数  まず,講談社などの少品種大量出版販売型のものについては,「のらくろ」 の発行部数についての証言を講談社の社史から拾うことができる.先の加藤 謙一の自伝でも触れられていた堀江常吉の談話によれば,シリーズ最初の単 行本『のらくろ上等兵』(昭和 7 年)は,13 万 4000 部で「その時分のベス トセラーです」とされ.第 2 巻に当たる『のらくろ伍長』(昭和 8 年)が 12 万 5000 部,第 3 巻の『のらくろ軍曹』から 10 万を割ったという23)  堀江は「このころになると漫画がいいというので,よその社でもいろん な漫画の本を出し,そういうものにわざわいされている」として,「十三年 の「武勇談」のころになると,用紙の統制関係から自由に出すことができな くなった.だから「総攻撃」「少尉」は「上等兵」の約半分」とも述べてい る24)  「よその社」がいかに多くの点数の漫画本を出していたかは,先に触れた 宮本論文で述べられているとおりだが,ここでは,それら,多品種少量出版 販売型の単行本の発行部数が推定できる資料について検討していく.  内務省納本統計に基づいて昭和 14 年と 15 年(1 月∼ 8 月)のデータをま とめた上月景尊は,「赤本と云はれてゐる絵本,漫画の類は商業的製作上の 関係から一枚の用紙に一時に四種乃至八種分を印刷することが原則となつて ゐる.従つて一回の印刷毎に四種から八種の絵本,漫画が印刷されるわけ で,この一回発行分の印刷部数が約四万部から八万部内外となつてゐる」と し,「一ヶ年の発行部数を,過去に於ける用紙の消費実績から想像して見る と,約六七千万部から,一億万部内外と謂はれてゐる」と述べている25).こ こでの「赤本」は漫画本に限らず「赤本絵本」全体を指している.  上月によれば昭和 14 年は 1055 点(うち「漫画」が 400 点),15 年(1 ∼ 8 月)は 1020 点(うち「漫画」が 330 点)の赤本絵本が新刊として出てお り,これに再版物も加えた数の年間総発行部数ということになる.しかしこ の数字は,次に挙げるいくつかの理由でその信用性に若干の疑問があると言 わなければならない.  まず,先にも触れたように,東京堂の調査による昭和 13 年の主要少年少 女雑誌(13 誌)の年間総売上部数は,1317 万 5480 部,主要幼年雑誌(25

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誌)は 1312 万 7950 部で,合わせても 2600 万部あまりである.いくら廉価 で,安いものだと定価が 10 銭を切るような赤本絵本であったとは言え,6, 7 千万部から 1 億部はその 2 倍から 3 倍にのぼる数字である.これは,当時 の子供向け出版としてありうる数字なのだろうか.  また,仮に 1 点あたり 6 万部平均とすれば,年間新刊点数 1100 点として 総計 6600 万部になるため,「6,7 千万部から 1 億部」という数字は論理的 には整合性がある.しかし,「のらくろ」でさえ 10 万部を超えたのは最初の 2 巻だけだという市場規模で,発行点数のきわめて多い「赤本絵本」が,1 点あたり 4 ∼ 8 万部も出ていたという話もにわかには信じがたい.  この問題を検証する上で重要な手がかりとなるのが,内務省警保局図書課 による『出版警察報』所載のデータである.宮本は,児童読物統制の動きが 表面化した昭和 13 年 4 月以降,発禁処分を受けた子供漫画のうち,その差 押状況が分かるものをまとめている26).ここに発行部数と各道府県で回収さ れた部数が記されている.  「指示要綱」通達直後の時期に処分を受けたもののうち,東京の赤本出版 社では最大手だった春江堂発行のものは発行部数が 1 万部,東京と大阪の両 方に拠点を置いていた富士屋書店発行のものは 2500 部と幅がある.おそら く発行部数は出版社の自己申告と考えられるが,差押部数は正確なものと考 えられる.昭和 13 年の前半に発行されたものが昭和 14 年初めに処分を受け たことによって,北海道から九州に及ぶ全国各地で約 450 部から約 1600 部 差し押さえられていることを見ると,「赤本漫画」の流通網が全国に広がる ものであったことは明らかであり,また,1 万部という発行部数も現実的に ありえたのではないかと考えられる.  時期が下って,昭和 14 年に発行され翌年に処分を受けた,大阪の最大手 赤本出版社だった榎本法令館発行のものは,21840 部の発行でそれぞれ約 6500 部から 7500 部が差し押さえられている.  さらに翌昭和 16 年には名古屋のホシ玩具出版社発行のものが 3 万 2000 部 発行となっている.名古屋には,東京・大阪の「赤本絵本」や「赤本漫画」 以上にページ数が少なく判形も小さいことの多い「玩具絵本」と呼ばれるも のを出版する「玩具出版」を名乗る出版社が複数存在した.これらの形態の

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場合,ページ数が少なく判形も小さいため,同じ量の紙から一般的な「赤本 漫画」より多くの部数の本を作ることができるため,こうした大きな発行部 数となっているのではないか.ただし,これは書店に出回る前に出版社で全 てが差し押さえられたことになっているため,出版社の自己申告をそのまま 信じ,実際にその部数であるか確認していない可能性もある.  また,先に触れた春江堂で当時働いていた荒井利三氏に対して筆者が行 なった聞き書きでも,この頃の一般的な赤本絵本(赤本漫画だけではなく赤 本絵本全般)の 1 点当りの発行部数は 5000 部くらいではなかったかとの証 言があった27)  以上のような情報を総合すると,この時期の一般的な形態の赤本漫画の発 行部数は 5000 部程度から 1 万部程度,判型が小さいものや頁数がごく少な いものについては 2 万部から 3 万部の発行もありえた,といったところで はないかと考えられる.赤本漫画も含めた赤本絵本全般の平均発行部数とし ては 7000 部程度ではないか.だとすれば,赤本絵本全体の年間発行部数は, 新刊が昭和 14 年で 7000 部× 1100 点の 770 万部,再版ものがどの程度ある かの推定は困難だが,新刊の 2 割程度とすると合わせて 1000 万部弱と考え られる.このうち赤本漫画は,新刊が 7000 部× 400 点の 280 万部,再版も のも合わせると 330 万部程度ではないか.  少し時期が下って,昭和 15 年 12 月に日本出版文化協会(文協),翌 16 年 5 月に日本出版配給株式会社(日配)が成立してからは,また別のデータも 出てくる.  信頼度が高いと見られる重要な資料として,大阪府立中央図書館大阪国際 児童文学館所蔵の『昭和十七年四月 児童図書に関する調査(其二)(雑誌 を除く)』(日本出版文化協会文化局児童課)が挙げられる.  この調査は,日本出版文化協会文化局児童課が行なったもので,昭和 16 年 11 月に最初の報告書,17 年 4 月にここで触れる『其二』,同年 12 月に 『其三』が出ている.手書きの謄写版印刷と思われる報告書で,表紙には 「極秘」の印が押されている.同館以外の国内の公的機関には所蔵がなく, 公刊されたものではないと思われる.この『其二』は 26 頁まであるが,27 頁以降数頁が落丁している可能性もある.

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 冒頭には,「児童図書の出版指導に関して参考にすべき基礎的資料を作成 することを以てその目的とする」こと,「調査の範囲は昭和十六年七月一日 より同年十二月末日迄に発行された児童図書のすべてに亘ってゐる」ことが 述べられており,書籍企画届,書籍発行届,特別割当・通常割当審議表等が 資料として使用されたとしている28)  この半年間の出版点数,用紙の基準割当・特別割当・査定割当の申請比 率,読者層,発行部数,用紙使用封度数,発行金額などが表の形でまとめら れ,それぞれの表についてのコメントが述べられている.  以下,「絵本」と「絵本」の下位分類となっている「漫画」に関する情報 を抜き出す.まず「漫画」の発行点数については,初版 33 点,重版 86 点, 合計 119 点,児童書全体に占める比率は 10.4%とある.昭和 16 年下半期で 漫画の新刊は 33 点しか出ていないことになる.  次に発行部数について見ると,「絵本(絵本,漫画,絵物語,紙芝居,ヌ リエ)」が 934 万 5270 部.児童書全体で 1232 万 0038 部なので,非常に高い 比率を占めていることが,コメントの中でも強調されている.    一般に想像される如く,絵本の発行部数は極めて多く,絵本を除 く図書の三倍以上に上つてゐる.種類別冊数の上からは全体の四六・ 九%しか占めていない絵本も,発行部数の上からは全体の四分の三以 上を占めることになる.従ってその平均発行部数は「其三」に示す如 く,一七八九九となり,絵本以外の図書が平均四七八四であるに対し, 凡そその三・七倍となる.すなはち絵本以外の図書は一版ごとに大約 四千七百部発行するに対し,絵本はその四倍近くの一万八千部を発行す ることになる.29)  この調査報告の中から,漫画の発行部数と発行金額の情報を抜き出すと以 下の表 4 のようになる.  先ほど見た漫画の合計発行点数 119 点でこの発行部数を割るとおよそ 1 万 4570 部となる.初版と重版で発行部数にどれくらいの差があるか不明だが, 一般的には重版分より初版の方が部数が多いと思われるため,この時期の漫

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画の初版発行部数は少なくとも 1 万 5000 部を超えるのではないか.先ほど の推定の 7000 部の倍以上である.これが,企画届出制になって出版点数が 絞られた結果によるものかは,不明である.  次に,公刊されている資料として再び『出版年鑑』を見ると,昭和 18 年 版には,絵本に限らず大人向けのものも含めた「赤本」全般について,昭和 16 年 12 月から 17 年 8 月までの,月別の売れ行き部数のデータが掲載され ているが,この期間で最も売れ行き部数の多かった昭和 17 年 4 月について は 576 万 1487 部のうち「絵本」が 323 万 8369 部,最も少なかった昭和 17 年 8 月については 387 万 4587 部のうち「絵本」が 129 万 8101 部という数字 が記されている(「絵本」の月別売行部数が示されているのはこの 2 カ月だ けである)30)  先ほどの『児童図書に関する調査』から昭和 16 年の下半期の「絵本」の 総発行部数は 934 万 5270 部であり,単純に 2 倍すると昭和 16 年全体の総発 行部数は約 1868 万部,1 カ月平均は約 156 万部である.これは,昭和 17 年 4 月だけで「絵本」の売行部数が約 323 万部という数字の約半分である.大 量の在庫が急に売れるなどの事態がなければ,一般的には発行部数より売行 部数の方が少なくなるはずであることを考えると,どうしてこのような逆転 が生じるのかは分からない.  いずれにしても,『児童図書に関する調査』から推定される昭和 16 年全体 の「絵本」の総発行部数が約 1868 万部という数字は,昭和 13 年の主要な児 童雑誌の総売上部数 2600 万部あまりと比較しても,さほど不自然なものと は言えないように思える.  このことを踏まえて『児童図書に関する調査』の情報をもとに,「漫画」 の昭和 16 年全体の総発行部数を推定すると約 346 万部になり,先ほどの昭 表 4 昭和 16 年下半期における漫画単行本の発行部数・発行金額 漫画 発行部数 金額 B5 550,800 171,300 B6 1,183,000 197,110 計 1,733,800 368,410

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和 14 年についての推定とほぼ同数になるが,これは重版物も合わせて約 230 点の発行点数に対するもので,その倍以上の発行点数があったと思われ る「指示要綱」以前の昭和 12・13 年ごろについては,これ以上の総発行部 数が出ていたと考えられる.  以上に見てきたように,この時期の漫画単行本の大半を占めていたと考え られる赤本漫画の年間総発行部数については,そのピークと見られる昭和 13 年前後において,少なくとも 350 万部以上という推定ができる.  このころの 5 歳から 12 歳までの人口が約 1375 万人31),主要児童誌の総売 上部数が 2600 万部という事実に比して,さほど多くはないとも見えるが, これよりはるかに多くの部数が出ていたという推定の導ける上月の説や『出 版年鑑』昭和 18 年版のデータにも触れてきたように,350 万部以上という のは最も確実と思われる根拠に即した推定であり,実際にはより多くの部数 が出ていた蓋然性も高い.きょうだいや友人との間の貸し借りという享受形 態も考える必要がある.いずれにしてもこの時期,決して無視しえない規模 で「赤本漫画」の市場が形成されていたことは確かだろう.

4. おわりに

 以上,十分とは言えないものの,昭和戦前・戦中期における子供漫画の出 版について,雑誌と単行本において,実際のところどの程度の数が出ていた のか,その概要を明らかにできたと考える.  戦後の漫画産業の発展は,敗戦直後の状況,すなわち,娯楽への飢えと, それに応えた赤本漫画の出版と,その中からの手塚治虫の登場に,すべての 原点があるわけではなく,すでに昭和戦前・戦中期において,児童雑誌,単 行本の両面で,子供漫画の数量的増加があった.  なぜ,戦後すぐ,大量の赤本漫画が出版されたのか,と考えれば,それ以 前にすでに,子供漫画に対する需要が形成されており,それに応える供給が 可能な基盤としての作家(の数)と版元のノウハウが確立していたからだ, という仮説は容易に成り立つ.本稿はこの仮説を論証する一つの試みであっ た.

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 次の課題としては,本稿で触れられなかった赤本漫画を中心とする漫画本 の流通状況について,柴野京子の研究などを踏まえつつ,より具体的に明ら かにすること,および赤本漫画の企画・編集・製版・印刷・製本等の制作工 程について明らかにすることが挙げられる.これについてはまた別稿を用意 したい. 注 1) 竹内オサム『子供マンガの巨人たち』三一書房,1995 年. 2) 宮本大人「マンガと乗り物」霜月たかなか編『誕生!「手塚治虫」』朝日ソノラマ, 1998 年.同「ある犬の半生―『のらくろ』と〈戦争〉」『マンガ研究』2 号,2002 年.同 「戦争と「成長」:児童読物統制下の子供向け物語漫画におけるキャラクター描写」『明治 大学国際日本学研究』10 巻 1 号,2017 年.同「のらくろは口笛を吹かない?:昭和戦前・ 戦中期の子供向け物語漫画における口の表現」『表象』12 号,2018 年など. 3) 竹内前掲書,p.20. 4) 宮本大人「薄れてゆく輪郭:児童読物統制下における子供向け物語漫画の「絵物語」化 について」『白百合女子大学児童文化研究センター研究論文集』20 号,2017 年. 5) 中野晴行『手塚治虫と路地裏のマンガたち』筑摩書房,1993 年.同『マンガ産業論』, 2004 年. 6) 柴野京子『書棚と平台―出版流通というメディア』弘文堂,2010 年. 7) 宮本大人「湯浅春江堂と榎本法令館―近代における東西「赤本」業者素描」『日本出 版史料 5』日本エディタースクール出版部,2000 年.同「近代における出版・流通と絵 本・絵雑誌」鳥越信編『はじめて学ぶ日本の絵本史Ⅰ』ミネルヴァ書房,2001 年. 8) 東京堂編『出版年鑑』(東京堂)掲載の雑誌売上部数表は昭和 8 年版から掲載されるよ うになったもので,「東京堂統計部の数年間に亙る苦心の調査になる,我国最初にして唯 一の統計である」(昭和 8 年版,p.1)とされている.この昭和 8 年版に昭和 2 年から 7 年 までの分が掲載され,以後毎年,その年の分のデータが付加されている.同年鑑掲載の 様々なデータは,それぞれ調査主体や,調査対象を明記しており,東京堂扱いのものに限 る場合はその旨も記されている.この雑誌売上部数統計は東京堂扱いのものに限るとは書 かれておらず,「概数ナルモ大差ナキヲ信ズ」ともあることから,東京堂統計部による(東 京堂扱いのものに限らない)総数の推計と考えられる.「婦人雑誌」,「講談娯楽雑誌」,「少 年少女雑誌」,「幼年雑誌」,「政治経済文芸及科学雑誌」,「青年雑誌」に分け,グラフ化し て示している.対象としている「主要」な雑誌の選定については「日本雑誌協会員発行ノ 有力ナル雑誌」で「昭和二年以来継続発行」されているものとしており,個別の雑誌名は 示されていない. 9) 東京堂編『出版年鑑 昭和九年版』東京堂,1934 年,p.10.

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10) 東京堂編『出版年鑑 昭和十年版』東京堂,1935 年,pp.12-13. 11) 東京堂編『出版年鑑 昭和九年版』東京堂,1934 年,p.9. 12) 加藤謙一『少年倶楽部時代』講談社,1968 年,p.116. 13) 社史編纂委員会編『講談社の歩んだ五十年(昭和編)』講談社,1959 年,pp.354-363. 14) 同上,p.354. 15) 東京堂編『出版年鑑 昭和十四年版』東京堂,1939 年,p.15. 16) 竹内前掲書,pp.192-193. 17) 加藤前掲書,p.179. 18) 松井利一「漫画特集の誕生」加藤謙一・編『少年倶楽部名作選 面白づくし知恵くらべ 珠玉全集』講談社,1968 年,pp.876-877. 19) 松井利一・丸尾文六・松下嘉行・伊東福二郎・大杉久雄・尾崎秀樹(司会)「座談会「少 年倶楽部」の思い出」尾崎秀樹『思い出の『少年倶楽部』時代』1997 年,講談社,p.323. 20) 松井前掲論文,p.877. 21) 宮本前掲論文「薄れてゆく輪郭:児童読物統制下における子供向け物語漫画の「絵物語」 化について」 22) 村上寿世・谷暎子編『ゴードン・W. プランゲ文庫児童書目録:メリーランド大学図書 館所蔵:占領期検閲児童図書 1945-1949』UMI,2003 年. 23) 社史編纂委員会編前掲書,p.246. 24) 同上. 25) 上月景尊「児童図書検閲について」教育科学研究会編『児童文化 上』西村書店,1941 年,pp.98-99. 26) 宮本大人「児童読物処分の研究報告―昭和 13 年 4 月から 19 年 3 月まで」『児童文学 研究』31 号,1998 年. 27) 荒井利三氏へのインタビュー調査,1999 年 6 月 30 日. 28) 『昭和十七年四月 児童図書に関する調査(其二)(雑誌を除く)』(日本出版文化協会文 化局児童課),1942 年,p.2.文協による用紙割当査定が始まったのが昭和 16 年 7 月であ る. 29) 同上,p.17. 30) 日本出版会監修・協同出版社編『日本出版年鑑 昭和十八年版』協同出版社,1943 年, p.170. 31) 『昭和 15 年国勢調査』p.303.引用は『e-stat 政府統計の総合窓口』https://www.e-stat. go.jp/ 掲載の PDF ファイルより.

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