近世の公家、公家の家来、地下官人についての研究は1980年代以降に本格化して、現在にお いても進んでいる。朝廷に仕えた女性についての研究もある。そうした中、まだ研究が進んで いない近世朝廷内の大きな集団として口向役人がある。口向役人は天皇や女院の衣食住の生活 全般を支える役人であった。最近、ある論文が1774年(安永3年)に発覚した口向役人汚職事 件に関連して彼らの存在に注目した 1。他方、ふるいものでは大正年間の下橋敬長の講演をまと めた『幕末の宮廷』 2がいまでも口向役人についての基礎的な情報源となっている。また、奥野 高広 3も戦中に若干の情報を付け加えている。 寛永年間(1624~1645)から禁裏の口向が御附武家の配下に置かれ、後に仙洞御所の口向が 院御附武家に監視されるようになった。中宮、大宮、准后、女院、女御の御所に幕府の役人は いなかったが、女御等の生家の家来が口向役人と共に配置された。 下橋 4によれば、口向役人は身分的に士分と仕丁の二つに分かれるが、士分はさらに二つのグ ループから構成されていた。すなわち、中詰25-30家と使番134家である。そしてこれら士分の 下に、下部・小者の仕丁357人(幕末期)がいたという。 新たな史料を調査して、その実態に迫りたい。
近世中後期における朝廷の口向役人
AbstractMuch research is done in the last 30 years about the imperial court of the early modern period, on the relation with the Bakufu, the court nobles, the lower officials and there is also a research about the ladies in waiting. However, there is still no research about the last big group of over 500 people, the servants of the imperial household (kuchimuki Yakunin).
In this report, I am showing the pays, appointments, promotions, posts and line of succes-sion of the leaders (toritsugi), the superior group (nakatsume), the servants of samurai ranks (tsukaiban), and the plain servants (shichō) as an impulse for further research about this side of the imperial court.
スウェン・ホルスト
1 佐藤雄介(2016)「口向役人不正事件と勘定所」『近世の朝廷財政と江戸幕府』東京大学出版会、73-93 頁。 2 下橋敬長(1995 8)『幕末の宮廷』東洋文庫。以降、下橋 ... 頁に省略する。 3 奥野高広(1944)『皇室御経済史の研究後編』畝傍書房。以降、奥野 ... 頁に省略する。 4 下橋144-184頁と307-315頁。1.士分 1.1.下橋の報告 下橋によれば士分は本来一つのグループであったが、徐々に二つのクループに分かれた 5。 1)中詰:25~30家の中の12家は執次を勤めることができた。中詰が就任できた職は執次、 賄頭(定員:幕府の御家人1人)、勘使兼御買物方(定員:幕府の御家人2人と中詰2人)、御 膳番(定員:7人、毎日2人ずつ出勤)、中詰(15歳以上、三つの番組からなり、それぞれが3 日に1日出勤、すなわち、三番で勤める)である。親子が同時に役職に就くことはできなかっ た。役職につかないと次世代は使番に降格になった。 執次を務める家は勢多、町口、小佐治、沢村、井上(滝口)、渡辺(内竪)、土山2家(源氏 と秦氏)、渡辺、鳥山(4家は近衛府 6)、東辻(内舎人)、虫鹿(右大史)であった。 2)使番:134家の中には、官職を兼務する49家、板元15家、小間使3家が含まれた。使番の 職は修理職(本役2人、常加勢13人)、賄方(定員:5~6人)、鍵番(定員5~6人、三番で 勤める、50~60歳の人)、奏者番(定員4~5人、毎日一人ずつ出勤、50~60歳の人)、使番番 頭(本役2人、常加勢1人、3番で出勤)、そして副組長の筆頭がいた。日常の食事を調理する 板元と小間使は身分的には使番であったが、専門の技能が必要であったため、使番の中で別の 集団を構成し、板元吟味役(定員3人)と板元(板元、板元表掛、板元見習、後者は役料なし) がそれぞれ三番に分かれて出勤した。親・子・孫三代で勤務できたが、次男、三男は勤務でき なかった。小間使も三番で出勤した。 1.2.士分の収入 士分の収入は知行または切米と扶持米、役料、手当から構成された。 禁裏御所 役職 家数 7 役料 8 1人1日量 扶持高 9 切米高 10 執次 (7)10 (11) 5石 7合 2人 22石 x 1、20石 x 1、 13石 x 6、10石 x 3 8合 1人 賄頭 1 5石 勘使兼買物使 4(5) 3石(廷臣) 7-8合 2人 5石 5 執次を勤めた検非違使の勢多章甫は「京都府士族明細短冊」に自分が「官人・使番」であったと書い ていた。 6 府御随身から近衛府に改名された。時期にかかわらず近衛府の言い方に統一する。 7 家数の後の括弧は下橋のデータ、真ん中(括弧なし)は奥野高広『後室御経済史の研究』1944、後の 括弧は奥野401-405頁からのデータである。 8 下橋の情報により構成した。奥野(342-347頁)によれば鍵番の役料は2石であった。幕臣は朝廷から 役料など受けていなかった。
御膳番 5 3石 7-8合 2人 5石 中詰 (23) 15 7-8合 1人-2人 16石 x1、13石 x1、10石 x1、5石 x10 (16) (13) 3 5合 2人-3人 修理職 (3)4 3石 7-8合 2人 (知行高9石)5石 使番頭 3 3石 5合 3人 5石 賄方 (6+1)2(1) 3石 7-8合 2人 5石 吟味役 2 3石 7-8合 2人 5石 板元 13(4+見習11) 3石 7-8合 2人 5石 鍵番 6 3石(2石) 7-8合 2人 5石 奏者番 4 7-8合 2人 5石 花壇奉行 2 3石 7-8合 2人 1 5合 3人 日記役 4 役料2石 7-8合 2人 5石 (修学院御茶屋番) (2) 使番(初めて鳥飼)(40+10)84(14) 7-8合 2人 5石 小間使 (4-3)1 6合5勺 2人 仙洞御所 11 役職 人数 待遇 執次 4 役料8石1人扶持 勘定頭 1 役料5石1人扶持 勘定 3 御膳番 3 役料3石、中詰より 中詰 7 切米5石3人扶持または2人扶持、見習2人扶持 修理職 3 役料2石、賄から転任、常加勢両人役料2石、1人使番、1人日記役 から転任 賄 4 使番頭・鍵番より、役料3石 吟味役 2 役料5石 板元 2-3 2-3石、無足見習4人 鍵番 6、加勢2 切米5石 奏者番 (4)-5 切米5石2人扶持 日記役 (2)3、常加勢1 役料1石、使番から 使番 (24)約20 5石2人扶持 小間使 ( 3人+1人見習 (息子))2-3 切米4石5斗2人扶持 (修学院御茶屋番)(1) 9 慶応年間のデータである。奥野401-402頁。 10 寛政年間のデータである。奥野403-405頁。 11 奥野549-553頁、括弧付きは下橋の記録であり、それは1830年の仙洞御所の口向役人のリストからの異 なる情報である。
大きな知行を受けた役人は役料を受け取らなかった可能性がある 12。 史料 13 御所々役人へ毎 御手当壱軒 禁裏御所 仙洞御所 一 銀五枚 取次 見習とも七人 取次 見習とも四人 一 金五両 勘使買物使兼弐人 勘定頭 勘定三人 一 金四両 修理職常加勢とも三人 修理職 上ニ同し 一 金四両 御賄 六人 御賄 四人 一 金三両 吟味役 弐人 吟味弐人 一 金弐両弐分 板元 見習とも五人 板元三人 一 金壱両壱分 仕丁頭 五人 仕丁頭 三人 一 金壱両弐分 勘使帳役 三人 勘定帳役 三人 一 金壱両弐分 御賄帳役 三人 御賄帳役 三人 一 金壱両壱分 御清間見回り 弐人 一 金壱両壱分 御春屋見回り 弐人 一 金壱両 勘使下 六人 勘定下 四人 一 金壱両 修理職下 弐人 修理職下 弐人 一 金一両 御賄下 五人 御賄下 三人 一 金壱両 奏方 八人 奏方 六人 一 金二分 山科 八人 御輿山者兼 八人 一 金二分 御春屋者 三人 山科 五人 一 金二分 山ノ者 六人 大宮御所 准后御殿 一 銀三枚 取次 三人 取次三人 一 金四両 勘定 壱人 一 金三両 御賄 三人 賄 三人 一 金壱両弐分 板元 三人 板元弐人 一 金壱両 仕丁頭 三人 仕丁頭 三人 一 金三分 奏方 弐人 奏方 弐人 御手当御方六月役儀被仰付候得共御手当被下、七月ニ候得共不被下候事 12 勢多家は五代の間「給禄無之」であった。相曽貴志(2018)「勢多章甫と勢多家関係図書」『書陵部紀 要』第69号、80-99頁。 13 「都廼枝折」、筆者が所蔵する幕府の勘定奉行所の役人と思われる吉川等の2冊の記録である。21㎝x 14.5㎝ 66丁 30丁。
七月役儀差免候へハ御手当被下六月ニ候得共、不被下候事 御入用方父子勤ニ候へハ忰ニハ御手当不被下 役職に就いた口向役人には幕府から手当が支給された。幕府は禁裏御所と仙洞御所を同等に 扱い、大宮御所や准后御所とは格差を設定した。但し、長橋局等の女官の手先とみることがで きる役人(御膳番、奏者番)はここに含まれていなかった。 史料 14 一 今日越前福井少将の本成官銭壱人宛五百二十五文ツゝ頂戴詰所エ御礼申上之 公家の家来のように務める役人もいた 15。口向役人は公家の家来団に何らかの形で所属し、勤 務していたことを思わせる。役人は大名の官物の一部を受けた。後は諸御所から褒美等をうけ たが、逆に役人の方からも鯛等を献上した。 1.3.「雲上明覧」の分析 「雲上明覧」 16という毎年発行された公家鑑のような書物に、口向役人が掲載されている。口 向役所の記録ではないので、間違いなどもありうる。しかし朝廷の御用商人や諸藩の使者の情 報源であったので、出版者は正確を期するように努めたであろう 17。1689年から形式が確立し ている。始めは取次だけが掲載されていたが、次第に中級クラスの口向役人も掲載されるよう になった。初期の頃の「雲上明覧」が少ないので、継続的に構成員を把握することが難しい。 しかし、残っている「雲上明覧」が徐々に多くなるので、細かい構成員の変化を年度刻みで把 握できる。「雲上明覧」を調べることで、幾つかの発見があった。 ①口向役人の人数 18 禁裏御所 女院御所 准后御所 宝暦13年 1763 御執次衆賄頭頭 6 御執次2 御勘定方 3 御執次1 御賄方 33 御勘使 3 御賄方御膳番兼役 3 御鍵番 2 御買物使 3 御鍵番 2 御使番 7 14 筆者所蔵「中詰役 出勤約目次」宝暦10年(1760)6月12日、25丁 25㎝ x7.5㎝。 15 宮内庁書陵部「禁裏執次所日記」明和4年(1767)2月11日に、小間使であった高坂伊織が姉小路殿 と関東御下向するために御暇を願ったとの記録がある。 16 別に明記していない場合、深井雅海・藤實久美子編(2009-2014)『近世公家名鑑編年集成』全26巻、 柊風舎、を利用した。 17 例えば三沢孝和は「地下家伝」によれば1736年に死去したが、1737年の「雲上明覧」まで載っていた。 18 筆者所蔵の「雲上明覧」により構成した。
御膳番 5 御修理方御使番兼役 6 御板元 2 御賄方 6 御板元 2 御修理職 3 吟味方 3 御板元方 9 御鍵番 8 御奏者番 4 52 17 17 合計 86 文化6年 1809 禁裏御所御執次衆 8 御執次衆仙洞御所 4 御執次衆中宮御所 3 賄頭頭 御勘定頭 1 御勘定 1 御勘使御買物使兼 4 御勘定 2 御賄 3 御膳番 5 御膳番 3 御鍵番 2 御修理職 3 御修理職 3 御使番 12 御賄方 5 御賄方 4 御板元 3 吟味方 1 吟味方 1 御板元方 13 吟味方 3 御鍵番 6 御鍵番 5 御奏者番 4 御奏者番 5 49 31 24 合計 104 慶応2年 1866 禁裏御所御執次衆 8 御執次衆准后御所 3 御賄頭頭 1 御賄 3 御勘使御買物使兼 4 御修理職兼御鍵番 3 御膳番 5 御奏者番兼御使番 7 御修理職 3 御板元 2 御賄方 6 吟味方 3 御板元方 19 御鍵番 6 御奏者番 4 御使番頭 3 62 18 合計 80 勤務する上部の口向役人の数は時代と共に変動している。各御所の格付けにより人数が変わっ たが、禁裏御所に仕える役人の人数も変わっている。仙洞御所は格が高かったので、仙洞御所 が開設されている時には全体の人数が大幅に増やされた。
②安永の朝廷汚職事件以前の幕府役人の存在 徳川家の娘であった東福門院の入内から、徐々に幕臣が朝廷内の役につけられるようになっ た。まずは禁裏御所の御附武家(1643)、その後さらに仙洞御所にも配置された。そのほかの江 戸勘定奉行の役人は安永朝廷汚職事件(1774)の後に配置されたというのが通説である。 しかし幕府派遣の矢部家がすでに1686年から1730年まで2代にわたって44年間禁裏に勤めて いた。例えば矢部正定は1686年から1730年まで御料理方頭、1696年から御膳頭兼執次として勤 務した。その息子の矢部正相は1711年ごろから1713年まで執次見習となり、1719年まで執次で あった。彼も御膳頭を兼任した。彼らは2代にわたって禁裏御所に勤めた幕臣であった。さら に高浜勘解由は1691年から1716年まで朝廷の賄頭となり、後に執次も兼務した。その後任であっ た大瀬勘解由は1719年から1726年の間、禁裏御所の賄頭を務めた 19。 一般的には安永汚職事件以降、幕府は口向をより強く監視するため役人を送り込んだと言わ れている。しかしそれ以前に、44年間に亘って、すでに幕府の役人が口向の重要な役を務めて いたのである。 ③構造改革 1755年から66年の間に、奏者番>鍵番という順番から、鍵番>奏者番という順番に変わった。 1775年から76年の間、御賄方>御修理職という順番から、御修理職>御賄方という順番になっ た。両方とも役人が大幅に刷新されたわけではないが、御賄方から、修理職に進むルートが想 像できる。 ④同役の役人の順位 新しく任命された役人は序列の最後に並び、勤務年数や先輩の退役とともに順位を上げるの が基本である。しかし、中には上位者を追い越す例外もある。その人事の真意については改め て考えなければならない。 ⑤住まい 「雲上明覧」には多くの役人の住所が記載されている。事前の連絡等を可能にすることが目的 であったと想定できる。これを使って役人が多く住む地域を特定できる。 塔之壇 上賀茂 百万遍屋敷 1763 3 13 6 1809 5 14 6 1866 8 8 11 基本的には上賀茂の社家が朝廷の役人(労働力)のプールであった。仙洞御所や大宮御所が 19 「先役高濱石見義百俵四十石之積ニ被下候間、勘解由御切米も先格之通百俵四十石被下候様 ...」岡田信 子[他]校訂(1988)『京都御役所向大概覚書 上巻』、162頁。
開かれたときに多くの上賀茂の社家が朝廷に勤務したのである。下鴨神社や他の神社には例を 見ないほど多くの上賀茂の社家が朝廷に仕えていた。後には百万遍屋敷が役人共同住宅地とし て重要になった。そして江戸後期に塔之壇が役人街として成長したといえるであろう。 1.4.禁裏の執次 「雲上明覧」には17世紀から執次役人の情報が掲載されているが、17世紀の80年代まで「肝 煎」と言われていた。「雲上明覧」を読むと執次に関するいくつかの論点が見えてくる。 1667年から1869年の間、77人の禁裏執次 20が掲載されている。土山家(源氏)8人(171年 間)、木坂・町口家 217人(157年間)、渡辺家(内竪)6人(93年間)、勢多家6人(合計85年 間勤務)、小佐治家5人(83年間)、土山家(秦氏)6人(79年間)、虫鹿家3人(79年間)、沢 村家6人(58年間)、鳥山家3人(52年間)、渡辺家(近衛府)6人(49年間)、東辻家2人(36 年間)、高屋家2人(28年間)、井上家2人(17年間)、栂井家3人(12年間)、南大路家2人(4 年間) 「地下家伝」で調べてみると、62人の就任年齢が把握できる。平均すると37.9歳で執次となっ ていた。60歳以上の就任例を除く56人の平均年齢は34.4歳である。そのうち30歳以下で就任し たのは16人であり、5人は1708年から1830年の122年間、11人は1830年から1866年の36年間に任 命された。幕末、執次の年齢がかなり若くなっている。これは役務の責任が軽くなった結果で あると考えられる。 60歳以上の晩年に任命された6人は、いずれも禁裏執次になる前にいくつかの他の役を勤務 してきた。5人は取次に取り立てられたその家の初代であり、勤務の褒美として取次格に任命 された。残りの1人は近衛府渡辺家の4代目であったが、2代目と3代目が役を務めていなかっ たので、4代目がまた下から勤務を励んで昇進しなければならなかったと思われる。 土山家3代の執次の例を詳しくみてみよう。土山武真は1692年に16歳で奉公、1701年5石2 人扶持、同年御膳見習、番3石加増、1705年に執次見習、家督、5石2人扶持。1707年に東宮 執次兼勘定役、1737年に執次見習になった。土山武匡(1735年生まれ)は1757年に土山武真の 養子になると同時に中詰に入り、7石2人扶持を受けた。1763年に執次見習、1764年に執次本 役になり、切米3石1人扶持(加増?)を受けた。1767年、養父武真が死去し、武匡が家督を 継いた。その時に切米扶持が召上げられたが、新たに3人扶持を受けた。1774年に執次宿番御 免とともに筆頭役に任命された 22。その息子の土山武辰(1759年生まれ)は1769年に中詰役が 言い渡され、5石2人扶持を受けた。1771年に仙洞御所執次に任命、1774年に禁裏執次見習に なるとともに切米5石が加増された。1776年に禁裏執次本役になり、1778年に3人扶持が与え られた。1781年、父武匡が隠居し、武辰が東山院旧地預かりに任命され、父の死去後、彼が家 20 「取とりつぎ次」という表記もあるが、ここでは史料の中の前者の表記以外「執とりつぎ次」に統一する。 21 木坂家が町口家を継いだ。 22 国立国会図書館土山家文書370 33頁。
督を継いだ。切米扶持は召し上げられたが、3人扶持を受けた 23。武匡は22歳、武辰は10歳で 中詰役になった。中詰役に就いていたのはそれぞれ6年と2年であったが、武匡は養子なので 例外であった。執次見習期間はともに2年であった。仙洞御所執次は禁裏御所の執次見習より 下に見られていた。筆頭執次は任命されても、給料には反映されなかった。しかし夜の勤番か らは解放された。 一代限りの執次は10人いた。例外として執次に認められたか、あるいは適切な跡継ぎがいな かったのかを検討しなければならない。 記録されている一代限りのものを除けば、執次の家はほぼ固定していた。しかし19世紀にな ると東辻家と虫鹿家、南大路家で新しい執次も生まれた。これらはどのように執次格になった のであろうか。 禁裏執次と仙洞御所執次、女御御所執次の関係を考えなければならない。仙洞御所執次から 禁裏執次になるのが一般的なルートであり、逆のコースは身分が少し劣る家柄の者である。女 御御所執次の一部は女御の実家の諸大夫が務め、禁裏執次クラスの人は務めない。東宮御所の 執次は仙洞御所執次あるいは禁裏執次になった。 中詰を務めた後に執次になるのが最も多いパターンであった。しかし前職から執次になるケー スもある。町口是治は19歳でまず2年間見習(1711~1713)になった。渡邉珍鏘は18歳(1851) で中詰めになり、1859年に26歳で執次となった。検非違使の勢多家は口向の上層部の家であり、 家督とともに中詰になった(12歳、1842)。そして、15年後(27歳、1857)、執次となった 24。 寒川日向守(1679~1736)は1708年ごろ東宮に仕え、1711~1712年の間、禁裏御所に仕えた。 近衛府の三沢孝和は1686年から東宮の執次を務め、その後、禁裏執次(1689)になり、1708 年頃、また次の東宮御所の執次となり、晩年また禁裏執次となった。 次のパターンは、仙洞御所執次から禁裏執次へ移るものである(9人)。東宮御所から禁裏御 所への移動は18世紀前半に見られ、後者の仙洞御所から禁裏御所へは18世紀後半と19世紀に見 られた。 1708年頃御賄頭を務めた小佐治光氏(1662~1717)は1711年頃から1716年頃まで執次となっ た。井上忠盈(1747~1811)は仙洞御所の勘定頭(1773~1774)から仙洞御所取次となった。 法皇が崩御した後、忠盈は禁裏取次(1777~1783)となり、新しい仙洞御所が開かれたときに また仙洞御所取次(1784~1811)に戻った。小佐治光保(1718~1773)は禁裏取次(1750~ 1771)の後仙洞取次(1771~1773)になった。掃部寮の平岡利置(1765~1835)は後桜町院御 所の勘定方(1803年ごろ)と勘定頭を務め、そしてその後、光格院の仙洞御所(1818年設立) の執次になった(1833年まで)。 このように勤務している御所が消滅した際には、禁裏御所に引取られていた。 23 国立国会図書館土山家文書370 18頁。 24 京都大学法学部「京都府士族明細短冊」。
史料 25 南大路右京事、弥 女御之取次ニ可被仰付候、夫ニ付官位、賀茂之社家ニテ申候官位可被用 哉、女院思召を被窺候処、女院被仰候ハ、賀茂之社家ニテ申候官位用候儀、桜町院不叶 思 召事之間、他之官人ニ被 仰付可然由故、若瀧口・御随身之中ニ可被仰付、其瀧口ニテハ別 而差支も有之間敷由被 仰上置候。 南大路右京が執次になる際、相応しい官職が問題になる。ここで役と官位が結びつけられた。 賀茂の社家たちは人数が多かったので、組織化のために官位を使った。しかし社家内の論理と 朝廷内の論理は異なっていたので、桜町院は社家官位を使わせたくなかった。上部の口向役人 に相応しい官職として瀧口と御随身が提案されたが、その結果、瀧口になった。当時の賄頭の 座田が社家官職「薩摩守」を朝廷内で使ったことも問題視され、彼も瀧口になった。 新たに執次になった役人は多くの場合、始めは低い官職のまま任命され、その1-2年後に 「~守」を名乗ることができた。 1.5.「京都府士族明細短冊」の分析からみた使番の家々 次は使番の家を分析する。「雲上明覧」からも使番格の家々の役歴を見ることはできる。しか しこれには奏者番以下の役が記載されていない。そこで「京都府士族明細短冊」参照する必要 がある。これは1872年の京都府登録の士族についての史料で、短冊型の届(後に、14ページで 山田家についての史料を紹介する)をいろは順に集め、3冊の厚本に構成したものである。東 京に移った朝臣、公家の家来は載せられておらず、明治維新後、京都に引っ越した武家は載せ られている。そのため、すべての幕末の口向役人を把握することはできない。 「京都府士族明細短冊」には数人の使番についてやや詳しく職歴が記載されている。 使番であった堀内清化(1829年生まれ)は1844年に家督を継いで、准后御所に仕え、そこで キャリアを積んだ。彼は1858年に29歳で使番兼奏者番となり、1861年から御修理職兼鍵番、1865 年(34歳)から賄役に任命された。彼は珍しくいくつかの役に任じられた人物である。多くの 元役人にはこのような経歴がなく、または勤めた役より官職を短冊の届に書いたものもある。 明治初期の朝廷改革を契機に、隠居した人も多く、幕末に勤務していた人であっても1872年に 経歴を短冊に書いている人は多くいなかった。 「京都府士族明細短冊」と「雲上明覧」の情報を併用することで、より詳しく役人家の系図を 描くことができる。特に官人で口向役人となった者の経歴は、それによって初めて詳しく知る ことができる。 岩波内膳(後に式部)は1795年~1803年の間、御使番、1807~1815年の間、鍵番、1822~1835 年に賄方を務めた。珍しくいくつかの役を経て、昇進した人であった。岩波造酒は1845~1846 25 東京大学史料編纂所(2001)『廣橋兼胤公武御用日記六』、40頁。
年の間、御使番、1858~1868年の間、新清和門院御所の御修理職兼御鍵番、1868~1869年の間、 賄方として勤めた。その子孫の「京都府士族明細短冊」の記録をみると、岩波悦親、50歳、新 清和門院使番、1840年に家督、1854年に鍵番、1866年に御賄役となったと書かれている。明治 時代の士族制度においては役ではなく、家格が重視されたので、ほとんどの場合、家督を継い だ年が記載されている。 伊藤左門は1780~1783年の間、女院御所の御使番兼奏者番として勤務した。その後、伊藤家 は「雲上明覧」にしばらく記載されていない。明治初期の子孫、伊藤光信(1811年生まれ)は 1828年に家督を継ぎ、1852年に花壇方になり、1856年鍵番、1858年に御使番番頭役を務めた。 鍵番は他の役を務めない老人の役だとする下橋の指摘は、このケースには当てはまらない。こ の人物は鍵番の後、より責任の重い役を務めた。 秦杢之丞は1794年から1803年まで奏者番を務め、その後御鍵番(1809~1810)、後桜町院御所 の修理職(1811~1813)となり、後桜町院崩御の後、再び禁裏御所の修理職に移り、1818年に 光格院の仙洞御所が設立されると、彼は再びその修理職に抜擢された。この人は修理職に適し た人材と判断されていたことから、いくつかの御所を渡り歩いたのだろう。その子孫、秦主水 は1833年に番代相続し、使番になって、奏者番役(1864~1869)を務めた。 本庄角之丞は1711年から御買物使を務め、1714年から1726年まで御勘使として勤務、1729年 から1737年の間、御賄頭を務めた。子孫の本庄角之進は1769年から1770年の間、賄方になり、 同じく本庄蔵人吉享(1823年生まれ)は1839年に家督を継ぎ、使番となって、42歳で賄役になっ た(~1868年)。本庄家も会計を得意とした家であったように思われる。 木本武左衛門(後に隼人)は1711年から1729年の間、御賄方であった。木本隼人は1730年か ら1733年の間、御買物使として働いた。その子孫の木本兵庫は1747年に東宮使番になり、木本 斎宮は1845年から1848年の間、鍵番であった。木本兵庫は1866年から1868年の間、賄方になっ た。1826年生まれの木本懐之は1831年(5歳)に家督を継ぎ、1837年(11歳)から使番として 出勤し始めた。1852年(26歳)に日記役常加勢、29歳で本役、39歳のとき賄役に就いた。 松宮家で「雲上明覧」に表れる初代、松宮文内は1736年に院修理職を務めた。その子孫であ る松宮弾正が1775年から1776年の間、禁裏奏者番になった。次代の松宮主水は1787年から40年 間修理職を務めた。その後、松宮刑部は1829年から院奏者番、1830年から禁裏奏者番、1833年 から1836年に御賄方になった。御賄方として「雲上明覧」では末番ではなく、いきなり2番目 に並んでいる。役の経験ではなく、年齢または役歴、あるいは身分による順番であると思われ る 26。彼は2年後に、府随身(近衛府)の番長に任命された。 進藤順治は1774年~1788年の間、鍵番として勤め、次世代の進藤左仲も1790年~1791年の間、 同じく鍵番であった。進藤但見は1801年~1807年の間、後桜町院の奏者番を務めた。進藤左番 長光教(1772~1841)は1841年に鍵番に任命された。進藤某雅は1840年に家督を相続するとと 26 印刷の都合、空きスペースで新任の名前を入れる可能性もある順番も大切であったので、「雲上明覧」 の中で役人の順番が間違っていたら、順番を正すルビをよく見かける。
もに使番になった。15年後、1855年に日記役常加勢、5年後に本役に昇進した。進藤家は1840 年から近衛府番長という職を得た。 番長は官職上の地位であり、無官無位の職であったが、長年勤めることで官人になることが できた。官人に一歩近づくためのルートであったと言える。 官人としての口向役人 1872年の「京都府士族明細短冊」には154人の使番が掲載されている。その中の54人は官人で もあった。上層部の使番は検非違使などの知行が付いている官職を務めたが、それ以外の多く の口向役人は内舎人や近衛府番長 27など、知行が付いていないかそれに等しい官職に就いた。知 行がなくても、儀式の下行が入ってきた。それが、就任や祝言の時の儀礼的な費用負担を上回 るかどうかは不明である。同じ職の仲間と付き合う際の費用を考えると、赤字であったと想像 できる。しかし西村 28が指摘した通り、官人の身分にはその他のメリットがあった。 奥村末は1872年に66歳で官人兼使番であった。彼は1822年に家督を継ぎ、使番となった。1823 年、仙洞御所の使番に変わって、1826年に官人の御壺次として左衛門大志に任命され、1832年 に仙洞御所の日記役常加勢になった。1833年に左衛門少尉になり、1834年に日記役の本役に昇 進し、1841年に禁裏御所の日記役加人となり、1850年その本役に抜擢され、1851年から賄役と して働いた。 宗岡式部は外記方史生で1740年から1760年の間、奏者番を務めた。宗岡式部丞(1741~1817) は1772年から1774年の間、御賄方衆、宗岡木工允は1749年から1750年の間、桜町院の奏者番、 宗岡式部は1817年から1821年の間、光格院の奏者番であった。宗岡経方(1769~1840)は東宮 御所(1811~1815)に仕え、1822年から1829年の間、奏者番になった。また1830年から1833年 の間、御賄方として勤めた。賄方になった時、彼は賄い方の末位ではなく、いきなり2番目に 並んでいる。宗岡経成は1833年に62歳で家督を継ぎ、1841年に日記役、1856年から1860年の間、 御使番頭、1860年に奏者番になった。しかし、1869年に奏者番は廃止された。 近衛府の村雲信生(1655年生まれ)は1711年から1726年の間、御賄方を務めた。村雲信里 (1679~1745)は1726年から1733年に東宮の賄、1734年から1744年に御賄方を務めた。村雲近信 (1709~1785)は1749年から1750年の間、桜町院の賄方であり、1755年から1771年に御賄方衆に なった。村雲種信は1767年から1770年に御膳番から1771年に後桜町院の御膳番になって、1772 年から1774年の間、後桜町院御所の賄方を務めたが、1774年に何等かの問題を起こし、解官止 位の措置を受けた。村雲主信は光格院の勘定方(1823~1824)、1840年から1845年に東宮御所の 帯刀になり、次代の村雲右近将曹は1832年から1841年の間、光格院御所の賄方を務めた。養子 として入った分家の村雲清信は仙洞御所の日記役(1836年ごろ)を務めた。村雲可信(1842生 まれ)が1854年に家督を継ぐとともに中詰役に召し加えられた。そして、1855年に右近府生に 27 拙論(2013)「近世近衛府番長の発展」『国際社会研究 福岡女子大学国際文理学部紀要』第3号。 28 今江廣道(2006)「近世地下官人家の養子に関する一史料」『大倉山論集』第52号。 西村慎太郎(2008)「近世地下官人の養子相続」『近世朝廷社会』吉川弘文館。
任命された。役と職は分けて考えられた。役と職の論理は異なっており、役に付いたからといっ て、すぐ官職が与えられるわけではなかった。職任命のための根回し、申請等が必要であった。 1864年に右近将曹、1868年、彼は御膳番となって、2か月後、御勘定使役となった。この家の 者はほとんどが勘定や賄など会計関係の役に就いていたことから、そうした専門性を持つ家だっ たのであろう。 瀧口の藤林家はほとんどが女御御所に仕えた。藤林蔀は6年間使番を務めた後、女御御所の 執次(河内守と改名)となった。藤林重興は1777年から1783年の間、女御御所の執次であった。 藤林重綱は1807年~1818年の間、女御御所執次になった。藤林右衛門尉は1803年~1806年の間、 中宮御使番、1807年から中宮の鍵番を務めた。藤林重慶は大宮使番(1838~1840)、女院使番 (1841~1846)として勤めた。1864年に家督を継ぎ、使番となり、明治3年(1870)に執次役に なった。 1691年生まれの荒木栄重は1735年から買物使を務め、1742年在役中に亡くなった。次代の1732 年生まれの荒木重武は奏者番(1773~1774)を務め、1774年に亡くなった。1813年、荒木兵庫 権助は仙洞御所奏者番となり、1815年になくなった。その子孫である1761年生まれの荒木重景 も光格院の奏者番として1815年から1826年の間、勤務し、1827年から1831年には光格院の鍵番 となり、1831年に死去した。荒木重景は1761年~1831年の間、桜町院御所の奏者番であった。 荒木重房(1810年)、1827年内舎人、1830年家督、1844年啓内舎人、1848年大嘗会悠紀所行事、 1858年44歳で鍵番となった。 賀茂の社人で、後に瀧口になった座田季蔭(1688~1760)は1726年から御賄方、1729年から 禁裏買物使、1731年から1738年まで勘使、その後1759年まで御賄頭であった。座田家はそれ以 後、内舎人の家となった。座田氏章(1755~1812)は1784年~1811年の間、御膳番を務めた。 座田氏彦(1787年生まれ)は1824-1837年の間、院御膳番、1840年~1845年の間、東宮侍者、1844 年から1857年の間、勘使であった。座田太氏(1813~1892)は1840年から5年間、東宮啓内舎 人、1857年から1868年まで御膳番であった。 南大路右兵衛志は1756年から1761年の間、女御御所執次役に就いた。南大路崇顕 は1773年 から1807年の間、御膳番になった。その息子の代から南大路家は院所衆となった。南大路丕顯 (1768~1844)は1807年~1816年の間、御勘使であった。1824年~1835年の間、光格院勘定頭と なった。南大路造酒は1811年頃仙洞御所の勘定方、1813年頃に禁裏勘使兼買物使、1820年ごろ 光格院勘定方を務めた。1790年生まれの南大路必顕 1837年から1841年の間、光格院の勘定方 になり、1844年~1849年の間、御勘使になった。南大路尚顕は1856年から1859年の間、御勘使 であった。上賀茂社家の南大路維顯(1830年生まれ)は家督を継ぐ前の1848年に中詰に見習と して召し加えられた(18歳)。そして、25歳で中詰の本役となった。その後、1859年に家督を相 続した。9年後、1868年(38歳)に、勘使となった。南大路家は9代に亘り継続的に役に就い た家で、19世紀には勘定方と御勘使として専門性を持つ家柄であったともいえる。この人の父 は55歳で御勘使となり、その祖父は39歳で御勘使となっている。
1.6.使番の山田家 山田 姓源 佐々木近江守源頼綱孫松下壱岐守源氏綱後胤 地下官人「地下家伝」901頁 口向 山田勘解由御勘使(1711)-室町上立売り 山田要人 後桜町奏者番(1773)-(1807)鞍 馬口小山 1781上御霊馬場 寛保3年12月9日 安永5年12月11日 同年12月19日 同日 天明3年12月24日 寛政3年3月22日 文化5年5月7月 信重 生 補御壺召次 三十四歳 叙従六位下 任兵部大録 叙従六位上 四十一歳 叙正六位下 四十九歳 死 六十六歳 山田兵部録 後桜町院修理職(1788)-(1807) 百万遍屋敷(96)等持院門前 任重 信重男 禁裏御所御使番後仙洞御所被附不預 官階 山田左近右衛門死洞中附御使番 文化3年7月6日 文政5年8月 文政9年2月25日 同月29日 同日 天保3年3月13日 同4年10月28日 弘化1年12月22日 安政4年6月 10月 重度 任重男 生 補御壺召次 廿一歳 叙従六位下 任右兵衛大志 転左兵衛少尉 叙従六位上 廿八歳 叙正六位下 三十九歳 山田左兵衛尉 禁裏御勘使 1858-1863 百万 遍屋敷 跡継、番代 勘使加勢 勘使買物使兼役 嘉永五子年十一月 万延元申年八月 文久四子年正月 掃部 重度男 御使番見習被 召出 子三十歳 本役被 中詰 史料 29 一御切米五石 祖父山田兵部録死洞中附修理職相勤申候 弐人扶持 父 山田左近右衛門死洞中附御使番相勤申候 御役料米三石 御賄格 新待賢門院御方附御家司 山田左兵衛少尉 文政五午年八月父左近右衛門跡番代被 仰付 戌四十五歳 宿所 元百万遍屋敷三沢右近府生 拝借地面之内永借住宅 29 筆者所蔵の山田家文書、短冊。ここに紹介した明細短冊の他に、女官であった娘に関する文書も含ま れている。さらに、高橋博(2009)『近世の朝廷と女官制度』197頁には、文政7年(1824)山田兵部録 娘女嬬たき(47歳)、実家山田金吾、そして200頁には、女嬬八重(新規採用)山田左近右衛門娘が抱え たと記載されている。
御切米五石 祖父山田兵部録死洞中附修理職相勤申候 弐人扶持 父 山田左近右衛門死洞中附御使番相勤申候 御役料米三石 勘使加勢 山田左兵衛少尉 巳五十二歳 文政五午年八月父左近右衛門跡番代被 仰付安政四巳年六月勘使加勢被 仰付 宿所 元百万遍屋敷三沢右近府生 拝借地面之内永借住宅 一御切米五石 祖父山田兵部録死洞中附修理職相勤申候 弐人扶持 但壱人者八合 父 山田左近右衛門死洞中附御使番相勤申候 壱人者七合 御役料米三石 勘使買物使兼 関東ゟ 山田左兵衛少尉 同八石 巳五十四歳 文政五午年八月父左近右衛門跡番代被 仰付安政四巳年六月勘使加勢被 仰付同年十月勘使買物使兼役被 仰付 宿所 元百万遍屋敷三沢右近府生 拝借地面之内永借住宅 一弐人扶持 祖父山田左近右衛門死洞中御使番相勤申候 父 山田左兵衛少尉新侍賢門院御家司相勤申候 御使番 山田掃部 嘉永五子年十一月御使番見習被 召出 子十八歳 被召出之節差出 宿所 元百万遍屋敷父左兵衛少尉方ニ 同居 一御切米五石 祖父山田左近右衛門死洞中御使番相勤申候 弐人扶持 父 山田左兵衛少尉勘使買物使兼役相勤申候 中詰 山田掃部 嘉永五子年十一月御使番見習被 召出 子三十歳 万延元申年八月本役被 仰付
文久四子年正月中詰役被 仰付 中詰役被仰付之節差出 宿所 元百万遍屋敷父左兵衛少尉方ニ 同居 以上の山田家の短冊から、以下の諸点が読み取れる。 1)13歳から召出された。(元服?) 2)8年間の見習であった。20歳を過ぎてから、本役になった。 3)見習に2人扶持が与えられた。 4)4年間を一般の使番として勤めた後、中詰に昇格した。 5)父が勤務中に息子が使番や中詰として勤めることが可能であった。 6)使番と中詰は同じ切米5石と2人扶持が与えられた。 7)賄方、勘使加勢に役料3石が与えられた。 8)買物使に幕府から8石が給付された。 9)扶持米は実際に異なっていた。 1.7.「禁裏執次所日記」の分析からみた使番の家々 口向役人の頭であった執次役所の業務については、公式の日記が書かれていた。数年分の日 記が宮内庁書陵部 30に残されている。 1834年の「禁裏執次所日記」の目次に記載された項目を分類すると、宮中行事107項目、朝幕 関係83項目、口向役人の管理98項目になった。口向役人の管理の項目を細分類化すると宿所届 10項目、官位6項目、役人進退と家族18項目、役の任命と交代31項目であった。その中から役 人の任命等に関する項目を挙げる。 史料 31 一 松宮主水伜 松宮蔵人 榎原平馬伜 榎原亀五郎 右使番見習被 召出二人扶持宛ヒ下候段於伺公間御附衆立合安芸守殿被申渡当番誘引奥エ 以表使御礼申上ル右勘使幷御台所御門等エ書付申遣 仙洞御所取次中エモ書面を以申遣 役人の二人の息子が使番見習になった。御附武家(安芸守)が決定し、それを勘定方(扶持 担当)御台所御門番(出入りを管理する役人)、仙洞御所の役人にも伝えた。1か月後、使番見 習榎原亀五郎小十郎と改名した。 30 宮内庁書陵部「禁裏執次所日記」函架番号261・153。 31 同上、文化2年(1805)5月8日。
史料 32 一 御使番未勤 長井万之助 十四才 右半元服出勤等之儀願有之御附衆エ申入候処奥エ被申上願之通可申渡旨筑前守殿大判事エ申渡 番頭エ申渡後刻番頭ゟ御請申出ル 長井万之助は14歳での元服と共に出勤した。御附武家(筑前守)が決定し、それを執次(大 判事)と(使番)番頭に伝えた。番頭はここに見られる通り勤務を司ったが、使番全体を管理 していなかった。 1805年5月24日 33、河北左近番長の父河北大蔵が「番代」を願い出た。「番代」とは使番の番 を相続することである。これにより息子左近は、父大蔵の受け取っていた切米5石も受け継い だ。彼はこの役を継ぐ前に、既に近衛府番長の官職を得ていた。これもまた、職と役が違う制 度であったことを証明するケースである。 同じ年の6月13日 34、仙洞御所の御使番河合理右衛門は、河北大蔵の跡を継いで御賄になり、 役料3石を(仙洞御所より)与えられた。河合理右衛門の跡、本庄勘解由がそれを継いだ。 口向役人の親族関係 1758年2月、土山出雲守は養子願いを武家伝奏に差出した。養子候補者は山田雅樂17歳であっ た。山田雅樂の父は山田玄蕃であった。山田玄蕃は西本願寺家中の粟津左衛門の息子で、公家 の穂波家家中の山田一学の婿養子になった。山田一学の妻は藤森神社社家の岡川内記であった。 山田雅樂の叔父は妙心寺塔頭智膳院であった 35。 土山右近府生厚典(元の谷村右兵衛)は、1731年に38歳で土山家の養子になった。厚典の祖 父の寺本善九郎は摂州古曽部の郷士、祖母は八幡本頭社士の谷村式部の娘であった。父の寺本 善九郎摂州古曽部の郷士であった。従弟の一人である寺本覚左衛門は広島藩士、もう一人の従 弟は公家の池尻家の家来、二本松主馬であった 36。 徳岡家の養子願の例で、広い親戚関係を見ることができる。 史料 37 徳岡勇 親類書 祖父 徳岡故雅樂少允 大膳職 恭礼門院様御使番相勤 徳岡故大膳大進養子惣領、実村田故西市正次男 32 同上、文化2年(1805)5月23日。 33 同上、文化2年(1805)5月24日。 34 同上、文化2年(1805)6月13日。 35 東京大学史料編纂所 写真版:土山家文書6。 36 同上。 37 1823年(文政6)2月の親類書である。東京大学史料編纂所 写真版:土山家文書 3071-62-96 4。
祖母 徳岡故大膳大進女死 父 徳岡故民也 恭礼門院様勘定役相勤、徳岡故雅樂少允養子、実満島故養見男 母 西村故藤右衛門女死、井伊掃部頭家来 伯父 徳岡故大膳大進 大膳職後桜町允様御代御膳番役相勤 従父兄 徳岡故大膳大進 大膳職 仙洞御所附御膳番役相勤罷在候 同 渡辺隠岐守 内竪 御内取次役相勤罷在候、渡辺内竪頭養子惣領、実徳岡故大膳大進次男 従父姉 浜島右京権亮妻 内膳司 実 祖父 満島故養見 井伊掃部頭家来医師 祖母 清水故庄右衛門女死 同家来 叔父 徳岡順子 実相院御門跡御家来医師、満島故養見次男 兄 小谷堅次郎 御内板元相勤罷在候、小谷故草太養子惣領、実徳岡故民也男 甥 小谷勝太郎 御内板元相勤罷在候 同 速水主馬 桂宮御内、速水修理養子惣領、実小谷堅次郎次男 姪 三人堅次郎手前ニ罷在候 実母方 祖父 西村故藤右衛門井伊掃部頭家来 祖母戸次故権左衛門女 同家家来 舅 西村十助 同家家来同三田村新三 三田村四方助養子惣領実西村故次男 同家家来 本国近江 生国山城 未十九才 口向役人は藩士、郷士、医者、神職、寺院関係者と親戚関係で結ばれていたのである。そのよ うなネットワークを通じて、いくつかの地方や身分からの様々な情報交換を行ったのであろう。 2.仕丁 2.1.下橋の報告 幕末期には仕丁は357人いて、その中「預」53家、内侍所侍3家、御茶碾1家、六門番6家、 三門番6家、根来同心6家、大宮御所・旧院番4家、准后・皇后御門番7家、准后御里御殿門 番4家、御厨子所小厮4家(明治3年12月仕丁に合併)がいた。 仕丁頭3人が置かれ、苗字で記録された者(預)と呼名だけの者にも差別があった。下橋 38 は文政13年の仙洞御所の口向役人(仕丁)を付録として載せており、その名簿の中、修理職下 の2人まで皆苗字で記載している。賄下3人(1人苗字)と煮方6人がいる。その中の2人が 苗字で記載された。この2人の小頭らしき存在に、それぞれ2人の配下(下の名前だけ)がつ くような形だと推測する。御門下番2人(苗字)御春屋番1人(苗字)、門番見習1人(同じ苗 字で息子だったと推測される)は苗字で記載されている。 38 下橋374-380頁。
2.2.仕丁の収入 仕丁の役と人数、給料 39 役 人数 役料 扶持 切米 御茶挽 1 5石 勘使帳役 3 8合 1人 4石 (修理職帳役) (3) 賄帳役 (3)2 8合 1人 4石 御清間見廻 (2)1 5合 1人 4石 御台所見廻 2 8合 1人 4石 御春屋見廻 2 5合 1人 4石 三ケ所見廻 1 8合 1人 4石 勘使下役 (8)6(4) 8合 1人 4石 賄下役 (5)1 8合 1人 4石 煮方 (2) 5(2) 8合 1人 4石 給仕 3(1) 7-8合 1人 4石 山科 (8)5(4) 5合、8合 1人 4石 御春屋之者 1 8合 1人 4石 掃除者 3 8合 1人 4石 仕丁頭 5(4) 8合 1人 4石 対屋口番 9 8合 1人 4石 御末口番 6 8合 1人 4石 詰所常番 (7)2 8合 1人 4石 預 (31)25(18) 8合 1人 4石 修理職下役 (2)1 8合 1人 4石 山之者 6(7) 8合 1人 4石 御春屋常番 (3)1 6合 1人 4石 仕丁 (42)54(30) 5合 1人 4石 修学院御茶屋番 3 6合 1人 3石5斗 呼次 7 6合 1人 唐門常番 1 5合 1人 7石 御台所門常番 3 5石 1 6石5斗 六門常番 6 10石 釡殿 (6)4 6石 小法師 8 4石 39 奥野401-405頁、扶持米は慶応年間のデータ、切米高は中期のデータであろう。前の括弧又役料は、奥 野342-347頁による寛政年間のデータである。
仙洞御所 40 仕丁頭 4 4石1人扶持、1人釡殿掛、2人詰所当番、宮女大和非常附1人 対屋口番 13 4石1人扶持 詰番 4 切米3石5斗1人扶持 詰所預り 19 呼次子供 4 修理職下 2 切米3石5斗1人扶持 勘定帳役 3、常加勢2 三ケ所見廻 清間見回4人、台所見廻4人、春屋見廻4人4石1人扶持(6合)、 台所見廻加勢4人 御賄帳役 3、常加勢2 切米3石1人扶持 御勘定頭預 2 1人扶持 御輿者 12 菊作人2人、畑懸2人、北苑掃除8人 勘定下 4 切米3石5斗1人扶持 煮方 6 -切米3石5斗1人扶持 山科 5 -切米4石1人扶持 掃除者 4 -切米4石1人扶持 給仕役 障子方 2 花壇奉行 小間働 2 雇9人があった 仕丁 33 切米4石1人扶持(1日6合)、見習切米2石1人扶持 御門下番 2 春屋番 1 修学院茶屋番 2 堺町門番 1 元結方 3、加勢2 畳方 2 無足呼次 1人扶持(1日8合) 土居番 切米4石1人扶持(幕府の支給) 明治時代になって、仕丁はまず卒族として組織化されたが、中には士族となる者もあった。 「京都府士族明細短冊」には仕丁は井口、音川、岡山の3人しか掲載されていない。そのうち、 井口は1859年に仕丁役を相続した。4石1人扶持(但し8合)祖父と父も仕丁であった。音川 は、収入4石1人扶持(但し8合)であった。彼の祖父と父も仕丁であった。3代にわたって 仕丁を務めたので、士族として認められたと考えられる。岡山の収入は4石1人扶持分5石2 斗、手当金40両、12石であった。上の2人と違って、彼の場合は祖父と父が岩倉村農民であっ たので、士族としての資格の根拠は不明である。 40 奥野549-553頁。
「京都府卒明細短冊」 41には289人の仕丁が掲載されている。ここには様々な役職と家高、扶持、 分賜米、救米、手当、現米が記載されている。記載の正確さには個人差がある。この史料によ り、下橋の説明とは少し違うヒエラルキーがみえてくる。この史料には73人はただ「仕丁」と 書かれていた。彼らには4石と1人扶持が支給されたが、1人扶持として8合が支給されてい た。 支給米が最も多かったのは6つの門(石薬師門、堺町門、乾門、中立売門、清和院門、今出 川門)の門番で、6人の門番には10石が支給されたが、他の門番と同様に扶持がなかった。宜 秋門常番1人は7石であったが、次は承秋門院と東宮の門番、各御所6人合12人そして元後水 尾小間使1人(役高6石5斗、1.5人扶持(7合5勺支払))であった。御門定番1人は同じく 6石5斗であるが、扶持がなかったようである。その次は山者2人と勘使帳掛2人(6石、1 人扶持(8合支給))であった。続いて4つの門(清所門、寺町門、蛤門、下立売門)の門番4 人であった。清所門(2人)・寺町門・蛤門(2人)・下立売門(2人)の門番は5石しか支給 されていなかった。そのほかに山国御水役の1人に6石、もう1人には4石があたえられた。 それ以下の平仕丁に4石、3石5斗、3石と1人扶持が支給された。禁裏御所の仕丁に4石、 それ以外の御所に3石が与えられた。但し、その中のリーダー格の人には3石5斗が支給され た(大宮御所仕丁35人の中の4人、皇后御所仕丁18人の中の4人)。光格院以降仙洞御所は組織 化されていなかったが、最小限の仕丁が置かれた。仙洞蔵詰番と仙洞御門番、旧院仕丁(2人) は4石、仙洞御所仕丁(26人)は3石を受けた。 上に述べた門番等以外に、様々な役職が掲載されている。御賄帳掛5人、賄下役2人、元恭 礼門院旧知番4人、奏者所詰番3人、詰番2人、土井番4人、御膳掛2人、山科役1人、御厨 子所膳部2人、修理職下1人、掃除役1人、御里御殿番1人、その他には73人が特定の役職を 明記せず、ただ「仕丁」と記載されている。役として対屋口番26人、御清間見廻役2人、門番 木戸1人、春屋見回役1人、春屋常番1人、春屋役1人、後院春屋常番1人、花壇2人、旧院 仕丁2人である。若干立場の劣る仙洞の門番、女御門番、里御殿門番は2人であった。彼らの 場合、1人扶持の支給率は5合、後者に2合5勺が与えられた。 基本的に仙洞御所や大宮御所の仕丁の役料は低くなっていた。仙洞の蔵詰番と大宮御所の仕 丁頭と思われる4人、皇后御所仕丁頭と思われる4人、修学院茶屋番2人、仙洞奏者所詰番1 人、仙洞対屋口番4人、仙洞修理職下役1人、皇后仕丁頭2人、皇后対屋口番1人、皇后用達 掛役は3石5斗1人扶持であった。残りの仙洞御所仕丁26人、仙洞御所仕丁勘定下役2人、仙 洞御所仕丁御膳役1人、大宮御所仕丁31人、皇后御所14人、准后御所仕丁1人は3石1人扶持 になり、扶持支給割合の8割から6.2割までが記載されたが、その規則については不明である。 大宮御所対屋口番はなぜか3石のうえ、2人扶持が支給された。 下橋の説明から上層部と思われてきた預は、禁裏御所5人、仙洞御所2人、皇后御所2人、 大宮御所1人がいた。しかし、上の史料に載った給料を鑑みて、禁裏御所の預は平仕丁と同じ 41 新見吉治(1973)「京都府総合資料館蔵『京都府卒明細短冊』」『金鯱叢書』第1輯。
4石1人扶持(8合)、仙洞御所預はさらに少ない3石5斗1人扶持(8合)、大宮御所預は3 石5斗1人扶持、皇后御所預は1人が3石5斗1人扶持、1人が2石5斗1人扶持が与えられ た。これを見る限り、必ずしも預は上層部だったとは考えにくいであろう。 卒は3代以上の奉公という基準を満たしていなかったので、祖父や父の役や身分について書 いていない者が多かった。しかし、少数であるが記述されているものもある。26人の祖先は仕 丁、7人は公家の家来で、寺社関係者は6人、武家(奉公人や郷士を含む)は11人であった。 38人は農民、28人は町人であった。 2.3.「禁裏執次所日記」の分析からみた仕丁 史料 42 一 恭礼門院御旧地御門番 中田権右衛門伜 中田松太郎 右権右衛門病気ニ付番代願之通申付同人取来候御切米六石五斗一人半扶持被下之 一 中田松太郎看抱 渡辺弥五郎 右松太郎幼年ニ付十七歳ニ相来候迠願之通看抱被仰付 右之通可申渡旨御附筑前守殿送り大判事エ被申渡番人岩佐 政之進両人之者召連罷出詰所口之間ニおいて申渡 右之趣為心得勘使申付相達仕丁頭エも申渡御台所御門エも申遣 史料 43 一 恭礼門院御旧地御門番 中田権右衛門伜 中田松太郎 右権右衛門病気ニ付番代願之通申付同人取来候御切米六石五斗一人半扶持被下之 一 中田松太郎看抱 渡辺弥五郎 右松太郎幼年ニ付十七歳ニ相来候迠願之通看抱被仰付 右之通可申渡旨御附筑前守殿送り大判事エ被申渡番人岩佐 政之進両人之者召連罷出詰所口之間ニおいて申渡 右之趣為心得勘使申付相達仕丁頭エも申渡御台所御門エも申遣 42 宮内庁書陵部「禁裏執次所日記」文化2年(1805)正月28日。 43 同上、文化2年(1805)正月28日。
史料 44 一 新規仕丁 山科役 嘉平次 右病気ニ付願之通御暇被下安永三午年ゟ当丑年迠三拾 弐ケ年相勤候間為御褒美鳥目一貫五百文被下之 新規仕丁 掃除者 久次郎 右願之通御暇ヒ下 右之通御附衆被下申渡於勘使所御賄頭申渡 洞中附仕丁孫七 右病気ニ付願之通御暇被下之 嘉平次伜 無足仕丁元蔵 久次郎伜 虎吉 孫七伜 寅吉 右嘉平次久次郎孫七御暇昨記新規仕丁エ御抱入御切米四石 一人扶持二条御蔵渡ニテ被下之孫七伜寅吉ハ 洞中エ被附 右之通御附衆被申渡於詰所大判事仕丁頭エ申渡為心得書付を以 勘使エ相達ス 一 日御門代常番太田五兵衛番代北村順蔵 右五兵衛病気ニ付番代願之通御切米五石被下候段可申渡筑前守殿被申聞□詰所川那辺清 兵衛宮原助右衛門エ大判事申渡ス後刻当人御請御礼申出ル為心得勘使エ書付達ス御台所御門エモ書 付遣ス 一 順蔵事五兵衛改名仕度段願出翌廿三日大判事より筑前守殿エ申入候処被聞届願之通可申渡 旨被申聞川那辺清兵衛呼寄申渡為心得仕丁頭エ申渡勘使御台所御門等エ書付達ス 史料 45 庄八忰新平株預り申、壱人扶持、横田新治名改嘉六親戸田故嘉六、兄戸田故嘉六、帯刀、此 門嘉六預かり申し付ける修理職下野々清六忰、土居番伝吉土居番退役改名、土居番伝吉代忠 助忰仕丁見習忠八貞七忰伝六、忠八代仕丁見習、壱人扶持、貞八改名 彦八忰文次郎仕丁見習壱人扶持 嘉六帯刀ニ付仕丁壱人補、仕丁頭又五郎新三郎江町口大判事口渡、野口金蔵、戸田嘉六、横 田新治ニ帯刀申付 この記録からいくつかの重要な点を確認できる。 44 同上、文化2年(1805)5月22日。 45 同上、明和4年(1767)3月17日。
①仕丁株があった。 ②仕丁見習(1人扶持)があった。 ③ 修理職下預りには苗字と帯刀の権利があった。他の記録から仕丁頭に苗字があることを確認 できる。 ④仕丁は一代限りで雇われたが、補欠は仕丁の息子たちから補った。 史料 46 新規仕丁定四郎増扶持一日三合、山科役申付 新規仕丁伊三郎増扶持一日三合、掃部之者申付 史料 47 対屋口晩池田藤次郎伜池田岩松 右藤次郎儀病気ニ付番代願之通藤次郎取来候御切米四石壱人扶持ヒ下候段可申渡旨安芸守殿 大判事エヒ申聞仕丁頭エ申渡為心得勘使御台所御内エ事ニ付申候 以上の諸史料からも見えるように、仕丁は基本的に譜代ではなく個人として雇われ、その上 に給料も多くなかった。そのため仕丁の入れ替わりは使番より多かったと考えられる。その選 任手続きについては「禁裏執次所日記」に記載が見られないが、基本的には仕丁頭が手続きを 進めたと思われる。 1767年3月17日、仕丁を務めた戸田嘉六は父嘉六と兄嘉六の門番役を継ぎ、新門番の戸田嘉 六に帯刀が許された。そしてこの新嘉六の代わりの仕丁一人を補うようにと、執次の町口大判 事が仕丁頭又五郎新三郎に言い渡した。仕丁は基本的に士分と違って、譜代の朝臣ではなかっ たが、適切な息子がいる場合は問題なく継承されたのである。御附武家が決めて、執次がそれ を仕丁頭に伝達し、勘使と御台所にもその変更を伝えた。 上と同じ17日に修理職下野口清六の息子の土居番伝吉が退役し、改名した。その跡を、仕丁 の忠助の息子である仕丁見習忠八が継ぐ。忠八の跡、仕丁の貞七の息子の伝六が仕丁見習となっ て、1人扶持が与えられた。伝六は名前を貞八に改めた。ここには決まった人数という概念が 見られる。1人の見習いが抜けた場合、できればすぐにその空きを補うことが望まれた 48。 仕丁頭朝山源蔵が病気であったので、聟養子源治に番代させた。跡継ぎの朝山源治は対屋口 番に任命された。父朝山源蔵は39年間朝廷に勤務したので、生涯に亘って1人扶持(但し1日 5合)が与えられた。仕丁にも隠居扶持が出たことがわかる。 1767年2月6日、堺町御門番人中野十兵衛、仕丁頭平岡多四郎、土居番仕丁忠次郎に1人扶 持を与えた。 46 同上、文化2年(1805)6月23日。 47 同上、文化2年(1805)正月17日。 48 同上、明和4年(1767)2月6日。
上の4つのケースで池田と朝山、中野、平岡と名乗る者たちは仕丁の中の「預」であったの で、番代願いができたのであろう。 2.4.仕丁側の史料 仕丁側の史料は少ない。一例として益田家の場合をみてみよう。益田家の本業は彫物師であっ たが、大宮御所の仕丁も務めた。以下の史料に見えるように、益田忠助は仕丁を務めながら、 息子の庄左衛門と同居した。この息子が町人としての家長となった。忠助は1794年から新清和 門院の御所に仕え、1830年に苗字・帯刀が許された。仕丁頭は杉本伊八で、管轄は大宮御所の 執次衆ではなく、禁裏執次の中の「大宮御所御支配掛」の渡辺内膳上であった。この許可によっ て、今までの羽織姿を裃姿に変えることができた。この忠助の勤務状況がよかったようで「結 構」が言い渡された。1832年に43歳の息子庄三郎が継ぐように依頼し、自分は隠居した。隠居 に米5合が支給された。益田家に3石1人扶持が支給され、分賜米2石8斗、救米5斗、手当 金15両のような援助があった。 史料 49 宿所御届書 一 大宮御所御内 益田忠助 此度苗字帯刀御免被仰付候ニ付是迠之通新町頭西岩酒院町彫物師庄左衛門方同居仕候仍テ 此段御届申上候以上 文政十三年庚寅五月 右之通之書付認四日差出申候事也 杉本ゟ 一 益田忠助義是迠何方ニ住居致候哉書付致差出之様被仰付候ニ依テ右之通認差出申候事也 就御尋御口上書 一 当町彫物師庄左衛門同居益田忠助儀此度帯刀被仰付候ニ付是迠何役相勤住所之義等御尋 ニ御座候此義右益田忠助儀当町彫物師庄左衛門父ニテ仕丁煮方役相勤罷有候此度苗字帯刀被 仰付候義御座候就御尋此段申上候以上 文政十三年寅五月 新町頭西岩酒院町 年寄 喜左衛門 五人組 惣兵衛 右之通認五月十一日ニ杉本伊八方エ差出申候事 右ニテ無滞相済其後早々杉本ゟ宿所届之印形取ニ参申候也 49 京都市立歴史史料館写真版 ㎞ 60 益田家文書。
禁裏御所御執次衆之内 大宮御所御支配掛 田中村 渡辺内膳上 此時御附衆名前 … 大宮御所 御執次衆 世継甲斐守 茨木尾張介 石田播磨介 右苗字帯刀御免之義者文政十三年庚寅四月 廿九日御沙汰有之候テ翌日三十日四ツ時ニ 大宮御所大広間ニ於テ御執次衆御免之義 被 仰付候事 御手当金頂戴之控 禁裏御所御武家玄関ニテ内玄関ニテ 右是迠ハ只羽織ニテ頂戴ニ罷出候事 此度帯刀御免ニ付麻上下ニテ本玄関筋候事 御賄御勘定板元方一所ニ罷出候事 尤御附衆四軒エ御礼ニ廻り候事 乍恐奉願口上書 一 私義 年来御奉公無滞奉相勤此上追之結構 被為 仰付冥加至極難有仕合奉存候然る所近来段々 老衰仕候上病気御座候御大切之御用向難相勤候ニ付 恐多奉存候得共伜忠五郎(庄左衛門) 当辰四十三才ニ相成此者番代ニ被為 仰付被下置候ハゝ難有仕合奉存此段宜御沙汰奉願上候 以上 天保三辰年六月 煮方役 益田忠助印 仕丁頭 天保三年達八月十 益田忠助儀隠居被仰付候尤隠居米トシテ五合扶持被下置候則庄左衛門仕丁ニ被召出候事但し
十三日辰刻ニ 被仰付候事 夫日直ニ御礼廻り翌十四日 所呼次相勤十五日ゟ清間行事相勤候事也 仕丁を任命する権限は、大宮御所の執次ではなく、禁裏御所の大宮御所御用の執次にあった。 手続きは仕丁頭が担当した。仕丁の中にも格が見られる。苗字・帯刀が許されると、衣装も変 わり、就任の御礼をする場所も変わった。 1872年の短冊によれば、益田忠助の孫にあたる益田忠次郎(藤原政一)は1829年に生まれ、 1848年から勤務して、1854年に家督を相続した 50。 次いで、女御御所の煮方を務めた山崎家の史料をみてみよう。 史料 51 -宝暦五亥年 仕 久七 女御御方御入内之節仕丁 被召抱其後死去仕候 -右久七番代願之通仕丁ニヒ召抱其後煮方役被仰付 煮方 良助 寛政七乙卯崩御ニ付御暇退役被仰付 -文化十四丁丑年 鷹司家女御御方御入内之節」煮方役被仰付候 良助義永々眼病ニ付甥伊助代り三十八才 文政六未年崩御ニ付御暇退役被仰付 一 文政八乙酉年八月廿二日 為鷹司家女御御方御入内之節煮方役ヒ仰付 右伊助改名伊八天保十四卯三月死去仕候 一 天保十四癸卯年五月九日 右伊八願之通番代従弟多吉 十八才 一 弘化四丁未年十月十日 二十二才 大宮御所崩御被為在 女御御所奉録助事 嘉永元申年七月十九日御暇退役 ヒ仰付候事 時二十三才 一 元治元改ニテ文久四年甲子正月 仕丁多吉事改忠蔵 准后御殿 □限仕丁ヒ仰付候事 50 同上、km60-24。新見421頁にも確認できる。 51 筆者所蔵の「御打戴物日 家栄帳 文久四甲子正月吉日 元治元甲子二月廿日相改 山崎忠蔵所持」 長帳30.5㎝ x12㎝ 5丁。
仕丁の中には山﨑家のように代々仕えている家もあった。しかし親子の間にわたらないケー スもあり、不安定さも窺える。 1777年7月、御参旧院番六次郎の母久米と2人の叔父から、仕丁頭宛てに六次郎の御暇願い が出された。同時に御参旧院番の5人の同僚から、執次の土山駿河守宛てに同じことを願った。 「御吟味之上願之通被仰付候」とあり、退職が認められたことがわかる。8月、六次郎の母久米 と2人の叔父が「御参旧院番御仲間衆様」に六次郎の弟松次郎を抱えるように願い出た。同月 仲間の5人が再び連判で土山駿河守宛てに願書を送った。9月30日、この人事は願い通りに叶 えられた 52。この事例から、仕丁の任命に関して家族や職場の仲間にも発言力があったことが 分かる。つまり、任命は必ずしもトップダウンではなく、下からの動きもあったのである。 3.付属職人 中詰、使番、仕丁の他に、実はもう一つ、興味深い職人集団の存在も窺える。 史料 53 一 修理職方手伝 三文字屋与兵衛 右病気之所労より快気難斗候ニ付伜当子十八歳ニ相成候与市と申者与兵衛と相改御用相続 被仰付候様願書修理職エ差出し候□松宮主水□差出し御附衆エ申入候処願之通可申渡旨筑前守 殿大判事エ申聞□へ申渡ス勘使エ書付を以申達ス右者明之□十月廿七日御用相続申渡候段高島 監物ニ届ル 史料 54 塗師七郎衛門出入り願、御附衆、願之通、修理職井上主膳申し渡し 「京都府卒明細短冊」の中 55で、元仕丁の西浦平光の祖父は「修理職下役用度司所属」と書か れている。これはこの職人集団を示すのであろう。 口向役人の使番であった修理職の配下として、1864年に12人の職人(左官、檜皮師、瓦師、 塗師、木子)が組織化された。12人の筆頭は惣官職と呼ばれている 56。 52 東京大学史料編纂所 土山家文書写真版4。 53 宮内庁書陵部「禁裏執次所日記」文化元年(1804)9月6日。 54 同上、明和4年(1767)4月7日。 55 新見409頁。 56 筆者所蔵平尾家文書「元治元年子十月吉日 御所御用幷毎年暑寒御見舞御禮幷願書共日記 平尾七郎 右衛門」25x17㎝ 92丁。