*〒 020-0105 盛岡市北松園 2-29-13
都市歴史地区保存の本質と課題
── シアトル・パイオニアスクエアが教えるもの ──
杉 浦 直* キーワード : 都市歴史保存,都市歴史地区,シアトル,パイオニアスクエア I. は じ め に 小論は,シアトルにおけるパイオニアスクエア (Pioneer Square,以下 PS)地区を事例としつつ,「都 市歴史地区(urban historic district)の保存」とは 何か,その目的,理念,手法を検討し,その本質 と課題を考察しようとしたものである。 アメリカ合衆国における歴史(的)保存(historic preservation)1)の動きは,19 世紀前半頃からの国 家的偉人や独立戦争などの歴史的出来事に結びつ くサイトや建物の保存に始まり,1930 年代初め のチャールストンを嚆矢に各地で増えてきた都市 歴史地区の設置を経て,今日の諸制度に支えられ た多様な形態の歴史保存に至るまで長い歴史を有 する(Cullingworth, 1997 ; 西村,2004)。この歩み の背後にある思想・言説の変化を国立公園局 (National Park Service)のアトレー(Utley, Robert M.)は「古い保存」と「新しい保存」に分けて整理し た(Morley, 2006, p. 3)。前者は歴史的サイト法 (Historic Sites Act, 1935)などで規定された「国に とって重要な」いくつかの建物・サイトの保存に つながり,後者は「コミュニティにとって重要な」 ローカルなランドマークや古い建物の現代的利用 による都市歴史地区の創設の背景となった。歴史 保存の大きな潮目は 1966 年の全国市長・ナショ ナルトラスト歴史保存会議(US Conference of Mayors and the National Trust for Historic Preserva-tion)による報告書(“With Heritage So Rich”)の出 版とその勧告に基づいた「国家歴史保存法 (National Historic Preservation Act)」の成立であり (Cullingworth, 1997, p. 137),アトレーと国立公園 局はこの法案に「新しい保存」の理念を全面的に 組み入れ,ローカルな歴史地区保存にナショナル な認証と資金投入の道を開いた(Morley, 2006, p. 4)。この「新しい保存」の思潮は,それまでの 破壊と再建の大規模プロジェクトに代わるポスト モダンな都市計画の理念と不可分な関係にあり (Reichl, 1997, pp. 513-515),その本質を考察するこ とが今日のアメリカの都市地域政策を理解する上 できわめて重要である。 ここで材料として取り上げる PS 地区はシアト ルの現都心地区(ダウンタウン)の南に隣接する 地区であり,そこでは 1970 年代以降,古い建物 を保存しつつも機能的更新を図る諸事業(以下, 都市保存・更新事業)が長期にわたり実施されて きた。それにより同地区は,19 世紀末ごろから 形成されたシアトル最初の都心地区(ダウンタウ ン)の景観を今日に残す全国でも最大級の都市歴 史地区となり,都市歴史保存の理念や本質を考え る格好の材料を提供している。本稿では,同地区
の都市保存事業に関わる市条例文書や初期計画文 書を資料として,上記目的の課題を考察する。 II. パイオニアスクエア地区における歴史 地区創設への歩み PS地区の歴史と戦後の都市保存・更新事業の 歩みについては,すでに同地区における都市計画 思想の変遷を論じた前稿(杉浦,2018)において も取り上げたが,ここでは以降の論述に必要な概 要のみを再確認しておこう。 PS地区は,1851 年から始まるシアトルの市街 地発達過程における最初の地区であり,19 世紀 後半を通じて急速に拡大したが,1889 年 6 月の いわゆる「シアトル大火」によってその広い部分 が焼失した(Sale, 1976, p. 50)。その後の復興・再 建過程で,同地区の建物のほとんどは煉瓦外壁や 石造を基調とした耐火建築の中・高層ビルとなっ た。これが,今日の PS 地区の建物群の基礎とな る(MacDonald, 1987, pp. 36-37 ; Kreisman, 1999, p. 85)。20 世紀に入ると,初期のパイオニア集落 を支えた木材業が衰退し,シアトルのダウンタウ ンが北方に移動・拡大するにつれ,PS 地区は急 速に周縁化する。第二次大戦後になると同地区に おいては,建物のフィジカルな状態が悪化し,失 業やアルコール中毒など社会病理も進行した (Morley, 2006, pp. 70-71)。すなわち,同地区はス ラム化したインナーシティの典型的な区域と見做 されるようになったと言える。こうした状況を背 景に,同地区の長い都市保存・更新事業の歩みが 始まるのである。 同地区の都市保存・更新が実現していくプロセ スは複雑であるが,大別して組織的な歩みと個人 的な試みに整理できよう。組織的な動きとしては, まず 1959 年の市計画委員会(City of Seattle Plan-ning Commission)とシアトル中央協会(The Cen-tral Association of Seattle : CAS)の合同研究による
報告書(CSPC, 1959)のシアトル市議会提出や 1966年のグラハム建築計画技術社によるパイオ ニアスクエア再開発のフィージビリティ調査書 (John Graham and Company, 1966)の発表がある。
いずれも,PS 地区の景観保存や機能更新につな がる施策の必要性を訴えている(Link, 2005, p. 178, pp. 181-182)。個人的な動きとしては,1960 年代 に建築家アンダーソン(Anderson, Ralph)ほか何 人かの民間人が地区内の古い建物を購入して改装 し,貸しスペースとして活用する試みが見られた。 この動きは,荒廃地区として見棄てられてきた PSのイメージを多少変え,歴史的建物の美を好 むアーティスト,建築家や都心への近接性を重視 する若い世代の専門人などの移入をひきおこし, 不動産価格を上昇させた(Morley, 2006, pp. 75-77)。 1960年代後半には,建築学者スタインブリュッ ク(Steinbrueck, Victor)らによって個別の建物の 保存・活用に留まらず,街並みあるいは地区とし ての歴史保存を求める運動が起こった。その背景 には,歴史的に重要なシアトルホテルの取り壊し (1961 年)が危機感を煽ったこと,国家歴史保存 法下での「国家歴史的場所登録(National Register of Historic Places)」創設が地区単位での保存の可 能性と重要性の認識を高めたことがある(杉浦, 2018, pp. 194-195)。この運動は,集合体としての PS地区建築群を修復・保存するための「歴史地区」 条例を制定する方向に集約され,CAS からは強い 反対を受けたが,ウールマン(Uhlman, Wes)市 長などの支持を得,1970 年 4 月に条例案の市議 会可決に漕ぎつけた。これに基づいて創設された 歴史地区は,公式呼称を「パイオニアスクエア保 存地区(Pioneer Square Preservation District)」,一 般には「パイオニアスクエア歴史地区(Pioneer Square Historic District)」と呼ばれる 20 ブロック強, 52エーカーの地区である(第 1 図)(Link, 2005, pp. 182-184)。同歴史地区は 1973 年指定の「特別
監視地区(Special Review District)」にも選定され, 以降この 2 つの地区制度の枠組みの下に個々の都 市保存・更新プロジェクトが長期にわたり実施さ れていくことになる。 III. パイオニアスクエア地区における歴史 地区保存の理念と手法 ここでは,パイオニアスクエア地区において進 展した歴史地区保存の理念や手法を,地区創設時 の文書に遡って検討する。使用した文書は,まず 市コミュニティ開発局発行の「パイオニアスクエ ア歴史地区彙報」(DCD, 1972)で,ここには「PS 歴史地区条例(1970)」の全文が掲載されている (Vol. 2)ほか,地区内の保存に関わる手続きや手 法の基本方針が謳われており,歴史地区の保存と は何か,そのために何をしなければならないのか ということを関係者がどう理解したのかがよく表 れている。もう一つは,同地区の最初の包括的計 画案 「PS 歴史地区計画」(MAKERS, 1974)で,同 計画の理念的目標及びそこにおいて都市機能の更 新と両立させつつ建物や都市景観をどう保存して いけばよいかが具体的に語られる。 1. 歴史地区創設の理念と基準 まず条例のなかで,歴史地区創設の理念と基準 をどう捉えているかを見ていこう。シアトル市条 例 98852 番は「パイオニアスクエア歴史地区条例 (PS Historic District Ordinances)」と名付けられ,
11のセクションから成る。このうちセクション 1, 4,5 が,歴史地区創設の理念と基準を考える上 で重要である。以下,概要を述べる。 セクション 1 では,歴史地区創設の「目的」を 以下のように述べる。PS 域は,確固とした歴史的・ 建築的特性をもち,シアトル市にとって大きな歴 史的・文化的重要さをもつ区域である。同地区の 建物群を損ねず地域とその構造物の強化を提供す るために,その歴史的遺産についての意識を発展 させ,非生産的な構造物を有用な目的に転換し, この市にビジターをひきつけることによって,市 第 1 図 シアトル市パイオニアスクエア地区の概況 1 : パイオニアスクエア歴史地区(当初)の境界 2 : 公園
民の社会的・文化的・経済的福祉に寄与する。こ のように,ここでは都市の建造環境を景観として 保存することのみではなく,その活用や観光資源 化も意識していることが分かる。 セクション 4 では,歴史地区決定のために準用 される一般的基準が述べられる。ここで採用され るのは,ナショナルトラストの以下の基準である。 「地区,サイト,建物,構造物,対象物は,もし それらが位置,デザイン,セッティング,材料, 出来栄え,感情と連携の統合性を有し,かつ次の 条件(a∼d)を満たすなら歴史的意義を有する : a. それらが,我々の歴史の広いパターンへの重要な 寄与をなすイベントと結び付く。b. 歴史において 重要な人々の人生と結び付く。c. 建築のタイプ, 時期,方法の独自の特性を体現する,一人の巨匠 (master)の仕事を代表する,高い芸術的価値を 有する,または重要かつ独自の全体を代表する。d. 先史または歴史において重要な情報を伝えてい る」。このように,ここでは対象そのものの性質 のみではなく,それが出来事や人生と結び付き, 独自性や代表性を有していることを重視している と言えよう。 セクション5は,PS歴史地区の評価基準である。 すなわち,上述の一般的基準に照らして同地区が どのように評価されるかが述べられる。まずこの 歴史地区は,シアトルの始まりの場所として重要 な役割を果たし,シアトルのパイオニア達の多く の人生と結びついていると認識される。地区内の 建物の多くは,後期ビクトリア様式の独特の特性 を体現し,多くは一人の建築家フィッシャー (Fisher, Elmer H.)の仕事であるために,もともと の建築,感情の統合性を有する。そして,この地 区の改修と保存は,19 世紀後半の生活様式と建 築に関する教育的に重要な情報を与えると評価さ れている。このように PS 地区は,まさにナショ ナルトラストで言うところの歴史的意義を有する 典型的な地区なのである。 次に,「PS 歴史地区計画(1974)」において, 同歴史地区が目指す目標をどのように捉えている かを見てみよう。同計画は,歴史地区創設から 4 年たって,改めて同地区のその後の再開発と境界 の定義のため,計画と目標の組織的フレームワー クを検討したものである。そこではまず,歴史地 区創設の最終的な目標をこの地区の多様なイメー ジと歴史的セッティングを保存することとし,そ のための計画展開を導く以下の個別目的を規定す る。① 歴史地区とその構造物の,多様で真正 (genuine)な造作といきいきした場所(place)と しての保全(conservation),② シアトル市中心部 においてよりよい歩行,住宅,公共交通を創る都 市計画目標の促進,③ コミュニティのアイデン ティティと多様性の推奨,すなわち,混合した社 会的・経済的背景の人々が,住み働き買物をし都 市生活のアメニティを楽しむことができる雰囲気 をつくる,④ すべてのシアトル市民による歴史 地区の活用を確かにするデザイン修正とビジネス 概念の促進,⑤ いきいきした概念としての歴史 地区の境界(edges)を定義し,それを通してこ の地区がアイデンティティを獲得する。このよう に,ここでは物理的存在としての地区そのものよ り,人々の居住,活動,それにより生み出される アイデンティティがより重要な目的指標として強 調されていると言える。 2. 歴史地区保存の手法 1) 保存の主体 効果的な保存を実現するためには,その行為主 体となる組織を整備する必要がある。「歴史地区 条例」のセクション 2 は「責任あるエージェン シー」と題し,「市計画委員会(City Planning Commission)」と「歴史保存評議会(Historic Pres-ervation Board)]の役割を規定する。前者は,構 造物の保存に関する事項を市議会に勧告する公的
な主体として位置づけられる。後者は,すべての 建築的,歴史的保存に関する事項をコミュニティ 開発局(Department of Community Development) の助けを借りつつ前者に勧告する。そしてセク ション 6 で,何人も市議会の承認によらずに地区 内既存構造物及びその他の可視要素の変更はでき ないことが規定される。 2)基本構造物の保存 都市歴史保存の対象として最も枢要な地区内建 物等構造物の「保存」については,「PS 歴史地区 計画(1974)」において「再構造化(restructuring)」 という語を使用し,その 4 つのタイプを以下のよ うに提言している(MAKERS, 1974, p. 37 ; 杉浦, 2018, p. 201)。① 「保存(preservation)」: 既存の構 造物の細部における正確な再開発,もともとの細 部,ファサード,材料,そしてほとんどのフィク スチャーがもとの状態に刷新(refurbish)される。 ② 「修復(restoration)」: もともとのデザイン, ファサード,細部を可能なところで維持しつつ既 存の構造物の再利用のため行う共感的再開発。通 常の「修復」は,一つの建物を,そのもともとの 条件に戻すが,必ずしもオリジナルな材料でもっ て全ての細部やフィクスチャーを再建することで はない。③ 「改装(renovation)」: 既存の構造物の 再利用のための共感的再開発,基礎的な建築の様 相(features)は維持するが,新しい材料,細部 の要素,装置を使用してよい。④ 「再創造(re -creation)」: 歴史的なモチーフに適合する新しい 建物の建築や既存建物の再開発,かつて存在した 一般的精神や雰囲気の一部を再創造する試みであ る。以上のうち,この計画では「保存」や「再創 造」は費用が高く,また後者はオーセンティック ではないという問題があるとし,特に「修復」と 「改装」を実際的な手法として推奨している。こ のように,ここでの「保存」はすべて「再構造化」 ないし「再開発」という概念に置き換えられ,保 存されるべきものは物体そのものではなく,全体 としての様相,雰囲気,モチーフであると捉えて いることが分かる。 3) 標識の評価と規制 建物等構造物のほか地区の様相に大きな影響を 与えるものに種々の「標識(signs)」があり,そ の規制に関しては「PS 歴史地区彙報」(DCD, 1972)第 4 巻(Vol. 4)において詳述される。そこ では標識を装飾的で識別的,地区に特性といきい きした感じを与えるものと捉え,その在り方を規 制することが都市歴史地区では特に重要であると 認識する。そのため,歴史保存評議会は,標識を 規制するため流動的かつフレキシブルな審査(レ ビュー)を行うものと規定され,申請者は計画の 初期段階で評議会と相談することが推奨される。 標識のタイプ,サイズ,位置などを画一的にし ないためそれぞれの申請は個別なケースとして扱 われるが,標識評価には以下の一般的基準が設定 される。① 標識のインパクト,サイズ,形,テ クスチャ,つけ方,色,照明が,建物及び通りと の関係において評価される。② 地区の歴史的特 性と調和へのインパクトが考慮される。③ 主要 な考慮(reference)は平均的な歩行者の目のレベ ルの景色である。④ 市条例や公共事業協議会(the Board of Public Works)に規定・採用された市の建設, 位置,撤去,サイズについての要求と合致する。 なお,標識は店舗・施設に付随したもの(on -premise sign)とそこから離れて独立したもの(off -premise sign)とに分けられるが,後者はこの地区 では禁止される。 標識の具体的な規制は一律に定められないが, 一般的に次のガイドラインに従うことが要請され る。まず受け入れられる標識のサイズについて, 標識のタイプ,位置,数によって異なるが,基本 的に歩行者のスケールに適合することが推奨され る。なお,どのサイズの標識も,建物のデザイン,
他の標識,近接の建物の一般的特性との統一性を 尊重しなければいけない。標識の位置については, どの標識も構造物の上においてはいけない。標識 の材料は,20 世紀前半に使われていたような木, 入念につくられた鉄・スチール,金属格子などは 受け入れられる。アルミニウム,プラスティック などは適切ではない。材料の選択における簡素さ と制限が必要である。標識の装着は,構造物の建 築的統一性を壊さないように留意する。標識の照 明については,フラッシュしたり,またたいたり, 回転したりする照明は許可されず,蛍光灯,ネオ ンなどはこの地区では不適切である。広告標識は, 地区内での活動の識別(identification)のために地 区内の実際のビジネスのみが商品を広告し得る。 このように標識に関しては,基本構造物(建物) より可変的な性格を考慮して,「保存」より共感的・ 調和的な再創造を推奨していると言える。 IV. 都市歴史地区保存の本質と課題―考察 上で述べてきたシアトル「パイオニアスクエア 歴史地区」創設の理念と手法に関する勧奨事項の うち同地区の特殊事情に由来したものは少なく, それらは歴史的な都市地区の「保存」一般を考え る上で有効な材料を提供していると思われる。そ こでここでは,上述の事例を参照しつつ現代にお ける「都市歴史地区保存」とは何か,その本質と 課題を一般的に考察して結びとする。 まず基本的なことは,ここで言う「保存」は人 とモノとが絡む「過程(プロセス)」であるとい うことである。保存の対象となるものは,都市地 区(街,場所,社会的文化的空間)であり,それ は住んでいる(または過去に住んでいた)人やコ ミュニティとフィジカルな建造環境とが不可分に 結びついた存在である。PS 歴史地区条例におい ても,「この歴史地区は,シアトルのパイオニア 達の多くの人生と結びついている」と謳われる。 そのような性質をもつ対象の「保存」は,必然的 に人々の生活の展開と結びついて実施されなけれ ばならない。地区内で行われる諸過程,諸事業の 目的は,建物等構造物の保存自体ではなく,それ に連動するコミュニティの維持,市民生活や生活 環境の改善が焦点となる。「PS 歴史地区計画」に おいて「多様で真正(genuine)な造作といきい きした場所としての保全」が謳われる所以である。 このような「保存」は,多様な手法によって推 進される。既存の状態の保存,モノの凍結保存で はない。またオリジナルな状態に戻す復原保存の みでもない。それは,「保存」というより「保存 活用」,すなわち 1966 年の国家歴史保存法で強調 された「適応的再利用(adaptive reuse)」(Morley, 2006, p. 4)でなければならず,その結果都市景観 の基本は維持しつつもその地区の機能は更新さ れ,再生する。PS 地区で推奨される更新手法を 見ると,精度の高い厳密な「保存(preservation)」 よりも「修復(restoration)」や「改装(renovation)」 が重視され,地区の理念に共感的であれば「再創 造(re-creation)」も許容される。これは地区で生 活し,地区の建造環境を「保存活用」していくた めの必須な戦略に他ならない。 また,「保存」は個々の要素について実施され るが,地区の統合性を意識してなされなければな らない。この統合性こそ「歴史地区」のアイデン ティティを成立させるものであり,それを構成す る要素はフィジカルなものばかりではなく,美的, 心情的,理念的なものを含んでいる。ちなみに, シアトル市条例で PS 歴史地区のために採用され たナショナルトラストの基準には,「位置,デザ イン,セッティング,材料,出来栄え,感情と連 携の統合性」が謳われる。そして「PS 歴史地区 計画」は,当該地区内の建築,感情の統合性を強 調する。適切に「保存」された「歴史地区」が訪 問者に感銘を与えるものは,見事に蘇ったかつて
の建築群の外面的な美のみではなく,それと分か ちがたく結びついた人々の歴史や人生そのものな のである。 このような本質を有する都市歴史地区保存に は,しかしながらその本質故に必然的に生ずる課 題や論争点もつきまとう。その一つは都市景観の 真正性(オーセンティシティ)の問題である。モー レイ(Morley, Judy M.)によれば,1960 年代以降 のツーリズム振興を志向した都市歴史地区の創設 はポストモダンの脱構築主義者やマルクス主義批 評家らによって痛烈に批判されたという。彼らに よれば,それは歴史的に正確でない何かを創り出 すことであり,都市の他の部分から切り離し,美 化し均質化して神話的なランドスケープを生み出 したとされる(Morley, 2006, p. 11)。しかしながら, 廃れた都市地域を「いきいきした場所」として再 生することが都市歴史保存の本質的目標であると すれば,そこに歴史的実体としての真正性を求め ること自体,無理がある。真正性が,コーエン (Cohen, Erik)の言うように「社会的に構築され たもの」であり,その社会的意味が「所与」では なく「交渉的」である(Cohen, 1988, p. 374)とす れば,関係者たちの交渉によってようやく実現に 漕ぎつけた歴史地区創設の成果に,超越的な真正 性批判をすること自体の意義も問われるべきであ ろう。真正性はつきつめれば主張と納得の問題で あり,古い都市の建造環境を活用しつつ,多くの 人々に納得のいく都市景観の真正性を構築するこ とが,都市歴史地区にとって一つの枢要な課題で あることは間違いない。 もう一つはジェントリフィケーションの問題で ある。都市歴史保全の対象となる地区は,残存し た古い建物の利用や補修が不十分な荒廃地区であ ることが多く,低所得者の格好の居住地となって きた。しかし,都市歴史保存の理念が要請する都 市過程は前述したように「適応的再利用」を基本 とするため,その事業が進展すると必然的に家賃 が大きく上昇し,もとからの居住者が住めなくな る。そのため旧来の住民層の多くが流出し,住民 や事業者が大きく入れ替わる。このことは地区の 経済的機能の改善と税収増を望む市の政治的指導 者やプランナーにとっては歓迎すべき方向性であ るが,都市歴史保存の運動を推進した保存主義者 や活動家にとって,それは地区の市民アイデン ティティや社会的理念に関わる問題であり,その 変化をそのまま首肯するわけにはいかない。シア トルの PS 地区においても,保存運動で中心的役 割を果たしたスタインブリュックは低所得者の居 住地という PS の伝統的機能を維持することを強 く 主 張 し て い た( 阿 部,2011, p. 2029 ; 杉 浦, 2018, p. 198)。地区の住民構成を多様化しその経 済的活性化を図りつつ,貧困者・弱者のための社 会空間も保全していくことが,多くの都市歴史地 区において難しい課題の一つとなっている。 今日アメリカにおいて都市歴史保存は,都市の コアーを再活性化し,地域的差異のセンスを取り 戻すツールとして注目され(Morley, 2006, p. 10), 経済的戦略としてもかつての破壊的都市更新に代 わってその大きなポテンシャルが認められている (Reichl, 1997)。都市歴史地区の創設は,そのため の最も包括的な手法であり,その指定は 20 世紀 末までにゾーニング条例によるだけでも 1,000 件 にも達しているという(西村,2004, p. 579),本 稿で見てきたシアトル・パイオニアスクエア地区 が教える「都市歴史地区保存」の本質と課題は, そうしたアメリカ都市のポストモダン的状況を考 える際,貴重な指針を与える。また,文脈が大き く異なるとは言え日本における歴史保存地区の本 質や課題を考える上でも参考になると思われる。 本稿がその一助となれば幸いである。
付 記 本稿は,東北地理学会 2019 年度春季学術大会 における発表内容を加筆修正したものである。 (2020 年 10 月 27 日受理) 注 1) 「歴史保全」と訳する場合もある(西村,2004, など)。本稿では,便宜的に淺野(2013)に従って, preservationは「 保 存 」,conservation は「 保 全 」 と訳した。 文 献 淺野敏久(2013): 環境の保全と保護.人文地理学会 編 : 人文地理学事典.丸善出版株式会社,586 -587. 阿部祐子(2011): シアトルの歴史地区におけるコ ミュニティ保全思想の提起とその背景.日本建 築学会計画系論文集,76-668, 2027-2032. 杉浦 直(2018): シアトル・パイオニアスクエア─ 旧都心地区の保存と再活性化―.アルテス・リ ベラレス(岩手大学人文社会科学部紀要),103, 191-208. 西村幸夫(2004): 都市保全計画 : 歴史・文化・自然 を活かしたまちづくり.東京大学出版会. Cohen, E.(1988): Authenticity and commoditization
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Tadashi SUGIURA*
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