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淸澄寺大衆考

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(1)

清 澄 寺 大 衆 河島

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− 、 は し が き ニ 、 清 澄 の 大 衆 三 、 調 印 願 義 静 義 一 回、宗瓢と割問鮪義務 車 、 海 開 房 穴 、 理 由 利 房 七 、 遺 義 房 義 倫 務 義 八 、 閥 智 叡 智 質 成 丸 、 明 心 閥 頓 西 発 −。、伊勢公ノ御房 − − 、 助 ノ 阿 闇 梨 − 二 、 明 慧 房 = 二 、 肥 前 公 貨 幸Y 清澄寺大衆とは宗祖営年に於ける清澄寺の大衆の意である。とれに先建て先づ師の房たる遺品一昔御房に就て匙ぶべき であるが、とれに就ては去月法華誌上に﹁奮師道善御房﹂と題して一交を草した故に、本稿は遺善房以外の清澄の大 衆に就て述べるととにする。とれを研究するに営つては‘御還交が根本史料であって‘弐で遺交に就ての諸先師の末 註等を参考して‘とれを紡梯乍ら取纏めて営年清澄に於ける聖人の附閣の環境を明にせんとするものである。

(2)

古来諸先師の研究中清澄の大衆を明かにしたものとしては、別頭統紀第三に営時に於ける同門の絹素とし‘且つ清 法寺初持法輪の折の劃告衆として 道 義 一 屍 ・ 浮 一 期 一 民 ⋮ 開 一 寸 法 肝 一 清 一 義 母 げ 房 ・ 背 蓮 一 民 、 明 心 房 、 寛 成 長 ・ 浮 国 民 蹴 一 語 肝 一 羽 一 回 頓 房 、 西 曹 長 、 園 密 一 長 ・ 観 智房.質智房‘国管長雛借稚児之類戚出勢 ι之︵全

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︶ と十三名を列ね、叉鋒外考文五には﹁開宗之日在レ座之人﹂として、前掲の外に地頑景信を出し、更に岡智、道芸同国加の 略俸を掲げて居るが、要するに是等の中国密を聖筏の設とすれば、青蓮を除いては遺文の中に散見する、清澄を中心 とする人々を列悲して、且らく清澄の大衆とし、叉聖人初締法輸の封告に擬したものである。 今遺文中に散見する営時の清澄の大衆を列車中するも仏らば、清澄寺大衆中に七名、御振舞紗に五名、善無長紗陀三名 報恩紗、凹信五日間妙に各二名、新尼齢、光日房御堂同、聖密房御書、別営御一局御返事に各一名を見るのであるが、此等 中にも勿論東出もあるので、別人としては且らく十五名を算するととが出来る・即ち左の如くである。 義 名 房 房 義

尚/名

六 六 六 紗 善 | 五 五 五 細

一一

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大清 七 七 衆澄

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中寺 ! 別 鈴 御 振 一 費 一 一 一 一 一 一 御光 書日 民 ? 事 . 恩 長少 品問

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五 御聖 書−密 民 一一一一 新 l芭 紗 |房別 |ば事亙d御良 消

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設 寺 大 衆 考 五

(3)

務 程

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寺 大 衆 砦 一 三 七

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一 三 七

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二 問 一 三 七

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一 五

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二 五 四 一 一 一 五 間 三 一 六

伊 勢 公 御 房 国 翻 助ノ阿 賓 固 西 質 日 M

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一 三 七 四

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一 四 ︶ 四 一 五

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一 間 二 問 一 九 三

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鏡 、 九 九 矢口r. 事 房 4

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J F i J 4 ノ 右の十五名が現に遺文に散見する所であるが、浮願、義浮の如きは賜書もあり‘且つ聖人と最も閥係のあった人 k 智 房 である。執れにしても遺文中に於ける表示の多少は.順にまれ逆にまれ聖人との闘係の親疎を物語るものである。 閤 梨 向ほ此の外現存古文書中に・且らく三名を見出すととが出来る。即ち共一は身延文庫所臓の嘉暦三年正月の﹁日進 城 房 聖人仰之趣﹂︵棲紳一二披所載︶に、開宗営日の献を越ぷる中に道善房は勿論.外に道義房、義一房.慈義房の三名が 頓 房 発 房 』回 同 房 慧 房

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房 密 房

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見 ら れ . M A金津文庫所臓の建長年聞の寂澄手樺本の奥書に依れば、肥前公法鍵久は日手が営時清澄の大衆であったと とが明かである。故に遺文散見の十五名に今の古文脊の義一耳、慈・議長.肥前公の三名 b L 加へて、且らく十八名を算 するととが出来る。以下是等諸人に就て述べるととにする。 活用額房、義海房、義一一房、慈義房 清澄寺大衆中に於て宗岨と最も親しかったのは、恐らく滞顕、義母の二人であらう、大衆中に於て現に賜警の存す るのは豊密房以外には此の二入者のみである。又此の二入者は他の大衆とは異って、その賜書の多い点からも、法門 住 前 ,ーー,《ー・ー、 同 文 氷 七 善 無 長 三 蔵 紗 竹 一 の内務からも早く聖化に蹄し・随うて親しい闘係にあったのである。今その賜寄 b L出さば左の如くである。 浄顕.義浮 八 佐渡御勘気紗 40

4

主 義博房御室長大 渡 同

建 治 清澄寺犬家中主 佐 華果成就航芝町 報 恩 h u F 4 四 a m 実= 同 後 同 選 紙 一 4 同 弘安一冗 同 本骨尋問答紗む 清 寺 大 量 民 歩

活 ま 同

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司 義 崎 市 滞 顕 持顕.義浮 同 同 同 同 浄 顕 七

(5)

情 il'l 4 T 大 家 守主 j¥ 此の外二人者の名の出づるものは前表の如くである。 此二人は遺文中に於ては宗岨との闘係は明瞭ではないが、恐らく二人共に健砂︵七、六阿︶のいふ如く、宗組と北ハに活 善房の弟子と見るべきであらう。且つ二人は共に柏先輩であり・古来よりの霊停は等しく宗祖開宗の日の初持法輸の 折.地一明景信の難に宗組を庇誰して華房に菟れしめたと侍へる。此のととは本骨尋問答妙に 貴謹︵浮顕﹀は地闘のいかりし時、義城房とともに清母を出で L 、沿はせし人なれば‘何となくとれを法華経の御 奉公と、なぼしめして生死を離れさせ給ふべし。ロ とあり、叉報思妙に 日蓮が景信にあだまれて‘清澄山を出でしに、誼ひてしのび出でられしは‘天下第一の法華経の奉公・なり、後生は 疑 h u ぼ す べ か ら や ’

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等とあるに依て古来よりしか解したのであらう。 併し乍ら身延文庫所臓古馬本.聖減間十四年後の嘉暦三年戊辰正月一日の﹁日進聖人仰之趣﹂に依れば、身延第三 世日進聖人仰として.開宗の日の有棋が古老借よりの聴聞として 一 、 日 本 圏 中 の 諸 宗 念 伸 、 真 一 吉 田 、 開 宗 等 皆 無 間 亡 国 天 魔 と 一 Z K 、 共 の 時 導 善 の 御 百 却 を 奉 レ 初 数 十 人 の 人 k 赤面してを はします。良あて導普御反聖人をつく/\と御覧あて被レ仰けるは‘ 道 義 御 房 の 念 伸 し 無 聞 の 業 賊 ・ : ・ ・ ・ 共 時 導 士 官 御 , 房は戸をたて L 内へ入り玉ふ也、共後安房上組の念帥者と云百余人同心して‘繭陀伸の敵よとて、夜打に寄て J 打殺 しまいらせんと儀する底に、つねに聖人に付そいまいらせし、義一房、慈義房二人の御同宿此のよしを聖人に語り 巾也、共の故に夜打をのがれ玉ふ也、共の後束僚左衛門に所を沿はれ.

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ふ 也 。

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左記して居るが、此の詑事が果して事賓とすれば、開宗の説法に封する念働者等の聖人夜打のととは数日後に属し、 叉景信よりの揖出は更に其の後となるのである。 此の記事に依れば埠放の事賓は古停と一致するが、唯時間の上に相違があり、叉不時の難を菟れしめたのは浮顕義 浮でなく、義一慈義の二人となるのである。今且らく開宗の日の折伏に封する、念働者の難は義一、慈義の内報に依 で菟れたとしても、後の地周景信の遁放の時に、浮欄義洋が宗祖を慕って清散を出てたととは‘本隼同窓口紗並に報思 砂の文意に依て明かである。故に日進撃一人の仰を真左りとすれば、初轄法輪の折伏に封しては、念悌者の難と地問景 信の難と二回の難があったと見なければたらぬ。今且らく斯く見るとすれば.最初念伸者の難の時は義一、慈義二人 者の内報に依て難を菟れ、次の景信の難の時宗組迫放の折は持崩閥、義浮の二人も共に、且らく清澄を立ちのいたと解 ず べ き で あ ら ろ 。

更に宗祖と浄顕、義浮雨人との関係に就ては報思齢には 但し各々二人は日蓮が幼少の師匠にて必はします、勤操伶正、行表僧正の偉救大師の御師たりしが、かへりて御弟 子とならせ給ひしがごとし

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とあるに依れば、二人は讃普御房の弟子であり、且つ宗祖より先輩で出家以来何かと指導せられたととが明かである 然るに侍敬と勤操‘行表との如︿後には却で宗祖に師し、同じく法華の行者の一分となった様である。故に佐渡御流 罪中にも常に文書を往復して、安否を気謹はれたととは.佐渡御勘気齢、己心悌界紗等に徴して明かである。 務 澄 三 与 大 象 考 丸A

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九T 大 家 考 ・

一 一

O されば公岨は常に二入者を過して、向己の主張を清待の大衆に呼びかけ、

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つ師の房を始め大衆の扶邪師

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を 勤 め て止まなかったのである c 叉清佐寺大衆中に 去年不 L 米 如 何 、 定 め て 子 細 有 ら ん 敗 。 む とあるは二人が時々身延の聖一居を訪問されて殺を受けたととが窺はれる。就中浮瀬田加が由主化に師したととは、報思紗 詮 献 に 無=親疎一法門を申すは心に入れぬ人にはいはぬ事にて候ぞ、御心得候へ、御本骨弔問して逸らせ候。一寸 ・とあるに依て詩するととが問来る。何となれば最初の法門に針する識に依ても明かであるが、本隼を授興せられたと とに依ていよ/\明かである。とれに就ては文永十二年の新尼御認事に依れば 但大厄御前御本隼の御事、たほせっかはされて沿もひわづらひ候、乃至領家はいつわりたろかにして、或時は信じ‘ 或時はやぶる不定なりしが、日蓮御勘気を蒙りし時、すでに法華粧をすて給ひき、日蓮重恩の人なれば、扶けたて まつらんために、此の御木隼をわたし奉る・ならば、十羅剃定めて偏頗の法師とをぽしめされなん。尼御前我身のと がをばしらせ給はやして、ろらませ給ふらん

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と示されし如く、需品思の大尼御前にさへ退輔の事ありし震に、御本隼の授胤︵はなかったのである。此の点から見て二 入者は不退時の師依者なるととは知るべきである。 叉浮顕﹂加は時間治二年荊議口房遷化の後には.その後を襲って清澄寺の主座とたったととは、報思砂詮献に﹃御まへと 義城房と二人此御房をよみてとして﹄と述べた宛名に清澄御房とあるはそれがためであらう。叉義持房には文永十年 己心悌国外紗を賜ひ、害景品の﹃一心欲見姉、不自惜身命﹄の文を引いて

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日蓮が己心の伸界を此交にて顕すたり、共故は書量 n m の事の一念三千の三大秘法を成就せるとと、此文に依て顕す 也 o m L h と遺文中最初に三大秘法の名目を示し、不惜身命の信心を勤められて居る。若し也安元年の華果成就紗は、宗祖が一 期弘通の功徳を師の房に回向せられた、報恩紗二容の意を要約して述べたもので 栢は来巣成就すれども必十米の精大地にをさまる、故にひっぢ生ひいで L 二度華果成就するなり、日蓮が法華経ま 弘むる功徳は、必十道善房の身広師すべし。よき弟子をもっときんば師弟俳果にいたり‘あしき弟子をたくはひぬ れ ば 、 師 弟 地 獄 に た つ と い へ り 。 一 日 間 と結び‘師の一加の回向に擬して二入者の信心を勤奨せられたのである。若し本崎尋問答紗に五つては、曾て授興せられ た本隼の疑問に劃する説明書で、とれ不容の観智儀軌に出づる民言の法華畏茶羅と我が大量茶羅との相遣を指示せら れたものである。内容に就ては今の所論ではない。此の外二入者への普無長砂並に佐渡御勘気紗等は、道一五日御房揺化 の 法 円 で あ る が 、 一切は報思齢二巻に依て解決せられて居る、査し報恩の観念は宗祖の遁傍観の根本である。 若 し 僻 組 統 紀 三 に は 浮 顕 の 韓 日 中 ︵ 仲 ︶ と 賜 ひ ︿ 金 堂 百 、 KO ﹀ 叉 考 文 五 に 依 れ ば 浮 顕 は 日 市 帯 、 義 洋 は 日 住 ︵ 会 主 主 同 ︶ と 賜うたといひ、又一設には浮顕は聖人の肉兄といふが考異師のいへる如く信じ難い︵金書一三︶のである。執れにもせ 土二入者は宗組と共に誼普門下にあって柏先輩であり‘且つ法兄弟の闘係にあって宗組の設に耳を傾け、相等信仰が あった人々である。若し最初清澄法難に於ける庇護に就ては.道一、慈義雨房の問題を m川 め て 置 く 外 は な い 。

指f 澄 寺 大 衆 考

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清 澄 寺 大 衆 考

薄圏房

持 崩 m . 義 洋 以 外 の 清 澄 の 大 衆 の 中 で 、 賜 虫 同 の 存 す る は 浮 園 、 恵 一 一 絡 の 二 人 で あ る 。 浄 同 房 に 就 て は 清 澄 寺 大 衆 中 に 虚空蹴菩薩の御恩をほうぜんがために、建長五年四月廿八日安房の岡、東僚の郷清澄寺遺品一昔之房持悌堂の南面にし て、持闘房と申す者並に少々の大衆に、とれを巾しはじめて共後二十余年が間退陣左く申す。主一 といふに見れば、浮国房は正しく初締法輪の封告衆であったに相還ない。且つ開宗十年後の文永元年九月の営世念悌 者無間地事の初に 安 房 園 長 狭 郡 東 保 花 房 郷 、 於 = 蓮 華 寺 一 封 = 千 浄 国 房 一 日 蓮 阿 閤 梨 註 レ 之 。 問 。 と あ る ︵ 今 の 交 の 東 僚 は 西 僚 の 誌 、 考 具 、 金 = 一 一 − 一 ︶ が 、 営 時 浄 同 房 は 商 依 花 房 蓮 華 寺 に 住 し て ‘ 開 宗 以 来 宗 祖 の 諸 宗 批 判 に釘し疑問を懐いて居った故に、念伸無間の所以を詳説したのが本書である。叉浮固房に封して宗祖が自ら阿闇梨と 稿する点から見れば、浮園長は後輩であったからであらう。叉営時蓮華寺は清母の配下で、開宗後の難並に同年十一 月十一日小松原の難を遁れたのも此底と侍へる。若し善無長紗に依ればその三日後、即ち十一月十四日調善御房と此 に於て見参し・道善御房に心から捨邪蹄正を勧めたのは此底である。即ち向紗に か め 此諸経諸論諸宗の失を排へるととは虚宰臓菩薩の御利生、道普御房の御恩なるべし。亀魚すら恩を報やる事あり、 何に況や人倫をや。此恩を報ぜんがために清澄山に於て悌法を弘め説善御房を導き奉んと欲す。而るに此人思療に h w はする上、念伸者也‘三悪道を量るべしとも見えや、而も叉日蓮が救訓を用ふべき人にあらや。然れ

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も文永元 年十一月十問日間依華房の僧坊にして見参せし時、彼人の一疋く我智慧なければ請用の望もなし、年老いていらへ・な ければ、念怖の名僧をも不レ立、世間に弘まる事なれば‘唯南無阿調陀仰に巾計也。柏岡

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とはその折の宗組の述懐である。後年報恩砂執筆の動機は今の文中に躍如として拝するととが出来る。 以上の事情を綜合して浮同房は矢張遺品一官房の弟子で、恐らくは文永頃から西僚華−房蓮華寺の寺主とた G たのではな からうか、宗砲に封しては法兄の様にも思はれる。然るに倖燈大師録に依れば浮園は俗名を太郎重政といひ.貫名重 山中の長男で浮顕並に宗祖の令兄に営り、法詳 b L日在と稲し、小湊の妙蓮寺の歴代と侍へるが、若し西蓮寺株起なるも のを信じ得るとすれば、強ちに推論ともいはれない。叉僻組統紀三は高山胞に障して詳を日在と賜ふ︵全書き﹀と前説 に依って居るが、此等の設はどの程度に信じてよいか相等吟味する必要がある。若し姉崎博士は洋国を法敵ハ法華経 の行者日蓮主 U と 見 て 居 る が 、 洋 国 は ︷ 一 一 小 凪 と 共 に 誼 益 口 御 房 の 弟 子 で . 浮 婦 、 義 浮 に 封 ず れ ば 目 下 と 思 は れ る の で あ る 。 ..a..

塞密房

弐に霊山省房であるが‘建治三年聖続長へ建はされたる賜書に依れば、専ら真言の邪義を批判し、最後に とれは大事の法門なり、虚昼蹴菩薩に参じて、常に読み奉らせ給ふべし。主 とあるに依れば、聖総房も矢張営時清澄の皐併であったととは疑はれも仏い。然るに健紗には 此聖宿坊と一広は真一言宗にて、市も大型へちたみ巾たる様なる人欺云 k ハ 二 五 、

2

︶ と い う て 居 る が 、 此 の ﹃ 因 み 申 し た る ﹄ の 意 味 は 、 ︷ 一 万 組 に た ょ っ た と い ふ 意 味 か 何 か 不 明 で あ る 。 叉 異 号 口 ︷ 一 訴 と い ふ こ とは法門の内容らか・米たものであるが‘既に昔時清澄が台統で・めり、且ヲとれを是正するのが宗副の役目であり、本・ 情 iI1~ 寺 大 衆 考

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告奇 澄 寺 大 来 考 四 書執筆の動機と見れば‘密徒とは台密の意で東密とは解されぬ。されば巧異下には健紗の設に依り、﹁斡徒而陰慕=翠 化 4者 欺 ﹂ ︵ 金 番 号 V といへる如く、営時清澄は慈費大帥を開山

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する台密でるり‘且つ後世に至つては浮顕‘義浮等 の計らいで、毎年身延宗祖舎下へ‘幾人かの期間接生を訳したととは、清澄寺犬家中等の文意からして明かであり。今 の 量 同 に も 宛 名 に ﹁ 聖 密 房 遺 レ 之 ﹂ と あ る よ り 見 て 、 聖 密 房 も 或 は 留 皐 生 の 一 人 で あ っ た 様 で あ る 。 更に身延蜂外に見ゆる別常御房御返事に依れば 聖密房のふみにくはしくかきて候・なり、あひてきかせ給び候へ‘訟に事も二問清澄︵一回御経は誤讃︶の事をば、 聖密房に申し

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わせさせ給ふべく候か‘世間の理主しりたる物に候へばかう申すに候、とれへの別︿所は誤︶顕在 んどの事は、ゆめゆめをもは守候。いくら程の事に候べき、但・なハ名﹀ばかりにてとそ候はめ‘乃至大名を計るも のは小祉にはぢ・?と申して‘南無妙法蓮華経の七字をば日本園にひろめ、震且高麗までも及ぶぺきよしの大願たは らみて、共闘を浦すべきしるしにや、大蒙古園の牒献しきりにありて‘此園の人ごとの大なる歎きとみへ候。日蓮 叉先よりとの事をかんがへたり‘閤浮提第一の高名なり。先よりにくみねるゆへにま L と ︵ 糟 子 ﹀ の か う み や う ︵ 功 名︶のやうに‘専心と︵に?︶は用ひ候はね

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も、絡に身のなげき極候時は‘謹執のもの

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も も 、 一 定 と ︵ た

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︶ かへぬとみへて候。とれ程の大事︵蒙古襲来︶をはらみて候もの L 、少事をあたがちに申候べきか、但し本寺︵嘗 時

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日蓮心ざす事は生底たり・日本圃よりも大切にをもひ候.例せば漢玉の柿郡ををもくをぽしめし L が ご と し かれの生慮・なるゆへゑり。聖智︵?﹀が跡の主とたるをもんでしろしめせ、日本闘の山寺の主ともたるぺし。日蓮は 閣浮提第一の法華艇の行者なり。天のあたへ給ふべきととわりたるべし。乃至とれより後は心ぐるしくをぽしめす べからす候 一 耳 々

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乃 時 別 賞 御 一 民 御 返 事 。 ハ 績 ,

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とあって年践は不明であるが‘文の内容より見て文永建治の交のものらしい。とのこ問寺といふのはこ問川が清澄に 流を琵し‘曲折市流して天津に五り、袋倉川と合して外洋に注ぐより見るに、或は今の天津若しくはその近漫にあっ たのであらうロ且つ此の清澄二問に就ては、建治二年の清澄寺大衆中に 東依左衛門景信が悪人として、清澄のかひし L 等をかりとり、長 K の 法 師 等 を 念 僻 者 の 所 従 に し ・ な ん と せ し に 、 日 蓮敵をたして領家のかたう

E

となり‘清法二聞のご簡の寺‘東僚の方に O くならば、日蓮法華粧をすでんとせうじ ゃうハ請誠﹀の起請をかいて、日蓮が御本隼を手にゆいつけていのりて、 一年が内に雨寺は東僚が手をはなれ候し たり。虚空蔵菩薩もいかでかすてさせ給ふべき。大衆も日蓮を心へやにをもはれん人々は、天にすてられたてまつ らざるぺしゃ。主 等とあるに依れば、建治二年以前に清澄二聞の隔寺に闘して東僚と領家との勢力争があった様である。然るに此寺が 虚 昼 臓 窓 口 薩 の 利 生 で 領 家 に 期 し た の で あ る 。 此に問題と・なるのは雨寺の別営であるが、南寺が同一別営に管掌せられたか、各一人宛の別営があったが不明であ るが.報恩帥選般に依れば浮顕は建治二年七月清澄寺を管理した様であるから、今の別営御房御返事は或は浮顕一必へ 宛てたもので、二間寺の別営に宗胞を浮頴房が推薦したのかも知れぬ、とれに封する返信が別営御房御訴事である。 即ち生闘の寺の別営といへば、漢王が浦郡を非常に等霊する採に.進んで受くべきであるが、今自分は法華経の題目を 日本因を始め、支那高麗迄も弘通すべき大願を立てたのである。天の御計らいで此の使命があるから‘折角の御好意 ではあるが﹃とれへの別営たん

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の事ゆめ/\思はや候﹄と辞退せられたのである。 梼 澄 寺 大 衆 考 二 五

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古奇 澄 寺 大 衆 ~

一 』/ 、 又文の最初に﹃聖密房のふみにくはしくかきて候、よりあいてきかせ給へ﹄とあるのを、若し取市街房御堂円とすれば 今の別営御百万御返事は‘建治三年の聖密房御書の後でなければならぬ。果してさうだとすれば、此の問題は道善房死 後何人かに依て︵浮顕等?︶二間寺の別賞に宗組が説せられたものといふべきである。何れにしても聖密房は清澄よ り営時身延への留副学生の一人であった様である。若し別踊統紀二四︵金書下玄三﹀、門葉縁起等には聖一緒房を以て、駿河 の珂山高橋入遣なりといふが営らない様でるる。因忙録内第百十七番目の聖密房御書は、第百阿十七の断片の重出な るととは、忠実記︵三、さ﹀の如くである。

遁義房義尚

以下は全く賜警のない清澄の大衆であって‘遺交に依る外全く手掛は在いのである。即ち極々御振舞紗に依れば D 0 9 0 位人はさで置きぬ。︷女房の東西の人々は此事を信十ペき事なり。眼前の現詮あり。いのもりの固哩加、清澄の商売 3 0

房、道義房‘かたうみの質智房等は、たうとかりし借ぞかし。此唯一すの臨絡はいかんがありけん等ぬぺし。乃至日蓮 こそ念仰者よりも‘道義房と固智房とは無間地獄の民に希つべしと申したりしが、此人 K の御陥格はよく候けるか いかに、日蓮なくば此人々をば、備になりぬらんととそ沿ぽすぺけれ。一哨 とあるに依れば、此等五人は粗ぼ同一一地位の人々であり、且つ大衆中に於ても相等上位にあったととは﹃たうとかり しの﹄文で切である。而して此等五人は固頓長を中心として、商売房、道義房、宜智

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.或は固頓民と失第すぺきで あらう。叉日記等の内今の交の外にその名の見ゆるは道義民と周智房とである。

(14)

先 づ 道 義 房 に 就 て は 文 永 六 年 の 者 無 長 釣 に 依 れ ば 、 指 一 議 口 一 男 の 事 と 叙 し て 此人の兄道義房義備に此人向って、無間地獄に墜ワペき人と巾してるりしが、臨格岡山ふ棋にも空しをさ沿りけるや らん。官 ム︸あるに依れば‘道義房とは揖品一官房といふ如く、或は清舟塔中の坊名かも知れぬ。即ち清澄の岩村執事は曾で十二坊 あ り と い ひ 、 大 衆 中 に は ﹃ 房 々 の 法 師 等 ﹄ ↑ 一 一 と あ る か ら で あ る o 或は題稿で字を義尚といったのであらう。との話義 長は熱心の念伸者であったらうととは、左記の雨者共に無間地獄といひ、若し身延文庫の日抽出聖人仰之趣には 良あて導善御房聖人をつくん\と御覧あて被 L仰けるは、道義御房の念伸し無聞の業敗。道義御房は清澄寺の近所也 清澄寺は旦より七里へたてぬる底也。ヰ寸へ登て同十年が問、 一 日 に 念 伸 一 高 返 ‘ 阿 繭 陀 経 百 巻 づ よ 誠 一 式 ふ 也 。 此 の 人を生身の摘陀の如くに人貴みし也。 聖一人仰云、道義御長は百品川六の地獄の中には無間地獄の民に落ち給ふべきなり、共故は一人勝て無聞の業たる念伸 被 ι 故 也 。 ム﹂御振舞紗では清澄の人の様でるるが、今の文に依れば清澄へ七里の所に屑たとあるが、果して何底か不明である。 併し乍ら普無長紗には明に﹃此一人の兄﹄とあるから誼善の法兄なるととは明である。︵砕蒙二ニ

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− − ﹂ 然 る に 一 設 に 清 澄 寺 の 情 、 御 文 に 兄 と は 肉 兄 た り や ‘ 法 兄 ・ な り や 詳 在 ら ヂ 。 ︿ 聖 典 大 都 林 恒 例 ︶ ム﹂述べて居るが恐らく肉兄ではなからう。併し宗祖の法伯父であった様であるがその他は全く不明でるる。

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告号 j脅 寺 大 衆 来

(15)

¥.lf i鞍 号与・ 大 衆 多 t、、

園智房、観智房、責戚房

若し闘智房に就ては.大衆中、御振舞齢、報恩妙、四信五品紗等に見え、御振舞紗に依れば 同智百加は清涼の大堂にして、三筒年が間一字三体の法華経をかきたて‘まつりで、十容をそらにをぽへ、五十年が問 一日一夜に二部つどよまれしぞかし‘かれをぽ皆人は伸になるべしと云々。一哨 と国智に就て述べて居るが、且く三の事賓が観取される。 とと。こに五十年間二部宛の法華主讃諦せりといへぽ、御振舞紗が建治二年作であるから、時に宗祖は五十歳、固智 一 し に 固 智 は 未 だ 霊 化 に 陣 せ ・ さ る も ‘ 法 華 讃 諦 を 日 課 と せ る 民は七十歳以上の老齢たりしとと。三に右法華笥諦の日課は清澄山が台痛を詮し得るととである。 併し乍ら第一僚に就ては、御振舞紗に﹃道義百万と周智房とは無間地獄の底に沿っぺ

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﹄ 一 咽 と あ り ‘ 叉 四 信 五 品 紗 に は 明心と岡智とは現に白癒を得、乃至罰を以て悪を推するに‘我門人等は幅過十蹴疑無き者也

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と無問、白摘の罰と記せるは‘周知刊は詩法者で格ったのであらう。併し乍ら相等患者で弟子に観智一房のるったととは 大衆中に 国 知 日 長 の 御 弟 子 に 翻 h 官房の持ちて候なる。宗要集かしたび候へ。それのみなら歩、ふみの候・聞も人々巾し候し也。 早々に返すべき山中させ給へ

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の文に依て知るととが出来る。叉観智房も固智の弟子で建治二年頃或は身延にmm曲学した清澄の青年備の一人であった といふ外知る由はない。併し乍ら遺文中常に周知 H と 引 A ロに出さるは賓成︵城﹀房である。即ち報恩紗には 提婆.豊伽利にことならぬ国智、賞味が上と下とに居て

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せしを‘あながちに K Mそれで、いとをしと沿もうとし

(16)

とろの弟子等をだにも‘すてられし人なればハ道善︶後生もいかんがと疑ふ。但一の冥加には景信と固智、宮城と がさきにゆきしとそ. 一つのたすかりとはをもへ

E

も.彼等は法華経の十羅剰の、せめをかほりではやく失せぬ。む 左右の交に依れば周智、宮城は北ハに遺品品目の法兄弟で、国智、道善、宜城と次第すぺきであらう。且つ二人は常に趨善 民の師正を防げたが、道善房以前に死去した様である。とれを宗組は詩法に依る早世と断じられたのであるo就中国 知 H 一は消法寺大衆中、御振舞帥断、報思妙、四信五品紗に都合間同一説法の代表として引合に出されたととは、清澄大衆中 随一の誘法者であったと背かれる。啓蒙所引の古紗に 国知刊か質成の二人の聞に一入、聖人の虚空戴堂の前にて御説法ありしに、御顔をつくん\と見て、﹃誰かと思ひたれ ば薬王丸にでありけるよ﹄と蔑り奉りし事とれありと巾侍へたり。︿一五・

2

︶ とあるは、上掲諸文の意よりの想像でるらうが、矢張諮法随一の意が窺はれる。

明 必 房 、 園 頓 房 、 西 莞 房 、 責 智 房 明心房は岡智と共に問信託口問釣に、諦法の罰に依て向痛に躍ったとあるが、者し同鈴の啓蒙には 明心等とは周智は清清の併・なる事、上にも見たり。明心、遺阿捕事も定て清澄の者なるペし。更検︵一一七、一

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ム ︸ ・ h

n 間 釣 に 明 心 輿 = 周 智 − 現 得 一 一 円 癒 二 道 阿 蝿 成 = 無 眼 者 ↓

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とるるに依て道阿粛を清澄大衆と訟すは不可である。今は誘法者の類を集めたので、清澄大衆を懇げたのではない。 清 澄 寺 大 衆 考 ご 九

(17)

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号 澄 寺 大 来 考

御振舞紗佐一可は別である。いふ起もなく遣問調は法然の法孫請敬の事で、忠岡房叡隼の弘長中関東位置詑には 新善光寺別閥、道敬念僻者主領云々、封商の詰め近遵に寄稿し便宜を伺ふ一広々。 と あ り 、 又 兵 衛 士 山 殿 御 抵 事 に ﹃ 名 越 の 一 門 の 善 光 寺 云 々 ﹄ ︵ 縮 情 光 作 レ 畳 ﹀ 一 一 心 と あ る は 恐 ら ︿ と れ で あ っ て 、 道 救 は 合 時然阿良忠と並び m 併せられた、法然房の法孫たることは明である。随って清澄の大衆と見るは設である。 此の外御振舞砂に依れば国頓房.同莞房、貫智房の三人も見えるが、是等三人は他所にその名も見えや、唯御振舞 紗に﹃いのもりの国頓房﹄﹃清澄の西尭房﹄﹃かたうみの宜智房﹄とあり共に﹃たうとかりし伶ぞかし﹄のみで、その 他は全く不明である。唯間頓房に就ては健砂に 共の比井の林︵森?︶の国俳︵頓?︶坊と申す人有り。是は大聖人の御霊障の御時の後見也。︵七、穴式﹀ と い ふ の は 、 報 恩 紗 に 惜 却 益 口 房 に 就 て ﹃ 周 知 刊 と 宜 城 と が 上 と 下 と に 居 て K M とせし﹄といふに徴すれば‘国頓闘智が同系 とすれば固智は遁普房の法兄又は目上に依する故に、宗祖幼時の後見ともいはれる。若し﹃いのもり﹄に就ては宗祖 開宗の遺跡を遺文には﹃嵩か森﹄一己目といへば‘山中の地名とも思はれるが、問書房を清泣といへぽ恐らく‘その附近 の一地名と解する外ない若し阿尭房は山中の一民主、叉は清澄寺の役俗であり、活義民より上役又は法兄であらう。 更に﹃かたうみ﹄の質智房であるが、とのかたうみに就ては、善無長紗には 日 蓮 は ︵ 女 房 の 園 東 僚 片 海 の ‘ 石 中 の 賎 民 が 子 な り 。 一 い 阿 と遊され‘叉新尼御前御返事には かたうみ、いちかは‘とみなとの磯のほとりにて、昔見しあまのりなり。ぉ ム﹂遊ばされたに依れば‘此の後の片海、市河、小湊の三地名であるか、とれに依って片海とは一方は海に面した漁村

(18)

の意と解すれば、梅漣の市河小祷の意である。即ち市河は天津の東南に位し大村で、明鷹七年七月海晴のために大字 は海に波落し.後天保年中内浦と小浦を合して湊村といひ、小誌を以て﹃東僚片梅﹄といふより見れば.市河、小湊 等東鎌一体が一方海に面した漁村であるより、東依一体を片海と呼んだのであらう。随って質智房は天津謹に居った 清澄関係の人であったらうが、その他に就ては全く明かでたい。

伊勢公ノ御房

その他の諸備に就ては清澄寺大衆中に依れば 抑も参詣を企て候は k .伊勢公の御房に十位心論、秘蹴賓錦、二敬論等の民言の疏を併用候へ‘如レ是は真言師蜂起 の故に之を申す。叉止観の第一第二随身候へ、東春輔正記たん

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や候らん。固智長の御弟子観智房の持ちて候なる 宗要集かしたび候へ、それのみたらや文の候由も、人 K 申し候し也。早 K に返すべきのよし巾させ給へ。長 とあるが.本書は建治三年の正月十一日、佐渡公日向に托して清殻寺大衆に典へられたととは とのふみはさど︵佐渡︶殿と‘すけ︿助︶のあまり御房と、虚空臓の御前にして、大衆ごとによみきかせ給へぷ眠 とあって、営時民言宗蜂起と聞いていよ/‘、、‘僻法の邪正を札すために‘樫疏を集め法華の正法たる所以を力説し、清 澄の大衆を引揺せんとせられたものである。今前引の文に就て弐の三項が気附かれる。 一、営時身延と清澄と常に往復ありしとと。 告号 澄 寺 大 衆 考

(19)

締 澄 中 古 す 大 衆 考 ご、民言破のため身延山に書物蒐集中たりしとと。 ミ蒐集の書名に依て品川置の台皆たるととを詮し得るとと。 若 し 清 澄 寺 に 就 て は ‘ 一 昨 年 の 本 誌 の 清 澄 ・ 寺 草 創 考 に 譲 っ て 、 此 の 中 伊 聾 公 の 御 回 却 に 就 て は 、 健 制 貯 に は ﹃ 伊 勢 公 と ・ 五 人も清澄の人﹄︵二三、き﹀とあるが.既に御 u m ξ 敬稿あるに依て相等の地位の人と思はれる。叉公の字を則ゐる点か らすれば可成の長老であらう。

+ 一

助の阿闇梨に就ては大衆中の末文にも見へし如く・佐渡殿と共に清澄寺大衆中の讃み乎とした点から見て、相等以 前より宗祖に師した人らしい。そのことは新尼御前御返事に、大厄御前に本隼を授興し能はさる所以を緯設して 尼御前我身のとがをしらせ給は守して、うらみさせ給はん歩らん。此・闘をば委細に助の阿闇梨の交にかきて候ぞ、 召して尼御前の見参に入れさせ給ふぺく候。.む とれに就て健砂が﹃佐渡の助あざり御差︵三一.

3

と読んだのは‘佐渡公日向を逸﹁したがためで、助の阿闇梨を佑 渡の人としたのは誤である。随って以下に 仰云、是は佐渡より助のあざりと一 E 人を使として、安房副清控寺へ誼はし一点ふ也。清澄寺は大裂の御そだちある蕗 た れ ば ‘ 品 目 危 れ ま い ら せ た る 人 K を 敬 化 有 ん 詩 也 。 ︿ 一 二 三

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とるるはいよ/\誤であるが‘それは古本が﹃佐渡助の阿闇梨云々﹄となって居るに依て誤ったものである。されば

(20)

啓蒙には﹃健脚義不し可 L然欺﹄と辿ペ更に 千賀日意の首警には、此警は日向型人へ賜り。清澄にて讃ましめ玉へり。、御正筆は身延へ納めらる L 也。佐渡阿問 梨 を 指 せ る 回 日 著 明 な る 敗 。 ︵ 三 四 、 問 問 ︶ とあるが、朝師本と千賀本には﹃さど肢とすけのあざり﹄とあるから明瞭である。若し進んで日向聖人と助阿閤梨と の 闘 係 に 就 て は 、 一 設 に 依 れ ば 若しこれを日蓮聖人の直弟とすれは、佐渡公等の老備に先んじて、阿閤梨披を有する程の人たらんには、宗紀に何 等かの侍もあるべきになきところより見れば、清澄寺にして法臨古川き人の日蓮聖人の弟子分として、弟子に準じて 鷹分の御助力 b L − な し た る 人 な り し ・ な ら ん 。 ︵ 聖 典 大 酔 林 む ﹁ ︶ と述べて居るが、宗祖の阿闇梨披を用ゐたるに就ては、勿論何等かの標準はあったにしても、左程厳密の意味でなく、 時に依り、人に依て公といひ、殿と呼び、阿閤梨と稀したのである。故に排股日昭には殿と阿閣梨とを問ゐ.日向に は公を朋ゐた如く‘就中拙寺珍蔵の耕殿御消息の宛名には 耕蹴.大進阿閣御房、。三位殿

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とあり。父光日房御堂日には﹃三位房.佐渡公立同等あるに徴して明かである。即ち大准阿問︵梨︶御房とあるも.大進 は耕地以上でなかったのである。恐らくは常時真言の濯頂を受けし人を、阿閣梨と綿した例に準じたかも知れぬ。 敦れにしても大厄御前に本等技興せざる理由を、代排せしめた点からして相等の曲学識あった人であり・且つ日向拍車 人と同じく房総方面の出身で、大尼新尼等に有縁の人かと忠はれる。 消 明者ー 品 寸 大 衆 ヨヨ与,,

(21)

清 澄 寺 大 衆 考 問

明慧房

或設に依れば明書房とは他師で、光日房御書等に出づとなし、 日本華巌宗の碩徳、議は高耕、乃至貞鷹元年正月十五日門下を誠め十九日寂す。寄六十、臨凶十六、著作擢邪輪、 推 邪 輪 荘 厳 記 等 合 し て 七 十 余 巻 あ り 。 ︿ 聖 典 大 酔 林 一 一 司 ﹀ と越ぺ、即ち華最高僧有名・なる栂尾の明慧聖人を以て、光日勤等に見ゆる明慧房として居るが、光日紗には 念伸者と持買と真言師と一切南無妙法蓮華経と申さざらん者をば、いかに法華粧をよむとも、法華経のかたきとし ろしめすべし o かたきをしらぬはかたきにたぼらかされ候ぞ、あはれあはれけさん︵見参︶に入りて、くはしく巾 し候はどや。叉乙れよりそれへわたり候三位房、佐渡公等にたび台ことに、とのふみをよませて、きとしめすべし。 叉との御文をば明慧房にあづけさせ給ふペし。なにとなく我智慧たらぬ者が、或はをとっき、或は此文をさいかく ︵才莞︶としてそしり候なり。或はよも此房は弘法大師にはまさらじ。よも慈莞大師にはとへじたんど人くらぺをし 候ぞ。かく巾す人をぱもの知らぬ者とたぼすべし。− J 調 とあるが‘本文は醤鎌内二十三の七紙、阿鋪陀堂法邸一航雨紗の末文で、小川泰堂翁に依て日光紗の断片と確定︵遺文 二

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2

﹀された分である。 右の文意から見れば明慧房とは、 H と う 考 へ て d h 栂尾の明慧上人ではない様である。芳し砕蒙に依れぽ かく巾・人をぱ等とは、或は御房より下にかけて見るべし。初のこの或の字は明慧房に預けよましめ五ふ、一泊理を宜

(22)

玉ふまでなるべし。︵三

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匂 ︶ とある如く、明慧房に預ける根本の理由として﹃智慧たらぬ者﹄を出し・その者の所得として ったとっき即ち明笑し 二、さいかくして々しる ム︸のごつの理由をつらね、更にそのゐとっき、そしる内容を越ぺて﹃或はよも此御房は弘法犬師にはまさらじ、慈畳 大師にはとへじ﹄と、かやうにいふ人をものを知らぬものと思ふがよいと、斯様の有様であるから三位百万.佐渡公に 度 K 讃ますがよい、自分等が勝手に讃んで誤つては・ならないから、明慧房に頂けて置くがよいといふのである。 されば或説の如く明慧房は栂尾の明慧聖人でないととは明かである。寓一さろだとしても、宗祖御降誕の貞態元年 に六十歳で寂した人に預けられ様筈がたい。故にとれは‘次の交に﹃弘法大師にはまさらじ、慈莞大師にはとえじ﹄ とあるより、明慧房を単に明慧の字に依て明慧聖人と誤ったのであらう。故に今の明慧房とは房州方両に居った宗祖 の弟子で、或は宗祖の叔母といはる h 、光日房と親しき開係にある人で L も あ ら う 。

最後に肥前公であるが、とれは前越の如く令一理一文庫の寂澄手津本の﹃司

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口博﹄敢に﹃九字秘糟﹄の奥書 に見ゆる所であるが、前者には 建長五年実丑九月廿日午時書了‘於打黒口筆師肥前公、雄無極悪筆筒=働法興隆法界衆生一也。法鍵廿六才也。今寂泣 清 i夜 寺 大 衆 司笹

(23)

精 澄 寺 大 衆 考 六 とあり.後者には 建長六年甲寅九月三日未時了・清澄山住人肥前公日手生年廿七才・震働法興隆法界衆生成伸得道也。 とあるが‘此の肥前会法鍵又は日現とは果して何人たるやといふに、甲斐園小室妙法寺開山中老の肥前阿閤梨日体が 肥前公と呼ぶ様である。別頭統紀十一には多年宗祖の民言亡園の批判を聞き‘偶宗祖身延に退減せるを聞き、とれを 毒せんとして果さや J・ために弟子と・たるといひ。妙法寺縁起には宗組入延後日朗日興同伴甲斐遊化の折、恵頂阿開梨 善智法師宗祖と角法して、大石を宙に上げしも下す能はやして弟子と怠ると偉ふるが‘統紀には乾元元年寂といひ、 品寸俸には六十七歳寂とあるから、恐らく乾元元年月十七歳寂と見られる。併し乍ら寓一普智法師が肥前阿開梨と別人 とすればいざ知らや、若し同人とすれば永仁六年の日興の本隼分興帳に 甲斐園大井入道殿孫肥前房者寂日房弟子也、初日興申=奥之二但今背了。︵宗接金書、興門集。∼二﹀ とあるが肥前公といふは古来小室謹一体大井庄といひ‘地頭大井庄司入道も寂日房の弟子左る点から見て、小室の開 山肥前長が或は建長五六年の交真言研究のため清澄に遊撃したとすれば.肥前回却は恰かも宗祖開宗の頃清澄の大衆で あったととにたる。若し此の推測にして誤なしとすれば建長五年の秋は法鍵といふ真言師であったが.期預年は早︿宗 組に師して日手と稽したのでは左からうか。若し果して然りとすれば日手は、後甲斐に障り故郷大井の庄に一民言寺 を創したが、文永十一年夏宗祖の身延入山を聞き、身延に宗祖を訪ひ弟子と左ったのか、又は大井庄より六老の一人 たる日興出でたる縁に依て‘宗祖に師し肥前公日侍と名を賜ったのではなからうか。とれに就ては宗祖身延御入山後 果して弘安元年の妙法厄御返事に 此深山に居住して門一町を出でや、既に五ヶ年に及べり。↑ H

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とあり‘叉同四年の上野殿母尼御前御返事に 去文永十一年六月十七日、との山に入候て、今年十二月八日まで、此山を出づる事一歩も候は歩。誌 と あ る 如 く 、 一歩も山をた出で遊ばされぬとすれば‘入山営年の甲斐遊化に問題があり・小出血山の縁起にも疑問があ るととになる。是等の点は更に充分の研究を要するが、肥前房が果して日侍なりとすれば、清澄以来の闘係に一一脈の 自然性がある様に思はれる。 清澄の大衆は道韮同居並に宗租を中心として、組ぽ上越の十八名でるるが‘是等の中師弟闘係の判然して居るのは、 道普房と宗祖、固智百万と観管長位で‘浮顕、義浮も遺善房の弟子と見て大過たからうが他は判然したい。法兄弟闘係 としては道義房、遺善房、及び固智房、道普房、賓城房と義一房、慈義国初等に就ては想像し得るが他は全く知る由も たい。今従来の記越に依り且らく師弟、法兄弟等の闘係を中心として、上越二十名の親疎の闘係を圃表して見るなら ぽ共の別表の如くである 斯の如く清澄寺大衆考は‘費料が乏しいので非常に研究が困難であり、随って正確たる断案は下し得ぬが、宗組と 清澄大衆との関係が一分なりとも.明かにし得たとすれば幸甚である。本稿は棲榊二十競の清澄寺創草考、並に法華 二十四巻第七、八蹴の奮師道善御房と姉妹闘係を有するものである。向ほ摘筆に臨んで清澄山、金津文庫、身延文庫 に は 何 等 か 文 献 上 の 闘 係 の あ る と と 在 感 や る も の で あ る 。 ︿ 昭 和 一 二 、 九 、 二 四 ︶ 情 按 苛= 大 来 考 tニ

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清 澄 寺 大 衆 考 清 澄 ・ 寺 大 衆

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