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戦後日韓貿易における海苔問題 - 1949年の日韓通商交渉を中心として -

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(1)戦後日韓貿易における海苔問題                 一1949年の日韓通商交渉を中心・として一・ 藤井 賢二 1.莞島と朝鮮海苔.  韓国全羅南至の莞島。朝鮮半島のほぼ南端に位置する風光明媚なこ.の島を、私は2000年 夏に訪れた:。1949年7月13日付『水産経済新聞』<1>掲載の「全南(全羅南・道筆者注)漁村. 実情踏査 海苔で名声高い莞島 カキ養殖にあ全力を注ぐ 金鉱衡特派員」という次の記 事に興味を覚えたからだった。.    海苔と言えば誰でも与島を連想する程、海苔が発達しているのが莞島である。住民   の大部分が半農半漁の生活をし、彼ら(約七千戸)が海苔養殖に従事しており、年産   二百余万束(一束は100枚筆者注)の生産高を上げている。.    それだけに海苔養殖の農不良は島民全体の死活を左右する鍵になっており、解放以   後の対日輸出の途絶に、島民生活への打撃は実に形容しがたいほどである。先日の韓   日通商協定によって八百万束を輸出するようになり、すでに三百七十万束が輸出完了   している。明年三月目でに四百三十万束を輸出する予定である。今年だけは安心して   生産に力を注ぐことができるが、韓国の実情をすみずみまで知っている日本政府の憎   らしい態度は歯噛みするほどいまいましいことだ。即ち、今年度輸出された海苔に対   して日本政府ば再検査させ一方的に等級を下落させたという知らせに海苔業者の怒り   は爆発した。韓国の厳格な国家検査を無視する、横行無道な行動に対して、厳重な抗   議を提起することを強硬に主張している。.    しかし冷静に自己反省する時、解放以後あまりに無秩序・無責任な検査があったの   で肯定せざるをえないのである。最迄(ρ例だけ見ても、某地摩の一等合格品を再検査.   した結果、不合格粗悪晶があったということが判定されたという。その原因を生産業   者の不備のせいにしているという。.    しかし生産業者はこれを全面的に反駁し、最近の検査は日帝時代よりもむしろ厳格   苛酷であり、粗悪品が介在しているのは結局中間悪徳商人が関係者たちと結託して検   画品と未検査粗悪品とすり替えているという。.    彼はまた「未検査晶を中闇商入に売り渡す業者自身が過ちを犯したと考えられない   か」と.いう問いに対して、低利融資額の微々たることと納品代金の清算遅延の実情を   挙げ、高利貸金を返済するために非合法的に売らざるをえない苦衷をわからないのか?   と哀訴するのだった。    検査当局はこの際猛省して国家検査の尊厳性を確立ぜねばならない。(以下略).  記事の最初の部分にあるように、日本統治終了後の対日輸出激減により韓国の海苔養殖 は大きな打撃を受けた。1940年に全羅南道の海苔養殖者数は戸数・入ロともに全朝鮮の87 %を占めたが、莞島だけで9,560戸(35%)、46,700人(43%)が従事していた(2>。こ. 一5ユー一.

(2) のように日本統治下の朝鮮において、莞島は朝鮮半島の海苔養殖の中心地だった。この記 事の数字が正確とす.れば、海苔養・殖業従事者がユ940年よりも.2,500戸も滅少し・ている。南. 朝鮮・韓国全体の7k野人ロの1946年の157,907戸(408,369人)から1949年置ユ97,050戸 (616,366人)への大幅増く3>に比べて、異常な現象と言えよう。.  しかし、ig49年3月の日韓通商交渉の結果800.万束の対日海苔輸出が決定し・たため、海. 苔対日輸出問題は、この記事の7月の時点では、量的には解決していた。その代わりに、 品質’問題が大きな課題と七てこの記事では取り上げられている。品質悪化を理由に等級を 落とす日本政府への怒り、しかしそれは結局韓国側.の原因たよるものであることへのいら だち、中間商人の製品すり替え(恐らく’密輸と関係するの.であろう.)やそれに手を貸さざ. るをえない生産者の窮状が記されている。そして、その背景には、生産者への低利金融の 不充分さがあると指摘されている。.  莞島と日本との関係は深かった。朝鮮における日本式海苔養殖は明治末に日本人が野島 方面に広島式の養殖法を導入してから各地に広がっ’たという(宮下童『海苔の歴史』 (全 国海苔問屋共同組合連合会・1970年 p744)。藍島で戦後長く.日本への・海’草輸出に従事し. てきた二人の男性から筆者が聞いた所では、日本統治期の莞島には日本人海苔関係者が居 住し、彼らの居住地は日本人移住漁民とは異なっていたという。現在、日本式家屋は一丁 のみ市街の中心部に残っている。また莞島港の近くの現在水産指導所のある場所に海苔の 検査楊があったらしい。 『海苔の歴史』には日本人の海苔商人が「迷鳥に貯水池を設け、 水道を引き、郵便局を誘致し、自家発電により陸島に.電気を灯し、・桟橋の改修費を出した」 とある(p765)。.  しかし、水産指導所で入手した「海藻類養殖現況」の「沿.革・1には日本人による海苔養 殖技術導入の経過は一切記述されていない。筆者.が会.つた二人首上.性は、日本統治終了後. の対’日海苔輸出激減は記憶にないという。 1海苔の対日輸出はずっと行われてきた。私の 会社は1970年代になってワカメなど他の海草に輸出商品を.切り替え.た」と一人は語った。.  本論文は忘れ去られた養殖朝鮮海苔の歴史、特に日本統治終了後・の海苔対日輸出『問題に 焦点を当て、日韓関係史の・一断面を描こうとするものである6. 2朝鮮海苔の養殖と対日移出  「全養殖生産高の約93%はノリで占あ、養.殖即ノ.りと言っても過言ではな・いj(4>と19. 40年には述べられるまでになった海苔養殖の発展の概要を、.外・務省経済局アジア課『韓国 の海苔事情』 (1967年)〈5>から引用して’まとめたい。.    1907年頃の韓国の海苔養殖界は年間僅か30万東内外を生産していた.が、(中略)(1942.   年には) 840万4500、余東という飛躍的な増産をなし遂げたのである。僅か35年忌間に   生産量が3・0倍近くに増大した(p11)。. 一52一.

(3)    このように目覚ましい発展をすることができた重要原因は、海苔養殖は少ない資本   でく家族労働に基盤を置き副業として零細経営が可能であったことと、主に日本向け   の市場開拓がたやすかったところにある。その上海苔養殖期は農閑期でも可能な冬期   作業であるから、農閑期を利用した副業として半農半漁的野業者に適切で有利な利点   があったからである(p121)。.    海苔養殖が急激に発達するのにもかかわらず、日本人の比重はだんだん低くなった。   .1935年ρ)水産統計に現れた現象は総養殖高の約97%を韓:国人が占めたのである(pU9)。.    (なぜなら)海苔養殖業は、生産過程において労働力を集中的に動員するため、雇   傭労働に依る専業的、企業的大規模経営は不利で、また経営採算を合わせることが難   しいのが欠点であった。日本人が、はじめは海苔養殖業に関心を持って多数これに関   与したが、その後これをかえりみないようになった大きい原因がここにあった(p121)。.    朝鮮総督府は海苔養殖業を保護育成するために適地適植に関する試験調査をはじめ、.   養殖方法と製造方法の改良のための技術指導に努めた。1927年からは朝鮮総督府で海   苔業者に補助金を支給して、これを奨励した。これが海苔養殖業の発展に寄与したと   ころ多大なものがあった(p124)。.  以上のように、海苔養殖業は朝鮮人がほぼ独占する産業だった。 『昭和7年 朝鮮統計 年報』 (朝鮮総督府 1934年)で確認すると、養殖場面積で85%、生産額で93%、製造高 (価格)で87%を朝鮮人が担っていた(p153 p155)。しかし海苔養殖業は日本という市場 があることを前提どした産業だった。 『韓国の海苔事情』に「韓国海苔の生産および輸出. 実績」という表があるが、生産高に対する輸出高の割合は、1934年が90.3%、1937年が94 .5%、1940年が95.9%、1942年が96.5%である(p12)、。そして昭和11年から昭和14年まで. の『朝鮮水産統計』 (朝鮮総督府)によると、海苔移輸出に占める対日移出の割合は、19. 34年と1937年が98%、1939年が95%だった。1920年代のそれがほぼ100%であったのに比 較すると若干低下している。この低下は、関東州と満洲国の日本人向けの輸出が1930年代 には増加したためであると考えられる。なお、朝鮮水産物の輸出総額に占める海苔の割合 は1926∼39年平均で10%だった。. a朝鮮海苔対日輸出と総司令部の占領政策  日本の朝鮮統治終了後の海苔の対日輸出量の正確な把握は困難であるが、今までに入手 できた数字は次ページの〔表1〕の通りである。.  これらの統計を見るとC『韓国の海苔事情』と他の資料との違いが大きい。特に1947年 度が顕著である。その他の年度も確実な数字とは言えないが、大量の密輸があったことも 考えると、日本統治終了後の朝鮮からの海苔対日輸出は、激減はしながらも継続していた。 片田實『浅草海苔盛衰記一海苔の五百年』 (成山堂書店 1989年)は、・「戦中の『朝鮮海. 苔』は当時のいわゆる『内地海苔』のような著しい減産はなかったといえるゴ豊年におい. 一53一.

(4) 〔表1〕朝鮮海苔対日輸出状況(単位:束) B 年度. A C① 1942、. 8,047,908一. C②(年)・. 8,047,908. D①. 「D②‘. 8,047,908. ’8,047,000. 1,148,00α. ユ,140,000. 4,892,680. 1,060,000. 1,484,000. 4,478,000. 8,047,000. 1945 1946. 1,148,016. 1947. 4,892,680. 1948. 4,89ユ’,680. 3,265,000. 5,0.00,000. 1949・ 3,700,000. 3,‘265,200. 3,000,000. 4,000,000 .4,116,000. 1,835,066. 1950  2,400,000. 893,000. 2,823,000. 2,823,000. 1951. 1,‘’976,882. 2,・823,000. 1,642,000. 2,035,000. 1952. 2,836,097. 1,642,000. 2,537,000. 1・,892,000. 1953. 1,030,000. 2,537,000. 2,564,000. 2,795,000. 2,790,000.  A外務省経済局『韓国経済概観』 (1953年)’p79.  B金仁台「韓国養殖業の実情と対日依存性」 (『韓国水産発達史』 水産業協同纏町中   央会 1966年 所収>p444  C①外務省経済局アジア課『韓国の海苔事情』1(1967年)p12・.  C②同上p94  D①宮下章『海苔の歴史』 (全国海苔問屋共同組合連合会 !970年)p794.   ②同上P794 1                                                             i コ                                                                                                 . lAは「通産省調」とある。Bは韓国銀行『経済年鑑』 『水産業に関する調査』、農林1 ロ                                                                                                     き. 1部『水産統計年報』を資料にあげている。C①は「国立水産振興院編『漁村技術講習1 :(海苔養殖および製造加工)教材』を参照にした」とある。C②は「1967年置工部輸; ほ                                                                                                     ロ. ロ                                                                                           じ. 1出課長李十和氏と韓国海苔輸出組合から提供した資料・による」とある。D①は1946年1’ ほ                                                                                                     コ. :以後は「宮永清氏資料による」とある。D②は『日本海苔食品新聞』によるとあ’る。 1 篁                                                                                                     「. L__一_____噌________一_______一________一_________一__________二漏__一___・涌________!. て8億枚を超えた海苔のほとんどが、戦士も昭和22年までは確実に日本に移・輸出されて いた」1とさえ書いている(p181)。.  さて、朝鮮海苔輸入についてのG「HQ(連合国軍総司令部 以下総司令部・と表記する). /SCAP文書で確認できる最初のものは1945年12月29日付けの天然資源局(NRS)か ら経済科学局(ESS)への文書」であるく6>.。朝鮮水産業高く7、〉の海苔輸出の強い・要望 を伝え、日本の中央水産・業会(8>’も受入れを要望しているとしている。朝鮮海苔にっ.いて. 下記のように説明されている6.   些些は韓国人は食べないが日本人に高価に扱われる。海苔産業は韓国の重要な産業   の懸づである。,最近3年間の製造高と輸入高は下記の通りである。. 一54一.

(5)   a1943年夏朝鮮は10億枚を製造し、6億枚が日本に輸入された。   b1944年に朝鮮・は≧6億枚を製造し、2億9500万枚が日本に輸入された。   c1945年.に朝鮮は7億枚を製造し、4億枚が日本に輸入される計画である。   韓国で1943年と1944年に製造され、日本に輸入されなかった海苔・は在1朝日本人によっ   て消費された。  戦前に朝鮮海苔を扱っていた日本の輸入業者の動きも活発だった。前述の『海苔の歴史』 には、.「果荷移入を一手に握っていだ朝鮮ノリ統制株式会社が敗戦により.解散させられた. ので、これに代る輸入機構を新設しなければならなくなった。これに率先して取組んだの は、統制のはじ衷るまで朝鮮ノリを扱っており、当時は配給統制組合の幹部を勤めていた 旧ノ・リ問屋の面々である6早くも昭和20年12月置新輸入機関の設立を企図し.、彼らは農林. 省西村水産課長と同道し、GHQのジーママン大佐(食糧部長)へ日参し、輸入の陳情を 行なった」・とある(p・771−p772)。同書による・と、彼らは1946年5月に朝鮮海苔輸入配給協. 会を設立し、中央水産業会を代行して国内配給を行なった。また「日本政府に代わって一 切の貿易活動を独占的に取り扱う機関とgて」(9>1945年12月14日に三三された貿易庁か ら認可を受けて、輸出入取扱代行機関の朝鮮海苔輸入協会をも設立した。.  1946年6月に経済科学局、天然資源局、日本政府の聞で朝鮮海苔輸入についての意見調 整が行われた。経済科学局のジマーマン食糧部長は農林省と貿易庁で朝鮮海苔について調 査し、日本に輸入の余地があることを確認した。その上で天然資源局の「日本政府が海苔 の輸入を望むなら反対しない」という意見と、日本政府が海苔輸入を要求したことにより、. 海苔輸入に賛等した。彼は個人的な見解としながら、次の三点を海苔輸入の理由として上 げているく1の。.   a朝鮮がこの商品の輸出に固執していること。  .b海苔は日本に密輸出されていること。   c朝鮮は輸入代金を支払うための他の輸出商品を持っていないこと。 日本政府はこの時「国民の最低限の生活水準を維持するのに重要ではないので朝鮮海苔の 輸入を積極的には欲しない。しかし、朝鮮海苔が日本人の需要に応じるという特殊な目的 で製造さμてきたということを考慮しで、海苔養殖に必要な竹材の輸出によって補われる だけの海苔を輸入する準備がある。』ただし価格はその奔重要性によってできるだけ安くな らねばならない」と意思表明した(11>。この竹材は海苔ひびに用いられた。ひびは海苔養 殖で子中に設置して海苔の胞子を付着・成長させるためのものである。.日本の統治終了後、. 日本からの馬鐸輸入が困難となった問題は『水産経済新聞』で何度も取り上げられている。. 占領期における輸入に関する総司令部の方針で最優先に考慮されたことは「最低限の日本 の民需経済を維持するのに必要な最低限の必需品を供給することであった」〈12>。1945年 10月9日付け総司令部覚書(SCAPIN)第1、10号も「物資輸入の申・請は、下記の条件を備えな. ければ、本司華押に提出してはならない。、(すなわち)該当輸入品が一般市民の最低生活 水準の維持に不可欠なものであること」としているく13>。この立場から.朝鮮海苔の輸入に. 一55一.

(6) 慎重な検討が加えられたのは当然であろう。前記ig46年6月の文書にある農林省での調査 は海苔の栄養分析にまで及んでいる61947年5月の朝鮮海苔輸入業務の食糧貿易公‘団への 三智は貿’卍巴による統制強化の現れである。同時に朝鮮海苔輸入配.給協会から改称した朝. 鮮海苔協会は輸入海苔を農林省の配給計画に従って全国の荷受機関に配分した。国産海苔 と違い、1949年まで国内自由販売は認められなかった。.  1948年3月に総司令部の経済科学局と在朝鮮来軍政庁との聞で、海苔の対日輸出量と価 格をめぐる:対立が表面化した。 「海苔輸出は朝鮮の主要外貨獲得源であり、16万人の水産. 関係者の生活の糧を与えている。貿易を最大限に拡大することは日朝双方に有利であろう。. 」として、在朝鮮米軍政庁、が海苔の日本販売分300万束に100万束追加したいと要請した のに対して経済科学局はこれを拒否し、トン当たり375ドルの提案を行ったく14>b在朝鮮 米軍政庁はこれに次のように反論したく15>。.    海苔トン当たり一375ドルの貴下のっけ値は一束7セントに相当する。1947年9月に   支払われたのは1ドル20セントだった。もし総司令部が生産者が利益を得ることを望   まないならば、日本向けに特別に開発された海苔産業は店じまいの安売りをせざるを   得ないだろう。それは生産老・消費者双方にとって不幸なことであり、日朝間の悪意   の原因となるかもしれない。その悪意を取り除くことが両国の米占領軍の目的なので   ある。. 在朝鮮米軍政庁は5月4日のメッセージで280万束の早急な出荷と一束65セントの価格を 経済科学局に申し入れたく16>。 「海苔は韓国の主要な輸出晶の’一つであるので、この申し. 出には格別の配慮を賜りたい。今年の出荷時期の終了は聞近に迫っており、この申し出に. は速やかな対応が求められる」とこのメッセージは結んでいる。経済科学局は、日本の海 苔産業の復興、一束1ドル20セントの価格の理由、 「目前の梅雨と夏、現在の日本の限ら. れた需要、配給の遅れによる品質の相当な悪化」を検討した結果、一束36セントが適当で. あると判断していたq7>。結局1948年7月9日の在朝鮮米軍政庁と総司令部との会議にお いて、「輸出の準備ができている量を一束36セントで」総司令部が引き受けることで問題 は決着したく18>。1948年8月末、貿易庁輸入局は農林省や経済安定本部と協議の上、経済 科学局に韓国海苔の輸入中止を提言したく19)。「海苔は一般的に奢移品の傘料に分類され、. ほとんど栄養的な価値はない。さらに、現在の食糧問題を解決することには全く貢献しな い」 「日本の海苔の需要は国産晶によって応じられる。海苔の購買力は非常に減退してい る」というのが理由だった。経済科学局はこれに同意し海苔輸入中止の方針を固めたく2ω。. 4韓国国会の海苔対日輸出促進建議案  大韓民国政府樹立直後の時期に決定した日本政府と総司令部の海苔輸入中F止の方針を、 1948年9月29日付『水産経済新聞』、は次のように伝えている(「海苔輸出に暗影 日本で 不急品として取扱い」)。. 一56一.

(7)    外貨獲得一の寵児として対日輸出一にもっとも期待が高い海苔は・、今年度生産計画だけ   は570万束を樹立して:いるが、この間の情勢の変化によって水産当局’としては一この生   産1ヒ拍車をかけることができないという。すなわち海苔の主販路の日本では(申略)産業.   復興と経済再建を指向してこれに総力量を集中しているので、海苔のような嗜好品は   一個の奢移品取扱いを.受けて.いるためその輸入を積極推進できないと伝えられた6し   たがって関係当局では今年度の海苔がそのまま生産されても対日輸出の当否が釈然と   しない:限り、その処理難に陥ることを予期して現状では生産は奨励できない立場に置   かれている。. 11月17日付「海苔の発育状態良好 輸出未定で業者焦燥 採集期迫る 対日交渉推進せよ」. は「今年の海苔対日輸出がいまだ決定できず業者たちは焦燥している」と伝え、当局の善 処を求めている。.  1948年11月27日には国務会議に海苔対日輸出促進案とこれに対する資金貸・出案が上程さ れたく21>。そして11月27日と29日の両日には韓国国会で「乾海苔対日輸出促進に関する建. 議案3が審議された。この審議の内容を『第1回国会速記録第・115号』 『同第116号』で 紹介したい。11月27日にはまず朴三三議員が提案理由を次のように説明した。    海苔.については過去に倭(ママ)政時代には完全に朝鮮海苔は日本に行っていた。解放   後我国の海苔生産者は大きな打撃を受けており、・(中略)外交的に真空状態にあるこの機.   会を利用して日本においては我が海苔を買わないという空気が濃厚になっている。こ   れに対してこの問題がすでに解決して輸出策が樹立されねばならないのに政府では施  ’策がまだ決定されていない。. そして「前渡金として3億圓が必要だが、この前渡金も海苔の対外輸出問題が解決されね ば銀行から出ない。」それだけでなく「すべての資材を麗水に蓄積していたが、この度の 反乱(1948年10月20に起きた麗水・順天国軍反乱事件筆者注)でこれが全部消滅してしまっ た」と二つの問題を提起した。.  朴議員は「海苔は主に全羅下道を中心に慶尚下道、黄海道の沿海で農地を多く持たない 零細漁民が経営しており、もしこの問題が解決しなければこれに関連する22万名の漁民の 死にうながる」と結んだ。「他の議員たちの同様の発言の後、商工部長官、外務部長官、財 務部長官の三長官を国会に出席させ質問ずることを決定した。  11月29日の審議では朴允源議員が.、商工部長官に具体的対策と価格問題を、外務部長官. に米国を通してめ問題解決の可能性を、財務部長官に零細漁民に対する融資計画を質問し たポ張澤相外務部長官は「日本への輸出対策としてはマック司令部く22>を通して交渉する 他に道はない」 「10月(19日〉の大統領渡日時に(、輔)肩本政府と交渉して輸出できるよう. 推進していただきたいと申し上げたので、これから事態は好転するのではないか」と楽観 的見通しを述べた。三二信商工部長官,は「1947年度と1948庫6月までに韓国で生産された. 海苔をどこで消費するかを日本のマック司令部と韓国の米軍政庁が交渉した。価格は海苔 一束ユ00枚で1ドル20セントだうた。.今年夏からマック司令部は、海苔は日本国民から見. 一57一.

(8) て丁丁品だとしてこれを禁止しょうとしている」ので交渉した・が・「マック司令部の回答は、. 昨・年593万束買ったが今年は500万束を買うというものだ。価格は20セントしか出せない という。.1これでは我国生産業に増産させた意味はない。1ドルに落着させようと交渉申で ある」と交渉経過を説明した。この答弁中・の、194.7年度と1948年度の海苔の価格が一束1. ドル20セントという説明、そ、して、今年の500万束購入が既成事実になっている点はおか しい。1948年11月30日付『水産経済新聞』による答弁は「従来は一束当た・り最高.250圓だっ た:,ものをわ:ずか20セ,ント.(約90圓)、しか評価しないので、非常に混乱している。商工部と. しては50セント乃至75セントで500万束程度輸出させようと折衝中だ」となっている〈23>。.  黄三三議員が外務部長官と商工部長官の答弁に不満を述べた。大統領訪日直前に生産者 代表とともに陳情したが、その時と答弁の内容が同じではないかというものだった。金度 演財務部長官は財政面のできるだけの努力を約束したが、具体的な金額には踏み込まなかっ. た5結局建議案は「異議なし」の声で政府に送付された。.  『水産経済新聞』でその後の動きを追うと、12月13日に「臼本政府からマック司令部を 通して乾海苔500万束」を「輸出させる交渉が当地に伝達され、憂欝に沈んでいた海苔業 界に一大センセーションを起こしている」という記事があり、価格は1束1500圓程度とし ている。翌々日には韓国水産業会事業部長四丁大の「まだ契約段階までは至っていないが」. ’「500万束が日本に輸出できることになった。価格最低491圓は無難な取引だ」という談. 話が載る。1949年1月25日には「1束当たり一等品385圓、三等品335圓で、ついに難産 中の海苔価格問題を落着させた」とある。記事が出る度に価格は下落していくが、対日輸 出自体は慨定のものとして報道されている。.  ところが1949年2月8日の「海苔等輸出遅延で業界の影響は多大! 7k産業会で急速な 解決を建議」という記事のあたりから雲行きが怪しくなる。水産業会が「現在遅延を繰り 返している対日輸出」の「速やかな推・進を関係当局に強烈に要請する建議書を作成して、. 商工、外務両当局に提出することになった」というのである。この当時、輸出用海苔は水 産業会が漁組、漁連を通して収集して政府に売渡し、政府が直接対外輸出していた。2月 27日の記事では、水産業会が買い上げた海苔93万東が麗水の米穀倉庫への搬入を完了し、. 1月16日の契約に基づいて、水産業会は商工部に全額の8割の支払いを求あたとある。2 月24日には「海苔代金清算遅延で生産意欲漸次低下 業者側当初の契約不履行を非難」と 商工部を非難する記事が出る。3月になっても状況は好転ぜず、・3月19日置記事は、生産 地では「海苔代金の枯渇で集荷が思うままにならず、し・たがってブローカーの跳梁で闇取 引が旺盛で」 「生産者の打撃と漁村経済の破綻は非常に莫大なものがある」と伝えた。、. a1949年の日韓通商交渉における海苔対日輸出問題 1949年3.月10日∼22日に韓国政府と総司令部の間で行われた日韓通商交渉において韓国. 一58一.

(9) 側は海苔の対日輸出を強く’要求し、この問題の決着には多くの時間を要した。この日韓通 商交渉とは、 「韓国政府が樹立されるに及んで、従来軍政部の管理下にあった外国貿易の. 権限は、韓国政府に委譲され、これに伴って、民問貿易の再開」を日韓で行うために行わ れたものであった(『韓国経済概観』外務省経済局 1953年p205)〈24)。.  3月10日の第1回全体委員会でのあいさつで、.総司令部とオブザーバーとして出席した ECA(経済協力局)韓国使節団(25>の代表を前に鄭恒範韓国代表団団長は日本の海苔輸 入の義務を:力説したく肪〉。彼はまず「日韓両国の多くの人々が直接・聞接にこの会議の成. 果によって生活を左右されることを実感するとき、この会議の重要盤は強調しすぎること はないiと述べ、「我々は過去における両国σ)連関を思い出さねばならない。例えば・一つ. だけ例を挙げれば、水産物の場合、特に海苔は日本の落とし子である。よって、日本は今 日ですら自らが韓国で産み出した産業の製品を買い上げる確かな道義的義務を否定できな いのである」と訴えた。 「日本は、望もうと望むまいと、過去において自らが産み出した. 産業の製品を買わねばならない。韓国は自らの経済を日本のそれとふたたび結合させるこ とを考えている」と彼はもう一一度繰り返した。.  3月11日の第2回全体委員会で、総司令部代表が日本にとって海苔はあまり重要でない 輸入品であり貿易計画に含むことには多くの限定条件が付されると述べたのに対して、韓 国代表は次のように反論したく27>。.    現在韓国では約30万人が海苔産業に携わっている。もし彼らの製品が輸出されない   ならば彼らは三三の危険にさらされる。韓国南岸地方の反乱の億険性の見地から、政.   府は500万束の海苔の購入を約束した。現在約300万束はいつでも輸出できる。韓国   は海苔に関して昨年の10月から総司令部と交渉を続けてきた。総司令部は韓国海苔の   輸出に原則的に同意し、唯一の問題は価格問題であると我々は感じている。一一時総司.   令部が一束60セントで輸入することに同意したという情報も(在朝鮮米軍政庁の)Po   wl’ey氏からあった。韓国政府が生産者に500万束の購入を約束したのはこの助言によっ   たものである。. 治安対策および総司令部が購入するという未確認情報を根拠にして500万束の買い上げを 生産者と約束したと韓国代表は述べたのである。.  総司令部代裏は3月5日付の経済科学局長からECA韓国使節団長への書簡く28>を再確 認した。それは、Po甫eyが貿易庁に海苔と韓国牛とを抱き合わせで輸出するという提案を 行い、貿易庁がこの要求へ賛同し総司令部に了承を求めた。この部分をBunceECA韓国 使節団長が誤解した可能性がある。総司令部は貿易庁の申し出を却下した。総司令部は海 苔購入を望まない、という内容だった。.  韓国代表は「韓国の海苔産業は日本の占領の結果であるので日本は商品を相当な規模で 購入する道義的責務があると繰返し」さらに次の追加理由を述べた。.   ①韓国は、現在の海苔産業の従事者を徐々に転換させる他の産業を育成する時聞を欲    していること。. 一59一.

(10)   ②日本には海.苔への敢求があること。それは現在日本で海苔産業が育戚されているこ    とで明らかである。.   ③韓国は全体計画において日本が韓国から購入する量の約2倍の購入を構想されてい    る。実際の需要や潜在的な利用のあ弓日本が相学な程度で韓国の商品を買わなけれ    ば、いったい韓国はどこで外貨のドルを入手できるのか。   ④貿易交渉合意の目的は大韓民国と占領下日本の間の.貿易量を拡大する.ことである。.    もし日本が韓国の対日輸出において相.当な位置を占める海苔の購入を望まないなら    ば、それは双方の希望に反することになる。.  3月12日の第3回全体委員会で韓国代表は、・海苔輸出の800万束への拡大と一束70セン トの価格(総額560万ドル)を要求したb総司令部代表は、前回再確認・した3月5日付け の書簡には1948年の春に一束36セントで合意したとあることに注意を促した〈29>。.  3月15日の第4回全体委員会で総司令部代表は、海苔は「奢移品と考えられ、高価で通 常の食糧供給計画でも輸入されない」と述づた。韓国代表が海苔は日本人の日常食品だと 反論すると、総司令部代表は国内生産が適当であると述べた。韓国代表は、韓国海苔は日 本海苔に比べて輝格.・品質ともすぐれていると宣伝した。.  しかし、本論文の最初に引用した新聞記事でも触れられていたように、韓国海苔の品質 は大きな問題だった。 『海苔の歴史』によると、1949年の5月半到着した韓国海苔3億5 千万枚に対して商社の販売申し込うが殺到したものの「品は莚包で管理が悪い上に、前年 や前々隼のノリなので変色甚だしく、見本とは全く違っている。(申略)販路を持つ問屋は、. やっとのこと・で売り逃げたが、韓国系の商社やノリには素人の商社等は販売先が見つから ず、(柵)大損害を受けて倒産する会社は六野に達した」という(p了76)《3ω。.  3月16日の第5回全体委員会で韓国代表は、韓国が日本から商品を買うためには海苔を 売って購買力をつけることが必要であると述べ#。総司令部代表は「海苔はBリスト(第 二級の重要性を持つ商品)に含まれることを等した」〈3D。これは韓国海苔の購入の意思. を暗に示したものであろう。実は交渉開始前の3月7日目経済科学局内部の書簡に、韓国 海苔の輸入を認める方針が示されていた。その理由は、①貿易庁からの海苔輸入のすすめ.  ②Bunce ECA韓国使節団長の固執 ③貿易庁が示した陶磁器と竹野の輸出による利益 だった(32>。.  3月17日の第6回全体委員会で韓国代表は海苔輸出の緊要性を述べ、 「総司令部代表が 800万束を480万ドルで引き受けることに同意するならば、対日輸出と引換に(中略)韓国は. Aリスト(第一一級4)重要性を持つ商品)による購入を貿易計画の期聞に3900万ドルから49 00万ドルに拡大する用意がある」と提案した。 「討議の後、総司令部代表は最高で1束45 セントを申し出る方針を了承したようだった1(謝。  3月19日目第8回全体委員会で韓国代表は、 「第7回:全体委員会で討議された貿易計画. では、韓国が日本の物資約4400万ドルを購入し代わりに日本への売却分は約2gqo万ドルの みで、うち海産物は400万ドル。これが韓国の置かれた状況であるく34>。もし総司令部代. 一60一.

(11) 表が対韓購入を150万ドル増やせば韓国は’対日購入を5000∼5300万ドルに増やすことがで きる」と提案した。韓国代表は「韓国の水産業は日本と米軍政庁によって育成されたもの であり、一この点に関して日本の責任は、韓国水産物市場の急激な悪化による打撃を緩和す. る程度で見逃されてはならない」と繰り返した。ここで、擁arquat経済科学局長と鄭恒範 韓国代表との協議があり、会議は小休止した。小休止のあと会議は再招集され下記の声明 が議長(Pickelle経済科学局貿易課長)から出された。 「協議において、韓国代表団の主. 張を基・礎に下記の合意に達した。韓国産海苔は480万ドルに増加する。価格はA級が一束 55セント、B級が45セント、 C級が36セントで契約される」<35>6  結局、 「日韓貿易計画1949年度日本向け輸出見積り(1949年3月22日付け最終草案)」. では、海苔はH類型商品(前記のBリストに当たる)に含まれ、No.1(前記のA級のこ とであろう)が48G万束で264万ドル、翼。,2(前記のB級のことであろう)が33G万束 で144万ドルとなった。H類型商品の計は476.9万ドル、韓国の輸出見積り総額は2929.4 万ドルである。また、韓国の輸入見積り総額は計4,868.7万ドルだった〈36>。.  第8回全体委員会で経済科学局長と韓国代表との協議が行われた前日の3月18日に出さ れたPickelle経済科学局貿易課長からMarquat経済科学局長への覚書があるく37>。その中. でPickelleは「長く厄介な交渉の結果、貿易課は韓国ですでに生産された海苔のいくらか を輸入することに同意した。それはやむなく売ることになるある種の輸出品や輸出の需要 のなし}他の国産品と引換に行う」とした上で、韓国側が合意できていない価格面での要求 を直接温arquatに訴えようとしていると述べた。韓国側の要求価格は1束70セントだが、. 貿易課としては1束45セント以上支払うことは考えていない。しかし、日本の貿易庁が1 東55セント以下の価格を勧めてきたこともあり、局長は韓国側に「一等品1束55セント、 二等品1束44(ママ)セント、三等品一束36セント」で引き受けると助言することを提案する. としている。このような事前折衝の上で第8回全体委員会での協議と合意が行われたので ある。. a日韓通商交渉の論議について  日韓通商交渉での海苔貿易をめぐる論議を通して、次の3点を指摘することができる。  まず、韓国側の要求が量的には全面的に受け入れられたことである。1948年11月末の商 工部長官の国会答弁では対日輸出の1948年度目標は500万束だった。通商交渉で最終的に 決着した800万束は、 〔表1〕で見る限り、1949年度の輸出実績では実現していない。韓 国の能力を越えた数値だったと思われる。 『経済年鑑 1949年版』 (朝鮮銀行調査部 19. 49隼)も「今般の協定は我が国側の要求を基準に作成された」と評価している(p38)。.  次に、韓国の交渉手法の強引さ.と固執である。第2回全体委員会で韓国側は3月のPowl ey氏からの情報により生産者と500万束の海苔購入の約束したと言うが、 『水産経済新聞』. によると、それよりもかなり前の1月に水産業会とすでに買い上げの契約を行っている。. 一6!一.

(12) 交渉に先立って既成事実を作り、それに固執して結局相手に認めさせようとする手法は19 52年1月の李承晩ライン宣布と,その後の.漁業交渉を思わせるものがある。.  最後に》韓国側が日「本の海苔購入義務の根拠として日本の植民地支配に対する責任を繰 り返し述べでいるこ・とである。.  この3こ口ついて、さらに考えてみたい。まず、韓:国側の800万・束の海苔対日輸出要求 である。1949年2月8日付『水産経済新聞五によると、水産業会は・「1941年から1%8年ま. での統計数字等を列挙して」水産物輸出の速やかな推進を関係当局に「強烈に要請する建 議書」を作成・したといつ。そして、1949年度対日輸出計画の800万束はちょうど1942年度 の対日移出・高にあたる。これは戦前における移出量の最高値である。少なくとも海苔生産 者にとつ.ては日本統治期の「経済的な結合」は絶たれてはならなかった。.  一方前述したように、日本政府と総司令部はユ948年8月には海苔を国内産でまかなう方 針に変わっていた。1946年の農林省と貿易庁での調査は「(朝鮮海苔の)年平均の生産高. は約10億枚。昨シーズン(1945年12月から1946年5月)には約5億枚。減少は日本から来 るはずの竹材の不足による。日本の海苔消費は約10億枚。昨シーズンの日本の隼産量は4. 億5千万枚。輸入の余地は5億∼5億5千万枚残っている」<38)としたが、このような状 態は過去のものになっていた。.  独立したにもかかわらず日本統治期の「経済的な結合」の復活を求める韓国と、・国内産 業育成の見地からも、・分離した以上過去の「経済的な結合」にとらわれたくない日本とい う、いささか奇妙な対比が見られたのが、1949年の日韓通商交渉.におげる海苔貿易問題だっ たといえよう。.  次に、韓国側の強引さと固執である。この背景にあった韓国の経済的状況を概観してみ たい。まず、次の〔・表2〕は『韓国経済概観』から抜粋した「戦後輸出入額表」 (So摯rce :Bank of Korea unit:wQn)である(p156)。. 〔表2〕 「戦後輸出入額表」 単位ウォン 輸出. 輸出入バランス. 輸入. 1945年. 70,898,000. 122,170,000、. (一)       51,273,000. 1946年. 47,099,992. 168,406,057. (一)     121,306,135. 1947年. 1,111,133,400. 2,088,125,206. (一)     976,991,746. 1948年. 7,175,746,619      8,857,457,216. 1949年. (一)   1,661,710,597. 11,266,548,124. 14,738,654,349. (一)   3,472,100,225. ユ950年 132,573,307,64ユ. 5,213,,322,218. (+) 27,35.9,985,423. 49,666, 124,502    121,626,974,387. (7)  72,160,849,885. 1951年. このように、南朝鮮.・韓国の外国貿易は対日米穀輸出が行われた1950年度を除いて大幅な. 入超だった。豊富な地下資源や発電力の大部分が北朝鮮にあり農水産物を除いては天然資. 一62一.

(13) 源に乏しいため、原料を輸出し消費財を輸入するという後進的な形態だったためと同書は 解説している(p154)。また、同書p163−p16・4の「戦後韓国輸出入品種別百分率」 (「資料.  韓国銀行調査月報」)によると、1950年度までは「食料山畠品」が輸出品の大部分を占 めた。次の〔表3〕 「輸出における水産物の輸出額と全輸出額に占める比率」は丁現代韓 国水産史』 p769−p770)から、 〔表4〕「商品別輸出構造(民間貿易 単位千ドル)」は 『韓国貿易史』 (社団法人韓国貿易協会発行 1972年 p226)から抜粋したものであ.るが、. この表が示すように、輸出に占める水産物の比率は異常に高かった。 〔表3〕 「輸出における水産物の輸出      〔表4〕 「二二別輸出構造      額と全輸出額に占める比率」   』     ・(民闇貿易 単位千ドル)」 1946年. 594トン. 69.5%. 1946年. 2,574. 80.1%. 1947年. 2279トン. 57.4%. 1947年. 6,787. 30.6%. 1948年. 5984トン. 60.3%. 1948年. 9,734. 68.5%. 1949年. 10921トン. 93.3%. 1949年. 『. 一.  さらに、 「品目別水産物輸出実績」 (水産史編纂委員会編『韓国水産史』韓国水産庁 1968年 p676)によると、韓国の水産物輸出における海苔の占める比率(金額)はかなりっ. 高かったようだ。・1946年度が64%、1947年度が64%、1948年度が36こ口なっている。1949 年度と1950年度は大幅に低下したが、それでも17%と21%だった。  以上のような韓国の経済的苦境、および対外貿易におけ’る水産物、とりわけ海苔の重要 性が韓国の強硬な姿勢の背景にあったと考えられる。  なお▽『韓国経済概観』の「戦後相手国別輸出入額百分率」 (「資料 韓国銀行調査月. 報」とある1)によると、貿易相手は1950年度からは香港・中国にかわって日本が輸出輸入 とも主要相手国になった(p166−p167)。.  最後に、韓国の日本に対する植民地支配の責任追及の姿勢である。筆者は1946∼49年の 『水産経済新聞』の日本関係記事を分析して、日本統治終了後の南朝鮮・韓国水産業界に おける「日本敵視・排除」と「日本利用・必要」の論調の二重構造を指摘したく39>。例え ば海苔対日輸出については、次のような主張があった。    解放前の朝鮮漁業用物資は全需要量の約五六割程度は日本その他属領から輸入され、   その輸入が途絶して現下朝鮮の漁業用資材が逼迫する窮境に置かれている事実がある。   (中賂)朝鮮の豊かな海苔を日本に輸出してその交易条件として朝鮮に欠乏する漁業用物.   資を輸入するのがもっとも合理的で双方に有利で、いわゆる共存共栄の理念を具現す   るできる唯一の道である。付言すれば乱彼我の信義を絶対厳守して成果を上げるべく   相互に努力しなければ’ならない。(申略)我々は相互闇の国際慣義を絶対堅守して恒久的.   平和交易の万全を期すべく最善の努力をせねばならない6   (「海苔は平和交易の前言 枯渇した漁業物資輸入に大きな』役割」 1947年5月4日). この記事では、海苔輸出市場としての、そして漁業用資材供給地としての日本の必要性が. 一63一.

(14) 強調されている。日本との「信義の絶対厳守」や「相互間の国際信義」 「平和交易」 「共. 存共栄」といった主張すらある6筆者はこれを「日本利用・必要」の論調と呼んだ。当時 日本漁船の操業を厳しく規制していた総司令部によるマッカーサーライン〈4ωの改定、日 本漁船の操業漁区拡張を求めた日本の漁業関係者と政府の動きに、 『水産経済新聞』は激 しく反発していた。このマッカーサーライン問題や日本による植民地支配の責任追及問題 を中心に主張された「日本敵視・排除」の論調とは対照的な即象を、 「日本利用・必要」 の論調は与:えるものだった。しかし、この「日本利用・必要」の論調をいわゆる「親日」. と誤解してはなちない。日韓通商交渉では、海苔輸出問題で自らの意図通りにならない日 本に対して、道義的な責任追及の声が韓国側から上がった。 「日本敵視・排除」の論調と 同様、 「日本利用・必要」の論調も韓国の日本に対する一方的な要求を伴うものであり、. 日本の立場や主張を理解した上でのものではなかったのである。 丁韓国海苔のその.後.  1949年3月の日韓通商交渉では要求を認めさせたものの、韓国は日本政府と総司令部の 海苔輸入に否定的な姿勢に対応せざるをえなくなった。日韓通商交渉を評価して『経済年 鑑 1949年版』は「我が国の重要輸出品である海苔をはじめとする海産物が緊要でない物 資だという理由で拒絶されることは漸次明白になったので(申略)海苔の生産制限とともに、. 海産物の海外市場を日本外に求めねばならない」と記す(p38)。1950年3∼4「月と1951年 3∼4月の日韓通商交渉では韓国側の海苔輸出・への意欲は1949年よりも明らかに低下して いた。1954年度から、前年度には300万束近く∫あっ、た韓国海苔輸入を、日本政府は国内生. 産者の圧力で年間100万束に輸入を制限した。本論文冒頭の『水産経済新聞』の記事の表 題にあるカキ養殖への転換は、1957年からの「海苔転業牡蠣養殖五ヵ年計画」で推進され ることになるく41>。・.  戦後の日本国内の海苔消費市場の拡大(戦後まもない時期の10億枚が1960年代には40億 枚近くにまでなっていた)、1963年度の日本海苔の大凶作と1965年の日韓国交正常化は、. 韓国海苔業者と日本の「経済的な結合」を再現するかに見えた。1963年5月の日韓会談の. 席上で海苔の買付け増加の要求が韓国側から出された。1965年3月、同年12月、1966年4 月の三次にわたる日韓貿易会談において、韓国側は一貫して日本の海苔輸入の自由化、な いしは5億枚(500万東)の輸入と関税の軽減を要求した(『海苔の歴史』 p800−p805)。. この結果、ユ964年度には2億枚(200万束)’、1965年度には2億5000万枚(250万東)、. 1966年度には3億7000万枚(370万束)が対日輸出され、1969年度の対日輸出額は5億枚 (500万束)を越えたのであるC『浅草海苔繁盛二一海苔の五百年』1p179)。  日本人の技術指導も再開された。2000年夏、、麗水大学(旧麗水水産大学)の図書館で筆 者は『韓国海苔に対する意見 1968.3 中島貿易株式会社 中島嘉隆』と題された小冊子. 一64一.

(15) を見・づけたσ赤く変色したパヅク,入り見本海苔と1ともにあったその冊子の著者の中島嘉隆. は、海苔の技術指導め功績により韓国水産業協同組合中央会く42)から1966年に日本人初の. 感謝状を授与されたと記されていた。冊子には次のような記述があった。.    第二次世界大戦前、韓国に於ける海苔生産量は日本の生産量より多く、特に韓国南   海岸一帯は有数の海苔漁場として知られ、また養殖法も当二時は蝋番進歩的な方法を持つ.   て行い、かっ研究も活発に行われ、日本に比し養殖・加工共に一歩進んだものを持つ   ていた。日本敗戦と同時に韓国海苔の需要地を失い、時代と共に二十年も韓国宙内需   要をまかなう僅かな生産を余儀なくされ、その養殖法も何等の発展を見ず、わ・う国内   向けの嗜好に合わせ、薄く加工され現在・に至っている。.    一方敗戦後の日本た於いては、r・韓国より帰られた富士川\金子両博士を始め海苔研.   究の権威者の帰国に依り、飛躍的に養殖法の改良が行・われ、僅か十数年にして40数億   枚の生産量に達するようになった。    しかしながら、(申略)ここ数年は不作続きで海苔価格も異状に高騰し、再び庶民の口.   に入りにくくなりつつある。ここに生産量の低下と反対に、需要を増す日本海苔業界   の苦悩があり、同時に韓国海苔生産に対する今後の期待が待たれるである。現在韓国   に於ける海苔生産業者は約6万世帯とも言われ、日本ρそれとほぼ同数である作付面   旧約20万棚、生産量は約10億枚といわれる。ここ数年を経ずして日本はこの全量或い   はそれ以上の海苔を必要とすることは間違いない。その際、現在の養殖及び加工製造   の方法で果たして可なりや? という問題が出て来る。私は∴日も早く養殖加工法の   改良を提言した.いのである。. 日本の海苔需要の高まりに応じるには竃韓国産海苔の輸入が必要不可欠であり、そのため に日本め海苔養殖技術の移植による韓国海苔の品質向上を必要性を述べている。上記引用 文中の、日本統治期には朝鮮の海苔養殖技術は日本国内のそれよりも進んでいだという評 価は、当時の韓国人の漁業専門家の評価でもあった〈43>。日本の朝鮮統治終了によって絶 たれたのは「経済的な結合」だけではなかうためである¢.  しかし、海苔たおける白韓の「経済的な結合」は結局再現しなかうた。韓国内の海苔需 要が増加したためである61966年に書かれた岡本信男「韓ノリ地帯「・』・郡外漁協組訪問記」. に「全国の生産量は平年作で12ん13億枚とされているdそのう1ち9.1億枚を輸出向として 製造するわけだが{このうち輸出適格品が』4,5億枚く残り5億枚程度が不合格品となり、 在来品と称ずる3億枚とともに国内消費に向けられる」という報告があるく44>。194σ年代. 後半のGHQ/S(>AP文書ではほぼ無視された韓国罷め海苔需要が、20年ですでにここ まで伸びていた。その後、特に1970年代後半の国内需要の急増により、−韓国政府は1978年. についに輸出禁止措置をとった。それ以後、海苔の対日輸出は行われていない(『浅草海 苔繁盛記一海苔の五百年』p178)〈45>。現在、韓国の一人当たりの海苔消費量は日本の2. 倍と言われ、土産物として買い求める日本人観光客にとって、海苔は韓国の伝統的な特産. 一65一.

(16) 品といった印象がある。養殖海苔は、生産から消費に至るまで、韓国に根づいたのである。. 8結論  最後に、.1949年3月の日韓通商交渉を中心とする韓国海苔対日輸出問題について、簡単 にまとめてみたい。.  吉田敬市は臼本統治期の朝鮮における海苔養殖業発展の要因を8点挙げているく’6)。   (D海苔養殖に適した自然環境。.   ②総督府当局の熱心な硬究指導と漁民の努力。   (3》小資金に基づく朝鮮人の半農半漁的な家族労働による経営に適していたこと。   (4}巨額の補助金が投じられたこと。   (5}日本という安定した市場.   ⑥生産販売組合を結成し、統制を実施した。   (7}厳格な検査を実施し品質の向上を図った。   (8)収益.率は平均米作反当たり収入よりもはるかに有利だったこと。 日本の朝鮮統治終了によって、(D(3)(8)を除く要因の継続は危機にさらされた。特に194&年. 8月の大韓民国成立とほぼ同時期に決定された、日本政府と総司令部による韓国海苔輸入 中止という方針は韓国の海苔業者に大きな衝撃を与えた。1949年3月の日韓通商交渉にお いて、韓国側は韓国海苔の対日輸出の受入れを総司令部に執拗に要求し、日本統治期の年 間最大輸出量に相当する量の海苔輸出を1949年度の「日韓貿易計画」に明記させることに 成功した。しかし、日本政府と総司令部の海苔輸入拒否の方針に直面した韓国政府は、海 苔からカキへと養殖品目の転換を計画せざるをえなかった。そして、海苔の韓国内の需要 も着実に増加していった。.  1949年3月の日韓通商交渉において、日韓の「経済的結合」再現を主張した韓国側の姿 勢は注目に値する。しかし同じ1949年に、マッカーサーラインを越えた日本漁船の愈捕時 に韓国船から銃撃を受けて日本人漁夫が3名死亡していることを見逃してはならない〈47>。. 日本の立場や主張を理解しようとせず、自己の主張をひたすら日本に押しつけようとする. 点において、海苔輸出問題とマッカーサーライン問題における韓国の対日姿勢は共通して いる。建国直後の韓国は、第二次世界大戦で疲弊した状態での日本からの独立、そして南 北分断という厳しい状況下にあった。当時の韓国にとって、日本とは・一一方的に自己の要求. を突きつける相手であり、自国の利益を性急に要求する対象だった。共に歩むべき対象で はなかったのである。. 一66一.

(17) [註]. 〈1>韓国国立中央図書館所蔵 〈2>吉佃敬市『朝鮮水産開発史』一(朝水会 1954年.)・p315−p316 <3> 『韓国水.旧史』 (韓国.水産庁 1968年)p5.45 〈』4>前.掲注〈2>『 垂R14. 〈5.〉丁はしがき」に「本調.査は.4ユ年度在外公・館.経済委託.調査の一環として、.在韓国.日本.   』大使館が、韓国比較経済.研:究所(代表幹事李燗鉱.氏).に委託調査せしめたものであ.    る」とある。 〈6> “Request 己for infor皿ation on・Import of Laver”  29 Dec.支945 (RG331,醤ational.   Archives and Records Sefvice .以下kG331と略記する。). 〈7>..朝鮮水.産業会は1944年に設立された統制団.体。.1946年の軍政法令第90号で水産業代.   行機関であることを再確認された。・1948年に韓国水産業会と改称したb. 〈8>中央水産業会は1943年に設立された統制団体ゐ1949年に解体するが、この当時は日   本の水産物の配給業務を.一元的に行っていだ。 〈9>『GH.Q日本占領史52.外国貿易』日:本図書出.版センター 1977年) (p66)。 〈10> 盟E麗ORA聾DU阻 FOR: 琶ajor Pickelie, Executive Officer 13 June 1946..                           ロ   ∫Aquatic Pro(lucts #4,Laver,Seawe6ds., ExportゼKorea愉 Dec.1947一盟ay.1948.RG331 <11> “1血portation of Laver. fro皿 Korea” 28 Jhne 1946, Ibid.. 〈12>.前掲注〈9> p63.. 〈13>前掲注.〈9Σp29r 〈14> OUTGOI聾G HESSAGE.FRO且 SCAP.TO CG, USF.IK 16 Hair 1948,.   Aq姐atic Product白 #4, La寸er,Seaweedsiεxport,Korea.Dec.1947一懸ay,1948 RG331 〈15> FRO猛 CG,{JSFIK TσSCAP.11 Apr 1948 1bid ・. 〈16> “Offer of Kor6an Laver From USA盟GK田Liason Office To ESS/FT”.4 Hay 1948,.    王bid <17> Foods Bfanch  KOREAN LAVER  31 Hay 1948, Ibid... <18> ECONO盟IC AND SCIENTIFIC SECTION APq 5qO. 5 Karch 1949   Korean .Trade Conβference,10 March to.22 Harch 1949.RG331 〈19.> Answer「to yo心r.questionLof 1.4th August 1948,regardingb the “lmportation of.   Korean Laver in 1948” 27 Aug 1948..   Aquatic Products #4,Laver,Seaweeds」ExpQrt,.Korea  Dec.1947−Hay。1948 RG331 <20>HE:翠ORAND曜FOR・F・E・Pi・k・1.i・・Chi・f F・・eig・T・ade and C・・merce..Di・i・i・・..   ‘Korean Laveガ  .27 Aug 1948  1bid 〈21> 『経済年鑑.1.9.49.年.版』1−p30. 〈22> 「マッカーサー」は韓国語の発音では「メッカト」が近い。略.して「メック」と韓   国側資料は記さ.れているが、本論文では「マ.ヅク」と記述する。・. 一67一.

(18) 〈23>国史編纂委員会『.資料 大韓民国史 1948年1i.∼12.月』 p344 〈24> 「韓国側代表.は、鄭恒範駐日代表部公使と企.画虜、舜務..「部..、..ミ..商工部の官僚、.’..S.C・A      P側代表は主に経済科学局と.外.交局の.官僚で構成.さ.れ.で.いだ.ぐ・太..由修「..大..韓民.国の      樹立と日本…日韓通商交渉の分析..を.中心1に..1.」朝鮮二学報..』... 473』i.9.99年:10.月). 〈25>ECA(Econo田ic Coopera.ti.on Adm:inistration経済協力局).は「1948年経済協力     .法」に基づいて設立され’.た、..米自大.統領直属の.政.府.機関1であるb1949年.1.月にはE      C.A.の出先機..関が.ソ..ウルに..置か.れた.。..似七は『昭.和..27年度■日韓.貿易.名鑑』.(社団.      法人 日韓貿易.協.会)による(p.223)。 〈26> “REPLY TO AODRESS OF WELCOHE. by II『is Excellency,CHU.NG、.耳an−Pu阻”     Korean Trade Conference,1.0.琶ar・6h’七〇.22 Harch 1.9・49.・. RG331 〈27> .“Report of:scheduled meetin拷  Secbnd. Heeting. of.:the C窃π職i.重..tee.of t難b .胃hole.     ll Harch 1949”  Ibid. 〈28> ECONO慧IC A冠1) SCIENTIFIC SECTION・APO 500 % 5 慧とrch.194.9.     Koreall Trade Con.ference,10 慧arch to.22 題afCh..1949. RG331 〈29> “.Report of.schedu.led 皿eetin9  11hird・琶eeti.ng of. the.1. Co血皿ittee of..the Whole』.     12 冨arch.1949”  Ibid 〈30> “Repoτt of scheduled me「eting  Fourth 墓ee.ting bf・.the. Commi.ttee of the Whole     15 盟aセch 1949”  Ibid.     実際には前.年1948年5月に、4月8日に.入荷した韓国産海苔は「砂や泥で非.常.に汚     れておりほとん.ど.食用に適さない。(輔)この品目を配給物.資に..することはでぎない,」...      と貿易庁が経済科学局に報告した実態.があっ.た。     (“Report.oh the Impor.ted Korean Seaweeds(Aonori)” .1.5 慧ay二』1948   Aquatic Pr       oducts #4,Laver,Seaweeds,Expor.t.,IKorea  Dec.1947一題ay.1948. RG3.31). 〈31> “Report bf schedu1.ed 皿eeting”.Fifth’慧betin:g df the.Co田m.it・.tee of the .賀hole.     :t6 Harch 1949”.     Korean Trade Conference,10 慧arch. to.22 Haτch 1949... RG331 〈32>慧E慧ORANDO盟FOR・琶r.暫.H・1・‘.畠 ユ・・ean L母ヤer”..     Aquatic Product忘 #4,Lave1一,Sea曾eeds,Expor.tヨKor6a  RG331 <33> “Repor.t of scheduled 血eetihg  Sixth 琶eeting. of the Commj.ttee of the.暫hQle     17 Harch 1949”     Kbrean Trade Conference.,10 慧arch to 22 Har.ch 1949 . RG331. 〈34>「第7回全体委員会の報告にはこの.表はない。・.第6回.全体委.員会.め報.告の付表で.は.韓.     国の対日.輸出の計は2了,552,186ドル、対日輸入の計.は42,511・,292ドルになっている。 〈35> “Report of sch.eduled 皿eeting  E{.ghth 慧eet.ing. of ..th・e=.Commit.t6e of .the W・ho16.     19 Harch 1949㍗     Koreall Trade Cohference,10 Karch .to 22 Hafch 1949’. .RG331. 一68一.

(19) <36> FINAL I)RAFT.   “E$毛imate:of Sales by lぐorea to Occupied・Japan l Apri1 1949−31 蟹arch髄’1950”.   凹EstiInate of Purchases by Korea from Occupied Japan l Apri1 1949−31 琶arch    1950”  1bid 〈37> HE蟹ORANDU慧 FOR:Chief,Economic and Sci母ntific Section “Korean Laver and   Sal土ed FLish”  18 慧arch 1949   王b{d. <38> 琶EHO韮∼ANDU猛 FOR: 匿ajor Pickelie,Executive Officer 13 June 1946.   Aquatic Products #4, Laver, Seaweeds,Export,Korea  Dec.1947−Hay.1948 RG331. 〈3?〉「臓漁業問題の研究一輯晩ライン嘩点をめぐ・て」(嘲鞭研究会会報』    140 2000年6月30日) 〈40>マッカーサーラインとは、米国太平洋艦隊司令官が1945年9月27日付の覚書80号で.   許可した日本漁船の操業水域。同年末に所管は総司令部天然資源局に移った。1946   年6月22日付覚書(SCAPIN)第1033号で東シナ海の操業水域は2倍に拡大されたが、   日本の漁業者は漁区拡張運動を総司令部に対して行った。特に1949年前半は運動の   高揚期であり、韓国は激’しくこれに反発した。 〈41> 『韓国水産発達史』p446. 〈42>水産業協同組合中央会は全国の水産業共同組合の中央組織。朴正煕政権の登場後、.   漁業組合などの旧組織は1962年に水産業協同組合へと改変されていた。 〈43>鄭文基「韓国海苔の展望(1962.輿三水研)」 (ピ論文随筆集 島山鄭文基博士古.   希紀年』韓国水産技術協会 1968年に収録) 〈44> 『漁業経済研究』14−4 (1966年3月). 〈45>ただし、三島の水産指導所で入手した「海藻類養殖現況iには「1995年産対日輪出   20万束再開」とある。 〈46> 前掲注 〈1>  p324−p3250. 〈48> 『日韓漁業対策運動史丑 (日韓漁業協議会 1968年) p442. 一69一.

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参照

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『台灣省行政長官公署公報』2:51946.01.30.出版,P.11 より編集、引用。

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